約 99,380 件
https://w.atwiki.jp/monosepia/pages/5379.html
最近のお勧め記事【分類版】 / 国・地域 ●西洋文明 / ●イスラム文明 / ●インド文明 / ●中国文明 / ●日本文明 ● 文明〔Wikipedia〕 ● 文明の衝突〔Wikipedia〕
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/377.html
目次 1.地獄界の様相と救済 2.無頼漢地獄 3.土中地獄 4.擂鉢地獄 5.畜生地獄 6.焦熱地獄 7.悪魔界 8.竜宮界の様相 9.悟りとは段階的使命感 1.地獄界の様相と救済(1986年4月6日の霊訓) さて今度は、「霊界における地獄霊の救済」というテーマでご報告をいたしたいと思います。難しいことを書くことを苦手とする小桜にとっての唯一の強みは、こちらの世界に来てからの体験だと思います。これだけは他のだれにもお譲りすることができない、私だけの宝物です。でもこの宝物をみなさまにお見せしたからといって、少しも値打ちが減るものではありません。ですから今回も、小桜の体験を中心に語ろうと思います。体験だけでは間延びした文章になりかねませんので、時折、小桜らしい教訓を付け加える非礼をお許しください。 ここでみなさまにお話しすることは、ここ百年ぐらいの間に、小桜が何度か指導霊に連れられて地獄の世界に行ったときの話です。地獄の世界がどんなものなのかは、地上におられるみなさまも、昔話には聞いておられましょうが、ほんとうのところはどんなものかと、ずいぶん興味をお待ちでしょう。あるいは、もう人生の大半を生きてきて、年齢的にも信仰深くなってきている人は、もしかして、自分は地獄に堕(お)ちるんじゃないかしらんとソワソワとしはじめたころかもしれません。ここで述べるのは、あくまで小桜の見聞した地獄であって、地獄も広大無辺のようですから、何千年かかってもわかってしまうことはできないようです。 ではお待ちかね、第一の地獄にご案内いたします。 2.無頼漢(ぶらいかん)地獄 ここは、地獄でもまだ浅い地獄です。空はうす墨色で、日没後か、夜明け前のような感じです。周りの景色はうすらぼんやりはしていますが、かなりはっきりしています。近くには川が流れています。ちょっと悪臭のある川で、あまりいい気侍ちはしません。それもそのはず、浅瀬には人間の死体が何体も沈んでおり、なかには片手だけ虚空に伸ばしている死体もあります。 しかし近づいてみると、この死体だと思っていたものが、実はまだ水の中でうごめいていることがわかりました。彼らはまだ生きているのです。 そうこうしているうちに、川の上流のほうからワーッという声が上がりました。見ると二十人ぐらいの人びとが、二人の男女を追いかけてこちらに来ます。どうやら橋のたもとのところで、二人とも捕まったようです。荒縄で橋のたもとに縛りつけられてしまったようです。男も女も、二人とも、すり切れて泥まみれになった着物を一枚着たきりです。男の額の傷からは血がしたたり落ちています。 と、そのとき、雷音のような声がとどろきました。追手のなかでいちばん大きな男です。身長はゆうに三メートルはあります。またその腕の太いこと、小桜の太ももを二本合わせたぐらいあります。かがり火に照らし出された男のその顔は、話に聞く赤鬼そっくりです。ないのは角(つの)ぐらいで、口からは確かにキバとおぼしきものが生えております。 この大男の号令で、川岸で五人の男どもが刀を研ぎはじめました。大きな青竜刀のような刀です。川でジャブジャブ刀を洗いながら、砥石(といし)で刀を研ぐのです。シャリン、シャリンというとてもいやな金属音が、冷え冷えとした空気を通して伝わってきます。 そのかわいそうな男女は、赤鬼の奴隷のようにしてこき使われていたのですが、とうとう二人で逃げ出してしまい、追っかけてきた彼らにつかまってしまったのです。 それから二人が青竜刀で切り刻まれて、川の中に、死体のごとく投げ込まれたシーンはご想像に任せるとしましょう。 小桜の指導霊のお爺様が言うには、かわいそうなカップルは、江戸時代のころ、村の掟にそむいて駆け落ちし、結局は情死してしまった男女だそうです。彼ら自身は実際は村人に追われて殺されたわけではありませんが、追いかけられて村人に殺されるのではないかという恐怖心でいっぱいだったのです。その恐怖心が死後の世界でも続いており、こうしてまた、人殺しの好きな連中につかまっているのです。 どうやらこの世界は、肉体的な恐怖心の支配している無頼漢地獄のようです。この地獄では、いつ自分の生命が奪われるかということがわからない恐怖の世界なのです。今様に言うなら、サドとマゾの世界とでも言いましょうか。ここで小桜が、指導霊から教えられたことは、人間を不幸にする最大の敵は恐怖心だということでした。恐怖心の大部分は、ほんとうはありもしない恐怖におびえているのです。自分は死ぬんじゃないか、迫害されるんじゃないかという恐怖心ほどバカバカしいものはありません。なぜなら人間は生き通しの生命であり、ほんとうの実相の世界は、互いに愛しあう大調和の世界だからです。 ここで殺された若い男女は、自分たちの生命が永遠に不滅だということを悟るまで、何回でも鬼たちに殺されることになります。その意味で鬼たちは、彼らの教師なのです。また一方、鬼たちは、怒りに燃えて人を殺すことの空しさを気づくまで、何回でも、同じ人を殺すことになります。この意味で、殺される男女の側も、鬼どもにとっては教師役なわけです。 この無頼漢地獄で、小桜はつくづく思いました。人間は恐怖心を取り除かないと幸福になれないのではないかと。そして恐怖心を抱いてその人が不幸になるのは、決して他人のせいではないということを。恐怖心というものも、ある意味では他人はみんな自分を害そうと思っているとする利己主義者の心なのです。 人間は互いに愛しあい、信じあってこそ神の子なのです。他人が自分をいつも害していると思っているような人は、たいてい、自分も他人を害しているものです。他人から傷つけられたと思っている人も、それ以上に他人を傷つけているかもしれません。 この地獄でも、人間は神の子で生き通しの生命だと気づくまで、彼等は二、三百年は殺しあいを続けます。その後は殺しあいにあきて、ある者は悟って天上界に、あるものはさらに残忍さを帯びて、いっそう深い地獄へと堕ちてゆきます。この無頼漢地獄では、四百年も五百年も暮らす人はまれで、たいていはこのように、二、三百年で他の境涯へと移ってゆくのです。 ですからこの世界にいる地獄霊を救うには、この二、三百年目ぐらいに来る節目をのがさないようにしなければなりません。彼らが殺戮(さつりく)にあきあきし、疑問を感じ始めたときに、光の天使たちが彼らを説得に駆けつけるのです。この世界でも神様は、自力救済というものをある程度重視しておられるようで、本人の心が神に向きはじめたときに初めて、天使たちが彼らを救うというような仕組みにしているようです。 3.土中(どちゅう)地獄(1986年4月7日の霊訓) では、前日に引き続き、第二番目の地獄に今夜はご案内いたしましょう。この地獄はまだあまり、文献その他には出ていませんが、「土中地獄」と呼ばれます。その名のとおり、土の中の真暗闇の中に閉じこめられたまま、息もたえだえで窒息しかかった人が、大勢苦しんでいます。よく見ると彼らは、モグラと同じで、一人一人が自分の穴をもっており、目の前のわずか一メートルぐらいの空間のなかで、息をしたり手で土を掘ったりしていますが、穴が狭いため、向きを変えることもできず、足も膝をついたままです。 小桜が驚いたことは、この土中地獄には、現代のサラリーマンが多いことです。ネクタイ姿で、白いワイシャツを着て、穴ぐらのなかで這いつくばい、何やらもだえ苦しんでいるのです。どうやらこの地獄は、現代の息づまるような管理社会が生み出した地獄のようです。ここにいる人の特徴は、要するに対人恐怖、いやな上役や部下からのがれたいという気持ちでいっぱいの人が多いということです。 一人っきりで、真っ暗の中でうずくまっている姿はまさに現代サラリーマンの姿そのものでした。彼ら一人一人は、お互いの姿を見ることはできないのですが、小桜の眼には、彼らが土中の穴で住んでいる姿は、どこかの都市のワン・ルーム・マンションをそのまま地下に埋め込んだかに見えます。 この地獄は、ここ数十年のうちに出来た新しい地獄なので、まだ、どうやってこの地獄にいる人びとを救い出したらよいのか、その方法論が光の天使たちの間でもさかんに議論されております。彼らのうちの大部分は、だれとも口をききたくないといった態度なので、まったく困ってしまいます。 ここにいるサラリーマンは、職場では面従腹背のイエスマン、家庭は残業や度重なる出張、単身赴任などで、まるで氷のようで、妻や子ともロもきかない状態、そういった長年の生活に疲れはて、モグラのようにだれもいない真暗のところで、じっとしていたいと望んでいるのです。読者のなかには、この描写を読まれて、自分ももしかしたら同じ地獄に堕ちるのではと思っている方もいらっしゃるでしょう。 私たちが心から望むのは、人間として生きていたときに、なぜ、心を打ち明ける友人を持つように努力しなかったのか。その身体は管理社会に束縛されているとしても、なぜ心は自由に空を飛ぶヒバリのように、精神世界を飛び回ることができなかったのかということです。 彼らは、自分の心が本来自由自在であり、光に満ちた神の子であることに気づくまで、この土中地獄から出ることはないでしょう。彼らが、独りで悩んでいることのバカバカしさに気づくまで、私たちは手の下しようがないのです。だって彼らは、一人っきりにしてほしいと心から願っているのですから。どうかこれ以上、孤独な人が増えないことを祈るばかりです。 4.擂鉢(すりばち)地獄 第三番目の地獄にご案内いたします。この地獄も恐怖満点といいますか、意地悪な言い方をすればスリル満点です。 見ると阿蘇山の火口のような、大きなすりばち状の穴があります。直径はかなり大きく、ゆうに百メートルはあります。すりばちの底は、熱湯が煮えたぎっており、ときおり硫黄(いおう)臭い煙が、中央から立ち昇ってきます。見方によっては溶岩がフツフツと湧いているようにも見えます。何千人もの人が、まるで蟻のように群れをなして、この巨大なすりばちから逃げ出そうとして崖(がけ)をよじ登っているのですが、我れ先にと思っている人ばかりで、自分の上をよじ登っている人の足首を握っては、引き摺(ず)り下ろしています。永遠にそれを繰り返していますから、いつまでたっても、一人もこの擂鉢地獄から抜け出すことができないのです。岩肌を石とともに、ゴロゴロと次々と転落してゆきます。 このあわれな人たちは、どうやら生きていたときに慈悲も愛もなく、他人を蹴(け)落としてきたエゴイストの集まりのようです。けれども蟻のように、必死になって油汗をかいてよじ登っている人、一人ひとりを見るならば、大会社の重役風の人や、学者風のインテリ顔をした人がけっこういるのに驚きます。 受験戦争や、出世競争で他人を情け容赦なく蹴落としてきた人たちが、そのツケをここで払っているのです。崖の傾斜そのものは、それほど急でもなく、みなで助け合えば次々とこのすりばちからは逃れることができるのに、その「助け合う」ということが、何十年、何百年たっても、わからない人たちが多いのです。小桜から見れば、たったそれだけのこと、どうしてわからないのかと思うのですが、彼らは自分が助かることで頭がいっぱいなので、小桜の言葉になど耳を傾けてくれません。「この忙しいときに、そんなくだらないたわごとを言わないでくれ。」といって撥(は)ねつけられてしまうのです。 他の地獄霊の方々も同じですが、結局本人の自覚が進むまで、どうしようもないのです。小桜たちも呆然(ぼうぜん)として、この亡者たちの群れを眺めるだけでした。人間として生きていたときに、どのような人生観を持つかということがいかに大切か、しみじみと思われたことでした。 5.畜生地獄 さて次は、第四番目の地獄です。これは昔からおなじみの地獄で、畜生道とか動物界といわれています。ここにいる人たちは、顔だけは人間で、身体は馬であったり、牛であったり、鳥であったり、ヘビであったり、豚であったりとさまざまです。それぞれ自分の心性に合った獣の姿をしています。なかには空を飛ぶ蝙蝠(こうもり)のようになって、洞穴に逆さにぶら下がっている人もいます。人間として生まれて、死んで、これではまったくかわいそうです。 小桜はこの地獄に来て、恐ろしいよりむしろ、気の毒で涙なしでは見ていられませんでした。ああ、人間として生きて来て、六十年か七十年生きて来て、そのとどのつまり死んでから、獣のような姿をとって生き続けるくらいなら、いっそひとおもいに、生命など消失してしまえばよいのにと思いました。 人間に永遠の生命があるというのは、立派な人生を生きている人にとっては、ほんとうにかけがえのないすばらしいことであるし、他方、地獄でのたうちまわっている人にとっては、まさしく永遠の責め苦でしかありません。人間はほんとうの意味での利己主義者にならねばならないと、小桜はつくづくと思いました。ほんとうの意味での利己主義者とは、永遠の生命を幸せに生きようとする人間です。 昔の中国の諺(ことわざ)に、「朝三暮四」というのがあったと小桜は聞いたことがあるように思います。これは昔、中国の偉い人が、栃(とち)の実を猿に与えるのに、朝に三つ日暮れに四つ与えようとしたら大いに怒ったので、朝に四つ暮れに三つ与えると言ったら、猿が大喜びをしたという故事から出た言葉だそうですが、人間も猿も同じですね。目先の、数十年の肉体人生だけが快楽だったら、あとの生命のことなんか考えていないんですから。 さて、この畜生地獄に来ている人は、人間としての尊厳を忘れて生きてきた人たちです。肉体即我という自覚のままに生き、本能と欲望の赴くままに生きてきた人たちの行く末です。猜疑心(さいぎしん)の強い人はヘビのような、欲望を抑え切れない人間は犬のような、人を騙(だま)し続けてきた人は、キツネのような姿になって畜生地獄をつくっているのです。 そしてもっとも注目すべきところは、彼らの大部分は、何百年もこの地獄にいるうちに自分をその動物そのものだと思いこんでしまう点です。 これが実は、動物霊の憑依といわれている事実の真相なのです。自分をヘビだと思い込んでいる地獄霊、自分をキツネだと思い込んでいる地獄霊が、生きている人間に憑依しては人間を苦しめているのです。ですから霊能者が現象を行なうと、ヘビのように身をくねらせたり、キツネのまねをする霊が、人間の言葉でしゃべったりするのは、ほとんど畜生地獄に堕ちた人間霊だからです。ほんとうの動物霊も確かに存在はしますが、人間の言葉をしゃべるのはよほど古い霊に限られ、霊障といっても軽度なものが多いようです。彼らはこうして憑依をすることによって、ますます人間の道を大きくはずれてゆき、明るい天上界に還ってくることが難しくなってくるのです。 6.焦熱地獄(1986年4月10日の霊訓) さて、では今夜は、第五番目の地獄、焦熱地獄にご案内いたしましょう。読んで字のごとく、この地獄ではたいへんな高熱で人びとの肉体(と思われているもの)が焼けただれています。水を求めて、ゆらゆらと陽炎の立ち昇る砂漠を、腰に布一枚を巻いただけで、やせて骨だらけになった男女が彷徨(さまよ)っています。 この地獄を特色づけているものは、「渇望(かつぼう)」という言葉です。人びとに布施することを忘れて貪欲にむさぼり、求めることばかり考えて人生を送ってきた人びとの末路なのです。物欲が強く、つねに不足と不満ばかりを心に思って生きてきた人びとです。そうした人びとの心が、熱風の吹きつける灼熱の砂漠という心的風景をつくり出しているのです。 実在界という世界は、己の心に嘘のつけない世界です。すなわち、その人の容貌も、その人を取り巻く環境も、その人の心の真実の姿を正確に反映してしまうのです。心のなかで邪悪なことを考えつつ、正直者の群れにいることはできないのです。地上の世界では、羊の群れのなかに狼が忍び込むことはよくあることですが、実在界においては、心清き人びとの集団に、心悪しき人びとは入ることができないのです。それというのも、こちらの世界では、お互いの心のなかはまるでガラス張りで、嘘いつわりがいっさい効かないからなのです。 ですから、よく宗教家たちは、反省の大切さを説きますが、反省が大切なのは、そのことによって、自分の心のくもりを発見し、取り除くことができるからなのです。あなた方、たとえどんな大悪党であっても、その悪党が心から神に詫(わ)び、深く反省している姿を見たならば、思わずかけ寄って、肩に手をかけてやりたくはないですか。反省の姿はつねに美しいのです。真実の反省の姿はどのような大天使に見られたとしても、決して恥ずかしいことはないのです。 神は、盲目の人間、神理に対して盲目である衆生に対して、一度なりとも罪を犯すなとは決して言っていないのです。罪を犯したとしても、反省という行為によってその罪は消えるように、神はそのような完全なものとして人間をお創りになったのです。それはそうです。バケツの水をこぼしたなら、雑巾でちゃんとふきなさいということなのです。これが、「反省」という宗数的行為のもつ意味なのです。 この焦熱地獄にいる人びとは、二つのことさえ実行したなら救われるのです。その一つは布施ということ、つまり、他人に対して愛の行為をするということです。いま一つは、欲望にふりまわされない、足ることを知った心でもって日々生きるということなのです。足ることを知り、みずからの使命を自覚して日々着実に生きる人には、地獄というものは無縁のものなのです。あれが欲しい、これが手に入れたいと山のような欲望にふりまわされて、自分で自分を苦しめているのが、愚かな人間の姿なのです。 ですからこの焦熱地獄というものは、決して神が罪を与えたまうためにお創りになったものではないのです。まさにその環境こそが、その世界にいる人びとにとっては、悟りへの近道となっているのです。迷っている霊たちは、なぜ自分が焦熱地獄にいるのかを考えることによって、悟ることができるようになっているのです。 7.悪魔界 今まで述べてきましたのは一般的な地獄でありますが、今日は、もう一段地獄らしい地獄をご紹介しようと思います。 ここは一般に、悪魔界と呼ばれています。通常の悪霊よりも、いっそう凶悪な霊たちが集まっているところです。 彼らの活動内容は、大別すると二つに分れます。その一つは、地獄界のなかで、手下どもをたくさんつくって、各所で縄張りというか、権力者の地位につこうとしています。 いま一つは、この地上界に逃れ出て、他の悪霊どもも使いながら、悪事を働くということです。 まず最初の場合を考えてみますと、小桜は、無頼漢地獄、土中地獄、擂鉢地獄、畜生地獄、焦熱地獄をあげましたが、そのほかにも、色情地獄だとか、無間地獄などの有名な地獄がありますが、こういった各地獄において、やはり魔王といいますか、やくざの親分のような存在がいるのです。こういった役目を業(なりわい)としているのが、悪魔界の人びとなのです。彼らは彼らなりに、自分たちの暗黒世界を支配しているつもりで、あわよくば、神の光の天使たちにも一矢(いっし)報いてやりたいと思っているのです。 彼らを特徴づけているものは何かというと、〈力〉への信仰といいますか、あくなき権力欲、物も人も欲しいままにしたいとする気持ちです。一度権力欲という美酒に酔ってしまうと、人間はなかなかその味を忘れることができないものです。人間の神性が麻痺してしまうのです。神の子の人間にとって大切なものは、謙虚さと、慎ましやかさです。悪魔界の人びとにはこれがまったくないのです。 第二の場合についても申し上げると、彼らは積極的に地上界を混乱と破壊に導こうともしています。地上の団体のなかにも、抗争ばかりを繰り返している狂気の集団には必ず彼らがかかわっています。闘争心を激しく燃やしている極端な右翼や左翼の人びとや、悪質な組合運動家たちの背後には、必ず彼らが暗躍しています。 彼らはこの地上を混乱させるのにもっとも効率のよい方法を心得ています。すなわち、彼らは狂った宗教指導者たちをつくり出して、世の中を迷わせているのです。光の天使たちが神法を説きにこの地上界に舞い降りるとき、魔が競い立つというのもこういったことなのです。 この後者の悪魔界の人たち、地上界を霊的に混乱に陥れ、何が本物で、何が偽物であるかをわからなくしようとしている彼らと、いかにして闘い、いかにして彼らをも天上界へ導くかということが、地上に降りた光の指導霊たちの仕事です。これはおそらく小桜の任を超えているものと思われますので、このことに関しては、もっと上級の神霊の方々にお聴きになればよいと思います。 以上で、「霊界における地獄の救済」というテーマはとりあえず終わりにします。 次回は、「霊にとって悟りとは何か」という主題でお話ししてゆくつもりですので、楽しみにしていてください。悟りにも段階があるということを具体的にお教えするつもりです。 8.竜宮界の様相(1986年4月13日の霊訓) この前までは、主として地獄のことについて話してまいりました。そこで地獄からの脱出もからんで、「霊にとっての悟りとは何か」ということを中心にお話ししてみたいと思います。 あなた方人間界の人びとは、ともすれば、毎日が苦しすぎることの連続か、楽しすぎることの連続かで、じっくり落ち着いて神様のことを、また、自分がなぜ生きているのかをよく考えようとしません。 人間の本当の生命の九〇パーセントが、こちらの霊界で過ごされるのであって、地上界の生活は人間にとって、夢のような日々にしかすぎないのです。 琵琶湖の風景がいくら美しく、いくら太陽の光がキラキラと波間に輝いていても、いくら白砂青松が目に沁みても、私たちの世界にある竜宮界の美しさにはかないません。 竜宮界にある湖の美しさは、たとえようもありません。金色の波が打ち寄せる浜辺は、まさしく奇跡に近い美しさです。浜辺の砂も一個一個がさまざまな色に輝く宝石なのです。 その浜辺に、これもまた美しくも気高い天人たちが、腰をかけて話をしたり、手に手をとって散歩したりしています。 湖には魚もおりますが、彼らの一匹一匹が人間の言葉を解します。彼らは口をあけて、言葉を発するわけではありませんが、いわゆるテレパシーによって、人間にも語りかけます。彼らは時折、波打ちぎわまで泳ぎ寄って、天人たちに水の中のすばらしさを賛美するのです。 天人たちも天人たちで、もし湖の中を探検したくば、それこそ浦島太郎そのもので、亀なり、大きな魚なりにまたがって、水の中を楽しむこともできるのです。もちろん霊ですから、溺れて死ぬこともありません。 あの浦島太郎伝説というのも、この竜宮界での話です。今から、二千年近くも前のこと、日本に生まれたある霊能者が、幽体離脱のかたちでこの竜宮界に来て、さまざまなことを経験したのです。彼は人間界に舞い戻って、そのときの様子をこと細かに人びとに話したのですが、人びとには、それが霊界の話であると理解することができず、さりとて、あまりにも話の内容が細々(こまごま)として、辻棲(つじつま)が合っているので、一概に否定するわけにもいかず、結局あのような人間界と竜宮界がいっしょになったような話となってしまったのです。 ここで、竜宮界について簡単に説明しておきましょう。 日本の神々の世界にも、陰の世界と陽の世界があります。言葉を換えれば、静の世界と動の世界といってもよいと思います。 人間は、死んで地獄に堕ちないものは、いわゆる幽界とか精霊界と呼ばれる四次元世界に入ってゆきます。そこでさらに心の修行を積んだ者が、一段高い五次元霊界という、善良な人びとの世界に入ってゆきます。人間霊として満足できる人びとはここまでしか来ませんが、宗教的な魂というか、神様の方向へ向けて、努力・精進を続ける魂は、六次元神界に入ってゆきます。 この六次元世界に、陰と陽、静と動の世界があります。陽あるいは動の世界の住人は、いわば、六次元の表側に住み、各界層の霊人たちの向上と、地上界の発展のために尽くしています。陰あるいは静の世界は、どちらかというと、自分たちの住んでいる完結した世界に満足した神霊が集まってきています。 そこで、「静」を代表するのが、いわゆる「山」と「海」ですので、ここでは山岳に関係ある方々や、川や海などの水に関係する霊たちが多いのが特徴といえます。 山岳に関係する霊たちが、「仙人界」や「天狗界」と呼ばれている世界です。一方、水に関係している霊たちが、「竜宮界」をつくっています。 しかし、これら静的世界のなかにも元気者たちがいて、「仙人界」や「竜宮界」の両方で仕事をしながら、地上界へ影響を与えている者がおります。これが「竜神」といわれる神霊です。「竜神」と呼ばれる神霊は、知識的に神様の世界を説いたりするのは苦手ですが、その霊的なパワーがひじょうに強いので、地上および霊界の修行者たちを守ったり、地上界の天候を司(つかさど)ったり、さまざまな奇跡を起こしたりしています。 なかにはずいぶんいたずら者もいて、自分の霊力を試すために、地上に風水害を起こしてみたり、季節はずれのドカ雪を降らせて力自慢して、生きている人びとに迷惑をかけている者もおりますが、たいていの場合は彼らは善良で、上級神霊たちが計画した地球の歴史のなかで必要な、気候の変化などを司っています。 9.悟りとは段階的使命感 ここまでの話を読まれて、小桜も、この静的世界に入っている霊の一人だとお思いになったかもしれません。なるほど確かに、竜宮界には知り合いも多いし、私の指導をしてくださる竜神のおじいさんもいらっしゃるので、こちらの世界に心魅かれることも多いのですが、小桜としては、現世の人びとを救う、いわば動的な世界にも興味があり、どっちつかずといったところです。 一つには、以前に浅野和三郎さんらのお力で、「小桜姫物語」を出していただいたご縁で、浅野さんらとも、こちらの世界で親交がありまして、浅野さんらがしきりに人助けの大切さ、霊的知識の普及の大切さを小桜に教えてくださるので、小桜も非力ながら何とか頑張らねばと思うことも多いのです。また、浅野さんの奥様、この方は多慶子夫人といって生前縁あって小桜が守護霊をさせていただいておりましたが、この方もいま、小桜の近くにおられて、「小桜姫、いっしょに頑張りましょうね。」と言われるので、小桜も浅知恵ながら、どうにかしなくてはと思っているのです。 でも小桜の心の一方には、竜宮界の甘美な美しさに心魅かれる面があって、ああ、この世界に入って、神様の仲間入りさえすれば、小桜には永遠の平和と、幸福が約束されるのだと思ったりするのです。あなた方、地上界の方々から見れば滑稽(こっけい)なことかもしれませんが、私たちの世界にもこういった、いわば進路選択の迷いみたいなものは多いのです。でも、こちらの世界に来て永くなると、だんだんに、地上界の人びとに霊界通信をしようとか、地上界を改良しようかという人びとは少なくなって、よっぽどのおせっかいか、よほど使命感の強い人びとに限られております。 小桜姫も、人扶(だす)けをいくらかやらさせていただいた功績で、光の天使の末席を穢(けが)させていただいておりますが、それにしても、こちらの霊の世界に来て、地上界の人びとに通信を送るような仕事は、友だちの霊たちに聴いても、百人が九十九人止(や)めておいたほうがよいといいます。 というのも、彼らにとっては、地上界はもう遠い昔のことでもあるし、地上界には地上界の考えなり、生き方があるのだから、それをあえて私たちがちょっかいを出さなくてもよいのではないか。また、ちょっかいを出しても報われることは皆無に近く、その間の時間、私たちの魂の進歩には少しも貢献しないというのが彼らの意見なのです。 確かに地上界には私たちの意見に耳を傾ける者は少なく、通信を送っても、送られた者自身が困惑したり、あるいは、世間から気狂い扱いされ、私たちにとってもたいへん悲しい結果になることが多いのです。 直接に通信を送れ、しかも、私たちのことをあれこれ詮索されず、私たちの意見に率直に耳を傾けてくださる方がいるということは、とても、私たちにとっては幸運だったと思います。 それでも、小桜の通信の内容が不十分なために、今後ご迷惑をおかけするのではないかと思うと、小桜は、そちらの世界の言葉を使わせていただくとするなら、「夜も眠れない」ような状況です。 まして日蓮様、空海様のような高僧を初めとし、天照大神様、天之御中主之神様などがすでにご降臨しておられ、いまさら、小桜ごときがという自嘲的な面もあって小桜の小さな胸はつぶれそうです。 天之御中主之神様とお話できた地上人などいまだかっていなかったのですから、そういった方々に、小桜姫が通信を送るなど、これは幸福なのやら不幸なのやらわかりません。おそらく後世に恥を残すことになるやもしれませんので、小桜は不幸に思います。 けれども浅野さん方が、私どもとご神縁のあった方であるのだから、私の通信も出してくださるから頑張れとおっしゃるので、小桜も、ありったけの力をふり絞っております。どうかご迷惑をかけないような内容をお伝えしなくては。 ああ、ついついおしゃべりが長くなってしまいました。小桜が話そうとしていたことは、『霊にとっての悟りとは何か』ということでしたね。自分以上の悟りを開いておられる方に、こういった話をするのはとてもつらいことですが、あと少し、話したいと思います。 さて、簡単に続きを述べて今夜は終わりにしたいと思います。 私はさきほど来、「悟り」という言葉を使っていますが、この言葉は別の言葉でいえば、「段階的使命感」ということもできると思います。つまり「悟り」というものは、結局霊としての人間が、本来の自分、本来あるべき姿の自分に気づき、それを立脚点として自分のなすべきことを決意することだからです。 つまり、如来様は如来様としてのご自分の神性を開顕され、その神性に基づいた使命の遂行を決意されることが「悟り」でありましょうし、あるいは地獄霊でありましたなら、悪を捨て善を選ぼうと決意することが「悟り」でもあるし、「霊界人」であるなら、神のご計画の一端を担おうと決意したところに、「神界」入りするための悟りがあるといえましょう。このように「悟り」も通りいっぺんのものではなく、その人その人の進歩に応じた悟りがあるわけです。 ですから、小桜姫には小桜姫の悟りがあります。つまり、地上におられる方々に、神霊界の様相を伝えようと決意したときに、小桜は小桜なりに一つの悟りを得たわけです。 これからも悟りについては、神霊世界の説明の折々に語るつもりですが、とりあえず今夜は、「悟りとは個性に応じた段階的使命感である」と述べるにとどめます。 では次回の予告をしておきます。次回は、「念の力」についてさまざまなことをお話しします。ある意味ではこの「念」というのが、霊界最大の秘密かもしれません。ではまた。
https://w.atwiki.jp/wikiwiki2/pages/475.html
『世界文学案内』 都甲幸治 2017.10 1.2015年以降の読書日記 2017/5 エウロペアナ オウジェドニーク チェコ 亡き王女のためのパヴァーヌ ミンギュ 韓国 マイケル・K、鉄の時代 クッツェー アフリカ 彼らは廃馬を撃つ マッコイ アメリカ 2017/8 パタゴニア、ソングライン、黒ケ丘の上で、『ウイダーの副王』 ブルース・チャトウィン 県立 7F933チ 市立933チ 言語と爆弾 くれいし 現代という時代の気質 ホッファー 2015/9 アンダー、サンダー、テンダー せらん 走れ、走って逃げろ オルレ部 グルブ消息不明 メンドサ 2015/10 あなたを選んでくれるもの ジュライ トレインスポッティング ウェルシュ ヴィクトリア ハムスン 飢え ハムスン 2015/11 べつの言葉で ラヒリ 自分ひとりの部屋 ウルフ 寛容論、カンディード ヴォルテール 2015/12 服従 ウエルベック ムシェ ウリベ 2016/1 嵐 クレじお 香港パク 李 ゴドーを待ちながら ベケット 文学会議 アイラ 2016/2 はるかな星、アメリカ大陸のナチ文学、売女の人殺し ボラーニョ 台湾生まれ日本語育ち 温 ジョイ・ラック・クラブ タン 犬の心臓・運命の卵 ブルガーコフ 2016/3 未成年 マキューアン ピエールとリュース ロラン 150000000 マヤコフスキー 2016/4 邪眼 オーツ 陽気なお葬式 ウリツカヤ ブッダが説いたこと ラーフラ 2016/5 『屋根裏の仏さま』 オオツカ 県立 7F933オ 市立933オ ラガ クレジオ リフォームの爆発 町田 2016/6 僕の違和感 ぱむく トルコ 模倣郷 リービ英雄 漂流怪人・きだみのる 嵐山 2016/7 ワンダーボーイ ヨンス 禅堂生活 鈴木大拙 ラニーニャ 伊藤 Masato 岩城 2016/8 分解する デイヴィス 鏡のなかのボードレール くぼた 北米黒人女性作家選 藤本 恥辱 クッツェー 小説の技法 クンデラ 2016/9 あなたの自伝、お書きします すp-ク 宇治拾遺物語、ギケイキ、告白 町田 カント先生の散歩 池内 2016/10 誰もいないホテルで しゅたむ 酔狂市街戦 戌井 私のロシア文学 渡辺京二(特に、オネーギン) 2016/11 来福の家 温 アンニョン、エレナ 金 世界屠畜紀行、身体の言いなり、漂うままに島に着き 内澤 2.日本、アメリカ、そして 騎士団長殺し 村上 隅田川のエジソン 坂口恭平 オスカー・ワオの短く凄まじい人生 ディアス 3.世界文学をひたすら読む 抒情するアメリカ 舌津 第三帝国 ボラーニョ 作家たちはどうやって小説を書くのか、じっくり聞いてみよう! サリンジャー 生涯91年の真実 また会う日まで アーヴィング ボディ・アーティスト デリーロ 幻影の書、写字室の旅 オースター スーパー・サッド・トゥルー・ラブ・ストーリー シュタインガード 熱帯雨林の彼方へ ヤマシタ 世界と僕のあいだに コーツ 海と山のピアノ いしいしんじ 呪文 星野 火花 又吉 バナナ剥きには最適の日々 円城 世界はゴ冗談 筒井康隆 Masato 岩城 野良ビトたちの燃え上がる肖像 木村 県立 8FAキム 市立913.6キム 4.英語を生きる ユダヤ警官同盟 シェイ本 プロット・アゲンスト・アメリカ アメリカ大陸のナチ文学 ボラーニョ 南部の戦士たち そー電スターン 5.僕の好きな翻訳文学40冊 突然ノックの音が けれっと 元気で大きいアメリカの赤ちゃん バドニッツ 愛と障害 ヘモン アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること 殷グランダー 盆栽/木々の私生活 サンブラ 黄金の少年、エネラルドの少女 りー オスカー・ワオの短く凄まじい人生 ディアス いちばんここに似合う人 ジュライ はみだしインディアンのホントにホントの物語 アレクシー 野生の探偵たち ボラーニョ 宇宙飛行士オモン・ラー ペレーヴィン ジーザス・サン ジョンソン 血液と石鹸 ディン(囚人と辞書) 『アメリカにいる、きみ』 アディーチェ 県立 7F933ア 市立 公 ブロークバック・マウンテン プルー ほとんど記憶のない女 デイヴィス 天使はポケットに何も持っていない ファンて 燃えるスカートの少女 ベンダー(思い出す人) パストラリア 沿うんだ0す ボディ・アーティスト デリーロ アメリカの鳥たち ムーア ファイト・クラブ パラによ~く 充たされざる者 カズオ・イシグロ レクイエム タブッキ マンゴー通り、ときどきさよなら シスネロス くそったれ!少年時代 ブコウスキー 熱帯雨林の彼方へ ヤマシタ 背信の日々 ロス シカゴ育ち ダイベック マウス スピーゲル万 黒い時計の旅 エリクソン 大聖堂 カーヴァー 本当の戦争の話をしよう オブライエン 侍女の物語 アトウッド 幽霊たち オースター マイケル・K クッツェー エレンディラ ガルシア=マルケス ブエノスアイレス事件 プイグ 砂の本 ボルヘス ビッグ・サーの南軍将軍 ブローティガン
https://w.atwiki.jp/usamiyamato/pages/26.html
天上貴族(てんじょうきぞく) 概要 王都城主と四領王の血を引く一族。最高権力者であり、ある行動が許されている。 天上貴族であるのは城主/領王が在位している間。 現在の天上貴族 ジハール家 バースライトの一族 イアストリナ家 バルトスキアの一族 アメツキ家 ユウビゴゼンの一族 カロプサ家 ルオイドの一族 ゼミュエル家 ヴィオラマリアの一族
https://w.atwiki.jp/mahjlocal/pages/1444.html
読み てんじょうちゅうしん 正式名称 別名 和了り飜 4倍役満 牌例 解説 中が入った大四喜字一色 成分分析 天上中心の62%は歌で出来ています。天上中心の22%は魔法で出来ています。天上中心の11%は月の光で出来ています。天上中心の3%は鉄の意志で出来ています。天上中心の1%は理論で出来ています。天上中心の1%は大阪のおいしい水で出来ています。 下位役 上位役 複合の制限 採用状況
https://w.atwiki.jp/tenj/pages/2420.html
2024/06/26閲覧数284 タイトル【WEB限定】天上セットキャンペーン開催 内容 【WEBアイテムモール限定】 『天上セットキャンペーン』を開催いたします! キャンペーン期間中はお得なセットが2個セットで登場! 「討伐隊追加入場券」がボリュームアップ中! この機会に是非お試しください!! イベント期間 2024年6月26日(水)メンテナンス~7月3日(水)メンテナンス キャンペーン概要 【WEBアイテムモール限定】で登場! キャンペーン期間中、 WEBアイテムモール限定で 天上セットの2個セットが2,100JEWELで交換可能です! 内容は以下となります。 アイテム名個数アイテム効果 千里縮地図(30日)230日間、千里縮地図を利用できるアイテム 8周年天上券16天上練武館を1日に1回8時間利用できる券。 幽玄場の鍵12幽玄場入場時に必要なアイテム 倉庫拡張符(150)21ヶ月間1ポイント倉庫のスロットを 150マス利用することができる符 ※事前に倉庫を200マスまで拡張している場合のみ 使用できるアイテムです。 VIPカバン改6使用すると30日間、 所持枠が20枠追加、+20000所持量が増加するアイテム 優待引換券8洛陽城に存在するNPC優待権商人(99,295)にて 『優待権』と交換出来るアイテム 帰属保管符2使用後、30日間一部を除く全てのエリアで 帰属保管庫を使用する事が出来るアイテム 四王天の鍵80三十三天入場の際に使用され 入場時には4個の鍵が必要となる。 討伐隊追加入場券40 60討伐隊にもう一度挑戦することができる券。 1日最大1枚使用可能 大将軍の気運(四)5F7で使用すると6時間の間 力+300 体力+25,000 耐性+400上昇するアイテム ■アイテム交換時の注意事項■ ※「天上セット×2」を交換した場合、WEB倉庫へは該当のアイテム名ではなく 展開された状態で送付されます。 ※天上セットキャンペーンはWEBアイテムモール限定のキャンペーンとなります。 「天上セット」はゲーム内の天上商店では交換できません。 ※ゲーム内の天上商店にある「天上徇貎箱改」とは異なるアイテムです。 価格や獲得できるアイテム、個数も異なりますので交換する際にはご注意ください。 天上セットを交換すると! キャンペーン期間中、 「天上セット×2」を交換すると、 もれなく「帰属拡張券」が1枚ついてきます! ※「帰属拡張券」は1キャラクターで使用できる最大数が設定されています。 ※ゲーム内の天上商店にある「天上徇貎箱改」とは異なるアイテムです。 「天上徇貎箱改」を交換しても「帰属拡張券」はついてきません。 「天上セット」はこちらから 天上セットキャンペーンはWEBアイテムモール限定のキャンペーンとなります。 「天上セット」はゲーム内の天上商店にある「天上徇貎箱改」とは異なるアイテムです。 誤って別のアイテムをご交換された場合等の対応は一切致しかねますのでご注意ください。 運営上、予期せぬ理由により内容に変更がある場合、告知にてご連絡致します。
https://w.atwiki.jp/mugenworlds/pages/74.html
文明 何かしらの文明が根付いている世界に開通しやすくなるプレート。文明と言っても、どこまで進んだ文明なのかは完全に未知。大抵は拠点世界に近しいレベルの文明となる。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/351.html
目次 1.神想観(しんそうかん)とは何か 2.神想観の実修方法 3.神想観実修上の注意点 4.「神は霊媒にはかからぬ」は一般論 5.巨大霊媒としてのキリストと釈迦 6.霊能力の多面性 7.如来の声が聞けるのは如来だけ 8.「生長の家」の大神として顕れた天之御中主之神 9.住吉大神の役割は地上浄化 10.「神は霊媒にはかからぬ」が、「神は神にかかる」 11.谷口清超氏の過去世は、日本神道系の偉大な神霊の一柱 12.日々、自らの人格を高めよ (1987年7月2日の霊示) 1.神想観(しんそうかん)とは何か 谷口雅春です。さて、本章では、いよいよ真説・神想観の話をしてまいりたいと思います。本書の読者が必ずしも「生長の家」の信徒であるとはかぎらんので、神想観とは何かについて、まず簡単に話をしておかねばなるまいと思います。 神想観というのは、字を見るとわかるように、神を想い観ずる、と。こういうふうに書いております。まあ、言ってみれば、精神統一の方法であります。私が、数十年にわたって説き来たり、説き去ったところの生命の実相哲学というものは、単に思想や哲学に止まらず、宗教と言われる領域にまで踏み込んでいるのです。 その理由は、そうした精神統一の方法、高級神霊との交流という方法が、やはり、そこにあるからです。だからこそ、宗教とも言い得るのだと思います。 単に思想としてのみ見れば、私の教えも、もしアメリカに現われれば、ニューソートという光明思想になっているわけですから、単に宗教とは言いかねるものがある。ただ、「生長の家」が宗教と言われておる理由は、神に対するそういう神想観というひとつの修法を持っておるからであります。 神想観についての詳しい説明は、私の著書、生前の著書のなかの『生命の実相』という書物のなかに詳しく説明があるので、それを別の機会に参考にしていただきたいと思うのであります。ここでは、精神統一ということ、祈りということ、そうしたことに関して、こちらに還った私の率直な感想を踏まえて、話をしていきたいと思うのです。 これはね、ある意味では、自力・他力という古来から闘わされておる宗教的な問題に対する答えをも含んでおると、こういうふうに言うことができると思うのです。 2.神想観の実修方法 神想観というのは、要するに、姿勢を正して、合掌の姿をとるわけですね。合掌の手というのは、通常の仏教で言う合掌よりも、やや高いところまで上げる。その場合、手のひらの隙間(すきま)に、呼吸、すなわち、口から出る息がかかる程度の、通り抜ける程度の高さまで手を上げてくるわけですね。こうして、精神統一をする。 まあ、正坐してやるのがもちろん本筋でありますが、とくに正坐でなければいかんというほど堅苦しいものではない。女性とか、子供とかは、正坐が無理であれば、おかしくない程度に足を崩してやられてもいい。ただ要は、やはり背筋をピンと伸ばして、威儀を正して、精神統一をやる必要があるということです。 そして、この手を口の前まで持ってきて合掌して、神招(かみよ)び歌、招神歌(しょうしんか)ですね、これを唱えるわけですね。大きく呼吸を整えながら、招神歌(かみよびうた)を唱えていく。 「吾(わ)が業(わざ)は吾が為(な)すにあらず、天地(あめつち)を貫(つらぬ)きて生(い)くる祖神(みおや)の権能(ちから)」 「吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能」 「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命(いのち)」 「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命」 と、こういう言葉がありますが、これらの言葉を繰り返し繰り返し、合掌の姿で語っていく。こういう言葉を唱(とな)えておると、この招神歌のなかには、つまり、言魂(ことだま)というのが宿っておって、この言葉を口から発すると、天上界にいる諸神霊が感応してくる。 具体的には、こういう言葉を発すると、本人の守護霊や指導霊が感応してくるというわけですね。本人の守護霊と言っても、霊界でやはり仕事を持っておりますから、いつも、常時来ておる人間の傍(かたわ)らに立っておるほど暇(ひま)なわけではないのです。あの世でも仕事をしながら、やはり家庭教師のような具合であってね、ときおり、教えにくる、と。こういうのが、守護霊なわけであります。 そういうことで、こういう招神歌(かみよびうた)を唱えて、守護霊、あるいは、指導霊という一段と霊格の高い霊もおるわけですが、こうしたものの注意を喚起すると、彼らの光が天上界からサーッと流れ込んできて、心のなかに暖かいものが入ってくる。こういう経験をされた方は、数多いであろうと思うのであります。 まあこれはね、昔から神道などでも祝詞(のりと)というのがあって、祝詞で高級神霊の力というものを授かっておりますが、こういう言葉というのは、ひとつの何と言いますかね、つまり、合図なわけです。 まあ、昔から合図と言えば、「山」と言えば、「川」というふうに答えるとか、こういうふうにして合言葉がありますが、これは、地上界におる人間と天上界におるものとの間に、いわば電話をかけるのと同じであるし、橋を架けるのと同じなわけですね。ですから、こっちから、「もしもし」と言えば、向こうが、「ハイハイ」と答えてくる。この「もしもし」にあたるのが、こうした招神歌(かみよびうた)、招神歌(しょうしんか)だということなのです。 この招神歌(かみよびうた)のなかでも、最初に、次のような言葉を言うようになっております。「生(い)きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ)元津霊(もとつみたま)ゆ幸(さきは)え給(たま)え」と。まあ、この言葉を繰り返すわけですね。二度ほど各歌を繰り返す。正式に、もう一度言うとすると、つまり、こうなります。 「生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸え給え」 「生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸え給え」 「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命」 「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命」 「吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能」 「吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖親の権能」 「天地の祖神の道を伝えんと顕れましし生長(せいちょう)の家大神(いえのおおかみ)守りませ」 「天地の祖神の道を伝えんと顕れましし生長の家大神守りませ」 まあ、こうした四首があって、これを繰り返し繰り返し、唱えるわけですね。そうすると、顔の前に合掌しているこの手というのがアンテナになるわけですね。まさにアンテナになって、大宇宙の生命と一体になってくる。こういうふうになってきて、この手が霊的に感応して、揺れ始めたりすることもあるわけですね。合掌した手が、ひとつの磁石のようになって、磁気を帯びてくる.まあ、こういう感じになってきましょう。 そして、こういうことを、歌を繰り返し唱(とな)えた後、「生長の家を通じて働き給(たも)う神よ、この合掌をアンテナとして大生命と一体にならせ給え」と、こういう言葉を何度も何度も繰り返していくわけです。 続いて、「我れ、今五官の世界を去って、実相の世界に坐(ざ)す。自分の今坐っているのは、これ実相の世界。――神の無限の知恵の海、無限の愛の海、無限の生命(せいめい)の海、無限の供給の海、一切大調和の実相世界である。この大調和の実相の世界にいて、自分は今神の子として、神より無限の生かす力の供給を受けつつあるのである」と、まあ、こういうふうに心のなかで何度も何度も繰り返していくわけですね。 このように、神想観(しんそうかn)というのは、自分で実修ができるというところが、非常に大切なところなのですね。自分で実修ができて、しかも、効果が現われてくる。静かに精神統一をし、瞑目して呼吸を整えておくと、だんだんに、体全体に力が漲(みなぎ)ってきます。 「神の無限の生かす力、自分のうちに流れ入る流れ入る、流れ入る……」と、こういうふうに繰り返して言えばいいわけです。「神の無限に生かす力、自分のうちに流れ入る、流れ入る、流れ入る、流れ入る……」「無限の生かす力に満たされている、生かされている、満たされている、生かされている……」と、まあ、こういうことを何度も何度も繰り返しておると、本当に霊天上界から神の光が降りて来るんですね。 3.神想観実修上の注意点 ただ、こうした精神統一法、神想観をやっておっても、本人の心が不調和であると、この合掌のときに、霊動というのが起きてきて、濡(ぬ)れ手の水を切る形で、打ち振るうような、そういう霊動というのが起きることがあります。 こういう場合には、たいてい、本人に憑(つ)いておった悪霊というのが浮き出してきておる。こういうわけであります。ですから、こういうときには、いったん神想観を解いて、聖経『甘露(かんろ)の法雨(ほうう)』、あるいは、『天使の言葉』、こういうのを繰り返し、繰り返し読むのがよろしい。そうすれば、次第に精神が統一されてくるでありましょう。まあ、こういうふうに思うわけであります。 まあ、ただね、これが一般的な修法でありますが、神想観においていちばん大切なことは、やはり、この最初の段階であろうと思うのですね。実際、こうした精神統一法によって無限の力というものが天降ってくるわけだけれども、その無限の力というものを受けんとしておる人間の心のなかに、悪しきもの、あるいは、我欲だな、そういうものがあったのではよくない。あんまり我欲のままに神想観をやっておると、精神統一をするわけであるんだが、その精神統一というのが、結構悪いほうに向いてしまう可能性があるわけですね。 つまり、本人が悪霊などにかなり憑(つ)かれておるときに、この招神歌を唱えておると、高級諸霊は何とかして本人に霊示を与えようと感応し始めるんだけれども、いかんせん悪霊というのに完全憑依(ひょうい)されておると、精神統一をしたのをいいことに、本人にかかってきて、そうして、いろんなことを言うことがあるんですね。 このときに、招神者がとくに間違いやすいのは、その自分に憑いておる悪霊の唆(そそのか)しを真に受けてしまうことがあるんですね。とくに、自我我欲のままにね、欲でいっぱいになって神想観をやっておって、悪霊などがかかってきた場合には、悪霊が耳元で囁(ささや)いたりすることがある。 何を囁(ささや)くかと言うと、「そうだ、そうだ、その方向でいけば金が儲かる。会社では出世をする。好きな女性は手に入る。何でもかんでも思うようになる」というように、ずいぶんつごうのいいような答えをする場合があるのですね。あるいは、「競馬をやれば、それは儲かる。パチンコやっても儲かる」と、まあ、こんなことを言って、いろいろと欲を募(つの)らせる方向で囁く場合もある。 しかし、こういう囁きを受けて、そのまま我が意を得たりということで突っ走ってはならんのです。結局、高級霊の波長を受けるのには、受けるだけの素地というのがやはりいるのです。これを同類相集まると申しますかね。同じ波長のもの同士が通じ合うという法則があるわけです。 したがって、奥さんの浮気に悩んでおる旦那(だんな)や、あるいは、経済問題でヒイヒイ言っておるような主婦に、イエス・キリストじゃの、釈迦じゃの、何じゃのかんじゃというような高級霊がかかるかと言えば、そういうことはないということですね。これを知らねばならん。まあ、そういうことです。 4.「神は霊媒にはかからぬ」は一般論 これについて、さらに説明をしておかねばならんと思う。つまり、まあ、「生長の家」の理論のなかで、「神は霊媒にかからぬ」と、こういう言葉があるわけですね。それで、巷(ちまた)の拝屋や霊媒に何とかの神が降りただのと言って、まあ、よくやっておるが、こういうのは、十中八、九はキツネ、タヌキ、ヘビの類であることは間違いない。 こうしたものでも、たまにあてものをしてみたり、そういうことをするので、神様と間違えて神社が建ったり、信者を集めたり、そういうことが、ないわけではない。ただ、そういう町の拝屋や、あるいは、北のほうの地方にあるようなイタコというのかな、そうしたものに神近き高級霊がかかるということは、原則としてない。 しかし、これはやはりあくまでも原則であって、例外というものがないわけでもない。例外がなければ、つまり、神は人間にかからんと、霊媒というのにかからんと言うならば、この地上の三次元世界というのは、これは本当の唯物論の世界になってしまって、何の奇跡も、何の神示も、何の霊示も、天上界から臨(のぞ)まんことになってしまう。まったくの無神論の世界、唯物論の世界となってしまう。そうなってしまっては困るわけだから、一定の範囲で、例外を設(もう)けておろう。こういうことがあるわけですね。 それとね、私も生前、この点については詳しくは説かなかったけれども、やはりね、神は霊媒にはかからんけれども、神は預言者にはかかる。あるいは、大宗教家、これにはかかるのですね。これについては、言っておかねばならぬと思う。ただ、神という言葉に非常に多義性があるので、何をもって神とするかという問題は、これは、別にあるわけです。 しかし、宇宙の根本神、この大宇宙を創った造物主が人間にかかるかと言うと、こうしたことは、決してあり得ない。そういうことは、あるわけはないのであります。ただ、人格を持った神霊、高級神霊というものは、これは一定の範囲で、一定の限度で、何百年か何千年に一回か、そういう神示や霊示というものを送ってくることがあるのです。といっても、これは、ごく限られた人だけであります。 5.巨大霊媒としてのキリストと釈迦 ナザレのイエスという人間にも、高級霊たちは、やはり霊示を送っておったし、イエスのなかに入って、ずいぶんいろんな言葉を語っておる。じゃあ、イエスは霊媒であるから神がかからんかと言うとそうではない。こうした巨大な神霊能力を持った人の例外というのは、やはりあるわけです。通常の口寄せとはまた違っておる、と。こういうふうに言えると思うのです。 また、釈迦にしてもそうです。現在、釈迦を霊媒だと言う人はおらんであろうけれども、仏典をよく読んでみると、釈迦の顔が二十通りにも変わったというようなことが書いてある。では、なぜ釈尊の顔が二十通りにも変わるのか。現代的に言えば、怪人二十面相になってしまうわけじゃが、結局、釈迦が説法をしておるときに、いろんな高級神霊が釈尊の体を支配して、話をしておったわけです。 そこで、それを見ておった弟子たちの多く、つまり、釈迦教団では芸能者が非常に多かったがため、彼らには、その仏陀の顔が変貌するのが見えた。こういうことがあったわけです。そして、釈尊が何通りもの顔に変わっていく。説法の内容に応じて、顔が変わっていく。その姿を霊視して、驚いたわけです。こうしたことが、いまだに伝えられております。 釈迦の法門というのは非常に多くて、八万四千の法門があると言われております。そして、そのなかで、あるいは法華経(ほけきょう)と言うたり、あるいは維摩経(ゆいまきょう)と言うたり、あるいは阿含経(あごんきょう)と言うたり、あるい華厳経(けごんきょう)と言うたりしておる。こうした経典で、どの経典を信ずるかということが、後代の各派が言い争って議論をしておるわけですが、では、なぜそういう議論になるかと言うと、結局のところ、経典ごとに内容がかなり異なり、個性も変わっておるところがあるのです。 つまり、たとえば、こういうことなのです。華厳経というお経のなかには、「愛」についての話がずいぶんあるわけだけれども、これなどは、イエス・キリストと言われた方のナザレに生まれる前の生命体が、どうやら釈尊のなかに入って、説教しておったようなのです。そうすると、そうした内容になる。 こういうふうに、指導霊の考え方によって、多少違ってくるわけです。そういうことがあるんです。内容的にね。 また、法華経というのが大変な人気であるけれども、法華経にも、もちろん、それなりの指導霊というのがおったわけでね、この指導霊の考えが釈尊自身の考えと非常に似ておる、と。まあ、こういうことが言えるわけなんですね。 だから、後世の仏教者たちが法華経を最勝の教えだと言って、これこそが間違いない教えだと言って、日蓮宗のように発展するようになるわけです。こういうふうに、お経相互でいろんな内容に違いがあって、各派が分かれた理由のひとつは、釈尊自身がひとつの巨大な霊媒であったことは事実なのです。ですから、そういう巨大な霊媒である釈尊に、いろんな高級神霊が入って、語っておった。そのため、釈尊の顔が変貌したり、そのお経の内容が変わることになったわけですね。 だから、現代、釈迦を霊媒だという人はおらんけれども、霊媒能力というのも巨大な霊能力のなかのひとつであって、そうしたことがあるということですね。 6.霊能力の多面性 霊能力のなかには、霊視というような、霊が見えるというような能力もあれば、霊聴と言って、霊の言葉が聞こえる、こういう能力もある。また、霊言(れいげん)と言って、口から霊の言葉が出る、こういう能力もある。あるいは、自動書記(じどうしょき)というのは、体に入った霊が、手を動かすようにして、書く。まあ、こういうものもある。 あるいはまた、テレポーションと言うのかのう、幽体離脱(ゆうたいりだつ)と言って、体から抜け出してあの世を見てくるような、こういう霊能力もあるし、予知能力と言って、将来起きることを予知する能力、まあ、こういうものもある。 大本教祖の出口王仁三郎などは、予知能力とか、あるいは、あの世を見てくる能力、幽体離脱の能力と言うか、こうしたものが大変優れておったように思います。 私の霊能力もいくつかはあったことはあったけれども、谷口雅春の主たる霊能力というのは、いわゆる自動書記であったわけであります。すなわち、私の肉体のなかに高級諸霊が入って、いろんな文章を書かしたり、いろんな詩を書かしたり、お経を書かしたり、まあ、こうぃうことをしておったわけですね。だから、霊が入るということ自体は、私も霊媒と変わらぬわけでありますね。霊媒はロで語ったりするけれども、手で書くのも、霊媒は霊媒です。 日本語というのは、霊媒という言葉に非常に悪いイメージがあるけれども、霊媒体質でない教祖というのはおらんわけです。大宗教家で霊媒能力のなかった者もおらんわけであるから、神は霊媒にかからんという言葉をもって、たとえば、新しい真理が説かれるときに、その真理を説く者を批判するようなことだけは慎しんでいかねばならん。まあ、こういうふうに、私は生前の自分の教えを補っておきたいと思うのです。 巨大宗教家、真理を説くために出た釈迦や、キリストや、モーゼや、マホメット、こうした巨大な宗教家というのは、みんな、もちろん霊能力の持ち主であって、ある意味では、巨大霊媒であることは確かなんです。出口王仁三郎もそうであったしね。 そういうことであるからして、それは口で語るか、手で書くか、耳で聞こえるか、目で見えるかということであって、それほど差異があるわけではないのです。ですから、神は霊媒にかからんということに関しては、これは一般論にすぎない。それで商売しておる巷の拝屋とかそういうところに行って、神の言葉を聞いたなんていうのは、もってのほかだと、こういうことであります。 7.如来の声が聞けるのは如来だけ したがって、神想観などやっておって、神の声が聞こえた、高級霊の声が聞こえたという人も数多いと思うんだけれども、ここで大事なことはね、やはり、その人の人格です。これが問題なわけです。 同類は相通じる、と。同じ波長同士が通じるという原則があるんですから、如来の声が聞ける人は、やはり如来の霊格を備えておらねばならん。菩薩の声が聞ける人は、菩薩の霊格を備えておる、と。まあ、こういうことが一般的には言えるわけです。 ですから、自分が如来や菩薩の声を聞いておると言うならば、じゃ、その人の日頃の生活はどうか、言動はどうか、人格はどうか。どれだけ多くの人を救ったかどうか。こうしたことが試されるわけですね。菩薩から霊言を受けたり、霊示を受けたりするような人であるならば、やはり世に立って、世の人びとを少しでも教化し、救っていく、こういう実践活動をやっておるはずだし、現に、そうしたことができるはずなのです。 そういうことなくして、すなわち、家庭問題に苦しみ、借金に苦しみ、劣等感に打ちひしがれておりながら、我れに菩薩がかかっただとか、我れこそは何とか菩薩の生まれ変わりだとか、言っておっても、こういうことは、あり得ないのです。如来にしては、もっとあり得ません。如来というのはね、ひとつの時代に、出てもせいぜい数人です。二人か三人、それが限度です。たいていね。 したがって、自分が如来であるという可能性などは、九分九厘あり得ないと思って、間違いないのです。ところが、その九分九厘あり得ないのに如来と称するものから声がかかってくるというようなことは、たいていの場合は、地獄の悪霊の惑わかしであることが多いわけですね。 ですから、そうした人は、よく心を静めなければいかん。自惚心(うぬぼれごころ)を持って神想観をやり、そして、霊の声を聞いただとか、霊動が起きたと言って、喜んでおってはならぬのです。もちろん、一部の例外はあります。しかし、原則としては、そういうことはないのだということです。 たとえば、天理教の教祖に天理王の命(みこと)がかかったり、あるいは、大本教の教祖に丑寅(うしとら)の金神(こんじん)がかかったり、と。こういうことはあるけれども、まあ、こうしたことは、ひとつの時代を画する、大きな宗教を起こすために、やむを得ず高級神霊が仕組んだことであってね。こうした特殊な例外以外で、そういうことがあるということは、まあ、これは疑って間違いない。 ですから、菩薩や如来だというような声が聞こえてきたら、自分がそれだけのことをやっておるかどうかを、よく考えねばならぬ。たとえば、読者でもいいが、読者に新たに如来の声が聞こえたり、イエスの声が聞こえたり、あるいは、大日如来の声が聞こえたり、天照大神の声が聞こえたり、字が出てきたりしたと言うならば、まあ、せめて谷口雅春と同じぐらいの実績を上げて、事業を起こしてから、そう言っていただきたい。そういうことが、ひとつの基準であろうと思うね。 8.「生長の家」の大神として顕れた天之御中主之神 生前は、私も気がつかなかったけれども、「生長の家」の大神として中心神、根本神をやっておられた方は、天之御中主之命(あめのみなかぬしのみこと)という日本神道の主導神であった。これが、わかった。 しかし、天之御中主之命、天之御中主之神であったけれども、これを、明確には私に知らされていなかったわけであります。天之御中主之神というのは、幽の幽なる神であって、宇宙の根本神であって、それゆえ、人にはかからんと私は言うておった。実際はそれでいいわけであってね、めったに名のるものではないのです。 すなわち、天之御中主之神が谷口雅春にかかって文章を書いておったと言えば、谷口雅春が増長慢となって間違いを犯すことをおそれて、そういうことを隠しておられたのです。「生長の家」の大神ということで、隠しておられた。私があの世に還ることになって初めて、あかされたわけです。まあ、通常は、高級霊はこうした方便でもって指導するわけですね。そういうことなわけです。 ですから、私の『生命の実相』などは、主として天之御中主之神の神示を受けながら書いたものだし、「生長の家」の本部の庭に建っておる、「生長の家」の大神の神像があるけれども、あの神々しい神姿というのは、実は、天之御中主之神のお姿そのものであります。現実に、あのような姿をしておられるのです。あの方が、私たちを指導神として導いておったのですね。 9.住吉大神の役割は地上浄化 天之御中主之神以外にも、住吉大神(すみよしのおおかみ)、すなわち、住吉大神(すみのえのおおかみ)という方の指導も受けておりました。この方もやはり、如来界の方で、実在の霊人であります。 住吉大神というのが、主としてやっておったのは何かと言うと、これはね、「生長の家」の光明思想を助けるひとつの手段としてね、邪霊、悪霊から我らを、あるいは、「生長の家」の信徒たちを守るという、そういう禊祓(みそぎはら)いの役割を、すなわち、地上浄化の役割ですね、こういうことをやっておられたのです。これが、住吉大神の役割でした。 浄める、浄化する、こういうことをやっておられて、そして、浄められた聖域、霊域のなかに、天之御中主之大神が、次々と光明思想の真理を説かれたのです。こういうことが言えるわけであります。 10.「神は霊媒にはかからぬ」が、「神は神にかかる」 ですから、私の生前の思想は、天之御中主之神のお考えとほとんど変わっていない。こういうふうに言うことが、可能だと思います。まあ、これについてですが、私は生前、御中主之神は幽の幽なる神で、この世に出て来る方ではないと言ったがために、今、私の霊示を読んで、そんなはずはないと疑う人もおるかもしれぬが、事実は事実、どうしょうもないのです。それが、事実なのです。 「生長の家」の大神は、天之御中主之神であるのです。これは、事実です。仕方がないのです。私自身も、過去世において、伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)として日本の地に肉体を持ったものでありますが、やはりそうした同じ神々の世界から見ておる者として、そうした中心神のような人が、私を指導しておったということですね。 これに対して、たとえば、「生長の家」の前の団体であると言いますか、大本数のようなところでは、国常立之神(くにとこたちのかみ)というこういう方が指導しておった。やはり如来界の方です。こういう神が、指導しておった。同じ日本神道系ですが、指導神が違うために、大本教と「生長の家」の教えは違う、と。こういうふうに言えるかと思います。 こういうようにね、神想観をやっておるときに、高級霊の霊示がくるけれども、あくまでもその人の人格にふさわしい者がかかってくるということで、伊邪那岐大神であった私であるからこそ、天之御中主之神の神示が下ったと、こう考えねばならんのです。まあ、「生長の家」にも立派な方が多いが、一般信徒に天之御中主之神の霊示が下りることは、まずあり得ない。 その意味では、神は霊媒にかからぬ。しかし、「神は神にはかかる」わけですね。すなわち、神近き高級霊が肉体を持って地上におるときには、神がかかってくることがある、と。こういう例外は認めねばいかん。 11.谷口清超氏の過去世は、日本神道系の偉大な神霊の一柱 まあ、この辺はね、二代目総裁の清超先生、それから若き三代目にも、よくよく理解していただきたい。そういうふうに思うところでありますが、二代目総裁が非常にしっかりしておるために、私も、安心してこうした真理を語ることができるわけですね。 ちなみに、私が全幅の信頼をおいて「生長の家」の後を託しておる谷口清超総裁、この方もまた、過去世において、日本神道系の偉大な神霊の一柱であった。こういうふうに言うことができると思います。 まあ、今その名をあかしてよいものかどうか、多少のためらいもないわけではありませんが、古事記、日本書紀のなかに出てくる神々のひとりです。まあ、これは機会を改めたときにあきらかにしようと思います。 私の霊示集も、こういうふうに次々と出しておるわけですけれども、まあ、「生長の家」信徒一般からは、谷口雅春の声に違いないという声が非常に強く、九九パーセントまでは、そのような声が上がっておる。 ただ、「生長の家」の幹部諸君のなかには、まだ初代総裁の声を理解できん方も何人かおるようであるから、そうした人の納得が得られたときに、谷口清超総裁の過去世の名などもあきらかにしたいと思うわけです。まあ、それを信じる信じないは各人の自由であるから、私はあくまでも、その限度にとどめておきたいと思う。 12.日々、自らの人格を高めよ 以上、いろいろと語ってきましたが、本日の要点は、結局、神想観という素晴らしい精神統一の修法があるけれども、あくまでも、その心の波長に合わせたものが語ってくるのであるから、よくよく心の波長を整えるように訓練せねばならん、と。 したがって、より高い高級神霊からの導きを受けるためには、その人自身がより素晴らしい人格者となっていくように、日々の努力精進が何にもまして肝要であるということだ。その人の人格が高まれば高まるほど、神想観を行じておると、より高級神霊からの光を受けることができ、導きを受けることができるということだ。 そして、人生の悩み全般、こうしたものに対して、次々と解答を与えられていく。百事如意(ひゃくじにょい)という言葉どおり、いろんな難問題が続々と解決されていくであろう。こうしたことで、心の調和を図(はか)り、また、人格を日々高めながら、神想観をしていくなかに、百事如意、すべての道が開かれていくであろう。そして、それがあなたに幸せをもたらす永遠の繁栄の道でもあるということだ。この繁栄の道を信じなさい、と。以上です。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/440.html
目次 1.多次元世界の呼称 2.太陽界 3.梵天界 4.諸天善神・阿羅漢 5.実在界での漏尽通力 6.魂の創造的性質 7.心の自由性と悟りの第一関門 8.心の運転技術 9.自由意思の相克によるひずみ 10.地獄界からは生まれ変わってこない理由 11.善悪を人間関係の調整論としてとらえる 12.心の光明をつくり出す力 13.悪霊の活動エネルギー 14.憑依霊の目的 15.サタンの発生原因 16.地上のユートピア建設の基礎 17.愛における平等観と公平観 18.全体の進歩と調和のなかで 19.高次元霊における魂の本体分身理論 20.守護・指導霊体制の確立 21.地球上での魂修行の成果 22.地球ドリームと教育的使命 23.想念帯と後光 24.思索できるタイプとは 25.「想い」と「反省」 26.自己実現と「念い」 27.心の針と執着心 28.八正道と正しさの基準 1.多次元世界の呼称 天地の創造というのは、実は高次元のものがだんだんに下次元を創ってきたという歴史であったのです。高次元から下次元へと、九次元の宇宙界・八次元の如来界・七次元の菩薩界・六次元神界・五次元霊界・四次元幽界というものが完成されてきました。 各界の呼び方はいろいろとあり一定はしておりませんが、それぞれ順番に太陽界・金剛界・聖天上界・光明界・精神界・精霊界および地獄界とも呼ばれることがあります。ですから、各界の呼び方を、統一していますが、この呼び方が通用しない人たちもそうとうたくさんおられるようです。たとえば、高級霊のなかでも六次元神界という呼び方をしてもわからない人もおりまして、なかには光明界と呼んでいる方もおられます。また五次元霊界を精神界という呼び方をされる方もいれば、それ以外に善人界という呼び方をされる方もおられるのです。 七次元の菩薩界も、聖天上界という呼び方がありますが、これもかなり、使われているようです。八次元は、金剛界とも呼ばれ、この金剛界上段階あたりは胎蔵(たいぞう)界と呼ばれていることがあります。 2.太陽界 九次元の世界は、太陽界と呼ばれることがあります。この太陽界という呼び方には二義性があり、九次元世界の全体を太陽界であるとする広義の呼び方と、さらに、これをもう少し区切ったかたちで八次元の上段階の部分を太陽界と設定する狭義の呼び方があります。これは、たとえていえば、梵天(ぼんてん)界という世界が七次元と八次元の間にあるという場合と同じような呼び名の使い方です。また、これと同じように、各界にもこのような部分があるのです。これは、階層建築における中二階といったような呼び方なので、みなさんにとっては、ひじょうに難しいと感じると思います。 八次元の最上段階にある狭義の太陽界という世界には、本来的に、九次元に入ろうと思えば入れるぐらいの霊格の方がいます。会社でいえば役員という方がおりますが、その数が決まっていて、ひらの取締役が何人、常務何人、専務何人というようになっています。同じように、地球系でもだいたい役員の数が決まっているわけなのです。九次元世界にはその構成員が十人いますが、これが役員の数であると考えれば、このポストが空くか、あるいは増員が決められなければ、この世界に上がってはこれないのです。 このような意味で、霊格的にこの段階に入ろうと思えば入れるくらいの方がいらっしゃいます。たとえば、天使長と言われるミカエルであるとか、日本神道系でいえば天之御中主之神、あるいはソクラテスやプラトンといった方も、この狭義の太陽界にいらっしゃいます。ですから、やがては上の世界に上がってゆくかもしれませんが、現時点においては八次元世界の役割を担われております。 3.梵天界 梵天界という世界は、七次元と八次元の間にあるといわれています。この世界におられる方も、霊格的には本来、如来の霊格を持たれていると考えてよいのです。この本来は如来の霊格を持たれながらも、仕事の役柄として、菩薩の役割を中心に担われており、現時点においては、いわゆる七次元領域にいらっしゃるという方が、この梵天なのです。仕事としては、菩薩の仕事をされているのです。 たとえば、日蓮聖人という方も梵天界にいるといわれていますが、それは、彼が『日蓮の霊言』あるいは『日蓮聖人霊示集』で語っている内容を見ていただけばわかると思います。彼の現在の仕事は、人生の悩みを解くということが中心であり、これは彼の今のところの仕事であるのです。この人生の悩みを解く、あるいは問題集を解いたり、人の悩みに答えてゆきながら、人びとを導いていくのは、基本的には菩薩の仕事であります。この菩薩の役割を現在中心的に担われているので、日蓮聖人は今、梵天界で活躍されているのです。 霊格的には同じような人で、空海という方がおりますが、この方も如来の卵で、現在は八次元領域におられます。彼は八次元の如来は如来なのですが、さらに大きな大如来になるために、いま八次元の領域で如来の勉強をされているのです。『空海の霊言』のなかで、「私は法そのものを研究している」と言っておられます。これは実は仕事が違うのであって、どちらが偉いというわけではありません。 ただ空海は今、本格的な如来となるために、法そのものの研究を八次元領域で行なっているのです。ですから、八次元領域にいる梵天とも言えるわけです。七次元領域にいる梵天というのは、霊格的には如来であるけれども、現在は菩薩の仕事をしているということなのです。 このように二つの次元にまたがってはいるけれども、一応このあたりが日蓮聖人や空海の例で説明される「梵天界」であるということができます。そして、この梵天界における七次元と八次元の境界線は、自由に行き来することができます。狭義の太陽界においても同じで、八次元領域ではありますが、九次元と行き来して、互いに話をすることができるのです。このような段階があります。 4.諸天善神・阿羅漢 同じことは六次元の上段階の諸天善神が住んでいる世界においてもいえます。阿羅漢というまだ菩薩になっていない段階です。彼らのいるところとしては菩薩にひじょうに近い六次元の上段階にいるのですが、まだ菩薩に上がっていないので、修行が終わらないと七次元には上がっていくことができないのです。 菩薩あるいは如来がおりてきて、修行のために阿羅漢を七次元領域に連れていって勉強をさせたり、見聞させるということはあるのですが、一般的に自力で上の次元を見てくるということは、できないことになっています。 ところが、諸天善神界のなかには霊格的に高い方もおり、菩薩の方や如来の方もいらっしゃいます。六次元神界のいろいろな役割分担、専門家としての仕事がありますが、やはり、そこに必要があって駐在しているのです。不動明王や、摩利支天、大黒天などさまざまな役割がありますが、このような人のなかには、実は菩薩、如来の霊格を持っている方が少なくないわけです。光を落とすとよく言いますが、彼らは光が強すぎるので、絞りをかけて、六次元くらいの光だけが外に漏れる程度にまで落としこんでいるのです。このような修行をしています。 5.実在界での漏尽通力 太陽界、梵天界や諸天善神界の例で説明いたしましたように漏尽通力というのは、けっして三次元だけのことではなくて、実在界でもあるのです。本来、如来である方が、諸天善神界で仕事をする場合には、その光度を落として六次元の人間のように生活しなければならないのです。 たとえば、本来大学生の人がいるとします。高校の課程を終わって、大学で専門的な勉強をしている人が、高校生の体格が大学生とあまり変わらなくなってきているので、学生服を着て、高校生の気分で高校二年生や三年生に入って級長さんをやっているような感じです。それで、しかも大学生であるということを気づかれないように高校生に徹していて、大学で習う専門知識は出さずに高校の範囲のなかで、ほかの人びとを導くことをしているのです。 このように漏尽通力の勉強は実在界にもあるのです。そのために階層建築における中二階というような立場の世界があると思ってください。そして、出されている本を勉強された方は、すでに十分知っておられると思いますが、私たちが魂、あるいは、ある意味で神と呼んだりするような存在も、実は根源の神というものが、その現われ方を変え、次元のレベル差を出して現われている存在にすぎません。神の自己表現の現われの一部にすぎないというように理解していただきたいと思います。 6.魂の創造的性質 ここでは、魂の性質として二つの性質を説明したいと思います。第一番目は創造的性質です。また、第二番目は神の光の集中発散中枢としての機能です。もちろんほかにもいろいろな機能があるわけですが、代表的なものとしては、これをあげておいたほうがよいと思います。 このあたりは、よく勉強しておられる方は、『黄金の法』のことを思い起こされるかもしれません。この『黄金の法』のなかでは、「神光物理学」という考え方があって、神の光の三つの性質について触れてあります。 一つ目は、「神の光は親和性を感じるもののところへくれば増幅して、排他性があるところへいけば遠ざかる、避けて通る」そのような性質がある。 二番目は、「神の光は凝集・拡散により、創造と破壊を行なう」という性質がある。 三番目には、「神の光は周波性を持つ」ということです。 このような神の光の三つの性質についての解説があったと思います。ですから、魂も、もちろん神の光からできているのでありますから、基本的には似たような性質があるわけです。この創造的性質、集中・発散の性質なども似たようなところがあると考えていいと思います。 さて、一番目の創造的性質について説明いたしますと、『太陽の法』においては「魂は、自分の意思によって、自由自在に自分をつくりかえていく性質が与えられています。つまり、どのような思いをもった意識体であるかを、自分自身で決定できるということです。」と定義されています。そして、愛を最高度に発揮することもできれば、自由を最高度に発揮することもできる。心の思いによって、どちらにも向いていくことができるのだというように説かれています。 これは言われてみて、また、このような書物を読んでみれば、そのとおりであり、そういうものかなとも思うのですが、わかっているようで案外気がつかれていないことなのです。そして日常性のなかで、だんだん惰性というものに流され、あるいは慣性のなかで生きているのが大部分の人間ではないでしょうか。自分自身の主体性というものを失い、運命の主人公が自分であるということを忘れて、いつの間にか流されていく、このような人が大多数であろうと思います。 ところがいったんこの事実に気がついてみると、まさにそのとおりであり、この部分についての修行は、実に無限界であることがわかります。人間には限界があるということがよく言われていますが、この心のコントロールの部分については、ほとんど無限に近い自己改善の余地と進化の余地があると言って間違いありません。このことは霊道を開いてみますと、自分の心というものがいっそうはっきりとわかるようになります。自分の心がその思いによってどのように違ってくるのか、また念の性質によってどのような世界に通じていくのか、または通じなくなるのか、これが切実にわかるようになってくるのです。 みなさんは「心のくもり」という言葉を聞かれて、たとえとしてはとらえることができても、実際上、「心のくもり」とは何であるかということがストレートにはわからないことでありましょう。しかし霊道を開いてみると、この「心のくもり」というものは、はっきりと実体あるものとしてあらわれてくるのです。「くもり」があると、まさしく不調和な現象が起きてくるのです。 心の透明感が強くなり、より上のほうというか、神のほうに向いてまいりますと、その心の透明度に応じて、すばらしい現象がはっきりと出てくるわけです。まことに不思議なことですが、この不思議さはいくら探究しても探究しきれない、不思議さであります。 たとえば、これは魂の性質、あるいは神の光の性質にかかわることですが、一九八八年に浜名湖畔において、約二百五十人くらいの参加で研修「愛と悟りを考える」を行なったのですが、その研修会で、かなりの量の金粉が降ったようなのです。講義中であったかどうかは詳しく知らされておりませんが、手のひらのなかに金粉が降りた方が数名におよび、この現象について、いろいろと私に報告される方もおられました。 この現象なども、神の光の創造的性質と関係があるのです。神の心の創造的性質のうちで、自分自身の心をいろいろと変えることができるという部分です。この現象が起こった理由は、この研修会において、講義などを聴いていた人の心が、神の心あるいは高級霊、守護霊や指導霊の心のリズムと波長が合ったからなのです。このように周波数に合いはじめて、器ができてきますと、霊天上界のほうから投げかけてきた光がいろいろなことを現象として起こしはじめるのです。そしてときには、その悦びの表現として、実際に金粉を降らしたりするわけです。 このような現象は過去に何度もありましたし、今後もおそらくたくさん出てくるだろうと思います。「ぽちぼち出始めたな。」というのが私の感想です。たぶんこれからも研修会や講演会などさまざまなところで、このような現象が起こるでありましょう。それは、守護霊や指導霊がこのような現象を実際に起こして、心の本質について人びとを気づかせ「思いというのはそれほど大きな力があるのだな。」ということを実感させるためなのです。 あるいは自分の心が、修行、勉強によってそれだけ進んできており、よい方向にも向いているときに、「やはり、守護霊さんは私の心の状態を知っているのだ。」と、あらためて知らせるためでもあります。けっきょくのところ、金粉が降る状態というのは、守護・指導霊がひじょうに喜んでいて、その合図として降らせているということなのです。 金粉が降らなくても、光が入ってくることを実体験された方もいます。別の研修会「悟りの原点を探る」においても、答案にそうとう多くの方が書かれていました。研修会の最後に一時間ほど、「祈願文」講義を行なったわけでありますが、読み上げているあいだに、「さーっと光が入ってきて、血管のなかで血が煮えたぎってくるようになった。」ということを書かれているのです。これなども神の光が入ってきている現象なのです。 このような瞬間というのは、いうなれば自分の守護霊と自己の三次元的な魂が一体化してきて、通常ある「ずれ」がまったくなくなってきているということを示しているのです。ですから、このような現象が起きる方は、霊道が開けるのは、もはや時間の問題だと考えてほぼ間違いありません。守護霊が合図を送ってきているのです。やがて機会があれば、開いていくようになるでしょう。守護霊の声が聞こえたり、あるいは霊言、自動書記、そうしたことも起きてくるでしょう。 7.心の自由性と悟りの第一関門 魂は自由自在な性質を持っていますが、悪を想ったり働いたりすることもできるのでしょうか。「地獄をつくったり、罪悪を働くことも、魂の創造性によるのか。」といった問いかけに対する答えは、「然(しか)り、然り。否、否。」という答えになります。なぜ然りかといいますと、「魂には創造の自由性が与えられている。自由であるということは、規制がないこと、妨げるものがないことであり、この意味において、もし規制や妨げがあるとするならば、これは自由とはならない。」ということであります。 地獄におちるのがいけないのであるならば、神様は人間にもう悪いことが思えないようにしてしまえばいいではないかという考えもあります。たとえば、ロボットはプログラムさえ間違っていなければ地獄にはおちないであろうと思われるわけです。悪いプログラムをして、どんどんその方向に進めていけば別かもしれませんが、まったく完全な心としてプログラムをピシッと入れておいて、そのとおり動くようにしておけば、地獄に落ちることがないでしょう。 しかし、人間の心には自由性があってロボットのようにはまいりません。ですから、自分の心が自由にならない、制御できないという方は、かえってこの自由性を恨んだりすることもあります。 心というのは、暴れ馬のような感じになるときがあり、このときが修行のなかで最初の関門として、いちばん苦しいときなのです。特に神理に目覚めて、霊言集などを読み、そして、「そうだなあ、そうしなければいけない。」と思いつつ、自分自身の一日の思い、一年の思い、あるいはそれ以上の思いを反省してみると自由になっていないことが多いのです。「自由になるはずなのにならない。」ということで、自分の心が暴れ馬、悍馬(かんば)かのようで、それをおさえようとするのですが、ふり落とされるのです。そのような自由にならない苦しみがあると思います。しかし、これは、修行者として当然の苦しみなのです。 これはどなたにも、過去に大なり小なりはあるでしょうが、悟りというものに縁のあった方はみなこれを通り越してきたのです。ですから、本書をお読みになっている読者のなかにも、こうした心を統御することができずに苦しんでいる方は、そうとういらっしゃると思いますが、まさしくこれが、第一関門であると思わなければいけません。 まず心の自由性に気づくところまではよいのですが、そのあとで、これが思いどおりにならないということで苦しむのです。このギャップがあるわけです。このような思いさえ出なければ、どれほど楽であるかわからない、そして思うまいと思えば思うほど、悪いことを思ってしまったりするのです。また、人を恨んではいけないと思いつつ、どんどん恨んでいったり、いやな人だな、と思ってはいけないと思えば思うほど、いやだな、という気がしてくるわけです。 そして次第しだいにとらわれていき、いつも心がそこに行ってしまう。これが第一関門なのです。どうしてもこれを突破しなければなりません。これを突破したときに、この自由性のもつすばらしさがわかるのです。 この心の自由性のすばらしさというのは、けっきょくこの悍馬、暴れ馬を自由に乗りこなせるようになってくるということなのです。この乗りこなせるようになってくるという心の状態が、一つは平常心ということです。平常心とは、いつも心が波立たないような状態です。これが持てるようになってくるのです。 もう一つは、平常心よりもう少し意志の力が強くなってくる心の状態があり、これが、苦難・困難にさいしての不動心です。これが出てくるのです。平常心というのは、通常の生活のなかで、心が揺れないようにしていくための力でありますが、不動心というのは、もう少し大きな苦難・困難が出たときにも、これに打ち克って磐石(ばんじゃく)、岩石のようにガンとした感じで向かっていくことができる、これが不動心です。 こうしたものが、次第しだいにできてきます。ここに至る途中においては、いろいろな悩みを経過せざるをえません。やはり、これを乗り越えていかないと、ほんものの平常心や、不動心はついてはこないのです。けっきょく、これは何かといえば、運転技術そのものであると言えるでしょう。 8.心の運転技術 人間は自由意思というものを神から与えられましたが、この自由意思とはハンドルさばきのことを言っているのです。自分の心、あるいは魂と言ってもよいのですが、この自分という車の運転をまかされているといえるのです。車のなかに入りドアを締めて、そのあとどう運転するかは、各人の自由であるとされているわけです。 これは実際に私たちが車を運転するときも同じで、いったん車に乗ってしまえば、あとどうするのかは自分次第です。教習所であれば教官がブレーキを踏んでくれたりもするわけでありますが、いったん免許を取って自分の車に乗ったのであるならば、まったく自由に任されるわけです。 極端なことをいえば、人をはね飛ばそうと思えば可能でありますし、また崖から落ちようと思っても不可能ではありません。また、交通違反もいくらでも起こすことができますし、反対に、交通ルールを守ろうと思えば守れるというように自由自在です。まさしく車のようなものです。 けっきょく、何をコントロールするために練習しなさいと言っているのかと申しますと、ハンドルであるということです。「ハンドルさばきの練習をしなさい。交通法規をしっかり学んで、一万キロくらい運転すれば、だいたいどのような事態があっても乗り越えていけるようになりますよ。」ということです。 いつも街中でノロノロ運転ばかりしている人が、はじめて高速道路に出たりすれば、やはり恐れを感じます。また、いつも明るい昼間ばかりに乗っている人が、夜や雨の日に運転すれば、やはり慣れていないために恐れを感じます。それでも、運転しているうちにだんだんと慣れてくる。これと同じようなものです。 したがって、霊格の高い人というのは、運転という意味でたとえるならば、かなり運動神経が発達しているハンドルさばきの上手な方といえましょう。仮免許の試験において、一回で受かる人もいれば、何回も落ちる人もいるといったように、いろいろな方がいらっしゃると思いますが、これは持っている能力の問題であって、なかにはしかたのない部分があります。ですから、自分の悩みがどうにもならなくて苦しんでいるという状態の方がいらっしゃると思いますが、これは車の運転であると思えばよいのです。 運転の免許を取得するときにおいても、年代の数だけかかるとよくいいます。これは、五十代の人は五回くらい受けないと受からないとか、二十代の人は、だいたい二回で受かるとか、十代は一回で受かるとかいう意味でいわれているようです。 同じように、人生においても、四十年、五十年、突っ走ってきてはじめて心の世界に触れたような人である場合、この運転技術をマスターするのには時間がかかるということなのです。早いうちにこの心のコントロールに気がついた人はやはり上達が早いのです。 つまり、二十歳ぐらいでこのような心のコントロールに気づいた人は、そののちそれほど罪を犯すことなく生きていけるというわけです。ところが、五十、六十で初めて神理にふれた人はやはり、ハンディがあります。教習所で免許を取るにしても、やはり五回くらい落ちなければ、受かることができないように、それだけ努力がいるわけです。 9.自由意思の相克によるひずみ 本来は自由であるという以上、それを妨げるものはないはずです。しかし、魂の性質そのもののなかに、積極的に悪を働いたり地獄を創ったりするものがあるかといえば、そのようなものは本来予定されていないのです。つまり、悪とは、「魂そのものに潜む性質ではなくて、その自由意思の相克するところに出てくる歪みである。」ということができるでしょう。 この一行の文を知っているだけで、これもひとつの悟りとなります。簡単な悟りではありますが、これを一〇〇人の人に聞いたならば、九九人は知らない悟りであると思います。人間について考えたことのない人は論外として、これについて考えたことのある人のなかでさえも、性善説であるとか、性悪説であるとか、あるいは両方の折衷であるとか、さまざまな人がいるのです。 実際にキリスト教で専門にやっている人であっても、この悪の問題については答えきれない面があるのです。その理由としては、やはり魂そのものの性質として、魂そのもののなかに悪があると考えるからなのです。しかしこれは神の創造であるとしたときに不可解になるわけです。神が悪そのものを創られたことになるのであろうか。それを認めれば、神の御心のままに世界をよくしていこうとする考えそのものがまったく空しくなってしまいます。 あるいは、もうひとつ別な考え方として、悪というものは外部にあるという考え方もあると思います。ギリシャ神話のなかに、パンドラの箱に関する伝説がありますが、何かの拍子で外部に悪が出て、それがばらまかれて人間が汚染されたというような考え方です。これは、たとえば文明・文化が進歩したことによってそのような悪が出てきたのだとするというような外部要因に帰する考え方であります。これには多少の意味合いもあるかと思いますが、しかしほんとうのところ、他人の存在とのかかわりにおいてはじめて悪はその姿を現わしてくるということなのです。 たとえば、だれもいない建物のなかで、一人で悪をなそうとおもってもなかなか難しいのです。物理的な破壊はもちろん可能でありますが、それ以外においては難しいと思います。ところが、人が大勢いるところでは、人を怒らせようと思えばいくらでもできますし、その人をふんがいさせて、夜眠れないようにしようと思えばすぐにできるわけです。いくらでもできるのです。試しに、まわりの人の頭をコツンとたたく、それだけで地獄は発生してきます。このように、他人との存在のかかわりで、悪は発生してくるのです。 10.地獄界からは生まれ変わってこない理由 「悪というものは、他人との存在のかかわりで発生する。」と思っただけでも、だいぶ心が楽になる面があると思います。もともと魂のなかに悪が埋め込まれている、あるいは地上には地獄から生まれ変わってきている人が半分はいると思えば、これはひじょうにつらいことです。 私もこのような神理の世界に入る前には、ある程度宗教的なものや、魂も信じていましたが、よくある二分論、二分法に陥っておりました。すなわち、天国から生まれる人もいるけれども、やはり地獄から出てくる人もいるのであろうと思っていたのです。そうして、人をじっと見ていて、「あの人は地獄から出てきたような顔をしている。」などといったように、人間評価をするときに、悪そうな人は地獄から生まれてきたのだと思ったわけです。だいたい、このように人間の色分けが始まるわけです。そうしますと、永遠にほんとうの意味で人を愛することはできなくなってしまいます。 そして、人を愛することができないだけではなく、自分自身の魂の進歩が止まってしまうのです。色分けした段階で満足して、自分は人間ができてきたような気になってしまうのです。人物ができてきて、「よくわかる。自分の前にいる○○さんは人相がよくないから地獄から出てきたに違いない。」などというように思って、それでだいたい人間を見てわかったような気になって満足してしまうわけです。これは、やはり最初の迷いの段階です。 しかし、もう少し実際の勉強を続けていくにつれて、「やはり、地獄界からは生まれ変わってくることはない。」ということがわかりました。これは、悪霊の多くを体験してわかったのです。もし彼らが、地獄から生まれ変わってくることができるのであれば、赤ちゃんとして悪霊が誕生してくるはずです。憑依などする必要はありません。生まれ変わってくればよいのですから。生まれ変わってもう一回やり直せばよいのです。人生に失敗して、死後、地獄に落ちて苦しいのであれば、赤ちゃんに宿ってもう一回やり直せれば楽なのです。 しかし憑依して出てくるということは、基本的にそれができないということなのです。ですからあのような悪さをするのです。そう気がついて、「ああ、やはり地上に出てきている人は、みんな最低限度は悟って天国から来たのだな。」と悟ったときにはじめて「ユートピアを創っていこう。」という気力が湧いてまいりました。そうではなくて、半分くらいは地獄から出てきていると思っているならば、やはりいやなものです。このような考え方を持たないだけでも、そうとう心は楽になると思います。 11.善悪を人間関係の調整論としてとらえる したがって、善悪の問題を存在論にしないで、調整論とすることです。人間関係の調整論として善悪の問題を考える。これはひじょうに大切な考え方だと思います。そうしていけば、無限に研究の可能性があるのです。 たとえば、いやな人が出てきた場合、もともとこれはそういういやな人であるのだからいやなのだと思うかわりに、やはり彼と私にどこか合わないところがあるからこうなるのだろうと思う。ここに一つの魂の発展の余地があるわけです。どうしてこのようないやな感情が起きるのか。相手は本来悪い人ではないはずです。なぜかといいますと、自分とは合わなくとも、ほかにはその人を好きな人が絶対におり、友達がいたり、奥さんがいたりするわけですし、一概には自分の好みや趣味だけでは否定できないところがあるからなのです。やはり、その人のことをいい人だと思う人もいるのですから、関係論において何か問題があると考えなければいけないのです。そうすれば、そこに何か方法があるであろう。それを考えてみよう。自分にも何か問題があるのかもしれない。このように考えていくときに、魂の発展の余地は出てくるのです。 このように考えずに、当初からそうだと思えば、もう救いがないのです。ただ、これを某団体のように、本来悪はないのだけれども、「本来悪なし」の一点張りで通せばどうかというと、やはりこれは難しい面があります。現に地獄というものもありますし、悪霊というものがあるというのも事実です。これには目をつむることはできないのです。現実にないという人にも憑いていたりすることが多いのですから、しかたありません。このような存在がある以上は、あるものはあると現実的には認めて、これをなくすようにしなければいけないと思います。 光一元的な考え方も、存在論や状態論というもので善いものしかないというように考えたとき、やはり論理的にミスはあると私は考えます。本来はもちろんそのとおりだけれども、現実はどうかといえば、現実にはある。現実が惑いのは、悪人がいるのではなくて、めぐりあわせで、人間関係あるいは環境のなかで、そのようなひずみが出てきているのだと考えるからこそ、乗り越えていけると考えることができるわけです。私は、このあたりがやはり真理だと思っています。 12.心の光明をつくり出す力 二番目は、神の光の集中・発散です。これはまた、『太陽の法』における、如来や菩薩についての説明において、「如来や菩薩といわれる方は、神の光を集中・放射するための巨大な機能をもっていて、ほかの人びとに光を送りこむことができるのです。つまり、人びとの心に光明をつくり出していくことができるのです。」と定義されています。これは神光物理学的にとらえたわけです。如来や菩薩というものを、肩書きのようにとらえる方もいらっしゃると思いますが、物理学的に機能としてとらえると、光を送りこむ力があるということです。 「自分は如来だ、菩薩だ。」と言っている人で、その人と会ったときにいつも心が暗くなるような人であったら、やはりそれは違います。そこには問題があるわけで、逆に光を吸収しているのではないかと思われるのです。ですから、この世的にはなかなかみなさんにはわからないでありましょうが、その人が入ってくるとぱっと明るくなるとか、いつも変わらずみんながうれしそうになるという人は光が出ている可能性が強いわけです。このようなタイプの人は光が出かかっているか、あるいは出ているのです。 如来、菩薩と言われるためには、多くの人を幸せにするだけの力がなければいけません。実際に人びとが光輝いてこなければいけないわけなのです。そして、そのための修行があるわけです。これも訓練を積んでいき、実力がついてくればついてくるほど大きな光が与えられます。その人自身の力ではなくても修行が進むにつれて、光の通路としての機能が大きくなり、より多くの光を送れるようになっていきます。 パワトロンについては、これはもちろん地上的な機械がついているわけではなくて、霊的に見ますと、象徴としてそのようなものがついているということなのです。したがって、これは悟りを開くことによって持つことができるのです。 たとえば、みなさんが悟って菩薩になり、いろいろなところで人を導いているとしましょう。そこでみなさんが導いているときには、守護霊や指導霊が加勢しているわけです。そして、光をそういうところを通してみんなに流すようになってくるのです。その姿を霊的な目で見ると、パワトロンというものがついているわけです。これは、やがてこのような体験をされる方も多く出てくるでありましょう。 講師にもいろいろな話をさせております。講師の話を聞いていて、みなさんに光が入ってきはじめたら、そろそろパワトロンがつきはじめたかと考えていただいてよいと思います。このパワトロンは、本来的な光の天使でもともと持っている方もいらっしゃいますが、この世で悟り、光の天使の力を持つようになれば、後天的にできてくるのはもちろんのことです。それは、神の光を受けられるようになって、その光を増幅する霊的な装置ですから、そのための機能としてついてくるのです。 13.悪霊の活動エネルギー さて、その逆のことが、地獄の悪霊の存在について言うことができます。悪霊については、徹底的にセミナーなどでまとめてとりあつかいたいと思っています。あまり気分はよくないのですが、一回くらいは「悪霊に打ち克つ法セミナー」というようなものを行なってみてもよいのではないかと思います。 基本的には、地獄界というところは雲で覆われているようなところで、神の光が差さないでいるのです。そこで彼ら自身はご飯も食べないでいったい何をして生きているかということですが、やはり、エネルギー体である以上、活動のエネルギーが必要です。生命エネルギーそのものは不滅であって、もちろん彼らも持っているのですが、生命エネルギー以外の活動エネルギーは、主として地上界から補給しているのです。もちろん、地獄界のなかでも、相互に摩擦しあって発電しているのかもしれませんが、基本的には地上界の悪想念からエネルギーを補給しているということです。 念力というものがあるように、念(おも)いの力というのはほんとうに存在するのです。みなさんの念いにも、力があるのです。のちほど、一念三千の話についても触れますが、念いそのものが天上界を向いていれば、天上界の諸霊たちもひじょうに喜びが増して、力が増えてまいります。先祖供養においても、本来は地上の人の感謝の念が伝わっていくものであって、天上界にいる人であってもこの感謝の念によってエネルギーは増していくのです。 如来や菩薩の方から霊言をいただいて、それに対し感謝の念を送りますと、彼らもうれしいのです。ぱっと顔がほころんで、パワーと元気が出るようです。たとえば私たちが仕事をしていて、「よくできたね。」と言われるとうれしい感じがします。それでまたバリバリとがんばったりするのと同じです。このように高級諸霊たちであっても、地上の人からほめられると、やはりうれしいところがあるのです。 ですから、みなさんがたとえ守護霊と話ができなくとも、実に予想外にうまくいったようなときや、難問題が急転直下解決したり、人間関係がこんなにすばらしくなったというときには、自分だけの力であると思ってはいけません。そこに守護霊のなんらかの働きかけがあったと思わなければいけないのです。 このようなことがあったときに、守護霊に「ありがとうございました。」と言えば、やはり彼らもうれしいのです。このとき守護霊の頭からもまたぱっと光が出るのです。感謝の念を送られた分だけ、いわば電気量が増えるのです。それでよろこんで、またがんばるわけです。やはり守護霊にもどんどん働いてもらうくらいでなければいけません。認められると、まめに働くようになります。その意味で、感謝ということはひじょうにだいじであると思います。 14.憑依霊の目的 地獄霊はその逆です。けっきょく、何のために憑依するのかということですが、憑依の意味には、二種類あるのです。一つは、彼らの多くは地上に執着を持っていて、地獄の苦しさから抜け出して地上人に憑いていると、地上に生きていたときと同じ気持ちを味わうことができるからなのです。 たとえば、酒飲みの霊が憑いて、フラフラと念がくれば、酒を飲んでいる気分になります。また、ケンカ好きな霊が、やくざに憑いていれば、何となくその気分を味わうことができるわけです。このように、変な自己実現でありますが、憑いている人の気分を味わうことができるのです。 肉体がなくなっていることに気がつかない霊は、気分的にお腹がすいているものもいて、このような霊が憑いたりすると、いろいろな変わったものを食べたくなったりすることがあります。 以前に読んだ記事ではありますが、東北のほうでは昔、生き仏というかミイラになる風習がありました。お寺のお坊さんが、即身成仏といって瓶の中に入って埋められ、食事を断って死んでいく修行があったのです。このミイラを掘り出して、デパートの展示会かなにかで置かれていて、その前を通った人が、ミイラ霊に憑依されて急に食物が食べたくなり、五人分、六人分と食べてしまうことがありました。 突然、食べものの嗜好(しこう)や量が変わったり、酒の飲めない人がやたらに飲みはじめたりするというようなこともあります。ミイラ霊に言わせれば、実際は満たされないのでありますが、そのときだけでも食べて満足している気になっているのです。このように苦しさから逃れて地上人の気分を味わうという意味が一つあります。 もう一つは、地獄には悪想念というものが渦まいており、それがエネルギー源になっているわけですが、それだけではものたりず、ヒルが血を吸うように、電気を盗みにくるかたちで、地上へと積極的にエネルギーを補充にくるものがいるのです。 たとえば二癇癪(かんしゃく)もちの方、自分を失って暴れてハッと我にかえるような人の場、だいたいエネルギー量、発電量が多いので、このような人から充電式電気カミソリのようにエネルギーの充電ができるのです。そしてまた地獄へ行ってひと暴れすることができます。そのような繰り返しをしているのです。 ですから、自分が押さえきれなくて困るような人というのは、彼らにエネルギーを吸われていると思ってください。
https://w.atwiki.jp/sylvan/pages/122.html
ガラモールの伝令ガリオース (英:Garamor's Herald Gariott) 使徒ガラモールはクルマ湿地を監視するために自分の代わりとして伝令を送りました。 ガラモールの伝令 ガリオースはモンスターで構成された巨大な魔法陣のポイントを成すクルマ湿地エリアの監視役です。 ガリオースは巨大な尾のような触手を持っており、ガラモールの機械化兵たちが欲する肉体の調達を手助けしています。 [SS取得]US_Valiance 情報 レベル97 魔法生物 闇属性 配置 ディオン Dion/クルマ湿地 Cruma Marshlands 関連 クルマ湿地 Cruma Marshlands、使徒ガラモール Disciple Garamor 実装 Raiders~ 備考 バルバシオン (英:Varvacion) 使徒ガラモールの機械化兵の1体。 バルバシオンはディオンで起きた農民の反乱で戦った農民の魂を侵食して現世界に足を踏み入れました。 ディオン領主に対する怒りに捕らわれた農民の精神を喰らい、肉体も奪って現在のような姿をとっています。 [SS取得]US_Valiance 情報 レベル97 ヒューマノイド 闇属性 部下 手下モニジャック Monisac、手下モニシュ Monishe、手下ビノジャック Vinosac、手下ビノシュ Vinosheのうちからランダム構成で2体 配置 ディオン Dion/クルマ湿地 Cruma Marshlands 関連 農民の反乱 Peasant Revolutionary、使徒ガラモール Disciple Garamor 実装 Raiders~ 備考 部下の構成はリスポーン毎に変わります。 バールモニ (英:Varmoni) 使徒ガラモールの機械化兵の1体。 バールモニはディオンで起きた農民の反乱で戦った農民の魂を侵食して現世界に足を踏み入れました。 ディオン領主に対する怒りに捕らわれた農民の精神を喰らい、肉体も奪って現在のような姿をとっています。 バールモニは他の機械化兵と異なり、アンドロイド系の部下を連れています。 [SS取得]US_Valiance 情報 レベル97 ヒューマノイド 闇属性 部下 手下モニジャック Monisac、手下モニシュ Monishe、手下ビノジャック Vinosac、手下ビノシュ Vinosheのうちからランダム構成で2体 配置 ディオン Dion/クルマ湿地 Cruma Marshlands 関連 農民の反乱 Peasant Revolutionary、使徒ガラモール Disciple Garamor 実装 Raiders~ 備考 部下の構成はリスポーン毎に変わります。説明にある「アンドロイド系」の意味は判りません(初期設定?)。実際に連れている部下は他と共通です。 バルビノース (英:Varvinos) 使徒ガラモールの機械化兵の1体。 バルビノースはディオンで起きた農民の反乱で戦った農民の魂を侵食して現世界に足を踏み入れました。 ディオン領主に対する怒りに捕らわれた農民の精神を喰らい、肉体も奪って現在のような姿をとっています。 バルビノースは機械化兵バルビノの上位で、より多くの部下を持つことができます。 [SS取得]US_Valiance 情報 レベル97 ヒューマノイド 闇属性 部下 手下モニジャック Monisac、手下モニシュ Monishe、手下ビノジャック Vinosac、手下ビノシュ Vinosheのうちからランダム構成で4体 配置 ディオン Dion/クルマ湿地 Cruma Marshlands 関連 農民の反乱 Peasant Revolutionary、使徒ガラモール Disciple Garamor 実装 Raiders~ 備考 部下の構成はリスポーン毎に変わります。 バールモニア (英:Varmonia) 使徒ガラモールの機械化兵の1体。 バールモニアはディオンで起きた農民の反乱で戦った農民の魂を侵食して現世界に足を踏み入れました。 ディオン領主に対する怒りに捕らわれた農民の精神を喰らい、肉体も奪って現在のような姿をとっています。 バールモニアは機械化兵バールモニの上位で、より多くの部下を持つことができます。 [SS取得]US_Valiance 情報 レベル97 ヒューマノイド 闇属性 部下 手下モニジャック Monisac、手下モニシュ Monishe、手下ビノジャック Vinosac、手下ビノシュ Vinosheのうちからランダム構成で4体 配置 ディオン Dion/クルマ湿地 Cruma Marshlands 関連 農民の反乱 Peasant Revolutionary、使徒ガラモール Disciple Garamor 実装 Raiders~ 備考 部下の構成はリスポーン毎に変わります。 バールカルロン (英:Varkaron) 使徒ガラモールの機械化兵の1体。 バールカルロンはディオンで起きた農民の反乱で戦った農民の魂を侵食して現世界に足を踏み入れました。 ディオン領主に対する怒りに捕らわれた農民の精神を喰らい、肉体も奪って現在のような姿をとっています。 バールカルロンはガラモールの機械化兵の中でも最上位であり、部下を制限なしで生成して持つことができます。 [SS取得]US_Valiance 情報 レベル97 アンデッド 闇属性 部下 バールカルロンの手下カルノン Varkaron's Minion Karnon 配置 ディオン Dion/クルマ湿地 Cruma Marshlands 関連 農民の反乱 Peasant Revolutionary、使徒ガラモール Disciple Garamor 実装 Raiders~ 備考 攻撃すると大量の部下を召喚します。 堕天使ティエラー (英:Fallen Angel Tiera) 使徒ラミアはエンジェルの中でも心の弱い者に目を付け、その心に闇を植え付けました。 そしてティエラーは最終的に闇に染められ堕天使に落ちてしまいます。 ティエラーは同じくラミアによって堕天使や悪魔にされた天使たちと共に天上界と現世界をつなげる門を突破して聖者の渓谷に降りて来ました。 彼らが聖者の渓谷に降りてきた時、空から天上界を守っていた天使たちの死体がぱらぱらと落ちてきたと言います。 [SS取得]US_Valiance 情報 レベル98 ディヴァイン 闇属性 配置 ルウン Rune/聖者の渓谷 Valley of Saints 関連 エンジェル Angel、使徒ラミア Disciple Lamia 実装 Raiders~ 備考 悪魔になったガブリア (英:Corrupted Goblier) 使徒ラミアはエンジェルの中でも心の弱い者に目を付け、その心に闇を植え付けました。 その際、ガブリアは完全な闇に覚醒して悪魔になってしまいます。 悪魔になったガブリアはヘルズ ゲートを開いて悪魔を召喚することができるようになり、召喚した悪魔を自分の直属の部下にしました。 ガブリアは同じくラミアによって堕天使や悪魔にされた天使たちと共に天上界と現世界をつなげる門を突破して聖者の渓谷に降りて来ました。 彼らが聖者の渓谷に降りてきた時、空から天上界を守っていた天使たちの死体がぱらぱらと落ちてきたと言います。 [SS取得]US_Valiance 情報 レベル98 デーモン 闇属性 部下 アエンカゼル ウォーリア Aenkazel Warrior、アエンカゼル アーチャー Aenkazel Archer、アエンカゼル ウィザード Aenkazel Wizard、アエンカゼル プリースト Aenkazel Priestのうちからランダム構成で2体 配置 ルウン Rune/聖者の渓谷 Valley of Saints 関連 エンジェル Angel、使徒ラミア Disciple Lamia 実装 Raiders~ 備考 部下の構成はリスポーン毎に変わります。 悪魔になったチェルキア (英:Corrupted Cherkia) 使徒ラミアはエンジェルの中でも心の弱い者に目を付け、その心に闇を植え付けました。 その際、チェルキアは完全な闇に覚醒して悪魔になってしまいます。 悪魔になったチェルキアはヘルズ ゲートを開いて悪魔を召喚することができるようになり、召喚した悪魔を自分の直属の部下にしました。 チェルキアは同じくラミアによって堕天使や悪魔にされた天使たちと共に天上界と現世界をつなげる門を突破して聖者の渓谷に降りて来ました。 彼らが聖者の渓谷に降りてきた時、空から天上界を守っていた天使たちの死体がぱらぱらと落ちてきたと言います。 [SS取得]US_Valiance 情報 レベル98 デーモン 闇属性 部下 アエンカゼル ウォーリア Aenkazel Warrior、アエンカゼル アーチャー Aenkazel Archer、アエンカゼル ウィザード Aenkazel Wizard、アエンカゼル プリースト Aenkazel Priestのうちからランダム構成で2体 配置 ルウン Rune/聖者の渓谷 Valley of Saints 関連 エンジェル Angel、使徒ラミア Disciple Lamia 実装 Raiders~ 備考 部下の構成はリスポーン毎に変わります。 悪魔になったハルテモン (英:Corrupted Harthemon) 使徒ラミアはエンジェルの中でも心の弱い者に目を付け、その心に闇を植え付けました。 その際、ハルテモンは完全な闇に覚醒して悪魔になってしまいます。 悪魔になったハルテモンはヘルズ ゲートを開いて悪魔を召喚することができるようになり、召喚した悪魔を自分の直属の部下にしました。 ハルテモンは同じくラミアによって堕天使や悪魔にされた天使たちと共に天上界と現世界をつなげる門を突破して聖者の渓谷に降りて来ました。 彼らが聖者の渓谷に降りてきた時、空から天上界を守っていた天使たちの死体がぱらぱらと落ちてきたと言います。 [SS取得]US_Valiance 情報 レベル98 デーモン 闇属性 部下 アエンカゼル ウォーリア Aenkazel Warrior、アエンカゼル アーチャー Aenkazel Archer、アエンカゼル ウィザード Aenkazel Wizard、アエンカゼル プリースト Aenkazel Priestのうちからランダム構成で4体 配置 ルウン Rune/聖者の渓谷 Valley of Saints 関連 エンジェル Angel、使徒ラミア Disciple Lamia 実装 Raiders~ 備考 部下の構成はリスポーン毎に変わります。 悪魔になったサルボース (英:Corrupted Sarboth) 使徒ラミアはエンジェルの中でも心の弱い者に目を付け、その心に闇を植え付けました。 その際、サルボースは完全な闇に覚醒して悪魔になってしまいます。 サルボースは聖者の渓谷に降りるため天上界と現世界をつなげる門の前で天使と戦闘になった時に両足を不自由にされました。 それからは地獄で作られた椅子に自分の体を吸収させて今のような姿になったと言います。 悪魔になったサルボースはヘルズ ゲートを開いて悪魔を召喚することができるようになり、召喚した悪魔を自分の直属の部下にしました。 [SS取得]US_Valiance 情報 レベル98 デーモン 闇属性 部下 アエンカゼル ウォーリア Aenkazel Warrior、アエンカゼル アーチャー Aenkazel Archer、アエンカゼル ウィザード Aenkazel Wizard、アエンカゼル プリースト Aenkazel Priestのうちからランダム構成で4体 配置 ルウン Rune/聖者の渓谷 Valley of Saints 関連 エンジェル Angel、使徒ラミア Disciple Lamia 実装 Raiders~ 備考 部下の構成はリスポーン毎に変わります。 堕天使イロウール (英:Fallen Angel Eloule) 使徒ラミアはエンジェルの中でも心の弱い者に目を付け、その心に闇を植え付けました。 イロウールは上級天使でしたが最終的には闇に染められ堕天使に落ちてしまいます。 イロウールは堕天使になるとすぐに自分に従っていた「翼のペントミノ」たちを闇に染め、そして忠誠をつくすよう仕向けました。 イロウールは同じくラミアによって堕天使や悪魔にされた天使たちと共に天上界と現世界をつなげる門を突破して聖者の渓谷に降りて来ました。 [SS取得]US_Valiance 情報 レベル98 ディヴァイン 闇属性 部下 翼のペントミノ Wing Pentomino 配置 ルウン Rune/聖者の渓谷 Valley of Saints 関連 エンジェル Angel、使徒ラミア Disciple Lamia 実装 Raiders~ 備考 攻撃すると大量の部下を召喚します。 ©2003,2014 NCsoft Corporation.