約 217,958 件
https://w.atwiki.jp/forsale-lawyer/pages/24.html
危険人物の弁解にあらず 明治四十何年か、大逆事件頃、一方僕は甲府で三百円余も貯めて東京は帝都の真只中、銀座大通裏へ移転した。巣拵へが出来ぬ前に隣家へ交番所が出来上つたには少からず驚いたが、何却つて愉快を感じた。 其後事件の話は益々拡大する、一日偶六法全書を見ると刑法第七十三条には危害を加へんとしたる者は死刑に処すとある。甲府検事局で諏訪の秘密結社事件と僕及び新村忠雄の関係、新村忠雄が途中僕の処に泊まつた事等取調べられた事が浮び出す、其以来警察の活動状態は遂日本の生糸王片倉兼太郞翁をして、ナーニ、今朝彌なら金の番の外出来るもんジヤー、ねーに、役人ニヤー、人は使へねーナー、と嘆せしめたと謂ふ事に思ひ付く、流石平素官僚裁判の危険を信用する僕丈に、一時に氷の中へ突落され首丈冷蔵庫へ入れられた様にヒヤリとし、我知らず手で頭を撫でて見た。若しあの時新村が僕に一言何か話したら如何。逆謀を告げらるるに会ふも敢て之を拒まずと云ふ同一判決文になるは、陪審なき官僚裁判当然の帰結である。併し優れて臆病の僕だが持前の意地張を廃めて弁解をする勇気は出なかつた。 然るに其後明治大正年間日本社会党を届出で自ら総裁となり原敬、加藤高明、犬養毅等に総裁会議の招集状迄出して見たが結社には解散も禁止もなく会議には政府も政党もテンデ相手にせず、大臣等も白昼公然日本に社会党なる政社も結社もなしと声言し、警視庁にも遂見限られたる今日の身分となる迄には色々ベラ棒の面白い話があるが行数終り。 <山崎今朝弥著、弁護士大安売に収録>
https://w.atwiki.jp/ng3ggc/pages/3930.html
名稱:子文 伺服器及顏色:5服綠類型:文 性別:男 生命值:407 武力:33 智力:22 防禦:12 敏捷:35 運勢:83 敘述:據《左傳·宣公四年》,楚國大夫若敖娶鄖國妻子,生了鬥伯比。若敖死後,鬥伯比和其母歸於鄖國。後來鬥伯比和鄖子的女兒私通,生了一個孩子,於是鄖 夫人派人把這個孩子遺棄在雲夢澤。但出乎意料,一只母老虎收養了這個孩子,給他餵奶。某日,鄖子去打獵,看到這種景象,深感恐懼,趕緊回宮,鄖夫人便把事 情始末告訴崿子。鄖子最終決定讓他女兒嫁給鬥伯比,去雲夢澤把孩子接回來。因為母老虎給這個孩子餵奶,所以給他起了谷於菟這個名字(楚語之谷為“乳”,於 菟為“老虎”之意)。
https://w.atwiki.jp/forsale-lawyer/pages/57.html
寄せ鍋 『法治国』から壱千萬円呉れたら何うすると云ふて来たから、ホントに呉れたら、先づ第一に日本国中の新聞紙へ借金倍返しの全面広告を出し、次にスミス飛行大会を安会費で催し、東京市中へ広告ビラをまく、ソレデ残金あれば『平民法律』の発行所を市外へ移さずに保証金を積む、其余は電話と時計を一時に買込む、残金は確い銀行へ預けて小切手が振出せる契約をして見度い、ソレデモ尚残金があるものなら余り損になら無い程度で日本政府をジラしたり世間を騒がして見度い、尤も残金が何十萬何百萬とあるものなら、物価騰貴の今日故一人頭千円と見て国会議員二百人を買収し帝国議会を左右して見る、議会が解散になれば又買収する、又解散になれば又又買収する。と云ふ返事をした。 明治四十二三四年頃東京弁護士会の両派が例の役員競争で鎬を削つてる真最中、花井弁護士を会長に松田(源治)弁護士を副に其他夫々評議員を候補に推薦して、コトシヤコウデモマタライネンハシヨクンノジクコウゼヒタノム東京弁護士会役員選挙理想選挙団本部印と云ふ葉書を配つた者があり、アレは山崎だ山崎でないと色々邪推憶測されて随分大した迷惑もなかつたが、アレは実際僕ではある。 大逆事件判決書の私の問題の部分は、被告新田融は被告太吉が其目的爆裂薬を装填して官衙富豪を焚椋する等の暴挙の用に供せんと欲するに在ることを推知したるに拘はらず、太吉がブリキ製小缶の製作を依頼したるに之を承諾して製造し与へ。被告新村善兵衛は暴挙の用に供すべき爆裂薬の製造に使用すべきものと推知したるに不拘、被告忠雄の依頼を受け八重治より薬研を受取り、太吉は其薬研を以て大逆罪の用に供せんと欲したる鶏冠石を磨砕したり。法を案ずるに被告融の行為は刑法第三十八条第二項爆発物取締罰則及び刑法第十九条第二十条被告善兵衛の行為は右の外尚爆発物取締罰則従犯規定(大逆罪の従犯にあらず)を適用すべきものとす、であるが此犯罪事実は大審院の特別権限に属しない。 <山崎今朝弥著、弁護士大安売に収録>
https://w.atwiki.jp/rixyougi1234/pages/145.html
かつて北方辺境を統治していた大貴族の家系。サザン家と並ぶ皇帝家の分家のひとつ。 代々の当主は名君として領民たちから慕われていたという。数代に渡って偉大なる《蒸気王》チャールズ・バベッジと交流があり、開発力と生産性に優れた碩学式機関工場を領内に複数有していたとも言われる。 2190年代に起きた皇帝暗殺未遂事件の首謀者であるとして、当時の宰相級貴族バイロン卿によって当時の当主アルベール・アステア公が糾弾され、家族諸共処刑された。 反バイロン派貴族によって、この一件は陰謀であるという糾弾が為されたものの、無実を証明するためにと用意された証拠物件がことごとく焼失・紛失するという事態に遭い、北央歴2195年、アステア家は協力貴族の尽力むなしく正式に断絶となった。 公子のひとりがいずれかの《十碩学》によって助け出されたという噂が当時の帝都を駆け巡り、「呪われた北方王家の王子がいずれ帝都を炎の海に沈めんがために舞い戻る」とペイパーバックで騒ぎ立てられたこともあったが、今ではそれを語る者もない。 当時および現在の帝国では、皇帝暗殺未遂事件とアステア家の断絶を謀略であると叫んだのは、反バイロン派でありアステア家と親しかった一部貴族と、幾つかのペイパーバック誌だけであった。大衆も、多くの貴族たちも疑問を抱かなかった。 1902年時点に至っては初等教育書にはっきりと“アステア家による大逆事件・皇帝暗殺未遂事件”と記されている。当然、疑う者はいない。 しかし、アステア家の反逆を防いだといわれるバイロン卿が没すると新たに宰相に就任したエイダ・オーガスタ・バイロンによって「アステア家の反逆疑惑はバイロン卿による捏造である」と発表されアステア家は名誉を回復した。 そして1908年、公子カルベルティ・アステアとコーネリア・イル・リクール妃の婚礼でアステア家は復興を果たす。 名前 コメント 合計: - 今日: - 昨日: -
https://w.atwiki.jp/youfuji/pages/4.html
日清・日露戦争 今まで必死に、岩倉使節団を海外に送ってみたり、鹿鳴館を作って日本進んでるのよー。と無駄なアピールをしてみたりして、条約改正に喘いでた日本。 ノルマントン号事件を契機に不平等条約の解消が始まっていくのです。 条約改正 領事裁判権の撤廃(1894) イギリスとの条約で領事裁判権を撤廃。ノルマントン号事件が契機になったと思われる。 関税自主権の回復(1911) アメリカとの間で関税自主権を回復。 そして日本は列強へと突き進んで行く 日清戦争(1894~95) 朝鮮をめぐり、清と対立した日本は、甲午農民戦争が起きたのを良い機会だと思い清に攻めた。この争いに日本は勝利。 下関条約を結び、 朝鮮の独立を認諾。 遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に譲渡。 賠償金三億円の支払い。 を、行わせる。 しかし、ロシア・ドイツ・フランスの三国干渉により、遼東半島は清に返還。 日露戦争(1904) ※日英同盟・・・ロシアに対抗するためイギリスと締結。 日露戦争:韓国・満州をめぐりロシアと対立、開戦。 アメリカの仲介で ポーツマス条約 韓国での日本の優越権の承認。 旅順・大連の租借権の承認 南満州鉄道の鉄道利権を譲渡 北緯50度以南の樺太(樺太の南半分)を日本に譲渡 の内容で結ぶ。 韓国を植民地化 ポーツマス条約で韓国での優越権を認められた日本は、韓国併合(1910)。 日本人として教育するため、韓国人を日本語で教育したり、強制労働を行わせたりした。 ちなみにこのころ中国では、三民主義を謳う孫文を中心とし、辛亥革命(1912)が起こる。諸外国の帝国主義の流れや、日清戦争による敗北により国内の政治が混乱したが故だろう。 日本における産業革命 日清戦争のころ軽工業、賠償金による資金を得、また戦争のために日露戦争の頃には重工業が発達。鉄鋼の時給のため八幡製鉄所設立。 三井・三菱などの大資本家は、財閥形成。 社会運動 公害問題の発生 産業革命により、公害問題も発生してくる。 有名なのは、足尾銅山鉱毒事件ですな。田中正造が主となり、足尾鉱山閉山を求めた高いました。 そして労働争議の発生。社会主義社を弾圧する大逆事件なんつーのもおきました。 そーいえば、このころ(1907)義務教育が6年になります。大衆文化も発達。
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2002.html
天皇と東大 大日本帝国の生と死 アマゾン(上) アマゾン(下) 目次 上巻 第一章 東大は勝海舟が作った 第二章 明治四年、東大医学部は学生の八割を退学させた 第三章 初代学長・加藤弘之の変節 第四章 『国体新論』と「天皇機関説」 第五章 慶応は東大より偉かった 第六章 早大の自立精神、東大の点数主義 第七章 元落第生・北里柴三郎博士の抵抗 第八章 「不敬事件」内村鑑三を脅した一高生 第九章 東大国史科の「児島高徳抹殺諭」 第十章 天皇「神格化」への道 第十一章 日露開戦を煽った七博士 第十二章 戸水寛人教授の「日露戦争継続論」 第十三章 戸水事件と美濃部達吉 第十四章 元白虎隊総長・山川健次郎の奔走 第十五章 山川健次邸と超能カ者・千里眼事件 第十六章 沢柳・京大総長の七教授クビ切り事件 第十七章 東大経済は一橋にかなわない 第十八章 大逆事件と森戸辰男 第十九章 大正デモクラシーの旗手・吉野作造 第二十章 "右翼イデオローグ”上杉慎吉教授と大物元老 第二十一章 元老・山県有朋の学者亡国論 第二十二章 血盟団事件に参加した帝大生 第二十三章 東大新右翼のホープ・岸信介 第二十四章 新人会きっての武闘派・田中清玄 第二十五章 三・一五共産党大検挙の波紋 第二十六章 河上肇はなぜ京大を去ったか 第二十七章 河上肇とスパイM 第二十八章 血盟団と安岡正篤 第二十九章 昭和維新の最先端にいた帝大生・四元義隆 第三十章 国家改造運動のカリスマ・井上日召 第三十一章 血盟団事件 幻の"紀元節テロ計画” 第三十二章 共産党「赤化運動」激化と「一人一殺」 第三十三章 血盟団を匿った二人の大物思想家 第三十四章 権藤成卿と血盟団グループの壊減 第三十五章 日本中を右傾化させた五・一五事件と神兵隊事件 下巻 第三十六章 滝川事件 鳩山一郎と美濃部達吉 箆三十七章 京大・滝川幸辰教授はなぜ狙われたか 第三十八章 狂信右翼・蓑田胸喜と滝川事件 第三十九章 寛克彦と「神ながらの道」 第四十章 美濃部達吉、統帥権干犯問題を撃つ 第四十一章 美濃部達吉の大反論「一身上の弁明」 第四十二章 ゾルゲ・昭和天皇・平沼騏一郎 第四十三章 天皇機関説論争が招いた二・二六事件 第四十四章 昭和天皇と満州事変 第四十五章 東条が心酔した平泉澄の皇国史観 第四十六章 神官・平泉澄と人間魚雷「回天」 第四十七章 二・二六事件 秩父宮と平泉澄の密談 第四十八章 公爵近衛文麿と平泉澄 第四十九章 終戦阻止クーデタ計面と平泉門下生 第五十章 特攻と玉砕 平泉澄の戦争責任 第五十一章 東大法学部のタブーと恥 第五十二章 矢内原忠雄 キリスト者としての反体制 第五十三章 「太った豚」による矢内原忠雄追放劇 第五十四章 経済学部教授を獄中に葬ったスパイH 第五十五章 経済学部三国志、宿命の権カ闘争 第五十六章 河合派の崩壊と戦時経済研究会 第五十七章 「大逆」と攻撃された津田左右吉の受難 第五十八章 軍艦総長・平賀譲の経済学部大粛正 第五十九章 戦時経済の寵児・土方成美 絶頂からの転落 第六十章 粛学の立役者、田中耕太邸の四面楚歌 第六十一章 難局の経済学部長 舞出長五郎の小心姑息 第六十二章 「無罪、さもなくば重罰を」河合栄治郎の深謀 第六十三章 反ファッショ人民戦線と河合栄治郎 第六十四章 平賀東大 戦争体制下の大繁栄 第六十五章 南原繁総長と昭和天皇退位論 第六十六章 天皇に達した東大七教授の終戦工作 補遺 東京帝国大学が敗れた日 別冊「東京帝大が敗れた日」東大生が体験した「8月15日」 参考文献一覧 【資料】NHK JAPANデビュー第2回『天皇と憲法』をめぐって
https://w.atwiki.jp/forsale-lawyer/pages/189.html
虎ノ門(難波大助)事件の真相その二 -実説大逆事件三代記(第三回)- 山崎今朝彌 前号でわかるとおり、難波大助が大正十二年十二月廿七日虎の門でステツキ銃を以て皇太子を狙げきし充分死刑に値する大逆罪を犯した事実は明瞭で、いつでも判決を下せるわけだが実際はそうかんたんにいかない。刑事事件としても、背後関係共犯のうむ、犯罪の遠因近因動機、素性経歴、健康精神状態、思想関係等を調べねばならず、調べるには予しん判事、裁判長、裁判官、弁護人等をきめねばならず、又虎の門事件真相記としては右の他少くとも事件が社会運動に及ぼしたえいきよう、政界に与えた波紋、事件に対する当時の世論風評、サテワ公判模様から又種々雑多の後日談まで、しかし私は今統制されて毎号一回二十五枚のワク内に立つてる。筆綱怪々疎にして細大もらすは当然である。で私はどうせかき落しさうな事柄から逐次思いだし心付くままに、ごくかんたんになるべく多くにわたつてかいてみる。なんぞ事の軽重をとはんやだ。 共犯は全然なかつた むりにかいてもくさいのは梅田与一とゆう友人ぐらいのもので、これも悪く解釈してステツキ銃ほしさではるばる東京まで大助の跡を追つたにすぎない。善意に解釈すればこれ位友人の身の上を心配する例は世間にザラにある。第六号にかいた、私の処へよこしたハガキや手紙は月日や拘禁期間の関係で、どうも梅田君の出したものでない。(なお第六号には、そのハガキの差出人がナンバ大助となつているがこれも大助は小助の誤植だ、小助とあつたから私はイタヅラと思い相手にしなかつたのだ)当局でもコレはと思う処は全力をあげて叩いてみたが埃り一つ出なかつた。 国体論責任論 背後とか共犯とかの関係がなかつたセイか、震災だん圧継続中の故か又は左よく運動の地下潜入期中だつたのか、幸徳事件直後のような社会運動圧迫はなかつたが、口は禍の門で身からでたサビとは云え国体論にしばられ山本内閣は総辞職で崩かいした。震災のドサクサであれほど無辜無告の大衆を虐殺しても恬として誰も責任をとる者がなかつたのに、何たる一人のでん下が仮令けがはなかつたとはいえ、内閣が総じ職総監署長等が懲戒免官とならざるをえなかつた処に日本の国体が存する。吉田内閣と雖もイカにインフレを興し際限なく物価を上げ一部ヤミもうけインフレ太りを除く国民大衆を極度のキガ圏内に追ひ込みガシさせようと、たとえ又ゼネストが実現し国家機能と産業遂行が停止しようと、範を前例にとり金輪際総じ職などしないであろう、但し天地がてん倒し陛下がび行民情視察で殺人電車にのり、仮令けがなかつたとしても、苦しかつたとかこわかつたとか一言のミコトノリでもあればこれは別勘定となる。コレが日本のお国柄だ。 事件に関する若干のメモ 兇行が大正十二年十二月廿七日午前十時四十分で即日起訴、予審判事は沼義雄、予審終結が翌大正十三年八月中、第一回の公判開廷が同年十一月一日、裁判長は大審院長横田秀雄公判立会検事は検事総長小山松吉、弁ゴ人は今村力三郎、花井卓造、岩田宙三、松谷与二郎の官選の四弁護士、しかし横田博士は刑事事件は不慣れの理由、花井博士は何かの都合で一切を今村氏に任かせきりと記憶する。又松谷君は後に私選を買つて出て裁判所を手古づらせ官選で妥協したもの、公判は勿論ぼう聴禁止で一回で了り検事はむろん死刑を求めた。判決言渡しが十一月十三日(判決言渡の公判は傍聴禁止する事はできない)でもとより死刑、翌十四日には死刑執行命令があり、その翌十五日午前九時に執行十三分で絶命、その死体は翌々十七日午后五時南綾瀬共同墓地すなわち当時の東京府南足立郡綾瀬村綾瀬彌五郎新田の共同墓地に文字通り密葬された。 死刑スピード執行の理由 調べにも取扱いも評判のよかつた横田裁判長は、大助の境遇に同情し何とか悔悟転向の恰好をつけて、大助を死刑より減一等の特赦恩赦に浴せしめようと工作し、村松介石を派遣したり今村弁ご士や松谷弁ご士を頼んだりして説得大いに努めた。そのかいあつてか大助は公判廷で共産主義を捨てるわけにはいかないが、主義正面の敵でもない皇室に対して大逆不敬を敢てしたのは悪かつた事を認める。その点で国民にも謝罪する。当の皇太子にもおわびするとでた。で判決にもこれを援用して、 ひ告人は公判の最後に於て自己の行いはその抱かいする主義のためにはなお正当なりと思考するも、皇室は無産者に対し直接に圧迫をなすものに非れは独だん一時たりとも又たんに手段のためなりとも皇室を敵としたるは軽卒たるを免れず。共産主義者は必ずしも暴力革命を実現せんとする者に非ず、只権力階級の挑戦に因り已むを得ず、暴力に訴うるものにすぎず、故に皇室は共産主義正面の敵に非ず、若夫権力階級にして皇室を私し之を無産者の圧迫に利用するが如きことあらんか、共産主義者は皇室を敵となすに至るべきも畢竟共産主義者の欲する所は彼の英国に学ばんとするにありて、決してロ国に倣はんとするものに非ずと陳述したり、是ひ告人の犯罪動機に関する信念につき若干の反省を伝え稍悔愧の情を示すものなりというべし。 とかかげ、司法省でもこれを 自分は独断を以てけい卒にも皇太子でん下に危害を加うるに至りたるはちう心いかんにたえず、又自分の親を始め兄弟姉妹及び友人等に対し今日の如く大なる迷わくを及ぼすべきことを事前に察知したらんには、本件の如き暴挙を敢行することをさけたるべし、茲に自分の行為のため直接間接に迷わくを被りたる天下一切の人々に誠心誠意謝罪の意を表す。 と文飾して天下に公表し、一意特赦減刑の態勢を調えていた。 革命萬歳を三唱す ところが判決言渡日に判決文朗読が了つてから、半時間もかかつた言渡を神妙に静聴していた大助は例の無表情の顔をくるりと傍聴席に向け両手を高く挙げて大声で、日本無産労働者日本共産党萬歳、ロシア社会主義ソビエツト共和国萬歳、共産党インターナシヨナル萬歳、と萬歳を三唱した。この萬歳三唱は松谷弁ご士のように、薄々知つて減刑を予期していた大助が素人の悲しさで死刑の宣告後、特赦で一等を減じ無き懲役、それから有期にも仮出獄にもなるのだという事を知らず、助命をあきらめ本音を掲げたと解すべきか又は今村弁ご士と同じく、大助は官憲の無産者階級に対する横ぼう暴虐に憤激し死を以てその報復を決心しその死を華々しく飾るために最も人目を引き宣伝効果百パーセントの皇室を最高責任者として狙つたものだが、父兄に対する世人の以外の圧迫に驚き煩もんの結果、その迫害をかん和するため共産主義と皇室とは両立せざるものにあらず、従つて皇室は無産者を圧迫する側に立たざる限り共産主義正面の敵にあらずとの理論をあみだし、故に皇室に対して危害を加える不敬行為を敢てしたるは自分の過ちなり、之れを皇室及天下に謝すと公判廷で陳述し、三唱の萬歳は言渡日の翌十四日大助が私(今村弁ご士)に弁護した如く最初より捨てなかつた主義の事で皇室や天下に謝罪した事とは矛盾するものでも両立せざるものでもない。加之私(大助)は明日の法廷で罪を天下に謝すと一言しなお傍聴人にも一言したかつたので看守長さんに相談したら、最早弁論が終結したのだから判決言渡後には何も言はぬがよいと申されたので止めたのですとの談話より察すると、皇室に対する罪に対しては大助に悔悟反省の気分意思十分ありたりと説明すべきかは別として、人の生命を的にコンナ奴殺して了えと軽々に官僚判断を下すべきでない事は勿論である。しかしこれを伝えきいた時の司法大臣は短気軽卒ガムシヤラ横紙破りの横田千之助、前に出した宣伝ビラの手前もありエー面倒と誰に相談するでも何を確かめるでもなく、気走つたまま一方には萬歳三唱の新聞差止め一方には即時の死刑執行命令書となつたものである。 大助、摂政殺意の動機 犯罪の動機は大切であるが私は前々回第六号でほぼその大略を尽くし、今回も亦所所にその片りんをみせているからこれを略し、その素性経歴家庭人物及びその思想の変遷等を慨述したいと思う。それは刑事記録を参考にかいた松谷弁ご士の世界犯罪そう書第一巻思想犯罪編の難波大助大逆事件に詳記されてるが、同じ記録からできた大審院特別刑事部(大審院には常に刑事部が四、五あつて三審として上告事件を扱つてるが、大逆事件は一審で終審として特別に部を作り、審理判決することになつてる)の当の判決はよりよくかんたんに要領よくココ向きにできてるから多少の加除訂正をしてここに引用する。 大助の生ひ立ち ひ告人大助は本年廿六才歴史上由緒ある難波家に生れ嘗て県会議員衆議員たりし難波作之進の四男にして祖先なんば伝兵衛は秀吉の有名なる高松城水攻めの時毛利方へ城将清水七左衛門と共に水中に切腹し果てたる清水家家老七人組の一人、曾祖父覃庵は維新の際国事に尽したるの故を以て特に明治天皇陛下に拝謁を賜はり歿后正五位を贈与され、ひ告人の父作之進も亦皇室尊崇の念篤くひ告人はげん格なる父とじ愛深きトク子とのくんとうをうけて人となり、よく父母に任え難波の伝とう的精神を体し皇室中心主義を奉じその中学時代たる大正六七年頃は書を雑誌武侠世界によせ乃木将軍死后我国の上下ふか軽調に流れ世界無比の皇室をほうたいする我帝国はきたいにひんするものとして大に之れをこうがいし、大元帥陛下のとうすいし玉う軍隊に入営するを以て臣民の光栄とし、徴兵きひ者を不忠なりと論じたることあり、又当時大阪朝日新聞が皇室のそんげんぼうとくに関する記事を掲載したるさい同新聞を攻げきし、父と共にその不読不買を知人間に奔走かんゆうしたることありて臣民の大義を守り過る所なかりしが、ひ告人はさきに大正六年二月慈母を失いその境遇に変化を来したるため苦学自ら立たんことを決意し、東京に走りたる以来東西各地に転学流寓し再三上京して、あるいは中学検定試験に志し、あるいは高等学校入学試験に応じたのも終にその志をえず大正十年に及べり、しかしてその間父より支給せらるる学資頗る薄く常に父より倹素を旨とすべきことを命ぜられ、やむなく自炊をなし又は新聞配達に従事して自給を計りきう乏を忍び具さに辛苦をなめたる為、大正八年偶々四谷区谷町のろうあいなる一室に起居して通学をなすに当り親しく附近の貧民窟を目げきし、これを自己のひ境に比して生活のかんなんを覚るに従い漸次思想の変化を来したり。 共産主義に共鳴す 悠も世界大戦の後をうけロ独の帝政ほうかいしソビエツト政府の組織せらるるあり又欧米民主々義の風潮、我国にびまんしたためにひ告人の精神に多大のしげきを与え、ここに我国建国の歴史に疑念をはさみ皇室に対するひ告人の信念に動ようを生ずるに至れり、大正九年第四十二議会の開会せらるるや当時ひ告人は衆議院の傍聴席にありてその混乱せる議場の醜体をみ議員に対する尊敬の念を失い又普通選挙反対の演説をきき我国の政治家が頑迷にして民衆の利害に意を用いざるものとして大に之れを憤がいし、痛く議会政策の非なるを感じ同年五月帰省したるに時偶々総選挙にあたり確固たる主義政見を有せざる父作之進が単に家名のため候補に立ち、巨額の冗費をなす事を吝まざるをみて、自分に対する父の節倹の訓戒はもとこれ一片の虚言にすぎずとなし、父に対して大なる反感をいだきこえて大正十年に至り雑誌改造解放、社会主義に関する著書ロ国の小説等をたん読し又社会主義的傾向を有する朋友に交はるに及び、社会主義思想が漸くひ告人の脳裡に浸潤するに至れり、当時ひ告人は極僅少なる月給をうけ勉学の傍再び新聞配達を業とし父の代議士たる地位と自己の労働者たる境遇とを対比し又兄の正太郎義人が皆最高教育を受けたるに反し(一人の兄は夭死す)自己のみ普通義務教育のみにて打切らんとしたる父の措置に想到し益々反感の度を高め、私有財産制度及び家族制度を呪詛し、又大正十年発禁となりたる雑誌改造の四月号に掲載されたる断片と題する河上肇博士の文章をよみてロ国のテロリストに同情しテロリストの行動痛烈にしてロ国の革命は此等の徒に負う所大なりとして大にこれに共鳴し、次ぐ同年四月中幸徳事件の判決を掲載したる当時の新聞をよみ、その罰を残忍なりとし、深く幸徳一派の心事を憐むと共に彼等と主義を同うする者の何等なす処なきを卑怯なりとして憤慨し、決死の覚悟を以て自ら暴力即時遂行者たらんとするの意を決するに至れり、その後幾千となく社会主義の講演会に赴き警さつ官が弁士に片言隻句を発せしめず即時解散を命じたるを見て直接行動の他なしと思惟し、又自ら実施せる労働生活に考えて多数窮民救済のため速に社会の状態を変革するの要ありとなし学生生活を止め専心社会運動に従事せんとしたるに父兄より痛切なる訓戒を受け、陽にこれに服して大正十一年四月以来早稲田高等学院に入学したるも、平常学課を怠り好んで社会問題の講演会に出席し傍ら暴力社会主義者及び無政府主義者の著作をたん読し益々社会変革は暴力によるの外なしとの信念を固め、その思想愈々悪化するに及びひ告人は断然学生々活を廃し労働者となつて自ら労働者解放運動の一兵卒となり主義のため死すの意を決し大正十二年二月退学して深川区富川町所在の木賃宿に移り下層労働に従事したるに労働の牢苦生活の困憊深く心肝にてつし、有産者に対する忿憤反抗の情を増進激越ならしめたり、同年五月病を得て帰省し父兄の言に服して兄を生家に駐めたるもひ告人の思想却て一そうの険悪を加え、無自覚なる労働者を指導して多数の団結を組織し政権をかく得して無産者独裁の制をとるの要ありとなし、遂に共産主義に共鳴し更にマルクスの共産主義宣言を熟読して益々その信念を強うするに至れり。 殺意を決す その間屢々東京に往復し大正十二年九月の大震災に際し官憲のとれる措置を快とせず速に徹底せる行動に出ずるに如かずと思惟し暴力遂行の計画を決然敢行せんとし畏くも皇室と共産思想とは両立せずと妄断し言論によるもその効果少しとなし皇族に対し危害を加えて共産主義者の決意を示し因て以て一面においては現時我国において主義宣伝に関し言論の自由を許さず労働組合をも公認せず銃剣を以て自由思想に対する権力階級者と戦い、権力階級者及び資本家が皇室を奉ようし、労働者及び社会運動家に加うるに圧迫を除去して無産者の危急を防救すべく、他面においては大震災に当りむこの労働者社会主義者を殺りくしたる軍隊官憲並に反動団体の暴状に対し、その反省を促し、なお進んでは現に我国の無産者間にほうはいたる皇室中心主義の信念を放きせしめんことを目的とし、同志に図ることなく独りその事に当るを萬全の策なりとし、その機を窺いいたる処同年十一月中父作之進はひ告の心気を転ぜしめんがため銃猟を許すやひ告人は家に杖銃のあるを憶いこれを使用して不逞の意思をとげんと欲し(下略) まるで取締当局に対する裁判所の抗議警告文で裁判官としては又特に当時としては随分思いきつた判決文だというところに価値がある。大助は父が恰度議会開会で上京中留守にこの杖銃と妹安喜子(当時十八才末妹彌代子十四才)をおどして得た卅円の路金とを持て十二月二十二日上京の途につき柳井津で梅田与一京都で岡陽造等親友と別れを惜しみ数日を費しこの間に友人へ身元証明的の絶交状数通と新聞社及び信頼するに足ると認めた記者等に七通の敢行理由書類似の公開状を認め、二十七日早朝新橋駅着そこで前記の書面を投函し遣い残した三十何銭かの身軽になり単身虎門に入つたが遂に皇子をえず、前述詳記の如く正邪判明悪は亡び善は栄えて目出たし目出たしの大団円で大尾-。 <以上は、山崎今朝弥氏が著作者である。> <旧仮名遣いはそのままとし、踊り字は修正した。旧漢字は適宜新漢字に直した。> <底本は、『雑誌真相復刻版(第1巻)』(三一書房、1980年)、底本の親本は、『真相』(人民社)第9号(1947年5月)13頁>
https://w.atwiki.jp/forsale-lawyer/pages/149.html
東京弁護士会 平出修君 ▲花が見える、美しい色だ、馥しい香だ、光が見える、赤い色だ、輝かしい閃だ、若い男の胸に先づ咲いた花は、恋であつた、先づ射し込んだ光は名であつた、血は幾度か湧き、心は幾度か踊つた、もし両ながら領し得た人があるならば、そは至大至幸のものであらうと自分は思つてる其頃も常にさう思つて居た、其後も常にさう思つてる、現今はどうであらう?、之は法律新聞記者の要求する問題でないから、答ふる必要があるまい ▲自分の様な、身体の弱い、従つて心の弱いものがどうして法律を学んだのであらう、それは自分を今日の位置まで養成し呉れた亡き兄の意思に遵つた丈けだ、どうして又弁護士となつたであらう(自分は弁護士と云ふものは、悪度胸の据つた人のする商売と解釈して居たのであつた)、単自分は東京に住み度かつた、唯それ一つである、そして三十七年二月以来、希望の如く東京に住まれる様になつたのは、偏に岸本先生と岡村先生との御陰であることは、自分が此問に対する毎に、常に第一に答へる処の詞の一つである、そして又弁護士は悪度胸がなくともやれる仕事であると云ふ確信を得たことも、茲に附記すべき必要事である。 ▲自分は世に活きて居る以上は極めて汎き趣味界の空気を呼吸したいと思つてる、故に事務上必要なる法律書の外、政治、宗教、文学等の一切の書籍は、いつでも読みたいのであるが、中々読まれぬ、止むなく今は雑誌道楽をはじめて、毎月二十種以上の雑誌を通読してゐる、別に座右に置いて折々出して見る程の愛読書はない、尤も和歌の書殊に新派和歌の書と演芸に関する書とは、常に旅行鞄に収められてある。 <以上は、平出修氏(1914年没)が著作者である。> <底本は、法律新聞社編『法律新聞[復刻版]』(不二出版)を用いた。底本の親本は『法律新聞』(法律新聞社)明治42年(1909年)9月25日発行、595号17頁。仮名遣いは原文のまま。旧漢字は適宜新漢字に直した。> <平出修(露花)は、文人としても知られた弁護士である。大逆事件(幸徳事件)の弁護人としても名高い。山崎の自己紹介文が掲載された『法律新聞』の同一ページにたまたま平出の自己紹介文を発見したから掲載することとした。>
https://w.atwiki.jp/kisaiya/pages/374.html
獅子文六 ししぶんろく 小説家 一番下に書き込み欄があります。 名前 コメント 関連記事 #bf
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/227.html
大津事件(おおつじけん)は、1891年(明治24年)5月11日に日本を訪問中のロシア帝国の皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀県大津市で警備にあたっていた巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷した、暗殺未遂事件である。行政の干渉から司法の独立を確立し、三権分立の意識を広めた近代史上重要な事件。 事件の内容 シベリア鉄道の極東地区起工式典に出席するため、ニコライは艦隊を率いてウラジオストクに向かう途中、日本を訪問した。ニコライの一行は長崎と鹿児島に立ち寄った後に神戸に上陸、京都に向かった。いまだ小国であった日本は政府を挙げてニコライの訪日を接待、公式の接待係には、イギリスへの留学経験があり当時の皇族中で随一の外国通であった有栖川宮威仁親王(海軍大佐)を任命、京都では季節外れの五山送り火まで行われた。 そして5月11日昼過ぎ、京都から琵琶湖への日帰り観光からの帰り道、ニコライ、ニコライと共に来日していたギリシャ王国王子・ゲオルギオス(ゲオルギオス1世の三男)、威仁親王の順番で人力車に乗り大津市街を通過中、警備を担当していた滋賀県警巡査の津田三蔵が突然サーベルを抜いて斬りかかり、ニコライを負傷させた。ニコライは人力車から飛び降りて脇の路地へ逃げ込んだが、津田はニコライを追いかけなおも斬りかかろうとした。しかしゲオルギオスに竹の杖で背中を打たれ、ニコライに随伴していた人力車夫の向畑治三郎に両足を引き倒され、同じくゲオルギオス付き車夫の北賀市市太郎に自身の落としたサーベルで首を斬りつけられた後、警備中の巡査に取り押さえられた。ニコライは右側頭部に9cm近くの傷を負ったが、命に別状はなかった。威仁親王は現場に居合わせたものの野次馬に阻まれ、ニコライに近づく事が出来たのは津田が取り押さえられた後だった。 留学経験によって国際関係に精通していた威仁親王は、この事件を自分のレベルで解決できない重大な外交問題と即座に判断。随行員に命じて顛末を急いで書きまとめさせ、東京の明治天皇の元へ電報で上奏するとともに、ニコライに誠意を見せるため天皇の京都への緊急行幸を要請した。これを受けた天皇は直ちに了解し、威仁親王に到着までのニコライの身辺警備を命ずるとともに、京都に滞在していた北白川宮能久親王を名代としてニコライのもとへ見舞わせた。 事件翌日の5月12日早朝、明治天皇は威仁親王の兄の熾仁親王を従えて新橋駅から汽車に乗車、同日夜には京都に到着した。その夜のうちにニコライを見舞う予定であったが、ニコライ側の侍医の要請により翌日へ延期され、天皇はひとまず京都御所に宿泊した。翌日、天皇はニコライを見舞い、さらには熾仁・威仁・能久の三親王を引き連れてニコライを神戸まで見送った。 後日、明治天皇自らが神戸港のロシア軍艦を訪問するとした際に、「拉致されてしまう」と進言する重臣達の反対を振り切って療養中のニコライを再び見舞った。 小国であった日本が大国ロシアの皇太子を負傷させたとして、「事件の報復にロシアが日本に攻めてくる」、と日本国中に大激震が走り、さながら「恐露病」の様相を呈した。学校は謹慎の意を表して休校となり、神社や寺院や教会では、皇太子平癒の祈祷が行われた。ニコライの元に届けられた見舞い電報は1万通を超え、山形県の某村では「津田」の姓及び「三蔵」の命名を禁じる条例を決議する村まであったTemplate 要出典?。また、天皇が謝罪したにも関わらずニコライが帰国すると、5月20日には、死を以って詫びるとし京都府庁の前で剃刀で喉を突いて自殺し後に「房州の烈女」と呼ばれた畠山勇子のような女性も出現した。 事件の背景 津田が切りつけた理由は、本人の供述によれば、以前からロシアの北方諸島などに関しての強硬な姿勢を快く思っていなかったことであるという。また事件前、西南戦争で敗死した西郷隆盛が実はロシアに逃げ延び、ニコライと共に帰って来るという噂がささやかれており、西南戦争で勲章を授与されていた津田はもし西郷が帰還すれば自分の勲位も剥奪されるのではないかと危惧していたという説もある。ただしニコライを殺害する意図は薄かったらしく、事件後の取り調べにおいても「殺すつもりはなく、一本(一太刀)献上したまで」と供述していたと言う記録もある。他にも当時はニコライの訪日が軍事視察であるという噂もあり、シベリア鉄道もロシアの極東進出政策を象徴するとして国民の反発があったことは確かである。 日本政府の動き 当時の日本は、何とか欧米の植民地にならずに済んだだけで、まだロシアに軍事的に対抗する力を持っていなかったため、賠償金や領土の割譲まで要求してくるのではないかと危惧された。そこで政府は事件を所轄する裁判官に対して旧刑法116条に規定する天皇や皇族に対して危害を与えたものに適用すべき大逆罪によって死刑を適用するよう働きかけた。伊藤博文は死刑に反対する意見がある場合、戒厳令を発してでも断行すべきであると主張した。また松方正義首相、山田顕義法相らが死刑適用に奔走した。青木周蔵外相、井上馨などは消極的反対、逓信大臣・後藤象二郎などは「津田を拉致し拳銃で射殺することが善後策になる」と語った。 司法の動き 旧刑法116条は日本の皇室に対して適用されるものであって、外国の皇族に対する犯罪は想定されておらず、法律上は一般人と全く同じ扱いにせざるを得なかった。つまり怪我をさせただけで死刑を宣告するのは法律上は不可能であった。ただし裁判官のなかでも死刑にすべきという意見は少なくなかった。 時の大審院(現在の最高裁判所)院長の児島惟謙は法治国家として法は遵守されなければならないとする立場から、「刑法に外国皇族に関する規定はない」として政府の圧力に反発した。要するに「国家か法か」という回答困難な問題が発生したのである。 事件から16日後の5月27日、一般人に対する謀殺未遂罪(旧刑法292条)を適用して無期徒刑(無期懲役)の判決が下された。 なお、明治40年制定の現行刑法では、殺人未遂罪に相当すると考えられるが、現行刑法では、自ら積極的に行為を中止した場合(中止未遂)の場合を除き、未遂による減軽は裁判官の裁量によるため、殺人罪の法定刑である死刑となる可能性はある。 ロシアの動き ロシア公使シェービッチは以前から日本に対して恫喝的な態度をたびたび取っており、この事件に関しても事件の対処にあたった青木周蔵、内務大臣・西郷従道らに死刑を強硬に要求し、無期徒刑が決定したことを知らせると「いかなる事態になるか判らない」旨の発言をしている(なお、これに対して青木が「自分は伊藤博文に言われて死刑にする事を約束しただけである」と述べたために、伊藤から嫌悪されて政治家としての栄達を絶たれる原因となる)。ロシア皇帝アレクサンドル3世も暗に死刑を求めていた。しかし結果的には賠償要求も武力報復も行われなかった。ただし皇太子の負傷に関しては、皇帝も皇太子も日本の迅速な処置や謝罪に対して寛容な態度を示しており、日本がこの問題を無事解決できた理由の一つにロシアの友好的な姿勢があることは疑いない。 事件後の影響 この事件判決で司法の独立を達成したことにより、まだ曖昧だった大日本帝国憲法の三権分立の意識が広まった。しかし大津地裁で扱われるべき事件を正常な手続きなしで大審院に移したり(大逆罪の適用を考慮していた為、皇室罪に関する裁判はすべて大審院における一審において判決が下されることから、適用可否判断を含め地裁ではなく大審院に持ち込まれることになった)、裁判に直接関わっていなかった児島が干渉を重ねたことは裁判官の独立等の問題として残った。また天皇もこの事件に干渉するなど、権力の所在や運用が未熟・未分化であった時代を象徴した事件である。これらの問題、つまり三権分立や司法のあり方などは活発に議論されるようになった。また海外でも大きく報じられ、国際的に日本の司法権に対する信頼を高めた。このことは日本が近代法を運用する主権国家として、当時進行中であった不平等条約改正へのはずみとなった。 ただし当時の司法は憲法上はともかく、実際には司法行政や行政裁判の扱いなど完全に政府から独立していたわけではなかった。三権分立の理念は多くの人に理解されながらも、のちに大逆事件のような司法権の侵害が起きるのはそのためである。 さらに政府がこの問題で判決を譲ったのは、元老内部の抗争の影響があったためとする説もある。 補足 人力車夫 向畑治三郎(むかいはた じさぶろう 1854年? - 1928年) 北賀市市太郎(きたがいち いちたろう (安政6年12月3日(1859年12月26日) - 1914年11月3日) この事件で津田を取り押さえるという思わぬ功績を挙げた人力車夫、向畑治三郎と北賀市市太郎の二人は、事件後18日夜にロシア軍艦に招待され、そこでロシア軍水兵からの大歓迎を受けた。そしてニコライから直接聖アンナ勲章を授与され、当時の金額で2500円の報奨金と1000円の終身年金が与えられた。日本政府からも勲八等の勲位と白色桐葉章、年金36円が与えられた。当時、低い身分の職と見なされていた人力車夫に勲位と勲章を与えることはきわめて異例であり、その後も2人は国内で「帯勲車夫」と呼ばれ一躍英雄として脚光を浴びることとなった。 しかし長続きはせず、前科のあった、向畑は博打と売春、怪しげな投機話に明け暮れ、日露戦争が始まり年金が停止されると婦女暴行事件を起こし逮捕されるなど惨めな晩年を迎えた。北賀市は堅実に郷里の石川県で田畑を購入し地主となり、勉学を重ね郡会議員にまでなったが、日露戦争が始まると露探(「ロシアのスパイ」の意)扱いをされ、辛い生活を余儀なくされた。 DNA鑑定 1993年、ロシア皇帝のものと推定される骨の鑑定に使うため、このときにニコライの手当てをした布から彼のDNAが採取された。しかし、サンプルが少なすぎて血液型までしか特定できなかった(1998年になってニコライの骨と認められ、ロシア正教会はニコライ2世を革命の犠牲者として列聖した)。 大津事件を扱った作品 江川達也「日露戦争物語」 吉村昭「ニコライ遭難」 東京ヴォードヴィルショー・三谷幸喜「その場しのぎの男たち」 山田風太郎「明治かげろう俥」 石川淳「ゆう女始末」 夏堀正元「勲章幻影 小説大津事件」 関連項目 日露関係史 日露戦争 条約改正 津田三蔵 ニコライ2世 西郷従道 常磐ホテル(現在の京都ホテルオークラ) 児島惟謙 関西大学 畠山勇子 青木周蔵 有栖川宮威仁親王 皇女アナスタシア 参考文献 児島惟謙著『大津事件日誌』平凡社[東洋文庫]。ISBN 4582801870 児島惟謙著『児島惟謙大津事件手記』関西大学出版部。ISBN 4873543754 楠精一郎著『児島惟謙――大津事件と明治ナショナリズム』中央公論新社[中公新書]。ISBN 4121013581123 外部リンク 京都ホテル100年ものがたり 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月19日 (金) 05 47。