約 217,958 件
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/440.html
幸徳事件(こうとくじけん)とは、1910年11月、旧刑法73条(大逆罪、1908年10月より実施、1947年現刑法より削除。「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」)により幸徳秋水ら25名が大審院に付され翌年1月に24名に死刑判決(12名は翌日無期に減刑)が出され12名が処刑された事件。 刑法73条が適用された初めての事件であり、被告とされた人数が多いことから、一般的には固有名を付けず「大逆事件」といわれる。「幸徳事件」の名称は他の「大逆罪適用事件」と区別する場合に用いられ、被告たちの中心人物とされた幸徳秋水の姓による。他に「幸徳秋水事件」の呼称もある。 被告の内、宮下太吉外3人は爆裂弾により明治天皇への攻撃を考えていたが実行計画は中途半端なままで実現に至るには曖昧なものであった。 それは大審院判決理由において「爆裂弾を用い馬車で通行する天皇に投げつける」秋季逆謀と認定されたが、大審院が有罪とした幸徳中心の全体計画なるものは信憑性が問われている。元老山縣有朋、首相桂太郎の藩軍閥政府による無政府主義者、社会主義者圧殺の政策のもと弾圧が拡大し、無政府主義者、社会主義者だけではなく被告とされた家族、友人たちにも捜索押収、取調べが行われた。またその過程で不敬罪弾圧、出版物への取締が強化された。 この事件は社会主義者だけではなく文学者たちにも大きな影響を与え、石川啄木は無政府主義と被告たちへのシンパシーをもちピョートル・クロポトキンの著作、大審院公判記録を研究、作品にも結実させた。徳富蘆花は「謀反論」と題した講演を第一高等学校で行い死刑廃止論の立場を鮮明にした。大逆事件後を「社会主義運動の冬の時代」と言うケースが多いが、しかし赤旗事件から大逆事件に至る時期、大審院公判中まで徹底した無政府主義、社会主義運動への弾圧が続き実際の「冬の時代」であった。1911年、同志が処刑された後、残された堺利彦は月に一回の「茶話会」から再起を始めた。大杉栄、荒畑寒村はいちはやく運動の再構築を図り、1912年『近代思想』を刊行した。 非戦論と直接行動派 20世紀始め、日露戦争前の1903年、堺利彦、幸徳秋水らを中心に平民社に拠った人たちは非戦論と社会主義を掲げ、運動を国内各地に広げはじめた。明治政府は、社会主義運動の更なる拡大を恐れ、帝国主義諸国に伍して東アジアへの進出に向け国内体制を防衛しようとし、社会主義運動に対し機関紙発行、演説会、結社への取り締まりを強化した。1906年よりクロポトキンのアナキズム思想の影響を受けた幸徳を中心にし直接行動派が台頭し始め、アジアからの留学生たちにも影響を与え始めた。議会政策中心の社会主義者たちと分岐が鮮明になったが、政府も対策をすすめ1908年、金曜会屋上演説事件、赤旗事件により大杉栄、堺利彦らの主要な活動家を検挙した。幸徳は病気療養で中村に戻っていて難を避けられた。 アナキズムの影響を受けた活動家や社会主義者は秘密出版で対抗し、ゼネスト論や人民への抑圧政治の根源には天皇の存在があるという主張を基にした『入獄紀念無政府共産』を刊行、政府に抗した。幸徳ですらクロポトキンの主要理論書『パンの略取』を翻訳しながら、「平民社訳」とし政府への出版届出の前に頒布するという実質秘密出版をせざるを得なかった。1909年、幸徳は千駄ヶ谷の地に移った平民社を拠点に赤旗事件では無罪を勝ち取った管野須賀子(管野スガ)と『自由思想』を創刊し公然運動を盛上げようとした。 しかし出版法違反で続けての刊行ができず、管野も一時拘引され、裁判では罰金刑が確定し活動が行き詰まった。菅野や長野県出身の活動家で一時平民社に住込んでいた新村忠雄は合法活動が圧殺された状況を打破しようと模索し、政府に対する闘争心が強い古河力作や爆裂弾を使い天皇を倒したいという社会主義者で機械技工労働者の宮下と連絡を取り始めていた。 宮下は爆裂弾を一度完成させ試爆させていた。幸徳自身は1910年になり、最後の拠点「平民社」を解散し、活動と生活立直しのため湯河原で執筆に専念することを決意、管野は罰金を払わず収監、100日間の労役場留置の策を選択せざるを得ず5月18日に東京監獄に入る。 弾圧開始 そのような状況下、長野の明科製材所で働いていた宮下の元へ新村が度々訪れた件、またブリキ缶と薬品を分散して所持していたことが察知され、5月25日爆裂弾の材料にあたるとして爆発物取締罰則違反で逮捕された。同日、長野の屋代に戻っていた新村忠雄と薬調合のための薬研を調達しただけの兄新村善兵衛も逮捕される。続けて平民社に出入りし、宮下が明科で保管していた薬品包みの連絡先として記されていた東京の古河も5月28日に連行され29日、松本署において爆発物取締罰則違反で逮捕。宮下は29日に至り明治天皇が馬車で通行時に爆裂弾を投げつけると謀議していたことを供述、検事聴取に新村、管野、古河の名を出す。これを契機に刑法73条の該当事件として検事総長に書類送致される。ブリキ缶を依頼され作り自室に薬研を預かっていた宮下の職場の同僚、新田融も帰郷先の秋田から連行され、松本で6月4日逮捕された。31日にはその5人に加え、湯河原滞在の幸徳秋水と東京監獄在監中の管野に対し大審院に予審請求されることが決定した。幸徳は6月1日湯河原を離れようとした時、管野は6月2日に監獄内において逮捕される。 拡大 当初はこの7人の「陰謀」事件として報道されていることからも官憲の一部には7人だけで「事件」を収束させる判断もあったようだが、大審院直轄になった検事たちが、平民社に出入りしていた社会主義者や供述で名を出された社会主義者を各地の当該警察署に拘引、直接の取調べ、捜索押収の過程で刑法73条該当事案として最終的には19人を加えた幸徳以下26人を逮捕した。 更なる拡大 官憲側の史料である『社会主義者沿革第三』によると 「予審中、被告の外、1908年11月前後、<無政府共産主義者>にて大石、内山と会合し幸徳を平民社に訪問、寄宿しその説を聴き<本件陰謀熟知>せりと認められる者は東京、横浜、群馬、愛知、京都、大阪、神戸、岩手等の各地に散在」 と記述されている。 残された公判記録にはその「各地」の社会主義者の証人「調書」が数十人分残されている。この場合「無政府共産主義」という官憲の認識は1906年以来の直接行動派としての幸徳に同調していた者が含まれている。 家宅捜索や取調べで、幸徳たちに関連づけられなくても、実刑弾圧を受けた社会主義者は多かった。前出の官憲史料に記録されているだけでも9月から12月にかけ「不敬罪」での判決が10件あり、1名が懲役4年、9名が懲役5年の投獄攻撃を受けている。 かつて幸徳、新村と「気脈を通じた」とされた諏訪郡境村を中心とした農村運動のグループも治安警察法違反で14人が検事局に送検、1名が禁錮8ヶ月、10名が禁錮6ヶ月(内執行猶予5名)の判決を受けた。 大審院予審 大審院検事局の公訴事実を、平出弁護人が『特別法廷覚書』で骨子を記録している。その立会い検事平沼騏一郎(後の大審院院長・内閣総理大臣)の論告(1910年12月25日)は1908年11月、巣鴨平民社での、それぞれ別の日での大石誠之助、松尾卯一太と幸徳との話し合いを陰謀とし「本件の発端なり」と位置づけ、 第一 東京・信州方面(幸徳直轄)、 第二 大石(誠之助)の紀州陰謀、 第三 松尾(卯一太)の九州、 第四 内山(愚童)の遊説(大阪・神戸) と広域化、各地の社会主義者へ「大逆罪」弾圧を拡大した内容である。 この構成には三つの「大逆罪」が含まれている。 天皇への爆裂弾投擲 暴動を起こし二重橋(宮城)へ逼る 皇太子に危害を加える 大審院による幸徳秋水(伝次郎)の「大逆」の意図を『判決理由』から抜粋すると以下の物語となり「11月謀議」となる。 「11月19日東京府北豊多摩郡巣鴨町伝次郎(幸徳)宅に於て、伝次郎が誠之助及び森近運平に対し赤旗事件連累者の出獄を待ち、決死の士数十人を募りて、富豪を劫掠(こうりゃく・財を奪い)し貧民に賑恤(しんじゅつ・賑し)諸官街を焼燬し、当路の顕官を殺し、且つ進んで宮城に迫りて、大逆罪を犯す意あることを説き、予め決死の士を募らんことを託し、運平(森近)、誠之助(大石)は 之に同意したり……」 「11月卯一太(松尾)もまた上京して伝次郎を訪問し、伝次郎より赤旗事件連累者の出獄を待ち、決死の士数十人を募り、富豪の財を奪い貧民に賑し、諸官街を焼燬し、当路の顕官を殺し、進んで宮城に逼りて大逆罪を犯さんと意志のあることを聴き、これに同意して決死の士を養成すべきことを約し……」 1884年の太政官布告による爆発物取締罰則も治安維持を目的とし前文は実行行為のみではなく、思想や考えを含めて裁くことを本質としている。大逆罪もまた同様である。11月謀議は、幸徳がパリ・コミューンや1905年のロシア革命での労働者の決起を雑談で同志に話したことが、予審で問題とされ、さらに大石、松尾が新宮、熊本に戻り同志に東京での「幸徳の革命をめぐる雑談」として伝えたことが有罪判決への糸口となった。そして内山愚童に関しては、内山の発言より皇太子「暗殺」の意図あり、とされている。全ての環に幸徳を存在させ内山を補強人物とし、大石、松尾を軸とし大阪、神戸、和歌山、熊本の人脈へと繋げた。熊本で刊行されていた『熊本評論』は1908年の「赤旗事件」の頃は幸徳の影響を受け実質的な直接行動派の機関紙になりつつあった。松尾は無政府共産主義に傾いていた。神奈川、名古屋の同志も一時はつなげられようとした。判決理由でことさら<赤旗事件の連累者を待ち>と記しているのも、堺、大杉たちを牽制する目的があると思われる。和歌山の大石は7月6日、高木顕明、峰尾節堂、崎久保誠一は7月7日、成石勘三郎は7月8日、成石平四郎は7月14日に起訴決定。熊本関連は新美卯一郎、飛松与次郎、佐々木道元を松尾と同じく8月3日に起訴決定。 松尾、飛松は前年から新聞紙条例違反の禁錮刑で熊本監獄に在監していた。架空の「11月謀議」時に巣鴨平民社に同居していた森近運平は岡山に戻っていたが6月15日に起訴決定。巣鴨時代の平民社に住込み、その後幸徳から離れた坂本清馬は8月9日起訴決定されている(7月26日、東京にて印刷所で労働中、浮浪罪で拘引、数日後に拘束)。 さらに1910年8月21日、大阪にて内山愚童の皇太子暗殺計画(「オヤジをやめて、セガレをやれば胆をつぶして死ぬだろう」という発言)から2つめの「大逆罪」を認定、内山の歴訪した大阪から武田九平、岡本顕一郎、三浦安太郎は8月28日に起訴決定。神戸から神戸平民倶楽部の岡林寅松、小松丑治を9月28日に起訴決定、内山愚童を10月18日に起訴決定した(内山は出版法、爆発物取締罰則違反で東京監獄にて服役中であった)。判決では 「愚童、寅松、丑冶の行為は各同条の規定中皇太子に対し危害を加えんとしたる者は死刑に処すとあるに該当し、被告平四郎。安太郎の行為は各同条規定中天皇に対し危害を加えんとしたる罪と、皇太子に対し危害を加えんとしたる罪の刑に処すべく……」 とされている。 6月28日に拘引された奥宮健之は自由民権運動の世代でかつての自由党壮士。無政府主義、社会主義と無縁の立場であった。幸徳とは同郷の縁で交流があり、1909年10月、昔の仲間から爆裂弾の製法情報を入手し幸徳にそれを伝えたという件で巻き込まれた(予審判事意見書では「伝次郎一派を緩和せしめんため…懐柔策を協議」とあり政治ブローカーとの間にたち金銭利益を得ようとした気配もあるが成功していない。このような動きと立場の違いが一部では政府のスパイ説を生み出した)。 11月1日、検事総長は全員有罪の意見書を大審院に提出し、9日、予審終結、公判開始決定となった。11月10日、被告たちの接見、通信禁止は解除された。幸徳は20日か21日に『基督抹殺論』を脱稿している。 予審訊問調書 「本体」といわれる東京(平民社の一部)での天皇への攻撃相談と、信州・明科の宮下の爆裂弾関連を予審訊問から整理すると次のようになる。 宮下太吉が爆裂弾を一度完成させ試爆をしたこと。本人の供述による。 宮下、管野、新村、古河が天皇に爆裂弾を投げつけるという謀議。 (相互の供述)通過の際の投擲順番を籤引きで決めた。そのための爆裂弾は完成されていない。 いつ何処で決行するかは未決定。 ただし後に古河は「参加する振りをしていたが抜ける時期を模索していた。」と語る。 (大審院審理終結後の獄中での執筆文書)。管野は収監され、曖昧な「計画」になっていた。 幸徳を管野たちは相談・計画に引込もうとしなかった。 幸徳は、相談・計画の中味は詳細には聞いてはいないが、爆裂弾使用の計画が一時期あったのは認識していた。 幸徳は爆裂弾の製法<薬品の配合>を奥宮に問合せていた。 幸徳は管野を「計画」から引き離そうとしていた。平民社を解散させた。相談の有無に関しては記憶が無いと供述。 大審院公判 弁護人は予審時選任できず、公判に付されることが決定してからようやく選任が可能となった。平出修弁護士を始め奮闘したが短期での活動では限界があった。第一回公判開廷後、一般傍聴人を入廷させておきながら傍聴禁止とし排除したが政府関係者は多数傍聴し、選任されてはいない弁護士も傍聴できた。判決公判だけ一般傍聴をさせたが官憲が入廷者を検問し社会主義者はほとんど排除された。 12月10日 特別裁判開廷、検事総長冒頭陳述、それに基づく被告訊問と陳述が続く。宮下、新村忠雄の意見陳述。 12日 管野・古河・新村善兵衛・幸徳の意見陳述。 13日 幸徳・森近・奥宮・大石・高木・峯尾・崎久保・成石兄弟の意見陳述。 14日 松尾・新見・飛松・佐々木・坂本の意見陳述。 15日 内山・武田の意見陳述。 16日 岡本・三浦・岡林・小松の意見陳述と連日の集中審理であった。 幸徳は公判の合間、休廷日の17・18日に弁護士宛ての文書を執筆、無題であるが後に「陳弁書」と言われている。再び公判が続く。 19日 幸徳らの意見陳述。 20日 幸徳らの意見陳述。 22日 幸徳らの意見陳述、補充審問を終え 23日 弁護人の証拠調べ、 24日 弁護人の証拠書類閲覧、鶴丈一郎裁判長は弁護側の証人申請を却下した。 25日 検事論告、大逆罪として全員死刑求刑。 27–29日 弁論。 28日に幸徳の母は中村にて病死するという悲報も入る(一部で自殺と誤報される)。 判決と処刑 1911年1月15日、大審院の七判事、判決文に署名。 18日 24名に有罪判決、新村善兵衛、新田は爆発物取締罰則のみ認定、「大逆罪」を承知していたという調書は信用できないとされた。大審院の審理は形式的で、政府の意を受け刑法73条適用、取調、予審訊問をコントロールした検事総長の「有罪意見書」「論告」を追認するだけであった。 19日 遅い時間に12名の特赦決定。 19日 日本国内発行の英字紙『ジャパン・クロニクル』『ジャパン・アドバタイザー』は非公開裁判を批判。減刑者の移送が始まる。 1月20日 新村・新田、千葉監獄に移送、 21日 峯尾、千葉監獄に移送、21日、12人への減刑が新聞報道される。 22日 高木・崎久保・飛松・坂本、秋田刑務所に移送、 22日 森近、獄中手記として「自叙伝」を書き始める。(24日の死刑執行寸前まで)「実際の処、私は多分無罪の判決を得る事と思うて居た」、 22日 徳富蘆花、兄蘇峰へ「減刑されなかった12名の死刑阻止に向け、桂首相に伝わるよう」手紙を送る。 23日 成石、岡本、岡林、小松、武田、三浦、長崎監獄に移送。 24日 東京監獄にて11名絞首、幸徳秋水 午前8時6分、新美卯一郎 午前8時55分、奥宮健之 午前9時42分、成石平四郎 午前10時34分、内山愚童 午前11時23分、宮下太吉 12時16分、森近運平 午後1時45分、大石誠之助 午後2時23分、新村忠雄 午後2時50分、松尾卯一太 午後3時28分、古河力作 午後3時58分、処刑。宮下太吉は執行寸前「無政府党万歳」と叫んだと伝わる。 25日 管野須賀子絞首。 アメリカ、ヨーロッパにおいても処刑反対の抗議行動が広がり、政府は死刑執行を急ぎ、判決後一週間内で12名を処刑した。 国内でも審理終結前後から徹底した報道・情報規制を行い地方紙を主として幸徳や無政府主義に触れた記事掲載で15件余りが発売・頒布禁止、差押処分を受け新聞紙条例・新聞紙法違反で禁錮、罰金判決が出された。 弁護人ですら公判記録を判決後所持することは認められず大審院は返還要求をした。また刑死者の獄中記や遺書を法務、監獄当局は隠匿し続けた。ようやく1945年の敗戦後に一部の手記が廃棄される寸前に持ち出された。 刑死者の遺体引取りと埋葬 1月25日 幸徳の遺体は堺が引取、落合火葬場へ運ぶ。古河の遺体は実父が引取、大石は実姉が火葬、森近の遺体は堺が引取27日に火葬場へ運ぶ、内山の遺体は義弟が引取る。 25日 徳富蘆花、天皇に対し「12名の助命嘆願」の手紙を書き、東京朝日新聞主筆、池辺三山に託す(執筆時、処刑報道は伝わっていなかった)。 26日 管野の遺体、増田謹三郎が引取る。成石平四郎、松尾、新美の遺体、堺為子が引取る。 26日 『二六新聞』紙に1月21日付け「管野すがより大杉夫婦宛書簡」掲載。 27日 荒畑寒村、増田方を訪れ管野須賀子の遺体と対面。27日、古河遺体火葬、27日、内山の遺骨は箱根林泉寺に埋葬 28日 古河遺骨、渡辺政太郎が堺方に移す。28日、管野須賀子の遺体、正春寺に埋葬。 28日 徳富蘆花、「謀反論」の演説草稿を完成させる。 29日 新村実姉、共同墓地の新村遺体を火葬 29日 ニューヨークで幸徳死刑への抗議集会と日本領事館に向けデモ。 30日 堺利彦宅にて刑死者の遺体引取りに関わった人たちの慰労の集まりが開かれる。 31日 新村遺骨、染井墓地に埋葬。 2月1日 幸徳秋水遺著『基督抹殺論』刊行。幸徳が公判中に脱稿し、処刑後一週間での刊行。印税は後に第一回の屋外メーデーの活動資金にも充当された。 1日 徳富蘆花「謀反論」と題する講演を一高で行う。 2日 大石遺骨、新宮町南谷共同墓地に埋葬。 5日 堺利彦、監獄共同墓地の宮下の遺体を引取り火葬。 6日 政府寄りの「大逆事件講演会」國學院大學で開かれる。逆徒幸徳非難の保守的演説会であったが、唯一三宅雪嶺は官憲、裁判所を批判。 7日 幸徳の遺骨、中村の正福寺に埋葬。 12日 サンフランシスコで処刑者追悼大演説会が開かれる。 17日 宮下遺骨、実姉により甲府市三吉町光沢寺に埋葬。 同志による遺族と家族への慰問 同志たちは接見禁止解除後、面会、差入で支援し、堺も在監中に関連して取調べを受けたが9月2日に出所、12月に売文社を立上げ、赤旗事件で出所した同志たちや仲間の仕事を確保しつつ、処刑者の遺体引取、火葬、遺族への慰問に奮闘した。 大杉栄も千葉刑から東京監獄に移送され幸徳たちに関連して取調を受けたが、11月29日に出所。面会、差入れを続けた。 処刑後3月17日、大杉栄は東京を出発して大阪の「大逆事件」受刑者の家族を見舞い、22日に帰京、24日、同志茶話会にて「春三月縊り残され花に舞う」の句を読む。大杉はその後も懲役者への差入、刑死者の墓参りをした。 24日 古河遺骨、牛込、道林寺に埋葬。 堺は遺族の慰問で各地を回る。4月7日、岡山に森近の妻と実弟を慰問。 11日 エマゴールドマンより弾圧犠牲者への義捐金が加藤時次郎を受取人として送られる。 11日 堺、熊本の松尾の妻、実父、実弟慰問、佐々木の実母、実兄、新美の内縁の妻、叔父を慰問、墓参り。松尾方にて古庄友祐<旧『熊本評論』社同人>と対談、 22日から27日にかけて高知県中村の幸徳義兄宅滞在、幸徳の家族たちと交流、 28日には兵庫県小松留守宅訪問、 29日 武田内縁の妻、実弟を慰問、岡本内縁の妻、三浦家族を慰問。 5月3日 和歌山を訪問。大石、高木、峯尾、西村を慰問。成石の家族には書面で慰問。 5日 三重の崎久保遺族を慰問。 7日に帰京、同志への報告会を開く。 12日 堀保子、秋田監獄の坂本に書籍郵送するが、閲読は不許可になる。 7月 官憲の記録には<堺利彦、7月19日附け茨城在住小木曾助次郎へ宛てに「故幸徳伝次郎が在獄中より弁護士に送りたる極めて有益なる書面なれば一読の上返却せられたし」との意味を附記し郵送せり。「幸徳秋水の獄中より弁護士に贈る書」>とある。後に「陳弁書」と題される幸徳のテキストが同志間には閲覧されていた事実があり、「幸徳事件」の概要は知れ渡っていた。 1913年2月3日、大杉栄、秋田監獄の坂本に面会。[坂本清馬年譜] 1914年4月14日大杉、坂本宛に手紙発信。16日に坂本は手にする。 大杉は<坂本の姉が心配しているとして司法省に谷田監獄局長を訪ね、局長と典獄から二件の許可を得る。<書籍差入れを大杉が受持つ、坂本からの書信は交互に大杉と坂本の家族に発信する、大杉と坂本の家族も交互に発信する> 海外での抗議活動 1910年9月21日、ロイター通信が「天皇暗殺計画」を報道。 11月12日 エマ・ゴールドマン、ヒッポリート・ハベルら5名のアナキスト・自由思想家が駐米全権大使内田康哉あてに抗議文を送る、これを機に全米、ヨーロッパのアナキストによる抗議行動が広がる。 11月22日 エマ・ゴールドマン、ニューヨークで第一回抗議集会を開く、数百名が出席「ニューヨーク・アピール」を採択。 12月10日 ロンドンのアルバートホールにおいて「処刑反対大演説会」が開かれる。 12月12日 ゴールドマン、ハベル、ニューヨーク、抗議集会、桂首相に抗議文を提出することを採択。 12月16日 岩佐、サンフランシスコで「幸徳記念演説会」を開く、作家ジャック・ロンドン支援日本大使に抗議文を送る。 12月 報告<コウトク事件>ヒッポリート・ハベル『マザー・アース』掲載。 1月 報告<日本における正義>ヒッポリート・ハベル『マザー・アース』掲載。 2月 報告<アナーキー万歳!>ヒッポリート・ハベル『マザー・アース』掲載。 「悪業が行なわれた。民衆の中の最良にして高貴な者が倒れ、最も悪魔的で野蛮な方法で殺害された。比べようのない極悪な犯罪が1911年1月24日行なわれた。恐るべき打撃を人類に与え、文明の面前に挑戦状をたたきつけた。無情な野蛮主義が新思想のパイオニア達を 冷酷に縊り殺し、その絶望的な犠牲者達の苦痛に狂喜している。だが、われらは悲しまない。むしろわれわれの同志達の無実、純粋性、公明正大、忠実、自己犠牲と献身を全世界に表明するのがわれらの仕事である。われらは悲しまない。われらの友は不滅を成しとげたのだ。新時代が彼らの受難の日をもって日本を衝撃した。ミカド・ムツヒトの時代は、人間の記憶から消えよう。ブシドウもおとぎ話で神話に過ぎない時も来よう。だが受難したアナキスト達の名前は人類の進歩の頁を飾るのだ。大審院の構成員達、人類の高貴な者を執行者の手にした彼らは、やがて忘れられよう。だがトウキョウの殉教者達は未来の世代の人々によって尊敬され賛美されよう。……」 2月 報告<コウトクデモ>『マザー・アース』掲載。 2月11日 報告<親愛なるホール様>エマ・ゴールドマン『マザー・アース』掲載。 2月15日 「ロンドンタイムス」記事 イギリス議会で「大逆事件」が議題となり、裁判手続、思想の自由等を独立労働党のケヤ・ハーディーが質問する。 12名、投獄後の状況 1914年6月24日 高木、秋田監獄で縊死 1914年9月30日 坂本、法相尾崎行雄宛に「無実を訴える」上申書を提出 1915年7月24日 新村善兵衛、千葉監獄より仮出獄 1916年5月18日 三浦、長崎監獄で自殺 1916年7月15日 佐々木、千葉監獄で獄死 1916年10月10日 新田、千葉監獄より仮出獄 1917年7月27日 岡本、長崎監獄で病死 1919年3月6日 峰尾、千葉監獄で病死 1919年4月2日 新村善兵衛、大阪で死去 1925年5月10日 飛松、秋田刑務所より仮出獄 1929年4月29日 崎久保は秋田刑務所より、成石勘、武田は長崎刑務所より仮出獄 1931年4月29日 岡林、小松は長崎刑務所より仮出獄 1931年1月3日 成石、死亡 1931年10月1日 坂本、秋田より高知刑務所へ移送 1932年11月29日 武田、自動車事故で死亡 1934年11月3日 坂本、仮出獄 1937年3月20日 新田、東京で死亡 1945年10月4日 小松、困窮の中で死亡 1946年2月24日 坂本・岡林、刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」 1948年6月26日 崎久保・飛松「復権」 1948年9月1日 岡林、高知で死去 1952年10月 坂本「逆徒といわれて 在監25年・幸徳事件の真相」を『中央公論』10月号に発表 1953年9月10日 飛松、山鹿町で死去、65歳 1955年10月30日 崎久保、市木村で死去 1975年1月15日 坂本死去、89歳 1975年1月24日 中村で追悼会「故坂本清馬君翁を讃える会」発足 再審闘争 1960年2月23日 「大逆事件の真実を明らかにする会」発足 1961年1月18日 坂本清馬・森近栄子(運平実妹)、東京高裁に再審請求申立て、東京高裁、森長弁護人等代理人 1963年9月13・14日 坂本出廷陳述 1963年11月29日 荒畑寒村証言 1963年12月20日 荒畑寒村証言 1964年1月13・14日 森近栄子他証言、岡山にて 1964年3月11日 築比地仲助証言 1964年5月8日 崎谷一郎証言 1964年7月15日 日弁連、旧東京監獄刑場跡に「刑死者慰霊塔建立」 1964年9月25日 神崎清証言 1964年12月28日 意見書 1965年1月29日 弁護人意見陳述 1965年12月1日 再審請求棄却 (註:公表10日) 1965年12月14日 特別抗告 1966年9月20日 最高裁審理決定 1967年7月5日 高裁決定を有効と判断、特別抗告棄却 「大逆事件の真実をあきらかにする会」は継続して開かれている。 毎年1月24日前後の土曜日に管野須賀子の墓碑がある渋谷区内の正春寺を会場としている。 会に合わせ年一回の『大逆事件の真実をあきらかにする会ニュース』を発行。 1996年 和歌山県新宮市の浄泉寺(浄土真宗)が大逆事件を見直し、獄中で自殺した高木顕明を復権 2001年8月 和歌山県新宮市で「大逆事件の犠牲者を顕彰する会」が結成される 参考文献 絲屋寿雄 『増補改訂大逆事件』(『三一選書』) 三一書房、1970年4月。 塩田庄兵衛、渡辺順三編 『秘録大逆事件』(上巻、下巻) 春秋社、1959年。 大逆事件の真実をあきらかにする会編 『大逆事件訴訟記録・証拠物写』第4、5、8巻、近代日本史料研究、1960年(謄写刷)。 神崎清編 『新編獄中手記』 世界文庫、1971年。 大逆事件記録刊行会編 『証拠物写』(上巻、下巻) 世界文庫、1972年。 坂本清馬著、大逆事件の真実をあきらかにする会編 『大逆事件を生きる 坂本清馬自伝』 新人物往来社、1976年。 はしもと・よしはる訳 『「大地」誌に発表された幸徳事件』 バルカン社、1971年。 荒畑寒村著、森長英三郎編 『大逆事件への証言』 新泉社、1975年。 山本博雄、佐藤清賢編 『橋浦時雄日記第一巻 冬の時代から 1908-1918』 雁思社、1983年。 荒畑寒村著、森長英三郎編 『大逆事件への証言』 新泉社、1975年。 自由思想の会編集 『自由思想4』大逆事件特集号、自由思想社、1961年。 秋山清 『啄木と私』 たいまつ社、1977年。 吉田孤羊 『石川啄木と大逆事件』 明治書院、1967年。 神崎清 『革命伝説』(全4巻) 芳賀書店、1968-69年。註:巻末年譜は誤記を散見、他の一次資料との照合必要。 森長英三郎 『内山愚童』 論創社、1984年。 柏木隆法 『大逆事件と内山愚童』 JCA出版、1979年。 他に徳富蘆花全集、蘆花集、日記も参考 幸徳事件を扱った作品 コミックス『「坊っちゃん」の時代 第四部 明治流星雨(谷口ジロー作。双葉文庫) 関連人物 幸徳秋水 新見卯一郎 奥宮健之 成石平四郎 内山愚童 高木顕明 宮下太吉 森近運平 大石誠之助 新村忠雄 松尾卯一太 古河力作 管野須賀子(管野スガ) 今村力三郎 平出修 平沼騏一郎 関連項目 関連文献 冤罪 外部リンク 平出修 『計画』 http //www.aozora.gr.jp/cards/000080/files/4144_10205.html 幸徳秋水事件で弁護人を務めた平出修が事件後、幸徳秋水と管野スガをモデルにして描いた小説。1912年9月4日初出。青空文庫 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年12月30日 (日) 05 09。
https://w.atwiki.jp/ymeconomy/pages/976.html
QMA 文系学問 歴史 ページ1 / 2 / 画像問題 / ニュースクイズ ヒント 答え 間違い解答群 18世紀のロシア皇帝ピョートル3世の妃エルミタージュ美術館ポーランド分割 エカテリーナ2世 エカテリーナ1世ピョートル1世ピョートル2世 1921年に結成された政党党歌は『ジョヴィネッツァ』パドリオ政権が解散させるムッソリーニが率いる ファシスト党 青年イタリア党黒シャツ党ファランヘ党 1922年に発見「死者の丘」の意味インダス川下流のシンド地方インダス文明の遺跡 モヘンジョ・ダロ タージ・マハルボロブドゥールアジャンター石窟寺院 1939年ハルハ河戦争満州とモンゴルの国境日本軍がソ連軍に敗退 ノモンハン事件 ファショダ事件盧溝橋事件柳条湖事件ドレフュス事件 1964年ソ連の最高指導者にファーストネームはレオニードデタントアフガン紛争に介入 ブレジネフ フルシチョフマレンコフモロトフ 698年に建国926年に滅亡都は上京竜泉府など五京建国者は大祚栄 渤海 百済新羅高句麗 NTTとJTが成立神田正輝と松田聖子が結婚つくば科学万博が開催阪神タイガースが日本一に 1985年 1982年1984年1983年 アメリカに帰化したオランダ人日記は幕末を知る貴重な資料攘夷の志士に殺害される駐日アメリカ総領事館の通訳 ヘンリー・ヒュースケン アーネスト・サトウタウンゼント・ハリスレオン・ロッシュ エリザベス1世のライバルジェームズ1世の母親19年間の幽閉悲劇のスコットランド女王 メアリ・スチュアート メアリ・オブ・ギーズメアリ・チューダーメアリ・シェリー サラトガコンコードレキシントンヨークタウン アメリカ独立戦争 ギリシャ独立戦争フランス革命オランダ独立戦争 セム系の民族シドン・ティルスなどの都市国家アルファベットの起源海上貿易で活躍 フェキニア人 アッカド人ヘブライ人アラム人 タイラーは米国第○代大統領ノアはアダムの○代目の子孫崇神天皇は第○代天皇徳川家治は江戸幕府第○代将軍 10 111213 デリー・スルタン朝のひとつデリーからアグラに遷都アフガン系の王朝パーニーパットの戦いで敗れる ロディー朝 ハルジー朝奴隷王朝サイイド朝 ドイツの政治家ハイデルベルク大学ヒトラーを追って自殺ナチスの宣伝相 ヨーゼフ・ゲッペルス カール・デーニッツオットー・ブラウンヒャルマール・シャハト ナントの勅令の廃止ナポレオン1世が退位宣言フランソワ1世が完成させるナポレオン3世の洗礼式 フォンテンブロー宮殿 ブルボン宮殿ベルサイユ宮殿シャイヨー宮殿 プランタジネット朝の国王父はヘンリー2世第3回十字軍に参加別名「獅子心王」 リチャード1世 エドワード1世チャールズ1世ジェームズ1世 リチャード1世ヘンリー2世エドワード3世ジョン プランタジネット朝 ハノーヴァー朝ステュワート朝テューダー朝 ローマの歴史家『歴史』『年代記』『ゲルマニア』 タキトゥス ルーフスサルスティウスヨセフス 海難事故にあい漂流オークランド号が救出リンカーン大統領に謁見日本最初の新聞を作った ジョセフ彦 ジョン万次郎大黒屋光太夫高田屋嘉兵衛 寛政の三奇人のひとり著書『山陵志』『職官志』現在の栃木県宇都宮市出身前方後円墳の名付け親 蒲生君平 林子平木下順庵頼山陽 紀元前264年~前146年大スキピオの「ザマの決戦」ハンニバルの「カンネーの戦い」カルタゴとローマの戦い ポエニ戦争 ユグルタ戦争ペロポネソス戦争マケドニア戦争 元ドイツ国立銀行総裁ニュルンベルク裁判では無罪ナチス・ドイツの政治家1935年経済大臣に就任 ヒャルマール・シャハト ヨーゼフ・ゲッペルスエルヴィン・ロンメルカール・デーニッツ 現在の宮城県仙台市出身寛政の三奇人のひとり号は六無斎著書『海国兵談』 林子平 高山彦九郎室鳩巣林羅山 古代ギリシャ、アテネの貴族武力でアテネの支配者に貧困層の市民を保護僭主政治をおこなう ペイシストラトス エパミノンダスクレイステネステミストクレス 江戸時代中期の儒学者倒幕に繋がる勤皇思想を説く明和事件で捕まり処刑著書『柳子新論』 山県大弐 山崎闇斎藤田東湖広瀬淡窓 江戸時代の僧著書『異国日記』諸法度の起草「黒衣の宰相」 崇伝 隠元沢庵良寛 国境を黒竜江・外興安嶺に定めるロシア側はピョートル大帝清側は康熙帝1689年に結ばれた対等な条約 ネルチンスク条約 アイグン条約イリ条約北京条約 左大臣・源信との戦い放火事件866年に起きた事件大納言・供善男が実行 応天門の変 桜田門外の変坂下門外の変安和の変 砂沢遺跡垂柳遺跡亀ヶ岡遺跡三内丸山遺跡 青森県 岩手県秋田県福島県 若き日の名は三好信吉八幡山城を築城小牧・長久手の戦いで大敗「殺生関白」 豊臣秀次 豊臣秀康豊臣秀勝豊臣秀保 松尾伝蔵斎藤実岡田啓介高橋是清 二・二六事件 五・一五事件三月事件十月事件 清が結んだ条約甲申事変後の1885年締結清仏戦争後の1885年締結アロー戦争後の1858年締結 天津条約 上海条約北京条約重慶条約 綜芸(しゅげい)種智院を創設四国八十八箇所真言宗の開祖弘法大師 空海 親鸞道元最澄 息子に殺される最初の名は軋犖山安史の乱を指導玄宗皇帝の信任を受ける 安禄山 史朝義安慶緒史思明 俗名は佐藤義清(のりきよ)元・北面の武士『新古今和歌集』に多くの和歌『山家集』を編さん 西行 無住阿仏尼仙覚 大日本帝国陸軍軍人東条英機と対立最終戦争論を唱えた満州事変を実行 石原莞爾 山本五十六辻政信山下奉文 大逆事件のひとつ1932年天皇の馬車に手榴弾李奉昌 桜田門事件 虎ノ門事件幸徳事件朴烈事件 唐様の書道の開拓者『興禅護国論』『喫茶養生記』臨済宗の開祖 栄西 隠元一遍道元 別名は「クリシュ」「不死身の一万人隊」を率いるメディアを滅ぼすアケメネス朝創始者 キュロス2世 クセルクセス1世ダレイオス1世カンビュセス2世 幕末の長州藩士妻は京都の芸妓・幾松変装の名人「桂小五郎」として知られる 木戸孝允 大村益次郎山県有朋高杉晋作伊藤博文久坂玄瑞 冉伯牛顔回子貢子路 孔門の十哲 芭蕉の十哲利休十哲木門の十哲 盧泰愚フィルモア足利義輝徳川家定 13代 14代15代12代
https://w.atwiki.jp/hikoushiki/pages/65.html
+日清戦争 日清戦争 () +日本帝国の明暗 日本帝国の明暗 () +産業革命 産業革命 () +労働運動の初幕 労働運動の初幕 () +内地雑居 内地雑居 () +藩閥・政党・政商 藩閥・政党・政商 () +社会主義への歩み 社会主義への歩み () +考えるホワイトカラー 考えるホワイトカラー () +東亜の嵐 東亜の嵐 () +日露戦争 日露戦争 () +反戦の闘い 反戦の闘い () +勝利の悲哀 勝利の悲哀 () +「普請中」の日本 「普請中」の日本 () +三井と三菱 三井と三菱 () +日韓合併 日韓合併 () +大逆事件 大逆事件 () +明治の終焉 明治の終焉 ()
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/446.html
Template Infobox 革命家? 幸徳 秋水(こうとく しゅうすい、明治4年9月23日(1871年11月5日) - 明治44年(1911年)1月24日)は、明治時代のジャーナリスト、思想家、社会主義者、アナキスト。本名は幸徳傳次郎(こうとく でんじろう)。秋水の名は、師事していた中江兆民から与えられたもの。大逆事件で処刑された12名の1人。 経歴 高知県幡多郡中村町(現在の高知県四万十市)に生まれる。幸徳家は、酒造業と薬種業を営む町の有力者で、元々は「幸徳井(かでい)」という姓で、陰陽道をよくする陰陽師の家であった。なお、妻の父は幕末の尊王攘夷運動で活躍し、足利三代木像梟首事件の首謀者とされている国学者の師岡正胤である。 明治20年(1887年)に上京し、同郷の中江兆民の門弟となる。新聞記者をめざし、『自由新聞』などに勤めた。明治31年(1898年)より『万朝報』記者となる。 国民英学会などで学び、明治33年(1900年)8月30日、旧自由党系政党の憲政党がかつての政敵である藩閥の伊藤博文と結び立憲政友会を結成したことを受け、万朝報に「嗚呼自由党死すや」と書き記した「自由党を祭る文」と題した批判論文を発表した。 明治34年(1901年)、『廿世紀之怪物帝国主義』を刊行し帝国主義を道徳的な見地から批判。これは当時、国際的に見ても先進的なものであった。また、この年田中正造が足尾銅山鉱毒事件について明治天皇に直訴したときの直訴状は、まず幸徳が書き、田中が手を加えたものである(田中が直訴状の執筆を依頼した者たちが後難をおそれてしりごみする中、幸徳だけが断らずに書いたといわれる)。 明治36年(1903年)、日露戦争開戦直前、ロシアとの開戦へと世論の空気が押されていくなかで、『万朝報』も社論を非戦論から開戦論へと転換させたため、盟友の堺利彦、キリスト教徒の内村鑑三と共に発行元の朝報社を退社する。幸徳と堺は非戦論を訴えつづけるために平民社を開業し、週刊『平民新聞』を創刊した。 明治38年(1905年)に渡米し、クロポトキンなどの影響を受け、無政府主義に傾く。こうして伝統的権威を否定し、労働者による直接行動を提唱するようになった。 明治43年(1910年)6月、「大逆事件(幸徳事件)」において逮捕。翌年に死刑判決を受け、他の死刑囚とともに異例の早さで処刑された。これには当時すでに国内や海外の一部から批判があり、社会主義者たちを一網打尽にしたかった当局が仕組んだ謀略である、というのが現在ではほぼ定説になっている。(厳密には管野須賀子ら数名による皇族暗殺計画の準備はあったといえるので、全てが事実無根の謀略というわけではない。しかし、幸徳ら無関係の人間が多数死刑になったことは、重大な冤罪といえる) 評価 1960年代頃より新資料などが発見されて以来、大量の研究書が発表されており、大逆事件(幸徳事件)は国家によるフレームアップの典型例であることは確実となった。批評家柄谷行人や浅田彰、すが秀実、鴻英良らは大逆事件を大日本帝国(日本帝国主義)の重大なメルクマールとしてみなし、その波及効果を研究している。ほかユニークな評価としては批評家の福田和也が愛国者として秋水を評価するものがある福田和也『余は如何にしてナショナリストになりし乎』光文社pp.92-96。 著作史料 飛鳥井雅道編・解説『幸徳秋水集』(『近代日本思想大系』第13巻)、筑摩書房、1975年(昭和50年)11月。 伊藤整編『幸徳秋水』(『日本の名著』第44巻)、中央公論社、1970年(昭和45年)9月。 大逆事件の真実をあきらかにする会編『大逆帖-堺氏蔵』、大逆事件の真実をあきらかにする会、1981年(昭和56年)1月。 塩田庄兵衛編『幸徳秋水の日記と書簡』増補決定版、未來社、1990年(平成2年)4月。 中島及『幸徳秋水漢詩評釈』、高知市民図書館、1978年(昭和53年)3月。 山泉進編・解題『幸徳秋水』(平民社資料センター監修『平民社百年コレクション』第1巻)、論創社、2002年(平成14年)10月。ISBN 4-8460-0353-1 『幸徳秋水文集』(『解放群書』 第7編)、解放社、1926年(大正15年)。 『幸徳秋水集』(『改造文庫覆刻版』第1期)、改造図書出版販売、1977年(昭和52年)2月。 幸徳秋水全集編集委員会編『幸徳秋水全集』全9巻・別巻2巻・補巻、明治文献、1968年(昭和43年)-1972年(昭和47年)。 山泉進校注『帝国主義』(『岩波文庫』青版125-1)、岩波書店、2004年(平成16年)6月。ISBN 4-00-331251-1 参考文献 Template 参照方法? 秋山清・大沢正道『幸徳・大杉・石川-日本アナキストの原像』、北日本出版社、1971年(昭和46年)。 飛鳥井雅道『幸徳秋水-直接行動論の源流』(『中公新書』193)、中央公論社、1969年(昭和44年)6月。 絲屋寿雄著『幸徳秋水伝』、三一書房、1950年(昭和25年)。 絲屋寿雄著『幸徳秋水研究』、青木書店、1967年(昭和42年)。 絲屋寿雄著『幸徳秋水』(『Century books』『人と思想』)、清水書院、1973年(昭和48年)。 絲屋寿雄『幸徳秋水研究』増訂版(吉田精一監修『近代作家研究叢書』53)、日本図書センター、1987年(昭和62年)10月。 大河内一男『幸徳秋水と片山潜-明治の社会主義』(『講談社現代新書』)、講談社、1972年(昭和47年)。 大野みち代編『幸徳秋水』(『人物書誌大系』3)、日外アソシエーツ、1982年(昭和57年)6月。 大原慧『幸徳秋水の思想と大逆事件』、青木書店、1977年(昭和52年)6月。 神崎清『実録幸徳秋水』、読売新聞社、1971年(昭和46年)。 坂本武人『幸徳秋水-明治社会主義のシンボル』(『センチュリーブックス』・『人と歴史シリーズ』日本36)、清水書院、1972年(昭和47年)。 坂本武人『幸徳秋水-明治社会主義の一等星』(『清水新書』)、清水書院、1984年(昭和59年)10月。 塩田庄兵衛『幸徳秋水』(『新日本新書』)、新日本出版社、1993年(平成5年)6月。 田中惣五郎『幸徳秋水 一革命家の思想と生涯』(『人物評伝三部作』)、三一書房、1971年(昭和46年)。 西尾陽太郎『幸徳秋水』(日本歴史学会編『人物叢書』新装版)、吉川弘文館、1987年(昭和62年)5月 F・G・ノートヘルファー(竹山護夫訳)『幸徳秋水-日本の急進主義者の肖像』、福村出版、1980年(昭和55年)2月。 林茂『近代日本の思想家たち-中江兆民、幸徳秋水、吉野作造』(『岩波新書』)、岩波書店、1958年(昭和33年) 師岡千代子『夫・幸徳秋水の思ひ出』、東洋堂、1946年(昭和21年) 師岡千代子『風々雨々-幸徳秋水と周囲の人々』、隆文堂、1947年(昭和22年) 山泉進「社会主義と社会進化論-幸徳秋水」、野田又夫・田丸徳善・峰島旭雄編著『近代日本思想の軌跡-西洋との出会い』、北樹出版、1982年(昭和57年)4月。 山泉進「幸徳秋水のなかのアナーキズム-自由思想と大逆と」、『現代思想』第32巻第6号(特集=アナーキズム)、2004年(平成16年)5月。 渡辺順三編『十二人の死刑囚 大逆事件の人々』、新興出版社、1956年(昭和31年) 脚注 関連項目 田中正造 大逆事件 奥宮健之 外部リンク 幸徳 秋水:作家別作品リスト(青空文庫) 幸徳事件 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月20日 (木) 16 48。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/450.html
桜田門事件(さくらだもんじけん)とは、1932年(昭和7年)1月8日に昭和天皇の暗殺を狙った襲撃事件(大逆事件)である。なお犯人(後述)は現在の刑法では廃止されている天皇に対する暗殺未遂の罪である大逆未遂罪に問われ、処刑された。 事件の概要 桜田門は皇居にある門のひとつであり、1860年には井伊直弼が殺害された桜田門外の変の現場でもある。1932年1月8日に昭和天皇が乗車した馬車が桜田門外を進行中に、沿道からの手榴弾が投げつけられた。しかし手榴弾は威力が小さかった上に的を大きく外れ、宮内大臣一木喜徳郎乗車の馬車左後輪付近で炸裂した。結果として近衛兵一人が負傷、馬車を破壊し馬2頭も負傷した。 事件の背景 犯人は、朝鮮半島に対する日本の植民地支配からの解放を目指す金九が首班の「大韓民国臨時政府」(在・中国上海)が組織した抗日武装組織韓人愛国団によって刺客として派遣された、李奉昌(イ・ボンチャン、当時32歳)であった。李は犯行の前々日に偶然入手した憲兵の名刺を使い、新聞で知った昭和天皇が臨席する観兵式の警戒網を突破したものであった。しかし動揺のために襲撃に失敗したものである。逮捕後李は大逆罪に問われ、同年9月30日に大審院(裁判長和仁貞吉)において死刑判決が下されて、10月10日に処刑された。 なお、事件発生を受けて犬養内閣は内閣総辞職を決定するが、翌9日に昭和天皇からの慰留によって、犬養毅首相以下全閣僚が残留することになった。ちなみに上海では中国国民党機関紙「民国日報」が事件の発生に対して好意的な報道をしたことから、現地の日本人社会による糾弾運動に発展したために日中関係が緊迫化し、第1次上海事変の原因の1つになる。 現在、大韓民国では李奉昌を独立運動の義士とし、独立記念館で顕彰されており、1992年には逝去60周年を記念する郵便切手が発行された。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月22日 (月) 21 35。
https://w.atwiki.jp/gta0enjoyjp/pages/11.html
グラセフエンジョイ鯖 - 歴史 本ページでは本鯖の歴史について解説します。 なお、大逆事件以前の記録はほぼすべて喪失(ドラゴンボール騒動以前に至っては完全喪失)されているため、 大逆事件以前を「先史時代」、以降を「有史時代」として区別しております。 先史時代 ・2020/11/14 - グラセフエンジョイ鯖創設 + ... ・2021/05 頃 - 第一次チーター粛清 + ... ・2021/05/14 - ドラゴンボール騒動 + ... ・2021/05/20 - カヨ・ペリコ強盗のフィナーレ周回が可能と発見 + ... ・2021/06/11 - 第二次チーター粛清 + ... ・2021/07/24 - 大逆事件 + ... 有史時代 ・2023/09/03 - 黒服業務開始 + ... ・2023/09/09 - 親玉(現だいとーりょー)にtomo氏就任 + ... ・2023/09/10 - 市民革命・新体制移行 + ... ・2023/09/14 - GTAV発売10周年記念 大人数企画 + ... ・2023/09/16 - サーバークルー「GTA Enjoy JP」創設 + ... ・2023/09/16 - サーバーガイドライン公布 + ... ・2023/09/21 - 鯖缶権限がtomo氏へ完全移行 + ... ・2023/09/24 - 黒服実働部隊創設 + ... ・2023/09/24 - 【第1回】エンジョイ鯖カーミーティング + ... ・2023/09/30 - ディスコード速報に展開 + ... ・2023/09/30 - アットウィキに展開 + ... ・2023/10/03 - 強盗検定システム実装 + ...
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/449.html
虎ノ門事件(とらのもんじけん)は、1923年12月27日に、虎ノ門外において皇太子・摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)が難波大助に狙撃された事件である。 事件発生 1923年12月27日、摂政として第48通常議会の開院式に出席するため、自動車で貴族院へ向かっていた皇太子に、虎ノ門外で群衆の中にいた難波大助が接近し、ステッキ仕込み式の散弾銃で狙撃した。銃弾は車の窓ガラスを破り、皇太子には命中しなかったが、同乗していた侍従長・入江為守が軽傷を負った。なお、皇太子は事件後、側近に「空砲だと思った」と平然と語ったとされる。 その直後、難波は周囲の群衆によって袋叩きにされ、難波の身柄を確保しようとする巡査は身をもって難波に対する殴打を防がなければならなかった。難波はのちに大逆罪で死刑判決を受けている。 この事件の背景には、亀戸事件などの労働運動弾圧があった。 影響 当時の内閣総理大臣山本権兵衛は摂政である皇太子に即刻辞表を提出した。それを受けた皇太子は12月29日に山本を慰留したが、山本の決意は変わらず、1月7日に総辞職は認められた。また、当日の警護責任を取り、警視総監湯浅倉平と警視庁警務部長の正力松太郎が懲戒免官になった。難波の出身地であった山口県の県知事に対して2ヶ月間の2割減俸、途中難波が立ち寄ったとされる京都府の府知事は譴責処分となった。また、難波の郷里の全ての村々は正月行事を取り止め喪に服し、難波が卒業した小学校の校長と担任は教育責任を取り辞職した。 庚申倶楽部に所属していた衆議院議員の父・難波作之進は報を受けるやただちに辞表を提出し、閉門の様式に従って自宅の門を青竹で結び家の一室に蟄居し、餓死自殺した。長兄は勤めていた鉱業会社を退職した。なお、難波の処刑後、皇太子は「家族の更生に配慮せよ」と側近に語った。 参考文献 今井清一 『日本の歴史〈23〉大正デモクラシー』 2006年、ISBN 9784122047174。 関連項目 大逆事件 難波大助 テロリズム 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月15日 (水) 09 16。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/612.html
{{日本の内閣記事|だい2じ かつら ないかく|13|桂太郎|Template 和暦?|7月14日|Template 和暦?|8月30日|官僚内閣|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/13.html|陸軍大将・軍事参議官}} 概要 第2次桂内閣は、1908年(明治41年)7月12日に大命降下を受けた桂が、首相と大蔵大臣を兼務して発足する。戊申詔書による風紀引き締めと同時に社会主義運動を弾圧、大逆事件(幸徳事件)の摘発や南北朝正閏問題への介入、出版物の取締強化を行った。また、徹底した緊縮財政とともに地方改良運動を起こして地方の立て直しを図った。外交面では韓国併合を実現し、関税自主権の回復による条約改正の終了などが日本の国際的地位向上に尽くした。大逆事件に対する責任追及が上がると、立憲政友会との「情意投合」を宣言して、秘かに西園寺公望への再度の政権譲渡を約束した。 条約改正の終了を機に西園寺への政権譲渡を決断し、内閣総辞職した。 国務大臣 内閣総理大臣 桂太郎(公爵・陸軍大将) 外務大臣 寺内正毅(臨時兼任)(伯爵・陸軍大将) 1908年(明治41年)8月27日 - 1911年(明治44年)8月30日 小村壽太郎(侯爵) 内務大臣 平田東助(子爵) 大蔵大臣 桂太郎(兼任) 陸軍大臣 寺内正毅 海軍大臣 齋藤實(男爵・海軍中将) 司法大臣 岡部長職(子爵) 文部大臣 小松原英太郎 農商務大臣 大浦兼武(子爵) 逓信大臣 後藤新平(男爵) 内閣書記官長 柴田家門 法制局長官 安廣伴一郎 外部リンク 首相官邸 - 第2次桂内閣 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月17日 (月) 14 23。
https://w.atwiki.jp/kangokusyounen/pages/34.html
年表の表示を切り替える 西暦 元号 月日 作中の出来事 作中の歴史 正史 西暦 元号 月日 作中の出来事 作中の歴史 正史 1839年 九泉草戦争 アヘン戦争 1867年 慶応3年 大政奉還 大政奉還 1868年 明治元年 6月 太政官布告第319業を布告し、政府は九泉草を厳しく取り締まった 太政官布告第319号で阿片煙草の売買,吸引を禁止 1869年 明治2年 1870年 明治3年 8月 九泉草の栽培、使用や売買を含めて罰則規定を設け、重罪とした。 太政官布告で阿片令を発し、阿片の所持、使用、売買を禁じるだけでなく、違反した者はただちに斬首と厳罰を規定 1871年 明治4年 1872年 明治5年 1873年 明治6年 1874年 明治7年 1875年 明治8年 1876年 明治9年 1877年 明治10年 1878年 明治11年 1879年 明治12年 1880年 明治13年 1881年 明治14年 1882年 明治15年 1883年 明治16年 1884年 明治17年 1885年 明治18年 1886年 明治19年 1887年 明治20年 1888年 明治21年 1889年 明治22年 大日本憲法施行 大日本帝国憲法施行 衆議院議員選挙法制定 1890年 明治23年 凌雲閣建設 凌雲閣建設 1891年 明治24年 1892年 明治25年 1893年 明治26年 1894年 明治27年 1895年 明治28年 日清戦争に勝利し、初の植民地である台湾を割与 1896年 明治29年 1897年 明治30年 1898年 明治31年 莫大な国家予算を費やし、台湾の土地改革、整備、(汚れていて読めない)撲滅、学校教育の普及を行った。 西暦 元号 月日 作中の出来事 作中の歴史 正史 1899年 明治32年 1900年 明治33年 1901年 明治34年 直也、充、誕生(推定) 1902年 明治35年 1903年 明治36年 1904年 明治37年 日露戦争勃発 1905年 明治38年 日露戦争に日本が勝利 1906年 明治39年 1907年 明治40年 凪(推定)、大和、誕生 1908年 明治41年 哲、誕生 昭和天皇学習院初等科入学 1909年 明治42年 1910年 明治43年 大逆事件、(明治天皇の暗殺を計画したとして大逆罪の容疑で多くの社会主義者や無政府主義者が逮捕・処刑された。(*1) 信州の社会主義者宮下太吉ら4名による明治天皇暗殺未遂、いわゆる大逆事件発生 1911年 明治44年 危険思想取り締まりのための専任警部を内務省が勅令で決定。主要都市を中心に特殊高等警察が配置された。凌雲閣の地下に反逆者の禁固及び尋問を目的とした監獄十二階を設営する。(*2) 8月 大逆事件を受けて警視庁に高等警察から分立して特別高等課を設立 1912年 明治45年/大正元年 1913年 大正2年 1914年 大正3年 東京駅開業世界大戦勃発(*3) 第一次世界大戦勃発 1915年 大正4年 1916年 大正5年 暁哲の父、乱心。哲8歳、冴木家に引き取られる 1917年 大正6年 1918年 大正7年 4月 充、直也、高等科入学 7月~9月 米騒動 11月11日 第一次世界大戦終結 冬 大和、13歳の冬に両親死亡。 戦後恐慌が起きた。戦後の大戦景気が一気に鎮静化して需要と供給のバランスが崩れ、大きな銀行や工場が次々と倒産し各地で反乱や騒動が起こった。 1919年 大正8年 世界大戦終了 日本勝利(*4) 1920年 大正9年 大河周吾、特高に入る 1921年 大正10年 原敬暗殺事件敗戦国ドイツ、多大な借金に国民があえぐ。反乱の予兆か(*5) 1922年 大正11年 4月 直也、大学寮入寮 ソビエト連邦成立(*6) 冬 景気の悪化。ついこの間、娼婦が集団で気狂いを起こして死んだ。浅草で「天国に行ける薬」が出回っている。(*7) 1923年 大正12年 4月 江戸川乱歩「二銭銅貨」でデビュー 9月11日 関東大震災 1924年 大正13年 3月 充、直也(23歳)、大学卒業 治安維持法に反対した労働団体が抗議。政権交代。女性の社会進出により動きやすい簡易服が広まる 4月 充、直也、特高に入る 大河周吾死亡 1925年 大正14年 普通選挙開始(*8)ソビエト連邦との国交樹立により共産党主義革命運動の過激化を懸念して治安維持法を施行。これにより特殊高等警察の活動は活発化した(*9) 男子普通選挙開始。治安維持法 1926年 大正15年 4月 哲(18歳)、凪(19歳)、大和、特高に入る 西暦 元号 月日 作中の出来事 作中の歴史 正史 1926年 大正15年 8/22⇩9/1 【監獄少年本編】 1926年 昭和元年 12月5日 大正天皇崩御 大正天皇崩御 1927年 昭和2年 1928年 昭和3年 3月 (END13トッコウの場合、夜桜会のクーデター成功、軍事政権が成立する) 1929年 昭和4年 世界恐慌から戦争(END3一輪の花) 1930年 昭和5年 9月 桜会結成 1931年 昭和6年 1932年 昭和7年 1933年 昭和8年 1934年 昭和9年 1935年 昭和10年 1936年 昭和11年 1937年 昭和12年 1938年 昭和13年 1939年 昭和14年 1940年 昭和15年 国民優生法 1941年 昭和16年 夜桜会の残党がクーデターに失敗 第二次世界大戦勃発 19XX年 真珠湾攻撃により第二次世界大戦始まる 19XX年 第二次世界大戦終了
https://w.atwiki.jp/forsale-lawyer/pages/142.html
高尾平兵衛の出版法違反被告事件 高尾平兵衛は、大正9年2月、森戸辰男の論文「クロポトキンの社会思想の研究」の謄写版を秘密出版して同志に密売した罪、及び同年5月頃「クロポトキン」著「法律と強権」(大逆事件で死刑に処せられた大石誠之助が秘密出版したもののようである。)を秘密出版した罪により、出版法違反により第一の事実につき印刷、発行人として各禁錮二月、第二の事実につき禁錮一月、罰金二十円に処せられた。 その刑事公判において、被告人不起立事件が起きた。 すなわち、『客年七月五日右事件公判中検事ノ論告ニ対シ裁判長ハ被告ニ起立ヲ命シタルニ「吾々ハ絶対自由ヲ欲ス若シ強テ起立セシメムトセハ暴力ニ訴フヘシ」ト怒号シ、裁判長ハ「左程秩序ヲ無視スルナラハ何故裸体ニテ入廷セサリシヤ」ト叱スルヤ本人ハ矢庭ニ双袒ヲ脱シ傍聴中ノ同志モ之ニ和シ喧噪セルヲ以テ被告ニ退廷ヲ命シタリ』(以上、『特別要視察人ノ近状及其ノ取締ノ概況』第二要視察人ノ行動、(A)東京の部、(ホ)在京一般要視察人ノ行動(3)附記、より引用。)がそれである。 この一件について言及しているのが高尾平兵衛保釈願である。 また、同公判においては、『同年八月廿四日公判ノ際「平民大学夏期講習生」ハ見学ノ為ト称シ他ノ要視察人等ト共ニ傍聴シ裁判長ヲ罵倒シ又ハ被告ニ声援スル等ノ行動アリ退廷ヲ命セラレ法廷外ニ於テ革命歌ヲ高唱喧噪セル為主ナルモノ四名ヲ所轄警察署ニ検束セリ』(以上、上記参照の同資料、同部分より引用。)という事件も起きている。禁止公判傍聴許可願はこのときの許可申請書であるかもしれない(許可願に記された日にちは異なるが、大正9年8月12日に平民大学夏期講習として公判傍聴が行われたことは上記同資料において明らかであるので、8月24日という記述が誤記なのかもしれない。)。 (以上については、森長英三郎『山崎今朝弥-ある社会主義弁護士の人間像』(紀伊國屋新書、1972年)133頁、『特別要視察人ノ近状及其ノ取締ノ概況』を参考にした。)