約 316,357 件
https://w.atwiki.jp/yamangelion/pages/113.html
人類と魔族が繁栄し、神が調和を司る世界。 種は争い、滅び、再生を繰り返す。 境界の扉が開かれる。それが終焉の合図となる。 大厄災によって文明は消え去り、生命は途絶え、やがて世界は生まれ変わる。 7度目の世界 -現代- 繰り返される破滅の連鎖を断ち切るため、世界が動き出す 6度目の世界 -参剣の時代- 幾多の争いが集約し、禁忌とされる聖獣が目覚めし時代 5度目の世界 -帝国の時代- 恐怖と絶望が支配する咎人の時代 4度目の世界 -支配の時代- 古より存在し人間族と対立してきた、魔族の時代 3度目の世界 -混沌の時代- 欲望と衝突の果てに、神に見放された時代 2度目の世界 -革命の時代- 崩壊した世界に生まれし、禁断の兵器の時代 1度目の世界 -始祖の時代- 相容れぬ種による争いの始まり Piece of Memories 様々な記憶、意志が紡ぎ出す外伝集 イベントシナリオ 定期的に開催される限定イベントのシナリオをまとめた項
https://w.atwiki.jp/wiki5_eroparo/pages/420.html
【板名】時代小説 【理由】時代小説は高齢者から若者にまで幅広く人気があり、 歴史を知っていく上で重要だから。 【内容】時代小説について語る。 【鯖】book4 【フォルダ】bookj 【カテゴリ】漫画・小説等 【名無し】貴様!名を名乗れ! 【ID】強制
https://w.atwiki.jp/snsd-j/pages/13.html
このページはhttp //www.snsd-j.com/doku.php?id=topからの引用です [[top]] 少女時代 wiki ソースの表示 最近の変更ログイン メニュー TOP スケジュール ライブ情報 編集練習ページ リンク 管理人へのメッセージ 少女時代wiki9月8日仮オープン! 9月8日少女時代日本デビューにあわせて「少女時代wiki」仮オープンしました! 始めは、少女時代のスケジュール情報を中心に追っていきたいと思います。 一部を除いて誰でも編集できるようになっているので、みなさんもいじってみてくださいw よろしくお願いします~ 少女時代wikiへようこそ! wikiはみんなで気軽にホームページ編集できるツールです。左のメニューとTOPページ以外は、誰でも編集できるようになっています。 現在、少女時代のスケジュールを中心にまとめています。 @swdy_kr follow me on Twitter top.txt · 最終更新 2010/09/08 19 09 by admin ソースの表示 文書の先頭へ
https://w.atwiki.jp/karasawafan/pages/105.html
- 何かと謎の多い唐沢俊一センセイの学生時代。先生の自分語りの学生時代は時として多次元宇宙に迷いこんでしまう事もあるので御用心。 ちなみにペギー葉山さんのヒット曲「学生時代」で歌われている「♪ツタの絡まるチャペルで」の舞台になっている大学は青山学院大学です。 1999年11月06日(土曜日) 成美堂には高校時代からずっと通っているが、非常に本の並べ方が雑なところで、売場に飼い犬(しかもデカい)がウロついていたりする。ここで掘り出し物を見つけたのはこれが初めてではないか? 1999年11月22日(月曜日) スタームービーは例のホモ映画館世界傑作劇場の下にあるとこ(旧名スター座)だが、改装されてえらいシャレた映画館になっている。大学生時代、ここに入ったら最後列の席が、公園から持ってきたようなベンチを針金で床にくくりつけてあっただけだったのに驚いたもの。 2000年01月22日(土曜日) これ、高校時代に友人の千葉という男の家で聞いてから欲しくなって、24年間ずっと探していたソノシートであった(しかも、当時のものより保存状態がいい)。これが500エン。来阪のモトをとった気になる。 2000年02月14日(月曜日) ケンカちゅうの某評論家に政治的折衝を行って和解しようとしたところへ、高校時代の友人の香城貴麿がやってきてメチャクチャにする、という夢を見る。香城というのは医者のドラ息子でラチもない男だったが、卒業以来一度も会ったこともなければ思い出したこともない。なぜそんな奴が、しかもまったく関係ないシチュエーションの夢の中に出てくるのか? 2000年03月16日(木曜日) 青山学院大の大学新聞からインタビュー依頼。電話口の女の子の声が、何か中学生みたいだった。大学生になったときは、自分もこれで一人前だ、などと思っていたものだったが、あの頃の私も、オトナたちからは中学生みたいだと思われていたのだろう。 2000年03月21日(火曜日) ここの先生(30歳くらい?)、指圧はうまいのだが、客との会話が極めて不得意。それでも何か話さねば、と思うらしく、いきなり何の脈絡もなく「・・・・・・お客さんは、三鷹とかによく行ったりしますか?」などと訊いてくる。「学生時代は阿佐谷だったし、いい映画館があったりしてよく行きましたけどねえ。最近はあまり行かないなあ」「・・・・・・そうですか」 2000年03月24日(金曜日) 3時、時間割で青学新聞のインタビュー。現在第一線で活躍している先輩から新入生へ何かメッセージを、と言われるが、苦笑する。ほとんどガッコなんか行かずに好きな映画と芝居と寄席と古本屋に通いまくれ、とも言えない。フリーの仕事なんて、運が8割以上、とも言えない。ただ、学生時代に周囲を見渡せば、自分の能力のレベルというのは客観的に見えてくる。世の中に出たとき、そこをきちんと認識している奴とカン違いしている奴の差は大きいよ。 2000年04月15日(土曜日) 自由が丘武蔵野館で『夜叉ヶ池』レイトショー。いくと、と学会のメンバーや開田さんの知り合いなど、顔見知りがいっぱい(笑)。思えばこの映画、学生時代にそのキッチュな耽美感覚故に、映画というものの概念を塗り替えさせられた作品である。 2000年07月19日(水曜日) (夢の話)それから、大学時代、つきあいかけたことのある女性の亭主も出てくる。どちらもまず、普段は記憶の端にものぼらぬ顔。 2000年08月09日(水曜日) 一階のカウンターが一杯なので、昔ながらのゴールデン街の、ハシゴ段のような急な階段を上って、まだ改装中の二階ギャラリーで飲ませてもらう。安っぽい蛍光灯の看板が並ぶゴールデン街の雰囲気はいいが、“撮影有料”という貼札を見たときには少々幻滅を覚えた。それに、こういうところの常連というのは、ゴールデン街で飲んでいる自分というものに酔っている人種が大半である。学生時代、出版社の人や映画業界の人に何回か連れてきてもらったが、いい思い出はあまりない。 唐沢先生が学生時代から出版社の人や映画業界の人との付き合いがあったとは新しい発見であります。やはり高橋留美子さんより業界の先輩というのは本当だったのかもしれません 2000年08月29日(火曜日) すすきのの古書店の老舗、成美堂がいよいよ閉店だという話など。もちろん古書店の閉店はいい話じゃないが、この店、私が中学生くらいからずっと通っていて、いわゆる掘り出し物を見つけた経験が一度しかない。こないだそこで須賀さんと待ち合わせていたときである。 1999年11月06日の日記では高校時代から通っていた事になっています 2000年09月25日(月曜日) 学生時代、蒲田の東映系名画座の薄よごれたスクリーンで『十三人の刺客』を初めて観たときは、興奮で体がブルブルと震えたものである。 2000年10月09日(月曜日) 旅そのものは楽しかったが、乗物でバテた。しかし、このごろ狂乱的に遊んだり食べ歩いたりしているな。私は学生時代にそういうバカ騒ぎをあまり経験していないので、昨今で取り返す気になっているのかもしれない。 2000年11月08日(水曜日) 8時半、新宿へ出てK子とすし処すがわら。白身、コハダ、赤貝など。あと、つまみでイカとイワシ。タコ茹でたて。シメはカンピョウ巻。大学時代は寿司屋でタコだのカンピョウだのを食べるなんて野暮の骨頂、と思って見向きもしなかったが、こういうものが好きになるとは、年月というものは恐ろしい。 先生の学生時代は貧乏が売りだと思っていたのですが、寿司屋に行っていたのですね。 2001年02月16日(金曜日) 学生時代、新東宝映画などのオールナイトで、出てくる映画出てくる映画みんな並木鏡太郎で、またかい、と呆れたことを覚えている。 2001年04月04日(水曜日) (『エマニエル夫人』の話)この映画の面白さを再認識したのは、やはり大学時代、映画の乱観賞をしていた時期に、恵比須か五反田の映画館でシリーズ三本立てを観てからである。 『エマニエル夫人』について語るなんて、電話があるまで思いもしないことだったし、まとまった感想など高校時代以降一回も考えたことがなかったが、これだけしゃべってしまったことに我ながら驚く。Mさん、“これで一冊、本を書けますよ”という。 2001年04月11日(水曜日) 青山の『宣伝会議』。私が学生時代の青山ってのは古い家が多くてそんなスカしたところではなかったが、路地に入って思わず“うひゃー”と声をあげてしまうほどおしゃれな感じになっている。 2001年05月21日(月曜日) 大学時代、母親が“有名な占いの先生にお前のことを見てもらった”と託宣をうやうやしく書いた紙を見せられたことがあったが、まるで当たっておらず、何だこりゃ、と思ってよく読むと、母がセンセイに教えた私の年齢が、生まれ年も月日もまるで違っていて、これじゃ当たらないよ、ムスコの誕生日くらい覚えておきなよ、と呆れ返ったこともあったほどだった。 2001年05月23日(水曜日) 貧乏学生時代、新宿ピット・インでコークハイ一杯でねばりながら、コルゲン・バンドに聞き入っていたことを思い出す(中村誠一がサックスで参加していたなあ)。 2001年05月31日(木曜日) (父親の葬式で)古い番頭さん、私の大学時代の薬剤師さん、店員さんたち、いろいろな応対で、さすがにバテてくる。 2001年06月25日(月曜日) (父親の二七日の法事で実家にて)葛根湯のドリンクをのみ、二階でしばらく寝転がる。学生時代の書棚から、岩波文庫のマルクス・アウレリウス『自省録』を何気なしに取り出して読みはじめたら、一瞬にしてグーと寝入ってしまった。 2001年07月04日(水曜日) BGMに1920年代のサッチモのジャズ。陶然たり。私が生まれる三十年以上前の音楽でちゃんとノスタルジーの快感を味わえるのは、学生時代から古い映画、レコード、本にたっぷりすぎるほど親しんできた恩恵というもの。“自分は若いから”“世代が違うから”と、ノスタルジーに対する勉強を拒否してきた連中は、結局、人生を半分(前半分)しか楽しめていない。かわいそうだなあ、と思う。 2001年08月08日(水曜日) 新宿三丁目駅で降りて、久しぶりにホモショップ『カバリエ』を冷やかす。(略)思えばこの店にも大学時代から二十数年、足を運んでいることになるんだな。やおいブーム初期のころ、デートで、ここに女の子をエスコートしていってあげると大変に感謝されたものである。 2001年11月05日(月曜日) (『風太郎の死ぬ話』)という『わが家は幻の中』の一節が印象に残る。そういえば、山風の現代ミステリに、このアイデアを利用した『さようなら』という好短編があった。私は大学時代にこれを読んで、ああ、大友克洋(『ショートピース』の頃の、である)にこれを漫画化させたい! と切実に思ったことであった。 2001年12月08日(土曜日) 仙台にいたとき、駅ビルの日替わりランチが実に私の嗜好にあったまずさで、日曜除いた週6日、そればかり食べていたことがある。 2002年01月01日(火曜日) 朝6時ころ目が覚め、寝所の中で児島譲『東京裁判』(中公文庫)を読む。高校時代に買った本。もう三、四読目だろうが、昨今記憶力がとみに衰え、記憶があやふやになっているので新鮮に読める。 2002年01月31日(木曜日) 学生時代の阿佐ヶ谷の、外食券食堂あがりの定食屋を思い出す。 2002年05月02日(木曜日) ドームでプロレス見るのも久しぶりである。と、いうか、北尾のプロレスデビューのとき以来だから、もうはるか昔に属する事項ではないか? さらに昔、大学時代、ことに仙台にいた自分は仙台市体育館や宮城県スポーツセンター、気仙沼あたりまでしょっちゅう足を運んで、めったにテレビ中継もない田舎プロレスの醍醐味を味わっていたものだった。シンのサーベルのうなりやブロディの鎖のジャラジャラをすぐ耳元で聞けた(ローラン・ボックの、イヤミたらしい技もほとんどリングサイドで見られた)のは仙台時代の数少ないいい思い出のひとつである。 2002年05月18日(土曜日) 御飯は少な盛りにしてもらい、十分かけずに食い終わる。息もつがず丼ものを平らげる快感。私は高校生くらいまで極めて食の細い子で、これが出来なかった。足の病気で親が過保護に育てたせいもあったろう。大学に入って一人暮らしをはじめてから、この快感にとらわれて、一気に胃袋が拡張し、体重が増えた。しかし、これも若いうちの特権のような快感である。あと何年、味わえるのか。と、言うよりこの足の痛みが慢性化したら、古書店めぐりも出来なくなる。今のうちに快楽は味わうだけ味わっておくべきなのか、味わえなくなったとき嘆きの少ないように自制しておくべきなのか。 2002年06月19日(水曜日) 仙台時代、ジーパンを新調して、その店からの帰り道に、同じように転んで一本、買って数分で台無しにしたのを思い出した。あのときは貧乏の極みだっただけに、泣くに泣けなかった。 2002年06月20日(木曜日) まず、珍味と折り紙つきの、生サエズリ。鯨の舌である。学生時代、関西ではじめておでんダネとしてサエズリを食って、ふわふわした妙てけれんなもんだ、と思ったものだが、このサエズリは生のベーコンのような感じで、ねっとりじんわりした歯ごたえ、噛みしめると口じゅうに旨みが染みてくる。 2002年06月27日(木曜日) 私も学生時代、池波正太郎を気取って鰹の刺身で昼酒としゃれたことがあったっけ。 2002年07月07日(日曜日) タクシーでほの明るくなった街を見ながら眠い眼をこすり家路につくのは、学生時代にもどった気分。こういうのもたまにはよかろ。 2002年07月15日(月曜日) 私の高校時代は当然のことながら深夜放送が受験勉強の友で、クラスはだいたいニッポン放送オールナイトニッポン派とTBSのパックインミュージック派に別れていて、私はタモリを擁するオールナイトニッポン派の切込隊長的な立場だったが、それでもときどきこっそりとTBSも聞いており、野沢那智と白石冬美、小島一慶などと並んで、林美雄の声から東京の香りを雪深い北海道で受け取っていた。彼ら四人の歌っている“ヤバド、ヤバドヤバドバ、たまんないな〜”という歌『赤頭巾ちゃん気をつけろ』の録音テープ、まだ押入のどこかにあるはずだ、探してみよう。 2002年08月27日(火曜日) まだ学生時代に『ダーティハリー3』を観て、あんなにけなげで可愛いタイン・デイリーをラストで殺しやがったことに腹を立て、“もう、こんなヤツの映画なんか二度と観るもんか”と、心に誓ったのであった。 2002年08月30日(金曜日) 玉川一郎『たべもの世相史・東京』(1976年、毎日新聞社)に、カキフライのことを“カキフ”と省略する女が出てきて、それが『失われた時を求めて』のマドレーヌ的な働きをし、学生時代に意識が一気にさかのぼってしまった。あの当時阿佐ヶ谷にあった、外食券食堂時代の店舗をそのまま使っているんじゃないかというような、カウンター数席のみの飯屋『だるま屋』(もうないだろうなア)で、こういう言い方で注文していた若い女性客がいたことを唐突に思い出したのである。 2002年10月19日(土曜日) 宮台真司氏と私(それにカメラマンの飯田耕一郎氏)の座談会が再録されている『透明な存在の不透明な悪意』(春秋社1997年)も、初めて目を通す。これが出たとき、中学生時代以来の女性から電話がかかって、“カラサワくんがこんなにエライ人になるなんて……”と言われたことがあったな。 2002年10月30日(水曜日) “拉致問題は解決済み”とニベもない北朝鮮の鄭秦和大使、最近の日本では見なくなった懐かしい表情であって、“イイ”と感じてしまった。われわれが小・中学生時代の大人というのは、よくこういう表情をしていた。こちらが例えば学園祭などのイベントに、こんなものをやりたいのですが……と持ちかけると、教頭先生などが露骨にこれと同じ表情をして“そういうのはイカンよ、キミタチ”と言ったものだ。小役人の顔である。そうそう思い出した、札幌でアニメ上映会を開催したとき、ポスターを貼らせてくださいと交渉しに行って断られたときの丸善(札幌の一流文具店)の美術用品売場の主 任が、顔といい表情といい口調といい、実にソックリだった。 2002年11月29日(金曜日) 明日の静岡講演の準備に忙殺。ビデオをチェックしたが、あまり話す予定の内容にあったものはなし。あと、新幹線の時間を調べたり。大学時代、初めての下宿生活での隣人が静岡の出身で、金に困るとちょくちょく実家に帰っては親に援助をねだっており、家が近い奴はいいなあ、とうらやましく思っていたが、三十年近くたってその静岡へ行く交通機関を調べてみると、新幹線で一時間半もかかる。 2002年12月06日(金曜日) K子のポーランド語教室の同級生が、スタッフの一人になっているという縁だったが、こういったクラシック・コンサートに出かけるのは十数年ぶりじゃないか。中学・高校時代はクラシック・マニアで、札響のコンサートなどに足繁く通ったものだが、最近はもう、ときおりCDで聞くくらいで、生はご無沙汰であった。 2002年12月17日(火曜日) 新宿東映で学生時代、夏休みの帰郷を延ばしてまで『仁義なき戦い』全作品一挙上映オールナイトを観たときの、何というのか、凄いものを観たという疲労感と満足感のないまぜになった気分(館内にヤブ蚊がいて、サンダルばきだった私は右足の薬指を刺されて真っ赤に腫れ上がっていた)は忘れられない。 2002年12月19日(木曜日) 馬琴の原作は新八犬伝にハマッた中学生の頃、岩波古典文学大系で通読しているし(新八犬伝は番組が人気で延長されてエピソードが足りなくなり、犬塚信乃が琉球に渡って蒙雲国師と対決する、という弓張月からとったくだりを付け加えていたのである)、大学に入ってすぐ、神田で上演脚本を見つけて買って、全編を読んでいた。 2003年01月06日(月曜日) SF者めざしていた中学・高校時代、“読んでみりゃさほどでもなし『高い城』(あるいは『フライディ』)、星も小松もかくやあるらむ”なんてスカしていたもの。 2003年01月22日(水曜日) 朝寝坊が何よりの快楽だった大学・高校時代を思い返すとウソみたいだ。あの頃は寝坊は、やらねばいけないことをサボる快感であった。今の寝坊はやりたいことの時間がなくなる恐 怖なのだな。 2003年01月28日(火曜日) 高校生のころ、レスラーの発する奇怪な文句を暗記するというのが流行って、ブッチャーが“マカラカシトモマカラ”、タイガー・ジェット・シンが“ハッタラマタハタラー”、そしてシークが“マキマキッ”であった。大学に入ってからも、酒飲んで議論しながら、よくマキマキッ、とかわめいていたなあ、あの頃。 2003年02月12日(水曜日) 私の文章を知る人はほとんど(Aさんもそうだったらしいが)、どちらかと言うと私の文体は澁澤あたりから影響を受けているのではないかと思っているようだ。しかし、中学高校時代から、どちらにも傾倒しながら、論理性でより明晰な寺山の文章の方を私は好んだのであった。そして、映画作家としての寺山には人生を変えられるほどの影響を受けている。 2003年02月21日(金曜日) 中学一年で初めて買った『平凡パンチ』のグラビアには田中真理のヌードが“あの、『サインはV』のマリちゃんが帰ってきた!”という惹句で掲載されていて、それを見た私は興奮するというよりも、それまでコレクションしていたエロ雑誌(小学生時代から、店員が温泉旅行などから持ち帰るエロ雑誌をこっそりくすねてコレクションしていたのですな、私は)の写真のモデルとのあまりの質の差に、“こんな美人がヌードになるなんて、果たしていいことなんだろうか”と首をかしげてしまったくらいだった。 2003年06月07日(土曜日) (トンデモ大賞のイベント設営時に)しかし、あのアニメとは違い、いつ果てるとも知れないそういう雑事をやりながら、ふと顔を上げて見回してみると、バラバラのいろんな素材が揃ってきて組み合わさり、非・日常の気分が次第々々に高まってきて、“イベント”が形づくられていっている。学生時代にさんざ経験した、あの感覚。 2003年06月12日(木曜日) 仙台に下宿していたときも、マンションの四階で、エレベーターなしの四回はキツくていやだなあ、と思っていたが、大家は“四階がいいですよ、網戸なんかしなくても蚊は入ってきませんし”と言っていた。蚊は三階くらいの高さまでしか飛べないのだそうである。確かに仙台にいる間じゅう、蚊に刺されたことはなかったように記憶している。 2003年07月24日(木曜日) 大学に入ったら上京して、『全冷中』に入会するのが夢だったのである。タモリや山下洋輔がカルチャー・ヒーローという、純朴な東京(新宿・赤坂方面限定)あこがれ少年だった。 (編者注:『全冷中』正式名称全日本冷し中華愛好会で筒井康隆やタモリ・山下洋輔などが結成した団体。一般的には1977年と1978年の「冷し中華祭り」で一般的に有名になった) 2003年08月18日(月曜日) そう言えば、畸人研究の今さんから、青山の紀ノ国屋がマンションに建て替えられるという話をメールで聞いた。まあ、そのマンションの地下に新に入るらしいが、学生時代からなじんでいたあの店がなくなるというのは、やはり寂しい。 2003年08月23日(土曜日) 上野駅不忍口を出たところにある、上野のれん街(西郷さんの銅像の下にあるので通称西郷ビルの中にある)が、建物の老朽化に伴い、今月いっぱいで閉鎖なので、そこを写真に収めておくため。半世紀の歴史を持つビルだそうだが、学生時代、ここの雷おこしの看板の、キッチュな雷坊やの看板を面白がって、いつかどこかでこの看板を紹介したいと思っていた。四半世紀後、取り壊しの一週間前にやっと実現。歴史の半分にはつきあっていたわけ。 2003年09月08日(月曜日) 昨日、と学会例会で原田実氏が山東京伝の黄表紙を紹介していたので、ひさしぶりに善魂悪魂の登場する『心学早染艸』を読みたくなり、引っぱり出してきたもの。思えば仙台で引きこもり同様の学生生活を送っていたとき、ちょうど新刊書店で発売されたばかりだったこの文庫をむさぼるように読んでいた。あのとき、私の胸に巣くったのは、善魂・悪魂ど ちらであったろうか。 2003年09月15日(月曜日) 広岡西武に勝って日本一になった時は覚えている。あのときは用事があって仙台に行っており、仙台空港の狭いロビーのテレビでその瞬間を見ていた。広岡達郎という管理能力に長けた、一般庶民が一番嫌うタイプの上司に率いられたチームを敵に回していたのも、あの当時の人々の阪神びいきを助長していたのではないか。あと一人打ち取れば日本一、というときにバッターボックスでガオーッ、という感じで長身のゲイル投手が吠えた場面が印象に残っている。“神さまエスさまバースさま”と謳われたバースよりもゲイルの方を贔屓にしていたあたり、私のひねくれた性格は当時から 変わっていない。 (編者注:阪神タイガースが西武ライオンズを破り優勝したのは1985年11月2日の日本シリーズ第6戦) 2003年10月11日(土曜日) K氏と私は同い年。高校時代、一時札幌にいたこともある、というので、どこの高校です、と訊くと、光星高校だという。エッ、じゃあ同窓、同学年じゃないですか、何組ですか、と訊くとD組だとのこと。私ゃJ組でした、Dってことは担任は某先生ですか、世界史と政経の、アアそうです、などと、いきなり昔話に花が咲く。今は付属中学まで作って景気いいらしいですね、アア、でもわれわれの頃の校長だったM先生は教師のサラリー問題でストライキされて、引責辞任しちゃったんですよね、アアそういうこともあったようですなア、などと。 2003年10月15日(水曜日) (『宇宙英雄ペリー・ローダン』)タコ・カクタはじめ、イシ・マツ、タマ・ヨキダ、キタイ・イシバシなんてのがいるかと思うと、ノモ・ヤトゥヒンなんてのも出てくる。われわれの世代のSFファンにとっては、どれも中学・高校時代に熱中した懐かしい名前であった。唐沢なをきの『けだもの会社』に、天狗のキャラクターで“瓜生天狗”という名前のが出てくるが、これもこのシリーズに登場する日本人、ウリウ・セングへのオマージュ。ついでに言うとこの天狗、天狗のくせに何故かタコの形をしているのだが、これはタコ・カクタへのオマージュなのか? 2003年11月16日(日曜日) 車中で西遊記の沙悟浄みたいな顔をした爺さんが、食パンを取り出し、その上ににマヨネーズを絞ってかけてムシャムシャ食っていた。浮浪者でもないようだが、帽子に黒づくめのジャンバー、ズボンという格好は私に相似である。大きなリュックに荷物を詰め込んだものを脇の席に置き、周囲の目も気にせず悠々とパクついている。学生時代、仕送りの大半を本と映画に注ぎ込んでいた頃に、私も似たようなことをしていたなあ、と懐かしく思い出した。あの頃は周囲の目を気にせず、したいように行動することがカッコいいと思っていた。あの老人はあの老人なりに充実しているのであろうが、自分もああなっていたかも、と 思うと少し怖い。 2003年11月17日(月曜日) 今回でこのシアターグリーンは改築により取り壊されてしまうそうだ。学生時代、こういう小さい劇場にほぼ毎日、通っていた身としては、どんどんこのようなスペースがなくなっていくのが寂しい。 2003年11月22日(土曜日) 出てから今日はさらに豊田書房(演劇・演芸専門店)などで買い物。古本長屋の二軒の書店さんが閉まっており、そこに弁護士の記名で差し押さえの証書が貼ってあった。あまり立ち寄ったことはない書店だったが、学生時代からおなじみであった店で あり、こういう状態になっているのは寂しい。 2003年12月06日(土曜日) メガネのツルがゆるんだので精密ネジで締める。考えてみればこの精密ネジ6本セットは私が学生時代に、パチンコの景品でとったものであった。ずいぶん古い。それにしても、変なものが景品にあったものである。 2003年12月19日(金曜日) 起きだしてメールが来ているのを見たら、ベギラマから。妊娠しても変わらず積極的なのは結構。とはいえ、やはり紀伊國屋ホール出演は無理らしく、残念。もっとも、それを残念がるのは私のように、学生時代からここで演劇をずっと見てきて、イッセー尾形関係でここでの仕事に関わったこともあった人間の勝手な思い入れであって、ついこないだ演劇を始めた彼女にとっては、もったいないも何も、そんな感覚がまるでないであろう。 2003年12月30日(火曜日) 睦月さん安達さんがうまそうにタバコをふかしているのを見て、いたずら心で一本いただいて一服。しかし、すでに身体がニコチンを受け入れられなくなっていて、半分も吸わないうちに消してしまう。学生時代はチェーンスモーカーだったんだが。 2004年02月14日(土曜日) い故に生まれる一抹のユーモアを含んだ文章で開陳するという手法は『復活の日』や『継ぐのは誰か』『日本沈没』などという小説の代表作にもそのまま使われているやり方である。中学・高校時代にこういったモノのとらえ方に接したおかげで、私は現代思想系の、足元が定まらない状態で恣意的な理屈を並べ立てるという空理空論に時間を費やさずにすんだのかも知れな い。 2004年02月28日(土曜日) カウンターの隣の席に、見覚えのある人物が座った。日本で一般人に一番知られている写真家である。四人連れなのは、奥さんと二人の子供らしい。エッ、では奥さんというのはあの元アイドルの……と思って、チラリと見た。黒いスーツ姿(旦那も黒づくめである)にメガネ。確かに中学・高校時代ファンだった、M・Sである。あの声で“わたし、レンコン”などと注文している(まあ、アタリマエだが)。可愛い奥さん(しかもメガネ美女)になったなあ、とてもこんな大きい息子二人がいるとは思えないよなあ、と感心。 (編者注:篠山紀信と南沙織ですね。息子さんのうち次男篠山輝信は俳優デビューしている。ちなみに子供は3人) 2004年04月30日(金曜日) 宮垣くんはまだ役者になっての日が浅く、そんな自分が紀伊國屋ホールに出られたことがまだ、信じられないらしい。そりゃそうだろう、私が学生時代ここで観た演劇と言えばつかこうへいに劇団雲、井上ひさしにイッセー尾形である。 2004年05月10日(月曜日) 喫茶店に入ってコーヒー飲み、家でとっていない各新聞(日経とか毎日とか)に眼を通す。学生時代も、雨の日は講義に出るのがタルくて、サボってこうやって喫茶店で無為な時間を過ごした。あの、ほんの少しの罪悪感を代償とした、怠惰な快楽というのは何だったんだろう。今でも懐かしく思い出す。それが不思議に雨の光景ばかりなのだが。 (編者注:学校にはほとんど通わずに…、だと思っていたのですが晴れた日はちゃんと学校に通っていたのですね。 2004年06月04日(金曜日) 朝、学生時代のイヤぁな記憶を逆なでする夢を見て、冷や汗をかいて目が覚める。高校時代から20代半ばくらいまでは、とにかくイヤな記憶にはことかかないのだが、これは死ぬまで夢に見続けるのだろうか。 2004年07月28日(水曜日) また、私の中で最も強烈にイメージされていた中島らもは、学生時代、『ぴあ』で読んでいた『啓蒙かまぼこ新聞』の4コマの人、なので、それ以降の作家・中島らもと、イメージがつながらないままでいた せいかもしれない。 (編者注:中島らも氏の『啓蒙かまぼこ新聞』は雑誌「宝島」で1982年より連載開始。ぴあではありません。) 2005年01月13日(木曜日) (小学館・水木しげる作品の文庫解説の打合せで担当者と)「イエ、お仕事以前というか……学生時代、Fさんがいた少年サンデーに原作を持ち込んだことがありまして」「あ、その頃の話で……じゃ、先生のデビューは弊社だったわけで」「イエどういたしまして、Fさんにさんざしごかれた末にボツくらって、引き下がりました」「……」「その後、モノカキになってパーティでお会いしたときに、“センセイ、今度小学館文庫で何か書いてくださいよ”とか言われましたが」「アハハハ」「……まあ、お元気なこと確認して嬉しいです。よろしくとお伝えください。今後ともどうかご別懇に」「こちらこそよろしく」実を言うと名物編集者だったF氏には持ち込み時代、兄弟揃ってさんざいじめられた経験がある。なをきと二人、阿佐ヶ谷の飲み屋で何度、グチ酒を飲んだか。いま、彼が現場をはずれて版権管理の部署に回されているのは気の毒ではあるが、どこかで“ザマミロ”的感覚があるのは否めない。不遇時代の恨みというのは、後を引くものだからねえ。 2005年05月02日(月曜日) 揉まれ終わって兆楽で昼食、冷やし中華。紀伊國屋に向かい、楽屋に入る。二十数年前、大学に入って上京したその日に、アニドウ主催のアニメフェスティバルが行われていたこの紀伊國屋ホールに足を入れた。それからイッセー尾形の公演にはスタッフに無理矢理加わってチラシ蒔きの手伝いをした。 2005年05月30日(月曜日) 私にとり、スターウォーズ(第一シリーズ原理主義者の私にとり、スターウォーズと言えばエピソード4から6までの三作以外ない)の記憶は常に貧乏だった学生時代と結びついている。このあいだ、文藝春秋『タイトル』誌から「セレブリティが語る『スターウォーズ』」という特集のインタビューが来たときには、残念ながらセレブっぽい話がまったくなくて途方に暮れたものであった。 2005年10月10日(月曜日) 演出の喰始さんが私のファンで著書もほとんどそろえている、ということらしい。 私は学生時代に東京ヴォードビルに通いつめたこともある男だし、さらにその前は『ゲバゲバ90分』でギャグ感を変えられた人間である。その人が自分のファンであるというのは、どうも不思議な気分だ。 2006年03月29日(水曜日) この季節の東京に私は弱い。大学に入って上京したあの頃のあの季節を思い出すからである。春のホコリくさい風を感じ、涙腺がゆるむまでにはいかないが、ちとセンチにはなる。思えばいろいろ挫折があり、失敗もあり、失望も経験した。でもまあ、こうやって、自分の番組のジングルをあの熊倉一雄さんが読んでくれるくらいのところには何とかよじのぼってきたかな、とか思い、いやいや、これはまだステップなのだから、と気をひきしめる。 2006年05月31日(水曜日) それにしても、出て10時である。いくつか知っている店を回るが、ラストオーダー間際だったり、いっぱいだったり。じゃ、と、青学生のたまり場たる『居酒屋中西』へ。隠れ家的な店だがレトロな店内にレトロな食い物。ビールと黒ホッピー飲みつつ芝居談義。 2006年06月04日(日曜日) はっきり言って、寺山修司の観念的台詞には学生時代に天井桟敷の舞台をリアルタイムで観ていたときから、多少ヘキエキしていたところがあった。演劇というものに求めるものが違っていたのかもしれない。映画に関しては『書を捨てよ街に出よう』も『田園に死す』も大好きだったので、ここらへんは舞台というものの醸し出す臭み、といったもの(まったく、あの時代の役者たちは自分を文化的特権階級のように信じこみ、他者にもそれを押し付けていた)が嫌いだったんだろう。 2006年09月25日(月曜日) 思えば私が学生時代に師事した杉本五郎は松田春翠氏とはフィルム・コレクター同士で犬猿の仲。それがなければきっと私も氏の主宰していた話術研究会“蛙の会”などに参加して、呆榮先生とももっと親しくおつきあいしていたかもしれない。運命としてスレ違っていた。 2006年11月07日(火曜日) 10時半、ホテル出て空港までタクシー。話し好きな運転手さんで、私がいた頃の仙台との変わったポイントをいろいろ聞く。 30分ほどで着。料金は都内〜羽田とほぼ同じくらい。空港も、私の在仙台の頃は入り口から入ってすぐ搭乗口、みたいなちっぽけな空港だったが立派になっている。 2006年11月18日(土曜日) (仲谷昇氏死去)学生時代、紀伊國屋ホールの舞台で氏の率いる劇団・円の『から騒ぎ』を観たが、仲谷氏はドン・ペドロの役だった(明治初期に舞台を設定しているので日本人になっていたが)が、そのうまさにとにかく感服したのを覚えている。 2007年02月26日(月曜日) 私にとって、楽しみというのは、どこかにコッソリ感がないといけないものらしい。学生時代文学研究会に入っていながらSFやミステリを読んでいたときは、本当にSFもミステリも面白かったものなあ。 2007年03月14日(水曜日) (鈴木ヒロミツ死去)なにぶん、ザ・モップスがユーミンが追っかけをしていたほどのグループだということを知らなかったため、なんでこの人が芸能界で幅をきかせているのか、よくわからなかったものである。大学に入って、初めてモップスの曲を聴き、なるほど、と感心したのだが、すでに彼らは伝説のグループになっていた。 2007年03月19日(月曜日) (船越英二死去)『時間ですよ』の風呂屋の主人・祥三、『熱中時代』の校長先生で顔を知り、大学に入って名画座通いをはじめたあたりで、『野火』『白い巨塔』などの名画、『盲獣』『怪談蚊喰鳥』などの怪奇もの、『大怪獣ガメラ』のような怪獣ものまで、とにかくやたらに出まくっていた人なんだなあ、と感心を通り越して呆れたほどだった。 2007年04月29日(日曜日) (フランセ東急プラザ店閉店)思えばまだ学生時代、イッセー尾形の舞台に協力する打ち合せを初めてしたのがこの店の喫茶だった。女房と結婚前、初めてのデートの待合わせをしたのもここだった。女房には内緒だが、学生時代はここをよくいろんな女の子との待合わせ場所にしていた。オシャレな喫茶店などというものにあまり縁のなかった当時(未だに縁がない)、女の子を誘うのに適した店をここくらいしか知らなかったのである。 2007年05月16日(水曜日) 昼はその執筆の途中に、また塩辛茶漬け。イカの塩辛を茶漬けで食べる、というのは、わが唐沢家の習慣にはなかった。桃屋の塩辛のCMで初めて知って、しかも知ったのは中学生くらいだったのだが、初めて試みたのは大学に入ってからだった。今では大好物のひとつなのだが。 2007年09月21日(金曜日) 学生時代は新宿へ出るとどちらかというとアカシアのロールキャベツばかり食っていた 2007年10月09日(火曜日) 学生時代、寄席で数えきれないくらい東京ボーイズの芸を見た。たぶん、一生これを見続けるんだろうなと根拠なく思い込んでいた。ある日突然、見られなくなるのだ。悲しいなあ。 2007年10月24日(水曜日) みんなまずホッピーで乾杯、フワリさんの誕生祝いも兼ねて。談笑が黒ホッピーをぐいとやって「ダメ人間の味がしますねえ」と。確かになあ、学生時代阿佐谷のホルモン焼き屋で飲んでいた時分は、マトモな人間はビール、ダメ人間がホッピー、もっとダメ人間が梅割焼酎を飲んでいた。 2007年11月09日(金曜日) 今月のお題は『湘南爆走族』。仙台にいた当時、この作品に出会って、何気なく読んでいるうちにこれはすごい、とハマりこんでしまった記憶がある。主人公以外のキャラを大事にしない『バリバリ伝説』に比べ脇の方に至るまでの登場人物全員にドラマがあった。 2008年05月04日(日曜日) 学生時代からここで買い物しているサンジェルマン阿佐ケ谷店でサンドイッチ、京樽でいなり寿司など。 2008年06月06日(金曜日) 野田昌宏氏死去の報が某所より入り、愕然。キャプテン・フューチャーシリーズをむさぼり読んだ、中学生時代の私の、ヒーローは野田氏だった。「将来は野田大元帥に弟子入りして、自分も古本コレクターになるんだ」と13歳の私はホンキで思っていた。 2008年07月28日(月曜日) 最初の『冥土のみやげ』コントで阿佐谷のレンタルビデオ屋の話があったので、私も学生時代さんざ通った阿佐谷のビデオ屋と、そこから派生したエロビデオの話題。 2009年08月09日(日曜日) 阿佐谷商店街は七夕祭りで、巨大な飾り物が天井を埋め尽くす。学生時代、夏期講座をサボって一日、この七夕祭りを切ない思いで眺めていたっけ。 2009年02月27日(金曜日) まあ、(F・J・ファーマー)『恋人たち』については大学に入ってから再読し、傑作であると認識を改めはしたのだが、それでもどうも、苦手な作家の一人であり続けたのは、やはり初読時のあの印象が強いためではなかったか。 2009年03月10日(火曜日) もうひとつはさらに古く、阪神優勝の1985年に、熱狂したファンによって道頓堀川に投げ入れられたカーネル・サンダース人形が24年ぶりに発見されたというニュース。24年前の、まさに優勝の瞬間を見たのは、仙台空港の待合室だった。空港までの送迎バス中でもラジオで試合模様がずっと流れ、待合室のテレビでその瞬間を見られた。ピッチャーのゲイルが何かやたら興奮して、ずっとワオワオ叫び続けながら投球していたっけ。
https://w.atwiki.jp/takaitayougo/pages/210.html
暗黒時代-あんこくじだい 【意味】 これはホークスが福岡に来てからの低迷期を指す。 広義では福岡ダイエー初年度(89年)からBクラス脱出(98年)までの約10年、狭義では諸説あるが田淵監督時代を表す。 南海時代末期を含め、このころはBクラス常連だった。 優勝争いを演じた1994年は除外される。
https://w.atwiki.jp/akatonbowiki/pages/10205.html
このページはこちらに移転しました 黒の時代 作詞/カリバネム 作曲/LOMO まるで火の中のマシュマロ 燃え続ける恋はいつか 焦げて無くなってしまう これからの僕の旅路と 君を重ねる事に飽きたから 抱き合って 違う呪文で 闇の中へ誘うよ 今はこんな未来を生きて行くことも出来る気がする 黒く澄んだ時代へ 君を忘れはしないよ 時計の針に住み着いて 僕を睨みつけてるクロッカス 微笑んだ雌しべ 秋の匂いのアパートは 明日も同じ光に染まるけど 涙声 耳を澄ました このドラマに溺れて 今はこんな未来に指を突き立てるだけで触れる 大丈夫 僕だって堪えきれたくらいだし 今はこんな未来を生きて行くことも出来る気がする 世界中を拾って集めて見るのもいいね やけに暗い朝の中で 壊れてしまっても 踊りだせるならそれだけで構わない Oh 今はこんな未来を生きて行くことも出来る気がする 黒く澄んだ時代へ 君を忘れはしないよ 今はこんな未来を生きて行くことも出来る気がする 気絶したって続いて行く 君を忘れはしないよ 音源 黒の時代 黒の時代(オケ)
https://w.atwiki.jp/abokadou/pages/138.html
2011-01-16にヒマジン配信で行われた 5人の配信者が集まってアナル内でブレスケアを破裂させるという配信。 これに丫戊个堂も参加していた。 最初はみんな2個づつ挿入していたが、丫戊个堂は自分が他の参加者に比べあまり感じていない事に気付いた。 2ラウンド目が始まると他の参加者が平均5個程度挿入する所、 手慣れた様子で12個挿入し、此処でも地味に身体能力の高さを見せつけた。 挿入時には「あああああああ、こんなの初めてぇ〜」 破裂時には「子宮の奥で射精される感じ...////」 など名言を残すも、その他の局面ではぶっちぎりの不感症っぷりを発揮し、 マグロである事が判明した。 新時代については今後の開発が期待される結果となった。
https://w.atwiki.jp/kaizoki/pages/182.html
時代背景 基本的に「現代よりも少し先の近未来のお話」とされているが、 正確な時代設定は現時点で未登場。 ※目安としては「読んでいる人の時代+1000年くらい」らしい。
https://w.atwiki.jp/jap0/pages/71.html
①中国の状況 隋(589~)→唐(618~):都は長安、法律は律令 ②飛鳥前半:蘇我氏&聖徳太子の時代 ・蘇我氏(豪族の一族) →仏教受け入れ→物部氏と対立 ・聖徳太子 →推古天皇の摂政に。蘇我氏と一緒に政治する →冠位十二階、十七条の憲法、遣隋使(小野妹子) ③飛鳥後半:天智天皇・天武天皇の時代 ・大化の改新:中大兄皇子・中臣鎌足が蘇我氏を滅ぼす → 公地公民・班田収授法 ・白村江の戦い → 大宰府・防人をおく 天智天皇即位 ・壬申の乱:大海人皇子(弟)vs大友皇子(子) →天武天皇即位、律令国家めざす ・大宝律令 ①について →今後、日本が中国からいろんなことを学び、 それによって日本の体制がつくられていく。 だから中国のことを知っておく必要がある。 ②について 冠位十二階 →能力や地位に応じて位を12個にわける 十七条の憲法 →条文がよく出る 遣隋使 →「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」 →天子=天が政治を任せた相手=当時の皇帝の言い方。 →中国からすれば、天子=皇帝に日本が従っているという感覚 →それなのに日本は自分のことを「天子」と言っている →日本は、中国と対等であることを示した 法隆寺建立 →仏教を広めるため →寺はもともと仏教の開祖である釈迦の墓だった。釈迦の墓を大切にしようして、寺を建立しました ③について 白村江の戦い 1)高句麗が強大化 2)新羅が唐と手を組み、高句麗に対抗 3)高句麗を倒す前に、一番弱い百済を滅ぼそうとした→滅びた 4)百済は日本に助けてもらおうとした 【寺が出てくる理由】 ①聖徳太子のころは、本格的な支配というよりかは 仏教の考え方にしたがった(寺はもともと仏教の開祖である釈迦の墓だったのです。釈迦の墓を大切にしようして、寺を建立しました)。 ②時代を経ると、全国に仏教を広めるための道具として、寺を利用したのです。それが、7世紀中頃以降の話です。そうして、寺の権力が強くなったとさ。 ※大化の改新のときに、仏教を広めようとするために、古墳を作ることを禁止したルールを作った。 (理由) 理由は古墳と寺の役割が似ているからです。共通点は①墓だったこと②古墳は権力者の墓だったため、寺と共通性があったのです。 自分の広めたいものと役割が似ているものが存在すると、広めたいものが広めにくくなります。 そこで、古墳を作ることを中止にすることで、寺院の権力が高まったのです。 【神社が出てくる理由】 ①日本はもともとアニミズム信仰だったのです。 ②時代を経るにしたがってアニミズム信仰が拡大化した結果生まれたものが神社です。 飛鳥時代を一言でまとめるなら 「中国の制度を真似て、中央集権体制の確立を目指す時代」。 豪族たちが争っていて国がまとまらない… →天皇を中心に国をまとめたい=統一国家をつくりたい(→聖徳太子の基本方針) →中央集権的な国家を作る必要 →ちょうど栄えている中国からいろいろ学ぼう(→遣隋使) →中国の「律令」を真似しよう →中央にいる貴族の権力を高めるために、農民から税をとる仕組み →農民の負担が増し、不満が表れるのが奈良時代
https://w.atwiki.jp/wakarurekisi/pages/13.html
縄文時代の始まりは今から1万1300年前 縄文時代はおよそ1万年続いた。 食べ物 採集 • 狩りなどをして暮らしていた。 だから、季節によって捕れるものは違っていた。 住まい 縄文時代の人の住まいは、たて穴住居というもの。50cmほどほり、数本の柱を立て、その上に屋根をふいた家のことをいう。(直径 3~5mほど、4~5人の家族が生活していた。) 土器 この時代に作られていた土器のことを「縄文土器」という。 縄目のもようがある土器。黒っぽい色の場合が多い。厚くてこわれやすい。食料をたくわえたり、煮たりするのに使ったという。 貝塚 千葉県千葉市などに存在する。 縄文時代に、貝殻、魚の骨、壊れた土器、道具などを捨てたところのこと。