約 1,638,632 件
https://w.atwiki.jp/yokkun/pages/607.html
変位電流による磁場について Yahoo!知恵袋より。変位電流による磁場を源である電流=電荷の移動にさかのぼって解釈できるかという,根源的な問題。 質問の概要は 電流の周りに磁場ができる理由について、 「導線に沿って運動する観測者にとっては、ローレンツ収縮によって導線の電荷密度が偏り、正味の電場が存在する。これを静止観測者から見ると、磁場として観測される」 というような説明がなされるが,変位電流の周りにできる磁場に対して同様に電荷の移動にさかのぼって説明できるだろうか。 というもの。 他に回答がつくのを心待ちにしたが,なかなか回答がつかなかったので,力不足ながら反応しておきたいと思い,下記のように書きこんだ。 磁場の成因に対して電荷の移動にさかのぼって, 「テスト電荷とともに動く観測者から見ると,ローレンツ収縮による電荷密度の変化のために生じる電場と観測される」 …という説明は,場とその源の関係に対する初歩的な理解のレベルでも大変納得のいくものです。しかし,だから電場と磁場のふるまいのすべてが電荷とその移動に帰することができる,とは考えない方がいいのではないか,というのがひとまずの私の解釈です。 極板間に誘電体が満たされている場合は,誘電体の分極がまさに電荷の移動(変位電流)の実体であり,疑問の余地はありません。一方下記などを読むと,真空に対しても同様のことが起こる…とされています。真空に対して分極を考えることができるのなら,仮想的にせよ「電荷の移動」が極板間で起こっているということになりますね?もちろん,これで納得がいくようなレベルには私も達してはおりません。 参考:http //zero21.blog65.fc2.com/blog-entry-127.html 電荷やその移動といった「源」を離れたところでも, 「電場と磁場は実体のある存在として相互に変換しあうのだ」 というのが,古典的で初歩的な電場・磁場に対する描像と,電磁波の存在との整合がとれる考え方なのではないでしょうか。 参考: 相対論と電磁場の変換 ローレンツ短縮と電磁場の変換
https://w.atwiki.jp/tiritomato_dk3/pages/15.html
■抵抗率 ■抵抗率ρ[Ω・m] 断面積1㎡、長さ1mでの抵抗値のこと。 ex.導電率[S/m]= ex.抵抗率の温度係数アルファは、 ■メニュー ノート/暗記帳 ■旧メニュー トップページ/暗記メニュー/数学/静電界/合成静電容量/磁界/電流と抵抗
https://w.atwiki.jp/nisyudenko/pages/68.html
351 名前:名無し検定1級さん[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 09 37 43.12 めちゃ根本的な質問していい? そもそも電圧、電流、抵抗とは何? オームの法則はわかるよ もっと根本的な意味 電流って、抵抗1、電圧が1なら1なんだけど この1っていうのは、1秒のことなんだよな? で、1秒じゃない場合は、電力・・・になるんだよな? ていうか、電圧って何さ まぁ、いろいろ考えずに書き込んでやったぜ 352 名前:名無し検定1級さん[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 10 28 37.16 351 秒は時間の単位だぜ 大丈夫か? 353 名前:名無し検定1級さん[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 10 31 01.16 351 それは真面目に理解したいのですか? それとも「ほら、誰も説明できないじゃないか。このスレの奴らはやっぱり…」と言いたいのですか? 真面目な質問だとして、電気回路の性質を理解する(電源、素子、経路の組み合わせから電流や電圧を予測する)ため、 という範囲で電圧とは何かを知りたいのですか? もっと根本的に電気的な現象はどのような法則性をもっているのかを知りたいのですか? 354 名前:名無し検定1級さん[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 10 32 55.56 電流、電圧なんて分かったようで分からん それでも試験は受かるから心配すんな 355 名前:名無し検定1級さん[] 投稿日:2013/04/24(水) 10 34 37.88 オレもそう思う。 実際オレも良く分からんが受かったからww 356 名前:名無し検定1級さん[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 10 38 08.78 それは真面目に理解したいのですか? それとも「ほら、誰も説明できないじゃないか。このスレの奴らはやっぱり…」と言いたいのですか? そこ重要やね。 ほんとに知りたいとして、専門書のタイトル挙げたらちゃんと読むの?とか。 文字だけで32行×3レスくらいに要約しても、たぶん理解できないと思うよ。 357 名前:名無し検定1級さん[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 10 46 25.67 質問はするけどお礼は言わないっての増えたよなあ…。 358 名前:名無し検定1級さん[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 10 49 27.70 351 電圧→水圧 電流→水流 抵抗→水路の幅(の逆数) と考えると良いかも 359 名前:名無し検定1級さん[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 10 58 22.58 358 何かの入門書でもそんな例え方してたな 水に例えると分かりやすい 360 名前:名無し検定1級さん[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 11 30 56.10 351 抵抗は単純に電気製品。 洗濯機や電子レンジ、電力を消費するものだよ。 電圧は全体のパワーそのもの。 四角形の面積を電圧とする。 そうすると横軸に抵抗値(どのくらい消費するか)、 縦軸に電流(流れの速さ)とする。 面積(全体のパワー)=横軸*縦軸 V(電圧)=I(電流)*R(抵抗) みたいにおいらは考えている。 ただし、電流は流れすぎ(電線が細くて渋滞状態)となると、ブレーカーが働くよ。 361 名前:名無し検定1級さん[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 11 41 43.42 360 パワーは電力(文字通りP)で電圧ではない 電圧と電流を掛けたものがパワー(電力) 電圧がいくら大きくても電流が微小であれば小パワーだ 電流は流れすぎ(電線が細くて渋滞状態) これは矛盾しているだろ 362 名前:名無し検定1級さん[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 11 43 26.86 考えるな、感じろ 363 名前:名無し検定1級さん[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 11 44 56.20 最初のあたりの勉強してて、普通なら疑問に思うだろう 俺は電流は、電子が何個流れたかという概念で理解したつもりになってる 本当は、電子が何個で電流の値がきまるというのは、間違ってるかもしれないけど でも、何個流れたかで考えるとすっきりとわかりやすくなってくるんだよ 水で例えてもいい 水だって、水の分子が何個流れるかで考えられるし、量や重さもあるのでイメージしやすい パチンコ玉やピンポン玉でもいいかもしれない 精神を研ぎ澄まして考えたくなる オームの法則にでてくる3つの単位は、すべて時間が関わっていて、それは1秒を前提としている んだよな? 364 名前:名無し検定1級さん[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 11 46 11.16 電流と電圧のレスを見て思ったこと なるほど分からん 365 名前:名無し検定1級さん[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 11 52 35.98 363 それは以前の1Aの定義だよ 1秒間に6.24×10^18個の電子が流れている状態が1Aだった 366 名前:名無し検定1級さん[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 11 52 43.97 中学高校でやったときも結局電流と電圧は分からんかったなぁ 今でも電気にはそういうものがあるってぐらいにしか理解してない 367 名前:名無し検定1級さん[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 11 56 05.99 365 今のアンペアの定義だと秒って概念はなくなってるよな確か。 クーロンのほうなら秒がからんでるとは思うが。 368 名前:名無し検定1級さん[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 12 01 37.00 電圧っていうのは電子がどれだけ移動するかの単位なんだよな? 二つの電気を通すものをくっつけたとき、電子は移動しはじめる 電子を欲しがってるものと、電子をかきだしたがってるものが、くっついたら、通路を作るからだ ただし、吐き出すほうも、吸い取るほうも、いつも同じ勢いで電子をやり取りするわけではない 電子をフルにためてる場合、つまり電圧が高い場合、 また、電子がすっからかんで、欲しがってる、またはおなかいっぱいで、あんまりいらない場合 抵抗が高いってことか? また、電子が通りやすいか、通りにくいか、 超ミクロで、電子が壁にぶつかりながらすすむか、ほとんど壁なしかで、抵抗の値は変わる そんでもって、移動するには時間がかかる 370 名前:名無し検定1級さん[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 12 08 59.77 368 電圧っていうのは電子がどれだけ移動するかの単位なんだよな? それは電流 満員電車で後ろから押されると人が移動するけど、その押す力が電圧 移動している人が電流 371 名前:370[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 12 18 04.00 歯磨きのチューブでもいい チューブを握る力が電圧で、出てくる歯磨きの量が電流 口の断面積(の逆数)が抵抗 372 自分:名無し検定1級さん[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 12 18 21.25 361 はい、間違っているなとは理解してます。 (電圧でなくて電力の話しだと矛盾してきます。) でも、四角形の面積の求め方で、考えて、とりあえず計算式は納得してます。 373 名前:名無し検定1級さん[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 12 22 04.74 365 今は、1秒間に1クーロンが1アンペアじゃなくなったの? 何がしの磁界が発生するのが1アンペア、みたいな定義に変わった? 374 名前:365[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 12 24 36.14 373 今は定義が変わったようだ ttp //ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%82%A2 382 名前:名無し検定1級さん[] 投稿日:2013/04/24(水) 13 30 05.74 電圧電流抵抗は 電圧→水の位置エネルギー 電流→水量 抵抗→段差 電源→ポンプ と考えろと昔駿台の先生に教えてもらった 普通は暗記物を最後にみっちり詰め込むのが効率良いやり方だと思ってたけどこの試験は逆でもいいね
https://w.atwiki.jp/yokkun/pages/604.html
磁場とは何なのか Yahoo!知恵袋より。電場と磁場の統一に関する根源的な疑問。 そのまま転載させていただく。 【質問】磁場とは何なのか 磁場と言えば磁石ですが、磁場が電子にローレンツ力を及ぼすという事実や、磁石の正体が原子レベルの電磁石の集まりであることを考慮して、運動する電子に対してローレンツ力を及ぼす場が磁場である、という定義で理解しようとしています。 ところが、電磁誘導を説明するとき、磁場が静止して見える観測者からは、「導体棒内の電子が静磁場からのローレンツ力を受け、起電力が生じる」となりますが、導体棒が静止して見える観測者からは、「磁場の運動によって誘導された電場が、導体棒の電子にクーロン力を及ぼし、起電力が生じる」となります。両者を統一的に理解するには、電磁誘導rotE=∂B/∂tを使って、「磁束密度が変化すると、渦を巻くような電場が生じる」と考えればいいらしい、ということはなんとなく分かりました。 しかし、これでは、磁場の働きの本質であったローレンツ力を、磁場が誘導した電場の働きとして理解することになると思います。つまり、磁場はそれ単独ではなんら影響を及ぼさず、誘導した電場によってはじめて作用することになります。このような間接的な作用しか及ぼさない磁場とは、いったい何者なのでしょうか。もしくは、どこかで考え違いをしているのでしょうか。 【回答】 電場および磁場の源にさかのぼると,それは紛れもなくひとつの物理量である「電荷」にたどりつきます。磁場の源は電流ですが,電流は電荷の移動に他なりません。 物体の属性としてひとつの物理量があることによって生じる力の場は,本来ひとつであるべきだと考えます。これがabs4416absさんの質問の根底にある疑問に即する考え方ではありませんか? 卑近な例ですが,床上にある物体が床から受ける力として垂直抗力と摩擦力がありますが,本来これは物体が床に接触していることによって生じる抗力の2成分に過ぎませんね? ですから,電場と磁場とはひとつの場の成分であると考えることができるのです。ひとつは電荷の存在そのものによって生じる電場の成分,もうひとつは電荷の運動によって生じる磁場の成分です。しかし,これらはベクトルとしては互いに垂直で,テスト電荷に対する作用も異なるため,相互に書き換えることのできない独立なベクトル場になっています。ですから,それをベクトル場として統一することは不可能なのです。また,電場と磁場とをそれぞれ測定することが可能ですが,それらを同時に(1つの方法で)測定することは困難で現実的でありません。こうした事情から,私たちは電場と磁場とを相対的に独立な存在として認め,それらの関係をつなぐ法則(マクスウェル方程式)をもってひとまずの「統一」をはかっているわけです。 相対論では,電荷と電流とは4元ベクトル量としてひとつの物理量に統一され,したがってまた電場と磁場も4元テンソル量としてひとつの場に統一されます。そしてマクスウェル方程式は電磁場テンソルの基本性質として2つの(見方によっては1つの)テンソル方程式にまとめられてしまいます。また,観測者の運動によって電場と磁場が相互に変換するということは,電磁場テンソルの変換として記述されます。 abs4416absさん の求めておられる根本的な疑問の解決は,相対論における電磁場の統一にこそあると考えます。観測者の運動によって電場が磁場に見えたり,磁場が電場に見えたりするのではなく,現実に電磁場テンソルの電場成分と磁場成分とが相互に入り混じりながら変換されるのです。 残念ながら,それぞれの成分自体をまとめてしまうことはできません。ですから,私たちは電場と磁場とをひとつの電磁場テンソルの成分であるとすることはできても,それらがいずれも他方に替えることのできない独立な存在であることは認めざるを得ないようです。これは,電場と磁場とを独立な場として発見してきたという歴史的な事情による制約であるとする見方もできます。広い宇宙のどこかには初めから2つの場を統一的にテンソルとして発見している文明があるかもしれませんね。 【お礼】 なるほど・・・こんなに詳しく書いていただいて、しかも内容がピンポイントで感激です!つまり、電磁場はベクトルでは不十分な統一しかできないが、ランクを1つ上げて2階のテンソルとして考えれば1つの場になる、ということでしょうか。テンソルは難しそうで遠のいていたのですが、本腰入れて勉強してみたいと思いました!
https://w.atwiki.jp/c3qts83/pages/15.html
もうすぐ国は海外の人達を含む) Facebook上で申告する必要から加入しました。明日最近は日本人の友達もかなり増えてきてことだけでなく、趣味に関する文法や情報、ブログ更新のお知らせまで幅広くふんでいます。 学歴や勤務先などを工夫しているので-それが全ての人しか繋がっているません。 つい最近までたの書き込みをFacebookでも表示されるように連動させていましたが、 TwitterのフォロワーとFacebookの友人とでは振れ取り台情報が異なると思い読みました。 Facebookなどを普及している文化に興味を持っていて、最近では宿の関係のファンページも作っています。
https://w.atwiki.jp/electric_word/pages/14.html
単位はA(アンペア)。 電流とは、電荷の流れ。ようするに電気の流れ具合です。この数値が大きいと電気はたくさん流れていると言えます。 そして、電気は+から-へ流れます。 仕様書などにはAが使われる事が多い。回路図や計算式ではIとして表現されることもあります。 mAと書かれてあるものも良く使われますがこれはミリアンペアと読み1A以下の電流値を表すときに使います。 1000単位で位が上がり、1000mAで1Aと表すことができます。 .
https://w.atwiki.jp/novel_lexeed/pages/169.html
上級や下級などに位置しない特別な存在 上級と対等またはそれ以上の存在であり彼にもっとも近い存在だが 昇華すると、中級になってしまうという欠点がある。 ヤーマ「俺?我流から中級にあがったから。」
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/178.html
目次 1.光の一般的な性質 2.熱エネルギーのカプセルとしての不思議なはたらき 3.七色の基本理念と、それに合わせて創られた視覚器官 4.光の波長が七色の鍵盤をたたく 5.光と宇宙の本質の解明へ 6.熱量を送らんとする意思の流れ 7.光の霊的な性質 (一九八九年一月十二日の霊示) 1.光の一般的な性質 アイザック・ニュートンです。今日は、光についてお話ししてみたいと思います。 光とひと言で呼ばれているものには、多義性があります。それは、あなた方が日常に見る太陽の光、また電灯の光、このような光もあれば、霊的な光というものもあります。以上、あげただけでも自然光、それと人工の光、霊的光の三種類の光があることになります。 最後の霊的な光というのは、宗教をやっている人ならご存じのように、まばゆいばかりの光の体験と言われるものがあります。この霊的な光とはいったい何であるか。これを、探究する余地があるわけです。 さて、そもそも光とはいったい何であるのでしょうか。この光とは何かということを考えていくと、面白いことに出くわすようになります。まず、太陽の光のような、自然光を研究していくと、なかなかにわかには信じがたい結論に辿り着くことになります。それは、光といわれるものは粒子であって波動である、という不思議な結論なのです。 光は、確かに粒子としての面があって、何かに当たると跳ね返り、一定の質量があるようにも思えるわけですが、また、波のような性質も持っている、と言えるのです。というのは、その伝わり方そのものが、波の性質とまったく同じ要素を含んでいるからです。 そして、研究すればするほど不思議となるのは、粒子となったり波となったり、自由自在に変形しているらしい。忽然(こつぜん)と消えたかと思うと現われる、そして固まりかと思えば波になる。いや、もっと正確に言うならば、分散したり統合したり、そういうことがなされているわけです。光の玉と見えたものが、さらに小さなものに分散し、また合流し、棒のようになったり、縄のようになったり、いろいろな変化をしながら一定の方向に向かって飛んでいるのです。これが、光の本質です。 では、光とは何かをもっともっと考えてみると、光とは次なる要素を内包しているということが言えましょう。 第一に、光とはエネルギーであるということです。光はエネルギーです。エネルギーとは何であるかというと、活動の力です。仕事をするための力と言ってもよいでしょう。仕事とは何であるかというと、少なくとも、ある物体をある地点から他の地点に移動させること、これを仕事といいます。これについての価値判断は別です。どういう価値を持っているかという判断は別ですが、私が言っている仕事というものは、ある質量のある物体を、A点からB点に動かすには、そのままでは動かない。何らかの力がはたらかねば動かない。この物体を移動させる力のことをエネルギーと言うわけです。 2.熱エネルギーのカプセルとしての不思議なはたらき このように、光は何らかの仕事をするという意味での、エネルギーを持っているわけなのです。そして、この仕事エネルギーは、同時に熱エネルギーでもあるという性格を持っています。単にA点からB点に物を動かすという物理的力だけではなくて、熱エネルギー、すなわち温度を上昇させるという力を持っています。この温度を上昇させるという力は、いったい何であろうか、これを考えてみたことがあるでしょうか。 太陽の光が射すと、なぜ部屋は暖まるのでしょうか。あなた方は、そのことについて、想いをめぐらしたことがあるでしょうか。なぜ、朝陽が射し込んでくると、部屋は明るく暖かくなるのか。なぜ、光による暖かさは、ストーブによる暖かさのような暖かさとなるのか。これは、まことに不思議です。 しかして、ストーブによる暖かさは、たとえばガラスで遮断(しゃだん)してみると入ってこない。これがおわかりかと思います。窓の外にストーブを置いて、いくら熱したとしても、部屋のなかは暖かくなりません。しかし、太陽の光が窓を通して射し込んでくると、部屋のなかは暖かくなるのに、ガラスそのものは熱されるということはありません。ガラスを通り抜けて部屋のなかだけが暖かくなります。部屋のなかがそれだけ温度があがるのだから、ガラスはさぞかし熱くなっているかと思えば、熱くなっていないのです。これが不思議なところです。ストーブの暖かさはガラスを透過しないのに、太陽エネルギー、こういう光の暖かさはそれを通ってくる。なぜだろうか。これに対して疑問を持つ人があってもおかしくないと思います。 すなわち、光の性質のなかに仕事量と、熱量と両方が含まれているわけで、その間に使い分けがあるわけです。すなわち、光は光として、小さくはあるがカプセルのような役割を果たしていると言ってもよいでしょうか。この光のカプセルは、何かに当たって弾(はじ)けることによって、熱量を放出するというふうにも考えられると思います。それはちょうど、鳳仙花(ほうせんか)の実が手で触れられることによって弾けて、その種を撒(ま)くように、光のカプセルというものは、太陽の方向から発射されているが、それは透明なものは通過していく、そうして何かに当たって弾けたときに、鳳仙花の種のように、その光エネルギーを熱量として放出することになる。こういうことがあるわけなのです。 それゆえに、光があっても、光を受け止めるものがなければそれは、熱とはならない。というのは、地球よりも大気圏外のほうが、むしろ太陽には近いはずです。では、地球圏外は地球よりも太陽の光を浴びて暖かいか、と考えたときに、みなさんはどのように思うでしょうか。太陽に近ければ暖かいというのであれば、地上よりも上空一万メートルのほうが暖かいはずです。上空一万メートルよりも、上空十万メートルのほうが暖かい。あるいは、大気圏外に出て宇宙空間にいたほうが、太陽の直射日光を浴びることができて暖かいはずです。 ところが、実際に地球の大気圏外に出て暖かいかどうか、考えたことがおありでしょうか。そうなってはいないのです。ここに不思議な、光の性質があると言ってよいわけです。 もちろん、光といっても太陽の光エネルギーも、ある意味でストーブの役割を果たしていることもあって、ストーブに近づけば火傷(やけど)をするように、太陽に近づけばひじょうに高温になって、イカロスのごとく燃え落ちるのは、当然のことです。それは当然ですが、離れた地点においては、こういう現象が起きるわけなのです。 普通であれば、ストーブ的なエネルギーを考えれば、近いところほど暖かく、遠くへ行けば寒くなってくるのが当然です。その意味で、地上十万メートルのところは、五万メートルよりも暖かく、五万メートルは一万メートルより暖かく、地表はいちばん寒くて当然のはずです。しかしそうはならない。結局、光が当たって反射することによって、光のカプセルが口を開いてエネルギーを放出している。この鳳仙花の実のようなものが、光エネルギー、光粒子の性質であると考えられるわけなのです。 ただ、この光エネルギーの粒子は、そのカプセルをどういう状況下において開くか、と問われてみると、その状況に一定の法則がある。すなわち、光の粒子をはじくものでなければ、エネルギーを取り出すことができない、ということです。透明なガラスは熱くならないのに室内が暖まるように、光を透過するものに対しては熱量を出すことはできないのです。光を透過して、そしてそれを反射するものに当たり、そこにおいて鳳仙花の実のごとく弾ければ、そこに熱量が発生する。そこで発生する熱量は、まるで太陽の陽(ひ)を松明(たいまつ)で持ってきたような暖かさとなってくるわけです。この不思議さに、まず頭を巡らせてみてください。 3.七色の基本理念と、それに合わせて創られた視覚器官 次に、光の面白い面は、いったいどのようなところにあるかというと、光とは一種の合成波長である、という局面なのです。波長というのは何であるかというと、山と谷がある。波の特徴は山の部分と谷の部分があるということですが、実は、こういうものを光は含んでいるのです。 そして、私も生前実験をしましたように、プリズムというものを通して見ると、光は七色に分光されます。そして、七色に分光された光を、また別のプリズムを通すと一つの元の光に戻る。これはいったい何であろうか、ということなのです。 まず、一つに見えた光が七色に分光するとは、どういうことなのか。七色に分光し、赤に見えたり、オレンジに見えたり、黄色に見えたり、紫に見えたり、青に見えたりする理由は、これは視覚に映じているわけです。そういうものが目に映っている。目に映っているということはどういうことであるか。人間の目に映るということは、目のレンズを通して光がやはり入ってきているわけです。この目のレンズを通して入ってきたその光、あるいは映像といえるものが網膜のスクリーンに映像を映しているわけです。 そうすると、網膜のスクリーンに映す映像として、色の違いが出てくる理由はどこにあるか。これは、網膜を刺激している、その刺激に違いがあると考えざるをえないのです。その網膜には、おそらく緑や赤や黄色、こうした刺激を感じるものがあるはずなのです。それを、黄色く感じる、赤く感じる、というものがあるのです。そうした感覚器官がちりばめられていると考えられるのです。 たとえば味覚というものがあります。酸っぱい物を食べれば、みんなが酸っぱいと言う。甘いものを食べれば甘いと言う。この甘いという感覚を他の者が共有しているというのは信頼ができるが、しかし同じ感覚であるという証明はできません。人間とはそういうものです。神が創られたのではないかと思えるところはそこにあるのです。 両親が違う、また大陸が違っても、まったく出会わない人たちどうしであっても、甘いものは甘く、苦いものは苦く、酸っぱいものは酸っぱいと感じる。それは物自体の性質であるかといえば、そうではない。そうではなくて、これは感覚器官の刺激によってそういう感じ分けができるのであって、感覚器官がなくなればそれは感じません。物自体の性質であるとすれば、人間の神経細胞を抜いても同じように感じてもいいはすだけれども、神経を取り去れば感じなくなる。 とすると、感覚としてそういう知覚の、そういう味覚の違いを感じるのだと思われるわけです。同じように、なぜ各人がそうした同じような網膜を持っているかは不思議です。ここが人間が創られたものであること、披造物であることの証明であると、私は思います。親の系統をいくら探っていっても、いっしょにならない人たちが、まったく同じように色を感じるという事実は、人間が創られたものであるということの証明になっていると思います。 そこで、その創られたるものである人間の網膜は、なぜ色を識別することができるのか。ただ、この色の識別ということを考えても、もっと繊細な色まで識別できる、そういう種類の動物もいるという事実を言っておかねばなりません。 人間にとっては七色に見えるものであっても、もっと識別眼がある動物、生物から見れば、それは何十、何百種類の色に見えるだろうということです。プリズムにかけて緑となり、黄色となった光線も、これも多分もっと識別感覚のある人から見れば、同じ黄色ではない。同じ緑ではない。そのなかに無数の色あいが見えると思われます。ただ、束としての光を見たときに、黄色と緑、青、赤、こういうものは明らかに違った光の束になっている、と思えるわけです。 そうしてみると、光は束に分けるときに一定の分けかたがある。それが定まっていると考えるのが論理的でありましょう。もし、プリズムによって光が分解されるとしても、七色にならなければならない理由はないわけです。これが百色になろうが、二千色になろうがかまわない。しかし赤、青、黄色というふうに基本原色といわれる色に分かれていく。これは、そうした基本原色としての理念がやはりあるのだと考えるべきでありましょう。 そうでなければ、この色彩の色分けが出るはずがない。それは、千様、万様の色が出てくるはずであって、そういうふうにくっきりとした束になるはずがない。緑と黄色との間に間がありすぎる。また、青、紫の間に、この色と色との間にギャップがある。このギャップは本来生じていいはずがない。本来いろんな色になったとしても、少しずつ変化していくのが筋であって、明らかに光線として別な姿が出るというのは、異常と言わざるをえない。これは、何かの理念があって、基本原色の理念をまとめているとしか思えない。そして、そのまとめた色の理念に合わせた感覚器官が創られているとしか思えないのです。 たとえば、人間の目には太陽の光はどう見えるか。これは白くまぶしく見えるかもしれないが、これは違った目を持っている者から見れば、この太陽の光線が緑に見えるかもしれない。もし、その生き物が、緑色のみを感知して他の色を感知しないとするならば、そういう形になるであろう。あるいは、真っ暗に見えるものもあるかもしれない。地球以上のもっともっとまぶしい、灼熱の星に住んでいる生き物がいたとするならば、地上でこの光線を見たときにどう感じるかというと、それはそれは、か細いものとなるだろう。闇夜の蛍火ぐらいにしか見えないかもしれない。こういう相対性は十分にあるはずです。 そこで、網膜についての結論を申し述べておくとするならば、人間の感覚は、この基本理念に合わせた創り方がされているということです。 色の基本原色として、七色の光線というものが考えられていて、この七色の光線を知覚するための感覚器官が用意されているということです。それはちょうどピアノの鍵盤とも言えるでしょうか。どこかを押せばその音が出るのと同じように、この色彩的刺激、この種の刺激が来るとこういう感覚として映像が出てくる、というようにでき上がっているのです。 ピアノの鍵盤のような役割を網膜は果たしているのであり、どのような名演奏家であっても、鍵盤の数以上の音を弾くことはできません。オルガンであり、ピアノであっても、むしろ千、二千の鍵盤があれば、それだけの音を演奏できるであろうが、実際はそれだけの用意がありません。限られたなかで音楽をつくっていかねばならないのです。 こうしてみると、どうやら次のことがわかってきそうであります。 4.光の波長が七色の鍵盤をたたく この鍵盤を押す作業に当たるもの、この光の性質はいったい何かということです。網膜にある鍵盤を弾くもの、押すもの、たたくもの、これがいったい何であるか。そう考えてみると、この網膜をたたくものは、実は波長といわれているもの、そのものなのだ、この波の作用なのだと考えることが必要なのです。 波に大小があります。大きな波、小さな波、それから小さく山なりになって、あとは小刻(きざ)みに揺れ、また山なりになって小刻みに揺れる。こういう波があるわけですが、こうした波は、ちょうど鍵と鍵穴の役割を果たすことになるわけです。鍵穴は一定のギザギザを持った鍵のみを受け入れますが、それ以外のものは受け入れません。一定の規格のギザギザが入ってくると、鍵は、あるいは錠はあけられることになります。 このように、どうやら網膜の鍵盤を弾くには、一定の波が必要なのです。この山なりの部分、この谷の部分、これがちょうど鍵の出っ張りと引っ込みの部分にあたって、その合図を送るわけです。そうすると鍵盤が弾かれて音が出るかわりに、色が見える。こういうふうになっているわけです。 したがって、色の違いが見えるという事実そのものは、光というものが同一波長ではない違った波によって、合成されている、ということを意味しているのです。波長が違わねば、色の違いが出るはずがないということです。 同一波長のものであるならば、一本の波のようなものが伝わってくるのであるならば、ちょうど縄を波立たせるように、一本だけで伝わってくるものであるならば、色は違っては見えない。違ったものとして、色が見えるということは、たとえば、この縄なら縄を何本も用意していって、七本なら七本の縄が用意されていると考えていいわけです。七本の縄が用意され、その両端を子供たちが持って、地面を打っている。そして、波をつくっていますが、同じものはどれ一つない。こういう違いが七色の違いとして出てくるわけです。 こうしてみると、光はまことに不思議です。一つのカプセル、粒子のカプセルとなって、そして鳳仙花の種を弾(はじ)くように、エネルギーを内部に秘めているものであったはずなのに、同時に子供が縄飛びの縄を、地面で波打たせているような、何本も波打たせているような、そういう性質も持っている。この七本の縄が、通常は一本のように見えている。こういう感じです。波であり、かつ粒子である。 5.光と宇宙の本質の解明へ そして、光の面白いところは、壁に当たるかと思えば、突如姿を消して反対測に現われたりすることがある。こういう性質をもう一つ持っていることも明らかなのです。これが単なる縄のような波であれば、透過できない壁があります。また、粒子であっても通れない壁があります。 ミクロの世界の話をするならば、みなさんは分子と分子、原子と原子の間には、隙間(すきま)があることがおわかりでしょう。したがって、自分より小さな、きめの細かい構成物、そのような網を通るときには粒子はひっかかってしまうことになります。その網の目を通ることはできない。自分より小さな網の目を通ることはできないはずで、そこでぶつかって、分解するか、あるいは反射するかしなければならないはずですが、光の性質のなかで不思議なのは、障害物に当たるときに、突如姿を消して、障害物の反対測に姿を現わす、こういうことがありえるということなのです。現実にそれがありえているのです。 これはいったい何なのだろうか。法則的に言えば、この光の粒子の大きさから言えば透過できないものを透過してくるのです。これは粒子としても説明がつかず、波としても説明がつかないのです。波として見てもそんな細い狭いなかを通ってこれるはずがないのです。粒子としても通れないはずなのです。跳ね返っていくはずなのです。しかし、そこの間を通り過ぎてくるのです。 こうしてみると、どうやら、光の次なる性質が見えてきたように思います。光とは、点滅するという作用を持っている。どうやら、このような面がある。たとえば、回路に電線を配して、豆ランプを十個、二十個つけた場合に、電流を流すとどうなるかというと、次つぎとランプが点いていくわけですが、この点滅型のようにも見えるということなのです。 私たちの目には、光の粒子とは、このランプの一個が動いていると見えていたわけなのですが、実は豆ランプそのものは動いていない。動いていないのであって、動いているのは、この電流が流れているだけであって、ランプそのものは動いていない。しかし、電流の流れに応じて、豆ランプの灯が点いていく。灯(とも)っていくわけです。 そうすると、豆ランプが動いてきたと、われわれの目には見えるけれども、実際は動いていないのであって、至るところに豆ランプというべきものが実はあって、それに一定のエネルギーが流れることによって、次つぎと光が登場するのではないか。そういうふうにも見えるわけです。 一定の障害物があって、それを通過できないはずであるのに、それとまったく同じものが反対偏に出るというのを考えてみるならば、実はそうしたものかもしれない。電気の配線をしていて、その障害物の前からつながってきて、後ろに抜けるように配線をしていく。この電気の配線は、線が細いからそれは十分通っているわけです。その障害物を貫いているわけですが、豆ランプの大きさは大きいので、この障害物を通過することはできない。 ところで上流から電流は流れてくると、それぞれ一個ずつの豆ランプを灯すことができるとしましょう。電流が流れっ放しではなくて、一定の幅のある、一定のエネルギー量の電流が流れてくる。それは、一つの豆ランプを灯すことはできるが、二つ以上は同時に灯すことができない。そうしたものだと思ってください。ひと塊(かたまり)の電流を上流から流してくる。そうすると、一個目は点き、二個目が点いたら一個目は消え、三個目が点いたら二個目は消え、こういう形で動いているわけです。 そうすると障害物の前の豆ランプが点くわけですが、そのあとそのランプは消えて、障害物の向こう偏にある豆ランプに灯が点く、こういう運動形式でもし動いているとするならば、どう見えるか。これを遠隔地から見ていて、遠隔地から見ている人の速度に対応する目、判断力がこの豆ランプが点いたり消えたりする速度についていけないほど、ゆっくりした速度で動いている人の目から見たらどうなるかというと、この豆ランプとおぼしきものが移動しているように見えるはずです。実は、いくつかの豆ランプが点滅しているのだけれども、その豆ランプを観察している人自身が、その反応のスピードにおいてはるかに遅い場合には、つまり、この電気の流れる速度より遅いスピードで知覚する人であるとすれば、これは一つの豆ランプが動いているように見えるわけです。そして、障害物に豆ランプがぶつかった瞬間消えて、反対側に現われたとしか見えない。これは、観察者の運動エネルギー、活動速度がその段階の場合です。 光の速度、この電気の流れる速度よりも速い速度で観察することができれば、これが点滅しているのがわかるけれども、それより遅ければ点滅しているのがわからないで、この豆ランプそのものが移動しているように見えるわけです。こうした知覚認識におけるギャップがあるというふうに考えればいいわけです。 そうすると、光とおぼしきものを見てみると、全宇宙に豆ランプと見えるものが配在されているのではないか。全宇宙に豆ランプが実は配在されていて、通常はそれが光を放っていないので存在が見えない。ところが、一定の方向から電流が流されてくると、それが一か所ずつ灯ってくる。その速さが異常に速いために、光が向こうから直進してくるように見える。これが宇宙の本質ではないかとも考えられるわけです。 6.熱量を送らんとする意思の流れ この宇宙の本質の考え方は、次なる考え方につながっていきます。 実は、全宇宙には均質なものがあるのではないか、散らばっているのではないか、という考えであります。従来、光の直進の説明にエーテルという説明を使うこともありました。宇宙にエーテルというものが蔓延(まんえん)していて、これを剌激して、音とか光とか、いろいろなものが伝わってくるのだ、というふうに考えられていたわけです。 エーテルというのは、一つの水溶液のようなものと仮定して、その水の中を直進してくる音波や光のような具合で、そういう媒体を通じて伝わってくるのだと考えられていた節があるのですが、現在はそのエーテル説は否定されています。 しかし、このエーテル説に代わるものとして、宇宙の各所にはこのランプが散在しているのではないかという考え方もあるのです。実際は太陽から光が来ていると思っているが、実はそうではなくて、光を受け取っていると思うところに、そういうランプがいっぱいあって、この太陽からの何らかのエネルギーを受けたときに、それが点滅しているのではないか。 このエネルギーとはいったい何であるかというと、実は霊的なエネルギーかもしれない。霊的な念いかもしれない。こういう研究がなされる必要があると思うのです。すなわち、一定の方向に向けて熱量を送らんとする意思かあるときに、それが伝わってくると、あちこちに熱量が現われ、光が現われ、このランプが点滅していく。こういうものがあるのではないか。 電流に代わる意思流とでもいえるもの、意思の流れというようなものがあるのではないのか。そういう電気線が通っているはずは実際にはありませんから、それに代わるものとして、何らかの意思というものが全宇宙を張り巡らせているのではないのか。それは一つの神経細胞のようなものなのではないのか。こういうふうにも考えられるわけなのです。 これについては、十分な説明が現在の段階ではまだ地上のみなさんにはできかねる部分がありますが、光の本質のなかには、このように粒子であり、波であり、かつ点滅する存在としての光がある。この三種類の存在形式があるということを、まず知っていただきたいのです。そして、この三種類目の存在形式は、実は霊的存在の形式にきわめて似ていると考えていただきたいのです。 7.光の霊的な性質 みなさんもご存じのように、霊体というのは壁を透過していきます。通過していくわけです。障害物が有っても無きがごとく透過していきます。こういう性質があります。そして、あるところで現われたかと思うと消え、また別のところで現われてきます。こういう性質が霊にはあります。これは地上を去った世界においても同様であって、あるところにその人霊としてのものが現われても、それが消滅したかと思うと別なところで姿を現わす。こういうふうに自由自在に現われたり消えたりすることが可能です。 ところが、地上においては、そういうことは不可能であって、A点からB点に動いていくためには、その移動というものが明らかに一定の仕事量をともなった移動として記録されねばなりません。東京から軽井沢に行くには、車に乗るなり、電車に乗るなりしなければ、軽井沢に行くことはできません。ところが霊的世界においては、東京で消えた人が、軽井沢で現われるということは可能です。この空間、時空間の部分が歪められて現われてくるわけです。この霊的存在のすがたと、この光の点滅がきわめて似ていることに、お気づきだと思います。 すなわち、光の性質のなかに霊的性質があるということです。明らかに霊的性質があって、あるところで消滅し、別のところで現われるという、こうした霊体で言えば幽体離脱型、あるいはテレポーテイションでしょうか。テレポーテイション型の移動が可能だということです。 したがって、光の粒子のなかに実は霊体が入っている、光そのものが、光の粒子そのものが実は霊体と肉体と両方を持っているのではないか、というふうにも見えるわけです。 地上の人間は肉体があり、肉体に霊体が宿っているという存在形態をとっていますが、その最小単位である光の粒子を見てみると、光そのものも、実は霊体と肉体にあたる部分があるのではないかということなのです。光の霊体の部分がある。霊子といってもよい光の霊体部分があって、これに一定の外側の外皮というものがあるのではないか。この外皮の部分が強く現われると、粒子的存在として、その固形性、固定性を発揮する。ところが外皮の部分の形がくずれて、霊体が自由自在に動きはじめると波のようにもなる。波のようでもあって、この外の部分、外皮の部分をともなってテレポーテイションができるとすると、点滅型の光となる。 こういうふうになってくるわけで、テレポーテイション能力ときわめて近いと言えましょう。テレポーテイション能力も霊体としてのみ移動するテレポーテイションもあるが、肉体といっしょに移動するテレポーテイションもあります。すなわち、肉体組織、この光の組織をいったん分解して、もう一度再構成する。そこまでの能力を持った方もいます。このテレポーテイションがありますが、そうしたことが光の性質のなかにも入っているのではないか、当てはまるのではないかと思えるのです。 したがって、光とは何かをさらに突き詰めていくと、光の霊的側面、霊的性質ということを無視することが不可能になってまいります。光の本質は霊的なものである、というのが現時点での科学者としての私の説明です。その霊的なるものとはいったい何か、これはさらに探究を要することとなりましょう。 次章にて、霊的な存在とは何であるかを、科学者の立場でお話ししてみたいと思います。
https://w.atwiki.jp/touhokutest/pages/15.html
活動方針基本理念 活動目標 活動体系 交流概要現状 沿革 活動方針 基本理念 活動目標 活動体系 交流概要 現状 沿革
https://w.atwiki.jp/seitoku/pages/11.html
空手とは何か