約 5,620 件
https://w.atwiki.jp/wiki6_piro/pages/7553.html
金比羅尾根 東京都道184号を登る。平井川に沿っている。 東京都道184号は、道なりに行くと、平井川から離れて、つるつる温泉に向かうが、その直前の舗装路分岐を左折。平井川に沿って進む。 横に溝を切った舗装路の劇登りになる。 突然開ける。 この写真の左側の尾根が金比羅尾根。ここを走る。 平井川の源流の石碑。ここから先がダートのつづら。 のぼりきったところ ダートのつづらを上から見たところ。 開けた斜面の稜線上を走る。この先、やや路面が荒れて根っこが露出してたぶん乗車できない区間。 基本的には尾根沿いを道なりに走る。 途中分岐もあるが、麻生山→金比羅山と走るので、その標識に従う。 岩だらけのところもあるので注意。 林道が下を通る立体交差を越えると金比羅山のピーク。 金比羅山のピークをちょっと越えたところに琴平神社がある。 その手前を左に曲がる。 もしくは琴平神社の境内に入って、鳥居を出たら左。 展望台がある。 道なりに進むと、途中から舗装路になって、五日市の市街地に下りてくる。
https://w.atwiki.jp/maid_kikaku/pages/489.html
楼蘭皇国も六月中旬に差し掛かり じっとりとした湿度と上がり始めた気温の影響を受ければ大体の人間は短気になるだろう 宮原姫子もその短気に拍車をかけられたうちの一人、元々の短気にこの環境は最悪だった この楼蘭に生まれて十四年、梅雨時期だけはどうも好きになれない 苛々しながら境内を掃いているが、何処かに苛々をぶつけたくて堪らなかった 「ひーめちゃん」 無駄に明るい声がしたかと思ったら、次の瞬間自分の体が傾いでいた 「姉様!ただでさえ暑いんですから少しは自重してください!」 自分の脚だけでは支えきれず 箒に頼らなければならないのは、この腹立たしいまでの身長差が原因になる 後ろからの奇襲者は密着していた体を離すと、前屈みになり視線を合わせた 「ちょっと休憩しようと思うんだけど、ね?」 結論としては境内の掃除を中断して正解になった 朝から曇っていた空がとうとう雨を降らし始め 姫子は完全に滅入ってしまったからだった 「降って来ちゃったわねー」 激しく降る雨を目の前にしても笑顔を崩さない自分の姉を前に少し血縁を疑いたくなった 「…これで三日続けて降ってますけど…」 今日の空にも負けないジトッとした目で天を見つめたが、馬鹿にするかのように雨は強さを増した 「あちらは四週連続ね」 首の向きを姉に戻すと視線の先にいい加減見飽きた軍用車が乗り込み始めていた 詳しい事は教えて貰えなかったが『この神社の祭具殿に用があるらしい』ぐらいしか解らなかった 「今日は今までより多いわねぇ」 姉はいつの間にか笑顔が消え、眉間にしわを寄せていた 「姫ちゃんはここで待っててね」 そうとだけ言うと姉は傘を片手に軍用車へと歩いて行った 真面目な事に、軍用車は毎週土曜日に必ず来て姉に追い返されている 今回も大丈夫だろう、となんとなく高をくくっていたが、すぐにその楽観視は終了する羽目になった 最後に入ってきた車から降りた人物が指揮官なのか、他の者に指示を出し祭具殿へと向かわせたのを見て 流石に我慢が出来なくなり、走り出した姉を追った 「これはどういうことですか!? 私たちは再三断ったはずです!」 声を荒げる姉に対して、その男は至って冷静なのが腹に立った 「こちらも再三警告したはずだ、今は国家の、いや世界の存亡が掛かっているのに無駄足を踏ませないで戴きたい」 どこか苛々とした様子の男に対し、自分の中で何かが切れたのを感じた 「国家がどうだとか、世界がどうだとか、そんなのをどうにか出来る物がここにあるわけ無いでしょ、早く帰って!」 その男がため息を吐いたのまでははっきりと見えたが、次の時に見えたのは地面だった 腹部に鈍痛を感じて、自分が何をされたかを理解した 「姫子!大丈夫!? 何も殴る必要があったんですか!?」 姉の悲痛な声に混じって聞こえたのは祭具殿に向かった軍人の一人だと思われる男の声 「中尉、コアを確保しました」 「そうか、他に使える物を確保してくれ」 痛む腹を押さえつつ、なんとか顔を上げると こちらには銃口が向いていた 「素直に従って貰えば、こうはならなかったがね、この二人も連れて行け」 脚がまだ言うことを聞かず、引きずられるように歩く自分とは違い、姉はしっかりと歩いている 姉妹なのにここまで違うのかと落胆しながらも 車両に詰め込まれる前に見えた雨の空に呪詛の言葉を呟く事には成功した
https://w.atwiki.jp/wiki3_shino/pages/82.html
#blognavi 昨日で4年間バイトした先が解散に近い形となり、5月から親会社へと移ることになった。 所詮はバイトだからいつでも他へ移れるが、そこは人との繋がりで仕事を得たきたのだから、自分勝手には行かない。信義にもとることはしてはならないのだ。 だが、親会社での仕事はどうにも窮屈だし、組織が大きいだけにどこは冷淡なところがあって明るく元気に仕事をしたい私としては不満がある。 ひとりひとりと話すと全く問題無いのに、それが仕事となると融通が利かないというのか、何事もマニュアル通りにしか事を運べないというのか、歯がゆいことが多い。 アヤの物語りは進んでいない。 アヤはあれ以来行方不明となっている。神社の石畳の境内を抜けて行ったきり現れない。砂丘の上に建つその神社から海は近い。松林の中を降りて行けば砂浜の向こうに島影を横たえた海が広がる。 アヤはこの海峡を渡ったのだったか… カテゴリ [日記] - trackback() - 2007年04月28日 10 00 48 #blognavi
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/350.html
陸奥国 会津郡 中荒井組 下荒井村 蓮華寺 大日本地誌大系第31巻 44コマ目 松命山と號す。山城国醍醐報恩院の末寺真言宗なり。 開基の僧を仁範といい、紀州(*1)の人にて初め鎌倉雪下に住し葦名直盛の勧によりこの地に来り、康暦元年(1379年)にこの寺を建立す。 齢傾けども願心やまず高野に詣で臨終を遂んとて、旅装を催し杖に扶けられ蟹川に至る。岸上に垂釣(すいちょう)(*2)の翁ありていづくに往くと問う。仁範宿願の由(よし)を語れば即 高野山餘所にはあらじ下荒井三鈷の松の法の朝風 という和歌を詠してその行を留む。仁範怪でその松何れに在やと問えば「汝が寺の境内にあり。これより汝が寺を松命山蓮華部寺清浄院と號すべし」とてその形みえず。仁範奇異の思をなし帰てその院中を見れば、その松正しく3葉にして3鈷称にかなえり。この松年を歴(へ)て枝葉繁茂せしが、早乙女不浄衣とその枝にかけしにより乍(たちま)ち枯れ失せぬ。その地にまた自然に1根3茎の松生ぜしとぞ。 その後何れの頃にか水患を避け今の地に移れりという(遺址今蟹川村の境内にあり)。 昔は繁昌(はんじょう)の寺院にて寺頭も6坊あり。天正巳丑の兵燹(へいせん)(1589年)に逢て次第におとろえ所々に移り、今猶(なお)この寺に隷する者あり。 文禄中(1593年~1596年)13世宥明が時、蒲生氏郷の命を受け飯豊山と中興し即この寺を以て別当とせり。 慶長6年(1601年)氏郷の子秀行、耶麻郡一戸村にて50石の地を寄付す。 寛永5年(1628年)加藤明成耶麻郡稲田村にて改付す。 今猶(なお)50石を知行せしめ、飯豊神社の別当たり。 正札 門外南の法にあり 客殿 11間に8間、南向き。 本尊虚空蔵。 庫裏 客殿の北にあり。 10間に4間。 観音堂 客殿の南にあり。 3間四面、東向。 もと村北5町20間余にあり、別当を妙法寺といい当寺の末山なり。寛永中(1624年~1645年)にその寺廃せし時ここに移せしという。 会津三十三所順禮の一なり。 昔仁範が行を留めし翁はこの観音の形を現せし也という。 鰐口1口あり。径7寸余『越州河内橋立今熊野山元弘三年癸酉九月十五日寛祐』と彫付けあり。 (元弘3年癸酉は正慶2年なり。神皇正統記を按ずるに、後醍醐天皇隠岐国より還幸(かんこう)有て正慶の號を去り元弘に復せられしはこの年の6月の事なり。また保暦間記元弘2年先帝を隠岐国に還したてまつり正慶と改元ありしかとも。元弘の年号を追う者のみ多かりしとも見えたれば、この器微小なれども考古の一證に備ふべし。 ※元弘3年=正慶2年=1333年。元弘の元号云々に関してはwikipediaの記事を参照のこと。 飯豊神社 客殿の西にあり。 寶物 紺紙金泥法華経 1軸。 飯豊山図 1軸。 蒲生秀行證文 1通。その文如左 會津於分領御知行五拾石奉寄進候全可社務者也 慶長六年十月十八日 秀行 花押 飯出山別當坊 加藤成明證文 1通。 蓮華寺自体は明治初年に廃寺となったそうです。 耶麻郡木曽組一戸村 - 飯豊山及び飯豊神社について記載あり Google Map 飯豊山神社(飯豊山権現) 会津三十三観音札所 第十四番下荒井観音堂 参考 北会津村の文化財蓮華寺草創 北会津の昔ばなしと伝説三鈷の松
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/795.html
陸奥国 大沼郡 野沢組 利田(かかた)村 大日本地誌大系第33巻 170コマ目 もと加賀田に作る。寛文中(1661年~1673年)今の字に改む。 府城の西北に当り行程6里24町。 家数9軒、東西1町14間・南北50間。 北は揚川に近く三方は山廻れり。 東6町11間漆窪村の界に至る。その村は辰巳(南東)に当り11町40間余。 西1町48間尾登村の山界に至る。その村は申(西南西)に当り17町40間。 南8町漆窪村の山に界ふ。 北5町耶麻郡大谷組利田村に界ひ揚川を限りとす。 端村 合瀬(あはせ) 本村より寅(東北東)の方3町20間余にあり。 家数10軒、東西1町3間・南北48間。 北は揚川に臨み三方は田圃(たんぼ)なり。 山川 尾登峠(おのぼりとうげ) 村より未(南南西)の方8町にあり。 登ること3町尾登村と峯を界ふ。 揚川 端村合瀬の北20間にあり。 漆窪村の境内より来り、申(西南西)の方に流るること28町余尾登村の界に入る。 慶長16年(1611年)8月21日地大いに震い、大黒岩(大谷組利田村の境内にあり)崩れて川を塞ぎ1丈余の瀑布となり(或いは慶長の地震に岩割れて元和6年(1620年)7月の霖雨(りんう)に水漲り件の岩頽(くず)れこの瀑布となりしという)魚升ることを得ず。鱒鮭の類滝下に集れるを土人さて網をもてこれを捕る。この村にては川岸より縄を下てこれに係り、大谷組利田村にては北岸の岩にそふて漁せしという。今は滝の形なくただ急湍(きゅうたん)なり(利田村の条下を併せ見るべし)。 またこの川の岸に奇岩あり。水面より高こと数尺。中に3間計の坎(あな)ありて水湛ふ。この水炎旱にも涸れることなし。土人釜脇(かまのわき)と称し旱歳には雨を祈る所とす。 清水 村中にあり。 周4間、産清水(うふしみず)という。女子の初て生るる時にこの水をそそげば後に難産なしという。 水利 堤 村南7町にあり。 周1町、とうきん林(*1)堤という。 延享2年(1745年)に築く。 神社 大澤神社 祭神 不明 相殿 山神 勧請 不明 村北4町にあり。 祭神及び勸請の初詳ならず。 鳥居あり。野沢本町伊藤対馬が司なり。 墳墓 塚 村西1町20間にあり。 五輪、高3尺余。 この村の者京夫にさされて上京し小町がもとに渡夫を勤め3年にして帰郷しぬ。 後星霜を経て1老女来り宿を假んといい、これを見れば小町が老衰せしなり。驚いて家に請し互いに昔の物語をして袖をしぼりぬ。かくて数日滞留しけるに小町病に染て身まかりしが、その骸を葬りし所なりそて里人小町塚と称すれどもかかる上古のものとは見えず。 このほとりより文字ある石を得ることありといえば1石1字の供養塚なるも知るえからず。 Google Map利田地区 小野小町塚 小野小町塚について小野小町塚(喜多方市) 尾登峠 利田村から尾登村へはいくつかルートがあるようですが、峠というからには山越ありきということで下記の道を想定してみました。すでに鉄道が整備されたあとなので当時の道とは違うと思いますが。 ※地理院地図(大正2年測図/昭和6年修正)
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/166.html
陸奥国 会津郡 熨斗戸組 八総(やそう)村 大日本地誌大系第31巻 114コマ目 府城の西南に当り行程17里5町。 家数18軒、東西1町40間・南北30間。 山間に住し南は立下川に臨む。 東1里17町本郡河島組滝原村に界ひ中山峠を限りとす。その村まで3里。 西4町30間森戸村の界に至る。その村まで8町。 南4間井桁村に界ひ岩下川を限りとす。その村まで2町。 北18町森戸村の山に界ふ。 山川 中山峠(なかやまとうげ) 村東により登ること1里17町にして頂に至る。 古木陰森(いんしん)として幽邃(ゆうすい)なり。 ここを越て河島組の諸村に往く。 本郡河島組滝原村と峯を界ふ。 岩下川(いはしたかわ) 村南にあり。 井桁村の境内より来り、西に流るること4町余、森戸村の界に入り立岩川となる。 広10間。 関梁 前橋(まへのはし) 村南岩下川に架す。 長10間。 隣村の通路、丸木橋なり。 神社 伊勢宮 祭神 伊勢宮? 勧請 不明 村東4町計にあり。 鳥居あり。井桁村阿久津和泉が司なり。 稲荷神社 祭神 稲荷神? 鎮座 不明 伊勢宮と同じ処に祠る。 村民の持なり。 三島神社 祭神 三島神? 勧請 不明 村北1町にあり。 鳥居あり。阿久津和泉が司なり。 日光神社 祭神 二荒山の神 同下 鎮座 不明 三島神社の東30間にあり。 鳥居あり。阿久津和泉が司なり。 稲荷神社 祭神 稲荷神? 相殿 稲荷神 境内にあり。 山神社 祭神 山神? 鎮座 不明 村東1町余にあり。 鳥居あり。村民の持なり 山神社 祭神 山神? 草創 不明 村東1里5町山中にあり。 村民の持なり。 古蹟 竹杖原(たけつえはら) 村東10町余、中山峠に登る道にあり。 東西20町余・南北9町余。 昔、高倉宮ここを過ぎ路次の梗渋(こうじゅう)(*1)に苦しみ疲れたまひしかば、村翁あはれみまゐらせて道の傍なる小柴栗とて枝間に実をはさめる樹をきり竹杖に代てすすめしが、宮怪(あやし)みてその名を尋(たずね)給うに小柴栗と云いより答えれば、『陸奥の 南の山の小柴栗 大宮入は 知らで過ぎゆく』と詠したまひしとぞ。夫(それ)より中山峠を越え石に踞(かが)みして憩ひたまひしとて土人腰掛石と称せしが、ここを詳にせずという。今里俗の小柴栗と称するもの往々この邊の山中にあり。子細に榛(はしばみ)実に似て小刺あり。尋常の「しばぐり」とは別種なり。姑(しばら)く土人の伝えるままに記す。 Google Map八総地区 中山峠 大皇神社 鳥居 高杖原 Goo地図二荒山神社(日光神社) 会津高原たかつえが創造しい。(舘岩村要覧) 会津高原 たかつえの遊び方(PDF)(前沢曲家集落 周辺の情報) 補足:日光二荒山神社について(Wikipediaより) 日光三山を神体山として祀る神社。 祭神 男体山(二荒山) 大己貴命(おおなむちのみこと) 女峯山 田心姫命(たごりひめのみこと) 太郎山 味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと) 山を神として祀る場合は、三山がセットになる事が多いです(出羽三山等)。 また会津郡弥五島組白岩村の日光神社の祭神に大己貴命との記載もあり、会津風土記の日光神は大己貴命の事を指しているものと思われます。
https://w.atwiki.jp/sakushiro/pages/56.html
権現塚塁(ごんげんづかるい) 所在地会津若松市河東町(旧河沼郡河東町)広野字権現塚 別称 築城年不明 築城者不明 城主変遷不明 廃城年不明 現状八葉寺、墓地、山林 概要 権現塚塁は福島県会津若松市(旧河沼郡河東町)に所在した城館跡である。 歴史 築城年代、築城者、館主とも一切不明。 現状・感想 「まほろん」文化財データベースの記載を見て訪問しましたが、この周辺で文化財と言えば冬木沢八葉寺で決まりです。その八葉寺東側の丘陵、現在墓地に転用されている付近が塁跡の様です。しかし八葉寺境内には当然八葉寺に関する案内がほとんど、磐梯、猪苗代付近から移された中世の碑などはありますが、この権現塚塁に関するものは一切ありません。また『日本城郭大系』『福島県の中世城館跡』はもちろん、地元史談会発行の会誌にすら記載が無く、残念ながら詳細は不明です。 まあ単純に、八葉寺阿弥陀堂を見るだけでも訪問の価値はあるかと思いますけどね(^-^; 関連項目 福島県の城館一覧
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/30.html
陸奥国 会津郡 楢原組 桑取火(くわとうひ)村 大日本地誌大系第31巻 98コマ目 府城の南に当り行程8里。 家数12軒、東西1町・南北30間。 山中に住し東は桑取火川に傍(そ)ふ。 東10町計安張村の山界に至る。その村まで7町。 西18町磯上村の山に界ふ。 南12町磯上村の界に至る。その村まで16町。 北18町計桜山・中倉両村の山に界ふ。 山川 立岩山(たていはやま) 村西2町計にあり。 西は磯山村に連なる。 雑樹多し。 戸石川 村南12町にあり。 磯上村の境内より来り、東に流るること4町安張村の界に入る。 桑取火川 村東にあり。 源は村北の山中より出て、南に流るること1里12町安張村の界に入る。 神社 乙女神社 祭神 不明 創設 不明 村西30間にあり。 祭神及び鎮座の年月詳ならず。 鳥居あり。水抜村星河内これを司る。 Google Map八乙女神社 かたくりの里 桑取火 乙女神社(会津キリシタン研究所) 桑取火のカタクリ(下郷町)
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/307.html
陸奥国 会津郡 高久組 幕内(まくのうち)村 大日本地誌大系第31巻 30コマ目 昔三浦義連この地に下向のとき油幕(ゆばく)(*1)を打て居りし処故(ゆえ)村名とせしという。 旧は西の方10町計にあり。天文中(1532年~1555年)の洪水に居を移せしがその後も数度の水災ありしかば、寛永10年(1633年)再び今の地に移しき。 府城の西に当り行程27町余。 家数56軒、東西1町23間・南北1町37間。 四方田圃(たんぼ)にて西は鶴沼川に近し。 東32間・南2町47間・北は村際にて、共に西柳原村に界ふ。その村は丑(北北東)に当り5町余。 西9町42間本郡橋爪組下米塚村の界に至る。その村まで15町。 また戌(西北西)の方8町42間本郡中荒井組二日町村の界に至る。その村まで14町40間余。 亥(北北西)の方7町5間鍛治屋敷村の界に至る。その村まで8町50間余。 もと片原町とて寛永13年(1636年)に開きし端村あり。元文2年(1737年)府下西黒川分に属す。 山川 鶴沼川 村西3町にあり。 本郡南青木組飯寺村の境内より来り、北に流るること10町余鍛治屋敷村の界に入る。 応湖川 村の寅(東北東)の方5町計にあり。 小黒川分の界より来り、北に流るること1町計西柳原村の境内に入る。 水利 飯寺堰 飯寺村の方より来り田地に灌ぎ深川村の方に注ぐ。 鍛治屋敷堰 飯寺村の方より来り鍛治屋敷村の方に注ぐ。 神社 熊野宮 祭神 熊野神? 相殿 稲荷神 諏訪神 鎮座 建久2年(1191年)~? 村西1町50間余にあり。 縁起に、葦名氏の先祖紀州(*2)牟婁郡より勧請し、尊崇(そんすう)他に異にして社頭も壮大なりしが、天文中(1532年~1555年)洪水のために社屋漂没し今の地に移せり(旧地を詳にせず。蒲生氏その地の木材を伐て府城の守を築けりといい伝う)。 古木繁茂(はんも)して物ふりたり。 鳥居あり。郭内諏訪神社の神職佐久上総が司なり 寺院 真浄寺 村中にあり。 浄土宗本州岩城専称寺の末山なり。 相伝う。義連初め假にこの村に住せしが、後に今の飯寺村の館に移住し家臣仁科太郎光盛という者をしてここに住らしめしが、光盛そのまま私の居にすることを憚(はばか)り、良智という僧をして郭地に一宇を建立せしめ佛恩寺新城寺と號し後に今の字に改めき。 天文中(1532年~1555年)水災に院宇漂亡せしを、慶長中(1596年~1615年)教残という僧中興せり。 その後元和(1615年~1624年)・寛永(1624年~1645年)の際数洪水の難あり、因て今の地に移せり(旧地はここより西3町余にあり)。 本尊弥陀客殿に安ず。立像長2尺6寸、恵心作という。 また地蔵立像1軀あり。長2尺5寸、運慶作という。その像旧はこの村の端村中島という処に安置す。天文中の洪水に村と共に本村の南に移し、中島を改めて上幕内と称し高蔵院という密宗の一寺を創めこの像を安せしが、元和中の洪水に漂亡せり。因て当寺に移せりと縁起に見ゆ。然れども土人端村中島・上幕内等の称あることを伝えず。 Google Map幕内 熊野神社 新城寺 Wikipedia佐原義連(三浦義連)
https://w.atwiki.jp/teamhotdog_nfsw/pages/25.html
編集しちゃっていいよとか言いながら結局自分でやってしまうワタシであった。 ↑超絶助かりまっせ!!w(σ゚∀゚)σイェア(@ぺえすけ)※画像をクリックすると拡大します マミさんおるのは気にしちゃあかん。 痛車掘り♂ 客待ちタクスィ~↑ in ロックポート タクスィ~↑プール in 第二集合地点 客待ちタクスィ~↑ in 路上 いつもの大学 最後はビシっとHOT♂DOG。皆さんお疲れ様でした (・。・)。oO (byあぷりで) ここからは少しだけぺえすけが投稿しておきます(^^ゞ 若干THDじゃない車も居ますが.......^^; 今回用のネタ車である、TENGAで~すww なんでか知らないけど、急にBMWが並びだしたので、流れに乗って並べたり(-_-) 本題の、タクスィ~↑のお披露目ということで、遊園地にて集客中~ 第2集会所として使われているところは、完璧にTHDタクスィ~↑が占拠した! コンサート終了を見計らって、集客をするTHD勢 最後は自由に大学の境内にてドリフトして終わりました\(^o^)/