約 5,619 件
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/490.html
陸奥国 大沼郡 中荒井組 出戸田沢(てとたさは)村 大日本地誌大系第33巻 29コマ目 府城の西に当り行程2里30町。 家数38軒、東西3町12間・南北2町3間。 西南は山に傍(そ)ひ東北は田圃(たんぼ)なり。 東8町11間小沢村の界に至る。その村まで11町50間余。 西13町15間河沼郡牛沢組勝方村の山に界ふ。その村は戌亥(北西)に当り11町余。 南11町小沢村の山に界ふ。 北4町牛沢組日度村の界に至る。その村は丑寅(北東)に当り6町。 端村 沼山(ぬまやま) 本村より未申(南西)の方1里10町入田沢村の境内を隔て山中にあり。 家数11軒、東西1町・南北52間。山上に住す。 地面、東西20町・南北20町。東は蕎麦目村の小名槻曽根の山に界ひ、西は牛沢組大野村の山に連なり、南は高田組逆瀬川村の山に隣り、北は勝方村の山に交わる。 山川 田沢川(たさはかわ) 村西3町にあり。 入田沢村の境内より来り、7町北に流れ勝方村の境内に入る。 水利 堤3 一は村南2町にあり。周300間余。元禄中(1688年~1704年)これを築き日度村の養水とす。 一は村西8町にあり。周240間余。また元禄中に築き牛沢組牛沢村の養水とす。 一は村より5町未申(南西)の方にあり。周160間余。 神社 八幡宮 祭神 八幡宮? 相殿 八幡宮 稲荷神 白山神 鎮座 不明 村西8町にあり。 鳥居幣殿拝殿あり。宮下村渡部出羽が司なり。 寺院 龍澤寺 村中にあり。 米白山と號す。天台宗高田村龍興寺の門徒なり。 開基の年月詳ならず。亮源という僧建立すという。その後堂宇頽破(たいは)して遺跡纔(わずか)に存せり。 寛永13年亮仲という僧中興すという。 本尊弥陀客殿に安ず。 地蔵堂 境内にあり。 Google Map八幡神社 龍澤寺 子安地蔵堂 神社 沼山地区
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/664.html
陸奥国 河沼郡 笈川組 浜崎(はまさき)村 大日本地誌大系第33巻 106コマ目 府城の西北に当り行程2里33町。 家居70軒、東西両頬に連なり米沢街道に住す。 北端にて東に折れ塩川橋を隔て耶麻郡塩川組塩川村に連なる。 東西56間・南北4町30間。 北は日橋川に傍(そ)ひ三方田圃(たんぼ)なり。 東9町7間水谷地新田村の界に至る。その村まで11町50間余。 西5町45間塩川組上下遠田両村の界に至る。上遠田村は戌亥(北西)に当り22町40間余、下遠田村は酉戌(西~西北西の間)に当り23町40間。 南1町48間沼上村の界に至る。その村は午未(南~南南西の間)に当り3町50間。 北は塩川村に隣り橋中を界とす。 また 辰(東南東)の方6町43間高瀬新田村の界に至る。その村まで23町。 小名 大舘野新田(おほたてのしんでん) 本村より寅(東北東)の方10町10間余日橋川の北にあり。 家数2軒、東西16間・南北23間。 四方田畠なり。 端村 古木新田(ふるきしんでん) 本村の東水谷地新田村の境内を隔て13町40間余にあり。 家数7軒、東西1町5間・南北28間。 西は水谷地新田村に続き東南は田圃なり。東西2町36間・南北2町の地面この村に属す。 東は代田組島村に隣り南は高瀬新田村の地に連なり北は塩川組三橋村に界ひ日橋川を限りとす。 山川 日橋川 村北にあり。 塩川組金川村の境内より来り、金川村・水谷地新田村・塩川村の境内を経て西に流れ南に転じ、凡この村の境内35町計流れ沼上村の界に入る。 黒川 粟宮新田村の境内より北に流れ来り渠川東より来り注ぎ、西に流るること3町20間沼上村の界に入る。 渠川 笈川村の境内より来り、西に流るること2町30間黒川に入る。 関梁 塩川橋 村北日橋川に架す(塩川村の条下に詳なり)。 金川橋 端村古木新田の寅卯(東北東~東の間)の方3町余日橋川に架す(金川村の条下に詳なり)。 渠橋 村より9町20間余未申(南西)の方渠川に架す。 長10間・幅1丈。左右に勾欄あり。 米沢街道なり。 郡署 郡役所 村東50間、館跡の中にあり。 軍奉行を置き民事を統制せしむ。 沼上村及び耶麻郡小田付組小田付村・五目組上三宮村・熊倉組熊倉村の代官所これに隷す。 神社 稲荷神社 祭神 稲荷神? 鎮座 不明 村り3町丑寅(北東)の方館跡の東にあり。 鳥居幣殿拝殿あり。 神職 榊奥正 その名を忠重という。 寛政12年(1800年)より当社の神職となる。 寺院 遍照寺 村中にあり。 真言宗山號を金剛山という。 元和5年(1619年)宥栄という僧京師に登り山城国醍醐松橋堯圓に謁し密法の蘊を竭し郷に帰て当寺を創建す。因て松橋無量壽院の末寺なり。 寛永の始加藤成明寺料を寄付せるにより佛殿を造営す。 鐘楼門 2間に1間半。 上に鐘をかく。 径1尺8寸、『寛永二十一年甲申本願大竹助兵衛常光佐藤庄左衛門上野孫左衛門』と彫付けあり(寛永21年:1644年)。 客殿 8間に6間、東向。 本尊大日。 観音堂 境内にあり。 古蹟 館跡 村東50間にあり。 本丸迹、東西50間・南北1町。四方に幅5間余の堀を廻らし、上に高3間計の土居あり。二之丸迹この西に並び南に外郭の跡あり。北は日橋川を引て要害とす。 この地もの何者の築き住せるにか詳ならねども塔寺村八幡宮長帳に、寶徳3年(1451年)猪苗代より浜崎館を打取る、とあればその前の営築と見ゆ(舊事雑考にこの時の事を載て、8月29日白河與小峯共来相謀於和故猪苗代氏退還とあるは長帳の文に拠ると見ゆ)。その後亨徳2年(1453年)典厩(舊事雑考に松本右馬允なるべしとあり)濱崎の館を陥れし時、白川より黒川を援け兵を出し戦い塩川・浜崎の両館を陥るよし長帳に見ゆ。また舊事雑考に蒲生氏郷の臣横山喜内という者塩川の館に居りしが水災に苦しみ、秀行の時蒲生主計という者今の浜崎の旧址に移りしことあれば、この時始て修営を加え城隍の構も旧に増りしにや。 元和中(1615年~1624年)1国1城の制になりしとき毀(こぼ)つべかりしを、蒲生氏茶屋と名け暫が程残し置きしかば今に至てその形他の館跡に異なり。 Google Map城東稲荷神社 遍照寺 浜崎城跡
https://w.atwiki.jp/shuinn/pages/3303.html
白山宮 愛知県日進市に鎮座する白山宮の御朱印です。 境内社・足王社の御朱印です。 境内社・香良洲神社の御朱印です。 映画『フルスロットル』とのコラボレーション企画で、平成26年9月6日から10月31日までの期間限定でいただけた足王社の御朱印です。 令和3年7月にいただけた御朱印です。 ★この神社にはオリジナル御朱印帳があります。 ★住所 愛知県日進市本郷町宮下519 -
https://w.atwiki.jp/t0944520022/pages/17.html
合計 : - 今日 : - 昨日 : - トップページ 地域分類 福岡県大牟田市 大牟田萩尾神社 大牟田市にある小さな神社。 福岡県大牟田市萩尾町2-30 場所は西鉄萩の尾一丁目停留所の裏手の築山である。 下から見た境内の様子。 階段を上ると。 境内はこんな感じ。 敷地内左手の祠
https://w.atwiki.jp/toho_yandere/pages/1197.html
聖白蓮が○○にどのような思いを抱いているかは想像に難くない。 そして、きっとその感情が常軌を逸した偏愛である事も。 何故?そして何処で?どのようにして聖白蓮はこのような常軌を逸した感情を持つようになったのか。 あるいは。最初から聖白蓮も、その配下として付き従っている命蓮寺の皆も、全員最初から狂っていたのか。 そしてそれに従属する里も、狂っているのか。 蔵の中で息を殺してばかりいる○○には容易に見つけ出せぬ答えであった。 しかし、ジッとしてばかりではいられなかった。 生半可な法力の力では、○○の空腹と喉の渇きを誤魔化すのは既に限界に近かった。 ○○は深呼吸を続け。どうにか満足に動ける程度の心の平穏を取り戻す。 相変わらず心臓はバクバクと高鳴り、恐怖心は消え失せる事はなかった。 それでも、震える手と酷くなるめまいを押し通し。帳面に思いの丈をつづり続けていた。 日が落ちたらすぐにここを出よう。大きな決心と共に、○○は執筆を続けた。 ○○は急いでいた。日没までの間に出来る限り完成させなければならない。 そしてこの帳面を隠す時間を加味すれば。執筆を続ける時間はもうそれほど残されていないはずだから。 煌々と照っていた日の光も、徐々に沈んでいくのが明り取りの窓から差し込む光の量で確認できた。 手元も暗くなっていき文字を書くのに難儀していく。 まだ書き残したい事はあった。時間をかければ更に洗練された物に出来ただろう。 だが○○としてはこれの完成度を上げるよりも、一刻も早く命蓮寺から立ち去りたかった。 ○○は帳面の隠し場所として土の中に埋める事を選んだ。 手頃な空き箱を見つけ、床下にどこか外れるところは無いか丹念に探し回っていた。 勿論、それらの行動をする際。立ち歩かず四つん這いとなり、出来る限り動作音を減らしていた。 少々の音でも漏れ聞こえるとは思わなかったが。恐怖心から慎重な行動を取らざるを得なかった。 一体聖白蓮は自分に何を求めているのか。自身を捕まえた後何をするのか。 未知の恐怖におののき。張り裂け、大声を上げたくならんとする胸の内を堪える。その影響で○○の作業は度々中断された。 床板の一部をはがせる所を見つけた○○は用意しておいた空き箱をスコップ代わりに土を掘り返した もし、自分が捕まった後。蔵の内部に土がある事を怪しまれないように。蔵の内部に土を残さないように注意しながら。 明り取りの窓から差し込む光の量はもう心細い物だった。もう日没までは幾ばくもないだろう。 これを埋め終わる頃には、外に出るには丁度いい塩梅かもしれない。 見つかる可能性を少しでも減らしたく、穴は出来る限り深く掘った。 その穴に帳面を入れた箱を安置し、また土をかけ穴を塞いでいった。 ただ土をかけるだけではなく拳で叩き。出来るだけ固くしておく事も忘れなかった。 床板を元の位置に戻し、これで見た目は以前と変わらない形となった。 蔵の中から聞き耳を立てる限りでは、外は静かだった。人の気配も感じられない。 夜間の捜索活動を行う旨の話は今まで聞いたことは無かった。里の人間達は命蓮寺に戻らずそのまま里に一時帰ったのだろうか。 どちらにせよ聖白蓮も、命蓮寺勢も、里の者達も。○○がまさかこんな近くに息を潜めているとは思っていない事だけは確かだった。 まずは命蓮寺の近くの森で、木の上にでものぼり夜間は息を潜め。明日夜明けの直前くらいに神社へと向う算段を立てていた。 ひとつ気になる事は。博麗の巫女がしばらく結界を開けない事を、立看板で知らせていた事だった。 何か理由があって開けれないのであれば結局は八方塞だった。いっその事力に任せて無理矢理開かせるか。 暴力沙汰は○○も望みはしないし出来れば使いたくは無い。だが博麗神社が自分を匿ってくれる保障も存在しない。 里、命蓮寺と裏切られ続けた○○は。既に幻想郷に対する信頼など微塵も無かった。 故に。○○の思考はどうしても物騒な方へ物騒な方へと傾くままであった。 できうる事ならば聖白蓮と、今まで親身になって相談を受けるふりをして騙し続けた彼。 この二人には一発と言わず何発か全力で殴りたい気分でもあった。 しかし、それを実現するにはその取り巻きも全員相手にしなければならない。とても現実的ではない。 だからそれは諦めて。幻想郷から逃げ出す事が奴等に対する最大の復讐と考える事にしていた。 このままこの暗くて狭い蔵の中でグズグズしていたならば。ただでさえ低い成功の見込みがますます小さくなる。 法力で誤魔化していた空腹と喉の渇きも、もうとっくに限界を迎えていた。 いずれは足腰も立たなくなるだろう。そうなれば逃げる為の行動を起こす事も出来なくなる。 命乞いをするつもりは無かった。自害を選ぶ気も無かった。戦うにしてもたった一人で何が出来るのか。 ならば、このまま逃げ切る事を選ぶしかなかった。 蔵の二階から窓を小さく開け境内の様子を確認する。扉を開けた瞬間鉢合わせにはなりたくなかった。 誰もいないことを確認し、出入り口を開ける際も聞き耳を立て。誰かが帰ってこないかを慎重に判断する。 蔵の扉を開ける際、○○は日本の足で立とうとしたが。やはり水すら断たれた絶食は体に相当堪えているのか。 一思いに立つ事ができなかった。もし見つかれば、逃げる事など不可能だろう。 蔵の扉を開け放っても扉の先には誰もいなかった。境内には人の気配も感じられない。 そして遂に○○は何日ぶりかに蔵の外へと足を踏み出した。 ひっそりとした境内。久しぶりに吸った外の空気。 誰にも見つかっていない事と、幾日ぶりかの新鮮な空気に思わず○○の顔がほころぶ。 だが、状況は何も変わっていない。○○はかぶりを降り気合を入れなおす。 まずはここから出なければならない。すぐに○○はよろける足に鞭を打ち門へと向う。 ようやくこの地獄の底から抜け出せると思い。声にこそ出さなかったが○○は満面の笑みと大きくはやる心で歩を進めていった。 その笑みも、はやる心も。門から見下ろす大階段からの光景により、○○は地獄の底の底へと叩き落される事となった。 大階段の下には沢山の人間がいた。きっと自分を追い掛け回したあの時よりも沢山の人間が。 そう、○○の読み通り境内には誰もいなかった。“境内”には。 里の者達は命蓮寺の境内には入らず。その出入り口となる大階段の前で腰を下ろし、休息を取っていたのだった。 今までずっと境内にまで入ってきたのに。この時に限って、境内には入らなかった。 大階段の下にはかなりの人間がいる。その全員が、門の前に立つ○○の姿を見逃すはずも無かった。 「いたぞおおおおお!!!」 ○○は悲鳴を上げた。飲まず食わずでいて、体力も無いはずなのに。とてもとても大きな悲鳴だった。 よろけて満足に動かせない足、混乱の極みに叩き落された思考。 溺れる者がわらをも掴むように、○○はまた蔵の中へと入っていった。 そう、命蓮寺に逃げ込んでから今まで自分をずっと隠してきたこの蔵も。今の状況ではわら一本程度の価値しかなかった。 蔵の入り口にある段差で無様に転ぶ○○。最早扉を閉めることもできない。 例え転ばずに閉めれた所で大人数でぶちかまされれば。しかも体力も無い○○が相手ではなのだが。 泣き喚きながら、羽をもがれた虫のように這いずりながら。蔵の奥へと逃げようとする。 しかし、蔵の出入り口は一つしかなかった。最早○○の運命は完全に決してしまった。 今無様に足掻く姿も、少ない可能性を手にしようとするものではない。ただ結果が決まる時間をほんの少しだけ延ばしているだけだった。 無論、○○はそんな事に気づく余裕など無い。 ○○は首根っこを引っつかまれた。その感触に、まるで癇の虫が強い赤子のように泣き喚き、もんどりうつ。 「離せぇ!離せええ!!」 無論離すはずもない。複数の大の男に羽交い絞めにされ、最早先ほどまでのように手足をばたつかせる事もできない。 ただ、泣き喚くことしか出来ない。 その悲鳴の主が○○である事は、皆すぐに気が付いた。 横になっていた村紗は跳ね起き境内に飛び出した。 境内の一角、では沢山の人間が一気に蔵に入っていくのが見えた。 「おい!何が合ったんだ!?」 誰に対してではないが蔵の中に入ろうとする者達呼びつけると。すぐさま何人かがこちらに向き直った。 そして猛然と近づき、やはりいつものように額をこすり付けんとばかりにひれ伏した。 「村紗様!○○を見つけました!!」 「何処で!?お前等はずっと休んでいただろう」 「はっ!どうやら○○はずっと命蓮寺の中におったようです。近すぎて今まで気づかなかったようです!」 その事実に村紗は戦慄した。今まで自分達は、○○がいないと思っていたから。 悪口雑言を喚き散らし、感情に任せて手を上げ続けていた。 もし、○○がずっと命蓮寺にいたのならば。それらを全て見られ、聞かれていたことになるではないか。 自分で自分の首を絞めていたのは、○○だけではなかったと言う事になる。 ○○が里人に対して不信感を通り越した憎しみの心を持っているのは最早考えるまでも無い。 そして、○○がずっと命蓮寺に。今里人が雪崩れ込むあの蔵に隠れていたのならば。 ○○の中にある憎しみの心は、間違いなく命蓮寺の皆にも向いている。 知らなかったとは言え。自分達も里人と同じように、○○を傷つけていたのだ。 しかし、何故○○は今になって蔵を出ようとしたのか。 村紗には一つ思い当たる節があった。 「ぶっちゃけ境内に座り込まれても目障りなんだよね」 捜索に一段落付け、命蓮寺に戻ってきた際。村紗は彼らに対してそんな事を言って悪態を付いた。 村紗の言葉は本心だった。本心から境内のあちらこちらに座り込む彼らを見てイラついていた。 今までずっと境内で休息を取っていたのに。今回だけは村紗の個人的な感情で彼らを境内にいれなかった。 きっと○○はずっと逃げ出す頃合を計っていた。 そして日が落ちかけても境内に戻らない里人を確認して。今日は里に戻ったと勘違いしてしまったのだろう。 間接的に、村紗は○○に止めを刺してしまったのだった。 村紗は顔に手をやり、よろけるしかなかった。 そのよろけた体を誰かが支えてくれた。後ろを振り返ると、一輪の姿が眼に見えた。 「い・・・一輪、私もしかして・・・○○に止めを・・・・・・」 あの時の村紗が付いた悪態は。一緒に行動していた一輪は勿論知っていた。 だから、蔵の様子と村紗の言葉から、おおよその事態をすぐに把握した。 「大丈夫よ村紗」 「え・・・・・・?何で?」 何が大丈夫なのか。村紗は言葉と判断に詰まった。 「止めを刺したのは貴方じゃないわ・・・○○は昔からずっと私たちの仲間だったのよ」 「だから、村紗。こんな事実無かった事にしましょう。○○はずっとずっと私たちと行動を共にしてたのよ」 「姐さんの封印を解く為に飛倉の破片を探した時も、。○◯は一生懸命働いてくれた」 「そういう事にしましょう・・・ね、村紗」 一輪が何を言っているのか、村紗は理解したくなかった。
https://w.atwiki.jp/wiki6_piro/pages/5668.html
二見興玉神社 ふたみおきたまじんじゃ 三重県伊勢市にある神社。 主祭神はサルタヒコとウカノミタマ(ここでは伊勢神宮外宮のトヨウケビメの別名とされる)。 境内にある夫婦岩で知られる。 夫婦岩の沖合700mに沈んでいる興玉神石を御神体とする。 明治時代に、サルタヒコを祀る興玉社と、ウカノミタマを祀る三宮神社を合祀して現社名となった。 所在地 三重県伊勢市二見町江575 地図 より大きな地図で 三重県 を表示 興玉神石 サルタヒコの寄り付く所、又はサルタヒコそのものだとされる。 楕円形の平らな岩が露出していたが、度重なる津波により水没した。 夫婦岩を鳥居代わりに興玉神石を遥拝した。 天の岩屋 境内にある洞窟。全国に数多ある天岩戸事例の1つ かつては洞窟内に三宮神社が祀られていた。 興玉社 天平年間(729年 - 748年)に行基が創建した江寺(えでら)の境内に鎮守社として建てた。後に現在地に遷座した。 1910年(明治43年)に三宮神社と合祀。 三宮神社 天の岩屋の中に祀られていたが、文禄年間に岩屋の外に移された。 1910年(明治43年)に興玉社と合祀。 2011-07-17 関連項目 2011-07-17 2011年7月伊勢 夫婦岩 タグ 三重県 伊勢市 歴史 神社
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/322.html
陸奥国 会津郡 高久組 下高野村 大日本地誌大系第31巻 35コマ目 府城の西北に当り行程1里12町余。 出羽国米沢街道に傍(そ)ひ、南北2区に分れその間20間余を隔つ。 南の1区、家数21軒、東西1町20間・南北1町31間。 北の1区、家数8軒、東西32間・南北48間。 共に四方田圃(たんぼ)なり。 村西に一里塚あり。 東1町3間鶴沼村の界に至る。その村まで4町余。 西5町32間下吉田村の界に至る。その村まで5町30間。 南2町27間上高野村の界に至る。その村は巳(南南東)に当り8町40間余。 北3町52間東森台村の界に至る。その村まで6町50間余。 また 未(南南西)の方2町32間中地村の界に至る。その村まで10町。 申(西南西)の方3町50間上吉田村の界に至る。その村まで7町20間余。 戌(西北西)の方6町2間界沢村の界に至る。その村まで12町余。 亥(北北西)の方2町12間中森台村の界に至る。その村まで9町20間余。 水利 平沢堰 上高野村の方より来り田地に注ぎ吉田堰に入る。 吉田堰 上吉田村の方より来り田地を潤し中森台村の方に注ぐ。 寺院 観音堂 村中にあり。 1間半四面、東向。 至徳元年(1384年)葦名直盛黒川に城郭を営みし時この地に注連をはり良尊という僧をして禳災せしめ、工匠の居宅を構え材木を択びしとぞ。営築の功成て後直盛この堂を造立し良尊を別当とす。 伊達氏の乱(1589年)に兵火に罹り焼失し、ひとり観音の像災を免れしという。 長1尺の金像なり。 別当 千福寺 境内にあり。三王山と號す。 府下大町一桂院の末寺真言宗なり。 嘉慶元年(1387年)良尊開基す。 本尊大日客殿に安ず。 山王神社 祭神 山王神? 境内にあり。 昔良尊葦名直盛の為に山神を祭しとき一石一字の経文を埋めその上に勧請せし所という。 Google Map下高野地区 千福寺 - 現在は公民館。境内に観音堂あり 日枝神社(山王神社?)- 千福寺境内 熊野神社(村北)
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/316.html
陸奥国 会津郡 高久組 平沢村 大日本地誌大系第31巻 33コマ目 往古は村居の地高く前に広き沢ありて水湛えし故(ゆえ)広沢村という。また月を賞するに佳なりし故月見の里とも名けしとぞ。いつの頃よりか沢埋み平地となりしにより今の名に改めしという。 旧村西2町40間にあり。何の頃にか洪水を患てここに移せり。 府城の西北に当り行程28町余。 家数23軒、東西1町・南北2町、四方田圃(たんぼ)なり。 東1町54間府下西黒川達磨分の地に界ふ。 西3町16間高瀬村の界に至る。その村まで8町30間余。 南5町31間西黒川小黒川分の地に界ふ。 北5町上高野村の界に至る。その村は丑(北北東)に当り7町20間余。 また亥(北北西)の方2町39間中地村の界に至る。その村まで7町10間余。 端村 新田 本村の未(南南西)の方1町10間余にあり。 家数2軒、東西50間・南北22間。 西は黒川に臨み三方田圃なり。 山川 黒川 端村新田の西にあり。 小黒川分の境内より来り、高瀬村の地を経て北に流れ、中地村の界に入る。 この村の境内を経ること10町40間。 応湖川 村西2町30間にあり。 高瀬村の境内より来り、北に流るること5町20間余、村西にて黒川に入る。 広2間。 土産 甜瓜(てんか) この村より産するもの味美なり。 会津郡橋爪組栢原村の産につく。 水利 平沢堰 達磨分より来り田地に灌ぎ上高野村の方に注ぐ。 中地堰 端村新田の西にて黒川を引き中地村の方に注ぐ。 寺院 国姓寺 村中にあり。 広沢山と號す。 文禄元年(1593年)林廓という僧草創す。 本郡南青木組天寧村天寧寺の末山曹洞宗なり。 本尊釈迦客殿に安ず。 観音堂 境内にあり。 会津三十三所順禮の一なり。 古蹟 館跡 村より寅(東北東)の方2町10間余のあり。 35間四方、隍の形遺れり。 元亀(1570年~1573年)・天正(1573年~1593年)の頃には二国若狭實国という者居りしという。 今田圃を開けり。 Google Map広沢山国姓寺(平沢観音)
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/716.html
陸奥国 河沼郡 坂下組 窪倉(くほくら)村 大日本地誌大系第33巻 125コマ目 府城の西北に当り行程4里23町。 家数20軒(この中の4軒窪村の境内に住す)、東西2町・南北1町52間。 四方田圃(たんぼ)にて西は只見川に近し。 東は窪村・船渡村と田圃(たんぼ)相雑る。 西4町10間野沢組洲走村の界ひ只見川を限りとす。 南は村際にて船渡村に界ふ。その村まで10町。 北6町48間東羽賀村の界に至る。その村は亥(北北西)に当り8町。 また 寅(東北東)の方55間田中村の界に至る。その村まで2町20間。 辰巳(南東)の方30間窪村の界に至る。その村まで7町50間。 山川 只見川 村西4町にあり。 窪村の境内より来り、4町計北に流れ東羽賀村の境内に入る。 神社 稲荷神社 祭神 稲荷神? 相殿 伊勢宮 鎮座 不明 村西にあり。 鳥居あり。塔寺村兼子大和が司なり。 寺院 安樂寺 稲荷社の北にあり。 開基伝わらず。山號を歸敬山という。 浄土宗五之町高巖寺の末山なり。 本尊弥陀客殿に安ず。 古蹟 館跡 村より未(南南西)の方2町計にあり。 何れの頃にか渡部監物某という者住せしという。 今は次第に崩れ川となる。 Google Map神社 歸敬山 安樂寺 北城館跡
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/1163.html
越後国 蒲原郡 上條組 明谷沢(あひたかしま)村 大日本地誌大系第34巻 53コマ目 府城の西に当り行程15里4町。 家数23軒、東西1町・南北1町30間。 山間に住し東は黒谷川に傍ひ、三方に少しく田圃(たんぼ)あり。 東13町安用村の界に至る。その村まで15町50間余。 未申(南西)の方11町20間小手茂村の界に至る。その村まで15町。 南5町黒谷村の界に至る。その村は巳午(南南東~南の間)に当り13町。 北3町20間粟瀬村の界に至る。その村まで5町20間。 また 丑寅(北東)の方5町相高島村に隣りその村際を界とす。 山川 黒谷川 村東にあり。 小手茂村の境内より来り、北に流東に転じ粟瀬村の界に入る。 境内を経ること12町計。 柴倉川 村東6町にあり。 安用村の境内より来り、西に流るること14町計粟瀬村の界に入る。 広7間。 寺院 観音堂 村中にあり。 十一面観音を安ず。 早々の年代しれず。 村民の持なり。 Google Map明谷沢地区 観音堂 - 見当たらず 余談。 昔は本村から小山に向う道を片田峠と呼んでいたようです。現在の地理院地図に峠の名前は載っていませんが、明谷沢から山の中腹までが破線、そこから小山までは一般道と峠道の名残はあるようです。 ※地理院地図 明治44年測図/昭和6年修正