約 417,670 件
https://w.atwiki.jp/mongolhugjim/pages/167.html
その他モンゴル関係など 関根淳(2000)『モンゴル野球青春記』、太田出版
https://w.atwiki.jp/trombt/pages/20.html
5~6世紀までに ガリア聖歌 8世紀 メッツの教会を中心にグレゴリオ聖歌が栄える ~1100年ごろ サン・マルシャル楽派 1200頃~1300頃 アルス・アンティクア アルス・ノーヴァ 1400頃~ ブルゴーニュ楽派 15世紀後半 フランドル楽派
https://w.atwiki.jp/trinity_kristo/pages/325.html
賛美歌・聖歌 キリスト教(特にプロテスタント教会)において、礼拝や集会等で歌われる、神をたたえる歌のことである。 グレゴリオ聖歌 ミサ曲 カトリック教会のミサ(感謝の祭儀)に伴う声楽曲。 通常文の全文(キリエはギリシア語、ほかは、ラテン語による)と、その概要は次のとおり。 キリエ (Kyrie)、グローリア (Gloria)、クレド (Credo)、サンクトゥス (Sanctus)、ベネディクトゥス (Benedictus)、アニュス・デイ (Agnus Dei)、イテ・ミサ・エスト (Ite Missa Est) バッハ「「ミサ曲 ロ短調」 モテット 声楽曲のジャンルのひとつ。一般的に、中世末期からルネサンス音楽にかけて成立・発達した、ミサ曲以外のポリフォニーによる宗教曲を指す。 カンタータ 単声または多声のための器楽伴奏付の声楽作品をいう。典型的なカンタータは、17世紀後半にイタリアで作曲された、レチタティーヴォとアリアからなる独唱と通奏低音のための歌曲であり、18世紀前半のドイツでは、コラールを取り入れた教会カンタータが、18世紀のフランスでは一人または数人の歌手と通奏低音のほか、しばしば小編成の器楽を伴う世俗カンタータが数多く作曲されている。一方、19世紀以降、カンタータは合唱と管弦楽のための多種多様な作品を表すものとなった。 コラール もともとルター派教会にて全会衆によって歌われるための賛美歌である。現代では、これらの賛美歌の典型的な形式や、類似した性格をもつ作品をも含めて呼ぶことが多い。 オラトリオ 1640年頃、イタリアで始まったクラシック音楽における楽曲の種類、ないし曲名の一つ。元来はローマ・カトリック教会の宗教曲であるが、聖書などから取った台詞を多用し、さまざまな曲をあわせたことによる豊かな描出力が好まれ、18世紀には、聖書物語などすでにオラトリオと似たような宗教曲をもっていたドイツの作曲家たちにも取り上げられるようになった。 ヘンデル「メサイア」 レクイエム ラテン語で「安息を」という意味の語であり、死者の安息を神に願うカトリック教会のミサ。死者のためのミサ(羅 missa pro defunctis)。聖公会においても行われる。 モーツァルト「レクイエム」 受難曲 新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書に基づくイエス・キリストの受難を描いた音楽作品をいう。受難曲はキリスト教の聖週間における典礼と密接に結びつき、中世以来の長い伝統を有しており、17世紀から18世紀には、ルター派圏内で合唱や管弦楽を伴うオラトリオ受難曲が数多く作曲された。 バッハ「マタイ受難曲」 https //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99%E9%9F%B3%E6%A5%BD
https://w.atwiki.jp/sakakibara2018/pages/28.html
ここでは元少年Aの手記『絶歌』について説明する。 井垣康弘の期待 井垣康弘は元少年Aが少年院を退院した直後の2006年2月に『少年裁判官ノオト』で「自らの言葉で綴った『手記』を発表してほしい」と書いた。だが井垣康弘が元少年Aに最後に会ったのは2003年で、2018年の段階で元少年Aと連絡は取れていないという。 手記の編集 2012年冬、元少年Aは幻冬舎の見城徹のもとに手記出版を希望する手紙を送った。封筒の裏には差出人名として「元少年A(酒鬼薔薇聖斗)」と書かれていた。その文字は事件の際に犯行声明の字体と同じだったという。手紙の最後には今後の連絡のためにフリーメールのIDとアドレスを共有し、下書き欄でやりとりする方法が提案されていたという。 それから2年に亘って編集作業が行われた。見城は匿名で小説を書くことを提案したほか、元少年Aが最初に書いた原稿が贖罪意識に乏しいとしてゼロから書き直させたり、まったく構成を変えて書かせたこともあったという。 2015年1月になると『週刊新潮』が手記出版の予定を報じた。土師守さんは取材に対し「本を出すとは、全く聞いておりません」「“メディアに出るようなことはして欲しくない”と、早い時期から要望してきた」と答えた。また幻冬舎も出版の予定はないと回答した。見城徹によれば、この時点で幻冬舎からは出版しないことを決めており、元少年Aに対して太田出版を含む3社を提案していたという。 『週刊新潮』の報道で初めて手記出版の予定を知った青島多津子は元少年Aに電話をかけ厳しく叱責したという。これに動揺した元少年Aは見城徹に「もう出さなくていい」と言い出版を一度白紙にしたが、3月初旬、太田出版から出版すると伝えたという。手記を書くことに専念したいとして元少年Aが見城徹から借りた金額は400万円以上になっていたという。 手記の出版 元少年Aが命日の近くに送ってくる手紙を読み、山下京子さんは2015年3月23日付の毎日新聞で、加害男性を崇拝するこどもたちが「男性の今の償いの気持ちを知れば、ふと立ち止まるのかな」と語った。また同年5月24日、土師守さんは報道各社に寄せた手記で、昨年までと異なり事件の真の原因について「彼なりの考えをつづっていたと思う」と記した。 2015年6月10日、手記『絶歌』が出版された。書籍の最後には「被害者のご家族の皆様へ」という一文があり、遺族に対して無断で出版したことへの詫びの言葉を述べたのち、出版した理由として、少年院退院後の11年の自分は「虚像」であり「自分の言葉で、自分の想いを語りたい」とした。 一方で、6月22日にAから送られてきた手紙を読んだ山下京子さんは「B5用紙にほんの十行ほどが印字されており、まるで本の送付書のようでした。」とコメントした。 週刊誌への手紙 8月31日、元少年Aは『週刊文春』に掲載された見城徹のインタビューが事実とは異なるとする手紙を同誌を含む複数の週刊誌に送った。それによると、太田出版以外の出版社の社名を聞いたことはなく、見城徹が3社のなかから任意で選ばせたという「みみっちい嘘」をつき「自分だけ無傷で逃げおおせたかった」と罵った。 この手紙を読んだ見城徹は、出版を手助けしたいという自分の想いが元少年Aに対して「全く通じていなかった」とし「関わってはいけない人」「あまりに思い込みが激しすぎて相手にするに値しない」と周囲に語ったという。
https://w.atwiki.jp/karatanibiblio/pages/22.html
坂口安吾(1906-1955) プロフィール(Wikipedia) 単著・編著 ●『坂口安吾と中上健次』太田出版、1996.2→講談社文芸文庫、2006.9 ●関井光男との全集編集、『坂口安吾全集』全17巻、筑摩書房、1998.5-2000.4 掲載記事 1970s ●「現実について:「日本文化私観」論」、『文芸』1975年5月号 →関井光男編『坂口安吾の世界』冬樹社、1976 →改題「「日本文化私観」論」、『坂口安吾と中上健次』太田出版、1996.2→講談社文芸文庫、2006.9 ●「精神の風景:坂口安吾における批評の源泉」、『國文學 解釈と教材の研究』1975年5月号 ●「自然について:続「日本文化私観」論」、『文芸』1975年7月号6 →改題「「日本文化私観」論」、『坂口安吾と中上健次』太田出版、1996.2→講談社文芸文庫、2006.9 ●「安吾、理性の狂気」、『國文學 解釈と教材の研究』1979年12月号「特集=坂口安吾:われらが同時代人」 1980s ●「安吾はわれわれの「ふるさと」である」、『坂口安吾選集』パンフレット、講談社、1981.9 →『批評とポスト・モダン』福武書店、1985.4→福武文庫、1989.1 →『坂口安吾と中上健次』太田出版、1996.2→講談社文芸文庫、2006.9 ●「安吾その可能性の中心」(1988.9.24.東洋大学にて日本近代文学会主催の講演)、『言葉と悲劇』第三文明社、1989.5→講談社学術文庫、1993.7 ●「堕落について:坂口安吾『堕落論』」、『新潮』1988年12月号「特集=昭和文学の結節点」 →『坂口安吾と中上健次』太田出版、1996.2→講談社文芸文庫、2006.9 ●「文学のふるさと」(島田雅彦との対談)、『新潮』1989年12月号「特集=坂口安吾再読」 →改題「坂口安吾と文学のふるさと」、『ダイアローグIV 1987-1989』第三文明社、1991.12 ●「懐かしい安吾」、『坂口安吾全集』内容見本、筑摩書房、1989.12 →『坂口安吾と中上健次』太田出版、1996.2→講談社文芸文庫、2006.9 ●「解説 堕落の倫理」、坂口安吾『坂口安吾全集1』ちくま文庫、1989.12 1990s ●「安吾の「ふるさと」にて」(新潟安吾の会主催のシンポジウムにて、1990.5.)、『文學界』1990年8月号 →『坂口安吾と中上健次』太田出版、1996.2→講談社文芸文庫、2006.9 ●「坂口安吾・その可能性の中心」(関井光男との対談)、国文学解釈と鑑賞1993年2月号別冊『坂口安吾の世界』至文堂 →『坂口安吾と中上健次』太田出版、1996.2→講談社文芸文庫、2006.9 ●「或る時代錯誤 坂口安吾について1」、『坂口安吾全集第4巻』月報1、筑摩書房、1998.5 ●「坂口安吾の真実」(関井光男との対談)、『週刊読書人』1998年6月19日号 ●「二つの青春 坂口安吾について2」、『坂口安吾全集第5巻』月報2、筑摩書房、1998.6 ●「僧侶と堕落 坂口安吾について3」、『坂口安吾全集第6巻』月報3、筑摩書房、1998.7 ●「美学の批判 坂口安吾について4」、『坂口安吾全集第7巻』月報4、筑摩書房、1998.8. ●「美と崇高 坂口安吾について5」、『坂口安吾全集第8巻』月報5、筑摩書房、1998.9 ●「子供 坂口安吾について7」、『坂口安吾全集第10巻』月報7、筑摩書房、1998.11 ●「タナトス 坂口安吾について8」、『坂口安吾全集第11巻』月報8、筑摩書房、1998.12 ●「イノチガケ 坂口安吾について10」、『坂口安吾全集第13巻』月報10、筑摩書房、1999.2 ●「殉教 坂口安吾について11」、『坂口安吾全集第3巻』月報11、筑摩書房、1999.3 ●「穴づるし 坂口安吾について12」、『坂口安吾全集』月報12、筑摩書房、1999.4 ●「もう一つの近代の超克 坂口安吾について13」、『坂口安吾全集』月報13、筑摩書房、1999.6 ●「坂口安吾の普遍性をめぐって」(関井光男との対談)、関井光男編『国文学解釈と鑑賞別冊 坂口安吾と日本文化』至文堂、1999.9 ●「坂口安吾の普遍性」、関井光男編『国文学解釈と鑑賞別冊 坂口安吾と日本文化』至文堂、1999.9 ●「続・歴史探偵 坂口安吾について16」、『坂口安吾全集第15巻』月報16、筑摩書房、1999.10 ●講演「坂口安吾について」(1999.10.東洋大学井上円了記念学術センター主催の坂口安吾をめぐるシンポジウムにて) 2000s ●解説「坂口安吾とフロイト」(2000.2.記)、坂口安吾『堕落論』新潮文庫、2000.6 ●「半封建的なもの 坂口安吾について17」、『坂口安吾全集第16巻』月報17、筑摩書房、2000.4 ●インタヴュー「岩だらけの景色のなかで:サブライムと安吾」、『早稲田文学』2000年5月号「特集=坂口安吾」 ●「安吾とアナーキズム」(2001.12.8.花園大学にて坂口安吾研究会第4回研究集会での基調講演「坂口安吾と1930年代」)、坂口安吾研究会編『越境する安吾 坂口安吾論集1』ゆまに書房、2002.9 ●「坂口安吾のアナキズム」、『文學界』2005年10月号「特集=2005年の坂口安吾」 ●「歴史とアジア:ウィットフォーゲルをめぐって」(関井光男・湯浅赳男との座談会、2005.9.15)、『國文学 解釈と教材の研究』 2005年12月号「特集=歴史家・坂口安吾:世界システムとアジア」 ●「基調報告 ふるさとについて。中上健次『鳳仙花』と坂口安吾 徹底討論中上健次と坂口安吾 於・熊野」(浅田彰・関井光男・高澤秀次・小野正嗣との座談会。2006.8.5.熊野大学にておこなわれたシンポジウム「中上健次と坂口安吾」)、『國文學 解釈と教材』2006年12月号「特集=中上健次:尖鋭なまなざしで世界を切る」
https://w.atwiki.jp/mongolhugjim/pages/203.html
下の年表は《青木隆紘(2008)「《モンゴル音楽》の20世紀小史―モンゴル国音楽文化研究に向けて」(『日本とモンゴル 116』、日本モンゴル協会、pp.77-99)》の年表を大幅に改訂したものです。 モンゴル音楽関連簡易年表 年代 出来事 BC400~93年頃 匈奴がモンゴル高原を支配。匈奴軍は鼓吹楽という軍楽隊のようなものを持っていた。またモンゴル国中央県アルタンボラグ郡からは匈奴時代の骨製口琴が出土。 2~3世紀頃 蔡琰(蔡文姬、177?-239?)が自身の運命を綴った詩『胡笳十八拍』(後世の創作説あり)で南匈奴のツォールと思われる管楽器について歌う。 554~559年 この期間に成立した『魏書』「高車伝」によると、紀元前3世紀頃からモンゴル高原に居住していたテュルク系の高車が狼の吠声のように「好んで声を引いて長く歌」っていたとの記述がある。 6世紀~11世紀 柔然、突厥、ウイグル、契丹、遼の音楽文化については断片的な情報しかない。 7世紀 ホブド県マンハン郡の突厥時代の洞窟墓より小型のサウン・ガウのような弦楽器が出土。 12世紀 チンギス・ハーンに仕えた楽士の逸話が『アルタン・トブチ(黄金史)』に出てくるとするモンゴル国の文献があるが、これは楽士ではなく弓使いの誤読である。 1271~1368年 『元史』によると、元朝(大元ウルス)においてモンゴル王家の祖先を祀る歌が祭祀で歌われたという。またこの時代にモンゴル王家が宮廷楽団を有した。モンゴル帝国時代オゴタイ・ハーンの頃から金国、宋の宮廷楽士を接収するなどして生まれ、元朝のフビライの時代には唐時代以来の宮廷楽部を受け継ぎ楽器の種類をそれまでの王朝にないほど拡大し、400~500人の伶人を抱えるまでになった。一部がリグデン・ハーンにまで受け継がれたという説もある。 1644年~20世紀 清朝時代、有力なモンゴル王侯は「年班」という制度により北京に定期的に赴き駐在し、北京の宮廷文化を持ち込んだ。モンゴル王侯貴族は楽人を有し、式典や宴の際に演奏させた。歌謡の伴奏の他に「アサル」と呼ばれる歌のない楽器のみによる器楽合奏を行っていた。チベット仏教寺院でのツァム(チャム)上演が広まる。 18世紀 高僧ロブサンノロブシャラブ(1701-1768)が、サイン・ノヨン・ハン部のガロートと、内モンゴルのオルドスの寺院に合唱の学校を設立、仏教音楽やオルティン・ドーを教授。 19世紀 東部モンゴルの王公トグトホトゥル(1797-1868)、歌踊音曲の塾設立。領内から才能ある子供を選出し教育。 1831年頃 北ゴビの第5代ノヨン・ホトクト(活仏)・ダンザンラブジャーがチベットの仏教文学の翻訳『月郭公の伝説』 を戯曲化、音楽、曲芸付の劇として上演。 19世紀末~20世紀初頭 清朝の辺境への漢人入植政策進む。外国人貿易商らがマンドリン、アコーディオンなど西洋楽器を持ち込み、一部のモンゴル人に伝わり始める。イフ・フレー(現ウランバートル)では伝統音楽の演奏家たちはアムガランバートル(漢人居住区)に多く居住し、漢人劇の伴奏などをしていた。 1911年 12月、モンゴル清朝より独立、ボグド・ハーン制モンゴル国独立宣言 1912年 クーロンに初の国民学校設立。ボグド・ハーン政府、軍楽隊の導入を決定、帝政ロシア政府からも支援を受ける。 1914年 ボグド・ハーン宮殿直属の西洋式軍楽隊が設置され、ロシア人A.S.コリツォフの指導の下、隊員は楽譜を習得しロシア人A.V.カドレツの作曲したモンゴル国歌を演奏。 1915年 5月キャフタ会議により外モンゴルは中華民国が宗主権を持つ「自治」に変更。 1917年 10月ロシア革命。 1919年 11月軍閥が外モンゴル侵入、中華民国に対し「自治返上」を決定させられる。 1920年 春、モンゴル人民党結成。10月ウンゲルン軍侵入。 1921年 3月のキャフタ解放の際、キャフタを根拠地とする革命軍の間でモンゴル初の近代歌曲とされる《キャフタの砦》が歌われるようになる。7月革命軍・ソヴィエト軍フレー解放、人民主権の立憲君主制政府成立。8月ロシア人革命家の指導下に「青年革命同盟」結成。 1922年 A.S.コリツォフに依頼し人民軍の軍楽隊員の教育始まる。 1923年 2月D.スフバートル死去。7月人民革命党第2回大会において、各部署協力して、映画、劇、舞踊、音楽を活用して人民に世界情勢、科学などについての教育を行うことを決議。地理学者、音楽学者S.A.コンドラーチェフ(1896-1970)、モンゴルで民謡調査を行う(~1924年)。 1924年 5月ボグド・ジェブツンダムバ活仏死去。第3回党大会でS.ダンザンら処刑とダムバドルジ執行部選出、「非資本主義的発展の道」による社会主義国家建設を決定。コミンテルン代表ルイスクロフ着任。11月第1回国民大会議で人民共和国宣言、憲法批准。12月スフバートル名称中央クラブ設立。 1926年 移動音楽演劇部隊活動開始。ロシア科学アカデミーの決定によりS.A.コンドラーチェフ、再度モンゴルで、今度は録音機を持込んで調査。 1927年 10月人民娯楽場(緑のドーム)建設。この建物では劇などの他、国会も開催された。 1928年 人民革命党第7回党大会にて、モンゴル人民革命党第7回党大会にてダムバドルジ執行部「右翼偏向」として失脚、代わってゲンデン執行部組織。同時に全戯曲の検閲、音楽および演劇サークル改組、その活動の政治的文化的な向上、不適切な内容の劇の全面禁止等が決議される。 1929年 革命作家グループ結成。11月ソ連より指揮者V.A.リャリンを招聘し人民軍軍楽隊を正式に組織。 1930年 叙事詩の語り手O'.ロブサン、音楽と口承文芸の記録のためウランウデ文化専門学校に招聘される。 1931年 8月演劇スタジオ(演劇サークル)をプロ化し、国立中央劇場として組織(音楽家を含む)。モンゴル・ラジオ設立。9月満州事変勃発。 1932年 急激な農牧業集団化に対しラマ、牧民らの大暴動。6月新転換政策発表。12月人民軍歌舞団設立。 1933年 政治家、歌手、作曲家のM.ドガルジャブ(1893-1946)、リムベ奏者L.ツェレンドルジ(1908-1990)らモスクワの芸術オリンピアードに出場、スターリンの前で歌い、更にモンゴル人として初のレコード録音も行う。P.M.ベルリンスキー(1900-1976)著『モンゴルの音楽家ロブサン・ホールチ』モスクワで出版。 1934年 モンゴル初の民族歌劇《悲しみの三つの丘》(D.ナツァグドルジ作)上演(ただし旋律は流行歌を流用)。M.ドガルジャブ、雑誌『モンゴル民族文化の道』に「民族音楽をどう発展させるかについて」という記事執筆。モンゴル初の大規模工業施設である工業コンビナートの建設始まる。9月モンゴルラジオ放送開始。10月芸術監督局設置。12月人民軍歌舞団が軍中央劇場に名称変更。 1935年 M.ドガルジャブら楽譜『モンゴルの歌選集』を出版。満州里会議開催。最初のネグデル設立。5月人民教育省管轄下に俳優・監督・歌手・音楽家臨時学校設立。 1936年 3月ソ連モンゴル相互援助協定調印。12月ソ連でスターリン憲法制定。1936年~ スターリン大粛清。モンゴル国初の映画『モンゴルの息子』封切。 1937年 秋より「ゲンデン=デミド反革命陰謀事件」を契機に、チョイバルサンら親ソ派による大粛清が行われる。人民教育省管轄下に芸能学校設立。ズーン・フレー寺で戦前最後のツァムが執り行われる(フィルムに記録)。 1938年 1月モンゴル初の鉄道がウランバートル―ナライハ炭鉱間に開通。同月ハルハ廟事件。当時国立中央劇場長だったL.ツェレンドルジ逮捕(1940年釈放)。2月東京日本橋三越等で読売新聞社主催で行われたモンゴル展に際し、スニットとアバガの王府の楽人を招聘、レコード録音も行う(1942年日本国内で発売)。 1939年 5月/7月ハルハ河戦争(ノモンハン事件)。 1940年 第二次モンゴル憲法採択。ソ連でラテン文字化推進からキリル文字化への政策転換。ツェデンバル、党第一書記に就任。3月モンゴル人民革命党第10回大会にてチョイバルサンが音楽を含む各種芸能の国立学校を設置する計画を報告。8月サーカス学校設立。作曲家、音楽学者B.F.スミルノフ(1912-1971)、ソ連より着任、西洋音楽理論や、民族楽器奏者に西洋楽器を教えるなど音楽指導を行う(~1946年)。 1941年 3月モンゴルでもキリル文字採用を決定。M.ドガルジャブ、トヴァ人民共和国大使から帰任直後に逮捕、投獄。7月国立サーカス設立(そこでモンゴル初のジャズ・バンドが演奏)。 1942年 作曲家B.ダムディンスレン(1919-1992)、B.F.スミルノフと共作で民族オペラ《悲しみの三つの丘》を新たに作曲(初の本格創作オペラ、Ts.ダムディンスレンにより結末を変更)。内務大臣令により辺境・内務省歌舞アンサンブル設立。 1943年 F.I.クレシコがソ連より派遣され声楽指導を行う(~1946年)。 1944年 7月アメリカ副大統領ウォーレスがモンゴルを訪問。トゥバ人民共和国、ソ連へ併合。 1945年 ヤルタ協定で「モンゴルの現状維持」規定。第二次世界大戦終結。1月雑誌『アマチュア芸能者への手助け』発刊。4月閣議により国立エストラーダ設立。5月人民革命党中央委員会書記協議会にてアマチュア芸能オリンピアードを中央と全国で行うことを決定。11月映画《ツォクト・タイジ》封切(音楽担当B.F.スミルノフ)。 1946年 中国国民党、モンゴル人民共和国独立を承認。2月M.ドガルジャブ獄中で死去。7月革命25周年全国アマチュア芸能コンテスト開催。 1947年 人民革命党第11回大会において第1次国家経済文化発展5ヶ年計画を承認。国立中央劇場を音楽ドラマ劇場に改組。B.ダムディンスレン、劇《こんな一人のハーンがいた》の音楽によりチョイバルサン国家賞受賞。プラハで開催の第1回世界青年学生祭典にモンゴル国の俳優、音楽家が参加。 1948年 国立エストラーダにジャズ・バンド組織。作曲家L.ムルドルジ(1919-1996)、歌曲《パルチザン・チョイバルサン》作曲によりチョイバルサン国家賞受賞。朝鮮民主主義人民共和国と国交樹立。ドルノド県に国立音楽ドラマ劇場設立。 1949年 1月国立音楽ドラマ劇場(旧人民娯楽場、緑のドーム)火事で焼失。 1950年 国歌制定(Ts.ダムディンスレン作詞、B.ダムディンスレン/L.ムルドルジ共作)。東欧各国と国交樹立。音楽舞踊中学校を劇場音楽中学校に改組。5月人民軍模範軍楽隊がG.ビルワー中心に結成される。12月国立エストラーダ演奏部門を民族歌舞団に改組。この頃よりソ連、東欧圏、中国、北朝鮮などへ留学する音楽家が増え始める。 1951年 国立劇場(現オペラ・バレエ劇場の建物)完成(日本人抑留者も建設に携わる)。B.ダムディンスレン、L.ムルドルジ、国歌作曲によりチョイバルサン国家賞受賞。 1952年 1月チョイバルサン死去。5月ツェデンバル首相就任。 1953年 辺境・内務省歌舞アンサンブルを人民革命軍アンサンブルに統廃合。 1954年 作曲家・合唱指揮者D.ロブサンシャラフ(1926- )、ホブド県芸能旬間でホーミーを使った合唱曲《アルタイ・ハン讃詞》発表。第2次5ヵ年計画承認。 1955年 7月初等教育の完全義務化。シェークスピアの『オセロ』、モンゴル初演。 1956年 2月ソ連でフルシチョフ、スターリン批判の秘密報告。4月モンゴル人民革命党中央委員会第4回総会でチョイバルサン批判。人民革命党政治局が民族音楽の研究、刷新、振興を決議。12月バヤン・ウルギー県に音楽ドラマ劇場設立。 1957年 「知識人の迷妄」事件発生。12月20日モンゴル作曲家同盟(~現在)結成(初代委員長・作曲家S.ゴンチグソムラー(1915-1991))。モンゴル国立放送交響楽団(現国立フィルハーモニック交響楽団)設立。モンゴル初の本格的バレエ上演が行われる(作品はB.V.アサフィエフ作曲《バフチサライの泉》(1933-1934))。劇場音楽中学校を音楽舞踊中学校に改組。科学委員会が科学・高等教育委員会に改組。ソ連でフルシチョフ派勝利。 1958年 L.ツェレンドルジ名誉回復。ネグデル組合員制度制定。 1959年 9月第1回国際モンゴル学者大会開催。G.リンチェンサムボー著『モンゴル民謡の種類』出版。 1960年 科学・高等教育委員会よりB.ソドノム(1908-1979)『モンゴルの歌の歴史より』、G.バドラハ(1894-1938)『モンゴルの音楽の歴史より』出版。バヤンウルギー出身の音楽家J.ヒバトドルダ(1921-1993)にカザフ民族オーケストラ設立時の功績等により人民芸術家の称号授与。S.ゴンチグソムラーが国立ラジオに勤務し、西洋クラシック音楽の紹介番組を始める。第三次モンゴル人民共和国憲法批准、社会主義国家であると明記。農牧業集団化完成、コメコン加盟。この頃よりラジオが全国的に普及、また70年代にかけて都市化進む。 1961年 S.ゴンチグソムラー、バレエ《ガンホヤグ》の作曲によりチョイバルサン国家賞受賞。5月モンゴル科学アカデミー設立。7月民族歌舞団付属民族大オーケストラが革命40周年記念演奏会で演奏を初披露。10月ソ連でスターリン再批判。同月モンゴル人民共和国、国連加盟。 1962年 1月人民革命党中央委員会第2回総会でチョイバルサン再批判。5月科学アカデミー主催チンギス・ハーン生誕800周年記念大会開催。9月党中央委がこの記念大会に関わった政治局員D.トゥムルオチルを解任。M.ドガルジャブ名誉回復。 1963年 人民革命党が中国を公式に批判。1月第1回全国イデオロギー宣伝員会議開催。国立ドラマ劇場を建設、音楽ドラマ劇場は国立ドラマ劇場(演劇)と国立オペラ・バレエ劇場に分離改組。オペラ・バレエ劇場杮落としの演目はP.I.チャイコフスキーの歌劇《エフゲニー・オネーギン》。D.ロブサンシャラフ、歌《ヘルレン川》、讃歌《母国、揺るがぬ地》作曲により国家賞受賞。B.スミルノフ著『モンゴルの音楽文化』モスクワで出版。 1964年 11月25-26日、第1回モンゴル作曲家大会開催。民族歌舞団付属民族楽器工房設立。ソ連でブレジネフが第一書記就任。 1966年 馬頭琴奏者G.ジャミヤン(1919-2008)、内外の作品の演奏により国家賞受賞。作曲家・指揮者J.チョローン(1928-1996)、内外の作品を指揮したことにより国家賞受賞。10月第1回指導的文化活動家全国会議開催。12月ポーランドで研修を受けたメンバーにより国立ラジオ委員会付属国立放送電子音楽団(後の国立フィルハーモニー付属バンド「バヤン・モンゴル」)結成。ゴビ・アルタイ県で「アルタイ歌舞団」結成。 1967年 首都でテレビ放送開始。ソ連より派遣されたヴァイオリン職人のD.V.ヤローヴォイが馬頭琴の大掛かりな改良を行う。 1969年 B.ダムディンスレン、オペラ歌手Ts.プレブドルジ(1929- )、民謡歌手N.ノロブバンザド(1931-2002)に人民芸術家の称号授与。6月詩人R.チョイノム逮捕。 1970年 9月第2回国際モンゴル学者会議開催。S.A.コンドラーチェフ著『モンゴル英雄叙事詩と歌謡の音楽』モスクワで出版。 1971年 作曲家・指揮者Ts.ナムスライジャブ(1927-1987)、歌《熱き身内のわが故郷》作曲により国家賞受賞。S.ゴンチグソムラー、指揮者・作曲家J.チョローンに人民芸術家の称号授与。国境警備隊歌舞団設立。D.バトスレン、J.エネビシ(1937- )共著『歌謡よりオペラに至りし道』出版。B.F.スミルノフ著『モンゴルの民族音楽』モスクワで出版。 1972年 7月20日国立フィルハーモニー設立、ジャズバンド「バヤン・モンゴル」や国立交響楽団が所属。12月7-8日、モンゴル作曲家同盟第2回大会開催。オブス県に音楽ドラマ劇場設立。L.ムルドルジに人民芸術家の称号授与。日本・モンゴル国交樹立。 1973年 カザフ共和国で開催の第3回アジア音楽シンポジウム席上でJ.チョローンの作品が入選。 1975年 作曲家G.ツェレンドルジ(1927-1974)、舞踊音楽の作曲により国家賞受賞。 1976年 第3回国際モンゴル学者会議開催。ダルハン市立音楽ドラマ劇場設立。フブスグル県に音楽ドラマ劇場設立。 1977年 12月15-16日、モンゴル作曲家同盟第3回大会開催、同同盟ユネスコ国際作曲家会議に加盟。バヤンホンゴル県に音楽ドラマ劇場設立。ロック・バンド「ソヨル・エルデネ」結成(~現在)。オペラ歌手G.ハイタフ(1926- )に人民芸術家の称号授与。モンゴル労働組合定期大会開催。 1979年 馬頭琴奏者G.ジャミヤンに人民芸術家の称号授与。 1981年 3月モンゴル初の宇宙飛行士グルラグチャーが人工衛星に乗り、モンゴル・ソ連共同飛行を行う。7月4日国立オペラ・バレエ劇場を国立オペラ・バレエアカデミック劇場と改称。モンゴル全人民大芸術祭開催。Ts.ナムスライジャブに人民芸術家の称号授与。 1982年 1月20日セレンゲ県で民族歌舞団「セレンゲの波」設立。「金色の秋」音楽祭開催(以降毎年新作発表の場として機能)。12月第1回「全国伝統芸術祭」開催(以後5年おきに伝統芸能「発掘」の機会として行われる)。教育法改正。第4回国際モンゴル学者会議開催。 1983年 12月6日党中央委員会政府決定および閣議決定により「国家一級芸術家」の称号を設定。ウリヤスタイ市に音楽ドラマ劇場設立。ヘンティー県で民族歌舞団「ハン・ヘンティー」設立。科学アカデミーから『モンゴル口承文芸選集』シリーズ刊行開始。 1984年 5月モンゴル作曲家同盟第3回大会開催。ダランザドガド市に音楽ドラマ劇場設立。N.ノロブバンザド国家賞受賞。Yu.ツェデンバル書記長解任。馬頭琴四重奏団が初めて結成される。 1985年 「民族音楽の祭典」開催。第7回アジア音楽連合をウランバートルで開催。ソ連でゴルバチョフが書記長就任。 1986年 人民革命党第19回大会にて初めて社会主義的中央集権経済制度の欠陥を指摘、経済改革、情報公開始まる。作曲家E.チョイドグ(1926-1988)、序曲《友好》、ドキュメンタリー映画《モンゴルの美しき国》等の音楽作曲により国家賞受賞。 1989年 作曲家D.バダルチ(1928- )、歌《ヘルレンの美しき地》、《子守唄》などの作曲で国家賞受賞。作曲家N.ジャンツァンノロブ(1948- )、映画《マンドハイ賢妃》の音楽作曲により国家賞受賞。N.ジャンツァンノロブ、R.エンフバザルら編『モンゴル音楽研究』出版。楽器職人D.インドゥレー、エヴェル・ブレー、大太鼓、各種ビシグールの製作により国家賞受賞。オペラ歌手Ts.プレブドルジに労働英雄の称号授与。10月第1回馬頭琴フェスティバル開催。12月10日初の民主化要求の集会が開かれ、そこに参加したロックバンド「ホンホ(鐘)」の《鐘の音》がデモ・集会等で盛んに歌われ始める。 1990年 3月民主化を求めるデモ・集会の結果、複数政党制へ移行。モンゴル初の音楽専門大学が開学。作曲家Z.ハンガル(1948-1996)、《弦楽四重奏曲》、《ヴァイオリン協奏曲》等の作曲により国家賞受賞。第1回ダムディンスレン記念 歌劇《悲しみの三つの丘》配役コンクール開催。 1991年 文化教育専門学校を文化専科大学に改組。J.エネビシ著『音楽の伝統の革新の諸問題』出版。12月ソ連崩壊。 1992年 1月国号を「モンゴル国」とする新憲法制定、第1回総選挙で人民革命党圧勝。7月政府命令によりモンゴル国立馬頭琴交響楽団設立。モンゴル国立文化芸術大学開学。作曲家B.シャラフ(1952- )、《第2交響曲》等作曲により国家賞受賞。 1993年 作曲家Ts.ナツァグドルジ(1951- )、歌劇《雲の運命》等作曲により国家賞受賞。 1994年 国立オペラ・バレエアカデミック劇場が国立古典芸術劇場と改称。民族歌舞団を全軍歌舞アンサンブルに改組。国立文化芸術大学創設。 1995年 音楽舞踊中学校のカリキュラムを刷新し、ゴンチグソムラー記念音楽舞踊カレッジに改組。 1996年 N.ノロブバンザドに労働英雄の称号授与。作曲家Ts.チンゾリグ《夢のゴビ》他の歌謡曲やオペラ、オラトリオの作曲で国家賞受賞。第1回ゴンチグソムラー記念全国ピアノ弦楽器コンクール開催。第1回セウジド記念民族舞踊コンクール開催。第1回プレブドルジ記念声楽コンクール開催。 1998年 作曲家G.ビルワー(1916-2006)、大衆歌、映画音楽の作曲により国家賞受賞。J.バドラー(1926-1993)著『モンゴル民俗音楽』出版。 1999年 J.バドラー作詞、Ts.ナムスライジャブ作曲《熱き身内のわが故郷》が「世紀をリードした歌」に選ばれる。ガンダン寺で形式のみツァムを復元上演。第1回ツォグゾルマー記念ボギン・ドーコンクール開催。 2000年 作曲家Kh.ビレグジャルガル(1954-2008)、歌劇《お坊さまの涙》などの作曲により国家賞受賞。D.ロブサンシャラフに労働英雄の称号授与。 2002年 N.バガバンディ大統領により馬頭琴を尊重し振興する大統領令発令(各公的機関に馬頭琴を置く、など)。9月アマルバヤスガラント寺院でジャハル・ツァム復興上演。 2003年 ユネスコの「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」においてモンゴルの馬頭琴が傑作の宣言を受ける。ホブド県にて第1回モンゴルホーミー歌手フェスティバル開催。9月ダシチョイリン寺にてフレー・ツァム復興上演。 2005年 ユネスコの「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」においてモンゴルと中国のモンゴル民謡の一形式オルティン・ドーが傑作の宣言を受ける。バガバンディ大統領により民族楽器大オーケストラを復元、拡張させる大統領令発令。作曲家N.ジャンツァンノロブに人民芸術家の称号授与。 2006年 大モンゴル建国800年を記念し、各種行事開催。作曲家S.ソロンゾンボルド《天の歌声》や交響曲などの作曲により国家賞受賞。3月ホブド県にてアルタイ英雄叙事詩ホーミー祭開催。第1回ロブサンシャラフ記念青少年合唱コンクール開催。 2007年 モンゴル作曲家同盟設立50周年記念大会開催。 2008年 ユネスコの「緊急に保護する必要がある無形文化遺産」のリストに馬頭琴とオルティン・ドーが登録される。第1回ムルドルジ記念全国民族楽器コンクール開催。第1回国際馬頭琴フェスティバル開催。 2009年 ユネスコの「緊急に保護する必要がある無形文化遺産」にビー・ビエルゲー(西部の伝統舞踊)、ツォール(西部のホーミーと似た発声法の縦笛)と英雄叙事詩が登録される。作曲家B.ムンフボルド《箏協奏曲》などの作曲により国家賞受賞。 2011年 ユネスコの「緊急に保護する必要がある無形文化遺産」に横笛のリムベが登録される。第1回「騎馬民族の万馬の先駆け」オルティン・ドーコンクール開催。 2012年 11月第1回B.シャラフ記念声楽民族楽器演奏コンクール開催。 2014年 4月2008年にホブド県で出土した7世紀突厥の楽器を元に「アルタイ・ヤトガ」を復元、国立歴史博物館で展示。 モンゴル音楽史を知るデータベース
https://w.atwiki.jp/aabiblio/pages/27.html
1993← →1995 1994 ●「われわれは世紀末の危機の時代にあって、過去を懐かしみ安っぽいネオロマンティシズムに陥ろうとしている!」(Riccardo Chaillyへのインタヴュー)、『Marie Claire』1994年2月号 ●「愚者のファシズム1」(西部邁との対談)、『SAPIO』1994年3月24日号 ●「愚者のファシズム2」(西部邁との対談)、『SAPIO』1994年4月14日号 ●「愚者のファシズム3」(西部邁との対談)、『SAPIO』1994年4月28日号 ●「廃兵院に木霊するバーンスタインのベルリオーズ『レクイエム』:白熱のライヴのLD化」、『Marie Claire』1994年3月号 ●「QUEER PHILOSOPHY:デレク・ジャーマンによるルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインの肖像」、『WITTGENSTEIN Directed by Derek Jarman』アップリンク、1994.3 ●「U2 ZOO TV Tour TOKYO TV WAR after The Wall and The Gulf」、『InterCommunication』no.8、1994年春号「特集=ハイパーネットワーク・コミュニケーション」 ●「編集後記」、『批評空間』II-1、1994.4 ●「ゲイカルチャーの25年」(今野雄二との対談)、『鳩よ!』1994年4月号 ●「共同討議 〈差別〉と文学:『日本近代文学と〈差別〉』を出発点に」(柄谷行人・渡部直己・村井紀・安宇植との座談会、1994.4.17.)、『批評空間』II-2、1994.7.→柄谷行人編『シンポジウムII』太田出版、1997 ●「セミナー モダニズムの再検討:セッションI」(岡崎乾二郎・田中純・丸山洋志・松浦寿夫との座談会、1994.4.29)、『批評空間臨時増刊号 モダニスムのハード・コア:現代美術批評の地平』太田出版、1995 ●「黄金の黄昏-ベルトルッチ/サカモトの世紀末」、『リトル・ブッダ』パンフレット、1994.5 ●「編集後記」、『批評空間』II-2、1994.7 ●インタヴュー「筒井康隆氏はやはり間違っている」(聞き手:井田真木子)、『諸君』1994年7月号 ●「追悼「青の遺言」デレク・ジャーマンを語る」(松浦寿輝との対談)、『GQ JAPAN』no.15、1994年5月号 ●「資本主義はどこに行くか」(岩井克人との対談)、『広告批評』1994年5-6月号「特集=新資本主義入門」 ●「エイズと文学 人間の尊厳をめぐって」(瀬戸内寂聴・中沢新一との座談会)、『すばる』1994年7月号「特集=免疫なきエクリチュール:変容するHIVの物語」 ●「日本文化とセクシュアリティ 性表現の両義性、日本文化の二重性」(松浦理英子との対談)、『ジェンダー・コレクション:性と性差のあいだ 朝日ワンテーママガジン36』朝日新聞社、1994.7 ●「世紀末ニッポンの読み方 第1回」(柄谷行人との対談)、『SAPIO』1994年6月23日号 ●「世紀末ニッポンの読み方 第2回」(柄谷行人との対談)、『SAPIO』1994年7月14日号 ●「世紀末ニッポンの読み方 第3回」(柄谷行人との対談)、『SAPIO』1994年7月28日号 ●「ヴィデオ・オペラの実験:ライヒ&コローの《THE CAVE》」、『InterCommunication』no.9、1994年夏号 ●「共同討議 日本文化とジェンダー:〈家父長制とその批判〉から始めて」(上野千鶴子・水田宗子・柄谷行人との座談会、1994.7.17.)、『批評空間』II=3、1994.10.→柄谷行人編『シンポジウムII』太田出版、1997 ●「『展覧会の絵』と『クライステリアーナ』:演奏とドラマの間で果敢な冒険を試みるヴァレリー・アファナシエフに聞く」(ヴァレリー・アファナシエフへのインタヴュー、1994.7.19.)、『Marie Claire』1994年11月号→ヴァレリー・アファナシエフ、平野篤司・明比幸生・飯沼隆一編訳『音楽と文学の間』論創社、2001 ●「インタヴュー ジョゼフ・コスースに聞く:モダニズム以後」(聞き手:浅田彰、1994.7.21.)、『批評空間臨時増刊号 モダニスムのハード・コア:現代美術批評の地平』太田出版、1995 ●「編集後記」、『批評空間』II-3、1994.10 ●「ダイイング・ピクチュアズ、ラヴィング・ピクチュアズ」、ダムタイプ『LOVERS』展覧会カタログ、1994.9→『メモランダム 古橋悌二』リトルモア、2000 ●「差異/差別、そして物語の生成:繁茂する「路地」のテクストをめぐって」(渡部直己・奥泉光・柄谷行人との座談会、1994.8.3.熊野大学にて)、『すばる』1994年10月号「特集=中上健次3回忌」→渡部直己・柄谷行人編『中上健次と熊野』太田出版、2000.6 ●「奈義町からヴェネチアへ:旅の日記から」、『InterCommunication』no.10、1994年秋号「特集=デジタル・イメージ論」 ●「フォーサイス1994/9:テクノロジーと(しての)身体」(Wiiliam Forsytheへの電話インタヴュー、1994.9.24.)、『InterCommunication』no.11、1994年冬号「特集=身体/パフォーマンス」→『フォーサイス1999』NTT出版、1999 ●「巻頭対談 パリ・上海・幕張」(蓮實重彦との対談、1994年秋)1、2、3、4、5、『幕張アーバニスト』千葉県企業庁、no.1、1994、「特集=新都心・幕張」 ●久野収「特別インタヴュー 京都学派と30年代の思想:久野収氏に聞く」(聞き手:浅田彰・柄谷行人、1994.10.7.)、『批評空間』II-4、1995.1→『シンポジウムII』太田出版、1997 ●「共同討議 モダニズム再考」(磯崎新・柄谷行人・岡崎乾二郎との座談会、1994.10.25)、『批評空間臨時増刊号 モダニスムのハード・コア:現代美術批評の地平』太田出版、1995 ●「21世紀のダンスに向かって:ウィリアム・フォーサイスにきく」(Wiiliam Forsythe・小林康夫との座談会、1994.10.31.シアターχで)、『InterCommunication』no.14、1995年秋号→改題「フォーサイス1994/10:21世紀のダンスに向かって」、『フォーサイス1999』NTT出版、1999 ●「セミナー モダニズムの再検討:セッションII」(岡崎乾二郎・田中純・丸山洋志・松浦寿夫との座談会、1994.11.11.)、『批評空間臨時増刊号 モダニスムのハード・コア:現代美術批評の地平』太田出版、1995 ●「浅田彰・平野広朗トークセッション」(平野広朗との対談、1994.11.23)、『ゲイの11月祭天国!報告集』、1995.2 ●「あさっての日記から」、『InterCommunication』no.11、1994年冬号「特集=身体/パフォーマンス」 ●"Diary for The Day After Tomorrow," exhibition catalogue The Day After Tomorrow, Centro Cultural de Belem, 1994. ●「わたしと“第9”」、『NHK交響楽団「第9」演奏会プログラム』NHK交響楽団、1994.12 :他の執筆者は永田美穂・稲田雅洋・河村錠一郞など。 ●「『S/N』をめぐって」(古橋悌二・西堂行人・佐藤まいみとのトークヴェント、1994.12.3.ランドマークホテル)、『メモランダム 古橋悌二』リトルモア、2000 ●「編集後記」、『批評空間』II-4、1995.1 ●「?」、企画集団ぷりずむ編、寺山修司祭パンフレット第1・2回『五月の伝言 われに五月を』寺山修司祭実行委員会 :他の執筆者は市川浩・美輪明宏・原田芳雄など。 1993← →1995
https://w.atwiki.jp/s02635mn/pages/9.html
講義で紹介された資料や文献に関する情報を掲載します。 是非、参考にしてみてください。 第1回(05/4/14) オリエンテーション 佐々木敦 edu@faderbyheadz.com http //www.faderbyheadz.com/ http //www.faderbyheadz.com/a-Site/ ●著書 『ex-music』(河出書房新社) 『テクノイズ・マテリアリズム』(青土社) 『映画的最前線』(水声社) 『ゴダール・レッスンあるいは最後から2番目の映画』(フィルムアート社) 今年刊行される著書 『SOFT HARD 〜ラジカルポップクリティック1995-2005』(太田出版/6月刊行) 『(H)EARーポスト・サイレンスの諸相』(青土社) 『←90→(ビフォア・アンド・アフター・ナインティーズ)』(原書房) 『テクノ/ロジカル/音楽論』(リットーミュージック) ●雑誌連載 「 J−POPマンスリー・レビュー」(「INVITATION」) 「OUT THERE!」(「クロスビート」) 「イズミズム」(「クイックジャパン」次号より) 「題名未定」(「ユリイカ」次号より) ●最近の仕事 文芸誌「群像」で映画評を連載(全3回) 「クイックジャパン」マンガ特集で古谷実論 小説家阿部和重の芥川賞受賞記念インタビュー(「群像)」 NHK-FMの坂本龍一お正月スペシャル番組の構成、出演 雑誌「ユリイカ」の「ポストノイズ特集」に青山真治監督の新作『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』に関する論考 ●その他 毎週月曜日午後3時よりTBSラジオ「ストリーム」出演中 第2回(05/4/21) 「セカイ系」とは何か?(その1) 西島大介『凹村戦争』ハヤカワSFシリーズJコレクション(早川書房) 西島大介『世界の終わりの魔法使い』九龍COMICS(河出書房新社) 新海誠『ほしのこえ』DVD http //www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0000992EC/ 新海誠『雲のむこう、約束の場所』 http //www.kumonomukou.com/ 大塚英志編著『「ほしのこえ」を聴け』アニメ—ジュ叢書(徳間書店) 大塚英志編集による研究書、他の執筆者として東浩紀、ササキバラ・ゴウなど 高橋しん『最終兵器彼女』ビッグコミックス(小学館) 秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏』電撃文庫(メディアワークス) 以下は、雑誌「文藝」(河出書房新社)2000年冬号掲載の佐々木敦の連載「HI LO@サヴァイヴァル2000」より抜粋/引用。 某月某日 高橋しん『最終兵器彼女①②』(小学館)を読む。『いいひと』は読んだことがない。「交換日記」がアイテムとして出てくるような、かなり時代錯誤的な学園ラブコメ(死語)の雰囲気で始まり、そのままのノリで、およそ荒唐無稽としか言いようのない終末論的戦闘SFへといきなり突入する。語り手である「僕」の「彼女」である女子高生の「ちせ」は、恒常的な戦争状態にある「国家」によって身体を「兵器」に改造される。彼女は文字どおりの「最終兵器」であり、出動するたびに、たったひとりで敵を殲滅する。しかし普段の「ちせ」は平凡で奥手で気のヨワい女の子として学校に通いつつ、「僕」との不器用でひたむきな恋愛に一生懸命になっていて……いったい全体どうしてこんな話を描こうと思ったんだろうか?。設定といい、人物造型といい、ストーリー展開といい、とにかくすべてが歪つでアンバランスで、しかも全体に極めてウジウジした淀んだ空気が漂っていて、個人的に好きかと問われると正直、キライなのかも?と答えざるをえないのだが、しかし妙な吸引力がある作品であることも確かなのだ。 その理由も背景も、はっきりとは説明されないまま、とにかく何者か(その正体さえ明示されない場合も多い)が反復的に仕掛けてくる「攻撃」に対して、本人にとっては不条理としか思えない成り行きによって不幸にも「戦士」に選ばれてしまった主人公が、必死で防御、いや「反撃」することを強いられる、というような設定が、ある時期以降の日本のコミック、アニメには頻出する。あの『エヴァンゲリオン』なんて、ただ「なぜ戦わなくてはならないのか」だけをめぐって、延々と(ネチネチと)苦悩と思弁を繰り広げただけの作品だったわけだが、このマンガでも、ヒロインの「ちせ」は否応なしに「最終兵器」であることを受け入れさせられる。この作品にこの先、どのような展開が待っているのかは現時点ではまるで分からない(僕はコミック雑誌を読まないので連載がどうなってるかも知らないし)。というよりもそもそも、この特異なシチュエーションだけで、ほとんど物語は終わってしまっているような気もしないではない。実際、単行本第2巻にして既に堂々めぐりの様相を呈しているようにも思える。 ここでは実のところ「戦うこと」と「恋すること」という「二項対立」は、ほとんど成立していない。一見、「僕」も「ちせ」もそこで葛藤しているように思えるが、そもそも彼らにはどちらかを選択することなど許されてはいないし、選んでもいない。「ちせ」にとっては「最終兵器」である、と同時に「僕」の「彼女」でもある、ということを、ひたすら極めることしか「自己肯定」の道は残されていない。それらは、そもそも完全に矛盾した、次元をまったく異にする属性なのであって、対立することも共存することも本来ありえない筈なのだが、これはこの物語の大前提であって、いかにワケが分からなかろうと、そういうことになっている。「戦うこと」を「非日常」、「恋すること」を「日常」とするなら、ここではいずれかがいずれかを含み込んだり、あるいは両者が曖昧に融解したりすることもなく、いわばちぐはぐなまま強引に重ねられているのだ。 こころは人間のまま、身体だけはマシーン化、あるいはデーモン化していく主人公、というのも、マンガの歴史においては、永井豪や石(ノ)森章太郎の昔から延々と追求されてきたテーマである。しかし端的にいって、この種の設定には不可欠と言える、主人公にとっての一種の「成長譚」的な側面が、この作品においてはほとんど無効になっているように思える。「最終兵器」であることは「ちせ」に何も与えはしないし、「彼女」であることは「兵器」であることとは無関係なのだ。このことが、この作品をある意味で難解なものにしている。 つまりここでは、この種のストーリーの場合、通常はどこかで透けて見えるであろうような、表向きのシチュエーションの裏側で暗黙に語られている別のテーマというようなものが、まるで発見できないのだ。「最終兵器=彼女」というのは、何のアナロジーでもない、ただ単に、そうなのだ。あるいは、この異常な設定が「何のアナロジーでもない」ということ自体が、一種のアナロジーになっている、ということなのかもしれない。 佐々木註:もちろんこの文章を執筆した時点では「セカイ系」なる言葉はまだ存在していなかった。 第3回(05/4/28) 「セカイ系」とは何か?(その2) GWのオススメ映画(?) ウェス・アンダーソン監督『ライフ・アクアティック』 http //www.movies.co.jp/lifeaquatic/ 5月7日発売の雑誌「群像」(講談社)に、佐々木による同作品の映画評が掲載されます。 吾妻ひでお『失踪日記』(イーストプレス) 吾妻ひでお『定本・不条理日記』芸術漫画叢書(太田出版) 吾妻ひでお『夜の魚』芸術漫画叢書(太田出版) 太田出版からの二冊は現在品切れのようだが、「不条理日記」は以下の文庫に収録されている。 吾妻ひでお『アズマニア2』(早川書房) また『夜の魚』所収の同名作は、以下の雑誌に再録されている。 大塚英志プロデュース「Comic 新現実 Vol.3」(角川書店) 同誌は「特集 吾妻ひでおの「現在」」と題して、他にインタビューや新作なども掲載されている。 吾妻ひでお公式ホームページ http //azumahideo.nobody.jp/ 以下は、雑誌「クイックジャパン」(太田出版)VOL.53掲載の佐々木敦の連載「メタポップRGB」より抜粋/引用。 西島大介の初の長篇コミック『凹村戦争』には、東浩紀による「きみとぼくの非日常に隠されたメタとネタと萌え/SFはここから変わる」という結構スゴいオビ文が付いている。僕はSFは昔からけっこう好きで(何しろ高校生の時、あの庵野秀明がオープニング・アニメを制作したDAICON3にも参加したほどだ←初告白)、一時期離れてたのが、ご多聞に漏れずグレッグ・イーガンとか北野勇作とかに惹かれて最近また色々読み始めたのだけれど、この作品は、たとえばかつて吾妻ひでおの幾つかのマンガが、日本SFの情況をある意味で質的に変えたようには、現在のSFを変えたりすることは、まずないと思う(でもまあこんなのはただの惹句だからね)。だがしかし、この作品が、何かを主体的/能動的に変えるのではなくて、むしろ「何か」が決定的に変わってしまったことの結果として、このようなものとしてあるのだということならば、あきらかに言えるのではないかと思う。 僕はゲームもアニメも全然知らないので、「メタとネタと萌え」については何も言うべき言葉を持っていないのだが、SFということで言うなら、昔「インナースペース」という言葉があって、それはつまりココロの中に宇宙がある、というようなことで、たとえばフィリップ・K・ディックやJ・G・バラードなんかがその代表株ということだったわけだけれど、いわば「宇宙」を「内面」に裏返すような、そういう手法は、まさに吾妻ひでおの『不条理日記』において顕著だったように、ことニッポンにおいては、一種の「私小説的なもの」と奇妙な形で結びつきやすい。そして「私小説」の「私」が変質・縮小していくと、言い換えれば「私」の「内面」の空隙を膨大な「情報」が満たしていった80年代〜90年代を経た現在になると、「宇宙」も「世界」も「内面」も、せいぜいが自分の部屋ぐらいのスペースしかなくなってしまう。そこには「ぼく」を除くと、ぎりぎり「きみ」ひとりだけが入れるくらいになっている、ということだ。こうして地球どころか宇宙規模の戦争とか滅亡のオハナシと、社会性から断絶した仮想的なマンツーマンのコイバナ(妹萌えなんかは完全にそうだろう)や、ディスコミュニカティヴなまま試行されるアイデンティフィケーションのストーリーとが、ぴったり重なりあって語られるようになる。つまり、途方もなく「大きな物語」と、どうしようもなくしょぼい「小さな物語」が、ひとつの同じ「物語」として生まれてくることになるわけだ。 『凹村戦争』の優れているところは、「変容」の単なる一症例としてではなく、それ自体が、いわば「きみとぼく症候群」(セカイ系と言ってもいいですよ)に対する一種の「批評」として成立しようとしていることだ。西島さんは「あとがき」でこう書いている。「最悪で滅茶苦茶で容赦のない世界に対抗する唯一の方法。最高に滅茶苦茶に容赦なくやること」。イジワルな見方をすれば、ここにも「セカイ系」に顕著な、わかりやすい鏡像的な構図がある。だが、そのことも含めて、この作品は極めてアクチュアルだ。容赦なく滅茶苦茶にやろう。 なお、佐々木の「セカイ系」観としては、雑誌「ユリイカ増刊 西尾維新」(青土社)に寄稿した「「きみ」と「ぼく」の壊れた「世界/セカイ」は「密室」でできている?ー西尾維新 vs 舞城王太郎ー」でも言及している。 第4回(05/5/12) 「セカイ系」とは何か?(その3) 大塚英志+ササキバラ・ゴウ『教養としての〈まんが・アニメ〉』講談社現代新書 大塚氏執筆の「まんが論」の一章分が吾妻ひでお論に割かれている。 下記の著書にも吾妻ひでおへの言及がある。 大塚英志『「おたく」の精神史』講談社現代新書 独我論について レイモンド・スマリヤン『哲学ファンタジー』(丸善) 「水槽の中の脳」問題 ヒラリー・パトナム『理性・真理・歴史』(法政大学出版局) スティーブン・ロー『フィロソフィー・ジム「考える脳」をつくる19の扉』(ランダムハウス) 大森荘蔵『流れとよどみ』(岩波書店) 永井均『私・今・そして神 開闢の哲学』講談社現代新書 「ぼくになることを」グレッグ・イーガン『祈りの海』早川SF文庫(早川書房) 神林長平『帝王の殻』早川SF文庫(早川書房) 首藤瓜於『脳男』江戸川乱歩賞受賞作(講談社) 悲観論と楽観論 三浦俊彦『心理パラドックス』(二見書房) 三浦俊彦ホームページ http //members.jcom.home.ne.jp/miurat/ 第5回(05/5/19) 西島大介の二長編について 西島大介ホームページ http //www.simasima.jp/ 『凹村戦争』に関するインタビュー http //www.sf-fantasy.com/magazine/interview/040901.shtml 「美術手帖」の最新号の特集「物語る絵画」に西島氏のインタビューと佐々木によるテキストが掲載されている。 http //www.bijutsu.co.jp/bss/BSS_files/BT_top.html 第6回(05/5/26) 第7回(05/6/2) 第8回(05/6/9) 第9回(05/6/16) 第10回(05/6/23) 第11回(05/6/30) 第12回(05/7/1) 第13回(05/7/14)最終回
https://w.atwiki.jp/mongolhugjim/pages/67.html
モンゴル音楽史参考文献 青木隆紘(2008)「《モンゴル音楽》の20世紀小史―モンゴル国音楽文化研究に向けて」(『日本とモンゴル 116』、日本モンゴル協会、pp.77-99) 青木隆紘(2008)「面白管楽器発見!エヴェル・ブレー」(『PIPERS 11月号(327)』杉原書店、pp.18-21) 青木隆紘(2008)「モンゴル音楽用語小辞典」(『モンゴル研究 25』、モンゴル研究会、pp.54-74) 青木信治/橋本勝編著(1992年)「入門・モンゴル国」より“音楽―国際化する伝統音楽”pp.115-121.(平原社) G.Arkhincheev/小川信吉訳(1941)「ブリヤート蒙古演劇音楽学校」(『蒙古111』、善隣協会、pp.99-104) ルイク・イシドール/高橋勝之訳(1941)「ブリヤート蒙古の民族楽器」(『蒙古114』、善隣協会、pp.59-62) 石原邦子(2002)「内モンゴル民歌「ガダ・メーリン」に関する一考察--モンゴルの英雄はなぜ中国で歌われたか」(『モンゴル研究 (20)』、モンゴル研究会、pp.20-35) 今川博(2001)「声帯-仮声帯振動の喉頭音源モデルによる喉歌合成」(『音楽音響研究会資料 MA00-71』、日本音響学会、pp.71-78) 印南高一(1940)「喇嘛舞踊見聞記」(『蒙古97』、善隣協会、pp.101-114) ベ・ウラヂミルツオフ著/宮崎眞道訳(1938)「蒙古・オイラート英雄詩史・序(1)-(3)」(『善隣協会調査月報69-71』、善隣協会) 上村明(1995)「アルタイ・オリアンハイの宴の歌」(『日本モンゴル学会紀要No.26』、日本モンゴル学会、pp.1-15) 上村明(2000) 「国民芸能としての英雄叙事詩」(『日本モンゴル学会紀要No.30』日本モンゴル学会、pp.1-26) 上村明(2001)「モンゴル西部の英雄叙事詩の語りと芸能政策」(『口承文芸研究24』、日本口承文芸学会、pp.102-117) 上村明(2007)「文学という修練、歌うナショナリズム―J・バドラーについての覚書―」(『日本モンゴル学会紀要No.37』、日本モンゴル学会、pp.3-15) 岸辺成雄(1943)「回教音楽東漸史考-元朝の回教楽器」(『回教圏7 4』、回教圏研究所、pp.31-46) 木村理子(2003)「歌で演じた革命期--モンゴル演劇成立の歴史」(『表象文化論研究』、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論、pp.60-94) 木村理子(2006)「現代モンゴル演劇史におけるオペラの誕生--なぜ『悲しみの三座山』が国民的オペラとなったのか」(『内陸アジア史研究 (21)』、内陸アジア史学会、pp.57-72) 小島美子(1985)「モンゴル民謡は江差追分のルーツか?」(文化庁文化財保護部 監修『月刊文化財』、第一法規出版、pp.29-32) 小島美子(2000年)「人の暮らしとリズム感--モンゴルと韓国と日本と」紫明 22~23,2000/03(紫明の会 〔編〕/紫明の会) 小長谷有紀(1990)「モンゴルにおける接客技法としての歌―ホストとゲスト」(石森秀三編『観光と音楽』、東京書籍、pp.175-206) 利光(小長谷)有紀(1990)「モンゴルのアンダイ舞踏―歌って治す、女の病」(八木祐子編『女性と音楽』、東京書籍、pp.77-112) 小長谷有紀(1995)「モンゴル草原にひびく音―音の概念 草原の音環境 二〇世紀の普遍性」(櫻井哲男編『二〇世紀の音(二〇世紀における諸民族文化の伝統と変容1)』、ドメス出版、pp.159-174) 小長谷有紀(2008)「家畜に歌う-モンゴルの生活の中の生き物 (特集 生き物文化誌学会設立5周年記念 「生き物文化誌学」とは何か)」(『ビオストーリー 10』、生き物文化誌学会 、pp.24-31) 近藤和正(2000)「喉歌の生理的発音メカニズムの検証」東京外国語大学修士論文 近藤和正(1997)「フーミーの調音音声学的分析試論」(『日本モンゴル学会紀要 28号』日本モンゴル学会、pp.99-106) 嵯峨治彦(2007)「モンゴロイドは馬頭琴の夢を見る、か?」(『外交フォーラム 20(4)』、都市出版、p.8) 榊原健一(2001)「喉歌(ホーメイ、ホーミー)の歌声の秘密を探る (特集論文2 コンピュータ音楽)」(『NTT R D 50(9)』、NTT先端技術総合研究所、pp.655-662) 島村一平(2009)「ハイカルチャー化するサブカルチャー?―ポスト社会主義モンゴルにおけるポピュラー音楽とストリート文化」(関根康正編『ストリートの人類学 下巻(国立民族学博物館調査報告 No.81)』国立民族学博物館、pp.431-461) 下村五三夫(1992)「モンゴルのソロ重唱法「ホーミー」の分析」(『小樽商科大学人文研究 (通号 83)』、小樽商科大学人文科学研究室、pp.249-257) 鈴木秀明(1997年)「伝統音楽のゆくえ--音楽」(小長谷有紀(編)『アジア読本--モンゴル』pp.186-193.河出書房新社) 善隣協會調査部編(1938)『蒙古大觀』、改造社 孫玄齢著/田畑佐和子訳(1990)『中国の音楽世界』、岩波書店 高澤嘉光(1997)「口琴の発音機構とその音色知覚について―ホーミー(喉歌)の発声機構への類推」(『音楽音響研究会資料』、日本音響学会、pp.97-61) 瀧遼一(1937)「匈奴の音楽としての鼓吹楽」(史学会『史学雑誌48 7』、pp.136-137) 滝遼一(1938)「蒙古の音楽について」(『蒙古学3』、善隣協会、pp.17-54) 滝遼一(1938)「蒙古音楽と其楽器」(『東洋音楽研究1 2』、東洋音楽学会、pp.71-75) 瀧遼一(1944)『東洋音樂論』、弘學社((2007)大空社により復刻) 武田昌一(1993)「モンゴルの歌唱法「ホーミー」の音響的特徴の解析」(『情報処理学会研究報告 93(32)[音楽情報科学]』、pp.25-32、情報処理学会) 直川礼緒(1993)「アジア中央部の喉歌と楽器」(『口琴ジャーナルNo.7』pp.4-7、日本口琴協会) 田辺尚雄(1943/2003)『大東亜の音楽』、大空社 谷本一之(2006)『北方民族 歌の旅』、北海道新聞社 辻井英世(1991)「モンゴルの音楽事情―大いなる自然の恵みを享けた民族音楽」(『音楽芸術 49(9)』、音楽之友社、pp.82-85) 鶴見朋子(1997)「草原の国のポップスミュージック 31 2」(『日本とモンゴル』、pp.41-47) Grame Theodore/柘植元一訳(1976)「コマと馬--ユ-ラシア大陸の絃楽器に見れる馬のシンボル」(『東洋音楽研究 (38)』、東洋音楽学会、pp.48-62) Levin Theodore C. / Edgerton Michael E. /等々力政彦 訳(1999)「アジア中央部の不思議な喉歌ホーミー」(『日経サイエンス 29(12)』、日経サイエンス、pp.72-81) 等々力政彦(2008)「トゥバー--喉歌フーメイをめぐる歴史 (特集 ロシア北方の民--ソ連崩壊後の激動期を経て)」(『季刊民族学 32(2)』、千里文化財団、pp.50-55) 鳥居きみ子(1909)「喇嘛の舞蹈」(『東亜之光4 3』、東亜協会、pp.135-139) 鳥居きみ子(1910)「蒙古の音楽に就いて」(『東亜之光5 5』、pp.124-129、『東亜之光5 7』、東亜協会、pp.138-147) 鳥居きみ子(1910)「蒙古の音楽」(『音楽界3 10』、楽界社、pp.16-24) 鳥居きみ子(1927)『土俗学上より観たる蒙古』、大鐙閣 中川真(1989)「モンゴル音楽」(『日本の音楽・アジアの音楽 別巻I』、pp.223-234、岩波書店) 中川真(1980)「モンゴルのオルティンドー」(大阪大学文学部編『待兼山論叢 第13号』、pp.3-24) 成實朋子(2009)「『スーホの白い馬』と中国の民間故事「馬頭琴」について」(『学大国文 (52)』、大阪教育大学国語教育講座・日本アジア言語文化講座、pp.61-76) 仁科エミ/八木玲子/森本雅子(2001)「民族音楽における非記号・非知覚構造--モンゴルの伝統的歌唱法ホーミーを実例として」(『民族芸術 17』、民族芸術学会、pp.138-143) 西村幹也(2009)「講演会等報告 コンサート「遊牧の民の調べ--モンゴルの馬頭琴とカザフのドンブラ」」(『北海道民族学 (5)』、北海道民族学会、pp.63-66) D.ノロブザンバド/小長谷有紀(1997年)「音の世で歌うために生まれた私」(小長谷有紀(編)『アジア読本--モンゴル』pp.20-26.河出書房新社) 蓮見治雄(1990)「モンゴル叙事詩とその語り手たち」(鈴木道子編『語りと音楽』東京書籍、pp.104-143) 蓮見治雄(1993)『チンギス・ハーンの伝説 モンゴル口承文芸』、角川書店 服部龍太郎(1977)『モンゴルの民謡』、開明書院 平海峻嶮(1943)「満洲音楽情報」(『音楽之友 第3巻第10号』、p.33) 藤井麻湖(1998)「隠されたセクシュアリティ- 馬頭琴をめぐる物語から」(『季刊民族学 22(3)』、千里文化財団、pp.66-71 藤井麻湖(2003)『モンゴル英雄叙事詩の構造研究』、風響社 B.フスレ(2005)「内モンゴルにおける革命歌の形成―内モンゴル人民革命党と内モンゴル人民革命青年同盟の歌を中心に―」(『学苑 No.781』、昭和女子大学、pp.32-50) 包美栄(2012)「 1930~40年代における内モンゴルの音楽について(ХХ зууны 30-40-өөд оны Өвөр Монгол орны монгол дуу хөгжим)」(ボルジギン・フスレ、今西淳子編(2012)『20世紀におけるモンゴル諸族の歴史と文化―2011年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』、風響社) 二木博史(1985)「モンゴルに伝わった<鉄道唱歌>」(『モンゴリカ 第2号』、ベアードベアー出版、pp.29-32) Kh.ペルレー/蓮見治雄訳(1971)「トホイ・ザンダンなる歌について」(『日本モンゴル学会報 1』、日本モンゴル学会、pp.3-7) N.N.ポッペ/小林高四郎訳(1937)「十月革命以後のブリヤート蒙古詩歌の特質(1)-(2)」(『善隣協会調査月報63』pp.129-135/『善隣協会調査月報64』pp.64-71、善隣協会) D.マイダル/加藤九祚(1988年)『草原の国モンゴル』、新潮社 松本於蒐男編(1936)『蒙古の民謡と伝説』、満洲弘報協会 村岡輝雄(1983)「モンゴル歌唱「ホーミー」の音響分析」(『音講論集』pp.385-386) 村岡輝雄/武田昌一/糸賀昌士(2000)「モンゴル歌唱法「ホーミー」の音響的特長の解析」(」(『日本音響学会誌56巻5号』日本音響学会、pp.308-317) 村松道彌(1943)「満洲の民俗音楽(写真説明)」(『音楽公論 第3巻第6号』、pp.42-45) 山口修「モンゴルとソ連に流れる日本民謡」季刊邦楽 p50~52,1985/12(ISSN 03884317) (邦楽社 〔編〕/邦楽社) 山田真司(1996)「モンゴルの伝統的歌唱法「ホーミー」についての聞き取り調査と知覚実験」(『藝術 19』、大阪芸術大学、pp.133-139) 山田真司(1998)「一人で歌う二重唱―モンゴルのホーミー」(『日本音響学会誌54巻9号』日本音響学会、pp.680-685) 横田和子(1998)「モンゴルの調べ~モリン・ホール、そして現代音楽へ」(『日本とモンゴル 第32巻第2号』、日本モンゴル協会、pp.45-54) 横田和子/小島美子監修(1999)『はじめての馬頭琴―音の遊牧世界―』、音楽之友社 (1998)「INTERVIEW/奥山由美 ジンギス汗の末裔たちが演じるモンゴル・オペラの魅力を語ろう」(『Decide16(5)』、サバイバル出版、pp.60-69) モンゴル音楽史を知るデータベース モンゴルのブックリスト
https://w.atwiki.jp/nop-b4/pages/72.html
201105 -- 05/02 集英社 浅田弘幸イラスト集 water 浅田弘幸 05/02 集英社 ONE PIECE 62 尾田 栄一郎 05/02 集英社 忍空-SECOND STAGE 干支忍編(11) 桐山光侍 05/02 集英社 血界戦線(3) 内藤泰弘 05/07 徳間書店 SUPER STREET FIGHTERⅡX HARD SPIN OFF 1 伊藤 真美 05/07 徳間書店 SUPER STREET FIGHTERⅡX HARD SPIN OFF 2 伊藤 真美 -- 05/11 太田出版 Otome continue vol.6 荒川 弘 etc -- 05/17 エンジェル出版 (成)この熟女は夜に喘く 艶々 05/19 太田出版 侍ばんぱいや おがきちか 05/19 少年画報社 女装子女(1) 佐野タカシ 05/20 秋田書店 あきそら(6)(完) 糸杉柾宏 05/20 ヒット出版社 (成)ロリ☆魂 高永 浩平 05/20 一迅社 10歳の保健体育3 竹井 10日/高見 明男 -- 05/23 講談社 BILLY BAT 6 浦沢 直樹 05/23 講談社 オールラウンダー廻 6 遠藤 浩輝 05/23 講談社 げんしけん 二代目の壱 10 木尾 士目 05/25 メディアックス 偽りの彼女 命 わずか 05/25 ワニブックス ラノベ部 1巻 平坂 読/もずや 紫 05/25 メディアックス 征服×制服×男の娘 05/25 エンターブレイン amaro vol.01 すめらぎ琥珀/小梅 けいと/加茂/ほか 05/27 少年画報社 かてきゅん 佐野タカシ 05/27 白泉社 うそつきパラドクス 6 きづきあきら+サトウナンキ 05/27 白泉社 ハルとナツ 2 武田 すん 05/28 日本文芸社 陣内流柔術流浪伝 真島、爆ぜる! ! (6) にわのまこと 05/28 双葉社 絶対☆は~れむ 3 久遠 ミチヨシ 05/28 ジーウォーク PLUM LS(4) ロリ専門アンソロジー 御影獏 etc -- --