約 7,636 件
https://w.atwiki.jp/kotokoto2/pages/5314.html
所在地大阪府岸和田市岸城町 開業日1914/4/1 接続路線南海本線 隣接駅岸和田(南海本線:難波方面) 貝塚(南海本線:和歌山市方面) 訪問日 戻る
https://w.atwiki.jp/kotokoto2/pages/3133.html
所在地徳島県徳島市 開業日1913/4/20 接続路線牟岐線 隣接駅文化の森(牟岐線:徳島方面) 中田(牟岐線:海部方面) 訪問日2002/11/22 戻る
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/40260.html
登録日:2018/08/25(土) 18 48 28 更新日:2024/08/04 Sun 12 02 43 所要時間:約 3 分で読めます ▽タグ一覧 いじめ 低級鬼 努力 卑劣 地獄先生ぬ~べ~ 地蔵虐 外道 妖怪 嫌がらせ 悪鬼 賽の河原 鬼 地蔵虐(じぞうぎゃく)とは、漫画『地獄先生ぬ~べ~』に登場する妖怪である。 概要本編において 余談 概要 親より先に死んだ子供が行くとされる「賽の河原」に居る低級の鬼。 三本のツノが生えた非常に大きな頭部と牛のような尻尾、手にした重厚な金棒が特徴。 知能はあまり高くないらしく、ぬ~べ~曰く「知性の欠片もない化け物」。 賽の河原に堕ちた子供は、親を悲しませた罰として河原にある石を積み上げ、父母の為の供養塔を立てなければならないが、 塔が完成間近になると、賽の河原の鬼=地蔵虐が現れ、せっかく積み上げた供養塔を金棒でバラバラに崩されてしまう。 その後、塔を何度立てても同じことが繰り返され、子供の魂は永遠に嘆き悲しんで苦しむことになる。 その為、ぬ~べ~は賽の河原を「決して努力が報われない地獄」と評している。 本編において 原作第2話「賽の河原の地蔵虐」、アニメ第10話「悪鬼大暴れ!努力する子はご用心」に登場。 ぬ~べ~の生徒・山口晶が幼少時に海で溺れて臨死体験をした際、賽の河原に行き着いた晶が目撃した。 その後、晶は奇跡的に息を吹き返し助かったものの、蘇生した晶の魂に地蔵虐がくっついており、そのまま現世まで晶を追ってきた。 現世に出現後、姿を見せずに陰から晶の努力の邪魔をしており、劇中での描写だけでも、 晶が小遣いをコツコツ貯めて買ったマウンテンバイクを道路に投げ出し、トラックに轢かせて壊す。 猛練習していた運動会のリレーも本番前日に骨折。 上手く描けた絵を風で吹き飛ばして川に落として台無しにする。 など、滅茶苦茶なまでに晶を不幸に陥れている。 落ち込んだ晶は、ぬ~べ~や広たちの勧めで、壊れたマウンテンバイクと同じものが優秀作品としてプレゼントされる児童美術展に作品を出展することを目指し、 郷子をモデルに粘土細工の作成に取り掛かった(だが郷子は、ヌードモデルになると思っていたらしく、皆の前で堂々と服を脱いでいた)。 しかし、またしても地蔵虐は晶の邪魔をするため、誰もいない深夜に学校に現れ晶の作った粘土細工を押しつぶしてしまう。 翌朝、変わり果てた作品の姿と締め切り間近で完成まで時間がない絶望を晶に与えた。 だが、ぬ~べ~が粘土細工から僅かに妖気を感じたことから、今度はぬ~べ~・広・晶・郷子・克也の5人で一日学校に泊まり、ギリギリで作品を完成させることに。 そして、深夜ぬ~べ~が皆に「賽の河原」のことを教えているところで、遂に姿を現した。 金棒を振り回して暴れるが、所詮は低級の鬼である地蔵虐は「鬼の手」を持つぬ~べ~の敵ではなく、 なにより生徒の努力を踏みにじった行いからぬ~べ~の怒りを買い、最期は「鬼の手」で首を切断されて消滅した。 アニメではぬ~べ~をぶっ飛ばして晶と広に襲い掛かるが、直後に戻ってきたぬ~べ~に顔面を殴られ、金棒も粉々された。 最期は頭から胴体にかけて縦に真っ二つにされて消滅した。 地蔵虐がいなくなったことで晶の努力は報われ、無事完成した作品は見事に最優秀賞を獲得した。 だが、プレゼントされたマウンテンバイクは本物ではなく、精巧に作られたプラモだった……。ドンマイ。 アニメ版ではオチは同じだが、長い間の苦悩を経てついに努力が報われる喜びを獲得した晶が、 これからの期待に胸を膨らませつつ一層の努力を誓うという前向きな締めくくり方で終わっている。 余談 地蔵虐がいる賽の河原だが、最終的に子供の魂は現れた地蔵菩薩によって救われるとある。 地蔵虐という名も、子供を救うお地蔵様とは逆に子供を虐げる悪鬼として名付けられたのだろう。 追記・修正は努力が報われてからお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] こんな奴は鬼灯様に教育しなおしてもらえ -- 名無しさん (2018-08-25 19 23 25) 今は石じゃなくてジェンガに変えたから許してやって… -- 名無しさん (2018-08-25 19 42 59) これに取り憑かれてなくてもどんなに努力してもちっとも報われない人間なんて掃いて捨てるほどいる -- 名無しさん (2018-08-25 21 04 17) ぬーべーとは直接関係無いけど実親に虐待死させられた子供も賽の河原行きになるんだろうか -- 名無しさん (2018-08-25 23 49 47) ↑一応なるけど積極的に救済されるし、お地蔵さんも守ってくれると近所のお坊さんが言ってたな。 -- 名無しさん (2018-08-26 10 18 03) 知能が低いのは生まれつきで努力の否定もそういう習性だからって思うと結構哀れな奴かもしれない・・・ -- 名無しさん (2018-08-26 12 10 56) 3↑おそらく子供を苦しめたり虐待したやつが(または自分でよその子を苦しめてその親に罪を擦り付けるママ友)がこういったやつになると思われる。 -- 名無しさん (2018-08-28 09 40 42) ↑7ってなわけで鬼灯様!お願いいたします!やっちゃってください!! -- 名無しさん (2018-08-28 10 00 43) 「あなたのお仕事は賽の河原を巡回して、石塔が立ちそうなところを見つけたら崩す簡単なお仕事デース。ひたすら毎日、延々巡回続けるだけデース」。頭悪くてルーチンワークしかやらせて貰えないのかもしれないけど一生懸命やってるんだよ。 最初の数回くらいは努力を滅茶苦茶にするのが楽しいんなんて輩もいるだろうが、内容が単調過ぎる上に刺激のない単純作業とかやる方も地獄でしかない。現世での多様な努力に対しても的確に台無しにしていくあたりマメな奴だ、と最近は思うようになった。 -- 名無しさん (2018-08-28 12 42 39) 3↑ そういう意味では賽の河原の鬼とは実在する妖怪なのかもしれないですね。 -- 名無しさん (2018-08-29 23 26 52) 最後はぬーべーに退治されたけど、あれは賽の河原に戻ったのか、それとも完全に消滅させられたのか気になる -- 名無しさん (2018-08-30 01 58 07) 別に地蔵虐自体はただの鬼であって、生前に罰を受けて鬼になった人間とかじゃないよ。地獄の鬼と一緒で生まれついてのただの鬼 -- 名無しさん (2018-12-25 16 37 21) ↑4 典型的な無能な働き者じゃねえか! -- 名無しさん (2019-02-28 18 12 50) ↑5 よく考えてみれば、「努力をしてそれが報われる直前に台無しにする」というのは知性の無い者には難しいのではないだろうか。早すぎると大して努力していない段階なのでダメージは少ないし、遅すぎると努力が報われてしまうし。タイミングを計るのは結構頭使うことなんじゃないだろうか -- 名無しさん (2020-03-01 16 01 27) これってむしろ地獄の管理体制のほうに問題ないか -- 名無しさん (2020-03-01 17 52 43) 『鬼灯の冷徹』でも『聖☆おにいさん』でも地獄の鬼は正義側なんだけど、ぬ~べ~やいずなでは完全に悪役なんだよな。 -- 名無しさん (2020-05-23 23 04 01) ぬ~べ~のは西洋(と言うかダンテ)の地獄観も入ってるからなあ。閻魔や鬼にきっちり管理されてる更生主体の刑務所ってより、やべーやつを閉じ込める場所ってほうがクローズアップされてる -- 名無しさん (2020-06-19 19 04 10) ↑4 本能的にわかってんじゃね。 -- 名無しさん (2020-07-20 15 43 27) 要は「親よりも先に死ぬという親不孝を犯した子供」への罰として存在するわけだから、意志の有無とかはどうでもいいのでは -- 名無しさん (2020-07-20 15 51 40) 罰を与えるためだけに存在するものに対して理屈なんてないわな。人ならざる異形のものなんだし -- 名無しさん (2020-09-15 10 19 54) 子供が親より先に死なないのが最大の回避方法なわけだな…医学が未発達の時代には難しかったが。しかし仏教以前の「7歳までは神(の加護)の内側にいるので亡くなったら神の元で楽しく遊ぶ事が許される」に対して、おそらく仏教だけでなく儒教の影響もあろうが「親を悲しませた罰を永遠に受ける」というほぼ正反対の待遇の恐ろしさよ… -- 名無しさん (2023-03-26 12 00 41) ↑親に対して子ども死なせないようにしろよ、って戒め兼ねてるんだろうな -- 名無しさん (2024-08-04 12 02 43) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/jizoproject/pages/16.html
menu ■ 画像 └ 貼付け実験 ■ 活動記録(作成中) ├ 2001 ├ 2002 ├ 2003 ├ 2004 ├ 2005 └ 2006 ■ 参考文献 ├ 仰木「里山のはじまり」 ├ 仰木の氏神・小椋神社 ├ 仰木の里ニュータウン ├ 仰木祭り ├ 佐治(さじ)の手 ├ 小椋神社(親村)年中行事 ├ 御所の山と源満仲 ├ 恵心僧都源信『往生要集』 └ 日本の神と仏を知る文献 ■ リンク ├ 大津周辺を眺めるリンク集 └ 地蔵盆Internet放送局
https://w.atwiki.jp/jizoproject/pages/9.html
From:蔭山 歩 2002/03/23 19 51 「仰木の里」とは仰木(旧仰木村)に隣接する昭和57年頃から整備され始めた京阪神へ通勤可能な住宅開発適地ベットタウンです。成安造形大学もその東側に位置します。元々は仰木の土地にあたります。 この仰木の里では「仰木の里学区個性輝くまちづくり委員会」があり、HP作成、「まちづくりフェスタ」など活発な動きが行われています。 委員会は、仰木の里学区内の各種団体の代表とボランティアで構成する会です。大学との関係は機会があるごとに話しにこられてるようですが、まだ本格的とはいえない状態です。仰木との関係は、6年程前に学区分離となりましたが、今でもつながりはあるようです。 私は、昨年11月の「まちづくりフェスタ」に顔を出し、中心で活動されている方とお話しするチャンスがありました。お会いした西中さんは仰木と仰木の里の支所がまだ一緒であった時から自治会をされていて、仰木の事も視野にいれた活動をしたいとお考えの方です。また、現里連合会長の松村さんとお会いし、挨拶しました。松村さんは成安造形大学学長の木村先生が大津市史編纂室の室長をされていたときの上司だったそうです。木村先生の事を「滋賀の歴史を語らせたら右に出るものはない」とおっしゃっていました。またフェスタにはまちづくりに関心を持ち、ボランティアをしている立命大の学生3人が来ていました。 仰木の里の人達がよく仰木の棚田や集落内を散歩するのを見かけます。地蔵を目にしている方も興味を持っている方も多いはずです。実際、仰木祭りの前日に里自治会主催で「仰木祭ビデオ上映会」が仰木の知らないところで行われていました。地蔵プロジェクトの企画を仰木の里にも広報して、大学と里と仰木の3関係つくりをしていきたいなと思います。 興味ある方はHPチェック!「サイバータウン仰木の里」 http //www.oginosato.jp/
https://w.atwiki.jp/gunshooting_love/pages/442.html
セガワールド六地蔵店 住所 京都市伏見区山ノ下32 京都ショッピングセンタービルAM棟2F 最寄り駅 JR・地下鉄六地蔵駅下車徒歩5~10分 営業時間 10 00~24 00 最終確認日 2020/03/28 設置機種 The Ocean Hunter(DX)(撤去) THE HOUSE OF THE DEAD 4 LET S GO JUNGLE! その他(メンテ等) オーシャンハンターは少し画面の色が薄いが大きな支障はない 撤去されました。 THE HOUSE OF THE DEAD 4は照準がおかしいことがとても多いです。 そのためか、頻繁に調整中になります。 症状は、ぶれる、画面端や上の部分が打てないなど。 2P側はトリガーを引いても無反応なことが多いです。 店員に言えば照準を直してくれます。 やり方がわからない店員さんもいるので、その時はテストモードで「1(2)P gun default setting」をしてもらうよう伝えれば治ります。 クレーマーか?みたいな顔する店員もいますが、物騒な地域なので仕方ない面も。気にしないのが一番。 2020-06-06 場所が少し変更されていました。照明の真下から移動したのはいい判断だと思いますが・・・不完全な状態で稼働するなら難易度をvery hardからnormalにして欲しいところ。 2020-03-29 1P,2P共に照準がブレブレ。ゲームになりません。 店員に言えばテストモードで直してもらえるが、あまり改善されず、ブレる・端が打てません。端っこにあるアイテムは入手不可能。 なお、初期ライフ5、最大ライフ5、難易度Very Hrar(一番むずい)に変更されており、ブレブレの照準もあって超激ムズになってます。 結局、照準は治らなかったので不完全な状態で稼働していると思います。3年経っても冷たい対応 2016-12-29 1P側が調整中の張り紙がしてあり、使用不可能。 しかし、100円を入れると1P側にエントリーされる。(1P側のボタンが調整中の張り紙で押されているため) 1P側は照準のブレが全くなく、問題なく遊べる。 どうやら、電源を入れ直すと照準のブレが起きたり怒らなかったりする模様。 2016-12-28 26日の時点では問題なかったが、1Pの照準がブレる。テストモードでも治らず、当分は2Pのみの稼働となる予定。 しかし2Pはトリガーを引いても反応しないことが多く、まともに遊べない状態。 店員曰く「メンテ担当の人に直してもらう形になる。2Pのトリガーの件についても伝えておく。稼働から10年以上経っており、メンテ維持が難しい」とのこと。 http //tempo.sega.jp/am/rokujizo/
https://w.atwiki.jp/zizo/pages/21.html
i 、 | \ / _ _ __ __ .人 ___ _ ← `Y´、 / / |. ┼┐ ,.,( ・ )、 . . !. ノ .ノ \ /// ,ヘ 7 ⌒ i,ヘ ヽ, / / -┼- 、 / / / / .イく/イiノ |  ̄| ̄ .i i i .i// /, レ.i|〈 . イ .i ,、 , /、i|ノ ☆ __人 ィ [] [] _rレλ/_ .イ-、_ ) て ィ [] [] ゝヘy/  ̄ //  ̄" , ヽ, (. ヽ l [][] /. `/ ir 、_ .ノ ⌒´ ー []] ,く_へ_くr 、/____,」  ̄ ☆ |〉 |〉 └=======i___ノ/`ーr-ーイ , o o / / .i 伝説の巫女さん、修正&地蔵Ver.
https://w.atwiki.jp/gensousuikoden1/pages/162.html
レスター ハイ・ヨー メイミ ペコラ レツオウ? 原典:朱富/笑面虎 名前 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/gosi/pages/43.html
海舟全集第9巻 鶯谷庵独言 おれが此一両年、始て外出を止められたが、毎日毎日諸々の著述、物の本、軍談、また御当家の事実、いろ〳〵と見たが、昔より皆々、名大将、勇猛の諸士に至まで事々に天理を知らず諸士を扱ふ事、又は世を治るの術、乱世治世によらずして、或は強勇にし、或はほふ悪く、或はおごり女色におぼれし人々、一時は功を立るといへ共、久しからずして天下国家をうしなひ、又は知勇の士も聖人の大法に省く輩は始終の功を立ずして、其身の亡びし例をあげてかぞへがたし。和漢とも皆々天理にてらして君臣の礼もなく父兄の愛もなくして、とんよくきょうしゃ故に全き身命を亡し、家国をもうしなふ事、みな〳〵天の罪を受る故と、初めてさとり、おれが身を是までつゝがなくたもちしはふしぎだと思ふと、いよ〳〵天の照鏡をおそれかしこみて、なかなか人の中へも顔出しがはづかしくて出来ずと思ふは、去ながら昔年、暴悪の中よりして多くの人を金銀をもおしまず世話をしてやり、又人々の大事の場合も助けてやったから、夫故に少しは天の恵みがあった故、此様にまづあんのんにしているだらふと思ふ。息子がしつまい故に、益友をともとして、悪友につき合ず、武芸に遊んでいて、おれには孝心にしてくれて、よく兄弟をも憐み、けんそにして物を遣はず、麁服をもはぢず麁食し、おれがこまらぬよふにしてくれ娘が家内中の世話をしてくれてなきもおれ夫婦が少しも苦労のないよふにするから今は誠の楽隱居になった。おれのよふな小供が出来たらば、ながく此楽は出来まいと思ふ、是もふしぎだ。神仏には捨られぬ身と思ふ。孫や其子はよく〳〵義邦の通りにして子々孫々のさかえるよふに心がけるがいゝぜ。年は九歳からは外の事をすてて、学文して武術に昼夜身を送り諸々の著述本をみるべし。へたの学問よりははるか増だから女子は十歳にもなったらば髪月代を仕習て、おのれが髪も人手にかゝらぬよふして縫はりし、十三歳ぐらゐよりは我身を人の厄介にならぬよふして手習などもして人並に書く事をすべし。他へかしても事をかゝず一家を治むべし。おれが娘は十四歳のときから手前の身の事は人の厄介になった事はない。家内中の者が却々世話になる。男子は五体を強よくして、そしきをして武芸骨をり一芸は諸人にぬき出ていを逞ましくして旦那の為には極忠をつくし親の為には孝道を専らにして妻子にはじあいし下人には仁慈をかけてつかひ勤をばかたくして友達には信義をもって交り専らにけんやくしておごらず、そふくし益友には厚くしたひて道をきゝ師匠をとるなら業はすこし次にても道に明らかして俊ぼくの仁をゑらみて入門すべし。無益の友は交るべからず。多言を云事なかれ。目上の仁は尊敬すべし。万事内輪にして慎み祖先をまつりてけがすべからず。勤は半時早く出べし。文武を以て農事と思ふべし。少しも若き時はひまなきよふ道々を学ぶべし。ひま有時は外魔が入て身をくづす中だちの遊芸にはよる事なかれ。年寄は心して少しはすべし。過ればおのれのよふになる。庭へは諸木を植ず畑をこしらへ農事をもすべし。百姓の情をしる。世間の人情に通達して心にをさめて外へ出さず守べし。人に芸の教受せば弟子を愛して誠を尽し気に叶ぬものには猶々丹誠を尽すべし。ゑこの心を出す事なかれ。万事に厚く心を用ひする時は天理にかなひて、おのれの子孫に幸あらん。何事も勤と覚らば、うき事はなかるまじ。第一に利欲は絶つべし。夢にも見る事なかれ。おれは多欲だから今の姿になった。是は手本だ。高相応に物をたくわへて、若、友達か親類に、ふ慮の事があったならば、をしまず、ほどこしやるべし。縁者はおのれより上の人と縁組べからず。成丈にひん窮より相談すべし。おのれに勝るとおごりかって家来はびんぼう人の子を仕ふべし。年季立たらば分限の格にして片付てやるべし。女色にはふけるべからず。女には気を付べし。油断すると家を破る。世間に義理をばかくべからず。友達をば陰にて取なすべし。常住坐臥とも、にうはにして家事を治め主人のいかうをおとすことなし。せいけんの道に志て万慎みて守るときは一生安穏にして身をあやまつ事はなかるまじ。おれは是からはこの道を守心だ。なんにしろ学問を専要にして能く上代のをしへにかなふよふにするがいゝ。随分して出来ぬ事はないものだ。それになれると、しまひには、らくに出来る物だ。けっして理外の道へいることなかれ。身を立、名をあげて、家をおこす事はかんじんだ。譬へばおれを見ろよ。理外にはしりて人外の事ばかりしたから祖先より代々勤めつゞいた家だが、おれがひとり勤めないから家にきづを付た。是が何寄の手本だは。今となりて覚て、いく様も後悔をしたからとて、しかたがない。世間の者には悪輩の様にいわれて持てゐた金や道具は、かしとりにあいて夫を取にやれば隠居が悪法で拵らへた道具だから何返すに及ずといふし、金もまた其の心持で居るから、ろくに挨拶もせずによこさぬは。悟ば向ふが尤と思ふ。よい。かよふの事が出ても人をばうらむものではない。みんなこちちのわるいと思ふ心がかんじんだ。怨敵には恩を以てこたへば間違はない。おれは此度も頭よりおしこめられてから取扱のものどもをうらむだが、よく〳〵考へて見たらば、みんなおれが身より火事を出したと気がついたから、まいばんまいばん罪ほろぼしには、ほけ経をよんで陰ながら、おれにつらく当ったと、おれが心得違た仁々は、りっしんするよふに祈てやるから其せいか此ごろはおれの体も丈夫になって家内のうちに、なにもさいなんもなく親子兄弟とも一言のいさかひもなく毎日〳〵笑てくらすは誠に奇妙のものだと思ふから子々孫々も、こふしたらば、よかろふと気がつゐた故に、ひまにあかして折々出付た。善悪の報ひをよく〳〵あぢはふべし。恐多くも東照宮の御幼少の御事、数年の御なんせん故に、かくの如くに太平つづき、万事さかへるうれひ忘れ、妻子をあん楽にすごし、且は先祖の勤苦、思ひやるべし。夫より子孫はふところ手をして先祖の貰た高を取うけて昔を忘れて美服をき、美味をくらひ、ろくの御奉公をも勤めざるは不忠不義ならずや。ここをよくおもって見ろ。今の勤めは畳の上の畳事だから少もきづかひがないは万一すべってころぶ位の事だ。せめては朝は早く起き其身の勤にかゝり夜は心を安じて寝て淡白のものを食し、おごりをはぶひて諸道に心をつくし不断のきるいは破れざれば是として勤の服はあかのつかざれば是とし家居は雨もらざればよしとし畳きれざれば是として専らに、けん素にして(脱落有り)よくはすべからず。倹吝の二字を味をふてすべし。数巻の書物をよんでも心得が違ふと、やろふの本箱字引になるから、ここを間違ぬよふにすべし。武芸もそふだ。ふころの業を学ぶと支体かたまりて、やろふの刀掛になる故、其心すべし。人間になるにも其通りだ。とくよく迷ふと、うはべは人間で心は犬猫もどふよふになる。真人間になるよふにい心懸るが専一だ。文武諸芸ともみな〳〵学ぶに心を用ひざれば、不残このかたわとなる。かたわとなるならば学ばぬがましだ。よくよくこの心を間違ぬよふに守が肝要だ。子々孫々とも、かたくおれがいふことを用ゆべし。先にもいふ通り、おれは之までも、なんにも文字のむつかしい事はよめぬから、こゝにかくにも、かなのちがひも多くあるから、よく〳〵考へてよむべし。 天保十四寅年の初冬、於鶯谷庵かきつゞりぬ 左衛門太郎入道 夢酔老 気心は勤身 気はながくこゝろはひろくいろうすく つとめはかたく身をばもつべし 外に まなべたゞゆふべになろふみちのべの 露のいのちのあすきゆるとも おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまり有まいとおもふ故に孫やひこの為に、はなしてきかせるが、能く不法もの、馬鹿者のいましめにするがいゝぜ。おれは妾の子で、はゝ親が親父の気にちがって、おふくろの内で生れた。夫をほんとふのおふくろが引取て、うばでそだてゝくれたが、がきのじぶんよりわるさ斗して、おふくろもこまったと云事だと。夫におやぢが日きんの勤め故に内には居ないから毎日〳〵わがまゝ計りいふて、強情故みんながもてあつかった、と用人の利平次と云ぢゝいがはなした。其時は深川のあぶら堀といふ所に居たが、庭に汐入の池が有て、夏は毎日〳〵池にばかりへは入てゐた。八ツにはおやぢが御役所より帰るから、其前に池より上り、しらぬ顔で遊んで居たが、いつもおやぢが池のにごりてゐるを、利平ぢゝにきかれるとあいさつに困ったそふだ。おふくろは中風と云病ひで、立居が自由にならぬ。あとはみんな女計りだから、ばかにして、いたづらのしたいだけして、日をおくった。兄きは別宅していたから、なにもしらなんだ。おれが五つの年、前町の仕事師の子の長吉といふやつと凧けんくゎをしたが、向ふは年もおれより三つばかり多きい故、おれが凧をとって破り、糸もとりおった故、むなぐらを取て、きりいしで長吉のつらをぶった故、くちびろをぶちこはして、血が大そう流れてなきおった。そのときおれが親父が、庭の垣根から見ておって、侍を迎ひによこしたから、内へかへったら、親父がおこって、人の子にきづをつけてすむかすまぬか。おのれのよふなやつはすておかれずとて、椽の柱におれをくゝして庭下駄であたまをぶちやぶられた。いまにそのきづがはげて、くぼんでゐるが、さかやきをする時は、いつにてもかみすりがひっかゝって血が出る。そのたび長吉の事を思ひ出す。 おふくろがほふほふより来たくゎしをしまっておくと、ぬすみ出して食てしまふ故、方々へかくしておくを、いつもぬすむ故、親父にはいはれず、こまった。逸體はおふくろがおれをつれて来た故、親父には、みんなおれがわるいたづらは、かくしてくれた。あとの家来はおふくろをおそれて親父におれが事は少しもいふことはならぬ故、あぼれほふだいそだった。五月あやめをふきしが、一日に五度までとって、しよ婦打をした。利平おやぢが、あんまりだといって親父にいつけたが、親父がいふには、小供はげんきでなければ医師にかゝる病人になるは。いく度もふき直し菖蒲を沢山買入れよといった故、利平も菖蒲がなくて困った、とおれが十六七才のときはなした。このおやぢも久しくつとめて兄の代には信濃国までも供して行おったが、兄きがつかった侍は、みんな中間より取立て信州五年づめの後、江戸にて不残、御家人のかふを買てやられたが、利平は隠居して、かぶの金を貰って、身よりの処へかかりて、かねを不残、其やつにとられてしまった。兄きの家へ来たが、ほふばいがじゃまにしてかあいそうだから、おれが世話をして、ぼふづにし千ケ寺にだしてやったが、まもなく又きたから谷中のかんのふ寺の堂ばんにいれておいたが、ほどなく死におったよ。おれが三十ばかりのときだ。 おれ七ツのとき、今の家へ養子にきたが、そのとき十七歳といって、げしぼふずの前がみをおとして、養家の方で小普請支配石川右近将監と組頭の小尾大七郎に、初て判元の時にあったが、其時は小吉といったが、頭が、年は幾つ。名はなんといふ、ときゝおった故、名は小吉。年は当十七歳、といったら、石川が大きな口をあいて、十七にはふけた、とてわらいおった。其時は青木甚平と云大御番、養父の兄きが取持をしたよ。 おれが名は亀松と云。養子にいって小吉となった。夫から養家には祖母がひとり、孫娘がひとり、両親は死んだ後で、不残深川へ引取り、親父が世話をしたが、おれはなんにもし知らずに遊んでばかり居た。此年にたこにて前町と大けんくゎをして、先は二三十人ばかり。おれはひとりでたゝき合、打合せしが、ついにかなはず、干かばの石の上においあげられて、ながさをでしたたかたゝかれて、ちらしがみになったが、なきながら脇差を抜て、きりちらし、諸せんかなはなく思たから、腹をきらんと思ひ、はだをぬひで右の上にすはったら、其脇に居た白子やと云米屋がとめて、内へおくって呉た。夫よりしては近所の小供が、みんなおれがてしたになったよ。おれが七つの時だ。 深川のやしきもたび〳〵のつなみ故、本所へやしき替へをおやぢがして、普請のできるまで駿河台の太田姫稲荷の向ふ若林の屋敷を当分かりて居たり。其やしきは広くって庭も大そふにて隣に五六百坪の原があったが、ばけ物やしきとみんながはなした。おれが八つ計の時に、親父が内中のものをよんで、其原に人の形をこしらへて、百ものがたりをしろといった故、夜みんながその隣の屋敷へひとりづゝいって、かのばけものゝ形の袖へ名を書たふだを結付て来るのだが、みんながこわがって、おかしかった。一ばんしまひにおれが行ばんであったが、四文銭をみがきて人の形の顔へ目にはりつけるのだが、夫がおれがばんにあたって夜の九つ半ぐらゐだと思たが、其晩はまっくらでこまったが、とふとふ目を付て来たよ。みんなにほめられた。 おれが養家のばゝどのは、若い時からいぢがわるくって、両親もいぢめられて、夫故に若死をしをったが、おれをまい日〳〵いぢめをったが、おれもいまいましいから、でほふだいに、あくたいをついたが、その時親父が聞付て、おこっておれに云には、年もゆかぬに、ばゝさまにむかって、をのれのよふな過言を云やつはない。始終が見届けない、とて脇差を抜て、おれに切付たが、清といふ妻はあやまってくれたっけ。 翌年、よふ〳〵本所のふしんが出来て、引越たが、おれがゐる所は表の方だが、はじめてばゝどのと一所になった。そふすると毎日やかましいことばかりいひをったが、おれもこまったよ。不断の食ものも、おれにはまづいもの計くはして、にくいばゝァだと思て居た。 おれは毎日〳〵そとへ計り出て遊んで、けんくゎばかりして居たが、或時亀沢町の犬が、おれのかっておゐた犬と食合て、大げんくゎになった。そのときは、おれが方は、隣の安西養次郎と云十四計のがかしらで、近所の黒部金太郎、同兼吉、篠木大次郎、青木七五三之助と高浜彦三郎におれが弟の鉄朔と云ふと八人にて、おれの門の前で町のや郎たちとたゝき合をした。亀沢町は緑町の小供を頼んで、四五十人計だが、竹槍を以て来た。こちらは六尺棒、木刀、竹刀にてまくり合しが、とふ〳〵町のやつらを追かへした。二度めには向ふにはおとながまじって、又〳〵たゝき合しが、おれが方がまけて、八人ながら隣の滝川の門の内へはいり息をついたが、町方では勝にのって門を丸太にてたゝきおる故、また〳〵八人が一生けん命になって、こんどはなまくら脇差を抜て門を開いて不残切り立しが、其のいきおひにおそれ、大勢がにげおった。こちらは勝にのって切立しも、おれが弟は七つ計だがつよかった。一番におっかけたが、前町の仕立屋のがきに弁治と云やつが引返し来て、弟の手を竹やりにてつきおった。其時おれがかけ付て、弁治のみけんを切たが、弁治めがしりもちをつき、どぶのなかへおちおった故、つゞけうちにつらを切てやった。前町より小供の親父らが出てくるやら大さわぎさ。夫から八人が勝どきを揚て引返し、滝川の内へはいり、互ひによろこんだ。そのさわぎを、親父が長屋の窓より見て居て、おこって、おれは三十日計り目通止られ、おしこめにあった。弟は蔵の中へ五六日おしこめられた。 九ツの時、養家の親類に鈴木清兵衛と云御細工所頭を勤める仁柔術の先生にて一橋殿、田安殿始、諸大名、大勢弟子を以て居る先生が横網町と云所に居る故、弟子になりにゆくべしと、親父が云故いったが、三八五十の稽古日にて、はじめて稽古場へ出て見た。始は遠慮をしたから段々いたづらを仕出し、うち弟子ににくまれ、不断ゑらきめにあった。或日稽古に行と、ばんの木馬場と云所にて、前町の小供、其おやどもが大勢あつまって、おれが通るを待って居る。一向にしらずして、其前を通りしが、それ男谷のいたづら子がきた。ぶちころせ、とのゝしりおって、竹鎗、ぼうちぎりにて、とり巻しが、直に刀を抜てふりはらひ〳〵、馬場の土手へかけ上り、御竹蔵の二間計りのぬま堀へはいり漸々にげ込しが、其時羽織はかまなどが泥だらけになりおった。夫から御竹蔵番の門番は、ふだん遊びに行故に、いろいろ世話をしてくれたが、内へかへる気がひがある故、たのんでおくって貰た。四五十人ばかりまち伏をしおった。大まなめにあった。その後は二月ばかり亀沢町はとほらなんだが、同町の縫はくやの長と云やつが、門の前を通りおったから、なまくら脇差にてたゝきちらしてやったが、内の中間が漸々とめて、辰の内へつれていって、はんの木馬場のしかへしのよしをそのや郎のおやによくいったとさ。夫よりは亀沢町にておれに無礼をするものはなくなったよ。 柔術のけいこ場で、みんながおれをにくがって、寒げいこの夜つぶしと云事をする日、師匠からゆるしがでて、出席の者が食いものをてん〳〵にもち寄てくふが、をれも重箱へまんぢうをいれていったが、夜の九ツ時分になると、稽古をやすみ、皆々持参のものを出してくふが、おれもうまいものをくってやらふと思って居ると、みんなが寄って、おれを帯にてしばって天上へくゝしあげおった。其下で不残寄おって、おれがまんぢうまでくひおる故、上よりしたゝかおれが小便をしてやったが、取ちらした食ものへ小便がはねおった故、不残捨てしまひおったが、その時はいゝきびだとおもったよ。 十の年、夏、馬の稽古をばしはじめたが、先生は深川菊川町両番を勤める一色〳〵幾次郎と云師匠だが、馬場は伊予殿橋の六千石とる神保磯三郎といふ人の屋敷で稽古をするのだ。おれは馬がすきだから、毎日〳〵門前乗をしたが、二月めに遠乗にいったら、道で先生に逢ってこまった故、横町へにげこんだ。そふすると先生が、次の稽古にいったら、こゞとをいひおった。まだくらもすわらぬくせに、以来はかたく遠乗はよせ、といひおった故、大久保勘次郎と云先生へいって、せめ馬の弟子入したが、この師匠はいゝ先生で、毎日木馬に乗れとて、よくいろ〳〵をしへて呉たよ。毎月五十くら乗をすべしとて、借馬引にそふいって、藤助・伝蔵・市五郎といふやつの馬をかり、毎日〳〵馬にばかりかゝっていたが、しまひには馬を買て、藤助にあづけておいたが、火事には不断でた。一度、馬喰町の火事の時、馬にて火事場へ乗込しが、今井帯刀と云御使番にとがめられて、いつさんににげたが、本所の津軽の前までおっかけおった。馬が足が達者故とふ〳〵にげおふせた。あとで聞ば、火事場は三町手前よりは火元へ行ものではないといふ事だよ。 壱度、すみだ川へ乗行しが、其時は伝蔵といふ借馬引の馬をかり乗たが、土手にて一さんにおひちらしたが、どこのはづみか、力皮がきれて、あぶみを片っぼ川へおとした。其まゝ、かたあぶみで帰たことがある。 十一の年、駿河台に鵜殿甚左衛門と云剣術の先生がある。御簾中様の御用人を勤む、忠也流、一刀流にて銘人とて、友達が咄しをった故、門弟になったが、木刀の形ばかりをしへをるゆへ、いゝことにおもってせいを出しいたが、左右とかいふ伝受を呉たよ。其稽古場へ、おれが頭の石川右近将監のむすこがいでしが、おれの高や何かを能しっている故、大勢の中で、おれが高はいくらだ、四十俵では小給者だとって笑ひをるが、不断のこと故、おれも頭の息子故内輪にしておいたが、いろ〳〵ばかにしおる故、或とき木刀にて思ふさまたゝきちらし、あくたいをついて、なかしてやった。師匠にひどくしかられた。今は石川太郎左衛門とて御徒頭を勤めているが、古狸にて、今になんにもならぬ。女を見たやうな馬鹿野郎だ。 十二の年、兄きが世話をして学問をはじめたが、林大学頭の所へ連れ行やったが、夫より聖堂のき宿部や保木巳之吉と佐野郡左衛門と云きもいりの所へいって、大学をしへて貰たが、学問はきらひ故、毎日〳〵さくらの馬場へ垣根をくぐりていって、馬ばかり乗ってゐた。大学五六枚も覚しや。両人より断わりし故、うれしかった。 馬にばかり乗りし故、しまいには銭がなくなってこまったから、おふくろの小遣又はたわいの金をぬすんでつかった。 兄きが御代官を勤めたが、信州へ五ケ年つめきりをしたが、三ケ年目に御機嫌窺に江戸へ出たが、そのときおれが馬にばかりかかってゐて銭金をつかふ故、馬の稽古をやめうとて、先生へ断の手紙をやった。其上にておれをひどくしかって、禁足をしろといひおった。夫から当分内に居たがこまったよ。 十三の年の秋、兄が信州へかへったから、又々諸方へ出歩行、のらくらしてゐたが、とかくおれがばゝあどのがやかましくて、おれがつらさへ見ると、こゞとをいひおる故、おれもこまって、しまひには兄よめに咄して、智恵をかりたが、兄よめも気の毒におもって、親父へはなして呉たが、そこで或る日親父がばゝあどのへいふには、小吉もだんだん年もとる故、小身者は、にたきまで自身に出来ぬと身上をばもてぬものだから、以来は小吉が食物などは当人へ自身にするやうにさっしゃるがよい」といって呉た故、猶々おれがことはかまはず、毎日〳〵自身に、にやまをしたが、醤油には水をいれておくやら、さま〴〵の事をするから、心もちがわるくってならなかった。よそよりくゎし、何にても貰へば、おれにはかくして呉ずして、おれがきものは一ツこしらへて呉ると、世間中へふひちょうして、わるく計いひちらし、きもがいれてならなかった。親父にいふと、おれ計しかるし、こんなこまったことはなかった。 十四の年、おれが思うには、男は何をしても一生くはれるから、上方あたりへかけおちをして、一生ゐやうとおもって、五月の廿八日に、もゝ引をはきて内を出たが、世間の中は一向しらず、かねも七八両ぬすみ出して、腹に巻付て、先品川まで道をきゝ〳〵して来たが、なんだか心ぼそかった。夫からむやみに歩行て、其日は藤沢へとまったが、翌日早く起きて宿を出たが、どふしたらよからふと、ふら〳〵ゆくと、町人の二人連の男が跡より來て、おれに、どこへ行と聞から、あてはないが上方へゆく、といったら、わしも上方まで行くから一所にゆけ、といひおった故、おれも力を得て、一所にいって小田原へとまった。其時、あしたは御関所だが、手形はもってゐるか、といふ故、そんな物はしらぬ、といったら、銭を二百文だせ。手形を宿で貰てやる、といふから、そいつがいふ通りにして関所も越たが、油断はしなかったが、浜松へ留った時は、二人が道によく世話をして呉たから、少し心がゆるんで、はだかで寝たが、其晩にきものも大小も腹にくゝしつけた金も、みむなとられた。朝、目がさめた故、枕元を見たらなんにもないから、きもがつぶれた。宿屋の亭主に聞たら、二人は尾張の津島祭りに間に合ないから先へゆくから後よりこひ、といって立をったといふから、おれもとほふにくれてなゐて居たら、亭主がいふには、夫は道中のごまのはいといふ物だ。わたしは江戸からの御連とおもったが、何にしろきのどくなことだ。どこを志してゆかしゃる、とて、しんじつに世話をしてくれが、いふには、どこといふあてはないが上方へゆくのだ、といったら、何にしろじゅばん計にてはしかたがない。どしたらよからう、と、十方にくれたが、亭主が飛しゃく一本くれて、是まで江戸子が、此海道にては、まゝそんなことがあるから、おまへも此ひしゃくをもって、浜松の御城下在とも一文ツゝ貰ってこい、とおしへたから、漸々思ひ直して、一日方〳〵貰って歩行たが、米や麦や五升ばかりに、銭を百二三十文貰って帰った。 亭主、いゝものにて、其ばんはとめてくれた。翌日、先伊勢へ行て、身の上を祈りてくるがよかろうといふ故、貰た米と麦とを三升計に銭五十文ほど、亭主に礼心にやって、夫から毎日〳〵こじきをして伊勢大神宮へ参ったが、夜は松原又川原或は辻堂へ寝たが、蚊にせめられてろくに寝ることも出来ず、つまらぬさまだっけ。 伊勢の相生の坂にて、同じこじきに心易くなり、そいつがいふには、龍太夫といふおしの処へいって、江戸品川宿の青物や大阪やの内よりぬけ参りに来たが、かくのしだい故、留てくれろといふがいゝ。そうすると向ふで張面をくりててとめる、とをしへて呉た故、龍太夫の内へいって、中の口にて其の通りいったら、はかま抔きたやつが出て張面を持って来てくり返し〳〵見をって、奥へ通れといふから、こは〴〵通ったら、六畳敷へおれをいれて、少し立て其男が来て、湯へはいれといふから、久しぶりにて風呂へはいった。あがると、麁末だが御ぜんをくへ、とて、色々うまいものを出したが、これも久敷くはないから腹いつぱいやらかした。少し過て、龍太夫はかり衣にて来おった。能こそ御参詣なされた、とて、明日は御ふだを上ませう、といふ故、おれはたゞ、はい〳〵といってじぎばかりしてゐた。夫から夜具蚊やなど出して、お休みなされといふから寝たが、心もちがよかった。翌日は又々馳走をして御札を呉た。そこでおれが思ふには、とてものことに金も借てやらふと、世話人へそのことをいったが、先の取つぎをした男が出て来て、御用でござりますか」といふから、道中にてごまのはゐのことをいひ出して、路銀を二両計かして呉るやう頼むといったら、龍太夫へ申聞かすとてひっこんだ。少し間だが過て、おれにいふには、太夫方も御らんの通り大勢さまの御逗留故、なか〳〵手廻りまさぬ故、あまり軽少だが是を御持被下やうとて壱貫文呉た。夫を貰って早々にげ出した。夫から方々へ参ったが、銭はあるし、うまいものを食ひどふしだから、元のもくあみになった。 龍太夫を教へて呉た男は、江戸神田黒門町の村田と云紙屋の息子だ。夫からこゝで貰ひあそこで貰ひ、とふ〳〵空に駿河の府中迄帰った。なにをいふにも、じゅばん壱枚、帯はなわをしめ、わらじはいつにもはひたこともねへから、ざまのわるいこじきさ。府中の宿の真中ごろに、くゎんおんか何かの堂があったが、毎晩夜はその堂の椽の下へ寝た。 或日、府中の城の脇の御紋付を門のとびらにつけた寺があるが、其寺の門の脇は竹やぶ計の所だが、その脇に馬場の入口に石がたんとつんで道からそこへ一夜ねたが、翌日、朝早く侍が十四五人来て借馬のけいこをしてゐたが、どいつも〳〵へただが、むちうになって乗てをるから、おれが目を覺しておきあがったら、馬引どもが見おって、爰にこじきが寝ておった。ふてい奴だ。なぜ、かこひの内へ、へゑりおった、とてさん〴〵しかりおったが、いろ〳〵わびごとして其内へかゞんで居て、馬乗を見たが、あんまりへたがおほいから笑ったら、馬喰共が三四人でしたゝかおれをぶちのめして外へ引づり出しおった。おれがいふには、みんなへただからへただといったがわるいか、と大声でどなったらば、四十計の侍が出おって、これ、こじき、手前はどこのやつだ。子蔵のくせに、侍の馬乗をさっきからいろ〳〵といふ。国はどこだ。いへ〳〵、と云から、おれが、国は江戸だ。それに元からこじきではない、といったら、馬はすきか、といふ故、すきだといったら、ひとくらのれ、といひおる故、じゅばん壹枚で乗て見せたら、みんながいひをるには、この小蔵めは侍の子だらふ、といひおって、せんの四十計の男が、おれの内へ一所にこひ。めしをやらふ、といふから、けいこをしまひ、帰るとき、其侍の跡につひていったら、町奉行屋敷の横丁のかぶき門の屋敷へはいり、おれをよんで台所の上りだんで、したゝか飯と汁をふるまったがうまかった。 其侍も奥の方で飯をくって仕舞って又台所へ出てきて、おれの名、又親の名をきゝおるから、いゝかげんにうそをいったら、なんにしろ不便だからおれが所へいろ、とて単物を呉た。そこの女房も、おれがかみを結て呉た。行水をつかへとて湯をくんでくれるやら、いろ〳〵とかあいがった。今かんがへると与力とおもふよ。其侍は肩衣をかけて、どこかへいったか、夕方内へ帰った。夜も、おれを居間へよんでいろ〳〵身の上の事を聞たから、町人の子だ、といってかくしていたら、いまに大小と袴をこしらへてやるから爰にてしんぼうしろ、といひおる。六七日もいたが、子のやうにして呉た。 おれが腹の内で思ふには、こんな内にしんぼうしてゐてもなんにもならぬから、上方へゆきて公家の侍にもなるほふがよからふと思ひて、或ばん単物帯もたゝんで寝所におひて、じゆばんをきて其内をにげ出して、安部川の向ふの地蔵堂に其晩んは寝た。翌日、夜のあけないうちに起て、むやみに上方のほふへにげたが、銭はなし、食物はなし、三日計はひどくこまったが、夫から一文づゝ貰って、宇都宮の地蔵堂にふた晩寝たが、其夜五ツ時分に、堂の椽がわに、どんと音がする故、其音にゆめがさめたが、人がゐる様子故、せきばらひをしたら、其人が、そこに寝て居るはなんだ、といひおるから、伊勢参りだといったら、おれは此先の宿へばくちにゆくが、此銭を手前かつひでゆけ、御伊勢さまへおさいせんを上るから、といひおるゆゑ、起出て其銭をかつひでゆくと、たしかまり子の入口かとおもった、普請子屋へはいりしが、おれもつゝひて入しが、三十人計、車座になりおって、おれを見て、其こじきめはなぜ爰へ這入った、と親方らしい者がいふと、連の人がいふと、こいつは伊勢参りだからおれが連て来た、といふと、そんなら手前はめしでもくってまってろ。今に御伊勢様へ御初穂を上るから、とて飯酒を沢山ふるまった。 少し過ると、連てきた人が銭を三百文計、紙にまひてくれた。外のものも五十、百、廿四文、十二文てん〴〵に呉たが、九百計貰た。みんながいひ居るには、はやく地蔵さまへいってねろ、といふ故、礼をいふてこの子屋を出ると、ひとりがよびとめて、大きなむすびを三ツ呉た。 うれしくって又半道計の所をもどって、地蔵へさいせん上てねたが、夫よりふらふら壱文づゝ貰ひ、四日市までゆくと、先頃龍太夫ををしへた男に逢た。其時の礼をいって百文計、礼にやったらば、其男がうれしがって、久敷飯をはら一ぱいくわぬから飯をくはふ、とて、二人で飯を買て、松原にねころんで食た。 別れてより楽にいろいろのめに逢た咄しをして、其日は一所に松原に寝たり、こじきの交りは別なものだ。 夫から二人いひ合て又々伊勢へいった。其男は四国の金比羅へ参るとて、山田にて別れ、おれは伊勢に十日計ふらふらしてゐたり。段々四日市の方へ帰って来たが、白子の松原へ寝たばんに頭痛強くして、ねつが出てくるしみしが、翌日には何に事もしらずして松原に寝てゐたが、二日ばかり立て漸く人こゝろが出て、往来の人に壱文づゝ貰ひ、そこに倒れて七日ばかり水を呑で、よう〳〵に腹をこやしゐたが、其脇に半町計り引こんだ寺があったが、そこの坊主が見付て毎日〳〵麦のかゆを呉た故、やう〳〵力がついた。 二十二三日計、松原に寝てゐたが、坊主がこも弐枚呉て、壱枚は下へしき、壱枚は夜かけて寝ろ、といった故、其通にして、ぶらぶらして日を送ったが、二十三日めごろか足が立た故、大きにうれしく、竹きれを杖にして少しつゝ歩行た。 夫から三日計りして、寺へいって礼をいったら、大事にしろ、とて坊主の古いかさとわらぢを呉た故、漸く一日に一里位つゝ歩行きたが、伊勢路では火でたいた物は一向くはぬ。生米をかじりて歩行たり。病後故に腹がなをらぬから、又々気分がわるくって、處を忘れたが、或河原の土橋の下に大きな穴が横にあいて居るから、そこへはゐつて五六日寝て居た。 或晩、若い乞食が弐人来て、おれにいふには、その穴は先月まで神田の者が寝処にした所だが、どこへかゆきをった故に、おらが毎晩寝る處だ。三四日か稼ぎに出た故、手前にとられてこまる、といふゆへ、病気のよしをいったら、そんなら三人にて寝よう、とぬかして、六七日一所にゐたが、食ひ物に困り、どふしよふ、と二人へいったら、伊勢にては火の物は太神宮様が外へ出すをきらいだからくれぬ故、在郷へいって見ろ、といふから、杖にすがって、そこより十七八町の脇の村方へ這入ったら、番太郎が六尺棒を持て出て、なぜ村へ来た、其為に入口に札が立てある、このべらぼうめが、とぬかして棒でぶちをったが、病気故に気が遠くなって倒れた。そうすると足にて村の外へ飛ばしおった故、匍匐ばうようにして漸く橋の下へ帰て来たら、二人が、どふした、といふから、其しだいをいったら、手前は米はあるか、といふから、麦と米と三四合貰ひためたをだして見せたら、そんならおれがかゆこを煮てやらう、といって、徳利のかけを出して、土手のわきへ穴を堀て、徳利へ麦と米と入て水をも入れ、木の枝をもして、かゆを拵へて呉たから、少しくった後は礼に二人にふるまった。 夫よりおれも古とく利を見付て、毎日毎日貰た米麦、引わりを其徳利にて煮て食たから、こまらないやうになったが、夫迄は誠に食物にはこまった。 だん〳〵気分がよくなったから、そろ〳〵とそこを出かけて府中まで帰たが、とかく銭がなくって困るから、七月、丁度盆だから、毎夜〳〵町々を貰て歩行たが、伝馬町と云所の米屋で、ちいさい小皿に引わりを入てせぎゃうに見勢へならべて置から一つとったが、一つのさしに銭の壱文あるから、そっと又一つとった。そうすると、米をついていた男が見付おって腹を立て、二度取りをしおる、とてにぎりこぶしで、おれをしたゝかぶちおったが、病後故、道ばたに倒た。 やう〳〵気が付た故、くゎんおん堂へいって寝たが、其時は漸く二本杖であるく時故か、翌日は一日腰が痛くって、どこへも出なんだ。 夫から或日の晩がた、飯がくいたいから、二丁町へはいったが、麦や米計呉て飯をくれぬから、段々貰って行たら、まがり角の女郎やで、客が騷いで居たが、おれにいふには、手前は子蔵のくせ、なぜそんなに二本杖であるく、わずらったか、といふ。さよふでござり升、といったら、そふであろふ、よく死なゝかった、どれ飯をやろふ、とて、飯や肴やいろ〳〵のさゐを竹の皮につゝませ、銭を三百文つかんで呉た。おれは地ごくで地蔵に逢たやうだと思って、土へ手をつゐて礼をいったら、其客が、手前は江戸のやうだが、ほんのこじきでは有まい、どこか侍の子だろふ、とて女郎にいろ〳〵はなしおるが、ひぢりめんの袖口の付た白地のゆかたと、こんちりめんのふんどしを呉れが、うれしかった。 其の晩は木賃宿へ留つて畳のうえへ寝るがいゝ、といった故、厚く礼をいって、夫から伝馬町の横町の木賃宿へ夜になると留ったが、しまひには宿せんやら食物代がたまって、はらひにしかたがないから、単物を六百文のしちに入れて貰て、さう〳〵そこのうちを立て、残りの銭をもって、上方へ又志してゆくに、石部までいって、或日宿のはづれ茶やの脇にねて居たら、九州の秋月と云大名の長持が二棹きたが、其茶屋へ休んでゐると、長持の親方が二人来て、同しくせう木に腰をかけて酒を呑で居たが、おれにいふには、手前はわづらったな、どこへゆく、といふから、上方へ行、といったら、あてが有のか、といふ。あてはないが行、といったら、それはよせ、上方はいかぬ所だ、それより江戸へかへるがいゝ、おれがつひていってやるから、まづ、かみさかゆきをしろ、とて向ふの髪結所へ連ていって、させて、そのなりでは外聞がわるい、とてきれいのゆかたを呉て、三尺手拭を呉た。 何にしろ杖をつひては、らちがあかぬから、かごへ乗、とて、かごをやとひて、のせて毎日〳〵よく世話をして呉た。 江戸へいったら送ってやらふ、とて、府中まで連て来たが、其晩、親方がばくちのけんくゎで大さわぎが出来て、おれを連た親方は国へ帰るとて、呉た単物を取返して木綿の古じゅばんを呉て、直に出て行おったから、今一人の親方がいふには、手前は是迄連てきて貰たをとくにして、あしたは一人で江戸へ行がいゝ、とて、銭を五十文計呉おったが、しかたがないから、またこじきをしてぶら〳〵来て、所は忘れたが、或がけのところに其ばんは寝たが、どふいふわけか、がけより下へ落ちた。 岩のかどに、きん玉を打たが、気絶をして居たとみえて、翌日漸々人らしくなったが、きん玉がいたんであるくことがならなんだ。 二三日過ぎると、少しづゝよかったから、そろ〳〵とあるきながら貰ていったが、箱根へかゝってきん玉がはれて、うみがしたゝか出たが、がまんをして其翌日、二子山まであるいたが、日が暮れるから、そこに其晩は寝て居たが、夜の明方、飛脚が三度通りて、おれにいふには、手前ゆふべはこゝに寝たか、といふ故、あい、といったら、つよひやつだ、よく狼に食れなんだ、こんどから山へは寝るな、といって、銭を百文計呉た。 夫から三枚橋へきて茶屋の脇に寝て居たら人足が五六人来て、子蔵や、なぜ寝て居る、といひおるから、腹がへってならぬから寝て居る、といったら、飯を一ぱい呉た。 其中に四十位の男が云には、おれの所へきて奉公しやれ、飯は沢山くはれるから、と云故、一所にいったら、小田原の城下のはづれの横丁にて、獵師町にて、喜平次と云男だ。おれを内へいれて、女房や娘に、奉公につれてきたから、かあひがつてやれ、といった。女房娘もやれこれといって、飯をくへ、といふから、飯を食ったら、きらずめしだ。魚は沢山あつて呉た。 一日たつと、あすよりは海へ行て船をこげ、といふから、江戸にて海へは度々いった故、はい〳〵、といって居たら、子蔵の名はなんといふ、と聞から、亀、といったら、おはちのちさいのを渡して、是に弁当をつめて朝七つより毎日毎日ゆけ、手前は江戸子だから、二三日は海にて飯は食へまいから、もってゆくな、と喜平がいひおるから、おれは江戸にて毎日海に船を乗たから、こはくない」といったら、いや〳〵江戸の海とは違ふ、といふから、それでもきかずに弁当をもっていった。 夫から同船のやつが内へおれを連ていってたのんだから、翌日より早くこひ、と云。それから毎朝〳〵船へいったが、みんなが云には、亀があるくなりはをかしい、といひおる。そのはづだ、きん玉がはれが引ずに居て、水がぽたぽたたれて困ったが、とう〳〵かくしとふしてしまったが、困ったよ。 毎日、朝四ツ時分には沖より帰って、船をおかへ三四町引上げ、あみをほして、少しづゝ魚を貰って小田原の町へ売にいった。 夫から内へかへつて、きらづをかって来て四人の飯をたくし、近所のつかひをして二文三文づゝ貰た。内の娘は三十計だの、いゝやつで、時々、すゐくゎんなどを買てくれた。女房はやかましくつて、よくこき遣った。 喜平は人足故、内へは夜許り居たが、是はやさしいおやぢで、時にくゎしなんぞ持て来て呉た。十四五日計居ると子のやうにしおった。 おれに江戸事を聞て、おらが所の子になれ、といゝおる故、そこで考へて見たが、何にしろおれも武士だが、内を出て四ケ月になるに、こんな事をして一生居てもつまらねへから、江戸へ帰って、親父の了簡次第になるがよかろふと思ひ、娘へきげんをとり、引ときものゝつぎだらけなのを一ツ貰ひて、閏八月の二日、銭三百文、戸棚にあるをぬすんで、飯を沢山.弁当へつめて、浜へゆく、といって、夜八ツ時分起て喜平が内をにげ出して、江戸へ其日の晩の八ツ頃にきたが、あいにく空はくらし、すゝ森にて犬が出て取まひて、一生けん命大声を揚てわめくと、番人こじきが犬をおひちらして呉た故、高輪のりゃう師町のうらにはいりて、のり取船があったから、夫をひくり返して其下に寝たが、あんまり草臥たせいか、あくる日、日があがっても寝て居たから、所のものが三四人出て目付てしかりおった。 わびことをしてそこを出て、飯をくひなどして、あたご山へまで一日寝て居て、其晩は坂を下るふりをして山の木のしげみへねた。 三日計、人目を忍んで、五日めには、よる両国橋へきて、翌日ゑかふ院のはか場へかくれて居て、少しづゝ食物かって食て居たが、しまひには銭がなくなったから、毎晩〳〵かきねをむくり出て貰ていたが、夜はくれてが少ないから、ひもじい思ひをした。 ゑかふ院奥のはか場にこじきの頭が有が、おれに、仲間にはいれ、とぬかしおったから、そやつの所へいって、したゝかめしを食た。そして夫から亀沢町へ来て見たが、なんだか、しきゐが高いやうだから、引返してニツ目の向ふの材木問屋のかげへいって寝た。 三日めに朝早く起て、内へかへったが、内中、小吉が帰った、とって大さわぎをし、おれが部屋へはいって寝たが、十日ばかりは寝どふしをした。 おれが居ない内は、加持祈禱いろいろとして従弟女の恵山といふびくは上方迄尋て登たとてはなした。 夫から医者がきて、腰下に何か、しさゐがあらふ、とていろ〳〵いったが、其ときは、まだ、きん玉がくづれていたが、強情に、ない、といってかくしてしまった。三月ばかりたつと、しつができて段々大そふになった。起居もいできぬやうになつて、二年計はそとへもゆかず、内ずまひをしたよ。 夫から親父が、おれの頭、石川右近将監に、帰りし由をいって、いかにも恐入事故、小吉は隠居させ、外に養子いたすべき、といったら、石川殿が、今月かへらぬと月切れ故、家は断絶するが、まづ〳〵かへって目出たい、夫には及ばぬ、年取て改心すれば、お役にも立べし、よくよく手当して遣すべし、といはれた。夫から一同安心した、とみなが咄した。 十六の年には漸く、しつも能なったから、出勤するがいゝ、といふから、逢対をつとめたが、頭の宅で張面が出て居るに銘々名を書くのだが、おれは手前の名がかけなくつてこまった。人に頼んで書て貰た。 石川が逢対の後で、乞食をした咄しをかくさずしろ、といったから、初めからのことをいったら、能く修行した、今に御番入をさせてやるから心ぼうをしろ、といはれた。 また内ではばゝあどのが、猶々やかましくつて、おのれは勝の家をつぶそうとした、なと、いろいろいひおってこまった故、毎日〳〵内には居なんだ。 兄きの役所詰に久保島可六と云男があったが、そいつがおれをだまかして連て行きおったが、おもしろかったから、毎晩〳〵いったが、かねがなくって困て居ると、信州の御料所から御年貢の金が七千両来た。役所へ預りて改て御金蔵へ納るのだ。其時、おれに番人を兄きよりいひつけたから番をして居ると、可六が云には、かねがなくては吉原は面白くないから百両計ぬすめ、と教たが、おれも、左うだ、といって千両箱をあけて弐百両とったが、跡ががた〳〵する故こまったら、久保島が石ころを紙につゝんでいれて呉た故、しらぬ顔で居たが、二三月立と知れて兄きがおこったが、色々せんぎをしたら、おれが出したと役所の小遣めが、はく状しおった故、おれに金を出せとて兄がせめたが、しらぬ、とて強情をはり通したが、兄が親父へ其訳を咄したら、親父がいふには、手前も年の若いうちは度々そんな事は有ったけ。わづかの金で小吉をきづものにはできぬ故、なんとか了簡してみやれ、といった。そこでいよ〳〵おれが取ったに違ひない故、それぎりにしてたれもしらぬ顔でおさまった。おれは其金を吉原へもっていって、壱月半ばかりにつかってしまったが、夫から蔵宿やほうぼうを頼んで金をつかった。 或日、おれの従弟の処へいったら、其子の新太郎と忠次郎と云兄弟が有が、一日色々咄しをして居たが、そこの用人に源兵衛と云が居たが、剣術遣ひだと云ことだが、おれに云には、お前さまは色々とおあばれなさりますが、けんくゎはなさいましたことが有升か、是はきもがなくってはできません、と云から、おれは喧くゎは大好だが、小さい内から度々したが、おもしろいものだ、といった。左やうで御座升が、あさっては蔵前の八幡の祭があり升が一喧嘩やりましゃうから、一所にいらっしゃいまして一勝負なさいまし、といったから約束をして帰った。 其日になりて夕方より番場の男谷へいったら、先の兄弟も待て居て、よく来た、今、源兵衛が湯へいったから帰ったら出かけやう、と支度をして居ると、間もなく源兵へが帰った。夫より道に手はづをいひ合て八幡へいったが、みんなつまらぬやつ計で、相手がなかったが、八幡へはいると、向ふよりきいたふうのやつが二三人で鼻歌をうたって来る故、一ばんに忠次郎がそいつへ、つばを顔へしかけったが、其野郎が腹を立て、下駄でぶってかゝりおった。そふするとおれがにぎりこぶしで横つらなぐってやると、跡のやつらが惣がゝりになってかゝりおるから、目くらなぐりにしたら、みんなにげおったゆえに、八幡へいったってふらふらして居ると、廿人ばかり、ながとびを持てきおった。 なんだ、と思って居ると、壱人が、あのや郎だ、とぬかして四人を取まきおった。それから刀をぬひて、きりはらったら、源兵衛が云には、早く門の外へ出るがいゝ、門をしめると取こになる、と大声でいふから、四人が並で切立て門の外へ出たら、そいつらが加勢とみえて、又三十人計、とび口を持て出おったから、並木の入口の、すなばそばの格子を後ろにして、五十人計を相手にして、たゝき合たが、一生けん命になって、四五人ばかりきづを負したら、少し先がよはくなったゆゑ、むやみにきりちらし、とび口を十本ほどもたゝき落した。そふすると、また〳〵加勢がきたが、はしごを持て来た。其時源兵衛が云には、最早かなわぬから三人は吉原へにげろ、跡は私がきりはらひ帰るから、と、早くゆけ、といったが、三人ながら源兵衛ひとりをおくを不便におもひ、一所におひまくつて一所ににげやう、といったら、おまへさん方は、けがゝ有てはわるいから、是非〳〵早くにげろ、と、ひたすら云故、おれが源兵衛の刀がみじかいから、おれの刀を源兵衛に渡して、直に四人が大勢の中へ飛こんだら、先のやつはばらばらと少し跡へ引込だはづみに、にげだして、漸々浅草の雷門で三人一所になり、吉原へいったが、源兵衛がきづかいたから引もどして番場へいって飯をくはふと思っていったら、源兵衛は内へ先へ帰つて玄関で酒を呑で居た故、三人が安心した。 夫から源兵衛と又々一所に八幡の前へいってみたらば、たこ町の自身番へ大勢人が立て居るから、そこへいって聞たら、八幡で大喧嘩が有て、小揚の者をぶったが始まりで、小あげの者が二三十人、蔵前のしごと師が三十人で、相手をとらへむとしてさはいだが、とふとふ一人もおさへず、にがした。其上にこちらは十八人計、手負が出来た。今、外科がきづを縫て居る、といふから、四人ながら内へ帰って、おれは亀沢町へ帰ったが、あんなひどい事はなかったよ。 翌年正月、番場へ遊びにいったら、新太郎が忠次郎と庭で、剣術を遣って居たが、おれにも遣へと云故、忠次と遣ったが、ひどく出合頭に胴をきられた。其時は気が遠くなった。夫より二三度遣たが、一本もぶつ事がで出来からくやしかった。 夫から忠次に聞て団野へ弟子入にいった。先の師匠からやかましくいったが、構はず置た。夫から精を出して早く上手にならふと思って、外のことはかまはず稽古をしたが、翌年より伝受も二つ貰た。夫からあんまりたゝかれぬやうになつてからは、同流の稽古場へ毎日〳〵いったが、大勢が暴ってきて、小吉〳〵といふやうになつた。他流へむやみと遣ひにいったら、其時分はまだけん術が今のやうに、はやらぬから、師匠が他流試合をやかましくいった。他流は勝負をめったにはしないから、皆へたが多く有た故、おのれが十八の年、浅草の馬道生江政左衛門と云、一刀流の師匠が居たが、或時新太郎と忠次とおれと三人でいって、試合をいひ入たが早速に承知した故、稽古場へゆって、其弟子とおれと遣ったが、初めての事故、一生けん命になって遣ったが、向ふがへたでおれが勝た。夫から段々遣って、師匠と忠次に政左衛門が体当りをされて、後の戸へつき当られて、雨戸がはづれて、あほのけに倒たが、起る処をつゞけて腹を打れた。其日は夫きりで仕舞たが、始めに師匠が高まんをぬかしたがにくひから、帰りにはおれが玄関の名前の札を抜打にして持て帰った。夫から方々へ行、あばれた。 馬喰町の山口宗馬が処へ神尾。深津、高浜、おれ四人でいって試合をいひこんだら、上へ通して宗馬が高慢をぬかした故、試合をしやう、といったら、今晩は御免被下。重てこゐ、といった故、帰りがけに入口ののれんを高浜が刀で切さゐて、奥へほふりこんで帰った。 夫から同流の下谷あたり、浅草、本所共に他流試合をする者は、みんなおれが差図を受たから、二尺九寸の刀をさして、先生づらをしていたが、だん〳〵と井上伝兵衛先生が其頃は門人多く、おもだったやつら皆おれが配下同然になり、藤川鴫八郎門人、赤石郡司兵衛が弟子、団野のはいふに及ばず、きり従ひ、諸方へ他流に行たが、運よく、みなよかった。他流は、中興、先づおれがはじめだ。 翌年夏だが、遠州掛川在の、雨の宮大明神の神主、中村斎宮の息子が、江戸へ国をにげて来て、石川瀬兵次といふ剣術遣ひの弟子になったから、諸々をたづねているから、其時おれが世話をして弟子にしてやったら、瀬平次が三州吉田へ行時、其斎宮方へきて、息子の剣術の師、何の隼太といふやつと試合をしたが、手もなく隼太が石川に負けた。その時、石川が、まん心して、隼太をもゝへ乗て、鎗のすごきをしてみせた故に、名人だとおもって、江戸へあとを追てきたといったが、田舎者は馬鹿ものだ。其頃は石川先生の中にも、へただった。斎宮の息子は帯刀といふたが、だん〳〵出精して、目録になつて国へ帰た。 十八の年、又信州へいったが、其年は兄きが、きしょくがわるくって、榊木といふ村の見所場の、けん見をおれにさせたが、出役して、一番悪処の場へ棹を入て、取並の時、もみ一升二合五勺あったから、六合五勺の取並を云付たら、一同百姓が嬉しがった。 此月、陣屋元の郡代百姓の所へ、上州の仁田万次郎が近親、桜井某とか云家来がねだりにきて、けんくゎになり、刀を抜て一人百姓をきった。 夫より、さわぎになったが、大勢出て召捕とったが、二尺八寸計りの刀を真向にかざし、郡代の門をいるやつをきりおる故、役所より手代が二三人出て下知をしたが、こわがった。只わめく計りだから、兄がおれに、いっておさへろ、といふから、一さんに飛んでいったが、門と、そやつがいる所と、四尺計りで、はゐる事ができぬから、見ていたら、ゑたがいふは、私がとり様がある、といって、六尺棒を一本ぶつけたが、其者が二ツにきった刀を上る所へつけこんで組付たが、こしたからもゝへかゝりて切れた。 其時、おれが砂をつかんで面へ打つけたが、目に入てしか、うつぶせに伏たから、先刻のゑたが、きんをとって引すへた。夫より二三人ゑたが打かさなってしばった。それから陣屋のろうへ入たあとは上州の仁田と懸合になった。 きられたゑたは榊木の者だが、七人扶持、公儀より一生貰た。片輪にはなったが、つよゐやつらだっけ。 夫から、けん見に諸々へいった。其内江戸でおふくろが死だとしらせてきたから、御用を仕まって、江戸へ来る道で、信州の追分で、夕方、五分月代の野郎が、馬方のかげにはゐいて下にいたが、兄が見付て、おれに、とれ、といふから、かごの脇から十手を抜いて、かけ出したら、其野郎は一さんに朝間の山の方へ逃げおったから、とふ〳〵おっかけて近寄たら、二尺九寸の一本脇差をそりかへして、御役人様、御見のがし被下ませ、といったから、うぬ、なに、見のがす物だ、とそばへゆくと、其刀を抜おったが、引廻しをきて居たが、其すそへ小戻が引かりて、一尺計、抜おったが、おれが直にとびこんで、柄を持て中がへりをしたら、野郎も一所にころんで、おれの上になったが、後から平賀村の喜藤次といふ取締が来て、野郎の頭をもって引くりかへした故、おれも起上りて十手にて、つゝきちらした。夫からなはを打て、追分の旅宿へ引来た。 上田、小諸より追々、代官、郡奉行が出てきて、野郎を貰にきた。いったい、こいつは小諸の牢に二百日計居たが、或晩牢ぬけをして追分宿へきて、女郎やへ金をねだり、壱両とって帰る道だといった。音吉とて、子分が百人もあるばくち打だと、役人がはなした。夫から、大名へ渡すと首がないから、中の条の陣屋へやった。其後、そいつの刀を兄が呉たが、池田鬼神丸国重と云刀だつけ。二尺九寸五分あった。おれが差料にした。 夫から、うすゐ峠で、小諸の家老の若い者等が、休足所へきて、無礼をしたから、塩沢円蔵と云手代とおれと、その野郎をとらへて、向ふの家老のかごへぶつけてやった。 上州の安中でも、所の剣術遣ひだといったが、常蔵と云中間の足を、白鞘を抜て、ふいにきりにかゝつたから、其時もおれと二人で打のめしてしぼってやった。宿役人へ引渡して聞たら、酒乱だといった。 十一月初めに江戸へ帰った。夫からまた〳〵他流へあるきさわひだが、本所の割下水に、近藤弥之助と云剣術の師匠が居たが、夫が内弟子に小林隼太と云奴があったが、大のあばれ者で、本所ではみんながこはがった。或とき、小林が智恵をかって、津軽の家中に小野兼吉と云あばれ者が、おれの所へ他流をいひこんだ。其時は内に居た故、呼入て、兼吉へ逢たが、中西忠兵衛が弟子で、其はなしをして居ると、兼めが大そうな事計ぬかし、手前の刀をみせて、長ゐのを高まんをいひをるから、聞て居たら、十万石の内にて、この位の刀をさす者がない。私計だ、といふから、刀を取て見たら、相州物にて、二尺九寸、そこでおれのさし料を見せたが、平山先生より貰た三尺二寸の刀故、兼吉めが大きにひるみをったから、つけこんで高まんをいひ返してやった。 夫から、試合をしやう、といったら、なんと思ったか、今日は御免、とぬかしをる故、日限を約束して、兼吉の所へ行つもりにして、下谷連へいってやったら、四五十人計、集た故、兼吉方へ手紙を持せてやったら、たゞ今屋敷へ来る、とて返事はよこさず、待て居たら、近藤の弟子の小林めが肩衣なんど、き居って、おれの所へ来て、色々あつかひを入て、兼吉にわびをさせるから了簡しろ、と云故、急度、念をしたら、此後、兼吉がおまへ様を、かれ是いったら、私が首を献じます、と云からゆるしてやった故、本所はたいがい、おれの字になった。 此年、芝の片山前に居る湯屋が、向ふ町へ転宅をすることにて、仲間もめがして、山内の坊主が町奉行の榊原へ頼んでやるといって、金弐十両とったが、元よりうそ故に、其湯屋がほんとうにして、右の趣を奉行所へ願書にして出したら、奉行所でいふには、湯屋は樽屋三右衛門の懸りだから差越願ひだ、とて取上ぬ故、大きにこまった。中野清次郎といふ者がおれに頼だから、幸ひおれが従弟の女が樽屋へよめにいって居るから、其親父の正阿弥といふものは心易いから頼んでやろふ、といったら悦び、其の坊主を連て来たから、おれが正阿弥の所へいって、訳をだん〳〵咄して、夫より樽やへいってやったら、樽やが承知して、奉行所より願出を下て、惣方利がいをいって聞して、其湯やが向ふへ引越したが、嬉しがった。其礼に樽やへ三十両、正阿弥へ二十両、おれに四十両、呉た。其からは酒井左衛門の用人のめかけがもって居るといひをった。湯やは向ふへ普請をすると、八十両かぶが高くなる、と清次郎がはなした。 此年、又々兄と越後蒲原郡水原の陣屋へいった。六万八千、巡見したが面白かった。越後には支配所の内には大百姓が居る故、いろ〳〵珍らしき物も見た。反物、金をも、たんと貰てかへった。夫から江戸へ帰たが、近藤弥之助の内弟子、小林隼太が、男谷のほうへ替流して、りきんだが、あばれ者故に、みんながこはがって居るから、相弟子どもを馬鹿にしをる故に、おれにも咄があった故、隼太めを目に物見せんと思て居たが、久敷、風を引て寝て居るから、夫れなりにしておいた。或日、少し気分がいいから寒稽古に出たら、小林も来ていて、勝様、一本願たい、とぬかすから、見る通り、久しく不快で、今に月代もそらず居る位だが、せっ角の事だから、一ぽん遣ひましゃう、といって遣ったが、先、二本つゞけて勝たら、小林が組付たから、腰車に掛てなげてやると、あふのけにたをれたから、腹を足にておさへて、のどをついてやった。其時、小林が起上り、面をとっておれにいひをるには、侍を土足にかけて済かすまぬか、とぬかすから、是は貴公の言葉にも似ぬいひ事かな、最初の立相に、みじゅく故、差図をして呉ろ、と御申故、侍の組打は勝とかやうの物だと仕形をして見せたのだ、いひぶんはあるまい、といったら、御尤、一言もござりませぬ、といひをった。夫から、おれをやみ打にするとて、付をったが、時々油断を見ては夜道にて、すっぱ拔をして切をったが、時々羽織なぞ、少づゞきったが、きづはつけられた事はなかった。夫からいろ〳〵しをったが、おれも気を付て居た故に、或時、暮に親類に金をかりにいった時に、道の横町より小林が酒をくらった勢ひで、おれが通ると、いきなりではなの先へ刀を抜て、つき出た。昼だから往来の人も見て居る故、其時、おれがわざと懐手をして居て、白昼になまくらを抜てどふする、といったら、小林が、此刀を買ましたが、切れるか切れぬか見て呉ろ、といふから能みて、骨位はきれるだろふ、といったら、鞘へ納めて別れた。人が大勢、立留て見て居た。古今のめっぼふけい者だ。 十八の年に、身代を持て、兄の庭の内へ普請をして引移た。其時、兄から借金三百両計の証文と家作代を家見に呉た。親父よりは家ざいの道具を一通り貰たから、無借になって嬉しかった。夫からいろ〳〵の居候者が多く来おったから、幾らもおいたから、借金が出来たよ。 十九の年、正月稽古始に男谷の稽古で、東間陳助と平川右金吉と大喧嘩をして、互に刀を持て、けいこ場へ出てさわいだが、其時も、おれが引分てやう〳〵和睦させた。 此年より、諸方の剣術遣ひを、大勢子分のやうにして、諸国へ出したが、みんな、おれが弟子だといってあるく故、名が広くなって来た。夫から、本所中のいゝ頭をしているのらくら者を不残たいじして、みんながおれが差図にしたがった故、こわゐ者はなくなったが、夫には金もいるし、つき合がはったから、たいそう借金が出来た。 又、他流試合を商売のやうにして、毎晩喧嘩にみんなを連て歩行た。或とき平山孝蔵と云先生へもいって、いつも〳〵和漢の英雄の咄しを聞ては、みんなをしこなして居た。夫から色々馬鹿計して居たから、身上がわるくなって来て、借金がふへる計。仕方がないから、出来ないそうだんに、むやみに借金をして居たが、廿一の年には一文もなくって、しやうがなかったから、さし料の刀は、終や、久米右衛門といふ道具やより買た盛光の刀、四十一両で買た故、夫を売かと思ったが、夫も、をしいからよしたが、逢対に行にも、きたまゝになつたから、気休めに吉原へ行た。親が呉た刀やら、色々質に置て、相弟子へも金をかり、色々して、漸々、三両二分計、出来たを持て、其の晩は吉原へいって、翌日、車坂の井上の稽古場へ行、剣術の道具を一組かりて、直に東海道へかけ出した。 其日はむごくに歩行て、藤沢へ泊て、朝七ツ前に立て、小田原へ行て、先年世話になって居た内の喜平次を尋ていったが、喜平もこじきが侍にばけて来たものだから、初めはふしんした。喜平の内を出た亀だといったら、漸々思ひ出して、いろ〳〵酒などふるまったが、三百文ぬすんだ事をいひ出して、金を二分二朱やった外に、酒代を二朱出して、以前、船へ一所に乗った野郎共を呼で、酒を呑して、今は剣術遣ひになったことを咄して笑ったら、みんながきもをつぶして居た。今晩はぜひとも泊れ、といったが、江戸より追手がくるだらふと思たから、早々別れて、そこを立て、箱根へかゝった。喜平次と外三人計、三枚橋まで送て来たが、そこより返して、漸々関所へかゝったが、手形がないから、関所の椽がはへいって、剣術修業に出し由申、御関所を通して被下、といったら、手形を見せろ、といふから、そこで、おれがいふには、御覧の通り、江戸を歩行通りのなり故、手形は心づかず。けいこ先より、不計、思ひつひて、上方へ修業にのぼり候。雪踏をはき候まゝ、たび支度もいたさず参りし事故、相なるべくは御通し被下候様に、といったら、番頭らしきがいふには、御大法にて手形なき者は通さず。しかし御手前の仰の如く、御修業とあれば無余儀故、御通し可申、以来は御心得可被成、といった故、かたじけない、とて、夫から関所をこして、休んで居たら、後よりきた商人がいひをるには、今、私が御関所を通りましたが、おまへさまの噂をしてござったが、今通った侍は飛脚でもないが、はん中でもなし、なんだらふとて噂をして居ました、といふから、其筈だは、おれは殿様だから、といってやった。山中で日が暮てから宿引めが、泊れ、とてぬかしたが、とふ〳〵、がまんで三島までいったら、四里が間、五月二十九日の日だから、まくらがりでなんぎした。せったをぬいで腰へはさみ、漸々夜の九ツ時分、みしまへ来て、宿へかゝって戸をたゝき、泊て呉ろ、といったら、当宿は、にら山さまから御ふれで、ひとり旅は泊ぬ、といふから、問屋場へ奇て、おこして宿をたのんだら、そいつがいひをるには、問屋が公儀の御触れはやぶられぬ、差図はできぬ、ときめるまま、そこでおれがいふには、海道筋みしま宿にては水戸のはりまの守が家来はとめぬか、おれは御用の儀が有り、遠州雨の宮へ御きがんの使に行のだが、しかたがないから、是より引返して、道中奉行へ屋敷より掛合ふ故、夫迄は御用物は問屋へ預け参から大切にしろ、とて、稽古道具を障子ごしになげこんだ。そふすると、役人共がきもをつぶし、起て出をって、土に手を付をって、はりま様とは不存、不調法恐入た、とて色々あやまるから、図に乗て、荷物はあづけるから、急度、受取りをよこせ、といったら、困りをって、外に二三人も出て、はいつくばり、いかやうにも致しますから、まづ〳〵宿屋ゑへいって少しの内、休足して呉ろ、といふ柄、漸々、案内といったら脇本陣へ上ゲをって、段々不調法の訳をわびをり、飯を出したから、猶々やかましくいったら、役人が重ねて、当宿の宿役人が不残しくじるから、何分にも勘弁しろ、と云から腹がいた故、ゆるしてやった。そふすると酒肴をだして馳走しをった。其時、書付をよこせ、といったら、夫に因って、夫も出すまいといった故、又々引くり返してやったら、金を一両弐分出して、又々あやまりをった故、金が思ひよらず取れる故、済してやった。其内に夜が明かゝったから、寝ずに三島を立たら、道中かごを出したから、先の宿迄寝て行た。其筈だ。稽古道具へ、箱根を越し、水戸と云ふ小札を書て、さして置たものだからうまくいったのだ。おれが思ふには、是からは日本国を歩行て、何ぞあったら切死をしやうと覚悟して出たからは、なにもこはいことはなかった。 夫からだん〳〵行て、大井川が、九十六文、川になったから、問屋へ寄て、水戸の急ぎの御用だから早く通せ、といったら、早々、人足が出て、大切だ、はりま様だ、とぬかして、一人前、はらって、おれは、れん台でこし、荷物は人足が越たが、水かみに四人並んで水をよけて通ふしたが、心持がよかった。 夫から遠州の掛川の宿へ行たが、昔帯刀を世話したことを思ひ出したから、問屋へ行て、雨の森の神主、中村斎宮迄、水府の御祈願の事で行からかごを出せ、といふと、直にかごを出して呉たから、乗て森の町といふ秋葉海道のしゅくへ行た。宿でかご人足に聞たら、旦那は水戸の御使で中村さまへゆかしゃると云たら、一人かけだして行きをったが、程なく中むら親子が迎ひに出てきたから、おれがかごから顔を出したら、帯刀がきもをつぶして、どふしてきた、といひをるから、「内へいってくわしく咄そふ、とて、帯刀の座敷へ通りて、斎宮へも逢たが、江戸にて帯刀が世話になつたことを厚く礼をいひ居る。夫から江戸の様子をはなして、思ひだしたから逢ひにきた、といったら、親子が悦で、まづ〴〵ゆる〳〵と逗留しろ、とて、座敷を一間明て、不自由なく世話をして呉たから、近所の剣術遣ひへ遣ひに行やら、色々すきなことして遊んで居たが、其内弟子が四五人出来て、毎日〳〵けいこをして居たが、所詮こゝに長く居てもつまらぬ故、上方へゆかふと思ったら、長州萩のはん中に城一家馬と云修行者が来たから、試合をして、家馬が諸々歩行た所を書写して居る内、家馬が不快で六七日逗留をしたいと云から、泊って居る内はたゝれず、いろいろと支度をしたら、斎宮が或晩、色々異見をいって呉て、江戸へ帰れ、といふから、最早けっして江戸へはかへられず、此度で、二度まで内を出た故、夫は忝ないが聞ぬ、といったら、そんなら今暑いさかりだから、七月末までゐろ、といふ故、世話にもなったからふりきられも出来ぬから、向ふのいふ通りにしたら、悦で猶々しんせつにして呉た。 毎日〳〵外村の若ひ者がきて、けいこをして、その後では方々へ呼れていったが、きものは出来、金も少しは出来て、日々入用のものは通ひ帳が弟子よりよこしてあるから、只買て遣ふし、こまることもなく、そこより七里脇に向坂といふ所に、さき坂浅二郎と云が居るが、江戸車坂、井上伝兵衛の門人故、江戸にてけいこもしてやったもの故、そこへ度々行て泊て居たが、所の代官故に工面もいゝから、おれがことはいろ〳〵して呉、夫故にうかうかとして七月三日迄、帯刀の内に逗留して居たが、或日、江戸より石川瀬兵衛が吉田へくる序に、今日こゝへよるといふから、座敷のそうじをして居たら、おれが甥の新太郎が迎ひに来をったから、夫からしかたなしに逢たら、おまへの迎ひに外の者をやったら、切ちらして帰るまいと、相談の上わたしが来たから、是非とも江戸へ帰るにした。 翌日、斎宮方を立て、段々帰るうち、三島の宿で甥が気絶して大さはぎをやったが、気が付て、夫から通し籠駕で江戸へ帰ったが、親父も兄もなんにもいはぬ故、少し安心して内へいった。 よく日、兄が呼によこしたからいったら、いろ〳〵馳走をした。夕方、親父が隠宅から呼にきたからいったら、親父がいふには、おのれは度々不埓が有から、先、当分は、ひっ足して、始終の身の思案をしろ、しょせん、直には了簡は付物ではないから、一両年考て見て、身のをさまりをするがいゝ。兎角、仁は学問がなくてはならぬから、よく本でも見るがいゝ、といふから内へ帰ったら、座敷へ三畳の、をりを拵て置て、おれをぶちこんだ。それから色々工夫をして一月もたゝぬ内、をりの柱を二本ぬけるやうにして置たが、能々考た所が、みんなおれがわるいから起たことだ、と気がついたから、をりの中で手習を始めて、夫から色々、軍書本も毎日みた。友達が尋て来るから、をりのそばへ呼で、世間の事を聞て頼しんで居たら、二十一の秋から二十四の冬迄、をりの中へはいって居たが、苦しかった。 其内、親父より度々、書取にしていけんをいって呉た。其時、隠居をして、息子が三ツになるから、家督をやりたい、といったら、それは悪い了簡だ、是まで種々の不埒があったから、一度は御奉公でもして、世間の人口をもふさぎ、養家へも孝養をもして、其上にて、すきにしろ、と親父がいってよこしたから、尤のことだ、と、はじめて気が付た故、出勤がしたいと兄へいったら、手前が手段で、勤道具、衣服も出来るなら勝手にしろ、おれはいかひこと手前にはいり上た故、今度は構はぬ、といった故、其時はおれが、ほふの下に、はれ物が出て居て寝て居たが、少も苦労をかけまい、と云書付を出して、をりを出で、翌日、拝領屋敷へ行て、家主へ談じて、金子二十両かり出して、色々入用のものを残らず拵て、十日めに出勤した。 夫から毎日〳〵上下をきて、諸々のけんかを頼んであるいたが、其時、頭が大久保上野介といひしが、赤坂喰違外だが、毎日毎日行て御番入をせめた。それから以前よりいろ〳〵わるいことをした事を、不残、書取て、只今は改心したから見出して呉ろ、といったら、取扱が来て、御支配よりおんみつをもって世間を聞糺から、其心得にていろ、といふから、待て居たら、頭が或ときいふには、配下の者は何事もかくすが、御自分は不残行路を申聞た故、所々、聞合た所が、いわれたよりは事大きい、しかし改心して満足だ、是非見立やるべし、精勤しろ、といふから、出精して、あいにはけいこをして居たが、度々書上にもなったが、兔角、心願ができぬからくやしかった。 此年、親父や兄へいひ立て、外宅をして、割下水、天野右京といった人の地面をかりて、今迄の家を引たが、其時居所に困たから、天野の二階をかりて居た内に、俄に右京が大病にて死んだ故、色々と世話をしたが、其内に普請も出来、新宅へ移り居ると、右京方にては跡取りが二歳故、本家の天野岩蔵といふ仁が、久来の意趣にて、家督願ひの時、六ツかしくいひ出して、右京の家をつぶさんとしたから、いろ〳〵もめて片付ず、其時おれが本家とは心あひから色々なだめ、とふ〳〵家督にさせた故、天野の親類が悦で、猶々跡のことを頼みをったから、世話をして居る内、右京のおふくろが不行跡で、やたらに男ぐるひをして、ふだん、そうどふして困るから、折角、普請をしたが、其家を売て外へこそふと思って、右京の子、金次郎が頭向へいひ出したら、その取扱がいふには、今おまへにゆかれると跡は乱みゃくになるから、一両年居て呉ろ、といふから居たが、人のことはおさめても、おれが内がをさまらぬから困って居たら、或老人がをしへて呉たが、世の中は恩を怨で返すが世間人の習ひだが、おまへは是から怨を恩で返して見ろ、といったからだ。其通りにしたら、追々、内も治て、やかましいばゝア殿も段々おれを能して呉るし、世間の人も用ひて呉るから、夫から人の出来ぬ六かしい相談事、かけ合、其外、何事に限らず、手前の事のやうに思てしたが、しまひには、おれに、はむかった奴らが、段々したがって来て、はい〳〵、といひ居る。是も、かの老人がたまものとうれしく、同流の剣術遣いが、ふらち、又は遣込して、とほふにくれて居る者は、夫々、少づゝ金を持せて、諸方へ遣し、身の安全をしてやったら、幾人か数もしれず、其後おれが諸国へいった時、いかひ事、とくになった事がある。歩行た所で、おれが名をしって居て、世話をしたっけ。 天野のが地面に居る内も、とかく地主のごけが事でむづかしいこと計がいって、こまったから、三年めに同町の出口鉄五郎が地面へ家作が有から引越たが、此鉄五郎が惣領は、元より心易かったが、いろ〳〵内をかぶつた時に、世話をやいてやった故、其ばゝア様が、是非地面へこひ、といふから行た。此年、勤の外には諸道具の売買をして内職にしたが、始は、そんばかりして居る内、段々なれて来て、金をとった。始は一月半ばかりの内に五六十両損をしたが、毎晩〳〵道具やの市に出たから、随分、徳が付た。なにしろ早く御勤入をしやうと思った故、方々かせいであるひて居た内に、男谷の親父がしんだから、がっかりとして、なにもいやになった。 しかも、そっ中風とかで、一日の内、死だから、其時はおれは真崎いなりへ、出稽古をしてやりに行て居たから、内の子侍が迎ひにきたから、一さんにかけて親父の所へいったが、最早ことが切た。それからいろ〳〵世話をして、翌日帰へった。毎日、其事にかゝって居た。息子が五ツの時だ。夫から忌命があいたからまた〳〵かせいだ。 此年十月、本所猿江に、摩利支天の神主に吉田兵庫と云者があったが、友達が大勢、此弟子になって神道をした。おれにも弟子になれといふから、行て心易くなったら、兵庫がいふには、勝様は世間を広くなさるから、私の社へ亥の日講といふを拵て被下ませ、とて頼だから、一ケ月三文三合の加入をする人を拵たが、剣術遣ひはいふに及ず、町人百姓迄いれたら、二三ケ月の中に百五六十人計、出来たから、名前を持て兵庫にやったら、悦で受取た。夫から一年半かゝったら五六百人になった。全くおれが御陰だから、当年は十月亥の日に神前にて十二座并跡でおどりを催して、神いさめをしたい、とて頼むから、先づ構中の世話人を三十八人拵へた。諸々へ触て、当日参詣をして呉ろ、といってやり、其日には、皆々、見聞のためだから世話人は不残御紋服を来て呉ろ、といふから、其通りにしてやったら、兵庫はしゃうそくをきて居た。段々、参詣も多く、初めてこのやうなにぎやかな事はないとて、前町へはいろ〳〵商人が出て居た。夫から講中が、段々、来ると、酒肴で跡で膳を出して振まってゐると、兵庫めがいつか酒に酔てゐるをって、西の久保で百万石ももったつもをしをり、おれが友達の宮川鉄次郎と云に太平楽をぬかして、こき遣ふ故、おれがおこってやかましくいったら、不法の挨拶をしをるゆゑ、中途でおれが友達をみんな連て帰った。そうすると外の者があつかひをいってあやまるから、おれがいふには、ひつきょうは此構中はおれが骨折故出来たを、難有もおもはなひとみえて、太平楽をぬかすは、ものをしらぬやつだから、構中をばぬけるからそふいって呉ろ、といったら、大頭伊兵衛、橋本庄兵衛、最上幾五郎と云友達が、尤だが、折角出来たのに、おまへが断ると皆々断るゆえ、兵庫、今更、後悔してあやまるから、ゆるしてやれ、と種々いふから、そんなら以来は御旗本様へ対し慮外致すまいと云書付を出せ、といったら、どの様にもさせるから、と云故、宮川、并深津金次郎といふ者と一所に兵庫の所へいった。そうすると大頭伊兵衛が道迄、迎にきていふにには、おまへがお入には兵庫は、かり衣をきて門まで御迎に出る。それから座敷へ出て、昨日の不調法をわびさせるから、挨拶をしてやれ、といふから、聞届た、といへ、たゞ、それからは講中が不残出て、馳走するから、跡では決して右の咄しはして呉るな、といふから、おれがいふには、不残、承知したが、外の者へよくよく口留をしなさい、若しも、昨日の咄しをしたやつが有、其時は世話人がうそつきになるから、片はしより切て仕舞つもりで来たから、よくいひきかして置なさるがいい、とていじょうをこめて帰した。間もなく兵庫が宅へいったら、同人が迎に出るし、世話人も不残、玄関迄、でたから、座敷の正面へ通ったら、刀かけに、おれが刀をかけて、皆々、座に付た。 兵庫も出て、おれに、昨日は酒興上、不礼の段々恐入たり。以来つゝしみ可申由、平伏していひをるから、おれがいふには、足下は裏だな神主なる故、何事もしらぬと見える。御籏本へ対して不礼、言語同断故、咎めしなり。講中、漸々広くならんとする時に、最早心におごりを生じた故、右の如く不礼有り。随分慎て取続く様に、とて、夫から一同がおれにいろ〳〵機げんを取てもてなしたが、酒がきらひ故に、人々酔てさはぐを見てゐたら、兵庫の甥に大竹源太郎と云仁が有が、おれが裏だな神主だといったを聞をって腹を立て、きのふのしまつを、宮川をだまして聞をり、小吉はいらぬ世話をやく、宮川のことで、伯父に大勢の中で、はぢをかゝしをった、是からはおれが相手だ、さあ小吉でろ、といって、其身、御紋服をきながら、はち巻をして、片はだぬぎて、座敷へ来る故に、しらぬ顔して居たら、直におれが向へ立て、じたばたしをるから、おれがいふには、大竹は気が違ふたそふだ、雑人の喧嘩を見たやうに、はち巻とはなんのことだ。武士はぶしらしくするがいゝ、此方は侍だから中間小者のやうなことはきらいだ、といったら、ふとひやつだ、とて、吸物ぜんを打付たから、おれがそばの刀を取て立上り、契約を違へて、たわごとをぬかすは、兵庫が行届ざるからだ。甥が手向ふからは云合たにちがひないから、のぞみ通り相手になってやらふ、とていったら、大竹が、くそを食へ、とぬかしたから、大竹より先へつきはなして呉やうと思ひ、おっかけたら、みんなが、にげ出した。 夫から兵庫が勝手の方、大竹もにげたから、おひ行くと、折わるく兵庫が、なん戸へおれがはいったから、大勢にて杉戸を入て、おさへて居から、出ることが出きぬ。大竹は恐て丸腰で、うぬが屋敷の伊予殿橋まで帰った。夫から大勢が杉戸口へ来て色々といふから許してやったら、大竹と和じゅくして呉、といひをるから、大竹が不礼の事をとがめたし、色々あつかひがはいって、特には大竹がおふくろがないてわびたから、伊よ橋へ呼にやって、源太郎が来たから、段々、酒酔の上、恐入たとて、殊更相支配ゆゑに、何卒、御支配へは、はなしおして呉るな、とて和ぼくをした。 それから酒がまた出て、大竹が云ふには、一ばい呑め、といふから、酒は一向、呑ぬ、といったら、夫はまだ打とけぬからだ、とぬかす故、盃をやう〳〵取たら、汲物わんで呑、とみんなが云。かんしゃくにさはったから、汲物わんで、一杯、呑だら、大勢よって、今一ぱい、とぬかす。夫からつゞけて、十三杯、呑だ。後のやつらは酔ていろ〳〵不作法をしたから、おれは其席では少しも間違たことはしなかった。 兵庫が籠駕を出したから乗て、橋本庄右衛門が林町の内迄来たが、それからは何もしらなかった。内へ帰っても三日ほどはのどがはれて、飯がくへなかった。翌日みんなが尋て来て、兵庫が内の様子をいろ〳〵はなした。其時、橋本と深津は後へ残て居て、以来は親類同様にしてくれ、といふから、両人が起証文を壱通づゝよこした。夫から猶々、本所中がしたがったよ。兵庫が、むねがわるいから講中も断てやった。其時おれが加入した分は、不残、断た故、段々すくなくなってつぶれたとよ。 (つづく)
https://w.atwiki.jp/kt108stars/pages/6067.html
44 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/07/18(月) 20 04 48.69 ID ??? 何という事でしょう…見事なGMの語りによって 地蔵ばかりのつまらないセッションが、聞くも見事な 吟遊シナリオとして蘇ったのです! 46 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/07/18(月) 20 30 10.83 ID ??? 吟遊×地蔵は平和な卓になるでしょう 49 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/07/18(月) 21 04 24.46 ID ??? 吟遊地蔵で地蔵みんながとても楽しかったに○付ける卓知ってるよ 吟遊はちょっと泣きそうだから面子代えてやりたいんだけど一番良く回るのよね… 50 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/07/18(月) 21 16 59.54 ID ??? 49 図書館のこども絵本朗読会を思い出した お話を語って聞かせてあげるお兄さんと、静かに聞き入る大きな子供 TRPGで無いこと以外何の問題もないんだがなぁ 51 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/07/18(月) 21 48 47.80 ID ??? 吟遊ってそういう状況だと嬉々として自分の設定語りはじめるもんだと思ってた 52 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/07/18(月) 21 53 48.16 ID ??? 流石に何を言っても俯いてダイス降るだけの奴ら相手にしたらは続かないんじゃね そいつの吟遊レベルが低いだけかも知れないけど 53 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/07/18(月) 22 39 14.17 ID ??? 49 よかった、困ったちゃんはいなかったんだ スレ278