約 14,602 件
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/442.html
南京大虐殺の研究 晩聲社1992 もくじ 上海戦と南京進撃戦-南京大虐殺の序章 江口圭 一、日中戦争の開始 二、上海戦と南京戦 三、南京進撃 四、大虐殺の序章 五、『南京戦史』批判 脚注 上海戦と南京進撃戦-南京大虐殺の序章 江口圭 一、日中戦争の開始 南京戦と南京大虐殺は上海戦(第二次上海事変)と密接に関連している。上海戦の問題を抜きにして、南京戦・南京大虐殺を論ずることはできない。そして上海戦を考察するためには、まず日中戦争そのものがどのようにして起こされたかを明らかにする必要がある。 日中戦争は一九三七(昭和一ニ)年七月七日の蘆溝橋事件を発端として発生した。盧溝橋事件そのものは偶発的な衝突であって、満州事変の発端となった柳条湖事件のように意図的.計画的に仕組まれたものではない(1)。現地では七月一一日になって一応の停戦協定が結ばれた。ところが同じ一一日に、近衛文麿内閣は「重大決意」のもとに華北への派兵を決定し、事態を「北支事変」と命名した。事変とは宣戦布告をともなわない戦争状態のことである。 柳条湖事件の際は現地軍が謀略によって強引に戦争を仕掛けたのにたいして、中央政府は一応なりと事態不拡大の方針をとったのであるが、蘆溝橋事件では現地での停戦にもかかわらず、中央 12 政府が事態の拡大を招かざるをえないような積極的な対応をしたのである。これは、日本の戦争指導者が盧溝橋事件を好機として中国を一撃のもとに屈服させ、かねて追求してきた華北五省―河北・山東・山西・チャハル・綏遠―を日本の支配下に取り込むという目的を達成しようとしたからである。 一九三三(昭和八)年五月の塘沽(タンクー)停戦協定によって、柳条湖事件以来の軍事行動は一応停止されたが、それは日本の膨張政策の停止を意味したのではなかった。塘沽停戦協定は華北分離工作という新たな膨張政策の第一歩でもあった(2)。日本は満州事変と国際連盟脱退によって列強との緊張を強め、「一九三五、六年の危機」が声高く叫ばれるようになったが、これに対処するためには「満州国」の育成とともに、華北を国民政府の支配下から分離し、日本の支配下に編入して、いわば「華北国」「蒙古国」化することが必要であるとされた。 華北分離・支配の目的は、軍事的・政治的には「満州国」の西側の安全を確保するとともに対ソ戦争に有利な地歩を築き、またソ連・外モンゴル・中国共産党――中共軍(紅軍)は三三年一〇月以降の第五次掃共戦によって華中の根拠地を失ない、三四年一〇月長征をはじめ、三五年一〇月陝西省北部に到達し、新根拠地とした――の連携を分断することにあり、これは「赤化防止」とか「防共」とかと称された。経済的には国家総力戦を遂行するうえで不可欠な鉄・石炭などについて、「満州国」のみでは充足させることができず、またアメリカ・イギリスからの輸入を成り立たせるべき日本の輸出がブロック経済の壁に阻まれだしたため、華北の豊富な資源と人口欄密な市場を独占的に確保しようというのが華北分離・支配の目的であった。 13 すでに三三年九月参謀本部は華北要域の軍事占領に備えて『支那占領地統治綱領案」と題する詳細な文書をまとめ・支那駐屯軍も三四年三月「北支那占領地統治計画」を作成していた(3)。陸軍の依頼で満鉄は華北の経済調査・経済計画を推進した。そして三五年六月、支那駐屯軍と関東軍はあいついで行動をおこし、梅津-何応欽協定、土肥原-秦徳純協定によって、河北省東部とチャハル省東辺部を事実上「満州国」に編入してしまった。冀東特殊貿易と称する密貿易によって、日本商品が華北から華中にまで氾濫した。さらに三六年一一月、関東軍は内モンゴルの傀儡部隊をけしかけて、綏遠省に侵攻させる綏遠事件をおこした。 しかし、このような日本の膨張政策は中国に深刻な民族的危機感を呼びおこさずにはおかなかった。紅軍が長征途上にあった三五年八月、中共は「抗日救国のために全同胞に告げる書(4)」いわゆる八一宣言を発表し「国家・民族の滅亡とい大過が目前に迫つている」として、内戦停止・一致抗日を呼びかけた。三五年末の一二九運動は抗日救国運動の出発点となり三六年綏遠事件をへて、一二月の西安事件によって、国共内戦から第二次国共合作=抗日民族統一戦線結成への大転換が進行した。 こうした中国の民族的低抗に直面して、日本の華北分離工作が行き詰り状態になっていたときに、蘆溝橋事件が突発したのである。事件は、日本の戦争指導者にとって、中国の抗日を粉砕し、年来の華北分離・支配の目的を達成する絶好の機会とされた。 日本の戦争指導者の一部には、中国での武力発動に慎重な者もいた。その代表は参謀本部第一(作戦)部長石原莞爾少将である。石原は満州事変の首謀者であるが、三五年八月参謀本部作戦課長 14 に就任してからは、対ソ戦争準備を完成することが最急務であるとし、また中国の抗日の成長をそれなりに認識する立場から、当面は中国との戦争を回避しなげればならないと判断していた。このような石原の判断もあって、三七年四月林銑十郎内閣が決定した「北支指導方策」は、従来の「北支分治」という方針を取り下げ、「経済工作の遂行に主力を注ぐものとす」としていた(5)。盧溝橋事件をめぐって、石原を中心とする軍中央のいわゆる不拡大派は最初は武力発動に消極的な態度を示した。 しかし、その石原も華北を防共・資源・市場のために日本の支配下に取り込むこと自体に反対していたのではない。林内閣の「北支指導方策」にしても、華北を「実質上確固たる防共親日満の地帯たらしめ併せて国防資源の獲得並に交通施設の拡充に資」すという華北にたいする根本目的そのものはなんら変更しておらず、露骨な「北支分治」方策を「経済工作」にかえることで、国民政府に「実質上北支の特殊的地位を確認」させるというものであった。石原が第一部長心得であった三七年一月の参謀本部「陸軍省に対し対支政策に関する意志表示」は、中国にたいして「互助共栄を目的とする経済的文化的工作に主力をそそぎ、其の統一運動に対しては公正なる態度を以て臨み北支分治工作は行わず」としつつ、これでも「日支関係調整せられず更に悪化し真に己むを得ざるに立到るが如き場合は、十分隠忍したる後、徹底的痛撃を与ふる」としていた(6)。 また不拡大派の参謀本部戦争指導課長河辺虎四郎大佐は、「やる以上は南京をとる考でやらなくちゃならぬ」として拡大派の姑息な用兵を批判し(7)、戦争指導課の案として一五個師団同時動員・作戦期間約半年・戦費五五億円という大用兵を構想していた。 15 不拡大派といっても、武力発動に原理的に反対していたわけではなく、単に相対的に慎重であったというのにすぎない。したがって、現地から国民政府直系の中央軍が大挙して北上中であるという誇大な情報が伝えられ、また皮肉にも石原莞爾自身が助長してきた下剋上の風潮によって、血気盛んな下からの突きあげをくらうと、たまたま参謀総長が皇族(閑院宮載仁親王元帥)で、しかも参謀次長今井清中将・第二(情報)部長渡久雄中将がいずれも病床にあったため、事実上の統帥の最高責任者の立場におかれていた石原は、持論を維持することができず、不拡大派の慎重論は拡大派の一撃論によってたちまち押し切られてしまった。 偶発的衝突を全面戦争へ導いた日本陸軍の軍事思想は、中国の抗日の力量をみくびった一撃論であった。華北を日本の支配下に編入しようという欲望をつのらせていたからといって、それにふさわしい戦争計画が準備されていたわけではない。陸軍は、前述したような華北占領地統治計画に対応する華北での局地限定的な作戦計画は準備していたが、「華北でひとたび軍事力を行使すれぼ、戦争を局地限定にとどめることは不可能であり、全面戦争を必然化するものであるという戦略的認識が決定的に不足していた。その欠陥が何に由来するかといえば、それは中国抗日ナシヨナリズムの真の力にたいするまったくの認識不足にほかならない(8)」。 河辺虎四郎はのちに回想して、「交渉が纏まらぬとなっても三箇師団か四箇師団を現地に出して一撃を喰はして手を挙げさせる、そうしてぱっと戈を収めて北支を我が意の如くする…多少長びくとしても一部の兵力を北支に留めて置けぽ大体北支から内蒙は我が思うようになり、他へ飛火しないで済む」という判断のもとに、華北への派兵が決定されたと述べている。また参謀本部作戦班 16 員であった西村敏雄(当時少佐)は、「当時参謀本部の誰人と難も今日(昭和)十二、十三年の如き大作戦を導く事を希望した者はなく、又斯様な大作戦になる事を怖れ予想した人もなかった---多くの人は斯様な大作戦迄進展しない以前にある限界に達すれば支那側が屈服するものであらうと漠然たる想像に支配されて居った」と回想している(10)。 しかし大作戦が予定されておらず、大戦争が予期されていなかったからといって、この戦争の侵略性がなんら薄められるわけではない。華北を分離・支配したいという欲望をつのらせながら、中国を軽悔していたことから、せいぜい華北での局地限定戦争でけりをつけることができると、たかをくくり、安易に武力を発動し、予想外に強固な中国の低抗に直面して、ずるずると深みにはまっていったのである。 日中戦争は、本来は防共・資源・市場のために華北制圧をめざして遂行された武力侵略戦争であった。その戦争相手が満州事変段階とは隔絶して、断固として民族的低抗に起ちあがった中国であったこと、それにもかかわらず一撃で片をつけることができると思いあがり、安直に武力を行使したことが、戦争の全面化をもたらしたのであった。 17
https://w.atwiki.jp/gogodragon/pages/88.html
大東亞帝國 大東亞帝國(だいとうあ ていこく)とは、1932年に満洲に於いて建国され、今日に至るまで中華及びその周縁地域である東亞一帯を支配している統一国家。 首都は大京(ハルビン) 満州事変に於いて、旧日本軍の満洲駐留軍である関東軍が旧清王朝の皇帝である溥儀を元首として擁立し建設された満洲國、後の満洲帝國を始祖とし、日本降伏後、関東軍が指揮下から外れると、関東軍は満州国を日本とは異なるものと発表し、引き揚げ令を拒否。満洲帝國を統治する関東軍は、その後1945年のソ連侵攻から満洲を防衛し、国共内戦に於ける国民党側を支援し、中華一帯を支配するまでに発展。 ソ連への逆侵攻によって沿海州を獲得する(アムール講和条約)。50年代以降になると、余力を以て東亜に於ける覇権主義を唱えると越南侵攻、西蔵侵攻など侵略を繰り返し、かつて清王朝が最盛期に権勢を振るった国土領域を回復した。此の一連の動きの中で、蒋介石率いる国民党は関東軍による大東亜新秩序建設に協力する形となり、政府を南京から大京(ハルビン)へと遷した。 1963年には、中国奥地に潜む中共工作員完全駆逐を名目とし、討伐軍を派遣し、ウズベキスタン、タジキスタン、キルギス、トルクメニスタンなど中央アジア諸国を屈服させ、朝貢関係を締結する。 1975年、蒋介石が死去し、国民党は解体。関東軍の首謀たる東条英機大元帥が元首に就任し、対外声明に於ける「大東亞共榮の精神」を発表した。米英との講和、中共工作員の完全駆逐により、国家体制を揺るぎ無いものにすると、1979年(箱庭暦6期)に建国を正式に宣言し、国際連盟への加盟申請を行った。 ※国民党は1989年に再結成するも、翌年のソ連崩壊に伴い、満州國立憲帝政党と合体し、大東亞立憲帝政党に組み込まれることとなった。 国家情報 東亜地図 国名 (漢字):大東亞帝國 (英字):Chinese empire 略称:東亞 国旗:180px-China_Qing_Dynasty_Flag_1889.svg.png (龍は中国古来より崇められる架空の動物) 元首:東条英機大元帥 政体:軍国主義,帝国主義,ファシズム 経済:封建社会経済 人口:13億4千万人 首都:大京(ハルビン) 首都人口:503万人 国土面積:約1500万平方㎞ 領域:満洲,蒙古,沿海州,中華大陸(華北,華中,華南,西蔵,青梅,ウイグル),仏印半島(越南,泰,ビルマ) 主要民族:中華民族(漢民族,満州族,その他),日本民族,朝鮮民族,蒙古民族,白色ロシア系民族,蝦夷人,泰・ビルマ系人,越南人 宗教:神教,儒教,ロシア正教,キリスト教(カトリック,プロテスタント),ユダヤ教,大乗仏教,イスラム教,ヒンズー教,その他土着宗教 公用語:中国語,日本語 公式通貨:元 政権 軍人の最高責任者たる東条英機大元帥を内閣(行政府)の長とする内閣。また其れを構成する閣僚全てに現役軍人が任命されている。 東条英機大元帥は、絶大なる軍の統帥権(また軍人からの人望も厚い)を有していた為、軍大臣への兼任が望ましいとのことで兼任している。 軍事政権と揶揄される様な軍人のみの入閣に限った東条内閣だが、救貧法の提出、採決など貧民層にも救済の手を差し伸べているなど、社会福祉充実にも意欲がある。 閣僚一覧 内閣総理大臣:東条英機(大元帥) 陸軍大臣:上の者による兼任 海軍大臣:同上 空軍大臣:同上 外務大臣:陸奥宗光(陸軍大将) 逓信大臣:榎本武揚(海軍中将) 内務大臣:山県有朋(陸軍大将) 文部大臣:房方芦朗(陸軍中将) 農水商大臣:土方三造(陸軍少将) 司法大臣:来栖茂昌(空軍大佐) 大蔵大臣:田端辰郎(空軍中佐) 警視庁警視総監:高橋是清(陸軍大将) 帝國統治評議会 民主主義の実践と称して議会の設立が行われた。これを帝國統治評議会と称する。また衆議院、貴族院の二院制であり、衆議院決議が貴族院決議を優越する。 中国国民党と満州國立憲帝政党が合体し結党されたのが、大東亞立憲帝政党である。 大東亞立憲帝政党は立憲帝政党と改称し、議会の第一党与党に成長すると、他党を排除する一党優位制による議会支配体制を確立し、以来、立憲帝政党の議席の寡占状態が続いている。 また選挙も制限選挙の為、貴族、富裕市民や有力地権者以外は投票できない他、性差による差別も相俟って成年25歳以上の男子且つ一万元納税しなければ投票できない。 一般市民からの意見反映は不可能に近い。 地方行政区分 都藩制(とぱん せい)による地方分権体制。藩は国より行政運営の一部を委譲され、地方自治を行ふ。藩は個別に議会、裁判所を有する。但し、国の立法権、司法権により制限される。また藩は藩主により治められ、藩主及び複数の藩士の合議によつて藩政が施される。藩は藩の為の藩兵を持つ。藩兵は自主防衛に限らず、中央による呼びかけ、すなわち諸藩に対する号令によつて集結され、兵力となる。藩兵は士族のみが成れる特権階級であり、庶民は憲法に定むる徴兵の義務に基づき、国民軍として徴兵される。 一方の大京には、帝都(首都)と言ふ名に足る地位を与へ、都政は都庁が施し、都議会が都の条例を定む。都は藩と異なり、司法権は有さない。都の条例に反する行為は、都議会によつて審議され、都庁による行政指導と言ふ形で罰する。 大京都 満州藩:大連、長春、瀋陽、撫順 華北藩:北京、天津、石家荘、太原 華中藩:南京、上海、洛陽、武漢 山東藩:青島、済南 華西藩:西京、烏魯木斉、西安、蘭州、西寧 華南藩:香港、澳門、海口、成都、重慶、寧波 西蔵藩:拉薩 越南藩:トンキン、ホーチミン 沿海藩:ウラジオストック、バハロフスク 蒙古藩:ウランバートル 南部藩:バンコク、ヤンゴン 身分制度 我が国は封建的な身分社会が根付いており、身分制度を法律化している。 また身分は世襲するものである。 華族と呼ばれるものは、かつて東亞諸国(現在の諸藩)に於いて王族又は首長の座にあった者たち(その者たちは藩主に任命される)及び関東軍エリート将校。無論、大元帥及び家族全員の階級も華族である。 士族と呼ばれるものは、東亞諸国(現在の諸藩)に於いて有力な軍閥を指揮していたもの、その従者及び関東軍に所属した大日本帝國の士族である。 あとは平民で構成される。 各階級の特徴 華族は国民軍への徴兵を免れる特権を有し、帝國統治評議会の議会選挙に於ける納税義務は無い。 士族は藩兵に志願する特権を有し(藩兵への志願者は国民軍への徴兵を免除される)、名声を上げたものは藩士にもなれる。藩主は世襲。また士族は華族同様に帝國統治評議会の議員選挙に於ける納税義務は無い。 平民には徴兵の他、徴農も課される。また議員選挙時にも納税義務が生じる。 外交 我が国は隣国日本との対等条約を締結した。(日亜友好に関する条約) だが、中が思想が抜けきらず、中華大陸周縁諸国に対する卑下する見方は不変である。 国民軍 我が帝國では徴兵制により国民軍を組織し、18歳から5年間、入隊し訓練を重ねる。 藩兵とは異なり、先鋭部隊は求めない。但し優秀なる者は志願があれば先鋭部隊に抜擢される。 また優秀なる者にはそれだけでなく、軍人退役後、軍需産業企業への優先的就職や、官僚入りも約束される。 総兵力:208万 各兵力 (陸軍兵力):100万 (海軍兵力):80万 (空軍兵力):28万 潜在的に予備隊が存在するが具体的兵力は機密。 陸軍編成表 大東亞総軍 ∟満州軍団(第一) ∟大京都兵団 ∟長春兵団 ∟大連兵団 ∟瀋陽兵団 ∟撫順兵団 ∟華北軍団(第二) ∟北京兵団 ∟天津兵団 ∟太原兵団 ∟石家荘兵団 ∟華中軍団(第三) ∟南京兵団 ∟上海兵団 ∟武漢兵団 ∟洛陽兵団 ∟山東軍団(第四) ∟青島兵団 ∟済南兵団 ∟華南軍団(第五) ∟香港兵団 ∟澳門兵団 ∟重慶兵団 ∟成都兵団 ∟蒙古軍団(第六) ∟沿州軍団(第七) ∟西蔵軍団(第八) ∟越軍団(第九) ∟泰軍団(第十) ∟毘軍団(第十一) 海軍編成表 大東亞海軍 ∟黄海艦隊 ∟東中国海艦隊 ∟南中国艦隊 ∟印洋艦隊 大東亞共榮憲章 憲法に相当し、国家の標を示す最重要の法である。1982年に制定された此の憲章には、未だ封建的側面が色濃く残る。 前文 我ら東亞の国民は、共に集ゐて、共に手を取り、共に繁榮を齎さうと決意し、確固たる結束の下に東亜諸国は一つの国と成ることを此処に宣言する。また我らは東亞共榮の精神に基づき、相互平等を勝ちとり、相互協力を行ひ、そして圧殺を試みやうとする国家からの侵略から防衛しやうとするものであつて、怠らぬやうに努めるものであり、連携によつて、解決を図ることを誓ふ。我らはいにしえの国家として威厳を深め、名誉ある国際社会一員として師範を示すべきであり、平和社会の到来を確信し、その実践を行ふことを決し、此処に国際連盟への参加と常任理事への立候補を行ふ。かうした努力はきっと実を結び還元さると信じ、恒久的努力を惜しまぬことを誓ふ。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/307.html
{{中華圏の人物 | 名前=宋美齢 | 画像= | 画像の説明= | 出生=1897年3月5日(諸説あり) | 死去=2003年10月23日 | 出身地=Template QIN1890?、上海 | 職業=中国国民党中央委員会委員中国国民党航空委員会秘書長 | 簡体字=宋美龄 | 繁体字=宋美齡 | ピン音=Sòng Měilíng | 注音= | 和名=そう びれい | 発音= | ラテン字=Sòng Měilíng | 英語名=Madame Chiang Kai-shek }} 宋美齢(そう びれい、簡体字:Template lang?、繁体字:Template lang?、ピンイン Template lang?、1897年3月5日(1896年、1901年3月5日など諸説あり)- 2003年10月23日)は、中華民国の指導者、蒋介石の妻。欧米ではマダム蒋介石/Madame Chiang Kai-shekと呼ばれた。 略歴 客家の宋嘉樹の三女(3男3女の4番目)として清国の上海に生まれる(生年には諸説あり) 1908年:アメリカに留学 1917年:アメリカのウェルズリー大学卒業 1927年:蒋介石と結婚 1930年:国民党中央委員会委員就任 1937年:国民党航空委員会秘書長就任 1943年:カイロ会談に同席 1949年:共産党との内戦に敗れた蒋介石とともに台湾島に遷都する 1975年:蒋介石が死去。夫の死去後、アメリカに移住 1995年:生涯で最後の帰国を行う 2003年:10月23日、ニューヨークの自宅で死去(106歳)。 プロフィール 上流階級出身 1897年に清の上海で生まれた(海南との説もある)。父は孫文の支援者として知られる、清国有数の財閥である浙江財閥の創始者でキリスト教徒の宋嘉樹。姉の宋靄齢は孔祥熙の妻で、宋慶齢は孫文の妻であり、この2人と共に「宋氏(家)三姉妹」としても有名となった。 9歳のときにアメリカに留学し、その後マサチューセッツ州にある名門女子大学のウェルズリー大学に入学し、1917年に首席で卒業した。この時に身につけた流暢な英語が、後に役に立つことになる。なお、この頃以来アメリカ系フリーメイソンリー関係のイースタン・スター結社の会員といわれる。 蒋介石との結婚 中華民国に帰国した後は、キリスト教の布教に熱心であった父の意を受けて同国内においてキリスト教の布教活動を行う。その後1920年に中国国民党総統で中華民国の指導者であった蒋介石と出会い、1927年12月に結婚した。中華民国の若き指導者である蒋介石と、同国の名家の出身で欧米で教育を受け洗練された立ち振る舞いの宋の結婚は、中華民国のみならず世界各国で大きく報じられ、アメリカではニューヨーク・タイムズの1面を飾ったほどであった。 結婚式はキリスト教形式で行われたが、蒋が離婚経験者であることから牧師は立てず教会関係者がその代理役を務めた。披露宴は上海で有数の規模を持つ大華飯店(マジェスティック・ホテル)で行われ、参列者は日本やドイツ、アメリカをはじめとする各国の総領事や政財界の有力者など1,300名を超えた。 なお蒋介石は宋美齢との結婚を両親に承諾させるために、最初の妻及び愛人と別れ、宋とその両親と同じキリスト教に改宗することを約束しなくてはならなかった。実際に結婚後の1929年に、蒋介石はメソジストの教会で洗礼を受けた。 蒋介石への影響 結婚翌年の1928年に蒋介石が中華民国の主席となり、宋もその後1930年から1932年までの間は、蒋介石を後ろ盾に、中華民国立法院のメンバーとして、また国民党中央委員会のメンバーとして国民党内にも多大な影響力を持った。 また、1936年12月に起きた西安事件においては、張学良軍に捕えられた蒋介石の解放に向け西安に飛び、張学良や楊虎城との会談を行い蒋介石解放の手助けを行った他、蒋介石に張学良軍や共産党軍との統一戦線の構築(国共合作)による抗日を訴えるなど、生涯を通じて蒋介石の政治的な決定に影響を与え続けた。 1937年に日本と中華民国との間に発生した日中戦争においては、アメリカからの軍事援助を受けるために、「国民党航空委員会秘書長」の肩書で、英語が話せない蒋介石の「通訳」として、駐中華民国大使館附陸軍武官のジョセフ・スティルウェルやクレア・リー・シェンノートとの交渉に同席し、アメリカからの有形無形の軍事援助を引き出し、後に日本と対峙した「アメリカ合衆国義勇軍(フライング・タイガース)」の設立や中華民国空軍の近代化に大きく貢献した。 蒋介石のスポークスマン 220px|thumb|宋美齢(右)と[[エレノア・ルーズベルト(1943年)]] また、宋は親中派として知られるフランクリン・ルーズベルト大統領やその妻のエレノアと特に仲が良く、アメリカの対日政策に大きな影響を与えたと言われる。第二次世界大戦中の1942年11月から1943年5月には、ルーズベルトの招きを受けてアメリカに滞在し、アメリカ全土を回り自ら英語で演説し抗日戦への援助を訴え続けた。特に1943年2月18日には、アメリカ連邦議会において宝石をちりばめた中華民国空軍のバッジを着けたチャイナドレス姿で抗日戦への更なる協力を求める演説を行い、並み入る議員のみならず全米から賞賛を浴びその支持を増やした。 また、同時期に抗日戦への義捐金を募るためにカリフォルニア州ハリウッドで演説した際には、ハンフリー・ボガードやキャサリン・ヘップバーン、イングリッド・バーグマンなどのハリウッドスターから称賛と大きな支持を受け、タイム誌の表紙を飾るなど、第二次世界大戦中を通じて中華民国のファーストレディとして、そして夫である蒋介石のスポークスマン兼中華民国のロビイスト的役割を果たし、アメリカをはじめとする連合国における中華民国、そして日本に対する世論に大きく影響を与えた。なお1943年11月には、蒋介石とルーズベルト、イギリスのウィンストン・チャーチルがエジプトのカイロに集まって戦後の対日処理を決めたカイロ会談にも蒋介石とともに同席した。 しかし一方で、アメリカ滞在中にホワイトハウスが手配した警護グループを買い物係にしたり、ホワイトハウスの絹のシーツを1日に4回も交換させる、それらに空き足らずヘンリー・ルースの設立した支援団体である「ユナイテッド・チャイナ・リリーフ」の寄付金で、自分のための毛皮や宝石を買い漁りつつ、リゾートホテルの代金に流用していたといった俗物的な面を見せた。 この様な宋の性格に対して、セオドア・ホワイトは「冷淡でいわゆる愛人タイプの女性だった」、ルーズベルト大統領の次男のエリオット・ルーズベルトは「蒋介石夫人は男の歓心を得ることばかりに長く従事したので、今やそれが第二の性格のようになった印象を受けた。本来の性格は多分に恐ろしい者のように見え、正直言って怖かった」といった証言を残している。 第二次世界大戦後 220px|thumb|蒋介石とともに[[台湾島を訪問する宋美齢(1946年)]] 1945年8月に日本が連合国に敗北し第二次世界大戦が終結したものの、その後中国共産党率いる中国人民解放軍との間に発生した国共内戦において、蒋介石と折り合いの悪いハリー・トルーマン政権下のアメリカからの援助が削減された中華民国軍が敗れ、1949年に蒋介石が台湾島へ遷都すると、宋も多くの中国国民党の首脳陣らとともに同行する。 その後1950年には自らが会長となり「中華婦女反共抗ロ聯合会」を設立し、1949年に中国大陸に設立された中華人民共和国の中国共産党政府の国際連合加盟反対のための活動を国内外で行うなど、冷戦下において中華人民共和国の中国共産党政府との対立を続ける蒋介石を、アメリカとの連携のもとに支え続けた。 また、これらの政治活動に併せて、キリスト教徒として国際赤十字運動の活動に対しての支援を国内外において積極的に行う他、国内外の各種保守派団体の要職を務めるなど、欧米において積極的に蒋介石、そして中華民国のスポークスマン兼ロビイスト的役割を果たし続け、その結果、1950年代から1960年代にかけて世界各国のマスコミでその動向が大きく取り上げ続けられた。 蒋介石死後 1975年4月に蒋介石が死去すると、後継者になることを期待したがそれは叶わず、蒋介石の前妻の長男である蒋経国が主席兼中央委員会常務委員会主席に就任し党内の支持基盤を確立、次期総統就任への準備が着実に進められた。宋はこれを受けて同年に中華民国を去りアメリカに住居を移し、ニューヨークのロングアイランドの広大な屋敷に住まいを構えた。 その後1978年に、蒋経国は第5期総統代行である厳家淦の任期満了に伴い開催された第1回国民大會により第6期総統に指名され蒋介石の後を継いだ。しかし宋はその後も政治的野心を持ち続け、中国国民党内の保守派と密接な連絡を取り続けた。なお1981年5月に、姉で中華人民共和国名誉国家主席となっていた慶齢が危篤となった際には、同国の中国共産党政府から慶齢が入院していた上海の病院への見舞いのための入国を打診されたものの、同国との敵対関係が続いていたこともありこれを断っている。 1986年には蒋介石生誕100周年記念行事が台北で行われることを口実に帰国し、その後は再び台北に居を移し影響力の回復を図ることとなる。蒋介石の後を継いだ蒋経国が1988年1月に死去した際には、副総統で本省人である李登輝が事実上の後継者となる国民党主席代行に就任することに対して強く反対し、保守派の兪国華や李煥を後継者に押し出そうとしたがそれも叶わず、同年7月に李登輝が次期総統に就任した。 李登輝が総統に就任した後も宋は国民党党首就任問題時にも執拗に直接電話をかけるなどして圧力をかけていった。しかし李登輝は自らの北京語下手を逆手にとって、宋の側近に「彼女の北京語は折江訛りが酷いから、私に用がある時は文章で送ってほしい」と告げた。これにより物的証拠を得た李登輝は宋の影響力を確実に殺いで行った。 晩年 その後は、中華民国の民主化を推し進めると同時に、台湾島の本土化を推進した李が宋を冷遇したこともあり、これに失望した宋は1991年9月にアメリカへ再び渡ることとなった。この頃は自らの高齢もあり政治的な活動は少なくなったが、1995年7月には、第二次世界大戦終結50周年の式典のためにアメリカ政府の招待を受けてワシントンD.C.を訪れ演説を行った他、同年には生涯で最後の中華民国訪問を行った。 これ以降は高齢で独力で歩行することもままならなくなったこともあり、表舞台に登場することはほとんどなくなったが、2000年3月の中華民国総統選挙では、国民党候補の連戦に対する支持を文書で表明するなど、同国の政治への関与はその後も続けた。 なお同年には、長年暮らしたロングアイランドの屋敷を引き払い、マンハッタンのアッパー・イースト・サイドの高級アパート「グレイシー・ステート・アパートメント」に住まいを移した。 死去 その後2003年10月23日に、マンハッタンの自宅で老衰により105歳(106歳との説もある)で死亡した。その死去は世界各国で大きく報道された他、中華民国の「敵国」でもあった中華人民共和国の中国人民政治協商会議全国委員会の賈慶林主席からも弔電が送られた。 宋美齢が出てくる映画 「宋家の三姉妹」:(原題:宋家皇朝、1997年、香港/日本) 「ローマの休日」:グレゴリー・ペック演じる新聞記者と支局長とのやりとりの中で、特ダネの代名詞として宋美齢の名が出てくる。 関連項目 孫文 毛沢東 宋子文 郭源治 中華民国の歴史 通州事件 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月30日 (日) 12 26。
https://w.atwiki.jp/uyghurissue/pages/36.html
ウイグルの歴史 現在の新疆ウイグル自治区を含む中央アジアは、歴史的にはテュルク系の言語を話す人々の土地を意味する「トルキスタン」と呼ばれてきた。トルキスタンはパミール高原を境に西と東に分けら、現在中国領となっている新疆ウイグル自治区は「東トルキスタン」と呼ばれる。 中国の歴代王朝で、本格的に東トルキスタンを支配することができたのは、満人の征服王朝である清のときからであると言って良い。それ以前に中国の歴代王朝がこの地域を支配できたのは、漢と唐代の一時期、「西域都護府」と「安西都護府」を置いたときのみである。中国政府は歴史上一貫して東トルキスタンを支配し続けたかのように喧伝しているが、これは事実と異なる。そもそも中国歴代王朝は東トルキスタンを「西域」と呼び、万里の長城によって境界を画し、「中国」とは異なる「化外の地(王権の及ばないところ)」とみなしていたのである。 現在東トルキスタンと呼ばれるこの地域に最初に住み始めたのは、イラン系・インド系のアーリア人であったが、紀元前2世紀からは遊牧民族の匈奴が、ついで柔然、紀元6世紀からはテュルク系の突厥がこの地域を支配した。 そしてこの地域をテュルク系民族の住む地域「トルキスタン」としていく主体となったのは2つのウイグル王国、天山ウイグル王国とカラハン朝である。両者とも現在のモンゴル高原にあった遊牧ウイグル帝国からの遺民が造った国であった。 天山ウイグル王国はそれまでの遊牧から定住へと生活様式を転換し、マニ教、ついで仏教、景教などを受容し、独自の文化を展開していった。 カラハン朝は、王サトゥク・ボグラ・ハンのときにテュルク民族としては初めてイスラム教を受容したと言われており、東西へ向けてジハードを展開していった。このときにカラハン朝が支配したタリム盆地の西半部までが、イスラム化することになった。なお首都であったカシュガルは、イスラム的な文化の中心地へと生まれ変わり、芸術、科学、文学などが繁栄した。このテュルク系イスラム文化の先駆であり、また最も偉大な文学作品であるのが、ユスフ・ハス・ハジブの「クタドグ・ビリク(幸福になるための知恵)」と、マフムード・カシュガリーの「ディーワーン・ルガート・アッテュルク(テュルク語大辞典)」である。 その後ウイグル人は、世界的な大帝国を築いたモンゴル帝国の前に、あえて武力的抵抗をせず、彼らの頭脳として働くことを選んだ。ウイグル人は「モンゴル統治の教師」と言われる程に、その経験と知識を存分に用い、さらに世界各地に出向いて貿易に従事し、ウイグル商人として名を馳せていった。 モンゴル帝国はその後分裂し、その後継国である東チャガタイ・ハン国、次いでモグーリスタン・ハン国、ヤルカンド・ハン国の順でモンゴル系王朝が東トルキスタンを支配した。彼ら支配層も、もともとはモンゴル系遊牧民とはいえ次第に定住化せざるを得なくなり、更に言語的にテュルク化、宗教的にもイスラム化していった。なお、このモグーリスタン・ハン国のときに、タリム盆地全域のイスラム化が完成した。 タリム盆地を支配していたモンゴル人王朝の名目的な支配者はモグーリスタン・ハン家であったが、実際に諸都市の実権を握っていたのはホジャと呼ばれるイスラム宗教貴族であった。 その後、西モンゴル族(オイラト)の一部族であるジュンガル部が、次第にこの地域に支配を伸ばしてきた。ジュンガル帝国3代目ハンのガルダン・ハンの統治下で、帝国はその支配域を大いに広げた。彼はチベット仏教の活仏と認定され、幼少期をダライ・ラマ5世の下で過ごしていた。ダライ・ラマ5世はガルダンを強く支持し、ガルダンはこれに応え、チベット仏教の守護者として戦いに臨み、東トルキスタン全域からモンゴル高原西部にいたる大遊牧帝国を築き上げた。その後東モンゴル族のハルハ部も破ったが、ハルハ部が清に援助を求めたことで、ジュンガル帝国と清朝とが全面対決することになった。 清による東トルキスタンの支配は、ジュンガル帝国との攻防を繰り返した後、1755年に乾隆帝によって成された。この時のジュンガル帝国滅亡は、清軍が持ち込んだ天然痘と相まって、壊滅的なものとなった。次いで1759年にタリム盆地のヤルカンド・ハン国も滅ぼされたが、このときに西トルキスタンに逃げ延びたホジャの子孫が、後に失地回復のための聖戦を繰り返すことになる。このようにしてジュンガル盆地(準部)とタリムイスラム地域(回部)を手に入れた清は、両部をあわせ「新彊」、つまり新しい辺境の領土、と名付けた。 清朝の支配は、将軍や大臣の下の各都市の首長をウイグル人が務めるという、比較的自治に近いものであった。これはチベットでも同様であり、圧倒的多数の漢人を少数派の満州人皇帝が抑えるために、チベット、ウイグル人を味方にするための優遇措置であったと考えられる。このような統治もあり、19世紀前半から60年ほど東トルキスタンは平穏であったと言われる。 19世紀中ごろから、清朝内地では、イスラム教徒による反乱が頻発していた。このイスラム教徒の反乱に刺激され、さらにホジャによる失地回復の聖戦とそれを支援するウイグル人の奮闘の結果、西トルキスタンのコーカンド・ハン国の将であったヤクブ・ベクがカシュガル・ハン国を建てた。 これにより東トルキスタンは再びテュルク人によるイスラム政権を樹立することができたのである。対外的にもロシア、イギリスと通商条約を結び、オスマン・トルコを宗主国とするなど、その存在は国際的にも認められていた。 しかしこの国も1877年、清の将軍である左宗棠に侵略され、東トルキスタンは再び清の支配されるところとなった。1884年には新疆省となり、内地と同様の道州府県が置かれ、清によって直接統治されることとなった。 なお、1840年頃から20世紀初頭の中央アジアは英露両国の勢力争いの場となっていた。また両国をはじめとしたヨーロッパ諸国や日本の探検家による調査も行なわれるようになり、中央アジアのさまざまな地理的、歴史的な発見がなされた。 また、ロシアの圧迫に反発し、ロシア内部や西トルキスタンのテュルク系ムスリム知識人の中から近代的改革の動きが生まれた。彼ら知識人が普及に努めた近代的教育方式(ウスリ・ジャディード)に由来し、この運動をジャディード運動という。これと期を同じくして、東トルキスタンでもジャディード運動が起きた。 近代化による、商業の国際化、工業の発展のためには、科学的な知識や技術を身につけた人材が必要である。それまでのイスラム教の寺子屋のような初頭教育施設だけでは十分な教育は施せない、民族のアイデンティティが脅かされると危機感を抱いた人々は、新方式の学校を建て、イスラム教の宗教教育の他にも、読み書きや計算、歴史、近代科学を教えるようになった。当時の先進地であったクリミア・タタールやトルコのイスタンブールなどへ留学生を出したり、当地の教師を招聘するなどして、民族の教育に尽力を払った。有名な教育者としてはアブドゥルカーディル、スポンサーとしてはムーサー・バヨフ家などがいる。彼らの思想は、汎トルコ主義・汎イスラム主義であるとして、中国の安定を脅かす危険な思想とみなされて弾圧を受けるようになった。ジャディード運動を行った知識人の中には、後の東トルキスタン共和国の成立に大きな役割を果たした者もいる。 新疆省になってから清朝滅亡までの30年間は、比較的小康状態が保たれたが、1911年には辛亥革命によって清が滅び、中華民国が成立した。このときに外モンゴルは独立してソ連の衛星国になり、チベットは紆余曲折をたどって事実上の独立国となった。そしてそれに遅れること約20年、ついに東トルキスタンでも侵略者を追い出し自らの土地を取り戻そうという動きが高まってきた。 中華民国成立時の新疆政府は、名目上は南京の政府の配下に置かれていたが、実質は漢民族の軍閥によって支配されていた。清末期から続いていた東トルキスタンへの漢民族の大量移住と彼らからの差別や抑圧、また同化政策によって、テュルク系諸民族の間に不満と怒りとが鬱積しており、きっかけがあれば一気に爆発する状態になっていた。 そして、1931年3月にハミで起きた蜂起は東トルキスタン各地に飛び火した。その混乱のさ中、1933年初めホータンでムハンマド・イミン・ブグラが主導した蜂起は、同時に起きたカラシャール、クチャ、アクスの蜂起と合流し、11月カシュガルにて「東トルキスタン・イスラム共和国」の独立宣言を出すまでに至った。大統領にはホジャ・ニヤズ、首相にはサビト・ダ・ムラーが擁立された。しかしこの国家は、民族間の対立で連携が崩れたことと、中国国民党の弾圧やソ連の干渉、回族軍閥の侵略によって1934年春に終焉を迎えた。 これら1931年から1934年にかけての反乱と独立運動はいずれも失敗に終わったが、この頃の新疆情勢について日本政府は強い関心を持ち注視していた。国外に亡命した東トルキスタン・イスラム共和国の指導者たちに対して日本政府は積極的に接触し、現地の情報を集めていた。指導者の中には東京まで亡命してきた者もいた。彼らは日本の支援を受けて独立運動を継続しようと考えていたようであるが、日本政府が新疆に対しての関心を失ってしまったため実現しなかった。 それから10年後の1944年11月12日、新疆省主席が左遷された混乱時に、テュルク系民族らによる民族解放組織がイリのグルジャ市で「東トルキスタン共和国」の独立を宣言した。主席はイリハン・トレで、閣僚は諸民族から成っていた。ソ連軍人の援助を受けた東トルキスタン軍は、イリ地区、タルバガタイ地区、アルタイ地区を掌握した(中国共産党はこれを三区革命と呼ぶ)。1945年9月にはウルムチの郊外にまで迫ったが、突然進軍を停止した。これは8月のヤルタ会談の際に行われたソ連と国民党との密約で、外モンゴルの独立・満州の権益と引き換えに、中国が東トルキスタンを支配するという交換条件が結ばれていたためである。 武力による独立闘争に代わり、中国政府と東トルキスタン政府の和平交渉が始まり、ソ連の仲介によって、1946年ウルムチの国民党政府と和平協定を締結するに至った。お互いの閣僚を出し合って新疆省連合政府が成立したものの、やがて分裂し、旧東トルキスタン政府の閣僚は全てイリに戻り自治を宣言した。 そして1949年、国共内戦を制した人民解放軍が迫る中、ソ連の斡旋によって、イリの自治政府は中国共産党との協議を決定した。8月に開催される会議に参加するため政治的指導者たちは北京に向かったが、行方を絶つことになった。一説にはその途上ソ連に連れ去られ殺害されたとも言われている。 政治的指導者を失った東トルキスタンは、1949年12月人民解放軍によって「解放」された。1955年、新疆省は新疆ウイグル自治区となり、現在に至っている。 お問合せはこちら
https://w.atwiki.jp/eirei/pages/599.html
袁世凱(えん せいがい)中華民国1859~1916統率:B 武力:A 政治:C 知力:B 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------清末期の政治家。日清戦争に敗れると清陸軍の近代化に努め『ストロング・マン』と称された。国が混乱するな中で起きた義和団事件を鎮圧する。辛亥革命が起こると清政府から寝返り、第2代中華民国臨時大総統に就任する。更に国号を「中華帝国」と改め皇帝となろうとするが病没した。 汪兆銘(おう ちょうめい)中華民国(広東省三水)1883~1944統率:C 武力:C 政治:C 知力:B 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------中国の政治家。中華民国の行政院長を務め、広州国民政府、武漢国民政府を樹立し、主席の座に就いた。蒋介石と連携して抗日運動を行なっていた。後に宥和的な対応を取り、日中戦争中に南京国民政府を樹立して日中戦争の解決を図るが、解決ならず本国からも漢奸とされている。 光緒帝(こうちょてい)、徳宗、(愛新覚羅・載湉(アイセンカグラ・サイテン)清1871~1908統率:D 武力:D 政治:D 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------清朝第11代皇帝。道光帝の第七子醇親王の第二子として生まれ、母は西太后の妹である。清仏戦争でベトナムへの、日清戦争で朝鮮への影響力を失う。これにより国勢回復を望み、変法運動を指揮した。しかし、西太妃に監禁されてそのまま亡くなる。 黄飛鴻(こうひこう)、黄錫祥、字は達雲清(広東省広州府)1847~1925統率:A 武力:A 政治:C 知力:B 文化:B 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------武術家、医師。武術家・黄麒英の息子で南派少林拳の一派・洪家拳を学び『少年英雄』と呼ばれた。欧米列強が進出してくる時勢で治安を維持するため自警団を組織、官軍や警察にも洪家拳を指南した。 蔣介石(しょう かいせき)中華民国(台湾)1887~1975統率:A 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------中国・台湾の政治家、軍人。日本に留学後、辛亥革命に参加し、孫文の信頼を得、後に中華民国の主席となる。中国共産党と争っていたが、日中戦争では毛沢東らと共闘し、カイロ会談に参加した。しかし、国共内戦によって台湾に退き、第1任~第5任の総統を務める。 沈瑞麟(しん ずいりん)、字は硯裔満州国1874~1945統率:C 武力:D 政治:B 知力:B 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------外交官。清朝の外務部に属し、駐オーストリア公使を務め、中華民国成立後も公使を務めた。外交総長や内務総長を歴任する。満州国が成立すると、北満鉄路首席理事に就任し、溥儀が皇帝となると宮内府大臣となる。しかし、満州国崩壊と共にソ連に逮捕された。 西太后(せいたいこう)、慈禧太后(じきたいこう)、杏貞清1835~1908統率:B 武力:B 政治:B 知力:B 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------咸豊帝の妃で、同治帝の母。同治帝を皇帝に即位させ、更に甥の光緒帝を即位させて権力を握った。西欧列強が進出してくると義和団事件を支持したが、北京が陥落し敗北する。やがて国力は疲弊し、辛亥革命が勃発して光緒帝が崩御すると自身も翌日崩御した。 宣統帝、恭宗、(愛新覚羅・溥儀(アイセンカグラ・フギ))清・満州国1906~1967統率:D 武力:D 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------清朝第12代皇帝で清朝最後の皇帝。光緒帝の弟、醇親王の子。辛亥革命により退位するが紫禁城での生活を許される。後に日本の関東軍によって満州国が建国されると初代皇帝として迎えられ即位するが傀儡だった。太平洋戦争後は、一時、収監されるが後に中華民国の役職に迎えられた。 宋哲元(そう てつげん)、字は明軒中華民国(山東省武定府楽陵県)1885~1940統率:B 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------陸軍上将。馮玉祥の下で頭角を現し、五虎将の一人に数えられた。国民党に合流するが、馮玉祥が蒋介石と対立すると共に反蒋戦争を戦うが敗北する。後に独立勢力の冀察政務委員会委員長となり、盧溝橋事件で日本軍と対立した。 孫文(そん ぶん)中華民国1866~1925統率:B 武力:C 政治:A 知力:A 文化:A 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------中国の政治家で、革命家。辛亥革命を起こし、中華民国を成立、初代臨時大総統に就任する。その後、袁世凱に大総統の地位を譲るが対立し、軍事力に敗れると日本に亡命する。袁の死後、広州で政権を樹立する。「革命未だならず」と遺書に書き残し、中国革命の父と賞されている。 段祺瑞(だん きずい)、字は芝泉清(安徽省合肥県)1865~1936統率:A 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------軍人。袁世凱の新建陸軍(北洋軍)に加入、軍の近代化を担い、義和団事件の鎮圧にも参加している。軍の編成や練成を担当し、北洋三傑の一人に数えられる。辛亥革命が起こると初代陸軍総長、国務総理などを歴任する。しかし、北京政府の主導権を巡り、黎元洪や直隷派との政争で下野した。 張景恵(ちょう けいけい)満州国1871~1959統率:B 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------張作霖の義弟として、奉天の治安維持に務める。奉天軍副総司令、中華民国陸軍総長を歴任する。満州国が成立すると、関東軍の強い推薦で第2代国務総理大臣として代表を務めた。 張作霖(ちょう さくりん)中華民国(遼寧省海城県)1875~1928統率:A 武力:A 政治:B 知力:B 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------軍閥政治家。奉天軍閥の総帥で、満州の統治者。若い頃は馬賊だった。清朝に帰順し、辛亥革命が起こると袁世凱に従いつつも軍閥として自立する。後に関東軍によって乗っている列車を爆破され(張作霖爆殺事件)死亡する。 鄭孝胥(てい こうしょ)満州国1860~1938統率:C 武力:D 政治:C 知力:B 文化:A 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------溥儀に仕え、満州国が成立すると初代国務総理大臣となる。しかし、実権を握る関東軍への批判を続けたために解任されてしまった。能筆家でもあり、詩にも優れた。 馬相伯(ば しょうはく)清(江蘇省鎮江府)1840~1939統率:C 武力:C 政治:C 知力:A 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------教育家。李鴻章の幕僚として日本の領事館、大使館の参賛を務めた。震旦大学、復旦大学などを創設し、北京大学の校長代理を務めた。 馮玉祥(ふう ぎょくしょう)中華民国(直隷省天津府青県)1882~1948統率:C 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------陸軍一級上将。辛亥革命が起こると北方で軍政府を樹立するが清に鎮圧される。清が滅亡すると北京政府に属して直隷派を形成し奉天派と争うが、北京政変を起こして国民軍を結成する。北伐後は蒋介石と対立するが、日中戦争では戦線の司令官も務めた。 馮国璋(ふう こくしょう)、字は華甫清(直隷省河間県)1859~1919統率:B 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------軍人。辛亥革命では北洋軍を率いて袁世凱に対する反乱を鎮圧した。その後、中華民国の副総裁となるが、安徽派を形成した段祺瑞と対立して勢力を失った。北洋三傑の一人に数えられる。 李鴻章(り こうしょう)、字は少荃清(安徽省合肥県)1823~1901統率:A 武力:C 政治:A 知力:A 文化:B 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------政治家。曽国藩の幕僚として太平天国の乱を戦う。淮軍を組織し、捻軍鎮圧にも功を挙げ、湖広総督、直隷総督、北洋通商大臣などを歴任する。洋務運動の推進者。日清戦争の講和条約である下関条約では清国の欽差大臣として調印した。 劉永福(りゅう えいふく)、字は淵亭清(広東省欽州)1837~1917統率:B 武力:B 政治:C 知力:C 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------清の軍人。無頼者として天地会に参加し、武装組織「黒旗軍」を組織する。清仏戦争ではベトナムで戦い、三宣正提督に任じられる。日清戦争では黒旗軍を再編して台湾の防衛を担当する。台湾が日本に割譲されると、独立を宣言した台湾民主国の第2代総督として抵抗した。 魯迅(ろじん)、本名:周樹人中華民国1881~1936統率:B 武力:C 政治:B 知力:B 文化:A 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------作家。日本に留学後は教師などを務めた。中華でいち早く西洋の技法を取り入れた小説を執筆した。代表作に最下層の一庶民を主人公とした『阿Q正伝』、筆者が狂気に陥っていく様を描いた『狂人日記』などがある。
https://w.atwiki.jp/tohokusf/pages/267.html
『地獄とは神の不在なり』 テッド・チャン 短編集「あなたの人生の物語」に収録。 全体のレジュメ及び『理解』と表題作のレジュメはこちら→あなたの人生の物語(旧) 表題作のレジュメはこちらも→あなたの人生の物語 著者紹介 1956年生まれ。両親はともに中国本土生まれで、第二次国共内戦中に台湾に渡ったあとアメリカに移住し、そこで出会って結婚する。両親はテッド・チャンを英語で育てたため、テッド・チャンは中国を話すことはできないし、中国系アメリカ人のコミュニティとも縁がない。高校時代から短編を投稿し始めたが採用されなかった。大学卒業後、合宿制の創作講座クラリオン・ワークショップに参加、そこで才能を見いだされ『バビロンの塔』で1990年に作家デビューする。本業はテクニカルライターであり、「書く価値のあるアイディアを思いつかない限り書き始めない」がモットーにしているため、非常に寡作。デビュー以来出した本は『あなたの人生の物語』と『息吹』の2作、18篇の中短編しか発表していない。そういうわけで、SF外ではよく知られた作家ではなかったが、2016年に「あなたの人生の物語」がドゥニ・ヴィルヌーブ監督でArrival(邦題「メッセージ」2017日本公開)として映画化。映画はアカデミー作品賞、監督賞などにノミネート、音響編集賞を受賞するなど高く評価され、原作者のテッド・チャンも一躍有名に。2019年にはオバマ前大統領が『息吹』を夏の推薦図書リストに入れている。 テッド・チャンの魅力はそのSF的ビジョンはもちろん、文体にあると思う。雑誌ニューヨーカーである書評家がチャンの文章には”ジョージ・オーウェルが理想の散文として唱導した、窓ガラスのような透明さ”があると評価している。「窓ガラスのような透明さ」とはオーウェルが『なぜ私は書くか』のなかで述べていることで、良い散文を書くには作家自身の個性を消す努力が必要だと書いている。しかし、オーウェルは政治と芸術の融合についてものべている。ただ透明なだけではなく、「窓」ガラスなのである。テッド・チャンの文章はシンプルでありながらも、私達に寓話的な世界を見せて楽しませてくれる窓なのだ。 1999年は重要な映画が公開された年だといい、その3本とは「マルコビッチの穴」、「マトリックス」、「ファイト・クラブ」。伊藤計劃いわく「ボンクラ」。 作品解説 2001年発表。 ヨブ記 『地獄とは神の不在なり』は聖書の「ヨブ記」に対するある種の不満から書かれたとされている。 ヨブ記は旧約聖書の中盤、知恵文学に分類される。この教訓部分の五書のうち、ヨブ記は第一番目に位置しており、ヨブ記は当時のユダヤ人にとって重要な書であったと思われる。 ヨブ記の内容は次のようなもの。ウツという場所 にヨブ という人がいた。ヨブはとても信仰が熱く、道徳的にも優れた人物で、多くの子供と多くの財産に恵まれていた。そのようなヨブに対しサタンは「ヨブが神を信仰にするのは神が財産を守っているからではないか?」と疑念を持った。そこでサタンは神の許可を得て、ヨブを試すことにした。サタンはヨブから財産を奪い、子供たちを殺し、ヨブ自身も全身をひどい皮膚病にさせた。それでもヨブは信仰心を失わなかった。「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただいておこうではないか」と苦難を受け入れようとしたのだ。その後、ヨブを見舞いに3人の友人がやってきた。3人はヨブの病気は因果応報だと主張し、ヨブの信仰に不正があったことを認めさせようとする 。しかし、ヨブはこれを拒否し、それどころか自分に不当な災いが訪れるのを見過ごした神の側に不正があると主張するようになる。すると神が現れる。神は被造物である一人の人間が、創造者である神を否定することなどできず、神を疑うことは不敬であると語る。ヨブは神の正しさを認め、苦難から解放される。さらに、財産が以前の倍にまで増え、子孫は繁栄し、140歳まで生きたのだった。めでたしめでたし。 ヨブ記は「旧約聖書の良心」とも言われる。というのも、旧約聖書は全体として因果応報に貫かれとており、律法に従ったものには幸福を、逆らったものには不幸を与える内容になっている。もちろん現実の世界はそのようになっていない。善人にも災いが訪れることがあるということを示したヨブ記があってこそ、旧約聖書には価値があるといえる。ヨブが神への愛を取り戻す過程は、漫然と信仰するのではなく、主体的に信仰することを選択する過程であるとも読める。知恵文学の「知恵」とは、人生において信仰的な選択をする能力なのである。 とはいえ、問題なのは信仰を取り戻したヨブが恩寵をえていいのかということである。神への愛が無条件である必要があるなら、ヨブが神への愛を取り戻したことで幸福になってはいけないのではないか?そのような疑問から書かれたのが『地獄とは神の不在なり』である。 設定解説 本作の一番の魅力はなんといってもその設定だと思われる。斜線堂有紀の『楽園とは探偵の不在なり』も、その設定に魅了されて生まれたところが大きいだろう。というわけで、設定をまとめておく。 降臨:神の指示により天使が人間界に顕れるとき、一部の人間には祝福を、一部の人間には厄災をもたらす。天使は炎をまとって顕れ、一部の人には奇跡的な治癒を与える一方で、自然災害のように破壊ももたらす。天使はときに特別なメッセージを残すが、典型的なものはこうである――『主の力を見よ』。 天国:一部の人間の魂は死ぬときに天国にのぼっていく。しかし、神の愛の世界に生きる者は、もはや別人なのだ。 天国の光:天国の光が人間界にさしこむのは、天使が現れる瞬間と、天国に戻るごく短い瞬間だけである。この光を浴びた人間は目を失うが、信仰の確かさを保証され、死後は天国に迎えられるのが常である。天国の光は、救われるものになるためのすべての霊的障碍を抑えるのだ。 地獄顕現:地獄顕現は定期的に発生し、大地の下に地獄が見えるようになる。亡者は地獄で永遠の肉体を得て、生者と変わらぬ生活をしている。地獄と人間界の違いは、地獄にあるすべてのものには神が不在であるということだけなのだ。 幻視:天国に迎えられた死者は、ときに生者のまえに黄金の光とともに姿を現す。ジャニス・ライリーの両親が幻視に遭遇したことで、彼女は自分の脚のない状態を天の賜物と考えて育った。 堕天使の降臨:堕天使の降臨は幸運も悪運ももたらさない。たんに人間界を通過するだけである。『みずから決めるがいい。それがわれわれの行っていることだ。おまえたちもおなじようにするがいい』。 ヒューマニスト運動:堕天使の言葉に従い、おのれの道徳心にしたがって行動する人々。神を無視したかれらは、死後は地獄に落ちていく。 聖地:降臨が多発している地域。たいてい居住にふさわしくない場所である。巡礼者たちは奇跡を求めてその地を訪れる。 ライトシーカー:巡礼者のなかでも、天国の光を求めるものたち。降臨のあいだ天使の近くを追うその行為は危険なものであり、そのような行為による死は自殺と同然である。 登場した天使たち ナタナエル:ダウンタウンの商店街に降臨。ニール・フィスクの妻、セイラ・フィスクが犠牲になり、セイラの魂は天国にのぼる。 バルディエル:霰を伴って降臨。ジャニスの母親が遭遇し、子宮にいたジャニスが障害をもつ原因となる。 ラジエル:地震を伴って降臨。ジャニスとイーサンが遭遇する。ジャニスには健全な足が与えられたが、イーサンにはなにも起こらなかった。二人はその意味をもとめて協力することになる。 バラキエル:稲妻を伴って降臨。ニールとジャニスが天国の光に打たれる。 所感 なぜ悟りを得た人間は目がなくなるのか気になった。マトリックスで悟りを得たネオが視力を失うように、悟りと盲目には関係があるように思われる。マトリックスではネオが視力を失うのは現実世界でも「光」が見えなくなる一種の覚醒だが、『地獄とは神の不在なり』ではもう少し皮肉があるように思われる。「盲」が「蒙」に通ずるとすれば、目を失うのは「啓蒙」の逆である。啓蒙を失った非合理な世界に生きることが悟りなのだとすれば、皮肉なものではないか。 作品案内 プロフェシー/ゴッド・アーミー:1994年にアメリカで制作されたオカルト・ホラー映画。『地獄とは神の不在なり』の着想もとの一つ。神が人間を愛することに嫉妬した天使たちが、天国で再び戦争を起こす。ザ・B級映画という感じの映画だが、“天使座り“や投げキスで死体が燃えるシーンなどの演出が有名で、一見の価値あり。思想的にもヨブ記と通じ(神への疑いと、信仰の選択)ており、『地獄とは神の不在なり』とも通じるところがある。また、天の光を浴びた人間から目がなくなるのは、この映画に出てくる天使の一人に目がないことに由来すると思われる。 バビロンの塔(テッド・チャン):「あなたの人生の物語」に収録。巨大な塔の建設の物語。旧約聖書的な世界観を題材にしていることは『地獄とは神の不在なり』と共通しているが、テッド・チャンは『バビロンの塔』はSF、『地獄とは神の不在なり』はファンタジーだとしている。 オムファロス(テッド・チャン) 「息吹」に収録。天地創造という奇跡がおきたことが明らかになっている世界で、科学者の役割とは? 楽園とは探偵の不在なり(斜線堂有紀): 『地獄とは神の不在なり』に着想を得たミステリ小説。天使の出現により人を2回殺したものは地獄に落ちる世界。天使が理不尽の体現者なら、探偵は理不尽への抵抗者である。天使の存在する世界で、探偵の役割とは何なのか?
https://w.atwiki.jp/studykorea/pages/77.html
トップページ>韓国>歴史と現実 『歴史と現実』80、2011.6 時論 李仁在「歴史教育正常化のための当面課題」 論文 이준성「高句麗初期涓奴部の衰退と王権交替」 장미애「威徳王代恵王系政治勢力の成長と性格について」 李貞薫「高麗後期僧侶に対する封君とその意味」 안지원「高麗後期金石文を通じて見た仏教儀礼の新しい動向」 정요근「麗末鮮初郡県間合併・統合と新邑治の立地傾向」 장신「韓国強占前後日帝の出版統制と「五十一種二十万巻焚書事件」の真相」 윤덕영「1945年韓国民主党初期組織の性格と駐韓米軍政活動」 이혜영「1950年代後半自由党改憲議論の内容と性格」 研究動向 김보영「韓国戦争休戦協定と戦争の遺産」 書評 손병규「正祖時代に対する正祖の認識:金仁杰 他『정조와 정조시대』ソウル大学校出版文化院、2011年」 鄭秉峻「国共内戦・韓国戦争が作った満州朝鮮人社会のアイデンティティ:廉仁鎬『또 하나의 한국전쟁 만주조선인의 조국 과 전쟁』歴史批評社、2010年」 『歴史と現実』79、2011.3 時論 朴泰均「危険社会、そして曺奉岩:50年ぶりに復権した曺奉岩の現在的意味」 特集:開京(開城)研究の新しい模索:人的ネットワークと景観 박종진「総論:開京(開城)研究の新しい模索:人的ネットワークと景観」 南東信「高麗中期王室と華厳僧:王室出身華厳僧五国師を中心に」 蔡雄錫「高麗中・後期耆老会と開京士大夫社会」 韓嬉淑「朝鮮初期開城の位相と機能」 홍영의「朝鮮後期会話と地図に記録された開城の遺跡と景観」 論文 鄭東俊「百済檐魯制の歴史的位相についての試論」 鄭演植「平壌瞻星台の叙事構造と淵蓋蘇文の誕生」 韓相権「朝鮮時代の教化と刑政」 박윤재「解放後韓医学の再建と科学化議論」 研究動向 최성환「「正祖~沈煥之御札」と朝鮮後期政治史研究の展望」 書評 윤재운「渤海史を客観的に見ることは可能か?:김종복『渤海政治外交史』一志社、2009年」 김정인「東アジア史研究のための省察と模索の踏み石:柳鏞泰、朴鎮愚、朴泰均『함께 읽는 동아시아근현대사』창비、2010年」 『歴史と現実』78、2010.12 時論 呉洙彰「韓国史学の議題設定のために」 特集:韓国史の中の外勢 李康漢「[総論]「外勢」「外部」、そして「外縁」の問題」 宋鎬晸「漢郡県支配の歴史的性格」 김종복「百済と高句麗古地に対する唐の支配様相」 李康漢「「親元」と「反元」を超えて:13-14世紀史についての新しい理解」 韓モニカ「韓国戦争期アメリカの北韓占領製作と統治権問題:平壌と襄陽地域の行政組織構成比較」 論文 尹京鎮「『高麗史』食貨志、外官禄規定の基準始点と成立背景」 金盛祐「19世紀初盤盧尚枢の白雲洞別業造成と経営」 張暎淑「高宗政権下驪興閔門の政治的成長と内的亀裂」 이태훈「一進会の「保護統治」認識と「合邦」の論理」 최병택「強制併合前後日帝の「農業改良」方針:「自律主義」論理の展開とその性格を中心に」 이상호「韓国戦争期アメリカ軍の共産捕虜「アメリカ化教育」」 研究動向 朴泰均「韓国戦争勃発60年、社会科学から人文学へ」 『歴史と現実』77、2010.9 時論 李信澈「逆に行く歴史教育強化、跛行の韓国史教育」 特集:韓国民主化運動の論理と志向性の再評価 安秉旭「韓国民主化運動に対する評価と認識の転換のために」 이상록「1960-70年代民主化運動精力の民主主義談論」 김영수「1980年代社会構成体論と労働運動:闘争路線と組織路線を中心に」 김지형「民主化運動世代別分断克服論の推移」 이준식「民族解放運動の遺産と民主化運動」 김정인「内在的発展論と民族主義」 論文 박윤선「6世紀中盤高句麗と新羅の通好と移那斯と麻都」 金仁昊「鄭夢周崇拝の変化と偉人像」 李栄昊「韓末~日帝初近代的土地所有権の確定と国有・民有分岐:京畿道安山石場屯の事例」 허수「1920-30年代植民地知識人の「大衆」認識」 조수룡「1945-1950年北韓の社会主義的労働観と職業同盟の労働統制」 김태우「六感から政策へ:韓国戦争期アメリカ空軍戦爆機の民間地域爆撃の構造」 書評 鄭海恩「丁卯・丙子胡乱研究の新しい指標、そして残った問題:韓明基『정묘 병자호란과 동아시아』푸른역사、2009年」 研究動向 이용현「近年古代文字資料出土と研究現況及び展望」 『歴史と現実』76、2010.6 時論 朴泰均「作動しない停戦協定、そして天安艦」 特集:高麗前期兼職制の運営 朴宰佑「[総論]高麗前期兼職制に対する探求」 権寧国「高麗前期尚書六部の判事・知事制」 朴宰佑「高麗前期臺官の兼職運営と性格」 류주희「高麗前期尚書六部の兼職運営」 김대식「高麗前期本品行頭制の性格」 論文 김선주「新羅の閼英伝承の意味と始祖廟」 박성현「6世紀初高句麗・新羅の和約と境界:「中原高句麗碑」と両国境界の再検討」 李貞薫「高麗前期文散階の実際運営:「大夫階」を中心に」 김순자「高麗~朝鮮初韓中間領土についての現代中国学界の視角」 이한울「上海版『独立新聞』と安昌浩」 学術活動論 鄭泰憲「平和共存と民主主義の21世紀のための「併合」百年の省察」 백승종「成功的な大衆歴史書、どう書くか?:ひとつの歴史的省察」 『歴史と現実』75、2010.3 時論 김정인「2010年、記憶闘争と共にする記念の時代」 特集:高麗・朝鮮時代の法運用の実際と『大明律』 鄭海恩、박경、이정란「[総論]高麗・朝鮮時代の法運用と『大明律』」 이정란「高麗前期折杖法の規定と運用」 박경「朝鮮前期親族容隠規定の受容とその意味:「犯罪隠し」許容を通じて見た家族と親族共同体の保護について」 鄭海恩「朝鮮後期離婚の実相と『大明律』の適用」 論文 김보광「高麗時代内侍の運営と門班認識」 계승범「朝鮮後期大報壇親行現況とその政治・文化的含意」 황은수「開港期韓中日定期海運網と朝鮮商人の活動」 都珍淳「安重根の戦争と平和、殺と死」 김재웅「北韓の農業現物制徴収体系をめぐる国家と農民の葛藤」 研究動向 박종진「高麗時期開京史研究動向2(2000-2009)」 書評 김귀옥「そのたくさんのセマウル運動はどこへ行ったのか?:김영미の『그들의 새마을운동』と口述史研究」 『歴史と現実』74、2009.12 時論 임경석「朴正煕時代を見る目」 企画:朴正煕時代の憂鬱な遺産 朴泰均「朴正煕政府時期を通じて見た発展国家談論に対する批判的試論」 김영미「平沢・漆腹邑が最優秀セマウルになった理由」 이덕재「朴正煕政府の経済政策:諸刃の剣の政治経済学」 김태호「「統一米」と増産体制の盛衰:1970年代「緑色革命」に対する科学技術史的接近」 特集:3・1運動、記憶と理念 김정인「記憶の誕生:民衆デモ文化の近代的起源」 류시현「1920年代3・1運動に関する記憶:時間、場所、そして「民族/民衆」」 崔善雄「3・1運動記念儀礼の創出と変化」 정상우「3・1運動の表象「柳寛順」の発掘」 최병택「解放後歴史教科書の3・1運動関連叙述傾向」 論文 鄭演植「善徳女王と聖祖の誕生、瞻星台」 金基興「壊れた石窟庵の天蓋石」 이규철「1419年対馬島征伐の意図と成果」 이정철「磻渓柳馨遠の田制改革論とその含意」 都冕会「1895-1908年間、ソウルの犯罪様相と政府の刑事政策」 이하나「政府樹立期~1950年代文化映画と国家アイデンティティ」 研究動向 주강현「歴史民俗学の学事的意義と研究方法論一考」 書評 朴宰佑「高麗政治制度史研究の指針書:朴龍雲『『高麗史』百官志 訳註』신서원、2009年」 沈載祐「高麗刑法体系研究の深化のための基礎固め:蔡雄錫『『高麗史』刑法志 訳註』신서원、2009年」 『歴史と現実』73、2009.9 時論 김한종「韓国近現代史教科書騒動が残した問題」 特集:高麗前期政治制度の整備 朴宰佑「高麗前期政治制度史の評価と摸索」 김대식「10-12世紀東アジアの唐制受容」 신수정「高麗前期内史門下省体制下の宰臣」 류주희「高麗前期中枢院の設置とその正確」 権寧国「高麗前期軍政・軍令機構の整備」 論文 정요근「後三国時期高麗の「州」「府」分布とその設置の意味」 권내현「朝鮮後期入養の拡散推移と受容様相」 김영수「近代独島・鬱陵島名称をめぐる韓国と日本の視角」 장신「3・1運動直後雑誌『動員』の発刊と日鮮同源論」 書評 조형근「主体性の観点から見た日程時期場市の葛藤:許英蘭『日程時期場市研究:五日市의 변동과 地域住民』歴史批評社、2009年」 『歴史と現実』72、2009.6 時論 朴泰均「作戦統制権返還、核開発、そして盧武鉉」 特集:朝鮮時代地方の財政運営 손병규「[総論]朝鮮時代地方の財政運営」 李成妊「16世紀地方郡県の貢物分定と収取:慶尚道星州を対象に」 文勇植「17・18世紀社倉を通じて見た地方官の財政補用事例」 김경란「朝鮮後期東莱府の公作米運営実態とその性格」 論文 이정빈「高延武の高句麗復興軍と復興運動の展開」 李康漢「高麗忠粛王の田民辨整と商人登用」 최종석「麗末鮮初明の礼制と地方城隍祭の再編」 박윤재「1940-60年代惣村衛生研究所の設立と活動」 研究動向 鄭演植「韓国生活史研究の現況と課題:朝鮮時代生活史研究を中心に」 書評 廉馥圭「韓国都市史研究の現段階:高東煥『조선시대 서울도시사』태학사、2007年;吉田光南『近世ソウル都市社会研究』草風館、2009年」 朴賛勝「韓国民族主義と宗族的民族主義の解釈:신기욱『한국 민족주의의 계보와 정치』창비、2009年」 『歴史と現実』71、2009.3 時論 金基徳「韓国学術誌の展開方向と『歴史と現実』」 特集:金石文を通じて見た高麗前期仏教研究 이재범「[総論]高麗前期金石文を通じて見た仏教」 김수연「高麗前期金石文所載仏教儀礼とその特徴」 박광연「高麗前期瑜伽業の『法華経』伝統継承とその意味」 李貞薫「高麗前期王室出身僧侶の出家と活動」 論文 趙景徹「新羅の女王と女性成仏論」 라정숙「『三国遺事』を通じて見た新羅と高麗の観音信仰」 이혜옥「高麗后妃の政治的位相と影響力に対する再照明」 최이돈「朝鮮初期狭義の良人の用例と身分」 崔妵姫「16世紀両班官僚の貢物慣行と強制的性格」 研究動向 李庸起「歴史学、口述史と出会う:歴史学者の観点から見た口述史の現況と課題」 書評 朴泰均「強要された自律的選択:木宮正史『박정희 정부의 선택』후마니타스、2008年」 전상숙「韓日国共正常化の出発点、過去史認識:박진희『한일회담:제 1공화국의 對日정책과 한일회담 전개과정』선인、2008年」 1-20 21-40 41-50 51-60 61-70 71-80 81-90 91-100
https://w.atwiki.jp/scratch-kasoukokka/pages/66.html
桜国共和国(さくらのくにきょうわこく)とはFUN次元の2pマリと3pサウジアラビアとカリマンタン島と台湾の一部を領有してる国である 首都 リヤド https //scratch.mit.edu/studios/30247210/ 桜国共和国は旧神風アラビア首長国連邦の後継国である 歴史 2021年9月4日に建国 2021年10月23日に蹴尾戦争に義勇軍として参戦 同日カリマンタン島の一部を獲得 2021年10月29日に台湾併合 2021年11月3日に内戦が起きた 同日内戦終結したが旧桜国側がテロ組織桜国を結成 構成国 月光帝国 潮山民主国 政党 神風統一党 桜国共産党 桜を見る党 政治 一応民主主義を掲げてるけど事実上一党独裁である 軍隊 桜国共和国は陸軍、空軍、海軍で構成されてる 桜国万歳
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/353.html
満州国軍(まんしゅうこくぐん)とは満州国の国軍。1932年に創設。1945年に解体。 当初は「国内の治安維持」「国境周辺・河川の警備」を主任務とした、戦闘集団というよりは関東軍の後方支援部隊としての性格が強かった。後年、関東軍の弱体化・対ソ開戦の可能性から実質的な国軍化が進められたが、その時を迎えることなく終戦を迎え、満州国軍も解体された。 軍制 指揮系統 各軍(当初は6軍、後に11軍)の長は司令と称し、警備司令官(陸軍)・艦隊司令官(海軍)共に満州国執政(皇帝即位後は満州国皇帝)である溥儀の直接指揮下に置かれた(溥儀は天皇同様、軍を統帥する大元帥の地位にあった)。但し、それはあくまで制度上の話である。実際の満州国の軍事権力は関東軍の支配下にあり、異動・演習の実施・装備の変更・昇格人事のいずれも、関東軍司令部の批准が必要であった。 士官以上の階級 満州国では士官以上の階級を「将」「校」「尉」に分け、さらにそれぞれを三等に分けて下記のような三等九級に分けた。 上将 - 中将 - 少将 (日本軍の将官に相当) 上校 - 中校 - 少校 (日本軍の佐官に相当) 上尉 - 中尉 - 少尉 (日本軍の尉官に相当) 満州国軍では軍官学校(日本でいう士官学校)を卒業後、まず少尉に任官する。少尉を満2年で中尉へ、中尉を満2年で上尉へ、上尉を満3年で少校へ、少校を満3年で中校へ、中校を満3年で上校へ、上校を4年で少将へ、少将を3年で中将へ、中将を4年で上将へ、と昇進していく。上将は軍の最高位であり、終身職でもある。 上将の上には日本の元帥府に相当する将軍府が設置されており、これは名誉称号である。張景恵、張海鵬、于芷山、吉興の4人に「将軍」の称号が与えられている。 変遷 満州国軍創設当時(1932/4) 1932年4月15日公布の陸海軍条令により、満州の国軍が創設された。当初は当時の軍閥の軍隊に関東軍からの顧問を据えただけの構成であり、その主要任務は「国内の治安並びに辺境及び江海の警備」(陸海軍条例第1条)であった。 また、1932年9月15日締結の「日満議定書」には、満州国の国防を満州と日本の共同で担うべく、日本軍(ここでは関東軍)の駐屯を公式に認めている。これによって「関東軍」と「関東軍の支援軍としての満州国軍」が公式に成立した事になる。このように満州国はその防衛のほとんどを日本軍に担っており、傀儡国家とみなされる理由の一つとなっている。 部隊構成 部隊構成は下記のとおり分類できる。洮遼警備司令官を除いてそれまでの軍閥の配置そのままであったりと、「取り急ぎ」感が否めない。 軍政部(兵数:130人) 中央で軍政を掌握していた部局。 洮遼警備軍(兵数:16,200人) 担当区域:通遼、奉平、昌圓、梨樹、懐徳、雙山、遼源、開通、膽楡、安廣、鎮東、洮安、洮南、秦來、突泉県の東部、景星県の西南部 (新京(現・長春)の西側、北はチチハルの南側、南は奉天の北側までを管轄していた。) 奉天省警備軍(兵数:17,153人) 担当区域:洮遼警備司令官の担当区域外の奉天省 吉林省警備軍(兵数:44,692人) 担当区域:吉林省 黒龍江省警備軍(兵数:43,485人) 担当区域:洮遼警備司令官の担当区域外の黒竜江省 興安省警備軍(兵数:12,921人) 担当区域:興安省 (1932年4月の満州国軍創設当時には存在せず。1932年9月までに追加設置された模様) 江防艦隊(兵数:392人) 担当区域:黒竜江(アムール川)・ウスリー川といった国境河川部、及び渤海沿岸 尚、上記部隊の要員数は1932年9月時点のものであり、当時満州国軍政部最高顧問であった多田駿少将が陸軍省に宛てた報告書(国立公文書館所蔵「満州国軍事顧問並軍事教官一覧表外の件」)に従った。 日系軍官 満州国軍には創設当初から日本人が顧問、教官として所属していた。軍事顧問以外の部隊長等にも日本軍から転籍してきた日系軍官が配されることがあった(詳細は満州国軍軍事顧問一覧を参照)。 顧問の中に、1928年の張作霖爆殺事件の首謀者である東宮鉄男大尉の名が見られる。 海軍兵力 1932年2月に発足した江防艦隊がその起源である。艦隊とはいっても、陸軍として編成された軍閥が所有していた5隻の軍艦(小型の砲艦・警備艇)を編成したものであった。当初は満州駐在の日本海軍が支援していたが、その後海軍は江防艦隊から手を引き、海辺警察隊(後述)の支援に回ったたため江上軍と名を改め、陸軍の一部隊となった。 当初は主に河川部の国境警備を担当していたため、河川が凍結する冬季には、海軍兵も上陸して陸戦隊として勤務していた。 このため、実質的な海上兵力は海辺警察隊が担っており、独自の航空隊も存在した。主力艦船は「海威」級で、旧日本海軍の駆逐艦「樫」が引き渡されたものである。この海辺警察隊は領海警備・密輸取締りなど沿岸警備隊的な組織であるが、終始日本海軍が支援しており、士官・技術者・航空隊パイロットは海軍出身の日本人が多かった。このように、海辺警察隊は沿岸警備隊というよりは海軍としての性格が強かった。 こうした状況の原因は、黄海以上に黒竜江等の旧ソ連方面の河川が生命線と考えられていたこと、指導・支援の立場にあった関東軍と日本海軍の利害関係の対立があったこと等といわれる。 軍備拡大期(1935年頃) 満州国はその最初の5年間(日中戦争開始まで)で「とにかく国としての体制を作ろう」とがむしゃらに進んでいた感があり、満州国軍についても随時増強が進められている。 海軍兵力の補充 1934年9月に日本製の砲艦「順天」「養民」を配備している。 1935年9月に砲艦「定辺」「親仁」を配備している。 *詳細は江防艦隊の項参照 陸軍の組織改正 当初の軍編成がそれまでの軍閥のテリトリーそのままであったこともあり、1935年4月に満州国の行政区画にそって陸軍の再編成を実施した。 第1軍管区(兵数:12,321人) 第2軍管区(兵数:13,185人) 第3軍管区(兵数:13,938人) 第4軍管区(兵数:17,827人) 第5軍管区(兵数:9,294人) 興安東警備軍(兵数:929人) 興安西警備軍(兵数:858人) 興安南警備軍(兵数:1,052人) 興安北警備軍(兵数:656人) 江防艦隊(兵数:719人) 飛行隊の創設 1937年に飛行隊が創設されている。詳細はこちらを参照。 日中戦争開始後(1937年以降) 日中戦争が全面戦争になった後、陸軍は関東軍将兵を続々と(支那派遣軍へ異動させ)中国の戦場(この場合は山海関以南の戦場)に投入した。このため、従来のように「関東軍を主軸とした国防」構想自体に無理が生じ、満州国軍は「自力での国防」に方針を転換せざるを得なくなっていった。 国防法制定(1938年) 一般的にいう「徴兵制」の施行である。国内の20歳から23歳の男子を3年間軍務につかせて軍事訓練を施し、補充工兵、堡塁の構築、あるいは地方警察の補助等を行わせた。毎年春に20万人を招集し、軍務不適応とみなされた者は土木工事等3年間の勤労奉仕をさせた。 軍官学校 1939年(昭和14年)に新京市(現在の長春市)に陸軍軍官学校が設立され、将校養成を担った。満系生徒のほか、日系生徒(ここでは内地人の他に朝鮮人、台湾人も含まれる)も入学し、日満両国民が共に机を並べて練磨した。なお、第1期入学生徒中で日系生徒は172名にも上る。 地理的な近さから軍官学校生徒には朝鮮人の学生も少なくなかった。彼らの多くは第二次世界大戦後に創設された韓国軍に入隊し、日本陸軍出身者と共に韓国軍の基幹となる。また大統領となった朴正煕や国会議長・国務総理などを歴任した丁一権など、政治家として活躍した人物もいる。 一方で、朝鮮を植民地化した日本の傀儡国であった満州国の軍人が韓国軍の基幹を構成し、政治的にも影響力を行使した事を問題視する声も以前より存在している。2005年8月29日、反民族特別法によって民族問題研究所と親日人名辞典編纂委員会が発表した親日人名辞典名簿3090人のなかに満州国軍将校の勤務歴のある朝鮮人が親日派としてリストアップされた。 白善燁(朝鮮人):1941年(昭和16年)軍官学校卒業。中尉として終戦を迎える。後に韓国陸軍参謀総長大将となる。 朴正煕(朝鮮人):1940年(昭和15年)4月に軍官学校に入学、1942年(昭和17年)に新京軍官学校首席卒業、1942年(昭和17年)10月に日本の陸軍士官学校(57期)に派遣留学され、1944年(昭和19年)4月に卒業。中尉として終戦を迎える。後に韓国大統領となる。 また、当時の満州には医師の養成機関が極端に乏しく(満州医科大学のみ)、軍医の不足が著しかったため、満州国軍医学校も設立されている。これは日本の陸軍軍医学校とは違い、中学卒業者を入学させて医学教育を施し、4年後に軍医少尉に任官させるものであった。この建学思想は第二次世界大戦後の防衛医科大学校にも引き継がれている。 解散 多くの民族で構成され、拡充が進められた満州国軍であったが、あくまでも傀儡国家の軍隊であり、事実上関東軍の支配下にあった軍隊であったため、不満を持つ軍人も多く、ノモンハン事変の際に石蘭支隊歩兵第14団第1営による反乱事件が起こり、大戦末期にソ連軍が侵攻してくるとソ連軍に離反する者が相次ぐなど、離反者は後を絶たなかった。 1945年8月18日に皇帝溥儀が退位を宣言し、満州国が消滅したことで、満州国軍も正式に解散された。満州国軍の要人の多くは、ソ連の捕虜となった後中華人民共和国に引き渡されて戦犯収容所に収監されるなどして処罰された。構成員はソ連撤退後に国共内戦が発生した際に、国民党軍や人民解放軍に編入された。 満州国軍が参戦した戦役 満州国軍が参戦した戦役。 1933年、熱河省侵攻作戦 1937年-1945年、日中戦争 1939年、ノモンハン事件 1941年-1945年、太平洋戦争 1945年、ソ連対日参戦 軍装 軍服 (満州国)を参照。 軍旗一覧 関連項目 関東軍 軍服 (満州国) 満州関係記事の一覧 池上本門寺 - 東京都大田区に在り、満州国軍将兵の慰霊碑が存在する。 海上警察隊 (満州国) - 満州国の沿岸警備隊。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年4月12日 (土) 02 45。
https://w.atwiki.jp/japanwar/pages/14.html
ステージ一覧 ヨーロッパ ヨーロッパ地方とトルコを再現したマップ。 国家による格差がひどい。 日本列島 日本列島を再現したマップ。 山口県対戦 山口県を再現したマップ。 東京都23区内戦 東京都23区を再現したマップ。 第一次世界大戦 第一次世界大戦時の勢力などを再現したマップ。 宇宙戦争 宇宙をモチーフとした芸術的なマップ 公式クソマップ 三国死 三人用マップがないため急遽作られたマップ。