約 14,602 件
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/858.html
軍閥(ぐんばつ)とは多義的な用語であり、一つの定義に規定するのは不可能であるが、主なものについて挙げる。 国家における単一の近代的軍事組織が軍事を独占した状態になっている国家において、その官僚組織としての軍部内部における派閥のこと。特に旧日本軍内における派閥のことを言う。 軍事力を背景に地方に割拠する(国際的に承認・未承認を問わず、ある程度の実効支配地域を持つ)組織・集団のこと。 軍部内部における派閥 旧・大日本帝国陸軍における皇道派・統制派、旧・大日本帝国海軍における艦隊派・条約派などが挙げられる。しかし、軍部内における派閥は日本軍に限らずどこの軍隊にもありえるが、「軍閥」という名称では呼ばれない場合も多い。例えば、韓国軍における秘密組織であった「一心会」(ハナフェ)、やはり秘密組織である旧エジプト王国軍の自由将校団(ナセルなどが在籍)などは、その政治的野心も強かったものの、一般に「軍閥」とは呼ばれない。 軍事力を背景に地方に割拠する組織・集団 辛亥革命前後の中国のものが典型。例えば、辛亥革命前の代表的な軍閥領袖として李鴻章があげられる。李鴻章が私財を投じて兵を募り集め、訓練・組織化した軍閥は時の政府(清)に従順であったが、領袖の跡を袁世凱が継承してからは、次第に軍閥組織の利(ひいては軍閥領袖の意)を最優先として動く様になる(やがて孫文と裏交渉し、清政府に反目、やがては打倒勢力の中核となる)。呉佩孚、張作霖らは衝突や和解を繰り返しながら覇権を競い合った。しかし、中国国民党の北伐戦争で軍閥は打撃を受け、対日戦争や国共内戦で中国国内の状況が変わると国民党軍や中国共産党軍に編入され力を失った。 前近代の主権国家が成立する前の世界において、国家の政治体制は個々に軍事力を有した団体、あるいは地方政権の集合体であったものが多く、「国家」が後者の意味での軍閥の連合体の様相を呈することは常態であった。また、そうした場合、中央政府とはしばしば国家の全体に影響を及ぼしうる軍事集団そのものであり、これは前者の意味での軍閥に近いものであった。国民国家というのはかかる前近代を経て近代になって始めて成立した概念であり、そこから愛国心等も生まれていった。愛国心という概念は近代の産物に過ぎないのである。この意味では、日本の中世初期の武士団や中世後期の戦国大名の領国組織も、軍閥の定義には当てはまる。 近代の主権国家においては軍事力は国家の中央政府のもとに一元化されるべきものであり、また中央政府に一元化された軍事力はそれ自体が政府機関を運営する主権者ではなく、国家の主権者の命令に服するものでなくてはならない。つまり近代社会において軍閥が云々されるとは近代国家たるべき要件となる軍事力の一元化と、主権者への服従が達成されていない状態が継続していると考えてよい。 この意味での軍閥に近いものとしては、ソマリアの武装勢力や、民主カンプチア政権崩壊後のポル・ポト派、アフガニスタンの北部同盟、ムジャーヒディーン残党などが上げられる。 関連項目 世界の軍閥一覧 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年10月24日 (金) 13 15。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/43.html
Template 中華圏の人物? 張 学良(ちょう がくりょう、簡体字:Template lang?、繁体字:Template lang?、ピンイン:Template lang?、1901年6月3日 – 2001年10月14日)は中国の軍人・政治家。字は漢卿。張作霖の長男として遼寧省に生まれた。 人物 青年時代 1901年、張学良は当時満州地方の馬賊であった張作霖の長男として生まれた。母親(趙春桂)のことはよく分からないが、張学良が10歳の時に亡くなったようである。張作霖に可愛がられ、大勢の家庭教師が付き高い教養を身につけた。 1919年3月、父の創設した軍幹部養成学校である東三省講武学堂の一期生として入学。若い頃から記憶力が良く、300名以上の学生の姓名、出身地、字を暗記していた。また、試験で一番を取ったので父親との関係(当時張作霖は事実上の満州王であり、学良はいわば王子様)で不正をしていると疑われたが、生徒の席同士を離してカンニングが出来ないようにしてから試験を行った結果、ようやく実力を認められたという。また、昭和天皇と同年生まれで、20歳の時来日したが、当時皇太子であった昭和天皇と容姿が似ていると周囲に驚かれたという。初めは人を救う医者になりたいと思っていたが、結局は人を殺す軍人になってしまったと後述のNHKの取材で述べている。 武官時代 1920年、東三省講武学堂を卒業し、軍人としての道を歩み始める。満州の奉天軍閥、張作霖の長子として父と共に大日本帝国に協力的であった。1920年に安直戦争が勃発すると19歳の張学良は軍を率いて直隷派の救援に向かい、側近の郭松齢の補佐のもと、安徽派軍を大破し彼の名声は大いに上がった。その後、1922年の第一次奉直戦争、1924年の第二次奉直戦争でも活躍し奉天軍閥内で強い影響力を持つようになった。当時、奉天軍閥には2つの派閥があった、一つは楊宇霆ら馬賊時代からの側近からなる派閥であり、もう一つは張学良、郭松齢ら東三省講武学堂を卒業した若手の派閥である。両者は対日政策などをめぐり対立していた。やがて郭松齢が処刑されると彼の軍も張作霖直轄軍に加わり張学良は名実共に張作霖に次ぐ実力者となった。 奉天軍閥 1928年6月4日、関東軍の河本大作による張作霖爆殺事件により、張作霖が死亡すると張学良は側近達の支持を取り付け奉天軍閥を掌握し、父の領土満州を継承した。当時、蒋介石率いる北伐軍が北京に駐留し奉天軍閥との間に緊張が走っていたが、易幟(青天白日旗を掲げ、国民政府への服属を表明すること)することを条件に満州への軍事、政治の不干渉を認めさせ所領の独立を保つことに成功する。日本は林権助を派遣して説得したが、翻意させることは出来なかった。こうして日本から反感をかってしまったが決定的な対立には至らぬように工作し日本を軟化させた。1929年1月、以前より対立していた楊宇霆ら旧臣たちを反逆者として処刑し権力と地位を不動のものにした。 張学良は富国強兵策を採り軍事、金融、教育などの近代化を進めた。彼は次第に自信を深め1929年8月にはソビエト連邦が持っていた東中国鉄道を接収したことを切っ掛けに、武力衝突を起こして大敗したが、国民党系軍閥らの争いに介入して勢力を伸ばし河北省を接収し、蒋介石に次ぐ実力者と目されるようになった。 満州事変 1931年に入ると満州でも左派勢力に煽られた抗日運動が活発化し関東軍や在満邦人の強い反発をかっていた。関東軍が満州への武力侵攻を決め、軍を続々と集結させているときはいつもの軍事演習だと思い、何の対策も取らなかったと言う。 満州事変が勃発した時、彼は北京にいたが、日本軍侵攻の報告を受けると日本軍への不抵抗を指示した。応戦すれば日本の挑発に乗ることになると判断したことや平和解決を望んだということ、日本にとって国際的な非難を浴びるなど好ましくない結果をもたらすだろうと考えたということを当人はNHKの取材で述べている。 いずれにせよ、日本と積極的に戦わず退いたこと自体は国民政府の方針通りであった(この時期蒋介石は下野していたが、蒋の意向も同じであった)。これは国共内戦のため対日戦に兵を割く余裕が無かったことと、日本が全面戦争に踏み切るとは予期していなかった為である。ところが、日本は満州全域を占領したので、抗戦を主張した汪兆銘は張を批判し、「不抵抗将軍」と内外で蔑まれた。イタリアのムッソリーニやドイツのゲーリングに面会し、ファシズムの影響を受け、中国も強い指導者が必要と思うようになった。 西安事件 1934年張学良は帰国すると共産軍討伐副司令官に任命された。彼は河北省に残っていた旧奉天軍閥の残党を呼び寄せて軍を整えた。1935年、西安に駐留して9月から11月にかけて共産党の根拠地を攻撃したが、戦力では勝っていたものの士気の高い紅軍に連敗し多くの将兵を失った。11月末、共産党は張学良に抗日共闘を訴えるようになり、これに同調して極秘に周恩来と会見し両軍は停戦することになった。この時、既に対蒋介石クーデターの構想などが練られていたと言われる。1936年、蒋介石が張学良を督戦するために西安へやってきた。12月12日、張学良と楊虎城は西安事件を起こして蒋介石を拘束し第二次国共合作を認めさせた。 軟禁 翌1937年にその代償として逮捕され、軍法会議により懲役10年の刑を受けた。1938年に特赦を受けたが、実際は軟禁の身であった。1945年、第二次世界大戦に日本が敗北した後の国共内戦において、国民政府は中国共産党との内戦に敗れ、1949年に台湾に逃れたが、張学良も台湾に移され、50年以上も軟禁され続けた。この間、1955年にキリスト教に改宗した。 1975年の蒋介石の死後、次第に行動の自由が許されるようになり、戒厳令が解かれ中華民国(台湾)が完全に民主化を果たした後の1990年にはNHKの取材を受け大きな反響を呼んだ。日本については「私は一生を日本によって台無しにされました」「日本ははっきりと中国に謝罪すべきだ」と述べ、靖国神社問題については、「日本はなぜ東條のような人を靖国神社に祀っているのか。靖国神社に祀られる人は英雄である。戦犯を祀るのは彼らを英雄と認めたからなのか」と批判している。一方で「中国が日本より遅れているのは事実だから、中国を兄とは見なくても弟分と見て、その物資を用いるために力を貸してくれればよかった。しかし昔の日本は、中国を力で併合することしか頭になかった」と主張している。その後1991年に釈放され、アメリカのハワイに隠棲。そのまま生涯を終えた。100歳であった。 評価 国共合作を成立させたことから、中華人民共和国では「千古の功臣」、「民族の英雄」と呼ばれ、非常に高く評価されている。逆に中華民国内では正反対の「千古の罪人」として扱われ、特に黄文雄ら親日派は激しく批判している。何より最終的に共産党に中国大陸を追われたことが、中華民国での張学良評価を厳しくしている。但し、釈放など時間の経過に伴い、再評価の動きも起きている。 参考文献 臼井勝美:NHK取材班『張学良の昭和史最後の証言』(1991/8 角川書店 ISBN 4048210416、1995/5 角川文庫 ISBN 4041954029、いずれも絶版) 松本一男:『張学良と中国・西安事変立役者の運命』(サイマル出版会) 関連項目 中華民国の歴史 『中原の虹』浅田次郎の小説 外部リンク Template commons? 張学良論 原題:「張学良糊涂死了――仮英雄・仮将軍・仮基督徒」 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月11日 (土) 16 19。
https://w.atwiki.jp/pactsaku/pages/14.html
山本宗補写真展2019(工事中です。現在、写真がアップできない状況です) 「平和のための佐久戦争展」始まりましたよ❗本日17日(土)と18日(日)、佐久生涯学習センター(通称野沢会館)を会場に開催されます❗ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ おかげさまで二日間、まずまずの盛況ぶりでした。ご参加いただいたみなさまに感謝感謝感謝です。 私の二度のギャラリートークも時間を最初から決めてあったので、それぞれ50人前後の参加者がありました。 結びに「あの夏を語る」企画で講演された92歳の岡部仁子さんの極めて稀な戦争体験と今の社会情勢についてのコメントを掲載しておきます。 岡部さんは11歳の時に両親と共に佐久穂町の大日向村の分村移民として満州に渡り、葉タバコを作っていたという。16歳の時にハルピンにいた姉の姉の元に行き、関東軍の軍属として就職し、敗戦まで二年間働いた。 ソ連参戦後には前途を悲観したある軍人一家が凄惨な自決を図ったのを聞いた。その将校は家族の首を斬ってから自分は銃で自決したという。また別の母と三人の子どもの家族は母親が嫌がる子どもたちにも青酸カリを含ませて自決を図ったところ、小学校5年の兄が自分の口と弟の口から青酸カリをかきだして死ぬことを思いとどまったが母と妹の二人は苦しんだ末に死んでしまったという。 ハルピンに入城してきたソ連兵は囚人の集団だったという。略奪が目的で、武器を集めた後は楽器、お金を集め、夜になると目をつけていた女性を連れ去りに来たという。 岡部さんのいた寮では3人の女性が連れ出され、一人は妊婦さんだったという。 別のところでは一人の女性がみんなの身代わりになって自らソ連兵について行った人もいるという。 岡部さんも連れ出される寸前まで追い詰められたことがあり、その時は隠してある時計とお金を渡してかろうじて難を逃れたそうだ。 また、生き延びるためにソ連兵のためのアルコール製造の仕事もしたという。長屋がインチキな酒屋となっていて、昼に夜にアルコールを瓶詰したという。 ソ連撤退後にはハルピン郊外で二ヵ月の約束で八路軍の看護婦見習いとして傷病兵を介護し、数か月後には正看護婦にされ、国共内戦の前線を従軍して歩き、少しの傷は処置する役割だったという。 二ヵ月だけという約束が守られずに脱走する計画もあったというが、計画は発覚。その後にストライキがあり、日本人の待遇が改善され、白米と天ぷらが付、軍票も出ることになった。八路軍と行軍は中国南部の南寧まで続いたそうだ。南部では日本人を優遇してくれ白米が毎日出たという。 岡部さんは敗戦から帰国するまで8年間を中国共産党の軍隊と共に行軍する生活を送り、結婚することになる山梨県出身の男性とも巡りあった。 「戦争はいちばん醜いこと。国と国とが争い、人と人が争い、殺したり殺されたり。満州に渡った私たちは軍国主義の手先として使われた」 「戦争は二度としたくないです。今の政府のお偉いさんは戦争の経験がないので、第9条をなくすとか何とか言ってますが、それには断固反対です。どうしても平和な日本を作っていきたいです。その一人として及ばずながら頑張っていきたいです。今日はこの場をいただいたのでありがたく感謝します」 まさに平和のための佐久戦争展に相応しい岡部さんのお話だった。
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/21099.html
登録日:2012/09/07(金) 08 43 53 更新日:2024/05/29 Wed 17 09 10 所要時間:約 3 分で読めます ▽タグ一覧 一式双発高等練習機 戦闘機 日本軍 歴史 練習機 軍事 第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の練習機。 キ番号はキ54。略称は一式双発高練、一式双高練、双発高練など。 連合軍からは「ヒッコリー」(クルミの意味)のコードネームで呼ばれた。 昭和14年、帝国陸軍は扱い易い機体だが実戦での性能は低かった九五式二型練習機の後継機の製作を立川飛行機に指示。 条件として全金属・双発・引込脚式を基本とし、 正副操縦者のほかに操縦訓練生・航法手訓練生・通信手訓練生・爆撃手訓練生・旋回機関銃手訓練生などの生徒とその教官・助教、計6~7名が乗り組むことを求められた。 立川はロ式輸送機を生産した経験を生かして開発に着手し、試作機は昭和15年には完成。 テストの結果も良好で若干の改修が成された後、昭和16年7月に正式採用された。 立川としては初の全金属製双発機だったが、エンジンの信頼性や機体の耐久性は高く、操縦席の視界も良好。 さらに多目的スペースも確保されているなどかなりの使い勝手の良さを持っていた。 事実、操縦や射撃練習機だけでなく輸送機や哨戒機としても運用されており、かなりの汎用性と信頼性を有していたことが解る。 機体の大半は訓練機として各軍学校や教育飛行隊の他、司令部飛行班や飛行実験部にも配備された。 また輸送機の丙型は挺進連隊の落下傘降下練習機として使われている。この他、一部の機体は満州国の要人輸送機となったほか民間でも使われていた。 昭和20年6月まで生産は行われ、総生産数は1,342機。戦後も残っていた機体が国共内戦や第一次インドシナ戦争で日本人志願兵の手によって運用されている。 総生産数や色々な型が製作されたことからその汎用性は折り紙付きであり、帝国陸軍の傑作機のひとつと言えるだろう。 また昭和18年には輸送機型の全木製機であるキ110型の製作が指示されたが、昭和20年7月の空襲で試作機と設計図共々灰になってしまった。 それでも製作は再開されたものの8月の終戦で立ち消えになった。 2010年8月に十和田湖に本機が沈んでいるとの報告があり、2012年9月5日に有志によって引き揚げられた。 昭和18年9月にエンジントラブルで墜落した北部第74部隊の機体と見られており、乗員4名のうち3人が死亡。 生き延びたのは少年兵1人のみであった(なおこの少年兵は近くの旅館の主に救助されたが、シベリア抑留で死亡してしまったらしい)。 事故の一部始終を目撃していた当時13歳の旅館主の息子の証言により双発高練と確認され、一度引き揚げに失敗したがこの度無事成功した。 墜落地点が淡水の深い所だったせいか機体の錆びは少なく、また垂直尾翼の飛行部隊マークも残っているなど当時の塗装もあるという。 是非とも大事に保存していただきたいものである。 追記・修正お願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/37.html
{{大統領 | 人名=蔣介石 | 各国語表記= | 画像=Chiang Kai-shek Colour.jpg | 画像サイズ=175px | キャプション=蔣介石(1945年5月) | 代数=初 | 職名=総統 | 国名=中華民国 | 就任日=1948年5月20日 | 退任日=1975年4月5日 | 出生日=1887年10月31日 | 生地=Template QIN1890?浙江省奉化県 | 死亡日=1975年4月5日 | 没地=Template Flagicon?中華民国台北市 | 配偶者=宋美齢 | 政党= 中国国民党 | サイン= }} Template Chinese? thumb|220px|[[張学良とともに]] 220px|thumb|[[宋美齢、アメリカ軍の准将スティルウェルとともに]] 220px|thumb|カイロ会談で[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルトとチャーチルとともに(1943年)]] thumb|right|220px|[[北伐#国民党による北伐|北伐における蒋介石(1926年)]] 蒋 介石(しょう かいせき、簡体字:Template lang?、繁体字:Template lang?、ピンイン:Template lang?、1887年10月31日 – 1975年4月5日)は、中華民国の政治家、軍人。国民政府主席、初代総統で5回当選し、あわせて1943年から死去するまで中華民国元首の地位にあった。 名は中正で字は介石、譜名(族譜上の名)は周泰、原名(幼名)は瑞元、学名は志清。現在の中華民国では蒋中正(チアン・チョンチェン)の名称が一般的。欧米のメディアからは大元帥を意味する Generalissimo とも呼ばれていた第二次世界大戦の時代、他に大元帥と呼ばれていたのは昭和天皇とヨシフ・スターリンである。。英語表記では Chiang Kai-shek (チアン・カイシェック)。 年譜 1887年に奉化県渓口鎮に生まれる。 1902年毛福梅(当時19歳)と結婚。 1906年保定陸軍速成学堂で軍事教育を受ける。 1907年(明治40年)、渡日し東京振武学校へ留学する。 1909年大日本帝国陸軍に勤務。( - 1911年) 1910年蒋経国誕生。(後年、毛福梅は出家、離縁する) 辛亥革命に参加。後に孫文に認められ、国民党内右派の代表として頭角をあらわす。 1923年孫文の指示により、ソ連の軍制を視察。 1924年広州の黄埔軍官学校校長に就任。 1926年7月1日、中国国民党・北洋軍閥等に対し北伐を開始。 1927年(民国16年)、宋美齢と結婚。 1927年、上海クーデターで中国共産党を弾圧。党および政府の実権を掌握する。 また同年9月に満州問題を主題とし田中義一首相と会談。ただし物別れに終わる。 1928年、政府主席となる(南京国民政府)。基本政策は反共、対日、対英米善隣外交。 1936年、西安事件で軟禁される。この事件により対日・反共政策の見直しを迫られる。 1937年(民国26年)、盧溝橋事件を契機に、抗日を推し進める。日本軍による首都南京の占領が不可避と判断し、四川省の重慶へ遷都。 1943年、カイロ会談に参加する。 1945年、抗日戦争(日中戦争)に勝利。毛沢東との交渉により双十協定を締結する。 1946年、国共内戦に突入する。反共産主義を掲げるアメリカから全面的な軍事支援を受ける。 1948年、中華民国の初代総統に就任(ただし反発を受け翌年辞任) 1949年、国共内戦で敗北。首都南京を脱出し、重慶などを経て12月に台湾へ到着。事実上台北への遷都を強いられる 1950年3月、再び総統に就任(第五任(第5期)まで務め任期中に死去) 1969年、交通事故に遭って体調を崩し、この年を境に表舞台には出なくなる。 1975年4月5日、死去。死因は心臓病とも言われる。Template 没年齢?。任期中死亡のため副総統の厳家淦が後任総統に昇格。 生涯 蒋介石の生涯については、多くの書物が出版されているが、虚偽の記述も多数散見され、2008年現在でも各国の蒋介石研究は混乱している。 蒋介石は、1887年に清国の奉化で塩商人の蒋肇聰と王采玉の間に生まれた。成人後は日本の東京振武学校へ留学した(当時は中村という日本名を名乗っていた)。その後辛亥革命に関わったことで孫文からの信頼を得たという話があるが、孫文はそれほど積極的に蒋介石を信頼してはいなかったとも言われている(黄文雄著『蒋介石神話の嘘』明成社ほか)。 蒋介石は、ソ連の支援で設立された黄埔軍官学校校長となり、1925年の孫文死後は後継者争いがあったが、1926年中山艦事件以降に国民党軍を掌握し、北伐を完成させ、1928年に中華民国の主席となる。 中国共産党とは、いわゆる「上海クーデター」以降敵対関係にあったが、西安事件により第二次国共合作を強いられ、アメリカやソ連の協力を得て日中戦争を戦い抜いた。日本が敗戦した1945年以降に再び中国共産党との間で国共内戦が勃発。1949年に共産党に敗北し台北に遷都(台北は臨時首都)。その後1950年に中華民国総統に就任。1975年に死去するまで総統の地位にあった。 第一次国共合作の頃は、「赤い将軍」として共産主義を礼賛していたが、欧米の圧力や浙江財閥との関係により、「上海クーデター」以降は反共主義者となり、日中戦争勃発の前は抗日闘争よりも共産党を弾圧する政策を優先した。しかし、スターリンは、毛沢東よりも蒋介石を高く評価していた(黄文雄著『蒋介石神話の嘘』、倉前盛道著『悪の論理』ほか)と言われ、毛と中国共産党を犠牲にしても蒋介石を通じて、中華民国を赤化させるつもりであったという説もある。実際、西安事件の際は、毛沢東は蒋介石の処刑を主張したというが、スターリンは許可しなかった。蒋介石の息子の蒋経国は(実質的な人質として)モスクワへ留学している。 辛亥革命前後に青幇に加入し杜月笙とは義兄弟の関係であり(蒋の方が位は下)、上海クーデターの際には青幇の協力を得て共産党員の大量殺害をおこなった。その後も青幇の麻薬資金が蒋介石の経済的基盤となる。杜月笙の墓地には蒋介石揮毫による「義節聿昭」の牌がある。 孫文の継承 孫文は1925年3月12日に亡くなり、国民党には権力の空白が生まれた。権力闘争は国民党右派側にいた蒋介石と孫文の親しい戦友であり、党の左派側にいた汪兆銘との間で起きる。蒋介石は党内部での地位は比較的低く、汪兆銘が孫文の国民政府議長を継いだが、蒋介石は軍事力と中山艦事件からの政治工作によって勝利した。蒋介石は1925年国民革命軍の最高司令官に就任し、1926年7月27日には中国北部を支配する軍閥を駆逐して国民党の下に国家統一をなすための北伐と呼ばれる軍事行動を開始した。 北京に対して進攻をかける前に国民革命軍は三つに分けられ、西側は汪兆銘が一団を率いて武漢を、東側は白崇禧が一団を率いて上海を、蒋介石は一団を率いて中央で南京の支配が割り当てられた。しかし、1927年1月に、汪兆銘と彼の国民党左派同志は中国共産党及びソビエト工作員ミハイル・ボロディンと組んで大衆動員と歓呼の中、武漢を手中にし、国民政府は武漢に移ったと宣言した。3月に南京を攻略し(南京事件参照)、上海が親密な白崇禧の支配下になってからは、蒋介石は彼の軍事行動を停止することを強いられ、国民党の浄化及び左派との対決を決意した。 4月12日、蒋介石は何千に及ぶ共産主義者の容疑を持つ者たちへの迅速な攻撃を開始(上海クーデター)。彼は胡漢民を含む保守の同志の支持を受けて国民政府を南京に設立した。国民党から共産主義者は排除、ソビエトからの顧問は追放され、このことが国共内戦開始につながる。汪兆銘の国民政府は大衆に支持されず、軍事的にも弱体であり、まもなく蒋介石と地元広西の軍閥李宗仁に取って代わられ、結局汪兆銘と彼の左派グループは蒋介石に降伏し、南京政府に参加した。ついに軍閥拠点であった北京は1928年6月に支配下とされ、さらに12月には満州軍閥張学良が蒋介石政府に忠誠を誓約した。 蒋介石は、孫文の後継者としての彼自身の立場を確立するために演出を行った。1927年12月1日、蒋介石は政治的にかなり重要な相手である宋美齢(孫文の妻・宋慶齢の妹)と上海で結婚し、孫文の義理の兄弟となった。彼女の姉は孫文の未亡人である宋慶齢であり、蒋介石は前には宋慶齢に求婚したが即座に断られている(宋美齢の両親を喜ばせるために、蒋介石はまず彼の最初の妻及び愛人たちと別れ、結局キリスト教に改宗することを約束しなくてはならなかった。1929年に、蒋介石はメソジストの教会で洗礼を受けている)北京に到達すると蒋介石は孫文に敬意を表し、孫文の遺体を首都南京に運ばせ、壮大な霊廟(中山陵)で祭った。 蒋介石の歴史的評価 220px|thumb|宋美齢とともに[[台湾を訪問する蔣介石]] 蔣介石の歴史的な評価については、日中戦争を戦い抜き、台湾に移ってからも強力な指導力で中国共産党と対峙した中華民国の指導者として賞される面と、白色テロで台湾を支配した独裁者であり、自身の息子に権力を世襲し、事実上の君主として振舞ったとして非難される面の両面を持っている。 蒋介石と毛沢東に会ったアメリカの外交官は、座り方に注目して両者の違いを見極めようとした。背筋を伸ばし、気品を備えた蒋介石に対しゆったりと温和であった毛沢東を比べている。 中華民国 戒厳令時代には、中華民国の指導者、中国4000年の道徳の体現者として尊敬の対象とされ、蒋介石の銅像が中華民国のあちこちにあった。さらに中華民国の学校には孫文と蒋介石の肖像画が必ず飾られていた。切手等には蒋介石にかかわるものが必ずある。さらに蒋介石は台湾の高雄に澄清湖(チョンチンフー)という観光スポットを作った。これは中国大陸にある西湖をまねたものだといわれている。そこには中興塔をはじめ八つの見所がある。実務的な貢献としては大陸から撤退するにあたって大量の美術品(膨大な故宮博物院の所蔵品もこの際に潜水艦で運ばれた)、巨額の金銀や優秀な人材(料理人までも)を運び込んだ。このことが後のインフラ整備や経済発展の原動力となったという説もある。 また、戦後の台湾は、蒋介石が統治したから、共産主義者の手に落ちなかったと主張する人もいる。 しかし一方では、二・二八事件における数々の虐殺行為や、戒厳令を敷き、白色テロによる支配を行ったため、「アメリカは、日本には原爆を落としたが、台湾には蒋介石を落とした」として、(特に本省人の間には)根強い拒否反応を持つ人が多い。また、蒋介石が本省人知識階級を大量虐殺し、日本語の使用を完全に禁止(当時の台湾人は日本語の文献を通じて世界の最先端知識を学んでいた)したために、台湾経済の発展は大きく後退したとの説もある(台北二二八紀念館の資料等)。また、蒋介石が「反攻大陸」のことを第一に考えたためアメリカや日本などの説得を無視して、国際連合を脱退してしまった。そのため、台湾は現在の様な国際的に国家としては承認されない状況に陥ってしまったと考える者は少なくない。そのため息子の蔣経国などと比べると、本省人の間では評価が低い。 蒋介石は、息子の蒋経国への中華民国の支配権の世襲を準備した。世襲は、共和国の権力委譲としては不適切であったが、蒋経国は、最後まで「反攻大陸」を望んでいた父親とは全く別の道を歩んだ。経国は、いくつもの特務機関や秘密警察を使って台湾人への過酷な支配を続ける一方で、「私も台湾人だ」と発言、台湾の経済復興政策・民主化政策・本省人登用政策などの台湾本土化政策を推進したのである。 戴国煇は「(蒋介石は)政治的にも軍事的にも戦術家としては一流であったが、戦略家の器ではなかった。」と評し、後継者を息子の経国に指名したことを「毛沢東は周恩来を信じられたが蒋介石は息子以外誰も信じることができなかった。陽明学の信徒としての限界ではないか」としている。 日本 thumb|right|220px|蒋介石を日本亡命中に庇護していた[[犬養毅と頭山満とともに(1929年)]] 蔣介石は日本の高田の砲兵学校で軍事教育を受け、日本に亡命した際には日本政財界による支援で清朝打倒に奔走するなど日本との関係が深かった。 (南京事件)1927年、蒋介石率いる中国国民革命軍(革命というのは、共産革命ではなく三民主義に基づく革命)が南京に入城すると、革命軍の一部が日・英・米などの領事館を襲撃するという事件が起きた。英米の軍隊がこの行為に対して徹底的に反撃を加えたのに対し、日本は死者を出しながらも無抵抗を貫いた(幣原平和協調外交)。しかしこの政策は裏目に出て、むしろ中国側が日本を侮るようになってしまった。この事件は主に中国軍兵士によるものであるが、日本においては「蒋介石の侮日政策」として知られるようになる(後にソ連公館から張学良軍が押収した文書等から判断すると中国共産党の扇動の可能性が強い)。 蒋介石は日本軍との戦いには消極的で、むしろ中国共産党を警戒していた。しかし張学良による西安事件が起こり、共産党と協力して、日中戦争から1945年までは日本軍と戦う事となった。その当時の自身の日記では日本を「倭」と表記し終始蔑んでいた。 日本の敗戦後は、「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず)と称して日本兵の中国大陸からの復員に最大限の便を図った。これは当時中国に駐留する日本軍が強力で、戦争中の国民政府軍(兵力は日本軍を上回っていた)が連戦連敗であったため、なるべく刺激せずに穏便に撤退させたかったというのが真相のようである。但し、この撤退については後述するように蒋介石を好意的に評価する日本人もいる。 日本に関するエピソードにはほかに以下のようなものがある。 日本を連合軍が分割占領することや天皇制廃止には消極的だった。日本のことを熟知していた蒋介石は、ルーズベルト大統領からしばしば意見を求められている。「日本の起こした戦争の主犯者は、日本軍閥であるから、日本の国体問題に対しては戦後の日本国民自身が解決すべきであると考える」と述べている。(日本の占領政策に関するルーズベルトとの手紙のやりとり) 終戦時に中国にいた日本人の数は、軍人120万人、民間人80~90万人で、復員・引揚には数年を要すると言われていたが、蒋介石の便宜により10ヶ月で復員・引揚を完了させている。しかし、BC級戦犯として、多くの罪もない日本軍人を処刑したのも蒋介石の政府であった。 カイロ会談では、中華民国は日本に進駐する考えのないことを表し連合国側の占領政策を変えさせた結果、ソ連の北海道進駐を阻止する重大な起点になった(カイロ会談において、日本の分割統治計画があった)。もっとも、蒋介石は、戦後の国共内戦の勃発を予想しており、兵力を日本占領に割くことをためらっていたという説もある。兵力の不足は、台湾の占領が漸く10月になってからであったことや、陳儀長官と共に台湾へ渡った中国軍のレベルが低かったことなどからも十分想像できる。 文化や習俗の面で、非常に日本を尊敬していた。寒い冬の朝でも冷たい水で顔を洗う(中国人にはこのような習慣はない)日本人の話を聞いて、感心したという。また、明治天皇を尊敬しており、戦後も総統代理として蒋経国を明治神宮へ公式参拝させている(許國雄著『台湾と日本がアジアを救うー光は東方より』明成社ほか)。 第二次大戦中に、日本軍が拉孟・騰越で連合軍の大軍(拉孟では32倍・騰越では25倍)を相手に戦い、それぞれ味方の6倍の損害を与えて玉砕したことを讃え、「東洋道徳の範とせよ」と中国軍に訓令を発している(相良俊輔著『菊と龍』光人社ほか)。 戦後、台湾へ移ってからは、富田直亮中将を団長とする旧日本軍の将校団(白団)を招き、国府(中華民国国民政府)軍を秘密裏に訓練させた。米国政府はこれを厳しく非難し、国府軍内にも反対の声が挙がったが、蒋介石は白団による教育訓練を断固推進した。1949年10月、中国人民解放軍が金門島等へ大挙侵攻をはかった際は、旧日本軍の根本博中将(終戦時に張家口でソ連の大軍を迎撃撃破し、在留邦人を無事避難させたことで有名)らが国府軍を作戦指導し、人民解放軍を完膚なきまでに撃破している(中村祐悦著『白団ー台湾軍を作った日本軍将校たち』芙蓉書房ほか)。 中華人民共和国 蒋介石とは大陸で内戦を戦い、中華民国が台湾へ移った後も海峡を挟んで長らく対立していたため、その評判はすこぶる悪かった。しかし、国民党の台湾化が進み、民主進歩党などの野党が結成され、台湾独立運動が盛んになってくると、蒋介石の役割が再評価され始めた。これは、生前の蒋介石が「反攻大陸」を国是とし、共産党とは別の立場から「一つの中国」を主張していたため、蒋介石の評価を高めることによって「台湾独立」を牽制する狙いがあると見られている。 人物 陽明学の信奉者である。戦後にGHQが安岡正篤を戦犯に指定しようとした際に、蒋介石が反対したとも言われている。遺されている小物や衣服、写真を見てわかるとおり、公式の場で特注の軍服などを着用していたものの、プライベートでは派手好きな妻と反対に非常に質素な生活を好み、静養地でも読書に耽っていたり、妻と茶などを楽しむ程度だった。現在中正紀念堂に展示されている物の殆どは外国から贈られた勲章や孫文から与えられた掛け軸がほとんどである。 蒋介石にちなんだ事物 台湾 thumb|220px|right|[[中正紀念堂]] 中正国際空港 - 桃園県にある台湾省最大の国際空港で、英語では蒋介石の英語表記の略をとりC.K.S airport と呼ばれた。2006年、台湾桃園国際空港に改称された。 中正紀念堂 - 蒋介石を記念し、彼の没後に台北市中心部に作られた記念館。 慈湖紀念雕塑公園 - 台湾の民主化に伴い、次々と撤去され始めた蒋介石像を収集して展示している公園。蒋介石の遺体が安置された慈湖にある。現在も台湾全土から集められ、その数は200体近くに上ると言われている。 中正路 - 中華民国の一般的な道路の名前。おおむね都市の中核的な路線にその名が振られる。 紙幣 - 没後の1980年から、台湾元の高額紙幣に蔣介石の肖像が使われてきた。 李登輝政権末期から準備され、政権交代後の2000年以降発行された現行設計の紙幣でも、高額紙幣では科学技術・教育・スポーツを象徴する絵柄に取って代わられたものの、5券種中4番目にあたる200元紙幣に描かれている。ただし、日本の2000円札同様、市中での流通量は極めて少ない。なお、10元、5元、1元硬貨にも蒋介石が描かれている。 日本国内 箱根彫刻の森美術館中正堂 - 箱根 彫刻の森美術館内にある。蒋介石からの恩義を日本の青年が未来永劫忘れないことを目的としてフジサンケイグループによって建てられた。 中正神社 - 蒋介石が、日本が敗戦した際に寛大な処置を取り、復員に便宜を図ったことなどを讃えるため建立。(愛知県幸田町) 蒋介石頌徳碑- 横浜市内の伊勢山皇大神宮内生誕100年記念に建立、傍に 統一教会幹部の助野健太郎による由緒書きがある。 中正堂会館- 日華文化協会が入居している。(港区南麻布 1968年竣工) 台湾における脱蒋介石化 民進党政権は、台湾正名運動の一環として、台湾各地に残る蒋介石色の排除を進めている。しかし、民進党政権主導による脱蒋介石化には、最大野党中国国民党とこれの分派である親民等、新党など泛藍連盟の支持者からは批判的である。 最近では、これに基づいて行政院が2007年に蒋介石を記念する中正紀念堂を台湾民主紀念館と改名したが、立法院が改名に関する法律である台湾民主紀念館組織規程を否決したため、1ヶ月あまりで中正紀念堂に戻されることとなった。しかし、以後も館内の蒋介石像は228と書かれた横断幕や多数の凧によって覆い隠され、館内館外看板も民主紀念館のままであり、それまで行われていた中華民国軍の儀杖兵の配備も廃止されたままである。 また、高雄の文化中心(文化センター)の蔣介石像も撤去された。 「蒋介石」という呼び方 日本における、(少なくとも)中国近代の歴史の記述では、中国人の名前の呼び方は、通常、「姓+字」ではなく、「姓+名」を用いる。例えば、袁世凱、毛沢東、周恩来、張作霖、孫文、黄興、宋教仁、段祺瑞などである。汪兆銘(「姓+名」に加えて、「姓+号」である「汪精衛」がしばしば用いられる)という例外があるが、日本との深い関係がその理由だとも推測される。これらと対比して、蒋介石の場合、「姓+字」が一般的に用いられているということのみならず、「姓+名」である「蒋中正」という呼び名が、専門家や一部の中国近代史に詳しい者以外には、日本においてはほとんど知られていない、かつ、使われていないという、奇妙な状態になっている。この理由は、(蒋介石による)自己使用説、日本マスコミ説(日本の新聞説)、日本政府公式文書説、歴史家説などがありうるが、現在までのところ不明である。なお、英語でも「Chiang Kai-shek」で、「蒋介石」を訳した呼び方となっている。 日本の保守派の蒋介石観の変遷 戦後、日本の歴代政権は台湾を反共陣営の一員として、また国連常任理事国として修好につとめていたが、日中国交回復の機運が高まると中国国民党の宣伝機関は危機感を強め、日本の保守メディアに急接近し様々な宣伝活動を行うようになった。代表例としてサンケイ新聞による蒋介石秘録の連載、國民新聞 (1972年-)による反中国共産党パンフレットの発行、マスコミ総合研究所の雑誌アジア・レポートの発行。そのような中で「以徳報怨」は多くの自民党政治家、保守言論人や右翼団体がこの言葉を引用し蒋介石礼賛を行った。 しかし1990年代半ば、中華民国の民主化が進み、台湾独立派の政党が誕生すると、蒋介石の後継である「ひとつの中国」を標榜する国民党は、むしろ親中共派的な位置に立つ事となった。日本国内において活動する台湾独立運動家たちが、敵の敵は味方、反中国の観点から日本の保守派に接近した。金美齢がコーディネートしたとされる小林よしのりの「台湾論」が成功を収め、日本の若者に対しても蒋介石=悪玉論が広まった。 日中戦争を肯定する立場の言論人も、中華民国側に非がある理由として、蒋介石の「侮日政策」をあげつらうようになった。蒋介石を高く評価する理由のひとつである「以徳報怨」も、日本軍に対抗出来ない状況による窮余の策である事が指摘されるようになった。それに引き摺られる形でかつて蒋介石を礼賛していた産経新聞や保守言論人も蒋介石に否定的な意見を述べるようになっている。 このような現況に対し、平沼赳夫は2008年1月28日にマスコミ総合研究所の会合で、蒋介石が日本の天皇制を守ってくれたと擁護し、日本と中華民国の国交が断絶した後も、日本の保守系政治家が中華民国を訪れた時は蒋介石の墓に参るのが礼儀であったが近年は行われなくなったとの批判を行った。また、小林よしのりの著作にも、蒋介石を「単純な悪玉」としてあげつらうことには否定的と見られる記述がある。 参考文献 蔣介石秘録取材班 『蔣介石秘録』全十五巻(産経新聞社)1975~77年 蔣介石秘録取材班 『蔣介石秘録-日中関係八十年の証言-』上下(産経新聞社)1985年 保坂正康 『蔣介石』(文春新書)1999年 池口恵観 『蒋介石 その偉大なる生涯』(論稿社)1976年 黄文雄 『蒋介石神話の嘘ー中国と台湾を支配した独裁者の虚像と実像』(明成社)2008年 注釈 関連事項 孫文 蒋経国(長男) 蒋緯国(次男) 蒋友柏(曾孫) 中国国民党 中華民国の歴史 中華民国の政治 中華民国憲法 張学良 毛沢東 日中戦争 中国共産党 外部リンク Template Commonscat? 中華民国総統府公式サイト 慈湖紀念雕塑公園(蒋介石銅像公園) 中正国際空港 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月30日 (木) 18 56。
https://w.atwiki.jp/teitoku_bbs/pages/2515.html
25 :ひゅうが:2014/06/28(土) 16 09 36 戦後夢幻会(仮称)ネタ ――「皆さん。 我々は今こそ明治の視点に立ち返って周囲を見渡さねばなりません。 わが国は力によって東亜に平和と安寧を確立するという大義に酔い、数えきれない過ちを犯したことは未だ焦土から立ち直りきっていない祖国の現状が証明しているかと存じます。 また、外地においては未だに50万余の将兵が極寒の永久凍土から驟雨に草蒸す熱帯林で帰還の日を夢見ています。 我々は5年前、人間はひとりでは生きていけないようにその集団である国もまた善隣と信義によって成り立つべきであると確認しました。 その精神についてはおそらくこの放送をお聞きのすべての皆さんが同意されることでしょう。 皆さん。 ですがここで考えてください。 果たして、自ら従容として死に赴くことは幸福でありましょうか? 私にはそうは思えません。 なぜなら、「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」生きてこそ、将来の希望をともにし、そして被った汚名は雪がれるからであります。 皆さん。 お聞きのこととは思いますが、現在、わが国には危機が迫っています。 独立したばかりの隣国で発生した戦争は釜山の陥落という結末に終わらず、現在対馬におきまして激戦が展開されております。 また、はるか南の沖縄においては国共内戦の余波が同じく日本人であるかの地の人々を覆い尽くさんとしています。 このような現状において、我々はただ無手で平和をのみ唱えていればよいのでしょうか? 繰り返しますが私はそうは思いません。 本土決戦、一億玉砕。この言葉を連呼してただ何かにせかされるように破局へと狂奔するのとそれは違いないからです。 だからこそ、私、は内閣総理大臣として国民の皆さんに提案したい。 わが国が再出発して以来育て始めた『小さな芽』は、潰してしまうわけにはいかないのだと訴えたい。 子供たちの未来は、希望に満ちているべきです。 未来は私たちが守らなければならないのです。」 ――1950年8月15日 日本国首相 吉田茂のラジヲ演説より ――「第一項 日本国民はその生存のために自国を防衛できる基本的権利を有する。 第二項 陸海空その他の戦力は、この目的においてのみ保持することができ、また運用される。」 ――日本国憲法第9条(昭和25年第一次改訂による) ――「私は、日本人というのは悪魔かその同族であると考えていた。 恥ずかしい話であるが、私たちの対馬の臨時政府が失われる時、あの2個中隊の挺身をこの目で見ることがなければ真の意味でこの隣国を知ることはできなかっただろう。 人が人と認めること、互いの理解や恩讐の解消はそうしてはじめて実現することなのだ。 かつての民族の敵は、今や私の恩人となったのだ。」 ――1950年8月20日 博多臨時政府 李承晩大統領の退任演説 ――「恥ずかしげもなく日帝に阿る資本主義者どもを打倒し、かの地の同胞に自由をもたらすべく、我々は忠烈王の理想を引き継ぐものである」 ――1950年9月1日 ソウルからのラジオ放送 ――「生きてりゃもう1回くらいやれるものさ。」 ――1950年9月15日 日本国国防軍参謀 博多湾防衛線にて ――「わが軍の前には自由を待つ人々がいる。そして背後は諸君らの知る『あの』日本軍が固めてくれている。諸君、恐れるものは何もない!」 ――1950年9月20日 ダグラス・マッカーサー 仁川沖にて ――「発:防衛艦隊(GF)司令部 宛:第1艦隊旗艦 特大型警備艦『ながと』 本文:天佑我にあり。全艦突撃せよ!」 ――1950年9月22日 ウラジオストク沖にて受信された電文
https://w.atwiki.jp/army2ch/pages/152.html
「支那」というのは正確にはどこを指すのでしょうか? 「国共内戦について」なぜ国民党は共産党に敗北したのでしょうか。 日本領事館への中国武装警察の侵入事件だけど、あの映像は誰が撮ってたんだ? 中国が台湾に軍事進攻する場合の作戦で可能性の高い作戦を教えてください。 中国の大都市には核戦争に備えて地下都市があるのでしょうか 戦前に中国の軍艦を生み出していた、上海の江南造船所は何年ごろに、どのような経緯で作られたんですか? 中共はどんな功績があって、常任理事国なのでしょうか? 中華人民共和国には政治将校はいるんですか? 中ロって仲が悪いんでしょうか? 「満州民主主義人民共和国」というような国が作られなかったのは何故なのでしょう? 中国の軍事費の実態は? 中国はどの国を仮想敵として軍備を整えてるのか? 中国脅威論ってよく聞くけど、アメリカの軍事力に追いつくのは半世紀は先だろ?杞憂じゃね? 中国が海洋権益を獲得するときの常套手段は? 大量破壊兵器拡散に中国が関与しているというのは本当か? 中国の戦闘機開発能力って日本を上回ってるの? 中国では旧ソ連のKGBみたいな軍から独立した強力な機関はあるのかな? 火薬が発明された中国で、火器の発展がアヘン戦争まで停滞してしまった理由は何故なんでしょうか? チベットでアフガンみたいなゲリラ戦は不可能なの? 満州はソ連軍に占領されたのに、今はなんで中国領なんですか? 中国共産党対外連絡部の役割とは? 飛行艇の分野では中国の持ってる力ってすごかったりしますか? 最近の中国の戦闘機作ってるのはどんな会社なんですか? 中国は報復攻撃の犠牲をいとわず、いざとなれば核の使用を躊躇わない・・という中国の核戦略について公式ソースはあるのでしょうか。 日本が防衛予算を大幅に削減したら中国は軍事費削減するかな? 中華民国滅亡時、蒋介石に従っていた軍閥の指導者たちはどうなったのでしょう? 中国は朝鮮戦争で国連軍と戦ったのに何故、国連の常任理事国になれるの? 今最も中国と戦争になりそうな国はどこでしょうか 中国が地下に巨大基地を建設してるという情報の信憑性は? 中国が台湾に武力侵攻する可能性は? 中国はPKOなどには積極的ではないの? 中国とソ連が国境線を巡って戦闘した時、核戦争勃発の可能性の心配はされなかったのでしょうか? 中国共産党は戦後の国共内戦を日本軍の装備で戦ったと聞きましたが、これはどうやって入手したのでしょうか? 中国が人工降雨弾を高射砲でバカスカ撃っていたということを聞いたんですが成分はちゃんと無害なものを使ってるんでしょうか? 中国の武装警察って普通の警察じゃないの? 国共内戦で旧日本軍の武器や化学兵器は具体的にどの程度利用されたんでしょうか? 中ソ対立の頃は中国と東側の親ソ国との軍事関係はどうなってたんですか? 何故アメリカは国民党への援助を止めたのですか? 「支那」というのは正確にはどこを指すのでしょうか? 正確な範囲なんてないけど、中共の版図から満州、外蒙、チベットを除い くらいだな。西の境はさっぱり見当がつかん。 (8 855) 「国共内戦について」なぜ国民党は共産党に敗北したのでしょうか。 「国共内戦史」という本(ちょっと高いけど)があります。 大きな図書館では扱っているのではないでしょうか? で、ご質問ですが、中国のことわざにこんな文句があります。 「良い鉄は釘にならず、良い人間は兵にならない」 国民党軍は軍閥の寄せ集めでした。 蒋介石始め指導部の統制も取れず、装備はバラバラでした(戦前のドイツ製も有れば、ソ連製もあり、 終戦後手に入った日本製もあり、美国援助により手に入れた米国製もありと言った状態)。 また、上級将校の大部分は自己の利益のみを考え、将兵にろくに給与、糧秣を支給しませんでした。 そんなわけで、下級将校以下は食い扶持を稼ぐために都市や農村を襲って、糧秣を稼がなければなりません。 片や共産党軍は共産党の鉄の規律で「人民のものを寸毫も犯さず」をモットーにしていました。 民衆と同じ目線で戦い、また占領地では富農から土地を小作人に分け与えました。 このため、民衆の支持は共産軍に傾き、国民党軍の動きは筒抜けとなっていました。 1945年に日本が敗北したとき、共産党は延安を中心に支配していました。 その後、共産党はソ連が占領した地域(内蒙古、満州)の支配権を得ます。 この時、ソ連は満州国内に日本軍が残していった装備を共産党軍に引き渡します。 当然、国民党政権はそう言う動きを認めないわけで、10月に国共内戦が勃発します。 しかし、米国は東アジア地域の安定に対し、当初無関心であったうえ、散々蒋介石に内戦停止と軍事援助の停止を行いました。 このため一時は落ち着きますが、1948年にソ連からの軍事援助を得た共産党軍が再び勢いづきます。 9月に遼瀋会戦で国民党軍を圧倒して山海関に進出。次いで淮海会戦、平津会戦と立て続けに勝利し、1949年1月に北京が陥落します。 その後の動きは急で、4月に南京、武漢、上海が陥落し、秋には広州、重慶が陥落、 10月に中華人民共和国が成立し、12月に国境地帯の一部とチベットを除いて、国民党政府は台湾に逃れたわけです。 兵器としては、民国側は 陸戦兵器は、(内戦初期)ソ連製兵器、ドイツ製兵器、接収した日本製兵器 (内戦中期~後期)一線級の信頼できる部隊にのみ、米国製兵器を配備。 海軍は、英国のFlower級、C級の軽巡洋艦などが引き渡され、また日本から賠償艦として 駆逐艦峯風、陽炎、秋月、雑木林の各級、海防艦択捉、鵜来、御蔵、1号の各級、それに 多数の小艦艇が引き渡され、米国からもDE2隻と、小艦艇多数が引き渡されました。 空軍は、従来から使っていたP-51、P-38、B-25、B-24などが主力でした。 一方の共産党側は、 陸戦兵器は、(内戦初期)ソ連製兵器、接収した日本製兵器 (内戦中期~後期)一線部隊はソ連製兵器を配備。 海軍は、内戦期間中に海防艦択捉、鵜来、1号の各級のうち数隻が乗艦毎共産党に 寝返りました。また、多数の小艦艇も接収されました。 ソ連からの援助は50年代に入ってからです。 空軍は、初期には満州で手に入れた99式高練、98式直協偵察機、屠龍などもありま したが、後にYak-9、Tu-2、Il-10などのソ連製機セットが供与されました。 また、P-51などの飛行隊の中には飛行隊毎寝返ったものもありました。 (20 眠い人 ◆ikaJHtf2) 日本領事館への中国武装警察の侵入事件だけど、あの映像は誰が撮ってたんだ? 今回の亡命騒ぎ、計画には韓国のNGOが深く関わっています。今回の撮影した人間も韓国の 人間で、事前にNGO側からリークがあって待ち伏せていたようです。 写真を取らせた理由は、あまり良くわかっていません。 (29 390) 日本の大使館には武装したガードはいないの? えー、日本人の、という意味ならいません 中国人武装警察なら各大使館前に2名ずつ、まるで彫像のように立っています 話し掛けても答えてくれません(答えないように命令されているそうです) (29 399) 中国が台湾に軍事進攻する場合の作戦で可能性の高い作戦を教えてください。 (1)マターリと隔日(または曜日別)金門砲撃戦 (2)金門・馬祖海上封鎖で兵糧攻め (3)澎湖制圧 (4)台湾本島海上封鎖 (5)台湾本島上陸作戦 (6)台湾本島爆撃のみの作戦 等があると思います。 軍事進攻という語感からは(5)を意味されるようですが、現在のところ (5)は不可能でしょう。しかし、数年後には可能になるかもしれません。 (43 877) 中国が台湾本島を攻撃するとしたらTaiwan-channel の指摘した 奇襲(強襲)による台湾空軍機の離陸妨害作戦が最も可能性が高いね。 ここじゃ、みんな批判してたけどね。でも、あれからアメリカや中国の 情報を見れば彼のが一番可能性が高いみたいだな。 あのサピオの記事だが、あれはウヨクのヨイショ記事でなく香港の ジャーナリストの寄稿記事で明らかにされた中国軍若手将校が 江沢民主席ら党主脳への建白書にある作戦だという事で信憑性は高いな。 しかもそれは半年前に米軍が明らかにした情報にも一致している。 http //www.asyura.com/2002/war11/msg/651.html (43 885) 中国の大都市には核戦争に備えて地下都市があるのでしょうか 地下都市っつうか、かなり大規模なシェルターがあるのは事実。 "防空洞"と呼ばれ、平時には民間に貸してテナント経営をしているそうな。 (63 700) 戦前に中国の軍艦を生み出していた、上海の江南造船所は何年ごろに、どのような経緯で作られたんですか? 1865年、英国資本の機械工場兼造船所として発足し、1912年に造船所を メインに据えています。 日中戦争中は日本に接収され、三菱江南造船所として使用され、1949年に 国営化されました。 1996年に民営化され、独立しています。 (66 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 中共はどんな功績があって、常任理事国なのでしょうか? 中華民国は連合国だったが・・・ 中共は、民国(台湾)が国連を追い出されたときにその椅子を貰ったの。 親方株の引継みたいなもの。 まあ、分捕ったんだけどね。 (73 456) 常任理事国は功績があるから常任理事国なわけではないよ。何か勘違いしているな。 (73 459) 中華人民共和国には政治将校はいるんですか? あと、人民解放軍は中国共産党がきちんと掌握できているのでしょうか? 人民解放軍には総政治部という部署があって、三軍の政治委員を統括しています。 もちろん各部隊には政治将校が配属されています。 92年ごろの鄧小平が天安門事件以来低迷していた改革開放政策の加速化を計った時期に 地方の師団長が軍閥的に振舞って、転属命令を拒否して居座ると言うことがあったようです。 これに対して中央軍事委員会は、七つの軍区それぞれの中に近代装備を施した ハイテク即応師団を設け、これを掌握することによって睨みを利かせています。 (82 68) 中ロって仲が悪いんでしょうか? ソビエト時代、もちろんなかの良い時期もありましが、 国境紛争をしてた時代もあります。 今はそのころに比べればかなりイイです。 (85 821) 「満州民主主義人民共和国」というような国が作られなかったのは何故なのでしょう? 日本敗戦後、ソヴィエトおよび中国共産党が満州族のウイグルへの強制移住を 押し進めていたので自治レヴェルでも独立させる必要がなかったから。 (124 530) 中国の軍事費の実態は? 公式には6兆円だそうだけど、本当は18兆円になるという試算もあるとか? 2007年度の公式発表が約500億ドル 中国軍レポートのDIA資料によると、最大で推定1200億ドルほど。 英IISSの分析だと2006年で14兆円以上 http //www.47news.jp/CN/200701/CN2007013101000662.html 米国防総省の分析では2008年で1400億ドル http //sankei.jp.msn.com/world/america/080304/amr0803041839010-n1.htm (中国軍総合スレ10 351-354) 中国政府が嘘の額を出しているとしたら何故そのようなことをしているのですか? 本来は軍事費として計上されるべきの研究開発費を差っぴいたりしていた。 会計上の詐術を使って少なく見せかけていた。 前年度比で軍事費が大きく増えれば周辺諸国は当然警戒する。 ましてやそれが独裁弾圧侵略国家の所業なんだから。 世界大戦とまではいかなくとも、地域紛争に首突っ込むくらいの所業はいつもやってるんだし。 日本でも、軍人恩給が厚生労働省管轄だったりするように国際的な軍事費の基準ってのは必ずしも一様ではない 中国の場合は、中でも特に予算が不透明なのが問題になった 研究開発費や、かなりの金額が別枠処理されていてさすがに金額的に大きすぎて実体に合わないだろう、 ってことで問題視されることになった (541 85,89) 中国はどの国を仮想敵として軍備を整えてるのか? 中国の仮想敵国 http //www.upiasia.com/Security/2008/10/24/chinas_prime_potential_enemies/3728/ 漢和防務評論のアンドレイ・チャン(平可夫)氏の記事 中国は周辺諸国を全方位的な仮想敵として兵器の開発配備を 進めていると、中国軍内部の文章を基にして述べている 対アメリカ…日台との軍事同盟、NATO東方拡大、アフガン駐留、中国への 兵器輸出規制など、これらの行為が中国への脅威となると主張。 対日本…近年の関係改善にも拘らず、容易に解決できない尖閣と東シナ海 のガス田論争問題が存在 対インド…インドのIRBM開発、南シナ海でのインド海軍の活動に注目。国境 紛争も抱えている。 対ヴェトナム…海の領域で見解の相違がある。またアメリカとヴェトナムの関係 改善にも着目している。 対ASEAN…スプラトリー諸島をめぐる紛糾 対ロシア…ロシアのナショナリズムの高まりを懸念。 台湾との関係改善があったとしても、中国軍が軍事建設を緩めるには 十分でないであろう。中国の兵器開発は、上記の全てのシナリオに対 応している。以下は、その兵器開発方針について。 ①最優先は台湾向けの空海兵器 ②第二は、アメリカの介入を阻止するための、ICBM、IRBM、対衛星ミサ イル、宇宙戦能力、攻撃潜水艦の開発と配備、。 ③ヴェトナムとインド向けの、山岳戦闘用AFV、中、短距離弾道ミサイル。 改良型IRBMがヴェトナムと国境を接する雲南省に配備されている。 ④対日向け、山東省にDF-3A IRBMを配備すると共に、第19軍の戦力を強化 ⑤東南アジアとインド向け…海南島に潜水艦基地を建設。電子戦監視基地 を西沙諸島に建設。 ⑥アフガンと駐留NATO軍向け…主要な都市にHQ-9ミサイルを配備、蘭州 軍区の第6戦闘機部隊を強化。ロシア向けには、新たな戦車と装甲車を開 発生産すると共に既存車輌の近代化を行っている。 これらの装備に関する予算を充当するため、軍事予算が年率10%の増加を 続けることになるであろう。台湾向け装備がある程度、減らされるかもしれな いが、台湾向けの独立阻止の圧力が継続されるであろう。 しかし、台湾との関係が改善すれば、中国軍は他の方面、特に戦力投射能 力の改善に軍の近代化の焦点を合わせるであろう。それは、空母艦隊の建 設、新型ICBM、SSBMの配備、新型爆撃機と新型戦闘機の開発に振り向け られるであろう。 (中国軍総合スレ11 428,429) 中国脅威論ってよく聞くけど、アメリカの軍事力に追いつくのは半世紀は先だろ?杞憂じゃね? 中国脅威論の本質がわかってない。 中国の脅威とは、軍事力の急拡大と同時に「経済力」が拡大していることで、それが かつて米国と対立した旧ソ連と決定的に異なっている点。 米中の経済関係は極めて緊密で、米国の国別の貿易額では中国は2004年に日本を抜いている。 米国の対中投資額は2006年末の累計で540億ドル。対中進出した米国企業は、日本の2倍の5万余社。 米国債の保有額では2007年で日本は1兆ドル弱、中国が約7000億ドル。 中国は米国債の投売りやっただけで米国を恐慌に追いやることが出来る経済的実力がある。 既に米国は中国と全面戦争など出来るわけが無い相互依存状態になっている。 では、もし尖閣諸島を巡って日中が武力衝突したら? 当然、日米安保に基づいて米軍は出動するだろう。 問題なのは米軍が行動するといってもその行動に「ピンからキリまで」オプションがあること。 米国は中国との全面衝突を避けるために「限定的介入」に留める可能性がある。 その可能性があるからこそ中国は軍事行動を起こす可能性がある。 それが中国脅威論の本質。 ちなみに沖縄は米軍にとって極東で最重要な拠点だから、中国の沖縄占領など絶対米国は認めないだろうが、 尖閣諸島や先頭諸島ぐらいなら政治的に妥協してしまう懸念は十分ある。 (軍事板,中国脅威論スレッド) 中国が海洋権益を獲得するときの常套手段は? 「『情報』と国家戦略」(太田文雄著,芙蓉書房)によれば, 1.領有権を主張 2.海洋調査を開始 3.海軍艦艇によるプレゼンスを図る 4.実効支配を確立 大量破壊兵器拡散に中国が関与しているというのは本当か? 少なくとも,CIAはそのように報告している. ただし,何を根拠にしているかは,報道だけでは不明. なお,中国はNPT加盟前にも,イランに六フッ化ウランを売却している. 以下引用. 大量破壊兵器,主要供給者は中国CIAが断定 【ワシントン=古森義久】世界の大量破壊兵器類の拡散に関し,米中央情報局(CIA)の報告書が,中国は大量破壊兵器の「主要な供給者」でイラン,北朝鮮,リビアなどに弾道ミサイルや化学兵器類を売却したと,断定していることが明らかとなった. CIAが米国議会に毎年送る大量破壊兵器類の国際的な拡散に関する年次報告書は,十六日までに概要が公表された.同報告書は,弾道ミサイルや高度の通常兵器をも含む大量破壊兵器類が,独裁体制や国家テロ実施,軍事偏重など「懸念の対象となる国家」に調達された実態に最大の焦点をしぼっている.「懸念国家」としてはイラン,リビア,北朝鮮,シリアの各国が列記されている. 同報告書はこれら「懸念国家」に大量破壊兵器類を売却,提供した「主要な供給者」としてまず第一に中国をあげ,二〇〇四年一年間に,中国が (1)パキスタンの弾道ミサイル開発のプロジェクトへの支援を続け,固体燃料推進の短距離弾道ミサイルの自国内生産を達成させ,固体燃料推進の中距離弾道ミサイルの開発を推進させた (2)イランの弾道ミサイル国内生産の努力を支援した (3)リビアと北朝鮮に弾道ミサイル関連資材や技術を供与した (4)イランに対し化学兵器生産関連の機材と技術の供与を継続した -などと記している. さらに,大量破壊兵器の範疇(はんちゅう)には入らないが,「高度の通常兵器」の拡散として,〇四年中に中国が (1)パキスタンにフリゲート艦四隻を売却する交渉を終えた (2)パキスタンとの戦闘機JF17の共同生産プロジェクトへの支援を続けた (3)イランによるC802対艦ミサイルの自国生産を実現させた -ことなどを列記して,米国議会に伝えた. (産経朝刊 2006年05月18日03 43) イラン核問題ウラン濃縮原料は中国製か 【ロンドン=蔭山実】イランの核問題で濃縮ウランの製造に中国製の良質の原料が使用され,濃縮技術の確立を早めている可能性が浮上している.BBCテレビが18日,欧米外交筋の話として伝えた. イランが独自に作った原料は不純物が多いとみられ,その問題を解決するためにかつて購入した中国製の原料を使っているという. ウラン濃縮は原料の六フッ化ウランという気体を遠心分離器にかけて行う. 六フッ化ウランはウラン鉱などから転換されて作られるが,BBCテレビによると,イランは独自に転換作業を進める一方で,1991年に中国から輸入した六フッ化ウランを保有している. 当時は中国が核拡散防止条約(NPT)に加盟する前で,規制を受けることなくイランに輸出された. ただ,中国は数年後,国際原子力機関(IAEA)にイランに六フッ化ウランを売却したことを報告し,イランの核開発の解明を進める上でも役立ったとされる. イランはウラン濃縮作業が順調に進んでいることを主張し,核兵器製造につながることへの懸念に拍車をかけている. その背景に中国製の原料があったとすれば,国際社会で一致してウラン濃縮作業の停止に向けて動く中で中国の立場はさらに微妙になりそうだ. (産経新聞 2006/05/19/10 08) 中国の戦闘機開発能力って日本を上回ってるの? 軍用に関しては日本より先を行ってる。 日本はアメリカのライセンス縛りがあるが、中国はロシアとのライセンス契約に違反して 批判されようが開発を進めてるし。 以下のJ-11Bをよく読むとよくわかるが既にエンジンの国産化にも成功してる。 http //wiki.livedoor.jp/namacha2/d/J%2d11B/BS%c0%ef%c6%ae%b5%a1%a1%ca%dd%d3%b7%e211B/%dd%d3%b7%e211BS/Su%2d27%a1%cb ちなみに外国市場向けにFC-1(JF-17)を開発済みで中東諸国に輸出計画中。 (中国軍総合スレ11 196) J-11BのWS-10Aエンジンは現在試験中で、まだ実用段階に達しておりません。 高出力ターボファンエンジンの開発は中国戦闘機にとってのネックとなっている状況があります。 また、FC-1(パキスタンとの共同開発機)についてもロシア製エンジンを搭載しております。 戦闘機開発能力という点については、技術レベルではさまざまな論議のある所でしょうが、 紆余曲折を経ながら曲がりなりにも開発経験を蓄積しているのは大きな点であり、 日本に対するアドバンテージであるといえるでしょう。 ただし、最先端技術については国産化の水準が十分では無い事は中国側も認識しており、 技術導入と国内開発のバランスをどのように取るかが課題になっております、。 (中国軍総合スレ11 199*一部改編) 中国では旧ソ連のKGBみたいな軍から独立した強力な機関はあるのかな? 党国体制の下、党は軍に対する上位性と指揮権を保持し続けている。軍事の 高度化に伴い専門分野での発言権は交代しているが、人事権は党が掌握し 制度的な統制も維持し続けている。今後も軍の専業性を高めるつも「党が軍 を指揮する」体制については堅持を続ける方針。ただし、政治委員の存在は 軍の高度化に伴い次第に形骸化しつつあるとのこと。 解放軍が「専業化」、「国軍化」を進めるのとは逆に、武装警察は党のコントロ ールを強化する方向に進んでおり「党軍」としての性格を強める方向に進んで いる。100万を超える要員を擁する武装警察は国内第二の軍事力としての地位 を確保している。 ただし、両者は対立的存在というよりも、相互に任務を分担する関係と見たほう がよいであろう。その意味で解放軍の「国軍化・専業化」と武装警察の「党軍化」 は表裏一体の関係にあるといえる。 この記述は以下を参照 浅野亮「党軍関係と軍の派閥」 http //www.minervashobo.co.jp/find/details.php?isbn=04859-5 PHPSESSID=bb306f52d78384fb9cbdf2e00be15e87 鈴木祐二、駒澤るり子「中国人民武装警察部隊(準軍隊)の将来像-武警の 『党の柱石化』、解放軍の国防軍化-」 http //www.mmjp.or.jp/sososha/hon/gunji/gunjiryoku_2020.html (中国軍スレ11 709) 火薬が発明された中国で、火器の発展がアヘン戦争まで停滞してしまった理由は何故なんでしょうか? 欧州よりも戦争が少なかった 火器の製法は秘密とされて国家が独占していたため、個人レベルでの創意工夫がなかった (あまりに秘密にしすぎて前線の兵士すら正しく使用法を知らなかった、という例もある) わが国は世界の中心であり最も優れているという自負により欧州の技術を取り入れなかった 鋳造技術が優れていたため鋳造にこだわり、「鉄の板を丸めて銃身を作る」という作り方をしなかった。そのため火縄銃の性能が低かった このへんが複合しているんじゃないか? まったく進歩がなかったわけじゃないんだけどね。 (526 894) チベットでアフガンみたいなゲリラ戦は不可能なの? ヒンドゥークシ山脈が国土の北東部から中心部を貫くアフガニスタンが、洞窟などを利用したゲリラ戦で、 大国やその傀儡政権を倒してきました。 隣接する山岳・高原地域のチベット人は、なぜ同様のことが可能ではなかったのでしょうか? アフガニスタンはロシア側とパキスタン側、あと、イラン側と3方にある程度ものを運べる交易路が通っているが チベットは中国側にしか主要交易路がない。反対側はヒマラヤ山脈。 アフガンは北から敵が着たら南から補給を受けれるが、チベットは中国側から近代的な軍に攻めて来られたら 反対側のヒマラヤ山脈越えは脱出口程度にしかならない。 ゲリラ戦の基本は補給の確保。 山岳地帯にゲリラがこもったのではなく、山岳地帯の住民の援助や山岳越えでの補給がなければ意味がない。 (532 982) 満州はソ連軍に占領されたのに、今はなんで中国領なんですか? スターリンが一度占領した地域を返したなんて、シンジラレナサス… そもそも満州は中国領であり、それを日本が奪った物です。 連合国は日本の中国侵略を批判してその一切の正当性を否定したのですから、 それを日本の代わりにソ連が領土化するのは筋が通りません。 スターリンが返還するなんて信じられないと言ってますが、 その程度の理性は持ち合わせていたという事です。 スターリンだって一応生物学上は人間の筈。 歴史的に見て、清朝とロシア帝国の間で基本的に国境画定が終わって、満州は中国領。 ソ連はロシア帝国の後継者なんだから、基本的に条約は引き継ぐ。債務踏み倒しとかしてるけどさ。 併合なんかすれば米英中を敵に回して勝ち目が無い。米国は唯一の核保有国だしな。 東欧だって全部占領したけど、形としては独立させてるだろ。 併合しないで衛星国化したほうが、波風が立たなくていい。 (542 128,130) 中国共産党対外連絡部の役割とは? この分野では青山瑠妙氏の『現代中国の外交』(慶応技術出版会/2007)が詳細な分析を行っている。 これを基にして述べると、中共中央対外聯絡部(中聯部)は、もともとは党の対外交流 (主に各国共産党、労働党、左翼組織)を担っていたが、1980年台以降は左翼政党以外との 交流の窓口にも成っていき、90年代以降は各国の政党、政治家との「政党外交」、ビジネス チャンスを提供する「経済外交」にも活動範囲を拡大。 中聯部の現在の役割は、中央対外政策の実施、各国正当に重点をおいた研究や政策提言、 対外交流の3つであるが、政策の重点は周辺国家と重要国家の政党。交流により 政治家同士の理解と友好を深める民間団体的な役割を果たしているが、6カ国協議など 政府外交においても一定の役割を果たしている。 中国自身は「政府外交でもあり民間外交でも有る」と説明している。 中聯部公式サイトでの任務紹介。 ttp //www.idcpc.org.cn/about/jianjie.htm 「働きかけ(「工作」は日本と用法が異なるケースがあり、この場合は働きかけと訳した ほうが適当と思われる)の対象は、各国共産党およびその他左翼政党から、広げて 発展途上国のナショナリズム・民主政党、先進国の社会党、労働党、保守政党など 各種のイデオロギーと性質を有する政党。」 中国共産党の体現者として対外活動を行う機関であり、外交活動と民間交流の双方を 管轄する独特の組織となっている。 (中国軍スレ12 764) 飛行艇の分野では中国の持ってる力ってすごかったりしますか? こんなん見つけたんですけど 中国の飛行艇 SH-5からJL600へ 日本は飛行艇分野でも中国に追い抜かれる ttp //ksa.axisz.jp/RC98IL600.htm 日本が飛行艇を作った経緯を調べるとよろしいかと。 ソノブイをばら撒いてデータを集約し、コンピュータで処理して潜水艦を捕捉するという戦術は 現代でこそ一般的だが、ソノブイの聴音能力やデータの送信能力、持続時間、単価、受信し た対潜哨戒機のコンピュータの処理能力などから過渡期とされた時代があった。 ディッピングソナーをヘリからぶら下げて、チョコチョコ位置を変えながら潜水艦を追っかけて いたが、これはヘリだからできることで大型の対潜哨戒機ではできない。「なら飛行艇なら着水 してソナー使えるじゃん」というのはPS-1の開発理由。当時はヘリ搭載護衛艦も無いから、早 く遠くに行こうとすると、現場に航空機を派遣しようとすると、基地配備の固定翼機の一択だった。 理由があって対潜哨戒飛行艇は作られたが、作られた理由…ソノブイを使った対潜作戦の向上 とかソノブイをばら撒けるだけの予算とか値段が下がったとか…があると、頻繁に離着水するの で寿命が短いわ事故率は高いわで、使う意味が無くなった。 ただ、日本の場合は離島にも国民が住んでるし、漁船は操業しているしで救急救難用途にいいん じゃね? となって、陸上基地からも運用できる改設計をして、US-1として生産が継続したし、現在 も後継機がある。 消防飛行艇についてはプランはあったが日本では何十億円もかけて消防飛行艇を作らなきゃなら ないだけの山火事の蓋然性が低く、諸外国でみるとばかでっかいUS-1のバリエーションを買わなく ても、もっと小型の機体があって、安価に数を配備することで国土の広さに対応している。 そもそものところで用途が特殊すぎるのだ。日本の技術に意味が無いわけではないが、トライアンド エラーで得たちょっとした工夫の部分が大きく、F-22を開発するような基礎工業力や研究開発が必 要なわけではない。中国が作るというのであれば、まあがんばって、ご苦労さんとしか言いようが無い。 (556 ふみ) 最近の中国の戦闘機作ってるのはどんな会社なんですか? ラビのコピー品の殲撃はロシア製ではないと思うんですか… 元々、中国に於て戦闘機を設計していたのは、瀋陽飛機設計研究所で、製造しているのは瀋陽飛機製造廠です。 此処は旧満州で、日本の技術が残っているところでしたから、ソ連が設備を奪い去っても、基盤が残っていたので、 上海などと共に工業地帯として発展しました。 ところが、この工場や設計所のある場所は、ソ連から近い場所にありますから、中ソ対立が始まると、危険な場所 から奥地に工場や設計所を疎開させる必要があり、例えば爆撃機の製造は西安飛機製造廠に、練習機など小型機 の製造は、貴州飛機製造廠に、当時の主力戦闘機の工場も、南昌飛機製造廠と成都飛機製造廠に、戦闘機用エン ジンの製造は貴州飛機製造廠にとそれぞれ、瀋陽から分離して分工場を製作しました。 これは、車輌でも同じだったりします。 文革後の改革開放時に、それぞれの分工場が分離独立していますが、兵器工業総公司か航空工業総公司の配下 にあります。 現在は、哈爾浜(大型輸送機)、瀋陽(戦闘機)、西安(爆撃機)、成都(戦闘機)、南昌(攻撃機、練習機、小型機)、 上海(旅客機)、貴州(エンジン)になっていたか、と記憶しておりますが、改革開放で海外からの技術導入を積極的に 図った成都が最も景気の良い状態に成っているようです。 独自技術で戦闘機を開発しようとした瀋陽が一歩遅れ、更に南昌が続くという感じでしょうか。 ちなみに、こういった企業体は航空機だけではなく、有りと有らゆる分野に進出しており、貴州や哈爾浜だとスズキの 商用車や小型車、スバルの小型車を生産していたりします。 (344 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 中国は報復攻撃の犠牲をいとわず、いざとなれば核の使用を躊躇わない・・という中国の核戦略について公式ソースはあるのでしょうか。 公式的な立場としては・・ 非核保有国に対しては核兵器を使用しないし核威嚇も行わない (”消極的安全保障”でぐぐる) 第一回核爆発実験以来中国政府は、「中国が核兵器を開発しているのは防衛のためであり、 超大国の核威嚇、核恫喝、核ペテン政策に打撃を与え、核独占を打破し、最終的に消滅させるためである」 ことを繰り返し声明している (平松茂雄 『中国、核ミサイルの標的』より) などなど、あくまで核攻撃を受けた場合の報復手段として用いる、という立場 中国政府や軍の高官がそれを示唆する発言を行ったことはあるのでしょうか。 有名なのが朱成虎少将の件だが、その後処分を受けているので これが中国の戦略を表したものかと言われると怪しい (580 672) 日本が防衛予算を大幅に削減したら中国は軍事費削減するかな? 村井友秀等編 『中国をめぐる安全保障 (MINERVA人文・社会科学叢書 127)』(2007年、ミネルヴァ書房) の駒形哲哉「軍事財政」の項を見ていただければわかるが、中国軍の軍事予算 は前年度の予算規模と経済成長率/GDPの変化率に規定される所が大きい。改 革開放以降の中国軍の財政は経済成長を優先するとの原則も守られている。 すでに今年度の軍事支出は決定しており、現在は来年度予算の策定作業を行っ ている段階なので、影響があるとすれば来年度以降となる。しかし、民主党政権 が成立したとしても極東アジアの防衛体制の枠組みが根本的に変化しない限り は大きな影響は無いであろう。 中国軍の近代化は道半ばであり、まだまだ更新しなければならない膨大な旧式 装備が存在し、情報インフラの構築や輸送手段の近代化、人員の訓練など予算 はいくら合っても足りない状態。 むしろ予算の制約になるのは経済成長率の如何であろう。とはいえ中国政府の 財政規模の拡大が継続する限りは、財政全体に占める割合は低下しつつも軍 事費の増加傾向は尚暫く続くと見た方が良いであろう。 この件に関して公式ホームページで質問するという手もある。 ttp //www.mod.gov.cn/ の最上部にある(聨系我們)からメールを送る事が出来る。 (中国軍スレ14 542) 中華民国滅亡時、蒋介石に従っていた軍閥の指導者たちはどうなったのでしょう? 部下ごと共産党に投降し、地方の重職を得たりしたのでしょうか? そしてその後、呉三桂よろしく粛清されたりあるいは北朝鮮への義勇軍に志願させられて使いつぶされたりとか。 兵力90万人のうち、40万人が寝返りましたから、幾人かは要職に就いたものもいたでしょうが、 大抵の場合は、1950年からの朝鮮戦争で中国援朝義勇軍として磨り潰されています。 また、生き残ったものも、1950年代終わりから60年代末に掛けての大躍進とか文化大革命によって、 粛清されています。 台湾に逃れ得たものは、上級職が主です。 現地軍の場合は、雲南を経てビルマに亡命し、数万人が其処を拠点に中国に対するゲリラ戦を実施 していますが、1950年代にビルマ政府が国連に提訴、1953~54年にかけて、6500人が台湾に引き揚 げられ、1961年には更に4500人が引揚げました。 しかし、奥地で自活を続けた段希文将軍麾下の部隊は、そのタイ北部近辺を実行支配し続け、その 部隊が資金源としていた芥子栽培が問題になり、1970年代からタイ政府の討伐を受けることになります。 但し、タイ側にも残留国民党政府軍が参加していて、彼らはその地方の自警部隊としてタイ政府から認め られるものもありました。 また、香港にも吊頚嶺(首つり村)と言う一角があり、この地域に2万の国民党軍残党が住んでいました。 1956年に3日間の暴動を起こし、1960年代には台湾にだいぶ吸収されました。 一部の住民は香港返還後、別のマンションにかたまっているようです。 (336 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 中国は朝鮮戦争で国連軍と戦ったのに何故、国連の常任理事国になれるの? その時は国連の常任理事国は中華人民共和国ではない。 アメリカが中華人民共和国と国交を回復して中華民国を切り捨て、 「中華人民共和国が正当な中国政府である」と国連の規定も変更された。 ちなみに中華人民共和国は朝鮮戦争には参加していない。 あれは「抗美援朝”義勇”軍」だから。 それと当時中華人民共和国は国連に加盟していない(させてもらってない) ので国連と敵対していようがその後の政治問題にはならない。 (334 843) 今最も中国と戦争になりそうな国はどこでしょうか 中国と最も戦争になる可能性があるのは現在インド ブラマプトラ川にダムを中国が建設してるので、これにより両国の軍事的緊張が高まっている ブラマプトラ川の下流にはインドやバングラデシュの工業地帯があり 同川でインドは水の国内消費20%を賄っているので重要な地域なんだよ 中国の計画ではブラマプトラ川を分水して、インドに流れ込む年間750億トンの水を400億トンまでを奪うことになってるんだ これらの理由により、同川はインドにとって絶対に譲れない川であり、もし中国がこのまま計画を進めれば、軍事的な衝突もありえる 戦争の流れは、双方がどこまで戦う気になるかによるが 戦場がブラマプトラ川とその周辺、つまり交通インフラが整ってないヒマラヤ山脈の近くで戦うことを強いられ両国にとって過酷な戦場になる ただ航空戦力の面では、同方面を作戦可能圏内に収めるられる作戦機と基地の多さでインドが有利だと思われる 中国の主力作戦機の多くは、北京を初めとした大都市近辺に集中していて、インドまで届く作戦機は少ないと見積もられる また海上にまで戦火が飛び火したなら、インドのニコバル・アンダマン諸島が戦いの中心となる可能性が高い 同諸島はマラッカ海峡の近くにあり、同海峡は中国にとって石油やガスなどを本土に運び入れるための主要交通路なんだ このニコバル・アンダマン諸島でもって、中国のシーレーンを妨害すれば中国は多大な損害が発生すだろう これは中国のマラッカ・ジレンマといわれ、中国にとって頭痛の種になっている (607 580) 中国が地下に巨大基地を建設してるという情報の信憑性は? http //www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20100204074.html 中国人民解放軍の戦略ミサイル部隊「第2砲兵」が、内陸部に地下核ミサイル基地を 建設している。総延長5000キロに達する「地下長城」との報道もあり、世界で類のない巨大基地とみられている。 いい加減じゃないと思うが 中国軍は非常に地下トンネルを重視して来た 日中戦争時に八路軍は地道戦と呼ばれるトンネル戦を展開 何十キロものトンネルをそこら中に掘り 神出鬼没なゲリラ戦で日本軍を悩ませた 戦後も一触即発状態のアメリカやソ連からの攻撃に備えるため 国民全体で防空壕やトンネルを掘った時代もある 他でもないその中国軍なら 地下に巨大なトンネル基地を作っても不思議ではない それに今まで異常に中国の核戦力が不透明なのも 地下を通って移動してるなら納得がいく 写真あるで http //pic2.itiexue.net/pics/2009_11_16_84090_10284090.jpg http //pic2.itiexue.net/pics/2009_11_16_84091_10284091.jpg http //pic2.itiexue.net/pics/2009_11_16_84092_10284092.jpg http //pic2.itiexue.net/pics/2009_11_16_84093_10284093.jpg 昨年末に報道された記事を 中国「地下の万里の長城」を公開…核攻撃時も反撃できる地下の迷宮(1) http //japanese.joins.com/article/article.php?aid=123948 servcode=A00§code=A00 中国「地下の万里の長城」を公開…核攻撃時も反撃できる地下の迷宮(2) http //japanese.joins.com/article/article.php?aid=123949 servcode=A00§code=A00 (中国軍スレ16 64-65) 中国が台湾に武力侵攻する可能性は? 「中国は政治、外交、経済、文化などの手段で台湾併合を目指すが、台湾が中国からみて誤った方向に動くことをも考え、 台湾攻撃のための十分な軍事脅威を構築しており、その結果、中台の軍事バランスは絶え間なく中国優位にシフトしている」。 その実例として、中国は最新の海上艦艇と潜水艦、戦闘機、中距離弾道ミサイル、特別奇襲部隊などの大部分を台湾向けに配備している、(中国の)戦略の基本は早期に攻撃をかけて、米国などの第三者が介入できないうちに台湾を屈服させることだ。 (2010年3月18日、米国議会公聴会での、マイケル・シファー国防次官補代理発言より) 中国側からのソース 反国家分裂法 第1条 「台独」分裂勢力(「台湾独立」をめざす分裂勢力)が国家を分裂させるのに反対し、これを阻止し、祖国平和統一を促進し、 台湾海峡地域の平和・安定を守り、国家の主権および領土保全を守り、中華民族の根本的利益を守るため、憲法に基づいて、 この法律を制定する。 第2条 世界に中国は一つしかなく、大陸と台湾は同じ一つの中国に属しており、中国の主権および領土保全を分割することは許されない。国家の主権および領土保全を守ることは、台湾同胞を含む全中国人民の共同の義務である。 台湾は中国の一部である。国は「台独」分裂勢力がいかなる名目、いかなる方式で台湾を中国から切り離すことも絶対に許さない。 第3条 台湾問題は中国の内戦によって残された問題である。 台湾問題を解決し、祖国の統一を実現することは、中国の内部問題であり、いかなる外国勢力の干渉も受けない。 以下略 台湾が独立宣言したり、米軍が駐留したら、人民解放軍が面子にかけて全力で潰すぞみたいなことを公的に宣言した法律です (625 モッティ ◆uSDglizB3o) 中国はPKOなどには積極的ではないの? もともと中国は朝鮮戦争で国連軍と交戦した経験や内政干渉反対政策 をとっていたこともあり1980年代までは国連の平和維持活動への参加 は消極的だった。しかし冷戦終結後、1990年代に入ると方針を転換して PKO活動にかなり積極的に関わる様になってきている。2008年には、安 保理常任理事国5カ国の中では人員数で最大の派遣国となっている。 (詳しくは竹田純一『人民解放軍』(ビジネス社/2008)109~110頁を参照 されたし。) 中国国防白書より http //japanese.beijingreview.com.cn/wxzl/txt/2009-02/12/content_178289_13.htm 国連平和維持活動(PKO)に参加 中国は国連安全保障理事会の常任理事国として、『国際連合憲章』の 主旨に合致した平和維持活動を一貫してサポートし、それに積極的に 参加している。1990年以来、人民解放軍は計18項目の国連平和維持 活動に参加し、将校・兵士延べ1万1063人の平和維持部隊を派遣し、 8人の平和維持部隊の将校・兵士が任務遂行中に殉職した。2008年11 月末現在、中国は1949人の平和維持部隊の将校・兵士が国連の9カ所 の平和維持任務担当地域と国連の平和維持部門で任務を遂行してい る。そのうち、軍事監視員と参謀将校は88人、国連コンゴ民主共和国ミ ッションとして赴いた工兵分隊は175人、医療分隊は43人、国連リベリ ア・ミッションとして赴いた工兵分隊は275人、輸送分隊は240人、医療 分隊は43人、国連スーダン・ミッションとして赴いた工兵分隊は275人、 輸送分隊は100人、医療分隊は60人、国連レバノン暫定隊として赴いた 工兵分隊は275人、医療分隊は60人、国連・アフリカ連合(AU)合同平和 維持活動部隊として赴いた工兵分隊は315人である。2000年以来、中国 は7つの平和維持任務担当地域に延べ1379人の文民警察官を派遣し た。現在、208人の中国の文民警察官がリベリア、コソボ、ハイチ、スー ダン、東ティモールで平和維持任務を遂行している。 (中国軍16 745) 中国とソ連が国境線を巡って戦闘した時、核戦争勃発の可能性の心配はされなかったのでしょうか? 中国側は十分にしています。 大きな核シェルターの建設とか、中国東北部にあった重工業地帯の重慶、桂林 方面への疎開とかが行われていました。 但し、当時は中国にとっての狂気の時代ですから、そんなことより、人民の波で どうにかなると考えていた節はあります。 実際、珍宝島などの国境紛争の殆どは中国が人海戦術で、獲得した土地です。 (310 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 中国共産党は戦後の国共内戦を日本軍の装備で戦ったと聞きましたが、これはどうやって入手したのでしょうか? 入手方法としては時期によって変化しています。 1:戦前~戦時中ですが日本軍が物資調達に阿片を利用しているのに目を付けて、 阿片を栽培し、それを中古武器とバーター取引して、これを使用。 2:戦後、北支、満州で武装解除された日本軍の装備を接収したものを使用。 3:内戦の後半は満州の接収したの兵器工廠の生産が軌道に乗ってきて、ここで生産した兵器を使用。 なお、第一項は中共的には無かった事になっています。 (306 491) 中国が人工降雨弾を高射砲でバカスカ撃っていたということを聞いたんですが成分はちゃんと無害なものを使ってるんでしょうか? 日本でも使っていた材料だから心配ないでしょう。 其の昔、我が国でも、とある会社が同じように人工降雨をやってました。 で、雨が降ったのに頼んだ方は金を支払わず、怒った会社は、次回依頼されると、 降雨を促すための沃化銀と赤い染料を混ぜたものを空中に散布し、赤い雨が降った 地域からは容赦なく、代金を取り立てたそうです。 (287 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 中国の武装警察って普通の警察じゃないの? 大雑把に言うと、 武装警察:大陸中国の、軍の管轄する軍の警察。 とはいっても軍内の犯罪や事件を捜査するわけではなく、 「軍隊の部隊のうち普段は警察活動専門に行動する部隊」 というところ。 公安警察:普通「公安警察」といった場合は警察の公安部門のことだが、 大陸中国の場合はいわゆる(日本で言うところの)普通の「警察」 を「公安省公安部」が管轄しているので、「公安警察=一般的な警察」 ということになる。 軍警察:いわゆる「憲兵隊」のこと。 日本の自衛隊の「警務隊」は自衛官以外の犯罪を捜査できない(しない) が、世界的に見ると軍人以外の民間人を捜査、逮捕、拘束できる権限を 持ってることのほうが多い。 (279 651) 国共内戦で旧日本軍の武器や化学兵器は具体的にどの程度利用されたんでしょうか? 化学兵器が国共内戦で使われたことは無いはずです。 旧日本軍の武器は、共産党の方が多く使いました。 ソ連の武器援助が十分に行われるようになるまでの内戦初期の状況では、共産党の主力武器 は、日本のものも多く使われています。 例えば、小銃、大砲とか戦車(チハ車)に至るまで。 また、空軍の創設期には、旧日本軍の機体が多数活動しています。 でもって、配分とかは特に決められていなくて、ソ連軍占領地区では、共産党に多く渡り、 それ以外の地区では国民党に多く渡っています。 但し、艦艇については海を抑えていた国民党にしか渡っていません。 ただ、内戦進展後は、艦毎寝返って、結果的に小艦艇では半分以上の艦艇が共産党に 渡っています。 (205 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 中ソ対立の頃は中国と東側の親ソ国との軍事関係はどうなってたんですか? 国境を接していない国との軍事関係というのは、基本的に良好、少なくとも悪くはない ソ連圏の中でもアルバニアは中国と緊密な友好関係を維持していて、軍事交流もあった ソ連圏の中ではやはり比較的に独立傾向が強かったユーゴとも一定レベルの軍事交流を維持した 中国との関係で、ソ連と完全に同一歩調だったのは東ドイツだけと見てもいい (俺初質スレ30501 522) 何故アメリカは国民党への援助を止めたのですか? 戦後の反戦気分。 (流石に最新兵器渡せば勝てるだろ。連合国の一員なんだし)という予想 それに反してあまりに弱すぎた国民党 (俺初質スレ436 383)
https://w.atwiki.jp/teitoku_bbs/pages/3602.html
900 :ひゅうが@あつは夏い:2015/06/01(月) 23 39 59 満州連邦共和国 ――満州地域および内蒙古・熱河地域をその領土とする共和制国家。 かつては満州国・満州帝国・マンチュリア民主共和国・マンチュリア=ソヴィエト社会主義共和国という変遷を経た緩衝国家であった。 【沿革】 前身は、清朝における満州地域(東三省)。 満州族の大地として長らく入植が規制されながらも、日露戦争前後に漢人の入植やロシア人による植民地化を経て人口が急増。 日本による南満州鉄道の設置を受けて日本人の入植も行われた。結果、モザイク状の民族構成をとるようになり、1931年の満州事変によってこれが固定化された。 当初は清朝の後継国家であり日本帝国による中華民国・ソ連との緩衝国家としての意義が強かったものの、日本型植民地主義と呼ばれる開発独裁路線によって急速な工業化を達成。 日本の敗戦時には、日本本土の6割程度の工業力に加え、豊富な鉱物資源によって近代国家としての脱皮を遂げようとしていた。 ソ連軍の進駐によって、日本人が作り上げていた国家組織は丸ごと東側の傘下に入り、さらには第二次国共内戦において敗色濃厚であった共産党政権がここを後方基地として反攻に転じ、やがて大陸中華を建設することになる。 だが、朝鮮戦争前後における敗戦国日本の相次ぐ軍事的勝利に加えソ連の敗北からソ連極東地域から東シベリア一帯が壊滅したことにより、ソ連は満州地域の統一中華への返還という方針を転換。 1951年、国連決議を無視してマンチュリア民主共和国を設立するに至った。 その翌年、国民投票という形をとって帰属を決定するとした同国は、ソ連への加盟を宣言。 公式に、大陸中華への帰属を拒否し民族自決による新国家の誕生を宣言するに至った。 同時期に第一次海南島危機を向かていた大陸中華はこれに抗議するも黙殺。 以後、マンチュリア・ソヴィエト社会主義共和国と名を改めた同国は、ソ連極東地域の工業力の8割を占め、極東地域への食糧生産を担う国家として冷戦期を生きることになる。 同国が自立の道を歩み始めたのは、大陸中華の争乱から逃れてきた鄧小平が政府首班としての地位を確立する1960年以降である。 日本国と単独国交正常化を成し遂げた同国は、LT貿易と呼ばれる日本との貿易を通じて工業力の近代化に着手。 1970年代には、日本の高度成長期には及ばないものの経済成長を遂げ、東ドイツとならんで「東側の優等生」と称された。 とりわけ、農業の機械化の進展と繊維産業の勃興は、東側の旺盛な需要に加え、日本国内の繊維産業の衰退にあわせて拡大を開始し、欧州のユーゴ同様に「リンゴ型経済」の一翼を担った。 西側諸国の経済成長を支えたのは、このマンチュリアが生み出す繊維産業と大豆や麦などの食糧であったのである。 だが、極東ソ連の心臓と呼ばれたがために、ソ連崩壊時のチタ動乱においてはこの地を確保すべく大陸中華とソ連守旧派(チタ政権)が動き、またそれに注目した米国による干渉も受けた。 1994年にはソ連から念願の独立を果たし「満州連邦共和国」と国名を改めた。 同年、長らく国家を主導していた鄧小平大統領が引退。 複数政党制への移行に加え、民主化が断行されたことにより、北東アジアにおける第三の経済大国として世界に名乗りを上げた。 201X年現在、政治的には大陸中華との国家承認を巡る深刻な領土問題を抱え、それがGNPの押し下げ要因となっているものの、日本・大陸中華に次ぐ北東アジアの経済大国として飛翔しつつある。 鄧小平を修正
https://w.atwiki.jp/teitoku_bbs/pages/3627.html
390 :ひゅうが@恢復中:2014/07/05(土) 00 14 23 戦後夢幻会ネタ――設定の補足 ――警察予備隊。 日本国防軍の母体としてよく知られているこの組織がいつから存在していたのかについて知るものはあまり多くはない。 実のところ、1945年10月にこの組織は設立されているのである。 とはいっても、戦後すぐに再軍備がなされたということではない。 多分に政治的な要素から、初代日本軍政長官となったマッカーサー元帥がドイツにおける軍政長官兼「欧州における連合軍総司令官」として転出したあと、8月15日に日本へ着任した「極東における連合軍総司令官」ジョージ・パットン元帥はよく知られるように熱烈な反共主義者だった。 だからこそ、ソ連に対する政治的メッセージとして下手をすれば樺太やシベリアへ逆上陸をかけかねない彼が日本に配された(逆にいえば欧州においておけばドイツで第三次世界大戦をはじめかねないともいうが)のだが、そんな彼は早々に治安維持の必要性を痛感することになる。 1945年6月から10月にかけて頻発していた、在留外国人による騒擾がその理由である。 当時の日本占領軍は、海軍については将来的に「アメリカ海軍の忠実な友として」再建を予定して艦艇のモスボール措置をとっていたが陸軍については徹底した解体を予定していた。 ワシントン宣言において旧軍部の一部指導者層の誤りを指摘しているために当然ともいえる措置だったが、問題はそうした「陸の武装解除」の一環として警察から銃火器はもとより連合国民に対する逮捕権まで取り上げていたことだった。 それに便乗した中華民国民や、立ち位置が宙に浮いていた朝鮮半島出身者が徒党を組んで日本本土におけるいわば「自治区」設立の運動を起こしていたのである。 たちが悪いことに、彼らの運動には北の寒い国の有形無形の手が伸びていた。 というのも、敗戦後の火事場泥棒的行動から当時の日本は反共というより反ソ一色に染まっており釈放された政治犯(多くが共産主義者)を通じた日本赤化など夢物語といった世相であったためである。 「あのアカどもを排除しろ!」 激怒したパットンの命のもと、武器使用基準は大幅に緩和。 水を得た魚のように日本側の警察力は取締りを強化していく。 だが当時の低下した海上警備能力はソ連からの大規模な武器密輸を可能としており、さらには横流しされた旧日本軍の武装解除後の銃火器を彼らは手にしていた。 一時は非常事態宣言が出されるほどの大規模騒擾事件が頻発するにおよび、武装解除方針を主導していたGHQの官僚たちもタガを緩めざるを得なくなった。 大戦終結後の軍縮路線の中で、いつまでも日本の治安維持のために兵力を張り付けておくわけにはいかないのだ。 こうして、設立されたばかりの国家地方警察本部のもとで国家憲兵的な役割を担う警察予備隊はその産声を上げることになったのである。 とはいえ警察予備隊はあくまでも警察的な役割が期待されていたこともあり、戦犯指定を受けていない旧軍佐官クラスはともかくとしてその上層部は内務官僚や警察官僚が占めていた。 そんな組織が変質を余儀なくされるのは、1947年12月に朝鮮半島北部が「人民政府」の設立を宣言し南北分断が決定的となったためである。 さらには大陸ではソ連軍占領下の満州に中国共産党軍主力が入り「中華ソビエト自治委員会」が設立。 国共内戦は国民党側の守勢へと転換しはじめた。 この事態に、最大の再軍備反対勢力であったアメリカ国務省と中華民国も「州軍レベルでの再軍備」に同意を示し、既存の組織を拡大する形で日本の再軍備は開始される。 海においては、保管艦状態であった旧海軍艦艇の復帰と海上警備隊への編入がなされたものの、陸においては「警備管区」方式をとり全国規模でまとまった組織規模がある警察予備隊がその担い手となったのである。 それまでが装甲車レベルであった装備も改めて進駐軍からM4中戦車やM24軽戦車が供与され、東京都赤羽倉庫において接収状態にあった旧陸軍の97式中戦車のうち27両が返還されるなど強化が進行。 1949年には6個管区隊を数えるに至っていた。 こうした状況で警察予備隊は朝鮮戦争を迎えることになるのである――
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/866.html
{{政党 |国名 = Template ROC-TW? |党名 = 中国国民党 |公用語名 = 中國國民黨(Kuomintang of China) |党首職名 = 党首 |党首氏名 = 呉伯雄 |議院代表職名 = 秘書長 |議院代表氏名 = 呉敦義 |成立年月日 = 1919年10月10日 |本部所在地 = 台北市中山区八徳路2號232樓 |議院 = 立法院 |議員数 = 81 |議員定数 = 113 |議員集計年月日 = 2008年1月現在 |党員・党友数 = 1,089,000 |党員・党友数集計年月日 = 2006年 |政治的思想・立場 = 保守、中道右派、泛藍連盟 |ウェブサイト = http //www.kuomintangnews.org/client/jpn/ |サイトタイトル = 中国国民党公式サイト |シンボル = 青天白日旗 |国際組織 = 国際民主同盟 |その他 = }} 中国国民党(ちゅうごくこくみんとう、繁体字: 中國國民黨 、簡体字: 中国国民党 、英: Kuomintang of China Template ピン音?)は、中華民国(台湾)の政党。 1919年、孫文らにより中華革命党を改組して結成。 概要 ウェード式ローマ字表記及びそれを元にした英語表記のKuomintang からKMTと略す場合もある。中華民国の野党最大党で、泛藍連盟に分類される。政策的にはきわめて保守的。台北市長在任中の特別費の使用をめぐり汚職容疑(横領容疑)で起訴された馬英九の主席辞任を受け、2007年2月13日から呉伯雄が代理主席を務め、同年4月7日の主席選挙で改めて呉伯雄が主席に選出された。 1949年以来現在に至るまで、中国国民党は台湾を活動の拠点とし、それ以前の活動の拠点であった中国大陸では実質的な政治活動を行っていない。そのため、日本ではメディアを中心に台湾国民党とも称されていた。 歴史 孫文によって1894年11月にハワイで結成された興中会を母体として、1919年10月10日に、ロシア革命の影響を受け、広東において孫文等により結成された(国民革命党からの単なる「改組」「改称」である、との指摘もある)。同年の五四運動に民衆の政治意識の高揚を読み取った上での孫文の決断であり、結成された当初の主要メンバーは、孫文の他、汪兆銘(汪精衛)など。なお、宋教仁により1912年に結成された「国民党」は、別の政党である。 1924年1月20日には、中国共産党との第一次国共合作が成立し、軍閥に対抗するための素地が形成された。孫文の死後、1925年5月30日に上海で発生した五・三〇運動を背景にして、汪兆銘を主席とする広東国民政府を樹立、1926年には、北伐を開始した。1927年に、蒋介石の上海クーデターにより国共合作は崩壊したものの、北伐は継続され、1928年には北京に入城し、北京政府を消滅させることに成功した。 北伐の完了を受けて、1928年、南京に蒋介石を主席とする国民政府が成立した。しかし、その内実は、北伐の過程で、各地の軍閥を取り込んだ、雑居政党となっており、それらを整理しようとする蒋介石の動きを1つの契機として、中原大戦(1930年5月1日‐10月10日)を頂点とする、党内対立の激化が起こり、最大の危機を迎えることになる。 1932年には、強大な軍事力とブルジョアジーの支持を背景に、蒋介石はなんとかその危機を乗り越えるが、他方で、その間の中国共産党の勢力回復や満州事変以降の日本による侵略に脅かされることになる。 蒋介石は、抗日戦より反共を優先し、1930年から1934年にかけて、5次にわたる反共囲剿戦(掃共戦)を繰り広げるも、共産党は井崗山の革命根拠地を撤収・放棄して長征を行ったことから共産党を消滅させるには至らなかった。1936年には西安事件で、なおも抗日戦における中国共産党との共闘に徹底的に反対していた蒋介石が軟禁され、これが、国共両党の接近をもたらした。 1937年に日中戦争が開始され、同年9月22日、第二次国共合作が成立。同年末に南京が陥落すると、国民政府は重慶に移転し、日本軍による攻撃をしのいだ。 1945年に日本が戦争に敗れ中国本土から撤退すると、同年11月から国共内戦が再開されるが、ソ連が支援する中国共産党軍に対する劣勢を挽回できず、1949年には、国民政府(中国国民党)は、内戦に敗れて台湾島に逃れた。このため中国国民党の実質統治範囲は、建国以来の福建省(馬祖・金門)と、1945年の日本敗戦後に連合国として統治していた台湾島一帯だけとなった。 台湾に本拠地を移して以降は長期的な視野で大陸との統一を主張しているが、共産党主導の統一には反発を示しており、短期的な視野では現状維持を志向している。2000年の総統選挙で民進党の陳水扁に敗れて以降は野党になっている。 2005年に国民党主席の連戦らが北京を訪問。中国共産党総書記・中華人民共和国主席の胡錦濤と会談した。両党トップの会談は1945年以来60年ぶりで、台湾独立反対という姿勢で一致した。 国共内戦においては大部分が台湾に逃れたが、四川・雲南方面の部隊はタイ、ミャンマー、ラオス等に逃れ、同地の政治的混乱に乗じる形で抵抗拠点を築いた。特に内戦の激しいミャンマーでは麻薬生産等にも関わって勢力を拡張した時期もあった。しかし、国際情勢の変化や高齢化などから現在はその大半が武装解除し、現地に帰順・定住しつつある。タイ北部には国民党の集落がある。[1] 国民党独裁 台湾に逃れた国民党は、戒厳令を施行し、一党独裁体制を固めた。国民党以外の政党は、中国青年党、中国民主社会党などの衛星政党が存在するのみで、「便所の花瓶」と揶揄された。 蒋介石を批判する側は(台湾において使用例は少ないが民進党関係者が)党国体制・(日本おいて台湾独立運動家を中心に)擬似マルクス・レーニン主義体制と呼んでいる。 国民の間では、政治的な話題はタブーとなり、たとえば鉄道職員に台北~高雄間を走る特急「自強号」の名前の由来を尋ねるだけでも口を噤まれる状況があった(「自強」は中華民国の国連脱退時のスローガン「荘敬自強、處變不驚」に由来)。このような言論自粛を、台湾では「一人一人の心の中の小さな戒厳司令部」と呼んだ。 1987年7月に戒厳令が解除され、台湾における中国国民党の独裁は廃し、民主化された。 ただし、1986年9月30日、民主進歩党が結成されたとき、国民党当局は、これを公認するのではなく、黙認する形をとった。 中国国民党革命委員会 中華人民共和国の「民主諸党派」(中国共産党の衛星政党)の一つに「中国国民党革命委員会」がある。孫文夫人の宋慶齢を中心に、蒋介石を嫌って大陸に残存した国民党のメンバーを中心に結成された。現在の党員数は公称で6万ほど。略称は「民革」。 全国代表大会・中央委員会全体会議 結成から1949年までのものを以下に掲げる。日付は開始日、カッコ内は開催地。 全大会=全国代表大会 中全会=中央(執行)委員会全体会議 1924年 1月 20日: 国民党一全大会(広州)、第一次国共合作 1924年 1月 31日: 国民党一期一中全会(広州) 1924年 8月 15日: 国民党一期二中全会(広州) 1925年 5月 18日: 国民党一期三中全会(広州) 1925年 11月 23日: 国民党一期四中全会(北京。いわゆる西山会議) 1926年 1月 1日: 国民党二全大会(広州)、西山会議派弾劾 1926年 1月 22日: 国民党二期一中全会(広州) 1926年 3月 29日: 国民党二全大会(上海、西山会議派) 1926年 5月 15日: 国民党二期二中全会(広州)、「党務整理案」を可決 1926年 7月 4日: 国民党二期臨時全会(広州) 1927年 3月 10日: 国民党二期三中全会(漢口) 1927年 9月 16日: 国民党中央特別委員会(南京) 1928年 2月 2日: 国民党二期四中全会(南京) 1928年 8月 8日: 国民党二期五中全会(南京) 1929年 3月 15日: 国民党三全大会(南京)、「訓政綱領」採択 1929年 3月 28日: 国民党三期一中全会(南京) 1929年 6月 10日: 国民党三期二中全会(南京) 1930年 3月 1日: 国民党三期三中全会(南京) 1930年 11月 12日: 国民党三期四中全会(南京) 1931年 5月 1日: 国民党三期第一臨時全会(南京) 1931年 6月 13日: 国民党三期五中全会(南京) 1931年 11月 9日: 国民党三期第二臨時全会(南京) 1931年 11月 12日: 国民党四全大会(南京) 1931年 11月 18日: 粤方国民党(広州反蒋派:主席・孫科)四全大会開催 1931年 12月 22日: 国民党四期一中全会(南京) 1932年 3月 1日: 国民党四期二中全会(洛陽) 1932年 12月 15日: 国民党四期三中全会(南京) 1934年 1月 20日: 国民党四期四中全会(南京) 1934年 12月 10日: 国民党四期五中全会(南京) 1935年 11月 1日: 国民党四期六中全会(南京)、汪精衛暗殺未遂事件 1935年 11月 12日: 国民党五全大会(南京) 1935年 12月 2日: 国民党五期一中全会(南京) 1936年 7月 10日: 国民党五期二中全会(南京) 1937年 2月 15日: 国民党五期三中全会(南京)、第二次国共合作 1938年 3月 29日: 国民党臨時全大会(武漢・武昌) 1938年 4月 6日: 国民党五期四中全会(漢口) 1939年 1月 21日: 国民党五期五中全会(重慶) 1939年 8月 28日: 国民党「六全大会」(汪精衛、上海) 1939年 11月 12日: 国民党五期六中全会(重慶) 1940年 7月 1日: 国民党五期七中全会(重慶) 1941年 3月 24日: 国民党五期八中全会(重慶) 1941年 12月 15日: 国民党五期九中全会(重慶) 1942年 11月 12日: 国民党五期十中全会(重慶) 1943年 9月 6日: 国民党五期十一中全会(重慶) 1944年 5月 20日: 国民党五期十二中全会(重慶) 1944年 9月 : 国民党五期十三中全会([2]に記載あり) 1945年 5月 5日: 国民党六全大会(重慶) 1945年 5月 28日: 国民党六期一中全会(重慶) 1946年 3月 1日: 国民党六期二中全会(重慶) 1947年 3月 15日: 国民党六期三中全会(南京) 1947年 9月 9日: 国民党六期四中全会(南京) 1948年 4月 4日: 国民党六期臨時全会(南京) 1949年 7月 16日: 非常委員会(広州) 関連項目 孫文 蒋介石 宋美齢 蒋経国 連戦 馬英九 日中戦争 国共合作 南京大虐殺-ハロルド・J・ティンパーリ-王小亭-ザ・バトル・オブ・チャイナ 南京大虐殺論争-便衣兵-督戦隊 クレア・リー・シェンノート フライングタイガース(アメリカ人義勇軍部隊) フランクリン・D・ルーズベルト ヨシフ・スターリン ウィンストン・チャーチル 中国民主化運動 台湾 外省人 ファシズム 擬似マルクス・レーニン主義体制 ヘゲモニー政党制 白色テロ 権威主義 開発独裁 独裁 外部リンク 中国国民党公式サイト(日本語) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年2月24日 (日) 03 34。