約 49,770 件
https://w.atwiki.jp/filinion/pages/266.html
https://w.atwiki.jp/wwenorider/pages/43.html
NWA-AWA 幼少時代からリック・フレアーに憧れ、高校在学時にプロレスラーになることを決意した[要出典]。また、JBエンジェルスの熱烈なファンであり、特に山崎五紀には心酔している。18歳の頃にホセ・ロザリオに師事し、1984年9月8日に地元サンアントニオ地区のテキサス・オールスター・レスリングにてアート・クルーズを相手にデビュー。ポール・ダイヤモンドとのタッグチーム「アメリカン・フォース」でキャリアを積み、海外武者修行中だった冬木弘道と川田利明の「ジャパニーズ・フォース」との抗争も行われた[1]。 1985年にNWAセントラル・ステーツ地区(ミズーリ州、カンザス州近郊)においてマーティ・ジャネッティとミッドナイト・ロッカーズ を結成し、セントラル・ステーツ・タッグ王座を獲得。その後ダラス地区などを転戦し、1986年にAWAに移籍(AWAでは当初「USエクスプレス」と名乗るプランもあった)。翌1987年1月にAWA世界タッグ王座を獲得した。同年夏にWWF(現・WWE)と契約するが、ナイトクラブでの乱闘事件が元でわずか2週間で解雇される[2]。その後、ミッドナイト・ロッカーズはAWAに戻り、再びAWA世界タッグ王座を獲得。なお、当時のAWAには後にマネージャーを務めるシェリー・マーテルや、後世に語り継がれる名勝負を残すことになるスコット・ホールも在籍していた。 WWF 1988年、チーム名をザ・ロッカーズに改め、再びWWEと契約を交わした。後のライバル "ヒットマン" ブレット・ハート率いるハート・ファウンデーションなどと抗争を繰り広げ次第に人気を高め、1992年、相棒のマーティ・ジャネッティと決別し、ヒールのシングルプレイヤーに転向した。その年には初のシングルタイトルとなるIC王座を獲得した。その後、しばらくはかつての相棒ジャネッティなどと抗争を繰り広げるが、その頃はまだ中堅クラスという感は否めなかった。そんな状況を脱するきっかけは1994年のWrestleMania Xで訪れた、レイザー・ラモンとのラダー・マッチである。ショーンは敗れたものの、双方ともに実力を出し切ったこの試合によってショーンの名前は全米に広がり、広く実力も知られるようになった。 1995年、ロイヤルランブルにおいて優勝し、WrestleMania XIではディーゼルの持つWWF王座に挑戦したが敗れた。WrestleMania XI後はベビーフェイスに戻り、1996年には再びロイヤルランブルを制しWrestleMania XIIにおいてブレット・ハートとWWF史上初のアイアンマン・マッチを行い、延長戦の末勝利。初のWWF世界ヘビー級タイトルを奪取した。しかし、この時の経緯を巡りブレット・ハートは激怒し、彼との間に大きな確執を残すこととなった。 名実ともにWWFの頂点に立ったショーンは、ブレットが長期休養を取ったこともあり、マンカインド、ベイダー、ブリティッシュ・ブルドッグらを相手に防衛を重ねるが、サバイバー・シリーズでサイコ・シッドにWWF王座を奪われた。翌1997年1月19日、地元サンアントニオのアラモドームに6万人超の観客を集めたロイヤルランブルで王座を奪回するが、この試合で膝を痛め王座返上し、レッスルマニア13には不出場。しかし、これは直前にブレットが契約更改で、ビンス・マクマホンから高額な契約金を引き出したことに対しての試合ボイコットであった、という説もある。 1997年秋、再度ヒールターンしてハンター・ハースト・ヘルムスリー、チャイナらとD-Generation Xを結成。再びブレット・ハートと抗争を繰り広げた。9月20日にはブリティッシュ・ブルドッグからWWF欧州王座を奪取し、WWF史上初のグランドスラムの快挙を達成する。同年11月にモントリオールで開催されたサバイバー・シリーズで、既にライバル団体WCWへの移籍が決定していたブレットとのWWF世界ヘビー級タイトルマッチの最中、ショーンがブレットの必殺技のシャープ・シューターを繰り出した瞬間、突如としてショーンの勝ちが宣告される不可解な事件が起こった(モントリオール事件を参照)。最大のライバルであったブレットはWWFを去ったものの、この頃から長年に渡るハードな受身が災いし、持病の椎間板ヘルニアが悪化した。様々な治療やリハビリを試みたがこの時点では回復は困難と見られ、1998年3月29日、WrestleMania XIVでのストーン・コールド・スティーブ・オースチン戦を最後に引退した。 1998年-2002年 引退後は故郷サンアントニオに戻り、プロレスリング・スクール兼WWFファーム団体のTWA(Texas Wrestling Academy)を設立し、後進の育成に励んだ。TWAには若手時代のタッグパートナーでありAWAやWWFでも活動を共にしたポール・ダイヤモンドもトレーナーとして協力しており、卒業生にはブライアン・ケンドリック、ポール・ロンドン、ランス・ケイド、ブライアン・ダニエルソンなど後にWWEで活躍する選手も多い。 また、この時期にはストーリー上WWFのコミッショナーに就任して、テレビにその姿を見せることもあった。1999年11月23日に横浜アリーナで行われたFMW10周年記念大会では、特別レフェリーとして久々の来日も果たしている。私生活においては、親友ケビン・ナッシュの紹介で出会った元ナイトロ・ガールズのレベッカ・カーチと結婚した。 WWE 2002年、nWoの新メンバーとして衝撃の復帰を果たしたが、ケビン・ナッシュの負傷に伴いnWoが崩壊。その後トリプルHと抗争が始まり、SummerSlam 2002でのトリプルH戦(団体未公認試合)でついにリングへの復帰を果たした。さらにSurvivor Series 2002でのエリミネーション・チェンバー・マッチで初の世界ヘビー級王座を獲得。2003年にはWrestleMania XIXでクリス・ジェリコと戦った。 2003年は世界ヘビー級王者トリプルH、あるいはその派閥エボリューションとの抗争を続け、年末からはトリプルHとの試合を繰り返した。ロイヤルランブル覇者クリス・ベノワが王座への挑戦権を得たため、WrestleMania XXではトリプルH、ベノワと三つ巴戦でメインイベントに出場した。翌月のBacklashでの再戦ではモントリオール事件がテーマとなり、ブレット・ハートと関係が深いベノワのシャープシューターにタップアウトした。以降はトリプルHとの抗争に戻り、バッド・ブラッドでのヘル・イン・ア・セルでの決着に至った。翌日のケインの襲撃を期に長期欠場に入った。復帰後はケイン、あるいはエッジと抗争。 2005年のRoyal Rumble 2005以降、SmackDown! 所属のスーパースターであるカート・アングルとの抗争を開始し、WrestleMania 21の番組対抗戦で対決するも敗北。WrestleMania 21以降は一時復活したハルク・ホーガンとチームを組み、Backlash 2005までモハメド・ハッサン、デバリの嫌米チームと抗争。6月に行われたドラフトでカートがRAWへ移籍し、Vengeance 2005で再戦し雪辱を果たす。7月4日に開催されたRAWでのマイケルズ&ホーガンvsカート&クリス・マスターズ戦の試合終了後、突如ホーガンにスウィート・チン・ミュージックを浴びせヒールに転向。以降ホーガンとの抗争を開始する。SummerSlam 2005のメイン戦でホーガンとの対決には敗れたが、再びベビーとなった。秋からは同じくベビーターンしたリック・フレアーと組み、マスターズと抗争を開始。マスターズとの抗争を終え、USAネットワークに戻ったRAWでカートとのアイアンマン・マッチを行った。その後SmackDown!との一連の抗争ではRAWの主将を勤めた。 2006年からは、「モントリオール事件」についても語られている、ブレット主演のDVDの発売に絡んで、ビンス・マクマホン、シェイン・マクマホンと抗争。Saturday Night Main Eventでのシェイン戦は、シェインがショーンに対してシャープ・シューターを出した瞬間にビンスがゴングを要請して試合が決着するという、モントリオール事件を再現するアングルが組まれた。WrestleMania 22ではビンスとのストリート・ファイト戦が行われた。以後もマクマホン親子との抗争は続き、7月、トリプルHと組み、9年ぶりにD-Generation Xを再結成した。 2007年にはロイヤルランブルで激闘の末、ジ・アンダーテイカーに敗れた。 同年、ランディ・オートンに頭を蹴られ(というストーリー。本当は足の怪我)欠場していたが、ノー・マーシーの翌日のRAWでいきなり復活した。その後はオートンなどと抗争。 2008年ロイヤルランブルでアンダーテイカーと共に1番手として出場したが、Mr.ケネディに落とされた。 WrestleMania 24では、ビンスにより試合に負けたら即引退を課されていたリック・フレアーと対戦。そしてこれに勝利し、フレアーを引退へと導いた。 その後もクリス・ジェリコ、JBLなどとの抗争で番組の中心として活躍するが、アルマゲドンにて景気悪化の煽りを受け破産状態になったと「告白」、JBLの"従業員"となって彼の試合に介入、観客からブーイングを浴びると共にトリプルHとの仲も微妙になり、悩めるベビーフェイスとして葛藤の日々が続いた。 しかし2009年のノー・ウェイ・アウトで行われた、マイケルズが勝ったら今までの報酬が全て支払われるが負ければHBKやショーン・マイケルズの名前の権利がJBLに奪われるという"オール・オア・ナッシング"マッチに見事勝利し、ハート・ブレイク・キッドが復活した。 2月のRAW放送ではそれまで無敗を誇っていたウラジミール・コズロフをスウィート・チンで下すなど破竹の快進撃を続け、WrestleMania25でジ・アンダーテイカーの16勝0敗という記録を破ると宣言。 その後のRAW及びSmackDownにおいてあの手この手でテイカーを挑発、翻弄するが、WrestleMania25本番ではテイカーの無敗記録を破る事はできずマットに沈んだ。このWrestleMania25後は長期休養に入った。 その後8月のRAW放送においてオートン率いるレガシーのコーディ・ローデスとテッド・デビアスとのハンディキャップマッチに敗れたトリプルHが「テキサスに電話を一本かけるか」とDX復活を示唆。翌週テキサスに飛び、とある会社の食堂でシェフをしていたショーンを発見する。ショーンは「会社は尊敬してくれる」と言ったが直後に上司に罵倒され、スウィート・チンで撃沈。DXが再結成した。(このスキットは映画「レスラー」のパロディ) 再結成後はレガシーのローデス&デビアスと抗争。WWE Breaking Point 2009では史上初の試合形式であるサブミッション・カウント・エニウェア・マッチで闘うが、ローデスの鉄柱4の字固め、デビアスのミリオンダラー・ドリームのダブル攻撃に屈してしまい、DXとしては初めてのタップアウト負けを喫した。 しかし次PPVのHell in a Cell 2009では勝利し、決着がついた。 12月に開催されたTLC Tables, Ladders and ChairsでのTLC戦でクリス・ジェリコ ビッグ・ショー組に勝利し、統一タッグ王者となる。
https://w.atwiki.jp/springwater/pages/167.html
作山 若子氏 Sakuyama Wakako株式会社 和みblogNATULURE<ナチュルア>和顔愛語<わがんあいご> 経歴 1970年生まれ 38歳 1988年 高校卒業後、株式会社ヨークマツザカヤ入社 1990年 株式会社ユナイテッドスティール(現ユニマットライフ)入社 2002年 同社退社、半年後有限会社 和み設立。 2004年 資本金増資、株式会社へ組織変更 有機栽培やフェアトレードのコーヒー・紅茶・日本茶・中国茶・ハーブティーなどの飲料品を取り扱う、株式会社 和みを経営。自社ブランド「NATULURE」「和顔愛語」商品および原料の卸売、OEMによる商品開発事業のほか、直営店舗やWEBでの小売販売事業を展開する。 「人と自然を結ぶ」をキーワードに、ワンストップで原料の輸入から、企画、製造、販売に携わることで、生産者の生活と消費者の健康の双方への貢献を実現している。またユニークな社員教育方法でも注目を集めている。 24歳のときに飲料品を販売する株式会社ユナイテッドスティールで全国トップの営業成績を収め、その後も営業の第一線で活躍。管理職という立場ながら、出産・産休の後に職場に復帰するなど仕事と育児とを両立するなどバイタリティに溢れる女性の生き方を実現していた。出産と育児をキッカケに飲料品生産の劣悪な現場環境への問題意識を強くし、自らが納得できる商品を販売するために独立し、2002年有限会社 和みを設立。 JAS及び自社基準に基づいたオーガニックな飲料品を通して消費者へ健やかな生活を提供している。また生産者に適正な報酬を支払うフェアトレード取引を行うことにより、海外の生産者への生活支援と生産力向上を目指している。 作山社長講演の直伝セミナーは10/18開催! 詳細はこちら ※当ページの内容は変更になる可能性がございます。 当ホームページ掲載の記事、写真、イラスト等の無断掲載を禁止します。 Copyright (C) SpringWater. All rights reserved.
https://w.atwiki.jp/springwater/pages/114.html
近藤 昇 Kondo Noboruブレインワークスグループ CEO株式会社ブレインワークス 代表取締役 経歴 1962年 徳島県生まれ 神戸大学建築学科卒業 1級建築士、1種および特種情報処理技術者 1993年 有限会社ブレインワークスを設立 1995年 有限会社ブレインワークスを株式会社化 1998年 ベトナム・ホーチミンにビジネス進出 2006年 ベトナムにITエンジニア育成学校「SGBJ(サイゴンブレインジャパン)」設立 ブレインワークスグループは中小企業支援を中核に、日本国内、アジア地域で活動を展開。 企業の経営革新を実現するペースメーカー(伴走者)として、人材育成支援、セキュリティ支援、 ITアウトソーシング支援、ブランディング支援などのサービスを提供する。 アジア地域における展開として、ベトナムのホーチミンとハノイに拠点を設立。ITエンジニア育成学校 「SGBJ(サイゴン・ブレイン・ジャパン)」を設立し、ベトナム人の人材育成に力を注いでいる。 その他、アジアビジネス情報誌の発行、視察ミッションの主催など、日本とアジアをビジネスで結ぶ橋渡し役として活動の幅を広げている。 主な著著 タイトル 出版年 出版社 バカモン!―― 一流ビジネスパーソンへの登竜門 2007 カナリア書房 IT、情報活用、セキュリティで右往左往しない社長の鉄則77 2005 明日香出版社 社内情報革命に失敗する会社・成功する会社―IT工務店からの提言 2003 光芒社 こうすればできる「社内情報革命」II 2003 清話会 仕事は自分で創れ!―タフな時代を生き抜くビジネス筋力の鍛え方 2002 オーエス出版 こうすればできる「社内情報革命」I 2002 清話会 だから中小企業のIT化は失敗する 2001 オーエス出版 これで中小企業の「情報共有化」は成功する 2001 オーエス出版 Pioneerへの10の質問はこちら インタビューはこちら 当ホームページ掲載の記事、写真、イラスト等の無断掲載を禁止します。 Copyright (C) SpringWater. All rights reserved.
https://w.atwiki.jp/serkan_anilir/pages/22.html
2スレ781氏による「アニリールセルカン氏の講演活動」Googleカレンダー版、HTML版も参照のこと。 注意:インタビュー等の扱いは、「インタビューが行われたという事実」は第三者ソースの情報、「インタビューで明かされた情報」はセルカンソースの情報として扱っています。また、セルカンソースのうち、報道機関等により確認されたものには (詐称) と記載しています。(詐称) という記載がない情報も詐称である可能性があります。 日時 第三者ソースの情報 セルカンソースの情報 備考(ソースなど) 1973.3.22 ケルンで誕生 1982 科学コンテストで優勝、奨学金で寄宿舎へ 「宇宙エレベーター」の記述 1987(14歳) スイスの寄宿舎時代にU-20スキーヨーロッパ大会で優勝 建築ノート2009 No 7の記述 1987 寄宿学校でボヤ騒ぎを起こし退学 ビッグコミックスペリオールのインタビュー、「宇宙エレベーター」の記述では「15歳当時」とあり、矛盾 1988 トルコのスキー代表選手として活躍 (詐称) The Invension 2007 No 10の記述 1988?(15歳) スキーの回転競技でカルガリーオリンピックに出場、14位の成績 (詐称) 「ポケットの中の宇宙」の記述。掲載されている写真は「回転」ではなく「大回転」であり矛盾。 1988 ドイツで12人の仲間とタイムマシンを制作、地元のサッカースタジアムで実験。観衆が詰めかけ、新聞社やテレビ局などが取材 ビッグコミックスペリオールのインタビュー、「ポケットの中の宇宙」の記述 1989(16歳) アメリカの高校に入学 建築ノート2009 No 7の記述 1989-1996 イスタンブール工科大学、イリノイ・インスティテュート・オブ・テクノロジー学士課程 (詐称) 外交フォーラムの記述 1990?(17歳) アメリカでPPL(プライベート・パイロット・ライセンス)を取得 「ポケットの中の宇宙」の記述 1991(18歳)-1995卒業 イリノイ工科大学建築学科(詐称) 建築ノート2009 No 7の記述 1991?(18歳) シカゴで運転免許を取得 「ポケットの中の宇宙」の記述 1993?(20歳) トルコ国籍を選択 「ポケットの中の宇宙」の記述 1994 練習中の事故で足に大怪我し、スキー選手を引退。ロータスエリーゼを購入 「ポケットの中の宇宙」の記述。なお、ロータスエリーゼの発売は1996年であり、矛盾。 1995.2 イリノイ工科大学建築学部建築学科卒業 (詐称) 東大助手採用時の書類 1995.9 イリノイ工科大学建築学部建築学科卒業 (詐称) 研究室のHPの記述 1995(23歳)-1996卒業 イスタンブール工科大学建築学科(詐称) 建築ノート2009 No 7の記述 1996.2 イスタンブール工科大学建築学部建築学科卒業 (詐称) 東大助手採用時の書類 1996.9 イスタンブール工科大学建築学部建築学科卒業 (詐称) 研究室のHPの記述 1995?1996? 卒業制作で「スペースエレベーター」をデザイン、NASAで発表。バウハウス建築技術学校への門を開く 外交フォーラムの記述 1996.9.3 ユルディス工科大学建築学部卒業 建築学士 (Bachelor of Science in Architecture) 東大の公式発表 1996 11次元宇宙理論を発表 かがくナビの記述 1997 プリンストン大学数学部客員教授 (詐称) 科研費申請書類の記述、EUにおけるレオナルド交換プログラムにおぴてバウハウス大学より派遣、8ヶ月の就任と記載 1997 プリンストン大学数学部講師 (詐称) 「宇宙エレベーター」の記述 1997 Intern at European Space Agency Space Architecture Technical Committeeのサイトの記述 1998 長野五輪のトルコスキーチームとして初来日 (詐称) ビッグコミックスペリオオールのインタビュー 1998 ESA宇宙技術移転開発部メンバー 科研費申請書類の記述、EUにおけるエラスムス交換プログラムにおいてバウハウス大学より派遣、3ヶ月の就任と記載。外交フォーラムの記述ではインターン。 1998 MAS建築事務所でドイツ・ハノーヴァー万博のトルコ館の設計コンペに優勝 建築ノート2009 No 7の記述 1998年末 文部省の奨学金制度に応募 外交フォーラムの記述 1999.2 バウハウス大学エンジニアリング学部修士課程修了 (詐称) 1999.4 東京大学大学院工学系研究科博士課程進学 外交フォーラムの記述。これが正しいなら、バウハウス大学を修了する前に博士課程に進学したことになる。 1999.12.17 バウハウス大学建築学科都市地域専攻修了 (Diploma) 東大の公式発表 1999 Associative Architect at Kajima Corporation Space Architecture Technical Committeeのサイトの記述 1999? ケルンにあるサヴォイ・ホテルのデザインコンペ優勝、メディア・パーク・ケルンの南ウイングビルの国際デザインコンペ優勝、ともにデザインが採用される 外交フォーラムの記述 1999? ドイツのアウレンバッハ空港のために開発したスパイダーシステムが採用 外交フォーラムの記述。「アウレンバッハ空港」は、Space Architecture Technical Committeeのサイトの記述によると"Auerbach Airport"のことか? 2000.4.27 日本トルコ協会 トルコから見た日本 後に見られるとような詐称経歴の記述なし 2000 Research Associate at Shimizu Corporation Space Architecture Technical Committeeのサイトの記述 2000 鹿島建設株式会社 東京大学より実務交換留学として建築設計 エンジニアリング部所属。ならびに宇宙開発設計部・部長就任 おにぎり隊の紹介の記述 2000-2002 鹿島建設デザインエンジニアリング部 研修生 科研費申請書類 2000-2003 NASAジョンソンスペースセンター アドバンスプロジェクト チームリーダー 宇宙エレベータープロジェクトの統括、技術の一般企業への移転 科研費申請書類 2001.4 NASAアドバンスプロジェクトチームリーダー 研究室のHPの記述 2001.10 NASA宇宙居住テクノロジー・グループに参加 外交フォーラムの記述 2001.12.13 Bilkent大学で講演 NASAのメンバーとして招待されたことになっている 2001 NASAジョンソンスペースセンター宇宙構造・材料系客員研究員として宇宙飛行士プログラムを終了 (詐称) 「宇宙エレベーター」の記述 2001-2003 Muses-C Mission Design Group Member Space Architecture Technical Committeeのサイトの記述、Muses-Cとは小惑星探査機「はやぶさ」のこと 2002.12.9(?) 宇宙建築研究会発足 スペースレフ、読売新聞の記事。宇宙建築に興味を持つ留学生2人が居合わせたことがきっかけ。追及ブログのコメントによると、村川氏が松村教授に発足を提案したとのこと。 2002 清水建設株式会社 宇宙開発部 研究グループ研究員 おにぎり隊の紹介の記述 2002 日本建築学会建築生産研究専門委員会委員 委員名簿 2003.1 外交フォーラム2003月2月号に「日本で見つけたトルコあれこれ」掲載 宇宙エレベーター設計、宇宙飛行士の訓練を受けた(宇宙服コラ写真も掲載)などが記載 2003.3.28 東京大学大学院工学系研究科博士課程修了 博士(工学) 2003.4 日本宇宙航空研究開発機構(JAXA)講師 (講師は詐称) 研究室のHPの記述 2003 宇宙科学研究所(ISAS)宇宙航空プロジェクト研究員 (ISASは10月にJAXAに統合) 国内では講師(科研費申請書類、研究室のHPなど)、海外ではassociated professorと詐称 2003 11次元宇宙理論に関する論文の最初のドラフトをPhysical Review Letters誌に投稿 日経サイエンスの取材に対する言い訳(2010年6月号) 2003年度 JAXA/ISAS 2003年度年次要覧 研究成果の発表の状況(業績削除前), (業績削除後) JAXAにより4本の論文が削除 2004.1.30 ホワイトマン プレゼンラジオ4日目「ホワイトマンの2004年宇宙の旅」ゲスト ウェブ上で確認できるセルカン氏の活動の初出。NASAからJAXAに来てる宇宙研究者として紹介されている。 2004.3.10 ASCE2004 "Industrial Processes in Space Manufacturing for Converting Asteroidal Materials into Useful Construction Elements,""MICRO-G Architecture – An Innovative Design and Education Experience in Turkey," 発表、Session Chair 2004.6 雑誌「×10渋谷PPP」の特集、落ちこぼれ数学者×最先端の数学者の対談 バリバリの最先端数学者として紹介 2004.9.18 今井雅子(広告業出身脚本家),小山理子らと会食 宇宙飛行士として紹介 2004.10.23-31 おにぎり隊 トルコ 煎茶道、黄檗売茶流家元の中澤弘幸氏、出版プロデューサーの磯尾克行氏も参加 2004.12.21 せんだいデザイン・ウィークフォーラム9特別参加 上記の中澤弘幸氏の講演に特別参加 2004.12 宇宙飛行士候補に選ばれる (詐称) 「宇宙エレベーター」の記述 2004 11次元宇宙理論に関する論文の2回目のドラフトをPhysical Review Letters誌に投稿。ケンブリッジ大学で講演 日経サイエンスの取材に対する言い訳(2010年6月号)。Physical Review Letters誌を出版しているAmerican Physical Societyのサイトでは論文の存在は確認できない。JAXAは年次要覧から該当する業績を削除済み 2004年度 JAXA/ISAS 2004年度年次要覧 研究成果の発表の状況 2005.5 東京大学助手採用 2005.7.21 交通新聞社 散歩の達人2005年8月号「散歩者インタビュー」掲載 2005.10.29-11.6 おにぎり隊 ウェールズ セルカンカレッジのマネージャー高橋国子女史も参加 2005.11.7 科研費申請書類提出 日付は書類に記載のもの 2005.12.4 広告サミット2005にSpeakerとして出演 Navigator 木下謙一Speaker 福田敏也 中村勇吾 セルカン 2005.12.5 ロハスクラブ第1回トークセッション 坂本龍一氏、福岡伸一氏らが参加 2005 ケンブリッジ大学特別物理化学賞 科研費申請書類の記述、宇宙エレベータープロジェクトの業績で 2006 この年より、講演、インタビュー等、メディアに露出する数が急増 2006.1.21 読売新聞2006年1月21付 夕刊 7頁 2版に記事掲載 記事 2006.6.17 ブログ開設 2006.6.22 「宇宙エレベーター」(大和書房)発売 編集協力 磯尾克行 高橋国子執筆協力 木内アキ帯の推薦文 坂本龍一 2006.7.17 トルコ大使館で宇宙エレベーター出版記念パーティ 参加者のブログ 2006.7.22 11次元Tシャツ発売 2006.11.22 「ドラゴン桜」16巻にインタビュー掲載 「東大は簡単だ」のシュメール語訳(盗作)掲載、雑多な情報参照 2006.11.23 「タイムマシン」(日経BP)発売 公式ブログのアーカイブ 2006.11.26 タイムマシーン出版記念お茶会 参加者のブログ 2006.12.13 第1回インフラフリーシンポジウム ブログでの記述 2006.12.20 構想日本第113回J.I.フォーラム「切り拓く人たち」に討論者として参加 議事録。NASAで大佐まで上がったと自称 2006年度 2006年度 科研費実績報告書 2007.4.27 ビッグコミックスペリオールのインタビュー「都内で宇宙のソトに立つ」が行われる ビッグコミックスペリオール2007年6月27日号、および「宇宙百景」に掲載 2007.8.11 日本科学未来館でアニメ 宇宙エレベータ ~科学者の夢みる未来~ 上映開始 2007.9.1 和歌山県串本町が串本大使第1号に委嘱 2007.9(?) THE INVENSION 発明 2007 No 10にインタビュー「Mothers Mars~8ヵ国語を話すトルコ人宇宙飛行士の素顔に迫る~」掲載 2007年度 2007年度 科研費実績報告書 2008.5.26 日経アーキテクチュア2008年5月26日号にインタビュー「弱点を知る 100年後の建築を子どもたちに語れるか」掲載 2008.8 「セルカンの国を知ろう」プロジェクト。3468人の日本人がイスタンブールを観光 実態は三基商事によるキャンペーン旅行。参考 歐亞茶房(ユーラシアのチャイハナ) 2009.2.25 リエゾンセンターのサイトにコラム「アニリールセルカンが今考えていることは?」掲載 削除済み。スクリーンショット 2009.4.10 セルカンカレッジ開催決定記念特別講演「インテリジェントデザイン」 スクリーンショット 2009.5.29 セルカンカレッジ東京第1回開催 2009.8.29 朝日beフロントランナー掲載 記事1, 2 2009.8 「ポケットの中の宇宙」(中央公論新社)発売 編集担当 横手拓治 神原博之メインタイトル発案、編集協力 高橋国子 2009.9.5 2ch理系全般板 論文投稿あれこれXIスレの315で、業績に関する疑惑が持ち上がる 2009.10.14 日本建築学会編集委員会委員を解嘱される 理由は「一身上の都合による」とのこと。理事会議事録 2010.3.2 学位取消 2010.3.16 串本大使解任 2010.3.30 兵役のためトルコへ出向 公式ブログの管理人のコメント 2010.3.31 懲戒解雇相当の処分 2012.2.24 松村教授、停職1月の懲戒処分 発表は2.29 2012.2.29 研究費の不適切な使用に関する調査結果が報告される 平成18年度~21年度の間に合計10,085,467円
https://w.atwiki.jp/serkan_anilir/pages/16.html
東大工学部建築学科教員 アニリール・セルカン博士の経歴・業績に関わる疑惑の検証 ~注意!~ 以下の記述はWeb上の公開情報を元に客観的に比較検証を行った結果であり、特定思想や人種・宗教等に由来する一方的な中傷ではありません。もちろんそれらの偏見を助長するものでもありません。 【2-B 疑問点と、その外部ソースに基づく検証・業績編】 【2-B-1 セルカン氏の研究業績に関わる疑問点とその検証】 <査読付原著論文> 05, ANILIR S., “ A Proposal to understand the 11th Dimensional membrane universes and their architectural forms in space environment”, Physical Review Letters, ケンブリッジ大学出版, 2003/09, p. 39-50、2003年9月 ⇒Physical Review Letters(PRL)はケンブリッジ大学出版ではなくAmerican Physical Society(APS)、 さらにレター誌なので一編の論文は4ページまでに制限されており10ページものフルペーパー論文が掲載されることはありえない。さらに、PRLでは2001年以降ページ番号が廃止され6桁の論文番号で論文を指定している。 また、PRLはすべての論文タイトルをWebアーカイブで公開している(http //prl.aps.org/)が、このタイトルの論文は存在しない。 05-b, S.Anilir Designing in Parallel Universes and 11th Dimension Physical Review Letter, January 2004 Edition, p.22, (2003). ⇒このタイトルの論文もまた、PRLには存在しない。 さらに、PRLを含め、Physical Review全誌で著者名 Anilir の論文は存在しない。なお、本論文を含めたセルカン氏の論文発表3件がJAXAの2003年度年次報告に業績として記載されているが、それらの検証結果については http //blog.goo.ne.jp/11jigen/ を参照されたし。 06, ANILIR S., “Energy for Housing in the 21st Century- Advanced Technology Paths from Space Solar Power into Terrestrial Architecture”Journal of the Faculty of Architecture, Middle East Technical University (METU) Vol. 23, No. 9-10, (2003). ⇒ 雑誌は存在し、バックナンバーもWebで公開されている。 http //jfa.arch.metu.edu.tr/ しかし、上記論文は存在しない。そもそも、年2回刊で毎巻 No. 1とNo. 2のみがあり、上記論文が掲載されたはずの No. 9-10 は存在しない。 09, ANILIR S., “Proposal for air-filled construction systems to develop ultra-high rise buildings in earthquake zones”, TASARIM建築専門月刊誌, 2004/08, p.73-78, ISSN 1300-7351, 2004年8月 ⇒ 同号にセルカン氏は寄稿しているが、タイトルや内容は以下のようになっており、まったく異なる。 "Japonya da 800 mt. yuksekliginde bir yapi"(日本における800m級高層ビル), p. 128 <知的財産> 21, EU Patent 3,743,229 ‘SPIDER FACADE SYSTEM’, July 2001 ⇒EU Patent EP 3,743,229 は存在しない (http //ep.espacenet.com/searchResults?locale=en_EP NUM=3743229 ST=number compact=false DB=ep.espacenet.com ) 22, US Patent 6,324,603 ‘AIR-SUPPORTED CONSTRUCTION SYSTEM’, October 2002 ⇒US Patent 6,324,603 は別人による出願の特許である(http //www.patentstorm.us/patents/6324603/claims.html) <学術刊行物> 34, ANILIR S, “GUIDEBOOK”, (革新的な視点を取り入れた宇宙物理学を一般読者に紹介する書籍)、大和書房出版、2005年9月(出版予定) ⇒このタイトルの書籍が大和書房より出版された事実は無い。ただし、当該書籍のタイトルが変更されて『宇宙エレベータ』として出版された可能性はある。 【2-B-2 外部ソースにより存在が確認されたセルカン氏の研究業績】 原著論文(以下3本についてはWeb of Knowledgeで調査した) ① Anilir, S. (2008). "A decentralized/self-sustaining (infra-free) kitchen-system proposal with a home incinerator and Sabatier reactor-integrated waste management utility." Waste Management and the Environment Iv 109 385-394 ② Anilir, S., M. Nelson, et al. (2008). "Designing a small-scale infra-free (IF) system for community applications Managing energy, water and waste." Journal of Asian Architecture and Building Engineering 7(1) 77-84. ③ Anilir, S. (2004). "Industrial processes in space manufacturing for converting asteroidal materials into useful construction elements." Engineering, Construction and Operations in Challenging Environments Earth and Space 2004 1015-1022 国際学会発表 (調査中) S. Anilir, S. Matsumura, R. Schmidt, K. Fukuda, S. Nishii, and M. Araki, "Infra- Free Life (IFL)- Proposal for a Spin- Off Technology from Aerospace into Building Industry" AIAA "Space 2006" 20 September 2006, San Jose CA, USA http //www.aiaa.org/agenda.cfm?lumeetingid=1393 formatview=1 dateget=20-Sep-06 2006年12月にトルコのイスタンブールで開かれた「第一回 国際インフラフリーシンポジウム」 ここでは、セルカン氏は東京大学の准教授(Associate Professor)として紹介されている。 http //www.kale.com.tr/english/sosyal_faaliyetler/mimarlik_sempozyumu.asp “ATA” SPACE ELEVATOR ATA宇宙エレベーター‘A Gateway to Heaven’ASANSOR’2005 Conference, April 2005 (JAXA所属のもとでの発表となっている) 本発表のOHP資料は、http //www.asansoristanbul.com/presentations/space_elevator_SAnilir.ppt にて閲覧可能である。 【2-B-3 ATA宇宙エレベーター についての検証】 上に掲載した国際学会での講演内容を元に、ATA宇宙エレベーター計画について検証する。 “ATA” SPACE ELEVATOR ATA宇宙エレベーター‘A Gateway to Heaven’ASANSOR’2005 Conference, April 2005 本発表のOHP資料は、http //www.asansoristanbul.com/presentations/space_elevator_SAnilir.ppt にある。 ⇒ここでは、セルカン氏の提案するATA宇宙エレベーター計画についての概略が述べられている。それによると、ATA宇宙エレベーター計画が関わる日本国内外の学会受賞歴として、 ※2000 JSPS ‘Young Promoting Scientist’ Award ⇒この受賞に関する記録はweb上では確認できない (JSPSは学術関連では通常、日本学術振興会を指すが、日本学術振興会はそのような賞を授与していない。 ちなみに、「創造性に富み優れた研究能力を有する若手研究者を早い段階から顕彰する」ことを目的として平成16年に創設された日本学術振興会賞の英文名称は"JSPS Prize"。同賞の過去の受賞者一覧はhttp //www.jsps.go.jp/jsps-prize/index.html で確認可能であるが、セルカン氏の名前はその中にない。) ※2003 Japanese Ministry of Science and Technology Award ⇒この受賞に関する記録はweb上では確認できない ※2004 Science and Engineering Award , Japanese Chamber of Architects and Engineers ⇒この受賞に関する記録はweb上では確認できない ※2005 ’21st Century’s Top 10 Scientific Projects Award’, Cambridge University ⇒この受賞に関する記録はweb上では確認できない が挙げられている(OHP2枚目) また、プロジェクトチームの人員構成は、セルカン氏を筆頭に各界著名人を集めた以下の陣容であるとされている。 ※Ass.Prof. Dr. Serkan ANILIR Head of Space Physics Department, JAXA ※Prof.Dr. Michiro NATORI Head of Space Structures Department, JAXA ※Dr. Fumihiko MORI Dr. Hiroko MUKAI Astronaut, Supervisor, JAXA ※Prof. Dr. Susumu NARA 2004 Physics Nobel Award Winner, Kyoto University (2004 Physics Nobel Award Winnerとあるが、2004年のノーベル物理学賞は米国のデイビッド・グロス (David J. Gross)、H. デビッド・ポリツァー (H. David Politzer)、フランク・ウィルチェック (Frank Wilczek)の3人でありナラ・ススムという人物は不明である) ※Dr. Arthur C.Clarke Science-Fiction Writer (Author of “The Fountains of Paradise”) (『2001年宇宙の旅』などで有名なSF作家のアーサー・C・クラーク氏のことではないかと推測される) ※Prof. Dr. Tadao ANDO Architect, Professor (打ち放しコンクリート建築で有名な建築家の安藤忠雄氏のことではないかと推測される) ※Prof. Dr. Shuichi MATSUMURA Head of Department of Architecture, University of Tokyo (セルカン氏が所属する研究室の松村秀一教授のことではないかと推測される) ※and 16 universities, numerous companies, agencies, research laboratories and hundreds of students with great vision…(OHP3枚目) また、ATA宇宙エレベーターに関わる知財として、以下の米国特許が挙げられている ※U.S. Patent 6,378,203 Patent Holders Matsumuto S., Anilir S., Lorenzo H., Nozaki K., Tetsuhashi H., Takagi M (OHP16枚目) ⇒しかしこの特許番号(U.S. Patent 6,378,203) については、http //www.patentstorm.us/patents/6378203/fulltext.html で確認可能な内容は下記のとおりである。 US Patent 6378203 - Method of making fluid heat exchanger Inventors Lu, James W. B. Sanatgar, Homayoun Holt, Neil Johnson, Gary F. セルカン氏についての日本語版wikipediaでは「学会で懇意となった研究者と共に、現在この計画(ATA宇宙エレベーター)はNASAで研究が続けられている」との記述があるが、上記の発表を見る限りATA宇宙エレベーター計画は日本のJAXA主体で行われているように見える。 また理由はまったく不明であるが、上記の多数の表彰歴や非常に大規模な人員計画、知財については、東京大学やJAXAのHPでは一切触れられていない。 ちなみに、Google検索によると、NASAサイト中で"space elevator"を含むページは1,610件ヒットする("space elevator" site nasa.gov で検索)が、NASAサイト中で"ATA space elevator"を含むページは1件もない。 このセルカン氏によるATA宇宙エレベーター計画について、朝日新聞は以下のコメントを寄せたとされている(OHP2枚目) "Japanese researchers, under the supervision of a young Turkish scientist, are heading to develop the technology of the next century’s vertical ‘Shinkansen’", Asahi Newspaper 【2-C セルカン氏の非学術著作についての検証】 調査中(http //blog.goo.ne.jp/11jigen/ を参照されたし)
https://w.atwiki.jp/hirokana/pages/16.html
このページでは今までにインタビュー等で話してきた事も参考にしながら、経歴のまとめや補足を記します。 吉井香奈恵さんの経歴まとめ 吉井香奈恵さんは時々デビュー前の話をしているので、 それらをつなぎ合わせるとおよその経歴も分かると思います。 歌とダンスを習い始めた時期については本人がブログに 「ダンスは実は3歳から地元のダンススクールに通ってました」「歌は中学生から(習っていた)」 (http //yaplog.jp/lp-yoshii/archive/264)と書いています。 また2004年にTRFのバックダンサーをしたこともあるそうです(http //yaplog.jp/lp-yoshii/archive/262)。 「(地元のダンススクールに通っていた)当時はバリバリのダンサーを目指して」いた(「TopYell」2012年7月号)、 「スクール行ってた時もダンスコースやったんですよ。 ダンスしかしてへんで、ダンスが好きやった、ダンサーになろうと思った」(2013/9/8のF9GBP)など 元々はダンサー志向であり実力もあったことが伺えます。 そこから歌手志望へと変わっていった切っ掛けについては、 音楽好きな両親が色々なライブに連れて行ってくれたこと(アニカンR Vol.79)、 BOAやSPEEDのライブを見て歌って踊れるアーティストに憧れたこと(「TopYell」2012年7月号)、 などと話しています。 在籍したスクールは分かる範囲で「ESSEアカデミー」→「リトルキャット」→「YAMAHAボーカルレッスン」 のようです(http //www.unknown24.net/bbrk/20100909/9nine)。 とはいえ3歳で通ったスクールは知りようもないですし、各スクールの在籍時期もはっきりしません。 MX TV「Go!Go!9nine」ではリトルキャット時代に歌を習った杉山徹先生を訪れるシーンがあったので、 本格的な歌の指導はそこで受けたのかもしれません。 ちなみに年表内で初めてギターを弾いた記録があるのは2009/3/28なので 中学生の頃にはギターの練習もしていたようです。 村田寛奈さんの経歴まとめ 村田寛奈さんはもともとダンスを始める前にバレエ教室に通っていたそうです(B.L.T.特別編集 U-17 Vol.24)。 小学1年生の時にダンススクールの発表会を見たことがきっかけでダンススクールに通い始めます(つぼみ3 村田寛奈)。 そのダンススクールは創叡のSTS DANCE schoolのようで、 ペトラキッズというスクール内のユニットで活躍をしていたようです。 在籍したスクールは分かる範囲で「創叡」→「SEED Vocal Club」→「HMS大阪校」のようです (http //www.unknown24.net/bbrk/20100909/9nine)。 MX TV「Go!Go!9nine」では歌を習った豊原平行先生を訪れるシーンがあり 「9歳の時にここへ初めてきた」と話していました。2005年頃に出会ったことになります。 推測ですが創叡でダンスの他に歌も本格的に習い始めたのがその頃だったということかもしれません。 豊原平行先生は創叡の講師、後にSEED Vocal Clubを主催するようになったそうなので (http //www.unknown24.net/ev/ev200902.html) 村田寛奈さんも先生に合わせてスクールを移ったのでしょう。 2006年にはavex audition 2006に合格しますがデビューはできず。 ちなみに同オーディションは合格者が58名もいたためか、 同様にavexを去ってから別のオーディション等で改めてデビューした人も多くいるようです。 MX TV「Go!Go!9nine」にはライブハウス北堀江club vijonを訪れるシーンもあり、 「小学6年生の時にお友達とステージに立ちたいねとなって、初めて探して応募したのがここのステージでした」 と思い出を話していました。 別のインタービューでもオーディションを1年間程受け続けたことを話したり(B.L.T.特別編集 U-17 Vol.24)、 デビュー前に書いていたブログ最後の投稿で「去年の9月から1年間 たくさんのライブやコンテストに出て」 いたと書いていたようです(http //ameblo.jp/nanpii/entry-10633693720.html)。 これらの話を総合すると2009/9/12の北堀江club vijonでのライブを皮切りに ライブとオーディションに本気で挑み続けた末に9nine加入が決まったのだろうことが分かります。 年表からも2009年9月~2010年8月の間にライブを繰り返していた事がわかります。 9nine審査 9nineの審査についても過去に何度か話をしています。 「5月にオーディションがあって」(「Zipper」2012年11月号での吉井香奈恵さん)。 「閃光ライオット3次LIVE審査大阪大会に出場した直後の週末に9nineのオーディションを受けていた」 「9nineのオーディションでも同じ曲(西野カナさんの『Best Friend』)を歌」った (ガッキーLOCKS! 2011/7/25での吉井香奈恵さん http //www.tfm.co.jp/lock/aragaki/onair/110728/)。 ちなみに閃光ライオットへの出場は2010/6/26なので、9nineの審査は5~6月頃から行われていたようです。 吉井香奈恵さんのオーディション風景の一部はF9GBP(2013/9/8)でも公開されました (その映像のキャプションに14歳と出たのは17歳の誤りです)。 7月末の審査合宿は2泊3日で「Fly」のレコーディングとダンス、撮影をこなすものでした (TOKYO MX「9nine誕生SP」ないしアルバム「9nine」初回版A特典映像)。 ちなみに村田寛奈さんが「Fly」を歌う時に音の調節が自分でできる事を知らずに 仮歌も無しのカラオケだけだったのが上手く歌えなかった原因のようです(2013/9/8のF9GBP)。 「(合宿から合格発表まで)1ヵ月くらいです」(「TopYell」2012年7月号) 吉井香奈恵さんと村田寛奈さんが大阪で二人一緒に合格が伝えられた時の様子は「Go!Go!9nine」で放映されました。 吉井香奈恵さんと村田寛奈さんのニアミス 確認できた限り初めて二人が同じステージに立ったのは2010/3/20です。 その前に2009/9/21の吉井香奈恵さんのステージを村田寛奈さんが見ていたことがあったようです。 オーディションやコンテストではニアミスを繰り返してきていました。 AVEX系のオーディションに 村田寛奈さんはavex audition 2006合格(2006/12/29)、 吉井香奈恵さんはa-motion’07決勝大会進出(2007/6/5)。 セルシー キッズ ボーカル・ダンスコンテストに 吉井香奈恵さんは第2回(2007/11/17,18)第3回(2008/3/29)に、 村田寛奈さんは第4回(2008/7/20)第7回(2009/10/3)に出場。 ORC200ヴォーカルクイーンコンテストに 吉井香奈恵さんは第12回(2008/5/4)第13回(2009/5/4)に、 村田寛奈さんは第14回(2010/5/4)に出場。 デビュー前の二人の関係を「オーディションで良く会う友達くらいでした」 (2013/9/16「立川こしらのUstラヂオ」での吉井香奈恵さん)と言っていますし、 二人とも関西でライブ活動やオーディションを繰り返していたので スクールは違ったようですが9nine加入前から自然と面識ができたのだと思います。 ニアミスを繰り返した末に同じステージに立つようになり、 9nineに同時に加入したのも二人の運命を感じるような気がします。 デビュー前からの知り合い 吉井香奈恵さんが話したものとしてNMB48の山本彩さんは同じスクール出身(「Zipper」2012年11月号)、 シンガーソングライターの沢井美空さんと親友(https //twitter.com/lespros_kanae/status/247230713324261376)だそうです。 山本彩さんとはリトルキャットでの関係かと思います(http //ameblo.jp/kenjey-factory/entry-10115386171.html)。 また沢井美空さんは年表に名が出ている竹井彩夏さんのようです(http //www.unknown24.net/bbrk/20101002/sawaimiku)。吉井さんと沢井さんは4、5才の頃に出逢っているようです(https //twitter.com/SawaiMiku_39/status/502438684486950914)。 その他に大阪からの友達として文さん、声優のタカオユキさんの名を挙げています(http //yaplog.jp/lp-yoshii/archive/477)。トマト会と言う集まりのようです(http //ameblo.jp/takaoyuki/entry-11562552432.html)。 文(あや)さんも音楽活動をされていた方のようですが(https //twitter.com/yoshida_aya http //ameblo.jp/music-of-heart)、 デビュー前にライブ会場で一緒だったこともある吉田文さんでしょうか?(http //d.hatena.ne.jp/kyoheit/20100207 https //twitter.com/fuka_kido/status/201690332751073280)。 タカオユキさんは新人声優としてブログを始めたのが2013年5月ですが(http //ameblo.jp/takaoyuki/entry-11541772447.html)、 第12回ORC200ヴォーカルクイーンコンテストで一緒に受賞したキタオユカさんと同じ人でしょうか?(http //ameblo.jp/music-of-heart/entry-11378617186.html https //twitter.com/yoshida_aya/status/255288913617362944)。 その他に歌手のハナエさんと高校の同級生(https //twitter.com/Hanae_xxx/status/361907538683363329)、 E-girlsの中島美央さんとも同級生(https //twitter.com/lespros_kanae/status/383912984604450816)だそうですが デビュー前の面識の有無は分かりません。 村田寛奈さんが自分で語ったものは、Dancing Dollsのみいさんと大阪のコンテストで一緒に受賞したことがある、 また乃木坂46の川村真洋さんと一緒にレッスンしていた(http //yaplog.jp/lp-hiroro/archive/314)、 E-girlsの川本璃さんとも以前に会ったことがある(https //twitter.com/lespros_hirona/status/383907135211335680)、 などがあります。 みいさんと同時に受賞したのは2010年5月の第14回 ORC200ヴォーカルクイーンコンテスト、 それ以前に2008年7月の第4回セルシー キッズ ボーカル・ダンスコンテストでもすれ違っていたようです (http //orc200.com/what_new/queen_list.html http //www.unknown24.net/ev/ev200807.html)。 川村真洋さん、川本璃さんとはSEED Vocal Clubで一緒だったようです (http //www.unknown24.net/bbrk/20130121/kawamotoruri)。 Fairiesの林田真尋さんと同じスクール出身であることを本人が話していたそうですが (2013年7月26日「わくわくドワンゴミュージックランド」での西脇彩華さん発言)、 おそらく創叡でのことと思います(http //www.soei-net.co.jp/production/)。 あと本人は直接語ってはいませんが、村田寛奈さんとavex audition 2006合格者仲間と思われる人を挙げておきます。 東京女子流の新井ひとみさん(http //yaplog.jp/lp-hiroro/archive/253) SKE48の古川愛李さん(https //twitter.com/lespros_hirona/status/231684999852720129) アイドリング!!の石田佳蓮さん(https //twitter.com/lespros_hirona/status/231627793086152707) ベイビーレイズの大矢梨華子さん(http //yaplog.jp/lp-hiroro/archive/61) SUPER☆GIRLSの溝手るかさん(https //twitter.com/lespros_hirona/status/366217508002357248) Dream5の重本ことりさん(https //twitter.com/lespros_hirona/status/366216117296979968)
https://w.atwiki.jp/merge-mansion/pages/433.html
https://w.atwiki.jp/wwenorider/pages/33.html
2006-2007年 2006年にWWEとディベロップメント契約を交わし下部組織であるDSWに所属する。以降OVW、FCWに所属し、数多くのマイナーイベントやダーク・マッチなどにも出場していた。 2007年12月にはWWEのブランドの一つECWに登場する。そして2008年1月6日に正式なデビューを果たした。WWEでは初のジャマイカ人選手と言うこともあり注目を浴び、デビュー戦ではマイナー選手相手に勝利を収めている。その後も連勝を続けていたが、同じくECWに所属していたシェルトン・ベンジャミンに負け連勝がストップする。その後はそのベンジャミンとの抗争を開始する。 2008年 6月に行われた追加ドラフトの結果、RAWに移籍した。同月に行われたPPVナイト・オブ・チャンピオンズではクリス・ジェリコの保持するIC王座の挑戦相手に抜擢され、ショーン・マイケルズの乱入もあり王座を獲得した。8月のサマースラムでミッキー・ジェームスと組み、サンティーノ・マレラ&ベス・フェニックスと対戦するも敗北し、ミッキーと共に王座を失う。 10月のサイバー・サンデー翌日のRAWにてCMパンクと組みコーディ・ローデス&テッド・デビアス・ジュニア組の保持する世界タッグ王座に挑戦し、奪取に成功する。その後12月のハウス・ショーでジョン・モリソン&ザ・ミズ組に王座を奪われる。 2009年 2009年にはノー・ウェイ・アウトで行われるエリミネーション・チェンバー・マッチ形式での世界ヘビー級王座戦への挑戦権を得るがPPVの第一試合のWWE王座戦でWWE王座を失ったエッジに入場中に襲撃され、出場枠を奪われる。 6月1日のRAWでMVPの保持するUS王座に挑戦し奪取に成功した。その後はトリプルスレットマッチや6パック形式の王者に不利な王座戦を多く組まれるが、そのたびに防衛に成功している。しかし10月5日のRAWでの王座戦にてザ・ミズに敗れ、王座陥落する。その後ブラッギング・ライツでのランディ・オートン対ジョン・シナのWWE王座戦に乱入したことがきっかけとなり、オートンと抗争を開始する。
https://w.atwiki.jp/monosepia/pages/5510.html
日本の政党 / 日本未来の党〔言葉で検索〕 / 嘉田由紀子 / 小沢一郎 / 亀井静香 / 生活の党 / みどりの風 ● 日本未来の党〔Wikipedia〕 ● 日本未来の党 オフィシャルサイト ▲ 政策 卒原発、消費税増税凍結、TPP交渉入り反対、など。 ■ 日本未来の党結成は小沢潰しの謀略だった 「陽光堂主人の読書日記(2012.12.30)」より / 飯田氏らの狙いが小沢一派潰しにあったとすれば、見事目的を達したことになります。嘉田氏らが、自分たちに不利な分党をあっさり承諾していることも、怪しいと言わざるを得ません。 先日NHKで、番組名は忘れましたが、総選挙開票直前の嘉田代表の様子が放映されていました。ホテルの薄暗い一室にNHKの記者らしい人物と一緒に座っているのですが、その人物が嘉田氏に、「未来の党の当選予測は10人」と正確に告げていました。 その点からして可笑しいのですが、それを聞いた嘉田氏も、大して動揺した様子は見られませんでした。やはり予定通りの展開だったのでしょうか? 不正選挙工作を窺わせるシーンで、この国には深い闇が存在しています。 ■ 「日本未来の党」から嘉田代表を追放し、「生活の党」へ党名変更。亀井静香が合流した「みどりの風」も基準日(1月1日)を前に政党要件クリア。 「スロウ忍ブログ(2012.12.29)」より / 今回の分党(嘉田=稲盛の追放)と「みどりの風」の政党要件クリアは、民主党を松下政経塾系カルト保守勢力から奪還するための“小沢の第一手”だと俺は見ている。 .............................................. 2012年12月27日20 53 「日本未来の党」分党を正式決定 + 小沢系は分党されて「生活の党」になり、代表は森裕子議員。(これがベストだと思う。小沢さんは幹事長で良いよね~) - 晴天とら日和 これだけは声を大にして言いたい! 「国民の生活は第一」の時も、 「日本未来の党」の時も、 今まで完全スル~してくたくせに、 未来が分党すると言った途端に、 先ずゴミが一斉に情報を流している。 この悪意はイッタイゼンタイなんなんだと? これがまともなメディアといえるのか! 先ずゴミは正真正銘のゴミだぜ、ゴミ!!! .............................................. mostyapoos RT @marusama2009 クズマスゴミ。@Shinjukudaisy 民主党は小沢氏たちが離党する際に政党助成金の人員割の支払いも拒否し裸で追い出した。その悪行には一言も言及しなかったマスメディアが未来の党の「分党」に関して政党助成金目当てだとシタリ顔で報じる。 http //t.co/cdQxprq7 2012年12月29日 15 00 32 .............................................. yoshilucky RT @zebra_masa 昨日の「日本未来の党」両院議員総会で重要なことはただ一つ。多数決で「分党」が決まったこと。それだけ。少なくとも、民主党の両院議員総会の決議にもかけない議長一任よりも、はるかに民主的手続きを踏んだこと。マスゴミが騒ぐようなことはどうでもいいこと。 2012年12月29日 14 55 34 ★ 嘉田氏が新たな「日本未来の党」設立へ 非小沢氏系メンバーが結集 「msn.産経ニュース(2012.12.28)」より / 日本未来の党が党名を「生活の党」と変更し、小沢一郎氏系の議員に追われる形で離党する嘉田由紀子滋賀県知事は、新たな政治団体「日本未来の党」の設立を28日中に総務相に届け出る意向を固めた。嘉田氏に近い関係者が明らかにした。 同団体には嘉田氏のほか、ともに離党する阿部知子衆院議員と環境学者の飯田哲也氏が参加する見通しで、非小沢氏系メンバーが結集する格好だ。ただ、国会議員は阿部氏一人しかおらず、政党要件を満たさないため、政党交付金を受け取ることはできない。 ーーーーーーーーーー ★ 「未来」は「生活の党」に変更 森裕子氏が代表、嘉田氏離党へ 「47ニュース[共同](2012.12.28)」より / 日本未来の党は27日、党名を「生活の党」とし、代表を嘉田由紀子滋賀県知事から森裕子副代表に変更すると総務相へ届け出た。森氏ら小沢一郎元民主党代表の系列議員が党に残る。嘉田氏は、社民党政審会長を務めた阿部知子衆院議員と共に党を離れる。「未来」の名称は嘉田氏側が引き継ぐ。阿部氏は当面、無所属で活動する。 嘉田、森両氏が28日に大津市で記者会見し、事実上の分党を正式に発表する。小沢氏も同席する見通しだ。 森氏は27日、党の分裂について記者団に「(有権者には)申し訳ない。円満に合意して分党の手続きに入る」と述べた。 ーーーーーーーーーー ★ 日本未来の党が分党 野党間連携に影響も 「NHK(2012.12.29)」より / 日本未来の党が分党したことについて、野党の中で、民主党などからは「選挙直後の分裂は国民から理解されない」といった批判も出ていて、来年夏の参議院選挙に向けた野党間の連携に影響が出ることも予想されます。 日本未来の党は、先月末、滋賀県知事の嘉田代表が中心となって結成し、旧「国民の生活が第一」の小沢一郎氏らが合流しましたが、小沢氏の処遇などを巡って党内の意見が対立し、僅か1か月で分党しました。 そして、嘉田氏と阿部知子衆議院議員が離党し、2人を共同代表とする政治団体「日本未来の党」を新たに結成する一方、小沢氏ら15人の国会議員は、党名を「生活の党」と変更することを届け出ました。 これを受けて、8億円余りに上るとみられていた政党助成金のほとんどは、来年、「生活の党」に交付される見通しとなっています。 ただ、「生活の党」と、嘉田氏らが率いる「日本未来の党」は、分党はしたものの、来年夏の参議院選挙に向けて、脱原発の実現などで協力しながら、民主党などほかの野党と連携を図っていきたい考えです。 しかし、野党の中で、民主党などからは「衆議院選挙の直後に党が分裂するようでは、国民から理解されない」といった批判も出ていて、参議院選挙に向けた野党間の連携に影響が出ることも予想されます。 ★ 嘉田代表 日本未来の党の分党を陳謝 「NHK(2012.12.28)」より / 記事を画像化して保護 / (※ 全文掲載) 日本未来の党が分党したのを受けて、嘉田代表と「生活の党」の小沢一郎氏らが、大津市でそろって記者会見し、嘉田氏は「衆議院選挙で支持を寄せてくれた国民には本当に申し訳なく、心よりお詫びする」と述べ、分党を陳謝しました。 日本未来の党は、先月末、滋賀県知事の嘉田代表が中心となって結成し、旧「国民の生活が第一」の小沢一郎氏らが合流しましたが、小沢氏の処遇などを巡って党内の意見対立が解消できないことから、党を2つに分けることになり、嘉田氏らは、政治団体「日本未来の党」に、小沢氏ら15人は「生活の党」になることを届け出ました。 これを受けて、嘉田氏と、小沢氏らは、28日、大津市でそろって記者会見しました。このなかで、嘉田氏は「衆議院選挙で支持を寄せてくれた国民には本当に申し訳なく、心よりおわびする。私の力不足で、小沢氏の力を十分引き出せず反省している。自民・公明の連立政権に対し、これからも共に戦い、お互いの違いを強みとして生かしていくことで、国民の期待に応えたい」と述べました。また、小沢氏は「原発や女性、それに若者の問題などで、同じ方向を目指して頑張っていくことに変わりはないので、政治的に力を合わせて、目標を達成するために努力していけばいいのではないかと思っている」と述べました。 ■ 「もう我慢できないから、ずっと思っていたことを書いておく:ろろ氏」 「晴耕雨読(日付不明2012.12.16以降12.28までの記述?)」より / (※ 前後略) 未来の党惨敗も道理。 もし、小沢さんが未来の党の共同代表で、東北の選挙区をくまなく回り、震災直後にこういう風に役所を動かした、政権に就いたら(「生活」が唱えていた)一括交付金でもっと復興を盛んにすると解いて回っていたら、結果はどうだっただろう? 参院選はそうすべきじゃないか? 自分の置かれている経済状況をすっかり忘れていた僕も含め、脱原発を第一に考える人の票は全国でせいぜい未来の党で200万程度、共産党その他に流れた分を考えても500万程度だろう。 一本化しても参議院で議席4つがいいところだ。 シングルイシュー政党というのは虚妄だということ。 未来の党の惨敗を、マスコミの小沢隠し、国民の生活が第一隠しのせいだというのは一面真実だ。 しかし、それだけが原因ではない。 嘉田代表は結構討論番組に出ていたではないか。 マスコミのせいだという支持者や執行部なら、マスコミのせいで参院選にも負けるだろう。 他罰に走っても何も変わらないよ。 ■ もう危篤の未来の党 「璧を完うす(2012.12.25)」より / 何をやっているんだこいつらは。 小沢いつも欠席戦術かよ。 相変わらずだな。 <>嘉田代表の提案した人事案が了承されず、小沢一郎氏の共同代表就任を求める動議が可決されたことを受け、嘉田代表は24日深夜、「当事者である小沢一郎議員が欠席する中、強硬に採決された。非民主的な意思決定で代表として受け入れることはできない」との声明を発表した。 欠席しておいて手下にやらせるとか、ひどい頭(かしら)だな。 こんなやつについていく奴がいるのが信じられない。 嘉田もバカだな。 こうなるのも読めないなんて。 お前は選挙用の神輿にすぎない。 しかも役に立たなかった、な。 <>小沢さんと連絡がとれず、お隠れになっている。 「お隠れ」って小沢死んだんかw そんな言葉使うほどの身分じゃないがな。 これは「雲隠れ」っていう、小沢が都合悪くなるとやる、いつもの行動。 「お隠れ」(お亡くなり)になってしまうのは、むしろ未来の党だから。 ■ 未来の党、分裂不可避、「クーデターだ!」 嘉田代表vs小沢派の対立深刻 「J-CASTニュース(2012.12.25)」より / (※ 前略) 党人事に関する内輪モメが表面化したのは12月24日夜に開かれた未来の両院議員総会の場だった。両院総会とはいえ、先の衆院選で大敗したため未来所属の国会議員は衆院議員9人、参院議員8人の計17人。このうち小沢氏がなぜか欠席してしまったため、懸案だった選挙後の党役員人事は16人の国会議員と嘉田代表との間で議論された。 総会の席上、嘉田代表はまず、党副代表の阿部知子氏=元社民党政審会長=を共同代表に昇格させる人事案を提示した。衆院選で比例復活当選した阿部氏に関して、嘉田氏は26日の首相指名選挙でも同氏への投票を訴えたという。 加えて嘉田代表の人事案は、未来が結党された際に「一兵卒」を宣言していた小沢氏と、前国民新党代表の亀井静香氏を顧問にし、小沢氏が率いた旧「国民の生活が第一」(生活)出身の鈴木克昌氏を幹事長に充てる内容だった。 しかし、総会参加の国会議員16人のうち、14人を占める旧生活出身の議員がこの案を了承することはなかった。反対多数で嘉田代表案に異を唱えただけでなく、小沢氏を共同代表にするよう求める動議を提出して賛成多数で可決したのだ。 (※ 後略) ーーーーーーーーーーーーーーー ■ 嘉田代表の「クーデター」発言でもわかる政治の素人さをプロである議員は教育しつつ理解する必要がある! 「日々坦々(2012.12.25)」より / 日々坦々 @hibi_tantan24 未来の党の代表として嘉田さんに今必要なのは、共同代表を決める事ではなく、落選議員も含めた両院議員の総会を開いて顔見せすることではないか。代表と会って話した事もないという異常事態を解消すべき。また同時に徹底した選挙の総括が先ではないかなあ。 2012年12月23日 ■ 【必見動画】「日本未来の党」小沢一郎氏・嘉田由紀子氏 街頭演説 ~投開票を前に思ふこと~ 「暗黒夜考(2012.12.16)」より / 新聞・テレビにおける世論調査をみていると、自民党が単独で300議席を確保するといった類の報道が連日のようになされているが、自民党が優勢というのはあくまで組織票の上での話である。 実際、多くの世論調査にて4割以上の有権者がまだ投票先を決めていないとされていたように、「無党派層」の意向ひとつで如何様にも情勢が変わる可能性があるというのが実情であろう。 (※monosepia 前回の総選挙よりかなり投票率が低いようだ。支持政党無し層が投票場へ行かなかったということになるのか。組織票というか固定票で決まる選挙となる感じだ。つまり、未来の党に表は集まらない。) 【第46回衆議院議員総選挙】 ■ “本当のことを伝えない日本の新聞”で著名なThe Timesのファウラー氏“自民党VS未来の党”に着眼 「世相を斬る(2012.12.12)」より / マスメディア系の選挙情勢で、最もマシなのがANNの調査結果だ。 (1位)自民党:24%、(2位)民主党:10.7%、(3位)維新:8.3%、(4位)公明:4.1%、(5位)未来の党:3.7%、(6位)みんな:2.8%、(7位)共産:2.6%、(8位)社民:1.7%、そのあとに国民・新党大地・新党改革・新党日本が続く。投票先を決めていないが40%以上と出ている。 / ロイターの12日2時の結果をみると、以下の通りだ。 1位自民:34%、2位未来の党:32%、3位維新:13%、4位民主:7%、5位共産:6%、6位みんな:4%、その他1%、なし2%。となっている。重複投票が可能なので、この結果を鵜呑みも勿論出来ない。ただ、ニューヨークタイムズの支局長マーティン・ファクラー氏ら海外メディア記者諸君の選挙情勢の分析によると、今回の選挙は「自民党VS日本未来の党」と云う構図に見えていると云う事実も蔑には出来ないだろう。 ■ 日本未来の党の政策は「国民の生活が第一」 「陽光堂主人の読書日記(2012.12.3)」より / 野田がTPPを対立軸にしようとしたのですが、米国が待ったをかけたのでたちまち引っ込めてしまいました。どういう訳か、産経新聞だけが米国の介入について報じています。このため、TPPに反対する民主党議員も(鳩山元総理を除いて)公認されることになりました。 米国にとって一番嫌なのが基地問題とTPPが選挙の争点にされることで、指令を受けた結果、この2つは余り採り上げられていません。マスコミも大半の政党も、ご主人様の命令に忠実に従っているわけです。 原発問題も米国の主要関心事ですが、日本が原発を止めればシェールガスを売り込めるので、完全に止めてしまうのでなければ構わないと思っているはずです。兵器用プルトニウムの生産を日本の電力会社に委託しているようなので、勝手に止められては困るわけです。 “嘉田未来”の出現により投票率アップ 各メディア世論調査が醜態を晒すか 「世相を斬る あいば達也(2012.11.30)」より http //blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/47021689fc825165cf7aec1a6c9857bc その意味では、小沢一郎が今回採った政治決断は、政局の次元ではなく、国家存亡の危機と云う、別次元での判断が中心にあったものと思考する。筆者は、小沢の政局ではない、国家の命運の次元で行った決断を、個人的政局の興味を排除して支持する。まさに“身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ”を演出したと云う事である。あの09年、政権が目の前にぶら下がっている最中、東京地検特捜による突然の秘書逮捕で窮地に陥った小沢一郎が乾坤一擲代表を退き、鳩山に代表の座を譲った時のデジャブである。09年は民主党幹事長として一歩退くことで乗りきったわけだが、今回は同じようなデジャブだが、二歩も三歩も退いて見せた。 国家存亡と感じ、敵の弾に身を挺して救済にかかったのである。おそらく、“自民・維新・みんな”が同じ穴の狢になる可能性は強く、右傾化どころか、対中戦略など考えるだけ無駄のような「空気」が生まれ、いつかきた道に突き進む危険は増大している。安倍や石原らが、権力欲の為に“強い日本”を標榜しただけであっても、吹き上がってしまった国民世論と云うもの収拾がつかなくなり、テロの時代の再来や、警察・検察の権力が増大し、恐怖国家に舞い戻る危険性さえあるのである。このような風潮を何があっても阻止しなければならないと考えたのが、小沢一郎や亀井静香だ。嘉田由紀子はその部分にも強く共鳴したに違いない。嘉田の小沢評価を時事通信は以下のように伝えている。 (※ 以下詳細はブログ本文で。) ■ やっぱりニコニコ動画は偏向サイトだった 「ネットゲリラ(2012.11.28)」より やっと小沢一郎の逆襲が始まったようでw なんせ、政界でも海千山千の古狸なので、亀井静香と地下に潜って新党工作をやっていたらしい。新党「日本の未来はウォウウォウ」参加を検討どころじゃない、あの二人が仕組んだ話です。それも、ずいぶん前から仕組んでいた。その証拠に、今度の新党騒ぎでは、一人も候補者を調整する必要がないんだそうで、簡単に選挙協力が組める。ずいぶん長い時間かかって仕込んだのだろう。しかも、その間、マスコミにバレなかった。大したもんだ。おいらも、控訴期限が過ぎたら動くだろうとは踏んでいたんだが、こういう形で鮮やかに決まるとは思わなかった。その上、古狸二人は表に出ず、これからも裏方に徹するらしい。ホンモノの悪人というのは、こういうもんだw 裏方が勤まらない素人大根役者二名で捏造された「維新」は、オレがオレがで空中分解するだろうから、これでますます選挙は混沌として来た。そんな中、相変わらずネトウヨの親玉アベッチは迷走中w 日本はどこへ行くのか? おいら、知ったこっちゃないですw ★ 小沢・嘉田連合 脱原発で100人超え 「ゲンダイネット(2012.11.27)」より 正真正銘の第三極が発足する。滋賀県の嘉田由紀子知事(62)が「脱原発」を旗印とする新党結成を27日午後にも表明。新党名は「日本未来の党」になる見通しだ。小沢一郎の「国民の生活が第一」や「みどりの風」、「減税日本・反TPP・脱原発を実現する党」も合流を検討している。共闘が実現すれば、維新の会を凌駕する一大勢力になるのは間違いない。 新党の党首となる嘉田知事はまだ全国的な知名度はないが、市民運動家の間では広く知られている。06年に「もったいない」のキャッチフレーズで新幹線新駅とダム建設に反対し初当選した。原発問題では、橋下徹大阪市長のように大仰な構想をブチ上げたわけではない。地道に「卒原発」を訴え続け、大飯原発3、4号機の再稼働問題について、政府に慎重な判断を求めてきた。そんなぶれない姿勢が歌手の加藤登紀子や音楽家の坂本龍一の共感を呼んでいる。 生活やみどりとの連携は、橋下と石原慎太郎前都知事の維新みたいな選挙目的の“野合”とは違う。至極当然の流れだ。 「維新と大きく異なるのは、脱原発の政策が一致していること。そして、場当たり的に離合集散しているわけではないということです。新党構想は3カ月ほど前から、生活の小沢一郎代表や脱原発の亀井静香幹事長が水面下で調整を続けてきました。それが結実したのです。小沢や亀井らベテランが裏方に回って汗をかいている点も、維新とは対照的です」(政治ジャーナリストの鈴木哲夫氏) <第2会派に躍り出る可能性> 問題は嘉田新党が選挙までに機能するか。「なんらかの連携、協力は模索したいが、即合流までは考えていない」(みどりの谷岡郁子共同代表)という慎重意見もある。比例代表名簿の統一などが検討されているが、難航しないのか。 「最大の問題は選挙区の調整でしょう。でも、小沢一郎は社民党、新党大地、みんなの党と個別にはほぼ調整を終えている。あとはみどりや脱原発との調整があるくらい。テクニカル的にはそれほど難しい話ではありません」(選挙事情通) 野田は論外だし、安倍や維新のウルトラ右翼もコアな支持層に訴えているだけ。暮らしに密着した問題を争点に掲げる「脱原発グループ」の威力はバツグンだ。政治評論家の伊藤達美氏は「女性を中心に票を伸ばすでしょう。社民、共産も加えれば50~60議席に届く」と見る。前出の鈴木哲夫氏は「みんなの党が新党に合流すれば、維新はもちろん、民主を抜き、自民に次ぐ第2会派に躍り出る可能性を秘めている」と指摘した。100議席を超えるポテンシャルを秘めているのだ。 小沢のオリーブの木構想がいよいよ現実になりつつある。 ★ 「日本未来の党」結成表明=「卒原発」掲げる―嘉田滋賀知事【12衆院選】 「Yahoo!ニュース〔時事通信〕(2012.11.27)」より 滋賀県の嘉田由紀子知事は27日午後、大津市内で記者会見し、「卒原発」を掲げる新党「日本未来の党」を結成する意向を表明した。 ーーーーー ★ 「脱原発」河村・山田両氏、日本未来の党に参加の意向 「朝日新聞(2012.11.27)」より 「減税日本・反TPP・脱原発を実現する党(脱原発)」の山田正彦共同代表は27日、嘉田由紀子・滋賀県知事が結党する「日本未来の党」について「我々も手を挙げたい。考え方は一致している」と参加を表明した。朝日新聞の取材に答えた。河村たかし共同代表も名古屋市内で記者団に「同じような人たちが集まって、大日本庶民連合でええじゃないか」と語り、参加する意向を示した。 ーーーーー ★ 社民離党の阿部知子氏、日本未来の党へ合流の意向 「朝日新聞(2012.11.27)」より 社民党離党を表明した阿部知子氏(64)は27日、藤沢市で記者会見を開き、滋賀県の嘉田由紀子知事が結成を表明した新党「日本未来の党」に合流する意向を表明した。 阿部氏は衆院解散の前後から、国民の生活が第一やみどりの風に働きかけ、嘉田知事とも意見交換してきた。新党について「原発ゼロの選択肢を国民に示し、一人でも多く選挙を勝ち抜くことで、国民が選べる政治を取り戻したい」と話した。 ★ 嘉田新党、生活・みどり・脱原発と連携も 第三極二分化 「朝日新聞(2012.11.27)」より 滋賀県の嘉田由紀子知事(62)が「脱原発」を旗印とする新党を結成する意向を固め、27日に大津市内で記者会見して正式に発表する。国民の生活が第一やみどりの風などとの合流も視野に連携を検討している。脱原発色が薄まった日本維新の会と一線を画す動きで、第三極の二分化が鮮明になってきた。 新党名は「日本(にっぽん)未来の党」を軸に最終調整している。脱原発を掲げる環境エネルギー政策研究所の飯田哲也所長も政策づくりに参画。総選挙公約の柱には「原発ゼロ」「環太平洋経済連携協定(TPP)参加凍結」「消費増税凍結」を据える方針だ。 脱原発を主張する生活(小沢一郎代表)やみどり(谷岡郁子共同代表ら)に加え、「減税日本・反TPP・脱原発を実現する党(脱原発)」(河村たかし、山田正彦両共同代表)との連携を検討。嘉田氏は24日夜、小沢氏と会談し、合流も含めた連携の可能性について意見交換した。 新党には社民党に離党届を出した阿部知子前政審会長が参加する意向。みどりの谷岡氏は26日午前のフジテレビの番組で「嘉田さんがヘッド(党首)を引き受ける方向だと聞いている」と述べ、脱原発の小泉俊明幹事長代理は記者団に「あとは政治的決断だけだ」と語った。 新党との連携をめぐっては、合併して単一政党になる方式が有力。ただ、「協力したいが直ちにみどりを解体することはない」(亀井亜紀子共同代表)との異論もあり、新たな政治団体を作って統一比例名簿に候補者の名前を連ねる案も検討されている。 嘉田氏は現在2期目。昨年の福島第一原発事故以来、「卒原発」を提唱してきた。維新の橋下徹大阪市長とは原発再稼働問題で同一歩調をとったが、原発維持の石原慎太郎氏が率いる太陽の党との合流で「仲間を失った」と語っていた。 ーーーーーーーーーーーーーーー ★ 嘉田滋賀知事「原発政策の仲間失った」 維新合併で批判 「朝日新聞(2012.11.20)」より 滋賀県の嘉田由紀子知事は20日の会見で、日本維新の会と太陽の党が合併した際に交わした合意文書に、大阪市の橋下徹市長が主張してきた「2030年代の原発全廃」が盛り込まれなかったことを受け、「原発問題で仲間を失った。関西広域連合でも同じ方向を向いてきたことを考えると、後退したことは残念だ」と話した。 また、維新代表に就任した石原慎太郎氏が原発推進の立場を取っていることに触れ、「考えが右と左に分かれている方が一緒になるとは想像がつかなかった。公党として一緒になるために妥協すると、選ぶ国民が迷うのではないか」と疑問を呈した。 .