約 543,788 件
https://w.atwiki.jp/teitoku_bbs/pages/5639.html
5: ホワイトベアー :2022/01/06(木) 21 41 26 HOST sp1-75-245-231.msb.spmode.ne.jp 日米枢軸ルート 第2話 改訂版 1954年に締結された日米同盟は、同盟締結から時間をおかない1860年代に1つの試練を迎える事になる。そう、アメリカ連合国の誕生と南北戦争の勃発である。 この頃のアメリカ合衆国は州の独立性経済や人口数ならびその構成、政治思想などの様々な違いにより、その国内に自由州と奴隷州の激しい対立を抱えてながらも何とか緩やかな連合としてまとまっていた。 しかし、1860年、アメリカ合衆国大統領選挙で反奴隷を掲げる共和党の代表であったエイブラハム・リンカーンが大統領に任命されると、奴隷州であるアメリカ合衆国の南部州が次々と連邦からの離脱を宣言。現地のアメリカ合衆国連邦軍の施設を一方的に接収した挙げ句、1861年にアメリカ連合を称し、独立を宣言する。 それでも合衆国と連邦離脱を表明した各州の間で、平和的な解決を目指して話し合いが何度も開かれるが、合衆国と独立を宣言した州の隔たりは埋まることはなく、 1861年4月12日、アメリカ連合国に所属する事を表明していたサウスカロライナ州にあるアメリカ合衆国軍(以降北軍)の要塞を巡る騒動で、アメリカ連合国軍(以降南軍)がアメリカ合衆国軍に攻撃したことにより、後に世界初の近代的戦争と呼ばれる南北戦争の幕が上がった。 《南軍、サムター要塞攻撃ス》 この報は海底ケーブルを経由して即座に日本にも伝わり、アメリカ合衆国での武力を用いた反乱を知った日本政府は、アメリカ政府に対して同盟国として日米同盟の参戦条項(同盟国のどちらかが戦闘を仕掛けられた時にもう一方に参戦義務が発生すると言うもの。なお、日本側の要請で相手は国家とは明記されていない)に則り参戦する準備がある事を通達する。 この時のリンカーンら連邦政府や連邦陸軍は、南軍の事を『砲艦と銃剣で威嚇したら直ぐに逃げるだろう』と舐めており、日本軍の介入は不要だと考えていた。しかし、国務長官や海軍長官の説得により、リンカーンは同盟国のメンツを無駄に潰す必要もないだろうと日本に感謝と歓迎の言葉を返した。 合衆国政府からの返信を受けて以降の日本の対応は程早く、同日中にはホノルルに待機していた騎兵師団1個と歩兵師団3個にいくつかの付随支援部隊からなる遣米軍、彼等用の武器弾薬や医薬品、各種消耗品を大量に乗せた輸送船団、装甲巡洋艦4隻を中核とした20隻の戦闘艦艇と多数の補給艦艇からなる遣米艦隊を編成。ホノルルから西海岸に向けて出発させる 開戦前は甘い見通しをしていた連邦政府や連邦軍であったが、南北戦争が開戦すると南軍の予想以上の戦意の高さや有能な将校が南軍に寝返ったこと、 連邦陸軍の練度不足や準備不足、組織体制の未熟さや合衆国政府の政治的な判断などによりその見通しは覆され、ブルランでの敗北後は一時は到着したばかりの日本軍が首都防衛の中核戦力となるほど南軍が優勢となってしまった。 この北軍の躓きは、トレンチ号事件等のアメリカ合衆国側の外交ミスやこれまでの極東情勢から反アメリカ合衆国感情や日本脅威論が高まっていたイギリスに史実よりも積極的かつ大規模な南軍への支援を行う事を決断させ、南軍の戦力は増大。 対する連邦政府や連邦軍は日本海軍海兵隊の指導の下で軍の再編や近代化、兵士や士官の練度向上、規模拡大などを同時並行して精力的に推し進め、日本軍は歩兵師団3個と戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を中核とした艦隊を追加で派遣するなど戦力の再編を推し進める。 そして、北軍と日本軍は再編成が終了し、チャンセラーズヴィルの戦いで南軍の北バージニア軍を撃破したのを契機に東部戦線・西部戦線双方の戦線で南部侵攻作戦を開始。 6: ホワイトベアー :2022/01/06(木) 21 41 58 HOST sp1-75-245-231.msb.spmode.ne.jp 北軍・日本軍連合の侵攻に南軍は激しい抵抗を見せるも、史実と同様に装備の質から戦力、人口、技術力、工業力などの基礎国力まで全てが勝る北軍・日本軍連合に対して、海外からの輸入品に戦争資源を頼っていたが故に合衆国海軍と日本海軍による海上封鎖により先細るしかなかった南軍が勝利できるはずもなく、各地で撃破されていくしかなかった。 それでも南部はゲリラ戦に移行して粘り強い抵抗を見せていくが、1865年には反乱を起こした南部諸州の全てが北軍・日本軍連合の占領下に落ち、南北戦争は戦時国債の支払いや日本へのレンドリース費用の支払い、徹底的に焦土化した南部の占領費と復興費、傷痍軍人への保障金支払い et アメリカ合衆国に大きな負担を残しつつも、最終的にはアメリカ連合国の敗北とアメリカ合衆国の再統一と言う形で終結する。 戦争終結から時間をおかず、戦時中にリンカーンの抵抗虚しく可決された議会にてベンジャミン・ウェイドが提出した南部復興計画である南部再建法(※1)の下で南部を復興させるために、アメリカ合衆国南部には連邦軍の部隊が進駐を開始。南部復興政策の執行機関であるアメリカ合衆国南部統治軍政府と、その隷下で解体された州政府(州行政府、州議会、州裁判所)に変わり州を統治する5個のアメリカ合衆国地方統治軍政府が創設され、旧南軍や南部連合政府や南部連合加盟州の政治家や役人、南部連合に協力した民間人の逮捕や軍事裁判、南部再建法に基づいた南部の復興政策が開始されていく。 余談であるが、この時の南部では南北戦争末期に北軍が行った『南部の焦土化(Southern destruction)』と呼ばれる焦土作戦によってほぼ全ての州で家屋敷、工場、機械、農家、家畜、菜園、穀物、綿花、砂糖キビ、鉄道、橋などが破壊炎上され、人々は飢えを凌ぐ食料や雨風を耐える家すらない状態におかれていた。 そんな状態の南部を、復興させる為に必要な予算は試算しただけでも極めて高額であり、戦時国債や日本へのレンドリース費用の支払い、傷痍軍人への見舞金などを抱えるアメリカにとって負担するのは正直厳しかった。 そこをついた夢幻会は日本政府を動かして、壊滅状態の南部における日本企業への優遇や日本人移民の優遇を対価として、戦時国債やレンドリース費用の金利の低下や支払い期間の延長を提案。ふる袖がなかったアメリカ政府としてもこれはありがたいことであり、米上院の賛同の下に日米南部復興支援協定が締結され、少なくない数の日本企業や日本人移民が南部に進出し、テキサスを中心としたまだ未発見の南部の資源地域を確保していき、次々と日の丸油田を開拓していくことになる。 アメリカで南北戦争からの復興と西部開拓、それに日の丸油田の確保が進められていく一方、アメリカの同盟国たる日本では、南北戦争中から進めていた旧藩管理地域の教育や各種インフラ整備、社会保障の整備等の富国により一層力をいれていた。 これは、御維新前の日本は幕府直轄領や親藩、一部普請外様藩を除いてはいまだに近代的な工業やインフラは整備されていなかった為の処置でもある。 日本国内の半分以下ある旧外様藩領の整備と近代化に膨大な国力が割かれたため、南北戦争で得た戦訓を活かした新兵器の研究と開発の予算や損害の補填予算こそ降りるが、全面的な軍備の再編は国土の整備が一段落すると後回しにされてしまう。 国内の整備にあたって、日本政府が特に重視したのは鉄道の敷設であった。江戸時代にも鉄道はある程度は敷設されてはいたが、藩との関係もあり鉄道の長さは国土に比例すると驚く程少なかったのだ。 故に政府は全土における鉄道網の構築に莫大な予算をかけた。 7: ホワイトベアー :2022/01/06(木) 21 42 52 HOST sp1-75-245-231.msb.spmode.ne.jp また、強力な中央集権体制の構築の為に必須な情報通達の速度をあげるため、日本全土に電話線や電報設備の整備するなど全国規模での電信網の構築にも勤め、統一した国家、統一された国民を生み出すために教育では標準語の普及に力を入れることになる。 南北戦争後から四年後の1868年には臨時政府は御維新の集大成として大日本帝国憲法(※2)の大綱を発表。これと同時に今まで曖昧であった国名を大日本帝国で統一させ、1880年に大日本帝国憲法を施行し、選挙を行い帝国議会を開設する事を正式に公表する。 民間では、1850年代半ばに内燃焼機関を動力としたバスの運行が試験的にだが東京で開始され、1860年代後半にはベルトコンベアによる流れ作業などの大量生産方式を採用する事で富裕層以外でも購入可能なまでに価格を抑え、十分な実用性を備えた初の小型大衆車である三菱M-68の販売が開始されるなど世界に先駆けて自動車社会の兆しが到来し、娯楽面でも活動写真相当ではあったが映画が新たな大衆文化として登場するなど、大量消費社会の到来を期待させるものが次々と芽吹いていた。 また、大都市においては電球の使用率も向上。自動車用の道路の整備や送電網等の整備の為に都市の再開発もこの頃に活発化。次々と登場させる新技術や新しい製品は人々に江戸時代の終焉と新しい時代の到来を人々に感じさせるには十分な衝撃となり、臨時政府の教育等と合わせて旧外様藩出身の人々を日本人へと変えていくのに大きな助けとなる。 また、上記したとおり新型兵器の開発には予算が降りており、海軍海兵隊と陸軍は後に戦車と呼ばれる自走可能な装甲戦闘車や揚力によって飛行可能な空力機械の開発等が北海道やアラスカで行われていく。 南北戦争後、日米の関係が大きく変化し始めていく。それまでの一般国民はお互いに相手国の事をよく知らなかった状態であったが、この戦争で多くの日本人兵士が派兵されたため、アメリカ合衆国北部及び西部沿岸地域の一般市民にも日本文化や日本に関する知識が広まったのだ。 さらに南北戦争後の親日感情やこの頃の日本特有の近代的な光景と中世的な光景が交わった光景は、日本を訪れたアメリカ人にエキゾチックに移り、日本ブームがアメリカ合衆国北部諸州や東海岸でおきる。これは日本も同様であり、日本人兵士の帰国後には両軍の退役軍人等を中心とした民間交流が盛んになっていき、太平洋はその名の通り平和の海となった。 しかし、その平和も長くは続かない。アメリカ大陸での戦乱が片付き、暫しの平和を享受する日本人の多くは忘れていたのだ。自分らが長年付き合って来た隣国、朝鮮半島と中華を気取る奴らの面倒くささを。 8: ホワイトベアー :2022/01/06(木) 21 45 50 HOST sp1-75-245-231.msb.spmode.ne.jp (※1) 南部再建法 1962年にリンカーンの拒否権を覆して成立した南部再建に関する一括法案。史実の再建法に50%条項と軍が占領統治に必要だと認めた私有財産の接収の容認と基地の創設の容認、軍政府による南部の経済活動の統制管理、南部連合政府及び南部連合加盟州の政治家、役人、軍人(将校以外も含む)の公民権剥奪、占領時に連邦軍ならび日本軍の活動で被占領地で発生した被害や損害への損害賠償請求や補償要求の無効化、接収した私有財産の返還義務の否定等の内容を盛んだ法律。 あまりに強硬すぎる内容に南部の激しい抵抗を招き、とある歴史家から、この法律が南北戦争を2年長引かせたと言われている。 1870年代後半から段階的に緩和されていくが、それでも完全な南部占領と南部の軍政の終結は20世紀を待たなければならず、その間、南部諸州はアメリカ合衆国南部統治軍政府の軍政下に置かれ続けていた。 余談であるが。この法律に基づいてテキサス州に設置された日本軍の基地は21世紀現在でも在米日本軍の専用基地として運用されている。 (※2) 大日本帝国憲法 史実日本国憲法を叩き台にしてアメリカエッセンスを加えた憲法。 行政権ならび軍統帥権を内閣総理大臣が、立法権を帝国議会が、司法権を帝国最高裁判所が担う三権分立や、 旧来の自由権や原則的な法の下の平等(ただし徴兵対象と参政権は男性のみ)の他に、世界に先駆けて社会権(生存権的基本権)を明記した基本的人権の尊重、 天皇を国家元首としつつも、天皇の行う国事行為ならび政治活動は内閣の助言と代議士からなる元老院の許可の下でのみ行われるとする言う天皇象徴制と国民主権の4つを原則としている。 なお、天皇に変わり行政権と軍統帥権を握る内閣総理大臣の指名と任命は議会の専権事項とされ、内閣総理大臣に対する天皇の権限は議会の許可のもとにそれを承認することのみである。 帝国議会 史実日本国の体制を叩き台にして組織されており、元老院と衆議院の二院制を採用する。 モデルが日本国議会とアメリカ議会の為、史実の帝国議会よりかも遥かに強大な権限を有している。 大日本帝国憲法では国権の最高機関であり唯一の立法機関と定められる 9: ホワイトベアー :2022/01/06(木) 21 48 04 HOST sp1-75-245-231.msb.spmode.ne.jp 以上になります。wikiへの転載はOKです。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/49.html
目次 1.イエスの復活の姿は、霊能者以外でも見ることができた 2.現代に私が肉体を持って復活したらどうなるか 3.私の復活は、霊言を世に送ることである 4.どんな偉大な人でも、地上において悟れる範囲は限られている 5.高級諸霊たち一致団結による救世運動 6.神理はどんなにやさしい言葉でも語ることができる 7.経典の本当の内容は、釈迦とその弟子との対話篇であった 8.本当の救済者が現れた時には、必ず高級諸霊たちの言葉が臨む 9.私は十歳の頃からさまざまな神秘体験をした 10.事業を拡張しようとしていた矢先、モーゼから天命を知らされた 11.私には時間がなく、焦ったため、初期に霊的な混乱があった 12.私の第一段階の使命――釈迦仏教の再現 13.私の第二段階の使命――天上界からの地上の人びとの指導 1.イエスの復活の姿は、霊能者以外でも見ることができた さて本日は、今回の霊言の第1章にあたる部分で、「新復活」という題を私はつけました。新復活というと、まるで自分をイエス様になぞらえているみたいじゃないかと、まあ、おっしゃる方もいらっしゃると思います。クリスチャンでなくても、復活と言えば、そうした印象を持つ人も多いでしょう。 しかし実際の話として、イエス・キリストの時代においては、墓の中に葬(ほうむ)られたイエスが肉体のごとき姿をとって、弟子たちの前に現れたと言われています。そういう現象が見られました。それも一人、二人の前ではなく、さまざまな弟子たち、あるいは漁師たち、あるいは町の学者たち、数百人、数千人の前に姿を現したというふうに聖書では語られています。 ただこういう復活というのは、それほどイエス特有のものではなくて、イエスがやったような復活というのは、あっちこっちであるのです。イエス様のような高級霊を例にとって、幽霊が出たなどということを言っちゃいけませんけれども、イエスの復活というのは、実は肉体として甦(よみがえ)ったわけではないのです。十字架にかかって生命を奪われたイエスが肉体として出てきたわけじゃないんです。 その証拠に、イエスは数百人、数千人の人たちの前に、現れた後、昇天していっています。天上界に昇っていっています。肉体が天上界に昇っていくことはないのです。 そういうことで、聖書の中では、イエスが葬られて何日か後に墓穴を開けてみると、中にいなかったという記述になっていますけれども、これは実は、イエスを信じる人たちの一部が、イエスの遺体を運び出したというのが真相なのです。そして、そうした何と言いますか、ローマ兵たちが警備をしているような、墓穴にほうり込んでおくのではなくて、ちゃんとした埋葬をしたかったということが、その真意なのです。 ところがイエスは、復活して出てきたわけです。それは霊として復活したわけですね。しかし通常の人間は、霊の姿というものを見ることはできません。霊の姿を見ることができる者は霊能者です。霊視ができる者に限られています。 けれどもイエスの復活は、そうではなかったわけですね。霊能者だけが見えた復活ではなくて、いろいろな人たち、旅行く人たちにも見ることができた復活だったのです。 2.現代に私が肉体を持って復活したらどうなるか それでは高橋信次だって、生前の顔と体でね、じやあ、もう一回肉体を持って出てこいと言われれば、幽霊として出て来ることができるのです。 ただ高橋信次が幽霊になって出て来ると、あまりいい結果は出ないのですね。たいていは、みんな逃げ惑うのです。恐ろしくなってね。私がネクタイを締めて、服を着て弟子の前に出てきたら、弟子のたいていは腰を抜かすか、みんな逃げていきます。私が痩(や)せる前の肥った体で背広を着て、のこのこっと大森の実家に出て来ると、女房は絶対逃げ出します。あるいは失神します。 佳子という娘がおって、この娘が青山かどこかのマンションにいるんだけれども、そのマンションに私が赤いネクタイを締めて、縞(しま)がらの洋服か何かを着て、「いや、こんにちは。復活したよ」と、出て来ると、まあ多分風呂の中か何かでひっくり返るのは、間違いないんです。 そういうことで、現代では、そういうふうな原始的な復活をやると、化けて出たと言われるのは必定(ひつじょう)なのですね。間違いないのです。 ですから、私もちょっとは賢くなっていますから、そういうことはしないのです。そういうものを見て平気なのは、目が見えない方たちだけなのです。普通の人はとても堪(たま)らないのです。 私が肉体を持って、物質化して出て来ていろいろな弟子の前に現れて、握手したり話したりすると、まあ、その人の頭がおかしくなるか、その人の話を聞いた人がみんなおかしくなっていきます。ですからイエスの時代は、あれでよかったかもしれないけれども、現代の復活というのは、そういうふうなわけにはいかないのです。 3.私の復活は、霊言を世に送ることである そういうことで、私はもっと巧妙な方法をとることにしました。それは私の霊言を世に出す前に、『日蓮聖人の霊言』とか、『空海の霊言』とか、『キリストの霊言』とか、さまざまを世に問うてくれました。そして世の中の評判もそこそこ、いいようです。こういうふうに下準備をした上で、はじめて私は出てくることにしたのです。 いきなり私が霊言を送って『高橋信次の霊言』なんてやりますと、たいていの人は気持ちわるがりますから、それではいけないということで、まず下準備として、高級霊たちの霊言を世に送ったわけです。そうして、世の人たちが、確かに、これは素晴らしいと認めて、はじめて、では、じやあ、生(なま)なましいのを一発やってみましょうということで、できたてほやほやの幽霊、『高橋信次の霊言集』を世に送ったわけです。これが第一集目だったわけですね。こうして私は、現代における復活、新復活を果たしたわけです。 皆さんは私の言葉を聞いたら、生きている高橋信次が話していることと、そっくり同じだということを感じることでありましょう。また前回の霊言集が出て以降、さまざまな手紙が、寄せられたようです。私も霊の体でチョコチョコ行っては、手紙を読んだのでありますが、かつての我が弟子たちは、間違いなく、かつての師、高橋信次の声というのを感じとったようです。 なかには高橋信次霊言集を読めば、目の前に、光が散乱する姿が見えたとか、あるいは感激しました、という人もあれば、なつかしい、嬉しいというような言葉を漏らしてくれた人も数多くあります。私は、これらの声に接して非常に嬉しいです。あの世でじーっとこの機会を待っていたんですね。そして第一集を出して、私の真意が分かってくれる人たちが数多く出て来てくれたことを私は非常に嬉しく思います。 しかし高橋信次の復活というのは、そう簡単に終らないんです。皆さん、私はそんなに簡単に諦(あきら)めないんですよ。しつこく、しつこく神理というものを地上の皆さんに、これでもか、これでもかと、畳(たた)み掛(か)けていきたいと思います。 4.どんな偉大な人でも、地上において悟れる範囲は限られている どんなに偉大な人であっても、地上において悟れる範囲というのは非常に限られたものなのです。たとえば、どれだけその人が頭がいい人であっても、一生の間で読める本の数は限られています。 学者さんで、せいぜい本を読んで一万冊、こんなもんしか読めません。それ以上読むと目が悪くなって眼鏡屋へ入って眼鏡を新調しなければなりません。そうすると経済的負担に耐えられなくなって困るから、学者さんでも一万冊読めばいい方です。 この一万冊の本の内容というものを見れば、たいてい地上の人間が書いたものですね。地上の人間で本を書くような人のレベルというのは、普通のレペルよりも高いけれども、やはり中身は玉石混交(ぎょくせきこんこう)なのです。 とくに神理の本なんていうのはね、玉石混交で、玉よりも石の方が非常に多いというのが現状であろうと思います。こういうものを何百冊、何千冊読んだところで、本当に悟れるかというと、悟れるはずがないのです。 ですからどんな偉大な人であっても、地上に出て、自分の得ることができる経験というのは非常に限られたものですし、また読書によって得られた知力、知識というものも、また範囲が限られるのであります。 ところがいったん、あの世の世界、すなわち私たちが住んでいる実在世界に還ってくると、もう自由自在です。私たちには無数の家庭教師たちがついているからです。つまりどんなことでもね、知ろうとすれば、すぐ知ることができるんです。なぜなら、こちらの世界では、肉体的に束縛がないために、一瞬にして他の人間が考えていることを読みとることができるし、一瞬にして、過去の歴史、現在、それから未来、こうしたもののすべてを読みとることができるからです。 それは生きている人間の気持ちであっても同様で、その人の過去世の姿、未来世の姿、全部分かります。あるいはそれだけではなくて、人類の過去、現在、未来、こういうものが、いっペんに分かってしまうのです。私たちは、そういう世界に住んでいるのです。 こういう世界に来て、今、高橋信次があなた方に話をすることができるのですから、これはどんなに地上に優れた人がたとえいたとしても、その人が知ることができないような内容を語ることができるのです。 5.高級諸霊たち一致団結による救世運動 けれども、こうしたあの世からの通信ということは、そう簡単にできることではないのです。たいていの霊界通信というのは、不明確なものです。不明確で、不明瞭(ふめいりょう)で、なかなか、知性と理性のある人たちが受け入れることができない内容です。ところが、今、私たちが送っている内容というのは、現代人の知性と理性に照らして、また感性に照らして、おかしくない内容、そうしたものを送り続けているのです。擬(まが)い物が多い現代において、真実のものを数多く出していこうというのが、私たちの真意なのです。 今、天上界では、宗派を超えて、宗教を超えて、高級諸霊たちが集まって、日本を中心に一大宗教改革、一大救世運動を起こすべく、全員が一致団結、力を合わせて、地上の皆様方にメッセージを送っているのです。高橋信次が出たからといってGLAの続きだけを言ってるわけではないのです。それ以外にもキリスト教系の諸霊たちも、仏教系の諸霊たちも、儒教、道教の諸霊たちも、そういうものがみんな出てきています。 昔の古い霊たちの言葉というものは、いかに内容がいいものであっても、本当に本人が言っているかどうかということが、分からないのです。そういうことで読む方も、語る方もともに不安感が残ります。 ところが、現代の日本に生きた人の霊言というのはこれは隠しようがない。高橋信次の個性というのは隠せないのです。どんなに私がいい格好をしても、どんなに私が二枚目俳優を気取っても、そうじゃないことが一発で分かってしまうんですね。 それは通常の人間は一冊の書物分だけ話をすれば、その人の中身というのは全部分かってしまうからです。私においても同じです。私がどういう霊格を持った、どういう霊人であるかということが、私の霊言を読めば、地上の人たちはみんな分かるはずなのです。またかつて我が教えを、肉声を聞いた者たちはすべて分かるはずです。そのために、私は敢(あ)えて言っておるのです。 皆さんは私以外にも、たとえば生長の家の総裁であった谷口雅春さんの『谷ロ雅春霊言集』を読まれたことがあるはすです。帰天後、わずか一年数カ月の方の霊言です。本物か偽物(にせもの)か、はっきり分かるはすです。 私もその霊言を収録する時に立ち合っておりましたけれども、こちらに来て一年早々の谷口雅春先生が、原稿用紙に書いてね、あの世の原稿用紙というのは、ちゃんとあるのです。あの世の原稿用紙にね、三百枚ぐらいを書いて、一生懸命しゃべっておったのを私はじっと見ておりました。そして霊言集の手本を見せていただきました。ああいうふうに体系だって語れば、地上にいる人たちも否定できないような、内容ができるのですね。 6.神理はどんなにやさしい言葉でも語ることができる ところが前回の私の霊言集は、思いつきでしやべりましたので、あっちへ飛んだり、こっちへ飛んだりしましたので、今回はもう少し内容を引き締めていきたいと思います。 なかには読者から手紙が来て、『高橋信次霊言集』というのが出たけれども、高橋さんて何考えているのか分からないと。一体何を考えているのですかと。あんな幼稚なことをしゃべって、女、子供を相手に説法しているようじゃだめですと。高橋さんの本を一生懸命読んでみて、あれだけご尊敬申し上げておったのに、こんな内容じゃ、がっかりした、なんて手紙をよこした人もおりました。 そこで、私は、前回の『高橋信次霊言集』の意図について簡単に言っておきたいと思います。私の意図は、こういうところにあるのです。つまり、神理っていうのは、どんなやさしい言葉ででも、語ることができるものだということです。神理というのは、そんな学者みたいに勉強しなけりゃ学べないことじゃないんです。そういうふうに勉強に勉強して、学者みたいに学んだ結果、はじめて悟れるというようなものの考え方が、仏教の堕落(だらく)を招き、キリスト教の堕落を招いてきたのです。 キリスト教においてもそうですね。聖書のどの部分に何か書いてあるのかというものを訓語学(くんこがく)のようにつっついて、つっついて、やっている。そして、牧師さんていう商売が成り立っているのです。 あるいは仏教においてもそうです。今、お経を読んで一般で分かる人はいないです。絶対分からないでしょう。その上、専門の学者たちはサンスクリット語をやったり、あるいは漢文を勉強したりして、解釈して一日を過ごしておるわけです。しかし、そんなところに本当に仏教の真意があったかどうかということをよーく考えねばいけない。 7.経典の本当の内容は、釈迦とその弟子との対話篇であった 仏教というのは、今から二千六百年近く前、お釈迦様がインドの地において、まわりの衆生(しゅじょう)たちに説法した記録なのです。そして当時は、現代のように、テープレコーダーがなかったために、そういう話を記憶しておって、後で結集してまとめた話なのです。いわゆる話し言葉であって、書き言葉ではなかったのです。仏法というのはね。 ですから、お経の本当の内容というのは、対話篇だったわけです。お経というのはそういうもので、本当は対話篇なのです。釈迦と、その弟子との対話篇だったわけです。 そして釈迦の言葉というのは何かというと、生きていた人間釈迦、人間としての釈迦の頭脳で考えた言葉だけが、すべてではないのです。お経の中の釈迦の言葉というのは、そうじゃないんです。現代、私たちがこういうふうに語っておるように、今から二千数百年前の、釈尊(しゃくそん)の言葉の中には、高級諸霊たちの言葉がいっぱい混じっておるのです。 釈迦の言葉の中には、まあ、口幅(くちはば)ったいですけれども、生まれる前の高橋信次の言葉だってお説経の中には入っております。法華経だの、何とか経だのいっぱいありますけれども、その中の釈尊の言葉の中には、あの世から指導していた私の言葉もあります。あるいは、イエスの過去世の方の言葉も入っています。モーゼの言葉も入っています。そういうふうに、いろいろな方がたの聖霊の言葉が釈尊に臨(のぞ)んで、語っておったのです。 8.本当の救済者が現れた時には、必ず高級諸霊たちの言葉が臨む 地上の人たちには、これがなかなか理解できないでしょう。ただ、こうしたことはいわゆる霊媒現象(れいばいげんしょう)とは違うのです。そうではないんです。本当の救済者が現れた時に、天上界の諸霊たちはこぞって、そのメッセージを地上に伝えていくんです。 ま、イエス様でもそうです。イエスは、そのお弟子たちを教育して、各地に伝道のために派遣しました。その時に弟子たちは、「イエス様、私たちは、地方に行って、人びとに何を語ったらいいか、その言葉が分かりません。どういうように言って説法すればいいのですか」、そういう質問をしました。その時イエスが言った言葉は、「汝ら、何を語るかということを悩むなかれ」と。「行く先ざきにて汝らの語るべき言葉が、汝らのロよリ出ずるであろう」。そういうことをイエスは言いました。 それはどういうことかというと、まさしく説法しようという時には、そのイエスの弟子たちに高級諸霊の言葉が臨んで、彼らが語ってくれるということなんです。ですから本当の救済者たちが出た時には、必ず高級諸霊たちの言葉というものが、その中に入っておるということです。 9.私は十歳の頃からさまざまな神秘体験をした さて本日の講演の目的は「新復活」ということでありますから、それについて、今しばらく話をしたいと思います。私は自分のことを自己紹介も兼ねて、少々話をさせていただくとすれば、昭和のはじめに長野県に生まれて、それから戦前、戦中、戦後という時代を経てきました。戦後の混乱期を経験し、独力で、電気関係の事業というものを起こしました。まあ、コンピューター機器関係ですけれども。そうしたものを起こしてコンピューター技師としても、仕事をしておりました。また事業家、実業家として、何十年かの人生を生きてきました。 そうした中において、十歳の頃からさまざまな霊的な現象というものに見舞われました。十歳の頃から、何度も死ということに見舞われました。私の両親は、毎晩私が死んでしまうというような現象に見舞われて、大変心配していました。毎晩八時頃になると私の呼吸が止まってしまって、意識が急速に薄れていく。そしてもう一人の自分というのか、自分の肉体から抜け出して、この地上を見渡しているという経験を何度もしました。 もう一人の自分が、寝ている高橋信次から抜け出すと、私の父や母が大変心配して、お前、どうしたんだと言って揺り動かしている姿、あるいは医者を呼びにやっている姿、ほっぺたをつねっている姿とか、いろいろなものが見えました。そういうふうに肉体と魂の分離ということを、私は十歳の頃から経験しました。そうして、さまざまな神秘体験を経ていきました。しかし、まだ私は悟れませんでした。 二十代の頃にはよく予言が的中しました。いろいろな予言をしました。そういうこともありましたし、さまざまな霊的現象も身のまわりに起きてきました。しかし、まだ私は悟れませんでした。そして事業家としてだんだん事業欲を出して、いろいろなことをやってきました。 10.事業を拡張しようとしていた矢先、モーゼから天命を知らされた やがて浅草に八起(やおき)ビルを建てて、これからいろいろな事業をやろうと思っていた矢先に。高級霊からの厳しいメッセージを受けました。とくにワン・ツー・スリーと名乗るモーゼの霊に、非常に厳しく叱りつけられて、「高橋信次よ、お前の使命は、そんなところにあるんじゃない。お前は、電気屋や風呂屋になるために生まれたんじゃないぞ。お前の使命っていうのは一大革命、一大宗教改革であり、救世のための露払いの役がお前の役割であるぞ。お前は、それを果たさずして電気屋で還って来たんでは、お前は打ち首だ。イエス様は生きていた時に地上で打ち首になったけれども、打ち首じゃなくて十字架にかかったけれども、高橋信次はあの世に来てから十字架にかけてやる。覚悟しろ」と、こういう言葉が私に臨みました。私はびっくりしました。これは大変だと。 今までは会社さえ大きくすればいいと思っていたのが、それではすまないと言われました。「お前は、人間の心を究明して、世の人びとを救いなさい」と。こういうことを言われました。そして四十一、二歳からだったでしょうかね、四十八歳で亡くなるまでの七年間、足掛け八年ぐらいになりましょうか。その間、私の伝道というのが始まったわけです。そしてさまざまな著書を出し、講演をし、個人相談をし、神理の種というのを播いていったわけです。 11.私には時間がなく、焦(あせ)ったため、初期に霊的な混乱があった ただ私には時間がなかったということと、焦ったということのために、十分な法というものを説けなかったという点が残念に思われます。完全なものではないのです。やはり、こうした霊的なものというのは、周到な準備をし、準備期間を置いてから伝道を開始すべきであって、霊の囁(ささや)くことをそのまま受け取っているのでは、まだ十分ではないのです。 三年、四年の準備期間を置いてはじめて、霊的なものということの自覚ができるのですね。それをせずして、私は伝道を開始したために初期の混乱がたくさんありました。 たとえば私自身はゴーダマ・ブッダ釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)ではありませんでしたけれども、私は初期において、ゴーダマ・ブッダ釈迦牟尼仏であるかのように自分で思っていた時があります。 なぜそう思ったかというと、自分自身、不思議でありましたけれども、過去世の釈迦の姿というのが目に見えたわけですね。二千数百年前のお釈迦様がインドにおいて修行されて、悟られて、伝道されたようすがありありと見えたわけです。つまり、霊視し、見ることができたわけです。そうして当時の模様とか、当時の弟子たちと話した言葉というのが手に取るように分かったわけです。 こういうことがあったために自分自身、釈迦だと思っていた時期がありました。しかし、そうではなかったのですね。これは天上界の指導霊たちの力によって、釈迦の過去世というのを見せられとったわけです。つまり私は、『人間・釈迦』という本を書きましたけれども、そういう本を書くために釈迦の過去世を見せられておったわけです。 12.私の第一段階の使命――釈迦仏教の再現 つまり、私の今世の使命、地上での使命というのは、本来の釈迦仏教を広めることだったのです。原始の釈迦仏教の本当の姿を現代の日本で再現するのが、とりあえず私の第一段階の使命だったわけです。こうして露払いの役割をするということであったわけです。 そうして第二段階の使命が、地上を去った後、天上界に還ってから、高橋信次として、こういうふうに霊言を続けていくということだったわけです。 かくいう私は、かつてモーゼを天上界から指導したことがあります。モーゼという人が三千二百年も前に出て、「出エジプト」をなして、カナンの地を目指して旅をしていた時に、モーゼに十戒(じっかい)を与えたのは私です。またそれ以外にも、マホメットがイスラムの地に生まれた時に、アラビアの地の洞窟の中において、マホメットに啓示を与えたのも私です。あの『コーラン』のもとになった啓示を与えたのは私です。そういう十戒とか、コーランを与えた私が、今また、高橋信次の霊言を伝えようとしておるのです。 かつてのものは古いものです。しかし、現代のものは内容も新しい。新しい教えというものを説いていくつもりです。そのために私は、現代の日本に肉体を持ったのです。肉体を持った私として語ったことは、私の考えのすべてではないのです。私は高橋信次という生命体があるということを、地上の皆さんに知らせる必要があったのです。私は実在界においては、アール・エルランティと呼ばれておりますけれども、エルランティという魂があるということを教えるために、知らせるために、私は現代の日本に肉体を持ったのです。 13.私の第二段階の使命――天上界からの地上の人びとの指導 そして次なる私の仕事は、天上界にいて地上の皆さんを指導すること。この第二段階目の仕事が、私の本来の仕事なのです。このために私は地上に肉体を持ち、このために私は四十八歳という働き盛りに短い人生を終えたわけです。 そして第二段階として、私の後に偉大な指導霊を出したわけです。彼自身でも十分、法を説いていく力があるけれども、それにもまして、その前の段階から出た私が、天上界から直接のメッセージを送ることによって、その力を二倍、三倍にしようというのが、今回の計画だからです。そして私は、その本来予定されていた事業に今とりかかりつつあります。これが私の本来の目的だったからです。 私の死後GLAにおいていろいろ混乱があったと、その後、取り沙汰(ざた)されています。けれども、皆さん、それは混乱のための混乱ではないのです。私が新しく復活するための、新復活の前の混乱であったということなのです。 イエスが十字架にかかったのち、混乱した弟子たちの前に現れたように、高橋信次がまた甦(よみがえ)ったのです。新復活をなしたのです。これから私の復活の言葉は続いていきます。 地上の皆さんは、私のこの真実の声を、どうか真剣に受け止めていただきたいと思います。本当の意味で、あの世の世界があるということ。そしてあの世の指導霊たちがあるということ。高級霊たちがあり、神近き霊たちがあって、地上の人たちを見守っているということを私は実地に、それを皆さんに示すつもりです。 霊言集も一冊、二冊ならその真実性を否定する人もいるでしょう。しかし、五冊、十冊続いたならばこれを否定できますか。これが創り物だといえますか。どうか地上の皆さん、これが本物かどうか、よーく読んで、とくと考えてみて下さい。 私の霊言は今後も続いていきます。以上がとりあえず、今日の第一日目の「新復活」についての講演です。
https://w.atwiki.jp/nishigoushu/pages/6.html
首相府 首相を長とする行政機関。 大統領府に次ぐ機関で、政府と表記されることもある。 職務内容 首相一名、副首相一名、報道官一名、国務大臣10名を中心に構成される閣議で、行政方針を決定し、政治を行う。 組織 首相:首相府の長である。 副首相:首相を補佐し、代行する。 報道官:首相府で行われる定例会見を行うほか、首相府の声明を発表する。 以上を首相府とし、以下中央省庁がある。
https://w.atwiki.jp/nishigoushu/pages/7.html
首相 首相府の長で、下院で下院議員の中から選出される。 行政を総括し、政府の代表。
https://w.atwiki.jp/nishigoushu/pages/4.html
大統領府 三権(行政・司法・立法)を掌握し、国を治める国家の最高統治機関。 大統領が長として置かれ、その補佐として副大統領が置かれる。 建物はパース?市内にあり、大統領執務室、副大統領室、報道官室、 記者会見場などがある。
https://w.atwiki.jp/nishigoushu/pages/9.html
法務省 法律に関することを司る。 外局 パース法律・憲法の資料館
https://w.atwiki.jp/nishigoushu/pages/22.html
民主社会連盟 我国における政党のひとつ。 唯一の社会主義政党で、選挙毎に議席を拡大している。 一般的には「民社連」と略されることが多い。 主な政策は、 赤化 強気の外交政策 が挙げられる。
https://w.atwiki.jp/nishigoushu/pages/13.html
文化教育省 文化、教育を司る。 R日本で言う文部科学省 外局 文化庁 全国教育委員会 世界遺産庁
https://w.atwiki.jp/nishigoushu/pages/8.html
総務省 中央省庁のうちのひとつ。 統計、警察、消防、情報、地方自治、を司る。 外局 統計庁 警察庁 消防庁 地方自治庁
https://w.atwiki.jp/teitoku_bbs/pages/2761.html
919 :ひゅうが:2014/01/22(水) 22 39 12 ※ その11に投下した大陸日本世界の民国についてです。 【ネタ】【日英独大同盟世界】――戦間期の大陸日本 断章「民国の発展と前奏」 【民国勃興~黄金の10年~】 ――中華民国。 中国大陸初の民主共和政国家であり、550万平方キロの広大な国土を持つ大陸国家である。(もっとも、彼らの主張する国土は1000万平方キロを超えているのだがそれはひとまず置いておこう。) この国が実質的に成立したのは、孫中山による北伐が完了した1918年以降である。 アメリカ合衆国民主義勇軍、のちにアメリカ陸軍東ユーラシア軍団20万の助力を得た孫文は、袁世凱暗殺後の中国大陸をまるでスチームローラーのように平定していき、ついに1918年4月24日、追いつめられた北京政府を吸収する形での大陸再統一に成功したのだった。 その過程で、抵抗する北洋軍閥の残党が立てこもる北京を陥落させて炎上させていたために、新首都は暫定首都たる南京市を「新京府」と改称したうえで使い続けられることとなったが、ともかくも民国はまずまずのスタートを切ったといってもいいだろう。 近隣の大国であった日本帝国が欧州大陸へ大規模派兵を行っていた隙に、中国大陸における地歩を確たるものにしたアメリカ合衆国という後ろ盾が存在し、かつアメリカ軍事顧問団による訓練と潤沢な装備供与にてアジア地域においては屈指の大陸軍を設置することができていた。 また、経済面でも飛ぶ鳥を落とす勢いで成長を続けているアメリカの工業資本が味方についている。 国土は広く、開発すべき大地は広大である、そして統一政権が有する軍事力は強大。 これだけを見たのならば発展は約束されているともいえるだろう。 欧州において生じた第1次世界大戦という惨事によって欧州列強諸国が介入する隙なく統一を回復できたことは民国にとって幸いであっただろう。 国際連盟主導でのジュネーヴ体制成立により米軍の駐留兵力が5万人程度に制限されるまでの間に中華民国は独自に政府直轄軍を育成することに成功し、沿岸都市部や大河川沿岸においては清国末期の混乱からいち早く立ち直ることができたためである。 さらには1929年までの間には北方に成立した国際連盟自治領「満州邦」やチベット、ウイグル、モンゴルとの領域問題はあるものの概ねこれらとの大規模戦闘は発生せずに順調な経済発展を続けることができたのであった。 都市には豊かな文化が花開き、工業生産力は近隣の日本大陸(亜大陸群)ほどではないにせよ欧州の中堅国家レベルにまで増大。 「北伐」と同時期に蔓延したインフルエンザで荒廃していた農村も戦乱の終息とともに復活を果たし農業生産力も復活を果たした。 歴史家はこの平和と繁栄の時代を「黄金の10年」と呼んでいる。・・・それ以後の悲惨と対比して。 920 :ひゅうが:2014/01/22(水) 22 39 46 【火種~連省と集権の相克~】 だが、それもこれも、「アメリカ合衆国という後ろ盾」と、良くも悪くも独裁的な「孫中山」という存在があったからこそであった。 中華民国という存在は、軍事的に制圧下におかれた大都市部や沿海部においては孫文率いる国民党が主導しての中央集権化が図られ、広西地方や雲南地方、陝西地方といった地方色の強い地域においては「中華連省政府」による連邦化によって一応の統一が図られるという二本立てによって国家が維持されていた。 これは、なるべく広大な地域に触手を伸ばしたいのではあるが列強諸国、ことに日英による対米包囲網発動を阻止したいアメリカ合衆国と日英独とそれ以外による妥協の産物であったといえよう。 この方式であるなら、実質的には統治下にはない地域、「清国以来の正当な領土」の回収という孫文が固執する目標も「先送り」するという名目が立つし、中央からの自立を図りたい地方軍閥にとっても「可能なら独立、できなくとも自治権の拡大を列強の後ろ盾で行える」チャンスが訪れる。 妥協的ではあっても現実的な提案であった。 この方式が提唱されたのは、1918年のヴェルサイユ講和会議においてであったとされる。 中華民国は当時、山東半島に利権を有していたドイツの排除を目標として宣戦布告を行っており、この問題もあわせて話し合われていたのである。 発案したのは当時、ヴェルサイユ会議に随行団の一員として参加していた海軍中佐嶋田繁太郎であったとされる。 これには、清国末期以来列強によって莫大な富が注ぎ込まれ、合衆国も少なからぬ利権を有していた満州という存在が念頭にあったといわれ、列強もこれには追随。 結果、ロシア系の極東合衆国と英国が影響力を行使していた東トルキスタン・ウイグル地区やインドとの緩衝地帯となるチベット高原、満州および極東合衆国の外郭となるモンゴル高原と内蒙古地方が中華民国中央政府の統治から離れた。 だがこれは「中央政党としての国民党以外の政党は必要なく、中華は強力な統制によってまとめられねばならない」という「信念」を抱く孫中山や国民党の主流派、中央集権派にとってはあくまで妥協の産物であった。 そのために「当面は国力を増大させ、しかる後に正当な領土を回復する」という方針がまことしやかに語られていた。 皮肉にも、最大の友好国であり力を持ってこれを制することができるアメリカ合衆国は列強の干渉によって駐留兵力を制限されており、さらには中央政府の支配領域を増大させ市場を拡大させる欲求に忠実であった辛亥革命以来の友好資本家たちは逆にこれを後押しする始末。 これに対する抵抗勢力も、世界史的な重大事件の発生によって沈黙を余儀なくされる。 世界恐慌。 1929年に発生した大恐慌はまたたくまに世界のブロック化と震源地である米国の苦境をもたらし、その莫大な資金援助を受けていた民国にも大きな影響を与えたのである。 さらには、当時権力を手中にしつつあった蒋介石と連省派であった汪兆銘の暗闘、拡大方針をとりつつあった民国軍、そして勃興しつつあった共産革命勢力によるテロルなどの様々な要因が重なり、中華民国は「黄金の10年」の後に「猖獗(しょうけつ)の20年」と呼ばれる内戦の時代に突入することになるのである。 921 :ひゅうが:2014/01/22(水) 22 41 37 【あとがき】――駄文ですが投下いたしました。1925年の孫文死去以後、連省派の汪兆銘と集権派の蒋介石の暗闘がはじまっています。 そしてその動きは1929年の世界恐慌以後に一気に活発化した…とそういうお話でした。