約 576 件
https://w.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/759.html
本ページでは、 軟国志 の登場人物について解説を行う。 ネタばれを含むため、動画本編を鑑賞した後に閲覧することをお勧めする。 [部分編集] 北郷軍武将 + 既存・登録武将/第1幕~第39幕にて参戦 北郷一刀(出典:恋姫†無双シリーズ) 恋姫無双というゲームの主人公。 本ゲーム内で三国志の世界に何回か飛ばされているが、その記憶を受け継いでいるらしい。 女性を籠絡する手管は見事なものだったが、この動画の中では今のところその性癖を見せてはいない(丞相が毒牙にかかったようです)。 別名「チ●コ太守」 恋姫無双の呉の将たちは、彼が赤壁の戦いで死んだと言う記憶を持っている。また柴桑では、 「もう一人の」彼の墓と死体、遺品が発見された。彼自身の正体とこの世界に来た謎は深まりつつある。 なお、ギャルゲ主人公らしい天然スケコマシスキルは他作品に対しても発揮され、降った八雲軍をはじめとする女性武将たちに 脅威を感じさせる。 65幕にて公に昇進。さっそく「ち○公」とニックネームが付いたが、うp主はまるっとお見通しであった。 79幕にてついに皇帝に昇進し、新王朝を打ち立てる。もちろんニックネームは「ち○皇帝」だった。 霧雨 魔理沙(出典:東方Project) 北郷一刀と最初に出会った武将、現在は軟国朝安北将軍(武官のNo.16)。 ともに会稽で住む場所を探していたが、いろいろあって城に招かれる。 当初は軍師のようなことをやっていたが、戦に出る度に派手に暴れ、軍師らしからぬ働きを見せていた。 その後は軍師の役割をパチュリーに任せ、前線指揮官として暴れまわっている。 「戦もパワーだぜ!」 藤村大河(出典:Fateシリーズ) 元会稽の城主。 いろいろな理由(?)があって城主の座を降りる。 その後一般武将として所属するが、回を重ねる度に空気となっていく。活躍の場は何処に…… 一応、士郎から安否を気遣われているようだ。 留賛(出典:三国志Ⅸ) 会稽の武将。史実では呉の宿将の一人、現在の軟国朝後将軍(武官のNo.20)。 味方を歌で鼓舞しながら敵と戦ったと言う猛将で、この動画では「熱情の律動」(ミンサガ)を愛唱する。 うp主のお気に入り武将の一人で、要所要所で活躍する。美声。キャーリューサーン 孟宗(出典:三国志Ⅸ) 会稽の武将。史実では呉の大臣の一人。 母親の好物である筍を冬に必死に探したと言う孝行話があり、孟宗竹の名の由来となった人物である。 貴重な文官として良い仕事をしている。 畢軌(出典:三国志Ⅸ) 元曹操軍所属、現軟国朝太史令。 この動画ではガチユリの恋姫曹操が主君だったため、男はいらないと放り出されたところを北郷軍に拾われた。 かつての人脈を生かして情報収集や外交に活躍している。 また、徐桓の軽口にキツいツッコミを入れる事にも定評がある。 第87幕で博打とも言える策を彼を含めて5人(畢軌、陳紀、カイ越、閻象、楊弘)で実行。 結果は趙雲、馬岱と引き抜き、策は7割がた成功。起死回生の一手を打った。 「一条の光明が…!!この畢軌、賭けに勝ちました!!北郷殿、やりましたぞおおおおおおおおお!!」 孫権/真名「蓮華」(恋姫†無双シリーズ) 軟国朝征東将軍(四征将軍筆頭、武官のNo.5)。 北郷軍最初の相手となった君主。 呉での戦を経て、北郷軍に帰順した。 その際に意味深なシーンがあり、謎を呼んでいる。 あまりにも女性に見境ない本郷の手の出しっぷりに制裁を加えることも。 呂蒙/真名「亞莎」(出典:真・恋姫†無双) 軟国朝執金吾(九卿)。 元蓮華軍の副軍師。前線にも立てる知勇兼備の逸材である。 主君と共に北郷軍に帰順。呉将らしく水軍の運用にも長けている。 一見露出度は低いが、実は超ミニチャイナドレス。 うp主の嫁。 周泰/真名「明命」(出典:真・恋姫†無双) 軟国朝安南将軍(武官のNo.14)。 元蓮華軍所属。主君と共に北郷軍に帰順。 背中に長大な刀を背負ったくのいち風スタイルで、隠密行動に長じており、偵察で活躍している。 もちろん前線でも十分戦える使い勝手のいい娘。 陸遜/真名「穏」(出典:恋姫†無双) 軟国朝延尉(九卿)。 元蓮華軍所属。全女性武将中トップクラスの巨乳。 赤壁の戦いにおいて、目の前で北郷が死んだと言う記憶を持つ。そのため北郷軍に帰順せず、 神奈子軍や八雲軍に所属しながら、北郷の正体を探り続けていた。 第26幕にて柴桑陥落時に捕縛。北郷をもう一人の彼の墓へと導き、その後改めて北郷軍に参加する。 八坂 神奈子(出典:東方Project) 元神奈子軍君主。現軟国朝の驃騎将軍(武官のNo.3)。祭祀の統括も務める。 江東に進出してきた軍神。その後、北郷軍と対峙することとなる。 一時は大勢力を築くも、北郷軍に敗れその配下となった。現在江夏に駐留中。 何度か会話シーンに「報酬」というキーワードが出てきているが、詳しくは謎。 洩矢 諏訪子(出典:東方Project) 元神奈子軍の武将で、副官的存在。祭祀の副官も務める。 蛙の化身の神であり、そのためか水軍の運用に長けている。 現在は神奈子と共に江夏に駐留中、軟国朝衛尉(九卿)。 古明地 さとり(出典:東方Project) 元神奈子軍軍師。現軟国三公の一人(司徒)。心を読む程度の能力を保有し、それによって軍略を立てる。 能力に頼りすぎた作戦をパチュリーに看破され敗北、北郷軍に降った。 一刀の心をうっかり読んでしまったために、自分がトラウマ級の精神的ダメージを受ける。 第33幕より、倒れたパチュリーに代わり、北郷軍の軍師を務めることに。 パチュリーに敗れたことといい、戦場を把握する能力には若干不得手なところがあるようだ。 パチュリー=ノーレッジ(出典:東方Project) 元レミリア軍所属。 レミリア軍が神奈子軍に滅亡させられた後、北郷軍に入る。 その後すぐに軍師となり、いろいろ策を練っている。 持病に喘息を持っており、第15幕では出撃できないという言葉も出てきた。 縛りかととも思われたその言葉だったが、第29幕において無事初陣を飾る。 さらに第30幕にて、いかんなく発揮したその手腕は視聴者の心を鷲づかみにし、 かの華琳(曹操)にさえも「全く、恐ろしい軍師がいるようね、北郷軍には」と言わしめた。 この出来事により、彼女は“動かない大図書館”ではなく“動く大図書館”という希代の大軍師の地位を確立させた。 第33幕にて、これまで過労がたたり、倒れてしまったため軍師の任をさとりに譲る。 そして第83幕には全員一致で軟国の丞相に就く。この頃には発作が最近起きないことがわかり、寿春防衛に出陣を表明する。 他作品のキャラの中では一番北郷とのフラグが立っているらしく、第92幕にて衝撃的な噂が国内に流れていた。 十六夜 咲夜(出典:東方Project) 元レミリア軍所属、現軟国朝左将軍(武官のNo.18)。 レミリア軍滅亡後、在野を経て北郷軍に加入するが、なかなか招聘に応じないツンっぷりを見せた。 紀霊に惚れられているが、彼には目もくれていないようである。 レミリア=スカーレット(出典:東方Project) 元レミリア軍当主。 序盤に袁術軍を滅亡させ、順当なスタートを見せるも、半年も経たずに第5幕で滅亡。 相変わらずの盛大なカリスマブレイクであった。 その後、紆余曲折あって北郷軍に入ることに。 だが、龐門を鍛え上げたあたりから徐々にカリスマを取り戻し始め、最近では逆補正どころかカリスマ全開の姿を見せている。 その活躍は著しく、衛将軍(武官のNo.2)という重要職についてることからも想像にたやすいであろう。 視聴者曰く「腋を締めたおぜう様」(顔グラ、従軍武将的な意味で)。 小悪魔(出典:東方Project) 元レミリア軍所属。通称こぁ。 軟国朝黄門侍郎。 悪魔と言いながら、それらしくない善良な性格で、治療持ち。レミリアやパチュリーに忠誠を尽くしている。 現在は本拠地に病院を構えており、なかなか評判は高いようだ。 紅美鈴(出典:東方Project) 元レミリア軍所属。通称めーりん。或いは中国。 軟国朝右将軍(武官のNo.17)。 武術に長けており、なかなかの高武力。中国風だけあって三国志の世界の水が合っているのか、 一騎打ちでは大活躍。その回では「美鈴無双」のタグが貼られた。 咲夜の左将軍に並ぶ右将軍の要職に就いてることからも戦勲が著しい。 他の動画でもそこそこの活躍を見せているようで、彼女にも何らかの補正があるのかもしれない。 OPでは主人を差し置いて目立っている。 大妖精(出典:東方Project) 元陶濬軍所属。通称大ちゃん。 親友のチルノを探して放浪していた所を北郷軍に拾われた。 有能な弓使いとして成長しており、陶璜に目をかけられている。 陶璜(出典:三国志Ⅸ) ご存知顔君主こと陶濬の実兄。弓の達人。 弟と違い、普通の顔で渋い言動を見せる。武将としてはオールラウンダーな性能で、史実では呉の名将の一人。 大妖精に目をかけており、その成長をわが子を見るように見つめている。 第25幕で山越の防衛に当たっていた弟と再会し、容赦なく狙撃。武将としての筋とはこういうものだと見せ付けた。 紀霊(出典:三国志Ⅸ) 軟国朝安西将軍(武官のNo.15)。 元袁術軍の宿将。ダメな主君にも忠義を尽くし、行方不明の袁術を探すため、北郷軍に客将として参加する。 北郷軍のありようを見て、主君に盲目的に忠誠を誓っていた過去の自分を反省し、改めて北郷軍に正式に仕官した。 いぶし銀の名将だが、咲夜に惚れてしまったためキャラブレイクを起こす。最近ハニーハンターを開業した。 張勲/真名「七乃」(出典:真・恋姫†無双) 元袁術軍の大将軍。紀霊・陳紀と共に主君探しのため北郷軍の客将となり、後に正式に仕官。 主君に対する忠誠は本物だが、困り顔を見るのが好きだったりするなど、その愛情はやや歪んでいる。 主君が絡まなければ、かなり有能で常識的な人物。 陳紀(出典:三国志Ⅸ) 元袁術軍の武将。紀霊・七乃と共に主君探しのため北郷軍の客将となり、やはり後に正式に仕官。 史実では主君が逃げる時間を稼ぐため、曹操の大軍を相手に寿春を固守しようとした忠臣。 本動画でも袁術への忠誠は上記二人に負けない熱い男。 第87幕で畢軌の博打策を実行した5人の内の一人。 雷薄(出典:三国志Ⅸ) 元袁術軍の武将。袁術とはあまり反りが合わなかったようで、紀霊たちとは異なり神奈子軍に仕官した。 建業の戦いでは一人で北郷軍の猛攻に耐え、その粘り強い戦いぶりを賞賛されている。 北郷軍参加後はその気風に染まりつつあり、実はかなりの熱血漢であることが明らかになってきている。 袁術/真名「美羽」(出典:真・恋姫†無双) はちみつ大好きなワガママ金髪ロリお嬢様。 名門の出で有能な武将を多数抱えているが、レミリア軍にあっさり滅亡させられる。 紆余曲折あって神奈子軍に参加。北郷軍との交戦を経て、元部下たちとの再会を果たす。 紀霊の叱責により、多少は性根を入れ替える気になったようで、 「とりあえずたくさん兵を連れて行ける」ことから、戦略上の重要な役割もこなしている。 ……本人がその辺の細かいところまで理解しているかどうかはさておき。 実は北郷軍きっての造営技術の持ち主であり、ガンギにその技術を伝授したりもしている。 見えないところで造営に力を発揮してた様で、侍中に就くぐらいの勲功を稼いでたことが発覚した。 丁奉(出典:三国志Ⅸ) 元孫皓軍の武将。呉に仕えた三国時代後期の名将の一人。顔グラのためスターリン閣下と呼ばれることも。 本動画では言動もスターリンそっくりで、敵を攻撃する際に「粛清」と叫ぶ他、 同僚への呼びかけは「同志」である。 しかし、同時に漢気に溢れるナイスガイでもある。物騒だけど。 その漢気に敬意を表してか、視聴者からの呼称も「閣下」である。 阜陵港周辺の水上戦では、三度にわたり圧倒的優勢な敵の撃破に成功しており、 北郷軍最強の水軍指揮官といえる。 とりわけ三度目となる赤壁決戦においては、通算6回という脅威の兵法ガード率を見せ、 「鋼鉄(はがね)のカーテン」とタグがついた。 現軟国朝車騎将軍(武官のNo.4)の地位も納得である。 実は戦闘中に一度敵に捕まったりもしているが、三倍近い兵力差を考えれば愛嬌の範囲内。 諸葛謹(出典:三国志Ⅸ) かの諸葛亮の兄。史実では呉の重臣で、主君孫権の信頼厚い人物。 文官であるが貴重な射撃兵法持ちのため、前線での軍師を兼ねて戦場に赴くことも多い。 江東戦線総指揮、同制圧・防衛戦略最大功労等から、現在光禄勲(三公下文官筆頭)に就いている。 この動画でははわわな妹になっているであろう諸葛亮との対面が楽しみである。 一部の視聴者からの愛称は、史実でのエピソードから(愛を込めて)「ロバ」。 謝旌(出典:三国志Ⅸ) 軟国朝破虜将軍。 呉の武将。名前はカタカナにしてはいけない。 史実では夷陵の戦いにおいて奮戦した名将で、留賛と良くコンビを組んで活躍している。 かなりの熱血漢。 + 既存・登録武将/第40幕以降に参戦 程昱/真名「風」(出典:真・恋姫無双) 元八雲軍所属。現軟国三公の一人(大尉)。出奔した紫に代わり、戦後処理を担当した後、北郷軍に参加した。 軍議中に平然と居眠りをする豪胆な性格で、原作ファンからはフリーダムの代名詞で知られる。 しかし軍師としての能力は本物であり、九人に及ぶ北郷軍軍師集団の筆頭に就任する。 陳宮/真名「音々音」(出典:真・恋姫無双) 軟国朝太僕(九卿)。 元八雲軍所属。呂布の忠実な軍師だが、主とはぐれてしまい、行方を捜している。 軍師として無能ではないが、風やパチュリーに較べると若干劣ると評価されている模様。 代わりに個人的な攻撃力は高く、必殺の「ちんきゅーきっく」は主に北郷に大打撃を与えている。 公孫賛/真名「白蓮」(出典:真・恋姫無双) 軟国朝鎮西将軍(武官のNo.11)。 元は北方の君主。一時はかなりの大勢力を築いたが、言峰軍と曹彰軍に敗れ、傷だらけで川を漂っている所を 北郷軍に救出された。47幕にて出陣、一騎打ちに二連勝するなど大活躍を見せた。 原作では「普通の人」扱いだが、全能力が平均して70以上で、騎馬の扱いに優れた良将である。 48幕にて、捕虜の楽チン(北郷と恋姫楽進(真名/「凪」)の息子)を殺害。 本来の性格とあまりに違いすぎる行動から、操られている可能性が示唆されていたが…… (以下、強いネタばれにつき、反転表示で記述) 50幕にて、彼女が既に死亡していることが、レナスの口から明かされた。 言峰軍に捕らえられた際に殺害され、レザードの秘術により傀儡として蘇らされたものと思われる。 レナスにより解放され、真の復活を果たそうとしている。 賈駆/真名「詠」(出典:恋姫無双シリーズ) 元レナス軍所属。現軟国三公の一人(司空)。北郷軍に親友の董卓が所属した事と、レナス軍では手腕の発揮できる環境がなかったことから、 離脱して北郷軍に仕官してきた。性格的にはツン9割、デレ1割という黄金配合のツンデレ。 楽チン殺害とそれに伴う国際情勢の変化で心を折られかけていた北郷を叱咤すると共に、事件の背景に言峰軍 が関与していることを示唆し、立ち直らせる。 曹操/真名「華琳」(出典:恋姫無双シリーズ) 元曹操軍君主。現軟国朝大都督(武官のNo.1)。滅亡した国から辛うじて脱出し、第56幕にて軟国領へと辿りついた。 本来は覇王と呼ばれるに相応しい才覚と覇気の持ち主なのだが、原作にて北郷が天の国に帰った後、その影響で 国内をまとめきれず、反乱や領土の分裂を招いてしまった事情が語られている。 李典/真名「真桜」(出典:真・恋姫無双) 元曹操軍所属。落城間際に曹操をつれて脱出に成功。かつての縁を頼って北郷の元に落ち延びてきた。 関西弁を喋る発明王で、ドリル槍などオーパーツ級の発明品を数々所有している。また、曹操軍では 最大級の巨乳の持ち主で、かつトラ縞ビキニという露出度の高い服装。 香月夕呼(出典:マブラヴオルタネイティヴ) 軟国朝光緑大夫(九卿)。 元八雲軍所属。原作では天才的科学者にして、優れた政治的駆け引きの能力を持つ女傑。 八雲軍で軍師を務めていたが、軍の崩壊と共に北郷軍へ参加。元の世界へ戻る方法を探している。 近代戦教育を受けた軍人だが、三国志世界では若干勝手が違い、上手く能力を発揮できていない様子である。 白銀武(出典:マブラヴオルタネイティヴ) 軟国朝威東将軍兼皇帝特別侍従。 元八雲軍所属。原作では戦術機(二足歩行兵器)の天才的パイロット。 主人公らしい熱血さと、いい意味での甘さを併せ持つ好青年でもある。第43幕でのやりとりを見る限り、 北郷とはいい友人同士になれそうである。 榊千鶴(出典:マブラヴオルタネイティヴ) 軟国朝軍師将軍(雑号将軍筆頭、武官のNo.21)、マブラヴ勢では香月夕呼に次ぐ地位にいる。 元八雲軍所属。武も所属していた訓練小隊の小隊長であり、統率に優れている。 生真面目な性格で、一行の中ではツッコミ役的ポジションを確保しているが、フリーダムなキャラの多い 北郷軍でのキャラブレイクが期待される。 衛宮士郎(出典:Fateシリーズ) 軟国朝威南将軍兼皇帝特別侍従。 元八雲軍所属。それ以前は独立勢力の君主だったが、滅亡の憂き目に合い、離散した仲間を探している。 正義の味方になりたいと自認しており、北郷の目的次第では再び敵対する事も考えていたようだが、 第43幕で北郷と直接対話し、その志に協力する事を誓った。 武ともども、ギャルゲ主人公トリオとしての活躍が期待される。なお、女ったらしトリオと言ってはいけない。 セイバー(出典:Fateシリーズ) 軟国朝征南将軍(武官のNo.6)。 元八雲軍所属。士郎とは衛宮軍滅亡後も行動を共にしていた。 敵軍にいた頃は北郷軍にいる大河を巻き込まないように宝具の使用を控えていた。 図らずもタイガーの存在が役に立ったという稀有な例である。 北郷軍に参加してからは『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』の封印を解き、各地の戦場で武勲を重ねる。 将の育成においても孔玉玲を抜擢して彼女を見事、”軍神”に育て上げることに成功するなど卓越した手腕を見せる。流石は騎士王。 ただし弓の熟練度が低いので戦場では度々、スナイプの標的にされて負傷することも多々。 ライダー(出典:Fateシリーズ) 軟国朝前将軍(武官のNo.19)。 元孫策群所属。マスターである桜とは離ればなれになっていた。 士郎の説得により桜を探し保護することを条件に投降。 英霊として騎馬戦での活躍が期待される。 陶濬(出典:三国志Ⅸ) 元陶濬軍君主にしてご存知顔君主。ここでも顔以外はまともな人物。 陶璜の項にもあるが、八雲軍の将として山越の防衛にあたっていた所、兄の陶璜に容赦なく狙撃された。 その後北郷軍に就き、第52幕で元々治めてたが故の土地勘を生かし交趾攻略の鍵を作り出した。 しかし終わると他動画のように顔のことでいぢられ、挙句レーザーライフル(俗称:顔芸ボルケイノ・改)を発射してしまう。 紙芝居に出てきたときの存在感は圧倒的。 楽チン(出典:三国志Ⅸ) 第48幕で白蓮に殺されるが、レナスの手によってレナス軍のエインフェリアとして復帰する。 その後レナス軍の降伏の使者として77幕で再び登場。 戦場には出ず内政中心に活動する模様。 趙雲/真名「星」(出典:真・恋姫無双) 元劉備軍所属。第87幕で畢軌の誘いを受け軟軍に降る。 現状の桃香(劉備)の様子がおかしいのを気にし、元に戻す手段を軟軍で探す。 北郷の名を聞いたときから何か引っかかるものがあったらしい。 馬岱/真名「蒲公英」(出典:真・恋姫無双) 元劉備軍所属。星(趙雲)と同じく畢軌らの誘いを受け軟軍に。 桃香が包囲網前から近づく影につられるように徐々に無反応になっていった事を星と共に明かす。 + 抜擢武将 第92幕現在、13人の抜擢武将が加入している。 徐桓(ジョカン) 第3幕の最後に君主自ら連れてきた最初の抜擢。 指導中に師である魔理沙に惚れる様子が見られたが、次のターンに師が交代。 タイガーが受け持つこととなった。 まさに涙目ものの展開だが、あろうことかタイガーにまで惚れ、浮気性扱いとなった。 第5幕で正式に配属となり、その浮気性っぷりを発揮している。流石はち○こが見出した男、とでも言うべきか。 初参戦の5幕時点で知力85・政治72、中幕2の時点では知力は86になっている。 抜擢武将集結においても、全く自重せずに女性武将にコナをかけまくっていた。 兪玉玲(ユギョクレイ) 第5幕で魔理沙が連れてきた抜擢。 素質は典型的な脳筋武将で、魔理沙がそのまま師匠として受け持つ。 だが、ウマが合わないのか魔理沙と喧嘩し、うp主にドS扱いされる。(ゆうかりん的な相性なのだろうか?) その後、第8幕で正式配属となり、そのまま戦に参加。 武力84・統率75の性格猪突で、兵法は攻城以外の系統全てを習得している何でも屋。 弱り切った城に兵法を決めたりなど、きっちり戦はこなす。 「豚のような悲鳴を上げろ!」 謝如玉(シャジョギョク) 軟国朝征北将軍(武官のNo.8)。 第10幕で魔理沙が連れてきた抜擢。うp主曰く、「ま た 脳 筋 か!」 明命(周泰)が指導武将となる。 もとの武術が未熟だったものの、素質が傑出とあり、武力を高めたかったのかもしれない。 その願いもあったのか、指導の中いっぺんに歩兵兵法をマスター。エースとして期待されるも、途中で旅に。 ところが第11幕の最後にひょっこり帰還。チートじゃなくていいから、そこそこ育って欲しいと願われた。 育ってみれば、武力96・統率85(知力も70台・政治も60台)という、とんでもないチート武将になった。 第15幕に初陣を経験し、神奈子と直接対決。 そこで2の武力差を覆すだけではあきたらず、立て続けに出てきた武力90の諏訪子まで屠る大金星を挙げる。 紙芝居中、自分を鬼神と呼んでいたようだが、まさに鬼神の名に恥じない初陣となった。 なお、自分を上回る資質を持つ龐門(ホウモン・下記参照)に嫉妬するなど、人間臭いところもちゃんと持っているようである。 龔梅芳(キョウバイホウ) 丁奉閣下抜擢、亞莎指導。 軟国朝司馬。 閣下が連れて来ただけあって、粛清、反乱鎮圧を得意としている模様。同僚への呼びかけは、やはり「同志」。 第19幕で正式配属時、開口一番「粛清はおまかせください」と発言し、周囲をドン引きさせた。 指導していた亞莎は胃を痛めたらしく、北郷も話していて胃が痛くなるなど、付き合うには胃薬が欠かせない人物。 武力はさほどではないが統率は95もあり、知力も81となかなかのスペックを持つ。 第22幕にて、徐桓と組んで敷設隊として初陣。 張斉(チョウセイ) 第22幕で紀霊が連れてきた抜擢。素質は典型的な武官で、神奈子が神の指導で鍛えることになる。 第24幕で正式配属となり、そのまま阜陵港の救援に向かう。 政治以外80以上の良将で、丁奉閣下の高知力バージョンといったところ。うp主に神の指導は狂いはないと言わしめた。 野戦兵法は少し寂しいが、弓の腕はピカイチで、レアスキルの象兵まで所持しており、攻城・防衛での活躍が期待される。 紙芝居では礼儀正しく、かつ内に熱い物を秘めた好青年で、神奈子様への信仰がかなり深い。 元神奈子軍の兵士だったのかもしれない。 弓の扱いに長ける陶璜をして、扱いが難しい大弓を引く膂力を持つと言わしめた。 第25幕の山越攻略戦では、攻城部隊の指揮官として隊を率い、山越を守っていた陶濬、妖夢らと激しい連弩合戦を繰り広げる。 武紀(ブキ) 軟国朝忠義校尉(校尉筆頭)。 第32幕で神奈子が連れてきて、諏訪子が指導を担当した。(ある意味)神に祝福された抜擢。 統率、武力は80を超え、政治・知力も70前後という良将。うp主に「やはり神様の指導に狂いはない」と言わしめた。 兵法も突出したものはないが、攻城兵法以外は一通り身につけており、どんな場面にも対応できる万能抜擢である。 特に策略兵法の「妖術」が輝いている。 東方キャラ総出演の動画だけあって、「妖術」と書いてスペルカードと読むので注意。 ちなみに、指導中に庭で妖術を披露した為に、庭は見事に穴だらけ。傍で見ていた亞莎の胃を痛める原因となった。 「張斉に負けていられない」と、張斉にライバル心を燃やしている模様。 龐門(ホウモン) 軟国朝鎮東将軍(四鎮将軍筆頭、武官のNo.9) 第37幕で上記抜擢の謝如玉が紹介し、レミリアが指導担当となった。うp主曰く「ま た 脳 筋 か !」。 チートの香りのする素質を持ち、鬼神と言われた謝如玉をして、統率「抜群」武力「傑出」と評価せしめた。 途中結果では平凡が並ぶなど、レミリア逆補正が出てしまったか?とうp主を心配させたが、 指導の甲斐あって、「突撃」「象兵」「罵声」などを次々と覚えていく。 終わってみれば驚異の「武力100」。統率も85という魔神が誕生してしまった。 師曰く『運命に愛され、運命を紡ぐ男』。「レミリアは間違いなく名教師」とうp主も絶賛。 今後の鬼神・魔神コンビでの活躍を期待されている。 性格は武に焦がれ、その高みを目指す武人っぽい様子。 柴桑出身と紙芝居で出てることから、放射能ならぬ瘴気によってできた突然変異なのかと筆者は邪推する。 生きてきた環境、カンストした武力、そしてレミリアを”我が主”と呼び慕う姿はある武将を連想させる。 また、同フェイスの某銀色がフランドールの弟子であったことも何らかの因縁を感じさせるところ。 その所為か、そのある武将との共通点の多さからいろいろな意味で「マジンガー」と呼ばれている。 ちなみに、指導途中でレミリアに惚れている事からロリコン疑惑があるが、彼の性格を鑑みた場合、 張斉が神奈子様を、武紀が諏訪子様を信仰しているように、彼もまたレミリアを信仰していると言う見方も出来る。 そしてつい最近、大百科に個別項目が作成された。⇒大百科項目 『龐門』 潘薇(ハンビ) 謝旌が連れてきて、さとりが指導した抜擢。中幕其の弐で紹介された。 能力的には、統率・知力が70台の凡将とのこと。 ただし、兵法は結構揃っているので、副将として活躍できると思われる。 第46幕にて、性格は女版ジョカンであることが判明した。 孔玉玲(コウギョクレイ) 軟国朝征西将軍(武官のNo.7)。 第46幕でセイバーが連れてきて、そのまま指導も担当する。 荊州生まれの元八雲軍所属で、舞踏によって兵の動きを統率していたらしい。 素質は統率と政治方面が期待できて、ようやく脳筋以外の抜擢が来たと、うp主も大喜び。 ……かと思ったら、いきなり奮迅・奮戦を教える騎士王。一方で、教唆の知識なども授けた。 他にも馬術や斉射、造営系を習得して、一回も失敗することなく指導を終了する。 その結果、統率99、政治93の文武両道エリートとなった。ちなみに武力も79ある。 生まれが違っていたら、円卓の中にいたかもしれない人物である。 セイバーからは、鬼神謝如玉・魔神龐門に並び立つ武将と認められ、”軍神”の二つ名を与えられた。 かくして、ここに北郷三戦神が誕生した。 顔儀(ガンギ) 軟国朝少府(九卿)。 第65幕にて限界突破してダウン中のレミリアの容態の悪化を阻止したことからレミリアが推挙、穏(陸遜)が指導した抜擢。 連れてきたレミリアが知力の高くないにもかかわらず、素質が知力特化の為、当初はあまり期待はしてなかった。 …と思いきや、いきなり教唆を覚え、知力がずば抜けてるかと期待させた。 更には水軍コンプ、鼓舞に治療に混乱に心攻と立て続けに兵法を習得(この時穏も治療と心攻を習得)。 途中旅に出たものの次のターンには帰還して、〆には石兵を習得と、終始知力重視の兵法を習得した結果… 統率83、知力96、初期から兵法全系統持ちという”賢神”が誕生した。孫武の再来である。 ちなみに指導途中に穏に惚れてしまっている。…乳にやられたか。それもまた運命よ。 かくして、北郷三戦神は北郷四神へと進化したのであった。 華松(カショウ) 軟国朝威北将軍。 第76幕にてマジンガーこと龐門に見出された元龐門隊の副隊長。 龐門視点で武力素質が抜群とあり、龐門推挙なら紅魔軍閥だろうと言う事でフランドールに指導を任せる。 指導開始直後から行き成り奮迅を習得し、立て続けに突撃と飛射も習得したワンマンアーミー。何故か石兵なんかも習得。 また、指導途中にフランドールに惚れた。上司が姉に惚れ、その副官が妹に惚れるとは中々因果なものがある。 指導後のステータスは統率68、武力99、知力66、政治56。龐門や謝如玉に並ぶ明らかな武力特化型に成長した。 兵法は前述の通り、歩兵騎兵弓騎兵法の上級持ち。内歩兵はコンプしており、歩兵と弓騎の熟練は600に迫る。 何気に罠破も覚えた上で知識熟練も300を超えており、育て方によっては教唆まで覚えたかもしれない逸材である。 こんなバケモノが身近に居たとは流石の龐門も思わなかったらしい。北郷五虎大将軍最後の一人に相応しい猛将。 董謙(トウケン) 軟国朝武庫令を務める。 第80幕にて軍神・孔玉玲が雲南巡回中に発見、その時の孔玉玲の質問にもほぼ完璧な答えを出したことから推挙される。指導者は丁奉閣下。 孔玉玲視点にして全能力抜群とは新手のCPU暴走にも見える。 指導開始の次のターンに国帰りイベントが起き、3ターン経ってやっと戻ってきた。 さらに途中経過は平均的に伸びつつも不振のようで、習得兵法も奮戦、奮闘、楼船、斉射、衝車と珍しく上級兵法無しの凡将になってしまったかと思いきや、 出来上がったのは統率88、武力89、知力83、政治78というプチ曹操。平均能力値も孔玉玲より上で抜擢TOPに。 気になる兵法も、実は最初から突撃と闘艦持ちでどちらも熟練度600に迫り、他にも教唆を除く知識兵法習得済み。 まさか軟国中央の民間就労者第1号が”南蛮の騎馬名手”だとはだれが思ったであろうか。 そして指導者が閣下なだけに気質も移ったらしく、北郷の胃薬のタネがまたひとつ増えた模様。 雍薇(ヨウビ) 第92幕でパチュリーが連れて来た女性武将で、北郷が指導を担当。 知力以外に有望株がなく、久々の凡人かと思いきや、最初の指導で策略系兵法を全て習得。またしてもチートの予感。 しかし、その後は指導が北郷と言う事もあって伸び悩み、最終的には知力81を最高に、良くいる普通の文官系に成長した。 ――と思いきや、策略系兵法の熟練度が初期から828もあり、うp主や多くの視聴者を松田○作させた。知力81で治療・妖術持ちは 十分第一線を張れる実力であり、さすがの軟国抜擢クオリティである。 性格的には弁が立ち、時々思い切り毒を吐く癖があるものの、パチュリー相手にも堂々と議論を行うだけの胆力と知識を持ち合わせており、 いろんな意味で皇帝と宰相を慌てさせた。 [部分編集] 他勢力の武将 + 元八雲軍 八雲紫(出典:東方Project) 元八雲軍君主。滅亡後、北郷軍に降らず姿を消す。 四季映姫(出典:東方Project) 元八雲軍所属。滅亡後、北郷軍に降らず姿を消す。 博麗霊夢(出典:東方Project) 元八雲軍所属。滅亡後、北郷軍に降らず姿を消す。 彼女自身に何らかの異変が起こっているようである。 + 元レナス軍 レナス・ヴァルキュリア(出典:ヴァルキリープロファイル) 元レナス軍君主。軍を北郷軍に帰順させた後、この世界の情報を調べるため姿を消す。 フレイ(出典:ヴァルキリープロファイル) 元レナス軍所属。軍の北郷軍帰順の旨を伝えた後、レナスと同様にこの世界の情報を調べるため姿を消す。 ブラムス(出典:ヴァルキリープロファイル) 元レナス軍所属。レナス、フレイと同様にこの世界の情報を調べるため姿を消す。 + 言峰軍 言峰綺礼(出典:Fateシリーズ) 言峰軍君主。 レザード・ヴァレス(出典:ヴァルキリープロファイル) 言峰軍所属。軍師でもある。 ルカ・ブライト(出典:幻想水滸伝2) 言峰軍所属。曹彰軍に出向中。 極めて凶猛かつ暴虐な人物で、傍若無人の振る舞いを見せているが、 言峰軍をバックに持つため、君主の曹彰でさえ逆らえないでいる。 チルノ(出典:東方Project) 元陶濬軍武将。大妖精とは離れ離れになっている。 第82幕で姿を現すものの所在が分からなかったが、88幕でついに所属が確認された。 右将軍+氷帝モード覚醒中。 少佐(出典:HELLSING) 第90幕での「この”北海”に…」発言から言峰軍所属と思われる(この頃の北海やその付近は言峰の領土)。 シュレーディンガー准尉(出典:HELLSING) 少佐と共に第90幕にて登場。 リップヴァーン・ウィンクル中尉(出典:HELLSING) 少佐と共に第90幕にて登場。 + 孫策軍 孫策/真名「雪蓮」(出典:真・恋姫無双) 孫策軍君主。 周瑜/真名「冥琳」(出典:真・恋姫無双) 孫策軍軍師。 蓬莱山輝夜(出典:東方Project) 孫策軍所属。 永琳とは合流出来てるようだが様子がおかしいらしい。
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/403.html
唐書巻二百二十四下 列伝第一百四十九下 叛臣下 李忠臣 喬琳 高駢 朱玫 王行瑜 陳敬瑄 李巨川 李忠臣は、もとは董秦といい、幽州薊の人である。幼い頃から軍籍にあり、自身の力によって奮闘し、節度使の薛楚玉・張守珪・安禄山らに仕え、功績を積んで折衝郎将となる。平盧軍先鋒使の劉正臣が偽節度使の呂知誨を殺すと、秦は兵馬使に抜擢され、長楊を攻め、独山で戦い、楡関・北平を襲撃して、賊将の申子貢・栄先欽を殺し、周釗を捕らえて京師に送った。劉正臣に従って難に赴き、また李帰仁・李咸・白秀芝らを破った。潼関は陥落し、秦は軍を集結して北に還った。奚王の阿篤孤ははじめ衆を率いて劉正臣と合流したが、すでに約束をあざむいて皆范陽を攻撃し、后城に至り、夜間に乗じて秦を襲撃したが、秦は接戦してこれを破り、逃げる敵を追撃して温泉山に至り、首領の阿布離を捕虜とし、斬って犠牲として捧げた。至徳二載(757)、節度使の王玄志は秦をして兵三千を率いさせ、雍奴より葦船で海を渡り、賊将の石帝廷・烏承洽を攻撃し、転戦すること数日、魯城・河間・景城を陥落させ、糧食・軍費を収めて軍を実らせた。また田神功とともに平原・楽安に下り、偽刺史を捕虜として献上した。ここにおいて防河招討使の李銑承は制して秦を任じて徳州刺史とした。 史思明が自ら帰順すると、河南節度使の張鎬は秦の軍を率いて諸将と平河南州県で合流し、副将の陽恵元とともに安慶緒の将の王福徳を舒舎で破り、粛宗は詔を下して褒め称えた。濮州も駐屯させ、また韋城に移った。郭子儀に従って相州を包囲したが、軍は潰滅し、秦は滎陽に至って、賊将の敬釭を破り、食料運輸舟二百艘を鹵簿して汴軍の兵糧とした。しばらくもしないうちに、濮州刺史を授けられ、杏園渡に駐屯した。許叔冀が汴州とともに史思明に降伏し、秦も力を尽くしたものの屈し、また降伏した。史思明は背を撫でて、「始めて私に我が左手ができた。公を得て今完全となった!」と言った。ともに河陽に侵攻したが、秦は夜に五百人を率いて包囲をおかして李光弼に帰順し、詔して殿中監を加えられ、封戸二百となり、召喚されて京師に赴き、今の氏名を賜り、良馬・甲冑を賜った。当時、陝西・神策両節度使の郭英乂・衛伯玉が陝州に駐屯しており、そのため李忠臣を両軍兵馬使として、永寧・莎柵で戦い、賊将の李感義らと数十回戦ったが、すべて破った。淮西節度使の王仲昇は賊のために捕虜となると、忠臣は汝州・仙州・蔡州などの六州節度使となり、安州を兼任した。諸軍平東都を合わせ、御史大夫に進んだ。 回紇可汗が帰還すると、その部下の安恪・石帝廷を留めて河陽に居らせて宝蔵を守らせ、これによって亡命して盗賊となる事態を招いてしまい、道路は塞がれた。忠臣に詔してこれを討伐させた。吐蕃が京師を侵犯すると、天子は兵を出して追撃させようとした。秦(李忠臣)はまさに鞠場で宴しようとしているときに使者が至り、そこで軍を整えて出撃した。諸将は、「出撃は吉日を選ぶべきです」と言ったが、忠臣は怒って、「君父に難があるのに、まさに日を選んで患いから救えるのか?」と言った。当時、兵を招集したが、忠臣より先に来た者はいなかった。代宗は喜び、本道観察使を加え、賜物は非常に多かった。 周智光が部下に殺されると、忠臣は兵を率いて華州に侵入し、通過したところを大掠奪し、赤水より潼関までの二百里は無人となった。大暦五年(770)蔡州刺史を加えられた。陝虢の李国清が部下のために追われ、府庫が掠奪されると、李国清はもっぱら反した諸将に辞を低くして免れた。たまたま忠臣が入朝しようとし、陝州に至ると、衆を尋問するよう詔があった。衆は忠臣を恐れ敢えて刺激せず、そこで茨で囲んで、兵士らに約束して掠奪した物を囲んだ中に投げさせると、一日でほとんどを得た。 李霊耀を討とうと、西梁固で戦ってこれを破った。また馬燧の軍と合流して、賊を汴州で破った。田悦が李霊耀への援軍三万をもって汴郛に駐屯すると、忠臣は副将の李重倩を率いて夜に百騎で襲撃し、その軍営を蹂躙して帰還し、数百数十人を殺した。田悦が間道から逃げると、李霊耀は開城して逃げ去り、軍は遂に潰滅した。忠臣を汴州刺史とし、検校司空・同中書門下平章事を加え、西平郡王に封じられた。 忠臣の性格は貪欲かつ好色で、将兵の婦女が迫られて関係を結ばされ、至る所の人々がこれに苦しんだ。妹婿の張恵光を用いて牙将としていたが、勢力を恃んで残酷であった。ある者が忠臣に告げたが信じることがなかった。また張恵光の子を牙将としたが、ますます専横がひどかった。大暦十四年(779)、大将の李希烈は張父子の専横に軍が怒っていることから、少将の丁暠・賈子華らとともに張恵光父子を斬り、兵で脅して忠臣を追放した。京師に逃げ、帝はもとよりこれを寵愛して責めることはなかった。また検校司空・同中書門下平章事(宰相)を授け、帝に謁見した。 徳宗が即位すると散騎常侍の張渉が贈賄によって罪を得て、帝は怒って赦さなかった。張渉はもと徳宗の東宮時代の侍読であったから、忠臣は、「陛下は貴く天子となられましたが、先生は貧しいから法に触れました。やりすぎではありませんか」と言い、帝は意を理解し、張渉を許して田里に帰らせた。湖南観察使の辛京杲は私怨のため部下に張渉を殺させた。役人は弾劾して死罪にあたると言った。忠臣は、「辛京杲はただちに死ななければならない」と言った。帝がその理由を聞くと、「辛京杲の父はどこそこで戦死し、兄弟もどこそこで戦死しましたが、彼一人だけが生きながらえています。だからなのです」と答えたから、帝は悲しみに沈んで悟り、辛京杲を許して王傅の官職を除いた。 忠臣は馬鹿正直で書物に通じていないから、帝はかつて、「卿の耳は大きいが、真に貴い兆しだな」と言うと、「臣は驢馬の耳は大きく、龍の耳は小さいと聞いています」と答えたから、帝はその粗野でありながら至誠であるのを喜んだ。しかしすでに兵を失い、気持ちが塞いであれこれ顧みなかった。朱泚が叛くと、朱泚によって偽の司空兼侍中に任命され、朱泚が奉天を攻めている間、忠臣は長安を守った。朱泚が敗れると、役人に拘束され、その子と共に斬られた。 喬琳は、并州太原の人である。幼い頃から身寄りもなく苦労したが学を志し、進士に及第した。性格は作法なくほしいままにしていた。郭子儀が上表して朔方府掌書記となったが、 畢曜と家が隣通しで罵りあい、巴州司戸参軍に左遷された。果州・綿州・遂州・懐州の四州の刺史を経て、おおらかに統治し、私にすることはなかった。かつて録事参軍の任紹業に「あなたは一州を綱紀するのに、刺史たる私を弾劾できますか?」と言うと、任紹業は琳の過失の条文を出して提示した。驚いて、「あなたはよく私の過失を知っていますね。御史となるべき人材です」と言った。 琳はもとより蒲州の人張渉と親しかった。張渉は国子博士で太子の侍読となり、太子が即位すると、召されて政務を尋ねられた。数日もしないうちに、詔して翰林に入り、散騎常侍に移り、琳を宰相に任じるよう推薦したから、そこで御史大夫・同中書門下平章事(宰相)を拝し、天下は愕然とした。琳は年老いてかつ耳が聞こえなかったから、奏進するごとに失態を重ね、言上することは帝の意思にかなわななかったから、在任八十日で工部尚書に転任となって宰相を罷免された。帝はそのため張渉も罷免した。 琳は徳宗の奉天への行幸に従い、再び太子少師となった。梁州、次に盩厔に行幸していたが、詭いて馬が殆んど進まないと言った。帝はもとより旧老として礼遇していたから、輿馬に乗ることを許したが、病のため働けないとして辞退し、帝は執策を賜って、そこには「勉めて良きはかりごとをしなさい。卿と別れるのだ!」と書いてあった。数日もしないうちに、剃髪して仙遊寺に留まった。朱泚がこれを聞くと、数十騎を遣わして琳を捕らえ、吏部尚書に任じて、姻家の源休をして衣を朝服に着替えさせ、肉を食べさせ、琳もまた辞退しなかった。士が官に人選が穏便ではないと申したが、琳は「お前はそもそも人選が穏便だと思っていたのか?」と言った。京師が回復すると、李晟は琳が老人なのを憐れんで、上表して死を免れるよう願った。帝は、「琳はもと宰相であったのに、節を失い義に叛いた。赦してはならない」と言った。琳は刑に臨んで、「私は七月七日に生まれ、この日を以て死ぬ。天命ではないのか?」と嘆いた。 当時、また蒋鎮なる者がいて、蒋洌の子であり、兄の蒋錬とともに文辞で有名であった。賢良方正科に抜擢され、諫議大夫に累進した。大暦年間(766-779)、長雨のため黄河が決壊して塩池に注いでしまい、味がまずくなってしまった。韓滉は判度支であり、塩税が減ることを考慮して、池に瑞塩が生え、王徳の美祥であると妄言した。代宗は疑っていて、そうではないと思っていたから、鎮に命じて駅伝で馳せて査察させた。鎮は心内では韓滉との結びつきを求めており、そのためそ事実であるとし、上表して祠を設置し、池を「宝応霊慶」と名付けたという。再び工部侍郎に昇進した。妹婿の源溥は、源休の弟であり、そのため鎮と源休は交流があった。朱泚が叛くと、鄠州に逃げたが、足に怪我をして進むことができなかった。朱泚は先んじて兄の蒋錬を得て、鎮の左右の者は逃げ帰り、所在を語った。源休は聞いて朱泚に言い、二百騎で捜索して鎮を求め得た。知っていても免れず、懐に刃をしのばせ自ら刺そうとしたが、兄の蒋錬に止められた。また出奔しようと謀ったが、臆病のため決行しなかった。朝臣で逃げ隠れした者は、源休によって多数が誅殺され、鎮を頼って救いを求めた者は十五人にのぼった。それより以前、蒋洌と弟の蒋渙は安史の乱にあって、皆偽朝の官に汚れ、蒋錬・蒋鎮兄弟もまた節を賊に屈したという。 高駢は、字は千里で、南平郡王高崇文の孫である。家は代々宮中を守り、幼い頃から大変に行いを正して身を慎み、時折文学をなし、諸儒と交わり、かたくなに治道を語り、両軍の中人はさらに称えてこれを褒めた。朱叔明に仕えて司馬となった。二羽の鵰(鷲)が並んで飛んでいたが、駢は、「我が高貴となるのなら、当たれ」と言うと、一発で二匹の鵰を貫いた。衆は大いに驚き、「落鵰侍御」と呼んだ。後に右神策軍都虞候を歴任した。党項が叛くと、禁兵一万人を率いて長武を守った。この時諸将に功績がなく、ただ駢がしばしば奇策を用いたから、敵を殺したり捕虜とするのが非常に多かった。懿宗は喜び、移して秦州に駐屯させ、そこで刺史兼防禦使を拝した。河州・渭州の二州を取り、鳳林関に侵攻して、降伏した敵一万人あまりを得た。 咸通年間(860-874)、帝はまさに安南を回復しようとし、駢を都護とし、京師に召喚し、霊台殿で謁見した。ここに容管経略使の張茵は討賊しなかったから、さらに張茵の兵を駢に授けた。駢は長江を過ぎ、監軍の李維周と合流して引き続き前進した。李維周は軍を擁して海門に立て籠もり、駢は峰州に行き、大きに南詔蛮を破り、獲たところを軍に供給したが、李維周はこれを嫌って、戦勝報告を隠蔽して奏上しなかった。朝廷は駢の百日あまりの状況がわからず、詔して状況を問いただした。李維周は駢が敵を弄んで進まないと弾劾し、さらに右武衛将軍の王晏権に命じて往かせて駢に代わらせようとした。にわかに駢が安南を陥落させ、蛮帥の段酋遷を斬り、諸洞二万人ばかりを降伏・帰順させた。王晏権は李維周とともに海門を発し、駢に激励して北に帰った。しかし駢は王恵賛を遣わして酋遷の首を京師に伝えさせたが、軍船を見るととても盛んであり、そのため王晏権らは、王恵賛がその書を奪うことを恐れ、島中に隠した。関を通って京師に至った。天子は書を見て、宣政殿に御して群臣は皆祝賀し、天下に大赦した。駢を昇進させて検校刑部尚書とし、そこで安南を統治させ、都護府を静海軍とし、駢に節度使、兼諸道行営招討使を授けた。はじめ安南城を築いた。安南より広州まで、江の送漕は険しく、巨石が多かったから、駢は工を募って工事して削り、これによって舟は安全に航行でき、兵糧の給付できた。また使者が毎年来たが、そこで道を五所掘り、兵を置いて護送した。その道に青石があり、あるいは馬援が統治することができない地だと言ったと伝えられていた。攻略が完了すると、落雷のためその石が砕かれた。そこで通行させて、そのため道を名付けて「天威」としたといわれる。検校尚書右僕射を詔した。 駢の戦い方は、その従孫の高潯が常に先鋒となり、矢石の中に危険をおかして兵士を励ましていた。駢が天平節度使に移ると、潯を自らの代わりに推薦し、詔して交州節度使を拝した。僖宗が即位すると、その軍に同中書門下平章事の官職を加えられた。 南詔が巂州に侵攻し、成都を掠奪すると、駢をうつして剣南西川節度とし、伝馬に乗って軍が到着した。剣門にいたると、開城を命じ、自由に民に出入させた。左右の者が諫めて、「敵が近くにいるから大掠奪から脱するには侮ってはなりません」と言ったが、駢は、「私に属して安南にあって賊を破ること三十万人、驃信(南詔王)は私が来ると聞けば、なおあえて邪な心を抱くだろうか」と言った。この時にあたって蛮は雅州を攻め、盧山に立て籠もったが、駢が来ることを聞き、しばらくして包囲を解いて去った。駢はそこで驃信に触文し、兵を整えてこれを従わせた。驃信は大いに恐れ、人質の子を送って入朝し、侵攻しないことを約束した。 蜀に突将というのがあり、左右二廂に分かれ、廂には虞候があり、火をともして盗賊を防いだ。兵馬虞候というのがあり、調発を主任務とした。駢はそのうちの一つをやめ、それぞれ一虞候を置いた。また蜀兵が弱いから、南詔が新たに定まると、人々は未だに安業しなかったから、突将に月給や食費の給付をやめ、「府庫が補充されたら、ただちに元通りにする」と約束した。また熟練兵には衣や給与を厚くし、未熟兵はただ文書や倉庫を司らせ、衣や給与は減した。駢は、「皆王の兵士であり、命は均しいのだ」と言ったから、兵士は戦いを大いに望んだ。その時、天平・昭義・義成の衛軍は蜀兵と合わせて六万におよんだ。駢は自ら将となって駐屯地から出ると、突将が暴動し、門に乗じて入ってきたが、駢は便所にかくまわれ、探したが発見できなかった。天平軍は兵乱を聞き、その校の張桀は兵士五百人で接近戦をしたが勝てなかった。監軍はこれを慰撫すると、皆が、「州は蛮乱があったのに、戸数は元通りであるし、府庫はまさに充実しており、公が軍の給与を削減して自らを養うのに、虐げられるに堪えられなかったから、乱を起こしたのだ」と言い、監軍は畏れて、説得して解散させた。役夫数百人を叛卒ということにして、かこつけてその首を斬って、平定した。駢はおもむろに出て来て、金帛で厚く兵士に褒賞し、府庫を開いてことごとくその衣や給与を返還した。しかし密かに給した者の姓名を記録し、夜に牙将を遣わしてこれを撃ち殺し、その一族を殺し、妊婦であっても許さず、死体は河に投棄した。一人の婦人がまさにうずくまって子に乳を与えようとしていたが、刑に服するとき、老婆はこれに心を痛め、死を恐れていると思って、「子を私に預けなさい。一度役所に嘆願してみましょう」と言ったが、婦は立ち上がって、「私はわかってはいますが、我が子をお腹いっぱいにするには、飢えのために殺人させるようなことがあってはならないのです」と言った。刑を見る者は拝んで、「どうして節度使は戦士の食を奪うようなことがあって、一日怒って、不当な刑罰をほしいままにしている。国家の法令はどこにあるのか?私が死んで天に訴え、この賊の門閥を今日の冤罪のようにしてやる!」と言った。死にあたって、顔色は落ち着いていた。蜀の人で聞く者は涙を流した。駢はまた突将で辺境防衛から帰還した者は、名を書いて丸めて器の中に貯め、心が病んだ時に探して、ある時は十人、またある時は五人と、将の李敬全に授けて斬刑に処した。親しい役人の王殷が駢に、「突将で行いがある者は、初めは謀を知りません。公はただちに赦すべきです」と説いたから、駢は喜び、名を書いて丸めたのを池中に投棄したから、人はそこで安心した。 蜀の風土は過酷で、成都城は年々壊れていったから、駢は塼甓(煉瓦)を交換して城墻を新しくし、城の背後の丘陵をすべて開墾して平地とし、農耕・養桑の便とした。開発が終わると、これを占い、「大畜」を得た。駢は、「畜というのは、養である。たすけるに剛健篤実の徳があって、光輝き日に日に新たになる(『易経』大畜)。吉はどうして大だろうか。文はよろしく下を取り去って上を残せ」と言い、よって大玄城と名付けた。検校司徒に進み、燕国公に封じられ、荊南節度使に移った。 梁纘なる者は、もとは昭義軍の西の辺境兵をもって、駢は上表して麾下に隷属させた。王仙芝が敗れると、残党は長江を通過した。帝は駢が鄆州を統治して威化が大いに行われており、かつ王仙芝の党が皆鄆州人であったから、そこで駢に鎮海節度使を授けた。駢は将の張潾と梁纘を遣わし兵を分けて追撃し、その驍帥の畢師鐸ら数十人を降伏させ、賊は嶺表に逃げた。帝はその功をよしとし、諸道行営都統・塩鉄転運等使を加えられた。また駢に詔して官軍義営郷団を領させ、その老弱傷夷兵を帰し、軍食を裁き定めた。刺史以下は微罪でもたちまち罰せられ、大罪は上奏された。賊はさらに黄巣を推して南は広州を陥落させたから、駢は張潾を遣わして兵五千人をもって郴州に駐屯して賊を西路に封じ込め、留後の王重任を兵八千をもって海路、循州・潮州に援軍となり、自身は一万人の将となり、大庾より賊を広州で攻撃し、かつ荊南の王鐸より兵三万人を請うて桂州・永州に立て籠もり、邕管の兵五千人で端州に立て籠もり、そこで賊は類を残すことがなかった。帝はその策を受け入れたが、駢はついに行かなかった。 にわかに淮南節度副大使に移された。駢は城塁の補修を完成させ、募軍を地元やそれ以外の地から募集し、精鋭の兵士七万人を得て、そこで檄文を伝えて天下兵を召し共に賊を討ち、威は一時に震い、天子は頼って重んじた。広明年間(880-881)初頭、張潾は賊を大雲倉で破り、黄巣は降伏を偽った。黄巣は不意をついて急襲し、遂に大いに逃走し、残党を率いて上饒に立て籠もったが、しかし軍はほとんど全滅しそうになっていた。たまたま疫病がはやり、人々は死亡したから、張潾は進軍してこれを攻撃した。黄巣は大いに恐れ、金で張潾に諂い、書簡を駢に送り、帰順を願い出た。駢は信じ、許して節度使となるよう朝廷に求めた。この時、昭義・武寧・義武軍の兵数万が淮南に赴いていたが、駢は功績を独占しようとし、賊をすでに破ったから大兵は必要ないと上奏した。詔があって軍を帰還させた。黄巣は兵が引き上げたのを知って、そこで駢との交際を絶って戦いを求め、攻撃して張潾を殺し、勝利に乗じて長江を渡って天長を攻撃した。 それより以前、黄巣は広州にいたとき、天平節度使とするよう要求したが、宰相の盧攜は駢と親しく、賊を討伐して功績としたかったから、黄巣を赦すことを聞き入れなかったが、鄭畋と朝廷で争うこととなり、そのため黄巣は節度使となれなかったことを恨んだ。しかし駢は朝議が一致しないことを聞き、また平定に動かず、ここにいたって、賊のしたい放題にさせて朝廷を恐れおののかせ、その後に功を立てようと思った。畢師鐸が諫めて、「朝廷が頼みとしているのは、公の他に誰がいますか。賊を要害に閉じ込め、淮南の先に進ませてはなりません。今、要衝によって賊を滅ぼさず、北に渡河させてしまえば、必ずや中原は乱れるでしょう」と言ったから、駢は驚き、まさに出陣しようと下令した。寵将の呂用之は畢師鐸が功績をあげてしまうのを恐れて、諫めて、「公の勲功は極めて大きいものがありますが、賊はいまだに滅んでおらず、朝廷は口出ししてきます。ましてや賊が平定されたら、主の威を指導され、どうして落ち着くところなんてありましょうか。戦い合うのを傍観して福を求め、財産を費やさないに越したことはないのです」と言ったから、駢はその意見を入れて、病と称して駐屯地から出させず、兵を厳にして境界を保った。黄巣が滁州・和州を根拠地とすると、広陵からわずか数百里の地にあったから、そこで陳許節度使に援軍を求めた。 黄巣が揚州に迫り、軍勢は十五万にも及んだ。駢の将の曹全晸は兵五千を率いて戦ったが不利で、泗州に立て籠もって援軍を待ったが、駢は兵をついに出さなかった。賊は北の河南・洛陽に迫り、天子は使者を派遣して駢に賊を討伐するよう促し、使者が続々と送り出されていった。にわかに両京(洛陽・長安)が陥落し、天子はそれでもなお駢が功を立てることを願い、思いをかけることは衰えず、刺史で諸将のように功績がある者に詔して、監察御史より常侍にいたるまで、墨制を許して任命・叙位を行った。ついで検校太尉、東面都統、京西・京北神策軍諸道兵馬等使に昇進した。たまたま二羽の雉が役所で寝るということがあり、占い師が、「軍府がまさに空になるだろう」と言ったから、駢はこれを嫌って、ことごとく兵を出して東塘に駐屯させ、舟二千艘、矛や鎧は完備し、毎日金鼓を打って兵の士気は高かった。浙西節度使の周宝と檄し、ともに西に援軍しようと言うと、周宝は大いに喜んだ。ある者が周宝に向かって、「彼は江東を併合して孫策三分の計をしようとしています」と言ったが、周宝は信じなかった。にわかに駢が周宝に軍議の事を願ったため、周宝は怒り、病と称して出なかった。仲たがいしてついに事を構えた。駢は東塘に駐屯すること百日、周宝および浙東の劉漢宏を口実にしたが、まさに不利になろうとして帰還し、その変に応じた。 帝は駢に出兵の意思がないことを知り、天下はますます危うくなった。そこで王鐸を代わって都統に任命し、崔安潜を副将とした。韋昭度に詔して諸道塩鉄転運使に任じ、駢を侍中に加え、実戸一百を増加し、渤海郡王に封じた。駢は兵権・利権を失い、腕まくりして大いに罵り、そこで上書して傲慢な言葉を述べて慎まず、王鐸を謗って敗軍の将で、崔安潜は狼のように貪欲で、物事が破れ乱れるようであり、千古の悔いを残すとした。また更始帝がひれ伏したことや、子嬰が軹道で降伏した事を述べたから、帝は激怒し、詔を下して譴責した。この時、王室は衰え、かろうじて絶えていないことは帯の細さのようであった。駢は都統の任にあること三年、一尺一寸とての功績もなく、国のために行ったことはとっさのことで、大いに兵を領し、密かに割拠を謀ったが、一旦勢を失えば、威望はにわかに尽き、そのためほしいままに醜態をさらし、脅して天子を迎え、またもとの権力を得ることを願った。呉人の顧雲が文辞によって邪まなところを輝かせたから、やすらかで恐れることはなかった。また帝が南は江淮に行幸することを願った。たまたま賊が平定され、駢は聞いて、気持ちが縮こまって恨みを抱き、部下の多くが叛いて去り、鬱鬱として無聊で、そこで篤く意を神託を用い、これを軍事に用いた。 呂用之は、鄱陽の人であり、代々商売を行っており、広陵を往来し、商売を楽しんでいた。すでに身寄りがなく、舅の家に住んでいたが、その夫人と密通したため、九華山に亡命し、方士の牛弘徽に仕え、鬼術を操ることができ、薬を広陵の市に売った。始め駢の親将の兪公楚に詣でて、その術に験があり、そのため駢に謁見することができ、幕府に任命され、しばらくして右職に補された。呂用之はすでに幼い頃は賎しい身分であり、詳細に村々の益と害、官吏の良し悪しをしっており、大いに明らかに政事を言い、まさに誤った道に導こうとして、駢はいよいよこれを人物の器とした。そこで広く朋党をたて、駢の動息を知り、金銭でその左右と結託し、日々むやみでたらめをして駢を動かした。また狂人の諸葛殷・張守一を推薦して長生きの方術をなし、二人とも牙将に任命された。それより以前、諸葛殷はまさに引見しようとして、呂用之は欺いて、「上帝は公を人臣としました、思うに機会は広かったりなかったりと運命によるもので、神人をして羽翼を備えたものが来て、かつまさに職を以て繋ぐでしょう」と言い、翌日、諸葛殷は粗末な衣服で引見し、言葉巧みに偽りを述べること果てしなく、駢は大いに驚き、「葛将軍」と号した。その陰険狡猾なことは呂用之をはるかに超えていた。大商人の邸宅で華麗かつ荘厳なのがあったが、諸葛殷は求めても得られなかった。駢に、「城中にまさに妖が興ろうとしています。ただちに壇を築いてお祓いすべきです」と言い、そこで大商人の邸宅を指し示した。駢は官吏に命じて即日移動させて、諸葛殷は入居した。 駢は仙人らを迎えるための楼を造営し、皆高さ八十尺で、装飾は金・宝石・真珠・玉で飾り、侍女は羽衣を着て、音楽は新たな調性で曲声を合わせ、上帝の住まう鈞天になぞらえ、香はその上に祀り、祈りは仙と接した。呂用之は自らを昇仙得道の人と通じていると言い、駢に答えて風雨を叱咤し、あるいは空を見上げて礼拝し、言葉は軽薄で田舎じみており、左右の者が密かに謀議するとたちまち殺したから、後には敢えて口に出す者はいなくなった。蕭勝が呂用之に賄賂を贈り、塩城監に任命されることを求めたが、駢は承諾しなかった。呂用之は、「仙人は塩城に宝剣があると言ってます。ただちに真人が取らなければなりません。ただあえて行かなければなりません」と言い、駢は許諾した。数か月して蕭勝が銅の匕首を献上してきて、呂用之は、「これは北帝が佩刀したものです。これを得る者は、兵があえて侵犯することはありません」と言い、駢は秘蔵した。常に日常で持っていた。呂用之はその術を憚って追い詰められ、かつ詰問されたから、そこで青石の板に龍蛇を陽刻して、文に、「帝が駢に賜う」と書いて、人に秘かに机の上に置かせ、駢はこれを得て大いに喜んだ。鵠が廷中に寓したから、乗り物を作って人に触を出して飛ぼうとし、駢は羽服を着て、これに乗って仙界に飛び去ろうとした。呂用之はそのでたらめが暴かれることを恐れて、そこで、「仙人はただちに降りてくるでしょうが、ただ学者の真家に阻害されているのが患いとなっているだけなのです」と言ったから、駢は世間の事を捨て、妾や端女を遠ざけ、将吏であっても謁見できなかった。客が来ると、まず香で沐浴させ、方士に詣でてお祓いさせ、これを「解穢」といい、しばらくして元の場所に退かさせた。これより内外の者は敢えて言う者はいなくなり、ただ梁纘だけがしばしば駢に言ったが、駢は聞かなかった。梁纘は恐れて、率いた兵を解散し、駢はその軍を昭義に帰し、梁纘は二度と仕えることはなかった。 呂用之はすでに自信があり、みだりに刑罰に処したり重税を課し、人々は乱を思った。そこで官吏を抜擢したり罷免することは百人あまりにおよび、「察子」と号し、厚く食を受け、巷間に居らせ、そのためだいたい民間で密かに隠れて言い争っていていても知らないということはなかったから、民は道路では口をつぐんだ。憎まれて誅殺された者は数百族にもなった。また兵士を二万募って、左・右の「鏌邪軍」とし、張守一と分割して統率し、官職を設置することは駢の幕府のようであった。呂用之は出入するごとに、御者侍従は千人にもなり、大きな邸宅を建て、軍吏や営署はすべて完備していた。百尺の楼を建て、星を占っているとかこつけて、実際には城中の変をたくらむ者を窺っていた。左右に姫を侍らせること百人あまり、皆あでやかかつ華美で歌舞をよくし、巾・束帯で侍っていた。月に二十回宴会し、その費用は民から得て、足りなければ、力をつくして度支の運物を引き止めた。人を誘って変事を上奏し、それには財貨を入れて贖罪することを許した。兪公楚はしばしばその失を規範によっていましめたが、聞き入れられなかった。姚帰礼は呂用之を謀殺しようとしたが勝てなかった。呂用之はそのため二人を駢に讒言して、驍雄の兵三千をして盗賊を城外で偵察させ、密かに兵を出して襲撃し、軍もろとも殲滅した。駢の従子の高澞は密かに呂用之の罪を上疏し、駢を諌めて、「呂用之を排除しなければ、高氏はまさに子孫がいなくなるでしょう」と述べたから駢は怒り、左右の者に命じて連れ出し、上疏を呂用之に授けた。呂用之は高澞に借金しながら未返済だったから誣告し、そのため妄言した。そこで高澞の筆になるものを出して証拠とし、駢は官吏に命じて高澞の出入を禁止した。にわかに高澞は舒州刺史に任命され、しばらくもしないうちに部下に放逐されたが、呂用之の計略であった。駢は人をして高澞を殺させた。 嗣襄王熅の乱で、駢は嗣襄王熅に上書して帝位につくことをすすめると、駢を中書令・諸道兵馬都統・江淮塩鉄転運使にと偽朝は任命をし、呂用之を嶺南節度使とした。駢は長らく希望が叶えられず恨みに思っていたから、ここにいたって大いに喜び、貢賦を絶やさなかった。呂用之ははじめて開府して官属を設置し、礼は駢と同じであった。鄭𣏌・董僅・呉邁を腹心とし、駢に親任されている者は皆近づいて自身に付属させたが、政事はいまだかつて駢に預かり決していなかった。駢は心の内で悔り、その権を収めようとしたができなかった。呂用之は計略を鄭𣏌・董僅に問い、謀って駢に願ってその邸宅に斎し、密かに駢を縊殺し、偽って昇天したこととしようとしたが、実行できなかった。 光啓三年(887)、蔡賊の孫儒の兵が定遠を略奪し、淮河を渡ると公言したから、寿州刺史の張翱は走って駢に告げ、畢師鐸に命じて騎馬三百を率いて高郵を守らせた。畢師鐸は、もとは高仙芝の郎党で、騎射をよくして讃えられた。駢が黄巣を浙西で破ると、その力を用い、そのため手厚くもてなされることはこれに等しい者はいなかった。呂用之はあつく貪るのは利益をもってし、それに従うことを望んだが、しかし情は受け入れられなかった。畢師鐸には美しい妾がおり、呂用之は見たいと願ったが許可されず、外出時を狙って強姦してしまったから、怒って妾を棄てた。心内に恨みをいだき、子のために高郵の将の張神剣と結婚させ、密かに援助されることをたのみとした。朱全忠がまさに秦宗権を攻めようとしていたとき、駢は攻撃されるのを憂慮して、畢師鐸をして兵を率いて都梁山を超え、賊を帰還させなかった。畢師鐸は駢の府の宿将が多く讒言で死んだのを見て、憂うこと甚しかった。呂用之はますます礼を加えたが、畢師鐸はいよいよ恐れ、張神剣に謀った。張神剣はその言っていることはそうだとはせず、猜疑心は日に日に固まっていった。呂用之もまた変事があると思い、心内で排除しようと思い、しばしば畢師鐸の駐屯を止めさせるよう願い出た。畢師鐸の母は密かに召使いを送って畢師鐸を逃れさせ、「家や夫人を顧みてはならない」と言ったから、畢師鐸は悩み、未だ出るところを知らなかった。しかし駢の子は呂用之の専横を怒り、畢師鐸と諸将がその専横を暴くことを願い、使を遣わして畢師鐸に対して、「呂用之はこのために行ってあなたに相談しようとするでしょうが、すでに書を張神剣に授けてしまっています。あなたはこれに備えなければなりません!」と述べ、畢師鐸は驚き、軍中はしばしば伝言した。諸将は助けようと会見し、張神剣を殺すことを願い、その軍を率い、市の人を駆けさせて乱を助けようとした。畢師鐸は、「だめだ、私がもし重ねて百姓を騒がせれば、また呂用之と同じになってしまうではないか。鄭漢璋は平素より私と仲良く、兵士は精強で、呂用之の用事をしているから常に不平がある。今もしこの謀を告げれば、彼は必ず喜んで、事を助けるだろう」と言い、衆はそうだと思った。張神剣はこのことを知らず、まさに牛を殺して酒を濾し、軍を労おうとした。畢師鐸は密かに軍を夜に出撃させ、士はみな布地を首に巻き、行軍して攻撃しようとした。鄭漢璋は聞いて、麾下に出迎えさせ、畢師鐸はその計略を告げると、大いに喜んだ。その妻をとどめて淮口を守らせ、軍兵および亡命した数千は高郵にいたり、張神剣に会うとその心変わりを詰め寄り、張神剣は何も言えなかった。畢師鐸の言葉は次第に荒々しくなると、張神剣は眼を怒らせて、「君は晩に仕えたことがあるのか!彼の人は一大妖人である。前に嶺南節度使に任命されたのに、任地に行くことを承諾せず、志は淮海にはかっていたが、君がすでにその希望を奪ったから、彼はある日志を得て、私は握刀の柄を握って北面で警備して仕えることができるだけなのか!私は前に君の思いの内を推し量られなかったから、口には出さなかったが、どうして疑うのか?」と言うと、鄭漢璋は喜び、酒を取って肘を割いて血で盟約を結び、畢師鐸を推して大丞相とし、誓をなして神に告げ、そこで檄を州県に飛ばして、呂用之・張守一・諸葛殷の誅殺を名目とした。張神剣は高郵兵諸校の倪詳・逯並を天長の子弟会とし、唐宏を先鋒に、駱玄真を主騎に、趙簡を主徒に、王朗を殿とし、精兵三千を得た。まさに出発しようとして、張神剣は心内に侮って、梁繆に、「公の兵は精強であるが、しかし城は堅固で、十日もしないうちに兵糧が乏しくなり、軍衆は動揺するだろう。私神剣を高郵で軍の慰撫をさせてください。公のために支援して糧道を確保します」と言ったが、畢師鐸は、「民の米庫はなお多いが、どうして蓄えを煩わせることをするのだろうか?城中では人心が離れて戦う気がなければ、どうして支援できようか?君の思いを実行しないのと、どうして敢えて違うというか?」と言い、鄭漢璋は心の中では張神剣を嫌っていたから、自身の部下とならないことを恐れて、勧めてその計略を許可させ、城を破った場合に玉帛子女を山分けすることを約束した。 同年(887)四月、畢師鐸の兵は城にいたり、その城下に宿営した。城内は騒乱し、呂用之は兵をわけて守らせ、かつ自身は督戦した。命令して、「首一級を斬れば、賞金は一餅だ」と述べた。兵士の多くは山東の人で、剛強でたいそう命令に従った。畢師鐸は恐れ、一舎(三十里)退いて自ら固守した。呂用之はしばらく諸門を埋めて塞いだ。駢は延和閣に登り、激しい喧騒を聞いて、左右の者にこの理由を告げられて大いに驚き、呂用之を召喚して問いただした。呂用之はおもむろに、「畢師鐸の軍が帰還を望んで、門衛で軋轢を起こしているのです。すでに処置しておりますが、そうでなければ、九天玄女を煩わせるだけです!」と言ったが、駢は、「私はお前の偽りが多いのはわかってきた。自らが善をなすのなら、私を周宝のようにはしないでくれ!」と言った。当時、周宝はすでに部下のために放逐・出奔していたという。呂用之は恥じて、再び言う事がなかった。畢師鐸は城がまだ陥落しないのを見て非常に恐れ、救援を宣州の秦彦に求め、平定後は迎えて駢の代わりの将帥とすることを約束した。 駢はしばしば呂用之を責めて、「始め私は腹心に君を任じたが、君は下を御して制限がなく、ついに私が誤ったのだ。今百姓は飢饉で、虐げ用いてはならない、ただちに大将を遣わして我が書簡をもたらして説諭し、兵をやめさせよ」と言ったが、呂用之は諸将を疑って用いず、その朋党の許戡に書を奉らせて往かせた。それより以前、畢師鐸は駢が宿将をして軍を労わせると思っていたから、来たら呂用之の罪を口述しようと思っていた。そのため許戡が来ると大いに怒り、「梁纘・韓問はどこにいるのか?お前が連れてこい!」と言って即座に斬り捨てた。そこで書を矢に結んで城内に射たが、呂用之は答えず、すぐに燃やしてしまった。後日、甲冑の兵士百人が入謁したが、駢は驚いて寝室に隠れ、しばらくして出てきて、「叛こうとしているのか?」と叱って左右の者に命じて追い出させ、呂用之は南門に至って、策を掲げて、「吾はまた是れに入らざるなり!」と書いて、始めて駢とともに連署した。 畢師鐸は揚子に立て籠もり、民家を徴発して攻城具をつくった。呂用之は大いに住民や馬および役夫を探して、驍将は長刀で脅して城に登らせ、昼夜休むことなかった。また間諜となることを疑い、しばしば防衛配置を変えた。家に食料があってもすべて失ってしまい、餓死者は枕を並べることになった。駢は大将の古鍔を召し出して畢師鐸の母の書およびその子の説諭をもらしてたが、畢師鐸は子を遣わして戻らせて、「あえて恩義に背かず、朝に凶人を斬れば、夕方には屯営に戻ります。願わくば妻子を人質としてください」と言わせた。駢は呂用之がその一家を皆殺しにしてしまうことを恐れ、節度使の官署中に収容した。たまたま秦彦は部下の秦稠を遣わして兵を率いて畢師鐸と合流させると、攻撃はますます激しさを増し、守城の者は夜に南柵を焼いて外と内応し、畢師鐸は入城して守将の張全迺は戦死し、呂用之は三橋を隔てて、互いに殺し合った。駢の従子の高傑は牙兵を率いてまさに呂用之を捕らえて畢師鐸に与えようとしたが、左鏌邪兵がまたその背後を断ったから、呂用之は恐れて出奔した。 駢は梁纘を召喚して、「初め子(なんじ)の計略を用いなかったからこうなってしまった。どうすればよいか?」と謝り、兵を授けて子城を守らせた。明け方に畢師鐸は火を放って大いに奪い、駢はそこで防備の撤去を命じ、服を改めてただちに入らせた。畢師鐸は延和閣で会見し、駢はこの待遇を賓客のようにし、そこで畢師鐸を節度副使に任じ、鄭漢璋・張神剣を次将に任じ、秦稠は府庫を封じて待機し、畢師鐸は丞相の号を取り去った。そのとき警備は謹んでいなかったから、駢の愛将の申及は駢に、「謀反人の兵はやや弛緩しており、願くば公を奉じて夜に出て、諸鎮兵を発して帰還して大恥を刷新すれば、賊を平定するのに容易いものです。もし決しなければ、私申及は公に侍ることができなくなります」と説いて涙を流した。駢は怯えてその策を用いることができず、申及は隠れ去ってしまった。 畢師鐸は呂用之の支党数十人を誅殺し、孫約をして秦彦を迎えさせた。秦彦は、徐州の人で、本名は立で、軍籍に属した。乾符年間(874-879)、盗みのため獄に繋がれてまさに死刑になろうとしており、夢に叫ぶ声がして、「秦彦よ、我に従って去れ!」といい、目覚めると枷が壊れていたから、そこで亡命することができ、そこで名を彦とした。囚人百人を集めて下邳令を殺し、その財貨を奪い、黄巣の党中に入った。黄巣が敗れると、許勍とともに駢に降伏し、累進して和州刺史となった。中和年間(881-885)初頭、宣歙観察使の竇潏が病み、秦彦が襲撃してこれに代わった。畢師鐸が秦彦を召すや、ある者が謀って、「貴方様が妖人呂用之を誅するにあたって、そのため部下は喜んで従いました。今、軍府はすでに安穏となりましたから、政務を高公に返還すべきです。貴方様自身は兵を司り、兵権は掌握しています。四隣がこれを聞くならば、大義を失うことなく、諸将は敢えて謀をしなくなります。もし秦彦を将帥としてしまえば、兵権は貴方様のものではなくなっていまいます。かつ秦稠に府庫を封じさせてしまえば、勢力はもうどうなってしまうかわかったものではありません。貴方様は徳を秦彦に篤くしようとするならば、金玉や美女でこれに報いるべきで、江を渡河するのを許してはなりません。たとえ貴方様が秦彦を配下に置いたとしても、楊行密が夕方に聞いたならば、必ずや朝に押し寄せてくるでしょう」と言ったが、畢師鐸は自身で決めることができず、鄭漢璋に告げた。鄭漢璋は「よし」と言った。 畢師鐸は駢を出して、南邸に虜囚した。秦稠の麾下は求める物をまだ得ていなかったから、奉貢楼の数十楹を焼き払い、珍宝を取り出した。それより以前、駢は乾符年間(874-879)以来、貢献物を天子に納めず、財貨は山のように積もり、私に郊祀・元会の供帳什器を置き、品々の見事な手技はつくしきわめていたが、ここに至って乱兵のために盗み略奪され尽くすことになってしまった。畢師鐸は駢を東邸の移した。諸葛殷を捕らえ、腰の下に金数斤を隠していたのを発見され、民衆は唾を吐きあい、髭を残さず抜き、絞殺して絶命させたが、恨みに思っている者はその眼をえぐり、民衆は瓦礫を投げて死体を撃ったから、にわかに塚のようになった。駢は守りに遣わされた者に金を与えたが、畢師鐸はこれを知って、兵に厳しい監督を加え、また官署中に抑留し、子弟十人あまりも同じくここに幽閉した。顧雲が入見すると、駢はなお自若泰然として、「私は再びここにいるが、天の時、人の事は必ずあるのだ」と言ったが、その意は畢師鐸が再び自分を推戴するということであった。 呂用之は城を出ると、兵で淮口を攻撃したがいまだに陥落できずにいたところ、鄭漢璋がこれを攻撃し、ついに天長へ敗走した。それより以前、呂用之は偽って駢の書簡を作り、廬州・寿州の兵を召喚して、城を陥落させたが、楊行密が兵一万人で天長に侵攻したため、呂用之は帰順した。 張神剣は金品を畢師鐸に求めたが、秦彦がまだ来ていないのを理由に断った。張神剣は怒り、別将の高霸とともに畢師鐸を攻めようとした。秦彦が来ると、池州刺史の趙鍠を召して宣州を守らせ、自らは揚州に入ろうとし、節度使を称し、畢師鐸を行軍司馬として呂用之の邸宅に住まわせたが、牙軍(藩鎮軍)中にいることはできなかった。畢師鐸の心は晴れ晴れとせず志を失った。楊行密と張神剣らは和を結び、江北より槐家橋にいたるまで、柵や防塁を並べた。秦彦は城上に登ってこれを望みみて防ごうとし、そこで鄭漢璋・唐宏らに兵を授けて門を守らせたから、木を切ったり芝を取ったりすることができなくなり、食料が乏しくなろうとした。秦稠と畢師鐸は強兵八千で出撃したものの大敗し、秦稠は戦士し、兵士は逃げて溺死するものは八割にも及んだ。秦彦は大金を出して張雄に救援を求め、張雄は兵を率いて東塘にいたり、金を得ると、戦わずして去ってしまった。秦彦は畢師鐸をして兵二万を率いて城下に陣取らせ、鄭漢璋を先鋒とし、唐宏を次鋒とし、駱玄真・樊約をまたその次とし、畢師鐸・王朗は騎兵で左翼・右翼とした。陣列を敷き終わり、しばらくして楊行密が出て、輜重を防壁に委ねて、弱兵で守らせ、精兵数千をその傍らに伏せた。楊行密はまず駱玄真を攻撃して、白兵で接敵し、偽って逃げ、畢師鐸の諸軍はその壁に向かい、争って金玉・財宝・兵糧を奪った。伏兵が喚声とともに突撃し、楊行密は軽兵を率いてその背後を追い、捕虜や殺害された者は入り乱れ、死体は十里にもわたって横たわり、畢師鐸らは逃げ帰り、駱玄真は戦死した。畢師鐸は常に駱玄真が勇ましいのを頼んで敢えてよく敵を拒んだが、駱玄真が戦死してしまうと、嘆きくじけること日を重ね、出撃しようとする議を出さなくなった。 駢は久しく拘禁され、施しをして安心させようにも狭く、群奴は延和閣を解体して、欄干や楯を薪とし、革の帯を似て食べた。駢は幕府の盧涗を召して、「予はほぼ功績を立て、この頃清浄を求め、この世で利害を争ってきたわけではなかったが、今ここに及んで、神は何をお望みなのか?」といい、涙を流して止めることができなかった。畢師鐸は敗れると、駢が内応していると思った。女巫の王奉仙が畢師鐸に、「揚州の災いは、大人の死によって、祓われるであろう」と言った。秦彦は、「高公ではないのか?」と言い、左右の陳賞らに命じて往かせて殺した。侍者は賊が来たというと、駢は、「そいつは絶対に秦彦だろう」と言い、顔色は変わらず待ち受けた。軍が入ってくると、駢は罵って、「軍事には監軍や諸将があるが、必ずしもお前が来ることはなかったのではないか?」と言い、軍は辟易としたが、奮って駢を撃つ者があり、廷下に引いて何度も、「公は天子の恩を負っているのに、人を塗炭に陥らせ、罪は多いのだ。その上何の言うのだ?」と言い、駢は答える暇がなく、頭を上げて顔色を伺ったが、そこで斬られた。左右の奴や客は楊行密のもとに遁げ帰り、楊行密は全軍を喪服とし、臨時の大祭とし、ただ呂用之は縗服(喪服)を着て哭すること三日に及んだ。 秦彦はしばしば敗れ、軍の士気は崩壊し、畢師鐸と膝を抱えて互いに見合わせたが他の策略とてなく、さらに王奉仙に問い、賞罰の軽重はすべてここから出ていた。秦彦は鄭漢璋を遣わして張神剣を攻撃させて、これを撃破した。張神剣は高郵に逃げ、鄭漢璋は追撃しようとしたが、たまたま大雨にあって帰還した。楊行密は城がなお堅固であるから、軍中でかつ老いた者を、議して囲みから解かせた。呂用之の部将は夜明けに西壕に兵を伏せ、守備兵が休憩のため交代した隙きを窺って、城壁を登り、数十人を門で殺し、外の兵を招き寄せた。守備兵は嫌がって、皆兵を委ねて壊滅した。畢師鐸はその家の者や秦彦とともに東塘に逃げ、人は争って出たが、互いに登り合って踏まれて死に、塹壕は死体で充満し、王朗は転んだところを踏まれて死んだ。楊行密は入城すると、梁纘を本陣で殺したが、高氏の難に殉じなかったのを理由とした。韓問はこれを聞いて、井戸に身を投じて死んだ。居人は息も絶え絶えで死にそうであり、兵は暴行を加えるのに忍びず、かえって余剰の兵糧を押しのけてこれを救った。 秦彦・畢師鐸は唐宏・倪詳とともに白砂を焚いて、まさに長江を渡ろうとしたが、たまたま秦宗権が孫儒を遣わして兵三万を率いて揚州を攻撃し、天長に行き、秦彦らと合流して、戻って楊行密を攻撃し、楊行密の輜重・牛・羊を数千ばかりを奪った。孫儒は兵糧が乏しくなったから、そこで高郵を陥落させて、ここを根拠地とした。張神剣は逃げ帰り、楊行密は張神剣に館を授けたが、高郵の守兵七百人が壊滅したため逃げてくると、楊行密は謀があると疑って、ことごとく殺し、そのため張神剣も殺された。呂用之は始め楊行密に偽って、「廡下に金五千斤が埋まっており、事が平定されて一日の乏しさに備えることを願っています」と言っていたが、楊行密が地を掘ったが金は埋められておらず、ただ三尺の銅人があり、身は束縛され、釘が口に刺してあり、駢の名を背中に刻んであり、駢を呪うために用いられたと推測された。楊行密はその罪を責め、張守一とともに三橋で斬り、妻子はすべて死に、その罪を掲げて道にさらされた。 孫儒は城を攻めたが陥落させられず、秦彦・畢師鐸が謀反することを思い、しばらくその兵を併合した。唐宏は謀られて免れず、そこで孫儒に、「畢師鐸が密かに人を遣わして汴(朱全忠)のもとに至っている」と言い、孫儒は大いに恐れた。翌日、秦彦・畢師鐸・鄭漢璋と軍中に会し、秦彦・畢師鐸が先に来ると、壮士がこれを連行して孫儒の所に連行し、孫儒は秦彦に駢に叛いた罪を糾弾し、これを斬った。畢師鐸が叫んで、「丈夫たるものすなわち王となり、敗れれば虜となる。君はどうして多くを責めるのか。私はかつて数万の兵を率いて、常に人の手によって殺されることはなかった。公の剣で死なせてくれ」と言ったが、孫儒は、「どうして賊が我が手を汚そうするのか」と罵り、急き立ててこれを斬った。鄭漢璋が来ると、肘を奮って数人を撃ち殺したが、ついに死に、身と首は失われた。孫儒は唐宏をして騎兵を司らせ、厚くこれを賜った。文徳元年(888)、孫儒は諜報によって楊行密の兵糧が乏しいことを知り、高郵からこれを襲撃した。楊行密はその軍を抽出して廬州に帰還し、孫儒はついに揚州を根拠地とした。 駢が死ぬと、毛氈に包んで、子弟七人と一穴に埋めた。楊行密は駢の孫の高愈を抜擢して副使とし、喪事を司らせたが、未だ葬儀が終わる前に突然死し、そのためも駢の官吏であった鄺師虔に葬らせた。 揚州が富裕なこと天下に冠していたが、畢師鐸・楊行密・孫儒が攻めては守り、街や集落を焼き、民は漂泊し、兵は飢えて受け継いだから、その地はついに空となった。 朱玫は、邠州の人である。幼くして武勇に優れていたから為州の守将となった。黄巣が長安を占領すると、王玫なる者を偽節度使とし、まさに兵を整えようとし、玫は表向きはこれに仕え、間隙に乗じて王玫を斬り、留後を李重古に譲り、兵を合流して黄巣を討伐することを約束した。広明二年(881)、玫は賊を襲撃し、開遠門に戦い、槍が喉を貫いたが死ななかった。功多きをもって晋州刺史に抜擢され、邠寧節度使に昇進し、涇州・原州・岐州・隴州の兵八万を合わせて興平に駐屯し、定国砦と号した。澇上で戦ったが、邠に敗走し、詔して霊州・塩州の軍を加え、河南都統を拝命した。兵を率いて中橋に駐屯し、五壁を列べ、西北面都統に昇進した。賊が平定されると、同中書門下平章事を授けられ、呉興侯に封じられた。 田令孜が王重栄の討伐を議し、兵を玫に属させ、鄜州・延州・霊州・夏州の軍三万を合わせて沙苑を守らせた。王重栄は上疏して玫・田令孜の誅殺を請うた。戦うと玫はたちまち敗北し、そのため軍は帰還したり略奪したりを勝手気ままにした。僖宗はあわてて鳳翔に避難した。玫はかえって王重栄・李克用と講和し、田令孜の誅殺を請うた。宰相の蕭遘は密かに玫を召して僖宗を迎えさせようと、玫は鳳翔に走ったが、田令孜は乗輿(僖宗)を奪って陳倉に逃げ、遂に興元府に至った。玫は追跡するも及ばず、嗣襄王熅を奪い、奉って皇帝とした。玫は自ら大丞相と号し、万機を専決した。 始め李昌符と共に謀って嗣襄王熅を擁立したが、ここにいたって叛いて讎となし、李昌符は自ら天子(僖宗)に帰順したから、玫から人心が離れていった。王行瑜が大唐峰で敗れると、帰還して殺されてしまうことを恐れ、また玫を捕獲した者は邠寧節度を賜うと聞いて、王行瑜はその配下に、「今敗れて帰れば必ず功なくして死ぬが、もし朱玫を斬って、軍を北にして天子を迎えれば、富貴を取れる、そうではないか?」と言うと、軍は「そうです」といい、そこで兵を集めて道を急いで長安に走った。玫は孔緯の邸宅に居しており、まさに机に向かって政務を行おうとしていたが、兵が入ったことを聞いて、赴いて王行瑜を召喚して叱って、「公は勝手に帰ってきたが、叛いたのか?」というと、王行瑜は声を荒らげて、「私は叛いたのではない、まさにあなたの首を得て邠寧節度使となるのみだ!」と言い、玫はにわかに立ったが、左右の者がこれを斬り、その徒数百人を殺した。諸軍は遂に大いに乱れ、京師を焼いた。当時は厳寒期で、吏民は凍死し、倒れ死んだ者の死体は地を覆った。そこで首を興元府に伝え、帝は首を受け取った。宦者偽樞密使の王能著らは皆坐して誅殺された。 王行瑜は、邠州の人である。幼い頃から軍籍にあって、朱玫に従って列校となり、黄巣を討伐してしばしば戦功があった。嗣襄王熅が即位すると、行瑜に天平節度使を授け、兵を率いて大散関を守らせたが、李鋋のために敗れ、そこで行在(僖宗)につつしんで仕え、朱玫の首を取って献上し、邠寧節度使に抜擢された。 景福元年(892)、李茂貞・韓建および弟の同州節度使の王行実は、楊守亮を山南で討伐することを願い、そしてあえて度支の費用を仰がないと言い、李茂貞を招討使に任じて節を賜ることをのみを願った。宦官は難色を示し、昭宗もまた李茂貞らが山南を得てますます専横することを思って許さなかった。行瑜らはそのためほしいままに軍をおこして出撃した。 後に李茂貞は嗣覃王嗣周の攻撃を防ぎ、宰相を殺し、行瑜も参じて力があったから、鉄券を賜ることができた。しばらくして兵が跋扈したため、尚書令となることを求めたが、宰相韋昭度が不可としたため、ただ「尚父」の号を加えられたが、行瑜の恨みは深かった。たまたま河中の王重栄が死に、李克用がその子の王珂を後継の節度使とするよう願ったが、行瑜・韓建・李茂貞が王珙に授けるよう願い、そのためそれぞれが兵で朝廷に陳情し、天子を廃位しようとしたが勝てず、そこで韋昭度・李磎を殺し、弟の王行約を宿衛に留めた。李克用は全兵力を渡河して行瑜らの罪を問い、王行実は同州を棄てて長安に逃げ、王行約とともに乗輿(昭宗)を奪おうと謀ったが、また勝てず、皆邠州に逃げた。行瑜は梨園に駐屯し、李克用と戦ったが、王行実らの軍が敗れ、その母および行瑜の子が捕らえられ、将官は捕虜となった。帝は詔を下して行瑜の官爵を削った。行瑜は精兵五千を出して龍泉鎮に宿営し、李茂貞はその西に立て籠もった。李克用は夜に精鋭の騎兵を発して補給路を騒がし、岐軍(李茂貞)は敗走し、行瑜は邠州に帰り、城壁を取り巻いて守り、李克用にあつく金品を送って自ら帰順を求めた。李克用は軍でその城を包囲し、行瑜は窮したから、城に登って泣いて李克用に語り、「私は無罪だ。前に大臣を殺し、天子を脅かしたのは、岐人(李茂貞)だ。行実は宿衛に留まっただけなのに、役人は妄りに拉致の罪をこれに帰しており、今、公が乱を討つべき者は、まさに李茂貞に問うべきであって、願わくば帰順を約束してくれれば、天子に命を許されんことを」と言ったが、李克用は、「尚父はどうして自らを卑下しているのか。私は三賊を討伐することを命じられているが、公はその一人だ。もし帰国すれば、まさに決済に従うべきで、老夫が敢えて専断することがあろうか?」と言ったから、行瑜は定めを免れず、一族をあげて慶州に逃げたが、部下のために路上で斬られ、首は京師に送られ、帝は延喜門に御してこれを納れられた。乾寧二年(895)のことであった。その部下二百人は、李克用が朝廷に献上した。 それより以前、行瑜の乱において、宗正卿の李涪は盛んにその忠義を述べ、必ず罪を悔い改めると言っていた。ここに至って帝は怒り、放逐して嶺南で死んだ。 陳敬瑄は、田令孜の兄である。幼い頃は卑しく、餅屋であったが、左神策軍に所属することができた。田令孜が護軍中尉となると、敬瑄を親類であるから左金吾衛将軍・検校尚書右僕射・西川節度使に抜擢した。性格は畏れ慎み、よく士を慰撫した。 黄巣の乱で、僖宗は奉天に行幸し、敬瑄は夜に監軍の梁処厚を呼び寄せて、慟哭して表を奉って帝を迎え、行宮を建造し、令孜もまた西への行幸を唱え、敬瑄は兵三千で乗輿を守った。無駄に内苑の小児を従えて先に至り、敬瑄はもとより横暴を知っていたから、見廻りの兵士を派遣して様子を見させた。諸児は肘を連ねて大声で喧嘩して宮中に行ったから、兵士はこれを捕縛すると、「我は天子に仕える者だ!」と叫んだが、敬瑄は五十人を殺害した。巷に死体を遺棄し、そのため道路は騒がしくなくなった。帝は綿州に行き、敬瑄は道に謁見し、酒を奉り、帝は三たび盃をあげた。検校左僕射・同中書門下平章事に昇進した。当時雲南(南詔)が叛き、使者を遣わして和平を結ぶことを願い、そこで許された。敬瑄は行在の百官諸吏を奉って敢えて乏しくさせることはなかったから、帝は判度支に任命しようとしたが固辞した。再び検校司徒兼侍中を加えられ、梁国公に封じられた。弟の陳敬珣を閬州刺史とした。邛州の首望の阡能・涪州の叛校の韓秀昇を討って定め、再び兼中書令に昇進し、潁川郡王に封じられ、実封四百戸となり、一年間の上輸銭および上都の田・邸宅・磑(水力石臼)をそれぞれ十区賜り、鉄券を賜って十死を許されることとなった。黄巣が平定されると、潁川王に進み、実戸二百を増戸された。車駕が東に帰ると、敬瑄は財政の余剰を供給して朝廷を安心させたから、また検校太師に昇進した。 にわかに田令孜が罪を得ると、敬瑄は端州に流された。たまたま昭宗が即位すると、敬瑄は詔を拒み、帝は召喚して左龍武統軍とし、宰相韋昭度を代わりの節度使に領させようとした。使者が来ると、敬瑄は百姓に道を遮らせて耳を切り裂いて誠を示して自分の功績を訴え、また鉄券で死を許されていると言った。使者が馳せ帰った。田令孜は敬瑄に勧めて黄頭軍を募らせ、自ら守る計略とした。 当時、王建が閬州・利州を占領し、そのため田令孜は王建を召喚した。王建が綿州に至ると、兵を発して拒み、激しく王建を諸州で攻めたが、朝廷に行動を制限された。ある者が、「建は貪欲かつ気を見るに慎重で、ただこの頼りを利するだけで、公はどうしてこれを用いるのですか?」と言ったが、聞き入れなかった。王権は顧彦朗をあざむいて書簡に、「十軍阿父(田令孜)は私を呼び寄せようとしているが、太師(陳敬瑄)によって一大州を求めようと思う」と述べ、そこで梓州に麾下を呼び寄せ、自身は兵を率いて鹿頭関に入った。敬瑄は受け入れず、漢州刺史の張頊は迎撃したが、敗れ、王建は漢州に入った。成都は固く守り、王建は城下を走って田令孜に謝して、「父は私をお召しになり、門まで来ましたが私は拒まれています。一体誰の仕業でしょうか?」と述べ、諸将と髪を切って再拝して、「今賊となるのみ!」と言った。そこで出兵を顧彦朗に要請し、成都を攻撃し、残りは州県を略奪した。王彦朗もまた王建を恐れ、上表して大臣が敬瑄の代わりになるよう願った。王建は自ら敬瑄を討伐して贖罪することを願い、詔して永平軍を設立し、王建に節度使を授け、韋昭度を行営招討使とし、山南西道節度使の楊守亮を副使とし、王彦朗を行軍司馬とした。詔して敬瑄が孟昭図を殺した罪を暴き、官爵を削った。韋昭度は王建をして学射山に駐屯させ、敬瑄は迎撃したが勝てず、また蠶厓で戦ったが大敗した。 龍紀元年(889)、韋昭度は軍中に至り、持節して人を諭し、開門を約束させた。城を守る者が、「鉄券があるのに、どうして先帝の意に違うことができようか!」と罵った。田令孜に城中の戸あたり一人を取り立てて城壁の上を防御させ、夜は見廻りをし、昼は濠をさらって薪を伐採した。敬瑄は弥牟・徳陽に駐屯し、城壁をたてて王建を防いだ。富人をして自ら財の多少を占めさせ、巨大な棒を広げ、不実の者を笞打ち、三日もせずに銭が動くこと市のようであった。王建・韋昭度は城に沿って防塁を築き、簡州刺史の張造は攻めて橋を断ち切ろうとしたが、大敗して戦死した。 大順元年(890)、王建はしばらく諸州を攻撃して降伏させた。邛州刺史の毛湘はもと田令孜の孔目官(司・府に置かれた下級書吏)であり、その配下に、「私は軍容(田令孜)の期待を担うのに耐えられない。首となって王建に見えるのがいいだろう」といい、そこで沐浴して待ち、吏がその首を斬って降伏した。敬瑄は浣花で戦ったが勝てなかった。翌日、再度戦ったが、将士はすべて王建のために捕虜となってしまった。城中で降伏しようと謀る者は、田令孜が手足切断の刑罰を課したから民衆を恐怖させた。たまたま疫病が流行り、死人が重なりあうほどであった。 翌年(891)三月、詔して敬瑄の官爵を戻し、韋昭度を召喚し、王建を説諭して兵を引かせようとしたが、王建は詔を奉らなかった。帝はさらに王建を西川行営招討制置使とした。王建は敬瑄を捕虜としなければならないと知り、ついに蜀の地を欲することとなり、そこで韋昭度を脅して、「公は数万の軍を率いて賊を討伐しましたが、兵糧はしばしば足りず、関東の諸節度は互いに他国を攻略してその領土を奪い、朝廷は危うい状態であり、軍は遠方で疲弊して、中国を先んじるのにこしたことはなく、公は還って天子のために謀をすべきです」と説いたが、韋昭度は決めることができなかった。たまたま吏盗が諸軍の兵糧を減らし、王建は軍に怒って、「招討吏の謀である」と言い、兵士を放って捕らえ、塩漬けにして軍で食べた。韋昭度は大いに驚き、この日王建に符節を授け、走って剣門を出た。王建は桟道を絶ち切り、東への道は不通となった。そこで敬瑄を急襲し、直属の騎兵を分けて十隊とし、攻撃するところは簡単に勢いを恐れて服従し、堡塁はそれぞれ数百里に及び、間諜を放って城に入らせ、軍の人心を揺さぶった。王建は喜んで軍中に、「成都は「花錦城」と言うが、財宝や女はお前達が自分で取れ」と言い、謂票将の韓武らに、「城を陥したら、私と公が互いに節度使を一日なろう」と言い、部下がこれを聞くと、戦いはいよいよ力をつくした。包囲することおよそ三年、城中の兵糧は尽き、筒に米を入れ、一寸四方の粥が銭二百であった。敬瑄は出家して財貨を民に給付し、兵士を募って麦を麦を刈り取らせ、その半分を収容した。民はまた夜に王建が堡塁に塩を売りに来たが、禁じることができなかった。官吏が殺すことを願うと、敬瑄は、「民は飢えているのに施しがない。生を求めさせるのがいいだろう」と言った。人が互いに殴り合ったり罵ったりすると、敬瑄は止めることができず、そこで斬刑・八つ裂きの二法を行い、またおさめることはなかった。敬瑄は自ら率いて犀浦に出て、二軍を列べて王建を迎え撃った。王建の軍は偽って逃げ、伏兵を置いたから、敬瑄は敗れ、王建は斜橋・昝街の二屯を破った。翌日戦ったが、また一壁を破り、その将を降伏させた。王建は七里亭に駐屯し、敬瑄はこれを攻撃した。王建の将の張武が駆けて城に入り、子城の下で戦い、守備兵は皆騒いだから、勝てなかった。張勍は浣花営を破り、敬瑄の諸将はあるいは死に、あるいは降伏してまた尽きてしまった。およそ五十戦、敬瑄はすべて敗北し、そこで上表して病を理由として京師への帰還を願った。田令孜は素服で王建の軍に至った。王建は西門より入り、張勍を斬斫使とし、王建は全軍に布告して、「お前たちとともに連年戦ったのは、今日の志のようである。もし邪まに犯す者があれば、私はよく命を全うするようにしよう。だが張勍が斬るところは、私は救うことができない!」と言うと、軍中は粛然とした。敬瑄・田令孜を捕らえ、王建は自ら留後を称し、朝廷に上表した。詔して王建を西川節度副大使、知節度事とした。 王建は敬瑄を新津に住まわせ、その賦税で養ったが、重ねて上表して誅殺を願ったが、答えはなかった。景福二年(893)、王建は密かに左右の者に命じて敬瑄・田令孜が死士を養い、 楊晟らと謀反の約束したことを述べたから、ここに敬瑄を家で斬った。それより以前、敬瑄は死を免れないことを知り、かつて毒薬を帯に入れていたが、処刑されるに臨んで帯を見ると、毒薬はすでに失われていた。これより王建はことごとく両川・黔中の地を領有した。 李巨川は、字は下己で、李逢吉の従曽孫である。乾符年間(874-879)に進士に及第した。まさに天下は騒動となり、そこで京師を去って、河中の王重栄に招かれて書記となった。王重栄は黄巣を討伐し、檄文や上奏文を書くのは日々混乱していたが、報告を待ってすぐに発したものは、すべて巨川の手になったものであったから、心の中で敏い者だと思い、言はたちまち理にあたっており、近隣の藩鎮は皆驚いた。たまたま賊が敗れて関より出て行って京師が回復すると、人は巨川を助力があったと言った。王重栄が乱で死ぬと、興元参軍に左遷されたが、節度使の楊守亮が喜んで、「天は先生を私に遺わしたのだ!」と言い、また書紀とした。楊守亮が韓建の捕虜となると、巨川も械で従わされたが、木の葉に書いて韓建に悲哀を伝えると、韓建は心を動かされ、そこで縛めをとき、幕府に置いた。昭宗が華州に行幸すると、韓建は一州を煩わしたところで昭宗を救うことができないとみて、巨川をして天下に檄文を出させ、糧食の転送を促した。 それより以前、帝は石門にあって、しばしば嗣延王・通王を遣わして親軍を率いさせ、大いに安聖・奉宸・保寧・安化の四軍を選んで、また殿後軍を設置し、合わせて兵士二万となっていた。韓建は衛兵が強く、おのれに利さないことを憎み、巨川と謀り、そこでお上に変事を告げ、八王が帝を脅して河中に行幸しようとしていると告げ、そこで十六宅を捕らえ、厳しい先生を選んで教え導かせることを願い、ことごとく麾下の兵を散らせた。書して再度上奏し、帝はやむをえず詔して裁可した。また殿後軍を廃止し、なおかつ「わざわざ天下が広くはないことを示す必要はありません」と言った。詔して三十人を留めて控鶴排馬官とし、飛龍坊に隷属させ、これより天子の爪牙となる兵が尽きてしまった。韓建ははじめ帝が許さないことを恐れていたから、兵で宮殿を取り巻き、定州行営将の李筠の誅殺を願った。帝は恐れ、李筠を斬り、兵は解散させた。また、「七国は漢に災いし、八王は晋を乱し、永王が江南を率いて謀反を謀り、吐蕃・朱玫が反乱したのは、首謀者が宗室を立てて人望を揺したからです。今王室は多いため、どうして諸王をしてまさに四方に命じさせるべきを、惑わして藩鎮を攻撃しようとするのでしょうか?」と言い、ここに諸王に勅して使者を奉り、ことごとく行在に赴かせた。巨川は日夜韓建を導いて朝廷の臣下とはならず、そこで徳王を立てて皇太子とし、文辞はその悪を覆い隠した。帝が京師に帰還すると、諫議大夫を拝命した。 光化年間(898-901)初頭、朱全忠は河中を陥落させ、まさに潼関を攻撃しようとしていたから、韓建は恐れ、巨川をして往かせて朱全忠の軍に行かせてよしみを結ばせ、そこで現在の利害を説いた。朱全忠の属官の敬翔は文章によって朱全忠の左右に仕えていたが、巨川が朱全忠に用いられて自身の立場が失われることを疑い、そこで欺いて、「巨川は本当の奇才ですが、振り返ってみますと主人に不利なことばかりしています。いかがなものでしょうか?」と言ったから、この日、朱全忠は巨川を殺した。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百二十四上 列伝第一百四十九上 『新唐書』巻二百二十四下 列伝第一百四十九下 巻二百二十五上 列伝第一百五十上
https://w.atwiki.jp/tsugan/pages/115.html
資治通鑑巻第十二 漢紀四 太祖高皇帝下 八年(壬寅、前一九九) 1冬,上撃韓王信餘寇於東垣,過柏人。貫高等壁人於廁中,欲以要上。上欲宿,心動,問曰:「縣名爲何?」曰:「柏人。」上曰:「柏人者,迫於人也。」遂不宿而去。十二月,帝行自東垣至。 1. 2春,三月,行如洛陽。 2. 3令賈人毋得衣錦、繡、綺、縠、絺、紵、罽,操兵、乘、騎馬。 3. 4秋,九月,行自洛陽至;淮南王、梁王、趙王、楚王皆從。 4. 5匈奴冒頓數苦北邊。上患之,問劉敬,劉敬曰:「天下初定,士卒罷於兵,未可以武服也。冒頓殺父代立,妻羣母,以力爲威,未可以仁義説也。獨可以計久遠,子孫爲臣耳;然恐陛下不能爲。」上曰:「奈何?」對曰:「陛下誠能以適長公主妻之,厚奉遺之,彼必慕,以爲閼氏,生子,必爲太子。陛下以歳時漢所餘,彼所鮮,數問遺,因使辨士風諭以禮節。冒頓在,固爲子婿;死,則外孫爲單于;豈嘗聞外孫敢與大父抗禮者哉!可無戰以漸臣也。若陛下不能遣長公主,而令宗室及後宮詐稱公主,彼知,不肯貴近,無益也。」帝曰:「善!」欲遣長公主。呂后日夜泣曰:「妾唯太子、一女,奈何棄之匈奴!」上竟不能遣。 5. 九年(癸卯、前一九八) 1冬,上取家人子名爲長公主,以妻單于;使劉敬往結和親約。 臣光曰:建信侯謂冒頓殘賊,不可以仁義説,而欲與爲婚姻,何前後之相違也!夫骨肉之恩,尊卑之敘,唯仁義之人爲能知之;奈何欲以此服冒頓哉!蓋上世帝王之御夷狄也,服則懷之以德,叛則震之以威,未聞與爲婚姻也。且冒頓視其父如禽獸而獵之,奚有於婦翁!建信侯之術,固已疏矣;況魯元已爲趙后,又可奪乎! 1. 2劉敬從匈奴來,因言:「匈奴河南白羊、樓煩王,去長安近者七百里,輕騎一日一夜可以至秦中。秦中新破,少民,地肥饒,可益實。夫諸侯初起時,非齊諸田、楚昭、屈、景莫能興。今陛下雖都關中,實少民,東有六國之強族,一日有變,陛下亦未得高枕而臥也。臣願陛下徙六國後及豪桀、名家居關中,無事可以備胡,諸侯有變,亦足率以東伐。此強本弱末之術也。」上曰:「善!」十一月,徙齊、楚大族昭氏、屈氏、景氏、懷氏、田氏五族及豪桀於關中,與利田、宅,凡十餘萬口。 2. 3十二月,上行如洛陽。 3. 4貫高怨家知其謀,上變告之。於是上逮捕趙王及諸反者。趙午等十餘人皆爭自剄,貫高獨怒罵曰:「誰令公爲之?今王實無謀,而並捕王。公等皆死,誰白王不反者?」乃轞車膠致,與王詣長安。高對獄曰:「獨吾屬爲之,王實不知。」吏治,手旁笞數千,刺剟,身無可撃者,終不復言。呂后數言:「張王以公主故,不宜有此。」上怒曰:「使張敖據天下,豈少而女乎!」不聽。 廷尉以貫高事辭聞。上曰:「壯士!誰知者?以私問之。」中大夫洩公曰:「臣之邑子,素知之,此固趙國立義不侵,爲然諾者也。」上使洩公持節往問之箯輿前。洩公與相勞苦,如生平歡,因問:「張王果有計謀不?」高曰:「人情寧不各愛其父母、妻子乎?今吾三族皆以論死,豈愛王過於吾親哉?顧爲王實不反,獨吾等爲之。」具道本指所以爲者、王不知狀。於是洩公入,具以報上。春,正月,上赦趙王敖,廢爲宣平侯,徒代王如意爲趙王。 上賢貫高爲人,使洩公具告之曰:「張王已出。」因赦貫高。貫高喜曰:「吾王審出乎?」洩公曰:「然。」洩公曰:「上多足下,故赦足下。」貫高曰:「所以不死,一身無餘者,白張王不反也。今王已出,吾責已塞,死不恨矣。且人臣有篡弒之名,何面目復事上哉!縱上不殺我,我不愧於心乎!」乃仰絕亢,遂死。 荀悅論曰:貫高首爲亂謀,殺主之賊;雖能證明其王,小亮不塞大逆,私行不贖公罪。春秋之義大居正,罪無赦可也。 臣光曰:高祖驕以失臣,貫高狠以亡君。使貫高謀逆者,高祖之過也;使張敖亡國者,貫高之罪也。 4. 5詔:「丙寅前有罪,殊死已下,皆赦之。」 5. 6二月,行自洛陽至。 6. 7初,上詔:「趙羣臣賓客敢從張王者,皆族。」郎中田叔、客孟舒皆處髡鉗爲王家奴以從。及張敖既免,上賢田叔、孟舒等。召見,與語,漢廷臣無能出其右者。上盡拜爲郡守、諸侯相。 7. 8夏,六月晦,日有食之。 8. 9更以丞相何爲相國。 9. 十年(甲辰、前一九七) 1夏,五月,太上皇崩於櫟陽宮。秋,七月,癸卯,葬太上皇於萬年。楚王、梁王皆來送葬。赦櫟陽囚。 1. 2定陶戚姫有寵於上,生趙王如意。上以太子仁弱,謂如意類己;雖封爲趙王,常留之長安。上之關東,戚姬常從,日夜啼泣,欲立其子。呂后年長,常留守,益疏。上欲廢太子而立趙王,大臣爭之,皆莫能得。御史大夫周昌廷爭之強,上問其說。昌爲人吃,又盛怒,曰:「臣口不能言,然臣期期知其不可!陛下欲廢太子,臣期期不奉詔!」上欣然而笑。呂后側耳於東廂聽,既罷,見昌,爲跪謝,曰:「微君,太子幾廢!」 時趙王年十歳,上憂萬歳之後不全也;符璽御史趙堯請爲趙王置貴強相,及呂后、太子、羣臣素所敬憚者。上曰:「誰可者?」堯曰:「御史大夫昌,其人也。」上乃以昌相趙,而以堯代昌爲御史大夫。 2. 3初,上以陽夏侯陳豨爲相國,監趙、代邊兵;豨過辭淮陰侯。淮陰侯挈其手,辟左右,與之步於庭,仰天歎曰:「子可與言乎?」豨曰:「唯將軍令之!」淮陰侯曰:「公之所居,天下精兵處也;而公,陛下之信幸臣也。人言公之畔,陛下必不信;再至,陛下乃疑矣;三至,必怒而自將。吾爲公從中起,天下可圖也。」陳豨素知其能也,信之,曰:「謹奉教!」豨常慕魏無忌之養士,及爲相守邊,告歸,過趙,賓客隨之者千餘乘,邯鄲官舍皆滿。趙相周昌求入見上,具言豨賓客甚盛,擅兵於外數歳,恐有變。上令人覆案豨客居代者諸不法事,多連引豨。豨恐,韓王信因使王黃、曼丘臣等說誘之。太上皇崩,上使人召豨,豨稱病不至;九月,遂與王黃等反,自立爲代王,劫略趙、代。上自東撃之。至邯鄲,喜曰:「豨不南據邯鄲而阻漳水,吾知其無能爲矣。」 周昌奏:「常山二十五城,亡其二十城;請誅守、尉。」上曰:「守、尉反乎?」對曰:「不。」上曰:「是力不足,亡罪。」上令周昌選趙壯士可令將者,白見四人。上嫚罵曰:「豎子能爲將乎?」四人慚,皆伏地;上封各千戸,以爲將。左右諫曰;「從入蜀、漢,伐楚,賞未遍行;今封此,何功?」上曰:「非汝所知。陳豨反,趙、代地皆豨有。吾以羽檄征天下兵,未有至者,今計唯獨邯鄲中兵耳。吾何愛四千戸,不以慰趙子弟!」皆曰:「善!」又聞豨將皆故賈人,上曰:「吾知所以與之矣。」乃多以金購豨將,豨將多降。 3. 十一年(乙巳、前一九六) 1冬,上在邯鄲。陳豨將侯敞將萬餘人遊行,王黃將騎千餘軍曲逆,張春將卒萬餘人渡河攻聊城。漢將軍郭蒙與齊將撃,大破之。太尉周勃道太原入定代地,至馬邑,不下,攻殘之。趙利守東垣,帝攻拔之,更命曰眞定。帝購王黄、曼丘臣以千金,其麾下皆生致之。於是陳豨軍遂敗。 淮陰侯信稱病,不從撃豨,陰使人至豨所,與通謀。信謀與家臣夜詐詔赦諸官徒、奴,欲發以襲呂后、太子;部署已定,待豨報。其舍人得罪於信,信囚,欲殺之。春,正月,舍人弟上變,告信欲反狀於呂后。呂后欲召,恐其儻不就,乃與蕭相國謀,詐令人從上所來,言豨已得,死,列侯、羣臣皆賀。相國紿信曰:「雖疾,強入賀。」信入,呂后使武士縛信,斬之長樂鐘室。信方斬,曰:「吾悔不用蒯徹之計,乃爲兒女子所詐,豈非天哉!」遂夷信三族。 臣光曰:世或以韓信爲首建大策,與高祖起漢中,定三秦,遂分兵以北,禽魏,取代,僕趙,脅燕,東撃齊而有之,南滅楚垓下,漢之所以得天下者,大抵皆信之功也。觀其距蒯徹之說,迎高祖於陳,豈有反心哉!良由失職怏怏,遂陷悖逆。夫以盧綰里□舊恩,猶南面王燕,信乃以列侯奉朝請,豈非高祖亦有負於信哉!臣以爲高祖用詐謀禽信於陳,言負則有之;雖然,信亦有以取之也。始,漢與楚相距滎陽,信滅齊,不還報而自王;其後漢追楚至固陵,與信期共攻楚而信不至。當是之時,高祖固有取信之心矣,顧力不能耳。及天下已定,則信復何恃哉!夫乘時以徼利者,市井之志也;酬功而報德者,士君子之心也。信以市井之志利其身,而以君子之心望於人,不亦難哉!是故太史公論之曰:「假令韓信學道謙讓,不伐己功,不矜其能,則庶幾哉!於漢家勳,可以比周、召、太公之徒,後世血食矣!不務出此,而天下已集,乃謀畔逆;夷滅宗族,不亦宜乎!」 1. 2將軍柴武斬韓王信於參合。 2. 3上還洛陽,聞淮陰侯之死,且喜且憐之,問呂后曰:「信死亦何言?」呂后曰:「信言恨不用蒯徹計。」上曰:「是齊辯士蒯徹也。」乃詔齊捕蒯徹。蒯徹至,上曰:「若教淮陰侯反乎?」對曰:「然,臣固教之。豎子不用臣之策,故令自夷於此;如用臣之計,陛下安得而夷之乎!」上怒曰;「烹之!」徹曰:「嗟乎!冤哉烹也!」上曰:「君教韓信反,何冤?」對曰:「秦失其鹿,天下共逐之,高材疾足者先得焉。跖之狗吠堯,堯非不仁,狗固吠非其主。當是時,臣唯獨知韓信,非知陛下也。且天下鋭精持鋒欲爲陛下所爲者甚眾,顧力不能耳,又可盡烹之邪?」上曰:「置之。」 3. 4立子恆爲代王,都晉陽。 4. 5大赦天下。 5. 6上之撃陳豨也,徵兵於梁;梁王稱病,使將將兵詣邯鄲。上怒,使人讓之。梁王恐,欲自往謝。其將扈輒曰:「王始不往,見讓而往,往則爲禽矣。不如遂發兵反。」梁王不聽。梁太僕得罪,亡走漢,告梁王與扈輒謀反。於是上使使掩梁王,梁王不覺,遂囚之洛陽。有司治「反形已具,請論如法」,上赦以爲庶人,傳處蜀靑衣。西至鄭,逢呂后從長安來。彭王爲呂后泣涕,自言無罪,願處故昌邑。呂后許諾,與俱東。至洛陽,呂后白上曰:「彭王壯士,今徙之蜀,此自遺患;不如遂誅之。妾謹與俱來。」於是呂后乃令其舍人告彭越復謀反。廷尉王恬關奏請族之,上可其奏。三月,夷越三族。梟越首洛陽,下詔:「有收視者,輒捕之。」 梁大夫欒布使於齊,還,奏事越頭下,祠而哭之。吏捕以聞。上召布,罵,欲烹之。方提趨湯,布顧曰:「願一言而死。」上曰:「何言?」布曰:「方上之困於彭城,敗滎陽、成皋間,項王所以遂不能西者,徒以彭王居梁地,與漢合從苦楚也。當是之時,王一顧,與楚則漢破,與漢則楚破。且垓下之會,微彭王,項氏不亡。天下已定,彭王剖符受封,亦欲傳之萬世。今陛下一徵兵於梁,彭王病不行。而陛下疑以爲反;反形未具,以苛小案誅滅之。臣恐功臣人人自危也。今彭王已死,臣生不如死,請就烹。」於是上乃釋布罪,拜爲都尉。 6. 7丙午,立皇子恢爲梁王。丙寅,立皇子友爲淮陽王。罷東郡,頗益梁;罷穎川郡,頗益淮陽。 7. 8夏,四月,行自洛陽至。 8. 9五月,詔立秦南海尉趙佗爲南粤王,使陸賈即授璽綬,與剖符通使,使和集百越,無爲南邊患害。 初,秦二世時,南海尉任囂病且死。召龍川令趙佗,語曰:「秦爲無道,天下苦之。聞陳勝等作亂,天下未知所安。南海僻遠,吾恐盜兵侵地至此,欲興兵絶新道自備,待諸侯變;會病甚。且番禺負山險,阻南海,東西數千里,頗有中國人相輔;此亦一州之主也,可以立國。郡中長吏,無足與言者,故召公告之。」即被佗書,行南海尉事。囂死,佗即移檄告橫浦、陽山、湟谿關曰:「盜兵且至,急絶道,聚兵自守!」因稍以法誅秦所置長吏,以其黨爲假守。秦已破滅,佗即撃並桂林、象郡,自立爲南越武王。 陸生至,尉佗魋結、箕倨見陸生。陸生説佗曰:「足下中國人,親戚、昆弟、墳墓在眞定。今足下反天性,棄冠帶,欲以區區之越與天子抗衡爲敵國,禍且及身矣!且夫秦失其政,諸族、豪桀並起,唯漢王先入關,據咸陽。項羽倍約,自立爲西楚霸王,諸侯皆屬,可謂至強。然漢王起巴、蜀,鞭笞天下,遂誅項羽,滅之。五年之間,海内平定。此非人力,天之所建也。天子聞君王王南越,不助天下誅暴逆,將相欲移兵而誅王。天子憐百姓新勞苦,故且休之,遣臣授君王印,剖符通使。君王宜郊迎,北面稱臣;乃欲以新造未集之越,屈強於此!漢誠聞之,掘燒王先人塚,夷滅宗族,使一偏將將十萬衆臨越,則越殺王降漢如反覆手耳!」於是尉佗乃蹶然起坐,謝陸生曰:「居蠻夷中久,殊失禮義!」因問陸生曰:「我孰與蕭何、曹參、韓信賢?」陸生曰:「王似賢也。」復曰:「我孰與皇帝賢?」陸生曰:「皇帝繼五帝、三皇之業,統理中國;中國之人以億計,地方萬里,萬物殷富;政由一家,自天地剖判未始有也。今王衆不過十萬,皆蠻夷,崎嶇山海間,譬若漢一郡耳,何乃比於漢!」尉佗大笑曰:「吾不起中國,故王此;使我居中國,何遽不若漢!」乃留陸生與飲。數月,曰:「越中無足與語。至生來,令我日聞所不聞。」賜陸生橐中裝直千金,他送亦千金。陸生卒拜違法佗爲南越王,令稱臣,奉漢約。歸報,帝大悅,拜賈爲太中大夫。 陸生時時前説稱詩、書,帝罵之曰:「乃公居馬上而得之,安事詩、書!」陸生曰:「居馬上得之,寧可以馬上治之乎?且湯、武逆取而以順守之;文武並用,長久之術也。昔者呉王夫差、智伯、秦始皇,皆以極武而亡。郷使秦已並天下,行仁義,法先聖,陛下安得而有之!」帝有慚色,曰:「試爲我著秦所以失天下、吾所以得之者及古成敗之國。」陸生乃粗述存亡之征,凡著十二篇。每奏一篇,帝未嘗不稱善,左右呼萬歳;號其書曰「新語」。 9. 10帝有疾,惡見人,臥禁中,詔戸者無得入羣臣,羣臣絳、灌等莫敢入,十餘日。舞陽侯樊噲排闥直入,大臣隨之。上獨枕一宦者臥。噲等見上,流涕曰:「始陛下與臣等起豐、沛,定天下,何其壯也!今天下已定,又何憊也!且陛下病甚,大臣震恐;不見臣等計事,顧獨與一宦者絶乎?且陛下獨不見趙高之事乎?」帝笑而起。 10. 11秋,七月,淮南王布反。 初,淮陰侯死,布已心恐。及彭越誅,醢其肉以賜諸侯。使者至淮南,淮南王方獵,見醢,因大恐,陰令人部聚兵,候伺旁郡警急。布所幸姫病就醫,醫家與中大夫賁赫對門,赫乃厚饋遺,從姬飲醫家;王疑其與亂,欲捕赫。赫乘傳詣長安上變,言:「布謀反有端,可先未發誅也。」上讀其書,語蕭相國,相國曰:「布不宜有此,恐仇怨妄誣之。請繋赫,使人微驗淮南王。」淮南王布見赫以罪亡上變,固已疑其言國陰事;漢使又來,頗有所驗;遂族赫家,發兵反。反書聞,上乃赦賁赫,以爲將軍。 上召諸將問計,皆曰:「發兵撃之,坑豎子耳,何能爲乎!」汝陰侯滕公召故楚令尹薛公問之。令尹曰:「是固當反。」滕公曰:「上裂地而封之,疏爵而王之;其反何也?」令尹曰:「往年殺彭越,前年殺韓信;此三人者,同功一體之人也,自疑禍及身,故反耳。」滕公言之上,上乃召見,問薛公,薛公對曰:「布反不足怪也。使布出於上計,山東非漢之有也;出於中計,勝敗之數未可知也;出於下計,陛下安枕而臥矣。」上曰:「何謂上計?」對曰:「東取呉,西取楚,並齊,取魯,傳檄燕、趙,固守其所,山東非漢之有也。」「何謂中計?」「東取呉,西取楚,並韓,取魏,據敖倉之粟,塞成皋之口,勝敗之數未可行也。」「何謂下計?」「東取吳,西取下蔡,歸重於越,身歸長沙,陛下安枕而臥,漢無事矣。」上曰:「是計將安出?」對曰:「出下計。」上曰:「何謂廢上、中計而出下計?」對曰:「布,故麗山之徒也,自致萬乘之主,此皆爲身,不顧後、爲百姓萬世慮者也。故曰出下計。」上曰:「善!」封薛公千戸。乃立皇子長爲淮南王。 是時,上有疾,欲使太子往撃黥布。太子客東園公、綺里季、夏黄公、角里先生説建成侯呂釋之曰:「太子將兵,有功則位不益,無功則從此受禍矣。君何不急請呂后,承間爲上泣言:『黥布,天下猛將也,善用兵。今諸將皆陛下故等夷,乃令太子將此屬,無異使羊將狼,莫肯爲用;且使布聞之,則鼓行而西耳!上雖病,強載輜車,臥而護之,諸將不敢不盡力。上雖苦,爲妻子自強!』」於是呂釋之立夜見呂后。呂后承間爲上泣涕而言,如四人意。上曰:「吾惟豎子固不足遣,而公自行耳。」 於是上自將兵而東,羣臣居守,皆送至霸上。留侯病,自強起,至曲郵,見上曰:「臣宜從,病甚。楚人剽疾,願上無與爭鋒!」因說上令太子爲將軍,監關中兵。上曰:「子房雖病,強臥而傅太子。」是時,叔孫通爲太傅,留侯行少傅事。發上郡、北地、隴西車騎、巴蜀材官及中尉卒三萬人爲皇太子衞,軍霸上。 布之初反,謂其將曰:「上老矣,厭兵,必不能來。使諸將,諸將獨患淮陰、彭越,今皆已死,餘不足畏也。」故遂反。果如薛公之言,東撃荊。荊王賈走死富陵;盡劫其兵,渡淮撃楚。楚發兵與戰徐、僮間。爲三軍,欲以相救爲奇。或説楚將曰:「布善用兵,民素畏之。且兵法:『諸侯自戰其地爲散地』,今別爲三,彼敗吾一軍,餘皆走,安能相救!」不聽。布果破其一軍,其二軍散走;布遂引兵而西。 11. 十二年(丙午、前一九五) 1冬,十月,上與布兵遇於蘄西,布兵精甚。上壁庸城,望布軍置陳如項籍軍,上惡之。與布相望見,遙謂布曰:「何苦而反?」布曰:「欲爲帝耳!」上怒罵之,遂大戰。布軍敗走,渡淮,數止戰,不利,與百餘人走江南,上令別將追之。 1. 2上還,過沛,留,置酒沛宮,悉召故人、父老、諸母、子弟佐酒,道舊故爲笑樂。酒酣,上自爲歌,起舞,慷慨傷懷,泣數行下,謂沛父兄曰:「遊子悲故鄉。朕自沛公以誅暴逆,遂有天下;其以沛爲朕湯沐邑,復其民,世世無有所與。」樂飲十餘日,乃去。 2. 3漢別將撃英布軍洮水南、北,皆大破之。布故與番君婚,以故長沙成王臣使人誘布,偽欲與亡走越,布信而隨之。番陽人殺布茲郷民田舍。 3. 4周勃悉定代郡、雁門、雲中地,斬陳豨於當城。 4. 5上以荊王賈無後,更以荊爲呉國。辛丑,立兄仲之子濞爲呉王,王三郡、五十三城。 5. 6十一月,上過魯,以太牢祠孔子。 6. 7上從破黥布歸,疾益甚,愈欲易太子。張良諫不聽,因疾不視事。叔孫通諫曰:「昔者晉獻公以驪姫之故,廢太子,立奚齊,晉國亂者數十年,爲天下笑。秦以不蚤定扶蘇,令趙高得以詐立胡亥,自使滅祀,此陛下所親見。今太子仁孝,天下皆聞之。呂后與陛下攻苦食淡,其可背哉!陛下必欲廢適而立少,臣願先伏誅,以頸血汚地!」帝曰:「公罷矣,吾直戲耳!」叔孫通曰:「太子,天下本,本一搖,天下振動;奈何以天下爲戲乎!」時大臣固爭者多;上知羣臣心皆不附趙王,乃止不立。 7. 8相國何以長安地狹,上林中多空地,棄;願令民得入田,毋收蒿,爲禽獸食。上大怒曰:「相國多受賈人財物,乃爲請吾苑!」下相國廷尉,械繋之。數日,王衞尉侍,前問曰:「相國何大罪,陛下繋之暴也?」上曰:「吾聞李斯相秦皇帝,有善歸主,有惡自與。今相國多受賈豎金,而爲之請吾苑以媚於民,故繋治之。」王衞尉曰:「夫職事苟有便於民而請之,眞宰相事;陛下奈何乃疑相國受賈人錢乎?且陛下距楚數歳,陳豨、黥布反,陛下自將而往;當是時,相國守關中,關中搖足,則關以西非陛下有也!相國不以此時爲利,今乃利賈人之金乎?且秦以不聞其過亡天下;李斯之分過,又何足法哉!陛下何疑宰相之淺也!」帝不懌。是日,使使持節赦出相國。相國年老,素恭謹,入,徒跣謝。帝曰:「相國休矣!相國爲民請苑,吾不許,我不過爲桀、紂王,而相國爲賢相。吾故繋相國,欲令百姓聞吾過也。」 8. 9陳豨之反也,燕王綰發兵撃其東北。當是時,陳豨使王黄求救匈奴;燕王綰亦使其臣張勝於匈奴,言豨等軍破。張勝至胡,故燕王藏荼子衍出亡在胡,見張勝曰:「公所以重於燕者,以習胡事也;燕所以久存者,以諸侯數反,兵連不決也。今公爲燕,欲急滅豨等;豨等已盡,次亦至燕,公等亦且爲虜矣。公何不令燕且緩陳豨,而與胡和!事寬,得長王燕;即有漢急,可以安國。」張勝以爲然,乃私令匈奴助豨等撃燕。燕王綰疑張勝與胡反,上書請族張勝。勝還,具道所以爲者;燕王乃詐論他人,脫勝家屬,使得爲匈奴間。而陰使范齊之陳豨所,欲令久亡,連兵勿決。 漢撃黥布,豨常將兵居代;漢撃斬豨,其裨將降,言燕王綰使范齊通計謀於豨所。帝使使召盧綰,綰稱病;上又使辟陽侯審食其、御史大夫趙堯往迎燕王,因驗問左右。綰愈恐,閉匿,謂其幸臣曰:「非劉氏而王,獨我與長沙耳。往年春,漢族淮陰,夏,誅彭越,皆呂氏計。令上病,屬任呂后;呂后婦人,專欲以事誅異姓王者及大功臣。」乃遂稱病不行,其左右皆亡匿。語頗洩,辟陽侯聞之,歸,具報上,上益怒。又得匈奴降者,言張勝亡在匈奴爲燕使。於是上曰:「盧綰果反矣!」春,二月,使樊噲以相國將兵撃綰,立皇子建爲燕王。 9. 10詔曰:「南武侯織,亦粤之世也,立以爲南海王。」 10. 11上撃布時,爲流矢所中,行道,疾甚。呂后迎良醫。醫入見,曰:「疾可治。」上嫚罵之曰:「吾以布衣提三尺取天下,此非天命乎!命乃在天,雖扁鵲何益!」遂不使治疾,賜黃金五十斤,罷之。呂后問曰:「陛下百歳後,蕭相國既死,誰令代之?」上曰:「曹參可。」問其次,曰:「王陵可,然少戇,陳平可以助之。陳平知有餘,然難獨任。周勃重厚少文,然安劉氏者必勃也,可令爲太尉。」呂后復問其次,上曰:「此後亦非乃所知也。」夏,四月,甲辰,帝崩於長樂宮。丁未,發喪,大赦天下。 11. 12盧綰與數千人居塞下候伺,幸上疾愈,自入謝。聞帝崩,遂亡入匈奴。 12. 13五月,丙寅,葬高帝於長陵。 初,高祖不修文學,而性明達,好謀,能聽,自監門、戍卒,見之如舊。初順民心作三章之約。天下既定,命蕭何次律、令,韓信申軍法,張蒼定章程,叔孫通制禮儀;又與功臣剖符作誓,丹書、鐵契,金匱、石室,藏之宗廟。雖日不暇給,規摹弘遠矣。 13. 14己巳,太子即皇帝位,尊皇后曰皇太后。 14. 15初,高帝病甚,人有惡樊噲,云:「黨於呂氏,即一日上晏駕,欲以兵誅趙王如意之屬。」帝大怒,用陳平謀,召絳侯周勃受詔床下,曰:「陳平亟馳傳載勃代噲將;平至軍中,即斬噲頭!」二人既受詔,馳傳,未至軍,行計之曰:「樊噲,帝之故人也,功多,且又呂后弟呂嬃之夫,有親且貴。帝以仇怒故欲斬之,則恐後悔;寧囚而致上,上自誅之。」未至軍,爲壇,以節召樊噲。噲受詔,即反接,載檻車傳詣長安;而令絳侯勃代將,將兵定燕反縣。 平行,聞帝崩,畏呂嬃讒之於太后,乃馳傳先去。逢使者,詔平與灌嬰屯滎陽。平受詔,立復馳至宮,哭殊悲;因固請得宿衞中。太后乃以爲郎中令,使傅教惠帝。是後呂嬃讒乃不得行。樊噲至,則赦,復爵邑。 15. 16太后令永巷囚戚夫人,髡鉗,衣赭衣,令舂。遣使召趙王如意。使者三反,趙相周昌謂使者曰:「高帝屬臣趙王,趙王年少,竊聞太后怨戚夫人,欲召趙王並誅之,臣不敢遣王。王且亦病,不能奉詔。」太后怒,先使人召昌。昌至長安,乃使人復召趙王。王來,未到;帝知太后怒,自迎趙王霸上,與入宮,自挾與起居飲食。太后欲殺之,不得間。 16. 孝惠皇帝 元年(丁未、前一九四) 1冬,十二月,帝晨出射。趙王少,不能蚤起;太后使人持鴆飲之。犁明,帝還,趙王已死。太后遂斷戚夫人手足,去眼,煇耳,飲喑藥,使居廁中,命日「人彘」。居數日,乃召帝觀人彘。帝見,問知其戚夫人,乃大哭,因病,歳餘不能起。使人請太后曰:「此非人所爲。臣爲太后子,終不能治天下。」帝以此日飲爲淫樂,不聽政。 臣光曰:爲人子者,父母有過則諫;諫而不聽,則號泣而隨之。安有守高祖之業,爲天下之主,不忍母之殘酷,遂棄國家而不恤,縱酒色以傷生!若孝惠者,可謂篤於小仁而未知大誼也。 1. 2徙淮陽王友爲趙王。 2. 3春,正月,始作長安城西北方。 3. 二年(戊申、前一九三) 1冬,十月,齊悼惠王來朝,飲於太后前。帝以齊王,兄也,置之上坐。太后怒,酌鴆酒置前,賜齊王爲壽。齊王起,帝亦起取卮;太后恐,自起泛帝卮。齊王怪之,因不敢飲,佯醉去;問知其鴆,大恐。齊内史士説王,使獻城陽郡爲魯元公主湯沐邑。太后喜,乃罷歸齊王。 1. 2春,正月,癸酉,有兩龍見蘭陵家人井中。 2. 3隴西地震。 3. 4夏,旱。 4. 5郃陽侯仲薨。 5. 6酇文終侯蕭何病,上親自臨視,因問曰:「君即百歳後,誰可代君者?」對曰:「知臣莫如主。」帝曰:「曹參何如?」何頓首曰:「帝得之矣,臣死不恨!」 秋,七月,辛未,何薨。何置田宅,必居窮僻處,爲家,不治垣屋。曰:「後世賢,師吾儉;不賢,毋爲勢家所奪。」 癸巳,以曹參爲相國。參聞何薨,告舍人:「趣治行!吾將入相。」居無何,使者果召參。始,參微時,與蕭何善;及爲將相,有隙;至何且死,所推賢唯參。參代何爲相,舉事無所變更,一遵何約束:擇郡國吏木訥於文辭、重厚長者,即召除爲丞相史;吏之言文刻深、欲務聲名者,輒斥去之。日夜飲醇酒。卿、大夫以下吏及賓客見參不事事,來者皆欲有言,參輒飲以醇酒;間欲有所言,復飲之,醉而後去,終莫得開説,以爲常。見人有細過,專掩匿覆蓋之,府中無事。 參子窋爲中大夫。帝怪相國不治事,以爲「豈少朕與?」使窋歸,以其私問參。參怒,笞窋二百,曰:「趣入侍!天下事非若所當言也!」至朝時,帝讓參曰:「乃者我使諫君也。」參免冠謝曰:「陛下自察聖武孰與高帝?」上曰:「朕乃安敢望先帝!」又曰:「陛下觀臣能孰與蕭何賢?」上曰:「君似不及也。」參曰:「陛下言之是也。高帝與蕭何定天下,法令既明。今陛下垂拱,參等守職,遵而勿失,不亦可乎?」帝曰:「善!」 參爲相國,出入三年,百姓歌之曰:「蕭何爲法,較若畫一;曹參代之,守而勿失。載其清淨,民以寧壹。」 6. 三年(己酉、前一九二) 1春,發長安六百里内男女十四萬六千人城長安,三十日罷。 1. 2以宗室女爲公主,嫁匈奴冒頓單于。是時,冒頓方強,爲書,使使遺高後,辭極褻嫚。高后大怒,召將相大臣,議斬其使者,發兵撃之。樊噲曰:「臣願得十萬衆橫行匈奴中!」中郎將季布曰:「噲可斬也!前匈奴圍高帝於平城,漢兵三十二萬,噲爲上將軍,不能解圍。今歌吟之聲未絶,傷夷者甫起,而噲欲搖動天下,妄言以十萬衆橫行,是面謾也。且夷狄譬如禽獸,得其善言不足喜,惡言不足怒也。」高后曰:「善!」令大謁者張釋報書,深自謙遜以謝之,並遺以車二乘,馬二駟。冒頓復使使來謝,曰:「未嘗聞中國禮義,陛下幸而赦之。」因獻馬,遂和親。 2. 3夏,五月,立閩越君搖爲東海王。搖與無諸,皆越王句踐之後也,從諸侯滅秦,功多,其民便附,故立之。都東甌,世號東甌王。 3. 4六月,發諸侯王、列侯徒隸二萬人城長安。 4. 5秋,七月,都厩災。 5. 6是歳,蜀湔氐反,撃平之。 6. 四年(庚戌、前一九一) 1冬,十月,立皇后張氏。后,帝姊魯元公主女也,太后欲爲重親,故以配帝。 1. 2春,正月,舉民孝、弟、力田者,復其身。 2. 3三月,甲子,皇帝冠,赦天下。 3. 4省法令妨吏民者;除挾書律。 4. 5帝以朝太后於長樂宮及間往,數蹕煩民,乃築覆道於武庫南。奉常叔孫通諫曰:「此高帝月出遊衣冠之道也,子孫奈何乘宗廟道上行哉!」帝懼曰:「急壞之!」通曰:「人主無過舉。今已作,百姓皆知之矣。願陛下爲原廟渭北,衣冠月出遊之,益廣宗廟,大孝之本。」上乃詔有司立原廟。 臣光曰:過者,人之所必不免也,惟聖賢爲能知而改之。古之聖王,患其有過而不自知也,故設誹謗之木,置敢諫之鼓,豈畏百姓之聞其過哉!是以仲虺美成湯曰:「改過不吝。」傅説戒高宗曰:「無恥過作非。」由是觀之,則爲人君者,固不以無過爲賢,而以改過爲美也。今叔孫通諫孝惠,乃雲「人主無過舉」,是教人君以文過遂非也,豈不繆哉! 5. 6長樂宮鴻臺災。 6. 7秋,七月,乙亥,未央宮凌室災;丙子,織室災。 7. 五年(辛亥、前一九〇) 1冬,雷;桃李華,棗實。 1. 2春,正月,復發長安六百里内男女十四萬五千人城長安,三十日罷。 2. 3夏,大旱,江河水少,谿谷水絶。 3. 4秋,八月,己丑,平陽懿侯曹參薨。 4. 六年(壬子、前一八九) 1冬,十月,以王陵爲右丞相,陳平爲左丞相。 1. 2齊悼惠王肥薨。 2. 3夏,留文成侯張良薨。 3. 4以周勃爲太尉。 4. 七年(癸丑、前一八八) 1冬,發車騎、材官詣滎陽,太尉灌嬰將。 1. 2春,正月,辛丑朔,日有食之。 2. 3夏,五月,丁卯,日有食之,既。 3. 4秋,八月,戊寅,帝崩於未央宮。大赦天下。九月,辛丑,葬安陵。 初,呂太后命張皇后取他人子養之,而殺其母,以爲太子。既葬,太子即皇帝位,年幼;太后臨朝稱制。 4.
https://w.atwiki.jp/imaska/pages/404.html
主な登場キャラ ─三国志の武将劉備 玄徳 傅彤 諸葛亮 孔明 関羽 雲長 張飛 翼徳 趙雲 子龍 孫乾 公祐 簡雍 憲和 ホウ統 士元 劉度 劉賢 刑道栄 劉禅 公嗣 魏延 文長 鮑隆 関興 安国 傅僉 曹操 孟徳 郭嘉 奉孝 荀彧 文若 張遼 文遠 曹沖 倉舒 曹丕 子桓 蔡瑁 徳珪 司馬懿 仲達 董昭 公仁 魏諷 子京 左慈 元放 孫権 仲謀 周瑜 公瑾 魯粛 子敬 呂蒙 子明 甘寧 興覇 馬超 孟起 馬騰 寿成 馬岱 姜維 伯約 祝融 于吉 呂布 奉先 用語ゆきまこ<タグ> 酷いマイリスコメ<タグ> 真面目な孫呉(一部除く)<タグ> もやし天女<タグ> 長嶋呂蒙<タグ> サムネライライ<タグ> 視聴者オロオロ<タグ> 黒孔明<タグ> ツン馬超・デレ馬超<タグ> まーた始まった<タグ・コメント> 種族:呂布<タグ> ミキさん<タグ> ここでは「三国志アイドル伝」における史実武将などについて解説しています。 アイマスキャラについてはPart.1を参照してください。 主な登場キャラ ─三国志の武将 劉備 玄徳 真たちを保護する。正史分と演義分がほどよくミックスされており、侠っぽさと仁者っぽさが同居する。 真の知識を利用することには消極的。利用を考える諸葛亮を止めた。 「ヘボ」な将と嘯くが、歴戦の猛者だけあって形勢判断は的確。曹操は「英雄」と評価し、呂布も「戦上手」と評するほど。但し郭嘉からは「曹操と比べると決断力が遅い」のが両者の差であると評されている。 + 以下ネタバレ注意 自身の作る世に人外の術は不要と考えており、春香の術を最期まで利用しようとした諸葛亮を一喝した。その後は左慈にも自身の考えを述べている。 度量と優れた人物眼を備えた英傑として描かれる。呉との単刀赴会では、関羽に代わって登場。魯粛に一矢報いた。 曹操の才能を理解するも、彼の作る国が「才ある者が治めねばたちどころに崩壊する国」であることも理解しており、そのことが曹操と決別した理由であると真達に告げている。 曹操より年齢が少し若いこともあるが、曹操に比べると本作に置いては衰えに関しては遅い。史実に比べると人材喪失が少なかったことも影響しているのだろう。 傅彤 アイドルの護衛役兼監視役のぷろでゅーさー。通称ふーちゃん。 若いが将としての器量はそこそこある。妻・蘭花と息子・傅僉(通称ふーくん)の3人家族。 美希に眠る将才を「黄龍」と評する。美希のP役。 + 以下ネタバレ注意 長坂の戦いで妻の蘭花を喪う。 赤壁では曹操軍の別働隊と死闘を繰り広げる。真をかばい、格上の孫礼を撃破。「ぷろでゅーさー」の面目躍如となった。 その功もあり、偏将軍に抜擢される。同時に真ら5人の上司も兼務することになった。 その他、魏延や鮑隆ら若手の将も束ねる立場に。かなり苦労人。 武力は70代後半だが、一騎打ちでは数字以上の強さを見せる。 涪水関の戦いでは呂布の猛攻を防ぐべく、自ら殿となって対峙。若き将たちが紡ぐ未来を守るという意思の元、呂布相手に手傷を負わせるも、最後は立ち往生して果てた。その死に様は、呂布をして「忠烈の猛将」「武人の鑑」と、敬意を払わせたほどであった。 諸葛亮 孔明 未来を知る真を何らかの形で利用できないかと画策する。 + 以下ネタバレ注意 新野の戦いでは、曹仁本隊を孔明の罠コンボで壊滅させた。 曹操との開戦に悩む孫呉を、周瑜とのコンビで説得。開戦に導く。 仁徳のある清流派を装いながら、実は陰湿系の黒い軍師。赤壁では春香を利用して東南の風を吹かせる。 真らを劉備軍に縛るために登用を進言する。 劉琦を暗殺するなど凄まじい黒さから「BF団の孔明よりひどい」などのコメントが付いた。 広漢の戦い後、曹操の徐州大虐殺に居合わせたことが明らかになる。幼い頃の悲惨な体験ゆえに、何としても曹操の天下を防ぎたいと考える。 対呂布の切り札として馬超と接触、成都攻略戦に間に合わせる事に成功する。益州制圧後は次々と内政の献策を行った。 防衛戦には定評があり、その手腕は曹操や郭嘉が認める程であり、曹操の侵攻も、最終的には敗れたものの、可能な限りの時間稼ぎに成功している。 関羽 雲長 アイドルとの関わりが薄いためあまり出番はないが、武神級の武将として多くの人物の評判に上る。 劉備の益州進出後は、史実通り荊州の司令官を務める。 周囲が現状に満足しつつある風潮と、自身が戦に参加していない状況に焦りを覚えてもいる。 + 以下ネタバレ注意 真たちが帰還した直後に荊州での戦いで友でもある張遼と一騎打ちを行い、辛うじて勝利するも自身も重傷を負い陣没した。 張飛 翼徳 長坂の戦いでは単騎で曹操軍を圧倒。楽進・許褚を負傷させた。 戦は強いがやっぱりロリコン。やよい以下アイドルはドン引き。 とはいえ将としては完成の域に達しており、戦いながら真達を気遣う余裕もある。 + 以下ネタバレ注意 賭け事にはめっぽう弱く「他人の財布に定評がある(簡雍談)」という。真と孫尚香の対決時も賭けで大損していた。 広漢の戦いでは、真救出のために命令無視の行動をする雪歩を敢えて見逃す。その後、他の敵を撃退した上で趙雲らと共に援軍に駆けつけた。 呂布との最終決戦では戦力の中心となる。 趙雲 子龍 真の師匠役。長坂では史実通りの活躍を見せ、曹操の人材病を発動させる。 桂陽では演義通り趙範を殴りつける。現在独身。が、雲リョクに見初められ、独身生活に終わりを告げた。 漢中の戦いでは真と共に獅子奮迅の戦いぶりを見せ、劉備からは「満身肝である」と激賞されることになる。 孫乾 公祐 劉備軍の文官筆頭格。簡雍とともに真たちの世話を焼いていたが……。 + 以下ネタバレ注意 長坂の戦いにて、真らを庇い楽進隊に討たれる。史実より早い退場となってしまった。 簡雍 憲和 劉備の古馴染み。気さくな性格で、アイドルにもすぐに馴染む。長坂の戦いで左腕を失う。 + 以下ネタバレ注意 呂布との戦いを前に、劉璋と劉備について語り合う。史実とは違った形で、降伏(合流)を促すことになった。 漢中王を称することを渋っていた劉備に称することを病の床で促し、劉備が漢中王を称する直前に病没した。 ホウ統 士元 劉備軍の副軍師格。連環の計の実行役の一人で、真たちの先生役も務める。 + 以下ネタバレ注意 張飛と孫乾に代わって同行した真の前で、鳳雛の名にふさわしい実力を発揮。対呂布戦でも活躍する。 落鳳坡において戦死しかけたが、歴史変革の危険より師匠への恩を選んだ真の機転により生き延びる。 荊州での呉との衝突を経て、関羽の軍師に就く。この直後、夜遅くまで起きていた伊織が「時震」を感知した。 劉度 零陵太守にして有名な荊州四英傑の一人。やよいを保護する。 赤壁後は劉備軍に降伏する。無血開城と、やよいのつてもあってか原作以上に穏便な流れとなった。 彼が主役の某長編動画シリーズもあってか、関連したコメ・タグも見られる。 体調が思わしくなかった所に、呉の零陵侵攻を受け、結果命を縮める事になる。このことがやよいに深い傷を残す事になった。 劉賢 零陵太守劉度の長男。真たちを迎えに行く為にやよいと共に長江を渡る。が成り行きで劉備軍に合流することに。 劉備軍に正式加入後もやよいの護衛官的ポジションに落ち着いた様子。 刑道栄 零陵太守劉度の配下。やよいの猛烈なファンでありハイタッチも好む。 KDいぇい! 劉備軍に加入後はすっかりやよいの護衛武将に。 + 以下ネタバレ注意 馬超にはスルーされたが、徐庶と郭淮には(魏延よりは下とはいえ)武勇を評価された。よかったね、KDA! 劉禅 公嗣 長坂では壮絶な「見捨てろ」「投げ捨てろ」コールと舌打ちに見舞われる。 孫乾を押しのけ、幕間の解説役に登場。暴走がちな小鳥さんとの相乗効果で、色々とえらいことになった。あずまこ派らしい。 + 以下ネタバレ注意 幕間ではひどいダメ人間だったが、本編では歴史の変化で劉備軍に残った孫尚香の孫堅直伝スパルタ教育を受けている。 彼女曰く「武勇と戦術は孫策、勘と人物眼は劉備」な後継者に育てたいとのこと。 魏延 文長 黄忠の部下として登場。純粋な軍人で、反骨の雰囲気は感じられない。美希、雪歩らアイドルの護衛を担当する。 類・白魏延<タグ> 何かにつけて「粉骨砕身」と言う。 + 以下ネタバレ注意 やよいと鄧芝の護衛として潼関に赴き、帰路で曹操軍に遭遇した際にはその武威で開戦を防ぐ。馬超は魏延の強さを一目で見抜いた。 傅彤の遺言を受け、武で真たちを補佐する事を誓っている。 呂布最終戦では、時間稼ぎをするべく最初に一騎打ちに挑んだが、一合で敗れてしまった。 鮑隆 桂陽太守趙範の部下として登場。真の将としての魅力にまっこまこになり、直属の部下となる。 + 以下ネタバレ注意 素直であまり人を疑わない真と、愚直な同僚の魏延とは違い人と世の闇を知っており、戦場では参謀役も務める。 真を守るため、武力では遥かに上の呂布に突っ込む。返り討ちにされて重傷を負ってもなお、真救出のために奮戦した。 魏延と同様、傅彤の遺言を受けて、改めて真達を補佐する事を誓い、同時に真達に出来ない汚れ役は自分が果たす事を考えている。 最後は呉の追撃から美希たちを逃がすために殿となり、真に出会い仕えられたことに満足して散った。 関興 安国 関羽の次男。長坂の戦いで真に助けられたこともあってか、重度の真士になる。 真のこととなると、台詞が会話ウインドウからはみ出す勢いで熱い思いを語る。 諸葛亮にも認められるエリート候補生。だが真士化はさらに進み、ついに画面からも台詞がはみ出した。 傅僉 ふーちゃんこと傅彤の息子。209年時点で10歳。美希を慕い「美希お姉ちゃん」と呼ぶ。 二十五話では美味しい目に遭う。しかし美希の御仕置きもある意味美味しいかもしれない。 得物は槍と鉄扇。武芸のセンスは父以上らしい。 + 以下ネタバレ注意 212年の夷陵の戦いから大人グラで登場。まだ13歳だが顔グラゆえに、美希に「急に老けた」と言われる。 曹操 孟徳 中原の覇者。郭嘉のために、無官の華佗にすら頭を下げられる度量を持つ。でも三大病は健在。 「かわいい子には旅をさせよ」の語源となる。 + 以下ネタバレ注意 赤壁では、的確な判断で陸上部隊の被害を最小限に抑えた。 伊織の才能に注目し、愛息曹沖の片腕として参軍に任命する。また、医療部隊を創設してあずさを将に任命。求賢令の先駆けとした。 伊織の暴走発言を受け、一漢臣として漢の再興と忠義に人生を賭ける意志を語る。また、この時に「歩出夏門行」を詠んだ。まさに非常の人、超世の傑。 渭水の戦いの緒戦では馬超に敗れ、あわや戦死の危機に陥る。刺客となった千早の一瞬の隙を突き、脱出に成功した。 魏公就任により、最早「自分の寿命=漢の寿命」である事が決定的になったことを悟る。 天下統一のため蜀攻略に乗り出すが、郭嘉の陣没と荀彧の病没の知らせを同時に受け、ショックのあまり倒れ撤退。この時のショックは、曹操自身を一気に老け込ませるほどのものであった。 後継者を曹丕と定めたものの、対呉戦において彼が戦死してしまい、後継者争いに頭を悩ませることに。更に歴戦の武将や軍師が次々と物故したことから、諸将の経験不足に歯がゆく思う場面が増えてくる。 劉備の漢中侵攻に対し、決着をつけるべく自ら出陣。この時、曹操の出陣を止めようと「鶏肋」という言葉を発した曹植に対し、本気で激怒している。 その漢中の戦いにおいて自身が卒中で倒れ軍は撤退。曹操自身はあずさに救われ一命は取り留めたが、一層老け込むこととなり、往時の判断力も鈍ってしまうこととなる。 劉備に対して王業と覇業では勝ったが、度量や軍人としては勝ちきれなかったと考えており、そのことで後にある決断を下すこととなる。 郭嘉 奉孝 曹操軍の筆頭軍師。本来は病で207年に死ぬはずだったが、あずさ・伊織の登場により救われる。 あずささんを天女や女神と評する。例によって大きいのが大好きで、伊織はややスルー気味。 + 以下ネタバレ注意 長坂では張飛の陽動・伏兵策を破る。 赤壁では「苦肉の策」を見抜き、孫権軍に火計返しを仕掛ける。計略は成功寸前まで行ったが、春香の妖術により計略を跳ね返される。 合肥では張遼と共に援軍として登場。太史慈を討ち、孫権を破って勝利に貢献した。 渭水では二段目の離間の計を担当。戦の形勢を決めるが、馬超の想像以上の武に包囲を突破され、千早の確保には失敗する。 211年冬、華佗に余命が最長で五年だと宣告される。その五年で劉備を討ち、曹操の天下を決定づけようと決意する。 蜀攻めでは、剣閣の堅陣を避け、間道から曹操率いる軍勢による後方地攻略を策定。最後の難関である孔明の防衛陣も、数の差と蜀軍の一瞬の隙をついた攻撃によって突破する事に成功するが、既に体力の限界を超えており、そのまま陣没する事になる。 荀彧 文若 曹操が厚い信頼を寄せる重鎮の一人。漢の忠臣にして尚書令。 + 以下ネタバレ注意 伊織の登用などに難色を示すが、後にその才能を認めて曹沖と伊織の師となる。 曹家による簒奪を危惧しており、求賢令や魏公就任には反対する。ただし曹操本人に簒奪の意志があるとは思っていない。 劉協に拝謁後、報告に向かった時に曹操が伊織に漢への忠義を語ったのを盗み聞きしてしまい、感激のあまり泣く。 自らの教え子であり曹操の本音も知る曹沖なら、簒奪を防げるのではと考える。だが、お家騒動で衰退した袁紹や劉表のことを考えて苦悩する。 前述の立場から、曹丕一派からは排斥の対象になっており、一時は曹操の暗示も見抜けないほど心身の喪失を覚えるほどになっていたが、伊織や曹沖の働きから、曹操の真意を理解し最悪の事態は免れた。 魏公国の建国で曹操が漢の政治から距離を置くことになるのを受け、三公である司徒に昇る。 曹丕一派の策略により体調が悪化。伊織や曹沖を助けるべく、後継者に曹丕を推薦する傍ら、曹丕一派が伊織や曹沖に暗躍しないよう幾つかの手を打った後、病没する。 張遼 文遠 烏丸騎兵を指揮する名将。郭嘉+鳥丸騎兵というとまんま蒼天設定の編成を組む。 + 以下ネタバレ注意 長坂の戦いでは、アイドルを無傷で捕らえるため真と一騎打ちをする。力の差は圧倒的だったが、真のカウンターを前に本気の一撃を繰り出さざるを得なくなり、致命傷を負わせてしまう。 真を「技量は未熟だが、十年後なら自分が負けるかもしれない」と評価した。 赤壁では「完成度四割」ながら烏丸騎兵で船上を駆け、黄蓋を射落とす活躍を見せる。 合肥ではわずか二撃で太史慈を討ち取る。異常なほどの呉キラーぶりを誇る。 渭水の戦いでは、徐晃と二人がかりで馬超に挑むが敗退。渭水の決戦でも退却する馬超に挑むが、敗北して生死の境をさまよう重傷を負う。 合肥の戦いでは二度に渡り孫権軍を撃破。封印していた量産型方天画戟を得物に、甘寧や周泰、凌統ら呉の主力を片っ端から蹴散らした。 方天画戟を託された真を見て冷静さを失い、再び斬ってしまうところであったが、ホウ徳が割って入ったため事なきを得た。 一騎打ち後には呂布の意思を尊重、真が方天画戟を所持することを認めた。 初めて真と槍を交えてから12年余りの時を経て長坂で再び真と対峙、3度目となった一騎打ちは真の成長と決死の覚悟もあって激戦の末に引き分けとなり、その武を称賛した。 真達の現代帰還直後に長年の友であり目標の一人であった関羽と一騎打ちを行い、激闘の末に敗れて戦死した。 曹沖 倉舒 曹操の第八男。曹操の才能を引き継いだ天才児。華佗によって救われ、死亡フラグが回避される。 結果的に同じく天才と称され、友であった周不疑も死亡フラグを回避している。 その後、曹操の計らいで伊織と友人に。伊織を「じゃじゃ馬」と評して、さっそく弄りにかかっている。 文の指導は荀彧、武の指導は郝昭と郭淮とやたら豪華。曹操の寵愛ここに極まれりである。 合肥周辺での屯田を計画する。また、劉備軍にいるやよいの存在を知り、奪還策を計画した。 + 以下ネタバレ注意 合肥では伊織とあずさの献策を採用し、太守温恢と共に太史慈を破る策を立てる。 その才能は兄達を凌ぐほど。曹操に期待されているが、本人に後継の意志はない。 後に正史や演義では魏に下った後は表立った活躍があまりない徐庶も曹操の計らいで側近に加わる。 212年(17歳)から大人グラに変更。父譲りの才能を発揮し、曹丕に警戒されている。 一方、良き友人の伊織には「結婚しよう」と本音か冗談かわからない発言も。この親にしてこの子ありか。 伊織が自分のために働いていることを理解しながらも、同時に伊織の政治的立場が危うくなっていることに本気で心配をしている。 伊織とは互いに強い絆で結ばれていたが、その絆ゆえに現代に帰ることを決意した伊織の意思を尊重した。互いの立場が少し違えば「共に漢を建て直していく」というIFもあったかもしれない。 曹丕 子桓 曹操の第三男。曹沖に才覚や器量では劣るものの、曹操の後を次げるだけの資質と決断力を持つ。 史実と異なり曹沖が生存していたため、厳しくなった後継者争いを制するためにいろいろと側近達ともに暗躍するが…… + 以下ネタバレ注意 合肥にて曹沖の陣中を訪れた際に甘寧の夜襲を受け、曹沖を守るために剣を取って戦うが敗北し負傷。 負傷で体力が落ちたところで疫病に感染、あずさの治療も間に合わず、曹操や曹沖に看取られて陣没した。 かつて兄である曹昂に「兄として弟達には厳しくあれ、だがいざという時は家を守れ」という遺言を忠実に実践した。 父同様に不器用な優しさを持っており、後継者争いの候補であった曹沖に厳しく当たったのも、その優しすぎる性格では重圧に潰れるということを危惧してのものであり、自分に何かあったら曹沖に後継を託すつもりであったことを死の床で語る。 本来の史実では魏朝の初代皇帝になっていた彼の死の影響は非常に大きく、曹沖が後継者としての覚悟を決めた直後に2回目の時震(1回目よりはるかに大きな規模)が発生した。 蔡瑁 徳珪 劉表を謀殺し、後継者の劉琮を曹操に降伏させる。自らは孫呉との戦いで功を挙げ、荊州刺史に就任しようと企む。 赤壁の戦いではある有名な台詞のパロディを吐く。さすがに三分とはいかなかったが……。 司馬懿 仲達 後に晋の実質的な祖となる魏の軍師であり政治家。 司馬八達と言われた兄弟の中でも一番の麒麟児と言われ、荀彧に推挙されて魏に仕える。 あらゆる面で卓越した能力を持っていたが、恐妻家であったりとか曹丕四友のなかで唯一詩の才能が壊滅的だったという人間臭いエピソードもある。 + 以下ネタバレ注意 曹操存命中は基本的に才気を隠しており、便利屋みたいなことをしていることが作中では多い。曹丕は自分の代になったら重用するつもりだったと語っており、仲達もそれに応えるつもりであったのだが…… 赤壁以後に加わった参謀では能力が別格。秀才であり同じ参謀である伊織も「考えが読めない」と語るほど。 とはいえ赤壁以後も参謀は程昱こそ引退していたが、賈詡や史実と違って生き延びた郭嘉もおり、彼らに比べると流石に経験の差はあった模様。 特に大局を読むことに長けており、立ち回りも上手い。その能力を持って、大功を建てるために真達の帰途を阻まんと最期の難関となる。 董昭 公仁 史実で魏の建国に貢献した軍師であり策謀家。 本作での行動は史実準拠なのでかなり黒い人物で功名心もあるが、悪党というわけではない。 史実では存在しない伊織やあずさが魏にいたことが彼の人生を狂わせることになる。 + 以下ネタバレ注意 曹操を魏王に押し上げるまではほぼ史実通りであったが、その後にあずさの医学知識を『魏』のものにしようと詰問した際に、その場で石苞を徒死と発言したことがトウ艾を激怒させ、その場で斬られて絶命してしまった。彼自身のあずさへの詰問は自身の権限内でごく当たり前のことであったが、曹沖には「事を急ぎすぎた」と評されたように、彼自身も気付かない焦りがあったと思われる。 曹丕の死、曹沖の生存も彼にとっては不幸だったと言わざるを得ない。 後に史実では三公になる自身の死と同じく魏の重臣として蜀を滅ぼすトウ艾の出奔は、歴史の大改編となり大時震を引き起こした。 魏諷 子京 史実における魏の家臣。魏諷の乱を起こした人物だが、演義には登場しない。 本作では数少ない徹底した悪役であり謀略家。 + 以下ネタバレ注意 本編初登場となった合肥においていきなり暗躍。命令に反して曹丕らが負傷したことをあずさに隠蔽、さらに嘘を混ぜた報告を行い、結果的に曹丕を含む多数の将を陣没させた。 伊織の魏における立場が一気に悪化したのも彼の謀略によるもので、それすらも下記の反乱計画の一端であった。 反乱の手際に関しても人の良い曹沖や伊織の目を誤魔化しつつ事を運ぶも、一度は引退していた程イクを中心とした別の軍師たちの手によって完全に暴かれて失敗、最終的に処刑された。この時の反乱の一派が伊織の頼みで屋敷に向かった石苞に致命傷を負わせ、石苞は駆け付けた伊織と徐庶に看取られて亡くなってしまう。 合肥で曹丕、反乱時に石苞と魏晋における史実の重要人物2人を間接的に殺害して歴史の大改編に大きくかかわり、大時震を引き起こす切っ掛けを作っている。 左慈 元放 ご存知お騒がせ仙人。アイドルをタイムスリップさせた元凶。 + 以下ネタバレ注意 左慈の作った壷は、民に慕われ、力のある英雄を召喚する壷……の失敗作。 英雄を呼ぶ理由は「元学友が企む武神の復活を防ぐため」だった。 壷には呼び出された人がこの時代に適応できるよう、適当な人物の魂の一部を借りられるようにしてあったが、失敗作のせいか左慈本人がアイドル全員に力を吸い取られる事態になり、元の時代に戻す壷は現在作れない。 左慈の妖術は「因果を歪める力」で、熟練すれば天候を変えたりすることができる。ただし力を受け取った春香は全くコントロールできないため、呪文を覚えさせて制御しようとする。 陸口にて于吉に殺されたかに見えたが、真らに分けられた魂の一部は健在のため。生存している模様。 赤壁後、力を失いながらも真達のもとに帰還。春香の指導をすることとなった。 連続使用はできないが、アイドルのおおまかな所在位置を探索することができる。 春香に敗れ再起不能になっていた干吉を取り込み、本来とは違う形になってしまったが、結果として力を取り戻している。 孫権 仲謀 孫呉の主ではあるが実権は小さい。魯粛らと謀り、議場で周瑜・諸葛亮に演説させて曹操との開戦を決める。 中華の常識にとらわれない、フロンティア精神の持ち主。 第二次合肥の戦いでは、本戦を父や兄を越える戦いと位置づける発言をし、「フラグを建てるな」コメが飛び交う事になったが、お約束どおり完膚なきまでの大敗を喫する事になる。 周瑜 公瑾 孫呉の水軍提督。律子を親戚と説明し、手元に留め置く。大きな戦力となるアイドルを全員呉に呼ぼうと考えている。 + 以下ネタバレ注意 呂蒙、律子らを相手に勉強会を開いている。毎日が忙しく、ほとんど寝ていない。 赤壁の戦いでは、孫呉水軍の総力を結集して曹操軍を打ち破る。敵の兵法は片っ端から弾き返した。 既に病に蝕まれているが、その病を利用して江陵陥落を早めた。 210年、巴丘にて死去。最期は孫策と共に許昌を攻める夢を見て逝った。 魯粛 子敬 正史寄りの縦横家。自らを「狂児」と称するなどやや斜めに構えた外交の達人で、赤壁開戦の立役者。 天下二分の計(変則三分の計でもある)を構想し、孫権を皇帝にしようと考えている。 + 以下ネタバレ注意 律子と共に、諸将を説得して江陵譲渡を決める。孔明との会話では「黒いオーラ」も。 律子の才能を高く評価し、諸葛亮とはまた違った形で、彼女を呉の為に役立てようとし、結果的に成功する。ただ自分のやり方がろくでもないことは自覚しており、死んでもろくな目にはあわないだろうと自嘲している。 周瑜に続く自身の病死により、本来外様であるはずの律子は長らく呪縛に苦しめられることになる。 呂蒙 子明 すごい阿蒙。字がほとんど読めない。でも天から与えられた感覚のみで一軍の将として活躍する。 真面目な雰囲気の孫呉で、唯一と言っていい三枚目キャラ。指揮中は擬音が多く、参謀の張紘があきれた。 + 以下ネタバレ注意 甘寧とともに呉における律子最大の理解者。律子のことを「りっちゃん」と呼んでいる。 赤壁での活躍を評価され、黄蓋の遺品である鉄鞭を受け継ぐ。 周瑜死後、軍事の中核を任される。律子の尽力で読み書きも出来るようになった。 山越討伐で功績を挙げた後、かの有名な格言を言い放つ。しかしその言葉は……。 亜美曰く「アホー」の兄ちゃん。 212年頃から成長を見せ、213年には「進化」しかけた。でも律子の来訪によりキャンセル。 孫呉の荊州侵攻前夜において遂に覚醒。ただその覚醒した原因はというと・・・ 律子を呉に留まらせるよう策を立てているが、本心では律子が無事に未来に帰ることがよいと考えている。 218年の江陵の攻略戦中に自分の寿命が後わずかになったことを受け、甘寧とともに律子の意思を尊重する決意を固めた。 甘寧 興覇 孫呉の特攻隊長。呂蒙と共に旧劉表水軍に追われていた律子を救う。 + 以下ネタバレ注意 周瑜に恩義を感じており、その死の際には天下二分の計の遂行を約束する。律子の正体の真相を知る一人。 律子や亜美にとってはよき兄貴分とも言える存在にして、呉では最大の理解者でもある。 周律として孫呉の重鎮となっていく律子を頼もしく思う一方、彼女が周瑜の遺志と違う方向に進む事を気にしている。 律子を孫呉に留まらせようと策を立てた呂蒙に本気で腹を立て、彼を殴り飛ばすが、そのとき彼の真意(自分だって嫌だが呉は律子なしでは動けない)を理解し、引き下がる。 最後は呂蒙と共に律子の意思を尊重、律子と亜美の出奔を手助けした。 馬超 孟起 西涼に漂着した千早を拾う。しかし、千早を可愛がる家族を尻目に、冷たい態度を貫いている。通称ツン馬超。 + 以下ネタバレ注意 閻行の刃から千早を救う。過去に韓遂軍と戦い、閻行との一騎打ちに敗北。母と許嫁ら一族を目の前で斬られた。 そのため孤高を保ちあまり他人に干渉しない……が、根は優しいため、しばしば千早を気遣う。 真相を告げられ城を飛び出した千早を説得する際に、普段は見せない熱さを露わに。千早を「家族」と呼んだ。 馬騰死後、涼州軍閥盟主を継いで挙兵。千早らを引き連れて曹操に復讐戦を挑む。 呂布と対等クラスの強さを誇る。夏侯淵、曹仁、曹洪、曹彰、張遼、徐晃、許褚、曹休、李通、鍾繇ら並居る名将・猛将を片っ端から打ち破った。 呂布とは対照的に、強さや戦に救いはないと考える。渭水の決戦では負傷しているにも関わらず夏侯淵・徐晃・曹休を単騎で撃破するが、千早たち家族を救う為にあえて敵陣に突っ込む。 千早を劉備軍に送り届ける(涼州奪回の目的もある)ため、一路蜀を目指す。通過点の漢中では、張衛に迎えられて一時逗留する。 その後、張魯の下を離れ、成都攻防戦で劉備に合流。呂布軍を打ち破ると共に、千早の想いを受け止めている。 呂布最終戦では、張飛と並んで呂布相手の切り札であり、紙一重の差で勝利をもぎ取る。 曹操による蜀攻略戦において、因縁のある閻行を討ち取り、長年の確執に決着をつけた。 その武勇と人柄は劉備軍でも一目おかれているが、同時に警戒もされており、当人もそのことは理解しているようである。 良くも悪くも千早と相互依存の関係になっており、千早が現代に帰る決意をした後は完全に上の空の状態となっている。 その結果、漢中攻防戦では一度は勝っている曹彰に一騎打ちで惨敗し、後遺症が残る負傷を負った。 馬騰 寿成 涼州軍閥の盟主。馬超と馬岱が拾ってきた千早を溺愛する。 + 以下ネタバレ注意 千早のライブをバックアップするなど、その歌唱力も気に入っている様子。 210年末、曹操謀殺を実行に移すが密告者により露見。馬休・馬鉄と共に命を落とす。 千早を正式に馬一族として迎えるつもりであったが、上記の出来事があったため、彼の存命中には果たされなかった。 馬岱 馬超の従弟。戦争や交渉などで馬超の補佐を担当する。 + 以下ネタバレ注意 左慈の召喚の際、千早に能力を吸われている。全体的に10前後ステータスが下がっている。 なのに危なっかしい馬超と千早の補佐という重責を担い続ける。慢性的な胃痛に悩まされており、姜維から勧められた胃薬を服用している模様。「馬岱は不憫」のタグもある。 姜維 伯約 + 以下ネタバレ注意 まさかの登場。父の死後馬超と千早に拾われ、共に漢中に向かう。 後のライバルである鄧艾とも、史実より圧倒的に早い段階で出会うこととなる。 祝融 南蛮王孟獲の妻。相変わらずのカカァ天下。 + 以下ネタバレ注意 ヒラの南蛮武将になってしまった孟獲に対し中華制覇後の下剋上を勧めるが、肝心の双子に対しての態度はどうみてもいいお母さん。 弟の帯来洞主曰く「下剋上する気無いだろ。溺愛的に考えて」 于吉 左慈の元学友。武神を甦らせて野望を達成すべく暗躍する。左慈はこの凶行を阻止するために召喚の壺を作った。(結果的には大失敗しているが) + 以下ネタバレ注意 赤壁の戦い前に、左慈と邂逅。目的達成の障害を、得意の術で葬ったかに見えた。 赤壁の戦いで戦況をひっくり返した春香の術を見極めるために変装して春香を見定める。「あと二回使えば廃人」との評価を下した。 ついに武神・呂布を復活させ、その地盤として亜美・真美の支配する南蛮を奪取させる。不安定な呂布の魂を補うため、2人分の強い魂を持つ真美(亜美と名乗っているが)を喰うように勧める。 広漢の戦いでは得意の雷術を二度仕掛けるが、春香に防がれた。 成都攻略戦では、余力のある春香の身体を乗っ取ろうと画策するも、春香の底力を見抜けず失敗。「消滅」した。 呂布 奉先 + 以下ネタバレ注意 198年、史実通り曹操との戦に敗れて刑死した。……が、于吉がその遺骸と方天画戟を修繕して魂を呼び戻し、210年に甦る。 益州3豪族を傘下に吸収し、亜美・真美の支配する南蛮を攻撃。孟獲を歯牙にもかけず撃破し、雲南を制圧する。 その後亜美や南蛮の武将をかばって投降した真美の芝居を見抜く。真美は呂布を「勝ったのに寂しそう」と評した。 南蛮王の地位と兵力を奪い、北伐を計画する。 戦いこそが救いだと語る。一度死んだせいか色々と悟っている様子。 広漢の戦いでは、落とし穴で大打撃を受けながらも、一度の突撃で真隊を壊滅に追い込む。3人がかりで挑んだ真と魏延、鮑隆も「遊びながら」撃ち破った。 前述の通り、于吉の術によって復活したものの、その身は不安定であり、于吉は真美を喰うよう進言したが、真美の「おっちゃんは最強」と言う発言に、天下無双の勇者の誇りを今一度思い出し、自力で不安定さを直してのけた。 成都攻防戦において、于吉とのリンクが切れ、本来ならば消滅するはずだったのだが、未だ満たされる想いから現世に留まる。 最後は、劉備軍の主力武将(張飛・馬超・趙雲・黄忠・魏延・真・千早)相手に、心行くまでの一騎討ちを行い(千早と黄忠は狙撃のみ)、全力を出し切った後、最後の舞台を演出した劉備に礼を告げて天へと戻った。この時の呂布の武は凄まじく、かつて関羽の助けがあったとはいえ五分に渡り合った張飛に「虎牢関の時より格段に上」と言わしめるほどであり、魏延を一撃で倒し、張飛・馬超・趙雲の3人を相手どっても優位に戦いを運ぶほどであった。 用語 ゆきまこ<タグ> 高確率でつけられるタグ。ハートフルなゆきまこの友情は素晴らしいと思うのです。 酷いマイリスコメ<タグ> だいたいが春香いじめか千早いじめ。もしくは小鳥さん暴走。 真面目な孫呉(一部除く)<タグ> ネタキャラ扱いがもっぱらな孫権を筆頭に、孫呉は正史テイストで熱い面々が揃う。でもやはり阿蒙は格が違った。(類・カッコいい孫呉) もやし天女<タグ> あちこちでもやしを普及させて天女と崇められているやよいに対してついたタグ。郭淮はもやしと聞いてやよいを特定した。 長嶋呂蒙<タグ> 戦闘中の指示にやたら擬音が多い呂蒙に対してつけられた。(類・長嶋子明) サムネライライ<タグ> そのまんま。サムネが蒼天張遼。 視聴者オロオロ<タグ> 作者が発症した二十五話を象徴するタグ。 黒孔明<タグ> 悪役の道を邁進する諸葛亮が何か企んでいる回によくつくタグ。 ツン馬超・デレ馬超<タグ> 読んで字の如く。 まーた始まった<タグ・コメント> 曹操の人材病と人妻病が発症すると登場する。 種族:呂布<タグ> Ⅸ仕様では兵法熟練値2000~3000、11仕様では騎兵S+100、明鏡効果付き、しかも覚醒後は武力120とぶっ飛んだ能力の呂布につけられたタグ。元々は三国アイドル列伝で使われていたタグである。 ミキさん<タグ> やる気と知略に満ちた覚醒美希を、真美が「三国志武将を倒せるレベルまで強制的に成長したっぽい」と評したこと。 元ネタはHUNTER×HUNTERの「ゴンさん」。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/tsugan/pages/109.html
資治通鑑巻第六 秦紀一 昭襄王 五十二年(丙午、前二五五) 1河東守王稽坐與諸侯通,棄市。應侯日以不懌。王臨朝而歎,應侯請其故。王曰:「今武安君死,而鄭安平、王稽等皆畔,内無良將而外多敵國,吾是以憂。」應侯懼,不知所出。 燕客蔡澤聞之,西入秦,先使人宣言於應侯曰:「蔡澤,天下雄辯之士。彼見王,必困君而奪君之位。」應侯怒,使人召之。蔡澤見應侯,禮又倨。應侯不快,因讓之曰:「子宣言欲代我相,請聞其説。」蔡澤曰:「吁,君何見之晩也!夫四時之序,成功者去。君獨不見夫秦之商君、楚之吳起、越之大夫種,何足願與?」應侯謬曰:「何爲不可?!此三子者,義之至也,忠之盡也。君子有殺身以成名,死無所恨!」蔡澤曰:「夫人立功豈不期於成全邪?身名倶全者,上也;名可法而身死者,次也;名僇辱而身全者,下也。夫商君、呉起、大夫種,其爲人臣盡忠致功,則可願矣。閎夭、周公,豈不亦忠且聖乎?!三子之可願,孰與閎夭、周公哉?」應侯曰:「善。」蔡澤曰:「然則君之主惇厚舊故,不倍功臣,孰與孝公、楚王、越王?」曰:「未知何如。」蔡澤曰:「君之功能孰與三子?」曰:「不若。」蔡澤曰:「然則君身不退,患恐甚於三子矣。語曰:『日中則移,月滿則虧。』進退嬴縮,與時變化,聖人之道也。今君之怨已讎而德已報,意欲至矣而無變計,竊爲君危之。」應侯遂延以爲上客,因薦於王。王召與語,大悅,拜爲客卿。應侯因謝病免。王新悅蔡澤計畫,遂以爲相國,澤爲相數月,免。 1. 2楚春申君以荀卿爲蘭陵令。荀卿者,趙人,名況,嘗與臨武君論兵於趙孝成王之前。王曰:「請問兵要。」臨武君對曰:「上得天時,下得地利,觀敵之變動,後之發,先之至,此用兵之要術也。」荀卿曰:「不然。臣所聞古之道,凡用兵攻戰之本,在乎一民。弓矢不調,則羿不能以中;六馬不和,則造父不能以致遠;士民不親附,則湯、武不能以必勝也。故善附民者,是乃善用兵者也。故兵要在乎附民而已。」臨武君曰:「不然。兵之所貴者勢利也,所行者變詐也。善用兵者感忽悠闇,莫知所從出。孫吳用之,無敵於天下,豈必待附民哉!」荀卿曰:「不然。臣之所道,仁人之兵,王者之志也。君之所貴,權謀勢利也。仁人之兵,不可詐也。彼可詐者,怠慢者也,露袒者也,君臣上下之間滑然有離德者也。故以桀詐桀,猶巧拙有幸焉。以桀詐堯,譬之以卵投石,以指橈沸,若赴水火,入焉焦沒耳。故仁人之兵,上下一心,三軍同力。臣之於君也,下之於上也,若子之事父,弟之事兄,若手臂之扞頭目而覆胸腹也。詐而襲之,與先驚而後撃之,一也。且仁人用十里之國則將有百里之聽,用百里之國則將有千里之聽,用千里之國則將有四海之聽,必將聰明警戒,和傅而一。故仁人之兵,聚則成卒,散則成列,延則若莫耶之長刃,嬰之者斷;兌則若莫耶之利鋒,當之者潰。圜居而方止,則若盤石然,觸之者角摧而退耳。且夫暴國之君,將誰與至哉?彼其所與至者,必其民也。其民之親我歡若父母,其好我芬若椒蘭;彼反顧其上則若灼黥,若仇讎;人之情,雖桀、跖,豈有肯爲其所惡,賊其所好者哉!是猶使人之子孫自賊其父母也。彼必將來告之,夫又何可詐也!故仁人用國日明,諸侯先順者安,後順者危,敵之者削,反之者亡。詩曰:『武王載發,有虔秉鉞,如火烈烈,則莫我敢遏,』此之謂也。」 孝成王、臨武君曰:「善。請問王者之兵,設何道,何行而可?」荀卿曰:「凡君賢者其國治,君不能者其國亂;隆禮貴義者其國治,簡禮賤義者其國亂。治者強,亂者弱,是強弱之本也。上足卬則下可用也,上不足卬則下不可用也。下可用則強,下不可用則弱,是強弱之常也。好士者強,不好士者弱;愛民者強,不愛民者弱;政令信者強,政令不信者弱;重用兵者強,輕用兵者弱;權出一者強,權出二者弱;是強弱之常也。齊人隆技撃,其技也,得一首者則賜贖錙金,無本賞矣。是事小敵毳,則偸可用也;事大敵堅,則渙焉離耳。若飛鳥然,傾側反覆無日,是亡國之兵也,兵莫弱是矣,是其去賃市傭而戰之幾矣。魏氏之武卒,以度取之;衣三屬之甲,操十二石之弩,負矢五十個,置戈其上,冠冑帶劍,贏二日之糧,日中而趨百里;中試則復其戸,利其田宅。是其氣力數年而衰,而復利未可奪也,改造則不易周也,是故地雖大,其税必寡,是危國之兵也。秦人,其生民也狹隘,其使民也酷烈,劫之以勢,隱之以□厄,忸之以慶賞,□之以刑罰,使民所以要利於上者,非斗無由也。使以功賞相長,五甲首而隸五家,是最爲衆強長久之道。故四世有勝,非幸也,數也。故齊之技撃不可以遇魏之武卒,魏之武卒不可以遇秦之鋭士,秦之鋭士不可以當桓、文之節制,桓、文之節制不可以當湯、武之仁義,有遇之者,若以焦熬投石焉。兼是數國者,皆干賞蹈利之兵也,傭徒鬻賣之道也,未有貴上安制綦節之理也。諸侯有能微妙之以節,則作而兼殆之耳。故招延募選,隆勢詐,尚功利,是漸之也。禮義教化,是齊之也。故以詐遇詐,猶有巧拙焉;以詐遇齊,譬之猶以錐刀墮太山也。故湯、武之誅桀、紂也,拱挹指麾,而強暴之國莫不趨使,誅桀、紂若誅獨夫。故泰誓曰:『獨夫紂,』此之謂也。故兵大齊則制天下,小齊則治鄰敵。若夫招延募選,隆勢詐,尚功利之兵,則勝不勝無常,代翕代張,代存代亡,相爲雌雄耳。夫是之謂盜兵,君子不由也。」 孝成王、臨武君曰:「善。請問爲將。」荀卿曰:「知莫大乎棄疑,行莫大乎無過,事莫大乎無悔。事至無悔而止矣,不可必也。故制號政令,欲嚴以威;慶賞刑罰,欲必以信;處舍收藏,欲周以固;徙舉進退,欲安以重,欲疾以速;窺敵觀變,欲潛以深,欲伍以參;遇敵決戰,必行吾所明,無行吾所疑;夫是之謂六術。無欲將而惡廢,無怠勝而忘敗,無威内而輕外,無見其利而不顧其害,凡慮事欲熟而用財欲泰,夫是之謂五權。將所以不受命於主有三,可殺而不可使處不完,可殺而不可使撃不勝,可殺而不可使欺百姓,夫是之謂三至。凡受命於主而行三軍,三軍既定,百官得序,羣物皆正,則主不能喜,敵不能怒,夫是之謂至臣。慮必先事而申之以敬,愼終如始,始終如一,夫是之謂大吉。凡百事之成也必在敬之,其敗也必在慢之。故敬勝怠則吉,怠勝敬則滅;計勝欲則從,欲勝計則兇。戰如守,行如戰,有功如幸。敬謀無曠,敬事無曠,敬吏無曠,敬衆無曠,敬敵無曠,夫是之謂五無曠。愼行此六術、五權、三至,而處之以恭敬、無曠,夫是之謂天下之將,則通於神明矣。」 臨武君曰:「善。請問王者之軍制。」荀卿曰:「將死鼓,御死轡,百吏死職,士大夫死行列。聞鼓聲而進,聞金聲而退。順命爲上,有功次之。令不進而進,猶令不退而退也,其罪惟均。不殺老弱,不獵禾稼,服者不禽,格者不赦,奔命者不獲。凡誅,非誅其百姓也,誅其亂百姓者也。百姓有捍其賊,則是亦賊也。以故順刃者生,傃刃者死,奔命者貢。微子開封於宋,曹觸龍斷於軍,商之服民,所以養生之者無異周人,故近者歌謳而樂之,遠者竭蹶而趨之,無幽閒辟陋之國,莫不趨使而安樂之,四海之内若一家,通達之屬莫不從服,夫是之謂人師。詩曰:『自西自東,自南自北,無思不服。』此之謂也。王者有誅而無戰,城守不攻,兵格不撃,敵上下相喜則慶之,不屠城,不潛軍,不留衆,師不越時,故亂者樂其政,不安其上,欲其至也。」臨武君曰:「善。」 陳囂問荀卿曰:「先生議兵,常以仁義爲本。仁者愛人,義者循理,然則又何以兵爲?凡所爲有兵者,爲爭奪也。」荀卿曰:「非汝所知也。彼仁者愛人,愛人,故惡人之害之也;義者循理,循理,故惡人之亂之也。彼兵者,所以禁暴除害也,非爭奪也。」 2. 3燕孝王薨,子喜立。 3. 4周民東亡。秦人取其寶器,遷西周公於憚狐之聚。 4. 5楚人遷魯於莒而取其地。 5. 五十三年(丁未、前二五四) 1摎伐魏,取呉城。韓王入朝。魏舉國聽令。 1. 五十四年(戊申、前二五三) 1王郊見上帝於雍。 1. 2楚遷于鉅陽。 2. 五十五年(己酉、前二五二) 1衞懷君朝於魏,魏人執而殺之;更立其弟,是爲元君。元君,魏婿也。 1. 五十六年(庚戌、前二五一) 1秋,王薨,孝文王立。尊唐八子爲唐太后,以子楚爲太子。趙人奉子楚妻子歸之。韓王衰絰入吊祠。 1. 2燕王喜使栗腹約歡於趙,以五百金爲趙王酒。反而言於燕王曰:「趙壯者皆死長平,其孤未壯,可伐也。」王召昌國君樂閒問之,對曰:「趙四戰之國,其民習兵,不可。」王曰:「吾以五而伐一。」對曰:「不可。」王怒。羣臣皆以爲可,乃發二千乘,栗腹將而攻鄗,卿秦攻代。將渠曰:「與人通關約交,以五百金飲人之王,使者報而攻之,不祥,師必無功。」王不聽,自將偏軍隨之。將渠引王之綬,王以足蹙之。將渠泣曰:「臣非自爲,爲王也!」燕師至宋子,趙廉頗爲將,逆撃之,敗栗腹於鄗,敗卿秦、樂乘於代,追北五百餘里,遂圍燕。燕人請和,趙人曰:「必令將渠處和。」燕王以將渠爲相而處和,趙師乃解去。 2. 3趙平原君卒。 3. 孝文王 元年(辛亥、前二五〇) 1冬,十月,已亥,王即位;三日薨。子楚立,是爲莊襄王。尊華陽夫人爲華陽太后,夏姫爲夏太后。 1. 2燕將攻齊聊城,拔之。或譖之燕王,燕將保聊城,不敢歸。齊田單攻之,歲餘不下,魯仲連乃爲書,約之矢以射城中,遺燕將,爲陳利害曰:「爲公計者,不歸燕則歸齊。今獨守孤城,齊兵日益而燕救不至,將何爲乎?」燕將見書,泣三日,猶豫不能自決,欲歸燕,已有隙;欲降齊,所殺虜於齊甚衆,恐已降而後見辱。喟然歎曰:「與人刃我,寧我自刃!」遂自殺。聊城亂,田單克聊城。歸,言魯仲連於齊王,欲爵之。仲連逃之海上,曰:「吾富貴而詘於人,寧貧賤而輕世肆志焉!」 魏安釐王問天下之高士於子順,子順曰:「世無其人也;抑可以爲次,其魯仲連乎!」王曰:「魯仲連強作之者,非體自然也。」子順曰:「人皆作之。作之不止,乃成君子;作之不變,習與體成;習與體成,則自然也。」 2. 莊襄王 元年(壬子、前二四九) 1呂不韋爲相國。 1. 2東周君爲諸侯謀伐秦,王使相國帥師討滅之,遷東周君於陽人聚。周既不祀。周比亡,凡有七邑:河南、洛陽、穀城、平陰、偃師、鞏、緱氏。 2. 3以河南、洛陽十萬戸封相國不韋爲文信侯。 3. 4蒙驁伐韓,取成皋、滎陽,初置三川郡。 4. 5楚滅魯,遷魯頃公於卞,爲家人。 5. 二年(癸丑、前二四八) 1日有食之。 1. 2蒙驁伐趙,定太原,取楡次、狼孟等三十七城。 2. 3楚春申君言於楚王曰:「淮北地邊於齊,其事急,請以爲郡而封於江東。」楚王許之。春申君因城呉故墟以爲都邑,宮室極盛。 3. 三年(甲寅、前二四七) 1王齕攻上黨諸城,悉拔之,初置太原郡。 1. 2蒙驁帥師伐魏,取高都、汲。魏師數敗,魏王患之,乃使人請信陵君於趙。信陵君畏得罪,不肯還,誡門下曰:「有敢爲魏使通者死!」賓客莫敢諫。毛公、薛公見信陵君曰:「公子所以重於諸侯者,徒以有魏也。今魏急而公子不恤,一旦秦人克大樑,夷先王之宗廟,公子當何面目立天下乎!」語未卒,信陵君色變,趣駕還魏。魏王持信陵君而泣,以爲上將軍。信陵君使人求援於諸侯。諸侯聞信陵君復爲魏將,皆遣兵救魏。信陵君率五國之師敗蒙驁於河外,蒙驁遁走。信陵君追至函谷關,抑之而還。 安陵人縮高之子仕於秦,秦使之守管。信陵君攻之不下,使人謂安陵君曰:「君其遣縮高,吾將仕之以五大夫,使爲執節尉。」安陵君曰:「安陵,小國也,不能必使其民。使者自往請之。」使吏導使者至縮高之所。使者致信陵君之命,縮高曰:「君之幸高也,將使高攻管也。夫父攻子守,人之笑也;見臣而下,是倍主也。父教子倍,亦非君之所喜。敢再拜辭!」使者以報信陵君。信陵君大怒,遣使之安陵君所曰:「安陵之地,亦猶魏也。今吾攻管而不下,則秦兵及我,社稷必危矣。願君生束縮高而致之!若君弗致,無忌將發十萬之師以造安陵之城下!」安陵君曰:「吾先君成侯受詔襄王以守此城也,手授太府之憲,憲之上篇曰:『子弑父,臣弑君,有常不赦。國雖大赦,降城亡子不得與焉。』今縮高辭大位以全父子之義,而君曰『必生致之』,是使我負襄王之詔而廢太府之憲也,雖死,終不敢行!」縮高聞之曰:「信陵君爲人,悍猛而自用,此辭反必爲國禍。吾已全己,無違人臣之義矣,豈可使吾君有魏患乎!」乃之使者之舍,刎頸而死。信陵君聞之,縞素辟舍,使使者謝安陵君曰:「無忌,小人也,困于思慮,失信於君,請再拜辭罪!」 王使人行萬金於魏以間信陵君,求得晉鄙客,令說魏王曰:「公子亡在外十年矣,今復爲將,諸侯皆屬,天下徒聞信陵君而不聞魏王矣。」王又數使人賀信陵君:「得爲魏王未也?」魏王日聞其毀,不能不信,乃使人代信陵君將兵。信陵君自知再以毀廢,乃謝病不朝,日夜以酒色自娯,凡四歳而卒。韓王往吊,其子榮之,以告子順。子順曰:「必辭之以禮。『鄰國君吊,君爲之主。』今君不命子,則子無所受韓君也。」其子辭之。 2. 3五月,丙午,王薨。太子政立,生十三年矣,國事皆委於文信侯,號稱仲父。 3. 4晉陽反。 4. 始皇帝上 元年(乙卯、前二四六) 1蒙驁撃定之。 1. 2韓欲疲秦人,使無東伐,乃使水工鄭國爲間於秦,鑿涇水自仲山爲渠,並北山,東注洛。中作而覺,秦人欲殺之。鄭國曰:「臣爲韓延數年之命,然渠成,亦秦萬世之利也。」乃使卒爲之。注填閼之水漑舄鹵之地四萬餘頃,收皆畝一鐘,關中由是益富饒。 2. 二年(丙辰、前二四五) 1麃公將卒攻卷,斬首三萬。 1. 2趙以廉頗爲假相國,伐魏,取繁陽。趙孝成王薨,子悼襄王立,使武襄君樂乘代廉頗。廉頗怒,攻武襄君,武襄君走,廉頗出奔魏。久之,魏不能信用。趙師數困於秦,趙王思復得廉頗,廉頗亦思復用於趙。趙王使使者視廉頗尚可用否。廉頗之仇郭開多與使者金,令毀之。廉頗見使者,一飯斗米,肉十斤,被甲上馬,以示可用。使者還報曰:「廉將軍雖老,尚善飯;然與臣坐,頃之三遺矢矣。」趙王以爲老,遂不召。楚人陰使迎之。廉頗一爲楚將,無功,曰:「我思用趙人。」卒死於壽春。 2. 三年(丁巳、前二四四) 1大饑。 1. 2蒙驁伐韓,取十二城。 2. 3趙王以李牧爲將,伐燕,取武遂、方城。李牧者,趙之北邊良將也,嘗居代、雁門備匈奴,以便宜置吏,市租皆輸入莫府,爲士卒費,日撃數牛饗士;習騎射,謹烽火,多間諜,爲約曰:「匈奴即入盜,急入收保。有敢捕虜者斬!」匈奴每入,烽火謹,輒入收保不戰。如是數歲,亦不亡失。匈奴皆以爲怯,雖趙邊兵亦以爲吾將怯。趙王讓之,李牧如故。王怒,使他人代之。歲餘,屢出戰,不利,多失亡,邊不得田畜。王復請李牧,李牧杜門稱病不出。王強起之,李牧曰:「必用臣,臣如前,乃敢奉令。」王許之。李牧至邊,如約。匈奴數歲無所得,終以爲怯。邊士日得賞賜而不用,皆願一戰。於是乃具選車得千三百乘,選騎得萬三千匹,百金之士五萬人,彀者十萬人,悉勒習戰;大縱畜牧、人民滿野。匈奴小入,佯北不勝,以數十人委之。單于聞之,大率眾來入。李牧多爲奇陳,張左、右翼撃之,大破之,殺匈奴十餘萬騎,滅衣詹襤,破東胡,降林胡。單于奔走,十餘歳不敢近趙邊。 先是,天下冠帶之國七,而三國邊於戎狄:秦自隴以西有綿諸、緄戎、翟、[豸原]之戎,岐、梁、涇、漆之北有義渠、大荔、烏氏、朐衍之戎;而趙北有林胡、樓煩之戎;燕北有東胡、山戎;各分散居溪谷,自有君長,往往而聚者百有餘戎,然莫能相一。其後義渠築城郭以自守,而秦稍蠶食之,至惠王遂拔義渠二十五城。昭王之時,宣太后誘義渠王,殺諸甘泉,遂發兵伐義渠,滅之;始於隴西、北地、上郡築長城以拒胡。趙武靈王北破林胡、樓煩,築長城,自代並陰山下,至高闕爲塞,而置雲中、雁門、代郡。其後燕將秦開爲質於胡,胡甚信之;歸而襲破東胡,東胡卻千餘里;燕亦築長城,自造陽至襄平,置上谷、漁陽、右北平、遼東郡以距胡。及戰國之末而匈奴始大。 3. 四年(戊午、前二四三) 1春,蒙驁伐魏,取暘、有詭。三月,軍罷。 1. 2秦質子歸自趙;趙太子出歸國。 2. 3七月,蝗,疫。令百姓納粟千石,拜爵一級。 3. 4魏安釐王薨,子景湣王立。 4. 五年(己未、前二四二) 1蒙驁伐魏,取酸棗、燕、虛、長平、雍丘、山陽等二十城;初置東郡。 1. 2初,劇辛在趙與龐煖善,已而仕燕。燕王見趙數困於秦,廉頗去而龐煖爲將,欲因其敝而攻之,問於劇辛,對曰:「龐煖易與耳。」燕王使劇辛將而伐趙。趙龐煖御之,殺劇辛,取燕師二萬。 2. 3諸侯患秦攻伐無已時。 3. 六年(庚申、前二四一) 1楚、趙、魏、韓、衞合從以伐秦,楚王爲從長,春申君用事,取壽陵。至函谷,秦師出,五國之師皆敗走。楚王以咎春申君,春申君以此益疏。觀津人硃英謂春申君曰:「人皆以楚爲強,君用之而弱。其於英不然。先君時,秦善楚,二十年而不攻楚,何也?秦踰黽□厄之塞而攻楚,不便;假道於兩周,背韓、魏而攻楚,不可。今則不然。魏旦暮亡,不能愛許、鄢陵,魏割以與秦,秦兵去陳百六十里。臣之所觀者,見秦、楚之日斗也。」楚於是去陳,徙壽春,命曰郢。春申君就封於呉,行相事。 1. 2秦拔魏朝歌,及衞濮陽。衞元君率其支屬徙居野王,阻其山以保魏之河内。 2. 七年(辛酉、前二四〇) 1伐魏,取汲。 1. 2夏太后薨。 2. 3蒙驁卒。 3. 八年(壬戌、前二三九) 1魏與趙鄴。 1. 2韓桓惠王薨,子安立。 2. 九年(癸亥、前二三八) 1伐魏,取垣、浦。 1. 2夏,四月,寒,民有凍死者。 2. 3王宿雍。 3. 4己酉,王冠,帶劍。 4. 5楊端和伐魏,取衍氏。 5. 6初,王即位,年少,太后時時與文信侯私通。王益壯,文信侯恐事覺,禍及己,乃詐以舍人嫪毐爲宦者,進於太后。太后幸之,生二子,封毐爲長信侯,以太原爲毐國,政事皆決於毐;客求爲毐舍人者甚眾。王左右有與毐爭言者,告毐實非宦者,王下吏治毐。毐懼,矯王御璽發兵,欲攻蘄年宮爲亂。王使相國昌平君、昌文君發卒攻毐,戰咸陽,斬首數百;毐敗走,獲之。秋,九月,夷毐三族;黨與皆車裂滅宗;舍人罪輕者徙蜀,凡四千餘家。遷太后於雍萯陽宮,殺其二子。下令曰:「敢以太后事諫者,戮而殺之,斷其四支,積之闕下!」死者二十七人。齊客茅焦上謁請諫。王使謂之曰:「若不見夫積闕下者邪?」對曰:「臣聞天有二十八宿,今死者二十七人,臣之來固欲滿其數耳。臣非畏死者也!」使者走入白之。茅焦邑子同食者,盡負其衣物而逃王。王大怒曰:「是人也,故來犯吾,趣召鑊烹之,是安得積闕下哉!」王按劍怒而坐,口正沫出。使者召之入,茅焦徐行至前,再拜謁起,稱曰:「臣聞有生者不諱死,有國者不諱亡。諱死者不可以得生,諱亡者不可以得存。死生存亡,聖主所欲急聞也,陛下欲聞之乎?」王曰:「何謂也?」茅焦曰:「陛下有狂悖之行,不自知邪?車裂假父,囊撲二弟,遷母於雍,殘戮諫士,桀、紂之行不至於是矣。令天下聞之,盡瓦解,無向秦者,臣竊爲陛下危之!臣言已矣!」乃解衣伏質。王下殿,手自接之曰:「先生起就衣,今願受事!」乃爵之上卿。王自駕,虚左方,往迎太后,歸於咸陽,復爲母子如初。 6. 7楚考烈王無子,春申君患之,求婦人宜子者甚衆,進之,卒無子。趙人李園持其妹欲進諸楚王,聞其不宜子,恐久無寵,乃求爲春申君舍人。已而謁歸,故失期而還。春申君問之,李園曰:「齊王使人求臣之妹,與其使者飲,故失期。」春申君曰:「聘入乎?」曰:「未也。」春申君遂納之。既而有娠,李園使其妹説春申君曰:「楚王貴幸君,雖兄弟不如也。今君相楚二十餘年而王無子,即百歳後將更立兄弟,彼亦各貴其故所親,君又安得常保此寵乎!非徒然也,君貴,用事久,多失禮於王之兄弟,兄弟立,禍且及身矣。今妾有娠而人莫知,妾幸君未久,誠以君之重,進妾於王,王必幸之。妾賴天而有男,則是君之子爲王也。楚國盡可得,孰與身臨不測之禍哉!」春申君大然之。乃出李園妹,謹舍而言諸楚王。王召入,幸之,遂生男,立爲太子。 李園妹爲王后,李園亦貴用事,而恐春申君洩其語,陰養死士,欲殺春申君以滅口;國人頗有知之者。楚王病,朱英謂春申君曰:「世有無望之福,亦有無望之禍。今君處無望之世,事無望之主,安可以無無望之人乎!」春申君曰:「何謂無望之福?」曰:「君相楚二十餘年矣,雖名相國,其實王也。王今病,旦暮薨,薨而君相幼主,因而當國,王長而反政,不即遂南面稱孤,此所謂無望之福也。」「何謂無望之禍?」曰:「李園不治國而君之仇也,不爲兵而養死士之日久矣。王薨,李園必先入,據權而殺君以滅口,此所謂無望之禍也。」「何謂無望之人?」曰:「君置臣郎中,王薨,李園先入,臣爲君殺之,此所謂無望之人也。」春申君曰:「足下置之。李園,弱人也,僕又善之。且何至此!」朱英知言不用,懼而亡去。後十七日,楚王薨,李園果先入,伏死士於棘門之内。春申君入,死士俠刺之,投其首於棘門之外;於是使吏盡捕誅春申君之家。太子立,是爲幽王。 揚子法言曰:或問:「信陵、平原、孟嘗、春申益乎?」曰:「上失其政,姦臣竊國命,何其益乎!」 7. 8王以文信侯奉先王功大,不忍誅。 8. 十年(甲子、前二三七) 1冬,十月,文信侯免相,出就國。 宗室大臣議曰:「諸侯人來仕者,皆爲其主游間耳,請一切逐之。」於是大索,逐客。客卿楚人李斯亦在逐中,行,且上書曰:「昔穆公求士,西取由余於戎,東得百里奚於宛,迎蹇叔於宋,求丕豹、公孫支於晉,並國二十,遂霸西戎。孝公用商鞅之法,諸侯親服,至今治強。惠王用張儀之計,散六國之從,使之事秦。昭王得范雎,強公室,杜私門。此四君者,皆以客之功。由此觀之,客何負於秦哉!夫色、樂、珠、玉不産於秦而王服御者衆,取人則不然,不問可否,不論曲直,非秦者去,爲客者逐。是所重者在乎色、樂、珠、玉,而所輕者在乎人民也。臣聞太山不讓土壤,故能成其大;河海不擇細流,故能就其深;王者不卻衆庶,故能明其德。此五帝、三王之所以無敵也。今乃棄黔首以資敵國,卻賓客以業諸侯,所謂藉寇兵而賚盜糧者也。」王乃召李斯,復其官,除逐客之令。李斯至驪邑而還。王卒用李斯之謀,陰遣辯士齎金玉遊說諸侯,諸侯名士可下以財者厚遺結之,不肯者利劍刺之,離其君臣之計,然後使良將隨其後,數年之中,卒兼天下。 1. 十一年(乙丑、前二三六) 1趙人伐燕,取狸陽。兵未罷,將軍王翦、桓齮、楊端和伐趙,攻鄴,取九城。王翦攻閼與、轑陽,桓齮取鄴、安陽。 1. 2趙悼襄王薨,子幽繆王遷立。其母,倡也,嬖於悼襄王,悼襄王廢嫡子嘉而立之。遷素以無行聞於國。 2. 3文信侯就國歳餘,諸侯賓客使者相望於道,請之。王恐其爲變,乃賜文信侯書曰:「君何功於秦,封君河南,食十萬戸?何親於秦,號稱仲父?其與家屬徙處蜀!」文信侯自知稍侵,恐誅。 3. 十二年(丙寅、前二三五) 1文信侯飲酖死,竊葬。其舍人臨者,皆逐遷之。且曰:「自今以來,操國事不道如嫪毐、不韋者,籍其門,視此!」 揚子法言曰:或問:「呂不韋其智矣乎?以人易貨。」曰:「誰謂不韋智者歟?以國易宗。呂不韋之盜,穿窬之雄乎!穿窬也者,吾見擔石矣,未見雒陽也。」 1. 2自六月不雨,至於八月。 2. 3發四郡兵助魏伐楚。 3. 十三年(丁卯、前二三四) 1桓齮伐趙,敗趙將扈棷於平陽,斬首十萬,殺扈棷。趙王以李牧爲大將軍,復戰於宜安、肥下,秦師敗績,桓齮奔還。趙封李牧爲武安君。 1. 十四年(戊辰、前二三三) 1桓齮伐趙,取宜安、平陽、武城。 1. 2韓王納地效璽,請爲籓臣,使韓非來聘。韓非者,韓之諸公子也,善刑名法術之學,見韓之削弱,數以書干韓王,王不能用。於是韓非疾治國不務求人任賢,反舉浮淫之蠹而加之功實之上,寬則寵名譽之人,急則用介冑之士,所養非所用,所用非所養。悲廉直不容於邪枉之臣,觀往者得失之變,作孤憤、五蠹、内、外儲、説林、説難五十六篇,十餘萬言。 王聞其賢,欲見之。非爲韓使於秦,因上書説王曰:「今秦地方數千里,師名百萬,號令賞罰,天下不如。臣昧死願望見大王,言所以破天下從之計。大王誠聽臣説,一舉而天下之從不破,趙不舉,韓不亡,荊、魏不臣,齊、燕不親,霸王之名不成,四鄰諸侯不朝,大王斬臣以徇國,以戒爲王謀不忠者也。」王悅之,未任用。李斯嫉之,曰:「韓非,韓之諸公子也。今欲並諸侯,非終爲韓不爲秦,此人情也。今王不用,又留而歸之,此自遺患也。不如以法誅之。」王以爲然,下吏治非。李斯使人遺非藥,令早自殺。韓非欲自陳,不得見。王后悔,使赦之,非已死矣。 揚子法言曰:或問:「韓非作説難之書而卒死乎説難,敢問何反也?」曰:「説難蓋其所以死乎!」曰:「何也?」「君子以禮動,以義止,合則進,否則退,確乎不憂其不合也。夫説人而憂其不合,則亦無所不至矣。」或曰:「非憂説之不合,非邪?」曰:「説不由道,憂也。由道而不合,非憂也。」 臣光曰:臣聞君子親其親以及人之親,愛其國以及人之國,是以功大名美而享有百福也。今非爲秦畫謀,而首欲覆其宗國,以售其言,罪固不容於死矣,烏足愍哉! 2. 十五年(己巳、前二三二) 1王大興師伐趙,一軍抵鄴,一軍抵太原,取狼孟、番吾;遇李牧而還。 1. 2初,燕太子丹嘗質於趙,與王善。王即位,丹爲質於秦,王不禮焉。丹怒,亡歸。 2. 十六年(庚午、前二三一) 1韓獻南陽地。九月,發卒受地於韓。 1. 2魏人獻地。 2. 3代地震,自樂徐以西,北至平陰;臺屋牆垣太半壞,地坼東西百三十歩。 3. 十七年(辛未、前二三〇) 1内史勝滅韓,虜韓王安,以其地置穎川郡。 1. 2華陽太后薨。 2. 3趙大饑。 3. 4衞元君薨,子角立。 4. 十八年(壬申、前二二九) 1王翦將上地兵下井陘,端和將河内兵共伐趙。趙李牧、司馬尚御之。秦人多與趙王嬖臣郭開金,使毀牧及尚,言其欲反。趙王使趙蔥及齊將顏聚代之。李牧不受命,趙人捕而殺之;廢司馬尚。 1. 十九年(癸酉、前二二八) 1王翦撃趙軍,大破之,殺趙蔥,顏聚亡,遂克邯鄲,虜趙王遷。王如邯鄲,故與母家有仇怨者皆殺之。還,從太原、上郡歸。 1. 2太后薨。 2. 3王翦屯中山以臨燕。趙公子嘉帥其宗族百人奔代,自立爲代王,趙之亡,大夫稍稍歸之,與燕合兵,軍上谷。 3. 4楚幽王薨,國人立其弟郝。三月,郝庶兄負芻殺之,自立。 4. 5魏景湣王薨,子假立。 5. 6燕太子丹怨王,欲報之,以問其傅鞠武。鞠武請西約三晉,南連齊、楚,北媾匈奴以圖秦。太子曰:「太傅之計,曠日彌久,令人心惛然,恐不能須也。」頃之,將軍樊於期得罪,亡之燕;太子受而舍之。鞠武諫曰:「夫以秦王之暴而積怒於燕,足爲寒心,又況聞樊將軍之所在乎!是謂委肉當餓虎之蹊也。願太子疾遣樊將軍入匈奴。」太子曰:「樊將軍窮困於天下,歸身於丹,是固丹命卒之時也,願更慮之!」鞠武曰:「夫行危以求安,造禍以爲福,計淺而怨深,乃連結一人之後交,不顧國家之大害,所謂資怨而助禍矣!」太子不聽。 太子聞衞人荊軻之賢,卑辭厚禮而請見之。謂軻曰:「今秦已虜韓王,又舉兵南伐楚,北臨趙。趙不能支秦,則禍必至於燕。燕小弱,數困於兵,何足以當秦!諸侯服秦,莫敢合從。丹之私計愚,以爲誠得天下之勇士使於秦,劫秦王,使悉反諸侯侵地,若曹沫之與齊桓公,則大善矣;則不可,因而刺殺之,彼大將擅兵於外而內有亂,則君臣相疑,以其間,諸侯得合從,其破秦必矣。唯荊卿留意焉!」荊軻許之。於是舍荊卿於上舍,太子日造門下,所以奉養荊軻,無所不至。及王翦滅趙,太子聞之懼,欲遣荊軻行。荊軻曰:「今行而無信,則秦未可親也。誠得樊將軍首與燕督亢之地圖,奉獻秦王,秦王必説見臣,臣乃有以報。」太子曰:「樊將軍窮困來歸丹,丹不忍也!」荊軻乃私見樊於期曰:「秦之遇將軍,可謂深矣,父母宗族皆爲戮沒!今聞購將軍首,金千斤,邑萬家,將奈何?」於期太息流涕曰:「計將安出?」荊卿曰:「願得將軍之首以獻秦王,秦王必喜而見臣,臣左手把其袖,右手揕其胸,則將軍之仇報而燕見陵之愧除矣!」樊於期曰:「此臣之日夜切齒腐心也!」遂自刎。太子聞之,奔往伏哭,然已無奈何,遂以函盛其首。太子豫求天下之利匕首,使工以藥焠之,以試人,血濡縷,人無不立死者。乃裝爲遣荊軻,以燕勇士秦舞陽爲之副,使入秦。 6.
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/116.html
唐書巻七十八 列伝第三 宗室 江夏王道宗 広寧県公道興 永安王孝基 涵 淮陽王道玄 漢 長平王叔良 郇国公孝協 彭国公思訓 新興郡王晋 長楽王幼良 襄武王琛 河間王孝恭 晦 漢陽王 廬江王瑗 淮安王神通 膠東王道彦 梁郡公孝逸 国貞 暠 説 斉物 復 襄邑王神符 従晦 隴西公博 渤海王奉慈 戡 太祖に八子があった。いちばん上が李延伯、次が李真、次が世祖皇帝、次が李璋、次が李繪、次が李禕、次が李蔚、次が李亮といった。 南陽公李延伯は、早く薨去し、跡継ぎがなかった。高祖の武徳年間、六王とともに同じく追封された。 譙王李真は、太祖に従って戦没し、跡継ぎがなかった。 畢王李璋は、北周に仕えて梁州刺史となり、趙王宇文祐とともに隋の文帝の殺害を計画したが、失敗して、死んだ。二子を生み、李韶といい、李孝基といった。李韶は隋代に死に、武徳のときに東平王に追封され、子の李道宗を生んだ。 江夏郡王李道宗は、字を承範といった。高祖が即位すると、左千牛備身・略陽郡公を授与された。裴寂與劉武周戰度索原、寂敗、賊逼河東、道宗年十七、従秦王討賊。王登玉壁城以望、謂道宗曰:「賊怙衆欲戰、爾計謂何?」對曰:「武周席勝、剡然鋒未可當、正宜以計摧之。且烏合之衆憚持久、若堅壁以頓其鋭、須食盡氣老、可不戰禽也。」王曰:「而意與我合。」既而賊糧匱、夜引去、追戰滅之。 出為霊州総管。時梁師都弟洛仁連突厥兵数万傅于壘、道宗閉城守、伺隙出戰、破之。高祖謂裴寂曰:「昔魏任城王彰有卻敵功、道宗似之。」因封任城王。 始、突厥郁射設入居五原、道宗逐出之、震耀威武、斥地贏千里。貞観元年、召拜鴻臚卿、遷大理。太宗方經略突厥、復授霊州都督。三年、為大同道行軍総管、助李靖破虜、親執頡利可汗、賜封六百戸、還為刑部尚書。吐谷渾寇邊、靖出崑丘道、詔與侯君集為靖副。賊聞兵且至、走嶂山数千里。諸将欲止、独道宗請窮追、靖曰:「善。」君集未従。道宗以單師進、去大軍十日、及之。吐谷渾拒険殊死闘、道宗陰引千騎超山乘其後、賊驚、遂大潰。徙封江夏、授鄂州刺史。久之、坐貪贓、帝聞、怒曰:「朕提四海之富、士馬若林、如使轍跡環天下、游観不度、采絶域之玩・海表之珍、顧不得邪?特以勞民自楽、不為也。人心無芸、當以誼制之。今道宗已王、稟賜多而貪不止、顧不鄙哉!」乃免官、削封戸、以王就第。明年、召為茂州都督、未行、拜晋州刺史。遷礼部尚書。 侯君集破高昌還、頗怨望。道宗嘗従容奏言:「君集智小言大、且為戎首。」帝問所以知必反者、對曰:「見其忌而矜功、恥為房・李下、官尚書、常鬱鬱不平。」帝曰:「君集誠有功、材無不堪、朕寧惜爵位邪?弟未及耳。不宜輕億度、使自猜危。」既而君集反、帝笑曰:「如公素揣。」 帝将討高麗、先遣営州都督張倹輕騎度遼規形勢、倹畏、不敢深入。道宗請以百騎往、帝許之、約其還、曰:「臣請二十日行、留十日覽観山川、得還見天子。」因馬束兵、旁南山入賊地、相易険、度営陣便處。将還、會高麗兵斷其路、更走間道、謁帝如期。帝曰:「賁・育之勇何以過!」賜金五十斤、絹千匹。 乃詔與李勣為前鋒、済遼、拔蓋牟城。會賊救至、道宗與総管張君乂領騎裁四千、虜十倍、皆欲浚溝保険須帝至、道宗曰:「賊遽來、其兵必疲、我一鼓摧之、固矣。昔耿弇不以賊遺君父、吾為前軍、當清道迎乘輿、尚何待?」勣善之。選壮騎数十、突進賊営、左右出入、勣合撃、大破之。帝至、咨美、賜奴婢四十口。乃築拒闉、攻安市城、闉毀傅城、道宗失部分、反為賊據。帝斬其果毅傅伏愛、道宗跣行請罪、帝曰:「漢武帝殺王恢、不如秦穆公赦孟明。」遂置不問。在陣傷足、帝親加砭治、賜御膳。還、以疾辭劇就閑、改太常卿。 高宗永徽初、房遺愛以反誅、長孫无忌・褚遂良與道宗有宿怨、誣與遺愛善、流象州、道病薨、年五十四。无忌等得罪、詔復爵邑。道宗晩好學、接士大夫、不倨于貴。国初宗室、唯道宗・孝恭為最賢。子景恆、封盧国公、相州刺史。 道宗弟道興、武徳初、爵広寧郡王、以属疏降封県公。貞観九年、為交州都督、以南方瘴厲、恐不得年、頗忽忽憂悵、卒于官、贈交州都督。 永安壮王李孝基は、武徳初得王、歴陝州総管・鴻臚卿、以罪奪官。 二年、劉武周寇太原、夏人呂崇茂以県応賊。詔孝基為行軍総管攻之、工部尚書独孤懐恩・内史侍郎唐倹・陝州総管于筠隸焉。筠請急攻城、絶外援、且當有變。時懐恩挾異計、紿説孝基曰:「夏城堅、攻之引日、宋金剛在近、内拒外彊、一敗塗地。不如頓兵待秦王破賊、則夏自孤、此謂不戰而屈人也。」孝基謂然。會尉遲敬徳至、與崇茂夾官師、遂大敗。孝基及筠等皆執於賊、謀亡歸、為賊所害。高祖為發哀、優賜其家。晋陽平、購尸不獲、招魂以葬、贈左衛大将軍及謚。 無子、以兄子道立嗣、封高平王、後降封県公、終陳州刺史。曾孫涵。 李涵は、簡素忠謹、為宗室俊。累授賛善大夫。郭子儀表為關内鹽池判官。肅宗至平涼、未知所従。朔方留後杜鴻漸等條士馬倉廥、使涵奉牋馳謁肅宗。涵既見、敷奏明辯、肅宗悅、除左司員外郎、再遷宗正少卿。 宝応初、河朔平、涵方母喪、奪哀持節宣慰、所至州県、非公事未嘗言、蔬飯水飲、席地以瞑。使還、固請終制、代宗見其毀、許之。服除、擢給事中、遷兵部侍郎。 朱希彩殺李懐仙、復宣慰河北、還為浙西観察使。居五歳、入朝、拜御史大夫・京畿観察使。徳宗嗣位、以涵和易無所繩舉、除太子少傅・山陵副使。以父諱徙光祿卿。未幾、遷左散騎常侍、以尚書右僕射致仕、累封襄武県公、卒、贈太子太保。 子鰅、貞元初為饒州別駕。妾高以善歌入宮、鰅因御醫許泳通書、坐誅。 雍王李繪は隋の夏州総管となった。子の李贄は、追爵河南王、生道玄。 淮陽壮王李道玄は、性謹厚、習技撃、然進止都雅。武徳初、例王。年十五、従秦王撃宋金剛於介州、先登、王壮之、賞予良厚。討王世充、戰多。竇建徳屯虎牢、王輕騎致賊、遣道玄伏以待、賊至、走之。転戰汜水、登南、貫賊陣出其背、復引還、賊皆靡、所發命中。王喜、以副騎給之。毎赴敵、飛矢著身如蝟、氣益厲。東都平、為洛州総管。府廢、更授刺史。俄為山東道行軍総管討劉黒闥、以多見褒。 黒闥再乱、道玄率史万宝戰下博、越濘馳、約万宝継進、万宝素少之、不肯前、曰:「吾被詔、以王兒子名大将、而軍進退実在我。今其輕闘、若大軍竭馳、必陷濘、莫如以王啗賊、我結陣待之、雖不利王、而利国也。」道玄遂戰歿、年十九。万宝為賊所乘、舉軍潰、身独免。太宗追悼曰:「自兵興、兒常従我、毎見我深入輒克、故慕之。惜其少、遠圖不究、哀哉!」因流涕。贈左驍衛大将軍及謚。 無子、以弟道明嗣王、遷左驍衛大将軍。貞観十四年、與武衛将軍慕容宝節送弘化公主於吐谷渾、坐漏言主非帝女、奪王、終鄆州刺史。六世孫漢。 李漢は、字を南紀といい、少事韓愈、通古學、属辭雄蔚、為人剛、略類愈。愈愛重、以子妻之。擢進士第、遷累左拾遺。 敬宗侈宮室、舶賈獻沈香亭材、帝受之、漢諫曰:「以沈香為亭、何異瑤台瓊室乎?」是時、王政謬僻、漢言切、多所救補。坐婞訐出佐興元幕府。 文宗立、召為屯田員外郎・史館修撰。論次憲宗実録、書宰相李吉甫事不假借、子徳裕惡之。會李宗閔當国、擢知制誥、稍進御史中丞、吏部侍郎。初、徳裕貶袁州、漢助為排擠、後徳裕復輔政、漢坐宗閔黨出為汾州刺史、宗閔再逐、改州司馬。詔有司不二十年不得用。然不数歳、徙絳州長史、遂不復振。大中時、召拜宗正少卿、卒。 始、漢為中丞、表孔温業為御史、及漢晩見召、温業已為中丞、毎燕集、人以為榮。 郇王李禕は、隋の上儀同三司となった。子の李叔良・李徳良・李幼良を生んだ。 長平肅王李叔良は、武徳初年、王に列せられ、鎮涇州、捍薛仁杲。仁杲内史令翟長孫以衆降。於是大饑、米斗千錢、叔良不恤士、損糧以漁利、下皆怨。仁杲知之、陽言食盡、去、遣高人詭降。叔良遣驃騎劉感受之、未至城、三烽發、仁杲兵自南原譟而還、大戰百里細川、感為賊執。叔良懼、悉出金勞軍、委事於長孫、乃克安。 久之、突厥入寇、詔叔良率五将軍撃之、中流矢、道薨。贈左翊衛大将軍・霊州総管。 子の李孝協が跡を継いだ。 李孝協は、始め范陽王となり、俄降為郇国公・魏州刺史。麟徳中、坐贓抵死、司宗卿隴西王博等為言於高宗求貸、帝不許、遂自殺。 弟孝斌為原州都督府長史。生子思訓、為江都令。武后多殺宗室、思訓棄官去。中宗復位、以耆舊擢宗正卿、封隴西郡公、歴益州都督府長史。開元初、進彭国公、加戸満四百、進右武衛大将軍。卒、贈秦州都督、陪葬橋陵。思訓善畫、世所謂「李将軍山水」者。弟思誨、為揚州参軍事。子林甫、自有伝。 新興郡王李徳良は、少以疾不任職。薨、贈涼州都督。 孫晋、先天中、為雍州長史、治有名、襲王。坐豫太平公主謀被誅、改氏「厲」。晋就刑、僚吏奔解、唯司功参軍李撝従王如它日、晋死、哭其尸盡哀。姚元崇歎曰:「欒・向儔邪!」擢為尚書郎。 長楽郡王李幼良は、資暴急、高祖数曉勒、不悛。有盜其馬者、輒殺之。帝怒曰:「盜信有罪、王而專殺可乎?」詔礼部尚書李綱召宗室即朝堂杖之百、乃釋。出為涼州都督、嘯不逞為左右、市里苦之。 太宗立、或告王陰養士、交境外。詔中書令宇文士及往代、并按状。士及繩之急、左右恐、欲劫王由間道趨長安自明、不即北奔突厥。士及露劾、帝復遣侍御史孫伏伽鞫視、無異辭、遂賜死。六世孫回、別伝。 蔡烈王李蔚は北周の朔州総管となり、子の李安・李哲を生んだ。 西平懐王李安は、隋に仕えて右領軍大将軍となり、趙公に封ぜられた。武徳のとき、王に列せられた。子の李琛・李孝恭・李瑊・李を生んだ。 襄武郡王李琛は、字を仲宝といった。木訥少文。隋義寧初、封襄武郡公、與太常卿鄭元持女伎聘突厥始畢可汗、約和親。始畢礼之、贈遺蕃渥、遣骨吐祿特勒隨琛入獻、授刑部侍郎。武徳初、始王、歴利・蒲・絳三州総管。宋金剛陷澮州、稽胡多叛、詔琛鎮隰州、政寬簡、為夷夏愛便。薨、子倹襲王、例降為公。 河間元王李孝恭は、少沈敏、有識量。 高祖已定京師、詔拜山南招尉大使、徇巴蜀、下三十餘州。進撃朱粲、破之、俘其衆、諸将曰:「粲徒食人、摯賊也、請阬之。」孝恭曰:「不然、今列城皆吾寇、若獲之則殺、後渠有降者乎?」悉縱之。繇是騰檄所至輒下。 明年、拜信州総管、承制得拜假。當是時、蕭銑據江陵、孝恭数進策圖銑、帝嘉納。進王趙郡、以信州為夔州。乃大治舟艦、肄水戰。會李靖使江南、孝恭倚其謀、遂圖江陵、盡召巴蜀首領子弟收用之、外示引擢而内実質也。俄進荊湘道総管、統水陸十二軍發夷陵、破銑二鎮、縱戰艦放江中。諸将曰:「得舟當済吾用、棄之反資賊、奈何?」孝恭曰:「銑之境南際嶺、左薄洞庭、地険士衆、若城未拔而援至、我且有内外憂、舟雖多、何所用之?今銑瀕江鎮戍、見艫舠蔽江下、必謂銑已敗、不即進兵、覘候往返、以引救期、則吾既拔江陵矣。」已而救兵到巴陵、見船、疑不進。銑内外阻絶、遂降。帝悅、遷荊州大総管、詔圖破銑状以進。 孝恭治荊、為置屯田、立銅冶、百姓利之。遷襄州道行台左僕射。時嶺表未平、乃分遣使者、綏輯安慰、其款附者四十有九州、朝廷號令暢南海矣。 未幾、輔公祏反、寇寿陽、詔孝恭為行軍元帥討之。引兵趨九江、李靖・李勣・黄君漢・張鎮州・盧祖尚皆稟節度。将發、大饗士、杯水變為血、坐皆失色、孝恭自如、徐曰:「禍福無基、唯所召爾!顧我不負於物、無重諸君憂。公祏禍惡貫盈、今仗威霊以問罪、杯中血、乃賊臣授首之祥乎!」盡飲罷、衆心為安。公祏将馮惠亮等拒嶮邀戰、孝恭堅壁不出、遣奇兵絶饟道、賊饑、夜薄営、孝恭臥不動。明日、使羸兵扣賊壘挑之、祖尚選精騎陣以待。俄而兵卻、賊追北且囂、遇祖尚軍、薄戰、遂大敗。惠亮退保梁山、孝恭乘勝破其別鎮、賊赴水死者数千計。公祏窮、棄丹楊走、騎窮追、生禽之、江南平。璽書褒美、賜甲第一區・女楽二部・奴婢七百口・宝玩不貲。進授東南道行台左僕射。行台廢、更為揚州大都督。 孝恭再破巨賊、北自淮、東包江、度嶺而南、盡統之。欲以威重夸遠俗、乃築第石頭城、 、陳廬徼自衛。或誣其反、召還、頗為憲司鐫詰、既無状、赦為宗正卿。賜実封千二百戸。歴涼州都督・晋州刺史。貞観初、為礼部尚書、改王河間。 性奢豪、後房歌舞伎百餘、然寬恕退讓、無矜伐色、太宗用是親重之、宗室莫比也。嘗謂人曰:「吾所居頗壮麗、非吾心也。當別営一區、令粗足充事而已。吾歿後、子也才、易以守;不才、不為他人所利。」十四年、中飲暴薨、年五十。帝哭之慟、贈司空・揚州都督及謚、陪葬獻陵。 始、隋亡、盜賊天下、皆太宗身自討定、謀臣驍帥並隸麾下、無特将專勳者、惟孝恭独有方面功以自見云。子崇義・晦。 崇義嗣王、降封譙国公、歴蒲・同二州刺史・益州都督府長史、有威名。終宗正卿。 晦、乾封中為営州都督、以治状聞、璽書勞賜。遷右金吾将軍、檢校雍州長史、摧擿姦伏無留隱、吏下畏之。高宗将幸洛、詔晦居守、謂曰:「關中事一以属公、然法令牽制、不可以成政、法令外苟可以利人者行之、毋須以聞。」故晦治有異績。武后時、遷秋官尚書。卒、贈幽州都督。初、晦第起観閣、下臨肆區、其人候晦曰:「庶人不及以礼、然室家之私、不願外窺、今将辭公。」晦驚、遽毀徹之。子榮、奉呉王恪祀。 済北郡王李瑊は、武徳年間、尚書左丞となり、王に列せられた。始州刺史に終わった。 漢陽郡王李は、始め郡公となり、王に進んだ。高祖使持幣遺突厥頡利可汗言和親事。頡利始見、倨甚。開説、示以厚幣、乃大喜、改容加礼、因遣使隨入獻名馬。後復聘、頡利謂其下曰:「前來、悔不少屈之、當使拜我。」伺知之、既見頡利、即長揖。頡利怒、留不遣。意象自若、不為屈。虜知不可劫、卒以礼遣。 遷左武候将軍、代孝恭為荊州都督、政務清靜。嶺外酋豪数相攻、遣使諭威徳、皆如約、不敢乱。後例為公。長史馮長命者、嘗為御史大夫、素貴、事多專決、怒、杖之、坐免。起為宜州刺史・散騎常侍、薨。 済南郡王李哲は、隋の柱国・備身将軍となり、王に追封された。 子に李瑗があった。 廬江郡王李瑗は、字を徳圭といった。武徳のとき、王に列せられ、累遷山南東道行台右僕射。與河間王孝恭合討蕭銑、無功。更為幽州都督。瑗素懦、朝廷恐不任職、乃以右領軍将軍王君廓輔行。君廓、故盜也、其勇絶人、瑗倚之、許結婚、寄心腹。 時隱太子有陰謀、厚結瑗。太子死、太宗令通事舍人崔敦礼召瑗、瑗懼有變。君廓内険賊、欲以計陷瑗而取己功、即謂瑗曰:「事變未可知、大王国懿親、受命守邊、擁兵十万、而従一使者召乎?且趙郡王前已属吏、今太子・斉王又復爾、大王勢能自保邪?」因泣。瑗信之、曰:「以命累公。」乃囚敦礼、勒兵、召北燕州刺史王詵與計事。兵曹参軍王利渉説瑗曰:「王今無詔擅發兵、則反矣。當須權結衆心。若諸刺史召之不至、将何以全?」瑗曰:「奈何?」對曰:「山東豪傑嘗為竇建徳所用、今失職與編戸夷、此其思乱、若旱之望雨。王能發使、使悉復舊職、隨在所募兵、有不従、得輒誅之、則河北之地可呼吸而有。然後遣王詵外連突厥、繇太原南趨蒲・絳、大王整駕西入關、兩軍合勢、不旬月天下定矣。」瑗従之、以内外兵悉付君廓。利渉以君廓多翻覆、請以兵属詵、瑗猶豫、君廓密知之、馳斬詵首、徇于軍曰:「李瑗與王詵反、錮敕使、擅追兵、今詵已斬、独瑗在、無能為也。諸君従之且族滅、助我者富貴可得!」衆曰:「願討賊。」乃出敦礼于獄。瑗聞之、率左右数百被甲出。君廓呼曰:「瑗誖乱、諸君皆詿誤、若何従之以取夷戮?」衆反走。瑗罵君廓曰:「小人賣我、行自及!」即禽瑗縊之、伝首京師、廢為庶人、絶属籍。 鄭孝王李亮は、隋に仕えて海州刺史となり、王に追封された。子の李神通・李神符を生んだ。 淮安靖王李神通は、少輕俠。隋大業末在長安。會高祖兵興、吏逮捕、亡命入鄠南山、與豪英史万宝・裴勣・柳崇礼等舉兵応太原、約司竹賊帥何潘仁連和、進與平陽公主兵合、徇鄠下之。自署關中道行軍総管、以万宝為副、勣為長史、崇礼為司馬、令狐徳棻為記室。従平京師、為宗正卿、典兵宿衛。王永康郡、俄徙淮安。 武徳初、拜山東安撫大使、黄門侍郎崔幹副之、進撃宇文化及于魏。化及敗走聊城、神通追北、賊糧盡願降、神通不肯受、幹請納之、神通曰:「師久暴露、今賊食盡、克不旦暮、正當破之、以玉帛酬戰力。若降、吾何所藉手?」幹曰:「竇建徳危至、而化及未平、我転側兩賊間、勢必危、王又貪其玉帛、敗不日。」神通怒、囚幹軍中。 會士及自済北餽軍、化及復振。神通進兵薄其壘、貝州刺史趙君徳先登扳堞、神通忌其功、止軍不進。君徳怒、詬而還、城復堅。神通遣兵走魏州取攻具、為莘人所乘、引。後二日、建徳拔聊城、勢遂張、山東州県靡然歸之。神通麾下多亡、乃退保黎陽、依李世勣、俄為建徳所虜。後與同安公主自賊歸。及建徳滅、復授河北行台左僕射。従平劉黒闥、遷左武衛大将軍。薨、贈司空。 神通十一子、得王者七人、道彦・孝・孝同・孝慈・孝友・孝節・孝義、後皆降王。孝逸爵公。孝鋭不得封、有子斉物顯。 膠東郡王李道彦は、幼孝謹。初、神通避吏于鄠、被疾山谷間、累旬食盡、道彦羸服丐人間、或採野実以進;神通未食、不敢先、即有所分、辭以飽、乃藏以待。高祖初、封義興郡公、例得王。貞観初、為相州都督、徙岷州、以父喪解。荷土就墳、躬蒔松柏、偃廬柴毀、雖親友不復識。太宗嗟歎、敕侍中王珪臨諭。 服除、復拜岷州都督。間遣入党項諭国威霊、區落降。従李靖撃吐谷渾、詔道彦為赤水道総管。帝厚以利啖党項、使為郷導、其酋拓拔赤辭詣靖自言:「隋撃吐谷渾、我資其軍、而隋無信、反見仇剽。今将軍若無它、我願資糧、将復如隋乎?」諸将與歃血遣之。道彦至闊水、見無備、因掠其牛羊、諸羌怨、即引兵障野狐峽、道彦不得進、為赤辭所乘、軍大敗、死者数万、退保松州。詔減死、謫戍邊。久之、召為媯州都督。卒、贈礼部尚書。 初、武徳五年同封者、孝為高密王、孝同淄川王、孝慈広平王、孝友河間王、孝節清河王、孝義膠西王。於是唐始興、務広支蕃鎮天下、故従昆弟子自勝衣以上、皆爵郡王。太宗即位、舉属籍問大臣曰:「盡王宗子於天下、可乎?」封徳彝曰:「漢所封、惟帝子若親昆弟;其属遠、非大功不王。如周郇滕・漢賈沢尚不得茆土、所以別親疏也。先朝一切封之、爵命崇而力役多、以天下為私奉、非所以示至公。」帝曰:「朕君天下以安百姓、不容勞百姓以養己之親。」於是疏属王者皆降為公、唯嘗有功者不降。故道彦等並降封公。 孝逸、少好學、頗属文。始封梁郡公。高宗時、四遷益州大都督府長史。武后擅国、入為左衛将軍、親遇之。 徐敬業稱兵、以孝逸為左玉鈐衛大将軍・揚州行軍大総管、帥師南討。至淮、而敬業已攻潤州、遣弟敬猷壁淮陰、偽将韋超據都梁山以拒孝逸、超衆憑険完屯。孝逸會諸将議曰:「賊今負山、攻則士無所用力、騎不得騁、寇救死、傷夷必衆。不如偏旅綴之、全軍趨揚州、勢不数日可破。」支度使薛克構曰:「超雖據険、然兵少、若置小敵不撃、無以示威;披衆以守、則戰有闕。捨之則後憂、不如撃之。若克超、淮陰自震、淮陰破、楚諸県開門候官軍矣。由是以趨江都、逆首可取。」孝逸従之、登山急撃超、殺数百人、薄暝解、超夜走。進撃敬猷淮陰、破之。敬業回軍下阿溪、孝逸引兵直度、敬業大敗、遂拔揚州。以功進鎮軍大将軍、徙封呉国公、威名稜然。 武承嗣等忌之、以讒下遷施州刺史。又使人騰惡語聞上、武后信之、以嘗有功、貸死、流儋州、薨。景雲初、贈金州大都督。 李孝同の曾孫の李国貞。 李国貞の父の李広業は、剣州長史となった。国貞剛鯁、有吏才。乾元中、由長安令遷河南尹。史思明寇東都、李光弼壁河陽、国貞率官吏西走陝、数月、召為京兆尹。 上元初、拜劍南節度使、召為殿中監、以戸部尚書持節朔方・鎮西・北庭・興平・陳鄭節度行営兵馬及河中節度都統處置使、治于絳。尋加晋・絳・慈・隰・沁等州観察處置使。既至、糧乏、而所儲陳腐、民貧不忍遽斂、上書以聞。而軍中讙謗、突将王振乘衆怨紿曰:「具畚鍤以待役事。」衆皆怒、夜燒牙門。左右奔告、請避之、国貞曰:「吾被命為将、其可棄城乎?」固請、乃逃獄中。振引衆劫取之、置食其前曰:「食是而役其力、可乎?」国貞曰:「與爾等方討賊、何事役為?正縁儲食腐倹、已請諸朝、吾何所負?」衆服其言、且引去。振曰:「都統不死、吾曹殆矣!」遂害之、并殺其二子及三大将。 有詔以郭子儀代之。国貞清白善用法、世稱辦吏、然峻於操下、故其衆思得子儀、而振因肆其惡。及子儀至、振自謂且見徳、子儀怒曰:「汝臨賊境而害主将、賊若乘虚、是無絳矣、又欲為功乎?」即斬以徇。詔贈国貞揚州大都督。 子錡、自有伝。 李孝節の曾孫の李暠は、少孤、事母孝。始為枝江丞、荊州長史張柬之曰:「帝宗千里駒、吾得其人!」累擢衛尉少卿。居母喪、柴瘠、訖除、家人未嘗見言笑。與兄昇・弟暈相友。 開元初、為汝州刺史、政嚴簡、有治稱。昆弟繇東都候之、輒羸服往、州人無知者、其清慎舉如此。四遷至黄門侍郎、檢校太原以北諸軍節度使。太原俗為浮屠法者、死不葬、以尸棄郊飼鳥獸、號其地曰「黄阬」。有狗数百頭、習食胔、頗為人患、吏不敢禁。暠至、遣捕狗殺之、申厲禁條、約不再犯、遂革其風。二十一年、以工部尚書持節使吐蕃、既還、金城公主請明疆埸、表石赤嶺上、盟遂堅定。還、以奉使有指、再遷吏部。 暠、美風儀、以莊重稱、當時有宰相望。累為太子少傅・武都県伯。卒、贈益州大都督。 暈至太僕少卿。暈子進亦知名、好従當世賢士游、賙人之急、累擢給事中。至徳初、従広平王東征、以工部侍郎署雍王元帥府行軍司馬、為回紇鞭之幾死。遷兵部。卒、贈礼部尚書。 李孝節の四世の孫の李説は、字を巌甫といった。父遇及、天宝時為御史中丞・東畿採訪使。説以蔭補率府兵曹参軍。馬燧節度太原、辟署少尹、遷汾州刺史。李自良代燧、復奏為少尹。大将張瑤得士心、嘗請告未許、而自良卒、説與監軍王定遠祕其喪、前給瑤告、以毛朝陽代之、然後告喪。詔以通王為節度大使、授説行軍司馬・節度留後。 定遠自以有勞於説、頗橫恣、請別賜印、監軍有印自定遠始。於是擅補吏、易置諸将。彭令茵者、以久勞不服、定遠怒、殺之、埋馬矢中、其家請尸、不許、舉軍怨。説上其事、徳宗以奉天扈従功、恕死免官。詔未至、定遠謀刺説、説走而免。定遠召諸将、出笥中詔書紿曰:「詔以李景略知留後、召説還。公等皆有除。」諸将欲拜、大将馬良輔呼曰:「妄言也、不可受!」定遠懼、走乾陽樓、召麾下皆不至、自投下死。説盡斬同謀者、乃安。擢説檢校礼部尚書・節度使。累封隴西県男。 説精于職、築天成軍、邊備積完。晩被疾、不能事、軍幾乱。卒、贈尚書右僕射。 李斉物は、字を道用といった。天宝初、擢累陝州刺史。開砥柱、通漕路、發重石、下得古鉄戟若鏵然、銘曰「平陸」。上之、詔因以名県。遷河南尹、坐與李適之善、貶竟陵太守、還、遷京兆尹、太子太傅、兼宗正卿。卒、贈太子太師。性苛察少恩、喜發人私、然絜廉自喜、吏無敢欺者。忿陝尉裴冕、械而折愧之、及冕當国、除斉物太子賓客、世善冕能損怨云。 子を李復といった。 李復は、字を初陽といい、蔭官により仕え、累為江陵司録参軍。衛伯玉才之、表江陵令。遷少尹、歴饒・蘇二州刺史。李希烈叛、荊南節度使張伯儀数為賊窘、朝廷以復在江陵得士心、即母喪奪為少尹、充行軍司馬、佐伯儀。會伯儀罷、改容州刺史、兼本管招討使。先是、西原乱、吏獲反者沒為奴婢、長役之。復至、使訪親戚、一皆原縱。在容三年、人以賴安。転嶺南節度使、時安南經略使高正平・張応継卒、其佐李元度・胡懐義等因阻兵脅州県、肆為姦贓。復至、誘懐義杖死、流元度、南裔肅然。教民作陶瓦、鐫諭蛮獠、收瓊州、置都督府、以綏定其人。召拜宗正卿。歴華州刺史。貞元十年鄭滑節度使李融卒、軍乱、以復檢校兵部尚書代融節度。復下令墾営田以稟其軍、而賦不及民、衆悅。加檢校尚書右僕射。卒、年五十九、贈司空、謚曰昭。復更方鎮、所在稱治、然頗嗜財、為世所譏。 従父若水、為左金吾大将軍、兼通事舍人、容貌偉、在朝三十年、多識舊儀、毎宣勞揖賛、進止閑華、有可観者。 襄邑恭王李神符は、字を神符といい、少孤、事兄謹。高祖兵興、神符留長安、為衛文昇所囚。京師平、封安吉郡公。帝受禪、例王。遷并州総管。 頡利可汗盜邊、神符與戰汾東、斬級五百、獲馬二千。又戰沙河、獲乙利達官、得可汗所乘馬及鎧。召為太府卿。遷揚州大都督、自丹楊度江、治隋江都故郡、揚人利之。然少威嚴、不為下所畏。累擢宗正卿、以足不良改光祿大夫、歸第、月給羊酒。太宗就第尉問、又令乘小輿入紫微殿、三衛挾輿以升。遷開府儀同三司。永徽二年薨、年七十三、贈司空・荊州都督、陪葬獻陵。 子七人、並爵郡王、例降公。惟徳懋・文暕知名。徳懋、官少府監・臨川郡公。五世孫従晦。文暕、幽州都督・魏国公。垂拱中、坐累貶藤州別駕、誅。子挺・捷、捷襲封。挺曾孫程、捷曾孫石、別伝。 従晦祖模、仕至徳中為猗氏令。史思明陷洛陽、賊帥掠諸県、模率衆拒平之。稍遷黔中観察使。終太子賓客、贈太子太保、謚曰敬。 従晦宝暦初及進士第、擢累太常博士。甘露之禍、御史中丞李孝本被誅、従晦以族昆弟貶朗州司戸参軍。改澶王府諮議、分司東都。忌者重發前坐、下遷亳州司馬。久乃転吏部郎中、兼侍御史、知雜事。出為常州刺史、鎮海軍節度使。李琢表其政、賜金紫。歴京兆尹・工部侍郎・山南西道節度使。又以最就進銀青光祿大夫。卒、年六十三、贈吏部尚書。 従晦姿質偉岸、所至以風力聞。少與崔龜従・李景讓・裴休善。奨目後進、名知人、楊收方布衣、進謁、従晦一見如雅識、即待以公輔、後果宰相。 世祖に四子があった。いちばん上が李澄、次が李湛、次が李洪、次が高祖神堯皇帝といった。 梁王李澄は、早く薨去し、跡継ぎがなかった。武徳初、二王とともに同じく追封された。 蜀王李湛は、子の李博・李奉慈を生んだ。 隴西恭王李博は、武徳初年、李奉慈とともに王に列せられた。高宗のとき、擢累礼部尚書、特進。驕侈不循法度、伎妾数百、曳羅紈、甘粱肉、放於聲楽以自娛。其弟奉慈亦荒縱、皆為帝所鄙。嘗曰:「吾仇人有善且用之、況親戚乎?王等昵小人、專為不軌、先王墳典不聞學、何以為善哉?」各賜市書絹二百疋、以愧切之、然不自克也。薨、贈開府儀同三司・荊州都督。 渤海敬王李奉慈は、顕慶のとき、原州都督となり、薨去した。 七世の孫は李戡。 李戡は、字を定臣といい、幼くして孤児となった。年十歳所即好學、大寒、掇薪自炙。夜無然膏、默念所記。年三十、明六經、舉進士、就礼部試、吏唱名乃入、戡恥之。明日、徑返江東、隱陽羨里。陽羨民有闘爭不決、不之官而詣戡以辨。凡論著数百篇。常惡元和有元・白詩、多纖豔不逞、而世競重之。乃集詩人之類夫古者、斷為唐詩、以譏正其失云。平盧節度使王彦威表為巡官、府遷、還洛陽、卒。 賛曰:景・元子孫、當草昧之初、乘運而奮、方高祖攘除四方、所以宣力、皆顯顯為世豪英。至河間之功、江夏之略、可謂宗室標的者也。 始、唐興、疏属畢王、至太宗、稍稍降封。時天下已定、帝與名臣蕭瑀等喟然講封建事、欲與三代比隆、而魏徴・李百藥皆謂不然。徴意以唐承大乱、民人彫喪、始復生業、遽起而瓜分之、故有五不可之説。百藥稱帝王自有命、暦祚之短長不縁封建。又舉春秋二百四十二年之禍、亟於哀・平・桓・霊、而詆曹元首・陸士衡之言以為繆悠。而顏師古独議建諸侯、當少其力、與州県雜治、以相維持。然天子由是罷不復議。 至名儒劉秩目武氏之禍、則建論以為設爵無土、署官不職、非古之道、故權移外家、宗廟絶而更存。存之之理、在取順而難逆;絶之之原、在單弱而無所憚。至謂郡県可以小寧、不可以久安。大抵與曹・陸相上下。而杜佑・柳宗元深探其本、據古驗今、而反復焉。 佑之言曰:「夫為人置君、欲其蕃息則在郡県、然而主胙常促;為君置人、不病其寡則在建国、然而主胙常永。故曰、建国利一宗、列郡利百姓。且立法未有不敝者、聖人在度其患之長短而為之。建国之制、初若磐石、然敝則鼎峙力爭、陵遲而後已、故為患也長。列郡之制、始天下一軌、敝則世崩倶潰、然而戡定者易為功、故其為患也短。」又謂:「三王以來、未見郡県之利、非不為也、後世諸儒因泥古彊為之説、非也。」 宗元曰:「封建非聖人意、然而歴堯・舜・三王莫能去之、非不欲去之、勢不可也。秦破六国、列都會、置守宰、據天下之圖、攝制四海、此其得也。二世而亡、有由矣。暴威刑、竭人力、天下相合、劫令殺守、圜視而並起、時則有叛民、無叛吏。漢矯秦枉、剖海内、立宗子功臣、数十年間奔命扶傷不給、時則有叛国、無叛郡。唐興、制州県、而桀黠時起、失不在州而在於兵、時則有叛将、無叛州。」以為「矯而革之、垂二百年、不在諸侯明矣」。又言:「湯之興、諸侯歸者三千、資以勝夏;武王之興、會者八百、資以滅商。徇之為安、故仍以為俗、是湯・武之不得已也。不得已、非公之大也、私其力於己也。秦革之者、其為制、公之大者也;其情、私也。然而公天下之端自秦始」云。 観諸儒之言、誠然。然建侯置守、如質文遞救、亦不可一責也。救土崩之難、莫如建諸侯;削尾大之勢、莫如置守宰。唐有鎮帥、古諸侯比也。故王者視所救為之、勿及於敝則善矣。若乃百藥推天命・佑言郡県利百姓而主胙促、乃臆論也。 前巻 『新唐書』 次巻 巻七十七 列伝第二 『新唐書』巻七十八 列伝第三 巻七十九 列伝第四
https://w.atwiki.jp/sangokushi11/pages/42.html
BGMの種類が少ないです。後半になると部隊が出ずっぱりでずーーーーっとおんなじ曲がかかってます。革新ではあった勢力別の音楽欲しいです。 -- (名無しさん) 2006-10-22 23 22 08 11では、兵法の威力が低い気がする。せめてクリティカルの威力を修正した形でPKを出してもらいたい。三國志Ⅹ・信長の野望革新のPKは出てないみたいだから、11も出さない方針なんでしょうかね? -- (名無しさん) 2006-10-22 23 27 51 恨みみたいな隠れパラ欲しいな。義理だけじゃもの足りない。 -- (名無しさん) 2006-10-24 04 17 28 特技1個づつじゃ満足できません!!!!! -- (名無しさん) 2006-10-25 05 18 09 名所っぽいところとか有名な合戦場になった場所にカーソル合わせると革新みたいに地名が出て欲しかった。祁山とか子午谷とか -- (名無しさん) 2006-10-25 19 15 27 アイテムエディタとシナリオエディタ、史実武将のエディットも出来れば尚良かったのに。PKを出さない方針ならば、無印にもそういった機能をつけてほしかったです。 -- (名無しさん) 2006-10-28 19 21 44 歴史好きとしては武力をゲームに深く反映させるのをやめてもらいたい。 統率力は周囲の部隊を自在に操る能力にしてもらって、部隊の強さは士気と訓連度によるものにしてもらいたい 兵士の出身地によって能力に強弱があると面白い。 そしてもっとも重要なのが政治力 誰がやっても数年経てば国が豊かになるのはおかしい 徴税等をとる特技が今作にはあったのだが、これは◎ しかし、富豪という能力があれば、国の収入が増えるというのが不思議 もっと国のパラメータを複雑にして、そこに関与するために必要な能力を 定義して、すべての武将がそれぞれの分野で活きるゲームを作ってほしい -- (名無しさん) 2006-10-29 12 36 21 第二軍団以下に委任した際に、都市の治安とか部下の忠誠とか一番管理して欲しいコマンドをきちんとしてないような気がします。これじゃ安心して委任できねえよー! -- (ザンギュラ) 2006-10-29 21 01 54 藤甲を大将にして、マルチプレイで実験してみるといいと思う。 何らかの条件がそろってしまうと、火神の効果がなくなるバグが出るよ 火神を大将にして、藤甲を副将にすると両方機能したような気がする・・。 自分は、副将に火神と藤甲をつけた時に 火神の効果が現れないバグが出た。(火計が無効の効果) -- (名無しさん) 2006-10-29 23 33 15 面白ければいいよ^^ただそれだけ。 -- (名無しさん) 2006-10-31 23 44 36 一騎打ちをもう少しハデにしても良かった。舌戦のヌルさはどうにかならんのかな。決戦争覇もいいけど、一騎打ちモードとかも欲しいなぁ。 武力を深く反映させるなとか妄言吐いてる馬鹿武力を攻撃力に反映させているのは、武将が戦場で一騎当千の活躍をする"三国志演義"ならではの面白さを味わうためなんだそうな。 -- ( ) 2006-11-04 22 16 50 兵法の威力が弱い・・・。終盤になると一万以上の兵を率いてたくさんの部隊が戦うわけだから、1000前後のダメージじゃラチがあかない。 -- (名無しさん) 2006-11-07 15 43 37 武力を部隊の防御に反映して欲しい。大将が強いからこそ士気が上がって、相手が逃げ腰になり被害も減少するのが普通のはず。兵士の捕虜制度も欲しい兵士の怪我も復活望む -- (名無しさん) 2006-11-12 17 17 50 個別部隊を合流できるようなシステムがあればよかった。劉備部隊壊滅寸前・・・関羽部隊と合流【劉備副将or大将になる(神将+遁走の特技)】 -- (名無しさん) 2006-11-17 12 57 11 中央の勢力が不利になる仕様だからムリかと思われる。 戦法の威力がもっと強くて、支配した城の開発が反古にならなければ、もっといいゲームになってたのになぁ。 残念だ。 -- (名無しさん) 2006-11-20 19 56 48 特技に「医術」入れてくれ~。あとPS2オリジナルの武将もPC版のダウンロードサービスで作ってくれ~。 -- (92) 2006-11-29 13 16 06 アイテムエディットはPKのデフォルトだろ~。能力研究なんてどーでもええやん。 -- (92) 2006-11-29 14 20 22 医術があったら絶対新武将でチャングム作れるのに~。あとアイテムエディットもあれば、金庸作品の登場人物も作れるのに~。-- (92) 2006-11-30 14 36 54 敵が数千でこっちの数万の城にちょくちょく攻めてくる。あり得なくてつまんない。万を持して大戦の方が良い-- (波津島小次郎) 2006-12-02 00 02 14 書物の効果が全部舌戦関係というのは凄まじく萎える。兵法書なら金剛や鉄壁といった特技が追加される方がありがたみがでるのだが。 -- (名無しさん) 2006-12-02 16 55 44 1.ゲーム開始将軍、軍師などがどのように天下を統一するか話し合いがもたれる。立案された政策の中から色々と採択。それに応じて内政値が設定される。2.内政と軍備都市の最大内政値は固定。ただし、最初から最大まであげることはできない。国力、人口増加時にそれに必要な内政箇所が追加される。最近の奴は自由度が増しすぎてるから緩いんじゃないかな。と思って考えてみたがお使いゲームになりそうだな。-- (名無しさん) 2006-12-05 00 24 34 いろいろあるが第三作目がよかった -- (名無しさん) 2006-12-10 15 10 56 君主プレイつまらない -- (にわか三国志er) 2006-12-11 09 04 25 糧道を断って兵糧攻め。城を囲めば刈り入れは出来ないのだから補給部隊を送らなければ兵糧の収入は無くなるはず。-- (名無しさん) 2006-12-13 16 43 55 外交で出兵を求められたら何で委任状態でしかも1ユニットしか派遣できないの?発売早々のバグオンパレードといい、今回の出来といい、中国にアウトソーシングすんのはいいけど、日本側チェック甘いんちゃいますかぁ?コーエーはん。 -- (92) 2006-12-19 17 58 35 ターン制なんだから低スペックでもネット対戦しやすい仕様だと思うんだけど…対人戦がしたいです>< -- (名無しさん) 2006-12-31 01 43 04 ↑オンラインでの対人戦です -- (名無しさん) 2006-12-31 01 43 39 もっと任官を楽しめるものにならんかな。ただ、階級を羅列するんではなく、どっかのゲームがやったみたいに内政・外交・軍事などに分けるとか。階級が誰の下になるのかとかはっきりさせたら面白いのに。 -- (名無しさん) 2007-01-06 20 00 42 国号をもっと多くするか自由に選択できるようにしてほしい。-- (名無しさん) 2007-01-06 21 37 44 ・外交をもっと楽しく・特技は最高3つくらいある武将がいてもいいと思う。・もっと武将の怖さ?を反映させて欲しい。曹操だろうが関羽だろうが呂布だろうがぜんぜん怖くない。・汎用イベントの増加。新武将を君主にしてプレイするとイベント少なくて盛り上がらない-- (名無しさん) 2007-01-08 20 40 53 ・建物の種類が少ない -- (名無しさん) 2007-01-26 11 29 39 てか・・信長の革新の方が全然楽しい-- (名無しさん) 2007-01-26 11 33 37 陣地や城塞に兵士を駐屯させたい。敵陣は破壊するものじゃないだろう・・・ -- (名無しさん) 2007-02-23 21 50 10 なんで捕虜を処刑できないの?(笑) -- (名無しさん) 2007-03-11 14 16 42 マップを大きくしてほしい。何十km弓が届いてるんだろうと考えると冷めた。戦闘含めて他国の動向が見えすぎる。 -- (名無しさん) 2007-03-12 23 00 48 エイジオブエンパイヤを三国志に見立てて遊んだ方が面白かった… -- (名無しさん) 2007-03-27 23 56 47 官職に説明入れて欲しいな・・・9では確かあったのに -- (名無しさん) 2007-04-19 01 59 19 負傷兵を復活させてほしい。陣の効果範囲にいると負傷兵が回復するとか-- (伏龍) 2007-05-05 09 28 57 内政と戦闘を別にしてほしい。あと、とったところの内政施設をそのままに‥‥-- (伏龍) 2007-05-06 12 50 12 なんか、全体的に限界値が低い。能力とか、官職の+分があんまり意味ない。兵力も過去作に比べて少ない。せめて50万vs50万くらいはやらせろ。兵科も少ない。象や虎はどうした。近衛兵使わせろ。 -- (名無しさん) 2007-05-18 22 26 55 革新みたいに、城の増築がほしい。小城でも、10年くらいかけて改築を繰り返せば洛陽を超えるような大都市になるんじゃないか? -- (名無しさん) 2007-05-26 13 26 51 ここに書き込んでる人たちって、コーエーへの要望とかで書いてるけど自分達が皆を納得させれるようなゲーム作れるの?ただ、ぐだぐだ文句言ってるけどじゃあ自分達が皆から文句言われないようなゲーム作ってから書き込めば?自分がゲームクリエイターでもないくせにいちいちそういうこと書き込まんでほしい。-- (Remenber) 2007-06-05 23 41 34 >>コーエーへの要望とかで書いてるけど>>自分達が皆を納得させれるようなゲーム作れるの?ゲームが作れないから要望してるだけだと思うが>>ぐだぐだ文句言ってるけど要望らしい要望もある>>自分達が皆から文句言われないようなゲーム作ってから書き込めば?そんな物作れりゃ今頃作ってる^^あくまで皆は要望を書いてると俺は認識しているのだが。要望と文句を一緒にして貰っては困る。作れ作れというならまず自分が作れ -- (名有りさん) 2007-06-06 16 58 14 えらい私的な要望ですが・・・。水滸伝の武将出すんなら108星全部出してくれたら良いのに・・・。どうせなら天罡星と地煞星全部出してほしかったです。それ目当てで買ったようなもんでしたから・・・。 -- (水滸伝好き) 2007-06-11 19 04 47 魏延「KOEIさんよ。孔明の知略100はどうにかならんとかね。名声100の間違いじゃないのか。こやつはそんなに戦上手ではないべ。しかも人を見る目がないし使い方もへたくそ。もういい加減知略さげてくれ」韓信「この戦下手、孔明」孔明「何を言うか、2人とも。おまえらは人あたりが悪いんじゃ」上杉謙信「おまえら喧嘩するなら両成敗じゃ」知略を政治・外交での知略と戦での知略を分けてほしいね-- (魏延) 2007-06-12 23 16 14 夫婦の片割れ殺したら即仲間になるってアリエナクネ?薄情ってレベルじゃないぞアイテムの効果の細分化と種類増やしてほしい。てかなんで種類減ってるんだろう。あと前作にもあった、プレイヤー勢力が強大になったらコンピュで連合軍作って強くしてほしい。二分の一制覇したらコンピュ任せでも余裕で全クリなる。てか都市三つ持っただけでコンピュ放置したらあっとうまに統一。俺イラネオリジナル武将に思い入れ強くするようなイベント作ってほしい。50年苦楽を共にしたキャラが死んであっさりと君主変わるのは寂しいね。まぁでもそこらへんは難しいか…-- (ラリュド) 2007-06-13 04 43 44 武力50以下は一騎討ちに参加不可になったらいいのに…無理なら内政系特技持ちは不可とか<副将がしゃしゃり出て来て即死 -- (無虚) 2007-06-14 00 54 19 委任のAI賢くしてください何作つくってるんですか。。。-- (うう) 2007-07-05 22 48 06 諸葛亮の政治力が低いと思う。北伐で疲弊した国を3年で立て直したんだよ? -- (?) 2007-07-08 18 09 18 伏兵に鬼謀はおかしい-- (名無しさん) 2007-07-14 14 44 50 新武将の名前(2文字ずつってorz)委任馬鹿すぎ(拠点にほぼ同数の兵が攻めてきたのに7割の兵連れて敵の真横通って港攻めに行くって…)-- (名無しさん) 2007-07-21 21 26 40 部隊編成を9よりにしたら、いいのにね-- (名無しさん) 2007-08-16 19 55 35 孔明は政治と知謀の数値が逆でも良いかもなあ -- (名無しさん) 2007-09-03 09 42 11 伏兵は10の時のでよかった。今のは伏兵とはいえない気がする -- (名無しさん) 2007-09-05 20 00 31 孫晧には詩想、みたいに出来るだけ特技を付けて欲しかった。孔明には祈願、みたいなサプライズもつくってほしかった。。。。。。。。 -- (真の三國無双) 2007-09-08 15 46 10 兵士にも経験がほしい。最前線で戦い続けてる兵士と徴兵したばかりの兵士が同じ強さなのはなんとかしてほしい。 -- (名無しさん) 2007-09-14 21 16 43 孔明がホントはもっと知力低いとかどっかで聞いたような決まり文句書いてる人多いけど、三国志に孔明以上の知力の人間が存在したとしてイメージとゲームバランスが保てると思ってるのかね。コーエイさんだってそういう子供意見も見てますよ(診てますかなw)ってなアピール兼ねて統率力や特技でバランス取ってるじゃんか。11の能力値設定のバランスはこれまでのコーエイゲームの歴史の賜物だね。超人不在でも特技でキャラが立ってる。でも、唯一『捕縛』はバランス崩しだね。 -- (名無しさん) 2007-09-16 19 08 54 AIをPythonかRubyでスクリプト化して弄らせて欲しい。グラとかの素材はかなり力はいってるのにAIのクオリティがとんでもなく低い。ちゃんとしたAIを組んでくれるんならそれに越したことはないけど次善の策ということで。AIさえまともならどのシリーズもかなり長く遊べると毎回思う。それも無理ならゲームバランスを表す各種パラメータをINIファイルに切り出すだけでもやって欲しい。無駄攻めが多いのを多d少控えれば大勢力が有利になって曹操の独走を食い止めるといたプレイが熱くなるだろう。 -- (774) 2007-09-22 23 20 04 革新やった後だったから、どうもターン制に馴染めなかった。だからリアルタイム制にしてほしい。 後は配下武将の官位の叙任を楽にして欲しい。勲功値上げるのが面倒だった。 後は能力の上がり方を上がり易くして欲しかった。個人的にはヘボ武将を強くしたい。 ただ、あまり操作内容が複雑になるのは止めて欲しいかな~。 シリーズ物の性で、マニア向けに複雑にするか、新規ファン獲得に向け簡単にするかはKOEIのトップ次第でしょ。 後、上に書いてある通りゲームクリエイターじゃないけどさ、だからといって、あなたにとやかく言われる筋合いはない。 こっちだって金出して買った以上、消費者として製品を評価する権利はあるんだし。 視点が、まるで生産者の視点だもん上の人。 -- (へっぽこ) 2007-10-06 00 41 23 挑発も欲しかった。 -- (名無しさん) 2007-10-07 18 32 45 寝返りする武将と、絶対寝返らない武将を分けるべき 上にあがってるけどAIはなんとかしてほしい もっと兵糧の減り方をシビアにしてほしい 税率も設定できて、税率あげると民忠がどんどん下がるとかも 兵士の武器を作るのはおもしろかった。 研究でいろんな武器防具を作れるようにしてほしい。攻撃力低くなるけど足が速くなる装備とか 今作の特技は各武将の個性がでててよかった -- (名無しさん) 2007-10-15 07 43 19 戦場で兵士数が減少するのは戦死ではないはずなので 兵士にも負傷、逃走といった要素を盛り込むことが出来れば よりリアル感がでるのでは無いでしょうか? 戦後帰城した後に負傷兵士が徐々に回復したり、 逃走していた味方兵が帰参して元の兵士数に近づくというかんじ・・・ 三国時代には兵を金で雇うという実態は ごく限られていたのではないでしょうか? 義勇兵と言う言葉をよく耳にするので 名声のある勢力には勝手に兵士が集まるといった感じ・・・ ゲームバランス上お金を出せば雇えるという仕様にしないと いけないのかもしれないけれど・・・ 統率というバロメータが生きてこないので 多くの兵士を統率できるとか戦闘力が上がるということでなく 兵士の離脱が少ないこと、逃走兵士の復帰が早いこと 志願兵が多く来ることなどの意味をもたせれば生きてくると思います。 -- (名無しさん) 2007-10-15 22 08 12 三国志シリーズのファンなんだけど、とりあえず早く12を出して欲しい。 もちろん、11を超える面白さで。 一番の要望はAIの強さかな。超級って言っても全然だったし・・・ 結局、流言・撹乱・偽報・一騎打ち・兵器・官位の任命を禁止してようやく面白くなった。 知力が高い武将が使えるようになったのは評価出来るけど、 やり過ぎで、流言・撹乱が鬼のように強かった。 後、一騎打ちも呂布・関羽・張飛の武器持ってる奴以外は簡単に勝てて、 しかも部隊が壊滅するから一気に形勢逆転出来る。 皆書いてる様に、負傷兵は必要ですよね。 激しい戦いになったら別として、敵の城を攻め滅ぼして、戦力がダウンするってのがオカシイから。 相手を滅ぼしても金と米を手に入れれないし・・・ それだったら、自分の城に火を放って米を燃やすとか出来た方が面白い。 信長はリアルタイムで三国志はターン制で長所を生かして面白いの作って欲しいな。 リアル=面白いではないのでゲーム性を重視して。 -- (名無しさん) 2007-10-18 15 55 41 無茶なのかもしれないけど、個人的には各武将の能力を演義よりも史実よりにしてほしかった。 -- (名無しさん) 2007-11-06 03 00 23 超級は敵が自陣を省みずにひたすら突っ込んでくるだけで弱かったな・・・ 「三国志」シリーズの常連さんを喜ばせるなら史実重視? 「無双」から流れてきた人をキャッチするなら演義より?両方あわせるのは面倒かな? 上にも書いてあったけど、諸葛亮の知力100はやりすぎ><むしろなんで政治100じゃないの!? 周喩は魅力100であとは中途半端とかになればw あと当時の闘争は現地調達が基本だったんだから、兵糧とか敵からもっととれればよかった 。 羊コと陸抗を義兄弟にしたときはジーンときたなぁ。。 -- (名無しさん) 2007-11-06 03 12 49 能力に対する不満って、PKで自分で変更出来るから、イイんじゃないの? -- (名無しさん) 2007-11-09 13 20 59 シナリオエデット(シナリオを改造できる)を入れてほしい -- (呂布) 2007-11-17 20 42 00 上に書かれているシナリオエディットは私も強く希望します。 用意されたシナリオじゃなんとなくしっくり来ないときも多いので。 あと9の時にあった負傷兵や城を落としたときに兵と負傷兵をそのまま吸収できると いうシステムを復活させて欲しい。金、兵糧が奪えないのはさらに納得いかない。 9の時とは違い施設ごとにそれぞれいくらあるっと決めているわけですしね。 関や港などに張り付かれるとほぼ無力になるのはどうにかして欲しい。 兵法だと反撃すらできませんし、特に関はもっと攻めにくくすべきだと思う。 例えば、現在の関の能力+連弩櫓みたいな感じになればよかったと思う。 そして、委任AIと敵AIの改良は必須だと思います。 委任AIがある程度賢くないと大勢力になったときにストレスを感じます。 特に敵はAIの能力できっちり差をつけるべきだと毎シリーズ思います。 さらに言えば、「金銭と物資面での優遇の差」&「敵AIの賢さ」の2点で それぞれ難易度を選べるようにしたほうが面白くなると思います。 決戦制覇の所でも書かれていますが確率でやるのだったらきっちり乱数を使って毎回 結果が変わるようにすべきだと思います。 そして、かなり無茶な要望な気がしますが 戦争のやり方を2種類くらい欲しいと思っています。 どういうことかというと、今回のような手動で部隊を移動し攻撃するというやり方、 そして9の戦争に近い形でオートで戦争が進む感じです、委任で攻撃場所を指定しても どうもそれっぽく感じなかったです。 ゲーム開始前に戦争方法の指定を行えれば良いのではないかと思ってます。 9の戦争の形は今までで一番よかったように感じます。 最後に細かいことですが、部隊編成時に「水軍」がないのはおかしいと思います。 以上が私の意見です。 光栄さんがこれに目を通して三国志Ⅻは今まで以上に楽しくてやりこめるようなシリーズに なる参考になることを願います。 -- (鷲) 2007-12-06 03 17 09 アイテムの種類と効果の充実が欲しいです あと、史実と演義ありますが、これは特に問題ないかと 片方選べば必ずもう片方からの要望でてくるしキリないしね シナリオエディットとAIの強さ調整も必須事項かと 最後に、これは万人共通ではないかもしれませんが、忠誠の減少率。 部隊武将は年月が経てば勝手に忠誠が減少するので、 何をするでもなくほいほい登用できて少々興ざめしました。 最後のほうでは、武将の九割がたを自軍に取り込めて圧勝。座して勝つってなんだかなw -- (ラリュド) 2007-12-13 00 56 01 能力値に関しては万人が受け入れる数値など絶対にありえないのだから今のままで良い。 孔明の知力<政治なんていい例だ。そんなのどう考えても少数派。 文句がある人間のみ「コーエイは解ってないな~」とか自己満足に浸りながら、PKでシコシコ変えれば良いだけの事。 -- (名無しさん) 2007-12-13 07 29 13 友人と酒飲みながらワイワイ多人数プレイするんだけど コントローラーがいつも1Pしか使えないので回すの大変です マルチタップを使えるようにしてくれるとありがたいのですが・・・ -- (名無しさん) 2008-01-01 16 44 34 孔明の知力が高すぎって話良くでるけど、陳寿が孔明を個人的に憎んでいたせいであんな記述(実際には政治の人)になったとかなんとか 脚色の激しい演義を鵜呑みにはできないが、演義の元になった民間伝承にこそ真実が隠されている可能性はあるよ -- (名無しさん) 2008-01-05 20 53 08 ↑陳寿が孔明を憎んでたら「管仲や蕭何の類」などと賛辞しないと思うが? それはともかく俺も個人的には知力トップ=孔明でいいと思う。 -- (名無しさん) 2008-01-14 22 25 35 程普が孫権を裏切ったときはさすがにイヤになった。 -- (名無しさん) 2008-01-28 18 05 01 三国志12まだか… -- (ラリュド) 2008-02-20 01 32 50 領土、武将が増える中盤以降大勢もきまりつまらない作業が増えてだれる。 同盟とか敵対状態をもっと際立たせて共闘がおこりやすくして欲しい。 1対1は消化試合が多くて・・・。 -- (名無しさん) 2008-03-31 15 25 28 いつも思うのですが孫権軍の武将が強すぎ・・・ いつもほとんどの武将が欠点なく高い数値がついてます。 シリーズを重ねるごとにその傾向が強くなっているような・・・ しかも水軍だの特殊能力や、地形効果で更に強い・・・ なんとかならないかね。 -- (アンチ孫権派) 2008-04-12 17 32 57 功績の効果が反対だと思うのですが・・・たとえば司徒に政治の高い武将を任命すれば忠誠、治安が下がりにくくなるとか・・・ 後、功績が増えっぱなしはおかしい・・・拠点が陥落したらそこの太守功績-1500とかにしたら後半官職がつめつめになることも減ると思うんですが・・・ で、ひとつ考えたんですが新たに「声望」という値を作ってはいかがでしょうか。官職同様に上がり下がりするものなんですが、他勢力の武将の場合、これが高いと情報の「能力」が少し高めに表示されるんです。こうすると敵を見くびって失敗したりしてスリルが出ると思うんですがどうでしょう? -- (名無し) 2008-04-17 17 57 13 ↑基本を100にして、声望÷100×能力が情報の能力値となるということです。 後、言い忘れたんですが外交に「支援依頼」「共同作戦」「通過許可」を入れてほしいです -- (名無し) 2008-04-17 18 57 34 新武将をフォルダ分けというかグループ分けできるようにしてほしい 一杯つくると整理するの大変すぎる -- (名無しさん) 2008-04-20 08 41 38 舌戦のシステムをもっと生かしたらいいと思う。 外交は全部舌戦が起きるくらいで良い。有利な立場だとハンデをつけるとか。 今回は論客持ちじゃないと舌戦がなかなかできないので、高名な孔明先生のお話が再現しにくくて残念。 舌先三寸で大勢力を動かす醍醐味をもっと味わいたい。 -- (名無しさん) 2008-04-21 20 02 39 弓の距離がたった近接+1では遠隔である面白味がない。 もっと弱く長く、高低差で距離、威力が変化してほしい。 -- (名無しさん) 2008-05-01 01 39 57 関門に部隊がはりついてその後ろに攻城兵器が詰まって待機とか 援軍だしても同盟軍と全く違う場所で意味のない港をちょっと削って戻るとか AIがダメすぎるせいで超級でも難易度があがらない。 これならカルネージハートのようなAIエディットでもつけてほしい。 武将の性格ごとにAI設定して自動で戦わせるような遊びもできるし。 -- (名無しさん) 2008-05-01 01 51 09 孫権が孫堅から独立した時はガッカリした。(仕方が無いのでデータを変更) 今回の場合、過去の名作 ネクタリスやタクティクスオウガを参考にして作って欲しかった。 一斉攻撃の威力がたいした事ないってどういう事?! -- (名無しさん) 2008-05-02 15 17 48 まず諸葛亮は司馬懿とほぼ互角の知力にするべきだった。 神算のおかげでもはやあきれる。 あとはAIがひどい 出陣のときとかにイベントがあったらよかった。 三国志9を基にしてくれてたら嬉しかったかも -- (名無し) 2008-05-05 11 25 22 光栄もマイクロソフトと同じで、手抜きをまぜながら作り込んだものを発売してくる。 -- (名那須) 2008-05-08 17 47 52 一斉攻撃は威力は低いよ。損害がそこそこ低い。 二部隊程度だとあまり強くないけど。 六部隊で囲むと凄いことに・・・ -- (名無しさん) 2008-05-15 20 13 27 いい加減セコイ商法をやめてくれ -- (名無しさん) 2008-05-28 23 12 54 先に普通のソフトを出して 後からPKを出すのはやめてほしい 最初に普通のソフトを買った人にとっては最悪 -- (張良) 2008-06-11 18 34 01 死せる孔明、生ける仲達を走らす こういった故事より孔明と司馬懿の知力の差は今のままでいいが、 司馬懿と郭嘉で郭嘉の方が知力が高いのが意味不 -- (名無しさん) 2008-06-12 16 26 40 無双もそうだけど難易度をステータス敵に難しくするのではなくて テクニック的に難しくしてほしい。 十分大きな会社なんだからそのくらいはしても良いと思う -- (名無しさん) 2008-07-05 21 07 03 郭嘉すごいよ。 調べてみ。 -- (名無しさん) 2008-07-06 00 27 16 毎回システムは変わるけどAIは相変わらずひどすぎ。 都市3~4個領有したら統一まで負けずに行けるってのが・・・ 同時に複数の勢力が攻めてくるとか、ほかの都市攻めてる間に大軍が裏を突くとか それぐらいしてくれないと萎える。 無理ならオンライン化して対人戦にするとか工夫してほしい。 -- (名無しさん) 2008-07-12 12 13 25 面白すぎて寝れません。 前出のステータス的にではなくテクニック的に難しく。これに同意。 内政充実させてから軍事。勝てる時に攻める。これに尽きる印象もある。 内政からスタート(☆☆☆☆☆)にするか、充実した大軍(☆)で攻めからやるか。の違いしか感じれない。 排水の陣とかあったら面白いのかなとか思う。 兵、金、兵装、ストックが行軍中の数に劣る場合、鉄火の攻めができるなどワンスパイスあったらなぁ。とか もうちょっと根本的な所から幅が広がると神ゲーです。 -- (SFC4から11へ) 2008-07-21 22 35 24 なんか複数の勢力で攻めて欲しいという要望があるけれど、俺の場合は四面楚歌状態で 4勢力からフルボッコにされてるぞ? -- (名無しさん) 2008-07-26 19 38 47 忠誠心管理できない委任って意味ないような。。。 忠誠管理、治安管理、兵装管理、兵力管理、この反復行動が面倒極まりない。 のにもかかわらず委任して忠誠あげたくなったら軍団解散。 忠誠下がらなくなったら初めて安心できる委任って事で良いですか?^^: 面白いんだけどね -- (7777) 2008-07-27 02 03 27 0642あ24t4y6s4g5260あr4わ -- (史進) 2008-09-14 18 45 31 蜀の五虎将と魏の五将軍の差が激しい 能力にも結構な差があるし、何より特技 蜀の五人はその将特有の強力な特技を持っているのに対して、 魏の五人は他の将も持っている上に微妙な効果の特技持ちがほとんど 比較的マイナーな于禁と楽進はともかくとして、張遼、張コウ、徐晃の三人には固有の特技を持たせてほしい。 同じ会社から出してる無双でも上の三人は顔有りなんだし・・・ -- (蜀寄り) 2008-09-22 12 48 13 ↑同感。 魏の譜代がイマイチ過ぎ。英雄集結とかでも曹操軍滅びやすい。 -- (名無し) 2008-10-07 20 03 25 張遼、張コウ、徐晃の特技考えてみた 張遼(威神) 周囲一マスの部隊は毎ターン、50%で気力ー20 張コウ(巧闘) 戦法必ず成功し、戦法に必要な気力がー5される 徐晃(鬼壁) 通常攻撃を受けたとき、 〔何もおきない・相手部隊混乱・相手部隊1マス吹っ飛ぶ〕 がそれぞれ3分の1で起こる -- (名無し) 2008-10-08 20 21 32 後漢皇帝に君主の娘を嫁がせて、生まれた子供を、次の皇帝に擁立できるシステム。 -- (専横政治) 2008-10-09 23 34 01 同盟国に援軍を要請したい!自国だけじゃ守れない時だってあるんだ(泣) 自軍 → 敵 ←同盟軍 で挟み撃ちをしたりしたかった・・・ -- (ユー) 2008-10-11 09 55 04 皆言ってるけど、やっぱりAIをどうにかして欲しいね 火種使ってきたり戦術的なところはそこそこ良いんだけれど、 委任も含めて戦略的なところがお粗末なんだよなぁ -- ( ) 2008-10-12 06 20 42 五将軍 内容はともかくとしてそれくらい強力なのが欲しいね 自分も金、もしくは兵糧いくらで将を借りたり兵を送ったりが出来るといいと思う それと一時的に都市、巷関に駐屯させてもらったり出来るとなお便利 今のところほぼ同盟が停戦の状態と変わりないように思える -- (名無し) 2008-10-15 11 44 52 武将プレイにしてください。 あと。情報収集能力によって見える戦場の範囲が違うとか、 伏兵の伏兵とか、糧道・穀倉の襲撃が出来るとか、戦略的な広がりが欲しい。 イベント絡まなくても戦略次第では赤壁のような大逆転が可能とか。 -- (那拿賜) 2008-11-06 13 33 27 12に対する要望じゃなくて11を改良してほしいんだけど、 建設部隊で土地改良をしたかった。 確か、信長の烈風伝(?)あたりで道作りができたと思うけど、 この11のシステムだったら、湿地⇒平地にしたり、運河作ったりね。 まぁ、ネトゲーじゃないからアップデートとかありえないだろうけど。 -- (名無し) 2008-12-10 10 24 23 >同盟国への援軍要請 同感ですね。 同盟国への援軍要請は11にも確かにあったけど、はっきりいって使えない システムだったので(金積んでも一度につき一部隊しか要請できない上、 捨て駒としか思えないような文官送り込んできてすぐ壊滅、って事も少なくなかったので そんなの要請する金と暇があるならそれで少しでも自国の軍備整えたほうがいいじゃん、 という結論になってしまう)次回作でも採用されるのであれば是非改良してもらいたい です。 せめて要請する部隊数と期間などの条件の指定ができればまだ戦力として少しはアテに できたと思うのですが… -- (名無しさん) 2008-12-12 18 53 23 個人的には武将プレイがいいです -- (名無しさん) 2008-12-17 22 08 57 おまけで現代軍とかあったら面白そう。 一つの勢力だけなぜか銃があったりとか。 飛行機で一瞬で攻落とか(笑)半年くらいで統一できそう。 そのくらいスタッフが遊んでもいいと思う。 とりあえずAIはどうにかしてほしいなあ。 -- (名無しさん) 2008-12-27 02 36 44 上の人の土地改良に同感。 例えば、金10000くらいで開発地を増やして最終的には新野を大都市にしたりとか。 だいたい、内政は最初の方に整えれば後は手をつけなくてもいいっていうのは間違ってる気がする。 数年も放置すれば荒廃するのが当たり前だろうね。 次回作は、常に内政をしていて始めて収入アップするようにしてほしい。 -- (名無しさん) 2009-01-06 13 45 45 関とか港に陣効果や軍楽台効果を付けて欲しい。 これだけで守りやすく攻めにくくなる。最低でも援護射撃が欲しい。 あと、建寧まで遠すぎる -- (名無しさん) 2009-01-15 01 02 39 官職のボーナスがもっと色々あって良かった気がする。 軍師将軍→知力5UPとか、執金吾→所属都市の治安100とか、まぁいろいろ。 で、文官系は内政面でメリットを与える代わりに戦に出れないようにしてほしい。 孫乾、王允、小喬あたりが単独で突っ込んでくるのを阻止するために。 武将プレイも悪くないけど、自分が所属する国の殿様がバカなのはちょっと…。 8をやった時は味方が足引っ張って痛かったし。 -- (銀の字) 2009-01-17 04 11 40 曹操のチート能力を返してほしい -- (名無しさん) 2009-01-17 17 53 13 魏をなめるな -- (名無しさん) 2009-01-21 19 22 27 個人プレイなら異性武将同士の結婚があれば良いな -- (名無しさん) 2009-01-28 20 10 59 君主と相性が悪い武将でも何年も仕えてると少しずつ相性が近づいて行くようにしてほしい このシステムがあればリュウビが魏のチョウリョウと仲良くなってたり逆に曹操の下に張飛が長年いて仲良くなってたりするから面白いと思うんだけど いくら優秀な配下とは言え長年褒美上げつづけててもずっと忠誠が下がり続けるのはすごく理不尽に感じる -- (名無しさん) 2009-02-02 22 25 03 今プレイしててふと思ったんですが。 …退却しようよ。 兵数が500以下になると退却するみたいだけど。 500じゃ次の一撃でやられるし。 やられると捕虜かも知れないし。 三国志3あたりはそのへんの状況判断がよかった。 『陽平関の戦い 曹操軍40000 vs 劉備軍25000』 みたいな感じで広い視野で状況が把握できるともっといいと思う。 あと処断される率が低すぎ。 あんまバッサバッサやったら誰もいなくなっちゃうけど。 高い官職についてる武将は処断されやすいとか、公、王、皇帝が捕まると絶対に処刑とか。 -- (銀の字) 2009-02-04 17 38 51 くだらない枝葉のシステムはそんなに発達させなくてもいいから、パラドックス製のゲームみたいに、バランス性と史実性を上げて欲しい。 例えば、諸政府の人口把握力とか、貿易との絡みとか、あるいは当時流行の流民問題とか、新宗教(黄巾、五斗米道、仏教)問題とか。 あるいは、周辺異民族との問題とか。(なんで、鮮卑も匈奴も出てこないのか不思議、当時としては氐族などよりよほど大きな問題だったのに。) パラドックス社など、今流行の欧州系ゲームを参考に、ゲームをリニューアルさせて欲しい。 -- (名無しさん) 2009-03-03 10 36 15 ↑ゲームじゃなくて歴史書を読んだ方がいいのでは? -- (名無しさん) 2009-03-15 05 06 45 上の上の人と同じく、歴史シミュレーションゲームは、その時代の何かを忠実に再現しようという目的、方向性は必要だと思います。 それとポップさとのバランスで良さが決まると思います。個人的には、リアリティ:ポップさ=7:3くらいが好みです。 -- (名無しさん) 2009-03-24 13 38 35 PKの編集機能をゲーム開始時にオンオフできる設定が欲しい。 -- (名無しさん) 2009-03-28 05 50 29 きもちわるい・・・ -- (名無しさん) 2009-07-01 21 02 09 編集機能は使わなければいいだけ 確かに関や港はあんまり籠る意味ないな 確かに官職に対してもう少し効果がほしいな 確かにAIの改善は絶対必要ですね 確かに武将プレイもいいですね 後は却下 -- (名無しさん) 2009-07-02 13 15 43 偉そうにするな -- (名無しさん) 2009-07-02 16 05 33 アイテム設定か、アイテムを増やしてほしい。有名武将しかアイテムを持っていないから (信長の野望革新PKみたいに…)。 汎用イベント以外のもほしい。 後漢王朝廃止したら、二度と出来なくなるから自分で確立出来るようにしてほしいな。 あとは一騎討ち、太守と太守(馬乗らないで)の対決。その太守都市に出向いて、プレイヤー 太守が勝てば勧告、停戦、従属させるとか? -- (名無しさん) 2009-07-08 00 55 35
https://w.atwiki.jp/gukko/pages/13.html
夏侯淵(字:妙才) かこうえん蒼天夏侯淵 夏侯惇(字:元譲) かこうとん蒼天夏侯惇 華歆(字:子魚) かきん蒼天華歆 賈詡(字:文和) かく蒼天賈詡 郭嘉(字:奉孝) かくか蒼天郭嘉 夏侯淵(字:妙才) かこうえん 生没:?~219年 本貫:豫州沛国県 官:征西将軍 曹操の従弟のひとり。あるいは又従弟か。おまけに曹操の妻(どの子だろ?)の妹を娶っている。孫策・周瑜みたいなもんですな。 若い頃、曹操が故国沛県で県令相手になんかやらかして指名手配されたとき(何やったんだ…)、その身代わりになって逮捕されたことがある。後、曹操が機転を利かして救出したらしいが、このエピソードの詳細は記録になく、歴史作家たちの創作活動に生彩を与えるであろう。 また、時期は定かでないが、兗・豫州が飢饉に見舞われたとき、夏侯淵は自分の幼子の命と引き替えに、死んだ弟の娘を救ったという。これまた後の張飛夫人あたりと絡めて、色々創作のタネになりそうな話である。 さておき、彼は速戦を得手とする疾風なんちゃらに比すべき猛将であったらしい。「典軍校尉夏侯淵 三日五百(里) 六日一千(里)」という囃し歌が軍中で流行ったというから凄い。 もちろん彼が屈指の騎手ゆえに軍団が早く動けた、という訳ではない。斥候の手配、行軍計画や補給拠点の確保など、要は軍団の高速移動に必要な事務処理能力に際だって優れていたのであろう。事実、官渡の決戦の際、彼は徐州~豫州にかけての兵站ラインを維持する補給司令部を宰領しており、同じく後方総司令官である夏侯惇とともに、ガッチリと前線をサポートしていた。 ちなみに彼が典軍校尉に任じられたのは官渡から赤壁の間のことで、当時は徐州近辺の反乱制圧に奔走していたようだ。なお「典軍校尉」は、曹操が西園八校尉に任じられたときの官位。 彼の前半生の戦歴を見る限り、大戦で軍主力として働くと言うより、東へ西へ、北へ南へ、次々と勃発する反乱勢力を鎮圧して回る任が多い。もちろん反乱勢力といっても、難地の険に拠った郡レベル州レベルの大規模なものばかりで、ヘタすると劉備一党などよりもよほど強大な勢力である。そのため、「夏侯淵軍」という独立軍団ではなく、任地にあわせて徐晃や朱霊といった有力な武将を複数率い、全ての戦闘で勝利を収めていた。名選手というより名監督タイプかも。 それだけ軍政に長け、軍歴を重ねながらも、「思慮が足りん」「もっと臆病になれ」と曹操にたびたびお説教をうけており、今ひとつキャラが掴めねえ(; ・`д・´) 赤壁後は西の備えとして長安方面に赴任し、司、雍、涼三州の軍事および政治の悉くを総監した。文字通り、曹操の「分身」というべき存在であったろう。 西に駐留すること六年余。まだ曹操の威風に従わない韓遂ら関中の軍閥や、涼州の異民族を相手に連戦連勝し、魏の西辺境区を踏み固めた。漢中要塞奪取後は、そのまま対蜀方面総責任者として漢中の南鄭を居城とし、益州入りした劉備と対峙する。 西暦二一九年正月に行われた漢中西郊の定軍山の戦闘では、自ら前線に立って奮闘。しかし、劉備の猛攻に崩れ始めた張郃隊を救うため、自隊の半数を割いて寄越した瞬間、その空隙を敵将黄忠に衝かれ(他説では、逆茂木の修復作業の最中に襲撃されたとも)、討ち取られた。曹操の覇業を支えた宿将中、戦場で討ち取られた将帥は彼と張郃のみである。 諡して慇侯。長子夏侯衡が爵位を継いだ。次子夏侯覇は、後に司馬氏の専横に反発して蜀に亡命する。 その夏侯覇を迎えるための創話くさくもあるが、実は蜀の猛将・張飛の妻は夏侯淵の娘(ないし姪)であったとされる。張飛の娘二人は皇帝劉禅に嫁いでいるので、夏侯淵は曹操、劉備どちらにとっても縁戚にあたる。…というわけで、夏侯覇は蜀漢王朝の外戚として累進し、車騎将軍という軍部のナンバー3にまで昇る(「三国演義」ではその後戦死)。 蒼天夏侯淵 史実では曹操より歳下っぽいが、蒼天では「四天王」全員が曹操より年上。幼い阿瞞に屈強のイトコたちが付き従うという少年編のスタンスがそのままシフトしている。 若い頃からクールな美丈夫として描かれており、熱血一本の惇兄ィと対照的である。 「危機にあっても自在に心が動く」「天下一の弓」と評されている。そういえばいつの間にか、夏侯淵=弓将というイメージが定着しているな…。三国無双あたりからかしら。とにかくいぶし銀の匂いをプンプンさせている。常に冷静で知的、細い髭と流し目がステキ。 後に曹操に「道理を好み、無駄を憎悪している」と評されるなど、これまでの「三国志」「三国演義」などに見られる粗野な猛将というイメージとは一線を画している。むしろシステマチックな用兵思想を持つ怜悧な軍人として描かれ、実際、敵兵=進軍の障害物、敵将=名を知るのも煩わしい存在、程度に割り切って戦争をしていたようだ。 許褚いわく「あの人は狼だよ。強くてはやいけど、みんなの中で一番自分をわきまえている」 許田の狩り場では、関羽を相手に生死を賭けた勝負を繰り広げ、引き分けている。「やるじゃねえか、あの夏侯淵ってやつ」とは劉備の評。 赤壁まで特に目立つシーンはないが、廬江の叛将雷緒を討伐するあたりから、曹操から思考を切り離した「将帥・夏侯淵」としての存在感を増してゆく。はじめて「無駄」と向き合い、戦争を「政治の延長」と見、敵の将兵に「人間」を見るようになったようだ。曹操いわく「おいおい淵、気前が良すぎるぞ」 自ら望んで東方揚州の鎮撫を行った後、今度は北方并州の太原に商曜を討ち、さらに西方の馬超・韓遂討伐に従軍して、さらにそのまま遙か涼州まで西征し、羌族・韓遂連合軍にとどめを刺している。 徐晃が感心したように、夏侯淵は曹操領の外縁部を転々と移動。戦闘と行軍が連続する半生だったようだ。この間どうやら「鬼将軍」という異名がついたらしく、曹操は羌族の首領を恫喝するとき、この名を用いていたらしい。 長い西征を終えたかと思うと、今度は曹操・夏侯惇率いる漢中制圧の軍と合流する。夏侯惇が迷子になったあげく陽平関の敵要塞を自潰させている間、別同軍を率いて周辺諸郡の制圧をしていたようだ。 夏侯淵はそのまま漢中に駐留し、最後の任務となる対劉備軍団の総司令に就く。このとき任地漢中へ向かう夏侯淵と、魏国に帰還する曹操・夏侯惇軍は一瞬だけすれ違ったらしい。陣頭、迷子将軍の件でひとしきり夏侯惇をからかった後、ふたりはあわただしく別れを告げる。 夏侯惇が投げてよこした酒筒は、魏公国で醸した新酒だった。二人は鄴都での再会を約すと、それぞれの進路へ向かった…(´;ω;`) それから二年後の西暦219年、劉備軍による漢中侵攻がいよいよ本格的になり、劉備自ら漢中近郊まで軍を進めてくる。 その前年から、中間地点である巴を巡って大規模な国境紛争があったが、張郃軍が張飛軍に粉砕されるなど、前哨戦から夏侯淵軍はかなり後手に回っていたようだ。長安方面から曹洪・曹休ら救援軍を得たものの、敵軍師・法正の陽動策により戦力を次々と寸断され、局地では大勝をおさめながら、要衝陽平関を失うなど全体ではいよいよ敗色濃厚な戦況となった。 しかし夏侯淵は曹操の本軍を待たず、劉備軍との決戦を続行。定軍山の食糧基地正面で劉備を待ちかまえ、それに応じた劉備もせっかくの法正の策をぶち壊して単騎で突出。馬上会談に応じる。 劉備は最初、当然ながら夏侯淵を格下と見、彼の振る舞いを不遜と喝破した。が、互いに刃も見せず去る間際、夏侯淵がすでに「将軍以上」のものであったことに思いを致して、とうとう気づいた。「まさか曹操!てめえの家来からばかすか“王”を生もうってんじゃ…」 が、直後に法正の密命を受けていた黄忠が、空気を神スルーしつつ出現。夏侯淵の不意を衝いてすさまじい斬撃を…と思ったけど一刀で馬ごと斬り捨てられる。あらら。 劉備軍の停戦違約を受け、劉備殺害を即断した夏侯淵は、黄忠を斬り捨てた後、すぐさま反撃に転じる。迫る若い勇将魏延も同じく馬首ごと切り倒し、殺到する劉備軍を蹴散らし、逆茂木の火花で張飛を躱し、ついには劉備の面前まで辿り着く。が、剣を振りかぶった姿勢のまま、諸葛亮の指揮する弩兵隊の一斉射撃を浴びる。 全身を貫かれながらも振り下ろした剣は、劉備に弾かれ取り落とし、落馬。力尽きる。劉備は「退路をかなぐり捨てる奴は王じゃねえ」としつつも「だがこの男は確かに届いてきやがった」と満面に汗を吹き出していた。 なおも立ち上がろうとするも、追いすがった魏延に背後から一撃を加えられる。これが致命傷であったろうが、夏侯淵は恍惚の中に、まだ見ぬ魏国の銅雀台を仰ぎ見ていたようだ。幼き日の阿瞞や若き仲間達の姿、一段一段登るたびに近づいてくる乱世の終わりと彼らの信じた夢、そして鄴で再会するはずの四天王達と交わす酒杯――と、夏侯淵が最後に見る夢は、またしてもKY黄忠によって袈裟懸けにブツ斬られた。即死であろう。 黄忠は夏侯淵の首を獲ろうとするが、劉備はそれをとどめ、どころか両断した躯を縫合したうえで軽舟に乗せて、曹操へ返還したようだ。「ここに漢中の王の遺骸を返還する」と送辞を付けている。 夏侯惇(字:元譲) かこうとん 生没:?~二二〇年 本貫:豫州沛国県 官:大将軍 曹操の本当の従兄弟といわれる。曹操の実父曹嵩(夏侯嵩)の、兄の息子。もともと謹直な少年で、士大夫の子弟らしく師について学問を修めていたが、往来で師を侮辱する輩が居たため、これを斬り殺した。それが十四の頃。人々はこの少年の意外な剛直苛烈を奇としたという。 曹操の旗揚げの時から、部将として従軍。数々の戦闘に参加したようだが、詳しい戦績の記録はない。が、腹心中の腹心であったことは間違いなく、本拠地の東郡太守代行に任じられるなど、すでにナンバー2として重きをなしていたらしい。 曹操の徐州侵攻作戦時は、荀彧・程昱らと留守番をしていたが、呂布・張邈による兗州乗っ取り事件に遭い、別城にいた曹操の家族を守るために出撃。しかし運悪く呂布の本隊と遭遇してしまい、入れ違いに濮陽城を奪われ、彼自身、敵の偽降計に騙されて捕虜になってしまうという醜態をさらした。このときは幕僚らが「将軍を巻き添えにするけどスミマセン」と泣き叫びながら突撃してきたので、呂布軍の方がビビって夏侯惇を解放してしまったので事なきを得たが、このまま殺されていたら、後世の評価は180度以上逆転していたものと思われる。 この後、徐州で呂布軍に攻撃された劉備を救援するべく一軍を与えらるが、劉備軍ともども敵将「陥陣営」高順に撃ち破られる。おまけに流れ矢で左目を負傷。「三国演義」などでは「父母より頂いた物を、もったいなや!」と叫びながら、ズルリと引きずり出した眼球を食べてしまうが、繋がったままの血管とか視神経とかどうなったんだろうと想像するだけでああああああああ! 当時は基本的に「曹将軍」とか「夏侯将軍」のように姓+呼称で人を呼ぶことが多いので、夏侯惇・夏侯淵ペアなどの呼び分けは多少ややこしかったのだろう。で、ちょうど夏侯惇が隻眼となったので、軍中、必要に応じて惇の方は「盲夏侯」将軍と呼ばれるようになってしまい、内心穏やかでなかったようだ。己の顔を見るたび、鏡を叩き落とすほどナーバスになっていたようだから笑い事ではない。当時、外見上のハンディキャップ、特に肉体の欠損に対する蔑視は、今日と比較にならないであろうから、強烈なコンプレックスを持っても不思議ではない。 それでも、曹操の文字通り分身として働き、主に後方総司令に任じられる事が多かった。官渡決戦の時も、彼は荀彧とともに許都の留守府司令官という地味かつ最重要の役職を受け持っている。 しかしながら、曹操不在の許都近辺で盛んにゲリラ活動を行う劉表の部将(というか劉備)を追い回し、南陽の博望で伏兵に囲まれ散々に撃ち破られている。あらら。 戦さの手腕はともかくとして、曹操が生涯で最も信頼した分身であったことには間違いなし。夏侯淵が曹操の剣として各地を飛び回ったとすれば、夏侯惇は鎧として本営を護りきったといえる。 曹・孫痛み分けとなった217年の濡須口での戦闘の後、夏侯惇は揚州方面の総司令官に任じられ、二六軍という桁外れの大軍団を預かることとなる。数字通りならば、おそらく劉備・孫権勢力の全軍を結集しても、夏侯惇軍ひとつに及ばなかったはずだ。 「三国演義」での粗暴な猛将というイメージに反し、史伝を見る限り、彼は士卒に優しく、土木工事の時は自ら土を担いで手伝うという篤実な性質だったようだ。それでいて、夜は先生を呼んで学問に専念。謹直だった少年時代の名残りが感じられる。 曹操は、夏侯惇にだけは魏公国の官位を与えず、漢王朝の重鎮として遇したといわれる。当然魏公国の官位を得た瞬間、夏侯惇は魏公曹操にとっての「臣下」となるのだが、曹操の方がこれを嫌ったらしい。この「不臣の礼」と呼ばれる処遇は、結局夏侯惇の方から辞退されている。 曹操と同じ西暦220年、彼の後を追うように逝去。魏王朝における初代大将軍に任じられたばかりであった。諡して忠侯。子の夏侯充が跡を継いだ。 蒼天夏侯惇 「蒼天航路」では少年時代からの登場。夏侯淵らと同じく、阿瞞より十近い年長として描かれている。従弟たちを中心にしたチームのヘッドで、惇兄ィとして慕われていた。チーム名は不明。 そして李烈率いる「爆裂団」(懐かしいっ)なる巨大チームと対立していた。なんでも、夏侯惇が斬り殺した「師を侮辱した輩」が、爆裂団の一員だったらしい。それにしても爆裂団頭目の李烈なる人物、放っておけば後々、各地から群がり出た無数のプチ群雄の一人にでもなっていたかもしれない。乱世において、しばしばこういった「悪少年」と呼ばれる侠客予備軍あがりの風雲児が、徒党を組んで県レベルの武装勢力を組織し、官軍に討伐されたり英雄に帰順して歴史の表舞台に立ったりしているのだ。 その李烈上将戦死後、爆裂団をまるごと部下にしたようだ。曹操が「大上将」と呼ばれているところを見ると、夏侯惇が「上将」なのだろう。曹操はその一部を連れて洛陽へ戻っているが、夏侯惇らは故郷の譙で相変わらず切った張ったを続けていたようだ。曹嵩の葬儀の席に、後の四天王達と参列している。 黄巾の乱のおり、騎都尉として武官デビュー(といっても大佐クラスの高級将校だが)した曹操に付き従い、出陣している。爆裂団や張奐も含め、曹操の私兵集団としての従軍であろうが、官軍や義勇兵を指揮したり、事実上一軍の将として活躍している。このとき張飛の馬を殴り倒すなど、豪腕ぶりを披露した。 早く「隻眼の鬼将軍」というイメージを定着させるためだろう。董卓戦、徐栄軍の突進と無謀な正面衝突をした際、あきらかに被弾角度90度で、甲冑をも射抜く矢の直撃を受けた。 だが瞼の力と眼底の頑張りだけで脳への損傷を防いだらしい。引き抜いた眼球をゴクリと飲み込むのは「三国演義」と同じ。激高したときは血が噴き出したり、たまに小石が入り込んでカラカラいったりと、眼窩の奥はしばらく大変なことになっていたようだ。 以後、数々の戦で隻眼の鬼将軍っぷりを発揮し、「蒼天航路」では多くの戦で、曹操の傍らにあった。相対的に比較できる根拠はないが、おそらく曹操軍の中でも最強クラスの豪勇だったと思われる。 「気焔万丈 夏侯惇軍の精鋭に告ぐ!」が檄を飛ばす際の決めゼリフらしく、後に偽夏侯惇(殷署)も使用している。 官渡では、留守司令官どころか、他の将軍と同じく兵卒に降格されている。「兵卒の夏侯惇です、よろしく」。以後、その舎のリーダー格として、歩兵の中で頑張っていたようだ。おそらく史伝通り、戦闘だけでなく土木作業や雑事なんかもやっていたのだろう。 曹操曰く、「ここまで兵卒になりきり、兵卒と溶けこみ、兵卒を理解したのはお前だけだ」たしかに「同僚」の兵卒山隆と友誼らしきものを育てたりと、夏侯惇にはこういう泥臭さが似合う、兄ィ的な魅力がある。 荊州制圧後、長坂の追撃戦で、劉備と流民集団の最後尾と接触。最後衛を護る張飛に挑むが、ただただ純粋な武力の前には刃が立たず、また荀攸が軍を動かしたため水を差された。その後も民草を背に負った張飛の武の「べらぼうな清らかさ」と、民草のしたたかな強靱さに攻めるタイミングを逸してしまい、追いついた曹操に「見事な敵をめでてやるのはいい。だが、ありがたがってどうするんだ」と呆れられる。 赤壁の際は、長江下りをする曹操の代理として、荊州本城を押さえていたのであろう。孤軍奮闘する荀攸の元へ駆け付けることもできなかったようだ。 その後、濡須口の戦いや漢中の張魯討伐に参加。ちなみに西暦217年時点での愛馬の名は「飛焔」だったらしい。女を愛するように溺愛していたようだ。 漢中制圧の際は、曹操の命で先行した部隊を連れ戻しに許褚と出かけ、道に迷ったあげく張魯陣に辿り着いてしまい、恐慌状態になった敵軍を尻目に、そのまま関を奪った。まるでギャグのような話だが、れっきとした実話である。曹操や夏侯淵は「迷子の鬼将軍」と何度もからかっている。 後、荊州の曹仁救援に赴くが、関羽と戦う前に孫権の荊州奪取が成功し、関羽は敗死。合肥へ引き上げる。これが彼にとって最後の軍旅となった。「蒼天航路」では曹操より年上に描かれているため、この時点で既に70を越す老将だったはずである。 曹操曰く「勝利の後には必ず遅れ、敗北の後には必ず真っ先に駆けつける男」また、「おそろしく むさい母親」。壮大に常識を踏み外す悪ガキ曹操を、いつも叱りつける役割は、確かに保護者そのものだったのだろう。 曹操臨終のきわ、合肥に戻っているはずの夏侯惇は曹操の元へ姿を現す。道中、沛の長老(亀)を見掛け、予感を覚えたのだろう。昼夜兼行で駆けつけたに違いなく、冠も頂かず、甲冑を付けたままであった。 例によって毒づき合いながら酒を酌み交わし、末娘を嫁に呉れと云われては怒鳴りつけ、卞夫人の奏楽に聞き惚れ、いつものように笑いかけた先で、曹操は眠るように世を去っていた。 華歆(字:子魚) かきん 生没:157~231年 本貫:冀州平原郡高唐県 官:太尉 魏王朝が誇る名宰相のひとり。曹操より二つ年下。己の剛腕で政府を切り盛りするのではなく、人望と徳行によって官界を指導教育してゆくタイプだったようだ。伝説の賢相・晏子に比せられるレベル。 …が、彼の何が気にくわなかったのか、羅貫中のにフルスイングでバッシングされ、『三国志演義』においては、董卓か華歆かというくらいの極悪非道冷酷人間になっている(ノ∀`)。伏完による曹操暗殺計画が露見したときは、自ら宮中に乗り込み、伏皇后を壁から引きずり出して捕らえる。曹操の死後、劉協を脅迫して帝位を曹丕に譲らせた他、曹丕の弟たちを誅するよう進言したり、自分にとっての危険分子である司馬懿を追い落としたりと、やりたい放題。 ちなみにトンデモ三国志の横綱『反三国志』では、馬超たちに捕らえられた挙げ句、死なない程度に遠火で炙られ、生きたまま腿肉から順に喰われてゆくという、リアルタイムな食物連鎖の底辺っぷりを発揮する。 当時からして超一流の人傑だったはずだが、世語などでは妙に1.5流めいたエピソードが多い。 たとえば目の前にお金が落ちていたとして、華歆歆はチラ見してスルーするという潔癖な人物なのだが、同門の管寧という男は、そもそもお金の存在自体を無視する奇人じみた清貧教徒であったため、かえってマイナス評価となっている。他にもこれと似たようなエピソードが二、三あり、後世、管寧>>>>(超えられない壁)>>>>華歆という図式が確立してしまっている。 当時の冀州刺史王芬から政府転覆計画(若き日の許攸らが発案したアレ)をうち明けられるが、やはり誘いを受けていた曹操と全く同じ理由で参加を断る。知者は同じ道を歩む、というところか、資料の混同か。――それ以前に、この調子でみんなに声をかけていた王芬の短慮が問われるが。 後に大将軍何進によって中央官界に招かれるが、董卓の出現にビビって逃亡。 ちょうどこのあたりのエピソードで有名なのが「行き倒れ、助けたからには最後まで」事件。読んで字の如くの事件で、コレによって彼の名声はますます高まり、それに反比例して中途半端に恩情をかけた王朗の評価が下がった。。 後、荊州南陽まで逃げ延び、袁術の下で知謀を空回りさせていたところ、長安政府が人気取りのために派遣してきた慰撫団に出会い、コレに参加。しばらくは偉いさんたちと一緒に天下を行脚する。 程なくして荊南の豫章で混乱が発生し(孔明の叔父・諸葛玄が巻き込まれて死亡)、急遽それを鎮めるために豫章太守に任じられる。…が、この当時少なくとも豫章太守が三人(諸葛亮の叔父・朱儁の息子・華歆)いたことになり、余計に事態は混乱。 一年後くらいに( おそらくは劉繇の後押しを受け)ようやく豫章入りするが、今度は孫策軍の侵攻を受ける。さすがに野戦で勝ち目無しと見て、降伏。 孫策は師弟の礼をもって華歆を迎え、以後、賓客として遇されることになる。 華歆は、独特の威儀と静かな迫力を湛えていたようだ。当時江南では、彼の崩れぬさまを「華独座」と呼び慣わしていた。酒好きだが微塵も酔態を見せなかったという。 孫策の死後、曹操は華歆をゲットするべく天子に奏して詔勅まで用意して貰い、孫権に「彼をよこせ」と要請。孫権はむろん断るが、当の本人が行きたがったため、やむなく手放す羽目に。そして二度と戻ってくることはなかった(一緒に行った張絋は戻ってきたのに…)。 ちなみに、孫権討伐の軍師をのうのうとやっていたりする。孫盛が彼を毛嫌いする所以かも。 曹操陣営に帰参して後の華歆は、驚くべき早さで出世し、あっという間に荀彧に追いつき、曹丕の代には司徒、曹叡の代には太尉と、三公を歴任する。 が、どれほど栄達しても諸生時代と変わらぬ生活を貫き通した。献上された女奴隷たちに教育を施し、きちんと嫁に出してやったというエピソードもある。「潔癖だが偏狭ではなかった」という評が、何となく彼の人物を現しているような気がします。 231年、諸葛亮の北伐騒ぎのさなか(第4次)、74歳で逝去。諡は敬公。子の華表が跡を継いだ。 蒼天華歆 蒼天での登場は遅く、荊州陥落後の文官軍師ブレインストーミング時から。曹操が一目で「主戦論代表」と見抜く。 なんとも眠たそうな顔をした初老の風貌に似合わず、堂々と速戦論を展開。タコ人間杜襲と舌を競わせていた。 孫家の内情を知るものとして、「今の間に叩かないと手が付けられなくなる」という主張であった。 そのわりに孫権の躍進を伝え聞き「どうも私の覚えている(頼りない)姿と一致しない」と首を傾げているシーンがあり、孫権の器を見抜くほどの目は持っていなかったようだ。 賈詡(字:文和) かく 生没:147~223年 本貫:涼州武威郡姑臧県 官:太尉 三国時代におけるジョセフ・フーシュ。あるいは藤堂泉州。三度主君を変えながら、その智略によって重用され続け、しかも天寿を全うできたという変節の天才。しかも乱世の英雄曹操を生死の境に追いつめたこともある鬼謀の人。ちなみに曹操より八つ歳上。 若い頃、涼州の異民族の捕虜になったことがあるが、口先一つで彼らを騙し、自分ひとりだけ助かったというエピソードが。昔からそうだったのね……。とにかく、一筋縄ではいかない油断ならないヤツだったらしい。 最初は地元の董卓軍団に就職し、軍団ナンバー2であった董卓の女婿牛輔に仕えた。ところが董卓の死の混乱の中、牛輔まで殺害され軍団は空中分解。残りの李傕ら四幹部は動揺して「もう田舎に帰ろう…」と言い出す始末。それを叱咤したのが他ならぬ賈詡でした。 …そう。呂布を逐い王允を殺し貂蝉を殺し、さらなる天下大乱を招いた張本人はコイツだったのだ!!-その後、四幹部のひとり張済の軍を引き継いだ張繍に引き抜かれ、彼の軍師として活躍する。曹操を窮地に陥れ、彼の長子曹昂や猛将典韋を討ったのも、すべて彼の計略。 しかしながら袁紹と曹操の対立が激化すると、独断で曹操への帰順をきめ、張繍を慌てさせた。 曹操に仕えて後、たびたび献策し、強敵韓遂・馬超を敗走させるなど、相変わらずの鬼謀を発揮するが、曹操の死と前後して引退。以後、門を閉じ廷臣たちとの交流を避けた。彼一流の保身術ですな。 享年77歳。諡して粛侯。 蒼天賈詡 蒼天での賈詡、カッコよすぎ。なんか、いつも猛禽(鷲か、鳶か?)を片腕に止まらせて、ニヒルに笑うダークサイド。「曹操は自らの才に飽きている」ってセリフが印象的。 のわりに、作中で最も絶叫するシーンの多いキャラでもあり、泣いたり笑ったり怒ったりと、とにかく最後まで曹操の身辺にあって、ひたすら振り回されつづける役割を負った。ある意味読者の代理的な存在であったと言えなくもない。 が、登場初期においては「天下を奪うには三人を殺すだけでよい」とうそぶく野心家。おそらく奇術師めいた天下奪りのプランが、既に胸中にあったのだろう。張繍をマリオネットのように操り、曹操を誘殺する罠を設定し、たびたびその生命を脅かす鬼謀ぶりを発揮する。 が、時勢の流れを読み、袁紹との大戦を前に曹操に降伏。以後、そのブレーン集団に名を連ねることとなる。彼らとは一歩ひいて斜に構えていて、他の軍師グループとは仲が悪い…。蒼天では、彼らより一等上の描かれ方をしており不満に思う人も多かったと思われる(特に荀彧・郭嘉ファン)。でも、「極めつけの死地にはやはりおまえだ!」と烏巣襲撃チームに指名された賈詡も気の毒かも。 で、その烏巣では曹操とともに上を下への大逃走劇を演じる。そのハチャメチャな戦さのなかで、(曹操殿、この賈詡を殿の臣下としてお認めいただけますか!)と胸中に叫ぶあたり、どうしても外様意識が抜けきらなかったのだろうか。 作中、突進してきた猛将淳于瓊を抜き打ちに斬り捨てるという意外なシーンが。 かくのごとく残忍で、狡猾で、鉄鋼ワイヤーのような神経を持つと思われていた彼だが、長坂から赤壁にかけては、意外に脆い一面を剥き出しにすることもあった。 長坂の追撃戦では、旧主張繍が討ち取られた後、彼らしからぬ動揺を見せ、それに気づき自ら愕然としていた。長いこと女房役を勤めてきただけあって、彼も自覚しないうちに、あの無邪気で頼りない張繍にどこかで依存していた面があったのだろう。 さらに赤壁の手前の「長江下り」では、有るはずのない孫権の攻撃(※おそらく諸葛亮のトリック)に動転したか、絶対的な窮地に陥り、自らの知謀に絶望した挙げ句、全軍に降伏を命じてしまう。「郭嘉…郭嘉よ…」と、まさかの郭嘉コールに驚いた読者も多いはず。 が、幸か不幸か(?)敵将黄蓋は「白旗に気付かず」攻撃を続行。降った端から射殺されてゆくに及び、賈詡は思考停止に逃げる……かと思いきや、無意識のうちに逃げ延びる策を練り続ける。許褚の活躍、瀕死の曹操とともに死地を逃れた賈詡は、水中で発案したという「暗黒の策」を実行に移した。 で、そもそもこの「暗黒の策」とは…? 「蒼天孔明のキャラ」と「赤壁のオチ」の中間に位置する「暗黒の策」。 策自体は、要するに敵味方へ「曹操死す」という情報を流して「曹操の居ない天下」を局地的に幻出し、敵方首脳の動揺を誘うというものであったが、いまひとつメリットがわかんにゃい。敵主将を討ち取ったことで呉軍の士気は上がるだろうし、味方の士気は地の底まで落ちる。 実際、蒼天周瑜は賈詡らが考えているより数段上の位置にいる人物だったようで、彼が翻弄されていた期間はわずかなものであった(曹操生還の報で見せた動揺を見る限り、確実にダメージは蓄積していたようだけど)。味方にしても、荀攸の堅固無比な指揮統率がなければとうの昔に崩壊していてもおかしくはない。 が、曹操の生還によって「暗黒の策」は全容さえ明らかにされぬままに中断。烏林での総指揮は、ふたたび曹操が執るようになる。 直後、敵将・黄蓋より内通の書状が届くが、呆れたことに真っ先にそれを信じたのは賈詡であった。さすがに偽降の可能性も考慮に入れていたが、まだ自分の暗黒の策にハマっていたらしい。 そんなこんなで、結局赤壁の要塞は、黄蓋の火攻なぞどうでもいいようなナゾの天変地異によって、地殻ごと爆発・炎上。曹操軍は総崩れとなる。…結局、暗黒の策って何だったんだ…。 蒼天の赤壁は、賈詡に始まり賈詡に終わった。残されたのは、魏軍数万の遺棄死体と、烏林・赤壁の焼け跡と、作品の行方を見失ったガチ史系ファンと、「そもそも賈詡はいつからハゲてたんだろう」というどうでもいい疑問だけであった。 赤壁の一件後も、特に変わらず曹操の身辺で知謀を発揮し、特に西方平定では総参謀を務める。これは彼が涼・雍の地勢人脈に詳しいから――ではなく、単に「未知の戦場はワクワクするだろう!?」という曹操の子供じみた遊びの誘いのようなものであった。 馬超の想像以上の武勇に、一時ギリギリきわどいシーンもあったものの、戦況はおおむね賈詡の描いたとおりに進行し、賈詡が予告した通りの結末をたどった。 関中平定後、こんどは対劉備戦線でも軍師として活躍するが、蜀の新軍師・法正に序盤で先手先手を打たれ、そのフォローに追われているあいだに、漢中戦役が終了してしまい、彼にしてみれば不本意な戦であっただろう。 郭嘉(字:奉孝) かくか 生没:170(?)~207年(?) 本貫:豫州潁川郡陽県 官:司空府軍祭酒 誰が何と言おうと、この人が曹操の筆頭軍師である! と心の底から叫ぶ人も少なくない。演義でのイメージは半ば神がかった薄命の天才軍師であり、「嗚呼、奉孝さえ生きていれば」と歯ぎしりする魏派のうめき声が。 なれどどうしてどうして、蒼天では見事に「その他大勢」と化し、かろうじて「ふんぞり返って偉そうに喚く」事でキャラを立ててました。このままひっそり死んじゃったらどうしようかと、本気で心配しました。 若い頃、ごく一部の識者から麒麟児と目されていたが、本人は知らぬ風でアウトローを決め込んでいたみたい。ぶらりと放浪し各地の豪傑や賢者たちと交流していたというから、なんか流離いの軍師徐庶を彷彿とさせる。ちなみに女好きの伊達男説も存在し、事実、その不品行を清流名士の陳羣に咎められている(蒼天では程昱)。 最初袁紹に仕えようとしたが、後に荀彧の推挙で曹操に鞍替えする。それにしても郭嘉の前任軍師である戯志才って、どんなヤツだったんでしょうねえ? 当代随一の謀臣として曹操に度々献策し、ことごとくを的中させる。通史として「三国志」を知っている我々からすればピンとこないかもしれないが、郭嘉の時勢眼はほとんど予言の域にあったと言ってよく、孫策が「匹夫の手に掛かる」ことまで予想している。 結局は郭嘉の予言したシナリオ通りに歴史は回転し、曹操は広大な河北を抑えることが叶う。それを見届けるように、郭嘉は38年という若すぎる生涯を閉じる。 諡して貞侯。子の郭亦(←蒼天で夫人が抱いていた赤ちゃんかな)が跡を継いだ。 曹操は郭嘉を次世代政権の導き手と目していたようで、ブレーン集団の中で最年少だった彼の死をことのほか嘆いた(ちなみにこの時点で荀彧45歳、荀攸51歳、曹操53歳、賈詡61歳、程昱67歳。)。 彼の死からわずか1年後、赤壁の戦に敗退した曹操は「郭嘉が生きておれば…」と悲嘆したことは有名。 蒼天郭嘉 蒼天では、袁紹に招かれたところから登場。さんざん袁紹を侮辱したあげく、殺されそうになるや「董卓の下に名を残しますぞ!」と逆に恐喝し、飄飄と去ってゆく……。とにかく印象的な瞳でした。 次に、荀彧の推挙という形で曹操の元へ出現。が、早々に要らんことを言って獄へブチ込まれる。 獄中の悪態ついでに曹操の天下取りを論じたてるなど、言いたいことを言えれば自分の身命などどうでもよいらしい。 正式に登用された後は、兗州奪還戦などで活躍。「(二万に)五百で勝つ軍師はおまえだ!」と曹操に指名される。 しかしながらその後、荀攸や賈詡の登場により本来の凄味がなくなり、ついには「腰巾着」呼ばわりまで……。 このままフェードアウトするのかと思いきや、曹操の北伐行に従軍するあたりから、異様なオーラを発するようになる。 他の軍師たちが、そろそろ国家の重鎮として戦場から遠ざかる中、ただひとり「純粋軍師」として戦場に在り続けた(この表現って、呂布の「純一戦士」と対極なのだろうか)。政治や党閥の動きなどにはいっさい目をくれず、ただひたすら戦場での知的活動に耽溺する……。晩年の郭嘉は、確かに呂布に似た「哀しさ」がありました。 彼にとって最後の戦闘となる烏丸討伐戦では、張遼とともに快速の騎馬軍団を率いて暴れ回り、その「目」で烏丸王頓を視認。王の用兵を完膚無きまでに撃ち破った。しかしながら、この頃すでに、彼の貌には明らかな死相が浮かんでいた(曹操が視線を逸らし「……しばらくこの地に居座るぞ」と呟いた場面で、はっとした人も多いハズ)。それでもなお、遼東公孫氏の帰順と袁兄弟の自滅を予測するなど、謀臣としての活動は休みを知らない。 そればかりか、郭嘉は烏丸民族と張遼を無期限に貸してくれと曹操に頼んでいる。彼が政治を考えるとき、その思考は一臣下の域を軽く超越し、王の領域にまで達したのでしょう。「俺の臣下から王が誕生するのだ」と曹操ははしゃぐが、郭嘉の容態は日に日に悪くなってゆく。 やがて立つこともできないほどに体力を失った郭嘉は、曹操や仲間たちの見守るなか、最後の吐血をし、息を引き取った。死のその瞬間まで、「純粋軍師」郭嘉は次なる南征に用いるべき秘計を案じていたらしい。
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/18.html
唐書巻八 本紀第八 穆宗 敬宗 文宗 武宗 宣宗 穆宗睿聖文恵孝皇帝は、諱を恒といい、憲宗の第三子である。母は懿安皇太后郭氏といった。始め建安郡王に封ぜられ、遂王に進封され、彰義軍節度使を遙領した。元和七年(812)、恵昭太子が薨去すると、左神策軍中尉の吐突承璀が澧王李惲を立てようとしたが、李惲の母が卑賎だったため立てることができず、遂王を立てて皇太子とした。 十五年(820)正月庚子、憲宗が崩ずると、陳弘志が吐突承璀と澧王を殺した。辛丑、皇太子に柩の前で皇帝の位につくよう詔を遺し、司空兼中書令の韓弘が葬儀を取り仕切った。 閏月丙午、皇太子が太極殿で皇帝位についた。丁未、皇甫鎛が左遷されて崖州司戸参軍となった。戊申、聴政を始めた。辛亥、御史中丞の蕭俛・中書舎人で翰林学士の段文昌を中書侍郎・同中書門下平章事とした。乙卯、母を尊んで皇太后とした。戊辰、京師で地震があった。 二月丁丑、大赦をおこなった。文武の官に階・爵を、老人に粟帛を賜い、二王三恪(北魏・北周・隋の後裔)・文宣公(孔子)・嗣王・公主・県主・建国の功臣および第一等の功臣の家の一子に官位を与えた。掖庭に没籍された者を解放した。丹鳳門に幸して俳優を観賞した。丁亥、左神策軍に幸して角觝・倡戲を観賞した。乙未、吐蕃が霊州を寇した。丙申、丹王李逾が薨去した。 三月乙巳、杜叔良が吐蕃と戦い、これを破った。戊辰、大風にして雹が降った。辛未、楊清が処刑された。 五月庚申、聖神章武孝皇帝を景陵に葬った。 六月丁丑、韓弘が宰相を退いた。 七月丁卯、令狐楚が宰相を退いた。 八月乙酉、容管経略留後の厳公素が黄洞蛮と神歩で戦い、これを破った。戊戌、御史中丞の崔植が中書侍郎・同中書門下平章事となった。 九月辛丑、魚藻宮で競渡・角觝を観賞し、音楽を用いた。 十月庚辰、王承宗が亡くなった。辛巳、成徳軍観察支使の王承元が鎮・趙・深・冀の四州をもって官吏に帰順した。癸未、吐蕃が涇州を寇し、右神策軍中尉の梁守謙が左右神策・京西・京北行営都監となってこれを禦いだ。丙戌、吐蕃が遁走した。 十一月癸卯、鎮・趙・深・冀の四州の死罪以下を赦し、成徳軍の将士に銭を賜った。 十二月庚辰、城南で狩猟した。壬午、右神策軍で撃鞠し、ついで城西で狩猟した。甲申、苑北で狩猟した。 長慶元年(821)正月己亥、太清宮で朝献した。庚子、太廟で朝享した。辛丑、南郊を有事摂事(にて祀った)。大赦し、改元し、文武の官に階・勲・爵を賜った。己未、翼に星孛が入った。壬戌、蕭俛が宰相を退いた。丁卯、太微が星孛に入った。 二月乙亥、麟徳殿にて楽を観賞した。丙子、神策諸軍の雑伎を観賞した。己卯、劉総が盧龍軍八州をもって官吏に帰順した。壬午、段文昌が宰相を退いた。翰林学士・戸部侍郎の杜元穎が同中書門下平章事となった。辛卯、麟徳殿で撃鞠した。 三月庚戌、太白(金星)が昼に見えた。丁巳、幽・涿・檀・順・瀛・莫・営・平の八州の死罪以下を赦し、一年間扶持した。盧龍の軍士に銭を賜った。戊午、弟の李憬を封じて鄜王とし、李悦を瓊王とし、李恂を沔王とし、李懌を婺王とし、李愔を茂王とし、李怡を光王とし、李を淄王とし、李憺を衢王とし、李を澶王とした。子の李湛を鄂王とし、李涵を江王とし、李湊を漳王とし、李溶を安王とし、李瀍を潁王とした。この月、李湛を徙封して景王とした。 五月丙辰、建王李審が薨去した。 六月、彗星が昴に出現した。辛未、吐蕃が青塞烽を寇し、塩州刺史の李文悦がこれを破った。 七月甲辰、幽州盧龍軍都知兵馬使の朱克融がその節度使の張弘靖を捕らえてそむいた。壬子、群臣が尊号をたてまつって文武孝徳皇帝といった。大赦し、文武の官に階・勲・爵を賜った。壬戌、成徳軍大将の王廷湊がその節度使の田弘正を殺してそむいた。 八月壬申、朱克融が莫州を陥落させた。癸酉、王廷湊が冀州を陥落させ、刺史の王進岌がここに死んだ。丙子、瀛州軍が乱を起こし、その観察使の盧士玫を捕らえ、叛いて朱克融についた。王廷湊が深州を寇した。丁丑、魏博・橫海・昭義・河東・義武の兵が王廷湊を討った。己丑、裴度が幽・鎮招撫使となった。 九月乙巳、相州軍が乱を起こし、その刺史の邢濋を殺した。 十月丙寅、諸道塩鉄転運使・刑部尚書の王播が中書侍郎・同中書門下平章事となった。裴度が鎮州西面行営都招討使となった。左領軍衛大将軍の杜叔良が深州諸道行営節度使となった。戊寅、王廷湊が貝州を陥落させた。己卯、易州刺史の柳公済が朱克融と白石で戦い、これを破った。庚辰、橫海軍節度使の烏重胤が王廷湊と饒陽で戦い、これを破った。辛卯、霊武節度使の李進誠が吐蕃と大石山で戦い、これを破った。 十一月甲午、裴度が王廷湊と会星で戦い、これを破った。丙申、朱克融が定州を寇すると、義武軍節度使の陳楚がこれを破った。 十二月庚午、杜叔良が王廷湊と博野で戦い、敗れた。丁丑、陳楚が朱克融と望都で戦い、これを破った。乙酉、朱克融を赦した。己丑、陳楚が朱克融と清源で戦い、これを破った。 二年(822)正月庚子、魏博軍が南宮で潰滅した。癸卯、魏博節度使の田布が自殺し、兵馬使の史憲誠が留後を自称した。海州の海が凍った。 二月甲子、王廷湊を赦した。辛巳、崔植が宰相を退いた。工部侍郎の元稹が同中書門下平章事となった。戊子、昭義軍節度使の劉悟がその監軍使の劉承偕を捕らえた。 三月乙巳、武寧軍節度副使の王智興がその節度使の崔群を追放した。戊午、守司徒・淮南節度使の裴度が同中書門下平章事となった。王播が宰相を退いた。 四月辛酉朔、日食があった。壬戌、成徳軍節度使の牛元翼が京師に逃れ、王廷湊が深州を陥落させた。 五月壬寅、邕州刺史の李元宗が叛き、黄洞蛮に亡命した。 六月癸亥、宣武軍宿直の将の李臣則がその節度使の李愿を追放し、衙門都将の李㝏がそむいた。甲子、裴度・元稹が宰相を退いた。兵部尚書の李逢吉が門下侍郎・同中書門下平章事となった。乙丑、大風が太廟の鴟尾を落とした。癸酉、吐蕃が霊州を寇し、塩州刺史の趙旰がこれを破った。 七月丙申、宋王李結が薨去した。戊申、李㝏が宋州を陥落させた。丙辰、兗鄆節度使の曹華が李㝏と宋州で戦い、これを破った。丁巳、忠武軍節度使の李光顔がまた尉氏で李㝏を破った。 八月壬申、宣武軍節度使の韓充がまた郭橋で李㝏を破った。丙子、李㝏が処刑された。癸未、詔して汴・宋・鄭の三州の戦没者を埋葬し、その家は三年間扶持した。 九月戊子、鎮海軍の将の王国清が反乱を計画し、処刑された。丙申、徳州軍が乱を起こし、その刺史の王稷を殺した。 十月己卯、咸陽で狩猟した。 十一月庚午、皇太后が華清宮に幸した。癸酉、皇太后を迎え、驪山で狩猟した。丙子、集王李緗が薨去した。 十二月丁亥、不豫、五坊の鷹・隼および狩猟の狐・兎を放った。癸巳、景王李湛を立てて皇太子とした。癸丑、死罪以下を降し、文武常参及び州府の長官の子が父の跡を継いだ者に両転を勲し、宗子・諸親に一転を賜った。 この冬、凍結することがなく、草木が萌えいでた。 三年(823)三月壬戌、御史中丞の牛僧孺が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。癸亥、淮南・浙東西・江南・宣歙で旱害があり、宣撫の使を派遣し、獄囚を再審し、官吏を査察した。 四月甲午、陸州の獠がそむいた。 五月壬申、京師に雨雹が降った。 七月丙寅、黄洞蛮が欽州を陥落させた。 九月壬子朔、日食があった。 十月己丑、杜元穎が宰相を退いた。辛卯、黄洞蛮が安南を寇した。 四年(824)正月辛亥、死罪以下を降し、流人に一年服役を減じた。文武の官および宗子・賀正使に階・勲・爵を賜った。詔百官言事。辛未、皇太子を権勾当軍国政事とした。壬申、皇帝が清思殿で崩じ、年は三十であった。 敬宗睿武昭愍孝皇帝は、諱を湛といい、穆宗の長子である。母は恭僖皇太后王氏といった。始め鄂王に封ぜられ、景王に徙封された。 長慶二年(822)十二月、穆宗が撃毬のためににわかに病み、群臣を謁見しないこと三日。左僕射の裴度が三たび上疏して、皇太子を立てるよう請願して、翰林学士・両省官も相次いで皆請願した。数日をへて、穆宗の病がやや癒えた時、宰相の李逢吉が景王を立てて皇太子とするよう請願した。 四年(824)正月、穆宗が崩じた。癸酉、門下侍郎・平章事の李逢吉が葬儀を取り仕切った。丙子、皇太子が太極殿で皇帝位についた。 二月辛巳、聴政を始めた。癸未、母を尊んで皇太后とし、皇太后を太皇太后とした。辛卯、掖庭・内園に入れられた者を解放した。丁未、中和殿で撃鞠した。戊申、飛龍院で撃鞠した。黄洞蛮が降った。己酉、撃鞠し、楽を用いた。 三月壬子、大赦をおこなった。京畿・河南の青苗税を免じ、宮中の経費・乗輿・服膳を減らし、鷹犬の貢納をやめさせた。元和以来、両河の藩鎮で帰順した者の一子に官を与えた。庚午、太白が天を通過した。 四月丙申、清思殿で撃鞠した。染坊匠の張韶(染坊匠)がそむき、左神策軍に幸し、張韶が処刑された。丁酉、宮殿に帰還した。 五月乙卯、吏部侍郎の李程と戸部侍郎・判度支の竇易直が同中書門下平章事となった。 六月庚辰、大風で延喜門と景風門が壊れた。 この夏、漢水が氾濫した。 八月丁亥、太白(金星)が昼に見えた。丁酉、中官の季文徳が反乱を計画し、処刑された。黄洞蛮が安南を寇した。 十一月戊午、環王と黄洞蛮が陸州を陥落させ、刺史の葛維がここに死んだ。庚申、睿聖文恵孝皇帝を光陵に葬った。 宝暦元年(825)正月己酉、太清宮で朝献した。庚戌、太廟で朝享した。辛亥、南郊を有事摂事(にて祀った)。大赦をおこない、改元した。乙卯、牛僧孺が宰相を退いた。 四月癸巳、群臣が尊号をたてまつって文武大聖広孝皇帝といった。大赦をおこなった。文武の官に階・爵を賜った。 五月庚戌、魚藻宮で競渡を観賞した。 九月壬午、昭義軍節度使の劉悟が亡くなり、その子の劉従諌が留後を自称した。 十一月丙申、子の李普を封じて晋王とした。 二年(826)正月甲戌、神策六軍を発して禁中で池を掘らせた。 二月丁未、山南西道節度使の裴度が司空を代行し、同中書門下平章事となった。 三月戊寅、魚藻宮で競渡を観賞した。 四月戊戌、横海軍節度使の李全略が亡くなり、その子の李同捷がそむいた。 五月戊寅、魚藻宮で競渡を観賞した。庚辰、幽州盧龍軍が乱を起こし、その節度使の朱克融を殺し、その子の朱延嗣が節度使を自称した。 六月辛酉、臨碧池で漁を観賞した。甲子、驢鞠・角觝を三殿で観賞した。 七月癸未、衡王李絢が薨去した。渼陂を尚食局に下属させ、民間の漁業を禁じた。 八月丙午、競渡を新池で観賞した。 九月甲戌、百戯を宣和殿で観賞し、三日してやめた。戊寅、幽州盧龍軍兵馬使の李載義が朱延嗣を殺して、留後を自称した。壬午、李程が宰相を退いた。 十一月甲申、李逢吉が宰相を退いた。己丑、朝官・方鎮が私的に宦官を置くことを禁じた。 十二月、中官の劉克明がそむいた。辛丑、皇帝が崩じ、年は十八であった。 文宗元聖昭献孝皇帝は、諱を昂といい、穆宗の第二子である。母は貞献皇太后蕭氏といった。始め江王に封ぜられた。 宝暦二年(826)十二月、敬宗が崩ずると、劉克明らが詔をいつわり、絳王李悟句を軍国事に当たらせた。壬寅、内枢密使の王守澄と楊承和、神策護軍中尉の魏従簡と梁守謙が江王を奉じてこれを立て、神策六軍と飛龍兵を率いて劉克明を誅し、絳王を殺した。乙巳、江王(文宗)が宣政殿で皇帝の位についた。戊申、聴政を始めた。母を尊んで皇太后とした。庚戌、兵部侍郎・翰林学士の韋処厚が中書侍郎・同中書門下平章事となった。庚申、宮人三千を追放し、教坊・楽工・翰林の伎術の冗員千二百七十人を省き、五坊の鷹・犬を放ち、纂組・雕鏤・金筐・宝飾・牀榻の貢納を罷めさせた。 大和元年(827)二月乙巳、大赦をおこない、改元した。京兆ではこの年の夏税を半分免除した。九廟に陪位の者の子孫に二階を、立功の将士に階・爵を賜い、始めて諸王の後を封じて一子を官に就かしめた。 五月戊辰、宰臣奏事の監搜を罷む。丙子、横海軍節度使の烏重胤が李同捷を討った。 六月癸巳、淮南節度副大使の王播が尚書左僕射・同中書門下平章事となった。乙卯、旱のため京畿の死罪以下を降す。 七月癸酉、睿武昭愍孝皇帝を荘陵に葬った。 十一月庚辰、横海軍節度使の李寰が李同捷を討った。 十二月庚戌、王智興が滄州行営招撫使となった。 二年(828)正月壬申、地震があった。 六月乙卯、晋王李普が薨去した。己巳、大風で木が抜けた。乙亥、峰州刺史の王昇朝がそむき、処刑された。 この夏、黄河が氾濫し、棣州城を破壊した。越州で津波があった。 七月辛丑、魏博節度使の史憲誠が同捷と平原で戦い、これを破った。甲辰、彗星が右摂提に出現した。 八月己巳、王廷湊がそむいた。壬申、義武軍節度使の柳公済が王廷湊と新楽で戦い、これを破った。己卯、劉従諌がまた臨城でこれを破った。辛巳、史憲誠が李同捷と平原で戦い、これを破った。癸未、劉従諌が王廷湊と昭慶で戦い、これを破った。 九月癸卯、柳公済がまた王廷湊を博野で破った。丁未、岳王李緄が薨去した。庚戌、安南軍が乱を起こし、その都護の韓約を追放した。 十月庚申、史憲誠が李同捷と平原で戦い、これを破った。丁卯、洋王李忻が薨去した。癸酉、竇易直が宰相を退いた。戊寅、史憲誠が李同捷と平原で戦い、これを破った。壬午、幽州盧龍軍節度使の李載義がまた李同捷を長蘆で破った。 十一月壬辰、棣州に一年間給付し、戦士で傷痍の者に終身扶持した。甲辰、昭徳寺で火事があった。 十二月乙丑、魏博行営兵馬使の丌志沼がそむいた。壬申、韋処厚が薨去した。戊寅、兵部侍郎・翰林学士の路隋が中書侍郎・同中書門下平章事となった。 三年(829)正月丁亥、宣武・河陽の兵が丌志沼を討った。庚子、丌志沼は鎮州に逃れた。 三月乙酉、教坊日直楽工を罷めた。乙巳、太原兵馬使の傅毅を義武軍節度使としたが、義武軍は命を受けず、都知兵馬使の張璠が節度使を自称した。戊申、張璠を義武軍節度使とした。 四月戊辰、滄景節度使の李祐が徳州を落とし、李同捷が降った。乙亥、滄徳宣慰使の柏耆が李同捷をもって京師に帰順し、将陵でこれを殺した。 五月辛卯、滄・景・徳・棣の四州に一年間給付した。 六月甲戌、魏博軍に乱があり、その節度使の史憲誠を殺し、都知兵馬使の何進滔が留後を自称した。 八月辛亥、相・衛・澶の三州を相衛節度使に隷属させたが、何進滔は命を受けなかった。辛酉、旱害のため京畿の九県のこの年の租を免除した。壬申、王廷湊を赦した。甲戌、吏部侍郎の李宗閔が同中書門下平章事となった。 十月癸丑、仗内で火災が発生した。 十一月壬辰、太清宮で朝献した。癸巳、太廟で朝享した。甲午、南郊を有事摂事(にて祀った)。大赦をおこなった。詔して製造困難な非常の物の献上を廃し、糸布・撩綾・機杼を焼いた。この月、雲南蛮が巂・邛の二州を陥落させた。 十二月丁未、鄂岳・襄鄧・忠武軍が雲南蛮を討伐した。庚戌、雲南蛮が成都を寇し、右領軍衛大将軍の董重質が左右神策及諸道行営西川都知兵馬使となってこれを討伐した。己未、雲南蛮が梓州を寇した。壬戌、蜀州を寇した。 四年(830)正月戊子、子の李永を封じて魯王とした。辛卯、武昌軍節度使の牛僧孺が兵部尚書・同中書門下平章事となった。甲午、王播が薨去した。 二月乙卯、興元軍に乱があり、その節度使の李絳を殺した。 三月癸卯、京畿の狩猟を禁じた。 四月丁未、奚が辺境を寇し、李載義がこれを破った。 六月丁未、裴度平章軍国重事。 この夏、舒州江が氾濫した。 七月癸未、尚書右丞の宋申錫が同中書門下平章事となった。 九月壬午、裴度が宰相を退いた。 五年(831)正月庚申、幽州盧龍軍が乱を起こし、その節度使の李載義を追放し、莫州刺史の張慶初を殺し、兵馬使の楊志誠が留後を自称した。 三月庚子、宋申錫を左遷して太子右庶子とした。癸卯、漳王李湊を降封して巣県公とした。 六月甲午、梓州の玄武江が氾濫した。 六年(832)正月壬子、死罪以下を降した。 二月、蘇州で地震があり、生白毛。 五月庚申、民間にあって疫病で死んだ者に棺を、十歳以下で自活できない者に二ヶ月間糧食を給付した。 七月戊申、原王李逵が薨去した。 十一月甲子、魯王李永を立てて皇太子とした。 十二月乙丑、牛僧孺が宰相を退いた。己巳、珍王李諴が薨去した。 七年(833)正月壬辰、呉・蜀の冬の貢茶をやめさせた。 二月丙戌、兵部尚書の李徳裕が同中書門下平章事となった。 三月辛卯、幽州盧龍軍節度使楊志誠が春衣使奉鸞・送奚契丹使尹士恭を捕らえた。辛丑、和王李綺が薨去した。 六月甲戌、地震があった。乙亥、李宗閔が宰相を退いた。 七月壬寅、尚書右僕射・諸道塩鉄転運使の王涯が同中書門下平章事となった。 閏月乙卯、旱害のため正殿を避け、膳を減らし、音楽をやめ、宮女千人を出し、五坊の鷹・犬を放った。 八月庚寅、死罪以下を降し、文武および州府の長官の子で父の跡を継いだ者に二階級を賜う。 十二月庚子、不豫。 八年(834)二月壬午朔、日食があった。庚寅、病が癒えたため、死罪以下一等を降した。 四月丙戌、詔して笞罪に鞭の背を禁じた。 五月己巳、飛龍・神駒の中の厩で火事があった。 六月丙戌、莒王李紓が薨去した。 七月辛酉、定陵の寝宮が震動した。癸亥、郯王李経が薨去した。 九月辛亥、彗星が太微に出現した。 十月辛巳、幽州盧龍軍の大将の史元忠がその節度使の楊志誠を追放し、権勾当節度兵馬を自称した。庚寅、山南西道節度使の李宗閔が中書侍郎・同中書門下平章事となった。甲午、李徳裕が宰相を退いた。 十一月癸丑、成徳軍節度使王廷湊が亡くなり、その子の王元逵が権句当節度事を自称した。丙子、莫州軍が乱を起こし、その刺史の張惟汎を追放した。 十二月己卯、京畿の死罪以下を降した。 九年(835)正月癸亥、巣県公李湊が薨去した。 二月辛亥、冀王李絿が薨去した。乙卯、京師で地震があった。 四月丙申、路隋が宰相を退いた。戊戌、浙江東道観察使の賈餗が中書侍郎・同中書門下平章事となった。辛丑、大風で木が抜け、含元殿の鴟尾が落ちて、門観を壊した。 五月辛未、王涯が司空となった。 六月壬寅、李宗閔を左遷して明州刺史とした。 七月辛亥、御史大夫の李固言が門下侍郎・同中書門下平章事となった。 九月癸亥、陳弘志を殺した。丁卯、李固言が宰相を退いた。己巳、御史中丞の舒元輿が刑部侍郎となり、翰林学士・兵部郎中の李訓が礼部侍郎・同中書門下平章事となった。 十月辛巳、観軍容使の王守澄を殺した。 十一月乙巳、武寧軍監軍使の王守涓を殺した。壬戌、李訓および河東節度使王璠・邠寧節度使郭行餘・御史中丞李孝本・京兆少尹羅立言が宦官の誅殺を計画したが、失敗して、李訓は鳳翔に逃れた。甲子、尚書右僕射の鄭覃が同中書門下平章事となった。乙丑、権知戸部侍郎の李石が同中書門下平章事となった。左神策軍中尉の仇士良が王涯・賈餗・舒元輿・李孝本・羅立言・王璠・郭行餘・鳳翔少尹魏逢を殺した。戊辰、晝晦。鳳翔監軍使の張仲清がその節度使の鄭注を殺した。己巳、仇士良が右金吾衛大将軍の韓約を殺した。 十二月壬申、左金吾衛将軍の李貞素と翰林学士の顧師邕を殺した。丁亥、京師死罪以下の罪一等を減じた。 開成元年(836)正月辛丑朔、日食があった。大赦をおこない、改元した。大和五年以前の逋負と京畿のこの年の税を免除し、文武の官に階・爵を賜った。 二月乙亥、猛禽・猟犬の献上を停止させた。 三月、京師で地震があった。 四月辛卯、淄王李が薨去した。甲午、山南西道節度使の李固言が門下侍郎・同中書門下平章事となった。 七月、滹沱が氾濫した。乙亥、土が雨で降った。 十二月己未、漵王李縦が薨去した。 二年(837)二月丙午、彗星が東方に出現した。己未、均王李緯が薨去した。 三月丙寅、彗星を見て膳を減らした。壬申、素服で正殿を避け、音楽をやめた。死罪を降し、流以下を復した。五坊の鷹・隼を放ち、京畿での採捕を禁じた。 四月戊戌、工部侍郎の陳夷行が同中書門下平章事となった。乙卯、旱害のために正殿を避けた。 六月丙午、河陽軍が乱を起こし、その節度使の李泳を追放した。己未、綿州の獠がそむいた。 七月癸亥、党項羌が振武を寇した。 八月庚戌、兄の子の李休復を封じて梁王とし、李執中を襄王とし、李言揚を𣏌王とし、李成美を陳王とした。癸丑、子の李宗倹を封じて蒋王とした。 十月戊申、李固言が宰相を退いた。 十一月乙丑、京師で地震があった。丁丑、隕石が興元に落ちた。 三年(838)正月甲子、賊が李石を傷つけた。戊申、大風で木が抜けた。諸道塩鉄転運使・戸部尚書の楊嗣復と戸部侍郎の李珏が同中書門下平章事となった。丙子、李石が宰相を退いた。 夏、漢水が氾濫した。 八月己亥、嘉王李運が薨去した。 十月乙酉、義武軍節度使の張璠が亡くなり、その子の張元益が留後を自称した。庚子、皇太子が薨去した。乙巳、彗星が軫に出現した。 十一月壬戌、死罪以下の罪を降した。 四年(839)正月癸酉、彗星が羽林に出現した。閏月丙午、巻舌に出現した。 五月丙申、鄭覃・陳夷行が宰相を退いた。 七月甲辰、太常卿の崔鄲が同中書門下平章事となった。 八月辛亥、鄜王李憬が薨去した。 十月丙寅、陳王李成美を立てて皇太子とした。甲戌、地震があった。 十一月己亥、京畿の死罪以下を一等降した。 十二月乙卯、乾陵の寝宮で火事があった。 五年(840)正月戊寅、不豫。己卯、左右神策軍護軍中尉の魚弘志・仇士良が潁王李瀍を立てて皇太弟とし、権句當軍国事、皇太子李成美を廃して陳王とした。庚辰、仇士良が仙韶院副使の尉遅璋を殺した。辛巳、皇帝が太和殿で崩じ、年は三十三であった。 武宗至道昭粛孝皇帝は、諱を炎といい、穆宗の第五子である。母は宣懿皇太后韋氏といった。始め潁王に封ぜられ、かさねて開府儀同三司・検校吏部尚書を加えられた。 開成五年(840)正月、文宗が重病となると、神策軍護軍中尉の仇士良と魚弘志は、詔をいつわって皇太子李成美を廃して再び陳王とし、潁王を立てて皇太弟とした。辛巳、柩の前で皇帝の位についた。辛卯、陳王李成美および安王李溶・賢妃楊氏を殺した。甲午、聴政を始めた。母を追尊して皇太后とした。 二月乙卯、大赦をおこなった。庚申、彗星が室・壁に出現した。 四月甲子、大風で木が抜けた。 五月己卯、楊嗣復が宰相を退いた。諸道塩鉄転運使・刑部尚書の崔珙が同中書門下平章事となった。壬寅、大風で木が抜けた。 六月丙寅、旱害のため正殿を避け、囚人を再審し、河北・河南・淮南・浙東・福建が蝗疫のため、州は徭を免除した。 七月戊寅、大風で木が抜けた。 八月甲寅、雨。壬戌、元聖昭献孝皇帝を章陵に葬った。内枢密使の劉弘逸・薛季稜が兵をもって仇士良を殺そうとしたが、勝てず、処刑された。庚午、李珏が宰相を退いた。 九月丁丑、淮南節度副大使の李徳裕が門下侍郎・同中書門下平章事となった。 十月癸卯、回鶻が天徳軍を寇した。 十一月戊寅、彗星が東方に出現した。魏博節度使の何進滔が亡くなり、その子の何重霸が留後を自称した。 十二月、子の李峻を封じて𣏌王とした。 会昌元年(841)正月己卯、太清宮で朝献した。庚辰、太廟で朝享した。辛巳、南郊を有事摂事にて祀った。大赦し、改元した。 三月、御史大夫の陳夷行が門下侍郎・同中書門下平章事となった。 七月、彗星が羽林に出現した。壬辰、漢水が氾濫した。 九月癸巳、幽州盧龍軍の将の陳行泰がその節度使の史元忠を殺し、知留務を自称した。 閏月、幽州盧龍軍の将の張絳が陳行泰を殺し、主軍務を自称した。 十月、幽州盧龍軍が張絳を追放し、雄武軍使の張仲武が幽州に入った。 十一月壬寅、彗星が営室に出現した。辛亥、正殿を避け、膳を減らし、囚人を再審し、土木事業を廃止した。癸亥、崔鄲が宰相を退いた。 二年(842)正月、宋・亳の二州で地震があった。己亥、李徳裕が司空となった。回鶻が横水柵を寇し、天徳・振武軍を攻略した。 二月丁丑、淮南節度副大使の李紳が中書侍郎・同中書門下平章事となった。 三月、回鶻が雲州・朔州を寇した。 四月丁亥、群臣が尊号をたてまつって仁聖文武至神大孝皇帝といった。大赦し、文武の官に階・勲・爵を賜った。 五月丙申、回鶻の嗢沒斯が降った。 六月、陳夷行が宰相を退いた。河東節度使の劉沔が回鶻と雲州で戦い、敗れた。 七月、左神策に行幸し軍を閲兵した。尚書右丞兼御史中丞の李譲夷が中書侍郎・同中書門下平章事となった。嵐州の民の田満川がそむき、処刑された。回鶻可汗が大同川を寇した。 九月、劉沔が回鶻南面招撫使となり、幽州盧龍軍節度使の張仲武が東面招撫使となり、左金吾衛大将軍の李思忠が河西党項都将西南面招討使となった。 十月丁卯、子の李峴を封じて益王とし、李岐を兗王とした。 十一月、白鹿原で狩猟した。 十二月、子の李嶧を封じて徳王とし、李嵯を昌王とした。癸未、京師で地震があった。 三年(843)正月庚子、天徳軍行営副使の石雄が回鶻と殺胡山で戦い、これを破った。 二月庚申朔、日食があった。辛未、崔珙が宰相を退いた。 この春、大雨と大雪があった。 四月乙丑、昭義軍節度使の劉従諌が亡くなり、その子の劉稹が留後を自称した。 五月甲午、震、東都の広運桜が火災となった。辛丑、成徳軍節度使の王元逵が北面招討沢潞使となり、魏博節度使の何弘敬が東面招討沢潞使となり、河中節度使の陳夷行・河陽節度使の王茂元・劉沔とともに劉稹を討った。戊申、翰林学士承旨・中書舎人の崔鉉が中書侍郎・同中書門下平章事となった。武寧軍節度使の李彦佐が晋絳行営諸軍節度招討使となった。 六月、西内神龍寺で火事があった。辛酉、李徳裕が司徒となった。 この夏、望仙観を禁中に作った。 七月庚子、河東のこの年の秋税を免除した。 九月辛卯、忠武軍節度使の王宰が河陽行営攻討使を兼ねた。丁未、長雨のため、囚人を再審し、京兆府の秋税を免除した。 十月己巳、晋絳行営節度使の石雄が劉稹と烏嶺で戦い、これを破った。壬午、日中に月が太白(金星)を隠した。この月、党項羌が塩州を寇した。 十一月、党項羌が邠・寧を寇した。兗王李岐が霊夏六道元帥・安撫党項大使となり、御史中丞の李回を副使とした。安南軍が乱を起こし、その経略使の武渾を追放した。 十二月丁巳、王宰が天井関で勝利した。 四年(844)正月乙酉、河東の将の楊弁がその節度使の李石を追放した。 二月甲寅朔、日食があった。辛酉、楊弁が処刑された。 三月、石雄が冀氏行営攻討使を兼ね、晋州刺史の李丕がその副使となった。 六月己未、中書・門下・御史台の再審した。 閏七月壬戌、李紳が宰相を退いた。淮南節度副大使の杜悰が尚書右僕射となり、中書侍郎・同中書門下平章事を兼ねた。丙子、昭義軍の将の裴問が邢州刺史の崔嘏に城をもって降った。この月、洺州刺史の王釗と磁州刺史の安玉が城をもって降った。 八月乙未、昭義軍の将の郭誼が劉稹を殺して降った。戊戌、沢・潞・邢・洺・磁の五州に一年間給付し、太原・河陽および懐・陝・晋・絳の四州で秋税を免除した。戊申、李徳裕が太尉となった。 十月、鄠県で狩猟した。 十二月、雲陽で狩猟した。 五年(845)正月己酉、群臣が尊号をたてまつって仁聖文武章天成功神徳明道大孝皇帝といった。この日、太清宮に朝献した。庚戌、太廟に朝享した。辛亥、南郊を有事摂事にて祀った。大赦をおこない、文武の官に階・勲・爵を賜り、文宣公・二王三恪(北魏・北周・隋の後裔)の一子に告身を与えた。仙台を南郊に作った。庚申、皇太后が崩じた。 三月、日照りがあった。 五月壬子、恭僖皇太后を光陵に葬った。壬戌、杜悰・崔鉉が宰相を退いた。乙丑、戸部侍郎の李回が中書侍郎・同中書門下平章事となった。 六月甲申、神策軍に望仙楼を作った。 七月丙午朔、日食があった。この月、山南東道節度使の鄭粛が検校尚書右僕射、同中書門下平章事となった。 八月壬午、大いに仏寺を毀し、僧尼を還俗させて民とした。 十月、虎牢関に昭武廟を作った。 六年(846)二月癸酉、旱のため死罪以下を降し、この年の夏税を免除した。庚辰、夏綏銀節度使の米曁が東北道招討党項使となった。 三月壬戌、不豫。左神策軍護軍中尉の馬元贄が光王李怡を立てて皇太叔、権勾当軍国政事とした。甲子、皇帝が大明宮で崩じ、年は三十三であった。 宣宗元聖至明成武献文睿智章仁神聡懿道大孝皇帝は、諱を忱といい、憲宗の第十三子である。母は孝明皇太后鄭氏といった。始め光王に封ぜられた。性格は厳重かつ寡黙で、宮中であるいは愚かだと思われていた。 会昌六年(846)、武宗の病が次第に重くなり、左神策軍護軍中尉馬元贄が光王を立てて皇太叔とした。 三月甲子、柩の前で皇帝位についた。 四月乙亥、聴政を始めた。母を尊んで皇太后とした。丙子、李徳裕が宰相を退いた。辛卯、李譲夷が司空となった。 五月乙巳、大赦をおこなった。翰林学士承旨・兵部侍郎の白敏中が同中書門下平章事となった。辛酉、子の李温を封じて鄆王とし、李渼を雍王とし、李涇を雅王とし、李滋を夔王とし、李沂を慶王とした。 七月、李譲夷が宰相を退いた。 八月辛未、大行宮で火事があった。壬申、至道昭粛孝皇帝を端陵に葬った。 九月、鄭粛が宰相を退いた。兵部侍郎・判度支の盧商が中書侍郎・同中書門下平章事となった。雲南蛮が安南を寇し、経略使の裴元裕がこれを破った。 十二月戊辰朔、日食があった。 大中元年(847)正月壬子、太清宮に朝献した。癸丑、太廟に朝享した。甲寅、南郊を有事摂事(にて祀った)。大赦をおこない、改元した。左遷された死者の官爵を復し、文武の官に階・勲を、父老に帛を賜い、文宣王後及び二王後・三恪の一子に官を与えた。 二月癸未、旱のため正殿を避け、膳を減らし、京師の囚人を再審し、太常教坊の習楽をやめ、百官の食を減らし、宮女五百人を召し放ち、五坊の鷹犬を放ち、飛龍馬の粟を廃止した。 三月、盧商が宰相を退いた。刑部尚書・判度支の崔元式が門下侍郎となり、翰林学士承旨・戸部侍郎の韋琮が中書侍郎となり、ともに同中書門下平章事となった。 閏月、大いに仏寺を復した。 四月己酉、皇太后が崩じた。 五月、張仲武が奚の北部落と戦い、これを破った。吐蕃・回鶻が河西を寇し、河東節度使の王宰がこれを討伐した。 八月丙申、李回が宰相を退いた。庚子、貞献皇太后を光陵に葬った。 十二月戊午、太子少保の李徳裕を左遷して潮州司馬とした。 二年(848)正月甲子、群臣が尊号をたてまつって聖敬文思和武光孝皇帝といった。大赦をおこなった。宗子房未仕者予一人出身、文武の官に階・勲・爵を賜った。 三月、子の李沢を封じて濮王とした。 五月己未朔、日食があった。崔元式が宰相を退いた。兵部侍郎・判度支の周墀と、刑部侍郎・諸道塩鉄転運使の馬植が、同中書門下平章事となった。己卯、太皇太后が崩じた。 七月己巳、功臣を凌煙閣に描いた。 十一月壬午、懿安太皇太后を景陵に葬った。韋琮を左遷して太子賓客とし、東都を分司させた。 三年(849)二月、吐蕃が秦・原・安楽の三州と石門・駅蔵・木峽・制勝・六盤・石峽・蕭の七関をもって官吏に帰順した。 三月、詔して待制官と刑法官・諌官に次對。馬植が宰相を退いた。 この春、霜が降って桑を枯らせた。 四月乙酉、周墀が宰相を退いた。御史大夫の崔鉉が中書侍郎となり、兵部侍郎・判戸部事の魏扶が同中書門下平章事となった。癸巳、幽州盧龍軍節度使の張仲武が亡くなり、その子の張直方が留後を自称した。 五月、武寧軍が乱を起こし、その節度使の李廓を追放した。 十月辛巳、京師で地震があった。この月、振武軍と天徳軍、霊武・塩夏の二州で地震があった。吐蕃が維州をもって官吏に帰順した。 十一月己卯、弟の李惕を封じて彭王とした。 十二月、吐蕃が扶州をもって官吏に帰順した。 四年(850)正月庚辰、大赦をおこなった。 四月壬申、長雨のため、京師に詔して・関輔の囚人を再審し、度支・塩鉄・戸部の未納の税をとりやめた。 六月戊申、魏扶が薨去した。戸部尚書・判度支の崔亀従が同中書門下平章事となった。 八月、幽州盧龍軍が乱を起こし、その節度使の張直方を追放し、衙将の張允伸が留後を自称した。 十月辛未、翰林学士承旨・兵部侍郎の令狐綯が同中書門下平章事となった。 十一月、党項羌が邠州・寧州を寇した。 十二月、鳳翔節度使の李安業と河東節度使の李拭が招討党項使となった。 五年(851)三月、白敏中が司空となり、南山・平夏の党項を招討し、行営兵馬都統をつとめた。 四月、平夏の党項羌を赦した。辛未、霊塩夏三州・邠寧・鄜坊等の道の三年免税とした。 六月、子の李潤を封じて鄂王とした。 八月乙巳、南山の党項羌を赦した。 十月、沙州の人の張義潮が瓜・沙・伊・粛・鄯・甘・河・西・蘭・岷・廓の十一州をもって官吏に帰順した。白敏中が宰相を退いた。戊辰、戸部侍郎・判戸部の魏謩が同中書門下平章事となった。 十一月、崔亀従が宰相を退いた。 十二月、景陵の門戟が盗賊に折られた。 この年、湖南で飢饉があった。 六年(852)三月、彗星が觜・参に出現した。 七月、雍王李渼が薨去した。 八月、礼部尚書・諸道塩鉄転運使の裴休が同中書門下平章事となった。 九月、獠が昌・資の二州を寇した。 十一月、弟の李惴を封じて棣王とした。 この年、淮南で飢饉があった。 七年(853)正月丙午、太清宮で朝献した。丁未、太廟で朝享した。戊申、南郊を有事摂事にて祀った。大赦をおこなった。 八年(854)正月丙戌朔、日食があった。 三月、旱のため獄囚を再審した。 九月、子の李洽を封じて懐王とし、李汭を昭王とし、李汶を康王とした。 九年(855)正月甲申、成徳軍節度使の王元逵が亡くなり、その子の李紹鼎が留後を自称した。 閏四月辛丑、嶺外の民の男女の献上を禁じた。 七月、旱害のために使者を派遣して淮南を巡撫させ、お上に供される兵糧運送を減らし、未納の租をとりのぞき、粟を出して民に施した。丙辰、崔鉉が宰相を退いた。庚申、淮南・宣歙・浙西の冬至・元日の常貢を止め、下戸の租税に代えた。この月、浙江東道軍で乱が起こり、その観察使の李訥を追放した。 十年(856)正月丁巳、御史大夫の鄭朗が工部尚書・同中書門下平章事となった。 九月、子の李灌を封じて衛王とした。 十月戊子、裴休が宰相を退いた。 十二月壬辰、戸部侍郎・判戸部の崔慎由が工部尚書・同中書門下平章事となった。 十一年(857)二月辛巳、魏謩が宰相を退いた。 五月、容管軍が乱を起こし、その経略使の王球を追放した。 七月庚子、兵部侍郎・判度支の蕭鄴が同中書門下平章事となった。成徳軍節度副大使の王紹鼎が亡くなり、その弟の王紹懿が留後を自称した。 八月、子の李澭を封じて広王とした。 九月乙未、彗星が房に出現した。 十月壬申、鄭朗が宰相を退いた。 十二年(858)正月戊戌、戸部侍郎・判度支の劉瑑が同中書門下平章事となった。 二月、穆宗の忌日を廃止し、光陵で朝拝および守陵宮人とした。壬申、崔慎由が宰相を退いた。 閏月、十月から雨が降らず、この月になって雨が降った。 三月、塩州監軍使の楊玄价がその刺史の劉皋を殺した。 四月庚子、嶺南軍が乱を起こし、その節度使の楊発を追放した。戊申、兵部侍郎・諸道塩鉄転運使の夏侯孜が同中書門下平章事となった。 五月丙寅、劉瑑が薨去した。庚辰、湖南軍が乱を起こし、その観察使の韓琮を追放した。 六月丙申、江西都将の毛鶴がその観察使の鄭憲を追放した。辛亥、南蛮が辺境を寇した。 七月、容州の将の来正がそむき、処刑された。 八月、宣歙の将の康全泰がその観察使の鄭薰を追放し、淮南節度使の崔鉉が宣歙池観察処置使を兼ねてこれを討った。丁巳、太原で地震があった。 十月、康全泰が処刑された。 十二月、毛鶴が処刑された。甲寅、兵部侍郎・判戸部の蒋伸が同中書門下平章事となった。 十三年(859)正月戊午、大赦し、度支・戸部の未納の税をとりのぞき、宮人を放った。 八月壬辰、左神策軍護軍中尉の王宗実が鄆王李温を立てて皇太子、権句當軍国政事とした。癸巳、皇帝が咸寧殿で崩じ、年は五十であった。謚を聖武献文孝皇帝といった。咸通十三年(872)、元聖至明成武献文睿智章仁神聡懿道大孝皇帝と加諡した。 賛にいう、春秋の法は、君主が弑殺されて賊が討伐されなければ、すなわち深くその国を責める。それは臣子が無いとみなすからである。憲宗が弑逆されたが、三世を経てもなお逆賊は生存していた。文宗の代になってからも、陳弘志らの罪悪は明らかにならなかった。国の典刑を正して、わずかに殺すにいたったのみである。これは嘆くべきことである。穆宗・敬宗は幼童で徳を失い、在位が長くなかったから、天下は敗乱に到る前に、敬宗がその身を終えたのである。これでどうやって討賊の志を実行できたというのであろうか!文宗はうやうやしく道理に優れ、天性の才があった。かつて太宗の貞観政要を読み、慨然としてこれを慕った。即位するにおよんで、意を鋭して治世にはげみ、延英殿にて宰臣とまみえるごとに、漏下十一刻を率いた。唐制では、天子が二日に一度朝政を見、すなわち輟朝・放朝を命じてみな双日とした。おしなべて官吏の任免に際して必ず召見訪問し、親しくその良悪を見た。そのため大和年間の初頭、政事は修飾して清明と号した。しかしながらその仁政は果断さに欠け、父兄の代からの弊害を受け、宦官は専横し、制しようとしてもその方法すらなく、ために終りの苦しみははそれが原因となった。甘露の変で、禍は忠良に及び、冤憤にたえず、恨みを飲むだけであった。そのためこれを申して陳弘志を殺害できたのは、またその志を酌むに足るものであったからである。 昔、武丁はただ傅説を得て商の高宗となった。武宗はただ李徳裕を得て、ついにその功烈をなした。しかしその奮然ぶりは浮図の法(仏教)を除去するのにはなはだしく鋭かったのであって、自身は道家の符録を受け、服薬に長寿を求めた。この部分を見て聡明で迷いのない者ではないとするのは、特に良し悪しの意見が分かれるところである。宣宗は政務に精励し明察であり、仁恩の意に復することがなかった。嗚呼、これより以後、唐は衰えるのだ! 前巻 『新唐書』 次巻 巻七 本紀第七 『新唐書』巻八 本紀第八 巻九 本紀第九
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/956.html
唐書巻一百二十六 列伝第五十一 魏知古 盧懐慎 奐 李元紘 杜暹 鴻漸 張九齢 拯 仲方 韓休 洪 滉 皋 洄 魏知古は、深州陸沢県の人である。人品は端正かつ正直で才能があり、進士に及第した。著作郎となって修国史に任じられ、累進して衛尉少卿、検校相王府司馬に遷った。神龍年間(707-710)初頭、吏部侍郎となったが、母の喪のため辞職した。服喪があけると、晋州刺史となった。睿宗が即位すると、もとの属していた官によって黄門侍郎を拝命し、修国史を兼任した。 当時、金仙観・玉真観を造営しており、盛夏にもかかわらず、工程は厳しく督促されていた。魏知古は諌めて次のように述べた。「臣は次のように聞いています。「古の人の上にたつ君主は、常に人の働くところを視ているが、人は懸命に働いても建造が出来るのは稀である。人が蓄財に勤めれば貢賦は少なくなり、人が食に勤めれば百事は廃せられるのである」(穀梁伝 荘公二十九年)。そのため、「役に立たないことをして役に立つことをおしつぶす」(尚書 周書旅獒)といい、また「百姓たちの心に逆らってまでも、御自分の意思を押し通されてはなりません」(尚書 虞書 大禹謨)とあります。『礼』に「季夏の月(六月)、樹木が盛んに茂る。みだりに木を伐らぬよう取り締まりをさせる。また土木工事はいけない」(礼記 月令)とあり、これはすべて人民への教化を興して治世をたて、政治を行って人を養う根本なのです。今、公主のために道観を造営するのは、土木工事によって福を祈っていますが、しかしながらこれらの土地は百姓の家とするところであって、突然事態が差し迫って、彼らを移転・転居させ、老人を抱えて幼児を携えて、椽を変えて瓦を変えて、道路上で阿鼻叫喚するのです。人の事にそむくことは、天の時に違うことであり、無用の造作をおこし、不急の務めを崇めることは、群臣の心を揺れ動かし、多くの口からあれこれと言いはやすことになるのです。陛下は人の父母となられ、どういった手段によって安んじようとなされるのでしょうか。また国には簡冊があり、君主が何か行えば必ず記録されることになり、言動のきざしは慎まなければなりません。願わくば明詔をお下しになられ、人の願いにしたがって土木の徭役を除かれ、この事業を晩年に行われても、その失策は遠いことではないのです」 受け入れられなかった。再び諌めて次のように述べた。「陛下が反逆者を平定して取り除き、国家を保ち定まれてからは、天下は荘重となり、朝廷に新政があると思われます。今、教化は次第に廃れていくことは日々ますます甚だしいものであり、府蔵は空しいものとなり、人力は疲弊し、造営は果てなく、官吏の人員は次第に増え、諸司の試補・員外・検校官はすでに二千人あまり、太符の帛はつきて、太倉の米は支給できなくなっています。臣は以前に金仙観・玉真観の造営をやめられるよう願いましたが、それらが終わってもまだ停止されていません。今、水害と旱魃が前後でおき、稲・黍・稷・麦・豆の五穀は育たず、この状態になっては春になると、必ず大飢饉となります。陛下はどこに賑給なされるというのでしょうか。また突厥は中国の憂いとなることは長いことになっており、その人となりは礼義や誠信によって約束すべきではありません。使者を派遣して婚姻を願っているとはいえ、恐るべきは豺狼の心をもち、自身が弱ければ伏せ従い、強ければ驕慢となって逆き、月日がたてば騎乗する馬は肥え太り、中国の飢饉に乗じてきます。講和や和親の際にも、辺境の砦を攻撃せんと狙っていますが、またどうやって防ぐというのでしょうか。」帝はその実直さをよろこび、左散騎常侍によって同中書門下三品(宰相)とした。玄宗は春宮であったとき、また左庶子を兼任した。 先天元年(712)、侍中となった。渭川の遊猟に従い、詩を献上して風刺し、手ずから制によってお褒めをいただき、あわせて賜物五十段をいただいた。翌年、梁国公に封ぜられた。竇懐貞らが謀をめぐらせて国を乱すと、魏知古は密かにその奸計を暴いたから、竇懐貞は誅殺され、封二百戸、物五百段を賜った。玄宗は以前の褒賞が手薄かったのを残念に思い、手ずから勅してさらに百戸を加え、その名節を明らかにした。この冬、詔して東都(洛陽)で吏部の選事を司り、適正な要件によって称えられ、お褒めの詔によって衣一副を賜った。これより帝の恩意は最もあつく、黄門監によって紫微令に改められた。姚元崇とあわず、工部尚書に任命されたが、宰相を罷免された。開元三年(715)卒した。年六十九歳。宋璟はこれを聞いて「叔向は古に実直さをのこし、子産は古に愛をのこした。これを兼ねた者は魏公だ」と嘆いた。幽州都督を追贈され、諡を忠という。 推薦した洹水令の呂太一、蒲州司功参軍の斉澣、右内率騎曹参軍の柳沢、密県の尉の宋遥、左補闕の袁暉、右補闕の封希顔、伊闕県の尉の陳希烈は、後に全員が当時に有名となった。 文宗の大和二年(828)、その曾孫の魏処訥を探して、湘陽県の尉を授け、魏徴・裴冕の後裔も抜擢して任命した。 盧懐慎は、滑州の人で、思うに范陽の有名な盧姓なのであろう。祖父の盧悊は、仕えて霊昌県の令となり、遂に県の人となった。盧懐慎は幼い頃からすでに非凡な人物で、父は友人で監察御史の韓思彦に「この子の器は図り難い」と嘆いた。成長すると、進士に及第し、監察御史に任じられた。神龍年間(707-710)、侍御史に遷った。中宗は武后を上陽宮に謁し、武后は帝に十日に一朝するよう詔した。盧懐慎は諌めて、「昔、漢の高帝(高祖)が天命を受けると、五日に一朝、太公と櫟陽宮にて謁し、民間から決起して皇帝位に登り、子に天下があったから、尊を父に帰し、だからこのようになったのです。今、陛下は先王以来の法と帝王の位を継承されましたが、どこの法を採用されたのでしょうか。ましてや応天門は提象門からはわずか二里の所にあり、警備の騎馬は列をつくることができず、随行車は平行することができず、ここにたびたび出入りしたとしても、愚人が万が一随行車の塵を犯すような襲撃があったところで、これを罪としたところでどういたしましょうか。臣は愚かに申し上げるところは、内朝に従って穏やかかつ清らかであるようにお過ごしになられ、出入りして煩わせるようなことがあってはならないということです。」採用されなかった。 右御史台中丞に遷った。上疏して時政を述べた。 「臣は以下のように聞いています。「善人の政治も百年つづけば、暴力をおさえ死刑もなくせる」(論語 子路第十三)。孔子は「使ってくれる人があったら、一年だけでもいいんだ。三年だと、完全だが。」(論語 子路第十三)と言っており、そのため『書』に、「三年に一度、その役目にあって成果をあげたかどうかを調べられ、三度検査されたあと、輝かしい仕事をしたものは位を上げ、みずほらしくてだめなものはその役から退けられた。」(尚書 虞書舜典)とあります。昔、子産は鄭の宰相となり、法令を改め、刑書を施行し、一年間は人に怨まれ、殺されると思うほどでしたが、三年にして人は徳としてこれを歌い継がれるようになりました。子産は賢者であったから、政治を行ってなお年を重ねてから功績がなったのに、ましてや普通程度の人材ではどうでしょうか。この頃州牧、上佐、両畿の県令はあるいは一・二年、あるいは三・五か月で転任となり、かつて考課を論ずるのに政務統治の成績が良好かどうかで判断せず、まだ戻って来ない者に対しては耳を傾けて聞くことはなく、つま先立ちして望んでいても、無闇に行動して廉潔の聞こえがなく、またどうして陛下のために風を教化して人を憐れむ余裕がありましょうか。礼義を興すことができず、戸口はますます流出し、倉庫はいよいよ乏しくなり、百姓は日に日に疲弊するのは、職はこれが原因となるだけなのです。人は吏の任期が長くないのを知っているので、その教化にしたがわず、吏は転任するまで長くないのを知っているので、その力をつくさないのです。かりそめに爵位に身を置き、これによって経歴や声望を養ったとしても、明主が天下に勤労しようとする志があったとしても、天子の寵遇を得る道を開くことになり、上も下も互いに互いに騙し合い、どうして公正をつくすことができましょうか。これは国の病なのです。賈誼がいうところの誤りというのは、小の小なる者のみなのです。これを改めなければ、平和的に緩慢であっても、なすすべもないのです。漢の宣帝を総合的に考えてみると、治世は勃興して教化がなされ、黄霸はすぐれた郡守であり、秩を加えて金を賜り、その能力をあらわしたが、終に遷任をよしとしませんでした。そのため古で吏となった場合、長きは子孫までに到ったのです。臣が願うところは、都督・刺史・上佐・両畿の県令に任じて四度の考課を得ていない場合は、転任することができないこととすることです。もし統治に最も優れたものがあれば、あるいは加えて車や衣服、秩禄を賜い、使者をくだして臨問させ、璽書によって慰撫して励まし、公卿に欠員があれば、そこで抜擢して能力がある者を励ますのです。職に適さずあるいは貪欲かつ暴虐であった場合、罷免して田舎に帰らせ、信賞必罰の信を明らかにするのです。 昔、唐・虞は古えの道にならって百の官位をたてました。夏・商では官は二倍になりましたが、やはりまたうまく治まりました。これは官を少なくしたからです。そのため「この官は必ずしも員数を揃えなくともよい、ただふさわしい人でなければならぬ」、「もろもろの官に、適当な人をつけないでいて、その官位をむなしくされてはなりません。なぜなら官職というものは、もともと天に属するものであって、天のなさる事を人間が代わってやっているからなのです。」(尚書 周書 周官)というのは、人を選ぶからなのです。今、京の諸司の員外官は数十倍となり、近年いままでなかったことです。必ずしも備わっていないというのに、余剰人員がいるということは、その代わりの仕事を求めて、多くはわずかな仕事もせず、俸給の費えは毎年巨額なものとなり、いたずらに府蔵をつきさせることになり、どうして統治なぞありましょうか。今、民力は疲弊の極みで、河州・渭州は広く運漕していますが、京師に給付されず、公も私も損耗し、辺境はいまだ静寂ではありません。ちょうど今、旱魃や水損で災いとなり、租税は減収しており、辺境で急を知らせれば、賑給する暇とてなく、どうやってこれを救えましょうか。「人事を軽々しく考えてはなりません。つらい困難なものだと知って、慎重に扱ってやって下さい。天子の位に安んじてしまってはなりません。ひたすらに恐れつつその位を保ってゆかねばならないのです」(尚書 商書 太甲下)とあるのは、謹んで慎重に取り扱わなければならないことなのです。員外の官をたずねてみると、全員が当時の重任に値する賢臣であり、選ぶ際に才能を用いながらもその用途を伝えることなく、名を尊んでいるのにその力量を任じませんでした。昔より人を用いるのに、どうしてそのようにしていたのでしょうか。臣が願うところは、才能が太守や上佐にたえる者を官職に昇らせ、力量を全国に知らしめ、考課の責めは治状で行うことです。老いや病、もしくは職にたえられない者は、すべて廃して除き、賢人や不才を確率して一貫性をもたせるのは急務なのです。 私寵や賄賂をおかし、寡婦を侮る者がいるのは、為政者を蝕むものです。ひそかに思いますに、内外の官に賄賂を贈って狼藉し、鼻削ぎして人を蒸し殺し、罪にふれて流黜したとしても、しばらくして戻ってきて、再び牧宰となり、任じるのに江淮・嶺表・磧に、だいたい懲罰的左遷を示しても、心の中では自暴自棄を懐き、貨に従って財貨を集め、終わっても改悛の心なぞありません。明主の万物においては、平分にして恩を施すのに均等ではないことはなく、吏を罪として遠方の太守とするのは、これを奸人に恵みして遠きに残すという。遠州の辺境の村々は、どうやって聖化を負って、ただその悪政を受けるのでしょうか。辺境の官吏がいる地は、異民族・漢族が雑居し、険阻や遠方であることをたのんで騒動をおこしやすく、平定も困難なのです。官はその才能でなければ、民衆は流亡し、蹶起して盗賊となるのです。これに基づいていうのなら、凡才は用いるべきではなく、ましてや狡猾な官吏はどうでしょうか。臣が願うところは、収賄によって解任を詮議された者は、除籍されてから数十年もしないうちは、再任用を賜ってはなりません。『書』に「民のよいものと悪いものをみきわめて」(尚書 周書畢命)とありますが、それは適切なことなのです。」 上疏したが、答えはなかった。 黄門侍郎、漁陽県伯に遷った。魏知古とともに東都で進士の試験を実施する責任者となった。開元元年(713)、同紫微黄門平章事(宰相)に昇進した。開元三年(715)、黄門監に改められた。薛王の叔父の王仙童は百姓に暴虐を働き、御史は捜査してその罪を検挙し、事実を列挙したから、詔が紫微・黄門に下されて審理させた。盧懐慎は姚崇とともに執奏して、「王仙童の罪状は明白で、もし御史を疑うようなことがあれば、他の人は何を信じたらよいのでしょうか」と申し上げ、これによって獄決した。盧懐慎は自ら才能は姚崇に及ばないとみなしていたから、そのため事案はすべて推して専断せず、当時の人は譏って「伴食宰相」と呼んだ。また吏部尚書を兼任し、病のため骸骨(辞職)を乞い、許された。卒すると、荊州大都督を追贈され、諡を文成という。遺言して宋璟・李傑・李朝隠・盧従願を推薦し、帝は哀悼して嘆いた。 盧懐慎は清廉で経営を行わず、服飾・器物に金玉や模様の飾がなく、身分は貴かったが妻子は寒さや飢えに瀕し、俸禄を得ると、故人や親戚に惜しむことなく、散財し尽くした。東都の貢挙を担当するため派遣されると、身に携えたものは、一つの布袋にとどまった。病となったから、宋璟・盧従願が見舞いすると、筵を覆って寝床とし、門には箔を施していなかった。風雨がくると、すべての席が妨げとなった。日が遅くなってから食事とし、豆を蒸して二つの器に盛り、菜と数杯の酒があるだけであった。別れの時がくると、二人の手をとって、「お上は治世を求めること熱心であらせられるが、しかし国を長いことみると、しばらくしてお勤めに飽きられて、奸人が間に乗じて進んでくることがあるだろう。官邸で記録しておきなさい」と言った。葬式になっても、家に貯蓄はなかった。帝は当時東都に行幸しようとすると、四門博士の張星が上言して、「盧懐慎は忠節かつ清廉で、真っ直ぐな道のまま終えられましたが、お褒めのご下賜を加えられておらず、善を勧めることができません」と言ったから、そこで制を下してその家に物百段、米粟二百斛を賜った。帝が京師に帰還すると、追い込み猟で、杜との間を行き来し、盧懐慎の家が遠望でき、小さな垣根があり、家人が何かしているようであったから、使者を走らせて尋ねてみると、戻って盧懐慎大祥(三回忌法要)をしていたと報じたから、帝はそこで縑帛を賜い、そのため狩猟をやめた。その墓に立ち寄ると、碑表がなかった。行列を止めて眺めていると、涙がはらはらと流れて泣き、官吏に詔して碑を建てさせ、中書侍郎の蘇頲に文をつくらせ、帝自ら書した。 子に盧奐・盧弈がいる。 盧奐は、若い頃から容貌に優れ、吏になると清廉であると称えられた。御史中丞を経て、京師から出されて陜州刺史となった。開元二十四年(736)、帝が西に帰還すると、陜州に立ち寄り、その優れた政治をお褒めになられ、賛を役所に次のように書いた。「太守の任は重要であるが、陝州の政治は優れている。またすでに人々を救い、忠誠の心がある。これは国の宝となり、家風をおとさない人物である。」ついで京師に召喚されて兵部侍郎となった。天宝年間(742-756)初頭、南海太守となった。南海は水陸の集積地であって、物産は怪異で、前太守の劉巨鱗・彭杲は収賄で失脚し、そのため盧奐と交替した。汚職にまみれた吏は手を縮め、宦官で市舶に携わる者もまたあえて法を違反せず、遠方の習俗は安じた。当時開元から四十年たち、治世が優れて清廉な者は、宋璟・李朝隠・盧奐の三人だけであった。尚書右丞で終わった。盧弈は「忠義伝」を見よ。 李元紘は、字は大綱で、その先祖は滑州の人であり、後世に京兆万年県に住んだ。本姓は丙氏である。曽祖父の李粲は、隋に仕えて屯衛大将軍となり、煬帝は京師の西二十四郡の盗賊を取り締まらせ、安んじ宥めて、よく兵士の心をつかんだ。高祖は李粲を厚遇し、兵が関内に入ると、多くを帰順させたから、宗正卿、応国公を授け、姓は李氏を賜った。後に左監門大将軍となり、老いたから、乗馬のまま宮中に入ることを許した。年八十歳あまりで卒し、諡を明という。祖父の李寛は、高宗の時に太常卿、隴西公となった。父の李道広は、武后の時に汴州刺史となり、善政をしいた。突厥・契丹が河北に侵攻すると、議して河南の兵で迎撃したが、百姓は震撼しており、李道広はことごとく慰めたから、人々で離散する者はいなかった。殿中監、同鳳閣鸞台平章事に遷り、金城侯に封ぜられた。卒すると、秦州都督に追贈され、諡を成という。 李元紘は、若い頃から身を謹んで礼法を守り、仕官して雍州司戸参軍となった。当時、太平公主は天下に勢力を振るい、百官はその勢力に従おうとし、かつて民と公主が水車石臼の使用で争った際に、李元紘は民に帰結させた。長史の竇懐貞は非常に驚き、駆けつけて改めようとしたが、李元紘は署判の後ろに「南山に移すべし。判決は変更してはならない」としていた。好畤県の令となり、潤州司馬に遷ったが、優れた統治によって名声を得た。開元年間(713-741)初頭、万年県の令となり、賦役は公平であると称えられ、京兆少尹に抜擢された。詔によって京師付近の渠を裁決することになった。当時、諸王・公主・権勢の家はすべて渠の傍らに水車石臼を建て、溜池を堰き止めて水利権を争い、李元紘は吏に命じてすべて破却し、灌漑用の運河から分水して田に下し、民はその恩を頼った。三たび吏部侍郎に遷った。当時、戸部の楊瑒・白知慎は徴税の失敗を罪とされ、刺史に貶され、帝は代わりとなるべき者を求め、公卿の多くは李元紘を推薦した。帝は戸部尚書に抜擢しようとしたが、宰相は素質が薄いとしたから、そこで戸部侍郎となった。箇条書きにして利害および政治の得失を述べたから、帝は才能があるとし、帝王の助けとすべき者であるといい、衣一揃、絹二百匹を賜った。翌年、遂に中書侍郎、同中書門下平章事(宰相)に任命され、清水県男に封ぜられた。 李元紘は宰相となると、仕事ぶりは厳しく抑圧し、突っ走る者を抑え、出し抜こうとする者は憚った。五月五日、武成殿で宴し、群臣に重ね着を賜い、特に紫服、金魚錫は李元紘と蕭嵩のみで、群臣に比較できる者はいなかった。当時、京司の職田を廃止し、議する者は屯田を置こうとした。李元紘は「軍と国は同一ではなく、内と外も制度は異なっており、もし人が手隙で戦争がなく、耕作放棄地があれば、手隙の人に耕作放棄地を耕させると、運漕の労を省き、軍糧の実となるので、そうなれば屯田することは、ますます有益なことなのです。今百官が職田を廃止することは一県だけではないので、迎合すべきではありません。百姓の私田はすべて力して自ら耕したものであるので、奪ってはなりません。もし屯田を設置すれば、公と私がそれぞれ置き換わることになり、丁夫を徴発することになります。徴発すれば業は家を廃し、庸を免除すれば賦税は国から欠乏します。内地に屯田を置くことは、古よりいまだなかったことです。恐れるところは損失を補うことができず、いたずらに費用を費やすことです。」と述べたから、遂に議は止んだ。それより以前、左庶子の呉兢が史官となり、『唐書』および『春秋』を撰述したが、完成せず、喪があけてから、後に上書してその仕事を終わらせるよう願った。詔して集賢院にて成書することを許した。張説が致仕すると、詔して自邸で史書を編纂させた。李元紘はそのため「国史は、人君の善悪や王政の損益を記録し、毀誉褒貶がつながることは、前聖が最も重んじたことです。現在、国の大典は、分散して一つではありません。また太宗が史館を禁中に別置したのは、秘密を厳重にしたからなのです。願うところは、張説に対して書によって史館につかせ、撰録に参与させることです」と述べた。詔して裁可された。 後に杜暹と合わず、しばしば帝の御前で弁論したから、帝は不快に思い、全員を罷免し、李元紘を曹州刺史とし、蒲州に遷したが、病と称して辞職した。後に戸部尚書で致仕し、再び太子詹事に起用された。卒すると、太子少傅を追贈され、諡を文忠という。 李元紘が宰相となると、清廉で節度があり、宰相となって年を重ねたが、いまだかつて邸宅を改築したことはなく、子馬は貧弱で、封物を得ても親族に散財した。宋璟はかつて「李公は宋遥の美点を引き継ぎ、劉晃の貪欲さを退け、国の宰相となっては、家に蓄えを留めることなく、季文子の徳であっても、どうしてこれに加えることができようか」と嘆いた。 杜暹は、濮州濮陽県の人である。父の杜承志は、武后の時に監察御史となった。懐州刺史の李文暕が人に告発され、杜承志に詔があって審理させたところ、無実とした。李文暕は、宗室の近族であり、ついに罪を得て、杜承志も貶されて方義県の令となり、天官員外郎に遷った。羅織の獄がおこり、病と称して辞職し、家で卒した。 高祖の時代から杜暹の時代までは、五世代が同じところに居住した。杜暹は最も慎み深く、継母につかえて孝行であった。明経化に推薦されて及第し、婺州参軍に補任され、任期満了で帰還し、吏は紙を一万枚贈ったが、杜暹は百枚のみ受け取った。皆が「昔、清吏であっても大銭を受け取ったが、なんと珍しいことだろうか」と感嘆した。鄭県の尉となり、また清廉かつ節度によって名が有名となった。華州司馬の楊孚は、公明で正直な人であり、たびたび杜暹を重んじて意見を聞いた。たまたま楊孚が大理正に遷任することになったが、杜暹もたまたま罪に連座し、楊孚は「もし人を罪にさせたら、皆にどうやって善を勧められようか」と言い、宰相に進言し、これによって大理評事に抜擢された。 開元四年(716)、監察御史となって磧(ゴビ砂漠)西に滞在した。安西副都護の郭虔瓘と西突厥可汗の阿史那献、鎮守使の劉遐慶が相互に訴え、杜暹に詔して審議させた。突騎施(テュルギシュ)の帳に入ると、証拠を探した。虜は金を杜暹に贈り、杜暹が固辞すると、左右の者が「公は絶域に使者となって来たのですから、彼ら戎の心を失ってはなりません」と言ったため、受けたが、密かに幕下に埋めた。境界から出ると、文書で命じて受け取った物を取り出させた。突厥は大いに驚き、磧を渡って追跡したが、間に合わず去った。給事中に遷ったが、母の喪に遭って辞職した。安西都護の張孝嵩が太原尹に遷ることになり、ある者が杜暹を安西に行かせると、虜はその清廉さに心服し、今なお思い慕っていると申し上げたから、そこで奪服(服喪を終える前に官に呼び戻されること)されて黄門侍郎兼安西副大都護となった。翌年、于闐(ホータン)王の尉遲朓が突厥諸国と約束して叛こうとしたが、杜暹はその謀を暴き、兵を発して討伐して斬り、支党をことごとく誅殺し、さらに君長を立てて、于闐を安んじた。功によって光禄大夫を加えられた。辺境を守備すること四年、戎を撫育して兵士を訓練し、よく自ら勤め励ましたから、戎も漢人もとも心服した。 開元十四年(726)、召喚されて同中書門下平章事(宰相)となり、中使を派遣して迎えに行かせた。謁見すると、絹二百、馬一匹、邸宅一区画を賜った。李元紘とあれこれ反りが合わず、罷免されて荊州都督長史となり、魏州刺史、太原尹を歴任した。帝が北都(太原)に行幸すると、戸部尚書に昇進し、行幸の随行を許されて帰還したが、再び東に行幸すると、杜暹は京師留守となった。杜暹は当番の衛士を率いて三宮城を修繕し、池を浚ったが、監督は少しもなまけなかった。帝は聞いてお褒めのお言葉をいたただき、しばしば書を賜って労った。礼部尚書に昇進し、魏県侯に封ぜられた。 開元二十八年(740)卒し、尚書右丞相を追贈され、使者を派遣して葬列を護送させ、禁中から絹三百匹を出して賜い、太常は諡を貞粛とした。右司員外郎の劉同昇らは杜暹が忠孝を行い、諡はまだつくされていないとし、博士の裴総は杜暹が黒い喪服を着て安西への赴任の命を受け、国に勤労したとはいえ、孝を尽くすことができなかったと言った。その子は訴え、帝はさらに役人に勅して考定させ、ついに諡を貞孝とした。 杜暹は友愛のある人物で、異母弟の杜昱を非常に可愛がった。その人となりは学問が希薄で、そのため朝廷で議論すると、時々浅薄を露呈した。しかしよく公に清廉で自己保全に勤め、倦まず休まず努め励んだ。若い頃より誓って親友からの贈り物を受け取らず、こうして身を終えた。卒すると、尚書省および吏が贈り物をしたが、その子の杜孝友は一つも受け取らず、杜暹の普段の志を行ったのだという。 杜暹の族子に杜鴻漸がいる。 杜鴻漸は、字は之巽である。父の杜鵬挙は、盧蔵用とともに白鹿山に隠遁し、母の病のため、崔沔とともに同じく医術を蘭陵県の蕭亮に授けられ、遂にその術を窮めた。右拾遺に任命された。玄宗が東は河に行くと、そこで狩猟したから、賦を奉って風刺した。安州刺史で終わった。 杜鴻漸は進士に及第し、延王府参軍に任じられ、安思順は上表して朔方節度判官とした。安禄山が叛乱をおこすと、皇太子は軍を率いて平涼に行ったが、駐留に適当な場所がわからなかったから、議して蕭関道を出て豊安に赴いた。杜鴻漸は六城水運使の魏少游、節度判官の崔漪、支度判官の盧簡金、関内塩池判官の李涵と謀って、「夷どもが秩序を破壊し、長安・洛陽の二京は占領されてしまった。太子が兵を平涼で収められたが、土地が分散していて根拠地とするのは難しい。今朔方が勝利を制しようとするなら、太子を奉迎し、西は河・隴に詔し、北は回紇と手を結び、回紇は最初から国家とともに、協力な騎馬を収め、兵力を合同し、南方を鼓舞すれば社稷の恥を雪ぐのは、また簡単なことではないであろうか」と述べ、そこで兵馬召集の軍を詳細に上奏し、また軍の資材、攻城用器械、兵糧を記録し、李涵を平涼に派遣して太子に引見させると、太子は大いに喜んだ。たまたま裴冕が河西よりやって来て、また朔方に行くことを勧めた。杜鴻漸は崔漪とともに白草にやってきて迎え謁し、「朔方軍は天下の強兵で、霊州は本領発揮の地です。今、回紇は和平を願い、吐蕃は付き従っており、天下は城を並べて堅守し、王命を待っています。たとえ賊に占領されていても、日夜官軍を待ち望み、回復しようとはかっています。殿下が兵を手に入れ長駆すれば、逆胡どもを滅すことは簡単なことです」と説き、太子は喜んで「霊武は私にとっての関中だ。卿は私にとって蕭何だ」と言った。 霊武に到着すると、杜鴻漸は裴冕らとともに皇帝の位に即位することを勧め、内外の望みであるとした。六度要請し、聴された。杜鴻漸は朝廷の作法に明るく、故事通りに采配し、壇を城の南に設け、一日前にその儀式の次第を詳細にして草案を上奏した。太子は「聖皇は遠くにあらせられ、逆賊どもは結束しようとしている。壇場をやめて、他は奏上の通りとせよ」と言い、太子は即位した。これが粛宗である。杜鴻漸に兵部郎中を授け、中書舎人とした。俄に武部侍郎となり、河西節度使に遷った。長安・洛陽の両京が平定されると、また荊南節度使となった。乾元二年(759)、襄州の大将の康楚元らが叛き、刺史の王政は脱出して逃走し、康楚元は偽って南楚霸王と称し、そこで荊州を襲撃した。杜鴻漸は城をすてて逃走し、人々は皆南へ逃れ、舟を争って溺死する者が非常に多かった。澧・朗・復・郢などの州は杜鴻漸が逃れたのを聞いて、皆山谷に隠れた。にわかに商州刺史の韋倫がその叛乱を平定した。 しばらくして、杜鴻漸を召喚して尚書右丞、太常卿とし、礼儀使にあてた。泰陵・建陵の二陵の制度はすべて杜鴻漸が統括したもので、優れた成績によって、衛国公に封ぜられた。また、「『周官』に「災害時には礼を省く」(周礼 掌客)とあり、今大乱をうけ、人民は殺されたり重症を負っています。婚礼・葬送の行列は、国に大功がある者や二等の以上の場合でなければすべて許されませんように」と建言し、詔して裁可された。 代宗の広徳二年(764)、兵部侍郎同中書門下平章事(宰相)に任じられた。ついで中書侍郎に昇進した。崔旰が郭英乂を殺して成都を占領し、邛州牙将の柏貞節、滬州牙将の楊子琳、剣州牙将の李昌巙が兵で崔旰を討伐し、蜀の地は大乱となった。杜鴻漸に命じて宰相の地位のまま成都尹、山南西道剣南東川副元帥、剣南西川節度副大使を兼任して鎮圧・撫育に向かわせた。杜鴻漸の性格は臆病で、他に遠大な計略はなく、晩年は仏教におぼれて殺戮を恐れた。剣門を過ぎるにあたって、張献誠が敗北したのを教訓とし、また崔旰の武勇を恐れ、先に許したから死ななかった。面会すると、礼をもって待遇し、あえて譴責せず、かえって成都の政務を委ね、毎日従事の杜亜・楊炎と宴会泥酔し、そこで崔旰を推薦して成都尹とし、柏貞節に邛州刺史、楊子琳に滬州刺史を授け、それぞれ戦闘を停止した。そこで入朝を願い出て、聴された。帝に謁見すると、盛んに崔旰の武威・知略が任じるにたえうるものであり、留後とすべきであるとした。宝器五床、羅錦(刺繍入りの錦)十五床、麝臍(ジャコウジカのへそ近くの麝香嚢から製する香料)五石を献上した。また宰相に復帰した。議論する者は乱を長引かせたことを憎んだ。門下侍郎に昇進した。大暦三年(778)、東都留守、河南淮西山南東道副元帥を兼任したが、疾と称して赴任しなかった。また山南、剣南副元帥の地位を譲り、聴された。大暦四年(779)、病が重くなり、宰相を辞任し、辞めて三日して卒した。年六十一歳。太尉を追贈され、諡を文憲という。 杜鴻漸が蜀より帰還すると、千僧供養を行い、報いがあると思ったから、貴紳たちはこれに倣った。病が重くなると、僧に頭を剃らせ、仏葬(火葬)するよう遺命し、土を盛って木を植えるような墓地をつくらなかった。 張九齢は、字を子寿といい、韶州曲江の人である。七歳で文章をつづることをおぼえた。十三歳のとき、広州の刺史であった王方慶に書簡を送った。王方慶は感心していった、「こいつはきっと出世するぞ」。ちょうど張説が嶺南地方に左遷されてきたが、一見すると彼を厚遇した。父親の喪にあって、哀しみにやつれて、その結果役所にある樹木の枝が連なりあうという瑞祥が現れるほどだった。進士に選抜され、最初校書郎に任命されたが、道侔伊呂科の試験でよい成績をあげたため、左拾遺となった。当時玄宗は即位したところで、まだ郊見をしていなかったので、張九齢は建白書を奉った。 「天は、百神の君主であって、王者は天より受命によるところです。古より帝統を継いだ主は、必ず郊祀で始祖を配祭しますが、思うに天命を敬い、受命したところに報いるからなのでしょう。恩恵がいまだに行き渡らず、一年の稔りもまだ実っていなければ、その礼を欠くのです。昔、周公旦は后稷を郊祀して天に配えたのは、成王が幼かったから自ら行ったのだといい、周公は摂政となってその礼を用いたので、廃さないことを明らかにしたのです。漢の丞相の匡衡は「帝王の事で郊祀より重いものはない」と言い、董仲舒はまた「郊祀せずに山川を祭るのは、祭祀の序列を失うことになり、礼にそむく。『春秋』はこれを謗っている」と言っています。臣は匡衡・董仲舒は古の礼を知っているというべきで、皆郊祀を先に行うべきだとしています。陛下は先聖の美業をお継ぎになって、今にいたるまで五年になりますが、まだ天を大いに報祀しておらず、これを経によって考えてみるに、義は通じていません。今、百穀はめでたく実り、鳥獣にも帝王の教化が行われ、夷狄は朝廷に帰順し、武器は使うことをやめていますが、だから天につかえることを怠るのは、後世への教訓とすべきではないと恐れています。願わくば長日(冬至)を迎えて紫壇にのぼり、美しい席をならべ、天位を定めれば、聖典の教えをあますことはないでしょう。」 また申し上げた。「失政の気は発して水害や旱魃となります。天道は遠いとはいえ、こたえることは非常に近いのです。昔、東海で孝婦が無実の罪で殺されると、天はしばらく旱となりました。一官吏の愚かさのため匹婦が非業の死を遂げたとしても、ただちに天はその無実を明らかにします。ましてや全世界の人民の多くは、県では県令に命じられ、家では刺史に生かされ、陛下はこれと共に統治するところで、もっとも人に親しい者においてはどうでしょうか。もしその任にあたいしなければ、水害や旱魃になる道は、どうしてただ一婦だけがたどるのみになるのでしょうか。今刺史や京近の雄望の郡は、まだ多少は人材が選ばれているようですが、江・淮・隴・蜀・三河の大府の外は、そのような人材ではない者もいるのです。京官より出た者は、ある者は昇進した者ですが、またある者は政務に功績がないのに州郡の長官の任に用いられた者で、これは外地の長官が追放・左遷の地となったからです。ある者は追従によって高官となり、勢力が衰えるとこれを京職とは称さないといい、出て州の刺史となったのです。武官や流外官は財産を積んでこの職を得たのであって、才能によったのではありません。刺史がそうなのですから、県令に到っては言うまでもありません。民百姓は国家の根本で、物事の根本の事柄に努力すべきつとめで、よく進上する者は軽んじられ、疲弊した民は、不才の人に遭うと騒擾となり、聖化はこれによって消沈して晴れ晴れとせず、親近の人を選ばないからこのような弊害がおこるのです。古の時代、刺史は入っては三公となり、郎官は出ては百里もの地をつかさどりました。今朝廷の士は一度入ってしまえば外地に赴任することはなく、計略を私用ではかって、かなり得意になってうぬぼれているのです。京師の衣冠を集めると、身名出るような身分の者は、京師に落ち着いて外に赴任しない理由を無理にこじつけ、外地への勤めずに出世しますが、これは大きな利益が京師の内にあるからであって、外にはないからなのです。智能の士で利を欲する心がある者は、どうして再度出て刺史・県令になることを承諾しましょか。国家は智能の士に頼って統治していますが、常に親しい人がいない者は、陛下が法を理由に改めないからなのです。臣は思いますに、治めようとするの本義は、刺史を重んじるのに他はなく、刺史が既に重きを置かれているのなら、すなわち優れた者を任命すべきです。試験してその資質を見定めるのがよいでしょう。概ね都督・刺史を歴なければ、高位の子弟であっても、侍郎・列卿に任じさせるべきではありません。県令を歴なければ、善政したとしても、台郎・給事・舎人に任じるべきではありません。都督や刺史は遠地であっても十年以上外地に任じることをさせてはなりません。このことを行わずにその失を救うようなことがあれば、恐らくは天下はまだ治まっていないようなものです。」 また申し上げた。「古の時代の士を選ぶには、思うによくその任にあたる者を採用し、これによって士は素行を修養するから、思いがけない幸せとはならず、悪巧みは自然と止み、官位はおかしなことにならないのです。今天下は必ずしも上古のように治まらず、一日の事務量は以前の倍に達しており、本当にその根本を正しくなければ、末節が虚偽を行うことになります。所謂末節というのは、吏部条章は千百人にも及んでいます。役人は文墨に溺れ、文筆に優れた悪賢い者共は、悪者によって奮うのです。臣は思うに、当初、出納簿をつくることとは備忘に備えるのみでしたが、今はかえって精密さを案牘(調査文書)に求めており、それなのに人材を求めるのに性急になっていますが、これは所謂剣を流れの中に残して、契丹で記すようなものです。おしなべて吏部で優れた者は、すなわち尉と主簿より、主簿と丞より、ここに文をとって官次を知るもので、それが賢者であろうが不肖な者であろうが論じることはないのは、どうして誤ちではないというのでしょうか。吏部尚書や侍郎というのは、賢者に授けるものですが、どうして賢者を知ることができないというのでしょうか。賢者を知ることが難しいようでしたら、十人を抜擢してうち五人を得られれば、これでよいのです。今かたく格条を用い、資質によって職を配し、官のために人を選んでも、当初からこの意がなければ、そのため時の人は品評調配の誹りを受け、役所は賢人の実を得ることができなくなります。」 「臣が申し上げます。選部(吏部)の法はおとえても変わることはありません。今、刺史・県令のようにその人を詳細に調べ上げ、そこで管内で毎年選にあたる者は、才行を選考して、流品に入るべきであれば、その後に御史台に送り、また選に加えられるのであり、多少でも用いるところは州県の役人の功過についてその上功下功を評定し、そこで州県は慎んで推挙された者で、官吏となるべき才能が多ければ、吏部はその作成された推挙文によるので、凡人がやたらめったらいるということがなくなります。今毎年選ばれるのは一万人を数え、京師の米や物が消耗していますが、どうして士が多いというのでしょうか。思うにみだりにこれがそれにあたるとしているだけなのでしょう。まさに一詩一判をもってすれば、その是非が定まり、たまたま賢人をのがし漏らしたとしても、これは当代の失政なのです。天下は広く、朝廷に人は多いとはいえ、必ず悪口と賞賛があい乱れ、聞く者も受ける者もわからなくなると、事は終わってしまうのです。もしその賢能を知り、それぞれ品第があり、官吏に一人欠員が出るごとに、次にこれを用いることをしなければ、どうしてできないというのでしょうか。もし諸司要官が、下等の者をみだりに昇進させれば、この議に高貴も卑賎もなく、ただ得るのとそうではないのがあるだけになります。そのため公正な議論はおこらず、名節はおさまらず、善士は節を守って時を失い、中人は追求して操つりやすくなるのです。朝廷はよく令名によって人を推挙し、士もまた名を修養して利を得ており、利が出ると、多くはそれに走るのです。そうでなければ小者はいやしくも求めることを得て、一変して私事におもんねることになり、大者は名分を守るのに従うことを許しながら、二変して朋党をなすのです。そのため人を用いるのには身分の高い低いで落第にすべきではなく、身分の高い低いに序列があるからといって、簡単に閑職に追いやるべきではなく、天下の士は必ず心の中で己の品徳を修養するよう刻んでいるから、政務や刑罰はおのずから清廉となり、これは興衰の大事な部分なのです。」 急に左補闕に昇任した。張九齢は人才を見抜く能力をもっていた。吏部が抜萃と被推挙者を試験する場合、いつも右拾遺の趙冬曦と席次を考査し、ゆきとどいて公平だと評判された。司勲員外郎に転任した。当時張説が宰相であったが、彼をいつくしみ大事にし、同じ張姓というので同族扱いをした。常に「わが家の若者は、文学者仲間の第一人者だ」といっていた。中書舎人内供奉に昇任し、曲江の男爵に封じられた。中書舎人に進んだ。そのころ、玄宗は泰山で封禅を行った。張説は門下省の録事と中書省の主書それに身近な部下を泰山に連れて行くために数多く抜擢した。特進して五品の位に登るものがいた。張九齢は詔勅を起草するときに、張説に向かっていった。「官位爵位というのは天下の公器で、徳義と人望を第一とし、功労と旧識を二の次とするものです。現在、泰山に登って封禅を行い天に成功を報告しようとしており、千年に一度の大典です。それなのに高潔な人々は格別の御恩から遠ざけられており、小役人の方が高官のしるしである章韍をつけるでたらめさです。詔が発布されると、四方の人々の期待を裏切ることが心配です。今、草稿をさし出すときなので、まだ変更が可能です。公はよろしく熟慮して下さい」。張説はいった。「事柄は決定ずみだ。いいかげんな議論は、気にかける必要はない」。その結果、果たして非難を受けた。御史中丞の宇文融は田法に専念していたところで、それに関連して上奏したことがあった。張説は事あるごとにそれに異議をとなえた。宇文融は彼に対しふんまんが積み重なった。張九齢はそのことについて注意したが、張説はききいれなかった。突然、宇文融に手ひどくとがめだてられ、危うく処刑されるところだった。張九齢も太常少に配置がえされ、冀州刺史として出されたが、母親が故郷を離れることを承知しないので、上表して洪州都督に変えてもらい、桂州都督に移り、嶺南按察選補使を兼任した。 以前、張説は集賢院の長だったときに、張九齢を帝の顧問となる資格があると推薦したことがあった。張説がなくなってから、天子はその言葉を思い出し、召し帰して秘書少監・集賢院学士知院事に任命した。ちょうどそのとき、渤海国王に詔勅が下されることになったが、その文書を作れるほどのものがいなかった。そこで張九齢を召してそれを作らせたが、詔を受けると直ぐに作りあげた。工部侍郎・知制誥に昇任した。度々郷里に帰って孝養をつくしたいと願い出たが、勅許されず、彼の弟の張九皋と張九章を嶺南刺史に任命し、節季ごとに馬を支給して家を見舞うことをゆるした。中書郎に昇任したが、母親の喪ため職を離れた。悲しみにたえずやつれはてた。紫芝が居間の側に生え、白鳩と白雀が庭の木に巣をかけた。その年、服喪期間をきりあげさせられ、中書侍郎同中書門下平章事(宰相)に任命された。固辞したが、許されなかった。翌年、中書令に昇進した。初めて河南に水を開くことを建議し河南稲田使を兼任させられた。年功序列の廃止とふたたび十道採訪使を設置することをした。 李林甫は学問がなかったので、張九齢が文章によって帝の知遇を受けているのを見て、心中を嫌った。たまたま范陽節度使の張守珪が可突干を斬る功績を立てたので、帝は彼を侍中にとりたてたいと思った。張九齢はいった。「宰相とは天に代わって万物を治めるものです。しかるべき人がいて、始めて任命するもので、功績のほうびとして与えるべきではありません。国家の失敗は、官吏のまちがった任命から起こります」。帝はいった。「宰相の名をかすのだが、どうかね」。答えて「名義と器物はかすべきではありません。東北の二蛮族(奚と契丹)を平定するようなことがありましたなら、陛下は侍中の上に何をつけ加えられますか」。かくて中止になった。また、涼州都督の牛仙客を尚書にとりたてようとした。張九齢はあくまでも反対した。「いけません。尚書は昔の納言です。唐朝では元大臣を起用する場合が多いのです。そうでないとしても、内外の高官を歴任しすぐれた徳義人望を有するものを、それにとりたてます。牛仙客は黄河・湟河流域の一地方官に過ぎません。大臣の一員となれば、天下はいったい何ととりざたしましょうか」。さらに実際の領地を賜与しようとした。張九齢はいった。「漢の法律では、功績があるのでなければ、領地を与えませんでした。唐が漢の法律を活用することは、太宗の定められた規則です。国境地帯の将軍が穀物絹帛を貯え、兵器具に手入れすることは、職務からいって当然のことに過ぎません。陛下がどうしても彼にほうびを授けるおつもりなら、金と帛を下賜されればよろしいことです。土地をさいて領土を与えることは、絶対によろしくありません」。帝は腹を立てていった。「牛仙客の出身が賎しいから、彼を毛嫌いするのではないか。卿は実際もとから名門だとでもいうのかね」。張九齢は頭を地につけて辞儀をしていった。「臣はさいはての地より参った孤独の身です。陛下にはうっかり文学者として臣の採用をゆるしになりました。牛仙客は小役人から抜擢されまして、書物を読んだこともございません。韓信は淮陰の一壮士でありましたが、周勃・灌嬰らと同列になったことを恥としました。陛下がどうあっても牛仙客を起用されるならば、臣は実際それを恥と考えます」。帝は不気嫌だった。翌日、李林甫が参内して申しあげた。「牛仙客は宰相の器です。それを尚書になることが無理だというのでしょうか。張九齢は文官で、古くさい道理にこだわって、本筋を見失っているのです」。帝はこの発言によって牛仙客起用を決定してためらわなかった。張九齢は帝の気持ちに逆らってからは、全く心中に危惧し、かくては李林甫に陥し入れられる結果となるのを心配した。帝が白羽扇を賜与された機会に、賦を献上して扇に託して心境を述べた。その末句に「いやしくも効用の所を得れば、身を殺すといえども何をか忌まん」とあり、また「たとい秋の気の移奪するも、ついに恩を篋の中に感ず」とあった。帝はねんごろなお言葉で答えられたが、けっきょくは尚書右丞相の資格のままで政権から退け、牛仙客を起用した。それ以後、朝廷の官僚たちは俸禄を大事にして天子の恩寵をそこなわないようにした。以前、張九齢は長安尉であった周子諒を推薦して監察御史としたことがある。周子諒は牛仙客を弾劾したが、その上奏文の中に讖緯の書を引用した部分があった。帝は怒り、政事堂において周子諒を杖で打たせたうえ、瀼州に流したが、彼は道中で死んだ。張九齢は不適当な者を推挙したかどで、荊州長史に降等された。まともな行為によって左遷されたにもかかわらず、怨みの念にとりつかれて悲しむこともなく、ただ文学歴史を楽しみとして過ごした。朝廷ではその名声を認めて、しばらくしてから始興県伯にとりたてた。彼は郷里に帰って墓守りをすることを願い出たが、病気でなくなった。六十八歳であった。荊州大都督を追贈された。諡は文献という。 張九齢はひよわな体質で、おくゆかしい人であった。慣例によると、高級官僚はみな笏を帯にはさんでから馬に乗ったが、張九齢だけはいつも人にそれを持たせていた。そのため笏袋を設けたが、それは張九齢から始まる。以後、帝が人を起用するとき、必ず「ものごし態度は張九齢みたいになれるかね」と訊ねるのが例であった。以前千秋節のとき、公・王がたはいずれも宝の鑑を献上したが、張九齢は「千秋金鑑録」と名づける事がらの鑑となるべき十章の書を献上して諷諭の意を述べた。厳挺之・袁仁敬・梁昇卿・盧怡と仲がよく、彼らが終始変わらぬ交友関係を保ったことを、世間では称賛した。宰相となると、ずけずけと発言して大臣の節義があった。その当時、帝は在位も長く、次第に政治をおろそかにしだした。従って張九齢の議論は必ず善悪を遠慮なく指摘し、推挙する人物はすべてまともな人々だった。武恵妃が皇太子李瑛を陥し入れようとたくらんだとき、張九齢はあくまでも反対した。武恵妃はひそかに宦奴の牛貴児を彼のもとにやっていわせた。「廃されるものがおれば必ず起用されるものがおります。公が加勢して下されば、宰相の位に長くおれましょう」。張九齢はどなりつけた。「奥向きのものが、どうして外に口をはさむのです」。急遽そのことを奏聞した。帝はそのため表情を変えた。おかげで張九齢が宰相である間は、皇太子に災厄は起こらなかった。安禄山が初めて范陽偏校下級士官として参内して上奏したとき、おごりたかぶった気色だった。張九齢は裴光庭に向かっていった。「幽州を乱す者は、このえびすのひよっこだ」。安禄山が奚・契丹を討伐して敗れた時、張守珪は逮捕して都に行った。張九齢はその間の事情を書き記して述べた。「司馬穰苴は出陣するとき、遅刻した荘賈を処刑しました。孫武は模擬戦のときですら、兵士として使った宮女を死刑にしました。張守珪が軍法とおり厳正に執行するならば、安禄山は死を免れるべきではありません」。帝はききいれず、安禄山をゆるした。張九齢はいった。「安禄山は狼の子で荒々しい心のままで、反逆の相があります。事件を利用して彼を処刑して、将来の禍根を絶つべきだと存じます」。帝はいった。「卿は王衍が石勒の下ごころを知っていたためしにならおうとして、忠良の人を害してはならんぞ」。けっきょく採用されなかった。帝はのちに蜀にいるとき、彼の忠義を思いかえし、彼のため涙を流した。その上、使者を韶州に派遣してお祭りをし、手厚い贈り物を送って彼の家族を慰問した。開元(713-749)以後、天下の人は曲江公と称号でよび、名まえをいわなかったという。建中元年(780)、徳宗は彼の風格を評価して、更に司徒を追贈した。 子の張拯は、父の喪にあって節行があり、後に伊闕令となった。安禄山が河州・洛州を陥落させたが、終に偽官を受けなかった。賊が平定されると太子賛善大夫に抜擢された。張九齢の弟張九皋もまた名を知られ、嶺南節度使でおわった。その曾孫に張仲方がいる。 張仲方は、生まれたときから優れており、父の友の高郢は面会して、普通の人ではないと思い、「この子は必ず国の器となるだろう。私が高官になれたら、必ず引き立てよう」と言った。貞元年間(785-805)、進士・博学宏辞科に推薦され、集賢校理となったが、母の喪に遭って辞職した。当時、高郢が御史大夫を拝命し、上表して御史となった。累進して倉部員外郎となった。 当時、呂温らが宰相の李吉甫を弾劾したが証拠はなく、罪とされて排斥され、張仲方は呂温の与党であったから、金州刺史に補任された。宦官が民間の田を奪い、張仲方は三度上疏して明らかにし、ついに民間有利の裁決となった。京師に入って度支郎中となった。李吉甫が卒すると、太常は諡を恭懿とし、博士の尉遅汾清は諡を敬憲とし、張仲方は以前の恨みをかかえてまだやむことがなかったから、そこで議を奉って「古の諡は、大節を考え、細かい行いを略し、善悪が一言で足るようになっています。李吉甫を考えてみますに、多芸多才でしたが、君側に媚び、別人に取り入って自分の安全をはかり、重ねて高官となり、信は少なく謀は安直で、事は成功しませんでした。また兵は凶器であり、こちら側から開戦すべきではありません。罪を討伐するには、迎撃して必ず功績をなすのです。内に輔臣を害する賊がおり、外に害毒を懐く災いがあるのです。兵士は野に暴れ、敵の馬は郊外で生息しています。皇帝は職務多忙のため夜食と夜着で過ごすことになり、公卿・大夫もまた恥じ入り、農民は田畝におらず、糸紡ぎ婦には桑が得られないのです」と述べた。また又言、「李吉甫は平易かつ柔和で、名は配行でありません。願うところは、蔡が平定されるのを待って、その後に議論することです」と申し上げたが、憲宗は兵を用いようとしており、発言に悪意があるのを憎んで、貶して遂州司馬とした。しばらくして河南少尹、鄭州刺史に昇進した。 敬宗が即位すると、李程が宰相となり、引き立てられて諌議大夫となった。帝は当時、王播に詔して競舟三十艘を造船させたが、半年分の運費を用いた。張仲方は延英殿で謁見し、厳しく論じたてたから、帝はそのため三分の二に減らした。また詔して華清宮に行幸することとなったが、張仲方は「万乗の君が行かれる際には、必ず儀仗の兵を備えなければなりません。簡易にすれば威重を失います」と述べた。意見に従わなかったが、慰労された。鄠県の令の崔発は宦官を辱めて獄に繋がれ、大赦となっても許されなかった。張仲方は「恩は天下にこうむると、昆虫にも流れるものですが、御前の場合は行われないのでしょうか」と言ったから、崔発はこのため死なずにすんだ。大和年間(827-835)初頭、京師から出されて福建観察使となった。召還されて、左散騎常侍に昇進した。李徳裕が宰相になると、太子賓客の地位で東都分司となった。李徳裕が罷免されると、再び常侍を拝命した。 李訓の変で、大臣はある者は誅殺され、ある者は拘禁された。翌日、群臣が宣政殿で謁見しようとしたが、宮殿は開かなかった。群臣はバラバラに朝堂に立ち、衛兵の門が開いていなかったため、しばらくすると半扉が開いたが、使者が張召仲に伝えて「詔があった。京兆尹となるべし」と言い、その後門が開き、天子がお出でになる合図があった。その説き、宰相や将軍が皆殺しとなり、頭や脚があちこちに転がっており、張仲方は密かにその死体が誰であるのか識別するために使者を派遣した。にわかに埋葬が許可されると、そのため遺体に混乱が生じなかった。すでに禁軍は横行し、多くが政治に干渉し、張仲方はこれを嫌ったが、弾劾することができなかった。宰相の鄭覃は京兆尹を薛元賞と交替させ、京師から出されて華州刺史となった。召還されて京師に入り、秘書監を授けられた。人々は鄭覃が李徳裕を助けて、張仲方を追い出して用いなかったと言った。鄭覃はそこで丞・郎に任命しようと上奏した。文宗は、「侍郎は、朝廷の花形である。彼の刺史はとくに功績もないから、任命すべきではない」と言ったが、ただ曲江県伯に封じた。卒し、七十二歳であった。礼部尚書を追贈され、諡を成という。張仲方は実直で風骨節操があったが、すでに李吉甫の諡を論駁しており、世間はその発言を修正しなかったから、ついに名声が現れなかったのだと言い、没すると、人々の多くは悲しんだ。 それより以前、高祖が隋に仕えていた時、太宗は幼くして病となったから、そのため玉像を熒陽の寺院に刻んで、毎年祈祷していたが、しばらくして削れてわからなくなってしまい、張仲方が鄭州にいたとき、吏に命じて守らせ、石を刻んで上奏し、当時広く伝わった。 韓休は、京兆長安県の人である。父の韓大智は、洛州司功参軍で、その兄の韓大敏は、武后に仕えて鳳閣舎人となった。梁州都督の李行褒は居民に謀反を告発され、詔して韓大敏に審理させた。ある人が「李行褒は李氏の一族で、武后は除きたいとの思いがあるのだろう。その冤罪をつくることなければ、恐らくはあなたに累が及ぶであろう」と言ったが、韓大敏は、「どうしてこの身を顧みて人の罪に捻じ曲げて殺すことがあろうか」と言い、そのため証拠事実のまま判決を出した。武后は怒り、御史を派遣して再審し、ついに李行褒を殺して、韓大敏は家で死を賜った。 韓休は文章を巧みにし、賢良方正科に推挙された。玄宗がまだ東宮であった時、国政の対策を箇条書きにさせ、校書郎の趙冬曦とともに成績は乙科にあたり、左補闕、判主爵員外郎に抜擢された。昇進して礼部侍郎、知制誥となった。京師から出されて虢州刺史となった。虢州は洛陽・長安の近州であり、乗輿が来る場所で、常に厩の秣が税となったから、韓休は賦を他の郡と同じくするよう願った。中書令の張説は「虢州が免除されて他州に与えられるのなら、これは刺史となった臣が私に恩恵を与えるだけになる」と言ったが、韓休は再び議論をとりあげたから、吏は宰相の意にさからうことを恐れると言った。韓休は、「刺史は幸運にも民の弊害を知ったのに救わなかったなら、どうして政務ができようか。罪を得たとしても、甘んじて罰を受けよう」と言ったが、ついに韓休の要請の通りとなった。母の喪があけ、服喪がとけると、工部侍郎、知制誥となった。尚書右丞に遷った。侍中の裴光庭が卒すると、帝は蕭嵩に勅して代わりとなる者を推薦させ、蕭嵩は韓休の志や行いを称え、遂に黄門侍郎、同中書門下平章事(宰相)を拝命した。 韓休は公正で行動につとめず、宰相となると、天下は一致してよしとした。万年県の尉の李美玉に罪があり、帝は嶺南に放逐しようとした。韓休は「尉は微官で、犯した罪は大悪ではありません。今、朝廷に大奸がいて、先にこちらを治めてください。金吾大将軍の程伯献は天子の恩寵をたのんで貪欲で、自宅に輿や馬があって法度をおかしていますので、臣は先に程伯献を、後で李美玉を裁くことを願うのです」と言ったが帝は許さず、韓休は強く争って「罪が小さいのに容赦しないのに、巨悪であったなら差し置いて問わない、陛下が程伯献を追放しないのでしたら、臣もあえて詔を奉りません」と言い、帝は韓休の考えを換えさせることができなかった。大体お堅く正直な様子はこのようであった。それより以前、蕭嵩は韓休が物腰柔らかく平易な人物であったから、推薦した。韓休は事に臨んではある時は蕭嵩を糾弾したから、蕭嵩とは不和となった。宋璟はこれを聞いて「意とせず韓休がこのようであったなら、仁者の勇だな」と言い、蕭嵩は寛容で多くを受け入れたが、韓休は厳正剛直で、時政の得失は、これを言うのに徹底しなかったことはなかった。帝はかつて苑中で狩猟し、ある時は大いに楽を演奏し、しばらく贅沢をしていると、必ず左右に向かって、「このことを韓休は知っているか」と尋ね、すでに韓休の上疏がたちまち到着していた。帝はかつて鏡の前で、黙って楽しまなかった。左右の物が「韓休が朝廷に来てから、陛下は一日も喜びがなく、どうして御自ら憂い悲しまれて、韓休を追放しないのですか」と尋ねると、帝は「私は痩せていっても、天下は肥えていく。また蕭嵩は何か言うごとに、必ず私の意見に従うが、我は退いて天下のことを思うと、不安で寝られない。韓休が政治の道を述べると、多くを議論し、私は退いて天下のことを思うと、安心して眠れるのだ。私が韓休を用いるのは、社稷の計のためなのだ」と言った。後に工部尚書で罷免された。太子少師に遷り、宜陽県子に封ぜられた。卒し、年六十八歳であった。揚州大都督を追贈され、諡を文忠という。宝応元年(762)、太子太師を追贈された。 子の韓浩・韓洽・韓洪・韓汯・韓滉・韓渾・韓洄は、全員学問があって尊ばれた。 韓浩は、万年県主簿となったが、王鉷の家が財貨を隠したのに連座したから、京兆尹の鮮于仲通に弾劾され、循州に流された。韓洪は司庫員外郎となったが、韓汯も一緒に全員連座して貶された。韓洪は後に華州長史となった。韓渾は、大理司直となった。安禄山の反乱軍が京師に侵攻すると、皆賊に捕らえられ、賊は官につくよう迫ったが、韓浩は韓洪・韓汯・韓滉・韓渾とともに出奔し、行在まで逃走しようとしたが、韓浩・韓洪・韓渾および韓洪の四子は再び賊に捕らえられて殺された。韓洪は人と交わるのをよくし、節義があり、当時最も評判が高く、見る者は涙を流した。粛宗は大臣の子で難事に死んだ者をよしとし、詔して韓浩に吏部郎中を、韓洪に太常卿、韓渾に太常少卿を追贈した。韓汯は上元年間に諌議大夫で終わった。韓洽は、殿中侍御史で終わった。 韓滉は、字は太沖で、蔭位によって左威衛騎曹参軍に補任された。至徳年間(756-758)初頭、山南に避難し、采訪使の李承昭が上表して通川郡長史とし、彭王府諮議参軍に改められた。それより以前、韓汯が知制誥となり、王璵への詔の草稿をつくるにあたって、古典よりの借言がなかったため、恨まれた。王璵が宰相となると、韓滉の兄弟は全員冗官に退けられた。王璵が罷免されると、そこで殿中侍御史に抜擢され、三遷して吏部員外郎となった。性格は強直で、吏の事務に精通し、南曹にいること五年、帳簿に最も詳しい人物となった。給事中に遷り、兵部の選抜試験の責任者となった。当時、富平県令の韋当が盗賊に殺され、賊は北軍に所属しており、魚朝恩はその凶徒に通じ、奏上して死罪を許したが、韓滉は執拗に追いかけ、ついに罪に伏した。右丞に遷った。吏部の選抜の責任者となり、戸部侍郎判度支となった。 至徳年間(756-758)より戦争が勃発してから、賦税に制限がなくなり、財務の官吏は輸送にあたって財物を横領した。韓滉は下級官吏および全国の運送を調査し、罪を犯した者は法にてらして追放とした。この数年しばしば豊作となり、軍事はやや収まり、そのため穀物や帛が山谷のように積み上がり、しばらくの間充実した。しかし公文書を再審理し、法律を厳格に適用して捜索して取り立てたから、人々はまた恨みの声をあげた。大暦十二年(777)秋、大雨により収穫への影響は十のうち八にいたり、京兆尹の黎幹が言上したが、韓滉は租税が免除されてしまうのではないかと恐れ、頑なに事実ではないと上表した。代宗は御史に命じて視察させてみると、実際には損田は三万頃あまりにのぼった。それより以前、渭南県令の劉藻が韓滉にしたがい、領内の田に損害がないと報告し、御史の趙計も査察したが、劉藻の報告の通りにし、帝がまた御史の朱敖に事実を調査させると、田の損害は三千頃であった。帝は怒って、「県令は民を養うのが職務であって、田の損害を不問としたら、どうして百姓の辛苦を心配できようか」と言い、劉藻を南浦員外尉とし、趙計もまた豊州司戸員外参軍に左遷された。まさにこの時、長雨で黄河が結界して塩池に注ぎ込んだが、韓滉は池が瑞塩を産んだと上奏した。帝は疑い、諌議大夫の蒋鎮を派遣して事由を調査させたが、蒋鎮は韓滉を恐れ、戻ってそこで帝に祝賀して、また祠を設置することを願い、詔して宝応霊慶池と名付けた。 徳宗が即位すると、韓滉が民の財物を搾り取るのを嫌って、太常卿に遷した。議論する者は満足しなかったから、そこで京師から出して晋州刺史とした。しばらくもしないうちに、浙江東西監察使に遷り、ついで検校礼部尚書として鎮海軍節度使となった。百姓を慰撫し、租・調を公平に実施すると、一年もしないうちに、領内での統治が称えられた。帝が奉天にあって、淮・汴が騒動となると、韓滉は兵卒を訓練し、兵を分けて河南を守った。帝が梁州に行くと、また縑十万匹を献上し、鎮兵三万を以て賊の討伐の助けとするよう願い出ると、お褒めの詔があり、検校尚書右僕射に昇進し、南陽郡公に封ぜられた。李希烈が汴州を陥落させると、韓滉は部将の王栖曜・李長栄・柏良器に精兵一万人を率いさせて討伐に進撃させ、睢陽に至ると、賊はすでに寧陵を攻撃しており、王栖曜らは打ち破って賊を敗走させ、運送路は塞がることなく、東南の安全を全うできたのは、韓滉の功績が大きかった。 当時、里長が有罪となると、たちまち殺されてしまい、許されることはなかった。人々はこれを怪訝に思った。韓滉は「袁晁はもともと一鞭を持った小役人にすぎなかったが、賊を捕らえては衆望をあつめ、その類を集めて叛乱をおこし、これらの輩はすべて郷県の凶徒であって、殺すにこしたことはない。年少の者を用いれば、身を惜しんで家を保つから悪事をしない」と言った。また賊は牛酒がなければ集まって盗となることができないから、牛を屠ることを禁止し、その謀を絶やした。婺州の属県で法令を犯す者がいて、誅殺は隣伍(隣組)二及び、連座で死んだのは数十数百人に及んだ。また役人を派遣して境内を分けて査察させ、罪は嫌疑がかかれば必ず誅殺し、一度の裁判でたちまち数十人にもなったから、下々の者は皆恐怖した。 京師がまだ平定されていないことを聞いて、関所と橋梁を閉鎖し、牛馬が境から出ることを禁止し、石頭の五城を築城することは京口から玉山までであった。上元県の道観・仏寺四十箇所を破壊し、壊れた城壁を修築し、建業から京峴まで城墻から望見できるようにした。朝廷に晋の永嘉南遷のような事がおこると思い、館邸数十を石頭城に設置し、井戸を掘削することすべて百尺に及んだ。部将の丘涔に命じて徭役を監督させ、毎日数千人、丘涔はその衆を虐待し、朝で命令して夕には完成し、先代の墳墓はすべて暴かれた。楼艦を建造すること三千柁、舟師(水軍)を海門で大閲兵し、申浦から帰還した。李長栄らを追って帰還し、側近の盧復を宣州刺史とし、堡塁を増設し、演習して兵器に熟達し、鐘を壊して軍器を鋳造した。陳少游は揚州にあって、兵士三千で江に臨んで大規模な閲兵を行い、韓滉もまた兵士を総指揮して金山に臨み、陳少游と会同し、金や絹を互いに贈りあった。しかし韓滉は精兵を掌握していたが、出発を延長して国難に赴かず、兵糧を徴発し朝廷を救う者と結びつきを強め、当時の人はこれを頼った。李晟は渭北に駐屯しており、韓滉は米を運送して贈り、船に十弩を設置して警備したから、賊は脅かすことができなかった。それより以前、船を操船して江に臨み、韓滉は属官に向かって、「天子が宮中を出て流浪することになったのは、臣下の恥である」と言い、そこで自ら一袋を背負い、将校も争って背負った。 貞元元年(785)、検校左僕射を、同中書門下平章事(宰相)、江淮転運使を加えられ、鄭国公に封ぜられた。石頭城を修造し、人々はかなり謀略をめぐらせていると言っており、帝であってもまたその言に惑わされた。当時、李泌が難儀しながらも弁解の訴えをしたから、帝の誤解は解けた。貞元二年(786)、晋国公に改封された。この年入朝した。韓滉は既に熟達の宿老であって、非常に志が大きくて人に高ぶり、新入りに接して用いても、その意を満足させることができず、衆はこれを恨んだ。羨銭五百万緡あまりを献上し、詔して度支諸道転運、塩鉄等使を加えられた。 右丞の元琇が判度支となると、関内の旱を調査し、江南の租米を運んで西は京師に供給するよう願った。帝は韓滉に委ねて監督を一任したが、元琇は韓滉の剛直が一緒に仕事するのが難しいことを恐れ、長江より揚子江まで、韓滉が担当し、揚子江から北は、元琇自身が担当することを願った。韓滉はこれによって元琇を愚かな人間であるとした。たまたま元琇が京師では銭重貨軽(銭納の税納者よりも物納の税納者の方が負担が大きいこと)であって、江東塩監院を出発した銭四十万緡が関中に入った。韓滉は欺いて「銭を運送して京師まで持ってくれば、費用は一万あたり千にも及ぶので、従ってはなりません」と奏上したから、帝は元琇に叱責した。元琇は「千銭はその重量は米一斗と同じで、費用は三百ほどでしょう」と言ったから、帝は韓滉を諭したが、韓滉はあくまでも反対した。ここにいたって、元劾は米を淄青の李納、河中の李懐光に贈ったと誣告された。帝は怒り、再審を行わず、元琇を降格して雷州司戸参軍とした。左丞の董晋が宰相の劉滋と斉映に向かって、「昨年、関中では軍事を援助しました。当時、蝗害や旱魃となりましたが、元琇は一賦も増税せず、戦時体制をすべて支援しました。これを労臣というべきでしょう。今罪名なく流刑とされ、刑罰はしきりで人心を恐れさせています。たとえ権臣の思い通りのままになっても、公はどうして三司の審問を要請しないのですか」と言ったが、劉滋と斉映は採用することができなかった。給事中の袁高が皇帝に直言して申し上げたが、韓滉は党派による訴えであると誣告したから、次第に用いられなくなった。 劉玄佐が入朝せず、帝は密に韓滉に詔して入朝を勧めさせた。汴州を通過すると、劉玄佐は最初から韓滉を憚り、属吏に礼で出向かえさせた。韓滉はそれには当たらないと辞退し、そこで兄弟の契を結び、劉玄佐の母親に拝礼し、酒席を設けて女楽を演奏させた。がすすむと、韓滉は、「速やかに天子に謁見すべきだ。夫人の白首と新婦や子孫を宮掖の奴とさせてはならない」と言うと、劉玄佐は泣いて悟った。韓滉は銭二十万緡を劉玄佐のための旅の準備金としてやり、また綾(あやぎぬ)二十万で軍を労った。劉玄佐が入朝すると、韓滉は辺境の軍事に任用すべきであると推薦した。当時、両河地域では兵乱がやみ、韓滉は上言して、「吐藩は河湟を長らく根拠としていましたが、近年次第に弱くなり、しかし西には大食が、北は回鶻を防ぎ、東は南詔に抗い、軍を分けて外戦し、兵は河隴にあっては五・六万を数えるに過ぎず、もし朝廷が将に命じて、十万の軍で城州・涼州・鄯州・洮州・渭州にそれぞれ兵二万を置いて防御すれば、臣が願うところは、本道の財物で軍に送り、三年の費えを給付し、その後田を営んで収穫された粟を積み上げ、耕しては戦うことです。そうすればつま先立てて待ち望んだ河隴の地の回復ができるのです」と述べ、帝はその上申をよしとし、そこで劉玄佐を訪れ、劉玄佐の行くことを願った。たまたま韓滉が重病となり、張延賞は州県の冗官を減員して、俸禄を収公し、戦士を募って西へ討伐するよう奏上した。劉玄佐は張延賞が、備蓄が減るのを物惜しみしており、また犬戎がまだ弱体化しておらず、軽々しく進撃すべきではないからと辞退し、そのため病と称した。帝は宦官を派遣して慰問し、劉玄佐は臥して命を受けた。張延賞はこのことを知って劉玄佐を用いるべきではないとしたから、沙汰止みとなった。韓滉はついで卒し、年六十五歳であった。太傅を追贈され、忠粛と諡された。 韓滉は宰相の子であったが、性格は節倹で、衣服や毛布は十年に一度変える程度であった。非常に暑くても扇をとらず、住むところは粗末で、庇で風雨を防ぐ程度であった。門には戟を並べ、父の時の邸門であったから毀すのに忍びず、そのため修復を願わなかった。堂の先とは庇で接続されておらず、の弟の韓洄がようやく増設すると、韓滉は見て即座に撤去させ、「先君が受け入れられたものは、我らが奉らなければならず、常に失墜するのではと恐れている。もし倒壊したら、修理すればすむのであるから、どうしてあえて改作して倹徳を傷つけるのか」と言った。朝廷の重職にあって、潔癖で悪を憎み、家族のために資産をなさなかった。仕官の始めから将相に至るまで、五匹の馬に乗るだけで、飼い葉桶のもとに繋ぐだけであった。鼓や琴を好み、書は張旭の筆法を得て、画は宗族の人の韓幹と双璧をなした。かつて自ら「定筆することができなければ、書画を論じるべきではない」と言い、急務ではないから、自らひた隠しにし、人に伝えなかった。よく『易』・『春秋』を修学し、『通例』および『天文事序議』各一篇を著した。はじめて判度支となると、李晟は裨將に軍事のことを上申させると、韓滉はこれに答申した。李晟は礼を加え、その子に拝礼させ、器物や鞍・馬を贈った。後に李晟は終に大功を立てた。韓滉は幼い頃からすでに名声があり、交友するところはすべて天下の豪俊であった。晚年はますます苛烈かつ残酷となり、そのため論ずる者は自身の本意が行いによって悪く言われているのは、目的のための手段ではなかったかと疑っていた。すでに志を得て、そこで独断専行するようになったのは、思うに自然とその性格の現れであったのだろう。子に韓群・韓皋がいる。 韓群は国子司業で終わった。韓皋の字は仲聞で、人格は重厚で、大臣の器があった。雲陽県の尉から賢良方正異等科に及第して、右拾遺を拝命した。累進して考功員外郎に遷った。父を喪うと、徳宗は使者を派遣して弔問し、父韓滉の行状の事を論述させ、号泣して命を承諾し、数千言の草稿を書いて進上し、帝はお褒めの言葉を賜った。喪があけると、宰相は考功郎中に任命しようとしたが、帝はさらに加えて知制誥とした。中書舎人、御史中丞、兵部侍郎に遷り、仕事ぶりを称えられた。にわかに京兆尹を拝命した。奏上して鄭鋒を倉曹参軍に任命した。鄭鋒は苛斂誅求な役人で、そこで韓皋に、徹底的に府中の雑銭を探し求め、これで強制的に粟麦三十万石を買い上げて帝に献上することを説き、韓皋は喜び、奏上して興平県令とした。貞元十四年(798)、大旱魃となり、民は租賦税の免除を願い出たが、韓皋は京兆府の金庫がすでに空っぽであったから、心の中で心配かつ恐れ、奏上してあえて事実を言わなかった。たまたま宦官が出くわした際に、百姓が道を遮って訴えたから、事案が上聞され、撫州員外司馬に貶された。しばらくもしないうちに、杭州刺史に改められ、京師に入って尚書右丞を拝命した。王叔文が政権を掌握すると、韓皋はこれを嫌い、ある人に向かって、「私は新入りで偉くなった奴なんかに仕えることはできない」と言い、それを従兄弟の韓曄が王叔文に告げたから、王叔文は怒り、京師から出されて鄂嶽蘄沔観察使となった。王叔文が失脚すると、節度使を拝命し、鎮海節度使に遷り、京師に入って戸部尚書となり、東都留守、忠武軍節度使を歴任した。大抵、簡素かつ倹約で仕事をし、至るところで実績があった。召還されて吏部尚書を拝命し、太子少傅を兼任した。荘憲太后が崩ずると、大明宮留守となった。穆宗はもと太子少傅であった恩から、検校尚書右僕射を加えられた。また左僕射に昇進した。長慶四年(824)、再び東都留守となったが、赴任の道中に卒した。年七十九歳で、太子太保を追贈され、諡を貞という。 韓皋の容貌は父に似ていたが、父を失うと、見て鑑とするものはなかった。生来音律を知り、常に、「長年、後々まで音楽を聴きたいとは願わなかった。なぜなら門内の事は多く逆にこれを知ったからだ」と言っていた。鼓・琴を聞いて、「止息」まで至ると、嘆いて、「なんと素晴らしいのだろうか。嵆康がこの曲をつくったのは、当時晋の時代になろうとしていて、魏の終焉期であったのだ。その音域は商を主調としていて、商は音が秋と一緒であり、秋は天がまさに寒々として草木が枯れ落ちていくところで、その年が終わろうとするのだ。晋は金運に乗じ、商もまた金声であり、これは魏が末期で晋がまさに代わろうとしているからなのである。その商弦を緩めると、宮音と同音になり、臣が君権を奪うという意味になり、司馬氏が簒奪しようとしているのを知るのだ。王陵・毌丘倹・文欽・諸葛誕が相次いで揚州都督となり、全員が魏を復興させようとの謀があったが、全員司馬懿父子に殺された。嵆康は揚州がもと広陵の地であり、王陵らは全員魏の大臣で、だからその曲を名付けて「広陵散」とし、魏が滅亡するのは広陵から始まるのだと言うのだ。「止息」は、晋が突然勃興しても、終にはここに止息するのを言うのだ。その哀憤、焦りと苦しみ、哀悼、逼迫の音は、ここに尽きるのだ。永嘉の乱はその兆しなのか。嵆康が晋・魏の禍いを避け、自身の身を鬼神に託したのは、後世が音を知るのを待ったからだろうか」と述べた。 韓洄は、字は幼深で、蔭位によって弘文生となり、任期が満了で、吏部侍郎に任じられ、達奚珣が家柄と声望があるから抑圧した。章懐太子陵令に任じられたが、怒りの顔色を見せなかった。安禄山が叛乱をおこすと、韓家の七人は殺害され、韓洄は難を江南に逃れ、菜食して音楽を聴かなかった。乾元年間(758-760)、睦州別駕に任命され、劉晏は上表して屯田員外郎とし、知揚子留後となった。召還されて諌議大夫を拝命し、補闕の李翰とともにしばしば奏上して得失を申し上げ、知制誥に抜擢された。元載と親しかったのに連座し、邵州司戸参軍に貶された。徳宗が即位すると、起用されて淮南黜陟使となり、再度諌議大夫となった。 劉晏が罪に伏し、天下の銭穀といった財政のことは尚書省に帰属することになったが、省司は廃止されてから久しく、綱紀はなく、その任を統括する者がいなかった。そこで韓洄を抜擢して戸部侍郎、判度支とした。韓洄は上言して、「江淮七監は、毎年銭四万五千緡を鋳造して京師に運んでおり、巧みに運送しても、運送費用は緡ごとに二千にもなり、これは元本に対して利子が二倍になるのです。今、商州の紅崖冶で銅を算出していますが、洛源監が長らく廃止されています。願うところは山を掘って銅を採取し、そこで洛源監を復活させ、十炉を設置して鋳造を行えば、毎年銭七万二千緡が得られ、費用は緡ごとに九百で、そうすれば元本を浮かすことができるでしょう。江淮七監は、願わくばすべて廃止されますように」と述べた。また上言して、「天下銅鉄の鋳造、山沢の利は、まさに王者に帰属すべきものであり、願わくばことごとく塩鉄使の所属とされますように」と述べ、これに従った。また胥史の余剰人員二千人を罷免し、米を長安県・万年県の二県にそれぞれ数十万石を積み、毎年の豊作・不作を見て出納させたから、そのため人々は食に苦しむことはなかった。 韓洄は楊炎と親しく、楊炎が罪を得ると、不安となったがどうすることもできず、韓皋が上疏して楊炎の罪をおさめたが、帝は韓洄にこれを教えたのだと思い、蜀州刺史に貶した。興元元年(784)、京師に入って兵部侍郎となり、京兆尹に転任した。貞元十年(794)、国子祭酒で終わり、戸部尚書を追贈された。 賛にいわく、人が事を立てるや、最初は巧みに行って、始めは鋭く、その半ばに至ると次第に怠り、ついには放縦となって振るわなくなるのだ。玄宗の開元年間(713-741)の治世を見ると、精力的に励んで治世を求め、元老は前時代の大物たちで、ややもすれば皇帝も憚るところであり、そのため姚元崇・宋璟の時は人の言うことに耳を傾け、全力で諌めても難なく功績がなったのである。太平の世が長引くと、左右の大臣は皆帝自ら選んだのを知っていたから、慣れて与しやすしとした。玄宗の野心と意欲が満たされて、自己満足で独りよがりとなったのである。しかし張九齢は論争しては切羽詰まったもので、申し上げてもますます聴かれなかったのである。野心と意欲が満たされると、たちまち謀略が行われるところとなり、自己満足で独りよがりとなると、柔和で円熟であるのを楽しみ、厳しい諌めを憎んだから、全力で諌めたことが多いといっても、聞き入れられることは姚崇・宋璟の時から遠く及ばないのである。ついに胡の小人どもに中華を乱され、身をもって辺境に逃れたのは、天運であるというのは違っており、また人事が要因であるというのが正解なのである。もし魏知古らが皆宰相に選ばれたのが、天宝年間(742-756)の時に当たっていたのなら、どうしてよく救うことができただろうか。 前巻 『新唐書』 次巻 巻一百二十五 列伝第五十 『新唐書』巻一百二十六 列伝第五十一 巻一百二十七 列伝第五十二