約 576 件
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/204.html
←巻八十二 列伝第七 徳宗に十一子があった。昭徳皇后は順宗皇帝を生み、帝は昭靖太子の子の李誼を取って第一子とし、また順宗の子の李謜を取って第六子とした。のこりの八王は、その母の氏と位について記録が失われている。 舒王李誼は、初めの名を李謨といった。帝はその幼さを可愛がり、取りたてて自分の子とした。大暦十四年(779)に始めて舒王となり、通王・虔王・粛王・資王の四王とともに同じく封ぜられた。開府儀同三司を拝命し、役人に詔して奉給を与えることとしたが、にわかに戦争がおこったから取りやめとした。李謨は諸王のなかでも最も年長で、帝は軍事を試みようとして、そのため涇原節度大使を拝命した。当時、尚父郭子儀は病が重く、帝は前殿に御して李謨に詔を持たせて見舞いさせた。李謨は遠游冠を被り、絳袍を着て、四頭引きの象輅(四輅車の一つ)に乗り、飛龍兵三百、国府官は全員裾褶で従った。郭子儀は自ら叩頭して謝恩した。李謨は詔を宣し終わると、服を着替えて慰労し、帰還した。 ここに李希烈が叛き、招討使李勉は戦うも勝てず、宋州に敗走し、朝廷は大いに震撼した。そこで李謨を揚州大都督・荊襄江西沔鄂節度使・諸軍行営兵馬都元帥に任命し。李誼と改名した。軍中では哥舒翰が元帥であったのに敗れたから、王が封ぜられたところで同じであろうとみなした。帝はそこで普王に移封した。兵部侍郎の蕭復を統軍長史とし、湖南観察使の孔巣父を行軍左司馬とし、山南東道節度行軍司馬の樊沢を行軍右司馬とし、刑部員外郎の劉従一・侍御史の韋儹を判官とし、兵部員外郎の高参を掌書記とし、右金吾大将軍の渾瑊を中軍虞候とし、江西節度使の嗣曹王李皋を前軍兵馬使とし、鄂岳団練使の李兼を副とし、山南東道節度使の賈耽を中軍兵馬使とし、荊南節度使の張伯儀を後軍兵馬使とし、左神武軍使の王价・左衛将軍の高承謙・検校太子詹事の郭曙・検校右庶子の常愿を押衙とした。実行される前に、涇原の兵が叛き、李誼は帝に従って奉天に脱出した。朱泚が城を攻撃すると、李誼は昼夜諸軍にねぎらいを伝え、帯を解くことはなかった。帝が京師に帰還すると、再び元通りに封ぜられ、揚州大都督も元通りとなった。永貞元年(805)に薨去した。 通王李諶は、始めて王となると、開府儀同三司を拝命した。貞元九年(793)、宣武節度大使を領し、李万栄を留後とし、二年して河東にうつり、李説を留後としたが、いずれも宮中から出なかった。 虔王李諒は、王に封ぜられて開府儀同三司を拝命した。貞元二年(786)、蔡州節度大使を領し、呉少誠を留後とした。貞元十年(794)、朔方霊塩節度使に遷り、李欒を留後とした。翌年、横海軍節度使を領し、また徐州に遷った。程懐信・張愔を留後とした。宮中から出なかった。 粛王李詳は、性質は優れ、帝に愛された。建中二年(781)に薨去し、わずか四歳であった。帝は仏教の説を用いようとし、塔のみで墳をつくらなかったが、礼儀判官の李岧が非礼を諌めたから沙汰止みとした。詔して揚州大都督を追贈された。 文敬太子李謜は、帝に愛され、命により帝の子となった。貞元年間(785-805)初頭、諸王に先んじて邕王となった。義武軍・昭義軍の二軍の節度大使となり、張茂昭・王虔休を留後としたが、宮中から出なかった。貞元十五年(799)に薨去し、年十八で、追贈と諡があった。葬送の日、群臣は位次に並んで通化門の外で哭礼した。陵および廟に令・丞を置いたという。 資王李謙は、薨去した年が失われている。 代王李諲は、始め縉雲郡王となり。早く薨去すると、建中二年(781)に追って王となった。 昭王李誡は、貞元二十一年(805)に始めて王となった。薨去した年が失われている。 欽王李諤は、順宗が即位すると、珍王とともに同じく封ぜられた。薨去した年が失われている。 珍王李諴は、大和六年(832)に薨去した。 順宗に二十七子があった。荘憲皇后は憲宗皇帝および李綰を生み、張昭訓は李経を生み、趙昭儀は李結を生み、王昭儀は李総・李約・李緄を生んだ。のこりの二十王は、母の氏と位について記録が失われ、四王は早く薨去し、官・諡が失われた。 郯王李経は、もとの名は李渙といった。貞元四年(788)、始め建康郡王となり、広陵・洋川・臨淮・弘農・漢東・晋陵・高平・雲安・宣城・徳陽・河東・洛交の十二郡王とともに同じく封ぜられた。貞元二十一年(805)、また均王・漵王・莒王・密王・郇王・邵王・宋王・集王・冀王・和王・衡王・欽王・会王・珍王・福王・撫王・岳王・袁王・桂王・翼王の二十王とともにみな王に進んだ。王となって二十九年、大和八年(834)に薨去した。 均王李緯は、初めの名を李沔といった。洋川郡王となり、のちに王に進んだ。王たること三十三年、開成二年(837)に薨去した。 漵王李縦は、初めの名を李洵といった。臨淮郡王となり、のちに王に進んだ。王たること三十二年、開成元年(836)に薨去した。 莒王李紓は、初めの名を李浼といった。秘書監となった。弘農郡王となり、のちに王に進んだ。王たること二十九年、大和八年(834)に薨去した。 密王李綢は、初めの名を李泳といった。漢東郡王となり、のちに王に進んだ。王たること三年、元和二年(807)に薨去した。 郇王李総は、初めの名を李湜といった。少府監に任ぜられた。晋陵郡王となり、のちに王に進んだ。王たること四年、元和三年(808)に薨去した。 邵王李約は、初めの名を李漵といった。国子祭酒となった。高平郡王となり、王に進んだ。王たること二年、元和元年(806)に薨去した。 宋王李結は、初めの名を李滋といった。雲安郡王となり、王に進んだ。王たること十八年、長慶二年(822)に薨去した。 集王李緗は、初めの名を李淮といった。宣城郡王となり、王に進んだ。王たること十八年、長慶二年(822)に薨去した。 冀王李絿は、初めの名を李湑といった。太常卿となった。徳陽郡王となり、王に進んだ。王たること三十年、大和九年(835)に薨去した。 和王李綺は、初めの名を李浥といった。河東郡王となり、王に進んだ。王たること二十八年、大和七年(833)に薨去した。 衡王李絢は、王たること二十二年、宝暦二年(826)に薨去した。 会王李纁は、王たること六年、元和五年(810)に薨去した。 福王李綰は、魏博節度大使をつとめた。咸通元年(860)、昇進して司空を拝命した。王たること五十七年、咸通二年(861)に薨去した。 珍王李繕は、初めの名を李況といった。洛交郡王となり、のちに王に進んだ。薨去した年が失われている。 撫王李紘は、咸通年間(860-874)初頭、司空をつとめ、また司徒・太尉に進んだ。王たること七十三年、乾符三年(876)に薨去した。 岳王李緄は、王たること二十三年、大和二年(828)に薨去した。 袁王李紳は、王たること五十六年、咸通元年(860)に薨去した。 桂王李綸は、王たること十年、元和九年(814)に薨去した。 翼王李綽は、王たること五十八年、咸通三年(862)に薨去した。 蘄王李緝は、王たること六年、咸通八年(867)に薨去した。 欽王李績は、薨去した年が失われている。 憲宗に二十子があった。紀美人は李寧を生み、懿安皇后は穆宗皇帝を生み、孝明皇后は宣宗皇帝を生んだ。のこりの十七王は、みな後宮の生むところで、その母の号と氏について記録を逸している。 恵昭太子李寧は、貞元二十一年(805)、始め平原郡王となり、同安・彭城・高密・文安の四郡王とともに同じく封ぜられた。帝が即位すると、鄧王に進み、澧王・深王・洋王・絳王の四王とともに同じく封ぜられた。 ここにおいて、国の後嗣が立てられる前、李絳らが上奏して、「聖人は天下を以て大器としていますが、天子の位は変化すべきではなく、四海は根本が変わるべきではありません。ですから太子を立てて自らの副とし、そうしてから人心が定まり、宗祠が安んじ、国に不易の常道があるのです。陛下は即位されてから四年ですが、長子はまだ立てられておらず、これは陰謀の端緒を開き、慎重の義にそむくことになり、列聖からの位を受ける理由となりません。万世に示してください」と述べ、帝は「よし」と言い、李寧を皇太子とし、名を李宙と改め、前に制によって李絳らに示した。しばらくもしないうちに、再び初名に復した。冊礼は孟夏に実施しようとしたが、雨が振り、よからずとして、改めて孟秋の実施としたが、また雨が振り、冬十月に礼を行った。翌年に薨去し、年は十九であった。 澧王李惲は、始め同安郡王となり、のちに王に進んだ。恵昭太子李寧が薨去すると、吐突承璀は議して再び皇太子を立てようとし、意は李惲にあったが、帝は自ら穆宗を太子とした。帝が崩じた夜、吐突承璀は死に、王は殺され、秘して喪は発せられなかった。しばらくして告知し、廃朝すること三日であった。三子があった。李漢は東陽郡王となった。李源は安陸郡王となった。李演は臨安郡王となった。 かつて、李惲は名を李寛といい、深王は李察といい、洋王は李寰といい、絳王は李寮といい、建王は李審といった。元和七年(812)、そろって今の名に改めた。 深王李悰は、始め彭城郡王となり、深王に進んだ。子の李潭は河内郡王となり、李淑は呉興郡王となった。 洋王李忻は、始め高密郡王となり、洋王に進んだ。大和二年(828)に薨去した。子の李沛は潁川郡王となった。 絳王李悟は、始め文安郡王となり、王に進んだ。敬宗が崩じ、蘇佐明らは詔を偽って王に軍国の事を領させた。王守澄らが文宗を立てると、王は殺された。二子があった。李洙は新安王となり、李滂は高平王となった。 建王李恪は、元和元年(806)に始めて封ぜられた。ときに淄青節度使の李師古が死に、その弟の李師道が符節を願ったから、李恪に詔して鄆州大都督・平盧軍淄青等州節度大使とし、李師道を留後としたが、宮中から出なかった。長慶元年(821)に薨去し、後嗣がなかった。 鄜王李憬は、長慶元年(821)に始めて王となり、瓊王・沔王・婺王・茂王・淄王・衢王・澶王の七王とともに同じく封ぜられた。開成四年(839)に薨去した。子の李溥が平陽郡王となった。 瓊王李悦は、子の李津が河間郡王となった。 沔王李恂は、子の李瀛が晋陵郡王となった。 婺王李懌は、子の李清が新平郡王となった。 茂王李愔は、子の李潓が武功郡王となった。 淄王李恊は、開成元年(836)に薨去した。子の李澣が許昌郡王に、李渙が馮翊郡王になった。 衢王李憺は、子の李渉が晋平郡王となった。 澶王李㤝は、子の李濘が雁門郡王となった。 棣王李惴は、大中六年(852)に始めて王となり、彭王・信王の二王とともに同じく封ぜられた。咸通三年(862)に薨去し、後嗣がなかった。 彭王李惕は、乾寧年間(894-898)に、韓建に石隄谷で殺された。後嗣がなかった。 信王李憻は、咸通八年(867)に薨去し、後嗣がなかった。 栄王李㥽は、咸通三年(862)に始めて王となった。広明年間(880-881)初年、司空に任ぜられた。子の李令平が王を嗣いだ。 合わせて八王は、その薨去した年について記録が失われている。 穆宗に五子があった。恭僖皇后は敬宗皇帝を生み、貞献皇后は文宗皇帝を生み、宣懿皇后は武宗皇帝を生んだ。のこりの二王は、その母の氏と位を失っている。 懐懿太子李湊は、若くして常に寛大で、決まりを守った。長慶元年(821)に始めて漳王となり、安王とともに同じく封ぜられた。 文宗が即位すると、王守澄が専横して、支党を引き連れて国を傾けているのを憎んで、ことごとく誅殺しようと謀り、密かに宰相の宋申錫を引き入れて計画を策定させた。王守澄の客人の鄭注は伺って謀を知って密告し、そこで謀の先手を打って宋申錫を殺そうとした。また漳王が賢く、内外の人望があったから、大臣の係累として一族皆殺しにしようと思った。そのため神策虞候の豆盧著が緊急を奏上して、「宮史の晏敬則と朱訓が宋申錫と昵懇の吏の王師文とともに反逆を企て、朱訓はかつて、お上は多病で、太子は幼く、もし兄が死んで弟が即位するようなことがあれば、必ず漳王が即位すると言っています。宋申錫は密かに財物を王に奉り、王もまた珍服で厚く報いました」と述べ、そこで朱訓らを捕らえて神策軍の獄に拘禁し、その言葉通りに言わせようと拷問を行った。諌官が集団で宮中で伏拝し、出獄させてそれ以外の組織で審判を命じるよう厳しく諌めた。鄭注らは事実が漏洩するのを恐れ、そこで詔を下して王を貶すよう願った。帝はまだ真相を悟らず、そこで李湊を退けて巣県公とした。時に大和五年(831)のことである。お上は宦官に命じて詔を持って賜い、また慰めて「国法はこのようであるが、お前は心配することはない」と述べた。大和八年(834)に薨去し、斉王を追贈された。鄭注が後に罪で誅されると、帝は李湊が讒言にあい、死んでも自らの潔白を明らかにすることができないことを哀れんで、開成三年(838)に追贈された。 安王李溶は、初め楊賢妃が文宗の寵愛を得たが、文宗が晩年病がちとなると、妃は密かに王を立てて後嗣とするよう願い、密かに自ら地を安じた。帝と宰相の李珏が謀り、李珏は不可であると述べたから、沙汰やみとなった。帝が崩ずると、仇士良が武宗を立て、自身の功績を重ねたいと考え、そこで李溶がかつて太子になろうとしたことを誣告し、殺された。 敬宗に五子があった。妃の郭氏は李普を生み、のこりの四王は、母の氏と位について失っている。 悼懐太子李普は、姿美しく性格は聡明であった。宝暦元年(825)に始めて晋王となった。文宗は我が子のように愛し、かつて後嗣にしようとした。大和二年(828)に薨去し、帝は悲嘆追悼してどうすることもできず、そのため憐れんで追贈を加えた。 敬宗の第二子の李休復は、文宗の開成二年(837)に梁王に封ぜられ、第三子の李執中は襄王となり、第四子の李言揚は紀王となり、第五子の李成美は陳王となった。李執中の子の李寀は楽平郡王となった。 陳王李成美。それより以前、文宗は荘恪太子李永が薨去すると、大臣はしばしば東宮をたてることを願い出たから、開成四年(839)、帝はそこで李成美を立てて皇太子としたが、儀礼が備わらないうちに帝が崩じてしまい、仇士良が武宗を立てると、邸においてかれを殺した。子の李儼は宣城郡王となった。 文宗に二子があった。王徳妃は李永を生み、後宮は李宗倹を生んだ。 荘恪太子李永は、大和四年(830)に始めて魯王となった。帝は王が幼なかったから、賢人の補佐を得るべきとし、そこで傅の和元亮を召見した。和元亮はもともと官吏であったに過ぎず、尋ねられたことは答えられなかった。帝は宰相を責めて、「王を教えるべき官属は士大夫の賢者を任じるべきであって、どうして和元亮程度なのか」と言い、ここに速やかに選定し、戸部侍郎の庾敬休に王傅を兼ねさせ、太常卿の鄭粛に長史を兼ねさせ、戸部郎中の李践方に司馬を兼ねさせた。大和六年(833)、遂に立てて皇太子とした。帝は宝暦年間(825-827)の放埒怠惰の政治を受け継ぎ、身は倹約に勤めて天下を率い、晋王李普が生まれつき賢かったから、引きたてて後嗣としたいと思っていたが、たまたま夭折してしまったから、長らく東宮の事について議さなかった。太子が立てられると、天下が心服した。 開成三年(838)、宮臣に詔して崇明門に詣でて朔日・望日に謁させたが、侍読がまれに入対する程度であった。太子はしばらく酒宴をしており、一度も法を守ったことがなく、傅役が戒めたが、あえて受け入れなかった。また母王徳妃の寵愛が衰え、楊賢妃が寵愛を得て、しばしば謗られた。帝はある日怒って、延英殿に御し、群臣を引見して、「太子に多く過失があり、天下を支配させてはならない。これを議して廃嫡せよ」と詔したが、群臣は頓首して、「太子の年齢は盛りなかばで、過ちがあったとしても、なお改めることができます。また天下の根本は、簡単に動かすべきではありません。陛下のお赦しがあれば幸いです」と述べ、御史中丞の狄兼謨が涙を流して厳しく諌め、帝は決せず、取りやめとした。群臣はまた文章を連ねて上書して太子を救おうと論じ、意は釈明にあったが、太子に詔して少陽院に移し、宦官に監視させ、昵懇の者数十人を誅殺し、侍読の竇宗直・周敬復に少陽院に行かせて経の講義を行わせた。しかし太子はついに自らその讒言の潔白を申すことができず、自身の行いも修めることがなかった。この年にわかに薨去し、帝は悔んだ。 翌年、詔を下して陳王李成美を太子とし、酒を殿中に置いた。俳優の児が縁竿を持って曲芸していたが、その父が転落するのを恐れて、その下を走り回っていた。帝は感動し、側近に向かって、「朕は天下を有しているのに、一人の児すら全うできないとは」と言って涙を流した。そこで坊工の劉楚才ら数人を捕らえて京兆尹に引き渡して杖殺させ、禁中の女倡十人を永巷(掖庭)で殺したが、全員が太子を讒言中傷した者であった。宰相の楊嗣復らが知ることができず、そこで「劉楚才らの罪は誅殺に相当し、京兆尹が殺しましたが、繰り返し調べて天子に上奏することがありませんでした。あえて申し上げます」と申し上げ、翌日、京兆尹に詔して、死刑が決定して勅して繰り返し調べて天子に上奏することがなかった場合、また故事のように許して上奏させることとした。 蒋王李宗倹は、開成二年(837)に始めて王となった。薨去した年が失われている。 武宗に五子があり、その母の氏や位はみな伝わらない。 𣏌王李峻は、開成五年(840)に始めて王となった。 益王李峴は、会昌二年(842)に始めて王となり、兗王・徳王・昌王の三王とともに同じく封ぜられた。 兗王李岐。 徳王李嶧。 昌王李嵯。そろってその薨去した年が失われている。 宣宗に十一子があった。元昭太后は懿宗皇帝を生み、のこりはみなその母の氏と位を失っている。 靖懐太子李渼は、会昌六年(846)に始めて雍王となり、夔王・慶王の二王とともに同じく封ぜられた。大中六年(852)に薨去し、詔があって追冊された。 雅王李涇は、大中元年(847)に始めて王となった。薨去した年が失われている。 通王李滋は、会昌六年(846)に始めて夔王となり、慶王李沂とともに同じく封ぜられた。帝は初め詔して鄆王を十六宅におらせ、他の五王を大明宮の内院におらせたが、諌議大夫の鄭漳と兵部郎中の李鄴を侍読とし、五日に一度乾符門で謁して、王のために経を授けた。鄆王が即位して懿宗となると、取りやめとなった。李滋を王に遷した。 昭宗の乾寧三年(896)、侍衛諸軍を領した。このとき、王行瑜を処刑し、李茂貞は怨み、兵で入覲したから、李滋と諸王に詔して安聖・奉宸・保寧・安化軍を分けて京師を守らせた。天子は太原に行こうとすると、韓建は道すがら出迎え、留めて華州に行った。韓建は王ら兵を有しているのを恐れ、人を派遣してお上に諸王が韓建を殺そうとしていると急変を告げ、帝を脅して河中に行幸させた。帝は驚き、韓建を召して説諭しようとしたが、病と称して入ることをよしとしなかった。李滋と睦王・済王・韶王・彭王・韓王・沂王・陳王に勅して韓建に謁して自ら弁明させようとしたが、韓建は軍中に留まり、上奏して、「内外は同じではなく、臣は私見を以てすべきではありません」と述べ、また「晋の八王は権勢をほしいままにし、ついには天下を滅ぼしました。願うところは十六宅に帰し、ことごとく兵を領するのを罷めさせることです」と述べたが、帝は許さなかった。韓建は兵で行在をとりまき、大将の李筠を誅殺するよう要請した。帝は恐れて李筠を斬って謝した。韓建は衛兵を追い払い、これより天子は孤独で弱体化した。 それより以前、帝は嗣延王李戒丕・嗣丹王李允を李克用のもとに往還させたが、二王が帰還すると、韓建は憎んだ。また嗣覃王はかつて軍を率いて李茂貞を討伐したから、ここに弾劾して、「この頃兵は近隣に集結し、諸王はその禍いの階となっており、乗輿(昭宗)に下藩の地におらせようとしており、安穏することができません。臣はすでにその兵を解体するよう願ってきました。今、延王・覃王・丹王の三王はなお陰謀を企み国を危うくしています。願わくば誅殺されますように」と奏上したが、帝は「どうしてこのようになったのか」と言った。その後三日して、劉季述とともに詔を偽って兵で十六宅を攻めた。諸王はザンバラ髪で垣根を乗り越えて逃走し、ある者は屋根に登って大声で「陛下、私をお救いください」と叫んだ。韓建は十一王とその部下を石隄谷に連れて行って殺し、おもむろに謀反であると上聞したが、天下は冤罪だと思った。済王・韶王・彭王・韓王・沂王・陳王・延王・覃王・丹王の九王は、史書に世系を失っているという。 慶王李沂は、大中十四年(860)に薨去した。 濮王李沢は、大中二年(848)に始めて王となった。薨去した年が失われている。 鄂王李潤は、大中五年(851)に始めて王となった。乾符三年(876)に薨去した。 懐王李洽は、大中八年(854)に昭王・康王の二王とともに同じく封ぜられた。薨去した年が失われている。 昭王李汭は、乾符三年(876)に薨去した。 康王李汶は、乾符四年(877)に薨去した。 広王李澭は、大中十一年(857)に始めて王となり、衛王とともに同じく封ぜられた。乾符四年(877)に薨去した。 衛王李灌は、大中十四年(860)に薨去した。 懿宗に八子があった。恵安皇后は僖宗皇帝を生み、恭憲皇后は昭宗皇帝を生み、のこりの六王はその母の氏と位が亡失している。 魏王李佾は、咸通三年(862)に始めて王となり、涼王・蜀王の二王とともに同じく封ぜられた。 涼王李侹は、乾符六年(879)に薨去した。 蜀王李佶。 威王李侃は、咸通六年(865)に始めて郢王となり、咸通十年(869)威王に移封された。 吉王李保は、咸通十三年(872)に始めて王となり、睦王とともに同じく封ぜられた。王は兄弟の中で最も賢いとされた。当初、僖宗が崩ずると、王は最年長であったから、即位させようとしたが、楊復恭が単独で議して昭宗を後嗣とした。乾寧元年(894)、李茂貞らが兵をもって京師に入り、帝を廃して王を立てようと謀ったが、たまたま李克用が兵で王行瑜を駆逐したから、そこで沙汰止みとなった。 恭哀太子李倚は、初め睦王に封ぜられた。劉季述に殺され、天復年間(901-904)初頭に追贈された。 僖宗に二子があり、その母の氏や位について記録が失われた。 建王李震は、中和元年(881)に始めて王となった。 益王李陞は、光啓三年(887)に始めて王となった。ともに薨去した年が亡失している。 昭宗に十七子があった。積善皇后は李裕および哀皇帝を生み、のこりはみな母の氏と位を失伝している。 徳王李裕は、大順二年(891)に始めて王となった。帝が華州に行幸し、韓建が諸王の兵を奪うと、不安の念をいだき、そこで王・皇子でまだ王でなかった者を請うたが、すでにまた諸王は殺されており、そこで李裕を立てて皇太子とするとよう願い、四方に釈明した。時に乾寧四年(897)であった。劉季述らが帝を東宮内に幽閉すると、李裕を奉って皇帝位に即位させた。劉季述が誅殺されると、李裕は右軍に匿われたが、ある者が李裕を殺すよう願った。帝は、「太子は幼く、賊は無理やり即位させたのだから、何の罪があろうか」と言い、詔して少陽院に戻し、再び王とした。 朱全忠が鳳翔から帰還すると、王が成長し、優れて代表するような人物となったのを見て、李裕を嫌い、密かに崔胤に向かって、「王はすでに帝位を窺っており、親を滅ぼすような不義の者をどうして留めるべきか。公は宰相に任じられているのにどうして申し上げないのか」と言い、崔胤は従容として朱全忠の意のように申し上げたが、帝は許さなかった。他日、その事を朱全忠に語ると、朱全忠は、「これは国の大事です。臣はどうしてともにしましょうか。これは絶対に崔胤が臣を売ろうとしたのです」と言い、そのため免がれた。帝が洛陽に遷都すると、ある日、蒋玄暉に「徳王は朕の愛子である。朱全忠はどうして殺そうとするのか」と言い、涙を流し、自ら指を噛んで血を流した。蒋玄暉はそこで朱全忠に密告し、朱全忠は怒った。帝は弑され、蒋玄暉は酒を置いて諸王を九曲池に迎えたが、宴がたけなわとなると、全員が殺され、死体は水中に投棄された。 棣王李祤は、乾寧元年(894)に始めて王となり、虔王・沂王・遂王の三王とともに同じく封ぜられた。 虔王李禊。 沂王李禋。 遂王李禕。 景王李秘は、乾寧四年(897)に始めて王となり、祁王とともに同じく封ぜられた。 祁王李祺。 雅王李禛は、光化元年(898)に始めて王となり、瓊王とともに同じく封ぜられた。 瓊王李祥。 端王李禎は、天祐元年(904)に始めて王となり、豊王・和王・登王・嘉王の四王とともに同じく封ぜられた。 豊王李祁。 和王李福。 登王李禧。 嘉王李祜。 潁王李禔は、天祐二年(905)に始めて王となり、蔡王李祐とともに同じく封ぜられた。 蔡王李祐。 賛にいわく、唐は中葉より、宗室の子孫の多くは京師にあり、幼い頃よりある者は宮中より出ず、国王であるとはいえ、実のところ匹夫と異ならず、そのため悪事に赤々と染まることもなく、また王室をひっくり返すこともできず、運命が終わりにつきても戻ることなく、唐と共に滅んだのである。だからこそ王室の命数の長短は、自ら終始があったのである。かの漢の呉楚七国・晋の八王は、そのしるしを得られず、いよいよ害を招いたといわれる。 前巻 『新唐書』 次巻 巻八十一 列伝第六 『新唐書』巻八十二 列伝第七 巻八十三 列伝第八
https://w.atwiki.jp/sangokushi11/pages/700.html
トウチョウ 列伝 呉の官僚。 【演義】 孫綝が孫亮を廃立して琅邪王(ろうやおう)・孫休を新皇帝とした際、孫楷と共に虎林まで孫休を迎えに行った。 【正史】 孫皓の代に中書令兼司徒となる。丞相の陸凱が臨終の際に孫皓から派遣され、陸凱の遺言を聞き受けた。 能力値 統率 武力 知力 政治 魅力 総合 軍事能力 統+武 統+武+知 素質 17 13 56 71 61 218 30 86 順位 614 618 409 224 350 580 624 634 偏差値 31.8 33.0 48.6 56.5 50.8 39.5 31.5 31.9 成長期 普通 普通 普通 普通 普通 - - - 能力持続 短い 短い 短い 短い 短い - - - 兵種 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 適性 C C C C B B 部隊 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 値 10 12 9 14 9 12 10 12 10 12 10 13 順位 615 615 618 609 616 616 618 614 615 599 617 603 偏差値 34.5 33.4 34.2 33.6 33.4 33.2 34.4 33.5 33.5 34.2 34.1 34.0 部隊攻撃力/防御力は技巧研究を全て終えた時点での値。兵器は木獣、水軍は闘艦。 特技なし マスクデータ 相性 出身地 起用 戦略傾向 地元執着 義理 野望 漢室 生年 登場 没年 死因 性格 音声 口調 129 揚州 任意 現状維持 重視 3/5 1/5 2/3 221 240 281(61歳) 自然死 小心 小心 丁寧 舌戦 得意話題 保有話術 大喝 詭弁 無視 鎮静 逆上 故事 ○ 親愛・嫌悪 状態 武将名 董朝が親愛する武将 なし 董朝が嫌悪する武将 なし シナリオ シナリオ 年齢 身分 所在 勢力 忠誠 爵位・官職 功績値 配偶者 義兄弟 S1 184年 1月 黄巾の乱 - 未登場 会稽 - - - 0 - - S2 190年 1月 反董卓連合 - 未登場 会稽 - - - 0 - - S3 194年 6月 群雄割拠 - 未登場 会稽 - - - 0 - - S4 200年 1月 官渡の戦い - 未登場 会稽 - - - 0 - - S5 207年 9月 三顧の礼 - 未登場 会稽 - - - 0 - - S6 211年 7月 劉備入蜀 - 未登場 会稽 - - - 0 - - S7 225年 7月 南蛮征伐 5歳 未登場 会稽 - - - 0 - - S8 251年 1月 英雄集結 - 未発見 会稽 - - - 0 - - S9 198年 1月 呂布討伐戦 - 未登場 会稽 - - - 0 - - S10 203年 1月 袁家の戦い - 未登場 会稽 - - - 0 - - S11 217年 7月 漢中争奪戦 - 未登場 会稽 - - - 0 - - S12 187年 4月 何進包囲網 - 未登場 会稽 - - - 0 - - S13 191年 7月 序を制する者 - 未登場 会稽 - - - 0 - - S14 251年1月 女の戦い 未発見 会稽 - - - 0 - - 政治だけ70越えなので内政要員にしかつかえない。 -- (名無しさん) 2014-02-23 01 59 27 余った建築か運搬でもつけとけ。 -- (名無しさん) 2016-12-27 17 46 56 こいつが史実シナリオに出る可能性は低い。仮想シナリオではその他大勢。 -- (名無しさん) 2016-12-27 19 42 58 名前 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/newmoon_saku/pages/4.html
※下に行くほど最近参加した村です 人狼BBS C国 17勝18敗(勝率49%),生存率51%,平均寿命5.7日 安らぎの村(C545村)【敗北】羊飼い カタリナ(共有者),7日間を生き延びた 日の沈まぬ村(C566村)【敗北】パン屋 オットー(村人),8日間を生き延びた 僻地の村(C586村)【敗北】農夫 ヤコブ(村人),7日間を生き延びた 雨の止まぬ村(C600村)【敗北】羊飼い カタリナ(人狼),8日目に処刑された 幻の村(C617村)【敗北】村娘 パメラ(村人),7日間を生き延びた 疑心暗鬼の村(C631村)【勝利】行商人 アルビン(狂人),5日目に処刑された 沈黙の村(C641村)【勝利】神父 ジムゾン(霊能者),5日目に襲撃された 盆地の村(C658村)【敗北】パン屋 オットー(村人),7日目に処刑された 消え行く村(C693村)【--】青年 ヨアヒム(村人),7日目に突然死した 安らぎの村(C713村)【勝利】宿屋の女主人 レジーナ(占い師),8日間を生き延びた 山影の村(C737村)【勝利】青年 ヨアヒム(共有者),7日目に襲撃された 僻地の村(C754村)【敗北】パン屋 オットー(人狼),4日目に処刑された 雨の止まぬ村(C768村)【勝利】老人 モーリッツ(狂人),8日間を生き延びた 幻の村(C785村)【勝利】 少女 リーザ (狩人), 9日間を生き延びた 荒地の村(C802村)【敗北】 ならず者 ディーター (狂人), 4日目に襲撃された 日の差さぬ村(C816村)【勝利】 羊飼い カタリナ (人狼), 5日間を生き延びた 断崖の村(C833村)【敗北】 旅人 ニコラス (狂人), 5日間を生き延びた 星狩りの村(C857村)【敗北】 村娘 パメラ (村人), 6日目に襲撃された 幻の村(C953村)【勝利】 少年 ペーター (狂人), 4日目に処刑された 星狩りの村 (C1025村)【勝利】 村長 ヴァルター (占い師), 5日目に襲撃された 平凡な村(C1066村)【敗北】 木こり トーマス (霊能者), 7日間を生き延びた 隠された村(C1111村)【勝利】 パン屋 オットー (共有者), 8日間を生き延びた 海辺の村(C1125村)【勝利】 旅人 ニコラス (霊能者), 6日目に襲撃された 疑心暗鬼の村(C1135村)【敗北】 農夫 ヤコブ (狂人), 5日目に処刑された 見捨てられた村 (C1142村)【敗北】 村娘 パメラ (狂人), 6日間を生き延びた 封印の村(C1166村)【勝利】 ならず者 ディーター (人狼), 7日間を生き延びた 最後の村(C1176村)【敗北】 木こり トーマス (狂人), 7日間を生き延びた 星狩りの村 (C1193村)【敗北】 パン屋 オットー (占い師), 4日目に襲撃された 峠の村(C1214村)【勝利】 農夫 ヤコブ (狂人), 6日間を生き延びた 呪われた村(C1262村)【敗北】 村娘 パメラ (人狼), 7日目に処刑された 隠された村 (C1279村)【勝利】 行商人 アルビン (村人), 6日間を生き延びた 谷底の村(C1317村)【敗北】 神父 ジムゾン (狂人), 7日目に処刑された 封印の村(C1334村) 【勝利】 村娘 パメラ (村人), 6日間を生き延びた 最後の村(C1344村)【敗北】 少女 リーザ (村人), 7日目に襲撃された 極寒の村(C1351村)【勝利】 司書 クララ (狂人), 6日間を生き延びた 辺境の村(C1399村)【勝利】 負傷兵 シモン (村人), 3日目に襲撃された 人狼BBS以外の長期ガチ村 霧雨が包む村-もう一つの物語-(審問987)【勝利】 双子 ウェンディ (人狼),5日目に処刑された(C600村再戦企画) C586村再戦村(四国493村/ログ消失)【勝利】 新米記者 ソフィー (村人),3日間を生き延びた(C586村再戦企画) C802・プチ再戦なのだ☆ (審問1286)【勝利】 双子 ウェンディ (守護者),4日目に襲撃された(C802村再戦企画) 大混乱村【C802再戦】(審問1388)【敗北】 新米記者 ソフィー (村人),6日目に処刑された(C802村再戦企画) 【次は】C823再戦村【変態勝利】(審問1428)【勝利】 冒険家 ナサニエル (人狼),8日間を生き延びた(C823村) C796村再戦企画(審問1566)【勝利】 墓守 ユージーン(村人),9日間を生き延びた(C796村再戦企画) daikuujiさんにあんな事やこんな事をする村(欧州55村/ログ消失) 【敗北】 司書見習い アン (C国狂人) ,10日目に処刑された(企画ページ) the party(あず22村)【勝利】 見習いメイド ネリー (ストーカー) ,9日間を生き延びた(企画ページ) 【身内村】C1256村再戦(!?)(黄昏107C/ログ消失)【敗北】農夫 ラシェル(人狼) ,4日目に処刑された(1256村再戦企画【I】) 15発言制限村(議事 標準30村)【勝利】双生児 オスカー(村人),6日間を生き延びた(15発言村) 忙しい人の為の48h村(白黒国10村)【勝利】村娘 マルガレーテ(霊能者),5日間を生き延びた(企画ページ) 再び十六夜に目覚める動物達の村(議事 標準49村)【敗北】しろまどうし ベラジー(C国狂人),8日間を生き延びた(C1341村再戦企画) 【断崖の上から可愛いを叫ぶ村】 ~C1379村 再戦企画~(瓜科89村)【敗北】旅人 レオナルド(人狼),6日目に処刑された(C1379村再戦企画) たまにはC国仕様で遊ぶ村(瓜科133村)【敗北】わんこ しろすけ (占い師),4日目に襲撃された(企画ページ) かもめ食堂C村(瓜科325村)【--】パジャマ ジェリコ (見物人),1日目に失踪した(企画ページ) 体育館の裏C村(ぐた ぶらら郡5村/ログ消失)【--】村娘 ロミ(見物人),1日目に失踪した 2010年Cレギュ村(議事 AS13村)【--】双生児 ホリー(見物人),1日目に失踪した 新月の夜-狼の遠吠え-(議事 AS18村)【--】忍者 朔 (--),1日目に蒸発した 帰ってきた神楼高校同窓会!(瓜科521村)【敗北】スポーツ栄養士 フェイト(C国狂人),4日目を生き延びた(企画ページ) 【飛入り募集】秘密基地で夕涼み 2(議事 AS55村)【敗北】小娘 ゾーイ(囁き狂人),4日間を生き延びた 【赤】トロイカ村(ぐた14村/ログ消失)【--】もふもふ さーしゃ(見物人),1日目に失踪した 【C編成】百合村 ~3rd season~【飛び入り歓迎】(瓜科588村)【--】女学生 アイリス(見物人),1日目に失踪した(企画ページ) 【飛び入り歓迎】そんな時代もあったねと【ガチ推理】(ぐた508村/ログ消失)【敗北】お茶好き カミカゼ(村人),7日間を生き延びだ(企画ページ) 【事前登録制】人狼同窓会―ゆるすぎる村―(ぐた649村/ログ消失)【――】酒場の看板娘 ローズマリー(見物人),1日目に失踪した(企画ページ) 勝敗度外視長期村 【恋愛RP】春だ!恋する村 (審問1357)【勝利】 文学少女 セシリア (占い師),7日間を生き延びた ランダ村・再び(審問1546)【敗北】 見習い看護婦 ニーナ (人狼),6日目に処刑された α2.5キャラで恋愛村!(審問1629)【勝利】 長老の孫 マーガレット (村人),7日目に処刑された 恋する獣のランダ村 (審問1715)【敗北】 異国人 マンジロー (守護者),9日間を生き延びた 【友情RP村2】 (審問1729)【敗北】 逃亡者 カミーラ (村人),5日目に襲撃された 人狼たちのランダ村 (審問1780)【敗北】 お嬢様 ヘンリエッタ (村人),7日間を生き延びた 魔法学院・特別講習!(審問1848)【勝利】 学生 メイ (占い師),4日目に襲撃された 人外の恋愛ぱーてぃ【RP村】(審問1877)【勝利】 お嬢様 ヘンリエッタ (村人),3日目に処刑された 【友情RP村3】(審問1924)【勝利】 村長の娘 シャーロット (村人),4日目に処刑された 審問的テスト村♪特殊役職大集合(あず5村)【敗北】 こそ泥 ルーク (コウモリ) ,2日目に呪殺された 長期のテストでもしてみませんか?(天国旧19)【敗北】 羊飼い シリル (人狼(恋人)) ,4日目に後追いした 泡沫の夢紡ぎ─幻夢試験村─(幻夢1村)【敗北】少女 ベアトリーチェ(聖痕者),3日目に襲撃された 新役割テスト村(あず18村)【敗北】 孤児 ルナ(共有者★恋絆),2日目に後追いした ふかふかてすとおまつりむら。(旧ぐた絵1村/ログ消失)【勝利】 双子の妹 てれ~ず(おおかみ),8日間を生き延びた 閻魔大王 ご乱心村 act2「殿中でござる!」(瓜科5村)【敗北】 キムジナー イリス(山彦),12日目に処刑された C802再々々…ランダ村(瓜科8村)【敗北】 悪の女幹部 ムーラン(共鳴者),5日目に襲撃された 卒業やら就職やらおめでとうランダム追い出しコンパ会場村(瓜科16村)【勝利】 ぶるま少女 まりこ(ちろー),4日間を生き延びた 【鍵の書】─精霊演戯・第二演─(幻夢7村)【勝利】職人見習い ユリアン(天魔),7日間を生き延びた(企画ページ) 【特撮RP村】-新戦隊結成!(幻夢8村)【敗北】読書家 ミリィ(人狼教神官),4日目に処刑された(企画ページ) 突発的闇鍋症候群(旧ぐた絵8村/ログ消失)【勝利】カレー るー(マリアージュ食材),3日目に襲撃された 【テスト村】屍食鬼の村(瓜科35村)【敗北】わんこ ころ(じゅろー),6日目に処刑された 時果つる恋愛村(議事 RP19村)【敗北】本屋 ベネット(占い師★悪戯絆),6日目に襲撃された 再び十六夜に目覚める動物達の村(議事 標準47村)【――】しろまどうし ベラジー(村人→霊能者),6日間を生き延びた(C1341村再戦企画) 雑談・質問・発言お試し村 ver16(瓜科74村)【敗北】テストの精 サキュバス(闇狩人),5日間を生き延びた 妖魔村、人狼マジックアカデミー(議事 RP55村)【勝利】手芸部 リンダ (占い師) ,6日間を生き延びた まったり夢にようこそ(議事 RP65村)【敗北】病人 キャサリン(村人) ,6日目に襲撃された アステリア号の処女航海(議事 大乱闘35村)【敗北】双生児 ホリー(生贄(喪失)) ,9日目に処刑された 午後は○○ おもいっきり(以下略)み○もんたまつり【突発フリー】(旧ぐた絵40村/ログ消失)【敗北】子羊 らむ(毒見役★恋絆) ,2日目に逆呪殺された 花の大江戸顛末記。(議事 RP127村)【勝利】巫女 ゆり(エスパー) ,5日間を生き延びた ―Kerberos castle―(議事 RP129村)【勝利】墓守 ヨーランダ(村人) ,3日目に襲撃された 風花妖精のいる村(議事 似顔絵55村)【敗北】猫娘 ミーア(村人),4日目に処刑された 呪人が恋人になって占われてみる村(議事 似顔絵56村)【敗北】メイド セリア(恋天使),3日目に襲撃された マーガレットのティーパーティ(幻夢26村)【勝利】職人見習い ユリアン(共鳴者),3日目に襲撃された(企画ページ) 学園連作・八百万の林間学校編(議事 RPA7村)【敗北】マネージャー ピッパ(蝙蝠妖精) ,5日目に呪殺された(企画ページ) 亡霊と四月馬鹿とか検証村(議事 似顔絵58村)【敗北】語り部 デボラ(弟子→煽動者(喪失)★恋絆),3日目に後追いした 恋愛は戦争(議事 RP136村)【勝利】馬飼い キャロライナ(人狼) ,5日目に処刑された(企画ページ) 礫の、遊び終い(議事 RP138村)【敗北】掃除夫 ラルフ(共鳴者) ,5日目に襲撃された 妖怪たちの宴~百鬼夜行~(議事 RPA14村)【敗北】忍者 朔(人狼) ,6日目に処刑された(企画ページ) ラビリンス~まよいの森~(議事 大乱闘57村)【敗北】流浪者 ペラジー(呪狼) ,7日目に処刑された(企画ページ) あわいの村[一言メモ実践テスト](執事34村)【敗北】末っ子 キクコ(イタズラっ子) ,2日目に処刑された サバンナに落ちる夕日(議事 RPA21村)【敗北】なまけもの ノックス(共鳴者) ,5日間を生き延びた 魔狼蠢動 ~王都近くの大きな街~(議事 RP144村)【勝利】花売り メアリー(共鳴者) ,7日間を生き延びた(企画ページ) 学園連作・迫り来る生体災害編(議事 RPA30村)【敗北】地理教師 ウェーズリー(人狼) ,7日目に処刑された(企画ページ) ふわふわ騒動記─ある日の魔法学院(幻夢33村)【敗北】大地学科1年 クロエ(霊能者★悪戯絆) ,4日目に襲撃された(企画ページ) 雪の、祭囃子(議事 陰謀1村)【敗北】さすらい人 ヤニク(念波星人) ,6日間を生き延びた いつか、果てにて。(議事 RPA47村)【敗北】若者 テッド(降霊者) ,6日目に処刑された 祝祭の村-表情差分でランダ村-(薔薇(旧)20村)【敗北】羊飼い カタリナ(村人) ,3日目に処刑された(企画ページ) 現代版妖怪村『私立雷門学園』(議事 陰謀11村)【勝利】双子 朝顔(魔女) ,3日目に襲撃された(企画ページ) 学園連作・魔界式最凶交換留学編(議事 RPA66村)【勝利】マネージャー ピッパ(人狼) ,5日目に処刑された(企画ページ) 曲がれフォーク!-フィルタ dying messageテスト村-(執事46村)【敗北】告げ人 アン(共鳴者) ,5日目に処刑された 幻想第四次―銀河鉄道―(議事 RPA76村)【敗北】楽器職人 モニカ(共鳴者) ,3日目に襲撃された(企画ページ) 検証村(回廊122村/ログ消失)【勝利】学生 ラッセル(霊能者),3日間を生き延びた 逃走中!(議事 陰謀28村)【勝利】記者 イアン(人犬),5日間を生き延びた 聖なる夜の贈り物(薔薇(旧)33村)【敗北】画家志望 ジークムント(共鳴者) ,3日目に襲撃された(企画ページ) 冒険心と絆の村(瓜科386村)【勝利】剣士兼マッパー メノミリア(じんろー) ,3日目に処刑された(企画ページ) ぐたるてぃめっと陰謀州テストという名目のランダ村!(ぐた4村/ログ消失)【勝利】かえるのおうじさま(人形使い(喪失)),6日間を生き延びた 学園連作・演劇祭り編!(議事 Pr26村)【――】マネージャー ピッパ (見物人),一日目に失踪した(企画ページ) いーぐるさんとりーのさんを祝う村(ぐた8村/ログ消失)【敗北】薬師 ゼルギウス(囁き狂人(喪失)),3日間を生き延びた(企画ページ) New Moon(瓜科447村)【敗北】メイド ネリー(村人),3日目に襲撃された(企画ページ) 【推理可能】ボーカロイド候補生養成村【飛び入り歓迎】(瓜科459村)【勝利】猫音 シャト(村人),5日目に処刑された(企画ページ) 「静寂の銀猫亭」より(議事 Cr9村)【敗北】店番 ソフィア(村人),7日間を生き延びた 【恋愛村:帰ってきた神楼学園高等学校】R15 (瓜科486村)【勝利】家庭部 フェイト(共鳴者→婚約者★恋絆),7日目に処刑された(企画ページ) 【恋愛村:神楼学園高等学校3 オカルト研究部】R15(瓜科556村)【敗北】剣道部 シロガネ(求婚者→婚約者★恋絆),6日目に後追いした(企画ページ) 【ときめきプラス2】神楼高校外伝【ギャルゲ村】(LS 旧2_24)【――】白兎 シロテルア(見物人),舞台にいた 【雑談ランダ村】★都道府県バトルロワイアル☆(LS 旧2_28)【勝利】劔 シンキロウ(村人),6日間を生き延びた Say Good-Bye, Say Hello(議事 Xb45村)【敗北】良家の娘 グロリア(村人),4日目に処刑された 追試と戦う村(議事 xb48村)【敗北】博徒 プリシラ(降霊者),4日目に襲撃された 桜散る 華の宴(議事 xb50村)【勝利】薬屋 サイラス(擬狼妖精),6日間を生き延びた 【突発】つべこべ言わずに恋せよ若者【RP】(議事 xb55村)【勝利】読書家 ケイト(村人),3日目に処刑された 多角で遊ぶ村(薔薇(旧)148村)【勝利】大学生 メルヒオル(共鳴者),3日間を生き延びた(企画ページ) ピクトさんを探せ~B級映画をぶっ潰せ!!リターンズ(瓜科759村)【勝利】スタイリスト ヘンリー⇔カメラアシスタント シロガネ(憑狼),5日間を生き延びた(企画ページ) 幻想第四次―銀河鉄道2―(議事 Cr39村)【敗北】童話作家 ネル(共鳴者),5日目に処刑された(企画ページ) 【吊りランダム投票】撃て!撃ちまくれ!絆撃ち村【スゴロク村】(薔薇(旧)164村)【敗北】楽天家 ゲルト(共鳴者),5日目に襲撃された(企画ページ) 【短期決戦】人狼BBSでスゴロク村【チーム戦】(薔薇(旧)171村)【敗北】ふさねこ スノウ(人狼),3日目に処刑された(企画ページ) ハムスター頑張れ村【ランダ村】(リア充78村)【敗北】高利貸し ワット(ハムスター人間),2日目に呪殺された 【恋愛村:神楼学園高等学校5】R15(瓜科893村)【勝利】アミル=ルビンスキー(共鳴者→婚約者★恋絆),5日間を生き延びた(企画ページ) 【ランダム吊り祭りだ!】お祭り騒ぎでスゴロク村【(゚∀゚)ワショーイ!!】(薔薇(旧)196村)【勝利】商人の息子 ロヴィン(背信者),6日間を生き延びた(企画ページ) ― 帝都・つくも浪漫奇譚 ―(議事 陰謀144村)【勝利】薬売り 芙蓉(半狼→人狼),7日間を生き延びた 【狙撃分岐ランダ】学園天国【襲撃VS護衛】(薔薇(旧)219村)【敗北】堅物 ヒンメル(狙撃手),3日目に襲撃された 【スゴロクランダ村4】薔薇の下学園生徒会選挙村【ようこそ、薔薇色の生徒会へ】(薔薇(旧)230村)【勝利】幼女 ドロシー(悪戯妖精★悪戯絆),4日間を生き延びた(企画ページ) 【まったりRPG】勇者募集中【匿名メモ】(薔薇(旧)237村)【敗北】最弱モンスター プルプル(狙撃手),4日目に襲撃された 【いろはセット実装記念】絆の学園へようこそ【飛び入り歓迎ネタ村】(ぐた187/ログ消失)【勝利】ソフトボール部 力石/くノ一 リカルダ(恋愛天使★恋絆),2日間を生き延びた 【ネタ村】アムネシア号の誘惑 ~全員記憶喪失村~(ぐた204/ログ消失)【敗北】旅人 クレイグ(恋愛天使★恋絆),3日目に後追いした 【逃走中!】いばらの青ビニ遊園地【茨セット記念】(ぐた214/ログ消失)【敗北】合唱部 エリー(魔女),3日間を生き延びた(企画ページ) making of RP と或る阿呆男子学生村(議事 Cr64村)【敗北】聖歌隊員 レティーシャ(村人→人狼),5日目に処刑された(企画ページ) 【ランダRP】137億光年のパレード【飛入歓迎】(ぐた381/ログ消失)【敗北】艦長 アドニス(首無騎士★恋絆),3日目に後追いした 【R18】はじめてのお茶会【BL推奨】(三日月44)【勝利】カステラ家 コウゲツ(村人),3日間を生き延びた(企画ページ) 【ネタ村】新年早々泥酔気分村【誰歓】(深海 赤225)【敗北】彩【あや】(カロン★恋絆).4日目に後追いした 【突発】冬の寒さにも負けずランダ村【誰歓】(深海 青526)【敗北】巫女 ベニ(邪気悪魔).9日目に襲撃された 【誰歓】みんなでワイワイ闇鍋村【ゆるRP】(深海 青532)【敗北】医師 柊(悟られ狂人→眷属),9日目を生き延びた 【突発RP村】思い出アルバム【飛び入り歓迎】(深海 赤242)【勝利】根戸 太郎(村人),3日目を生き延びた(企画ページ) 午前2時の猫花火【ランダ村】(深海 赤245)【敗北】領主の娘 ロッテ(悪戯妖精★弟子絆),3日目に後追いした(企画ページ) 【黒幕実験込み】らんせ茶屋。(議事 Cl15)【――】看板娘 櫻子(王子様),4日間を生き延びた 弥生も中盤!チョコのお返し期待します☆誰歓【ランダ村】(深海 青553)【敗北】幼女 ユーナ(智狼),6日間を生き延びた 【突発誰歓】春隣の村【ランダ村】(深海 赤253)【勝利】石神 珠子(囁き狂人),7日目に処刑された 四月の嘘は君の魔法(薔薇320)【敗北】語り手→小人族 ゾフィヤ(狙撃手),6日間を生き延びた 【GNLで誰歓ゆるランダ】三日月稲荷で逢いましょう【大お花見大会】(三日月88)【勝利】花屋 エーディ(求愛者★恋絆),3日目に殺害される ねこんちゅカフェ(ぐた702/ログ消失)【敗北】猫カフェ初心者 サイコ(人形使い),5日間を生き延びた(企画ページ) 【誰歓】GWはパンを焼こう【ランダ村】(三日月94)【敗北】料理上手 シオリ(骸糾問),7日間を生き延びた 【誰歓】恋と窓が咲き乱れる村【恋愛PR&窓重視ネタ寄り】(瓜科1573)【敗北】ユーリ(叫迷狂人→婚約者★恋絆),3日目に後追いした ジュエルセイバーで天邪鬼村【飛び入り歓迎】(深海 青594)【勝利】夜噛 アスハ(邪教徒★悪戯絆),9日間を生き延びた(企画ページ) 【誰歓】立葵の村【ランダ村】(深海 サポ51)【勝利】守りし傭兵 オーラフ(空色(月狂病,妖魔陣営)★恋絆),5日目に後追いした(企画ページ) 【スゴロク村11】$GREEDコレクション【ランダ村飛び入り歓迎】(薔薇358)【敗北】語り手(魔術師),3日目に呪殺された。(企画ページ) 【誰歓】夏のかくしごと【闇鍋ランダム】(三日月126)【――】小説家 ルージュ(見物人),1日目に失踪した(企画ページ) 【飛入歓迎】桃花舞う日に【(桃)ランダ村】(深海 青622)【敗北】桜色の浴衣を纏った 御伽 美夜子(修道者★悪戯絆),4日目に後追いした ―魔界学校卒業試験―(ぐた751/ログ消失)【敗北】ドリアード ナタリー(囁き狂人),3日間を生き延びた(企画ページ) 【突発誰歓】秋の夜長の夢の中。【ランダ村】(深海 青647)【敗北】薬師 ハロルド(遊び人★恋絆),3日目に後追いした ―女学生の手紙村―(議事 Cl31)【敗北】MI 18 エリ(囁き狂人),5日目に処刑された(企画ページ) ―大都会の手紙村―(ぐた760/ログ消失)【勝利】パティシエ クェン(村人),5日目に処刑された(企画ページ) Gift-画面の向こうの貴方へ-(議事 Mr130)【勝利】幸福の科学 リッキィ(王子様),6日間を生き延びた 【11月のテスト村】満ちる月の演奏会(深海 赤73村)【敗北】トロンボーン ノール(仔妖魔(血飢病→悪鬼)),8日間を生き延びた(企画ページ) 【誰歓】星空夜のかくしごと【ゆるRPランダ村】(三日月174)【敗北】画師 テルシ(邪魔狂人,蒼月教会),5日目に処刑された(企画ページ) 【恋愛】湯煙温泉慕情ツアー【R18】(議事 Cr177)【敗北】助手 ゲイル(囁き狂人),4日間を生き延びた(企画ページ) ―クリスマスの手紙―(ぐた773/ログ消失)【勝利】異邦人 ベニアオイ(村人),5日間を生き延びた(手紙村ポータプルサイト) 【5発言RP】この花が咲ききる前に(深海 青693)【勝利】男装の麗人 サミー(王子様,喪失),6日間を生き延びた(企画ページ) 【R18】スターチスを貴方に【半身内ペアRP村】(深海 赤383)【敗北】国代 伊依⇔見嶋 千里(宿借之民),3日間を生き延びた(企画ページ) ―放課後の手紙―(深海 赤386)【勝利】用務員の飼い犬 犬飼 空太(村人),6日間を生き延びた(企画ページ) 【誰歓】Story of magic and adventure【ゆるRPランダ村】(三日月220)【敗北】魔性の美食家 サボン(幼狐),4日目に処刑された(企画ページ) 水面下で薔薇が咲く村in聖乙女はエトランゼ☆(ぐた791/ログ消失)【敗北】竜の司徒 ユキト(囁き狂人),6日間を生き延びた(企画ページ) 【RP村】ダンジョン・エクスプロラ(三日月242)【敗北】胡蝶の宴 斑(嗅狼),5日間を生き延びた(企画ページ) 【誰歓ランダ村】プロムナード【花見会&コラボ公開をお祝いするのだ!】(深海 青739)【勝利】枝垂桜 ミコト(桜狼),10日間を生き延びた(企画ページ) 【恋愛RP】巡り合う奇跡【R18】(深海 青747)【敗北】藍染 武虎(囁き狂人),4日間を生き延びた(企画ページ) 【花見会&コラボ公開記念】風薫る、ゆるふわり【誰歓ランダ村】(三日月258)【――】ベース ヴェルナー(見物人),裏方にいた(企画ページ) 【突発誰歓】闇鍋を食べて魂を繋ぐ村【R15ランダ村】(三日月261)【敗北】日向【ひなた】(妖兎),2日目に呪詛死した 【RP村】とある呪われし村人達の話(三日月 幻4)【勝利】空を駆ける民 メリッサ(呪人),3日間を生き延びた(企画ページ) 【5発言RP】君と夏の日の百鬼夜行(深海 青768)【勝利】鎌鼬(三匹目) ドゥーニャ(王子様),6日間を生き延びた(企画ページ) 幻鏡堂にて、君と出会う【第二幕】(ぐた824/ログ消失)【勝利】少女型自律人形 ルリハ(聖痕者),3日間を生き延びた(企画ページ) 【GNLランダ4】風雲?三日月キャンプ場(三日月293)【――】酒飲み ハイヴェ,プロローグ中に退村した(企画ページ) 【軽RP】美味しいお菓子を作りましょう【事前縁故】(深海 青786)【勝利】総務 練馬 杏(古妖魔),4日間を生き延びた(企画ページ) Summer Letters ―夏の手紙―(月狼国169)【敗北】老婆 ダリア(村人),5日間を生き延びた(企画ページ) 【5発言村】騒乱の狭間で見る夢は(深海 赤494)【勝利】レジアーネの民 リフル(王子様),6日間を生き延びた(企画ページ) パートナーRPを楽しむ村・4(三日月324)【敗北】アルベド幻術師 エマ(魔女),5日目に処刑された(企画ページ) 【5発言村】歯車どもの群像劇(深海 赤1587)【勝利】新聞記者 エルマー(王子様),6日間を生き延びた(企画ページ) 【RP村】ダンジョン・エクスプロラⅡ(三日月 幻27)【敗北】魔性の美食家 サボン(無豚着(喪失)),6日目に処刑された(企画ページ) 金糸梅のかくしごと(三日月457)【敗北】巫女 サクヤ(野狐,宝玉),5日間を生き延びた(企画ページ) 【5発言村】仮初めサーカスの舞台裏(三日月567)【勝利】猛獣使い メリッサ(王子様),6日間を生き延びた(企画ページ) 【半身内】星逢う夜のかくしごと(三日月626)【――】女流作家 コノハ(見物人),裏方に居た(企画ページ) 【5発言RP】夢見色の放課後少女だった頃(三日月664)【勝利】りりしき赤バラ めぐみ(王子様),5日間を生き延びた(企画ページ) 【5発言RP】冒険者達の憩う場所にて(三日月686)【勝利】魔性の美食家 サボン(王子様),8日間を生き延びた(企画ページ)【5発言RP】悪役たちの反省会【再演】(三日月794)【勝利】司書 クララ(王子様),6日間を生き延びた(企画ページ) 短期村 C586村突発短期村(四国497村/ログ消失)【敗北】お嬢様 ヘンリエッタ(占い師),3日目に処刑された C586村突発短期村2回戦(四国499村/ログ消失)【敗北】修道女 ステラ(霊能者),4日間を生き延びた 持ち越したランダ村(欧州短期330村)【敗北】メイド シンデレラ(聖痕者),4日目に襲撃された 暇人のためのランダ村(欧州短期331村)【敗北】少女 アリス(中身占い師),2日間を生き延びた 無理ゲー歓ゲーランダ村(欧州短期332村)【勝利】 巫女 サクラ(神話マニア→人狼),2日間を生き延びた The village of the non-human(欧州短期333村)【勝利】パン屋 オットー(村人),2日間を生き延びた 人外 野村(欧州短期334村)【敗北】委員長 ナディア(狂人),3日目に襲撃された eagleさんを吊る村(欧州短期344村)【勝利】学者 カーク(村人),5日目に襲撃された いーぐるさんお誕生会【2次会】(欧州短期374村)【敗北】研究員 レイ(狂信者),4日目に処刑された 【C1111隠された村再戦】本当に隠されていたゾロ目村【2戦目щ(゚д゚щ)】(欧州短期1008村)【敗北】農夫 ヤコブ(神話マニア→占い師),4日間を生き延びた 3戦目だ!飛び入りだってщ(゚д゚щ)カモーン村(欧州短期1011村)【敗北】書生 ハーヴェイ(C国狂人),3日目に処刑された 何かに気付いても気付かないフリをする村(天国21村/ログ消失)【敗北】旅芸人 ミック(村人),3日目に処刑された
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/1536.html
唐書巻一百八十三 列伝第一百八 畢諴 崔彦昭 劉鄴 陸扆 鄭綮 朱朴 附 孫偓 兄儲 韓偓 兄儀 畢諴は、字は存之で、黄門監の畢構の従孫である。畢構の弟の畢栩は、畢浚を生み、畢浚は畢勻を生み、代々官位につけず、塩商となっていた。畢勻は畢諴を生んだが、早くに父を亡くした。夜は薪を燃やして読書し、母は疲れるのを憐れんで、火を奪って休ませたが、休むことをよしとせず、遂に経史に通じ、文章を巧みにした。性格は正直で謹厳で、みだりに人と交わることはなかった。 大和年間(827-835)、進士・書判抜萃科に推挙され、合格した。忠武の杜悰の幕府の下僚に任命された。杜悰は度支を掌握しており、上表して巡官となり、また淮南に任命され、京師に入って侍御史に任命された。李徳裕ははじめ杜悰とともに宰相となって政務にあたったが、不仲となり、そのため杜悰は剣南東川節度使に出された。そのため下僚であった吏は慮ったが、畢諴は餞すること平日のようであったから、李徳裕に嫌われ、京師から出されて慈州刺史となった。累進して駕部員外郎・倉部郎中となった。その昔、権勢ある家の師弟がなる職であったから、倉部・駕部の二曹は官吏によって恥辱の任官であったが、畢諴は揚々と名誉ある官職であるかのように、異議を言うことはなかった。宰相はこれを知って、職方郎中兼侍御史知雑事に任じ、召還して翰林に入れて学士とした。 党項(タングート)が河西に侵入したから、宣宗は試しに辺境防衛の事を諮問してみると、畢諴は古今の例をあげて、羌を打ち破る方法をすべて列挙し、帝は喜んで「私がまさに優れた将軍を選ぼうとした時、たとえ廉頗・李牧といった古代の名将が我が禁軍にいたとしても、卿は朕のために行ってもらうだろう」と言い、畢諴は従って、そこで刑部侍郎を拝命し、出されて邠寧節度使・河西供軍安撫使となった。畢諴が軍に到着すると、吏を派遣して懐柔のため説諭し、羌人は皆大人しく従った。当時、辺境を守る兵士は常に調などの税で窮乏しているのに苦しんでいたから、畢諴は兵士を募って屯田を設置し、毎年穀物三十万斛を収め、度支の経費を省き、詔書によってお褒めの言葉をいただいた。にわかに昭義軍節度使、また河東節度使に遷った。河東は最も胡に近く、杷頭峰七十烽を回復し、謹んで敵を侍らし、寇はあえて侵入しなかった。 懿宗が即位すると、宣武節度使に遷り、召還されて戸部尚書、判度支となった。しばらくもしないうちに礼部尚書同中書門下平章事(宰相)となった。一年後、普段から病であったと称し、兵部尚書に改められて、宰相は罷免された。巡って平章事と河中節度使を兼任した。卒し、年六十二歳であった。 畢諴は行政手腕が非常に優れ、昇進すると、得た俸禄は一族の貧しい者を扶養し、避難するところがなかった。それより以前、畢諴は宣宗に知られ、宰相となる人物と認められた。しかし令狐綯が畢諴を嫌い、邠寧からおよそ三度転出させられ、還ることができなかった。畢諴は結びつきを得ようと思い、太原に到ると、見目美しい女性を探し求め着飾らせて献じさせた。しかし令狐綯は「太原(畢諴)は私に分けるものがなかったが、今これを餌として与えてくるのは、我が一族を破滅させようとしているのだ」と言って受けなかった。使者は邸宅に留まったが、畢諴もまた女性を手放した。太医の李玄伯なる者がいて、帝を喜ばせようと、銭七十万をもって招き、夫婦で日々自ら食事を与え、その歓心を得ると、そこで女性を帝に献じ、寵愛甚だしくことは後宮に冠たるほどであった。李玄伯もまた丹薬を進上し、帝はこれを服用したが、疽(はれもの)が背中に出来た。懿宗が即位すると、李玄伯および方士の王岳・虞芝らを収容して、ともに誅殺した。 崔彦昭は、字は思文で、その先祖は清河の人である。広く儒学の通じ、進士に及第した。しばしば藩鎮の帥がその下僚に任じようと奏上し、事務処理能力は非常に優れており、至る所で最も優れた成績をおさめた。累進して戸部侍郎となった。河陽節度使から河東節度使に遷った。これより以前、沙陀の諸部は多く法を犯し、崔彦昭は慰問してねぎらっては威光と恩恵があり、三年にして、国境の内は大いに治まり、耆老たちは朝廷に留まるよう願い、詔して裁可された。僖宗が即位すると、兵部侍郎・諸道塩鉄転運使となった。しばらくして中書門下平章事(宰相)となり、判度支を重任した。それより以前、楊収・路巌・韋保衡は皆朋比の収賄に連座して罪を得て死に、蕭倣が宰相で、偽ってこれを改めようとして、崔彦昭は協力し、そのため百の官職を推挙し、査察しても煩わしがることはなかった。六ヶ月もしないうちに、門下侍郎に遷った。帝はそこで詔を下して楊収らの過悪を暴き、丁寧に励まし、崔彦昭の素晴らしさを讃えた。 崔彦昭は宰相であったが、朝廷を退いては母の食事に付き添い、家人とともにあって、顔色や物腰は柔らかで、左右にあっても異なることはなく、士人はその孝行さがあついとした。王凝とは義理の弟であった。王凝は大中年間(847-860)初頭にまず名を知られるようになったが、崔彦昭はまだ仕えてすらいなかったから、かつて王凝と会うと、王凝は足を投げ出して冠を被ったり帯をしめたりせず、侮って「いっそのこと進士ではなく明経科から推挙されるんだな」と言ったから、崔彦昭は恨みに思った。ここにいたって、王凝は兵部侍郎となった。母は崔彦昭が宰相になったことを聞いて、婢に命じて多く屨(くつ)と襪(しとうず)をつくらせ、「王氏に嫁いだ妹は、必ず子とともに皆逐われるだろうから、私も一緒に行こう」と言い、崔彦昭はこれを聞いて、泣いて拝礼し、あえて恨みをなすことはなかった。王凝はついに免れた。 俳優の李可及は懿宗の寵愛を得て、専横はなはだしく、崔彦昭は奏上によって放逐し、嶺南で死んだ。累進して兼尚書右僕射を拝命したが、病によって職を去っており、太子太傅を授けられ、卒した。 劉鄴は、字は漢藩で、潤州句容県の人である。父の劉三復は、文章をよくしたため名を知られた。若くして父を亡くし、母が病で臥せっていたから、劉三復は粟を貰い受けて養った。李徳裕が浙西観察使となると、その文章が優れていると思い、上表して掌書記とした。李徳裕は三度浙西および剣南・淮南の節度使となり、常に付き従った。会昌年間(841-846)、李徳裕は宰相となると、劉三復を刑部侍郎・弘文館学士に抜擢した。 劉鄴は六・七歲にして文章に優れ、李徳裕は憐れんで、自分の子とともに師につかせて学ばせた。李徳裕が排斥されると、劉鄴は頼るべきものがいなくなり、去って江湖の間を居候した。陜虢観察使の高元裕は上表して官に任命しようと推薦し、高少逸もまた自ら統括する鎮の幕府に任命した。咸通年間(860-874)初頭、左拾遺に抜擢され、召還されて翰林学士となり、進士の及第を賜った。中書舎人を経て、翰林学士承旨に遷った。劉鄴は李徳裕が朋党を抱えたために誣告されて海上(海南島)で死んだことを悲しみ、令狐綯が長らく宰相となって執政の座にあり、しばしば恩赦があったが、官爵は戻されなかった。懿宗が即位すると、令狐綯が宰相の位を去ると、劉鄴はそこで直ちにその冤罪を申し上げ、官爵が復されることとなり、世間はその義が高いとした。戸部侍郎・諸道塩鉄転運使となった。礼部尚書同中書門下平章事(宰相)、判度支となった。僖宗が即位すると、再び尚書左僕射に遷った。 それより以前、韋保衡・路巌は劉鄴とともに宰相の位にあり、親しいもの同士であった。突如、蕭倣・崔彦昭が宰相となると、劉鄴を罷免して淮南節度使・同平章事とした。黄巣の乱が激しさを増してくると、高駢に詔して淮南節度使を交替し、鳳翔節度使に遷されることとなったが、固辞して、左僕射に戻った。帝が黄巣を避けて西狩すると、乗輿を追いかけたが及ばず、崔沆・豆盧瑑とともに将軍張直方の家に匿われたが、賊に捕らえられ、三人とも黄巣の臣となることをよしとせず、共に殺された。 豆盧瑑は、字は希真で、河南の人である。仕えて翰林学士・戸部侍郎を経て、崔沆とともに同中書門下平章事(宰相)を拝命した。この日、朝廷で任命の宣告があったが、大風と雷雨があって樹を抜き払った。しばらくもしないうちに、禍いが及んだ。それより以前、咸通年間(860-874)、暦見の者がいて巧みに禍福について述べており、ある者が「この頃の宰相は多くても四・五人にもならないが、どうしてなのか」と尋ねると、「紫微で災になろうとしており、そしてその人もまた免れないだろう」と答えた。後に楊収・韋保衡・路巌・盧攜・劉鄴・于琮・豆盧瑑と崔沆は、全員終わりをよくしなかったという。 陸扆は、字は祥文で、宰相陸贄の族孫である。陜州に居候し、遂に陜州の人となった。光啓二年(886)、僖宗が山南に行幸するのに従い、進士に及第し、翰林学士・中書舎人に累進した。陸扆は巧みに文章をつくり、迅速なことは水が流れたり射られた矢のように速かったから、当時書信を担当する者で、同僚たち自らは陸扆に及ばないと思っており、昭宗は陸扆を優遇した。帝はかつて賦をつくり、学士に詔して全員に唱和させ、陸扆ひとり最も先に行った。帝はこれを見て、「貞元の、陸贄・呉通玄が内廷の文書をよくしたが、後に継ぐ者がいなかった。今朕はこれを得たのだ」と感嘆した。それより以前、進士に推薦された時、まさに帝が遷幸しようとしており、六月に牓(合格通知)が出された。ここに到って、暑くなるごとに、他の学士はふざけて「造牓の季節だな」と言い、陸扆の進士及第がその時ではなかったことを謗った。累進して尚書左丞となり、嘉興県男に封ぜられた。戸部侍郎・同中書門下平章事(宰相)に移った。昔、三省から宰相となった者は、光署銭があり、宴会の資金としたが、学士院ではいまだにこれが行われたことがなかった。陸扆が宰相になると、光院銭五十万を贈り、近侍する者の栄誉とした。中書侍郎となり、戸部を司った。 嗣覃王李嗣周は兵をあげて鳳翔(李茂貞)を討伐しようとしたが、陸扆は諌めて、「国はこれから安寧へと歩みを進めようとしていますが、兵を近隣に用いることはよくありません。必ず他の賊に乗じられてしまい、無益です。また親王が軍事に仕えることは、必ず後害があるでしょう」と言ったが、帝は軍の出兵の方に目先が行って、陸扆が妨げたことを責めて、峽州刺史に左遷した。軍が案の定敗れた。しばらくして工部尚書を授けられた。天子が華州より帰還すると、兵部尚書となって宰相に復帰し、呉郡公に封ぜられた。 天復年間(901-904)初頭、帝は密かに韓偓に向かって「陸扆・裴贄はどちらが私に対して忠誠があるか」と尋ねた。韓偓は「陸扆らは全員宰相で、どうして他の考えなぞありましょうか」と言うと、帝は「外部では陸扆が私の復位を喜ばず、元日に服を替えて啓夏門に奔ったというぞ。信じられるか」と言い、韓偓は「誰が陛下にこのことを言いましたか」と言い、帝は「崔胤と令狐渙だ」と言い、韓偓は「もし陸扆がこのようなことでしたら、また責めるにたりません。また陛下が正しい道に戻られた時、陸扆は最初からこの謀を知りませんでした。だからたちまち兵をおこしたというのを聞いて、奔り出ようとしただけなのです。陛下が国難に死ななかったこと責められるのでしたら、そうなのでしょうが、喜ばなかったというのは、それは讒言です」と言い、帝はようやく理解した。戸部尚書を兼任した。 帝が鳳翔より帰還すると、天下に大赦し、全国諸道はすべて詔を賜ったが、ただ李茂貞だけは賜らなかった。陸扆は、「国の西は、鳳翔が最も近いところで、その罪を追いかけ続けるのでしたら、もとより赦すべきではありません。しかしなおも職貢を納められ、朝廷もこれを絶やしていないのに、詔書で差別してはなりません」と述べた。それより以前、崔胤は宰相を罷免され、陸扆がこれに代わった。崔胤は心内に恨みに思い、ここに及んで陸扆が密かに党派を組んでいると議し、沂王傅に貶し、東都分司とした。崔胤が死ぬと、復帰して吏部尚書を授けられ、洛陽より遷った。柳璨は始め朱全忠に付き従い、朝廷で衣冠が有望な者を去らせようとし、陸扆を濮州司戶参軍に貶し、白馬駅で殺害した。年五十九歳。陸扆の初名は陸允迪で、後に改名したという。 鄭綮は、字は蘊武である。進士に及第し、監察御史を経て、左司郎中に抜擢された。非常に貧しかったから、廬州刺史に補任されることを願った。黄巣が淮南を侵略すると、鄭綮は触文を出して黄巣が州境を攻撃することがないよう願い、黄巣は笑って、そのため兵を収めたから、廬州だけは無事であった。僖宗は喜び、緋魚(五品)を賜った。任期満了で去ると、余剰の銭千緡を州の庫に納めた。後に他の盗がやってきたが、終に鄭使君の銭だけは手を触れなかった。楊行密が刺史となると、この銭を都に送って鄭綮のもとに戻った。王徽が御史大夫となると、兵部郎中によって上表して知雑事となり、給事中に遷った。杜弘徽が中書舎人に任じられると、鄭綮は杜弘徽の兄の杜譲能が宰相で、兄弟で禁中の要職にあってはならないとし、奏上して詔書を差し戻すよう訴えたが、返答がなかったから、ただちに病と称して官を去った。召還されて右散騎常侍となり、時々失政を摘発したから、衆は喜んでこれを伝えたから、宰相は怒り、鄭綮を国子祭酒に改め、議する者は正しくないとし、また常侍に戻った。大順年間(890-891)の後、王政は衰え、鄭綮は詩を詠むごとに自らの気持ちを諷刺して託するようになり、宦官は鄭綮の詩を天子の御前で詠んた。昭宗は詩の蘊奥を読み取りきれず、そこで役人が官僚名簿を提出すると、鄭綮の名前の側に「礼部侍郎・同中書門下平章事(宰相)とすべきだ」と書いた。鄭綮はもとより詩をよくし、その語は多く諧謔姓があり、そのため格調を落とさせていたが、世間では「鄭五の歇後の体」と言った。ここにいたって、省の役人が鄭綮の家に走って面会すると、鄭綮は笑って、「諸君は間違ってるぞ。人は皆字を知らないのなら、宰相もまた私には及ばないのだろう」と言ったが、役人は間違いではないと言った。突如制詔が下されたから、「万が一、本当にそうなら、天下の人は笑い死にしてしまうぞ」と言い、政務を見るようになってから、親戚が就任のお祝いに訪ねてきたが、頭を掻いて「歇後なんかつくる鄭五を宰相なんかにするくらいだから、天下の事はおして知るべしだな」と言って固辞したが、聴されなかった。朝廷に立っては剛直で、前のように諧謔に戻ることはなかった。自らを人々が瞻望するところではないと思っていたから、三か月で病気のため辞職を願い、太子少保を拝命して致仕し、卒した。 朱朴は、襄州襄陽県の人である。三伝三史科に推挙され、荊門県令から京兆府司録参軍に進み、著作郎に改任された。乾寧年間(894-898)初頭、太府少卿の李元実は内外の九品以上の官吏の二か月分の月俸を取り上げて軍資にしようとしたが、朱朴は上疏してその不可を申し上げたから、沙汰止みとなった。 国子毛詩博士に抜擢された。上書して当時の世事を申し上げ、遷都を議して次のように述べた。「古の王者はその居場所は一定ではなく、皆天地の興衰をみて、随時物事を定めていました。関中は隋朝が都とするところで、我らは実にこれによることおよそ三百年、財物・銭貨や、奢侈品や礼物ではない物品は、すべてきわめつくされているのです。広明年間(880-881)大悪党が宮殿を陥落させ、役所の国庫、村や街はあるものは十二でしたが、その頃に石門・華陰に帝が行幸すると、十二の中、八・九が滅びており、高祖・太宗以来の制は焼失してしまったのです。夫襄州・鄧州の西は、平坦な土地が数百里あり、その東の漢輿・鳳林はこの関となっており、南は河の流れは屈折して漢中に流れ、西の上洛県は山が折り重なる険阻の地で、北は白崖が連なっており、形勝の地で、平坦で肥沃で何もない土地です。もし広く運河を浚渫すれば、天下の財を運び、大いに集めさせることができるでしょう。古より中興の君主は、すでに衰れて、さらに衰えきっているのから去り、いまだ王ならざるところから即位して王となりました。今南陽は、漢の光武帝が蹶起したとはいえ未だ王ではなかったところです。臣が山河壮麗たるところが多いのを見ますに、故都はすでに栄えてから衰え、再興するのは難しいだけです。江南は土薄く水浅く、人心は浮ついて騒がしく、軽薄で偽りが多いので、都とすべきではありません。河北は土厚く水深く、人心は偏狭固執かつ凶悪惨忍で、都とすべきではありません。思いますに襄州・鄧州は真に中原の地で、人心は良質で、長安からは距離も近く、上洛から通行を制限すれば、長らく夷狄の侵入の心配はなくなり、これは都を建てるのに極選の地なのです」 しかし返答はなかった。 朱朴は人となりが質実剛健で、他に才能はなかった。当時、天子は政務の権を失い、特別に人材を起用して任命し、中興に用いようと思っていた。しかし朱朴は方士の許巌士と親しく、許巌士は昭宗の厚遇を得て、禁中に出入りし、朱朴に経済の才能があると申し、また水部郎中の何迎もまた朱朴の賢人ぶりを上奏したから、帝は召還して共に語り、左諌議大夫・同中書門下平章事(宰相)に抜擢した。普段より聞いたこともなかったから、人々は大いに驚き、突然戸部を司り、中書侍郎に昇進した。帝はますます軍事増強をはかり、裁可するところはすべて朱朴に一任した。朱朴は四方に触文し、近き者は兵士を出させ、兵糧を運送し、遠き者は羨余を進上した。その後数か月して、許巌士は韓建に殺害され、朱朴は宰相を罷免されて秘書監となり、三度貶され郴州司戸参軍に左遷され、卒した。朱朴とともに宰相であった者は孫偓である。 孫偓は、字は龍光である。父の孫景商は、天平軍節度使となる。孫偓は進士に及第し、顕官を歴任し、戸部侍郎同中書門下平章事(宰相)となって、門下省に遷り、鳳翔四面行営都統となった。突然、礼部尚書・行営節度諸軍都統招討処置等使を兼任した。それより以前、邸宅の堂柱に槐枝が生えており、十日ほどして茂り、その時孫偓は宰相となり、楽安県侯に封ぜられた。朱朴とともに衡州司馬に貶され、卒した。 孫偓の性格は闊達で、人を騙すことはなく、かつて「士はいやしくも行いがある人物なら、必ず自身の長所を相手の短所にあてはめて形としたり、自身の清を相手の濁にあらわすようなことはしない」と述べ、客と面会するごとに、奴童は互いに罵りあって客の前で引き倒すようなことをしても、責めることはなく、「もし怒りの心を持てば、それは自分を歪ませることになる」と言った。 兄の孫儲は、天雄節度使を経て、兵部尚書で終わった。 韓偓は、字を致光といい、京兆万年県の人である。進士に及第して、河中節度使の補佐として仕えた。都に召還されて左拾遺の官を授かったが、病気のために解任された。その後、官位が次々うつって左諫議大夫になった。宰相の崔胤が判度支となり、韓偓を自分の副使に任命した。王溥が推薦して翰林学士となり、中書舎人に転任した。韓偓は崔胤と画策して、劉季述を誅殺したことがあった。昭宗が正位に復され、韓偓を功臣とされた。帝は宦官の横暴に心を傷められ、一人のこらず除去しようと考えられたが、韓偓がいった、「陛下が劉季述を誅されました時に、のこりの者はみな赦してお咎めになりませんでした。それが今になって誅罰されるとしたら、誰もがいつ殺される目に会うかわからなくてびくびくしなければなりません。ですから今は恥をしのんで辛抱され、後の機会を待つのがよろしいかと思われます。天子の御権力は、今日では方々に散らばってしまっています。もし上の者と下の者とが一つの気持ちになり、政権の大綱を統御すれば、天下の治ますることも可能でありましょう。宦官の中で忠義で任用できる者に、恩寵を貸しあたえ、自分でその派閥を滅ぼさせれば、何事も為しうるでしょう。今、朝廷の禄を食んでいる者は、八千人います。公けの属吏から身うちの係累までをすべて数えれば、その数は二万人を下りません。六七人の大物を誅したところで、無益なことで、謀反の気持ちを固めさせるだけです」。帝は体を乗り出していわれた、「このことはいっさいにまかせよう」。 中書舎人の令狐渙は巧智にたけていた。帝は彼に国事を担当させようと考えたことがあったが、すぐに後悔していわれた、「令狐渙が宰相になると、ひょっとしたら国政をしくじることになるかもしれぬ。朕はまっさきに卿を採用すべきであった」。韓偓は辞退していった、「令狐渙は父子二代にわたる宰相の家柄で、故実に習熟しております。陛下はすでに令狐渙を宰相にすることを承認されました。もし令狐渙の任用を承認されたことを変更できるのでしたら、臣の御承認でも変更できないことはないでありましょう」。帝がいわれた、「私はまだじかに命を下してはいないのだから、はばかることはない」。韓偓はそこで、清廉で威厳があり、朝廷のうちそとも模範となりうる人物として、御史大夫の趙崇を推薦した。帝は韓偓が趙崇の門下生であることを知られると、彼の人に譲ることのできる意力に感嘆された。 以前、李継昭らは功績をたてたことで、いずれも同中書門下平章事(宰相)に昇進した。時の人々は彼らを「三使相」とよんだ。その後はふたたび韓全誨・周敬容にしだいに近づいていき、彼らは皆な崔胤をきらっていた。崔胤はそのことを耳にすると鳳翔の李茂貞をよびよせて朝廷に入れ、李茂貞の一族の子、李継筠を宮中において宿直にあたらせた。韓偓はそれを聞いて、いけないと考えたが、崔胤はききいれないので、韓偓は令狐渙に語った。令狐渙は、「うちでは宰相をだいじにしないのかね。護衛の兵がいなかったら、茶坊主どもの思うままになってしまう」といった。韓偓は「そうではありません。兵がいなければ家も国も安泰ですが、兵がいれば家も国も守ることはできません」といった。崔胤はその話を聞くと心配になったが、どうしてよいかわからなかった。李彦弼は帝を前にしても、はなはだ傲慢であったので、帝は心中おだやかでなかった。韓偓は、「彼をおいはらい、その徒党は罪を問わずに新生の道を歩ませれば、気違いじみたたくらみはひとりでにつぶれてしまいましょう」と願い出たが、帝はその意見を採用されなかった。李彦弼は、韓偓と令狐渙とは朝廷内の話を外部に漏らしているので、彼らと国政を相談することはできないと讒言した。帝は怒っていわれた。「卿にも手下の役人がいて、日夜相談しておるのに、どうして私が私の部下の学士と会うことをいやがるのだ」。李継昭らは宮中で酒を飲んで、平然としていた。帝がそれに立腹されると、韓偓がいった、「三使相が手柄をたてた時、手厚く金、官爵を与えて、政治には参与させない方がよかったのです。今では宰相も事を自分で決定することができず、李継昭たちが申し上げたことは、何でもお聴きとどけになります。後日になって急に変更されたら、彼らは誰もがうらみをいだくでありましょう。以前は警護の兵に宦官を取り締らせていたのが、今では宦官と警護の兵とは一体になっております。臣は内心胆を冷しております。どうか李茂貞に詔を下して、彼の警備の兵を朝廷から引き挙げさせるよう、お願いいたします。そういたしませんでしたら、二つの藩鎮の軍が宮門の下で戦闘し、朝廷は危険にさらされることになりましょう」。崔胤が朱全忠をよびよせて韓全誨を討たせようとする時になり、朱全忠の軍隊が都に近づいていた。韓偓は令狐渙に、李茂貞をせきたてて護衛の兵を都からひかせるように勧告した。また「宦官の罪を暴露して、それによって韓全誨らを誅殺するように。もし李茂貞が詔勅にしたがわないのなら、ただちに朱全忠に入朝を許しなさい」と勧めた。その言葉がとりあげられないうちに、韓全誨らは帝に強制して長安から西へ行幸させた。韓偓は夜に帝の後を追いかけて鄠県まできて、帝にお目にかかると声をあげて泣き出した。鳳翔に着くと、韓偓の官は兵部侍郎にかわり、承旨に昇任した。 宰相の韋貽範は母の喪で退いていたが、もとの官位にもどす詔勅を下すことになった。韓偓は起草をする当番であったが、帝に申しあげた。「韋貽範はまだ数か月しか喪に服しておりません。いそいで仕事につかせたら、孝子の心情を傷つけることになりましょう。今、中書省の仕事は、一人の宰相でも処理できるものです。陛下が心からの能力を大切にされようとお考えでしたら、喪服のとける時になってからお召しになっても、さしつかえありません。どうして家の外では宮廷に高々と冠をかぶせ、家の中では柩のかたわらに血涙を流させる必要がありましょうか。身のやつれるほど悲しめば、勤務をおろそかにすることになりますし、精勤すれば喪の悲しみを忘れることになります。これは人間の情愛がある者が処置できることではありません」。学士使の馬従皓が韓偓に起草を強要した。韓偓は、「私の腕は断ちきることができても、詔勅は起草できません」といった。馬従皓が「あなたは殺されることを求めているのか」というと、韓偓は「私の職務は内署であるから、黙っておられようか」といった。翌日、官職のある者が集まったが、詔勅は下されなかった。宦官ががやがや騒ぎ、李茂貞は入殿して帝にまみえて、「宰相を任命されたのに、その詔勅を学士が起草しないということは、謀叛ではありませぬか」というと、むっとして出ていった。それを聞いて姚洎が、「私を起草の担当にあてられるなら、後で死罪になってもかまいません」といった。こういうことがあった後、帝は李茂貞をおそれて結局、韋貽範を宰相の位にもどす詔勅を下すことにして、姚洎が韓偓に代わって起草した。これ以後、宦官派はひどく憎むようになった。馬従皓は韓偓をなじっていった。「南司(朝臣)は、はなはだ北司(宦官)を侮蔑しております。あなたは崔胤と王溥の推薦で朝に入った人です。今日、北司の者があなたを殺すこともありうるのです。両軍と枢密は、あなたが一年中給料をもらえないでいると言っています。私たちがあなたを救おうと相談して、事態が切迫していることを、御存知ですか」。韓偓は返事をしようとしなかった。 李茂貞は帝がこっそりぬけだして朱全忠のもとに身を寄せはしまいかと心配して、行在に見張りの兵をつけた。帝は武徳殿の前に行かれ、その機会に尚食局まで足をのばされると、ちょうど学士が独りいるだけであった。おつきの者が韓偓を手招きした。韓偓はやってきて再拝すると涙を流し、「崔胤はとても元気です。朱全忠軍がきっと助けにきます」といった。帝は喜ばれた。韓偓が「どうか陛下、宮中にお帰り下さい。人に知られませんように。」というと、帝は麦粉や豆を賜われて立ち去った。韓全誨が誅せられ、宦官の多くは死罪になった。帝は残党を一掃されようとしたが、韓偓がいった。「家来たる者は謀反を考えることもならね。謀反を考えただけでも必ず誅罰する。宮仕えの女が恩に背いたら、許してはならね。それが礼だといいますが、しかし人は三十年たたなければ、一人前になれません。一人のこらず誅罰することは、陛下の仁徳を傷つけることになりましょう、どうか特にひどい者だけを追い払い、宦官の仲間の内部から外を静めるようにし、そうして人々の心を落ち着かせ下さいますように」。帝は「よかろう」といわれた。帝は輝王(後の哀帝)を元にしていただきたいと願いでた。帝は「後日、私の子(輝王)がまきぞえにされることはなかろうか」とたずねた。韓偓がいった。「陛下が東内に押し込められました時、空が曇りがたちこめた中で、王は鳥の鳴き声をお聞きになると「天子様も皇后様もとらわれの身にあると、鳥や雀の鳴き声までもの悲しい」とおっしゃり、それを耳にされた陛下は胸を痛められたということがあったのではございませんか」。帝がいわれた。「そのとおりだ。この子は生まれながらにして忠孝の心ばえを持っており、並の者とは違う」。そこで、元帥にすることを決められた。韓偓の意見はみなこんなぐあいに崔胤に従っていた。帝は正位に復され、政治に努められた。韓偓が機密な事がらを認可する際の処置は、たいがい帝の意見と一致した。三、四回、宰相になりそうなことがあったが、人にゆずって引きうけようとしなかった。蘇検が政務の補佐にまねいたこともあったが、結局ことわった。 これより以前、韓偓は宴会の場で、京兆の鄭元規と威遠使の陳班と席を並べることになったが、「学士というものは外班に近づかないのです」といってことわった。主催者がどうしてもとたのむと、やっと坐ったが、鄭元規と陳班がやってくると席を離れ、とうとう同席しなかった。朱全忠と崔胤とが殿の前で詔勅をよみあげ、坐っていた者は皆な席を離れたが、韓偓は坐ったままでいった。「宴会の席では、やたらに立ちあがるものではない。お二人は私のことを礼をわきまえた者と思われるであろう」。朱全忠は韓偓が自分を軽んじたのに腹を立て、むっとした顔で出ていった。韓偓は高い官にある者をはずかしめるのが好きだと讒言する者があった。崔胤も韓偓と仲違いした。ちょうど王溥・陸扆が放逐され、帝が王賛と趙崇とを宰相にされようとすると、崔胤が王賛と趙崇を宰相の器でないといった。帝は仕方なく中止された。王賛と趙崇とはどちらも韓偓が宰相に推薦した者であった。 朱全忠は帝に見えて韓偓の罪状をあからさまに指弾した。帝は何度も崔胤の方をみて弁護を求められたが、弁明してやろうとしなかった。朱全忠は中書省にやってきて、韓偓をよびよせて殺そうとした。鄭元規が、「韓偓の官位は承旨であるから、軽々しいことをなさってはいけません」といったので、朱全忠は思いとどまり、韓偓を濮州司馬に左遷させた。帝は韓偓の手をとると、涙を流していわれた。「私のまわりには誰もいなくなった」。また栄懿尉に左遷され、それから鄧州司馬にかわった。天祐二年(905)、ふたたび学士として故の官位にもどるように召還したが、韓偓は朝廷に入ろうとせず、彼の一族をつれて、南方の王審知のもとに身を寄せ、そこで没した。 兄の韓儀は、字は羽光で、同じく翰林学士から御史中丞となった。韓偓が左遷された翌年、帝は文思殿の毬場で宴したが、朱全忠が入ってきても、百官は廊下に座ったままであったから朱全忠は怒り、棣州司馬に左遷され、侍御史の帰藹も登州司戸参軍に左遷された。 賛にいわく、懿宗・僖宗以来、王道は日に日に、次第に失われていき、官吏は腐敗して朝廷は逼塞し、賢人は逃れ、四方の豪傑英雄は、それぞれ合うところに従って奮闘するだけであった。天子は孤独で、一緒にいる者はおべっか使いの見識の浅い人物で、災禍を防ごうとして、すでに倒れているものを支えているようなもので、何と危ういことであろうか。鄭綮・朱朴のような輩を通例によらぬ方法で用いたのは、豚の脛を壊して、猛獣の貙の牙を防ぐようなもので、滅びの道を歩むだけなのである。ただ韓偓一人すら容れられなかったのに、どうして賢者を用いられようか。 前巻 『新唐書』 次巻 巻一百八十二 列伝第一百七 『新唐書』巻巻一百八十三 列伝第第一百八 巻一百八十四 列伝第一百九
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/380.html
唐書巻九十七 列伝第二十二 魏徴 魏徴字玄成、魏州曲城人。少孤、落魄、棄貲産不営、有大志、通貫書術。 隋乱、詭為道士。武陽郡丞元寶藏挙兵應李密、以徴典書檄。密得寶藏書、輒稱善、既聞徴所為、促召之。徴進十策説密、不能用。王世充攻洛口、徴見長史鄭頲曰:「魏公雖驟勝、而驍将鋭士死傷略盡。又府無見財、戦勝不賞。此二者不可以戦。若浚池峭壘、曠日持久、賊糧盡且去、我追撃之、取勝之道也。」頲曰:「老儒常語耳!」徴不謝去。 後從密來京師、久之未知名。自請安輯山東、乃擢秘書丞、馳馹至黎陽。時李勣尚為密守、徴與書曰:「始魏公起叛徒、振臂大呼、衆数十万、威之所被半天下、然而一敗不振、卒歸唐者、固知天命有所歸也。今君處必爭之地、不早自圖、則大事去矣!」勣得書、遂定計歸、而大發粟饋淮安王之軍。 會竇建徳陷黎陽、獲徴、偽拜起居舎人。建徳敗、與裴矩走入関、隠太子引為洗馬。徴見秦王功高、陰勸太子早為計。太子敗、王責謂曰:「爾吾兄弟、奈何?」答曰:「太子蚤從徴言、不死今日之禍。」王器其直、無恨意。 即位、拜諫議大夫、封鉅鹿県男。當是時、河北州県素事隠・巣者不自安、往往曹伏思乱、徴白太宗曰:「不示至公、禍不可解。」帝曰:「爾行安喩河北。」道遇太子千牛李志安・斉王護軍李思行伝送京師、徴與其副謀曰:「屬有詔、宮府旧人普原之。今復執送志安等、誰不自疑者?吾屬雖往、人不信。」即貸而後聞。使還、帝悅、日益親、或引至臥内、訪天下事。徴亦自以不世遇、乃展盡底蘊無所隠、凡二百餘奏、無不剴切當帝心者。由是拜尚書右丞、兼諫議大夫。 左右有毀徴阿黨親戚者、帝使温彦博按訊、非是。彦博曰:「徴為人臣、不能著形迹、遠嫌疑、而被飛謗、是宜責也。」帝謂彦博行讓徴。徴見帝、謝曰:「臣聞君臣同心、是謂一體、豈有置至公、事形迹?若上下共由茲路、邦之興喪未可知也。」帝矍然、曰:「吾悟之矣!」徴頓首曰:「願陛下俾臣為良臣、毋俾臣為忠臣。」帝曰:「忠・良異乎?」曰:「良臣、稷・契・咎陶也。忠臣、龍逢・比干也。良臣、身荷美名、君都顯號、子孫伝承、流祚無疆。忠臣、己嬰禍誅、君陷昏惡、喪国夷家、祗取空名。此其異也。」帝曰:「善。」因問:「為君者何道而明、何失而暗?」徴曰:「君所以明、兼聽也。所以暗、偏信也。堯・舜氏闢四門、明四目、達四聰。雖有共・、不能塞也、靖言庸違、不能惑也。秦二世隠藏其身、以信趙高、天下潰叛而不得聞。梁武帝信朱、侯景向関而不得聞。隋煬帝信虞世基、賊天下而不得聞。故曰、君能兼聽、則姦人不得壅蔽、而下情通矣。」 鄭仁基息女美而才、皇后建請為充華、典冊具。或言許聘矣。徴諫曰:「陛下處臺榭、則欲民有棟宇。食膏梁、則欲民有飽適。顧嬪御、則欲民有室家。今鄭已約昏、陛下取之、豈為人父母意!」帝痛自咎、即詔停冊。 貞観三年、以秘書監參豫朝政。高昌王麴文泰将入朝、西域諸国欲因文泰悉遣使者奉獻。帝詔文泰使人厭怛紇干迎之。徴曰:「異時文泰入朝、所過供擬不能具、今又加諸国焉、則瀕塞州県以乏致罪者衆。彼以商賈來、則邊人為之利。若賓客之、中国蕭然耗矣。漢建武時、西域請置都護・送侍子、光武不許、不以蠻夷弊中国也。」帝曰:「善。」追止其詔。 於是帝即位四年、歳斷死二十九、幾至刑措、米斗三錢。先是、帝嘗嘆曰:「今大乱之後、其難治乎?」徴曰:「大乱之易治、譬飢人之易食也。」帝曰:「古不云善人為邦百年、然後勝殘去殺邪?」答曰:「此不為聖哲論也。聖哲之治、其應如響、期月而可、蓋不其難。」封徳彝曰:「不然。三代之後、澆詭日滋。秦任法律、漢雜霸道、皆欲治不能、非能治不欲。徴書生、好虚論、徒乱国家、不可聽。」徴曰:「五帝・三王不易民以教、行帝道而帝、行王道而王、顧所行何如爾。黄帝逐蚩尤、七十戦而勝其乱、因致無為。九黎害徳、顓頊征之、已克而治。桀為乱、湯放之。紂無道、武王伐之。湯・武身及太平。若人漸澆詭、不復返朴、今當為鬼為魅、尚安得而化哉!」徳彝不能對、然心以為不可。帝納之不疑。至是、天下大治。蠻夷君長襲衣冠、帶刀宿衛。東薄海、南踰嶺、戸闔不閉、行旅不齎糧、取給於道。帝謂臣曰:「此徴勸我行仁義、既矣。惜不令封徳彝見之!」 俄検校侍中、進爵郡公。帝幸九成宮、宮御舎圍川宮下。僕射李靖・侍中王珪繼至、吏改館宮御以舎靖・珪。帝聞、怒曰:「威福由是等邪!何輕我宮人?」詔按之。徴曰:「靖・珪皆陛下腹心大臣、宮人止後宮掃除隸耳。方大臣出、官吏諮朝廷法式。歸來、陛下問人間疾苦。夫官舎、固靖等見官吏之所、吏不可不謁也。至宮人則不然、供饋之餘無所參承。以此按吏、且駭天下耳目。」帝悟、寢不問。 後宴丹霄樓、酒中謂長孫忌曰:「魏徴・王珪事隠太子・巣剌王時、誠可惡、我能棄怨用才、無羞古人。然徴毎諫我不從、我發言輒不即應、何哉?」徴曰:「臣以事有不可、故諫、若不從輒應、恐遂行之。」帝曰:「弟即應、須別陳論、顧不得?」徴曰:「昔舜戒臣:『爾無面從、退有後言。』若面從可、方別陳論、此乃後言、非稷・所以事堯・舜也。」帝大笑曰:「人言徴挙動疏慢、我但見其嫵媚耳!」徴再拜曰:「陛下導臣使言、所以敢然。若不受、臣敢数批逆鱗哉!」 七年、為侍中。尚書省滯訟不決者、詔徴平治。徴不素習法、但存大體、處事以情、人人悅服。進左光禄大夫・鄭国公。多病、辭職、帝曰:「公獨不見金在何足貴邪?善冶鍛而為器、人乃寶之。朕方自比於金、以卿為良匠而加礪焉。卿雖疾、未及衰、庸得便爾?」徴懇請、数愈牢。乃拜特進、知門下省事、詔朝章国典、參議得失、禄賜・国官・防閤並同職事。 文徳皇后既葬、帝即苑中作層観、以望昭陵、引徴同升、徴孰視曰:「臣眊、不能見。」帝指示之、徴曰:「此昭陵邪?」帝曰:「然。」徴曰:「臣以為陛下望獻陵、若昭陵、臣固見之。」帝泣、為毀観。尋以定五礼、當封一子県男、徴請封孤兄子叔慈。帝愴然曰:「此可以勵俗。」即許之。 後幸洛陽、次昭仁宮、多所譴責。徴曰:「隋惟責不獻食、或供奉不精、為此無限、而至於亡。故天命陛下代之、正當兢懼戒約、奈何令人悔為不奢。若以為足、今不啻足矣。以為不足、万此寧有足邪?」帝驚曰:「非公不聞此言。」退又上疏曰: 書稱「明徳慎罰」、「惟刑之卹」。礼曰:「為上易事、為下易知、則刑不煩。」「上多疑、則百姓惑。下難知、則君長勞。」夫上易事、下易知、君長不勞、百姓不惑、故君有一徳、臣無二心。夫刑賞之本、在乎勸善而懲惡。帝王所與、天下畫一、不以親疏貴賤而輕重者也。今之刑賞、或由喜怒、或出好惡。喜則矜刑於法中、怒則求罪於律外、好則鑽皮出羽、惡則洗垢索瘢。蓋刑濫則小人道長、賞謬則君子道消。小人之惡不懲、君子之善不勸、而望治安刑措、非所聞也。且暇豫而言、皆敦尚孔・老。至於威怒、則專法申・韓。故道徳之旨未弘、而鍥薄之風先搖。昔州上下其手而楚法以敝、張湯輕重其心而漢刑以謬、況人主而自高下乎!頃者罰人、或以供張不贍、或不能從欲、皆非致治之急也。夫貴不與驕期而驕自至、富不與奢期而奢自至、非徒語也。 且我之所代、實在有隋。以隋府藏況今之資儲、以隋甲兵況今之士馬、以隋戸口況今之百姓、挈長度大、曾何等級焉!然隋以富彊而喪、動之也。我以貧寡而安、靜之也。靜之則安、動之則乱、人皆知之、非隠而難見・微而難察也。不蹈平易之塗、而遵覆車之轍、何哉?安不思危、治不念乱、存不慮亡也。方隋未乱、自謂必無乱。未亡、自謂必不亡。所以甲兵亟動、徭役不息、以至戮辱而不悟滅亡之所由也、豈不哀哉!夫監形之美惡、必就止水。監政之安危、必取亡国。詩曰:「殷鑒不遠、在夏后之世。」臣願當今之動靜、以隋為鑒、則存亡治乱可得而知。思所以危則安矣、思所以乱則治矣、思所以亡則存矣。存亡之所在、在節嗜欲、省游畋、息靡麗、罷不急、慎偏聽、近忠厚、遠便佞而已。夫守之則易、得之實難。今既得其所難、豈不能保其所易?保之不固、驕奢淫泆有以動之也。 帝宴臣積翠池、酣楽賦詩。徴賦西漢、其卒章曰:「終藉叔孫礼、方知皇帝尊。」帝曰:「徴言未嘗不約我以礼。」它日、從容問曰:「比政治若何?」徴見久承平、帝意有所忽、因對曰:「陛下貞観之初、導人使諫。三年以後、見諫者悅而從之。比一二年、勉彊受諫、而終不平也。」帝驚曰:「公何物驗之?」對曰:「陛下初即位、論元律師死、孫伏伽諫以為法不當死、陛下賜以蘭陵公主園、直百万。或曰:『賞太厚。』答曰:『朕即位、未有諫者、所以賞之。』此導人使諫也。後柳雄妄訴隋資、有司得、劾其偽、将論死、戴冑奏罪當徒、執之四五然後赦。謂冑曰:『弟守法如此、不畏濫罰。』此悅而從諫也。近皇甫徳參上書言『修洛陽宮、勞人也。收地租、厚斂也。俗尚高髻、宮中所化也。』陛下恚曰:『是子使国家不役一人、不收一租、宮人無髮、乃稱其意。』臣奏:『人臣上書、不激切不能起人主意、激切即近訕謗。』于時、陛下雖從臣言、賞帛罷之、意終不平。此難於受諫也。」帝悟曰:「非公、無能道此者。人苦不自覺 耳!」 先是、帝作飛山宮、徴上疏曰: 隋有天下三十餘年、風行万里、威憺殊俗、一旦挙而棄之。彼煬帝者、豈惡治安・喜滅亡哉?恃其富彊、不虞後患也。驅天下、役万物、以自奉養、子女玉帛是求、宮宇臺榭是飾、徭役無時、干戈不休、外示威重、内行險忌、讒邪者進、忠正者退、上下相蒙、人不堪命、以致殞匹夫之手、為天下笑。聖哲乘機、拯其危溺。今宮観臺榭、盡居之矣。奇珍異物、盡收之矣。姫姜淑媛、盡侍於側矣。四海九州、盡為臣妾矣。若能鑒彼所以亡、念我所以得、焚寶衣、毀廣殿、安處卑宮、徳之上也。若成功不廢、即仍其旧、除其不急、徳之次也。不惟王業之艱難、謂天命可恃、因基增旧、甘心侈靡、使人不見徳而勞役是聞、斯為下矣。以暴易暴、與乱同道。夫作事不法、後無以観。人怨神怒、則災害生。災害生、則禍乱作。禍乱作、而能以身名令終者鮮矣。 是歳、大雨、穀・洛溢、毀宮寺十九、漂居人六百家。徴陳事曰: 臣聞為国基於徳礼、保於誠信。誠信立、則下無二情。徳礼形、則遠者來格。故徳礼誠信、国之大綱、不可斯須廢也。伝曰:「君使臣以礼、臣事君以忠。」「自古皆有死、民無信不立。」又曰:「同言而信、信在言前。同令而行、誠在令外。」然則言而不行、言不信也。令而不從、令無誠也。不信之言、不誠之令、君子弗為也。 自王道休明、十餘載、倉廩愈積、土地益廣、然而道徳不日博、仁義不日厚、何哉?由待下之情、未盡誠信、雖有善始之勤、而無克終之美。故便佞之徒得肆其巧、謂同心為朋黨、告訐為至公、彊直為擅權、忠讜為誹謗。謂之朋黨、雖忠信可疑。謂之至公、雖矯偽無咎。彊直者畏擅權而不得盡、忠讜者慮誹謗而不敢與之爭。熒惑視聽、鬱於大道、妨化損徳、無斯甚者。 今将致治則委之君子、得失或訪諸小人、是譽毀常在小人、而督責常加君子也。夫中智之人、豈無小惠、然慮不及遠、雖使竭力盡誠、猶未免傾敗、況内懐姦利、承顏順旨乎?故孔子曰:「君子而不仁者有矣、未有小人而仁者。」然則君子不能無小惡、惡不積無害於正。小人時有小善、善不積不足以忠。今謂之善人矣、復慮其不信、何異立直木而疑其景之曲乎?故上不信則無以使下、下不信則無以事上。信之為義大矣! 昔斉桓公問管仲曰:「吾欲使酒腐於爵、肉腐於俎、得無害霸乎?」管仲曰:「此固非其善者、然無害霸也。」公曰:「何如而害霸?」曰:「不能知人、害霸也。知而不能用、害霸也。用而不能任、害霸也。任而不能信、害霸也。既信而又使小人參之、害霸也。」晋中行穆伯攻鼓、經年而不能下、餽閒倫曰:「鼓之嗇夫、閒倫知之、請無疲士大夫、而鼓可得。」穆伯不應。左右曰:「不折一戟、不傷一卒、而鼓可得、君奚不為?」穆伯曰:「閒倫之為人也、佞而不仁。若使閒倫下之、吾不可以不賞、若賞之、是賞佞人也。佞人得志、是使晋国捨仁而為佞、雖得鼓、安用之!」夫穆伯、列国大夫、管仲、霸者之佐、猶能慎於信任、遠避佞人、況陛下之上聖乎?若欲令君子小人是非不雜、必懐之以徳、待之以信、厲之以義、節之以礼、然後善善而惡惡、審罰而明賞、無為之化何遠之有!善善而不能進、惡惡而不能去、罰不及有罪、賞不加有功、則危亡之期或未可保。 帝手詔嘉答。於是、廢明徳宮玄圃院賜遭水者。 它日、宴臣、帝曰:「貞観以前、從我定天下、間関草昧、玄齡功也。貞観之後、納忠諫、正朕違、為国家長利、徴而已。雖古名臣、亦何以加!」親解佩刀、以賜二人。帝嘗問臣:「徴與諸葛亮孰賢?」岑文本曰:「亮才兼将相、非徴可比。」帝曰:「徴蹈履仁義、以弼朕躬、欲致之堯・舜、雖亮無以抗。」時上封者衆、或不切事、帝厭之、欲加譙黜、徴曰:「古者立謗木、欲聞己過。封事、其謗木之遺乎!陛下思聞得失、當恣其所陳。言而是乎、為朝廷之益。非乎、無損於政。」帝悅、皆勞遣之。 十三年、阿史那結社率作乱、雲陽石然、自冬至五月不雨、徴上疏極言曰: 臣奉侍帷幄十餘年、陛下許臣以仁義之道、守而不失。儉約朴素、終始弗渝。徳音在耳、不敢忘也。頃年以來、寖不克終。謹用條陳、裨万分一。 陛下在貞観初、清淨寡欲、化被荒外。今万里遣使、市索駿馬、訪怪珍。昔漢文帝千里馬、晋武帝焚雉頭裘。陛下居常論議、遠輩堯・舜、今所為、更欲處漢文・晋武下乎?此不克終一漸也。子貢問治人。孔子曰:「懍乎若朽索之馭六馬。」子貢曰:「何畏哉?」對曰:「不以道導之、則吾讎也、若何不畏!」陛下在貞観初、護民之勞、煦之如子、不輕営為。頃既奢肆、思用人力、乃曰:「百姓無事則易驕、勞役則易使。」自古未有百姓逸楽而致傾敗者、何有逆畏其驕而為勞役哉?此不克終二漸也。陛下在貞観初、役己以利物、比來縱欲以勞人。雖憂人之言不絶於口、而楽身之事實切諸心。無慮営構、輒曰:「弗為此、不便我身。」推之人情、誰敢復爭?此不克終三漸也。在貞観初、親君子、斥小人。比來輕褻小人、礼重君子。重君子也、恭而遠之。輕小人也、狎而近之。近之莫見其非、遠之莫見其是。莫見其是、則不待間而疏。莫見其非、則有時而昵。昵小人、疏君子、而欲至治、非所聞也。此不克終四漸也。在貞観初、不貴異物、不作無益。而今難得之貨雜然並進、玩好之作無時而息。上奢靡而望下朴素、力役廣而冀農業興、不可得已。此不克終五漸也。貞観之初、求士如渇、賢者所挙、即信而任之、取其所長、常恐不及。比來由心好惡、以衆賢挙而用、以一人毀而棄、雖積年任而信、或一朝疑而斥。夫行有素履、事有成迹、一人之毀未必可信、積年之行不應頓虧。陛下不察其原、以為臧否、使讒佞得行、守道疏間。此不克終六漸也。在貞観初、高居深拱、無田獵畢弋之好。数年之後、志不克固、鷹犬之貢、遠及四夷、晨出夕返、馳騁為楽、變起不測、其及救乎?此不克終七漸也。在貞観初、遇下有礼、情上達。今外官奏事、顏色不接、間因所短、詰其細過、雖有忠款、而不得申。此不克終八漸也。在貞観初、孜孜治道、常若不足。比恃功業之大、負聖智之明、長縱欲、無事興兵、問罪遠裔。親狎者阿旨不肯諫、疏遠者畏威不敢言。積而不已、所損非細。此不克終九漸也。貞観初、頻年霜旱、畿内戸口並就関外、攜老扶幼、來往数年、卒無一戸亡去。此由陛下矜育撫寧、故死不攜貳也。比者疲於徭役、関中之人、勞弊尤甚。雜匠當下、顧而不遣。正兵番上、復別驅任。市物襁屬於廛、遞子背望於道。脱有一穀不收、百姓之心、恐不能如前日之怗泰。此不克終十漸也。 夫禍福無門、惟人之召、人無釁焉、妖不妄作。今旱熯之災、遠被郡国、凶醜之孽、起於轂下、此上天示戒、乃陛下恐懼憂勤之日也。千載休期、時難再得、明主可為而不為、臣所以鬱結長歎者也!疏奏、帝曰:「朕今聞過矣、願改之、以終善道。有違此言、當何施顏面與公相見哉!方以所上疏、列為屏障、庶朝夕見之、兼録付史官、使万世知君臣之義。」因賜黄金十斤、馬二匹。 高昌平、帝宴兩儀殿、歎曰:「高昌若不失徳、豈至於亡!然朕亦當自戒、不以小人之言而議君子、庶幾獲安也。」徴曰:「昔斉桓公與管仲・鮑叔牙・甯戚四人者飲、桓公請叔牙曰:『盍起為寡人壽?』叔牙奉觴而起曰:『願公無忘在莒時、使管仲無忘束縛於魯時、使甯戚無忘飯牛車下時。』桓公避席而謝曰:『寡人與二大夫能無忘夫子之言、則社稷不危矣。』」帝曰:「朕不敢忘布衣時、公不得忘叔牙之為人也。」 帝遣使者至西域立葉護可汗、未還、又遣使金帛諸国市馬。徴曰:「今立可汗未定、即詣諸国市馬、彼必以為意在馬、不在立可汗。可汗得立、必不懐恩。諸蕃聞之、以中国薄義重利、未必得馬而先失義矣。魏文帝欲求市西域大珠、蘇則以為惠及四海、則不求自至。求而得之、不足貴也。陛下可不畏蘇則言乎!」帝遂止。 是後右僕射缺、欲用徴、徴讓、得不拜。皇太子承乾與魏王泰交惡、帝曰:「當今忠謇貴重無踰徴、我遣傅皇太子、一天下之望、羽翼固矣。」即拜太子太師。徴以疾辭、詔答曰:「漢太子以四皓為助、我賴公、其義也。公雖臥、可擁全之。」 十七年、疾甚。徴家初無正寢、帝命輟小殿材為営構、五日畢。賜素褥布被、以從其尚。令中郎将宿其第、動靜輒以聞、薬膳賜遺無算、中使者綴道。帝親問疾、屏左右、語終日乃還。後復與太子至徴第、徴加朝服、扡帶。帝悲懣、拊之流涕、問所欲。對曰:「嫠不恤緯、而憂宗周之亡!」帝将以衡山公主降其子叔玉、時主亦從、帝曰:「公彊視新婦!」徴不能謝。是夕、帝夢徴若平生、及旦、薨。帝臨哭、為之慟、罷朝五日。太子挙哀西華堂。詔内外百官朝集使皆赴喪、贈司空・相州都督、謚曰文貞、給羽葆・鼓吹・班劍四十人、陪葬昭陵。将葬、其妻裴辭曰:「徴素儉約、今假一品礼、儀物褒大、非徴志。」見許、乃用素車、白布幨帷、無塗車・芻靈。帝登苑西樓、望哭盡哀。晋王奉詔致祭。帝作文于碑、遂書之。又賜家封戸九百。 帝後臨朝歎曰:「以銅為鑑、可正衣冠。以古為鑑、可知興替。以人為鑑、可明得失。朕嘗保此三鑑、内防己過。今魏徴逝、一鑑亡矣。朕比使人至其家、得書一紙、始半、其可識者曰:『天下之事、有善有惡、任善人則国安、用惡人則国弊。公卿之内、情有愛憎、憎者惟見其惡、愛者止見其善。愛憎之間、所宜詳慎。若愛而知其惡、憎而知其善、去邪勿疑、任賢勿猜、可以興矣。』其大略如此。朕顧思之、恐不免斯過。公卿侍臣可書之於笏、知而必諫也。」 徴状貌不逾中人、有志膽、毎犯顏進諫、雖逢帝甚怒、神色不徙、而天子亦為霽威。議者謂賁・育不能過。嘗上還、奏曰:「向聞陛下有関南之行、既辦而止、何也?」帝曰:「畏卿、遂停耳。」始、喪乱後、典章湮散、徴奏引諸儒校集秘書、国家圖籍粲然完整。嘗以小戴礼綜彙不倫、更作類礼二十篇、数年而成。帝美其書、録寘内府。帝本以兵定天下、雖已治、不忘經略四夷也。故徴侍宴、奏破陣武徳舞、則俛首不顧、至慶善楽、則諦玩無斁、挙有所諷切如此。 徴亡、帝思不已、登凌煙閣観畫像、賦詩悼痛。聞者媢之、毀短百為。徴嘗薦杜正倫・侯君集才任宰相、及正倫以罪黜、君集坐逆誅、孅人遂指為阿黨。又言徴嘗録前後諫爭語示史官褚遂良。帝滋不悅、乃停叔玉昏、而仆所為碑、顧其家衰矣。 遼東之役、高麗・靺鞨犯陣、李勣等力戦破之。軍還、悵然曰:「魏徴若在、吾有此行邪!」即召其家到行在、賜勞妻子、以少牢祠其墓、復立碑、恩礼加焉。 四子:叔玉・叔琬・叔璘・叔瑜。叔玉襲爵為光禄少卿。神龍初、以其子膺紹封。叔璘、礼部侍郎、武后時、為酷吏所殺。叔瑜、豫州刺史、善草隸、以筆意伝其子華及甥薛稷。世稱善書者「前有虞・褚、後有薛・魏」。華為検校太子左庶子・武陽県男。開元中、寢堂火、子孫哭三日、詔百官赴弔。 徴五世孫。 字申之。擢進士第、同州刺史楊汝士辟為長春宮巡官。文宗讀貞観政要、思徴賢、詔訪其後、汝士薦為右拾遺。姿宇魁秀、帝異之。 邕管經略使董昌齡誣殺參軍衡方厚、貶州司戸、俄徙峽州刺史。諫曰:「王者赦有罪、唯故無赦。比昌齡專殺不辜、事跡暴章、家人銜、万里投訴、獄窮罪得、特被矜貸、中外以為屈法。今又授刺史、復使治人、紊憲章、乖至治、不見其可。」有詔改洪州別駕。 御史中丞李孝本、宗室子、坐李訓事誅死、其二女沒入宮。上言:「陛下即位、不悅聲色、于今十年、未始采擇。数月以來、稍意聲伎、教坊閲選、百十未已、莊宅收市、亹亹有聞。今又取孝本女内之後宮、宗姓不育、寵幸為累、傷治道之本、速塵穢之嫌。諺曰:『止寒莫若重裘、止謗莫若自修。』惟陛下崇千載之盛徳、去一旦之玩好。」帝即出孝本女、詔曰:「乃祖在貞観時、指事直言、無所避、毎覽国史、朕與嘉之。為拾遺、屢有獻納。夫備灑埽於内、非曰聲妓、恤宗女之幼、不為漁取、然疑似之間、不可戸曉。辭深切、其惜我之失、不亦至乎?雖居位日淺、朕何愛一官、增直臣之氣、其以為右補闕。」處無過之地。」教坊有工善為新聲者、詔授揚州司馬、議者頗言司馬品高、郎官・刺史迭處、不可以授賤工、帝意右之。宰相諭諫官勿復言、獨固諫不可、工降潤州司馬。荊南監軍呂令琛縱傔卒辱江陵令、観察使韋長避不發、移内樞密使言状。劾長任察廉、知監軍侵屈官司、不以上聞、私白近臣、乱法度、請明其罰。不報。 俄為起居舎人、帝問:「卿家書詔頗有存者乎?」對:「惟故笏在。」詔令上送。鄭覃曰:「在人不在笏。」帝曰:「覃不識朕意、此笏乃今甘棠。」帝因敕曰:「事有不當、毋嫌論奏。」對:「臣頃為諫臣、故得有所陳。今則記言動、不敢侵官。」帝曰:「兩省屬皆可議朝廷事、而毋辭也!」帝索起居注、奏:「古置左・右史、書得失、以存鑒戒。陛下所為善、無畏不書。不善、天下之人亦有以記之。」帝曰:「不然。我既嘗観之。」曰:「向者取観、史氏為失職。陛下一見、則後來所書必有諱屈、善惡不實、不可以為史、且後代何信哉?」乃止。 中尉仇士良捕妖民賀蘭進興及黨與治軍中、反状具、帝自臨問、詔命斬囚以徇。御史中丞高元裕建言:「獄當與衆共之。刑部・大理、法官也、決大獄不與知、律令謂何?請歸有司。」未報。上言:「事繫軍、即推軍中。如斉民、宜付府県。今獄不在有司、法有輕重、何從而知?」帝停決、詔神策軍以官兵留仗内、餘付御史臺。臺憚士良、不敢異、卒皆誅死。擢諫議大夫、兼起居舎人・弘文館直学士、固讓不見可、乃拜。 始之進、李・楊嗣復實推引之。武宗立、坐二人黨、出為汾州刺史。俄貶信州長史。宣宗嗣位、移郢・商二州刺史。召授給事中、遷御史中丞、發駙馬都尉杜中立姦贓、權戚縮氣。俄兼戸部侍郎事、奏:「中丞、紀綱所寄、不宜雜領錢穀、乞專治戸部。」詔可。頃之、進同中書門下平章事。建言:「今天下粗治、惟東宮未立、不早以正人傅導之、非所以存副貳之重。」且泣下、帝為感動。自敬宗後、惡言儲嫡事、故公卿無敢開陳者。時帝春秋高、嫡嗣未辨、輔政、白發其端、朝議歸重。 會詹毘国獻象、以為非土性、不可畜、請還其獻。詔可。河東節度使李業殺降虜、邊部震擾、業内恃憑藉、人無敢言者、奏徙滑州。遷中書侍郎。大理卿馬曙有犀鎧数十首、懼而瘞之。奴王慶以怨告曙藏甲有異謀、按之無它状、投曙嶺外、慶免。議者謂奴訴主、法不聽。引律固爭、卒論慶死。累遷門下侍郎、兼戸部尚書。 大中十年、以平章事領劍南西川節度使。上疾求代、召拜吏部尚書、用久疾、検校尚書右僕射・太子少保。卒、年六十六、贈司徒。 為宰相、議事天子前、它相或委抑規諷、惟讜切無所回畏。宣宗嘗曰:「名臣孫、有祖風、朕心憚之。」然卒以剛正為令狐綯所忌、纔罷之。 賛曰:君臣之際、顧不難哉!以徴之忠、而太宗之睿、身歿未幾、猜譖遽行。始、徴之諫、累数十餘万言、至君子小人、未嘗不反復為帝言之、以佞邪之乱忠也。久猶不免。故曰:「皓皓者易汚、嶢嶢者難全」、自古所歎云。唐柳芳稱「徴死、知不知莫不恨惜、以為三代遺直」。諒哉!之論議挺挺、有祖風烈、詩所謂「是以似之」者歟!
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/169.html
唐書巻八十 列伝第五 太宗諸子 常山王承乾 鬱林王恪 成王千里 呉王琨 信安王禕 趙国公峘 嗣呉王祗 嗣呉王巘 濮王泰 庶人祐 蜀王愔 蒋王惲 之芳 越王貞 琅邪王 紀王慎 義陽王琮 曹王明 嗣曹王皋 象古 道古 太宗に十四子があった。文徳皇后は李承乾を生み、また第四子の李泰と高宗皇帝を生み、後宮は李寛を生み、楊妃は李恪を生み、また第六子の李愔を生み、陰妃は李祐を生み、王氏は李惲を生み、燕妃は李貞を生み、また第十一子の李囂を生み、韋妃は李慎を生み、後宮は李簡を生み、楊妃は李福を生み、楊氏は李明を生んだ。 常山愍王李承乾は、字を高明といい、承乾殿に生まれたので、即以命之。武徳三年、始め常山郡に王となり、與長沙・宜都二王同じく封ぜられた。俄徙中山。太宗が即位すると、立って皇太子となった。 甫八歳、特敏恵、帝愛之。在諒闇、使裁決庶政、有大體、後毎行幸、則令監国。及長、好聲色慢游、然懼帝、秘其。臨朝、言諄諄必忠孝、退乃與群不逞狎慢。左右或進諫、危坐斂容、痛自咎、飾非辯給、諫者拜答不暇、故人人以為賢而莫之察。後過惡寖聞、宮臣若孔穎達・令狐徳棻・于志寧・張玄素・趙弘智・王仁表・崔知機等皆天下選、毎規爭承乾、帝必厚賜金帛、欲以厲其心。承乾不悛、往往遣人陰圖害之。時魏王泰有美名、帝愛重。而承乾病足、不良行、且懼廃、與泰交惡。泰亦謀奪長、各樹黨。 東宮有俳兒、善姿首、承乾嬖愛、帝聞震怒、收兒殺之、坐死者数人。承乾意為泰告、望甚。内念兒不已、築室圖其象、贈官樹碑、為起苑中、朝夕祭。承乾至其処裴回、涕数行下、愈怨懟、稱疾不朝、累数月。 又使戸奴数十百人習音聲、学胡人椎髻、翦綵為舞衣、尋橦跳剣、鼓鞞聲通昼夜不絶。造大銅鑪・六熟鼎、招亡奴盜取人牛馬、親視烹燖、召所幸廝養共食之。又好突厥言及所服、選貌類胡者、被以羊裘、辮髪、五人建一落、張氈舍、造五狼頭纛、分戟為陣、繋幡旗、設穹廬自居、使諸部斂羊以烹、抽佩刀割肉相啗。承乾身作可汗死、使衆号哭剺面、奔馬環臨之。忽復起曰:「使我有天下、将数万騎到金城、然後解髪、委身思摩、當一設、顧不快邪!」左右私相語、以為妖。又襞氈為鎧、列丹幟、勒部陣、與漢王元昌分統、大呼撃刺為楽。不用命者、披樹抶之、或至死、輕者輒腐之。嘗曰:「我作天子、當肆吾欲。有諫者、我殺之、殺五百人、豈不定?」 又召壯士左衛副率封師進・刺客張師政・紇干承基等謀殺魏王泰、不克、遂與元昌・侯君集・李安儼・趙節・杜荷鑱臂血喢之、謀以兵入西宮。貞観十七年、斉王祐反斉州、承乾謂承基等:「我宮西牆、去大内正可二十歩棘耳、豈與斉州等?」会承基連斉王事繋獄當死、即上變。帝詔長孫无忌・房玄齢・蕭瑀・李勣・孫伏伽・岑文本・馬周・褚遂良雜治、廃為庶人、徙黔州。十九年死、帝為廃朝、葬以国公礼。 子象、為懐州別駕、厥鄂州別駕。開元中、象子適之為宰相、贈還承乾始王、象越州都督・郇国公。 楚王李寛は、武徳三年、出後楚哀王、蚤薨去し、貞観初年に追封された。 鬱林王李恪は、始め長沙に王となり、俄進封漢。貞観二年徙蜀、與越・燕二王同じく封ぜられた。不之国、久乃為斉州都督。帝謂左右曰:「吾於恪豈不欲常見之?但令早有定分、使外作藩屏、吾百歳後、庶兄弟無危亡憂。」十年、改王呉、與魏・斉・蜀・蒋・越・紀六王同徙封。授安州都督。帝賜書曰:「汝惟茂親、勉思所以藩王室、以義制事、以礼制心。外之為君臣、内之為父子、今當去膝下、不遺汝珍、而遺汝以言、其念之哉!」坐與乳媼子博、罷都督、削封戸三百。高宗即位、拜司空・梁州都督。 恪善騎射、有文武才。其母隋煬帝女、地親望高、中外所向。帝初以晋王為太子、又欲立恪、長孫无忌固爭、帝曰:「公豈以非己甥邪?且兒英果類我、若保護舅氏、未可知。」无忌曰:「晋王仁厚、守文之良主、且挙棋不定則敗、況儲位乎?」帝乃止。故无忌常惡之。永徽中、房遺愛謀反、因遂誅恪、以絶天下望。臨刑呼曰:「社稷有霊、无忌且族滅!」四子、仁・瑋・琨・並流嶺表。顕慶五年、追王鬱林、為立廟、以河間王孝恭孫栄為鬱林県侯以嗣。神龍初年、司空を贈られ、礼を備えて改葬された。 光宅中、仁遇赦還、適会栄以罪斥、故得襲鬱林県男、歴岳州別駕、爵郡公。嘗使江左、州人遺以金、拒不内。武后遣使者勞曰:「兒、吾家千里駒。」更名千里。自天授後、宗室賢者多株翦、唯千里詭躁不情、数進符瑞諸異物、得免。中宗反正、改王成紀。未幾、進王成。 節愍太子誅武三思、千里與其子天水王禧率数十人斬右延明門以入。太子敗、誅死、籍其家、改氏「蝮」。睿宗立、詔還氏及官爵。 瑋蚤卒、中宗追封朗陵王。子、出継蜀王愔。開元中、以傍継国改封広漢郡王、遷太僕卿同正員、薨去した。 琨、武后時歴六州刺史、皆有名。聖暦中、為嶺南招慰使、安輯反獠、甚得其宜。卒、贈司衛卿。神龍初年、張掖郡王を贈られた。開元中、以子禕貴、追封呉王。 禕少有志尚、事継母謹、撫異母弟祗、以友稱。當襲封、固讓祗、中宗嘉其意、特封嗣江王、以継囂後。開元時、亦以傍継徙信安郡王。累為州刺史、治嚴辦。遷礼部尚書・朔方節度使。 初、吐蕃據石堡城、数盜塞、詔禕與河西・隴右議攻取。既到屯、諏日進師。或謂:「城險、賊所愛、必固守。今兵深入、有如不捷、吾軍必奔、不如持重伺賊勢。」禕曰:「人臣之節、豈憚險不進乎?必衆寡不敵者、吾以死継之。」於是分兵迮賊路、督諸将倍道進、遂拔之。自是河・隴諸軍游弈、拓地至千里。玄宗喜、更号其城曰振武軍。 契丹牙官可突于叛、詔拜忠王為河北道行軍元帥討之、敕禕以副。王不行、故禕率裴耀卿諸将分道出范陽北、撃二蕃、破之、禽酋長以還、餘部竄伏。加開府儀同三司、領関内支度營田採訪処置使、授二子官。 禕功多、執政害之、賞不讎、為當時所恨。久之、擢兵部尚書、為朔方節度大使。坐事下除衢州刺史。歴滑・懐二州。天宝初、以太子少師致仕。明年、遷太師、未拜、薨去した。 禕治家嚴、教子有法度、故峘・嶧・峴皆顕。 峘性質厚、歴宦有美名、以王孫封趙国公。楊国忠乱政、悉斥不附己者。峘由考功郎中拜睢陽太守、以清簡為二千石最。方入計、而玄宗入蜀、即走行在。除武部侍郎、兼御史大夫。俄拜蜀郡太守・剣南節度採訪使。郭千仞反、與陳玄礼共討平之。上皇還京、遷戸部尚書、改越国。 乾元元年、持節都統江淮節度宣慰観察使。都統之号、自峘始。明年、宋州刺史劉展有異志、詔拜展為淮南節度使、密詔峘與揚州長史鄧景山圖之。時展強扈、既受詔、即悉兵度淮、峘・景山拒之、戰寿春、敗績、峘走丹楊。詔貶袁州司馬、卒于官、贈揚州大都督。弟峴別伝。 李祗は嗣呉王に封ぜられ、出為東平太守。安禄山反、河南・陳留・滎陽・霊昌相継陷、祗募兵拒賊、玄宗壯之。累遷陳留太守、持節河南道節度採訪使。歴太僕・宗正卿。代宗大暦時、祗既宗室老、以太子賓客為集賢院待制。是時、勳望大臣無職事者皆得待詔于院、給飧銭署舍以厚其礼、自左僕射裴冕等十三人為之。 子巘、以廕補五品官。李祗は薨去し、兄岵得罪、乃以巘嗣王。累至宗正卿、検校刑部尚書。薨去し、太子少保を贈られた。性介直、面刺人短。歴官清白、居室不能庇風雨。收恤甥姪、慈愛過人、家無留儲、公卿合賻乃克葬。 李は、神龍初年に帰政郡王に封ぜられ、宗正卿を歴て、千里の事件に連座して、南州司馬に左遷された。 濮恭王李泰は、字を恵褒といった。始め宜都に王となり、衛に徙封され、懐王の後を継いだ。また越に徙封され、揚州大都督となった。再遷雍州牧・左武候大将軍。改王魏。帝以泰好士、善属文、詔即府置文学館、得自引学士。又以泰大腰腹、聽乘小輿至朝。司馬蘇勗勸泰延賓客著書、如古賢王。泰乃奏撰括地志、於是引著作郎蕭徳言・秘書郎顧胤・記室参軍蒋亞卿・功曹参軍謝偃等撰次。衛尉供帳、光禄給食、士有文学者多與、而貴游子弟更相因藉、門若市然。泰悟其過、欲速成、乃分道計州、繙緝疏録、凡五百五十篇、歴四期成。詔藏秘閣、所賜万段。後帝幸泰延康坊第、曲赦長安死罪、免坊人一年租、府僚以差賜帛。 又泰月稟過皇太子遠甚、諫議大夫褚遂良諫曰:「聖人尊嫡卑庶、謂之儲君、故用物不会、與王共之、庶子不得為比、所以塞嫌萌、杜禍源。先王制法、本諸人情、知有国家者必有嫡庶、庶子雖愛、不得過嫡子。如當親者疏、當尊者卑、則私恩害公、惑志乱国。今魏王稟料過東宮、議者以為非是。昔漢竇太后愛梁王、封四十餘城。王築苑三百里、治宮室、為複道、費財鉅万、出警入蹕、一不得意、遂發病死。宣帝亦驕淮陽王、幾至於敗、輔以退讓之臣、乃克免。今魏王新出閤、且當示以節倹、自可在後月加歳增。又宜擇師傅、敦以謙倹、勉以文学、就成徳器、此所謂聖人之教、不肅而成也。」 帝又敕泰入居武徳殿、侍中魏徴亦言:「王為陛下愛子、欲安全之、則不當使居嫌疑之地。今武徳殿在東宮之西、昔海陵居之矣、論者為不可。雖時與事異、人之多言、尚或可畏。又王之心亦弗遑舍、願罷之、成王以寵為懼之美。」帝悟、乃止。 時皇太子承乾病蹇、泰以計傾之、乃引駙馬都尉柴令武・房遺愛等布腹心、而韋挺・杜楚客相継攝府事。二人者、為泰要結中朝臣、津介賂遺、群臣更附為朋黨。承乾懼、陰遣人稱泰府典籤詣玄武門上封、帝省之、書言泰罪、帝怒、即遣捕詰、不獲。既而太子敗、帝陰許立泰、岑文本・劉洎請遂立泰為太子。長孫无忌固欲立晋王、帝以太原石文有「治万吉」、復欲従无忌。泰微知之、因語晋王:「爾善元昌、得無及乎?」王憂甚、帝怪之、以故對、帝憮然悟。会召承乾譴勒、承乾曰:「臣貴為太子、尚何求?但為泰所圖、與朝臣謀自安爾。無状之人、遂教臣為不軌事。若泰為太子、正使其得計耳。」帝曰:「是也、有如立泰、則副君可詭求而得。使泰也立、承乾・治倶死。治也立、泰・承乾可無它。」即幽泰将作監、解雍州牧・相州都督・左武候大将軍、降王東萊。因詔:「自今太子不道・藩王窺望者、兩棄之、著為令。」然帝猶謂无忌曰:「公勸我立雉奴、雉奴仁懦、得無為宗社憂、奈何?」雉奴、高宗小字。 泰尋改王順陽、居均州之鄖郷。帝嘗持泰表語左右曰:「泰文辭可喜、豈非才士?我心念泰無已時、但為社稷計、遣居外、使兩相完也。」二十一年進王濮。高宗即位、詔泰開府置僚属、車服羞膳異等。鄖郷で薨去し、年は三十五で、太尉・雍州牧を贈られた。二子があった。李欣・李徽といった。 李欣は王を嗣ぎ、武后のときに酷吏のためにおとしいれられて、昭州別駕に左遷され、薨去した。子の李嶠が、神龍初年に王を嗣ぐことができた。開元年間に国子祭酒となり、罪のため鄧州別駕に左遷され、薨去した。李徽は新安郡王に封ぜられた。 庶人李祐は、字を賛といった。武徳八年、王宜陽、進王楚、又王燕、已乃封斉、領斉州都督。貞観十一年始帰国。明年入朝、以疾留京師。其舅尚乘直長陰弘智、憸人也、説祐曰:「王兄弟多、即上万歳後、何以自全?要須得士自助。」乃引客燕弘信謁祐、祐悅、賜金帛、使募剣客。十五年還州。 初、帝用王府長史・司馬、必取骨鯁敢言者、有過失輒聞。而祐溺群小、好弋獵、長史薛大鼎屢諫不聽、帝以輔王無状、免之、更用權万紀。万紀性剛急、以法繩祐。有昝君・梁猛虎者、騎射得幸、万紀斥之、祐私引與狎昵。帝数以書讓祐、万紀恐并獲罪、即説祐曰:「王、上愛子、上欲王改悔、故数教責王。誠能飭躬引咎、万紀請入朝言之、上意宜解。」祐因上書謝罪。万紀見帝、言祐且自新、帝悅、厚賜万紀、而仍譙戒祐。祐聞万紀見勞、而己蒙責、以為賣己、益不平。会万紀又以疑貳繋君等、制祐不出国門、悉暴祐罪于朝、祐不勝忿。有詔刑部尚書劉徳威臨訊、頗実、帝召祐・万紀還京師。祐與燕弘亮等謀、射殺万紀、支解之。左右勸祐遂發兵、乃募城中男子年十五以上悉發、私署左右上柱国、光禄大夫、開府儀同三司、托東・托西等王、斥庫貲行賞、驅人築堞浚隍、繕甲兵。人惡之、皆夜縋亡去。 詔兵部尚書李勣與劉徳威發便道兵討之。祐日夜引弘亮等五人對其妃宴楽。語官軍、則弘亮妄言:「王毋憂、右手持酒啗、左手刀拂之。」祐信愛弘亮、聞之喜。帝手敕祐曰:「吾常戒汝勿近小人、正為此耳。往吾子、今国讎、我上皇天、下愧后土。」題畢、涕而遣。祐檄諸県、県輒以聞。祐窮蹙、上表曰:「臣、帝子也、為万紀讒搆、上天降霊、罪人斯得。臣狂失心、惝怳驚悸、左右無兵、即欲顛走、所以頗仗械以自衛護。」時勣未至、而青・淄等州兵已集。或勸祐虜子女走豆子為盜、計未決、兵曹杜行敏夜勒兵鑿垣入、祐與弘亮等閉門拒、至日中、行敏呼曰:「吾為国討賊、不速降、且焚。」士積薪、祐乃出、執送京師。賜死内侍省、貶為庶人、葬以国公礼。詔斉州給復一年、擢行敏巴州刺史、封南陽郡公。 祐喜養鴨、方未反、狸鴨四十餘、絶其頭去。及敗、牽連誅死者凡四十餘人。 祐之乱、州人羅石頭数祐罪、以刀直前刺祐、不克、殺之。詔贈亳州刺史。 嘗引騎徇邑聚、野人高君状曰:「上親平寇難、土地甲兵不勝計。今王以数千人為乱、猶一手搖泰山、又如君父何?」祐撃禽之、愧其言、不能殺。詔擢楡社令。 蜀悼王李愔は、貞観五年に始め梁に王となり、與郯・漢・申・江・代五王同じく封ぜられた。徙王蜀、実封八百戸。出為岐州刺史。数畋游、為非法、帝頻責教、不悛、怒曰:「禽獸可擾於人、鐵石可為器、愔曾不如之!」乃削封戸及国官半、徙虢州。久之、還戸、增至千。復出馳弋、敗民稼。典軍楊道整叩馬諫、愔捽撃之。御史大夫李乾祐劾愔罪、高宗怒、貶黄州刺史。擢道整匡道府折衝都尉。 呉王恪得罪、愔以母弟廃為庶人、徙巴州。俄封涪陵王、薨去した。咸亨初、復爵土、贈益州大都督、陪葬昭陵、以子璠嗣王。璠、武后時謫死帰誠州。神龍初、以朗陵王瑋子嗣。 蒋王李惲は、始め郯に王となり、又徙王蒋、拜安州都督、賜実封千戸。永徽三年、徙梁州。惲造器物服玩、多至四百車、所経州県騷然護送、為有司劾奏、詔貸不問。上元中、遷箕州刺史。録事参軍張君徹誣告惲反、詔使者按驗、惲惶懼自殺。高宗知其枉、斬君徹、贈惲司空・荊州大都督、陪葬昭陵。三子があった。煒・煌・休道。 煒初王汝南郡、惲薨去し、遂嗣王、為武后所害。神龍初、以嫡孫紹宗為嗣蒋王、薨去し、子欽福嗣、為率更令。 煌封蔡国公。孫之芳、有令譽、安禄山奏為范陽司馬。禄山反、自拔帰京師。歴工部侍郎・太子右庶子。広徳初、詔兼御史大夫使吐蕃、被留二歳乃得帰。拜礼部尚書、改太子賓客。 休道子琚、神龍初封嗣趙王、開元中改王中山。 越王李貞は、始王漢、後徙原、已乃封越。貞善騎射、渉文史、有吏幹、為宗室材王。武后初、遷累太子太傅・豫州刺史。中宗廃居房陵、貞乃與韓王元嘉及王子黄公譔、魯王霊夔・王子范陽王藹、霍王元軌・王子江都王緒、及子琅邪王沖計議反正。 垂拱四年、明堂成、悉追宗室行享礼、共疑后遂大誅戮不遺種、事且急、譔乃矯帝璽書賜沖曰:「朕幽縶、諸王宜即起兵。」於是命長史蕭徳琮募兵、告諸王師期。八月、沖先發、諸王莫有応者、獨貞将兵攻上蔡、破之、而沖已敗。貞稍徇属県、得士七千、列五營:貞為中營、以裴守徳為大将軍、領中營。趙成美為左中郎将、領左營。閭弘道為右中郎将、領右營。安摩訶為郎将、領後軍。王孝志為右将軍、領前軍。以韋慶礼為司馬、署官五百。然脅誘無志、家童皆佩符以辟兵。九月、后遣左豹韜衛大将軍麴崇裕・夏官尚書岑長倩率兵十万討之、以鳳閣侍郎張光輔為諸軍節度、乃下詔削貞父子属籍、改氏「虺」。崇裕等次豫州、貞少子規及裴守徳拒戰、兵潰、貞乃閉門守。守徳者、驍勇士。貞始起、以女妻之、委以腹心。至是、欲殺貞自贖。会軍薄城、家人白貞:「今事乃爾、王豈受戮辱者邪?」即仰藥死。規自殺、守徳與主倶縊。起凡二十日敗。始、貞臨水自鑒、不見其首、惡之、未幾及禍。 沖、貞長子也。好学、勇而才、累遷博州刺史。初發、有士五千、度河趣武水、武水令告急魏州、州遣莘令馬玄素領兵先乘城、沖攻之、因風、積薪焚其門、火作風反、衆心沮解、其属董元寂誦言:「王與国家戰、乃反爾。」沖斬以徇、衆懼、遂潰、唯家僮数十従之、乃走博州、為當関刺死。后命丘神勣討之、兵未至、沖已死、起七日敗。二弟:蒨・温。蒨、常山公、坐死。温以前告、流嶺南。 初、貞騰檄寿州刺史趙、諭以興兵且假道。得檄、許為応、妻常楽長公主亦趣諸王蚤立功、故與主皆死。済州刺史薛顗與其弟紹謀応沖、率所部庸・調、治兵募士、沖敗、下獄死。顗、駙馬都尉瓘之子、母城陽長公主、封河東県侯。紹尚太平公主、擢累右玉鈐衛員外将軍、以主婿不加戮、餓死河南獄。 神龍初、敬暉等奏沖父子死社稷、請復爵土、為武三思等沮罷。開元四年、乃復爵土、有司謚死不忘君曰敬。五年、又詔:「王嗣絶国除、朕甚悼焉。其以貞従孫故許王子夔国公琳嗣王、奉王祀。」琳薨去し、爵不伝。 貞最幼息珍子謫嶺表、数世不能帰。開成中、女孫持四世喪北還、求祔王塋。詔嘉憫、敕宗正寺・京兆府為訪其兆、非陪陵者聽葬。女名元真、為道士。 紀王李慎は、始王申、後徙紀、食戸八百。貞観中、遷襄州刺史、以治當最、天子璽書勞勉、人為立石頌徳。二十三年、進戸至千。文明初、累遷太子太師・貝州刺史。慎少好学、善星歩、與越王斉名、當世号「紀越」。 初、貞連諸王起兵、慎知時未可、獨拒不與合。将就誅而免、改氏「虺」、載以檻車、謫巴州、薨于道。七子があった。續・琮・叡・秀・献・欽・證。續與秀最知名。 續王東平、歴和州刺史、薨去した。琮義陽王、叡楚国公、秀襄陽郡公、献広化郡公、欽建平郡公、五人並為武后所殺。神龍初、以證嗣王、擢左驍衛将軍、薨去した。子行同嗣。 李琮に三子があった。行遠・行芳・行休。始、琮與二弟同死桂林。開元四年、行休請身迎柩、既至、無封樹、議者謂不可復得。行休帰、地布席以祈。是夜夢王乘舟、舟判為二。既而適野、見東洲中斷、乃悟焉。又霊堂鎖一夕莖自屈、管上有指、一奇二並。使卜人筮之、曰:「屈、於文為尸出。指者、示也。一奇二並、三殯也。先王告之矣。」乃趣其所、發之如言、而一節獨闕。行休号而寢、夢琮告曰:「在洛南洲。」明日、直殯南得之。於是以三喪帰、陪葬昭陵、贈琮陳州刺史。永昌時、行遠・行芳斥巂州、六道使至、行遠先就戮、行芳幼當赦、抱持請代、遂與倶死、西南人稱死悌云。 李慎の女の東光県主は、始八歳、聞慎有疾、不食、父哀之、紿云已愈、主察顏色未平、終不肯御、内外稱之。長適太子司議郎裴仲将。時妃・主多恃貴、以奢豫相矜、主獨倹素、姊弟誚曰:「人生富貴在得志、獨勤苦、欲何求?」答曰:「我幼好礼、今行之不違、非得志謂何?且自古賢妃淑女以恭遜著名、驕縱敗徳、況栄寵貴盛、儻來物也、可恃以凌人乎?」及王死、号慟、嘔血数升。免喪、絶膏沐者二十年。始、諸王・妃・主自垂拱後被害者皆掩之。神龍初、詔州県普加求訪、祭以牲牢、復官爵、諸王皆陪葬昭・献二陵。主聞、感慟、卒、敕其子曰:「為我謝親戚、酷憤已雪、下見先王無恨矣!」中宗為挙哀章善門、下詔褒揚。 江殤王李囂は、封の明年に薨去し、後嗣がなかった。 代王李簡は、已封薨去し、後嗣がなかった。 趙王李福は、貞観十三年()に始めて王となり、出後隱太子。遷累梁州都督、実封八百戸。薨去し、司空・并州都督を贈られ、昭陵に陪葬された。子がなく、神龍初年、蒋王李惲の孫の李思順に王を嗣がせた。 曹王李明は、母がもとは巣王(李元吉)の妃で、帝寵之、欲立為后、魏徴諫曰:「陛下不可以辰嬴自累。」乃止。貞観二十一年、始王曹、累為都督・刺史。高宗詔出後巣王。永隆中、坐太子賢事、降王零陵、徙黔州。都督謝祐逼殺之、帝聞、悼甚、黔官吏皆坐免。景雲中、陪葬昭陵。三子があった。李俊・李傑・李備。 李俊が王を嗣ぎ、南州別駕、傑為黎国公、垂拱時並及誅。神龍初、以傑子胤為嗣曹王。是時、諸王子孫自嶺外還、入見中宗、皆号慟、帝為泣下。初、武后時、壯者誅死、幼皆沒為官奴、或匿人間庸保。至是、相継出、帝隨属遠近封拜云。後備自南還、詔停胤封而封備、歴衛尉少卿同正員、薨去した。開元十二年、復封胤。薨去し、子の李戢が嗣ぎ、位左衛率府中郎将。子の李皋が嗣いだ。 李皋は字を子蘭といい、少補左司禦兵曹参軍。天宝十一載嗣王。事母太妃鄭以孝聞。安禄山反、奉母逃民間、間走蜀、謁玄宗、由都水使者遷左領軍将軍。上元初旱歉、皋禄不足養、請補外、不許、乃故抵輕法、貶温州長史、俄攝州事。州大饑、發官廩数十万石賑餓者、僚史叩庭請先以聞、皋曰:「人日不再食且死、可俟命後發哉?苟殺我而活衆、其利大矣!」既貸、乃自劾、優詔開許、就進少府監。時殿中侍御史李鈞與其弟京兆法曹参軍鍔宦既遂、不肯還郷、母窮不自給。皋行県見之、歎曰:「入則孝、出則悌、有餘力則学。若二子者可與事君乎哉?」挙劾之、並錮死。召還、未得見、即上書言治道、詔授衡州刺史、為観察使謾劾、貶潮州。会楊炎起道州為宰相、知皋直、復用為衡州刺史。初、御史覆訊、皋懼憂其母、出則囚服、入乃衣冠、貌言如平常。及為潮、以遷入告。至是復位、乃言其実。 建中元年、進拜湖南観察使。前帥辛京杲貪虐、使部将王国良戍武岡、賴其富、即劾以死、国良恐、據県反、斂荊・黔・洪・桂兵討之、再歳不能下。皋至、遺書曰:「観将軍非敢大逆者、特逃讒抗死爾!将軍遇我、可以降、我固為京杲誣者、幸蒙雪、何忍以兵加将軍哉?以為不然、我以陣術破将軍陣、以攻法屠将軍城、非将軍所度也。」国良得書、喜且畏、因請降、然内尚首鼠。皋即日單騎稱使者造国良壘、賊延使者入、皋大呼其軍曰:「有識曹王者乎?乃我也。來受良降、良今安在?」一軍愕眙、不敢動、国良迎拜、叩頭請罪。皋執手、約為昆弟、則盡焚攻守具、散其兵。有詔赦之、賜名惟新。 明年、持母喪至江陵。会梁崇義反、奪為左衛大将軍、復観察湖南。李希烈反、遷江西節度使。受命日、不宿家、至豫章、大令将吏曰:「有功未申與懐器謀不發者、皆自言。」得裨校伊慎・李伯潛・劉旻、悉補大将。擢王鍔為中軍、以馬彝・許孟容為幕府。治戰艦、裒兵二万、以士二千五百委慎等教之。自将五百人、教以秦兵團力法、聯其賞罰、弛張如一、乃約以五百人撃慎卒二千五百、莫能當其鋒、即盡以教之。初、慎嘗従希烈平襄州、至是、希烈懼為皋用、即反間、徳宗信之、将誅慎、皋請赦之、使自效。会與賊夾江陣、皋勉慎立功、以所乘馬及器鎧賜之、使将先鋒、斬賊数百級、乃免。 賊柵蔡山不可攻、皋聲言西取蘄、引兵艦循泝江上。賊聞、以羸師保柵、悉軍行江北、與皋直。西去蔡山三百里、皋遣歩士悉登舟、順流下、攻蔡山、拔之。間一日、賊救至、遂大敗、乃取蘄州、降其将李良、平黄州、兵益振。 会舒王為元帥、授皋前軍兵馬使。俄而天子狩奉天、塩鐵使包佶為陳少游所窘、以運艚泝江、次蘄口、希烈使杜少誠将歩騎三万将絶江道、皋遣伊慎兵七千禦于永安、走之。以功進工部尚書。帝駐梁州、皋之貢助相望。以天子処外、乃不敢居城府、出屯西塞山大洲、徙郡県為軍市。改戸部尚書。又遣伊慎・王鍔攻安州、未下、希烈遣劉戒虛以歩騎八千援之、皋命李伯潛迎撃於応山、俘之、遂下安州、斬偽刺史王嘉祥。希烈別遣兵援隋州、皋破之厲郷、因下平靜・白雁関、賊遂不敢南略。遷荊南節度使、賜実封三百戸。凡戰大小三十二、取州五・県二十、斬首三万三千、禽生万六千、未嘗敗。師所過、不敢伐桑棗・踐禾稼。朝廷仰食江淮、而西道出九江、至大別、皆與賊接、皋轉戰数千里、餉路遂通、江漢倚皋為固。淮西平、乃請護喪帰東都、帝走中人賵弔。訖葬來朝、還就鎮。 初、江陵東北傍漢有古鄣、不治、歳輒溢。皋脩塞之、得其下良田五千頃。規江南廃洲為廬舍、構二橋跨江、而流人自占者二千餘家。繇荊抵楽郷二百里、其間墟聚凡数十、不井飲、皋始命鑿井以便人。貞元初、呉少誠擅蔡、故徙皋鎮山南東道、割隋・汝以益軍、練兵峙糧、市回鶻馬以益戰騎、歳時大畋以教士、少誠畏之。 皋性勤倹、能知人疾苦。参聽微隱、盡得吏下短長、其賞罰必信。所至常平物估、豪挙不得擅其利。教為戰艦、挾二輪蹈之、鼓水疾進、駛于陣馬。有所造作、皆用省而利長。以物遺人、必自視衡量、庫帛皆印署、以杜吏謾。扶風馬彝未知名、皋識之、卒以正直稱。張柬之有園圃在襄陽、皋嘗宴集、将市取之。彝曰:「漢陽有中興功、今遺業當百世共保、奈何使其子孫鬻乎?」皋謝曰:「主吏失詞、以為君羞、微君安得聞此言?」卒年六十、尚書右僕射を贈られ、謚を成といった。 皋嘗自創意為欹器、以木上出五觚、下銳圓、為盂形、所容二豆、少則水弱、多則彊、中則水器力均、雖動搖、乃不覆云。 子は李象古・李道古。 李象古は、元和中、自衡州刺史擢安南都護、貪縱不法。驩州刺史楊清者、蠻酋也、象古忌其豪、召為牙門将、常鬱鬱思乱。会討黄賊、象古發甲助之、乃授清兵三千。清與子志烈還襲安南、殺象古并其家。詔赦清為瓊州刺史、以桂仲武為都護。清拒命、仲武分諭渠酋、兵皆附、破城、斬清、夷其族。 李道古は、挙進士、献書闕下、擢校書郎・集賢院学士。累遷司門員外郎、歴利・隋・唐・睦四州刺史。柳公綽鎮鄂岳、為飛譖上聞、憲宗欲代之。裴度言:「嗣曹王皋嘗能以江漢兵制李希烈、威恵在人、今以其子将、必有功。」会道古自黔中観察使入朝、乃代公綽、倍道入其軍、公綽惶遽出、財貲皆被奪。元和十二年、攻申州、破其郛、進圍中城。守卒夜驅女子登而譟、發懸門以出、道古衆乱、多死於賊。李聽守安州、未嘗敗、道古誣逐之。自将出木陵関、士卒驕、不能制、又度支銭道古悉以饋權倖、故賜不給、其下怨怒、戰不甚力、賊亦易之。故再入申、不能下、卒無功。淮西平、加検校御史大夫、召為宗正卿・左金吾将軍。 帝喜服餌、道古欲自媚、而所善柳泌自謂能化金為不死藥、乃因宰相皇甫鎛以聞、俄会帝崩。穆宗為太子、惡之、既立、誅泌、貶鎛、斥道古為循州司馬。終以服丹歐血死。長慶初、詔還其官。道古巧于宦、便佞傾下、游公卿間、常與弈博、偽不勝、厚進所償、嗜利者多得其懽心、故少盜美名。及死、賣宅以葬。 前巻 『新唐書』 次巻 巻七十九 列伝第四 『新唐書』巻八十 列伝第五 巻八十一 列伝第六
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/1169.html
唐書巻一百八十一 列伝第一百六 陳夷行 李紳 李譲夷 曹確 劉瞻 助 李蔚 陳夷行は、字は周道で、その先祖は江左の諸陳氏であり、代々潁川をさまよった。進士に及第すると、起居郎・史館修撰に抜擢された。功績によって司封員外郎に移り、およそ二年で、吏部郎中に任じられて翰林学士となった。荘恪太子が東宮にあるとき、陳夷行は侍読を兼任し、五日に一度拝謁し、太子講説となった。しばしば遷って工部侍郎となった。 開成二年(837)、同中書門下平章事(宰相)に昇進した。しかし楊嗣復・李珏が相次いで宰相となり、陳夷行は孤独で、常に彼らと合わず、天子の前で議論するごとに、往々として話は次第に短くなった。陳夷行は耐えることができず、たちまち病と称して辞職を求めたが、文宗は使者を派遣して慰労して起用し続けた。当時、王彦威を忠武節度使とし、史孝章に邠寧節度使を領させることとしていたが、議論はすべて楊嗣復が発案していた。陳夷行が延英殿で帝と対面すると、帝は「二鎮の任命はどうか」と尋ねたから、「いやしくも天子の恩沢より出ているのですから、全う至極ではないことがありましょうか」と答えた。楊嗣復は「もし人を用いるのにすべてお上の意から出て全う至極であれば、もとより善いことです。もし小人が称えなければ、下々はどうして安心できましょうか」と言い、陳夷行は、「この頃奸臣がしばしば権力を冒しています。願わくば陛下、逆さまに太阿の剣を持って柄を人に差し出すように、権力を人に渡し自分の身に災いを招くことがございませんように」と言い、楊嗣復は、「古の者は任じても疑うことはありませんでした。斉の桓公は管仲が仇敵であったにも関わらず器としましたが、どうして剣を逆さまに持って柄を差し出すような心配がありましょうか」と言い、帝はその食い違いを目の当たりにして、非常に不快であった。仙韶楽工の尉遅璋が王府率を授けられたが、右拾遺の竇洵直が役所にあたって論奏したが、鄭覃・楊嗣復は些細な事を嫌い、そのため竇洵直が名をあげるためにしたと言った。陳夷行は、「諌官が役所に当たっては、正しく宰相の得失を論じるべきで、彼の賎工の尉遅璋はどうして言うにたるでしょうか。また放置して用いないようなことがあってはなりません」と言い、帝はそこで尉遅璋を遷して光州長史とし、百縑を竇洵直に賜った。陳夷行は門下侍郎に昇進した。 帝は常に天宝年間(742-756)の政治が良くなかったことを怪しみ、「姚元崇・宋璟は当時いなかったのか」と尋ね、李珏は「姚元崇は亡くなっており、宋璟は罷免されていました」と答えた。李珏はそこで論表して、「玄宗はいまだかつて一人の無実の者を殺したことがないと言っていましたが、しかし李林甫を任じて、数十族も一族皆殺しにしたのですから、また惑されなかったといえましょうか」と述べ、陳夷行は「陛下は今このことから権力を人に与えることを戒めるべきです」と言ったが、楊嗣復は、「陳夷行の今のは失言です。太宗は乱世を仁義の世の中とし、房玄齢を用いること十六年、魏徴を任じること十五年でしたが、いまだかつて道を失ったことはありませんでした。人主は忠良の者を用いれば、長らく治世に益となり、邪な者を用いるのは一日でも多すぎるくらいなのです」と述べた。当時、郭薳を用いて坊州刺史としたが、右拾遺の宋邧が不可を論じ、果して収賄の罪で失脚した。帝は宋邧を褒賞しようとしたが、陳夷行は、「諌官が事を論じるのはそれが仕事なのであって、もし一事が良いからといってたちまち官職を昇進させれば、後世に私心によってしまうことが免れないことを恐れるのです」と言った。陳夷行は思うにひたすら楊嗣復を謗った。また普段より鄭覃と親しく、密かに助力し、朋党を排斥した。当時、天子もまた朋党の行き過ぎを嫌っていたが、恩礼は衰え、宰相を罷免されて吏部尚書となり、ついで華州刺史を拝命した。 武宗が即位すると、召喚されて御史大夫となり、突然また門下侍郎平章事に戻り、位は尚書左僕射に昇進した。陳夷行は崔珙とともに拝命し、そこで奏上して「僕射は始めて政務を行うとき、四品官の拝礼を受け、命令はありません。この頃、左右の丞・吏部侍郎・御史中丞はすべて僕射のために階下で拝礼し、これを「隔品致敬」と言います。礼に準じて、皇太子は上台にて群官と見え、群官は先拝して後答し、そのため二上はありません。僕射は四品官とともに朝廷で並び立ち、一人で抜きん出ることはありません。先日、鄭余慶が僕射の上日の儀について、隔品官には亢礼なしと言いましたが、当時、竇易直が御史中丞に任じられており、議論して、ぞれをすべきではないと言いました。竇易直は自分が僕射になると、以前の議論を忘れたから、当時の人々はこれを嘲けて嫌いました。臣らは失礼によって世間に速やかに責められることを願いません。また開元元年(713)、左右の僕射を左右の丞相とし、位は三公に次いでいるので、三公が上日答拝した時に、僕射はこれを受けるのは、非礼なのです。願うところは、担当役所に勅して『三公上儀』を要約し、著して令を定めることです」と述べ、詔して裁可された。これより以前、朝議は紛糾を重ねて決しなかったが、陳夷行がやって来ると遂に定まった。足の病によって辞職を願い、宰相を罷免されて太子太保となり、検校司空によって河中節度使となり、卒した。 李紳は、字は公垂で、中書令の李敬玄の曽孫である。代々南方で官職につき、潤州で居候した。李紳は六歲のときに父を失い、挙等の礼は成人のようであった。母の盧氏は、自ら学問を教えた。人となりは小柄であったが精悍で、詩にいたっては最も名を知られ、当時の人は「短李」と号した。蘇州刺史の韋夏卿がしばしば称賛した。母を葬ると、烏が芝をくわえて輔車(霊柩車)に墜落した。 元和年間(806-820)初頭、進士に及第し、国子助教に補任されたが、不満をもち、たちまち去ってしまった。金陵に居候し、李錡はその才能を愛し、掌書記に任命した。李錡は次第に法を守らなくなったが、賓客はあえて言う者がいなかった。李紳はしばしば諌めたが入れられず、そのため去ろうとしたが、それも許されなかった。たまたま使者が李錡を召喚したが、病と称したから、留後の王澹がすべての業務を行おうとしたから李錡は怒り、兵士を唆して殺して食べてしまい、そこで使者を脅して衆のために天子に上奏させ、留まるようにさせようとした。李錡は李紳を召して上疏をつくらせようとし、李錡の前に座り、李紳は表向きは恐れおののき、字を書くことができず、筆を下すとたちまち黒塗につぶしてしまい、それは紙数枚すべてに及んだ。李錡は怒り「どうしてお前はそんなことをするのか。死んでもいいというのか」と罵ると、「生きて軍装をみなかったとしても、今死ねた方が幸せだ」と答えたから、そこで刃で脅して、紙を変えさせたが、それでもまた同じようであった。ある者が、軍中では許縦が書をよくするから李紳は用いなくてもよいと言った。そこで許縦を召してみると、思った通りに書いたから、そこで李紳を獄中に捕らえた。李錡が誅されると釈放された。ある者が奏上しようとしたが、謝して、「もとより義に突き動かされただけであって、市中に名をなそうとしたわけではない」と言ったから、奏上は止められた。 しばらくして山南観察府より幕下に招かれた。穆宗は召喚して右拾遺・翰林学士とし、それは李徳裕・元稹と同時であったから、「三俊」と号した。累進して中書舎人に抜擢された。元稹が宰相となったが、李逢吉が人をして元稹の密事を告発したから、元稹は罷免された。李逢吉は牛僧孺を引き立てたいと思っていたが、李紳らが朝廷にいてはそれを妨げると考え、そこで李徳裕を浙西観察使とした。牛僧孺が宰相となり、李紳を御史中丞として天子から遠ざけた。李紳は片意地であったから、その面倒な人間を代えようとし、韓愈も剛直であったから、そこで韓愈を京兆尹に任命して御史大夫を兼任させ、御史台の挨拶回りを免除して李紳を怒らせようとした。李紳と韓愈は果たして諍いを起こし、さらに御史台の故事を持ち出しては、文書が盛んにやりとりされ、誹謗攻撃で騒然としたので、これによって皆罷免し、李紳を江西観察使とした。帝はもとより李紳を厚遇し、使者を邸宅に派遣して労をねぎらい、喜んで地方官になるものと思っていた。李紳は泣いて李逢吉の中傷のためであったことを述べた。帝に謝意を表するために入内した時、また自らの思いを直接述べたから、帝は悟って、戸部侍郎に改めた。李逢吉はついに李紳を貶めたいと思った。李紳の族子に李虞なるものがいて、文学で有名であり、華陽に隠居して、自身は仕官を願っていないと言っており、時おり李紳のところに立ち寄っては、柏耆・程昔範とともに頼っていた。柏耆が拾遺に任命されると、李虞は書簡で推薦してくれるよう頼んだが、李紳はその無節操さを憎んで、痛罵した。李虞は恨みを抱いて、後に京師にいたると、すべて李紳が李逢吉について言っていたことを暴いた。李逢吉は怒り、そこで張又新・李続らの計略を用いて、李虞・程昔範と劉栖楚を抜擢して全員を拾遺とし、李紳の隙を伺わせ、宮中内では宦官の王守澄と結託して自らの助けとした。たまたま敬宗が即位すると、李逢吉は李紳が勢力を失うのに乗じるべきと思い、王守澄に「先帝がはじめて立太子のことを論議させると、杜元穎と李紳は深王を皇太子にするよう勧め、一人宰相の李逢吉だけが陛下を立てるよう願い、李続と李虞が補佐していました」と奏上させた。李逢吉はこれに乗じて李紳がかつて陛下に不利なことをしたとして、追放するよう願った。帝は即位したばかりで、自身の考えを通すこともできず、そこで李紳を端州司馬に左遷した。劉栖楚らは左遷した地が良い地であったことに怒り、全員が悔しがった。詔が下ると、百官は李逢吉に祝賀の言葉を述べたが、ただ右拾遺の呉思だけが行かず、李逢吉は呉思を大行皇帝(穆宗)の喪を吐蕃に告げる使者にしてしまった。この当時、人々はあえて言う者はなかったが、ただ韋処厚だけはしばしば李紳の罪は李逢吉がでっちあげたと言っていた。後に天子は禁中において先帝が残した上奏文の一箱をみつけて、これを開けてみたところ、裴度・杜元穎・李紳の三人が帝を立てて後嗣とするよう上疏したものを見つけ、はじめて大いに悟るものがあり、李逢吉の党派が上った誹謗の書をすべて焼き捨てた。 それより以前、李紳は南に追放されると、封州・康州間の州を歴任し、急流な浅瀬が障害となり、ただ水嵩が増した時のみ渡ることができた。康州には媼龍祠があったが、昔はよく雲雨を呼んだと伝えられていたから、李紳は書をもって祈ると、突然水嵩が増した。宝暦改元の恩赦の際に、左降官に量移(左遷された者を恩赦する際に罪科の軽重によって任地を遠近すること)を与えるとは言わなかったが、韋処厚が執政と争ったから、詔して追って認定され、江州長史に移され、滁州・寿州の二州の刺史に遷った。霍山には虎が多く、茶を摘む者は困窮し、落とし穴を作ったり、弓で射ても止めることができなかった。李紳が来るとすべて撤去させたが虎は暴れることはなかった。太子賓客に任じられ東都に分司した。大和年間(827-835)、李徳裕が宰相となると、李紳を浙東観察使に抜擢された。李宗閔が帝の信用を得て李徳裕が罷免されると、また太子賓客となって東都に分司した。開成年間(836-840)初頭、鄭覃は李紳を河南尹とした。河南は無頼の少年が多く、ある者は帽子を高くして衣服をはだけ、大きな蹴毯を打っては官道を塞いだから、車や馬はあえて前に行かなかった。李紳が治めると厳しくしたから、皆逃れ去った。宣武節度使に遷ると、大旱魃となっったが、蝗を境界内に入れなかった。 武宗が即位すると、淮南に移り、召喚されて中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)を拝命し、尚書右僕射・門下侍郎に昇進し、趙郡公に封ぜられた。宰相の位にいること四年、中風のため足萎えとなって天子に謁見ができなくなり、官位を辞じたが、検校右僕射平章事に任じられ、また淮南節度使となった。卒すると太尉を贈られ、文粛を諡された。 それより以前、灃人の呉汝納なる者がいて、韶州刺史の呉武陵の兄の子であった。呉武陵は収賄に連座して潘州司戸参軍に貶められて死に、呉汝納の家族は追われて、しばらく任官しなかった。当時、李吉甫が宰相に任じられると、呉汝納は怨み、後に李宗閔の党派の中に与した。会昌年間(841-846)に永寧県の尉となり、弟の呉湘は江都県の尉となった。部人は呉湘が賄賂を受けとり狼藉を働き、民間人の顔悦の娘を娶ったと訴えた。李紳は観察判官の魏鉶に呉湘を審問させ、罪は明白で、具体的な事実を報告して死刑に処した。当時、議論する者は、呉氏が代々宰相と不仲であったと言い、李紳が心内の願望によって、その罪をねじ込んだのではないかと疑った。諌官はしばしば論を並べ立て、詔して御史の崔元藻を派遣して再審させた。崔元藻は呉湘が軍需銭を盗用したことについては罪があるとしたが、民間の女を娶ったことについては事実ではないと述べ、調査すると顔悦はもと青州衙推であったから官人で、しかも妻の故人の王氏は衣冠の娘であったから、罪とするには当たらなかった。李徳裕は崔元藻が両論を持ち込んだことを憎み、奏上して崖州司戸参軍に左遷した。宣宗が即位すると、李徳裕は宰相の位から去り、李紳はすでに卒していた。崔鉉らはしばらく志を得なかったから、呉汝納を呉湘のために訟えるよう導き、「呉湘はもともとは実直な人であったのに、人のために誹謗されて、牢獄に入れられ、拘束具に据え付けられ、官吏が妻を娶って腰元をつけるのも賄賂に結びつけたのだ」と言い、さらに「顔悦はもとは士族であり、呉湘の罪はすべて死にあたらない。李紳が法を曲げて処刑したのだ」と言い、また「呉湘が死ぬと、李紳はただちに埋め、帰って葬式もあげられなかった。思うに李紳はもと宰相で地方を治め、権威・権力をほしいままにしている。だいたい有罪で死刑にするにも秋分を待たなければならないが、呉湘は無辜の罪で盛夏に殺されたのだ」と言った。崔元藻は李徳裕に自身が排斥されたのもあって、そこで述べたことを翻して、「御史は獄に戻すよう覆奏し、皆天子に対して別個に是非を申しましたが、李徳裕は権力が天下におよんでおり、使は答えることができず、詳細に罪状を勘案すべきところを役人に付さず、ただ李紳の奏上を用いて呉湘の死刑を受け入れたのです」と述べた。この時、李徳裕はすでに権力を失い、李宗閔がもとの党の令狐綯・崔鉉・白敏中と皆政権を掌握し、これによって恨みをほしいままにし、利を以て崔元藻らを勧誘し、三司に指示して、李紳と結んで刑罰によって徒党を組み、良民を虐殺した者は、神龍年間(705-707)の詔書に準じて、酷吏で死没した者でも官爵はすべて剥奪し、子孫は官位を勧めることはできず、李紳もすでに死没しているとはいえ、『春秋』の戮死者の故事に従うことを要請した。詔して李紳の三官を削り、子孫は出仕できなくなった。李徳裕らを貶め、呉汝納を左拾遺に、崔元藻を武功県令に抜擢した。 はじめ李紳は文芸の才能と節操の高さによって取り立てられたが、しばしば敵対者のために窮地に陥ることもあったものの、ついによく自身の才能を伸ばし、名声のうちに終わることができた。仕事の上では威烈をなし、ある時は残酷であった。そのため没してからも呉湘の冤罪事件の罪にふれることになったのだという。 李譲夷は、字は達心で、代々もとは隴西の人であった。進士に及第し、鎮国軍節度使の李絳の府判官に任じられた。また西川節度使の杜元穎の幕下にも任じられた。宋申錫と親しく、宋申錫が翰林学士となると、推薦によって李譲夷は右拾遺となり、にわかに召されて学士を拝命した。普段から薛廷老と親しく、薛廷老は細かいことにはこだわらず、しばしば飲酒して仕事ができなかったから、罷免されてしまい、これに連座して職を奪われた。累進して諌議大夫となった。 開成年間(836-840)初頭、起居舎人の李褒が免官となり、文宗が李石に向かって、「褚遂良は諌議大夫の職をもって起居郎を兼任したが、今諌議大夫には誰がよいか。その人を申してみよ」と言ったから、李石は馮定・孫簡・蕭俶・李譲夷を奏上し、帝は「李譲夷がよいだろう」と言ったが、李固言は崔球・張次宗を用いるよう願った。鄭覃は「崔球はもとより李宗閔と親しく、また史官として筆をもって宮中で記録し、書くところは後世の法となり、党人を用いるべきではありません。裴中孺や李譲夷のような人間でしたら、臣はあえて申すことはありません」と言ったから、そこで李譲夷を用いることが決定し、中書舎人に昇進した。李珏・楊嗣復は鄭覃の推薦であったから、ついに文宗の世では昇進することができなかった。 武宗が即位した当初、李徳裕が復帰して朝廷に入ると、三度遷って尚書右丞となり、中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)を拝命した。潞州が平定されると、検校尚書右僕射となった。宣宗が即位すると、司空・門下侍郎に昇進し、大行山陵使となった。埋葬が終わる前に、淮南節度使を拝命した。病によって帰還を願い、帰路の途上に卒し、司徒を追贈された。李譲夷は清廉で俗世間に交わらず、みだりに交際をせず、位は要職にあったとはいえ、倹約して自ら保全したから、世間は賛美した。 曹確は、字は剛中で、河南河南県の人である。進士に及第し、内外の官を歴にして、兵部侍郎を拝命した。懿宗の咸通年間(860-874)、本官の地位によって同中書門下平章事(宰相)を拝命し、にわかに中書侍郎に昇進した。 曹確は儒教に精通し、器量は見識があって重んじられ、法令に従った。当時、帝は徳が薄く、俳優の李可及を寵愛した。李可及は、美声で自ら曲をつくり、歌声には悲しみがこもっており、京師の軽薄な少年は争って慕ったから、「拍弾」と号した。同昌公主が薨去すると、帝は郭淑妃とともに追悼の思いはやまず、李可及は帝のために曲をつくり、「嘆百年」といい、教え舞う者は数百人、全員珠や翡翠で髪を飾り、魚龍を描いた衣を着て、費やした費用は繒五千で、曲によって歌詞をつくり、悲哀は行き来し、聞く者は皆涙を流した。舞が終わるごとに、珠や宝は地を覆い、帝は天下の非常な悲しみとなっているから、いよいよ寵遇した。家ではかつて結婚していたが、帝は「家から去れ。私が酒を賜おうぞ」と言い、にわかに使者に二つの銀樽を背負わせて与え、皆は殊さらに珍しいこととした。李可及は恩寵によって横柄なこと甚だしく、人は敢えて退ける者はおらず、遂に抜擢されて威衛将軍となった。曹確は「太宗が令制を著しになると、文武の官は六百四十三で、房玄齢に向かって、「朕はここに設けたのは天下の賢士を待つ制度だ。工人や商人といった奴らが、たとえ技が同輩より抜きん出ていて、給が厚く財をなしたとしても、任命するのに官吏にしたり、賢者と比肩して立たせたり、食事の席を同じくしてはならない」と言いました。文宗は楽工の尉遅璋を王府率としようとしましたが、拾遺の竇洵直が強く諌め、ついに光州長史が授けられました。今、位を将軍とするのはよくないことです」と言ったが、帝は聴さなかった。僖宗が即位すると、始めて貶められて死んだ。寵愛されていた当時、ただ曹確がしばしばこれを言っていた。しかし神策軍中尉の西門季玄もまた剛直で、李可及に向かって、「お前は取り入って天子を惑わした。ただちに族滅すべきだな」と言い、かつて李可及に賜い物を受けさせるため面会すると、「今は載っておりのは官車だが、後で財産没収されてもまたそうなるだろう」と言った。 曹確は宰相の位にあること六年、尚書右僕射に昇進し、同平章事のまま京師を出て鎮海節度使となり、河中節度使に移り、卒した。それより以前、畢諴は曹確と同じく宰相となったが、二人共優雅人望があり、世間では「曹畢」と言っていた。弟の曹汾は、忠武軍節度使となって京師に入って戸部侍郎、判度支となり、卒した。 劉瞻は、字は幾之で、その先祖は彭城から出て、後に桂陽に移った。進士・博学宏辞科に推挙され、すべて合格した。徐商によって塩鉄府に任命され、累進して太常博士に遷った。劉瑑が宰相となると、推薦されて翰林学士となり、中書舎人を拝命し、詔勅を奉った。京師から出されて河東節度使となった。 咸通十一年(870)、中書侍郎の職によって同中書門下平章事(宰相)となった。同昌公主が薨去すると、懿宗は太医の韓宗紹らを捉えて詔獄に送り、係累は一族数百人に及んだ。劉瞻は諌官にほのめかしたが、全員が決意できずあえて言上することがなかったから、そこで自ら上疏して強く諌め「韓宗紹はその術を窮めましたが効果がありませんでしたから、心は憐れむべきものがあります。陛下は娘を愛するあまり、平民を捕らえ、怒りのあまり難を顧みなければ、暴虐不明の謗りを受けることになりますぞ」と言うと、帝は大いに怒り、即日辞めさせられ、検校刑部尚書・同平章事の職をもって荊南節度使となった。路巌・韋保衡はそこで悪口を帝に聞かせたため、にわかに廉州刺史に斥けられた。ここに翰林学士の鄭畋は責詔が懇切でないと言ったため、御史中丞の孫瑝・諌議大夫の高湘らととも劉瞻と親しかったことから連座し、分けて嶺南に貶された。路巌らは殊さらに飽き足りず、地図を見て驩州の道が万里の遠きであることから、そこで驩州司戸参軍事に貶し、李庾に命じて詔をつくって極めて謗り、遂に殺そうとした。天下は劉瞻が剛直であるといい、特に讒言により陥れられたとし、皆が冤罪であるとした。幽州節度使の張公素が上疏して申し上げたため、路巌らはあえて害を加えることができなかった。僖宗が即位すると康州・虢州の二州の刺史に遷され、刑部尚書の地位によって召喚され、再び中書侍郎平章事(宰相)となり、宰相の位にあること三カ月で卒した。 劉瞻の人となりは倹約家で、得た俸禄の余りは親族で困窮した者を助けたから、家に貯蓄はなかった。邸宅はなく、四方から献じられた贈り物は門には入れず、自身の終始の潔癖さを全うした。 弟の劉助は、字は元徳で、性は真心があって孝行者であり、幼い時に諸兄と遊び、食事となると、最も後でとったのである。成長すると、文章をよくし、黄老の言を喜んだ。年二十で卒した。 李蔚は、字は茂休で、その世系はもと隴西出身であった。進士・書判抜萃科に推挙されて、すべて合格した。監察御史を拝命し、尚書右丞に抜擢された。 懿宗は仏教に惑わされ、常に一万人の僧を禁中で食事させ、自ら梵唄を唱えた。李蔚は上疏して強く諌め、狄仁傑・姚元崇・辛替否が上言したのは、当時の弊害でよくないところを指摘したものであるとした。帝は聴さず、ただ虚礼によって褒め答えた。にわかに京兆尹・太常卿を拝命した。京師から出されて宣武節度使となり、淮南に遷した。後任が赴任して帰還することになると、民は宮中に詣でて留任を願い出たから、詔して一年の留任を許した。僖宗の乾符年間(874-879)初頭、吏部尚書同中書門下平章事(宰相)となった。罷免されて東都留守となった。河東が兵乱となり、その帥の崔季康を殺したから、邠寧節度使の李侃を登用して代理としたが、兵士は従わず、そのため李蔚がかつて太原府にあって善政を行って、人が懐いていたから、河東節度使、同平章事を拝命した。鎮に到着して三日で卒した。 それより以前、懿宗は安国寺を落成させると、宝座二箇を賜い、高さは二丈(6m)におよび、沈檀でできており、髪の毛を塗り、龍鳳を彫って花飾りとし、金で止め、上に施して二仏を座らせ、読経してその前に座り、四隅に瑞鳥神人を立て、高さ数尺、石の道に登り、前に刺繍の袋と錦の帳を掛け、珍麗かつ精巧なことこの上なかった。咸通十四年(873)春、詔して仏骨を鳳翔府に迎えると、ある者が「昔、憲宗がかつてこのようなことをなされましたとき、突然晏駕(崩御)なされました」と言うと、帝は「朕は生きてこれを見られれば、死んでも恨まない」と言い、そこで金銀を用立てて寺院をつくり、珠玉で帳をつくり、孔雀や鴫で飾り、小さいものでも一丈(3m)、高はその倍にいたり、檀を刻んで軒柱をつくり、階段を黄金で塗り、一寺院ごとに数百人を招いた。香輿の前後に人の往来がたえまなく続き、珠貝(アコヤガイ)・瑟瑟(ラピスラズリ)で幡蓋を飾り、特別な彩で幢節をつくるなど、費やした費用は数えきれないほどであった。夏四月、長安にいたり、綵の糸でつくった五色の雲を道にはさみ、僧侶が先導した。天子は安福門楼に御してお迎えし、涙を流した。詔して両街の僧に金幣を賜い、京師の長老で元和年間(806-820)の仏骨の旧事を見た者は、全員に厚く下賜した。不逞の小人は帰依のあまり自ら肘や指を切断したから、流血は道に充満した。通過した村々は、すべて土を集めて寺院をつくり、村々では互いに遠望すると、争って金や翡翠で飾り立てた。寺院はことごとく揺れ動き、または光が景雲を照らしたようであったと伝聞した。京師の金持ちは互いに街道で集まって、織物で台や宮闕をつくり、水銀を注いで池とし、金玉で樹木をつくり、僧侶や羅漢の像をあつめ、鼓を鳴らして法螺貝を鳴らすことは日中も夜も続いた。錦で飾った車や刺繍で飾った輿は、歌舞とともに従った。秋七月、帝が崩御した。人主がよいと思ったことを心にとめて誠をつくして行動すべきであることが、李蔚の発言の通りであると思った者は非常に多かったが、全員が救うことができなかった。僖宗が即位すると、詔してその仏骨を返還し、都の老人は餞の挨拶をし、ある者は嗚咽して涙を流した。 賛にいわく、人を惑すのは怪神であるということは、何と大きな原因であろうか。仏のようなものは、ただ西域の一痩せ人であるだけである。上半身を肌脱して裸足となり、乞食となって食い扶持とし、痩せてその体を辱め、山野に引きこもり、一種の苦行を行い、普段は人に求めることはないのに、いたずらにだらだら従わせているのである。しかしその発言は広大であるものの荒れ果てており、異民族の幻影を出現させ、よくも効果のない無意味なことを推し進め、鬼神の死生によってただ一つの目的とし、これによって疑わせないのである。欲望を打ち砕いて、親族を棄てることは、だいたい黄老とそれぞれ似たりよったりである。漢の時代になって十四代、書が中国に入った。生きている人の情をとどめ、見聞きしたことが限りないことを奇とし、知りようがないことを神とし、物事の理の外を畏れとし、変化に限りないことを聖とし、生をもって死とし、死んでも生に戻り、生に戻れば報いが償われ、その間に羨望してあるいはそうであるとし、近くを賎しんで遠きを貴んだ。翻訳に誤りがあっても、調べて問い詰めることを不可とした。華人を欺瞞し、また荘子・列子の説をはらって講説の助けとし、積み重ねて高きにおき、直ちにその表を出し、無上不可によって加えて勝ちとし、妄りに大げさに脅かしてその教えを唱えた。ここに天子から庶民にいたるまで、すべてが揺り動かされて祠を奉ったのである。 それより以前、宰相の王縉はその職によって代宗をたすけ、ここに始めて内道場をつくり、昼夜読経し、敵を祓うことを祈り、大いに盂蘭盆会をし、祖先の肖像画を分けて塔廟に供えたから、賊臣に嘲笑われたのである。憲宗の世になると、遂に仏骨を鳳翔府に迎え、宮中に入れたのである。韓愈はその弊害を指摘したが、帝は怒り、もう少しで韓愈は死ぬ寸前となり、憲宗もまた天寿を全うできず、幸福が禍いとなったのだから、間違ってはいないだろうか。懿宗は君たるものではなく、魂は迷い、また前の失敗を教訓とはしなかった。無知の場をつくりたて、よくわかった官の発言を覆い隠し、死によって自ら誓い、かこつけて顧みることはなく、涙を流して拝礼し、宗廟で上帝に仕えたとしても、これによって進ったことはなかった。万乗の君の貴きを屈させ、自ら古胡と等しいとし、数千年の遠いことであっても、身を以て従った。嗚呼、唐の命運がつきたのは、天命の告げだったのだ。懿宗は三か月もしないうちに崩御したのは、唐の徳が振るわないのに、仏骨が来たということは、なんと悲しいことだろうか。 前巻 『新唐書』 次巻 巻一百八十 列伝第一百五 『新唐書』巻一百八十一 列伝第一百六 巻一百八十一二 列伝第一百七
https://w.atwiki.jp/sakurahiromu2/pages/38.html
三戦英雄傅 第二十五回~禍為す女性は誰なのか。丁原の失踪が新たな禍を国に齎す~ 女禍益々盛んなり。哀れむ可。 (女性による(国家へ与える)禍は益々盛んになっていった。哀れむべきである) ~正史『晋史』小魔玉傅より~ 栄安二年六月。曹操、学徒出陣、無双ファンが丁原を連れ帰った翌日、小魔玉邸は 蜂の巣をつついたような大騒ぎになっておりました。 まず、異変に気が付いたのは小魔玉でございました。 小魔玉:「イタタ…昨日は呑みすぎたかな…。山崎の十八年物が手に入ったんでな。 それから袁紹が持ってきた久保田の万壽を呑んで、ムコーニンの作ったカクテルを呑んで …やはりチャンポンは良くないな( ^∀^)ゲラゲラって、媚嬢、待たせたね。朝食の時間だよ。 今朝も口移しでオイラが食べさせてあげるからね( ^∀^)ゲラゲラ」 小魔玉が愛妻の待つ甕を覗き込むと、いるはずの媚嬢はおりません。 小魔玉:「媚嬢、媚嬢。どこに行ったのかな? 這って逃げたのかな。 オイラとかくれんぼする気かい?よーし、負けないぞ( ^∀^)ゲラゲラ」 小魔玉は当初、愛妻が臍を曲げて隠れていると思い込み、寝台の下から箪笥の中まで探し出しました。 しかし、愛する媚嬢は見つかりませんでした。小魔玉は激しく狼狽し、早急に手下の者を 集めました。 ムコーニン:「おいおい、なんだよ。俺は二日酔いで頭が痛ぇんだよ」 中山幸盛:「何事ですか。大尉」 リンリン大友:「どうしたの? パパ」 宇喜多直家信者:「……」 小魔玉:「媚嬢が、オイラの媚嬢がまた失踪した! お前たち、知らぬか?」 ムコーニン:「おいおい、勘弁してくれよ。自分の嫁の管理もできねーのか。おめーは」 中山幸盛:「奥方と最後にお会いになったのは、いつでございますか?」 小魔玉:「うむ。確か昨夜の宴会の前に夕食を食べさせた時にはいたのだが」 中山幸盛:「すると、宴会最中か、宴会後に失踪されたということですな」 ムコーニン:「ばっかじゃねーの。お前ら、現場を徹底して探せよ。それに犯人は 現場に戻ってくるっていうじゃねーか。探させろよ」 こうしてムコーニンの一言により、媚嬢(丁原)の部屋が五十人体制で捜索されました。 宇喜多直家信者:「何が手がかりになるかわからぬゆえ、抜かりの無いよう」 ムコーニン:「早くしろよ」 リンリン大友:「うぇぇええええええん。ママ、ママぁああああああ!!!」 現場はムコーニンと中山幸盛と宇喜多直家信者の指揮により統括されましたが、 皆、大尉・小魔玉の逆鱗に触れるのを恐れ、なかなか思うように動くことができませんでした。 時を同じくして晋国の領土では、丁原を囲み、臣下一同今後の策を練っておりました。 元は男とはいえ、後漢の大尉の妻を誘拐したのですから、事は穏やかではありません。 袁紹:「漢の忠臣・丁原殿を見捨てるわけにも行かぬ。が、曹操に学徒、お前たちは また晋国に争いの火種を齎すのか」 袁紹は、眼光を鋭くし、曹操と学徒出陣を詰問しようとしました。袁紹の額には 汗が噴いていました。嫌な汗をかいていたのは、袁紹だけではありませんでした。 晋国臣下一同、晋国と後漢の今後を憂い、何か策は無いものかと頭ばかり回転 させておりました。 果物キラー:(今度は人妻を略奪とな。我が息子は人妻好きだったのか!) 袁術:「無双ファン、お前ももう子供ではあるまい。此度の件が、我が国に何を 齎すかくらいはわかるであろう?」 丁原:「この丁原、自分の尻拭いを人に任せるほど落ちぶれてはおりませぬ」 袁紹:「ほお、軍師殿に策がある、と?」 丁原:「はい。もう、既に種は蒔いてありますゆえ、後はなるように待つだけ」 曹操:「向こうから動いてくれるということか」 丁原:「ええ」 丁原の体は義足と義手により、以前のような体に戻っておりました。 たった一晩で義手と義足を作り出す、やはり袁家の財力と権力は 他者の追随を許さぬものがございました。 しかし、天というものは有能な人物には安らぎを許さぬもの。 小魔玉邸では、丁原の置き土産たる陰謀がまさに今、発動しようとしているのでございました。 小魔玉:「ええい!! まだ見つからぬか!! 髪の一本、陰毛の一本くらいは 落ちていよう!!」 手下1:「それが、奥方様の髪の一本も見つからぬ次第でして」 小魔玉:「髪の一本も残さずに消えるとは……もしや、オイラは媚嬢に嫌われていたのか( ^∀^)ゲラゲラ」 小魔玉は( ^∀^)ゲラゲラと言いながら、寂しそうに笑いました。 小魔玉:(媚嬢…どうしてなんだい。オイラとは子供の頃から仲むつまじく育った仲じゃないか……) 小魔玉と媚嬢は幼馴染でございました。媚嬢の父親の加ト清正は、定職に就こうとしない 小魔玉に向かい「娘が欲しかったら、何か職に就くことじゃな」と諦めさせようとしました。 ところが、小魔玉は媚嬢と所帯を持たんが為に、国で一番の名医と言われる吉平に師事し、 全国で過酷な修行に励み、見事医師となることができたのでございます。 小魔玉が医師となり、現在の大尉の地位があるのは偏に愛する媚嬢への思いだけでございました。 小魔玉:「そうじゃ、実家に帰ってるかもしれん。息子よ、ママの実家にママを迎えに行ってきてくれないか」 リンリン大友:「うん。わかったよ。パパ」 リンリン大友は小魔玉の命を受け、母親の実家たる加ト清正の屋敷へと向かいました。 加ト清正の邸宅は、もとは小魔玉の故郷と同じ南海にありましたが、娘婿の小魔玉の栄達に 伴い、洛陽の都に豪邸を建ててもらっておりました。 ととのえ老臣:「まあ、リンリンちゃん。すっかり大きくなって」 リンリン大友:「お祖母ちゃん、久しぶり! 今日はね、ママを探しに来たんだ」 ととのえ老臣:「ママって、媚嬢がどうかしたの?」 ととのえ老臣は、媚嬢の母であり、リンリン大友の祖母でありました。 娘の媚嬢が玉の輿に乗ったので、ととのえ老臣は小魔玉の財産を食いつぶす 勢いで浪費に励んでおりました。彼女は、洛陽のあらゆる衣装や宝石を 買い占めんとばかりに全て小魔玉請求で買い物をしておりました。 ととのえ老臣:(死んだはずの媚嬢が生き返ったと聞いたから、また買い物天国に 浸かっていたのに……媚嬢がいなくなったら、また元の地味な生活に逆戻りだわ。 小魔玉にも、媚嬢にももっと稼いでもらわなきゃね。私の為に) リンリン大友:「お祖母ちゃん、ママは知らない? 来ていない?」 ととのえ老臣:「リンリンちゃん、ちょっと待っててね。北浦和名物の餃子でも 食べて待っててね」 ととのえ老臣は、孫に優しく微笑むと、転げる勢いで夫・加ト清正の下に 向かいました。 ととのえ老臣:「あなた、あなたぁ! 大変よぉ!!」 加ト清正:「なんじゃ、騒々しい」 ととのえ老臣:「媚嬢が、私たちの媚嬢がまたいなくなったらしいのよぉ」 加ト清正:「なんじゃと!?」 加ト清正は目の前で慌てふためく妻を見ながら、「どうせお前が恐れているのは 請求書の山であろうが」と心の中で毒づいていました。加ト清正は長年連れ添った 妻でしたが、ととのえ老臣の浪費癖にはほとほと手を焼いておりました。 「変えられる事は、変える努力をしましょう。 変えられない事は、そのまま受け入れましょう。 起きてしまった事を嘆いているよりも、これから出来る事をみんなで一緒に考えましょう」が モットーの加ト清正ですが、妻の浪費は『変えられない事』という結論に達しておりました。 しかし、それにしても心配なのは愛娘の媚嬢の安否です。父親は娘を溺愛すると言います。 加ト清正も、そんな親馬鹿の一人でございました。加ト清正は己の浪費により妻が廓に売られようと 知ったことではありませんでしたが、媚嬢のことが心配でなりませんでした。 加ト清正:「だから、あやつとの結婚には反対じゃったんじゃ。媚嬢は結婚なんかせんで 良かったんじゃ。お前」 ととのえ老臣:「はい、あなた」 加ト清正:「取り乱したりはせず、リンリンは無事に帰らせることじゃ。孫もいる今となっては 詮無きこと。媚嬢が小魔玉の嫁になったのも今生の縁じゃろうて」 ととのえ老臣は、夫の言葉に忠実に従い、リンリン大友は餃子で腹を膨らませながら帰宅しました。 リンリン大友:「ただいまあ。ママはいなかったよって、あれ、皆どうしたの?」 見ると父親の小魔玉が中山幸盛とムコーニンを恐ろしい形相で睨みつけております。 リンリン大友が餃子を食している頃、小魔玉の手下が媚嬢の部屋から一本の男物の帯と 一枚の巾(髪を結ぶ布)を発見したのです。 帯の所有者はムコーニンで、巾の所有者は中山幸盛でございました。 小魔玉:「なぜ、オイラの媚嬢の部屋にお前たちの帯と巾があるんだ? 帯を外す、巾を外すということはどういうことか説明してもらおうか?」 ムコーニン:「なんだよ、俺を疑うのかよ。それは誤解だぜ。洗濯して干していたら 無かったから無くしたと思っていた帯なんだ。それ」 中山幸盛:「大尉、誤解にございます」 小魔玉:「ほお、この状況下でこの証拠でどんな誤解があるというんだ? お前たち、 もしやオイラの媚嬢に懸想し、媚嬢をいずこかに隠しているのではあるまいな」 中山幸盛:「そ、そんな滅相もない!!」 リンリン大友:「ぶぇえええええん。ママを返してよおおおお!!」 かつて『攻めのムコーニン、守りの中山』と呼ばれた小魔玉の知恵袋は 何者かも策略により窮地に立たされました。この謀略の創造主こそ、 丁原でございました。 ムコーニン:「そ、そうだ、大尉、中山幸盛って独りもんだろ? 俺は妾も 五人いるけど、疑うなら中山幸盛を疑うのが筋ってもんじゃないか?」 機を見るに敏なムコーニンは真っ先に矛先を、己から変える為、 罪を中山幸盛に着せようとしました。 リンリン大友:「ひどい!! ママを返せ!!」 中山幸盛:「誤解にございます!!」(くっ、ムコーニン、そうきたか) 中山幸盛は弁解したものの、中山幸盛とムコーニンはお互いを 犯人ではないかと疑っておりました。 中山幸盛:「そう言えば、ムコーニン。お主先ほど『犯人は現場に 帰って来る』と申したな。自分で証明されたのか?」 ムコーニン:「なにを!?」 ムコーニンは自分に跳ね返ってきた疑惑を逸らそうと知略の限りを 尽くそうとしました。ムコーニンの目に入ったのは八戸のぶながでありました。 ムコーニン:「そうだ、そこにいる八戸、大尉の禄を食みながら 何の働きもしていないじゃねーか。占い師なんだろ? FBI捜査官みたいに 大尉の奥方失踪の真相を占ってみろよ。お前の力が本当なら、な」 八戸のぶなが:「なに!? 私の力を疑うのか」 八戸のぶながは動揺しました。それもそのはず、彼の占いは適当に 相手の喜ぶことを出任せで言っていただけなのでございました。 確かに八戸のぶながは優れた占い師でございました。しかし、小魔玉が 出世した今となっては、地位の保たれた小魔玉のご機嫌を適当に 取るだけの毎日でありました。 今までのインチキがばれてしまったなら、今の小魔玉の怒りようからしても、 良くて宮刑、悪くて死罪。八戸のぶながは、懸命に小魔玉を満足させる 回答を考えました。 さてさて、小魔玉と知恵袋二名の仲はどうなるのでしょうか。 三戦英雄傅、気になる続きは、また次回。 三戦英雄傅 第二十六回~梁父吟、再び~ 一朝讒言を被り、二桃三士を殺す。 誰か能く此の謀を為せる。国相斉の晏子なり。 ~『梁父吟』より~ さてさて、人間の欲というものは底の尽きないもの。 衣食足りて、生活が満ち満ちた人間が最後に欲しがる物。 それは、『名誉欲』だと言われております。 大尉・小魔玉邸にて睨みあいましたる四人の男、 小魔玉、ムコーニン、中山幸盛、宇喜多直家信者。いずれも、 後漢の中心を担おうと虎視眈々と狙っていた男たちでありました。 小魔玉としましては、三名を己の忠実な犬とばかりに思っておりました。 しかし、ムコーニン、中山幸盛、宇喜多直家信者の三名はそれぞれの事情が あり、小魔玉を踏み台程度にしか思っておりませんでした。 「小魔玉の信を得て、踏み台として使うことのできる桃」は、今や 「誰も食べたくない犯人という名の毒皿をいずれか朋輩に押し付けた者」のみが 食すことのできる桃へと変わりました。 ムコーニン:(天が見放した後漢になど興味はない。いずれ俺が皇帝に取って代わってやる。 何のためにあれほど辛い受験勉強をしたのか。それは、この中華のただ一人の支配者となり、 阿房宮をも超える後宮の主となる為だ。積年の苦学、水にしてなるものか) 中山幸盛:(くっ……陳長文よ。やはり、お前の言ったあの言葉は正しかったのか? この世には、『選ばれし者』という者がいるというのか? 生まれた時から人間の運命と 言うものは変えられぬのか?) 宇喜多直家信者:(あのお方の為だ。今まで共に知略を交し合った二人だが、ムコーニンと 中山幸盛いずれかには失脚してもらわねばなるまい。下手をすれば私の命さえ危ない。 今更、私の命など惜しくもないが、あのお方を取り戻すまでは我が心と身を鬼にも売る覚悟) 三人は、各々の思いを胸に「誰に罪を着せるか」を考えておりました。 一方、ムコーニンにより占術を押し付けられた八戸のぶながは、小魔玉の怒りように 戦々恐々としておりました。 八戸のぶなが:(拙い……非常に拙い。誰か一人に罪を着せるのは簡単だ。適当にでっちあげれば いい。だが、ここにいる二人はいずれも大尉の後を継ぐべき実力の持ち主。力も拮抗している。 もし、罪を着せた者が相国の袁紹と組んで私の首を所望でもしたら。大尉でも庇いきれまい。 では、宇喜多直家信者に罪を着せるか? いや、宇喜多直家信者はリンリン大友坊ちゃまの家庭教師。 坊ちゃまのお気に入りに罪を着せても坊ちゃまの一言で大尉も減刑なさるに違いない。 と、なると、やはり怖いのは後のことだ。さて、どうする。どうする八戸!!) 八戸のぶながは、脇の下に嫌な汗を感じながら、筮竹をシャラシャラと鳴らしつつ、サイコロを振りながら、 占術に熱中している振りをしながら時間を稼ぎました。 小魔玉:「八戸よ、まだか! いくら気の長いオイラでも、もう待てぬぞ!!」 八戸のぶなが:「ひぃ! は、はい。只今!!」 占い師の中には、あらゆる占いの中で一番楽で頼りない物は姓名判断だと言う者がおります。 なるほど、姓名判断はその利便性により下は2ちゃんねらーから、保険のおばちゃん、果ては 政治家まで愛用者がいると言われております。八戸のぶながの出した決断もまた、 「姓名判断で」というものでした。 占いに頼らねばならぬほど、ムコーニンと中山幸盛の実力は甲乙つけがたい物となっていたのでございます。 結果を出さねば小魔玉に処される、二名のうちどちらかにも復讐はされるだろう、しかも、 両者の力は同程度。なるようになれ、と八戸のぶながは考え付いたのでございます。 八戸のぶなが:(手っ取り早く総画で考えよう。ムコーニンは総画9画、中山幸盛は総画26画か。 うむ。これもまたどちらも良いとも悪いとも言えぬ画数……しかし、9画は女性の場合孤独を表すとも 言うな。ムコーニンは男だが、政治家に孤独は要らぬ物) 八戸のぶながは、筮竹をピシャリと一つに纏め、たった今、占断が終わったかのように見せました。 そして、背筋を伸ばし、くわっと目を見開き占術の大家よろしく、静かに進言しました。 八戸のぶなが:「はっ、見える! 見えましたぞ!!」 ムコーニン:「早く言えよ!! このヘボ易者!!」 リンリン大友:「ママは、ママはどこにいるの?」 小魔玉:「して、オイラの媚嬢をかどわかした不届き者は、ムコーニンと中山幸盛のどっちなんだ?」 八戸のぶなが:「はっ、奥方様は最早、この洛陽にはいらっしゃいますまい」 小魔玉:「なんと!!」 八戸のぶなが:「私めの見たところ、奥方様に叶わぬ恋をしたムコーニン殿が奥様の手足の無いのを 良いことにかどわかし、ライバルの中山幸盛殿に罪を擦り付けたものと。いやはや、ムコーニン殿は 名門・早稲田大学出の俊才の上、大尉にはご尽力されてきただけに残念であります」 八戸のぶながは、尤もらしく厳粛な顔で述べました。 ムコーニン:「てめぇ!! 出鱈目言いやがって!!」 犯人とされたムコーニンは、我も忘れた様子で八戸のぶながに掴みかかりました。 八戸のぶなが:「ひぃいいいいい!!! お、お助けを!!」 小魔玉:「ふん、やはりムコーニンお前か」 宇喜多直家信者:「やはり?」 宇喜多直家信者は小魔玉の「やはり」という言葉を耳にするなり、長い眉を顰めました。 小魔玉:「お前はオイラに次ぐ、この国で二番手の好色家だ。そのお前が媚嬢に何の興味も 示さぬはずはないと常々思っていたのじゃ」 ムコーニン:「違う! 誤解だ!!」 小魔玉:「お前には宮刑と手足を陵遅により切り取ること処分をつかわす。ふっ、良い妾が 五人居ても最早抱くこともできまい。五人の妾は代わりにオイラが可愛がってやろうか? ( ^∀^)ゲラゲラ しかし、これまで尽くしてくれたお前じゃ、」 小魔玉は、ムコーニンの顔を覗きこみながら何か思案しているようでございました。 ムコーニン:(もしや、助けてくれるのか?) 小魔玉:「そう、これまで尽くしてくれたお前だからこそ、オイラの出世を特等席で見せてやろう ( ^∀^)ゲラゲラ」 ムコーニン:「八戸!! てめぇ覚えていやがれ!! 冥土の奥底から呪ってやる!!」 八戸のぶなが:「大尉、このままムコーニンの口を野放しにしては、大尉の数々の 悪行を言いふらす恐れがあります。ここは、猿轡でもして黙らせましょう」 小魔玉:「そうじゃな。ただ、黙らすだけも面白くあるまい。ここは首に罪状を書いた 札をぶら下げ、市中引き回しつけようかの( ^∀^)ゲラゲラ」 リンリン大友:「ムコーニン!! 信じていたのぃいいいい!!」 中山幸盛:(すまぬ。ムコーニン。されど、運も政治家には必要な物) 中山幸盛は心の中でたった今までの同朋に別れを告げ、言いました。 中山幸盛:「坊ちゃま、お母様をかどわかした逆臣には猿轡に勿体無いでしょう。 ここは、皆の靴下で代用しましょうぞ」 リンリン大友:「それはいいや。僕、三日間お風呂に入ってなかったから、三日物の 靴下を履いているんだ」 リンリン大友はムコーニンの口に三日物の靴下を捩じ込みました。 ムコーニン:(く、くせぇ) 宇喜多直家信者:「大尉、これなるムコーニンは才あり、また狡猾なる男。このまま 生かしておいては必ず大尉の憂いとなるに違いありません」 小魔玉:「何か、策があるようだな。宇喜多直家信者。申せ」 宇喜多直家信者:「憂いは、今のうちに絶つべきかと」 小魔玉:「宇喜多直家信者、いや、宇喜多直家信者先生。ただの学者かと思っていたが、 先生もこのオイラの色に染まってきたようだな( ^∀^)ゲラゲラ」 宇喜多直家信者:「恐れ多いことで」 宇喜多直家信者と小魔玉は互いに笑い合いました。 小魔玉の派手な笑いと、宇喜多直家信者の含み笑いは奇妙な調和を見せました。 宇喜多直家信者:(許せムコーニン殿。これもあのお方の為なのだ。あの方を救う為なら 漢の逆賊の犬にも私はならねばならぬのだ) 小魔玉:「さあ、お前たち、やれ!!( ^∀^)ゲラゲラ できるだけ苦しませて始末するのだぞ」 手下達:「はっ」 リンリン大友:「あれえ、パパぁ、なんか手下多くない?」 小魔玉:「気のせいだろ( ^∀^)ゲラゲラ」 哀れムコーニンは無実の罪により小魔玉の手下にひっとらえられ、宮刑の後、 陵遅により寸刻みにされてしまいました。 しかし、因果応報とはよく言ったもので、丁原の手足を斬ることを小魔玉に提案したムコーニンも また体を斬られ葬りさられたのでございます。 丁原の復讐は、叶ったわけでございます。 小魔玉邸の騒動より一月後、栄安二年七月中頃。 洛陽の方角より晋国に一人の男が駆け込んで参りました。 損権厨房:「軍師殿! 軍師殿!!」 丁原:「いかがしました? 損権厨房殿」 損権厨房:「損権厨房、只今洛陽の都より帰りました」 袁術:「うむ。ご苦労。して任務のほどは」 損権厨房:「小魔玉の知恵袋、あのムコーニンが陵遅の上殺されました」 そう、リンリン大友の気のせいではなく、損権厨房が変装し密かに小魔玉邸に入り込み 諜報活動を行っているところを丁原が見込み、この度の計略を仕掛けていたのでございます。 丁原:「ほう、やはりムコーニンが」 丁原は、報告を聞くなり美しい唇を歪めました。 損権厨房:「しかし、確率としては半々だったはず。どうして軍師殿は小魔玉はムコーニンを 処罰するとお考えになられたのですか」 丁原:「我々の他にも、ムコーニンの智謀が邪魔な者がいたということですよ。 今頃、小魔玉邸ではムコーニンの跡目争いで大変でしょうね。 小魔玉、ムコーニン、中山幸盛、宇喜多直家信者。この四人が手を組んでいたからこそ、 漢は小魔玉の思い通りにできていた。しかし、鼎の脚が一本折れてしまっては 中身の重さに耐え切れますまい」 荀攸:「逆賊の運が、揺れた!!」 丁原:「左様、まあまあ、皆さん、今夜は美味しいお酒が飲めそうです。 ゆるりと楽しもうではありませんか」 丁原は、丁原の計略の鮮やかさにただ呆然とするしかない晋国の者たちを 尻目に女のように高笑いをしながら白い喉を仰け反らせ、酒を含みました。 丁原:(待ってろ。小魔玉。お前に受けた数々の行為、一つも忘れてはおらぬ。 お前を権力の椅子から引きずり降ろしてくれよう) 丁原の双眸は、小魔玉のいる洛陽の方角を捉えて放しませんでした。 今後、小魔玉は、晋はどうなってしまうのでしょうか。 小魔玉も後漢の大尉、そうそう簡単には滅びるとも思えませんが。 三戦英雄傅、気になる続きは、また次回。 三戦英雄傅 第二十七回~新たな司空が誕生し、後漢最大の醜聞・裸照事件起こる~ 終わるところを知らぬは語り手の創作意欲と、人間の性欲。 皆様は、覚えているでしょうか。そもそも、なぜ、後漢の政治が荒廃を 極めるようになったのかを。 そう、それもこれも、あの美しい皇后・小銀玉の美貌と性欲が元凶なので ございます。 後世の歴史家などに言わせると中国三大美女としては、西施、小銀玉、楊貴妃が。 そして、中国三大悪女としては妲妃、呂后、小銀玉が上げられます。 美貌と悪は、同居できるものなのか。小銀玉皇后の存在は、西洋の哲学者たちの 注目をも浴びております。 しかし、小銀玉皇后は本当に悪なのでしょうか。いったい、人は何を以って物事を 悪と見なすのでしょうか。これは、現代にも言えることで、人は何を以って糞スレと見なす のかというのと同じ永遠の議論でございましょう。 後の世に『晋史』を編纂した果物キラーと無双ファンの親子は、小銀玉皇后について それぞれ次のように述べています。 人間だよ、一番かわいそうな生物は。 「生病老死」 という言葉通り、生きること、病を患うこと、老いること、そして死ぬこと。苦しみは途絶えることはない。 人間以外に、老いや病、死という概念を持つ生物はいない。 知能が高く、感情が発達したことの弊害。自殺したり、戦争したり、そんな悲しい生物は人間だけだな。 その点、小銀玉皇后は幸せな生物だったかもしれない。彼女は純粋に、性欲の向くままに 大尉・小魔玉と後漢を弄び、純粋に生を楽しんだ。感情が発達していないとは、純粋とは、なんと 美しく残酷なのだろう。 性欲を律することのできなかった小銀玉は、人間ですら無かった。 正に欲望を純粋培養したような女だった。(中略)しかし、アレはイイ女だった。一発、お願いしたかった。 ~正史『晋史』小銀玉傅(果物キラー注釈)より~ 彼女は、誰よりも自治を好んだが、肝心な己を律することを知らなかった。 残念なことである。 ~正史『晋史』小銀玉傅(無双ファン注釈)より~ 栄安二年七月。 策士・ムコーニンが息絶えた夜。一人の男が小魔玉邸にて琴を弾いておりました。 男の目は切れ長で、眉は長く、美しい額の形をしております。 男の名は、宇喜多直家信者。「蔡ヨウの後に優れた学者は出ないだろう」と言われた、 あの蔡ヨウの一番弟子でありました。 もともと、口数の少ない寡黙な男でありましたが、ここ数年宇喜多直家信者の言葉数は 益々少なくなっていました。 宇喜多直家信者:(あの方も、今宵同じ月を見ているのだろうか……) 琴より上げられた双眸は物悲しげで、琴の音色は陰鬱に月夜に響きました。 宇喜多直家信者の言う「あのお方」、そう、悲劇の才女・蔡文姫のことでございます。 蔡文姫は、不幸にして匈奴王の妻として囚われの身となっておりました。 宇喜多直家信者と蔡文姫との出会いは、宇喜多直家信者が少年だった頃に遡ります。 蔡文姫は宇喜多直家信者より二つ年上の少女で、宇喜多直家信者がこれまでに出会った どの女性よりも賢く、魅力的でありました。 面倒身がよく心優しい蔡文姫は、まるで弟のように宇喜多直家信者を可愛がり、 宇喜多直家信者も蔡文姫を姉のように慕っておりました。 気が付くと少年・宇喜多直家信者は蔡文姫を違う感情で慕うようになっておりました。 「告げることもできず心に秘めていた思慕の念も、蛮族により踏みにじられた。 あのお方を幸せにできる男なら、素直に祝福しよう。だが、蛮族の地で、書物も字も無い地で あの方が幸せなはずは無い。私は、鬼に魂を喰われてもあの方を救い出そう」 蔡文姫救出の為に、宇喜多直家信者が選び出した駒こそが、大尉・小魔玉でありました。 当初は小魔玉子息の家庭教師になることを拒んだ宇喜多直家信者でしたが、 「蔡文姫救出と匈奴討伐」を条件に承諾したのでございます。 宇喜多直家信者:(さて、空いたムコーニンの椅子だが、私と中山幸盛、小魔玉はどちらを 選ぶであろうか。中山幸盛、あやつにも私と同じ物を感じる。ムコーニンのように己の欲望の 為ではない、何か守る物のある男だけが持つ強さを。あやつも独り身だと言う。すると、 何か女性に関係したものだろうか……いや、考えるのはよそう。あやつの腹のうちは あやつにしかわかるまい) 宇喜多直家信者は、ふと浮かんだ己の考えを自嘲するように琴の弦を鳴らしました。 月は真っ白に、冴え冴えとしておりました。 同じ月下では、怒りに任せムコーニンを処罰した小魔玉が我に返り、 己の宮中での立場を危ぶみ、早速小銀玉皇后のご機嫌を取っておりました。 小魔玉:「小銀玉ちゃん、オイラ、ムコーニンがいなくなってピンチなんだよね。 って、ここがイイの? 気持ちいいのはココ?( ^∀^)ゲラゲラ」 小銀玉:「ん…オウっ!」 小銀玉皇后は、愛する小魔玉の攻めに陥落し、いつもの台詞を口にしておりました。 小銀玉:「もう、小魔玉さんたら、しょうがないな。漏れが何でもしてあげよう」 ムコーニン処刑翌日、宮中では新たな人事が交付されました。 もちろん、この人事も小魔玉の一夜をかけて体で奉仕した賜物でありました。 これまで、後漢の三公は大尉・小魔玉(俸禄:万石)、司徒承相・王允(俸禄:万石)、 司空・ムコーニン(俸禄:万石)となっておりました。 この三公は後漢に於ける臣下に許された最高位でございます。 文官1:「これより新しい司空の任命を行う。名前を呼ばれた者は前へ」 宇喜多直家信者:(ここで中山幸盛の名が挙げられても、私は中山幸盛と共存しよう。 あの方を取り戻すまでは) 中山幸盛:(ムコーニンがいなくなった今、司空の地位は宇喜多直家信者か私の 物になろう。さて、どちらか) 鍾ヨウ:(知恵者ムコーニンの後釜。力の足りぬ者には務まることはないだろう。 私が小魔玉なら邪魔で無能な奴をわざと任命するが、小魔玉にとってムコーニンを失った 損害は大きい。己の手下より選出するのが定石か) 陳羣:(中山幸盛……懐かしい我が幼馴染よ。お前にも、この宮中の床を踏むときが来たとはな) 人々は様々な思いを胸に、文官の薄い唇に注目しました。唇の上に形ばかり生えた髭が 動きを見せました。 文官1:「ムコーニンの後任は、中山幸盛に命ずることとする。陛下の勅命である。 中山幸盛よ、謹んで受けられよ」 宇喜多直家信者:(中山幸盛か) 中山幸盛:「ありがたき幸せにございます」 文官1:「これより別室にて中山司空の就任祝賀会を開催するので、各々参加するように」 中山幸盛:(とうとう、とうとう、私は三公になったぞ。陳長文、私が三公になったのだぞ) 中山幸盛は心の中で、旧友・陳羣に呼びかけました。 呼びかけが通じたのでしょうか。中山幸盛より二尺ほど前を歩いていた陳羣がくるりと 振り向きました。 陳羣:「君が司空とは。同郷の者として嬉しいよ。おめでとう」 差し出された陳羣の指は、柳の枝のように細くしなやかで、透き通るように白い 指でございました。 中山幸盛:(これが、汗水垂らして働いたことのない、良家の坊ちゃんの指なのだ) 中山幸盛は懐かしい旧友の指を眩しく眺めました。 中山幸盛:「お主は、昔、私に言ったことを覚えているか?」 陳羣:「はて、何のことやら」 中山幸盛:「世の中には、貢ぐ者と貢がれる者、崇拝される者、する者、 裁く者、裁かれる者がいる、と」 陳羣:「私が?」 陳羣は大袈裟に驚いた様子を見せ、かぶりを振りました。 陳羣:「まさか。ただ、もし口にしたとしても子供の戯言でしょう。 ご容赦を」 中山幸盛:「いいや、確かに言った。私の方が残念ながら、一足先に法曹界の重鎮になったがな」 陳羣:「ひとつ穏便に頼みますよ」 陳羣は中山幸盛の言葉に愛想良く笑いながら応えました。 中山幸盛:「それでは失礼する」 会場へと向かう中山幸盛の後ろ姿を陳羣は、舌打ちしながら眺めておりました。 陳羣:「なんだって、ああいうのは覚えなくてもいいことを覚えているもんかねえ。 幼い頃私が『法曹界の重鎮になりたい』と言ったら 「アナウンサーになるなら、絶対フジがいいよ」などと言っていた あの中山が司空ねぇ……あの、庶民の下民がねえ」 どうやら、中山幸盛と陳羣は互いに含むところがあるようです。 陳羣:「まあ、いい。せいぜい、短い春を楽しむがいい。我が陳家は後漢を代表する 名士の家。お祖父様のまあcと小魔玉失脚の相談でもしてウサ晴らしをするか。 小魔玉の命綱は小銀玉皇后。小銀玉皇后さえ失脚すれば後は芋づる式よ」 中山幸盛が司空となってから、二月後の栄安二年九月中旬。 数枚の絵画が後漢の下々から宮中までを揺るがせました。 後に言う「小銀玉皇后裸照事件」でございます。 民1:「な、なんじゃこれは!」 民2:「保存しました」 民3:「これは、小銀玉皇后と大尉の小魔玉?」 なんと小銀玉と小魔玉の房中での写生画が市井にまで流出したのでございます。 その数、総計三百を超えました。 民1:「小銀玉皇后だけではないぞ。王貴人ことアダルト日出夫との絡みもあるぞ」 民2:「いや、それだけではない。いったい大尉は何人の女と枕を並べたんだ?」 民3:「絶倫にも程がある」 人々は狂ったように件の春画を奪い合い、自家発電に励みました。 洛陽の町は、昼日中にも関わらず通りには人一人も通らず、四日後には 薬局に増血剤を求める客が殺到しました。 人々は抜きすぎにより極度の貧血となりました。 霊帝:「ほほお。よく出来た春画よのお。皇后も、このようなことをして朕に 焼きもちを焼かせようとは可愛い奴よ」 張譲:「陛下、これはいつものプレイではありませぬぞ。ご覧下され、 民は自家発電に励み働くことをせず、あまつさえ貧血で倒れる者で溢れかえっております」 霊帝:「うむうう」 趙忠:「不貞の上、民をも惑わす小銀玉皇后には、相応のご処分が必要かと」 趙忠に便乗するように他の十常侍たちは霊帝に、小銀玉の讒言をしました。 実は、今回の事件には黄巾族の首領、聖天使ザビエルが関係しているのですが、 それは、また次回のお楽しみ。
https://w.atwiki.jp/tsugan/pages/122.html
資治通鑑巻第十九 漢紀十一 世宗孝武皇帝中之上 元朔五年(丁巳、前一二四) 1冬,十一月,乙丑,薛澤免。以公孫弘爲丞相,封平津侯。丞相封侯自弘始。 時上方興功業,弘於是開東閣以延賢人,與參謀議。毎朝覲奏事,因言國家便宜,上亦使左右文學之臣與之論難。弘嘗奏言:「十賊擴弩,百吏不敢前。請禁民毋得挾弓弩,便。」上下其議。侍中吾丘壽王對曰:「臣聞古者作五兵,非以相害,以禁暴討邪也。秦兼天下,銷甲兵,折鋒刃;其後民以櫌鉏、棰梃相撻撃,犯法滋衆,盜賊不勝,卒以亂亡。故聖王務教化而省禁防,知其不足恃也。禮曰:『男子生,桑弧、蓬矢以舉之,』明示有事也。大射之禮,自天子降及庶人。三代之道也。愚聞聖王合射以明教矣,未聞弓矢之爲禁也。且所爲禁者,爲盜賊之以攻奪也;攻奪之罪死,然而不止者,大姦之於重誅,固不避也。臣恐邪人挾之而吏不能止,良民以自備而抵法禁,是擅賊威而奪民救也。竊以爲大不便。」書奏,上以難弘,弘詘服焉。 弘性意忌,外寬内深。諸嘗與弘有隙,無近遠,雖陽與善,後竟報其過。董仲舒爲人廉直,以弘爲從諛,弘嫉之。膠西王端驕恣,數犯法,所殺傷二千石甚衆。弘乃薦仲舒爲膠西相;仲舒以病免。汲黯常毀儒,面觸弘,弘欲誅之以事,乃言上曰:「右内史界部中多貴臣、宗室,難治,非素重臣不能任,請徙黯爲右内史。」上從之。 1. 2春,大旱。 2. 3匈奴右賢王數侵擾朔方。天子令車騎將軍靑將三萬騎出高闕,衞尉蘇建爲游撃將軍,左内史李沮爲高弩將軍,太僕公孫賀爲騎將軍,代相李蔡爲輕車將軍,皆領屬車騎將軍,倶出朔方;大行李息、岸頭侯張次公爲將軍,倶出右北平;凡十餘萬人,撃匈奴。右賢王以爲漢兵遠,不能至,飲酒,醉。衞靑等兵出塞六七百里,夜至,圍右賢王。右賢王驚,夜逃,獨與壯騎數百馳,潰圍北去。得右賢裨王十餘人,衆男女萬五千餘人,畜數十百萬,於是引兵而還。 至塞,天子使使者持大將軍印,即軍中拜衞靑爲大將軍,諸將皆屬焉。夏,四月,乙未,復益封靑八千七百戸,封靑三子伉、不疑、登皆爲列侯。靑固謝曰:「臣幸得待罪行間,賴陛下神靈,軍大捷,皆諸校尉力戰之功也。陛下幸已益封臣靑;臣靑子在襁褓中,未有勤勞,上列地封爲三侯,非臣待罪行間所以勸士力戰之意也。」天子曰:「我非忘諸校尉功也。」乃封護軍都尉公孫敖爲合騎侯,都尉韓説爲龍額侯,公孫賀爲南窌侯,李察爲樂安侯,校尉李朔爲渉軹侯,趙不虞爲隨成侯,公孫戎奴爲從平侯,李沮、李息及校尉豆如意皆賜爵關内侯。 於是靑尊寵,於羣臣無二,公卿以下皆卑奉之,獨汲黯與亢禮。人或説黯曰:「自天子欲羣臣下大將軍,大將軍尊重,君不可以不拜。」黯曰:「夫以大將軍有揖客,反不重邪!」大將軍聞,愈賢黯,數請問國家朝廷所疑,遇黯加於平日。大將軍靑雖貴,有時侍中,上踞廁而視之;丞相弘燕見,上或時不冠;至如汲黯見,上不冠不見也。上嘗坐武帳中,黯前奏事,上不冠,望見黯,避帳中,使人可其奏。其見敬禮如此。 3. 4夏,六月,詔曰:「蓋聞導民以禮,風之以樂。今禮壞、樂崩,朕甚閔焉。其令禮官勸學興禮以爲天下先!」於是丞相弘等奏:「請爲博士官置弟子五十人,復其身;第其高下,以補郎中、文學、掌故;即有秀才異等,輒以名聞;其不事學若下材,輒罷之。又,吏通一藝以上者,請皆選擇以補右職。」上從之。自此公卿、大夫、士、吏彬彬多文學之士矣。 4. 5秋,匈奴萬騎入代,殺都尉朱英,略千餘人。 5. 6初,淮南王安,好讀書屬文,喜立名譽,招致賓客方術之士數千人。其羣臣、賓客,多江、淮間輕薄士,常以厲王遷死感激安。建元六年,彗星見,或説王曰:「先呉軍時,彗星出,長數尺,然尚流血千里。今彗星竟天,天下兵當大起。」王心以爲然,乃益治攻戰具,積金錢。 郎中雷被獲罪於太子遷,時有詔,欲從軍者輒詣長安,被即願奮撃匈奴。太子惡被於王,斥免之,欲以禁後。是歳,被亡之長安,上書自明。事下廷尉治,蹤跡連王,公卿請逮捕治王。太子遷謀令人衣衞士衣,持戟居王旁,漢使有非是者,即刺殺之,因發兵反。天子使中尉宏即訊王,王視中尉顏色和,遂不發。公卿奏:「安壅閼奮撃匈奴者,格明詔,當棄市。」詔削二縣。既而安自傷曰:「吾行仁義,反見削地。」恥之,於是爲反謀益甚。安與衡山王賜相責望,禮節間不相能。衡山王聞淮南王有反謀,恐爲所並,亦結賓客爲反具,以爲淮南已西,欲發兵定江、淮之間而有之。衡山王后徐來譖太子爽於王,欲廢之而立其弟孝。王囚太子而佩孝以王印,令招致賓客。賓客來者微知淮南、衡山有逆計,日夜從容勸之。王乃使孝客江都人枚赫、陳喜作輣車、鍛矢,刻天子璽、將相軍吏印。秋,衡山王當入朝,過淮南;淮南王乃昆弟語,除前隙,約束反具。衡山王即上書謝病,上賜書不朝。 6. 六年(戊午、前一二三) 1春,二月,大將軍靑出定襄,撃匈奴;以合騎侯公孫敖爲中將軍,太僕公孫賀爲左將軍,翕侯趙信爲前將軍,衞尉蘇建爲右將軍,郎中令李廣爲後將軍,左内史李沮爲強弩將軍,咸屬大將軍。斬首數千級而還,休士馬於定襄、雲中、鴈門。 1. 2赦天下。 2. 3夏,四月,衞靑復將六將軍出定襄,撃匈奴,斬首虜萬餘人。右將軍建、前將軍信並軍三千餘騎獨逢單于兵,與戰一日餘,漢兵且盡。信故胡小王,降漢,漢封爲翕侯,及敗,匈奴誘之,遂將其餘騎可八百降匈奴。建盡亡其軍,脱身亡,自歸大將軍。 議郎周霸曰:「自大將軍出,未嘗斬裨將。今建棄軍,可斬,以明將軍之威。」軍正閎、長史安曰:「不然。兵法:『小敵之堅,大敵之禽也。』今建以數千當單于數萬,力戰一日餘,士盡,不敢有二心,自歸,而斬之,是示後無反意也,不當斬。」大將軍曰:「靑幸得以肺腑待罪行間,不患無威,而霸説我以明威,甚失臣意。且使臣職雖當斬將,以臣之尊寵而不敢自擅誅於境外,而具歸天子,天子自裁之,於以見爲人臣不敢專權,不亦可乎?」軍吏皆曰:「善!」遂囚建詣行在所。 初,平陽縣吏霍仲孺給事平陽侯家,與靑姊衞少兒私通,生霍去病。去病年十八,爲侍中,善騎射,再從大將軍撃匈奴,爲票姚校尉,與輕騎勇八百,直棄大軍數百里赴利,斬捕首虜過當。於是天子曰:「票姚校尉去病,斬首虜二千餘級,得相國、當戸,斬單于大父行藉若侯産,生捕季父羅姑,比再冠軍,封去病爲冠軍侯。上谷太守郝賢四從大將軍,捕斬首虜二千餘級,封賢爲衆利侯。」 是歳,失兩將軍,亡翕侯,軍功不多,故大將軍不益封,止賜千金。右將軍建至,天子不誅,贖爲庶人。 單于既得翕侯,以爲自次王,用其姊妻之,與謀漢。信教單于益北絶幕,以誘罷漢兵,徼極而取之,無近塞。單于從其計。 是時,漢比歳發十餘萬衆撃胡,斬捕首虜之士受賜黄金二十餘萬斤,而漢軍士馬死者十餘萬,兵甲轉漕之費不與焉。於是大司農經用竭,不足以奉戰士。六月,詔令民得買爵及贖禁錮,免臧罪。置賞官,名曰武功爵,級十七萬,凡直三十餘萬金。諸買武功爵至千夫者,得先除爲吏。吏道雜而多端,官職耗廢矣。 3. 元狩元年(己未、前一二二) 1冬,十月,上行幸雍,祠五畤,獲獸,一角而足有五蹄。有司言:「陛下肅祗郊祀,上帝報享,錫一角獸,蓋麟雲。」於是以慶五畤,畤加一牛,以燎。久之,有司又言:「元宜以天瑞命,不宜以一二數,一元曰建,二元以長星曰光,今元以郊得一角獸曰狩雲。」於是濟北王以爲天子且封禪,上書獻太山及其旁邑。天子以他縣償之。 1. 2淮南王安與賓客左呉等日夜爲反謀,按輿地圖,部署兵所從入。諸使者道長安來,爲妄言,言「上無男,漢不治」,即喜;即言「漢廷治,有男」,王怒,以爲妄言,非也。 王召中郎伍被與謀反事,被曰:「王安得此亡國之言乎?臣見宮中生荊棘,露霑衣也。」王怒,繋伍被父母,囚之。三月,復召問之,被曰:「昔秦爲無道,窮奢極虐,百姓思亂者十家而六七。高皇帝起於行陳之中,立爲天子,此所謂蹈瑕候間,因秦之亡而動者也。今大王見高皇帝得天下之易也,獨不觀近世之呉、楚乎!夫呉王王四郡,國富民衆,計定謀成,舉兵而西;然破於大梁,奔走而東,身死祀絶者何?誠逆天道而不知時也。方今大王之兵,衆不能十分呉、楚之一,天下安寧,萬倍呉、楚之時,大王不從臣之計,今見大王棄千乘之君,賜絶命之書,爲羣臣先死於東宮也。」王涕泣而起。 王有孽子不害,最長,王弗愛,王后、太子皆不以爲子、兄數。不害有子建,材高有氣,常怨望太子,陰使人告太子謀殺漢中尉事,下廷尉治。 王患之,欲發,復問伍被曰:「公以爲呉興兵,是邪?非邪?」被曰:「非也。臣聞呉王悔之甚,願王無爲呉王之所悔。」王曰:「呉何知反!漢將一日過成皋者四十餘人,今我絶成皋之口,據三川之險,招山東之兵,舉事如此,左呉、趙賢、朱驕如皆以爲什事九成,公獨以爲有禍無福,何也?必如公言,不可徼幸邪?」被曰:「必不得已,被有愚計。當今諸侯無異心,百姓無怨氣,可偽爲丞相、御史請書,徙郡國豪桀高貲於朔方,益發甲卒,急其會日;又偽爲詔獄書,逮諸侯太子、幸臣。如此,則民怨,諸侯懼,即使辯士隨而説之,儻可徼幸什得一乎!」王曰:「此可也。雖然,吾不至若此。」 於是王乃作皇帝璽,丞相、御史大夫、將軍、軍吏、中二千石及旁近郡太守、都尉印,漢使節。欲使人偽得罪而西,事大將軍,一日發兵,即刺殺大將軍。且曰:「漢廷大臣,獨汲黯好直諫,守節死義,難惑以非;至如説丞相弘等,如發蒙振落耳!」 王欲發國中兵,恐其相、二千石不聽,王乃與伍被謀先殺相、二千石。又欲令人衣求盜衣,持羽檄從東方來,呼曰:「南越兵入界!」欲因以發兵。會廷尉逮捕淮南太子,淮南王聞之,與太子謀,召相、二千石,欲殺而發兵。召相,相至,内史、中尉皆不至。王念,獨殺相無益也,即罷相。王猶豫,計未決。太子即自剄,不殊。 伍被自詣吏,告與淮南王謀反蹤跡如此。吏因捕太子、王后,圍王宮,盡求捕王所與謀反賓客在國中者,索得反具,以聞。下公卿治其黨與,使宗正以符節治王。未至,十一月,淮南王安自剄。殺王后荼、太子遷,諸所與謀反者皆族。 天子以伍被雅辭多引漢之美,欲勿誅。廷尉湯曰:「被首爲王畫反計,罪不可赦。」乃誅被。侍中莊助素與淮南王相結交,私論議,王厚賂遺助;上薄其罪,欲勿誅。張湯爭,以爲:「助出入禁門,腹心之臣,而外與諸侯交私如此,不誅,後不可治。」助竟棄市。 衡山王上書,請廢太子爽,立其弟孝爲太子。爽聞,即遣所善白嬴之長安上書,言「孝作輣車、鍛矢,與王御者姦」,欲以敗孝。會有司捕所與淮南謀反者,得陳喜於衡山王子孝家,吏劾孝首匿喜。孝聞「律:先自告,除其罪」,即先自告所與謀反者枚赫、陳喜等。公卿請逮捕衡山王治之,王自剄死。王后徐來、太子爽及孝皆棄市,所與謀反者皆族。 凡淮南、衡山二獄,所連引列侯、二千石、豪傑等,死者數萬人。 2. 3夏,四月,赦天下。 3. 4丁卯,立皇子據爲太子,年七歳。 4. 5五月,乙巳晦,日有食之。 5. 6匈奴萬人入上谷,殺數百人。 6. 7初,張騫自月氏還,具爲天子言西域諸國風俗:「大宛在漢正西,可萬里。其俗土著,耕田;多善馬,馬汗血;有城郭、室屋,如中國。其東北則烏孫,東則于窴。于窴之西,則水皆西流注西海,其東,水東流注鹽澤。鹽澤潛行地下,其南則河源出焉。鹽澤去長安五千里。匈奴右方居鹽澤以東,至隴西長城,南接羌,鬲漢道焉。烏孫、康居、奄蔡、大月氏,皆行國,隨畜牧,與匈奴同俗。大夏在大宛西南,與大宛同俗。臣在大夏時,見邛竹杖、蜀布,問曰:『安得此?』大夏國人曰:『吾賈人往市之身毒。』身毒在大夏東南可數千里,其俗土著,與大夏同。以騫度之,大夏去漢萬二千里,居漢西南;今身毒國又居大夏東南數千里,有蜀物,此其去蜀不遠矣。今使大夏,從羌中,險,羌人惡之;少北,則爲匈奴所得;從蜀,宜徑,又無寇。」 天子既聞大宛及大夏、安息之屬皆大國,多奇物,土著,頗與中國同業,而兵弱,貴漢財物。其北有大月氏、康居之屬,兵強,可以賂遺設利朝也。誠得而以義屬之,則廣地萬里,重九譯,致殊俗,威德遍於四海,欣然以騫言爲然。乃令騫因蜀、犍爲發間使王然於等四道並出駹,出冉,出徙,出邛、僰,指求身毒國,各行一二千里,其北方閉氐、莋,南方閉巂、昆明。昆明之屬無君長,善寇盜,輒殺略漢使,終莫得通。於是漢以求身毒道,始通滇國。滇王當羌謂漢使者曰:「漢孰與我大?」及夜郎侯亦然。以道不通,故各自以爲一州主,不知漢廣大。使者還,因盛言滇大國,足事親附;天子注意焉,乃復事西南夷。 7. 二年(庚申、前一二一) 1冬,十月,上幸雍,祠五畤。 1. 2三月,戊寅,平津獻侯公孫弘薨。壬辰,以御史大夫樂安侯李蔡爲丞相,廷尉張湯爲御史大夫。 2. 3霍去病爲票騎將軍,將萬騎出隴西,撃匈奴,歴五王國,轉戰六日,過焉支山千餘里,殺折蘭王,斬盧侯王,執渾邪王子及相國、都尉,獲首虜八千九百餘級,收休屠王祭天金人。詔益封去病二千戸。 夏,去病復與合騎侯公孫敖將數萬騎倶出北地,異道。衞尉張騫、郎中令李廣倶出右北平,異道。廣將四千騎先行,可數百里,騫將萬騎在後。匈奴左賢王將四萬騎圍廣,廣軍士皆恐;廣乃使其子敢獨與數十騎馳貫胡騎,出其左右而還,告廣曰:「胡虜易與耳!」軍士乃安。廣爲圜陳,外向。胡急撃之,矢下如雨。漢兵死者過半,漢矢且盡。廣乃令士持滿毋發,而廣身自以大黄射其裨將,殺數人,胡虜益解。會日暮,吏士皆無人色,而廣意氣自如,益治軍,軍中皆服其勇。明日,復力戰,死者過半,所殺亦過當。會博望侯軍亦至,匈奴軍乃解去。漢軍罷,弗能追,罷歸。漢法:博望侯留遲後期,當死,贖爲庶人。廣軍功自如,無賞。而票騎將軍去病深入二千餘里,與合騎侯失,不相得。票騎將軍踰居延,過小月氏,至祁連山,得單桓、酋塗王,及相國、都尉以衆降者二千五百人,斬首虜三萬二百級,獲裨小王七十餘人。天子益封去病五千戸,封其裨將有功者鷹撃司馬趙破奴爲從票侯,校尉高不識爲宜冠侯,校尉僕多爲煇渠侯。合騎侯敖坐行留不與票騎會,當斬,贖爲庶人。 是時,諸宿將所將士、馬、兵皆不如票騎,票騎所將常選,然亦敢深入,常與壯騎先其大軍;軍亦有天幸,未嘗困絶也。而諸宿將常留落不偶,由此票騎日以親貴,比大將軍矣。 匈奴入代、鴈門,殺略數百人。 3. 4江都王建與其父易王所幸淖姫等及女弟征臣姦。建游雷陂,天大風,建使郎二人乘小船入陂中。船覆,兩郎溺,攀船,乍見乍沒。建臨觀大笑,令勿救,皆死。凡殺不辜三十五人,專爲淫虐。自知罪多,恐誅,與其後成光共使越婢下神,祝詛上。又聞淮南、衡山陰謀,建亦作兵器,刻皇帝璽,爲反具。事發覺,有司請捕誅,建自殺,後成光等皆棄市,國除。 4. 5膠東康王寄薨。 5. 6秋,匈奴渾邪王降。是時,單于怒渾邪王、休屠王居西方爲漢所殺虜數萬人,欲召誅之。渾邪王與休屠王恐,謀降漢,先遣使向邊境要遮漢人,令報天子。是時,大行李息將城河上,得渾邪王使,馳傳以聞。天子聞之,恐其以詐降而襲邊,乃令票騎將軍將兵往迎之。休屠王后悔,渾邪王殺之,並其衆。票騎既渡河,與渾邪王衆相望。渾邪王裨將見漢軍,而多不欲降者,頗遁去。票騎乃馳入,得與渾邪王相見,斬其欲亡者八千人,遂獨遣渾邪王乘傳先詣行在所,盡將其衆渡河。降者四萬餘人,號稱十萬。既至長安,天子所以賞賜者數十巨萬;封渾邪王萬戸,爲漯陰侯,封其裨王呼毒尼等四人皆爲列侯。益封票騎千七百戸。 渾邪之降也,漢發車二萬乘以迎之,縣官無錢,從民貰馬,民或匿馬,馬不具。上怒,欲斬長安令,右内史汲黯曰:「長安令無罪,獨斬臣黯,民乃肯出馬。且匈奴畔其主而降漢,漢徐以縣次傳之,何至令天下騷動,罷敝中國而以事夷狄之人乎!」上默然。及渾邪至,賈人與市者坐當死五百餘人,黯請間見高門,曰:「夫匈奴攻當路塞,絶和親,中國興兵誅之,死傷者不可勝計,而費以巨萬百數。臣愚以爲陛下得胡人,皆以爲奴婢,以賜從軍死事者家,所鹵獲,因予之,以謝天下之苦,塞百姓之心。今縱不能,渾邪率數萬之衆來降,虚府庫賞賜,發良民侍養,譬若奉驕子,愚民安知市買長安中物,而文吏繩以爲闌出財物於邊關乎!陛下縱不能得匈奴之資以謝天下,又以微文殺無知者五百餘人,是所謂庇其葉而傷其枝者也。臣竊爲陛下不取也。」上默然不許,曰:「吾久不聞汲黯之言,今又復妄發矣。」 居頃之,乃分徙降者邊五郡故塞外,而皆在河南,因其故俗爲五屬國。而金城河西,西並南山至鹽澤,空無匈奴,匈奴時有候者到而希矣。 休屠王太子日磾與母閼氏、弟倫倶沒入官,輸黄門養馬。久之,帝游宴,見馬,後宮滿側,日磾等數十人牽馬過殿下,莫不竊視,至日磾獨不敢。日磾長八尺二寸,容貌甚嚴,馬又肥好,上異而問之,具以本状對。對奇焉,即日賜湯沐、衣冠,拜爲馬監,遷侍中、駙馬都尉、光祿大夫。日磾既親近,未嘗有過失,上甚信愛之,賞賜累千金,出則驂乘,入侍左右。貴戚多竊怨曰:「陛下妄得一胡兒,反貴重之。」上聞,愈厚焉。以休屠作金人祭天主,故賜日磾姓金氏。 6. 三年(辛酉、前一二〇) 1春,有星孛于東方。 1. 2夏,五月。赦天下。 2. 3淮南王之謀反也,膠東康王寄微聞其事,私作戰守備。及吏治淮南事,辭出之。寄母王夫人,即皇太后之女弟也,於上最親,意自傷,發病而死,不敢置後。上聞而憐之,立其長子賢爲膠東王。又封其所愛少子慶爲六安王,王故衡山王地。 3. 4秋,匈奴入右北平、定襄,各數萬騎,殺略千餘人。 4. 5山東大水,民多饑乏。天子遣使者虚郡國倉廥以振貧民,猶不足,又募豪富吏民能假貸貧民者以名聞,尚不能相救。乃徙貧民於關以西及充朔方以南新秦中七十餘萬口,衣食皆仰給縣官,數歳假予産業。使者分部護之,冠蓋相望。其費以億計,不可勝數。 5. 6漢既得渾邪王地,隴西、北地、上郡益少胡寇,詔減三郡戍卒之半,以寬天下之繇。 6. 7上將討昆明,以昆明有滇池方三百里,乃作昆明池以習水戰。是時法既益嚴,吏多廢免。兵革數動,民多買復及五大夫,征發之士益鮮。於是除千夫、五大夫爲吏,不欲者出馬,以故吏弄法,皆謫令伐棘上林,穿昆明池。 7. 8是歳,得神馬於渥窪水中。上方立樂府,使司馬相如等造爲詩賦,以宦者李延年爲協律都尉,佩二千石印;弦次初詩以合八音之調。詩多爾雅之文,通一經之士不能獨知其辭,必集會五經家相與共講習讀之,乃能通知其意。及得神馬,次以爲歌。汲黯曰:「凡王者作樂,上以承祖宗,下以化兆民。今陛下得馬,詩以爲歌,協於宗廟,先帝百姓豈能知其音邪?」上默然不説。 上招延士大夫,常如不足;然性嚴峻,羣臣雖素所愛信者,或小有犯法,或欺罔,輒按誅之,無所寬假。汲黯諫曰:「陛下求賢甚勞,未盡其用,輒已殺之。以有限之士恣無已之誅,臣恐天下賢才將盡,陛下誰與共爲治乎!」黯言之甚怒,上笑而諭之曰:「何世無才,患人不能識之耳,苟能識之,何患無人!夫所謂才者,猶有用之器也,有才而不肯盡用,與無才同,不殺何施!」黯曰:「臣雖不能以言屈陛下,而心猶以爲非。願陛下自今改之,無以臣爲愚而不知理也。」上顧羣臣曰:「黯自言爲便辟則不可,自言爲愚,豈不信然乎!」 8. 四年(壬戌、前一一九) 1冬,有司言:「縣官用度太空,而富商大賈冶鑄、煮鹽,財或累萬金,不佐國家之急。請更錢造幣以贍用,而摧浮淫並兼之徒。」是時,禁苑有白鹿而少府多銀、錫,乃以白鹿皮方尺,縁以藻繢,爲皮幣,直四十萬。王侯、宗室朝覲聘享必以皮幣薦璧,然後得行。又造銀、錫爲白金三品:大者圜之,其文龍,直三千;次方之,其文馬,直五百;小者橢之,其文龜,直三百。令縣官銷半兩錢,更鑄三銖錢,盜鑄諸金錢罪皆死;而吏民之盜鑄白金者不可勝數。 於是以東郭咸陽、孔人堇爲大農丞,領鹽鐵事。桑弘羊以計算用事。咸陽,齊之大煮鹽;人堇,南陽大冶,皆致生累千金。弘羊,洛陽賈人之子,以心計,年十三侍中。三人言利,事析秋毫矣。 詔禁民敢私鑄鐵器、煮鹽者釱左趾,沒入其器物。公卿又請令諸賈人末作各以其物自佔,率緡錢二千而一算;及民有軺車若船五丈以上者,皆有算。匿不自佔,占不悉,戍邊一歳,沒入緡錢。有能告者,以其半畀之。其法大抵出張湯。湯毎朝奏事,語國家用,日晏,天子忘食。丞相充位,天下事皆決於湯。百姓騷動,不安其生,咸指怨湯。 1. 2初,河南人卜式,數請輸財縣官以助邊,天子使使問式:「欲官乎?」式曰:「臣少田牧,不習仕宦,不願也。」使者問曰:「家豈有冤,欲言事乎?」式曰:「臣生與人無分爭,邑人貧者貸之,不善者教之,所居人皆從式,式何故見冤於人!無所欲言也。」使者曰:「苟如此,子何欲而然?」式曰:「天子誅匈奴,愚以爲賢者宜死節於邊,有財者宜輸委,如此而匈奴可滅也。」上由是賢之,欲尊顯以風百姓,乃召拜式爲中郎,爵左庶長,賜田十頃,佈告下天,使明知之。未幾,又擢式爲齊太傅。 2. 3春,有星孛于東北。夏,有長星出于西北。 3. 4上與諸將議曰:「翕侯趙信爲單于畫計,常以爲漢兵不能度幕輕留,今大發士卒,其勢必得所欲。」乃粟馬十萬,令大將軍靑、票騎將軍去病各將五萬騎,私負從馬復四萬匹,歩兵轉者踵軍後又數十萬人,而敢力戰深入之士皆屬票騎。票騎始爲出定襄,當單于,捕虜言單于東,乃更令票騎出代郡,令大將軍出定襄。郎中令李廣數自請行,天子以爲老,弗許;良久,乃許之,以爲前將軍。太僕公孫賀爲左將軍,主爵都尉趙食其爲右將軍,平陽侯曹瓤爲後將軍,皆屬大將軍。趙信爲單于謀曰:「漢兵既度幕,人馬罷,匈奴可坐收虜耳。」乃悉遠北其輜重,以精兵待幕北。 大將軍既出塞,捕虜知單于所居,乃自以精兵走之,而令前將軍廣並於右將軍軍,出東道。東道回遠而水草少,廣自請曰:「臣部爲前將軍,今大將軍乃徙令臣出東道。且臣結髮而與匈奴戰,今乃一得當單于,臣願居前,先死單于。」大將軍亦陰受上誡,以爲「李廣老,數奇,毋令當單于,恐不得所欲。」而公孫敖新失侯,大將軍亦欲使敖與倶當單于,故徙前將軍廣。廣知之,固自辭於大將軍;大將軍不聽,廣不謝而起行,意甚慍怒。 大將軍出塞千餘里,度幕,見單于兵陳而待。於是大將軍令武剛車自環爲營,而縱五千騎往當匈奴。匈奴亦縱可萬騎。會日且入,大風起,砂礫撃面,兩軍不相見,漢益縱左右翼繞單于。單于視漢兵多而士馬尚強,自度戰不能如漢兵,單于遂乘六騾,壯騎可數百,直冒漢圍,西北馳去。時已昏,漢匈奴相紛拏,殺傷大當。當軍左校捕虜言,單于未昏而去,漢軍發輕騎夜追之,大將軍軍因隨其後,匈奴兵亦散走。遲明,行二百餘里,不得單于,捕斬首虜萬九千級,遂至窴顏山趙信城,得匈奴積粟食軍,留一日,悉燒其城餘粟而歸。 前將軍廣與右將軍食其軍無導,惑失道,後大將軍,不及單于戰。大將軍引還,過幕南,乃遇二將軍。大將軍使長史責問廣、食其失道状,急責廣之幕府對簿。廣曰:「諸校尉無罪,乃我自失道,吾今自上簿至莫府」。廣謂其麾下曰:「廣結髮與匈奴大小七十餘戰,今幸從大將軍出接單于兵,而大將軍徙廣部行回遠,而又迷失道,豈非天哉!且廣年六十餘矣,終不能復對刀筆之吏!」遂引刀自剄。廣爲人廉,得賞賜輒分其麾下,飲食與士共之,爲二千石四十餘年,家無餘財。猿臂,善射,度不中不發。將兵,乏絶之處見水,士卒不盡飲,廣不近水,士卒不盡食,廣不嘗食。士以此愛樂爲用。及死,一軍皆哭。百姓聞之,知與不知,無老壯皆爲垂涕。而右將軍獨下吏,當死,贖爲庶人。 單于之遁走,其兵往往與漢兵相亂而隨單于,單于久不與其大衆相得。其右谷蠡王以爲單于死,乃自立爲單于。十餘日,眞單于復得其衆,而右谷蠡王乃去其單于號。 票騎將軍騎兵車重與大將軍軍等,而無裨將,悉以李敢等爲大校,當裨將,出代、右北平二千餘里,絶大幕,直左方兵,獲屯頭王、韓王等三人,將軍、相國、當戸、都尉八十三人,封狼居胥山,禪於姑衍,登臨翰海,鹵獲七萬四百四十三級。天子以五千八百戸益封票騎將軍;又封其所部右北平太守路博德等四人列侯,從票侯破奴等二人益封,校尉敢爲關内侯,食邑;軍吏卒爲官、賞賜甚多。而大將軍不得益封,軍吏卒皆無封侯者。 兩軍之出塞,塞閲官及私馬凡十四萬匹,而復入塞者不滿三萬匹。 乃益置大司馬位,大將軍、票騎將軍皆爲大司馬,定令,令票騎將軍秩祿與大將軍等。自是之後,大將軍靑日退而票騎日益貴。大將軍故人、門下士多去事票騎,輒得官爵,唯任安不肯。 票騎將軍爲人,少言不洩,有氣敢往。天子嘗欲教之孫、呉兵法,對曰:「顧方略何如耳,不至學古兵法。」天子爲治第,令票騎視之,對曰:「匈奴未滅,無以家爲也!」由此上益重愛之。然少貴,不省士,其從軍,天子爲遣太官繼數十乘,既還,重車餘棄粱肉,而士有饑者;其在塞外,卒乏糧或不能自振,而票騎尚穿域蹋鞠,事多此類。大將軍爲人仁,喜士退讓,以和柔自媚於上。兩人志操如此。 是時,漢所殺虜匈奴合八九萬,而漢士卒物故變數萬。是後匈奴遠遁,而幕南無王庭。漢渡河自朔方以西至令居,往往通渠,置田官,吏卒五六萬人,稍蠶食匈奴以北;然亦以馬少,不復大出撃匈奴矣。 匈奴用趙信計,遣使於漢,好辭請和親。天子下其議,或言和親,或言遂臣之。丞相長史任敞曰:「匈奴新破困,宜可使爲外臣,朝請於邊。」漢使任敞於單于,單于大怒,留之不遣。是時,博士狄山議以爲和親便,上以問張湯,湯曰:「此愚儒無知。」狄山曰:「臣固愚,愚忠。若御史大夫湯,乃詐忠。」於是上作色曰:「吾使生居一郡,能無使虜入盜乎?」曰:「不能。」曰:「居一縣?」對曰:「不能。」復曰:「居一障間?」山自度辯窮且下吏,曰:「能。」於是上遣山乘障,至月餘,匈奴斬山頭而去。自是之後,羣臣震懾,無敢忤湯者。 4. 5是歳,汲黯坐法免,以定襄太守義縱爲右内史,河内太守王温舒爲中尉。 先是,寧成爲關都尉,吏民出入關者號曰:「寧見乳虎,無値寧成之怒。」及義縱爲南陽太守,至關,寧成側行送迎。至郡,遂按寧氏,破碎其家;南陽吏民重足一跡。後徙定襄太守,初至,掩定襄獄中重罪輕繋二百餘人,及賓客、昆弟私人視亦二百餘人,一捕,鞠曰「爲死罪解脱」。是日,皆報殺四百餘人。其後郡中不寒而慄。是時,趙禹、張湯以深刻爲九卿。然其治尚輔法而行;縱專以鷹撃爲治。王温舒始爲廣平都尉,擇郡中豪敢往吏十餘人,以爲爪牙,皆把其陰重罪,而縱使督盜賊。快其意所欲得,此人雖有百罪,弗法;即有避,因其事夷之,亦滅宗。以其故,齊、趙之郊盜賊不敢近廣平,廣平聲爲道不拾遺。遷河内太守,以九月至,令郡具私馬五十匹爲驛,捕郡中豪猾,相連坐千餘家。上書請,大者至族,小者乃死,家盡沒入償臧。奏行不過二三日得可,事論報,至流血十餘里,河内皆怪其奏,以爲神速。盡十二月,郡中毋聲,毋敢夜行,野無犬吠之盜。其頗不得,失之旁郡國,追求。會春,温舒頓足歎曰:「嗟乎!令冬月益展一月,足吾事矣!」 天子聞之,皆以爲能,故擢爲中二千石。 5. 6齊人少翁,以鬼神方見上。上有所幸王夫人卒,少翁以方夜致鬼,如王夫人之貌,天子自帷中望見焉。於是乃拜少翁爲文成將軍,賞賜甚多,以客禮禮之。文成又勸上作甘泉宮,中爲台室,畫天、地、太一諸鬼神而置祭具,以致天神。居歳餘,其方益衰,神不至。乃爲帛書以飯牛,佯不知,言曰:「此牛腹中有奇。」殺視,得書,書言甚怪,天子識其手書,問其人,果是偽書。於是誅文成將軍而隱之。 6.
https://w.atwiki.jp/tsugan/pages/127.html
資治通鑑巻第二十四 漢紀十六 孝昭皇帝下 元平元年(丁未、前七四) 1春,二月,詔減口賦錢什三。 1. 春、二月、詔があり、口賦銭を三割減らした。 2夏,四月,癸來,帝崩於未央宮;無嗣。時武帝子獨有廣陵王胥,大將軍光與羣臣議所立,咸持廣陵王。王本以行失道,先帝所不用;光内不自安。朗有上書言:「周太王廢太伯立王季,文王捨伯邑考立武王,唯在所宜,雖廢長立少可也。廣陵王不可以承宗嗣。」言合光意。光以其書示丞相敞等,擢郎爲九江太守。即日承皇后詔,遣行大鴻臚事少府樂成、宗正德、光祿大夫吉、中郎將利漢,迎昌邑王賀,乘七乘傳詣長安邸。光又白皇后,徒右將軍安世爲車騎將軍。 賀,昌邑哀王之子也,在國素狂縱,動作無節。武帝之喪,賀遊獵不止。嘗遊方與,不半日馳二百里。中尉琅邪王吉上疏諫曰:「大王不好書術而樂逸游,馮式撙街,馳騁不止,口倦虖叱吒,手苦於棰轡,身勞虖車輿,朝則冒霧露,晝則被塵埃,夏則爲大暑之所暴炙,冬則爲風寒之所匽薄,數以耎脆之玉體犯勤勞之煩毒,非所以全壽命之宗也,又非所以進仁義之隆也。夫廣廈之下,細旃之上,明師居前,勤誦在後,上論唐、虞之際,下及殷、周之盛,考仁聖之風,習治國之道,欣欣焉發憤忘食,日新厥德,其樂豈街橛之間哉!休則俛仰屈伸以利形,進退歩趨以實下,吸新吐故以練臧,專意積精以適神,於以養生,豈不長哉!大王誠留意如此,則心有堯、舜之志,體有喬、松之壽,美聲廣譽,登而上聞,則福祿其臻而社稷安矣。皇帝仁聖,至今思慕未怠,於宮館、囿池、戈獵之樂未有所幸,大王宜夙夜念此以承聖意。諸侯骨肉,莫親大王,大王於屬則子也,於位則臣也,一身而二任之責加焉。恩愛行義,纖介有不具者,於以上聞,非饗國之福也。」王乃下令曰:「寡人造行不能無惰,中尉其忠,數輔吾過。」使謁者千秋賜中尉牛肉五百斤,酒五石,脯五束。其後復放縱自若。 郎中令山陽龔遂,忠厚剛毅,有大節,内諫爭於王,外責傅相,引經義,陳禍福,至於涕泣,蹇蹇亡已,面刺王過。王至掩耳起走,曰:「郎中令善愧人!」王嘗久與騶奴、宰人遊戲飲食,賞賜無度,遂入見王,涕泣膝行,左右侍御皆出涕。王曰:「郎中令何爲哭?」遂曰:「臣痛社稷危也!願賜清閒,竭愚!」王辟左右。遂曰:「大王知膠西王所以爲無道亡乎?」王曰:「不知也。」曰:「臣聞膠西王有諛臣侯得,王所爲似於桀、紂也,得以爲堯、舜也。王説其諂諛,常與寢處,唯得所言,以至於是。今大王親近羣小,漸漬邪惡所習,存亡之機,不可不愼也!臣請選郎通經有行義者與王起成,坐則誦詩、書,立則習禮容,宜有益。」王許之。遂乃選郎中張安等十人侍王。居數日,王皆逐去安等。 王嘗見大白犬,頸以下似人,冠方山冠而無尾,以問龔遂,遂曰:「此天戒,言在側者盡冠狗也,去之則存,不去則亡矣。」後又聞人聲曰:「熊!」視而見大熊,左右莫見,以問遂,遂曰:「熊,山野之獸,而來之宮室,王獨見之,此天戒大王,恐宮室將空,危亡象也。」王仰天而歎曰:「不祥何爲數來!」遂叩頭曰:「臣不敢隱忠,數言危亡之戒;大王不説。夫國之存亡,豈在臣言哉!願王内自揆度。大王誦詩三百五篇,人事浹,王道備。王之所行,中詩一篇何等也?大王位於諸侯王,行汚於庶人,以存難,以亡易,宜深察之!」後又血汚王坐席,王問遂;遂叫然號曰:「宮空不久,妖祥數至。血者,陰憂象也,宜畏愼自省!」王終不改節。 及徴書至,夜漏未盡一刻,以火發書。其日中,王發;晡時,至定陶,行百三十五里,侍從者馬死相望於道。王吉奏書戒王曰:「臣聞高宗諒闇,三年不言。今大王以喪事征,宜日夜哭泣悲哀而已,愼毋有所發!大將軍仁愛、勇智、忠信之德,天下莫不聞;事孝武皇帝二十餘年,未嘗有過。先帝棄羣臣,屬以天下,寄幼孤焉。大將軍抱持幼君襁褓之中,布政施教,海内晏然,雖周公、伊尹無以加也。今帝崩無嗣,大將軍惟思可以奉宗廟者,攀援而立大王,其仁厚豈有量哉!臣願大王事之,敬之,政事壹聽之,大王垂拱南面而已。願留意,常以爲念!」 王至濟陽,求長鳴雞,道買積竹杖。過弘農,使大奴善以衣車載女子。至湖,使者以讓相安樂。安樂告龔遂,遂入問王,王曰:「無有。」遂曰:「即無有,何愛一善以毀行義!請收屬吏,以湔灑大王。」即捽善屬衞士長行法。 王到霸上,大鴻臚郊迎,騶奉乘輿車。王使壽成御,郎中令遂參乘。且至廣明、東都門,遂曰:「禮,奔喪望見國都哭。此長安東郭門也。」王曰:「我嗌痛,不能哭。」至城門,遂復言,王曰:「城門與郭門等耳。」且至未央宮東闕,遂曰:「昌邑帳在是闕外馳道北,未至帳所,有南北行道,馬足未至數歩;大王宜下車,郷闕西面伏哭,盡哀止。」王曰:「諾。」到,哭如儀。六月,丙寅,王受皇帝璽綬,襲尊號,尊皇后曰皇太后。 2. 3壬申,葬孝昭皇帝於平陵。 3. 4昌邑王既立,淫戲無度。昌邑官屬皆征至長安,往往超擢拜官。相安樂遷長樂衞尉。龔遂見安樂,流涕謂曰:「王立爲天子,日益驕溢,諫之不復聽。今哀痛未盡,日與近臣飲酒作樂,斗虎豹,召皮軒車九旒,驅馳東西,所爲悖道。古制寬,大臣有隱退;今去不得,陽狂恐知,身死爲世戮,奈何?君,陛下故相,宜極諫爭。」 王夢靑蠅之矢積西階東,可五六石,以屋版瓦覆之,以問遂,遂曰:「陛下之詩不云乎:『營營靑蠅,止於籓。愷悌君子,毋信讒言。』陛下左側讒人衆多,如是靑蠅惡矣。宜進先帝大臣子孫,親近以爲左右。如不忍昌邑故人,信用讒諛,必有凶咎。願詭禍爲福,皆放逐之!臣當先逐矣。」王不聽。太僕丞河東張敞上書諫,曰:「孝昭皇帝早崩無嗣,大臣猶懼,選賢聖承宗廟,東迎之日,唯恐屬車之行遲。今天子以盛年初即位,天下莫不拭目傾耳,觀化聽風。國輔大臣未褒,而昌邑小輩先遷,此過之大者也。」王不聽。 太僕丞河東張敝上書諫,曰:「孝昭皇帝早崩無嗣,大臣憂懼,選賢聖承宗廟,東迎之日,唯恐屬車之行遲。今天子以盛年初即位,天下莫不拭目傾年,觀化聽風。國輔大臣未褒,而昌邑小輩先遷,此過之大者也。」王不聽。 大將軍光憂懣,獨以問所親故吏大司農田延年。延年曰:「將軍爲國柱石,審此人不可,何不建白太后,更選賢而立之!」光曰:「今欲如是,於古嘗有此不?」延年曰:「伊尹相殷,廢太甲以安宗廟,後世稱其忠。將軍若能行此,亦漢之伊尹也。」光乃引延年給事中,陰與車騎將軍張安世圖計。 王出遊,光祿大夫魯國夏侯勝當乘輿前諫曰:「天久陰而不雨,臣下有謀上者。陛下出,欲何之?」王怒,謂勝爲示夭言,縛以屬吏。吏白霍光,光不舉法。光讓安世,以爲洩語。安世實不言;乃召問勝。勝對言:「在鴻範傳曰:『皇之不極,厥罰常陰,時則有下人伐上者。』惡察察言,故云『臣下有謀』。」光、安世大驚,以此益重經術士。侍中傅嘉數進諫,王亦縛嘉繋獄。 光、安世既定議,乃使田延年報丞相楊敞。敞驚懼,不知所言,汗出洽背,徒唯唯而已。延年起,至更衣,敞夫人遽從東廂謂敞曰:「此國大事,今大將軍議已定,使九卿來報君侯,君侯不疾應,與大將軍同心,猶與無決,先事誅矣!」延年從更衣還,敞夫人與延年參語許諾:「請奉大將軍教令!」 癸巳,光召丞相、御史、將軍、列侯、中二千石、大夫、博士會議未央宮。光曰:「昌邑王行昏亂,恐危社稷,如何?」羣臣皆驚鄂失色,莫敢發言,但唯唯而已。田延年前,離席按劍曰:「先帝屬將軍以幼孤,寄將軍以天下,以將軍忠賢,能安劉氏也。今羣下鼎沸,社稷將傾;且漢之傳謚常爲『孝』者,以長有天下,令宗廟血食也。如漢家絶祀,將軍雖死,何面目見先帝於地下乎?今日之議,不得旋踵,羣臣後應者,臣請斂斬之!」光謝曰:「九卿責光是也!天下匈匈不安,光當受難。」於是議者皆叩頭曰:「萬姓之命,在於將軍,唯大將軍令!」 光即與羣臣倶見,白太后,具陳昌邑王不可以承宗廟状。皇太后乃車駕幸未央承明殿,詔諸禁門毋内昌邑羣臣。王入朝太后還,乘輦欲歸温室。中黄門宦者各持門扇,王入,門閉,昌邑羣臣不得入。王曰:「何爲?」大將軍跪曰:「有皇太后詔,毋内昌邑羣臣!」王曰:「徐之,何乃驚人如是!」光使盡驅出昌邑羣臣,置金馬門外。車騎將軍安世將羽林騎,收縛二百餘人,皆送廷尉詔獄。令故昭帝侍中中臣侍守王。光敕左右:「謹宿衞!卒有物故自裁,令我負天下,有殺主名。」王尚未自知當廢,謂左右:「我故羣臣從官安得罪,而大將軍盡繋之乎!」 頃之,有太后詔召王。王聞召,意恐,乃曰:「我安得罪而召我哉!」太后被珠襦,盛服坐武帳中,侍御數百人皆持兵,期門武士陛戟陳列殿下,羣臣以次上殿,召昌邑王伏前聽詔。光與羣臣連名奏王,尚書令讀奏曰:「丞相臣敞等昧死言皇太后陛下:孝昭皇帝早棄天下,遣使征昌邑王典喪,服斬衰,無悲哀之心,廢禮誼,居道上不素食,使從官略女子載衣車,内所居傳捨。始至謁見,立爲皇太子,常私買雞豚以食。受皇帝信璽、行璽大行前,就次,發璽不封。從官更持節引内昌邑從官、騶宰、官奴二百餘人,常與居禁闥内敖戲。爲書曰:『皇帝問侍中君卿:使中御府令高昌奉黄金千斤,賜君卿取十妻。』大行在前殿,發樂府樂器,引内昌邑樂人撃鼓,歌吹,作俳倡;召内泰壹、宗廟樂人,悉奏衆樂。駕法駕驅馳北宮、桂宮,弄彘,斗虎。召皇太后御小馬車,使官奴騎乘,遊戲掖庭中。與孝昭皇帝宮人蒙等淫亂,詔掖庭令:『敢洩言,要斬!』……」太后曰:「止!爲人臣子,當悖亂如是邪!」王離席伏。尚書令復讀曰:「……取諸侯王、列侯、二千石綬及墨綬、黄綬以並佩昌邑郎官者免奴。發御府金錢、刀劍、玉器、采繒,賞賜所與遊戲者。與從官、官奴夜飲,湛沔於酒。獨夜設九賓温室,延見姊夫昌邑關内侯。祖宗廟祠未舉,爲璽書,使使者持節以三太牢祠昌邑哀王園廟,稱『嗣子皇帝』。受璽以來二十七日,使者旁午,持節詔諸官署征發凡一千一百二十七事。荒淫迷惑,失帝王禮誼,亂漢制度。臣敞等數進諫,不變更,日以益甚。恐危社稷,天下不安。臣敞等謹與博士議,皆曰:『今陛下嗣孝昭皇帝後,行淫辟不軌。「五辟之屬,莫大不孝。」周襄王不能事母,春秋曰:「天王出居於鄭,」由不孝出之,絶之於天下也。宗廟重於君,陛下不可以承天序,奉祖宗廟,子萬姓,當廢!』臣請有司以一太牢具告祠高廟。」皇太后詔曰:「可。」光令王起,拜受詔,王曰:「聞『天下有爭臣七人,雖亡道不失天下。』」光曰:「皇太后詔廢,安得稱天子!」乃即持其手,解脱其璽組,奉上太后,扶王下殿,出金馬門,羣臣隨送。王西面拜曰:「愚戇,不任漢事!」起,就乘輿副車,大將軍光送至昌邑邸。光謝曰:「王行自絶於天,臣寧負王,不敢負社稷!願王自愛,臣長不復左右。」光涕泣而去。 羣臣奏言:「古者廢放之人,屏於遠方,不及以政。請徒王賀漢中房陵縣。」太后詔歸賀昌邑,賜湯沐邑二千戸,故王家財物皆與賀;及哀王女四人,各賜湯沐邑千戸;國除,爲山陽郡。 昌邑羣臣坐在國時不舉奏王罪過,令漢朝不聞知,又不能輔道,陷王大惡,皆下獄,誅殺二百餘人。唯中尉吉、郎中令遂以忠直數諫正,得減死,髡爲城旦。師王式繋獄當死,治事使者責問曰:「師何以無諫書?」式對曰:「臣以詩三百五篇朝夕授王,至於忠臣、孝子之篇,未嘗不爲王反覆誦之也。至於危亡失道之君,未嘗不流涕爲王深陳之也。臣以三百五篇諫,是以無諫書。」使者以聞,亦得減死論。 霍光以羣臣奏事東宮,太后省政,宜知經術,白令夏侯勝用尚書授太后,遷勝長信少府,賜爵關内侯。 4. 5初,衞太子納魯國史良娣,生子進,號史皇孫。皇孫納涿郡王夫人,生子病已,號皇曾孫。皇曾孫生數月,遭巫蠱事,太子三男、一女及諸妻、妾皆遇害,獨皇曾孫在,亦坐收繋郡邸獄。故廷尉監魯國丙吉受詔治巫蠱獄,吉心知太子無事實,重哀皇曾孫無辜,擇謹厚女徒謂城胡組、淮陽郭征卿,令乳養曾孫,置閒燥處。吉日再省視。 巫蠱事連歳不決,武帝疾,來往長楊、五柞宮,望氣者言長安獄中有天子氣,於是武帝遣使者分條中都官,詔獄繋者,無輕重,一切皆殺之。内謁者令郭穰夜到郡邸獄,吉閉門拒使者不納,曰:「皇曾孫在。他人無辜死者猶不可,況親曾孫乎!」相守至天明,不得入。穰還,以聞,因劾奏吉。武帝亦寤,曰:「天使之也。」因赦天下。郡邸獄繋者,獨賴吉得生。 既而吉謂守丞誰如:「皇孫不當在官。」使誰如移書京兆尹,遣與胡組倶送;京兆尹不受,復還。及組日滿當去,皇孫思慕,吉以私錢雇組令留,與郭征卿並養,養月,乃遣組去。後少内嗇夫白吉曰:「食皇孫無詔令。」時吉得食米、肉,月月以給皇曾孫。曾孫病,幾不全者數焉,吉數敕保養乳母加致醫藥,視遇甚有恩惠。吉聞史良娣有母貞君及兄恭,乃載皇曾孫以付之。貞君年老,見孫孤,甚哀之,自養視焉。 後有詔掖庭養視,上屬籍宗正。時掖庭令張賀,嘗事戻太子,思顧舊恩,哀曾孫,奉養甚謹,以私錢供給,教書。既壯,賀欲以女孫妻之。是時昭帝始冠,長八尺二寸。賀弟安世爲右將軍,輔政,聞賀稱譽皇曾孫,欲妻以女,怒曰:「曾孫乃衞太子後也,幸得以庶人衣食縣官足矣,勿復言予女事!」於是賀止。時暴室嗇夫許廣漢有女,賀乃置酒請廣漢,酒酣,爲言:「曾孫體近,下乃關内侯,可妻也。」廣漢許諾。明日,嫗聞之,怒。廣漢重令人爲介,遂與曾孫。賀以家財聘之。曾孫因依倚廣漢兄弟及祖母家史氏,受詩於東海澓中翁,高材好學;然亦喜遊俠,鬥雞走狗,以是倶知閭里姦邪,吏治得失。數上下諸陵,周遍三輔,嘗困於蓮勺鹵中,尤樂杜、鄠之間,率常在下杜。時會朝請,捨長安尚冠里。 及昌邑王廢,霍光與張安世諸大臣議所立,未定。丙吉奏記光曰:「將軍事孝武皇帝,受襁褓之屬,任天下之寄。孝昭皇帝早崩亡嗣,海内憂懼,欲亟聞嗣主。發喪之日,以大誼立後,所立非其人,復以大誼廢之;天下莫不服焉。方今社稷、宗廟、羣生之命在將軍之壹舉,竊伏聽於衆庶,察其所言諸侯、宗室在列位者,未有所聞於民間也。而遺詔所養武帝曾孫名病已在掖庭、外家者,吉前使居郡邸時,見其幼少;至今十八九矣,通經術,有美材,行安而節和。願將軍詳大義,參以蓍龜豈宜,褒顯先使入侍,令天下昭然知之,然後決定大策,天下幸甚!」杜延年亦知曾孫德美,勸光、安世立焉。 秋,七月,光坐庭中,會丞相以下議定所立,遂復與丞相敞等上奏曰:「孝武皇帝曾孫病已,年十八,師受詩、論語、孝經,躬行節儉,慈仁愛人,可以嗣孝昭皇帝後,奉承祖宗廟,子萬姓。臣昧死以聞!」皇太后詔曰:「可。」光遣宗正德至曾孫家尚冠里,洗沐,賜御衣;太僕以軨獵車迎曾孫,就齋宗正府。庚申,入未央宮,見皇太后,封爲陽武侯。已而羣臣奏上璽綬,即皇帝位,謁高廟;尊皇太后爲太皇太后。 侍御史嚴延年劾奏「大將軍光擅廢立主,無人臣禮,不道。」奏雖寢,然朝廷肅然敬憚之。 5. 6八月,己巳,安平敬侯楊敞薨。 6. 7九月,大赦天下。 7. 8戊寅,蔡義爲丞相。 8. 9初,許廣漢女適皇曾孫,一歳,生子奭。數月,曾孫立爲帝,許氏爲婕妤。是時霍將軍有小女與皇太后親,公卿議更立皇后,皆心擬霍將軍女,亦未有言。上乃詔求微時故劍。大臣知指,白立許婕妤爲皇后。十一月,壬子,立皇后許氏。霍光以後父廣漢刑人,不宜君國;歳餘,乃封爲昌成君。 9. 10太皇太后歸長樂宮。長樂宮初置屯衞。 10. 中宗孝宣皇帝上之上 本始元年(戊申、前七三) 1春,詔有司論定策安宗廟功。大將軍光益封萬七千戸,與故所食凡二萬戸。車騎將軍富平侯安世以下益封者十人,封侯者五人,賜爵關内侯者八人。 1. 2大將軍光稽首歸政,上謙讓不受;諸事皆先關白光,然後奏御。自昭帝時,光子禹及兄孫雲皆爲中郎將,雲弟山奉車都尉、侍中、領胡、越兵,光兩女婿爲東、西宮衞尉,昆弟、諸婿、外孫皆奉朝請,爲諸曹、大夫、騎都尉、給事中,黨親連體,根據於朝廷。及昌邑王廢,光權益重,毎朝見,上虚己斂容,禮下之已甚。 2. 3夏,四月,庚午,地震。 3. 4五月,鳳皇集膠東、千乘。赦天下,勿收田租賦。 4. 5六月,詔曰:「故皇太子在湖,未有號謚,歳時祠;其議謚,置園邑。」有司奏請:「禮,爲人後者,爲之子也;故降其父母,不得祭,尊祖之義也。陛下爲孝昭帝后,承祖宗之祀,愚以爲親謚宜曰悼,母曰悼後;故皇太子謚曰戻,史良娣曰戻夫人。」皆改葬焉。 5. 6秋,七月,詔立燕刺王太子建爲廣陽王;立廣陵王胥少子弘爲高密王。 6. 7初,上官桀與霍光爭權,光既誅桀,遂遵武帝法度,以刑罰痛繩羣下,由是俗吏皆尚嚴酷以爲能;而河南太守丞淮陽黄霸獨用寬和爲名。上在民間時,知百姓苦吏急也,聞霸持法平,乃召以爲廷尉正;數決疑獄,庭中稱平。 7. 二年(己酉、前七二) 1春,大司農田延年有罪自殺。昭帝之喪,大司農僦民車,延年詐增僦直,盜取錢三千萬,爲怨家所告。霍將軍召問延年,欲爲道地。延年抵曰:「無有是事!」光曰:「即無事,當窮竟!」御史大夫田廣明謂太僕杜延年曰:「春秋之義,以功覆過。當廢昌邑王時,非田子賓之言,大事不成。今縣官出三千萬自乞之,何哉?願以愚言白大將軍。」延年言之大將軍,大將軍曰:「誠然,實勇士也!當發大議時,震動朝廷,」光因舉手自撫心曰:「使我至今病悸。謝田大夫曉大司農,通往就獄,得公議之。」田大夫使人語延年。延年曰:「幸縣官寬我耳,何面目入牢獄,使衆人指笑我,卒徒唾吾背乎?」即閉閣獨居齋舍,偏袒,持刀東西歩。數日,使者召延年詣廷尉。聞鼓聲,自刎死。 1. 2夏,五月,詔曰:「孝武皇帝躬仁誼,勵威武,功德茂盛,而廟樂未稱,聯甚悼焉。其與列侯、二千石、博士議。」於是羣臣大議庭中,皆曰:「宜如詔書。」長信少府夏侯勝獨曰:「武帝雖有攘四夷、廣土境之功,然多殺士衆,竭民財力,奢泰無度,天下虚耗,百姓流離,物故者半,蝗蟲大起,赤地數千里,或人民相食,畜積至今未復;無德澤於民,不宜爲立廟樂。」公卿共難勝曰:「此詔書也。」勝曰:「詔書不可用也。人臣之誼,宜直言正論,非苟阿意順指。議已出口,雖死不悔!」於是丞相、御史劾奏勝非議詔書,毀先帝,不道;及丞相長史黄霸阿縱勝,不舉劾;倶下獄。有司遂請尊孝武帝廟爲世宗廟,奏盛德、文始五行之舞。武帝巡狩所幸郡國皆立廟,如高祖、太宗焉。夏侯勝、黄霸既久繋,霸欲從勝受尚書,勝辭以罪死。霸曰:「朝聞道,夕死可矣。」勝賢其言,遂授之。繋再更冬,講論不怠。 2. 3初,烏孫公主死,漢復以楚王戊之孫解憂爲公主,妻岑娶。岑娶胡婦子泥靡尚小,岑娶且死,以國與季父大祿子翁歸靡,曰:「泥靡大,以國歸之。」翁歸靡既立,號肥王,復尚楚主,生三男、兩女。長男曰元貴靡,次曰萬年,次曰大樂。昭帝時,公主上書言:「匈奴與車師共侵烏孫,唯天子幸救之。」漢養士馬,議撃匈奴。會昭帝崩,上遣光祿大夫常惠使烏孫。烏孫公主及昆彌皆遣使上書,言:「匈奴復連發大兵,侵撃烏孫。使使謂烏孫『趣持公主來!』欲隔絶漢。昆彌願發國精兵五萬騎,盡力撃匈奴。唯天子出兵以救公主、昆彌!」先是匈奴數侵漢邊,漢亦欲討之。秋,大發兵,遣御史大夫田廣明爲祁連將軍,四萬餘騎,出西河;度遼將軍范明友三萬餘騎,出張掖;前將軍韓增三萬餘騎,出雲中;後將軍趙充國爲蒲類將軍,三萬餘騎,出酒泉;雲中太守田順爲虎牙將軍,三萬餘騎,出五原;期以出塞各二千餘里。以常惠爲校尉,持節護烏孫兵共撃匈奴。 3. 三年(庚戌、前七一) 1春,正月,癸亥,恭哀許皇后崩。時霍光夫人顯欲貴其小女成君,道無從。會許后當娠,病,女醫淳於衍者,霍氏所愛,嘗入宮侍皇后疾。衍夫賞爲掖庭戸衞,謂衍:「可過辭霍夫人,行爲我求安池監。」衍如言報顯,顯因生心,辟左右,謂衍曰:「少夫幸報我以事,我亦欲報少夫,可乎?」衍曰:「夫人所言,何等不可者!」顯曰:「將軍素愛小女成君,欲奇貴之,願以累少夫。」衍曰:「何謂邪?」顯曰:「婦人免乳,大故,十死一生。今皇后當免身,可因投毒藥去也,成君即爲皇后矣。如蒙力,事成,富貴與少夫共之。」衍曰:「藥雜治,當先嘗,安可?」顯曰:「在少夫爲之耳。將軍領天下,誰敢言者!緩急相護,但恐少夫無意耳。」衍良久曰:「願盡力!」即搗附子,繼入長定宮。皇后免身後,衍取附子併合太醫大丸以飲皇后,有頃,曰:「我頭岑岑也,藥中得無有毒?」對曰:「無有。」遂加煩懣,崩。衍出,過見顯,相勞問,亦未敢重謝衍。後人有上書告諸醫侍疾無状者,皆收繋詔獄,劾不道。顯恐急,即以状具語光,因曰:「既失計爲之,無令吏急衍!」光大驚,欲自發舉,不忍,猶與。會奏上,光署衍勿論。顯因勸光内其女入宮。 1. 2戊辰,五將軍發長安。匈奴聞漢兵大出,老弱奔走,驅畜産遠遁逃,是以五將少所得。夏,五月,軍罷。度遼將軍出塞千二百餘里,至蒲離候水,斬首、捕虜七百餘級;前將軍出塞千二百餘里,至烏員,斬首、捕虜百餘級;蒲類將軍出塞千八百餘里,西至候山,斬首、捕虜,得單于使者蒲陰王以下三百餘級。聞虜已引去,皆不至期還。天子薄其過,寬而不罪。祁連將軍出塞千六百里,至雞秩山,斬首、捕虜十九級。逢漢使匈奴還者冉弘等,言雞秩山西有虜衆,祁連即戒弘,使言無虜,欲還兵。御史屬公孫益壽諫,以爲主可。祁連不聽,遂引兵還。虎牙將軍出塞八百餘里,至丹餘吾水上,即止兵不進,斬首、捕虜千九百餘級,引兵還。上以虎牙將軍不至期,詐增鹵獲,而祁連知虜在前,逗遛不進,皆下吏,自殺。擢公孫益壽爲侍御史。 烏孫昆彌自將五萬騎與校尉常惠從西方入,至右谷蠡王庭,獲單于父行及嫂、居次、名王、犁汙都尉、千長、騎將以下四萬級,馬、牛、羊、驢、橐佗七十餘萬頭。烏孫皆自取所虜獲。上以五將皆無功,獨惠奉使克獲,封惠爲長羅侯。然匈奴民衆傷而去者及畜産遠移死亡,不可勝數。於是匈奴遂衰耗,怨烏孫。 上復遣常惠持金幣還賜烏孫貴人有功者。惠因奏請龜茲國嘗殺校尉賴丹,未伏誅,請便道撃之。帝不許。大將軍霍光風惠以便宜從事。惠與吏士五百人倶至烏孫,還,過,發西國兵二萬人,令副使發龜茲東國二萬人,烏孫兵七千人,從三面攻龜茲。兵未合,先遣人責其王以前殺漢使状。王謝曰:「乃我先王時爲貴人姑翼所誤耳,我無罪。」惠曰:「即如此,縛姑翼來,吾置王。」王執姑翼詣惠,惠斬之而還。 2. 3大旱。 3. 4六月,己丑,陽平節侯蔡義薨。 4. 5甲辰,長信少府韋賢爲丞相。 5. 6大司農魏相爲御史大夫。 6. 7冬,匈奴單于自將數萬騎撃烏孫,頗得老弱。欲還,會天大雨雪,一日深丈餘,人民、畜産凍死,還者不能什一。於是丁令乘弱攻其北,烏桓入其東,烏孫撃其西,凡三國所殺數萬級,馬數萬匹,牛羊甚衆;又重以餓死,人民死者什三,畜産什五。匈奴大虚弱,諸國羈屬者皆瓦解,攻盜不能理。其後漢出三千餘騎爲三道,並入匈奴,捕虜得數千人還;匈奴終不敢取當,滋欲郷和親,而邊境少事矣。 7. 8是歳,穎川太守趙廣漢爲京兆尹。穎川俗,豪桀相朋黨。廣漢爲缿筒,受吏民投書,使相告訐,於是更相怨咎,姦黨散落,盜賊不敢發。匈奴降者言匈奴中皆聞廣漢名,由是入爲京兆尹。廣漢遇吏,殷勤甚備,事推功善,歸之於下,行之發於至誠,吏咸願爲用,僵仆無所避。廣漢聰明,皆知其能之所宜,盡力與否;其或負者。輒收捕之,無所逃;案之,罪立具,即時伏辜。尤善爲金句距以得事情,閭里銖兩之姦皆知之。長安少年數人會窮里空捨,謀共劫人;坐語未訖,廣漢使吏捕治,具服。其發姦手適伏如神。京兆政清,吏民稱之不容口。長老傳以爲自漢興,治京兆者莫能及。 8. 四年(辛亥、前七〇) 1春,三月,乙卯,立霍光女爲皇后,赦天下。初,許后起微賤,登至尊日淺,從官車服甚節儉。及霍后立,輿駕、侍從益盛,賞賜官屬以千萬計,與許后時縣絶矣。 1. 2夏,四月,壬寅,郡國四十九同日地震,或山崩,壞城郭、室屋,殺六千餘人。北海、琅邪壞祖宗廟。詔丞相、御史與列侯、中二千石傅問經學之士,有以應變,毋有所諱。令三輔、太常、内郡國賢舉良方正各一人。大赦天下。上素服,避正殿五日。釋夏侯勝、黄霸,以勝爲諫大夫、給事中,霸爲揚州刺史。 勝爲人,質樸守正,簡易無威儀,或時謂上爲君,誤相字於前;上亦以是親信之。嘗見,出道上語,上聞而讓勝,勝曰:「陛下所言善,臣故揚之。堯言佈於天下,至今見誦。臣以爲可傳,故傳耳。」朝廷毎有大議,上知勝素直,謂曰:「先生建正言,無懲前事!」勝復爲長信少府,後遷太子太傅。年九十卒,太后賜錢二百萬,爲勝素服五日,以報師傅之恩。儒者以爲榮。 2. 3五月,鳳皇集北海安丘、淳于。 3. 4廣川王去坐殺其師及姫妾十餘人,或銷鉛錫灌口中,或支解,並毒藥煮之,令糜盡,廢徙上庸;自殺。 4. 地節元年(壬子、前六九) 1春,正月,有星孛于西方。 1. 2楚王延壽以廣陵王胥,武帝子,天下有變,必得立,陰附肋之,爲其後母弟趙何齊取廣陵王女爲妻,因使何齊奉書遺廣陵王曰:「願長耳目,毋後人有天下!」何齊父長年上書告之,事下有司考驗,辭服。冬,十一月,延壽自殺。胥勿治。 2. 3十二月,癸亥晦,日有食之。 3. 4是歳,於定國爲廷尉。定國決疑平法,務在哀鰥寡,罪疑從輕,加審愼之心。朝廷稱之曰:「張釋之爲廷尉,天下無冤民。於定國爲廷尉,民自以不冤。」 4. 二年(癸丑、前六八) 1春,霍光病篤。車駕自臨問,上爲之涕泣。光上書謝恩,願分國邑三千戸以封兄孫奉車都尉山爲列侯,奉兄去病祀。即日,拜光子禹爲右將軍。三月,庚午,光薨。上及皇太后親臨光喪,中二千石治塚,賜梓宮、葬具皆如乘輿制度,謚曰宣成侯。發三河卒穿復土,置園邑三百家,長、丞奉守;下詔復其後世,疇其爵邑,世世無有所與。 御史大夫魏相上封事曰:「國家新失大將軍,宜顯明功臣以填籓國,毋空大位,以塞爭權。宜以車騎將軍安世爲大將軍,毋令領光祿勳事;以其子延壽爲光祿勳。」上亦欲用之。夏,四月,戊申,以安世爲大司馬、車騎將軍,領尚書事。 1. 2鳳皇集魯,羣鳥從之。大赦天下。 2. 3上思報大將軍德,乃封光兄孫山爲樂平侯,使以奉車都尉領尚書事。魏相因昌成君許廣漢奏封事,言:「春秋譏世卿,惡宋三世爲大夫及魯季孫之專權,皆危亂國家。自後元以來,祿去王室,政由塚宰。今光死,子復爲右將軍,兄子秉樞機,昆弟、諸婿據權勢,在兵官,光夫人顯及諸女皆通籍長信宮,或夜詔門出入,驕奢放縱,恐寢不制,宜有以損奪其權,破散陰謀,以固萬世之基,全功臣之世。」又故事:諸上書者皆爲二封,署其一曰「副」,領尚書者先發副封,所言不善,屏去不奏。相復因許伯白去副封以防壅蔽。帝善之,詔相給事中,皆從其議。 3. 4帝興于閭閻,知民事之艱難。霍光既薨,始親政事,厲精爲治,五日一聽事。自丞相以下各奉職奏事,敷奏其言,考試功能。侍中、尚書功勞當遷及有異善,厚加賞賜,至於子孫,終不改易。樞機周密,品式備備,上下相安,莫有苟且之意。及拜刺史、守、相,輒親見問,觀其所由,退而考察所行以質其言,有名實不相應,必知其所必然。常稱曰:「庶民所以安其田里而亡歎息愁恨之心者,政平訟理也。與我共此者,其唯良二千石乎!」以爲太守,吏民之本,數變易則下不安;民知其將久,不可欺罔,乃服從其教化。故二千石有治理效,輒以璽書勉厲,增秩,賜金,或爵至關内侯;公卿缺,則選諸所表,以次用之。是以漢世良吏,於是爲盛,稱中興焉。 4. 5匈奴壺衍鞮單于死,弟左賢王立爲虚閭權渠單于,以右大將女爲大閼氏,而黜前單于所幸顓渠閼氏。顓渠閼氏父左大且渠怨望。是時漢以匈奴不能爲邊寇,罷塞外諸城以休百姓。單于聞之,喜,召貴人謀,欲與漢和親。左大且渠心害其事,曰:「前漢使來,兵隨其後。今亦效漢發兵,先使使者入。」乃自請與呼盧訾王各將萬騎,南旁塞獵,相逢倶入。行未到,會三騎亡降漢,言匈奴欲爲寇。於是天子詔發邊騎屯要害處,使大將軍軍監治衆等四人將五千騎,分三隊,出塞各數百里,捕得虜各數十人而還。時匈奴亡其三騎,不敢入,即引去。是歳,匈奴饑,人民、畜産死者什六七,又發兩屯各萬騎以備漢。其秋,匈奴前所得西□辱居左地者,其君長以下數千人皆驅畜産行,與甌脱戰,所殺傷甚衆,遂南降漢。 5.