約 576 件
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/384.html
唐書巻一百一 列伝第二十六 蕭瑀 鈞 嗣業 嵩 華 復 俛 倣 廩 遘 定 蕭瑀字時文、後梁明帝子也。九歳、封新安王。国除、以女兄為隋晋王妃、故入長安。瑀愛經術、善屬文。性鯁急、鄙遠浮華。嘗以劉孝標辯命論詭悖不經、乃著論非之、以為:「人稟天地而生而謂之命、至吉凶禍福則繋諸人。今一於命、非先王所以教人者。」通儒柳顧言・諸葛潁歎曰:「是足鍼孝標膏肓矣!」 晋王為太子、授右千牛。即帝位、妃為后、而瑀寖親寵、頻遷尚衣奉御・検校左翊衛鷹揚郎将。感末疾、不呼醫、曰:「天若假吾餘年、因得為遁階矣!」后聞、責謂曰:「爾亡国後不安小官、而高為怪語、罪不測。」瑀復治疾、良已。拜内史侍郎、数言事忤旨、稍見忌。 帝至雁門、為突厥所圍、瑀謀曰:「夷俗、可賀敦與兵馬事、況義成公主以帝女為之。若走一介使鐫喩、宜不戰而解。又衆商陛下已平突厥、方復事遼東、故怠不肯戰。願下詔赦高麗、專討突厥、則人自奮矣。」帝從之。既而主詭辭謂突厥、果解圍去。然帝素意伐遼、又銜瑀以謀擫其機、謂群臣曰:「突厥何能為、瑀乘未解時乃紿恐我!」遂出瑀為河池郡守。部有鈔賊万人、吏不制、瑀募勇敢士撃降之、悉捐貲畜賜有功。又撃走薛挙衆数万。 高祖入京師、招之、挈郡自歸、授光禄大夫、封宋国公、拜民部尚書。秦王領右元帥、攻洛陽、署瑀府司馬。武徳元年、遷内史令、帝委以樞筦、内外百務悉関決。或引升御榻、呼曰蕭郎。瑀自力孜孜、抑過繩違無所憚。上便宜、毎見納用。手詔曰:「得公言、社稷所賴、朕既宝之、故賜黄金一函、公其勿辭。」 是歳、州置七職、秦王為雍州牧、以瑀為州都督。詔嘗下中書、未即行、帝讓其稽、瑀曰:「隋季内史詔敕多違舛、百司不知所承。今朝廷初基、所以安危者繋號令。比承一詔、必覆審、使先後不謬、始得下、此所以稽留也。」帝曰:「若爾、朕何憂乎?」初、瑀関内田宅悉賜勳家、至是、還給之。瑀盡以分宗族、獨留廟室奉祠。王世充平、進尚書右僕射。七年、以熒惑犯右執法、避位、不許。久之、遷左僕射。 貞観初、房玄齢・杜如晦新得君、事任稍分、瑀不能無少望、乘罅切詆、辭旨疏躁。太宗怒、廢于家。俄拜特進・太子少師、復為左僕射、実封六百戸。帝問瑀:「朕欲長保社稷、奈何?」瑀曰:「三代有天下所以能長久者、類封建諸侯以為藩屏、秦置守令、二世而絶。漢分王子弟、享国四百年。魏・晋廢之、亡不旋跬。此封建之有明效也。」帝納之、始議封建。坐與陳叔達忿爭御前不恭、免。歳餘、起為晋州都督。入拜太常卿、遷御史大夫、参預朝政。瑀論議明辯、然不能容人短、意或褊駁不通、而向法深、房玄齢・魏徴・温彦博頗裁正之、其言多黜、瑀亦不平。會玄齢等小過失、瑀即痛劾、不報、由是自失、罷為太子少傅、加特進、復為太常卿。拜河南道巡省大使。九年、復参預政事。 帝嘗曰:「武徳季、太上皇有廢立議、顧朕挾不賞之功、於昆弟弗見容、瑀於爾時不可以利怵死懼、社稷臣也。」因賜詩曰:「疾風知勁草、版蕩識誠臣。」又曰:「公守道耿介、古無以過、然善惡太明、或有時而失。」瑀頓首謝曰:「既蒙教、又許以忠亮、雖死日、猶生年也。」魏徴曰:「臣有逆衆持法、主恕之以公。孤特守節、主恕之以介。昔聞其言、乃今見之。使瑀不遇陛下、庸能自保邪?」晋王為皇太子、拜太子太保・同中書門下三品。帝曰:「三師、以徳導太子者也、礼不尊、則無所取法。」乃詔:「師入謁、太子出門迎拜、師答拜。毎門、讓乃入。師坐、然後坐。書前後著名、稱惶恐。」 瑀素貴、但中狹。毎燕見、輒言:「玄齢輩朋黨盜權、若膠固然、特未反耳。」帝曰:「知臣莫若君。朕雖不明、寧頓懵臧否?」因為瑀曉解。瑀以帝有所偏信、帝積久亦不平。瑀好浮屠法、間請捨家為桑門、帝許之矣、復奏自度不能為、又足疾不入謁、帝曰:「瑀豈不得其所邪?」乃詔奪爵、下除商州刺史。未幾、復其封、加特進。卒、年七十四。遺命斂以單衣、無卜日。詔贈司空・荊州都督、陪葬昭陵。太常謚曰肅、帝以其性忌、改謚貞褊。 子鋭、尚襄城公主、為太常少卿。 鈞、瑀從子、有才譽。永徽中、累遷諫議大夫・弘文館学士。左武候屬盧文操跳堞盜庫財、高宗以其職主幹、當自盜罪死。鈞曰:「囚罪誠死、然恐天下聞、謂陛下重貨輕法、任喜怒殺人。」帝曰:「真諫議也。」詔原死。太常工為宮人通訊遺、詔殺之、且附律。鈞言:「禁當有漸、雖附律、工不應死。」帝曰:「如姫竊符、朕以為戒、今不濫工死、然喜得忠言。」即宥工、徙遠裔。終太子率更令。 子瓘、為渝州長史、居母喪、以毀卒。 鈞兄子嗣業、少從煬帝后入突厥、貞観九年歸、以其知虜曲折、詔領突厥衆。擢累鴻臚卿、兼單于都護府長史。調露中、突厥叛、嗣業與戰、敗績。高宗責曰:「我不殺薛仁貴・郭待封、故使爾至此。然爾門與我家有雅舊、故貸死。」乃流桂州。 嵩、瓘子、貌偉秀、美須髯。始、娶會稽賀晦女、僚婿陸象先、宰相子、時為洛陽尉、已有名、士爭往交、而嵩汨汨未仕、人不之異。夏栄者善相、謂象先曰:「君後十年、貴冠人臣、然不若蕭郎位高年艾、挙門蕃熾。」時人不許。 神龍元年、始調洺州参軍事。桓彦範為刺史、待以異礼。河北黜陟使姜師度表為判官。開元初、擢中書舎人。時崔琳・王丘・斉澣皆有名、以嵩少術学、不以輩行許也、獨姚崇稱其遠到。歴宋州刺史、遷尚書左丞。 十四年、以兵部尚書領朔方節度使。既赴軍、有詔供帳餞定鼎門外、玄宗賦詩勞行。會吐蕃大将悉諾邏恭禄及燭龍莽布支陷瓜州、執刺史田元献。回紇又殺涼州守将王君、河・隴大震。帝擇堪任邊者、徙嵩河西節度使、判涼州事、封蘭陵県子。嵩表裴寬・郭虚己・牛仙客置幕府、以建康軍使張守珪為瓜州刺史、完樹陴塢、懷保邊人。於時悉諾邏恭禄威憺諸部、吐蕃倚其健噬邊、嵩乃縱反間、示疑端、賛普果誅之。使悉末明攻瓜州、守珪拒甚力、虜引卻。會鄯州都督張志亮破賊青海西、嵩又遣副将杜賓客率彊弩四千與吐蕃戰祁連城下、自晨汔晡、乃大潰、斬一将、虜哭震山谷。露布至、帝大悅、授嵩同中書門下三品、又官一子、恩顧第一。 十七年、進兼中書令。自張説罷宰相、令缺四年、嵩得之、然常遙領河西節度。在公慎密、人莫見其際。子衡、尚新昌公主。嵩妻入謁、帝呼為親家、儀物貴甚。俄封徐国公。 初、裴光庭與嵩数不協、光庭卒、帝委嵩擇相、嵩推韓休。及休同位、峭正不相假、至校曲直帝前。嵩慚、乞骸骨。帝慰之曰:「朕未厭卿、何庸去乎?」嵩伏曰:「臣待罪宰相、爵位既極、幸陛下未厭、得以乞身。有如厭臣、首領且不保、又安得自遂?」因流涕。帝為改容曰:「卿言切矣、朕未能決。弟歸、夕當有詔。」俄遣高力士詔嵩曰:「朕将爾留、而君臣誼當有始有卒者。」乃授尚書右丞相、與休皆罷。是日、荊州進黄甘、帝以紫包賜之。擢子華給事中。 久之、進太子太師。而幽州節度使張守珪坐賂中人牛仙童得罪、李林甫素忌嵩、因言嵩嘗以城南墅遺仙童、貶青州刺史。尋復拜太子太師。固請老、見許。嵩退、脩蒔園區、優游自怡。家饒財、而華為工部侍郎、衡以尚主位三品、就養、年踰八十、士豔其栄。天宝八載卒、贈開府儀同三司。 華、謹重方雅、有家法、嗣爵。天宝末、為兵部侍郎。禄山乱、陷賊、逼守魏州。郭子儀攻安慶緒於相州、華間道奉表、欲挙魏以應、為賊所執。會崔光遠得魏州、破械出之。魏人徳華庇免、爭來詣光遠乞留、有詔即授刺史。思明反、子儀懼復失華、乃表崔光遠代之、而召置軍中。相州兵潰、華還朝、猶以汚賊降試秘書少監。稍遷尚書右丞、擢河中晋・絳節度使。上元初、以中書侍郎同中書門下平章事。李輔国用事、求宰相、華拒之、輔国怨。會肅宗大漸、矯詔罷華為礼部尚書、引元載以代。方代宗諒闇、載助輔国、貶華為峽州司馬、卒。二子:恆・悟。 復字履初、衡子。生戚里、姻從豪汰、以服御輿馬相夸、復常衣垢弊、居一室、学自力、非名士夙儒不與游、以清操顯。華毎歎曰:「此子當興吾宗!」推主蔭為宮門郎。広徳中、歳大饑、家百口、不自振、議鬻昭應墅。宰相王縉欲得之、使弟紘説曰:「以君才宜在左右、胡不以墅奉丞相取右職?」復曰:「鬻先人墅以濟孀單、吾何用美官、使門内餒且寒乎?」縉憾之、由是廢。数歳、乃歴歙・池二州刺史、治状應條。遷湖南観察使。改同州刺史、歳歉、州有京畿観察使儲粟、復輒發以貸人、有司劾治、詔削階、停刺史。或弔之、復曰:「苟利於人、胡責之辭!」久乃拜兵部侍郎。 普王為襄漢元帥、進復戸部尚書・統軍長史。舊制謂「行軍長史」、徳宗以復父諱更之。未行、扈狩奉天。帝惡庳隘、欲西如鳳翔依張鎰。復曰:「鳳翔乃泚舊兵、今泚悖乱、當有同惡者。雖鎰、臣畏不免。」帝曰:「朕業行、留一日以驗爾言!」俄而鎰為李楚琳所害、於是拜吏部尚書・同中書門下平章事。 復嘗言:「艱難以來、始用宦者監軍、權望太重、是曹正可委宮掖事、兵要政機、叵使参領。」帝不聽。又言:「陛下厥初清明、自楊炎・盧放命穢盛徳、播越及茲。今阽于危、當懲乂前敗。」因述君臣大端、即自言:「若使臣依阿偷免、不敢當宰相。」對上或諂諛阿匼、復厲言:「詞不正!」帝色眙、謂左右曰:「復慢我。」因詔復充山南・江淮・湖南・嶺南等道宣撫・安慰使。 興元初、進門下侍郎。初、淮南陳少游左附李希烈、而張鎰判官韋皋殺邠・隴叛卒、不應楚琳。復還執政、建言:「陛下反正、功臣已貴矣、唯甄善汰惡為未明。少游位将相、首臣賊、皋名淺官下、獨挺挺抗忠。如以皋代少游、則天下瞭然知逆順之理。」帝許之。復出、中官馬欽緒揖宰相劉從一、附耳語、既而從一密諗復曰:「有詔與公議向所奏、不欲李勉・盧翰聞知。」復曰:「堯・舜有『僉曰』之言、朝廷大事尚當謀及公卿。如勉等非其人、當罷去。既曰宰相、而謀議可獨避之乎?今與公行此或可、弟恐寖以生常、政由是敝。」從一以聞、帝不悅。復辭疾上政事、許之。 弟升、尚郜国大長公主、肅宗女也。升早卒、主以姦蠱事再得罪廢、諸子悉逐醜地、女為皇太子妃、太子請離婚、帝銜曩忮、故復坐是検校太子左庶子、廢居饒州。貞元四年卒、年五十七。 復望閥高華、厲名節、不通狎流俗。及為相、臨事嚴方、数咈帝意、故居位亟解。然性孝友、既貶晏然、口未嘗言所累。 復子湛。湛子寘、咸通中位宰相、無顯功、史逸其伝。 俛字思謙、恆子。貞元中、及進士第、又以賢良方正對策異等、拜右拾遺。元和六年、召為翰林学士、凡三年、進知制誥。會張仲方以李吉甫数調發疲天下、訾其謚、憲宗怒、逐仲方、而俛坐與善、奪学士、下除太僕少卿。皇甫鎛薦為御史中丞、鎛與令狐楚皆善俛、兩人同輔政、数稱其善、故帝待俛厚。襲徐国公。穆宗立、逐鎛、議所以代者、楚薦之、授中書侍郎・同中書門下平章事、進門下侍郎。 吐蕃寇涇州、調兵護邊、帝因問:「兵法有必勝乎?」俛曰:「兵凶器、聖人不得已用之、故武不可玩、玩則無震。夫以仁討不仁、以義討不義、先招懷、後掩襲、故有不殺厲、不禽二毛、不犯田稼、其救人如免水火、此必勝術也。若乃以小不忍輕任干戈、師曲而敵怨、非徒不勝、又将自危、是以聖王慎於兵。」帝重其言。嘗詔俛撰王承宗先銘、俛奏:「承宗比不臣、迷而後復、臣不忍稱道其先。又辭成當有餉謝、拒之、則非朝廷撫納意。受之、臣誼不當取。」帝善而止。 令狐楚罷執政、西川節度使王播賂權幸求宰相、俛劾播纖佞不可汚台宰、帝不許。自請罷、冀有感寤、帝亦不省。俄罷為尚書左僕射、用播為鹽鐵使、後卒相。俛自謂輔政淺、固辭僕射、換吏部尚書。又避選事、徙兵部、移病求分司、不許。授太子少保、為同州刺史。復以少保分司東都。 性簡絜、以聲利為汚、疾邪太甚、孤特一、故輕去位無所藉。文宗即位、召授少師、稱疾力不拜、乃還左僕射、許致仕。莊恪太子時、議選舊徳、保輔東宮、復以少師召、輒上還制書、堅辭。即遷太子太傅、優詔褒尚。開成初、弟俶為楚州刺史、召見。帝曰:「俛先帝賢宰相、筋力未衰、可一來、爾善道朕意。」乃以詔書并絹三百因俶致之。俛終不起、以寿卒。 母韋、賢明、治家嚴、俛雖宰相、侍左右如褐衣時、居喪哀毀。既老、家於洛、歳時賓客請謝、以為煩、乃舎濟源墅、自放山野、優游窮年。然其居位頗介謹持法、重名器、狹於用人、毎除吏、常憂不稱、鮮有簡拔。 穆宗初、兩河底定、俛與段文昌當国、謂四方無虞、遂議太平事、以為武不可黷、勸帝偃革尚文、乃密詔天下鎮兵、十之、歳限一為逃・死、不補、謂之銷兵。既而籍卒逋亡、無生業、曹聚山林間為盜賊。會朱克融・王廷湊乱燕・趙、一日悉收用之。朝廷調兵不充、乃召募市人烏合、戰輒北、遂復失河朔矣。 賛曰:俛議銷兵、寧不野哉!當此時、河朔雖挈地還天子、而悍卒頑夫開口仰食者故在、彼皆不能自返於本業者也。又朱克融等客長安、餓且死、不得一官、而俛未有以措置、便欲去兵、使群臣失職、一日叫呼、其從如市、幽・魏相挺、復為賊淵、可謂見豪末而不察輿薪矣。宰相非其人、禍可既乎! 倣字思道、悟子。大和中、擢進士第。除累給事中。宣宗力治、喜直言、嘗以李璲為嶺南節度使、使者已賜節、而倣封還詔書。帝方作樂、不暇命使、遣優工趨出追之、未及璲所而還。後以封敕脱誤、法當罰、侍講学士孔温裕曰:「給事中駁奏、為朝廷論得失、與有司奏事不類、不應罰。」詔可。 令狐綯用李琢經略安南、琢以暴沓免、俄起為寿州團練使、倣劾奏琢無所回、時推其直。自集賢学士拜嶺南節度使。南方珍賄叢夥、不以入門。家人病、取槁梅於廚以和劑、倣知、趣市還之。 咸通初、為左散騎常侍。懿宗怠政事、喜佛道、引桑門入禁中為禱祠事、数幸佛廬、広施予。倣諫、以為:「天竺法割愛取滅、非帝王所尚慕。今筆梵言、口佛音、不若懲謬賞濫罰、振殃祈福。況佛者可以悟取、不可以相求。」帝雖昏縱、猶嘉歎其言。後官数遷、拜義成軍節度使。滑州瀕河、累歳水壞西北防、倣徙其流遠去、樹堤自固、人得以安。以兵部尚書再判度支、進中書侍郎・同中書門下平章事。再遷司空・蘭陵県侯。時天下盜起、宦人持兵柄。倣以鯁正為權近所忌。卒年八十。 子廩、字富侯。第進士、遷尚書郎。倣領南海、解官往侍。為人退約少合。南海多榖紙、倣敕諸子繕補殘書。廩諫曰:「州距京師且万里、書成不可露齎、必貯以囊笥、貪者伺望、得無薏苡嫌乎?」倣曰:「善、吾思不及此。」乃止。広明初、以諫議大夫知制誥、請厲止夜行以備賊諜、出太倉粟賤估以濟貧民。俄遷京兆尹。田令孜養子有罪亡、撃捕吏、繋獄、請救踵門、廩不納、杖殺之、内外畏讋。令孜拒黄巣、以廩為糧料使、辭疾、貶賀州司戸参軍事。會襄王竊據、挈族逃河朔、鎮冀節度使王鎔厚礼之。光化中、以給事中召、不至、卒。 遘字得聖、寘子。咸通中、擢進士第、辟節度府。入朝、拜右拾遺。與韋保衡聯第、而遘姿宇秀偉、氣孤峻、嘗慕李徳裕為人。保衡才下、諸儒靳薄之、不甚齒、獨呼遘太尉、保衡憾焉。於是保衡已為相、摭遘罪、繇起居舎人斥播州司馬。道三峽、方迫畏不瞑、若有人謂曰:「公無恐、予為公呵禦。」遘怳悟。俄謁白帝祠、見帝貌類向所睹、異之。未幾、保衡死、召為礼部員外郎。乾符中、累擢戸部侍郎・翰林学士承旨。 僖宗入蜀、以兵部判度支、次州、拜同中書門下平章事。始、王鐸主貢挙而得遘、及是、與鐸並位。鐸年老、嘗入對踣殿中、遘掖起之。帝喜曰:「遘善事長、大臣和、予之幸也!」遘曰:「不止以長、乃鐸門生。」帝笑曰:「鐸選士、朕選宰相、卿無負我!」遘頓首謝。從還京師、累拜司空、封楚国公。 遘負大節、以王佐自任。既當国、風采峭整、天子器之。時藩鎮多興於盜賊、橫放莫能制、權綱漼弛。支詳在徐州、引散騎常侍李損子凝吉為佐、會牙将時溥逐詳而取節度、溥為饔幹所毒、不死、或讒凝吉為詳報仇者、溥怒殺之。損時在朝、溥即上言損連謀、請并誅。田令孜受溥金、劾損、付御史獄、中丞盧渥傅成其罪。御史王華嫉惡甚、表損不知状。令孜請移神策獄、華不奉詔、奏言:「損近臣、法當死即死、獨不宜取辱於宦人手。」遘即時叩延英爭曰:「凝吉以冤就屠、已不可言。損與子音問不接且数期、安得謂同謀哉?溥恃功壞天子法、請案近臣、卑侮王室、有無将之萌。今損可無罪誅、禍且及臣輩。」帝寤、止免官。當此時、令孜持禁軍、權寵可炙、公卿無不附順、唯遘未嘗少下。 後令孜取安邑池鹽給衛軍、王重栄固爭、乃徙重栄它鎮、不受詔。令孜以兵討之、重栄引沙陀拒王師。王師敗、逐而西、帝驚、幸鳳翔。諸節度共劾令孜生事、離間大臣。遘素惡之、與裴澈計、共召朱玫於邠。玫起邠兵五千奉迎、與沙陀等連和。令孜迫帝幸陳倉、夜出、百官不及從。玫怒令孜、并望帝不諒其心、謂遘曰:「上奔播六年、中原之人、與賊肝髓流野、得復宗廟、遺老殘民聞輿馬音、流涕相歡。上曾不念、以諸侯勤王功為敕使之寵。今姦臣為国産怨、我奉命而來、返以為脅君。群臣報国極矣、戰力殫矣、尚能垂頭塌翅求生於黄門哉!喪君有君、公其圖之。」遘曰:「上無負天下、顧為令孜掣制、毎言必涕数行下。陳倉之行、又劫於兵。公誠有憂王室意、宜還藩奉表、請天子復国、策無宜此。」玫曰:「諸王才可任天下者不乏。」遘曰:「人非伊・霍、欲為禍首、未或利也。」玫退曰:「我擇一王為帝、違者斬、尚何事?」乃立嗣襄王熅、而召遘作冊、遘苦辭、玫更委鄭昌圖、滋恨遘。及還長安、使昌圖相熅、罷遘為太子太保。移疾不出。方其弟蘧為永樂令、往從之。帝還宮、宰相孔緯與遘雅隙、乃劾嘗為偽臣、即賜死其所、実光啓三年。 遘見柄任凡五期、行完而材、逢世多故、召愎臣以濟乱、身汚偽署、不得其死、人為哀之。 定字梅臣、瑀曾孫。以蔭起家陝州参軍事・金城丞。事清挺。選補黜陟使裴遵慶表為判官、還調万年主簿。歴左右司郎中。為元載所惡、外遷袁・潤等六州刺史。大暦中、有司差天下刺史治最、定與常州蕭復・豪州張鎰為第一、而劭桑稼、均賦税、業徠游口、在鎰・復右。遷戸部侍郎・太常卿。朱泚反、詭姓名為張誕、匿里中、與蒋沇不浼于賊。事平、擢太子少師。卒、年七十七、贈太子太師。 賛曰:梁蕭氏興江左、実有功在民、厥終無大惡、以寖微而亡、故餘祉及其後裔。自瑀逮遘、凡八葉宰相、名徳相望、與唐盛衰。世家之盛、古未有也。
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/535.html
唐書巻二十二 志第十二 礼楽十二 周・陳より以降、雅(雅楽)・鄭(俗楽)が混雑して区別がなかった。隋の文帝ははじめて雅楽・俗楽の二部を分かち、唐になるとさらに「部当」と呼んだ。 おしなべていわゆる俗楽は二十八調で、正宮(D、E、F♯、G♯、A、B、C♯のオクターブ。以下同じ)・高宮(D♯、F、G、A、A♯、C、D)・中呂宮(F、G、A、B、C、D、E)・道調宮(G、A、B、C♯、D、E、F♯)・南呂宮(A、B、C♯、D♯、E、F♯、G♯)・仙呂宮(A♯、C、D、E、F、G、A)・黄鍾宮(C、D、E、F♯、G、A、B)を七宮とし、越調(D、E、F♯、G、A、B、C、D)・大食調(E、F♯、G♯、A、B、C♯、D)・高大食調(G、A、A♯、C、D、D♯、F)・双調(G、A、B、C、D、E、F)・小食調(A、B、C♯、D、E、F♯、G)・歇指調(B、C♯、D♯、E、F♯、G♯、A)・林鍾商(C、D、E、F♯、G、A、A♯)を七商とし、大食角(F♯、G♯、A、B、C♯、D、E)・高大食角(G、A、A♯、C、D、D♯、F)・双角(A、B、C、D、E、F、G)・小食角(B、C♯、D、E、F♯、G、A)・歇指角(C♯、D♯、E、F♯、G♯、A、B)・林鍾角(D、E、F、G、A、A♯、C)・越角(E、F♯、G、A、B、C、D)を七角とし、中呂調(D、E、F、G、A、B、C)・正平調(E、F♯、G、A、B、C♯、D)・高平調(F♯、G♯、A、B、C♯、D♯、E)・仙呂調(G、A、A♯、C、D、E、F)・黄鍾羽(A、B、C、D、E、F♯、G)・般渉調(B、C♯、D、E、F♯、G♯、A)・高般渉(C、D、D♯、F、G、A、A)を七羽とした。みな濁より清にいたるまで、その声を入れ替え、下はますます濁で、上はますます清であった。緩やかなものは節を過ぎ、急なものは蕩を流したようであった。その後楽器は次第に異なっていき、あるいは宮調の名があり、あるいは倍四を度とし、律呂とともに同名があって、声が近からずして雅なものであった。その宮調は夾鍾の律に応じ、燕楽で用いた。 絲に琵琶・五絃・箜篌・箏があり、竹に觱篥・簫・笛があり、匏に笙があり、革に杖鼓・第二鼓・第三鼓・腰鼓・大鼓があり、土には革に付属して鞚となり、木に拍板があり、方響は金を体として石に応じるから、八音が備わった。倍四はもとは清楽に属しており、形類は音を雅として、曲は胡部から出たものである。また銀字の名があり、中管の格は、すべて前代の律の器に応じていた。後世失伝して、異名で替えたから、そのため俗部の諸曲はすべて雅楽を源とした。 北周・隋の管絃雑曲は数百あり、すべて西涼の音楽であった。鼓舞曲は、すべて亀茲楽である。ただ琴工はなお楚・漢の旧声および清調を伝えるかのようであり、蔡邕の五弄・楚調の四弄、これを九弄といった。隋が滅亡すると、清楽は散逸し、ある者はわずかに六十三曲であった。その後伝えるものは、平調・清調で、北周の房中の音楽の遺声であった。「白雪」、「楚曲」であり、「公莫舞」、「漢舞」であり、「巴渝」は漢の高帝が工人に命じて作らせたものであり、「明君」は漢の元帝の時に作られたものであり、「明之君」は漢の鞞舞曲(舞踏曲)であり、「鐸舞」は漢の曲であり、「白鳩」は呉の払舞曲であり、「白紵」は呉の舞であり、「子夜」は晋の曲であり、「前渓」は晋の車騎将軍の沈充が作ったものであり、「団扇」は晋の王珉が歌ったものであり、「懊儂」は晋の隆安が初めて謡ったものであり、「長史変」は晋の司徒左長史の王廞が作ったものであり、「丁督護」は晋から宋にかけての曲であり、「読曲」は宋人が彭城王義康のために作ったものであり、「烏夜啼」は宋の臨川王義慶が作ったものであり、「石城」は宋の臧質が作ったものであり、「莫愁」は石城楽から出たものであり、「襄陽」は宋の隨王誕が作ったものであり、「烏夜飛」は宋の沈攸が作ったものであり、「估客楽」は斉の武帝が作ったものであり、「楊叛」は北斉の歌であり、「驍壺」は投壺の楽であり、「常林歓」は宋から梁にかけての曲であり、「三洲」は商人の歌であり、「採桑」は「三洲」の曲から出たものであり、「玉樹後庭花」・「堂堂」は陳の後主が作ったものであり、「泛龍舟」は隋の煬帝が作ったものである。また呉の音楽に「四時歌」・「雅歌」・「上林」・「鳳雛」・「平折」・「命嘯」などの曲があり、その音楽と歌詞はすべて誤っていたり失われており、十のうち一や二すらも伝えられなかった。 思うに唐は太宗・高宗より三大舞が作られたが、入り混じっては燕楽に用いられ、その他の諸曲はある時に出た作であり、純雅ではないとはいえ、なお淫放には至らなかったのだろう。武后の禍に、継いで中宗は物の道理がわからなかったから、もとよりとりたてて言うほどのこともなかった。玄宗が平王であったとき、散楽一部あり、韋后の難を平定して、すこぶる謀に預かった。即位すると、寧王に命じて藩邸の楽を司らせ、太常寺に対抗し、双方を分けて優劣を競わせた。内教坊を蓬莱宮の側に置き、新声・散楽・倡優の伎を居らせ、面白ければ金帛朱紫を賜ったが、酸棗県尉の袁楚客が上疏して厳しく諌めた。 はじめ帝は邸宅を隆慶坊に賜り、坊の南の地を池に変え、中宗は常に舟を泛べてその祥を厭っていた。帝が即位すると、「龍池楽」をつくり、舞者は十二人、芙蓉冠を被り、履(くつ)をはいて、備えるに雅楽を用いたが、ただ磬は用いなかった。「聖寿楽」をつくり、女子に五色の繍襟を着させて舞わせた。また「小破陣楽」をつくり、舞者は甲冑を着用した。また「光聖楽」をつくり、舞者は鳥冠・画衣を着て、以歌王の事績が興ったのをうたった。 また楽を分けて二部とし、堂下に立奏するから立部伎といい、堂上で座奏するから座部伎という。太常寺は座部を管轄して、教えることができない者は立部に隷属し、また教えることができない者は雅楽を習った。 立部伎は八あり、「安舞」、「太平楽」、「破陣楽」、「慶善楽」、「大定楽」、「上元楽」、「聖寿楽」、「光聖楽」である。「安舞楽」・「太平楽」は北周・隋の遺音である。「破陣楽」以下はすべて大鼓を用い、雑楽は亀茲楽を用い、その声は震厲(雷のような大声)である。「大定楽」もまた金鉦を加えた。「慶善舞」は恭しく西涼楽を用い、声は非常に閑雅である。郊廟を祀るごとに「破陣楽」・「上元楽」・「慶善楽」の舞を皆用いた。 座部伎は六あり、「燕楽」、「長寿楽」、「天授楽」、「鳥歌万歳楽」、「龍池楽」、「小破陣楽」であり、「天授楽」・「鳥歌万歳楽」はみな武后の作である。天授というのは年号の名である。鳥歌は、鳥がよく人の言葉で「万歳」と言っていたことがあったから、楽をつくった。「長寿楽」以下は亀茲舞を用い、ただ「龍池楽」だけがそうではなかった。 この時、民間で帝(玄宗)が潞州より京師に帰還し、夜半に挙兵して韋皇后を誅殺したから、「夜半楽」・「還京楽」の二曲がつくられた。帝もまた「文成曲」を作り、「小破陣楽」とともにさらに演奏した。その後、河西節度使の楊敬忠(楊敬述)が「霓裳羽衣曲」十二遍を献上した。だいたい曲が終るときには必ず「唯霓裳羽衣曲」のみで終わりとし、音の高低・緩急はますます緩くした。 帝はまさに神仙の事を喜び、詔して道士の司馬承禎に「玄真道曲」をつくらせ、茅山道士の李会元に「大羅天曲」をつくらせ、工部侍郎の賀知章に「紫清上聖道曲」をつくらせた。太清宮が完成すると、太常卿の韋縚は「景雲曲」・「九真曲」・「紫極曲」・「小長寿曲」・「承天曲」・「順天楽」の六曲をつくり、また商調(異なる調の小曲を組み合わせて)で「君臣相遇楽曲」をつくった。 はじめ、隋に法曲があった。その音は清く雅に近かった。その楽器に鐃・鈸・鐘・磬・幢簫・琵琶があった。琵琶は体が丸く頚があって小さく、「秦漢子」と呼ばれた。思うに絃鼗の遺製で、胡中から出て秦・漢につくられたものであろう。その声は金・石・絲・竹の次をもって作る。隋の煬帝はその音の穏やかなのを嫌い、曲の終わりにまた解音を加えた。玄宗は音律に詳しく、また法曲を偏愛し、座部伎の子弟三百人を選び梨園で教えた。音に誤りがあった者は、帝は必ず気付いて直させた。「皇帝梨園の弟子」と呼ばれた。宮女数百もまた梨園の弟子となり、宜春北院にいた。梨園法部は、さらに小部音声を三十人あまり置いた。帝は驪山に行幸し、楊貴妃の誕生日に小部に命じて長生殿に楽を設け、よって新曲を演奏させた。まだ曲名がなかったが、ちょうどその時に南方から荔枝が献上されたから、名を「荔枝香」といった。 帝はまた羯鼓を好み、寧王は善く横笛を吹き、高位の大臣はこれを慕い、みな喜んで音律を言った。帝は常に「羯鼓は、すべての楽器の領袖で、他の楽器とは比べ物にならない」と言っていた。思うにもとは戎羯の楽で、その音は太蔟調の調整にあわされており、亀茲・高昌・疏勒・天竺部でみな用いており、その音は焦殺(急でせまるような、途切れ途切れになる音)で、特に衆楽とは異なっていた。 開元二十四年(736)、胡部を堂上に昇格させた。天宝の楽曲はすべて辺地の名をつけたことは、涼州・伊州・甘州の類のようなものである。後にまた詔して道調法曲と胡部新声を合作させた。明年、安禄山が反乱し、涼州・伊州・甘州はすべて吐蕃の手に落ちた。 唐の盛時には、おしなべて楽人・音声人・太常寺の雑戸の子弟は太常寺及び鼓吹署に隷属し、全員交代勤務し、すべて音声人と号し、数万人にもなった。 玄宗はまたかつて馬百匹を飾り付けて左右に分け、三重の榻を施し、舞っては盃を傾けること数十曲、立派な男に榻を挙げさせたが、馬は動かなかった。楽工の少年で容姿が優れている者十数人に黄衫・文玉帯を着せて左右に立たせた。千秋節のたびに勤政楼の下で舞い、後に宴を賜って酺宴を設けた。また勤政楼に会した。その日未明、金吾は駕騎を引いて、北衙四軍は儀仗をならべ旗幟を並べ、黄金の甲、背中に刺繍を施した上着を着用した。太常卿が雅楽を引き連れ、部ごとに数十人、その間に胡夷の技を繰り出した。内閑厩使が馬を曲芸させ、五坊使が象・犀を引き連れて、入場して拝舞した。宮人数百人が錦の刺繍の服を着て、幕から出て雷鼓を打ち、「小破陣楽」を演奏したが、毎年このようであった。 千秋節は、玄宗が八月五日に生まれたから、よってその日を節(祝日)の名としたが、君臣が共に荒楽し、当時の流行・風俗は多くその事を伝えて盛事であるとしてきた。その後巨盗が蜂起し、両京は陥落し、これより天下は兵を用いて休まることはなく、離宮の牧苑はついに荒れ果てては埋もれ、ただその余声や遺曲は人間を伝わり、聞く者はそのため悲涼して感動した。思うにその事はたまたま戒めとする価値があったからであろうが、法を考察することはできなかったから、二度とそれを詳細に著すことがなかった。粛宗より以後、すべて生日を節としたが、徳宗は節を立てず、しかし群臣が盃をあげて寿いだだけにとどまった。 代宗は広平王として二京を回復して以来、梨園供奉官の劉日進が「宝応長寧楽」十八曲を献上し、皆宮調であった。 大暦元年(766)、また「広平太一楽」があった。涼州の曲で、もとは西涼が献上したものであった。その声は本宮調で、大遍・小遍があった。貞元年間(785-805)初頭、楽工の康崑崙がその声を琵琶によせて、玉宸殿にて演奏したから、「玉宸宮調」と呼ばれた。諸楽にあわせる場合は黄鍾宮で演奏した。 その後、方鎮は多く楽舞を作曲して献上してきた。河東節度使の馬燧は「定難曲」を献上した。昭義軍節度使の王虔休は徳宗の誕辰(誕生日)を祝うのにいまだに大楽が決まっていなかったから、そこで「継天誕聖楽」を作曲し、宮をもって調とした。徳宗はこれによって「中和楽舞」をつくった。山南節度使の于頔もまた「順聖楽」を献上した。曲が半ばになろうとすると、舞の列は皆伏せ、一人だけがその中を舞い、また女伎をして佾舞(八人八列の六十四人の舞)し、雄健かつ壮妙で、「孫武順聖楽」と呼ばれた。 文宗は雅楽を好み、太常卿の馮定に詔して開元雅楽をもとに「雲韶法曲」と「霓裳羽衣舞曲」をつくらせた。「雲韶楽」は玉磬四虡あり、楽器編成は琴・瑟・筑・簫・篪・籥・跋膝・笙・竽でそれぞれ一人で、登歌は四人、立堂を堂上と堂下に分けて、童子は五人、衣に金の蓮花を縫い付けて導き、舞者は三百人、階下に錦筵を設けて、内宴の時に演奏した。大臣に言って、「笙磬は同音で、低音で唄えば味を忘れる。はからずも音楽というのはこのように到るものなのだ」と述べた。これより臣下で功績が高い者にもたやすく賜った。音楽が完成すると編曲して「仙韶曲」とした。会昌年間(841-846)初頭、宰相の李徳裕は楽工に命じて「万斯年曲」をつくらせて献上した。 大中年間(847-860)初頭、太常寺の楽工は五千人あまり、そのうち俗楽は一千五百人あまりいた。宣宗は群臣に宴を開くたびに、百戯を揃えた。帝は新曲をつくると、女伶(女性の楽人)数十人数百人に教え、真珠や翡翠の飾りがついた衣装を着せて、袂を連ねて歌わせた。その音楽の中には「播皇猷」の曲があり、舞う者は高い冠に四角い靴をはき、儒者の服を着て俯いて小走りし、規則を中とした。また「葱嶺西曲」があり、士女に歌にあわせて足踏みして隊列をなし、その詞に葱嶺の民が河州・湟州の故地で音楽を奏でて唐に帰順するというのがあった。 咸通年間(860-874)、諸王は多く音声・俳優の雑技を習い、天子がその院に行幸すれば、駕を迎えて楽を演奏した。この時、藩鎮も次第にまた「破陣楽」を舞ったが、舞者は絵を描いた甲冑をつけ、旗斾を持つものはわずかに十人のみであった。思うに唐の盛時にあった楽曲の所伝は、唐の末年にいたってともすれば散逸してしまった。 北周・隋と北斉・陳と両地の境界が接しており、そのため歌舞雑に四方の楽がある。唐になると、東夷楽は高麗・百済があり、北狄は鮮卑・吐谷渾・部落稽、南蛮は扶南・天竺・南詔・驃国があり、西戎は高昌・亀茲・疏勒・康国・安国があり、おしなべて十四国の楽、八国の伎があり、十部の楽を列した。 中宗の時、百済楽の工人が散り散りとなり、岐王は太常卿となって、再度この設置を奏上した。しかし音楽の技能に多く欠けていた。舞者は二人、紫の大袖がある裙襦(はだぎ)・章甫の冠・衣履(皮履)である。楽に箏・笛・桃皮觱篥・箜篌・歌があるだけである。 北狄楽はすべて馬上での演奏であり、漢より後は鼓吹し、また軍中楽で、馬上でこれを演奏したから、鼓吹署に隷属していた。後魏の楽府ははじめ北歌があり、または「真人歌」といい、都が代にあった時、宮人に命じて朝夕これを歌わせた。周・隋の時にはじめて西涼楽とともに雑奏した。唐になって現存していたものは五十三章、しかし名がわかっているのは六章だけであった。「慕容可汗」、「吐谷渾」、「部落稽」、「鉅鹿公主」、「白浄王」、「太子企喻」である。その他の辞は多くは可汗の称で、思うに燕・魏の時の鮮卑の歌であろう。隋の鼓吹はその曲があるが同じではなかった。貞観年間(623-649)、将軍の侯貴昌は、并州の人で、代々北歌を伝えてきた。詔して太楽に隷属させたが、訳しても通じることができず、年月が久しいから理解できなかった。金吾が持つ大角は、魏では「簸邏回」といい、工人は「角手」といい、鼓吹に備えた。 南蛮・北狄の習俗は断髪であったから、舞者は縄で首を囲って髪をまとめた。新声があって河西より到れば、胡音と号し、亀茲散楽はすべてこのために次第に衰えていった。 扶南楽は、舞者が二人、朝霞を着て、赤皮の靴を履いた。天竺の伎は自ら手足を断ち、腸や胃を刺すから、高宗はその驚くべき習俗を嫌い、詔して中国に入らせなかった。睿宗の時、婆羅門国が人を献じたが、逆立ちして足で舞い、仰向きになって銛刀をたて、身を伏せて鋒をつけ、顔の下をへてまた背にたて、觱篥の奏者が腹の上に立ち、曲が終わっても傷がなかった。また伏せてその手を伸ばし、二人がこれを踏みつけ、その上で旋回すること百回に及んだ。開元年間(713-741)初頭、その楽はなおも四夷の楽と同列であった。 貞元年間(785-805)、南詔の異牟尋が遣使して剣南西川節度使の韋皋に詣で、夷中の歌曲を献上したいと言ってきた。そこで驃国(ピョー)に音楽を奉らせた。韋皋は「南詔奉聖楽」と作曲し、黄鍾の均を用いた。舞は六成で、楽人は六十四人、賛引二人で、序曲は二十八畳(繰り返し)、羽を持って舞い「南詔奉聖楽」字とした。曲が終わろうとすると、雷鼓を四隅で鳴らし、舞者はみな拝し、金声がなって起きると、羽を持って稽首し朝覲をつかさどった。跪拝するごとに節は鉦鼓を鳴らした。また五均をなしたが、一は黄鍾均で宮調の宮(C音)、二は太蔟均で商調の宮(E音)、三は姑洗均で角調の宮(C♯音)、四は林鍾均で徴調の宮(G音)、五は南呂均で羽調の宮(G♯音)であった。その文義は煩雑で、また記載することができない。徳宗は麟徳殿で閲すると、太常寺の工人に授け、これより殿庭での宴では立奏し、宮中では座奏した。 貞元十七年(801)、驃国(ピョー)の王の雍羌が弟の悉利移(シリー)城王の舒難陀(シュエナンドー)を遣わしてその国の音楽を献上してきた。成都に来ると、韋皋はまたその声調を譜に記録し、またその舞容・楽器を描いて献上した。おしなべて工器は二十二、その楽器は八で、金・貝・絲・竹・匏・革・牙・角で、おおむね皆夷狄の楽器であり、その声曲は役人に属さず、そのため取るに足らないものであったといわれる。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二十一 志第十一 『新唐書』巻二十二 志第十二 巻二十三 志第十三
https://w.atwiki.jp/monamoro/pages/205.html
基本事項 国名 中華人民共和国(中国) 中文国名 中華人民共和國(中國)zhonghuarenmingongheguo 英文国名 THE PEOPLE‘S REPUBLIC OF CHINA(CN或PRC) 時差 グリニッジより8時間早い 国土面積 約1100万平方キロメートル 人口 約13億 首都 北京 制度 人民民主専政 新民主主義 国の標語 統一祖國 振興中華 国家元首 毛沢東主席 首相 周恩来国務院総理兼外交部長 国旗 五星紅旗 国家 義勇軍行進曲 公用語 漢語(中文) 主要民族 漢、蒙、回、ウイグル、チベット等56民族 通貨 人民幣(単位は元,角,分) 目次 基本事項目次 地理【編集中】 歴史変遷 国歌義勇軍進行曲(国歌) 歌唱祖國(副国歌) 國際歌(インターナショナル) 東方紅 遊擊隊之歌 政治人民民主専政 民主集中制 中国共産党 中国人民政治協商会議中国人民政治協商会議の権限 中国共産主義青年団 民主党派 中央人民政府委員会 政務院政務院の権限 憲法中華人民共和国中央人民政府組織法 経済 行政区分代表的都市北京 上海 広州 重慶 西安 拉薩 外交平和共存五項原則 外交状況 地理【編集中】 ユーラシア大陸の東部,太平洋の西海岸に位置し,国土は11,127,500km²でアルティスに次いで世界第2の大きさである。領土は北モンゴル高原から,南は南沙諸島南端の曾母暗砂まで。東は黒竜江とウスリー川の合流する地点から,西はパミール高原まで広がっている。東は日本,北はアルティス,南はインドシナ・インドと接している。中国大陸の東部は渤海,黄海,東海に,南部は南海に臨んでいる。海域には5400の島が点在する。中国最南端は南海諸島と呼ばれる島嶼群である。この南海諸島では島嶼,礁(サンゴ礁),灘(砂浜)が散在しており,これを一括して南海諸島と言う。主要河川として黄河や長江があり,それぞれ黄河文明、長江文明を育んだ自然の恵みでもある。 歴史 変遷 長江文明 黄河文明 紀元前2070-紀元前1600 夏 紀元前1600-紀元前1150 商 紀元前1150-紀元前256 周 紀元前770-紀元前403 春秋時代 紀元前403-紀元前221 戦国時代 紀元前221-紀元前207 秦 紀元前206-220 漢 前漢-新-後漢 220-280 三国時代 265-420 晋 西晋-東晋 304-439 五胡十六国時代 439-589 南北朝時代 581-618 隋 618-907 唐 五代十国時代 960-1279 宋 北宋-南宋 1271-1368 元 1368-1644 明 1616-1912 清 漢武 五島 1991- 中華人民共和国 中国は世界で最も悠久なる歴史を有する国家の一つである。中国各族人民は光輝燦爛たる文化を共同創造し、光輝ある革命伝統を備えている。漢族の王朝・明が滅亡し,満州族の清朝が中原王朝の座を掌握した。だが,日清戦争で日本に敗れたことにより植民地化が進行し、半封建半植民地の状況におかれ、中国人民は国家独立、民族解放と民主自由のために英雄戦闘を進めた。1912年、「滅満興漢」をスローガンとした,満州人の支配に対する漢族の革命運動が各地で起こり,その結果,大漢武帝国が成立(直後に清朝は消滅)した。 (漢武、五島編集中) 毛沢東主席を領袖とする中国共産党は中国各族人民を指導し、長期にわたる武装闘争とその他の形式による闘争を経、ついに封建主義の統治を覆し、新民主主義革命の偉大なる勝利を獲得、中華人民共和国を打ち立てた。これより中国人民は国家の権力を掌握し、国家の主人となったのである。 国歌 式典などでは、一般に以下の三曲が合唱される。 義勇軍進行曲(国歌) 起來不願做奴隸的人們 把我們的血肉筑成我們新的長城 中華民族到了最危險的時候 每個人被迫着發出最後的吼聲 起來!起來!起來!我們萬衆一心冒著敵人的砲火 前進!冒著敵人的砲火前進!前進!前進進! 立て奴隷となることを望まぬ人々よ 我らの血肉で我らの新たな万里の長城を築くのだ 中華民族は最大の危機を迎えた 全てのものは迫られ最後の雄叫びを発する 立て!立て!我ら万人一心に敵の砲火を冒しつつ 前進!敵の砲火を冒しつつ 前進!前進!前進進! 歌唱祖國(副国歌) 五星紅旗迎風飄揚 勝利歌聲多麽響亮 歌唱我們親愛的祖國 從今走向繁榮富強 歌唱我們親愛的祖國 從今走向繁榮富強 (副歌) 越過高山越過平原 跨過奔濤的黃河長江 廣寬美麗的土地 是我們親愛的家鄉 英雄的人民站起來了 我們的友愛堅強如剛 我們勇敢我們勤勞 獨立自由是我們的理想 我們戰勝了多少苦難 才得到今天的解放 我們愛家鄉我們愛和平 誰敢侵犯我們就叫他滅亡 東方太陽正在升起 人民共和國正在生長 我們領袖毛澤東 指引着前進的方向 我們的生活天天向上 我們的前途光芒萬丈 五星紅旗翻り 勝利の歌声高らかに響く 我らの親愛なる祖国を歌う これより繁栄富強へと歩まん 我らの親愛なる祖国を歌う これより繁栄富強へと歩まん (繰り返し) 高山を越え平野を越え たぎる黄河長江を跨ぎ 広大で美しい土地 これ我らの親愛なる故郷なり 英雄的人民立ち上がれり 我らの友愛堅きこと鋼の如し 我ら勇敢にして勤労 独立と自由これ我らの理想なり 我ら幾多の苦難に打ち勝ち ついに今日の解放を得れり 我ら故郷と平和を愛す 誰か我らを犯さば我ら彼を滅亡せしめん 東方の太陽今まさに昇り来り 人民共和国今まさに生長す 我らの領袖毛沢東 前進する方向を指し示す 我らの生活日々向上し 我らの前途は光芒万丈なり 國際歌(インターナショナル) 起來飢寒交迫的奴隸 起來全世界受苦的人 滿腔的熱血已經沸騰 要為真理而鬥爭 舊世界打個落花流水 奴隸們起來起來 不要說我們一無所有 我們要做天下的主人 這是最後的鬥爭 團結起來到明天 英特納雄那兒 就一定要實現 這是最後的鬥爭 團結起來到明天 英特納雄那兒 就一定要實現 その他の代表的歌曲 東方紅 東方紅太陽升 中國出了個毛澤東 他爲人民謀幸福 呼兒嗨呀 他是人民大救星 毛主席愛人民 他是我們的帶路人 爲了建設新中國 呼兒嗨呀 領導我們向前進 共產黨像太陽 照到那裏那裏亮 那裏有了共產黨 呼兒嗨呀 那裏人民得解放 東の空明るみ太陽昇る 中国に毛沢東出ず 彼は人民の為に幸福を謀る 彼は人民の大救星 毛主席人民を愛す 彼は我らの水先案内人 新中国建設の為に 我らを前進へと指導する 共産党太陽に似たり いずこを照らせばいずこは光る いずこに共産党あれば いずこの人民解放を得る 遊擊隊之歌 我們都是神槍手 每一個子彈消滅一個敵人 我們都是飛行軍 哪怕那山高水又深 在密密的樹林裏 到處都安排同志們的宿營地 在高高的山崗上 有我們無數的好兄弟 沒有吃沒有穿 敵人自那送上前 沒有槍沒有炮 敵人給我們造 我們生長在這裡 每一寸土地都是我們自己的 無論誰要強佔去 我們就和他拼到底 哪怕日本強盜凶 我們的兄弟打起戰來真英勇 哪怕敵人的槍砲狠 抓不到我們的踪和影 讓敵人亂衝撞 我們的陣地建在敵人的後側方 敵人戰綫越延長 我們的隊伍越擴張 不分富不分窮 十萬萬同胞齊武裝 不論黨不論派 大家都來抵抗 我們越打越堅強 日本的強盜一定走向滅亡 看最後的勝利日 世界的和平現曙光 我らみな名射撃手 一発の弾薬ごとに一人の敵を消す 我らみな飛行軍 山が高く水が深くとも恐れず 鬱蒼とした森林に 同志たちの宿営地を準備し 高き山の持ち場に 我らの無数の良き兄弟あり 食もなし衣もなし 敵が向こうから送ってくる 銃もなし砲もなし 敵が我らのために造る 我らここに生まれ育ち すべての土地は我らのもの 誰が占領しようとも 我ら徹底的に彼らと命を賭け争う 日本の強盗どもが如何に凶暴でも 我らの兄弟は勇猛に戦う 敵の銃砲が如何に激しくとも 我らの行方を捉えられない 敵を撹乱し 我らの陣地は敵の真後ろに築く 敵の戦線が延びるほど 我らの隊伍は拡大する 貧富を分かたず 10億同胞はみな武装し 党派に関わらず みな抵抗する 我ら戦うほどに強さを増し 日本の強盗はかならずや滅亡へ向かう 最後の勝利の日に 世界の平和が曙を現すを見よ 政治 人民民主専政 人民民主専政とは、毛沢東の生み出した中国の特色有る無産階級専政(プロレタリア独裁)であると同時に、中国国体の根本制度であり、それに対応する生態は民主集中制を原則とした人民代表大会制度である。 中華人民共和国の最高法規である中華人民共和国中央人民政府組織法第一条において、『中華人民共和国は労働者階級の指導する、工農連盟を基礎とした、各民主階級と国内各民族の団結した人民民主専政の国家である』と定められている。ここでの「労働者階級」と「工農連盟」とは、具体的には中国無産階級の先鋒隊である中国共産党、「各民主階級と国内各民族」とは、各民主党派を指し、無産階級指導下に民族資本家その他反帝愛国分子を含めた連合独裁の形式をとっている。 民主集中制 民主的基礎の上に権力の集中を行い、集中指導下に民主を実施。個人は組織に服従し、下級は上級に服従し、全党は中央に服従する。 中国共産党 中国共産党は無産階級の政党である。 中国共産党の基本綱領は徹底的に資産階級を覆し、無産階級専政を用いて資産階級専政に取って代わり、社会主義を用いて資本主義に勝利することにある。党の最終目的は、共産主義の実現である。 中国共産党は中国唯一の執政政党であり、党による国家の重大政策は、政権機関たる政治協商若しくは人民代表大会を指導、これらにおいて充分に討論なされた後に執行される。 中国人民政治協商会議 中国人民政治協商会議は中国共産党の指導下に全国各民族、各民主階級、各民主党派、各人民団体、国外華僑とその他愛国人士の団結した人民民主統一戦線の組織である。立法機関も代行。閉会中は中央人民政府委員会がその権限を代行する。 中国人民政治協商会議の権限 組織法改正 法律制定 憲法の監督の実施 中華人民共和国中央人民政府主席、副主席、最高人民法院(裁判所)院長(裁判長)、最高人民検察院検察長の選出 中華人民共和国中央人民政府主席の指名に基づき、国務院総理、国防委員会副主席と委員の人選を決定する。 中国人民政治協商会議によって選挙或いは決定された上記の人員の罷免。 国家経済計画の決定、国家の予算と決済の審査、批准。 省、自治区、直轄市、特別行政区の区分の批准 大赦の決定 戦争と和平の問題の決定 中国人民政治協商会議が行使すべきと認めるその他一切の権限 中国共産主義青年団 中国共産党指導下にある先進青年の群集組織であり、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想を学習する大学校であり、中国共産党の助手。 民主党派 中国共産党の指導下にあり、中国共産党と協力関係にある革命、愛国団体。資産階級専政国家における与党野党の関係ではない。 貧農下中農協会、中国国民党革命委員会、中国民主同盟、中国民主建国会、中国民主促進会、中国農工民主党、中国至公党、九三学社、中華全国総工会、中華全国婦女連合会、中華全国青年連合会、中華全国学生連合会、中国人民保衛世界和平委員会がある。 中央人民政府委員会 中央人民政府主席 毛沢東 中央軍事委員会主席 毛沢東 人民解放軍総司令 朱徳 副主席 朱徳、劉少奇、宋慶齢、李済深、張欄、高崗 最高人民法院院長 瀋釣儒 最高人民検察署検察長 羅栄桓 委員 陳毅、賀竜、李立三、林伯渠、葉剣英、何香凝、林彪、彭徳懐、劉伯承、呉玉章、徐向前、彭真、薄一波、 #32834;栄臻、周恩来、董必武、賽福鼎、饒漱石、陳嘉庚、羅栄桓、鄧子恢、烏蘭夫、徐特立、蔡鴨、劉格平、馬寅初、陳雲、康生、林楓、馬叙倫、郭沫若、張雲逸、鄧小平、高崇民、瀋釣儒、瀋雁冰、陳叔通、司徒美堂、李錫九、黄炎培、蔡廷櫂、習仲功、彭沢民、張治中、傅作義、李 #28891;塵、李章達、章伯釣、程潜、張奚若、陳銘枢、譚平山、張難先、柳亜子、張東孫、竜雲 政務院 最高国家権力機関の執行機関であり、最高国家行政機関。国務院は総理、副総理(若干名)、各部部長、各委員会主任と秘書長により構成される。 総理 周恩来 副総理 鄧小平 政治法律委員会主任 董必武 財政経済委員会主任 陳雲 文化教育委員会主任 郭沫若 人民監察委員会主任 譚平山 外交部長 周恩来 国防部長 彭徳懐 統一部長 鄧小平 公安部長 羅瑞卿 教育部長 馬叙倫 財政部長 薄一波 労働部長 李立三 内務部長 謝覚哉 鉄道部長 滕代遠 交通部長 章伯釣 貿易部長 葉季壮 農業部長 李韋誠 軽工業部長 黄炎培 紡績工業部長 曾山 第一機械(重)工業部長 陳雲 第二機械(核)工業部長 宋任窮 第三機械(航空)工業部長 第四機械(電子)工業部長 第五機械(兵器)工業部長 第六機械(船舶)工業部長 第七機械(宇宙)工業部長 第八機械(ミサイル)工業部長 政務委員(15人) 譚平山、謝覚哉、羅瑞卿、薄一波、曾山、滕代遠、章伯釣、李立三、馬叙倫、陳劭先、王昆侖、羅隆基、章乃器、邵力子、黄紹宏 政務院の権限 法律と法令に基づき行政措置を規定、決議と命令の発布、これらの決議と命令の実施状況の審査。 中国人民政治協商会議に対し議案を提出。 各部、各委員会と全国地方各級国家行政機関の職務を統一指導。 各部部長、各委員会主任による不適当な命令の改変或いは撤回。 国民経済計画と国家予算の執行。 対外貿易と国内貿易、文化、教育と衛生、民族事務、華僑事務の管理。 国家利益の保護、公共秩序の保護、公民権利の保障。 対外事務の管理。 武装力量建設への指導。 自治州、県、自治州、市の区分の批准。 法律の規定により、行政人員の任免。 その他中国人民政治協商会議が授与する権限。 政務院は中国人民政治協商会議に対し責任を負い、工作を報告する。 憲法 未制定。中華人民共和国中央人民政府組織法がそれに相当。 中華人民共和国中央人民政府組織法 中華人民共和国の制度については第一条で人民民主専政、第二条で民主集中制と定めており、人民代表大会召集までの機関、中国人民政治協商会議全体会議と、それによって組織される中央人民政府委員会を、司法立法行政統帥全てにおいて決定権を有する国権の最高機関としている。 経済 通貨 硬貨 1分 2分 5分 紙幣 1角 2角 5角 1元 5元 10元 ※外貨兌換券も同様 為替 1元人民幣=2英ポンド(固定レート) 物価水準 国家予算規模 2646億6537万3226元(公元1991年通過) 政務院部長級月額給料 97元 中央人民政府委員月額給料:83元 公務員月額初任給 48元 大学授業料(年額) 無料 映画館入場料:2元 新聞 5分(人民日報一部) 白米10キロ 1元3角(公定価格) 一級煙草:牡丹3角2分 二級煙草:大前門1角8分 三級煙草:熊猫8分 ビール一缶 2角 食料品、衣類、煙草、酒類の購入には、別途に配給切符が必要となる。外貨兌換券で支払う場合は配給切符不要。 編集中 行政区分 5直轄市23省6自治区 名称 略称 省、市、区都所在地 人口 北京市 京 北京市 1154万人 上海市 滬 上海市 1600万人 天津市 津 天津市 932万人 重慶市 渝 重慶市 3130万人 香港市 港 香港市 680万人 河北省 冀 石家莊市 6780万人 山西省 晉 太原市 3268万人 山東省 魯 濟南市 9108万人 河南省 豫 鄭州市 9768万人 遼寧省 遼 瀋陽市 (偽満州国占領下) 吉林省 吉 長春市 (偽満州国占領下) 黑龍江省 黑 哈爾濱 (偽満州国占領下) 内蒙古自治區 内蒙 呼和浩特市 2380万人 外蒙古自治區 外蒙 烏蘭巴托市 253万人 陝西省 陝,秦 西安市 3642万人 甘肅省 甘 蘭州市 2581万人 寧夏回族自治區 寧 銀川市 580万人 青海省 青 西寧市 492万人 新疆維吾爾自治區 新 烏魯木齊市 1889万人 江蘇省 蘇 南京市 7164万人 浙江省 浙 杭州市 4552万人 安徽省 皖 合肥市 6410万人 湖北省 湘 武漢市 6001万人 湖南省 鄂 長沙市 6599万人 江西省 贛 南昌市 4302万人 福建省 閩 福州市 3350万人 臺灣省 台 臺北市 (日本占領下) 廣東省 粵 廣州市 7723万人 廣西壯族自治區 桂 南寧市 4830万人 貴州省 貴 貴陽市 37872万人 四川省 蜀 成都市 8529万人 雲南省 云 昆明市 4176万人 西藏自治區 藏 拉薩市 259万人 代表的都市 北京 人口1154万人、華北平原に位置する中国の首都。元代の大都から明清代の帝京など今日まで幾度も都がおかれ、燦爛たる帝都景観と濃厚な文化的風格を兼ね備えている。 中国政治、科学技術、教育、文化の中心であり、中国科学院、中国社会科学院など数多くの学院、研究機関を有し、北京大学、精華大学などの名門大学がある。 繁華街に王府井、西単、東四などあり。観光名所には世界最大の宮殿たる故宮(紫禁城)をはじめ、八達嶺、十三陵などがあり、名所名跡に事欠かない。 上海 人口1600万人、華東地区長江中下流平原に位置する中国最大の都市であり、全国経済の中心。 市内を流れる黄浦江に臨む外灘は共同租界時代の古風な欧州式建築が立ち並び、「万国建築博覧会」と称されている。 中華最大の繁華街たる南京東路の他、旧フランス租界の南京西路、淮海路、徐家匯など多数の商業区を有する。 広州 人口725万人、広東省中南部珠江三角州に位置し、香港澳門と隣接する中国南方最大の海浜都市であり、華南地区の経済中心地。広東省都。また、工業も発達しており、自動車、電子、紡績、ゴム、医薬、食品などその種類は多岐にわたる。 珠江口には小島嶼が多いことから、市内には水道が複雑に入り組んでおり、それはまた広州をして優良なる海港たらしめた由縁でもある。 国内革命戦争時期、中国初の近代的士官学校たる黄浦軍官学校が開校されるなど、近代中国政治の基礎を築いた孫中山にまつわるものが多い。 重慶 人口3130万人、中国西南部長江上流に位置する平均海抜400米の山中都市であり、中国で面積人口ともに最大の中央直轄市である。五島王朝時代には竜宮市と改称され、都が置かれた。 四面山に囲まれ、長江と嘉陵江が合流する市内の景観は特に美しく、江城とも称されるほか、日照が少ないことから霧都とも呼ばれる。 西安 人口716万人、古くは長安と称し、シルクロードの基点であった、中国西北部最大の都市。陝西省都。 中国歴史文化名城の一つであり、3100年以上の歴史を有す。周、秦、漢、唐など13の王朝がここに都を置いた。 現在は国防工業の重要研究開発生産基地として栄えている。 拉薩 人口40万人、チベット自治区の首府であり、全蔵政治、文化、経済と交通の中心地。世界最高海抜の都市でもある。「ラサ」とはチベット語の「聖地」或いは「佛地」の意であり、悠久の歴史をもち、独特の民族風情と仏教聖地の声によって内外に知られている。 以前は宗教封建統治勢力による農奴制であったが、中国共産党の指導の下に百万の西蔵農奴は解放を得、新西蔵建設にむけて各民族が団結している。 外交 平和共存五項原則 新中国外交方針の基本。であり、以下の五項からなる。 一、領土保全と主権の相互尊重 二、相互不可侵 三、相互内政不干渉 四、平等互恵 五、平和共存 外交状況 中文国名(筆画順) 日本語国名 外交関係 締結条約種類他備考 人民意大利 ポポロイタリア 有 大日本帝國 大日本帝國 無 通商覚書 政府代表交換 大不列顛及愛爾蘭聯合王國 大ブリテン及アイルランド連合王国 有 平和友好条約・通商条約 古巴革命人民共和國 キューバ革命人民共和国 有 法蘭斯王國 フランス王国 有 波爾什共和國 ボルシェビケ共和国 有 平和友好条約・通商条約 神聖阿爾蒂斯帝國 神聖アルティス帝国 無 斷交(平和友好条約・通商条約) 神聖羅馬帝國 神聖ローマ帝国 無 美利堅合衆國 アメリカ合衆国 有 平和友好条約・通商条約 奧斯曼帝國 オスマン帝国 有 平和友好条約・通商条約 越南社會主義共和國 ヴェトナム社会主義共和国 有 維斯培爾塔蒂亞聯邦王國 ウェスペルタティア連邦王国 無 断交 (僞滿洲國) (満州傀儡) (非承認)
https://w.atwiki.jp/awata/pages/51.html
(01)太祖の建隆三年(962)夏四月、太常寺博士の聶崇義が『三礼図』を上呈した。 これ以前、周の世宗の時代、禘祭を太廟で行おうとしたことがあったが、「宗廟に祧室がなければ、禘祭と祫祭はできない」と言うものがいた。崇義は次のように弁駁した。その概略に曰う―― 魏の明帝は景初三年正月に崩じ、五年二月に祫祭を行い、明年にまた禘祭を行っております。これ以後、五年に一度、禘祭を行っております。魏は武帝が太祖ですから、明帝でようやく三人目の皇帝となります。〔太廟の〕位牌を毀ってから禘祫の祭を行うことなどありませんでした。これが第一の証拠です。 宋の文帝の元嘉六年、祠部が十月三日に大祫の祭を行うことを決定したとき、太学博士は「禘祫の祭は、三年に一度、五年に二度」と論じております。宋は高祖から文帝に至るまで、三人の皇帝しかおりません。位牌を毀ってから禘祫の祭を行うことなどありませんでした。これが第二の証拠です。 梁の武帝は謝広の発議を用い、三年に一度禘祭を行い、五年に一度祫祭を行い、それを大祭と呼んでおりました。夏に禘祭を行い、冬に祫祭を行ったのです。梁の武帝は王朝の創始者ですから、禘祫の祭は四代前の親を後から尊んだにすぎません。祭りというものは、子孫が祖先に感謝を示すものです。時が流れ季節が移ると、親を憶う子の心が生じます。ですから供養には〔四時の〕第一月を用い、祭りには第二月を用い、四時の祭りの間に禘祫の祭を行って、〔太廟の位牌を〕昭穆に並べる。――これが礼のあり方です。宗廟に〔位牌が〕揃っているかどうかは、関係ないことです。これが第三の証拠です。 崇義の主張に従った。世宗は郊廟で用いる祭玉について調べさせた。そこで崇義は三礼を研究し、この時(太祖の建隆三年)になって上奏した。帝はそれを見て喜び、詔を下した。―― 礼の器具や図は代々受け継がれてきたものだが、時間の経過にともなって誤りも生じるものである。聶崇義は、太学に奉職し、儒者の学問を修め、故実を研究し、〔伝来の〕誤りを是正し、職責を全うしており、まことに讃美すべきである。崇義には労に応ずる褒美を与えよ。上呈した『三礼図』については、太子詹事の尹拙に命じ、儒学者三五人とともに、さらなる調査をさせよ。より正確詳細を求めるべく、〔聶崇義の意見と〕異同があれば、適否を明らかにせよ。 (02)尹拙が『三礼図』を駁正すると、聶崇義は再び経文を引いて弁解しので、工部尚書の竇儀に裁定させた。儀は次のように報告した。 謹んで考えますに、聖人は礼を作り、それを永久の未来に伝えましたが、儒者が経書に拠って伝えたところには、時として異同が生じました。年月が〔聖人から〕遠くなればなるほど、図絵に欠落が生じ、矛盾は徐々にひどくなり、確かな根拠がなくなります。聶崇義は伝来の学説を研究し、礼経に心を潜め、旧図に比べてまことに斬新な見解をもっております。尹拙は陛下の命令を受け、従来の成果を十分に尽しております。尹拙の駁論と聶崇義の反論文の各四巻。臣が再調査した上、適宜に是正増損を加え、注釈を施したもの、全十五巻。以上を上呈いたします。 詔してこれを頒布させた。 拙と崇儀は再び祭玉と鼎釜の異同について申し立てたので、中書省に意見をまとめさせた。吏部尚書の張昭らは次のように上奏した。 聶崇義の意見には、「天を祭るときは、九寸で中央に穴のある円形状の蒼璧を用いる。地を祭るときは、八寸で中央に穴のない黄琮(八角柱)を用いる。圭・璋・琥は、いずれも長さ九寸」とあります。崇義が言うには、周の建徳三年に田敏らと、『周官』玉人の職および阮諶・鄭玄の旧図を調査したとき、この制度が載っていた、と。 我々の調査によりますと、『周官』玉人の職には、ただ「璧琮は九寸、瑑琮は八寸」、および「璧の直径は度尺、璧の穴は三尺、これを単位とする」との文があるだけで、蒼璧・黄琮についての記載はありません。注文には『爾雅』の「辺が穴に倍する」ことが引かれておりますが、これは「璧の直径は度尺」に対する注で、蒼璧についてのものではありません。また、鄭玄は自身が『周礼』に注を施したときには尺寸を記載しておりません。それが別に画図を作ったとき、かえって経文に違えて異説を立てるでしょうか。 『四部書目』には『三礼図』十二巻があります。これは隋の開皇年間に礼官に編修させた勅撰物です。その図の第一と第二の表題には「梁氏」とあり、第十の後題には「鄭氏」とあります。梁氏や鄭氏の身分は不明であるとされています。現在、書庫に『三礼図』があり、その表題にも「梁氏」「鄭氏」とありますが、身分は書かれておりません。後世、梁正なるものが――彼は前代の図記を集めて研究したのですが――、『三礼図』について「陳留の阮士信は、礼学を穎川の綦冊君に受け、その学説を用いて『礼図』三巻を作った。しかし礼経の文を調べず、漢代の礼論を引いており、鄭君(鄭玄)と相違がある。わたくし正は、〔三巻の本図を〕つづめて二巻とした」と記しております。文中にいう阮士信は諶のことです。梁正の言う通りならば、諶に誤釈のあったことも明らかです。さらに三巻の『礼図』を二巻につづめたのなら、現行の『礼図』の中にあるはずですが、祭玉を改めたとする説はありません。 我々が検討したところ、周公が礼を定め、叔孫通が再定して以後、礼に緯書が生まれ、漢代の諸儒にも極めて多くの著述がありました。しかし祭玉の尺寸について調査しても、どこにも書かれておりません。魏晉以後、鄭玄や王肅の学問にはそれぞれに弟子がおり、三礼・六経についても随分研究されました。しかしそれらの書物を調べても、祭玉の尺寸については書かれておりません。我々が画図本書を調査したところ、周公所説の経文には尺寸の記述がありませんでした。もし現在伝わる尺寸が後世の人間の誤釈であるならば、周の図に入れてよいものでしょうか。崇義崇らは諸侯が入朝したときに天子や夫人に献納される琮・璧のことを祭玉とし、それに「直径の尺度」や「辺と穴」の言葉を結びつけ、強いて尺寸を作っております。古今の大礼について、誤解に順いながら誤解を正すというのは、道理として通じません。 また尹拙の学説ですが、礼神の六玉について、拙みずから言うところによれば、梁の桂州刺史の崔霊恩の手になる『三礼義宗』の所説――昊天および五精帝の圭・璧・琮・璜はどれも長尺二寸と十二時に倣ったものである。地を祭る琮は、長さ十寸、地の数に倣ったものである―― と、『白虎通』の所説――中が四角で外が円形のものを璧といい、中が円形で外が四角のものを琮という――を根拠としたものです。崇義はこれを批判して、「霊恩には周公の才もなければ周公の位もない。一王朝の撰述でもって、直ちに六玉の闕文を補うなどは、最も礼に合致しない」と言っております。 我々が考えるところによりますと、劉向が『洪範』について論じ、王通が『元経』を作ったのは、決して聖人になぞらえて上公の位に居ろうとしたものでなく、教化に有益であれば、またそれも美事だとしたまでです。我々は霊恩の著書から古訓を案じ、祭玉が十二の数である理由を考えてみました。 天に十二次あり、地に十二辰あり、日に十二時あり、封山の玉牒(玉製のふだ)には十二寸あり、圜丘の籩豆には十二列あります。「天子は鎮圭で外を守り、王后は大琮で内を守る」ときの鎮圭や大琮は十二寸です。王者が宗廟を守るために用いる祼圭は十二寸となっております。君主みずから行う〔天地を祭る〕郊祭では、壇に登って酒を献じ、大裘を着込み、大圭を夾んで祭を行います。そこで〔聶崇義のいうように〕十二寸の圭を手に九寸の璧を献じるとなると、これでは宗廟に献ずるとき用いる〔十二寸の〕祼圭より短くなります。天を父とし地を母としているのですから、人情として穏当ではありません。 つまり霊恩の議論は道理として誤っておりません。そのため『義宗』が世に出てからというもの、梁・陳・隋・唐を経た四百年、礼に言及するものは、『義宗』を規準として来たのです。今の『五礼精義』『開元礼』『郊祀録』はいずれも『義宗』を規準としております。近代の晉漢両朝は、なお旧制に依拠しておりました。周の顕徳年間、田敏らは妄りに穿鑿を加え、勝手に改変を加えました。唐の貞観以後、みたび五礼の大改訂がありましたが、いずれも隋朝の典故に依拠しておりました。礼制の諸規定を改訂することがあっても、祭玉を改めることはありませんでした。 以上から、『白虎通』『義宗』『唐礼』の制度を規準とすべきであると進言いたします。 また尹拙は旧図には釜が画かれているが、聶崇義は釜を削除して鑊を画いていると言っております。我々が旧図を調査したところ、いずれも釜の図はあるものの、鑊の図はありませんでした。調べてみますと、『易』の説卦伝には「坤を釜と為す」とあり、『詩』にも「維れ錡及び釜」や「之が釜鬵を漑(そそ)がん」とあり、『春秋伝』(左伝)にも「錡・釜の器」とあり、『礼記』にも「黍を燔(や)き豚を捭(さ)く」とあり、『礼記』の文は「古にはまだ甑釜がなかったので、黍を燔き豚を捭いて祭った」と解釈されています。釜の来歴は古いのです。ですから『礼図』にも入っているのです。 今、崇義は『周官』の祭祀に「鼎鑊に省す」「鼎鑊に供す」とあり、また『儀礼』に「羊鑊」「豕鑊」の文があることから、「釜を画くよりは鑊を画くべきである」と言っております。他の経書に釜の記載があるのですから、確かに削除すべきではありません。しかし『周礼』『儀礼』に「鑊」が記載されているのですから、両者ともに図示すべきでしょう。また諸家の祭祀の画と現行の礼制とを調査したところ、大祀の前の一日に光禄卿が鼎鑊を視察しております。鑊の図を鼎の図の下に画くべきです。 詔を下し、これに従った。 (03)乾徳元年(963)二月、太常の竇儼が訴えた。 三王五帝が王朝を創設したとき、礼や楽は引き継ぎませんでした。偉大なる聖宋が天子の位に立った以上、宋朝一代の楽を立てねばなりません。楽章を新たな言葉に変え、古くからの道理に従われますように。 これに従い、儼に任せた。 儼は周の楽の中、文舞である「崇徳」の舞を「文徳」の舞に改め、武舞である「象成」の舞を「武功」の舞とした。楽章の十二の「順」を改めて十二の「安」とした。これは「治世の音は安くして以て楽しむ」から取ったものである。天を祭るときには「高安」を、地を祭るときには「静安」を、宗廟には「理安」を、天地宗廟の登歌には「嘉安」を、皇帝の臨軒には「隆安」を、王公の出入には「正安」を、皇帝の飲食には「和安」を、皇帝の受朝と皇后の入宮には「順安」を、皇太子の軒県出入には「良安」を、正冬(十一月)の朝会(皇帝謁見)には「永安」を、郊廟で俎豆を用いるときには「豊安」を、祭享・酌献・飲福・受胙には「禧安」を、文宣王と武成王を祭るときには「永安」を、籍田や先農の祭りには「静安」を用いた。 五月、有司から「僖祖の文献皇帝の室(宗廟の部屋)では「大善」の舞を奏し、順祖恵元皇帝の室では「大寧」の舞を奏し、翼祖簡恭皇帝の室では「大順」の舞を奏し、宣祖昭武皇帝の室では「大慶」の舞を奏したい」と言ってきたので、それに従った。 翰林学士承旨の陶穀らは、詔を奉じて感生帝を祭るときの楽章と曲名を撰定した。降神(神を迎える。以下、祭礼の順序)には「大安」を、太尉の礼には「保安」を、玉幣を献納するときには「慶安」を、司徒の奉俎には「咸安」を、酌献には「崇安」を、飲福(神に酒肉を捧げ終わること)には「広安」を用い、亜献には「文安」を、送神には「普安」を用いた。 五代以来、楽工(楽人)に不備があったので、この歳の秋に行われる郊享の礼(天地と山川百神を祭る礼)のため、開封府の楽工八百三十人を選び、臨時に太常寺で雇い、鼓の打ち方や笛の吹き方を教えさせた。 (04)四年(966)春、拾遺の孫吉を遣わし、成都にあった孟昶の宮県(楽器の配置のさま)を京師に取り寄せた。太常に調査させたところ、楽器が音律に合っていないことが分ったので破棄させた。 (05)六月、判太常寺の和峴はこう訴えた。――「大楽署の旧制では、宮県の三十六柱を庭に設け、登歌(楽器。大朝会に用いる)の両架を殿上に設けておりました。有司に命じて造らせて下さい。また徐州に泗川の石を持ってこさせ、それを磬(打楽器)の材料に充てることをお許し下さい。」これを許可した。 これ以前、晉の開運末年に礼楽の器具が失われた。ここに至り、ようやく有司に命じて二舞十二案の制度を整えさせた。二舞郎と引舞一百五十人については、教坊(楽工などを管理する部署)の開封所属の楽工を調査し、楽工の子弟を選び、楽隊を整えた。冠や衣服は旧制に準じた。鼓吹十二案の制度は、十二の氈牀を設け、熊羆の踊り立った形状を作って下を承けた。案ごとに大鼓・羽葆鼓・金錞を各一人、歌・簫・笳を各二人、総計九人を揃えた。冠服は引舞と同じにした。 (06)十月、峴はまた上奏した。―― 楽器の中に叉手笛があります。楽工が調査したところ、どれも雅音(正しい音楽)と相応しておりました。調べてみますと、唐の呂才は「白雪」の琴の歌を作り、馬滔は「太一」の楽を用い、当時にあっては宮県の席に与り得ました。ましてやこの笛は十二旋宮に相当しているのですから、八十四調に通すこともできます。形状は雅笛に似て、それより小さく、長さ九寸。黄鐘管に等しく、左に四つ右に二つ、穴が六つあります。楽人が手に取るときは、両手を交わらせ、拱揖(両手を前に組んで会釈すること)したようになります。拱宸管と名づけたいと思います。十二案・十二編磬・登歌両架に一つずつ設置することを法規に定めて下さい。 これを許した。 (07)太祖はいつも雅楽は音が高くて悲哀な感じが漂い、中和に合っていないと感じていた。王朴・竇儀は音楽に詳しい人物であったが、両人とも既に亡くなっていた。そこで和峴に原因を調べさせた。峴は「朴が定めた律呂の尺は、古制である西京銅望臬の石尺に比べて四分短くなっております。音が高いのはこれが理由です」と答えた。そこで古法により、別に新尺を作らせ、律呂を定めさせた。これ以後、雅音は和やかで伸びやかになった。これについては〔『宋史』の〕「律暦志」に記載されている。 (08)国初以来、〔帝が〕正殿に臨み朝賀を受けるときには宮県を用い、別殿で群臣の祝寿に臨むときには教坊楽を用いていた。この年の冬至、帝は乾元殿に臨んで慶賀を受けると、群臣は大明殿に詣でて長寿を祝ったが、始めて雅楽・登歌の二舞を用いた。 (09)この月(十月)、和峴がまた上奏した。―― 郊廟の殿庭では「文徳」と「武功」の舞を用いております。しかし舞人の陣容が武功・文徳を表しておりません。古訓によりますと、禅譲によって天下を得たものは、まず文舞を用い、放伐によって天下を得たものは、まず武舞を用います。陛下は禅譲を受けたのですから、さきに文舞を用いるべきです。 『尚書』によりますと、舜が驍の禅譲を受けたとき、「玄徳升聞し、乃ち命ずるに位を以てす(奥深い徳が天朝に聞こえ、天子の位を命じた)」とあります。殿庭で用いる文舞を「玄徳升聞」の舞に改められますよう請い願います。その舞人は唐の太宗の舞図に拠って、八佾の数(六十四人)の倍である一百二十八人とし、それを八行に分け、行ごとに十六人とします。みな履物で、払(塵払いの器具)を執り、袴褶を着け、進賢冠をかぶります。引舞は二人、各々五采纛(舞の道具)を持ちます。その舞状・文容・変数については、いくつか改変を加えます。 さらに陛下は神武で以て天下を統一されたのですから、〔文舞に〕続いて武舞を用いるべきです。『尚書』によりますと、周の武王は「一たび戎衣して天下大いに定まる(一たび軍服を身にまとうと、天下は統一された)」とあります。〔従来の武舞を〕「天下大定」の舞に改められますよう請い願います。舞う人の数や行例については、全く文舞と同じにします。舞人は黄金の鎧をまとって戟を持ちます。引舞は二人、各々五采旗を持ちます。舞は六舞です。一変は六軍の挙兵を象り、二変は上党平定を象り、三変は淮揚平定を象り、四変は荊胡の帰復を象り、五変は邛蜀の帰順を象り、六変は六軍の帰還とその整備を象ります。また別に舞曲と楽章を撰定します。鐃鐸・雅相・金錞・鼗鼓、そして二舞などを引く工人の衣冠は楽令に拠ります。「文徳」「武功」の舞は郊廟でもと通り行って下さい。 また唐の貞観四年のことを調べてみますと、景雲(瑞祥の一つ)が現れ、黄河が透き通ったとき、張文収は古代の「朱雁」「天馬」の義を採り、「景雲河清歌」を作り、「燕楽」と名づけました。元会第二奏はこれを指します。謹んで考えますと、今年、荊南から甘露(瑞祥の一。以下も同じ)が献上され、京兆と果州から嘉禾が奉られ、黄州から紫芝が進められ、和州から緑毛の亀が上せられ、黄州から白兎が納められました。月律により、「神亀」「甘露」「紫芝」「嘉禾」「玉兎」の五瑞につき各々一曲を作り、朝会の登歌ごとにまずこれらの楽曲を奏して下さい。 詔を下した。――「二舞の人数と衣冠は旧制に拠れ。楽章については請願の通りにせよ。」 (10)六年(968)(1)、峴がまた言った。―― 漢朝では天馬・赤雁・神鼎・白麟の瑞祥があれば郊歌を作りました。国朝になって、合州は文字を著した瑞木を進呈し、象は遠方から贈られ、秦州は白い烏を献じ、黄州は白い雀を納めております。いずれも音楽によって褒め称え、郊廟に奉納すべきものです。 そこで峴に瑞文・馴象・玉烏・皓雀の四つの瑞楽章を作らせ、登歌として備えさせた。 (11)すぐにまた峴は訴えた。―― 『開元礼』を調べますと、郊祀の車駕が宮殿に還ったとき、嘉徳門に入ると采茨の楽を用い、太極門に入ると太和の楽を用いております。今、郊祀の礼が終わり、恩赦を下した後、宮殿に還ると、宮県は「隆安」を用いるだけで、「采茨」を用いておりません。そもそも「隆安」の楽章は本来朝廷に臨むときの言葉です。礼の本旨を考えますと、「隆安」の楽は内から出たときに用い、「采茨」の楽は外から戻ったときに用いるものです。併用しなければ旧典に悖ることになります。今、大楽署丞の王光裕は唐の「采茨曲」を暗誦しておりますので、月律によって別に言葉を撰定させ、郊祀が終わり、車駕が初めて入れば奏でさせ、恩赦が終わり宮に還れば、「隆安」の楽を奏でさせますように。 すべてそれに従った。 〔注〕 (1)六年:乾徳は六年十一月に改元。『会要』楽四によると、この上奏は六年十月二十七日に繋る。
https://w.atwiki.jp/ng3ggc/pages/3251.html
名稱:華赫艮 伺服器及顏色:4服綠類型:武 性別:男 生命值:484 武力:32 智力:20 防禦:11 敏捷:30 運勢:24 敘述:金庸小說《天龍八部》中人物,大理國三公之一司徒「華阿根」
https://w.atwiki.jp/awata/pages/62.html
(01)真宗の咸平元年(998)春正月、翰林学士の王禹偁は五問題について上奏した。 一、辺境の防備に謹み、友好を保ち、兵粮運搬の民に休息を与えること。昨今、北には契丹があり、西には継遷がおります。契丹は国境を侵さぬとはいえ、辺境の防備を減らすわけにはまいりません。継遷は依然として服従しておらず、兵粮運搬の困難は止め難く、関中や三輔の民の困難は最も甚だしいものがあります。そこで臣愚は次のように考えます。国境の吏に命じて遼の臣に書簡を渡し、その主君に送らせ、旧来の友好を保たせるのです。また詔を下し、継遷の罪を赦し、夏台(夏州周辺)を与えます。彼は必ず恩に感じて我等に降るでしょうし、さらには天下の人に己を屈してでも民を治めようとする陛下の姿を知らしめることにもなりましょう。 二、無駄な兵を省き、冗漫な吏を除き、山野の豊饒を下々に与えること。乾道・開宝のとき、領有地はまだ狭く、財貨もまだ少うございました。しかし河東を撃ち、北辺に備えながら、国費は足り(1)、兵も強うございました。それは何故でしょうか。兵は少数精鋭、将軍は専断を許されていたからです。それ以後、東南の数国を取り、さらに河東を平定しました。土地や財貨は広大豊饒になりました。しかるに兵威は振るわず、国費は切迫しております。これは何故でしょうか。兵に無駄が多く、精鋭ばかりでなく、将軍に専断を許していないからです。臣愚は次のように考えます。用兵の費用を開宝の時にようにすれば、枕を高くして〔天下を〕治めることができます。また開宝のときは、官僚の数が極めて少うございました。私は魯の人間で、済水のほとりを本籍としておりますが、まだ貢挙に合格していなかった当時、一州にただ刺史が一人、司戸が一人いただけでした。しかし当時、不便はありませんでした。それ以後、団練推官が一人増えました。太平興国のとき、通判・副使・判官・推官を増設し、監酒榷税算など四人を増やし、曹官のほかに司理を増やしました。その税収はといえば先日より減っており、その人民はといえば昔時より逃亡し〔て減っ〕ているのです。一州がすでにこのようです。天下についても知り得るというものです。冗漫な吏や兵が上下に国費を費やしているのです。これが〔朝廷が〕山野の利を全て徴用しながら、国費が足らない理由です。そもそも山野の利は民と共有するものです。漢以来、〔山野の利を〕国費に用いており、それを棄てるわけにはいきません。しかし、そうかと言って全てを取っていいものでもありません。茶法のようなものは、むかしはなかった税です。唐の元和のとき、斉や蔡に出兵する必要から、始めて茶に税をかけました。『唐史』には、この年、銭四十万貫を得たとありますが、今は数百万を得ております。民がこれに堪えられましょうか。臣が「無駄な兵を省き、冗漫な吏を除き、山野の豊饒を下々に与えること」と申し上げるのはこのためです。 三、選抜を厳しくして、むやみに官僚を登用しないこと。古代は郷里に推薦された人材を官吏として用いておりました。士君子は家で振る舞いを修めた後、朝廷に推薦されたのです。歴代に改廃あるとはいえ、この方法を遠く離れることはありませんでした。隋唐に始めて科目試験を設けましたが、太祖のときまでは毎年進士科〔に合格したもの〕は三十人を越えず、経学科でも五十人を越えませんでした。諸侯ですら推挙を許されぬほどに重んぜられ、士大夫が恩蔭を与えられることもまれでした。ですから一生かけて一つの科目にも合格できず、老齢になっても一つの官も得られないものがいたのです。太宗は王廷で育たれ、このような状況を御覧になり、即位の日には、完備した人を求めることなく、短所を捨てて長所を用い、十人に五人を取られました。在位ほとんど二十四年、合格したものは万人になろうとしております。英邁豪傑の人才もいるでしょうが、たやすく官を手に入れたものもいるでしょう。臣愚は次のように考えます。数百年の艱難があればこそ、先帝は広く人を取られました。二十年の恩沢があったのですから、陛下は古来のしきたりに戻されるべきです。試験のことは、昔のとおり、有司に任されるのがよろしいでしょう。吏部の人事についても、帝王みずからすることではありません。爾来、五品以下は、旨を取って官を授けると言っておりますが、今では〔有司の行う人事は〕幕職・州県官のみとなっております。京官には選限(挙人が実職を与えられるまでの期限)があるとはいえ、多くは施行されておりません。臣愚が考えますには、吏部の人事を有司に任せ、格敕によって任用すればよろしいでしょう。 四、僧尼を退け、疲弊の民を損なわないこと。太古にはただ〔士・農・工・商の〕四つの民がいただけでした。兵はその中に入っておりません。太古には井田の法があり、農はそのまま兵でした。秦以来、武人は農業に務めなくなりました。これは四民の外にまた一民を設けたことになります。そのため農はさらに困窮することになりました。しかし兵器を手に社稷を守ることは、道理として除くことができません。漢の明帝以後、仏法が中国に流入し、僧侶を増やし寺を造ること、代々増加し、養蚕に携わらずに衣服をまとい、農耕に勤しまずして米穀を食らっております。これは五民の外にまた一民を増やし、六民としたことになります。もし天下に一万の僧侶がおり、毎日米一升を食らい、毎年絹一匹を用いたとします。これは極めて質素な生活です。しかしそれでも月に三千斛を費やし、歳に一万縑を用いることになります。ましてやそのような輩が〔実際には〕五~七万もいるのです。民の害虫と言わずにおれましょうか。臣愚は次のように考えます。国が許した出家者は多く、寺の造営も多大にございます。その費用を計れば億万では済みますまい。先帝が病に倒れたとき、多くの喜捨をされました。仏法の霊験があったはずです。それなのに福寿を蒙らなかったのはなぜでしょうか。仏法に帰依しても無意味なこと、断じて知らねばなりません。陛下は深く施政のあるべき方法を鑑み、すぐに〔仏法を〕退けられませ。もし即位したばかりのことで、これらの輩を驚かせたくないとお思いなら、まずは二十年ほど人の出家と寺の造営を許さずにおかれ、〔仏法を〕自然に衰えさせればよろしい。これも弊害を救う一方策です。 五、大臣に親しみ、小人を遠ざけ、忠良正直の士を進めて疑わず、奸悪媚諂の徒を退けて懼れしむること。そもそも君を元首(あたま)とすれば、臣は股肱であり、一心同体というものです。用いる人であれば疑ってはならず、さにあらぬ人間であれば用いてはなりません。さて、盛徳の帝王といえば、誰しも堯舜を言うでしょう。その時代、契は司徒となり、咎繇は士となり、伯夷は礼を司り、后夔は楽を司り、禹は黄河を治め、益は虞官でしたが、各々に職務を全うさせました。堯には人材を知り賢者を用いる徳があったのです。しかし堯は遠いむかしの話しです。臣は近い時代について申し上げたいと思います。唐の元和のとき、憲宗は裴垍に諸官の人事を命じたことがありました。垍は申しました。――「天子は宰相を選び、宰相は官庁の長官を選び、長官みずから属僚を選ぶ。かくすれば上下に疑惑が生じず、政務も正しく行われます」と。識者はこれを聞き、垍は物事の道理を弁えた人だと言いました。ですから陛下は遠くは帝堯に取り、近くは唐室に鑑み、既に宰相を用いたなら疑うことなく、宰相に官庁の長官を選ばせ、長官に属僚を選ばせるのです。そうすれば陛下は坐したままに天下を治めることができましょう。太古のむかし、刑罰を受けたものは君主の側におりませんでした。『論語』には「淫らな鄭の音楽を止め、佞人を遠ざけよ」とあります。それ故に周の文王のまわりには貴顕を蔑視するものはなく、周囲のものはみな賢者だと言われたのです。そもそも小人は巧言令色、まず陛下の意に迎合しようとし、動けば必ずものを乱し、心はただ賢者を忌み嫌うだけです。聖帝明王でなければ明らかにし尽くせるものではありません。旧制では、南班の三品尚書となってはじめて皇帝に拝謁できました。最近では武官の三班奉職の身分でも、使者ともなれば皇帝に拝謁を許されております。陛下の聡明を乱すこと、これより甚だしいものはありません。陛下が綱紀を引き締め、聡明を尊厳にするのは今にございます。 臣愚が考えますには、昨今の急務は兵にあります。兵数を正しく処理し、道理を以て〔兵権を〕処置なされた後、吏について論ずることになります。吏の清濁を分け、品流を区分して後、〔科挙の〕選抜を厳しくして〔吏の〕源流を塞ぎ、僧尼を禁じて〔国費の〕消費を抑えるのです。そうすれば自然と国費は満ち、王道が行われるようになるでしょう。 (02)冬十月、代州知事の柳開が訴えた。―― 国家の創業以来四十年、陛下は〔太祖・太宗の〕二聖の位を承け、施政に精励されるこのとき、もし旧套を守るのみならば、まだ善を尽したことになりません。新たな法令を打ち立て、なすべきことを明らかにしなければなりません。 臣は次のように考えます。益州は安静を取り戻しつつありますが、陛下には賢能の臣を選んで治めさせることを願います。名望威厳のある人によってこそ、群小は畏服するものです。また西方(西夏)は今でこそ朝廷に帰順しておりますが、他日、長く保ち続けることは困難だと思われます。もし反旗を翻すようなら、しかるべき人に制禦させねばなりません。契丹と比べてみますと、その憂患はさらに深うございます。なぜならば、契丹は君臣の分が久しく定まっており、蕃人と漢人の位置も久しく分かれております。もし南方(宋)を窺う心が萌したなら、また別に思慮せねばならぬでしょう。西方については、怨みはまだ解けず、貪欲の心は改められず、下には悪事がはびこり、兇悪を競い、人の物を奪いながらなんら足るを知らず、都合よく投降しては〔朝廷の〕恩を感ずることもありません。ですから常に予め防備を施し、良将を要害に配して守らせ、厚く賜物を授けて貪婪の心を満たし、慰撫することで彼等の心情を宥め、寛容な態度で彼等の心を休め、〔その一方で〕人を甘州・涼州に遣わし、その地の心を繋ぎ止め、我等の援護とし、もし〔西夏に〕動きがあれば、彼等に〔背後から〕襲わせ、西夏に後顧の憂をあらしめるのです。そうすれば西夏の敏捷な動きも制禦できるでしょう。今、兵数は多いといえ、太祖の時代の訓練の行きとどいた兵に及ばず、mた謀臣猛将については遠くかないません。そこで連年、西北に侵略を受け、〔兵を〕養成しても月費のみ甚だ高く、征伐しても戦勝の報は聞かれません。禁軍を訓練して往時〔の勢い〕を取り戻し、将兵には必ず勇敢なるものを求め、指揮に違えることを許さず、軍律を乱すものはすべて誅殺し、功績あるものには必ず恩賞を与え、副将・主将で威厳のないものは除くことを求めます。政務の合間には、〔帝〕みずから殿庭で視察され、さらに勇猛な将軍を召して剣戟や馬術を披露させ、朝廷の武運の盛んなさまを彰かにさせるのです。 臣はまたこのように考えます。宰相・枢密は朝廷の大臣です。任せては決して疑わず、用いては必ず至当でなければなりません。〔大臣は〕属僚を任用し、職官に等級をつけ、内には百司を統べ、外には四海を分け治めるものです。今、京朝官〔の任用〕には別に審官院を置き、供奉殿直には別に三班院を置き、刑部は獄を断ぜず、別に審刑院を作り〔刑獄に預からせ〕、宣徽院は全くの閑地となっております。大臣は親信を得られず、小臣はそれを至公だといっております。銀台司に至っては、もともと枢密院に属していたものを、近年制度が改まり、職掌が甚だ多くなり、人員が倍ほどに増えました。しかし実際は昔のままで、別段の利害もなく、いたずらに変更があっただけでした。審官院・三班院を罷め、再び中書・枢密・宣徽院に戻し、銀台司は枢密院に戻し、審刑院は刑部に戻し、官庁の乱立を去り、その煩瑣の数を減らされますことを請い願います。 また次のように考えます。開封府は万邦の模範です。旧制によって、優れた人を〔長官に〕選ばれますことを望みます。今、皇族の諸子の多くは成人しておりますが、ただ遊ばせているだけで、材能を試されておりません。彼等を諸侯として外におらせ、文武の忠直な人を左右において輔弼させることを望みます。 また天下の州県は、官吏〔の数〕が均一でありません。冗官が極めて多いこともあれば、長年官員が補われない場合もあります。四千戸以上の県には朝官から選んで治めさせ、三千戸以上は京官から選んで治めさせ、主簿を省き、その仕事を県尉に兼ねさせ、その他の通判・監軍・巡検・監臨・使臣などは適宜省略し、無駄に充てられる利禄の費用を減らし、官職を整えることを望みます。 また世の人情は栄達を競うようになり、世態は軽薄になっております。骨肉の間柄とはいえ、権勢や利得の前には変節し、同僚の間には不和が多く、隙を窺っては窮地に陥れようとし、困難に際会しても全く救おうとせず、仁義の風潮はまったく失われております。陛下から告諭され、各々を改心させ、風俗の根本を厚くし、永く政道を醇朴たらしめんことを願います。 恭しく思いますには、太祖は神武の帝、太宗は聖文の君であらせられ、栄誉は百王を覆い、威厳は万国に加わり、用いられぬ賢人はなく、知らぬことなどありませんでした。陛下も御心を開かれ、天の如く海の如く、断ずべきは直ちに断じ、行うべきは直ちに行い、忠直の臣を惜しみ、奸悪を察知されますよう願います。臣は久しく顕官を忝なくし、恩沢を蒙っておりながら、その文辞は劣り道理は拙うございます。ただ聖明なる陛下の寛恕を請い願う次第です。(2) (03)二年(999)春正月、入閣の儀のとき、右司諫の孫何が上奏した。―― 六卿に職分があるのは国を動かす根本です。吏部は功績を弁じて人材を育て、兵部は兵車を選んで防備に備え、戸部は版図を正して財貨を増やし、刑部は規律を守って暴圧を誅し、礼部は神祇を祀って賢俊を選び、工部は宮室を繕い堤防を修めます。六職が揃うことで天下の事は備わります。ですから周の会府や漢の尚書は、庶政の根本を掌り、百司の綱紀を統べておりました。〔尚書の〕令と朴は属官を率い、丞と郎は職務を分担し、二十四司は燦然と中心を巡り、郎中と員外郎は曹(中央官庁の属官)を分かち持ち、主事と令史はその事務を承けております。四海九州がいかに大きいとはいえ、網に綱(おおづな)があるようなものです。 唐も盛時にあっては、利と権と分別し、使職を作り、軍需の十全を求めることはありませんでした。玄宗に驕りの心が萌してからというもの、徴税は広く行われているのに、国費は十分でなくなりました。そこで蕭景・楊釗は始めて地官(戸部)として度支のことを受け持ちました。また宇文融は租調地税使となり、始めて利潤の源を開き、禍の階(きざはし)を開いたのです。肅宗・代宗の世になると、有司の職はすべて廃れ、利益について発言する臣が荒れ狂いました。かくして叛乱が相継ぎ、国費は足らず、戦争の日々に追われ、国費は切迫し、時の急迫を救うため、ついに権宜に裁断するようになったのです。五代はわずかの間のこととて、これらについて考える暇もありませんでした。 今、国家は〔太祖・太宗の〕二聖が相承け、軍隊は用いられず、太平の世となりました。国家に綱紀を通すのはこの時にあります。なすべきことは、三部の使額を六卿に還し、戸部尚書一人を慎重に選び、塩鉄使のことを掌らせ、金部郎中とその員外郎に分担させます。また、戸部内の侍郎二人に度支使と戸部使の職務を分担させ、各々該当官庁の郎中と員外郎に職務を分担させます。そうすれば三司使から判官まで、除き去るとはいえ、実際には除かないようなものです。そこで〔都省の〕左右司の郎中と員外郎に帳簿を管理させ、分けて違反を審査させれば、決まった職責があることになります。規定が定まれば、厳酷な税の取り立てはなくなり、精詳熟達の名を得られ、『周官』や唐の方式を復活させることができましょう。これは難しいことではありません。ただ陛下が実行なさればよろしいのです。(3) 何はこれ以前、五議について献上していた。――曰く、「第一は、軍略のある儒臣を選び兵を統べさせること。第二は、世々俸禄を受ける家のものには太学で学問をさせ、寒門の士は州郡に推薦させ、自薦のために詩文や礼物を送るのを禁ずること。第三は、制科を復活させること。第四は、郷飲酒の礼を行うこと。第五は、有能なものに官を授け、恩恵で官を進めないこと。」上は疏を見て喜んだ。 (04)三年(1000)冬十月、黄州知事の王禹偁が上奏した。―― 臣は盛時に際会し、宮中に身を忝なくしております。およそ見聞するところがあれば、みな上奏しなければなりません。しかし発言が災異に関わり、事柄が機密に渡りるとき、もし直言すべきときでなければ、禁諱に触れる恐れがあります。今、敢えて〔陛下の〕耳に逆らい、我が身の利害を考えずに申し述べたいと思います。 臣の管轄州において、去年十一月、州城南方の長圻村で二匹の虎が夜中に戦い、一匹の虎が死に、〔生き残った方が〕その半ばを食らうということがありました。当時、すぐにでも密奏しようと思いましたが、陛下のお車が北征に立たれたときでもあり、また吉祥でもなかったので、陣中に報告し難く、臣はただ盗賊を防ぎ、軍民を労ることに精力を費やしておりました。また今年の八月十三日と十四日の夜、多くの鶏が突如として鳴き始め、今に至るまで、夜になれば鳴き止むことがありません。また十月十三日、雷鳴が北西より轟き、真夏日と変らぬ状態でした。 臣は謹んで『洪範五行伝』、『春秋』の災異、『史記』の天官書、両『漢書』の五行志と天文志を読み、つぶさに考えてみました。虎は毛虫(毛で覆われた獣)で、〔五行の〕金に属すといいます。金が本性を失えば毛虫の妖となり、また虎が相食めば、その年は大飢饉にあたると言います。鶏は羽虫(羽のはえた獣)で、〔五行の〕火に属すといいます。火が本性を失えば羽虫の妖となり、また鶏が夜に鳴けば、戦争に関わるとも言います。古人が「鶏が夜に暴れるのを聞いた」というのがそれです。雷は震で、〔五行の〕木に属すといいます。木が本性を失えば冬雷の妖となり、また雷が鳴った大地は飢饉になると言います。これらはみな儒学の書から得たもので、禁書によったものではありません。しかしこれらは数年の後に的中することもあれば、結局、当たらない場合もあります。つまりは臣下は隠すことなく、帝王は全て知り、徳を修めて天の心に答え、予め困難に備えを設けておかねばなりません。ですから『詩』に「天の怒りを畏れ、敢えて戯予(たわむれ)をなさず」とあり、『易』に「天文を観て、以て時変を察する」とあります。 ただ咸平元年、彗星が現れたとき、呂端らは臣に「避位表」を作らせましたが、そのとき臣は仔細に申し上げました。――「彗星が〔二十八宿の〕虚と危の間に現れましたが、それは斉の土地に当たります。何卒、青斉の地(山東から呂寧)に備えを設け、天の戒めに答えられますように」と。端らはみな納得しましたが、その後、どのような備えをしたのかは存じません。臣も言路の職責(諫言を事とする職務)でなかったので、敢えて他官の職を侵しませんでした。去年、夷狄が国境を侵したとき、果して斉の地に入りました。これは天が星々の動きによって人に知らせたもので、人がそれに気付かなかったのです。端は既に亡くなりましたが、李沆以下はみな臣の言葉を知っております。今、黄州にこの災祥がありました。以前のように黙っておくわけには参りません。妖が徳にかなわず、結局、陛下の聖明を累わせることがなかったとしても、事変に遭遇して敢えて申し上げるのは、忠誠直実によるものです。 今年、稲はすこし実りがよく、目下(4)〔飢饉の〕恐れはありません。しかし天の思し召しは他の時にあるかも知れません。先に処置を施しておかなければなりません。陛下におかれましては、臣の拙直を恕し、臣が愚忠を察し、淮川流域に飢饉の備えをなされますことを願います。もし災祥が訪れずとも、なんの備えもないよりはましです。 臣がまた思いますには、古代の循吏の政事は神霊に感応したものです。宋均は猛虎が〔その徳を畏れて〕河を渉り〔均の地から去り〕ましたが、臣は虎が相食みました。魯恭は雉が〔その徳を慕って〕桑に集まり馴れ親しみましたが、臣は多く鶏が夜に鳴きました。百里嵩はその車の通るところ〔天に感応して〕慈雨が降り〔旱害で苦しむ人々に恵みをもたらし〕ましたが、臣は冬に雷鳴が轟きました。これらはいずれも臣の政事に功績がなく、施政に和を失っているからです。まさに刑罰に処さるべきでありますから、みずからを弾劾する次第です。また〔この上奏は、〕他者の上奏に比べましても、道理に暗いものがあり〔、聖聴を犯すことになったこと、僭越極まりないことにござい〕ます。(5) 帝は疏を受け取るとうなだれた。 〔注〕 (1)国費は足り:原文「国用未足」。『国朝諸臣奏議』巻145(上眞宗論軍國大政五事)の「国用亦足」により改正。 (2)以上、『河東集』巻10(上言時政表)参照。 (3)以上、『皇朝文鑑』巻43(論官制)参照。 (4)目下:原文「臣下」。『国朝諸臣奏議』巻37(上眞宗論黄州虎鬥鷄鳴冬雷之異)より改める。 (5)以上、〔〕内は同上書により増補したもの。
https://w.atwiki.jp/internetkyogakusys/pages/443.html
十八史略 昭烈皇帝 2011-10-29 09 56 08 | 十八史略 昭烈皇帝諱備、字玄、漢景帝子中山靖王勝之後。有大志。少言語、喜怒不形。身長七尺五寸。垂手下膝、顧自見其耳。 蜀中傳言、曹丕簒立、帝已遇害。於是漢中王、發喪制服、諡曰孝愍皇帝。夏四月、即帝位於武擔之南、大赦、改元章武。 以諸葛亮爲丞相、許靖爲司徒。 立宗廟、袷祭高皇帝以下。 立夫人呉氏爲皇后、子禪爲皇太子。 昭烈皇帝諱(いみな)は備、字(あざな)は玄徳。漢の景帝の子の中山靖王勝の後(のち)なり。大志有り。言語少なく、喜怒形(あら)わさず。身の長(たけ)七尺五寸。手を垂るれば膝より下り、顧みれば自ら其の耳を見るという。 蜀中伝えて言う、曹丕簒立(さんりつ)して、帝已に害に遇えりと。是(ここ)に於いて漢中王、喪を発し服を制し、諡(おくりな)して孝愍皇帝(こうびんこうてい)と曰う。夏四月、帝位に武担の南に即き、大赦し、元を章武と改む。 諸葛亮を以って丞相と為し、許靖(きょせい)を司徒と為す。 宗廟を立てて、高皇帝以下を袷祭(こうさい)す。 夫人の呉氏を立てて皇后と為し、子の禅を皇太子と為す。 諱 生きているときは名といい、死んでからいみなと言う。字 男子が成人後につける別名。 諡 死後にその徳を称えて贈る称号。 簒立 帝位を奪って代り立つ。 服を制し 喪に服すこと。 武擔 武担山。袷祭 あわせ祭る、合祀。 昭烈皇帝は諱は備、字は玄徳。漢の景帝の子の中山に封ぜられた靖王勝の後裔である。大志を抱き、口数少なく、喜怒を表さなかった。身の丈七尺五寸、手を垂れると膝より下まで届き、ふり返ると自分の耳が見えたといわれる。 曹丕が帝位を奪って立ち、献帝は殺害されたとの噂が伝わった。漢中王劉備は国中に喪を発して自ら服喪して、献帝に孝愍皇帝と諡を贈った。この夏の四月、漢中王は武担山の南で帝位に即き(221年)大赦を行い、元号を章武とした。 また諸葛亮を丞相に、許靖を司徒に任命した。 宗廟を立てて、高祖以下の皇帝をあわせ祭った。 夫人の呉氏を皇后に立て、子の禅を皇太子とした。 十八史略 車載斗量あげて数うべからず。 2011-11-01 10 57 43 | 十八史略 魏主丕、姓曹氏、沛國譙人也。父操爲魏王、丕嗣位。首立九品官人之法。州郡皆置九品中正、區別人物、第其高下。丕既簒漢、自立爲帝、追尊操爲太祖武皇帝、改元黄初。 帝恥關羽之没、自將伐孫權。權求和不許。權遣使於魏。魏封權爲呉王。魏主問呉使趙咨曰、呉王頗知學乎。咨曰、呉王任賢使能、志存經略。雖有餘閑博覧書史、不效書生尋章摘句。魏主曰、呉難魏乎。咨曰、帶甲百萬、江・漢爲池。南難之有。曰、呉如大夫者幾人。咨曰、聰明特達者、八九十人。如臣之比、車載斗量不可勝數。 魏主丕、姓は曹氏、沛国(はいこく)譙(しょう)の人なり。父の操、魏王と為り、丕位を嗣(つ)ぐ。首として九品もて人を官するの法を立つ。州郡皆九品の中正を置き、人物を区別して、其の高下を第(つい)でしむ。丕既に漢を簒(うば)い、自ら立って帝と為り、操を追尊して太祖武皇帝と為し、黄初(こうしょ)と改元す。 帝、関羽の没せしを恥ぢ、自ら将として孫権を伐つ。権、和を求むれども許さず。権、使いを魏に遣わす。魏、権を封じて呉王と為す。魏主、呉の使いの趙咨(ちょうし)に問うて曰く、「呉王、頗る学を知れるか」と。咨の曰く、「呉王は賢を任じ能を使い、志経略に存す。余閑有れば博く書史を覧ると雖も、書生の章を尋ね句を摘むに效(なら)わず」と。魏主曰く、「呉は魏を難(はばか)るか」と。咨の曰く「帯甲百万、江・漢を池と為す。何の難ることか之有らん」と。曰く、「呉に大夫の如き者幾人かある」と。咨の曰く「聡明特達の者、八九十人あり。臣の如きは、車に載せ斗もて量(はか)るとも、勝(あ)げて数う可からず」と。 譙 安徽省毫県。 九品中正 官名、各地の人物を九等に評価して推挙した。 等 順序を定める、格付け。 頗る すこし、かなり。 難るか 憂え、恐れる。 帯甲 甲冑をつけた兵士。 江・漢 揚子江と漢水。 勝 ①あげる、たえる、こらえる、できる、すぎる、しのぐ、のる、あげて、ことごとく②かつ、まさる、すぐれる。 魏の国主丕、姓は曹氏、沛国譙のひとなり。父の操、魏王となり、丕が位を嗣いだ。まず手始めに官吏登用の九品官人法を定めた。それは州、郡に九品中正官を置き、人物の優劣を区別たもので、高下の順序をつけて任用することとした。丕はやがて漢の帝位を奪って、みずから皇帝となり、父の操を追尊して太祖武皇帝とし、年号を黄初(こうしょ)と改元した。(220年) 昭烈帝劉備は関羽が呉軍に討たれたことを悔み、自ら兵をひきいて孫権を伐ちに出発した。孫権は和睦を求めたが容れられず、魏に使いを遣って救いを求めた。魏はそれを受けて、孫権を呉王に封じた。このとき、曹丕は呉の使いの趙咨に問いかけた。「呉王は少しは学問をなされるかな。」咨は答えて「呉王は賢者を登用して有能の者を使い、その志すところは天下統治にありますから、余暇には歴史書を読みますが、書生が一字一句を追求するようなことはございません。」また、「呉は魏を恐れているか」「甲冑をつけた兵士が百万、揚子江・漢水が濠となっております、なにを恐れることがありましょう。」さらに、「貴公ほどの人はどのくらい居られるか」「聡明で特出した者が八、九十人おります。わたくし程度の者なら、車に積み、ますで計ってもすべて数え切れないくらいであります。」 十八史略 昭烈帝劉備崩ず 2011-11-03 17 27 59 | 十八史略 帝自巫峽至夷陵、立數十屯、與呉軍相拒累月。呉將陸遜、連破其四十餘營。帝夜遁。 魏主責呉侍子。不至。怒伐之。呉王改元黄武、臨江拒守。 三年、夏四月、帝崩。在位三年。改元者一、曰章武。諡曰昭烈皇帝。太子禪即位。封亮爲武郷侯。太子既立。是爲後皇帝。 帝、巫峽(ふきょう)より夷陵(いりょう)に数十屯を立て、呉軍と相拒(ふせ)ぐこと累月(るいげつ)、呉将陸遜、連(しき)りにその四十余営を破る。帝、夜遁(の)がる。 魏主、呉の侍子(じし)を責む。至らず。怒って之を伐つ。呉王元(げん)を黄武と改め、江に臨んで拒(ふせ)ぎ守る。 三年夏四月、帝崩ず。在位三年。元を改むる者(こと)一、章武と曰う。諡(おくりな)して昭烈皇帝と曰う。太子の禅、位に即く。亮を封じて武郷侯と為す。太子既に立つ。是を後皇帝と為す。 屯 駐屯地。 連 しきりに、つづけて。 侍子 自分の子を差し出して天子に仕えさせる一種の人質。 昭烈帝劉備は、巫峽から夷陵にかけて数十の陣営を築いて、呉軍と対峙すること幾月かにおよんだ。呉の将陸遜が続けざまに四十余りを撃ち破ったので、帝は夜にまぎれて逃げ帰った。 魏の曹丕は孫権が約束の人質を出さないのを責めたが、遂に怒って呉を攻めた。呉王孫権は元号を黄武と改め、揚子江に臨んで魏軍と対峙した。 漢の章武三年(223年)夏四月、昭烈帝が崩じた。改元は一度で章武である。諡を昭烈皇帝という。太子の禅が位を継ぎ、諸葛亮を武郷侯に封じた。太子が即位した、これが後皇帝(こうこうてい)である。 十八史略 昭烈皇帝の遺言 2011-11-05 09 16 23 | 十八史略 嗣子輔く可くんば之を輔けよ 後皇帝名禪、字公嗣、昭烈皇帝子也。年十七即位。改元建興。丞相諸葛亮受遺詔輔政。昭烈臨終謂亮曰、君才十倍曹丕。必能安國家、終定大事。嗣子可輔輔之。如其不可、君可自取。亮涕泣曰、臣敢不竭股肱之力、效忠貞之節、繼之以死。亮乃約官職、修法制、下教曰、夫參署者、集衆思、廣忠也。若遠小嫌、難相違覆、曠闕損矣。亮乃遣芝、使呉修好。芝見呉王曰、蜀有重險之固。呉有三江之阻。共爲脣齒、進可兼并天下、退可鼎足而立。呉遂絶魏專與漢和。 後皇帝、名は禅、字は公嗣(こうし)、昭烈皇帝の子なり。年十七にして位に即く。元を建興と改む。丞相の諸葛亮、遺詔を受けて政を輔(たす)く。昭烈、終りに臨んで亮に謂って曰く、「君の才は曹丕に十倍せり。必ず能く国家を安んじ、終(つい)に大事を定めん。嗣子輔く可くんば之を輔けよ。如(も)し其れ不可ならば、君、自ら取る可し」と。亮、涕泣(ていきゅう)して曰く、「臣敢えて股肱(ここう)の力を竭(つく)し、忠貞の節を效(いた)し、之に継ぐに死を以ってせざらんや、」と。亮乃ち官職を約し、法制を修め、教えを下して曰く、「夫(そ)れ参署は、衆思(しゅうし)を集め、忠益を広むるなり。若し小嫌(しょうけん)を遠ざけ、相違覆(いふく)することを難(はばか)らば、曠闕(こうけつ)して損あらん、」と。亮、乃ち芝(とうし)を遣わし、呉に使いして好(よしみ)を修めしむ。芝、呉王に見(まみ)えて曰く、「蜀に重険(じゅうけん)の固(かため)有り。呉に三江の阻(そ)有り。共に唇歯(しんし)を為さば、進んでは天下を兼并(けんぺい)す可く、退いては鼎足(ていそく)して立つ可し、」と。呉、遂に魏と絶(た)ち、専ら漢と和す。 敢不 反語、(敢えて・・せざらんや)と読む。不敢は否定(敢えて・・せず)。 股肱 ももとひじ、全身。 参署 合議制、大勢が参加してその結果に署名する。 衆思 多くの意見。 忠益 忠言の益。 小嫌 些細な気がね。 違覆 異見を述べ、繰り返し審議すること。 曠闕 曠は空しい、闕は欠けること、ないがしろになること。 三江 呉淞・銭塘・浦陽。 唇歯 親密な間柄。 兼并 併せもつ。 鼎足 三本足、蜀、呉、魏が並び立つ。 後皇帝、名は禅、字は公嗣といい、昭烈皇帝の子である。十七歳で位に即き、年号を建興と改めた。丞相の諸葛亮は昭烈皇帝の遺言を受けて政治を補佐した。昭烈帝の臨終の際、亮に「君の才能は魏の曹丕に比べて十倍にも勝る。国家を安泰にし、天下統一の大事をなすことができよう。補佐するに足る器量が禅にあるなら、援けてやって欲しい、もしその甲斐が無いようなら、君自ら天下を取ってくれ」と言った。亮は涙を流して、「私は何としても臣下として全力をもって、忠節を尽し、ついには一命をも投げ出さずにおられましょうか」と申し上げた。こうして亮はまず官職を簡素にし、法制を改め、群臣に、「そもそも参署とは衆知を集め、忠言の益を広めるためのものである。もし些細な気兼ねから異議をさしはさむことを憚り審議を繰り返すことを厭えば、天下の政務はなおざりになり、ひいては国の大損失となるであろう。」と訓示した。ついで諸葛亮は芝を使者として呉に派遣し、好(よし)みを通じさせた。芝は呉王に面会して、「わが蜀にはいく重もの天然の要害があります。貴国には呉淞・銭塘・浦陽の三江の険阻があります。共に唇と歯のような切っても切れぬ間柄となれば、進んでは天下を併せ持つことが出来ましょう。退いては鼎の足のように三国が並び立つことができます。」と言上した。呉王は魏と絶ち、もっぱら蜀漢と親しく交わった。 十八史略 猛獲七縦七禽 2011-11-08 11 04 26 | 十八史略 魏主以舟師撃呉。呉列艦于江。江水盛長。魏主臨望、歎曰、我雖有武夫千羣、無所施也。於是還師。 南夷畔漢。丞相亮往平之。有孟獲者。素爲夷漢所服。亮生致獲、使觀營陣、緃使更戰。七緃七禽、猶遺獲。獲不去曰、公天威也。南人不復反矣。 魏主又以舟師臨呉。見波濤洶湧、歎曰、嗟乎、固天所以限南北也。 魏主丕殂。僭位七年。改元者一、曰黄初。諡曰文皇帝。子叡立。是爲明帝。叡母被誅。丕嘗與叡出獵、見子母鹿。既射其母、使叡射其子。叡泣曰、陛下已殺其母。臣不忍殺其子。丕惻然。及是爲嗣即位。 處士管寧、字幼安。自東漢末、避地遼東三十七年。魏徴之。乃浮海西歸。拝官不受。 魏主舟師(しゅうし)を以って呉を撃つ。呉、艦を江に列す。江水盛長す。魏主、臨望(りんぼう)し、歎じて曰く、我、武夫(ぶふ)千群有りと雖も、施す所無きなり、と。是(ここ)に於いて師を還す。 南夷、漢に畔(そむ)く。丞相亮、往(ゆ)いて之を平らぐ。孟獲という者有り。素より夷漢(いかん)の服する所と為る。亮、獲を生致(せいち)し、営陣を観(み)しめ、縦(ゆる)して更に戦わしむ。七縦七禽(しちしょうしちきん)、猶獲を遣(や)る。獲、去らずして曰く、公は天威なり。南人復た反せず、と。 魏主、又舟師を以って呉に臨む。波濤の洶湧(きょうよう)するを見て、歎じて曰く、嗟乎(ああ)、固(まこと)に天の南北に限る所以(ゆえん)なり、と。 魏主丕、殂(そ)す。位を僭(せん)すること七年。改元する者(こと)一、黄初と曰う。諡(おくりな)して文皇帝と曰う。子の叡(えい)立つ。是を明帝と為す。叡の母、誅せらる。 丕、嘗て叡と出でて猟し、子母(しぼ)の鹿を見る。既に其の母を射(い)、叡をして其の子を射しむ。叡、泣いて曰く、陛下、已に其の母を殺せり。臣、其の子を殺すに忍びず、と。丕惻然(そくぜん)たり。是(ここ)に及んで、嗣と為り、位に即く。 処士管寧(かんねい)、字は幼安。東漢の末より、地を遼東に避くること三十七年。魏、之を徴(め)す。乃ち海に浮かんで西に帰る。官に拝すれども、受けず。 舟師 水軍、ふないくさ。 夷漢の服する所 夷も漢も共に畏服する。 生致 生け捕り。 七縦七禽 七度解き放って七度捕える。 洶湧 波が逆巻くさま。殂す 死ぬこと。 僭 身分を侵すこと、僭称。 惻然 あわれみ、心を痛めること。処士 仕官していない人。 魏主曹丕が水軍を率いて呉を攻めた。呉は軍船を揚子江に並べてこれを迎えた。折しも揚子江の水かさは増していた。曹丕はそれを見ると、「千隊ものつわものを率いているが、これではどうしようもない」と軍を帰した。 その頃、雲南の族が漢に叛いた。丞相の諸葛亮が出兵してこれを平定したが、猛獲という勇者がおり、族はもとより、漢でもその勇猛ぶりは知れ渡っていた。亮はこの猛獲を生け捕りにして、漢の陣営を見せた後、解き放って再度戦う機会を与えた。七たび解き放って七たびとらえた。なおも行かせようとすると、猛獲はこう言った「公の武威は天賦のものです。南のものは二度と叛きません」と。 その後、曹丕は再び水軍を発して呉に向かったが、又もや逆巻く波に遮られた。嘆息して「ああ、まことにこの揚子江は、天が南と北に天下を分かとうという意志のあらわれであろうか」と言った。 魏主曹丕が病死した(226年)。帝位を僭称すること七年、改元すること一度、黄初といった。文皇帝とおくりなした。子の叡が位に立った。これを明帝という。叡の母は以前に讒言にあって誅殺されていた。 曹丕はある日、叡をつれて猟にでかけ、親子づれの鹿を見つけた。丕がすかさず母鹿を射止めると叡に向かって子鹿を射るよう命じた。叡は泣いて訴えた「陛下は母鹿を殺しました。私はその子を殺すに忍びません」と。それを聞いて丕は悲痛な思いをした。こうして叡が後嗣ぎとなり、位に即いたのである。 民間の士に管寧という者がいた。字を幼安といい、東漢の末から、乱世を避けて、遼東の地に居ること三十七年もの間に及んだ。曹丕がこれを招いたところ、海路西に向かって魏に帰ってきたが、士官を固辞して受けなかった。 十八史略 出師の表 2011-11-10 14 39 17 | 十八史略 漢丞相亮、率諸軍北伐魏。臨發上疏曰、今天下三分、州疲弊。此危急存亡之秋也。宜開張聖聽、不宜塞忠諌之路。宮中・府中、倶爲一體。陟罰臧否、不宜異同。若有作姦犯科及忠善者、宜付有司論其刑賞、以昭平明之治。親賢臣遠小人、此先漢所以興隆也。親小人遠賢臣、此後漢所以傾頽也。臣本布衣、躬畊南陽、苟全性命於亂世、不求聞達於諸侯。先帝不以臣卑鄙、猥自枉屈、三顧臣於草廬之中、諮臣以當世之事。由是感激、許先帝以驅馳。先帝知臣謹慎、臨崩、寄以大事。受命以來、夙夜憂懼、恐付託不效、以傷先帝之明。故五月渡瀘、深入不毛。今南方已定、兵甲已足。當奬率三軍、北定中原。興復漢室、還于舊都、此臣所以報先帝而忠陛下之職分也。遂屯漢中。 漢の丞相亮、諸軍を率いて、北のかた魏を伐つ。発するに臨んで、上疏(じょうそ)して曰く、「今、天下三分し、益州疲弊せり。此れ危急存亡の秋(とき)なり。宜しく聖聴を開帳すべく、宜しく忠諌(ちゅうかん)の路を塞ぐべからず。宮中・府中は倶(とも)に一体たり。臧否(ぞうひ)を陟罰(ちょくばつ)するに、宜しく異同あるべからず。若し、姦を作(な)し、科を犯し、及び忠善の者有らば、宜しく有司に付して、その刑賞を論じ、以って平明の治を昭(あきら)かにすべし。賢臣を親しみ、小人を遠ざくるは、此れ先漢の興隆せし所以なり。小人を親しみ、賢人を遠ざくるは、此れ後漢の傾頽(けいたい)せし所以なり。臣、本(もと)布衣(ふい)、南陽に躬畊(きゅうこう)し、性命を乱世に苟全(こうぜん)して、聞達(ぶんたつ)を諸侯に求めず。先帝、臣が卑鄙(ひひ)なるを以ってせず、猥(みだ)りに自ら枉屈(おうくつ)して、臣を草廬(そうろ)の中に三顧し、臣に諮(と)うに当世の事を以ってす。是に由(よ)って感激し、先帝に許すに駆馳(くち)を以ってす。先帝、臣の謹慎なるを知り、崩ずるに臨み、寄するに大事を以ってせり。命を受けてより以来、夙夜(しゅくや)憂懼(ゆうく)し、付託の效(こう)あらずして、以って先帝の明を傷(そこな)わんことを恐る。故に五月、瀘(ろ)を渡り、深く不毛に入る。今、南方、すでに定まり、兵甲すでに足る。当(まさ)に三軍を奨率(しょうそつ)して、北のかた中原を定むべし。漢室を興復し、旧都を還(かえ)さんことは、此れ臣が先帝に報いて陛下に忠なる所以の職分なり」と。遂に漢中に屯(たむろ)す。 上疏 書をたてまつること。 聖聴を開帳 臣下の言葉をよく聴くこと。 忠諌 忠義の諫言。 宮中・府中 宮中は禁中・府中は幕府。 臧否 善悪。 陟罰 陟は登る、褒賞と罰則。 先漢 文帝・景帝の治世。 後漢 桓帝・霊帝の治世。 布衣 無官、庶人。 躬畊 みずから耕す。 苟全 とりあえず全うする。 聞達 世間に知れること。 卑鄙 身分が低いこと。 枉屈 曲げ、屈めること。 草廬 粗末ないおり。 三顧 三度訪ねる、目上の人が礼を尽くすこと。 駆馳 奔走すること。 夙夜 一日中。 憂懼 憂え恐れること。 效 効に同じ。 瀘 瀘水。 兵甲 兵は武器、甲はよろい。 奨率 奨帥、励まし率いる。 漢の丞相亮がいよいよ三軍を率いて魏を伐つことになった。出発に臨んで後皇帝に書(出師の表)を奉った。(227年) 「今、天下三分し、わが益州は最も疲弊しており、まさに危急存亡のときであります。陛下にはよく臣下の言葉をお聞きになりまして、忠義の諫言にはどうか路を閉ざされませぬようなされませ。 宮廷と政府とは一体であります。善悪の賞罰には違いがあってはなりません。もし悪事を行い罪を犯す者、あるいは忠義善良な者は、役人に命じて刑罰、褒賞を決めさせ、政治の公平正明を天下に示すべきであります。 賢臣を近づけ小人を遠ざけたことが先漢の興隆した原因でありますし、小人を近づけ賢臣を遠ざけたことこそ、後漢が衰亡した原因であります。 私はもと無官の平民で、南陽にみずから田を耕し、この乱世にただ一命を大事にと、諸侯に仕えての栄達に背を向けて参りました。先帝は私が卑しい身分であるにも拘わらず、自ら高貴な身を枉げられて、三度もむさくるしい庵を訪れられて、当世の急務について下問されました。これがために感激して先帝のために奔走することを誓ったのであります。 先帝は私がつつしみ深いことをお認めになり、ご臨終の際、私に国家の大事を託されました。ご遺命を受けてよりこのかた、日夜心を砕き、ご信任に背いて先帝の聖明を汚すようなことがないかと恐れておりました。それ故五月、瀘水を渡って、深く不毛の地に入ったのでございます。 今、南方はすでに平定され、軍備も整いました。三軍を励まして、北のかた中原の地を平定すべきと考えます。漢の王室を復興し、旧都長安にふたたび還ることこそ私が先帝の恩に報い、陛下に忠誠を尽くすためのつとめであります。」こうして漢中に兵を進めて駐屯した。 十八史略 死して後已まん 2011-11-15 09 10 49 | 十八史略 後の出師の表 明年、率大軍攻祁山。戎陣整齊、號令明肅。始魏以昭烈既崩、數歳寂然無聞、略無所備。猝聞亮出、朝野恐懼。於是天水・安定等郡、皆應亮、關中響震。魏主如長安、遣張郃拒之。亮使馬謖督諸軍戰于街亭。謖違亮節度。郃大破之。亮乃還漢中。已而復言於漢帝曰、漢賊不兩立、王業不偏安。臣鞠躬盡力、死而後已。至於成敗利鈍、非臣所能逆覩也。引兵出散關、圍陳倉。不克。 明年、大軍を率いて、祁山(きざん)を攻む。戎陣(じゅうじん)整斉、号令明肅(めいしゅく)なり。始め魏、昭烈既に崩じ、数歳寂然として聞くこと無きを以って、略(ほぼ)備うる所無し。猝(にわか)に亮の出づるを聞き、朝野恐懼(きょうく)す。是(ここ)に於いて天水・安定等の郡、皆亮に応じ、関中響震(きょうしん)す。魏主、長安に如(ゆ)き、張郃(ちょうこう)をして之を拒(ふせ)がしむ。亮、馬謖(ばしょく)をして諸軍を督(とく)し、街亭に戦わしむ。謖、亮の節度に違(たが)う。郃大いに之を破る。亮乃ち関中に還る。已(すで)にして復(また)漢帝に言(もう)して曰く、「漢と賊とは両立せず、王業は偏安(へんあん)せず。臣、鞠躬(きくきゅう)して力を尽し、死して後に已(や)まん。成敗利鈍(りどん)に至っては、臣が能く逆(あらかじ)め覩(み)る所に非ざるなり」と。兵を引いて散関より出で、陳倉を圍(かこ)む。克たず。 祁山 甘粛省西和県。 明肅 明らかでだらけないこと。 響震 驚き騒ぐこと。 天水・安定 甘粛省の一地名。 節度 指図。 偏安 辺鄙な地に安んじる。 鞠躬 身を屈め敬う、転じて一事に専念して顧みる余裕がないこと。利鈍 鋭いかなまくらか、うまくいくかいかないか。 逆覩 逆はあらかじめ、予知すること 翌年、諸葛亮は大軍を率いて魏の祁山を攻めた。漢軍の陣営は整然、号令は厳かで明らかであった。当初は魏では蜀の昭烈帝が崩御してから数年間ひっそり静まりかえっていたので、備えをしていなかった。そこに突然亮が攻め込んだという知らせに、朝廷はもとより地方でも大いに恐れおののいた。かくて天水・安定等の諸郡は、皆亮に呼応したので関中は大騒ぎになった。 魏主曹叡は長安に赴き、張郃に防禦を命じた。亮は馬謖に諸軍を指揮させて街亭で戦わせた。ところが馬謖は亮の指図に背いたので張郃のために散々に打ち破られた。亮は残兵をまとめて関中に帰った。そしてまた帝に書を奉って(後の出師の表)「漢と賊(魏)とは両立せず、王業は僻地蜀に安んじていて成るものではありません。臣亮、ただひたすら力を尽して、死して後已まんの覚悟であります。もとより勝敗成否は臣の予知するところではありません」と申し上げた。そして兵をひきいて散関(陜西省宝鶏県)から打って出て、陳倉(同)を囲んだが、勝つには至らなかった。 十八史略 木牛流馬 2011-11-17 10 36 05 | 十八史略 呉王孫權、自稱皇帝於武昌、追尊父堅、爲武烈皇帝、兄策爲長沙桓王。已而遷都建業。 蜀漢丞相亮、又伐魏圍祁山。魏遣司馬懿督諸軍拒亮。懿不肯戰。賈詡等曰、公畏蜀如虎。奈天下笑何。懿乃使張郃向亮。亮逆戰。魏兵大敗。亮以糧盡退軍。郃追之、與亮戰、中伏弩而死。亮還勸農講武、作木牛流馬、治邸閣、息民休士、三年而後用之。悉衆十萬、又由斜谷口伐魏、進軍渭南。魏大將軍司馬懿引兵拒守。 呉王孫権、自ら皇帝を武昌に称し、父堅を追尊して武烈皇帝と為し、兄策を長沙桓王(ちょうさかんおう)と為す。已(すで)にして都を建業に遷(うつ)す。 蜀漢の丞相亮、また魏を伐ち、祁山(きざん)を囲む。魏、司馬懿(しばい)をして、諸軍を督して、亮を拒(ふせ)がしむ。懿、肯(あえ)て戦わず。賈詡(かく)等曰く、「公、蜀を畏(おそる)ること虎の如し。天下の笑いを奈何(いかん)せん」と。懿、乃ち張郃(ちょうこう)をして亮に向かわしむ。亮、逆(むか)え戦う。魏の兵、大いに敗る。亮、糧の尽くるを以って軍を退く。郃、之を追い、亮と戦い、伏弩に中(あた)って死す。亮、還って農を勧め武を講じ、木牛流馬を作り、邸閣を治め、民を息(やす)め士を休め、三年にして後に之を用う。衆十万を悉(つ)くして、又斜谷口(やこくこう)より魏を伐ち、進んで渭南(いなん)に軍す。魏の大将軍司馬懿、兵を引いて拒守(きょしゅ)す。 木牛流馬 牛馬をかたどった兵糧運搬の仕掛け。 邸閣 食糧庫。 斜谷口 陜西省褒城県にある。 呉王の孫権は、武昌にて自ら皇帝を称し、父孫堅に武烈皇帝の称を追尊し、兄孫策を長沙桓王として建業に遷都した。 蜀漢の丞相亮は再び魏を伐って祁山を包囲した。魏は司馬懿を派遣し諸軍を督励して亮を防いだが敢えて戦わなかった。部将の賈詡等が「公は蜀を虎のように畏れておられるが、天下の物笑いになるのをいかがいたしますか」と責めたので張郃を遣って諸葛亮に向かわせた。亮はこれを迎え撃って魏軍を散々に破った。その後亮は糧食が尽きたので、兵を引いた。張郃はその機に乗じて亮を追撃したが伏兵の弩(いしゆみ)に射られて死んだ。 諸葛亮は蜀に還って農業を奨励し、武術を習わせ、木牛流馬と呼ぶ兵糧を運ぶ仕掛け車を作り、糧秣倉庫を造り、民と兵士を休息させて三年後に再び動員した。総勢十万をくり出し斜谷口から魏に侵攻し、渭水の南に布陣した。魏の大将軍司馬懿が兵を率いて守り防いだ。 十八史略 死せる諸葛生ける仲達を走らしむ 2011-11-19 09 29 25 | 十八史略 亮以前者數出、皆運糧不繼、使己志不伸、乃分兵屯田。耕者雜於渭濱居民之、而百姓安堵、軍無私焉。亮數挑懿戰。懿不出。乃遣以巾幗婦人之服。亮使者至懿軍。懿問其寢食及事煩簡、而不及戎事。使者曰、諸葛公夙興夜寐、罰二十以上皆親覽。所噉食、不至數升。懿告人曰、食少事煩、其能久乎。 亮病篤。有大星、赤而芒、墜亮營中。未幾亮卒。楊儀整軍還。百姓奔告懿。懿追之。姜維令儀反旗鳴鼓、若將向懿。懿不敢逼。百姓爲之諺曰、死諸葛、走生仲達。懿笑曰、吾能料生、不能料死。 亮、前者(さき)に数しば出でしが、皆、運糧継がず、己(おの)が志をして伸びざらしめしを以って、乃ち兵を分って屯田す。耕す者、渭浜(いひん)居民の間に雑(まじ)り、而も百姓(ひゃくせい)安堵し、軍に私(わたくし)無し。亮、しばしば懿に戦を挑む。懿、出でず。乃ち遣(おく)るに巾幗(きんかく)婦人の服を以ってす。亮の使者、懿の軍に至る。懿、其の寝食及び事の煩簡を問うて、戎事(じゅうじ)に及ばず。使者曰く、「諸葛公、夙(つと)に興(お)き、夜に寝(い)ね、罰二十以上は皆親(みずか)ら覧(み)る。噉食(たんしょく)するところは、数升に至らず」と。懿、人に告げて曰く、「食少なく事煩わし、其れ能(よ)く久しからんや」と。 亮、病篤(あつ)し。大星有り、赤くして芒あり、亮の営中に墜つ。未だ幾(いくばく)ならずして亮卒す。(ちょうし)楊儀、軍を整えて還る。百姓奔(はし)って懿に告ぐ。懿之を追う。姜維(きょうい)、儀をして旗を反(かえ)し鼓を鳴らし、将(まさ)に懿に向かわんとするが若(ごと)くせしむ。懿敢えて逼(せま)らず。百姓之が為に諺(ことわざ)して曰く、「死せる諸葛、生ける仲達を走らしむ」と。懿笑って曰く、「吾能(よ)く生を料(はか)れども、死を料ること能わず」と。 運糧 兵糧の運搬。 渭浜 渭水の水辺。 屯田 兵士がその土地で耕作しながら駐留すること。 巾幗 婦人の髪飾り。 戎事 軍事。 噉食 噉は食らう、食事。 数升 漢の升は合と同じで日本の勺より少し多い。 丞相の次官。 仲達 司馬懿のあざな。 諸葛亮はこれまで何回も出兵しながら、いつも食糧の補給がうまくいかず、目的を達せられなかったので、今度は兵士を手分けして屯田させることにした。耕作する兵士は渭水の水辺の住民の中に混じったが、百姓たちは安心して生活し、兵士の方にも私欲を満たそうとする者がいなかった。 亮は繰り返し戦いを挑んだが、司馬懿は討って出ようとしなかったそこで亮は婦人服と髪飾りを贈って懿を挑発した。亮の使者が魏の軍営にきたとき、懿は亮の寝食、仕事ぶりなど日常の生活について尋ね、軍事には触れなかった。使者は「公は朝早くから起き、夜更けてから寝みます。杖二十ほどの軽い罪でもご自身で裁かれます。食事は日に数升(勺)しか召し上がりません」と答えた。懿は傍らの者に言った「食が細く、多忙とあれば、そう長い命ではあるまい」 果たして亮は病に罹った。ある夜のこと、赤く大きなほうき星が亮の営中に墜ちた。その後間もなく諸葛亮は亡くなった。次官の楊儀は軍をまとめて撤退にかかった。土地の者が急いで懿に通報し、懿は追撃にかかった。蜀の陣営では姜維が楊儀に勧めて、旗の向きを変え、太鼓を打ち鳴らして魏軍に反撃するかに見せかけた。懿は追撃を止めて引き上げてしまった。土地の者は「死んだ諸葛亮孔明が生きた司馬懿仲達を退散させた」と評したのを聞いて懿は苦笑して「生きている人間なら予想はできるが、死んだ人間ではどうにもならぬ」と言った。 十八史略 泣いて馬謖を斬る 2011-11-22 12 57 23 | 十八史略 亮嘗推演兵法、作八陣圖。至是懿案行其營壘、歎曰、天下奇材也。亮爲政無私。馬謖素爲亮所知。及敗軍流涕斬之、而卹其後。李平・廖立、皆爲亮所廃廢。及聞亮之喪、皆歎息流涕、卒至發病死。史稱、亮開誠心、布公道。刑政雖峻而無怨者。眞識治之良材。而謂其材長於治國、將略非所長、則非也。初丞相亮、嘗表於帝曰、臣成都有桑八百株、薄田十五頃。子弟衣食自有餘。不別治生以長尺寸。臣死之日、不使内有餘帛、外有贏財、以負陛下。至是卒。如其言。諡忠武。 亮、嘗て兵法を推演(すいえん)して、八陣の図を作る。是(ここ)に至って、懿、其の営塁を案行(あんこう)し、歎じて曰く、「天下の奇材なり」と。 亮政を為すこと私(わたくし)無し。馬謖(ばしょく)素より亮の知る所と為る。軍を敗(やぶ)るに及び、流涕して之を斬り、而(しか)して其の後を卹(あわれ)む。李平・廖立(りょうりゅう)皆亮の廃する所と為る。亮の喪(そう)を聞くに及び、皆歎息流涕(りゅうてい)し、卒(つい)に病を発して死するに至る。史に称す、亮、誠心を開き、公道を布(し)く。刑政(けいせい)、峻(しゅん)なりと雖も而も怨む者無し。真に治(ち)を識るの良材なりと。而して其の材、国を治むるに長じて、将略は長ずる所に非ずと謂うは、則ち非なり。初め丞相亮、嘗て帝に表して曰く、「臣、成都に桑八百株、薄田(はくでん)十五頃(けい)有り。子弟の衣食自(おのずか)ら余り有り。別に生を治めて以って尺寸(せきすん)を長ぜず。臣死するの日、内に余帛(よはく)有り、外に贏財(えいざい)有って、以って陛下に負(そむ)かしめず」と。是(ここ)に至って卒(しゅっ)す。其の言の如し。忠武と諡(おくりな)す。 推演 推し広める、推理演繹。 八陣の図 八種の陣形、魚鱗・鶴翼・長蛇・偃月・鉾矢・方円・衡軛・雁行。 案行 調べてまわる。 史に称す 陳寿の三国志に言う。 薄田 痩せ地。 頃 面積の単位、畝(ほ)の百倍。 帛 絹布。 贏財 余った財産。 亮は嘗て兵法を推し広めて八陣の図をつくった。亮の死後懿はその陣営の跡を調べまわり、感歎して言った「まさに天下の奇才というべきか」と。 亮は政治を行うのに私心を差し挟まなかった。馬謖は日頃亮から厚遇を受けていたが、軍を敗戦に陥らせたときには、涙をのんでこれを斬った。そして残された遺族に手厚い保護を与えた。李平と廖立はともに亮によって罷免されたが、亮の訃報に接すると涙を流して歎き、そのために病を得て死んだほどであった。三国志で「諸葛亮は真心を尽し公平な政治を行った刑罰は厳しかったが、それを怨む者はいなかった。政治の要諦を心得た優れた人物であった」と述べている。しかしさらに「その才は国を治めるにはすぐれているが、将としての智略はいまだしである」と断じているのは不当である。以前丞相亮は後帝に、「臣は成都に桑八百株と、やせ地とはいえ十五頃の田があります。子弟を養うには十分すぎるほどでございます。別に生業を営んで多少の財を得ようとは思いません。臣の死後、家の内外に余分な絹や財産を残して、陛下の信頼を裏切るようなことはございません。」と上奏したことがあった。はたして没した後はそのとおりであった。忠武とおくり名された。 十八史略 司馬懿、曹爽を殺す。 2011-11-29 14 04 52 | 十八史略 漢自丞相亮既亡、蔣琬爲政。楊敏毀琬曰、作事憒憒、不及前人。或請推治敏。琬曰、吾實不如前人、無可推。琬卒。費褘・董允、爲政。公亮盡忠。允卒。姜維與、費褘竝爲政。 魏曹爽驕奢無度。司馬懿殺之。懿爲魏丞相、加九錫不受。爽之黨夏侯覇奔蜀。姜維問之曰、懿得政。復有征伐志否。覇曰、彼營立家門、未遑外事。有鍾士季者。雖少若管朝政、呉・蜀之憂也。 魏司馬懿卒。以其子師爲撫軍大將軍、録尚書事。 呉主殂。諡曰太皇帝。子亮立。 漢費褘、汎愛不疑。降人刺殺之。姜維用事、數出兵攻魏。 漢、丞相亮、既に滅びしより、蔣琬(しょうえん)、政を為す。楊敏、琬を毀(そし)って曰く、「事を作(な)すこと憒憒(かいかい)たり、前人に及ばず」と。或いは敏を推治(すいち)せんと請う。琬曰く、「吾実に前人に如かず、推す可き無し」と。琬卒す。費褘(ひい)・董允(とういん)政を為す。公亮(こうりょう)にして忠を尽くす。允卒す。姜維(きょうい)、費褘と竝びに政を為す。 魏の曹爽(そうそう)驕奢(きょうしゃ)にして度無し。司馬懿(しばい)、之を殺す。懿、魏の丞相と為り、九錫(きゅうしゃく)を加うれども受けず。爽の党の夏侯覇(かこうは)、蜀に奔(はし)る。姜維之に問うて曰く、「懿、政を得たり。復征伐の志有りや否や」と。覇曰く、「彼、家門を営立して、未だ外の事に遑(いとま)あらず。鍾士季(しょうしき)という者有り。少(わか)しと雖も若(も)し朝政を管せば、呉・蜀の憂いならん」と。 魏の司馬懿卒す。其の子師を以って、撫軍大将軍と為し、尚書の事を録せしむ。 呉主殂(そ)す。諡(おくりな)して太皇帝と曰う。子亮立つ。 漢の費褘、汎(ひろ)く愛して疑わず。降人之を刺し殺す。姜維、事を用い、数しば兵を出だして魏を攻む。 憒憒 こころ乱れるさま。 推治 罪を取り調べる=推問。 公亮 公平で明らかなこと。 九錫 天子から賜る九種の品や特典。輿馬、衣服、楽器、虎賁(勇者三百人)、弓矢、鈇鉞(ふえつ=殺生の権)、秬鬯(きょちょう=祭酒)、朱戸(朱塗りの門)、納陛(宮殿内の階段、取り次ぎ無しで直接天子に謁見できる権利)。 録尚書事 宮中の文書をつかさどる尚書を総括する。 事を用い 政治をおこなうこと。 漢では、丞相亮が亡くなってから、蔣琬が政治をおこなっていた。楊敏がそれを「迷ってばかりで決断が遅い、とても前の諸葛公には及ばぬ」と、漏らした。ある人が楊敏を罪に問うよう要請したところ、「私は確かに諸葛公に及ばないのだ、処罰のしようがない」と取り上げなかった。やがて琬が死ぬと、費褘と董允が政治にあたった。 魏の曹爽が驕奢限りなく、司馬懿がこれを殺した。司馬懿は魏の丞相になり、九錫を賜ったが、受けなかった。曹爽の一派の夏侯覇は蜀に逃げた。蜀の姜維が覇に尋ねて「司馬懿は実権を手にいれたようだが、他国を伐つ気はあるだろうか」と。覇は「彼は一門の繁栄に心を奪われており、他国の事にまで目を向けるまでには至って降りません。ただし鍾士季という者がおります。まだ弱年でありますが、朝政にあずかるようになると、呉や蜀にとって憂いのもとになるでしょう」と言った。 魏の司馬懿が亡くなった。その子の師を撫軍大将軍とした、併せて録尚書事に任じられた。 呉主孫権が歿した。太皇帝と諡して、子の孫亮が後を嗣いだ。 漢の費褘はひろく人を愛して疑うことがなかった。そのため魏の降人に暗殺された。そこで姜維が代って政治を行い、何回か兵を出して魏を攻めた 十八史略 司馬師、黄鉞を握る 2011-12-01 11 38 18 | 十八史略 魏李豐、數爲魏主所召。司馬師知其議己殺之。魏主不平。左右勸誅師。魏主不敢發。師廢魏主。僭位十六年。改元者二、曰正始・嘉平。師迎立高貴郷公。是爲廢帝。名髦。文帝之孫、明帝之姪。年十四即位。 揚州都督毋丘險・刺史文欽、起兵討司馬師。師撃敗之。師卒。弟昭爲大將軍、録尚書事。已而爲大都督、假黄鉞。揚州都督諸葛誕、起兵討昭。昭攻殺之。昭爲相國、封晉公。加九錫不受。 魏の李豊、数しば魏主の召す所と為る。司馬師其の己を議することを知って之を殺す。魏主平かならず。左右、師を誅せんことを勧む。魏主、敢えて発せず。師、魏主を廃す。位を僭(せん)すること十六年。改元する者(こと)二、正始・嘉平と曰う。師、高貴郷公を迎立す。是を廃帝と為す。名は髦(ぼう)。文帝の孫にして、明帝の姪(てつ)なり。年十四にして位に即く。 揚州の都督毋丘倹(ぶきゅうけん)・刺史文欽、兵を起こして司馬師を討つ。師、撃って之を敗る。師卒す。弟の昭、大将軍と為り、録尚書事と為る。已(すで)にして大都督と為り、黄鉞(こうえつ)を仮(か)る。揚州の都督諸葛誕、兵を起こして昭を討つ。昭、之を攻め殺す。昭、相国(しょうこく)と為り、晋公に封ぜらる。九錫を加うれども受けず。 高貴郷公 高貴は邑の名、郷公は王の庶子の封爵の名。 廃帝 強制されて位を退いた皇帝。 姪 おい、めい。 毋丘倹 毌丘倹(かんきゅうけん)とも。 相国 宰相。 黄鉞を仮る 黄金で飾った斧、天子の持つべきもの、それで仮るといった。 魏の李豊がしばしば国主曹芳に呼ばれるようになった。司馬師はそれが自分に対する謀議であることを知って、李豊を殺してしまった。曹芳は心中穏やかならず、左右の近臣も司馬師を誅殺するよう勧められながら、踏み切れずにいたところ、逆に師によって廃位されてしまった(254年)。帝位を僭称すること十六年、改元すること二回、正始・嘉平である。 司馬師は高貴郷公を迎えてこれを立てた。後に廃帝になった曹髦で文帝の孫、明帝の甥にあたり、十四歳で即位した。 揚州都督の毋丘倹と刺史の文欽が兵を挙げて師を討とうとした。司馬師はこれを撃破したが、病で歿した。後を託された弟の司馬昭が、大将軍、録尚書事、さらに大都督となり、天子の持つべき黄鉞を手にするに至った。揚州都督の諸葛誕が挙兵して昭を討とうとしたが、敗れて殺された。司馬昭はやがて相国となり、晋公に封ぜられ、九錫を加えられたが受けなかった 十八史略 2011-12-03 08 51 09 | 十八史略 呉主亮親政。數出中書、視太帝時舊事。嘗食生梅索蜜。蜜中有鼠矢。召藏吏問曰、黄門從爾求蜜邪。吏曰、向求不敢與。黄門不服。令破鼠矢。矢中燥。因大笑曰、若矢先在蜜中、中外倶濕。今外濕内燥。必黄門所爲也。詰之果服。左右驚慄。大將軍孫綝、以其多所難問稱疾不朝。以兵圍宮、廢亮爲會稽王、迎立瑯琊王休。休立。以綝爲丞相。綝又無禮於新君。遂被誅。 呉主亮、政(まつりごと)を親(みずか)らす。数しば中書に出でて、太帝の時の旧事を視る。嘗て生梅を食いて、蜜を求む。蜜中に鼠矢(そし)有り。蔵吏(ぞうり)を召して問うて曰く、「黄門、爾(なんじ)より蜜を求めしか」と。吏曰く、「向(さき)に求めしも敢えて與えざりき」と。黄門服せず。鼠矢を破らしむ。矢中(しちゅう)燥(かわ)く。因(よ)って大笑して曰く、「若(も)し矢、先より蜜中に在らば、中外倶(とも)に湿(うるお)わん。今外湿い内燥く。必ず黄門の為す所ならん」と。之を詰(なじ)れば、果たして服せり。左右驚き慄(おのの)く。大将軍孫綝(そんちん)、其の難問する所多きを以って、疾(やまい)と称して朝せず。兵を以って宮を圍(かこ)み、亮を廃して会稽王と為し、瑯琊王(ろうやおう)休を迎え立つ。休立つ。綝を以って丞相と為す。綝又新君に礼無し。遂に誅せらる。 鼠矢 矢は糞。 黄門 宦官。 呉主孫亮がみずから政治を行い、しばしば中書省に出向いて、太帝の時の記録を調べた。あるとき、生梅を食べたあと、蜜を持ってこさせたが、中に鼠の糞が入っていた。蔵役人を呼びつけ「宦官がこの蜜をもらいに来たことはないか」と聞くと、「さきごろ参りましたが、渡しませんでした」と答えた。だがその宦官は覚えがないと言い張る。孫亮は、その糞を二つに割らせ、その中が乾いているのを見て、大笑いして「もし糞が以前からずっと蜜に浸かっていたなら中も外も湿っているはずだ、これは外湿って中は乾いている。宦官のいやがらせに違いなかろう」問い詰めてみると、果たして罪を認めた。左右の者は、驚き恐れいった。大将軍の孫綝は、たびたび鋭く問い詰められるので、病いと称して参内しなくなった。遂には兵を率いて宮中を包囲し、孫亮を廃して会稽王にしてしまった。やがて瑯琊王の曹休を迎えて立てた。休が位に即くと孫綝を丞相に任じた。孫綝は新帝をもないがしろにしたのでやがて誅殺された。 十八史略 2011-12-06 09 28 20 | 十八史略 魏主髦見威權日去、不勝其忿。曰、司馬昭之心、路人所知也。率殿中宿衞蒼頭・官僮、鼔譟出、欲誅昭。昭之黨賈充、入與魏主戰、成濟抽戈刺魏主髦。殞于車下。追廢爲庶人。僭位七年。改元者二、曰正元・甘露。司馬昭迎立常道郷公璜。是爲魏元皇帝。常道郷公元皇帝、初名璜、燕王宇之子、操之孫也。年十五即位。改名奐。 魏主髦(ぼう)威権日に去るを見て、其の忿(いかり)に勝(た)えず。曰く、「司馬昭の心は路人も知る所なり」と。殿中の宿衛・蒼頭(そうとう)・官僮(かんどう)を率いて、鼔譟(こそう)して出で、昭を誅せんと欲す。昭の党賈充(かじゅう)、入って魏主と戦い、成濟、戈を抽(ぬ)いて魏主髦を刺す。車下に殞(お)つ。追廃(ついはい)して庶人(しょじん)と為す。僭位(せんい)七年。改元する者(こと)二、正元・甘露と曰う。司馬昭、常道郷公璜(こう)を迎え立つ。是を魏の元皇帝と為す。常道公元皇帝、初めの名は璜、燕王宇の子、操の孫なり。年十五にして即位す。名を奐(かん)と改む。 宿衛 宿直護衛の兵。 蒼頭 雑兵士卒。 官僮 給仕、召使い。 鼔譟 鼔は鼓を打つこと。 殞つ 命を落とす。 追廃 死後帝位を廃すること。 魏主曹髦は朝廷の威信が日増しに失われてゆくのを見るにつけ、怒りに耐え切れず、「司馬昭の野心は旅人までも知っていることだ」と言って殿中の護衛兵、雑兵、召使いまで駆りだした。鼓を鳴らし、喚声をあげて昭を誅殺しようとしたが、昭の党の賈充が宮中に押し入って戦い、一味の成済が戈を抜いて刺し、曹髦は車から落ちて死んだ。 死後帝位を廃され庶民とされた。帝位を僭称すること七年、改元すること二、正元・甘露という。司馬昭は常道郷公の璜を迎え立てた。これが魏の元皇帝である。(260年) 常道公元皇帝は初めの名は璜といい、燕王宇の子、曹操の孫にあたる。十五歳で即位し、名を奐と改めた。 十八史略 蜀の諸葛瞻父子討ち死にす 2011-12-08 11 52 22 | 十八史略 漢姜維屢伐魏。司馬昭患之、遣艾・鍾會、將兵入寇。會從斜谷・駱谷・子午谷、趨漢中、艾自狄道、趨甘松・沓中、以綴姜維。維聞會聞已入漢中、引兵從沓中還。艾追躡之大戰。維敗走、還守劍閣、以拒會。艾進至陰陰平、行無人之地七百里鑿山通道、造作橋閣。山高谷深。艾以氈自裹、推轉而下。將士皆攀木縁崖、魚貫而進。至江油。以書誘漢將諸葛瞻。瞻斬其使。列陣綿竹以待。敗績。漢將軍諸葛瞻死之。瞻子尚曰、父子荷國重恩。不早斬黄皓、使敗國殄民。用生何爲。策馬冒陳而死。 漢の姜維(きょうい) 屢しば魏を伐つ。司馬昭之を患(うれ)い、艾(とうがい)・鍾会をして、兵を将(ひき)いて入寇(にゅうこう)せしむ。会は斜谷(やこく)・駱谷(らくこく)・子午谷(しごこく)より、漢中に趨(おもむ)き、艾は狄道(てきどう)より、甘松・沓中(とうちゅう)に趨き、以って姜維を綴(てい)す。維、会已に漢中に入りしと聞き、兵を引いて沓中より還る。艾、之を追躡(ついしょう)して大いに戦う。維、敗走し、還って剣閣を守り、以って会を拒(ふせ)ぐ。艾、進んで陰平に至り、無人の地を行くこと七百里、山を鑿(うが)って道を通じ、橋閣を造作す。山高く谷深し。艾、氈(せん)を以って自ら裹(つつ)み、推転して下る。将士、皆木に攀(よ)じ崖に縁(よ)り、魚貫(ぎょかん)して進む。江油に至る。書を以って漢の将、諸葛瞻(しょかつせん)を誘う。瞻、其の使いを斬り、陣を綿竹に列して以って待つ。敗績す。漢の将諸葛瞻、之に死す。瞻の子尚曰く、「父子、国の重恩を荷う。早く黄皓を斬らず、国を敗(やぶ)り民を殄(てん)せしむ。用(も)って生くるも、何をかなさん」と。馬に策(むちう)ち陳(じん)を冒して死す。 遣 使役の助字。・・をして、・・せしむ。 入寇 寇はあだする。 綴 釘付けにする。 追躡 追いかける。 剣閣 蜀と魏の境界にある大剣山、小剣山、閣道(架け橋が多いことから。 氈 毛氈。 魚貫 魚の串刺し。 敗績 大敗する、功績をなくする意。 黄皓 蜀の宦官、蜀衰退の元凶といわれる。 殄 滅ぼす。 用 以と同じ。 策 鞭、むちうつ。 陳 陣に同じ。 漢の姜維が、度々魏を攻めた。司馬昭はこれを思い患い、艾と鍾会を将軍として、蜀に攻め入らせた。鍾会は斜谷・駱谷・子午谷(いずれも陜西省中部の谷の名)から、艾は狄道(甘粛省)より、甘松・沓中に侵攻して姜維の軍を釘付けにした。姜維は鍾会がすでに関中に入ったと聞くと兵を沓中からひきあげようとした。艾はこれを追撃して激しく攻め立てた。姜維の軍は敗走して剣閣にたどり着いて鍾会を防いだ。艾は進んで陰平(甘粛省と四川省の境)に達した。無人の地を行くこと七百里、山を掘って道をつけ、桟道を架け渡して進んだ。高い山と深い谷に阻まれたとき艾は自分の身に毛氈を巻きつけ、転がり下った。将兵たちも、木によじ登り、崖に取り付いて魚の串刺しのように一列になって進んだ。遂に難所を越え江油に至った。まず蜀の将諸葛瞻に書を送り、降服を迫った。諸葛瞻は使者を斬り、陣を綿竹に布いて、魏軍を待った。蜀軍は大敗して諸葛瞻は討ち死にした。瞻の子尚は「私ども父子は国の大恩を受けてきた。奸臣の黄皓を斬らなかったばかりに、国を滅亡させ、民を絶やすことになった。生き永らえて何の甲斐があろう」と、馬に鞭打って敵陣に斬り込んで討ち死にした。 十八史略 司馬炎、魏を亡ぼす 2011-12-10 09 45 46 | 十八史略 漢人不意魏兵卒至、不爲城守。乃遣使奉璽綬、詣艾降。皇子北地王怒曰、若理窮力屈、禍敗將及、便當父子君臣、背城一戰、同死社稷、以見先帝可也。奈何降乎。帝不聽。哭於昭烈之廟、先殺妻子而後自殺。艾至成都。帝出降。魏封爲安樂公。帝在位四十一年、改元者四、曰建興・延煕・景耀・炎興。右自高帝元年乙未、至後帝禪炎興癸未、凡二十六帝、通四百六十九年而漢亡。 呉主休殂。諡曰景皇帝。兄子烏程侯皓立。 魏司馬昭、先是已受九錫。已而進爵爲晉王。昭卒、子炎嗣。魏主奐僭位六年、改元二、曰景元・咸煕。炎迫魏主禪位、封爲陳留王。後卒。晉人諡之曰元。 魏自曹丕至是凡五世、四十六年而亡。 自漢亡後、又歴甲申、闕正統一年。 漢人、魏兵の卒(にわか)に至るを意(おも)わず、城守(じょうしゅ)を為さず。乃ち使いを遣わして璽綬を奉ぜしめ、艾(がい)に詣(いた)って降る。皇子(こうし)北地王(しん)怒って曰く、「若し理窮まり力屈して、禍敗(かはい)将(まさ)に及ばんとせば、便(すなわ)ち当(まさ)に父子君臣、城を背にして一戦し、同じく社稷に死し、以って先帝に見(まみ)えて可なるべし。奈何(いかん)ぞ降らん」と。帝聴かず。、昭烈の廟に哭し、先ず妻子を殺して後に自殺せり。艾、成都に至る。帝出でて降る。魏、封じて安楽公と為す。帝、位に在ること四十一年、元を改むる者(こと)四、建興・延煕(えんき)・景耀(けいよう)・炎興と曰う。右、高帝の元年乙未(いつび)より、後帝禅の炎興癸未(きび)に至るまで、凡(すべ)て二十六帝、通じて四百六十九年にして漢亡びたり。 呉主休、殂(そ)す。諡(おくりな)して景皇帝と曰う。兄の子烏程侯(うていこう)皓(こう)立つ。 魏の司馬昭、是より先、已に九錫を受く。已にして爵を進めて晋王と為る。昭卒し、子の炎嗣(つ)ぐ。魏主奐、僭位六年、改元すること二、景元・咸煕(かんき)と曰う。炎、魏主に迫って位を禅(ゆず)らしめ、封じて陳留王と為す。後卒す。晋人之に諡して元と曰う。 魏、曹丕より是(ここ)に至るまで凡て五世、四十六年にして亡ぶ。 漢亡んでより後、又甲申(こうしん)を歴(へ)て、正統を闕(か)くこと一年なり。 城守 城を守ること。 璽綬 印璽とそれを佩びる紐。 詣 至る、伺候する。 社稷 建国のときに祭った土地の神の社と五穀の神の稷で国家のこと。 乙未 きのとひつじ。 癸未 みずのとひつじ。 甲申 かのえさる。 蜀漢では魏の兵がこれほど早く攻め込んで来るとは思わず、城の守りをしていなかった。そこで帝は使者に印綬を持たせて、艾に降伏を申し入れた。これを聞いて皇子の北地王劉は大いに怒って「すじみちに行き詰まり、力もつきはてて国に災禍が迫ったならば、父子君臣城を背に存分に戦い、ともに国家のために殉じてこそ、先帝にお目見えできるというものです。どうして降伏などなさるのですか」と諌めたが帝は聴き入れなかった。は昭烈帝の廟前で哭し、まず妻子を殺し、自ら命を絶った。艾が成都に到着すると、帝は城を出て降伏した。魏は帝を安楽公に封じた(263年)。後帝劉禅は位に在ること四十一年、年号を改めること四回、建興・延煕・景耀・炎興である。前漢の高帝の元年乙未の年から後帝禅の炎興癸未の年まで、あわせて二十六代、四百六十九年で漢は滅亡した。 呉王孫休が病死した。景皇帝とおくり名された。兄の子の烏程侯孫皓が即位した。 魏の司馬昭は、これより先に九錫を受けていて、間もなく爵を進めて晋王となった。昭が亡くなり、子の炎があとを嗣いだ。 魏の曹奐は位を僭すること六年、改元すること二、景元・咸煕という。炎、魏主に迫って位を譲らせ、陳留王に封じたが後に亡くなってから晋は元とおくり名した。 魏は曹丕からここに至るまであわせて五代、四十六年で滅亡した。 漢が亡んで、さらに甲申の歳を経ており晋が興る(乙酉の歳)まで一年の間、正統の天子がいなかったことになる。 十八史略 司馬炎西晋を建国 2011-12-13 17 58 23 | 十八史略 西晉世祖武皇帝姓司馬、名炎、河内人、昭之子、懿之孫也。昭爲晉王、議立世子。議者、以炎髪立委地、手垂過膝、臣之相、遂立。已而嗣爲王、即帝位。追尊懿爲宣皇帝、師爲景皇帝、昭爲文皇帝、大封宗室。晉有滅呉之志。以羊祜都督荊州事。呉以陸抗都督諸軍。祜與抗對境、使命常通。抗遣祜酒。祜飲之不疑。抗疾。祜與之成樂。抗即服之曰、豈有酖人羊叔子哉。祜務修政、以懐呉人、毎交兵、刻日方戰、不掩襲。抗亦告其邊戍、各保分界而已、毋求細利。時呉主皓不修政、而欲兼并、使術士筮取天下。對曰、庚子歳、青蓋當入洛陽。蓋謂銜璧之事。而皓不悟。用諸將謀、數侵盗晉邊。抗諌不聽。抗卒。 西晋世祖武皇帝、姓は司馬、名は炎、河内(かだい)の人、昭の子、懿の孫なり。昭、晋王と為り、世子(せいし)を立てんことを議す。議する者、炎が髪、立てば地に委(い)し、手、垂るれば膝より過ぎ、人臣の相に非らざるを以って、遂に立つ。已にして嗣(つ)いで王と為り、帝位に即く。懿を追尊して宣皇帝と為し、師を景皇帝と為し、昭を文皇帝と為し、大いに宗室を封ず。晋、呉を滅ぼすの志有り。羊祜(ようこ)を以って荊州の事を都督せしむ。呉、陸抗(りくこう)を以って諸軍を都督せしむ。祜、抗と境を対し、使命常に通ず。抗、祜に酒を遣(おく)る。祜、之を飲んで疑わず。抗、疾(や)む。祜、之に成薬を与う。抗、即ち、之を服して曰く、「豈人を酖する羊叔子(ようしゅくし)有らんや」と。祜、務めて徳政を修め、以って呉人を懐(なづ)け、兵を交(まじ)うる毎に、日を刻して、方(まさ)に戦いて、掩襲(えんしゅう)せず。抗も亦其の辺戍(へんじゅ)に告げて、「各々分界(ぶんかい)を保つのみ、細利を求むること毋(なか)れ」と。時に、呉主皓、徳政を修めずして、兼并(けんぺい)せんと欲し、術士をして、天下を取らんことを筮(ぜい)せしむ。対(こた)えて曰く「庚子の歳、青蓋(せいがい)当(まさ)に洛陽に入るべし」と。蓋(けだ)し、璧を銜(ふく)むの事を謂うなり。而れども皓、悟らず。諸将の謀(はかりごと)を用いて、数しば晋の辺を侵盗(しんとう)す。抗、諌むれども聴かず。抗、卒す。 地に委し 地に届き。 使命 音信を通ずること。 酖する 毒殺する鴆に通ずる。 羊叔子 羊祜のあざな。 掩襲 急襲、不意討ち。 辺戍 辺境の守備軍。 分界 さかいめ、分担地域。 兼并 併せて一つにすること。 術士 方術をつかう者。 筮 占う。 青蓋 皇太子が王に降されるこき乗る青いほろの車。 璧を銜む 国王が敵に降伏するとき、後ろ手に縛られて、璧を口に銜えて捧げたので、こういった。 西晋の世祖武皇帝、姓は司馬で名は炎、河内(かだい)の人、昭の子、懿の孫なり。昭、晋王と為って、嗣子を決める評議が行われた。それに加わった者 達は炎の髪が、立っても地にたれるほど長く、手を下げると、膝の下にまで届くのは人の臣となる相ではないとして、あと嗣ぎに立てた。司馬昭を嗣いで晋王となり、やがて帝位に即いた。司馬懿を追尊して宣皇帝とし、司馬師 を景皇帝として、父昭を文皇帝として、一族をあげて王に封じた。 晋は呉を滅ぼそうとしていた。羊祜に荊州の都督を命じ、呉はそれに対して陸抗が諸軍の都督に任じた。羊祜も陸抗も国境を接していたが常に使者を行き来させていた、陸抗が酒を贈ると羊祜は疑いもせずにこれを飲み、陸抗が病気になると羊祜が薬を届けた。危ぶむ部下に陸抗は「人に毒を盛るような羊叔子ではないわ」とすぐに服用した。羊祜は徳政を布き、呉の人びとをも懐け、戦闘を交えるにも日時を決めてそれを守り、不意討ちをかけるようなことはしなかった。陸抗も国境部隊に「それぞれ受け持ち地域を守ればそれで良し、些細な手柄など考えるな」と布令ていた。 この頃、呉主の孫皓は善政を布かないばかりか、領土の併呑を求め、方術士に天下を取ることを占いさせた。「庚子の歳に、青蓋が洛陽にるであろう」との卦を示した。これは皓が天子に降伏することを意味していたが、皓は自分に都合よく解釈して、部将達の謀を用いてたびたび晋の国境を侵略した。そして陸抗の諌めを聴かず、抗もやがて亡くなった。 十八史略 外寧ければ、必ず内の憂い有り 2011-12-15 15 52 34 | 十八史略 祜請伐呉。議者多不同。祜歎曰、天下不如意事、十常七八。惟杜預・張華贊其計。祜病。求入朝面陳。晉帝欲使祜臥護諸將。祜曰、取呉不必臣行。但平呉之後、當勞聖慮耳。祜卒。以杜預爲鎭南大將軍、督荊州軍事。呉主皓淫虐日甚。預表請速征之。表至。張華適與帝棊、即推枰斂手贊其決。帝許之。山濤告人曰、自非聖人、外寧必有内憂。釋呉爲外懼、豈非算乎。時濤爲吏部尚書。 祜(こ)呉を伐たんと請う。議する者、多くは同ぜず。祜、歎じて曰く「天下、意の如くならざる事、十に常に七八」と。惟、杜預(とよ)・張華のみ其の計を賛(たす)く。祜、病む。朝に入って面(まのあた)りに陳(の)べんことを求む。晋帝、祜をして、臥しながら諸将を護せしめんと欲す。祜曰く「呉を取るは、臣の行(こう)を必せず。但(ただ)呉を平らぐるの後、当(まさ)に聖慮を労すべきのみ」と。祜卒す。杜預を以って鎮南大将軍と為し、荊州の軍事を督せしむ。呉主皓、淫虐日に甚だし。預、表して、速かに之を征せんことを請う。表至る。張華、適(たまた)ま帝と棊(き)す、即ち枰(へい)を推し、手を斂(おさ)めて、其の決を賛く。帝、之を許す。山濤、人に告げて曰く、「聖人に非ざるよりは、外(ほか)寧(やす)ければ、必ず内の憂い有り。呉を釈(ゆる)して、外(そと)の懼れと為さんこと、豈算に非ざらんや」と。時に濤、吏部尚書たり。 表 天子にたてまつる文書。 棊 囲碁。 枰 碁盤。 算 得失。吏部尚書 人事担当長官。 羊祜は呉を討伐するよう奏請した。しかし評議に加わった者の多くが反対した。羊祜は「世の中、思い通りにならないことが十中七八か」と歎いた。た だ杜預と張華だけは賛成していた。羊祜が病気になり、朝廷に出て、直接意見を述べたいと願い出た。晋帝は、羊祜に寝ながらでもよいから将軍たちの力になるよう望んだが、羊祜は「呉を取るには必ずしも私が行く必要はございません。むしろ呉を平定された後に心を致されますように」と言った。祜が亡くなった。帝は杜預を鎮南大将軍に任命し、荊州の軍事を統括させた。一方、呉主皓の暴虐は日ごとに激しくなった。そこで杜預は上奏して直ちに呉を討ちたいと申し出た。その上奏文が着いたとき、帝は張華を相手に碁を打っていたが、張華は碁盤を押しやって裁可を促がしたので帝はこれを聞き入れた。 山濤は後日人にこう語った「聖人でない限り、外患が治まれば必ず内憂が起きるものだ、ここは呉を見逃して、外患にしておくほうが晋のためではないだろうか」このとき山濤は吏部尚書であった。 十八史略 竹林の七賢 2011-12-20 10 17 35 | 十八史略 山公の啓事 濤昔在魏晉之、與嵆康・阮籍・籍兄子咸・向秀・王戎・劉伶相友。號竹林七賢。皆崇尚老莊虚無之學、輕蔑禮法、縱酒昏酣、遺落世事。士大夫皆慕效之、謂之放達。惟濤惟仍留意世事、至是典選、甄抜人物、各爲題目而奏之。時人稱之爲山啓事。 濤、昔、魏晋の間に在って、嵆康(けいこう)・阮籍(げんせき)・籍の兄の子咸(かん)・向秀(しょうしゅう)・王戎(おうじゅう)・劉伶(りゅうれい)と相友(ゆう)たり。竹林の七賢と号す。皆、老荘虚無の学を崇尚(すうしょう)し、礼法を軽蔑し、縦酒(しょうしゅ) 昏酣(こんかん)、世事を遺落(いらく)す。士大夫、皆之を慕效(ぼこう)した。之を放達(ほうたつ)と謂う。惟、濤は仍(なお)世事に留め、是(ここ)に至って、選を典(つかさど)り、人物を甄抜(けんばつ)し、各々題目を為(つく)って之を奏す。時人、之を称して山公(さんこう)の啓事と為す。 崇尚 あがめたっとぶ。 縦酒 酒をほしいままに飲む。 昏酣 泥酔すること。 遺落 なげやりにする。 慕效 慕いならう。 放達 気ままにふるまうこと。 甄抜 才能を見分けて引き立てること。 啓事 天子などに申し上げる書面。 山濤はかつて魏から晋に代る時代に嵆康・阮籍・阮籍の甥の咸・向秀・王戎・劉伶と親交があり、竹林の七賢と呼ばれていた。皆老子や荘子の虚無の学を信奉し、礼法を軽蔑して、酒をとめどなく飲んでは泥酔し、世事をないがしろにした。当時の士大夫はこの風を慕い倣って放達と称していた。ただ山濤だけは世事にも心を留めて、吏部尚書となって官吏の人選をつかさどり、才能を見分けて引き上げるために、各項目ごとに特性を奏上した。人々は「山公の啓事」と呼んだ。 十八史略 呉亡ぶ 2011-12-22 09 14 53 | 十八史略 晉大擧伐呉。杜預出江陵、王濬下巴蜀。呉人於江磧要害處、竝以鐵鎖横江截之。又作鐵錐長丈餘、暗置江中、逆拒舟艦。濬作大筏先行、遇錐輒著筏而去。又作大炬、灌以麻油、遇鎖焼之。須臾融液斷絶。於是船無所礙、遂先克上流諸郡。預遣人、率奇兵夜渡。呉將懼曰、北來諸軍、乃飛渡江也。預分兵、與濬合攻武昌降之。預謂兵威已振、譬如破竹。數節之後、迎刃而解。無復著手擧也。遂指授羣帥方略、徑造建業。濬戎卒八萬、方舟百里、擧帆直指建業、鼓譟入石頭城。呉主皓面縛輿櫬降。封歸命侯。遂符庚子入洛之讖。自大帝至是四世、稱帝者、凡五十二年而亡。遡孫策定江東以來、通八十餘年。 晋、大挙して呉を伐つ。杜預は江陵より出で、王濬(おうしゅん)は巴蜀より下る。呉人(ごひと)、江磧(こうせき)要害の処に於いて、並びに鉄鎖を以って江に横たえて、之を截(た)つ。又、鉄錐の長さ丈余なるを作り、暗に江中に置き、舟艦を逆(むか)え拒(ふせ)ぐ。濬、大筏(だいばつ)を作り、水を善(よ)くする者をして、筏を以って先行し、錐に遇(あ)えば輒(すなわ)ち筏を著(つ)けて去らしむ。又、大炬(たいきょ)を作り、灌(そそ)ぐに麻油を以ってし、鎖に遇えば之を焼く。須臾に融液して断絶す。是(ここ)に於いて、船礙(さわ)る所無く、遂に先ず上流諸郡に克つ。預、人を遣わし、奇兵を率(ひき)いて、夜、渡らしむ。呉の将懼(おそれ)て曰く「北来の諸軍、乃ち江を飛び渡るや」と。預、兵を分かち、濬と合して、武昌を攻め之を降す。預、謂(おも)えらく、「兵威(へいい)已(すで)に振るう、譬えば竹を破(わ)るが如し。数節の後は、刃(やいば)を迎えて解く。復た手を著(つ)くる処なし」と。遂に群帥(ぐんすい)に方略(ほうりゃく)を指授(しじゅ)し、径(ただ)ちに建業に造(いた)る。濬が戎卒(じゅうそつ)八万、舟を方(なら)ぶること百里、帆を挙げて直ちに建業を指し、鼓譟(こそう)して石頭城に入る。 呉主皓、面縛(めんばく)輿櫬(よしん)して降る。帰命侯に封ず。遂に「庚子洛に入る」の讖(しん)に符す。大帝より是(ここ)に至って四世、帝と称する者(こと)、凡(すべ)て五十二年にして亡ぶ。孫策が江東を定めしより以来に遡れば、通じて八十余年なり。 磧 河原。 礙 障害。 面縛 後ろ手に縛って面をさらすこと。 輿櫬 櫬は棺、棺桶を車に積んで死の覚悟を示すこと。 讖 占いの卦。 晋は大軍を派遣して呉を伐つことになった。杜預は江陵から、王濬は巴蜀から水軍を率いて下った。呉の軍は揚子江の河原の要害に鉄の鎖を張り渡してさえぎり、又一丈に余る鉄の錐を密かに水中に植え、晋の軍船を待ち受け防ごうとした。王濬は大きい筏を作り、水練に長じた兵を選りすぐって筏に乗せて先に行かせて、鉄錐を探して除いた。また大きい松明を作り、胡麻油を注いで鉄鎖に遭うと、これを焼いた。たちまち溶かし切った。こうして船団は障碍をすべて取り除いて上流の諸郡で勝ちをおさめた。一方杜預は部下に、奇兵をひきいて、夜陰にまぎれて揚子江を渡らせた。呉の将は大いに恐れて「北の晋軍は、揚子江を飛んで渡ったのか」と言った。杜預は兵を分け、王濬と合流し、武昌を攻めてこれを降した。この時点で晋軍の中には、一旦兵を収めて来年再度攻めてはどうかの意見もあったが、杜預は「今は兵の士気が上がっている。例えば刃物で竹を割るようなもので、最初に二節ほど刃を入れるだけで、あとは竹が刃を迎え入れるように難なく割れる、力など要らぬものだ」と言って進軍を決して、各部将に戦略を授けて直ちに呉の都の建業を目指させた。王濬の軍勢八万、船を連ねること百里、帆を上げて太鼓を打ち、喚声を挙げて石頭城に突入した。 呉主皓は両手を後ろ手に縛り、顔を前に差し出し、棺桶を載せた車を従えて降参して出た。晋は呉主皓を許し帰命侯に封じた。ここでまさにあの庚子の年洛陽に入るの予言に符合したわけである。太帝孫権からここに至るまで四世、帝を称すること五十二年で亡んだ。孫策が江東を平定してから八十年余りであった。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/c/42f06b7a51abc13bbb90975593b736b8/65
https://w.atwiki.jp/internetkyogakusys/pages/382.html
正史三国志の訓読もひっそりと開始。https //w.atwiki.jp/internetkyogakusys/pages/439.html 吉川三国志全巻 横山三国志全巻 正史三国志全巻(ちくま学芸文庫) 三國志年表(三国演義・吉川三国志・横山三国志対比) 三国演義第一回(原文) 吉川三国志 桃園の巻 168| 建寧1 1月 霊帝即位す。 9月 宦官の曹節ら、陳番・寶武を殺害。 169|建寧2 宮中に青蛇が出現。強風・雷・落雷などの異変がおこる。 171 建寧4_ 2月 洛陽で地震がおこり、沿海地方に大津波が発生。 175-嘉平4このころ劉備、盧植に師事。 178|光和1 雌鶏が雄となるなどの怪異現象があいつぐ。 180| 光和3 霊帝の後宮にいた何貴人が弁皇子を生み、皇后に立てられる。 181 光和4 王美人が協皇子(のちの献帝)を生む。 何皇后は王美人を毒殺。 184| 光和7_1月 張角が大賢良師を称して挙兵。黄巾の乱おこる。(横山三国志第一巻) 何皇后の兄の何進が乱鎮圧の総帥 として大将軍になる。 劉備・関羽・張飛、桃園で義兄弟の 契りを結ぶ。(横山三国志第一巻乞食部隊) 劉備率いる義勇軍、大興山・青州・ 広宗・頑川・鉄門峡を転戦。 劉備、張宝を討つ。 皇甫嵩・朱居ら、黄巾軍を討ち乱を鎮圧。( 横山三国志第二巻) 中平1 12月 黄巾の乱平定を記念して中平と改元。( 横山三国志第二巻終わり) 劉備、安喜県の警察署長となる。 張飛、督郵を鞭打ち、劉備ら逃亡。劉備、劉恢の邸で芙蓉姫と再会。 曹操、董卓殺害を失敗し逃亡する 吉川三国志 群青の巻 原文は三國演義(中文wikisource)(羅貫中)から引用しています。 訓読文(書き下し文)は、新譯演義三國志久保天随著(重要)や、いつか書きたい三国志の李卓吾本『三国演義』の書き下しを参考にさせていただいています。※いつ三の書き下し文は李本で、原文とは違います。 筆者は大学で中国語を習った程度で、文学は素人ですので誤訳は多分にあると思うのでご注意下さい。 関連ページ 漢文訓読で解読するまいにち中国語2020年 wiki 中文訓読・中国語訓読 ※参考~新譯演義三國志久保天随著(重要) 李卓吾本『三国演義』第1回-第4回の書き下し(いつか書きたい三国志)、三国志演義簡訳 第一回(原文) (訓読文) 話說ス天下大勢,分カレレ久シク必ズ合イ,合ヒテレ久シク必ズ分レル。周末七國分レテ爭イ,併-入サレリ二於秦ニ一。及ビ二秦滅之後ニ一,楚、漢分レ爭イ,又併-入ス二於漢ニ一。Huàshuō tiānxià dàshì, fēnjiǔbìhé, hé jiǔ bì fēn. Zhōumò qī guó fèn zhēng, bìng rù yú qín. Jí qín miè zhīhòu, chǔ, hàn fēn zhēng, yòu bìng rù yú hàn. (書き下し文) 話說ス天下大勢,久シク分カレ必ズ合イ,久シク合ヒテ必ズ分レル。周末七國分レテ爭イ,秦ニ併-入サレリ。秦滅之後ニ及ビ,楚、漢分レ爭イ,又漢ニ併-入ス。 (解説) 併入の入は漢辞海の通り、方向補語(趨向補語)として訳した。新訳演義三国志では、「併せられて秦に入り」と訳しており、翻訳としてはこちらが日本語として読みやすいが、訓読を優先するため補語として訓読した。 (訓読文) 漢朝自よリニ高祖一斬リ二白蛇ヲ一而起シレ義ヲ,一-統ス二天下ヲ一。後ニ-來タリニ光武中興一,傳ヘテ至リテ二獻帝ニ一,遂ニ分レ-為ス二三國ニ一。推スニ三其そノ致ルヲ二亂らん之由よしニ一,殆ほとんド始マル二於桓・靈ノ二帝ニ一。桓帝禁-錮シ二善類ヲ一,崇-信ス二宦官ヲ一。及ビ二桓帝崩ズルニ一,靈帝即位シ,大將軍竇武、太傅陳蕃,共ニ相輔佐ス。時有宦官曹節等弄シレ權ヲ,竇武、陳蕃謀ルモレ誅スルコトレ之ヲ,作事不ナラズレ密,反かえツテ為リレ所トレ害セラル,中涓自よリレ此これ愈いよいよ橫ス。Hàn cháo zì gāozǔ zhǎn báishé ér qǐyì, yītǒng tiānxià. Hòulái guāngwǔ zhōngxìng, chuán zhì xiàn dì, suì fēn wéi sānguó. Tuī qí zhì luàn zhī yóu, dài shǐ yú huán, líng èr dì. Huándì jìngù shàn lèi, chóng xìn huànguān. Jí huándì bēng, líng dì jíwèi, dà jiàng jūn dòu wǔ, tài fù chén fān, gòng xiāng fǔzuǒ. Shí yǒu huànguān cáo jié děng nòngquán, dòu wǔ, chén fān móu zhū zhī, zuò shì bù mì, fǎn wéi suǒ hài, zhōng juān zì cǐ yù héng. (書き下し文) 漢朝高祖自よリ白蛇ヲ斬リ義ヲ起シ,天下ヲ一統ス。後ニ光武中興來タリ,傳ヘテ獻帝ニ至リテ,遂ニ三國ニ分レ為ス。其そノ亂らん之由よしニ致ルヲ推スニ,殆ほとんド桓・靈ノ二帝ニ始マル。桓帝善類ヲ禁錮シ,宦官ヲ崇-信ス。桓帝崩ズルニ及ビ,靈帝即位シ,大將軍竇武、太傅陳蕃,共ニ相輔佐ス。時有宦官曹節等權ヲ弄シ,竇武、陳蕃之ヲ誅スルコト謀ルモ,作事密不ナラズ,反かえツテ害セラル所ト為レリ,中涓此これ自よリレ愈いよいよ橫ス。 (解説) 「自」は自らと訳すことも考えられるが、自より・・・至ル(自り・・・至る)として訳した 所 為A所B「AのBするところとなる」のAが抜けていると考えていいのだろうか。 つまりは為曹節所害と考えるとAは曹節であり、所害の害せられる所となった者は竇武、陳蕃である。 (訓読文) 建寧二年四月望日,帝御ス二溫德殿ニ一。方リ二陞座ニ一,殿角ニ狂風驟にわカニ起キ,只ただ見ル一條ノ大青蛇,從リ二梁上一飛ビ將まさニ下ニ來きタラントシ,蟠はばかル於椅いすノ上ニ。帝ハ驚キ倒レ,左右急-救スレ入リレ宮ニ,百官俱ニ奔避ス。須臾,蛇不見みえズ了。忽然大雷大雨シ,加以しかのみならず冰雹落チレ到リ二半夜ニ一方あたリレ止やムニ壞卻ス二房屋無數一。建寧四年二月,洛陽地震;又海水泛濫はんらんシ,沿海居民,盡ことごとク被かぶリ二大浪ヲ一捲キレ入ル二海中ニ一。光和元年,雌雞化かスレ雄おすト。六月朔,黑氣十餘丈,飛ビー入ル二溫德殿中ニ一。秋七月,有リレ虹現レ二於玉堂ニ一,五原山岸,盡ことごとク皆崩レ裂ク。種種不祥ニシテ,非あらズレ止ムニ二一端モ一。帝下ハ詔-問シ二群臣ニ以テ災異わざわい之の由ゆゑヲ一,議郎蔡邕ガ上疏スルニハ,以為おもえらく霓げい墮雞化シ,乃婦寺干政之所致,言頗切直。 (書き下し文) 建寧二年四月望日,帝溫德殿ニ御ス。陞座ニ方リ、殿角ニ狂風驟にわカニ起キ、只ただ見ル一條ノ大青蛇、梁上從リ飛ビ將まさニ下ニ來きタラントシ,椅いすノ上ニ蟠はばかル。帝ハ驚キ倒レ,左右宮ニ入リ急-救ス,百官俱ニ奔避ス。須臾,蛇不見みえズ了。忽然大雷大雨シ,加以しかのみならず冰雹半夜ニ到リ落チ止やムニ方あたリ房屋無數壞卻ス。六月朔,黑氣十餘丈,溫德殿中ニ飛ビ入ル。秋七月,虹有リ玉堂ニ於テ現レ,五原山岸,盡ことごとク皆崩レ裂ク。 種種不祥ニシテ,一端モ止ムニ非あらズ。帝下ハ群臣ニ以ッテ災異わざわいの由ゆゑヲ詔-問シ,議郎蔡邕ガ上疏スルニハ,以為おもえらく霓げい墮雞化シ,乃チ婦寺政之所干おかスニ致リ,言ハ頗すこぶル切直ナリ。 (解説) 下來は方向補語。 只ただ見ル一條ノ大青蛇の解釈は、「只ただ見」ただけで「帝は驚倒れ」たに繋がっているのか、ただ蛇が出てきただけなのかとも2つ解釈分かれる処だが、それほど意味はないと思いただ見ると訓読した。白蛇を切って天下を統一した漢王朝が、青蛇の出現によって壊れていくのか。 虹有現レ二於玉堂ニ 論語の最初の文章の「有朋自遠方来」が、「有リレ朋自よリ二遠方一来きたル」「有リレ朋下自ヨリ二遠方一来きたル上」のように複数の訓読が存在すると思うが、虹有リレ玉堂ニ於テ現レと訓読した。 蛇不見みえズ了 了は変化の了なんだろうか。漢文というより白話である。 以為おもえらく:~と思う、考える。(本文と関係ないが現代中国語の以為yiweiは~と思っていた(が、実際と違っていた場合に使う)) 霓:訓読み「にじ」音読み「ゲイ」~にじを竜とみなし、雄を「虹(コウ)」、雌を「霓」という。霓げい墮雞化シ メスがオスになってしまったという意味。 乃婦寺干政之所致:『乃ち婦寺「干政之所」に致るに』と訳すのか迷うが、干を動詞として「乃チ婦寺政之所干おかスニ致リ」と訳した。メスがオスになったりして、婦寺(女官)が政の所を侵す、つまり宦官のことを暗に指しているということか? 帝覽奏嘆息,因起更衣。曹節在後竊視,悉宣告左右,遂以他事陷邕於罪,放歸田里。後張讓、趙忠、封諝、段圭、曹節、侯覽、蹇碩、程曠、夏惲、郭勝十人朋比為奸,號為「十常侍」。帝尊信張讓,呼為「阿父」。朝政日非,以致天下人心思亂,盜賊蜂起。 帝は奏を覽て嘆息し,因りて起たちて衣を更かえる。曹節後うしろに在りて竊ひそかに視みて,悉ことごとく左右に宣告し,遂に他事を以って邕を罪に陷いれ,田里に歸り放つ。後に張讓、趙忠、封諝、段圭、曹節、侯覽、蹇碩、程曠、夏惲、郭勝の十人朋比は奸と為し,「十常侍」と號し為たり。帝は張讓を尊信し,「阿父」呼び為たり。朝政日に非に,以って天下人心亂を思うに致り,盜賊蜂起す。 時鉅鹿郡有兄弟三人:一名張角,一名張寶,一名張梁。那張角本是個不第秀才,因入山採藥,遇一老人,碧眼童顏,手執藜杖,喚角至一洞中,以天書三卷授之,曰:「此名太平要術。汝得之,當代天宣化,普救世人。若萌異心,必獲惡報。」角拜問姓名。老人曰:「吾乃南華老仙也。」言訖,化陣清風而去。角得此書,曉夜功習,能呼風喚雨,號為「太平道人」。中平元年正月內,疫氣流行,張角散施符水,為人治病,自稱「大賢良師」。角有徒弟五百餘人,雲游四方,皆能書符念咒。次後徒眾日多,角乃立三十六方,大方萬餘人,小方六七千,各立渠帥,稱為將軍;訛言:「蒼天已死,黃天當立;歲在甲子,天下大吉。」令人各以白土,書「甲子」二字於家中大門上。青、幽、徐、冀、荊、揚、兗、豫八州之人,家家侍奉大賢良師張角名字。角遣其黨馬元義,暗齎金帛,結交中涓封胥,以為內應。角與二弟商議曰:「至難得者,民心也。今民心已順,若不乘勢取天下,誠為可惜。」遂一面私造黃旗,約期舉事;一面使弟子唐周,持書報封諝。唐周乃徑赴省中告變。帝召大將軍何進調兵擒馬元義,斬之;次收封諝等一干人下獄。張角聞知事露,星夜舉兵,自稱「天公將軍」,張寶稱「地公將軍」,張梁稱「人公將軍」;申言於眾曰:「今漢運將終,大聖人出。汝等皆宜順天從正,以樂太平。」四方百姓,裹黃巾從張角反者四五十萬。賊勢浩大,官軍望風而靡。何進奏帝火速降詔,令各處備禦,討賊立功;一面遣中郎將盧植、皇甫嵩、朱雋,各引精兵,分三路討之。 時鉅鹿郡に兄弟三人有り:一名は張角,一名は張寶,一名は張梁なり。那かの張角 本もとより是これ個ひとりの「不第秀才」なるが,山に入り藥を採るに因りて,一老人に遇あい,碧眼童顏,手は藜杖に執り,角一洞中に至るまで喚わめけば,以って天書三卷之を授け,曰く:「此この名は太平要術なり。汝之を得て,當まさに天に代りて化を宣まひ,普あまねく世人を救え。若もしし異心を萌きざせば,必ず惡い報むくひを獲えむ。」角拜して姓名を問う。老人曰く:「吾は乃すなわち南華老仙也。」言訖きつにして,化陣清風にして去る。角此書を得て,曉夜功習し,能く風を呼び雨を喚よび,「太平道人」と號を為なす。中平元年正月の內,疫氣流行し,張角符水を散施し,人の為に病を治し,「大賢良師」と自稱す。角は徒弟五百餘人有り,四方に雲游し,皆能く符を書き咒を念ず。次後 徒眾衆日に多くなり,角乃ち三十六方に立ち,大方萬餘人,小方六七千,各々渠帥を立て,將軍と稱為たり;訛言し:「蒼天已に死す,黃天當まさに立つべし;歲は甲子に在り,天下大吉。」人各々をして白土を以って,「甲子」の二字を家中大門上に於いて書か令しめたり。青、幽、徐、冀、荊、揚、兗、豫八州之の人,家家に大賢良師張角の名字を侍り奉たてまつらん。角は其黨の馬元義を遣し,暗ひそかに金帛を齎し,中涓封胥と結交し,以為おもえらく內應す。角與と二弟商議して曰く:「至るに難得えがたき者は,民心也なり。今民心已すでに順したがい,若し勢に乘り天下を取ら不ざれば,誠に惜おしむ可べき為なり。」遂に一面黃旗を私造し,期を約し事を舉げ;一面に弟子をして唐周に使つかわしめ,書報を封諝に持す。唐周乃ち徑ただちに赴き省中に變を告ぐ。帝は大將軍何進をして兵を調へ召しめ馬元義を擒とらえ,之を斬る;次に封諝等一干人を下獄し收める。張角事の露を聞き知り,星夜舉兵し,「天公將軍」と自稱し,張寶は「地公將軍」と稱し,張梁は「人公將軍」と稱す;眾に申し言うに曰く:「今や漢運は將まさに終り,大聖人出ず。汝等なんじら皆宜すべからく天に順い正に從い,以って太平を樂め。」四方よも百姓,黃巾を裹まとい張角に從う反者は四五十萬たり。賊勢浩大にして,官軍風を望んで靡なびきければ、何進帝に奏し火速に詔降り,各處をして備禦令せしめ,賊を討ち功を立つ;一面に中郎將盧植、皇甫嵩、朱雋,遣しめ、各々精兵を引き,三路に分かれ之を討つ。 不第秀才:秀才だが次の試験に合格しなかった人のこと。 那張角本是個不第秀才:是が動詞なので、秀才に第せずとは訳せないはず。 念咒:呪文を唱える 咒は呪と同一字 眾:衆の繁体字 中涓封胥:中涓は宦官、封胥は十常侍の一人。賄賂を貰い謀反を結合しようとした 商議:相談するの意味。商談ではない。現代中国語の「商量」と同義 且說張角一軍,前犯幽州界分。幽州太守劉焉,乃江夏竟陵人氏,漢魯恭王之後也;當時聞得賊兵將至,召校尉鄒靖計議。靖曰:「賊兵眾,我兵寡,明公宜作速招軍應敵。」劉焉然其說,隨即出榜招募義兵。榜文行到涿縣,引出涿縣中一個英雄。那人不甚好讀書;性寬和,寡言語,喜怒不言於色;素有大志,專好結交天下豪傑;生得身長七尺五寸,兩耳垂肩,雙手過膝,目能自顧其耳,面如冠玉,唇如塗脂;中山靖王劉勝之後,漢景帝閣下玄孫:姓劉,名備,字玄德。昔劉勝之子劉貞,漢武時封涿鹿亭侯,後坐酌金失侯,因此遺這一支在涿縣。玄德祖劉雄,父劉弘。弘曾舉孝廉,亦嘗作吏,早喪。玄德孤幼,事母至孝;家貧,販屨織席為業。家住本縣樓桑村。其家之東南,有一大桑樹,高五丈餘,遙望之,童童如車蓋。相者云:「此家必出貴人。」玄德幼時,與鄉中小兒戲於樹下,曰:「我為天子,當乘此車蓋。」叔父劉元起奇其言,曰:「此兒非常人也!」因見玄德家貧,常資給之。年十五歲,母使游學,嘗師事鄭玄、盧植,與公孫瓚等為友。及劉焉發榜招軍時,玄德年已二十八歲矣。 且說さてまた張角の一軍は,前さきに幽州の界分を犯す。幽州太守の劉焉は,乃ち江夏竟陵人氏にして,漢魯恭王之の後也;當まさに時とき賊の兵將至らんと聞き得て,校尉鄒靖を召し計議す。靖曰く:「賊兵眾おおく,我が兵は寡すくなし,明公宜よろしく作なすべきは速やかに軍を招ねき敵に應ずべし。」劉焉は其說を然しかりとし,隨したがって即わち榜たてふだを出し義兵を招き募る。榜文たてふだ涿縣に行き到り,涿縣中に一個ひとりの英雄を引き出す。那かの人讀書は甚はなはだしくは好まず;性は寬和にして,言語は寡すくなく,喜怒色を言わず;素より大志有り,專ら好んで交を天下豪傑に結ぶ;生れ得 えて身長は七尺五寸,兩耳肩に垂れ,雙手りょうて膝に過ぎ,目は能く自ら其耳を顧かえりみるべく,面かおは冠玉の如く,唇は脂を塗が如し;中山靖王劉勝之の後,漢景帝閣下玄孫:姓は劉,名な備,字は玄德。昔劉勝之の子劉貞,漢武の時涿鹿亭侯に封ぜられしが,後に酌金を坐して侯を失ひ,此れに因って這この一支を遺し涿縣に在り。玄德の祖の劉雄,父は劉弘という。弘曾て孝廉を舉げ,亦嘗て吏を作すが,早くに喪うしなう。玄德幼くして孤となり,母に事へ孝至る;家貧しく,屨くつを販うり席むしろを織おるを業と為す。家は本縣樓桑村に住む。其の家之の東南に,一つの大桑樹有り,高さ五丈餘り,遙に之を望む,童童として車蓋の如し。相者えきしゃ云う:「此の家に必ず貴人出ず。」玄德幼き時,鄉中の小兒與と樹下に於いて戲れ,曰く:「我は天子と為り,當まさに此の車蓋に乘るべし。」叔父の劉元起は其言を奇して,曰く:「此の兒非常の人也なり!」因りて玄德の家の貧しさ見て,常に資を之に給う。年十五歲,母は游學使わし,嘗て師事した鄭玄、盧植,與公孫瓚等と友を為す。劉焉榜たてふだを發して軍を招ねく時に及びて,玄德の年は已に二十八歲なり矣。 當日見了榜文,慨然長嘆。隨後一人厲聲言曰:「大丈夫不與國家出力,何故長嘆?」玄德回視其人:身長八尺,豹頭環眼,燕頷虎鬚,聲若巨雷,勢如奔馬。玄德見他形貌異常,問其姓名。其人曰:「某姓張,名飛,字翼德。世居涿郡,頗有莊田,賣酒屠豬,專好結交天下豪傑。恰才見公看榜而嘆,故此相問。」玄德曰:「我本漢室宗親,姓劉,名備。今聞黃巾倡亂,有志欲破賊安民;恨力不能,故長嘆耳。」飛曰:「吾頗有資財,當招募鄉勇,與公同舉大事,如何?」玄德甚喜,遂與同入村店中飲酒。正飲間,見一大漢,推著一輛車子,到店門首歇了;入店坐下,便喚酒保:「快斟酒來吃,我待趕入城去投軍。」玄德看其人:身長九尺,髯長二尺;面如重棗,唇如塗脂;丹鳳眼,臥蠶眉:相貌堂堂,威風凜凜。玄德就邀他同坐,叩其姓名。其人曰:「吾姓關,名羽,字長生,後改雲長,河東解良人也。因本處勢豪,倚勢凌人,被吾殺了;逃難江湖,五六年矣。今聞此處招軍破賊,特來應募。」玄德遂以己志告之。雲長大喜。同到張飛莊上,共議大事。 當日榜文たてふだを見み了て,慨然して長嘆す。隨って後一人厲えやむ聲で言ひて曰く:「大丈夫は國家の與ために力を出さ不ず,何故長嘆しける?」玄德其人を回視す。:身長八尺,豹頭環眼,燕頷虎鬚,聲は巨雷の若く,奔馬の勢いの如し。玄德は他形貌異常を見て,其の姓名を問ふ。其の人曰く:「某それがしは姓は張,名は飛,字は翼德。世居は涿郡,頗すこぶる莊田有り,酒を賣り豬を屠し,專ら好んで交を天下豪傑に結ぶ。恰才ちょうど公が榜たてふだを看て而して嘆くを見て,故に此れ相に問う。」玄德曰く:「我は本より漢室の宗親なるが,姓は劉,名は備という。今黃巾の倡亂を聞て,賊を破りて民を安ずることを欲す志有るも;力不能あたわずを恨む,故に長嘆する耳のみ。」飛曰く:「吾は頗る資財有り,當まさに鄉勇招募し,公與と同じく大事を舉げむ,如何いかん?」玄德甚だ喜び,遂に與ともに同じく村店中に入り酒を飲む。正に飲む間に,一大漢を見て,一輛の車子を推し著ながら,店門首に到り歇了やすみ;入店し坐下すわり,便ち酒保を喚よぶ:「快はやく酒を斟くみ吃くいものを來もってこい,我は城に趕おい入いり軍を投じに去ゆくのを待つ。」玄德は其の人を看て:身長は九尺,髯長は二尺;面かおは重棗如く,唇脂を塗るが如く;丹鳳の眼,臥蠶の眉:相貌は堂堂,威風は凜凜。玄德は就すぐに他を邀むかえ坐を同じくし,其の姓名を叩たたく。其の人曰:「吾の姓は關,名は羽,字は長生,後に雲長に改める,河東解良人也なり。本處の勢豪,倚勢にして人を凌するに因りて,吾に被殺ころされ了た;江湖に難を逃れ,五六年なり矣。今此處ここに軍を招き賊を破るを聞きて,應募しに特に來たり。」玄德は遂に己の志を以て之に告ぐ。雲長大いに喜ぶ。同じく張飛は莊上到り,大事を共に議す。 恰才:(白話)ちょうど 剛才と同じ 推著:この著は持続を表す著。現代中国語の「着」と同じ。漢文では「チャク」と音読みしているが、現代人には分かりにくい。 斟酒:酒を酌む 我待趕入城去投軍:我+待(動詞)+目的語 で我は(目的語を)待つ。 その目的語が趕入城去投軍なので、趕入城して去投軍するという手段+目的の連動文となっている。むりやり訓読すると、城に趕おい入いり軍を投じに去ゆくとなる(と思う・・・中国語そこまで得意ではないが) 叩:漢字海P228 質問する。我叩其両端 私はその質問を隅々まで問いただす 飛曰:「吾莊後有一桃園,花開正盛;明日當於園中祭告天地,我三人結為兄弟,協力同心,然後可圖大事。」玄德、雲長齊聲應曰:「如此甚好。」次日,於桃園中,備下烏牛白馬祭禮等項,三人焚香再拜而說誓曰:「念劉備、關羽、張飛,雖然異姓,既結為兄弟,則同心協力,救困扶危;上報國家,下安黎庶;不求同年同月同日生,只願同年同月同日死。皇天后土,實鑒此心。背義忘恩,天人共戮!」誓畢,拜玄德為兄,關羽次之,張飛為弟。祭罷天地,復宰牛設酒,聚鄉中勇士,得三百餘人,就桃園中痛飲一醉。來日收拾軍器,但恨無馬匹可乘。 飛曰く:「吾の莊やしきの後ろに一つ桃園有り花開き正に盛らん。明日當まさに園中に於て祭り天地に告ぐべし。我三人兄弟の結びを為し,協力心を同じくし,然しかる後のち大事を圖はかる可べし。」玄德、雲長齊そろいて聲こえを應じて曰く:「此かくの如くは甚はなはだだ好よし。」次の日,桃園中に於て,烏牛うぎゅう白馬はくば等、祭禮の項を備下し,三人香を焚き再拜而して說誓し曰く「念ずるは劉備、關羽、張飛,然しかして異姓と雖ども,既に兄弟の結びを為し,則ち同心協力し,困くるしみを救い危きを扶たすけん;上は國家報い,下は黎庶を安ず;同年同月同日生れるを不求もとめず,只ただ願ねがうは同年同月同日に死せん。皇天后土,此の心を實鑒し、義に背そむき恩を忘れれば,天人共戮せん!」誓ちかい畢おえて,拜みて玄德を兄と為し,關羽を之の次とし,張飛を弟と為す。天地祭るを罷やめ,復た牛を宰し酒を設け,鄉さとの中から勇士を聚あつめ,三百餘人を得えて,桃園の中に就ついて一醉を痛飲す。來日軍器を收拾し,但ただ恨むは乘る可べく馬匹無し。 說誓 発誓 黎庶 平民大衆 備下:用意する、準備する 天人共戮:久保点隨訳は「天人共に之を誅戮すべし」としている。原文は戮を自動詞で使用しているのが分かりにくい 罷:やめる・つかれる・まかる 就:場所+ついて 久保天隨訳は「桃園の中に就いて」をそのまま引用。 最初は勇士を集めたあとのことを述べているので現代中国語の就(すぐに)の方が文意に合っていると思い訳したが場所を示しているので。 正思慮間,人報有兩個客人,引一夥伴儅,趕一群馬,投莊上來。玄德曰:「此天佑我也!」三人出莊迎接。原來二客乃中山大商:一名張世平,一名蘇雙,每年往北販馬,近因寇發而回。玄德請二人到莊,置酒管待,訴說欲討賊安民之意。二客大喜,願將良馬五十匹相送;又贈金銀五百兩,鑌鐵一千斤,以資器用。玄德謝別二客,便命良匠打造雙股劍。雲長造青龍偃月刀,又名「冷艷鋸」,重八十二斤。張飛造丈八點鋼矛。各置全身鎧甲。共聚鄉勇五百餘人,來見鄒靖。鄒靖引見太守劉焉。三人參見畢,各通姓名。玄德說起宗派,劉焉大喜,遂認玄德為侄。 正に思慮する間,人報しらせるには兩個ふたりの客人有り,一夥ひとむれの伴儅ともびとを引きつれ,一群の馬を趕ひかせて,投じて莊やしきに上來す。玄德曰く:「此れ天我を佑たすくる也なり!」三人莊やしきを出て迎接す。原來二客は乃ち中山の大商にて:一名は張世平,一名は蘇雙そそう,每年北に往き馬を販うるが,近ごろ因りて寇發し而しかて回かえる。玄德二人莊やしきに到るを請い,置酒管待し,賊討たんと欲し、民を安んず之の意を訴說す。二客大いに喜び,願うは將まさに良馬五十匹を相い送る;又金銀五百兩を贈り,鑌鐵ひんてつ一千斤,器用以って資すべし。玄德謝して二客と別れ,便ち良匠命じて雙股劍を打造す。雲長は青龍偃月刀を造り,又の名を「冷艷鋸」という,重さ八十二斤なり。張飛は丈八の點鋼矛を造る。各置全身鎧甲す。鄉勇五百餘人を共に聚あつめ,鄒靖に來見る。鄒靖は太守劉焉に引見る。三人參見し畢おわり,各おのおの姓名を通ず。玄德は宗派を說起し,劉焉大いに喜び,遂に玄德を侄おいと為すを認める。 兩個:個は個数を数える量詞 上來:来る 不數日,人報黃巾賊將程遠志統兵五萬來犯涿郡。劉焉令鄒靖引玄德等三人,統兵五百,前去破敵。玄德等欣然領軍前進,直至大興山下,與賊相見。賊眾皆披髮,以黃巾抹額。當下兩軍相對,玄德出馬,左有雲長,右有翼德,揚鞭大罵:「反國逆賊,何不早降!」程遠志大怒,遣副將鄧茂出戰。張飛挺丈八蛇矛直出,手起處,刺中鄧茂心窩,翻身落馬。程遠志見折了鄧茂,拍馬舞刀,直取張飛。雲長舞動大刀,縱馬飛迎。程遠志見了,早吃一驚,措手不及,被雲長刀起處,揮為兩段。後人有詩讚二人曰: 英雄露穎在今朝,一試矛兮一試刀。 初出便將威力展,三分好把姓名標。 數日せ不ず,人報しらせるには黃巾賊の將程遠志は兵五萬を統べ涿郡に來て犯す。劉焉は鄒靖をして玄德等三人を引かせ令しめ,兵五百を統べ,前さきに去き敵を破す。玄德等欣然として軍を領して前進し,直ちに大興山の下もとに至り,賊與と相い見る。賊眾しゅう皆みな髮を披ひらき,黃巾を以って抹額す。當下兩軍相對し,玄德出馬し,左に有るは雲長,右に有るは翼德,揚げて鞭うち大いに罵しる:「反國の逆賊,何ぞ早く降ら不ざらんや!」程遠志は大いに怒り,副將鄧茂をして戰に出で遣わしめる。張飛は挺丈八の蛇矛を直ちに出で,手を起す處ところ,鄧茂の心窩に刺し中あたり,身を翻がえし落馬す。程遠志は鄧茂の折了れるを見て,馬を拍うち刀を舞わして,直に張飛を取る。雲長は大刀舞わし動かし,馬を縱はなって飛を迎う。程遠志は見了みて,早吃一おおいに驚き,手を措くに不及およばず,雲長に刀を起處せられ,揮ふるう為に兩段ふたぎたにされる。後人の詩有り、二人讚して曰く: 英雄の穎ほさきを露すは今朝に在り,一ひとりは矛を試し(兮)一は刀を試す。 初めて出で便ち將まさに威力を展のべ,三分のくにに好あっぱれ把とりて姓名を標かかげたり。 披 抹額 當下:その時、または直ちに 早吃一驚:おおいに驚き 被雲長刀起處:訳出がうまくいかない。。 漢辞海P1271 句法2 受動を前置詞として動作や行為をする動作主の前に置き、前置詞を形成する。これは助動詞の被が、西晋ごろから前置詞に転化したものである。 主語+被二+動作主+動詞一 (主語(ハ)動作主ニ動詞セラル) 亮子ノ被ル二蘇峻ニ害セ一 主語は程遠志なので、「程遠志被雲長刀起處」とすると、「程遠志は雲長に刀を起おこされる處となる」とでも訳せるのか? とりあえず「程遠志は雲長に刀を起處せられ」と仮訳 眾賊見程遠志被斬,皆倒戈而走。玄德揮軍追趕,投降者不計其數,大勝而回。劉焉親自迎接,賞勞軍士。次日,接得青州太守龔景牒文,言黃巾賊圍城將陷,乞賜救援。劉焉與玄德商議。玄德曰:「備願往救之。」劉焉令鄒靖將兵五千,同玄德、關、張,投青州來。賊眾見救兵至,分兵混戰。玄德兵寡不勝,退三十里下寨。玄德謂關、張曰:「賊眾我寡;必出奇兵,方可取勝。」乃分關公引一千軍伏山左,張飛引一千軍伏山右,鳴金為號,齊出接應。次日,玄德與鄒靖引軍鼓噪而進。賊眾迎戰,玄德引軍便退。賊眾乘勢追趕,方過山嶺,玄德軍中一齊鳴金,左右兩軍齊出,玄德麾軍回身復殺。三路夾攻,賊眾大潰。直趕至青州城下,太守龔景亦率民兵出城助戰。賊勢大敗,剿戮極多,遂解青州之圍。後人有詩讚玄德曰: 運籌決算有神功,二虎還須遜一龍。 初出便能垂偉績,自應分鼎在孤窮。 眾賊程遠志の被斬きらるを見て,皆戈を倒し而して走る。玄德は軍を揮はらい追趕し,投降者は其數を不計はかれず,大勝而して回かえる。劉焉は親しみ自ら迎接し,軍士を賞勞す。次日,青州太守龔景牒文 に接し得て,言うには黃巾賊は城を圍かこみ將まさに陷おちんとす,救援を乞い賜う。劉焉與と玄德は商議す。玄德曰く:「備は之を往きて救うことを願う。」劉焉は鄒靖をして將兵五千,同玄德、關、張,青州投じて來こさ令しめり。賊眾兵を救うを見るに至り,兵分けて混戰す。玄德兵寡すくなくして不勝かたず,三十里退き寨とりで下る。玄德關に謂う、張曰く:「賊は眾おおく我は寡すくなし;必ず奇兵に出で,方まさに勝を可取とるべし。」乃ち關公を分け一千軍を引き山左りに伏し,張飛は一千軍を引き山右に伏し,金を鳴し號を為し,齊ひとしく出で接應す。次日,玄德與と鄒靖は軍を引き鼓噪して而進む。賊眾戰いで迎へ、玄德は軍を引き便ち退く。賊眾は勢に乘り追趕おいかけ,方まさに山を過ぎて嶺で,玄德軍中は一齊に金を鳴らし,左右兩軍齊ひとしく出で,玄德は軍を麾さしまねき身を回し復た殺す。三路夾はさみ攻め,賊眾は大い潰れる。直ちに趕おい青州城下に至り,太守龔景も亦た民兵率い出城し戰を助ける。賊勢大敗し,剿戮極めて多く,遂に青州之圍を解く。後人玄德讚える詩有り 曰く: 籌はかりごとを運めぐらし算を決して神功あれども,二虎はなお還いまだ一龍には遜おとれり。 初めて出でしばかりに能く偉おおいなる績いさおしを垂たれりは,鼎かえでのあしのかたちとなる分さだめの孤窮わがみに在あればなる應べし。 鼓噪 龔景犒軍畢,鄒靖欲回。玄德曰:「近聞中郎將盧植與賊首張角戰於廣宗,備昔曾師事盧植,欲往助之。」於是鄒靖引軍自回,玄德與關、張引本部五百人投廣宗來。至盧植軍中,入帳施禮,具道來意。盧植大喜,留在帳前聽調。 龔景が軍を犒ねぎらい畢おえ,鄒靖は回かえることを欲す。玄德曰く:「近ごろ聞くに中郎將盧植與と賊首張角は廣宗に於て戰う,備は昔曾かつて盧植に師事す,往くこと欲し之を助けむ。」於是ここにおいて鄒靖軍を引き自ら回かえり,玄德與と關は、張本部五百人を引つれ投じて廣宗に來たり。盧植軍中に至り,帳に入り禮を施し,來意を具道す。盧植大いに喜び,帳前に留とどめて聽調させた。 時張角賊眾十五萬,植兵五萬,相拒於廣宗,未見勝負。植謂玄德曰:「我今圍賊在此,賊弟張梁、張寶在潁川,與皇甫嵩、朱雋對壘。汝可引本部人馬,我更助汝一千官軍,前去潁川打探消息,約期剿捕。」玄德領命,引軍星夜投潁川來。時皇甫嵩、朱儁領軍拒賊,賊戰不利,退入長社,依草結營。嵩與儁計曰:「賊依草結營,當用火攻之。」遂令軍士,每人束草一把,暗地埋伏。其夜大風忽起。二更以後,一齊縱火,嵩與儁各引兵攻擊賊寨,火焰張天,賊眾驚慌,馬不及鞍,人不及甲,四散奔走。 時張角の賊眾は十五萬,植兵は五萬,廣宗に於て相拒み,未だ勝負を見ず。植は玄德に謂いて曰く:「我は今此ここに在りて賊を圍かこみ,賊弟の張梁、張寶は潁川に在り,皇甫嵩與と、朱雋は壘で對す。汝は本部の人馬を引く可べし,我は更に汝の一千官軍を助け,前さきに潁川を去き消息を打探り,約期剿捕。」玄德は領命し,星夜に軍を引き潁川に投じ來たる。時皇甫嵩、朱儁領軍賊を拒み,賊戰は不利となり,長社に退入し,草に依り營を結す。嵩與と儁計曰く:「賊は草に依り營を結す,當まさに火を用ひ之を攻むべし。」遂に軍士をして,人每ごとに草一把を束ね,暗地に埋伏令せしめる。其夜大風忽たちまち起こる。二更以後,一齊に火を縱はなち,嵩與と儁各おのおの兵を引き賊寨を攻擊し,火焰天に張り,賊眾は驚き慌て,馬鞍に及およば不ず,人甲に及およば不ず,四散奔走す。 天明に殺到し,張梁、張寶は敗殘軍士を引き,奪路し而走る。忽ち一彪の軍馬を見て,盡く紅旗を打ち,當まさに頭に來て到り,截住路を去る。為首閃出一將:身長は七尺,細眼長髯;官拜は騎都尉;沛國譙郡人也なり,姓は曹,名は操,字は孟德。操の父は曹嵩,本姓は夏侯氏;中常侍曹騰之の養子為ために因りて,故ゆえに冒姓は曹という。曹嵩は操を生み,小字は阿瞞,一またの名なを吉利という。操は幼い時,游獵を好み,歌舞を喜ぶ;權謀有り,機變多し。 截住:訳が分からん? 因為~故:現代中国語の因為~所以と同じなのだろうか?因為は原因を表し、所以はその結果を表す。 操は叔父有り,操の游蕩度無くを見て,嘗て之を怒り,曹嵩に於て言う。嵩は操を責む。操は忽ち心に一計を生む:叔父を來るを見て,詐りて地に於て倒れ,中風之の狀を作す。叔父は驚いて嵩に告ぐ,嵩は急いで之を視て,操は故に恙つつが無し。嵩曰く:「叔言う汝は中風,今已すでに愈乎?」操曰く:「兒は自來此の病い無し;叔父失愛に因よりて,故に見て罔あざむく耳のみ。」嵩は其言を信ず。後に叔父但言を操過ぎ,嵩は並不聽きかず。因此これによって,操は恣意しい放蕩を得る。時人有橋玄者,謂いて操曰く:「天下將まさに亂る,非命世之才濟なす能あたわ不ず。能く安之者,其れ君在るや乎?」南陽何颙 操を見て,言う:「漢室將まさに亡ぶ,安ぞ天下者は,必ず此の人也。」汝南の許劭,有知人之名。操往きて之を見て,問いて曰く:「我は何如いかなる人か?」劭不答こたえず。又問いて,劭曰く:「子は治世之の能臣,亂世之の奸雄也。」操は言を聞き大いに喜ぶ。年は二十,孝廉に舉げられ,郎と為る,洛陽北都尉に除され。初めて任に到り,即すぐに縣之四門に於て五色棒十餘條を設け,犯禁者有り,富豪避けず,皆之を責む。中常侍の蹇碩之の叔,刀を提げ夜行し,操巡夜し拿住たいほし,就すぐに棒で之を責む。由是このゆえ,內外に敢えて犯者莫く,威名は頗すこぶる震える。後に頓丘令と為り。黃巾起こるに因りて,騎都尉拜すと為り,引馬步軍五千を,前さきに來て潁川で戰い助く。正值まさに張梁、張寶敗走し,曹操攔住,大殺一陣し,斬首萬餘級あり,旗旌奪い得て、金鼓、馬匹極て多し。張梁、張寶死戰得えて脫する。操見て皇甫嵩、朱儁,随いて即すぐに兵引き張梁、張寶追襲して去き了おえた。 操見過:過は過去形? 卻說玄德引關、張來潁川,聽得喊殺之聲,又望見火光燭天,急引兵來時,賊已敗散。玄德見皇甫嵩、朱儁,具道盧植之意。嵩曰:「張梁、張寶勢窮力乏,必投廣宗去依張角。玄德可即星夜往助。」玄德領命,遂引兵復回。到得半路,只見一簇軍馬,護送一輛檻車;車中之囚,乃盧植也。玄德大驚,滾鞍下馬,問其緣故。植曰:「我圍張角,將次可破;因角用妖術,未能即勝。朝廷差黃門左豐前來體探,問我索取賄賂。我答曰:『軍糧尚缺,安有餘錢奉承天使?』左豐挾恨,回奏朝廷,說我高壘不戰,惰慢軍心;因此朝廷震怒,遣中郎將董卓來代將我兵,取我回京問罪。」張飛聽罷,大怒,要斬護送軍人,以救盧植。玄德急止之曰:「朝廷自有公論,汝豈可造次?」軍士簇擁盧植去了。 卻說さてまた玄德關、張を引き潁川に來て,喊殺之聲を聽き得て,又た火光燭天を望み見て,急いで兵を引きいて時を來たり,賊は已すでに敗散す。玄德皇甫嵩を見て、朱儁,盧植之意を具道す。嵩曰く:「張梁、張寶勢窮り力乏しく,必ず廣宗に投じて張角依りて去く。玄德即すぐに星夜に往きて助く可べし。」玄德領命し,遂に兵を引きいて復また回かえる。半路に到り得て,只見るは一簇ひとむれの軍馬,一輛の檻車を護送す;車中之の囚,乃ち盧植也。玄德は大いに驚き,滾鞍下馬し,其その緣故を問う。植曰く:「我は張角を圍かこみ,將まさに次つぎ破す可べし;角の妖術用いるに因りて,未だ即勝つに能わず。朝廷は黃門左豐を差しだし前さきに來たりて體を探し,我に賄賂を索取を問う。我は答えて曰く:『軍糧は尚なお缺かく,安ぞ天使に奉承する餘錢有るや?』左豐挾は恨み,朝廷に回かえり奏そうずるは,我は高壘にて不戰たたかわずと說とく,惰慢軍心す;因此これによりて朝廷は震怒し,中郎將董卓を遣し來て我兵を代將す,我を取りて京に回かえし罪問う。」張飛聽きき罷やめ,大いに怒り,要もとむは護送軍人を斬し,以て盧植を救う。玄德は急いで之を止めて曰く:「朝廷は自有公論あり,汝は豈あに造次す可し?」軍士の簇むれ盧植を擁し去了さった。 滾鞍 要斬護送軍人 關公曰:「盧中郎已被逮,別人領兵,我等去無所依,不如且回涿郡。」玄德從其言,遂引軍北行。行無二日,忽聞山後喊聲大震。玄德引關、張縱馬上高岡望之,見漢軍大敗,後面漫山塞野,黃巾蓋地而來,旗上大書「天公將軍」。玄德曰:「此張角也!可速戰。」三人飛馬引軍而出。張角正殺敗董卓,乘勢趕來,忽遇三人衝殺,角軍大亂,敗走五十餘里。三人救了董卓回寨。卓問三人現居何職。玄德曰:「白身。」卓甚輕之,不為禮。玄德出,張飛大怒曰:「我等親赴血戰,救了這廝,他卻如此無禮!若不殺他,難消我氣!」便要提刀入帳來殺董卓。正是: 人情勢利古猶今,誰識英雄是白身? 安得快人如翼德,盡誅世上負心人! 畢竟董卓性命如何,且聽下文分解。‐ 關公曰く:「盧中郎已すでに被逮つかまり,別人が領兵し,我等は去く所無くに依りて,且つ涿郡に回るに不如しかず。」玄德は其言從い,遂に軍引き北へ行く。行くに無くは二日,忽ち聞山の後ろから喊ときの聲が大いに震える。玄德は關、張引き、縱馬し高岡に上り之を望む,漢軍大敗を見,後面は漫山が野に塞ぎ,黃巾の蓋地而に來て,旗上に大いに書くは「天公將軍」。玄德曰く:「此れ張角也!速に戰う可べし。」三人飛馬引軍し而出ず。張角は正に董卓を殺敗す,乘勢は趕來し,忽ち遇三人衝殺,角軍は大亂し,敗走するは五十餘里。三人は董卓を救了い寨に回る。卓は三人の現居何職問う。玄德曰く:「白身。」卓は甚だ之を輕じ,禮を不為なさず。玄德は出で,張飛は大いに怒りて曰く:「我等は親しく赴き血戰す,救了って這廝このよう,他かれは卻さる如く此この無禮!若し他を不殺ころさざるは,我氣が難消す!」便ち提刀を帳に入り來りて董卓を殺すを要もとむ。正に是れ: 人情勢利せいり古いにしえ猶なお今いまのごとし,誰が識しる英雄是これ白身? 安いかでか快人が如く翼德得て,盡く世上負心の人を誅せん! 畢竟ひっきょう董卓の性命は如何いかん,且つ聽くは下文に解き分けり。‐ 要提刀入帳來殺董卓 第二回 且說さてまた董卓字は仲穎,隴西臨洮の人也なり。 官を河東太守拜すが,自來より驕傲なり。當日玄德に怠慢了し,張飛性を發し,便ただちに之を殺さんと欲す。玄德與と關公急いで之を止めて曰く:「他は是これ朝廷の命官なり,豈に擅殺可きか?」飛曰く:「若し這廝こやつを殺不ざれば,反って要在他の部下令を聽き,其の實は甘くない!二兄は便ち此ここに在り住むを要す,我は自投なげ別れて處ここを去さる也なり!」玄德曰く:「我三人は義と生死同じくして,豈に相離れる可べからんや?便すぐに都みな投げ別れ處ここを去さるに若かざる。」 飛曰く:「若し如此かくのごとくば、,稍ようやく吾れの恨み解く。」 於是三人連夜引軍來投朱儁。儁待之甚厚,合兵一處,進討張寶。是時曹操自跟皇甫嵩討張梁,大戰於曲陽。這裏朱儁進攻張寶。張寶引賊眾八九萬,屯於山後。儁令玄德為其先鋒,與賊對敵。張寶遣副將高昇出馬搦戰。玄德使張飛擊之。 於是ここにおいて三人は連夜軍を引きつれ朱儁に來投す。儁は之を甚だ厚く待かんたいし,兵を一處に合せ,張寶を進み討つ。是時このとき曹操は自跟皇甫嵩と張梁を討ち,曲陽に於て大戰す。這この裏うら朱儁は張寶に進攻す。張寶は賊眾八九萬を引きいて,山後に於て屯す。儁は玄德をして其その先鋒を為さ令しめ,賊與と對敵す。張寶は副將の高昇をして出馬せしめ搦戰す。玄德は使張飛をして之を擊つ。 飛縱馬挺矛,與昇交戰,不數合,刺昇落馬。玄德麾軍直衝過去。張寶就馬上披髮仗劍,作起妖法。只見風雷大作,一股黑氣,從天而降:黑氣中似有無限人馬殺來。飛は馬を縱にし矛を挺し,昇與と交戰す,數合せ不ず,昇を刺し落馬す。玄德は軍を麾(さしまね)き直ちに衝し過ぎ去ゆく。 張寶はすぐに披髮仗劍,妖法を作し起す。 就馬上:すぐに中国語(白話)で訳した 只見るは風雷大いに作し,一股の黑氣と,天に従い而して降る: 黑氣中似有無限人馬殺來。 玄德は連忙して軍を回かえし,軍中は大いに亂れ,敗陣而して歸り,朱儁と計議す。儁曰く:「彼は妖術を用いる、我は來日あくるひ豬(いのしし)羊狗の血を宰すべし,令軍士をして山頭に伏して;候賊趕おい來こし,從高坡上潑之,其の法を可解とくべし。」玄德令を聽き、關公に撥し、張飛各軍一千を引き、山の後の高岡之の上に伏し豬いのしし羊ひつじ狗いぬの血ちを盛り並びに穢物を準備す。次の日,張寶は旗を搖らし鼓,引軍して搦戰す,玄德は出迎えり。交鋒之の際,張寶は作法するは,風雷大いに作し,砂は飛び石走り,黑氣は漫天,滾滾と人馬,天自より而下る。 玄德は馬を撥して便すぐに走にげ,張寶は兵を驅かけ趕おい來り。將まさに山頭過ぎ,關、張は軍を伏して號砲を放し起こし,將まさにに穢物を齊潑す。但ただ見るは空中より紙の人、草の馬,紛紛として地に墜ち;風雷頓して息やみ,砂石も飛ば不ず。 張寶は法を見て解き了おえ,急に軍を退くことを欲す。左は關公,右は張飛,兩軍都みな出で,背後に玄德、朱儁は一齊に趕おい上げ,賊兵は大敗す。玄德は地公將軍旗號を望み見て,飛馬趕おい來て,張寶は落ち荒れて而走る。玄德は箭やを發し,其の左臂に中あたる。
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/38.html
←巻五 本紀第五 二十二年(734)正月己巳、東都にいった。 二月壬寅、秦州で地震があり、給復壓死者家一年、三人者三年。 四月甲辰、降死罪以下。甲寅、北庭都護の劉渙が反乱を計画し、処刑された。 五月戊子、裴耀卿が侍中となり、張九齢が中書令となり、黄門侍郎の李林甫が礼部尚書・同中書門下三品となった。この日、大風で木が抜けた。 六月壬辰、幽州節度使の張守珪が捕らえた奚・契丹を献上した。 七月己巳、薛王李業が薨去した。 十一月甲戌、免関内・河南八等以下戸田不百畝者今歳租。 十二月戊子朔、日食があった。乙巳、張守珪が契丹と戦い、これを破り、その王の屈烈を殺した。 二十三年(735)正月乙亥、藉田を耕した。大赦した。侍老百歳以上版授上州刺史、九十以上中州刺史、八十以上上州司馬。賜陪位官勲・爵。征防兵父母年七十者遣還。民間に三日の宴会を賜った。 八月戊子、免寡惸独今歳税米。 十月戊申、突騎施が辺境を寇した。 閏十一月壬午朔、日食があった。 この冬、東都の人の劉普会がそむき、処刑された。 二十四年(736)正月丙午、北庭都護の蓋嘉運が突騎施と戦い、これを破った。 四月丁丑、降死罪以下。 五月丙午、醴泉の人の劉志誠がそむき、処刑された。 八月甲寅、突騎施が和を請うた。乙亥、汴王李璥が薨去した。 十月戊申、京師で地震があった。甲子、次華州、供頓した州のこの年の税を免除し、賜刺史・県令中上考。降両京死罪、流以下原之。丁卯、東都から到着した。 十一月辛丑、東都で地震があった。壬寅、裴耀卿・張九齢が宰相を退いた。李林甫が中書令を兼ね、朔方軍節度副大使の牛仙客が工部尚書・同中書門下三品となった。 十二月戊申、慶王李琮が司徒となった。 二十五年(737)三月乙酉、張守珪が契丹と捺禄山で戦い、これを破った。辛卯、河西節度副大使の崔希逸が吐蕃と青海で戦い、これを破った。 四月辛酉、監察御史の周子諒を殺した。乙丑、皇太子李瑛および鄂王李瑤・光王李琚を廃して庶人とし、かれらをみな殺した。 十一月壬申、温泉宮に幸した。乙酉、温泉宮から到着した。 十二月丙午、恵妃武氏が薨去した。丁巳、追冊して皇后とした。 二十六年(738)正月甲戌、潮州刺史の陳思挺が反乱を計画し、処刑された。乙亥、牛仙客が侍中となった。丁丑、迎氣于東郊。降死罪、流以下原之、以京兆稻田給貧民、禁王公献珍物、賜文武官帛。壬辰、李林甫が隴右節度副大使を兼ねた。 二月乙卯、牛仙客が河東節度副大使を兼ねた。 三月丙子、有星孛于紫微。癸巳、京師で地震があった。吐蕃が河西を寇し、崔希逸がこれを破り、鄯州都督の杜希望が其新城を落とした。 四月己亥、有司讀時令。降死罪、流以下原之。 五月乙酉、李林甫が河西節度副大使を兼ねた。 六月庚子、忠王李璵を立てて皇太子とした。 七月己巳、大赦した。賜文武九品以上及五品以上子為父後者勲一転、侍老粟帛、加版授。京畿の下戸にこの年の租の半分を免除した。民間に三日の宴会を賜った。 九月丙申朔、日食があった。庚子、益州長史の王昱が吐蕃と安戎城で戦い、敗れた。 十月戊寅、温泉宮に幸した。壬辰、温泉宮から到着した。 二十七年(739)正月壬寅、栄王李琬が隴右を巡按した。 二月己巳、群臣が尊号をたてまつって開元聖文神武皇帝といい、大赦した。この年の税を免除した。文武の官に階・爵を賜った。版授侍老百歳以上下州刺史、婦人郡君。九十以上上州司馬、婦人県君。八十以上県令、婦人鄉君。民間に五日の宴会を賜った。 八月乙亥、磧西節度使の蓋嘉運が突騎施を賀邏嶺で破り、その可汗の吐火仙を捕らえた。壬午、吐蕃が辺境を寇し、河西・隴右節度使の蕭炅がこれを破った。 十月丙戌、温泉宮に幸した。十一月辛丑、温泉宮から到着した。 二十八年(740)正月癸巳、温泉宮に幸した。庚子、温泉宮から到着した。 三月丁亥朔、日食があった。壬子、益州司馬の章仇兼瓊が吐蕃を破り、安戎城を落とした。 五月癸卯、吐蕃が安戎城を寇し、章仇兼瓊がまたこれを破った。 十月甲子、温泉宮に幸した。寿王の妃の楊氏を道士とし、太真と号した。戊辰、徐・泗二州で蠶がならなかったため、この年の税を免除した。辛巳、温泉宮から到着した。 十一月、牛仙客が朔方・河東節度副大使を辞任した。 二十九年(741)正月癸巳、温泉宮に幸した。丁酉、玄元皇帝の廟を立て、厚葬を禁じた。庚子、温泉宮から到着した。 五月庚戌、道徳経および荘子・列子・文子を習わせた。死罪を一等降して、流以下を赦した。 七月乙亥、伊・洛水が氾濫した。 九月丁卯、大雨雪。 十月丙申、温泉宮に幸した。戊戌、黜陟官吏を派遣した。 十一月庚戌、邠王李守礼が薨去した。辛酉、温泉宮から到着した。己巳、雨が木を凍らせた。辛未、寧王李憲が薨去し、追冊して皇帝とし、その妃の元氏を皇后とした。 十二月癸未、吐蕃が石堡城を陷した。 天宝元年(742)正月丁未、大赦し、改元した。詔して京の文武官で刺史となるのにたえうる人材を自薦させた。侍老八十以上に粟帛を、九品以上に勲両転を賜った。甲寅、陳王府参軍の田同秀が「玄元皇帝(老子)が丹鳳門街に出現した」と報告した。 二月丁亥、群臣が尊号をたてまつって開元天宝聖文神武皇帝といった。辛卯、玄元皇帝を新廟で享した。甲午、太廟で享した。丙申、天地を南郊で合わせて祭り、大赦した。侍老に版授を加え、文武の官に階・爵を賜った。侍中を改めて左相とし、中書令を右相とし、東都を東京とし、北都を北京とし、州を郡とし、刺史を太守とした。 七月癸卯朔、日食があった。辛未、牛仙客が薨去した。 八月丁丑、刑部尚書の李適之が左相となった。 十月丁酉、温泉宮に幸した。十一月己巳、温泉宮から到着した。 十二月戊戌、隴右節度使の皇甫惟明が吐蕃と青海で戦い、これを破った。庚子、河西節度使の王倕が吐蕃の漁海・遊弈軍に勝利した。朔方軍節度使の王忠嗣が奚と紫乾河で戦い、これを破り、そのまま突厥を討伐した。 この冬、凍らなかった。 二年(743)正月乙卯、昇仙宮を作った。丙辰、玄元皇帝を加号して大聖祖といった。 三月壬子、玄元宮に享した、大聖祖父周上御大夫敬を追号して先天太皇といい、咎繇を徳明皇帝といい、涼武昭王を興聖皇帝といった。西京の玄元宮を改めて太清宮といい、東京を太微宮といった。 四月己卯、皇甫惟明が吐蕃の洪済城を落とした。 六月甲戌、東京の応天門観に落雷があって焼失した。 十月戊寅、温泉宮に幸した。十一月乙卯、温泉宮から到着した。 十二月壬午、海賊の呉令光が永嘉郡を寇した。 この冬、雪がなかった。 三載(744)正月丙申、年を改めて載とした。死罪を一等降し、流以下を赦した。辛丑、温泉宮に幸した。辛亥、隕石が東南に堕ちた。 二月庚午、温泉宮から到着した。丁丑、河南尹の裴敦復・晋陵郡太守の劉同昇・南海郡太守の劉巨鱗が呉令光を討った。閏月、呉令光が処刑された。 三月壬申、死罪一等を降し、流以下を赦した。 八月丙午、抜悉蜜が突厥を攻め、烏蘇米施可汗を殺し、来朝してその首を献じた。 十月甲午、温泉宮に幸した。十一月丁卯、温泉宮から到着した。 十二月癸丑、九宮貴神を東郊で祠り、大赦した。天下の家に孝経を蔵するよう詔した。文武の官に階・爵を、侍老に粟帛を、民間に三日の宴会を賜った。 四載(745)正月丙戌、王忠嗣が突厥と薩河内山で戦い、これを破った。 三月壬申、外孫の独孤氏の女を静楽公主とし、契丹の松漠都督の李懐節に嫁がせた。楊氏の女を宜芳公主とし、奚の饒楽都督の李延寵に嫁がせた。 八月壬寅、楊太真を立てて貴妃とした。 九月、契丹・奚がともにその公主を殺して叛いた。甲申、皇甫惟明が吐蕃と石堡城で戦い、副将褚誗が死んだ。 十月戊戌、温泉宮に幸した。十二月戊戌、温泉宮から到着した。 五載(746)正月乙亥、六品以下の員外官を停止した。 三月丙子、黜陟官吏を派遣した。 四月庚寅、李適之が宰相を退いた。丁酉、門下侍郎の陳希烈が同中書門下平章事(宰相)となった。 五月壬子朔、日食があった。 七月、括蒼郡太守の韋堅と播川郡太守の皇甫惟明を殺した。 十月戊戌、温泉宮に幸した。十一月乙巳、温泉宮から到着した。 十二月甲戌、賛善大夫の杜有鄰・著作郎の王曾・左驍衛兵曹参軍の柳勣・左司禦率府倉曹参軍の王修己・右武衛司戈の盧寧・左威衛参軍の徐徴を殺した。 六載(747)正月辛巳、北海郡太守の李邕・淄川郡太守の裴敦復を殺した。丁亥、太廟で享した。戊子、南郊で有事摂祭し、大赦し、流人老者の致仕を許し、立仗鋜を廃止した。文武の官に階・爵を、侍老に粟帛を、民間に三日の宴会を賜った。 三月甲辰、陳希烈が左相となった。 七月乙酉、旱害のため降死罪、流以下原之。 十月戊申、華清宮に幸した。 十一月丁酉、戸部侍郎の楊慎矜およびその弟の少府少監の楊慎餘・洛陽令の楊慎名を殺した。 十二月癸丑、華清宮から到着した。 この年、安西副都護の高仙芝が小勃律国と戦い、これを破った。 七載(748)五月壬午、群臣が尊号をたてまつって開元天宝聖文神武応道皇帝といい、大赦し、来たる年の租・庸を免除した。魏・周・隋を三恪とした。京城の父老に物人十段を賜った。七十以上に版授して本人を県令、婦人を県君とした。六十以上を県丞とした。天下の侍老で百歳以上を上郡太守、婦人を郡君とした。九十以上を上郡司馬、婦人を県君とした。八十以上を県令、婦人を郷君とした。文武官に勲両転を賜い、民間に三日の宴会を賜った。 十月庚戌、華清宮に幸した。十二月辛酉、華清宮から到着した。 八載(749)四月、咸寧郡太守の趙奉璋を殺した。 六月乙卯、隴右節度使の哥舒翰が吐蕃と石堡城で戦い、これを破った。 閏月丙寅、太清宮に謁し、玄元皇帝に号をたてまつって聖祖大道玄元皇帝とし、祖宗の帝后に諡を増した。群臣は尊号をたてまつって開元天地大宝聖文神武応道皇帝とし、大赦し、男子七十・婦人七十五以上に一子侍を給し、文武官に階・爵を賜い、民で戸をなす者に古爵を封じ、三日の宴会とした。 十月乙丑、華清宮に幸した。この月、特進の何履光が十道の兵を率いて雲南を討伐した。 十一月丁巳、御史中丞の楊釗の荘に幸した。 九載(750)正月己亥、華清宮から到着した。丁巳、詔以十一月封華嶽。 三月辛亥、華嶽廟災、関内旱、乃停封。 五月庚寅、慮囚。 九月辛卯、商・周・漢を三恪とした。 十月庚申、華清宮に幸した。太白山の人の王玄翼が「玄元皇帝が宝仙洞に降臨した。」といった。 十二月乙亥、華清宮から到着した。 この年、雲南蛮が雲南郡を陷し、都督の張虔陀がここに死んだ。 十載(751)正月壬辰、太清宮で朝献した。癸巳、太廟で朝享した。甲午、南郊で有事摂祭し、大赦し、侍老に粟帛を賜り、三日の宴会をおこなった。丁酉、李林甫が朔方軍節度副大使・安北副大都護を兼ねた。己亥、伝国の宝を改めて「承天大宝」とした。戊申、安西四鎮節度使の高仙芝が突騎施可汗および石国王を捕らえた。 四月壬午、剣南節度使の鮮于仲通が雲南蛮と西洱河で戦い、大敗し、大将の王天運がここに死に、雲南都護府が陥落した。 七月、高仙芝が大食と恒邏斯城で戦い、敗れた。 八月、范陽節度副大使の安禄山が契丹と吐護真河で戦い、敗れた。乙卯、広陵で津波があった。丙辰、武庫で火災があった。 十月壬子、華清宮に幸した。 十一月乙未、楊国忠の邸宅に幸した。 十一載(752)正月丁亥、華清宮から到着した。 二月庚午、突厥の部落の阿布思が辺境を寇した。 三月乙巳、尚書省の八部の名を改めた。 四月乙酉、戸部郎中の王銲と京兆の人の邢縡が反乱を計画し、処刑された。丙戌、御史大夫の王鉷を殺した。李林甫が安北副大都護を辞任した。 五月戊申、慶王李琮が薨去した。甲子、東京で大風のため木が抜けた。 六月壬午、御史大夫兼剣南節度使の楊国忠が吐蕃を雲南で破り、故洪城を落とした。 十月戊寅、華清宮に幸した。 十一月乙卯、李林甫が薨去した。庚申、楊国忠が右相となった。 十二月丁亥、華清宮から到着した。 十二載(753)五月己酉、復魏・周・隋為三恪。 六月、阿布思部落が降った。 八月、中書門下で囚人の再審を行った。 九月甲寅、葛邏禄の葉護が阿布思を捕らえた。 十月戊寅、華清宮に幸した。 十三載(754)正月丙午、華清宮から到着した。 二月壬申、太清宮で朝献し、上玄元皇帝の号を加えて大聖祖高上大道金闕玄元天皇大帝といった。癸酉、太廟に朝享し、祖宗の謚を増やした。甲戌、群臣が尊号をたてまつって開元天地大宝聖文神武証道孝徳皇帝といい、大赦し、左降官で父母の喪に遭った者は帰郷を聴した。孝や義で表彰された者に勲両転を賜った。侍老で百歳以上に本郡太守、婦人に郡夫人を版授した。九十以上を郡長史、婦人を郡君とした。八十以上を県令、婦人を県君とした。太守に爵一級を賜い、県令に勲両転、民間に三日の宴会を賜った。丁丑、楊国忠が司空となった。この日、雨土。 三月、隴右・河西節度使の哥舒翰が吐蕃を破り、河源九曲を回復した。辛酉、大風で木が抜けた。 五月壬戌、観酺于勤政樓、北庭都護の程千里が捕らえた阿布思を献上した。 六月乙丑朔、日食があった。剣南節度留後の李宓が雲南蛮と西洱河で戦い、ここに死んだ。 八月丙戌、陳希烈が宰相を退いた。文部侍郎の韋見素が武部尚書・同中書門下平章事となった。 この秋、瀍・洛水が氾濫した。 十月乙酉、華清宮に幸した。十二月戊午、華清宮から到着した。 十四載(755)三月壬午、安禄山が契丹と潢水で戦い、これを破った。 五月、浙西で天から声がした。 八月辛卯、死罪を一等降して、流以下を赦した。この年の租・庸の半分を免除した。侍老に米を賜った。 十月庚寅、華清宮に幸した。 十一月、安禄山がそむき、河北諸郡を陷した。范陽の将の何千年が河東節度使の楊光翽を殺した。壬申、伊西節度使の封常清が范陽・平盧節度使となり、安禄山を討った。丙子、華清宮から到着した。九原郡太守の郭子儀が朔方軍節度副大使となり、右羽林軍大将軍の王承業が太原尹となり、衛尉卿の張介然が河南節度採訪使となり、右金吾大将軍の程千里が上党郡長史となり、安禄山を討った。丁丑、栄王李琬が東討元帥となり、高仙芝が副元帥となった。 十二月丁亥、安禄山が霊昌郡を陷した。辛卯、陳留郡を陷し、太守の郭納を捕らえ、張介然がここに死んだ。癸巳、安禄山が滎陽郡を陷し、太守の崔無詖がここに死んだ。丙申、封常清が安禄山と甖子谷で戦い、敗れた。丁酉、東京を陷し、留守の李憕・御史中丞の盧弈・判官の蒋清がここに死んだ。河南尹の達奚珣が叛いて安禄山に降った。 己亥、恒山郡太守の顔杲卿が何千年を破り、これを捕らえ、趙・鉅鹿・広平・清河・河間・景城・楽安・博平・博陵・上谷・文安・信都・魏・鄴の十四郡を落とした。 癸卯、封常清・高仙芝が処刑された。哥舒翰が持節・統領処置太子・先鋒兵馬副元帥となり、潼関を守った。甲辰、郭子儀が安禄山の将の高秀巌と河曲で戦い、これを破った。戊申、栄王李琬が薨去した。壬子、済南郡太守の李随・単父尉の賈賁・濮陽の人の尚衡が兵をもって安禄山を討った。この月、平原郡太守の顔真卿・饒陽郡太守の盧全誠・司馬の李正が兵をもって安禄山を討った。 十五載(756)正月乙卯、東平郡太守の嗣呉王李祗が兵をもって安禄山を討った。丙辰、李随が河南節度使となり、安禄山を討った。壬戌、安禄山が恒山郡を陷し、顔杲卿・袁履謙を捕らえ、鄴・廣平・鉅鹿・趙・上谷・博陵・文安・魏・信都の九郡を陷した。癸亥、朔方軍節度副使の李光弼が河東節度副大使となり、安禄山を討った。甲子、南陽郡太守の魯炅が南陽節度使となり、嶺南・黔中・山南東道の兵を率いて葉県に駐屯した。乙丑、安慶緒が潼関を寇し、哥舒翰がこれを破った。丁丑、真源令の張巡が兵をもって安禄山を討った。 二月己亥、嗣呉王李祗が安禄山の将の謝元同と陳留で戦い、これを破った。李光弼が常山郡を落とし、郭子儀が井陘を出て李光弼と合流し、安禄山の将の史思明と戦い、これを破った。庚子、賈賁が雍丘で戦い、ここに死んだ。 三月、顔真卿が魏郡を落とした。史思明が饒陽・平原を寇した。乙卯、張巡が安禄山の将の令狐潮と雍丘で戦い、これを破った。丙辰、戸部尚書の安思順と太僕卿の安元貞を殺した。乙丑、李光弼が趙郡を落とした。 四月乙酉、北海郡太守の賀蘭進明が兵をもって平原を救援した。丙午、太子左賛善大夫の来瑱が潁川郡太守となり、招討使を兼ねた。 五月丁巳、魯炅が安禄山と滍水で戦い、敗れ、南陽に逃れた。戊辰、嗣虢王李巨が河南節度使となった。 六月癸未、顔真卿が安禄山の将の袁知泰と堂邑で戦い、これを破った。賀蘭進明が信都を落とした。丙戌、哥舒翰が安禄山と霊宝西原で戦い、敗れた。この日、郭子儀・李光弼が史思明と嘉山で戦い、これを破った。辛卯、蕃将の火抜帰仁が哥舒翰を捕らえ、叛いて安禄山に降り、そのまま潼関・上洛郡を陷した。 甲午、親征のことを詔した。京兆尹の崔光遠が西京留守・招討処置使となった。丙申、望賢宮を行在とした。丁酉、馬嵬に行き、左龍武大将軍の陳玄礼が楊国忠および御史大夫の魏方進・太常卿の楊暄を殺した。貴妃楊氏に死を賜った。この日、張巡が安禄山の将の翟伯玉と白沙堝で戦い、これを破った。己亥、安禄山が京師を陷した。辛丑、陳倉に行った。閑厩使の任沙門が叛いて安禄山に降った。丙午、河池郡に行った。剣南節度使の崔円が中書侍郎・同中書門下平章事となった。 七月甲子、普安郡に行った。憲部侍郎の房琯が文部尚書・同中書門下平章事となった。丁卯、皇太子が天下兵馬元帥となり、朔方・河東・河北・平盧節度使を都統し、御史中丞の裴冕・隴西郡司馬の劉秩がこれを補佐した。江陵大都督の永王李璘が山南東路黔中江南西路節度使となり、盛王李琦が広陵郡都督・江南東路淮南道節度使となり、豊王李珙が武威郡都督・河西隴右安西北庭節度使となった。庚午、巴西郡に行った。太守の崔渙を門下侍郎・同中書門下平章事とし、韋見素を左相とした。庚辰、蜀郡に行った。 八月壬午、大赦し、文武の官に階・爵を賜り、安禄山のため脅迫されて従わざるを得ず、そして自ら帰順した者は赦した。癸巳、皇太子が霊武で皇帝の位につき、以聞した。庚子、上皇天帝は誥して韋見素・房琯・崔渙を派遣し、皇帝を奉って霊武で冊立した。 十一月甲寅、憲部尚書の李麟が同中書門下平章事となった。 十二月甲辰、永王李璘がそむき、廃されて庶人となった。 至徳二載(757)正月庚戌、誥求天下孝悌可旌者。甲子、剣南の健児の賈秀がそむき、処刑された。三月庚午、通化郡が玄元皇帝が降臨したと言上した。五月庚申、誥追冊貴嬪楊氏為皇后。七月庚戌、行営の健児の李季がそむき、処刑された。庚午、剣南の健児の郭千仞がそむき、処刑された。十月丁巳、皇帝復京師、以聞。誥降剣南囚罪、流以下原之。 十二月丁未、蜀郡から到着し、興慶宮に居住した。三載(758)、号をたてまつって太上至道聖皇天帝といった。上元元年(760)、西内甘露殿に居をうつした。元年建巳月、神龍殿で崩じ、年は七十八であった。 賛曰:睿宗因其子之功、而在位不久、固無可稱者。嗚呼、女子之禍於人者甚矣!自高祖至于中宗、數十年間、再罹女禍、唐祚既絕而復續、中宗不免其身、韋氏遂以滅族。玄宗親平其亂、可以鑒矣、而又敗以女子。方其勵精政事、開元之際、幾致太平、何其盛也!及侈心一動、窮天下之欲不足為其楽、而溺其所甚愛、忘其所可戒、至於竄身失国而不悔。考其始終之異、其性習之相遠也至於如此。可不慎哉!可不慎哉! 前巻 『新唐書』 次巻 巻四 本紀第四 『新唐書』巻五 本紀第五 巻六 本紀第六
https://w.atwiki.jp/sangokushi-taisen_ds/pages/95.html
涼001 UC閻行 騎 No.183 C胡車児 歩 涼002 R王異 騎 涼010 SR蔡文姫 弓 涼003 R賈詡 騎 涼011 C蔡邕 騎 涼004 R華雄 騎 No.186 UC徐栄 騎 涼005 C韓遂 騎 No.188 UC鄒 歩 涼006 C魏続 弓 涼012 UC鄒 歩 涼007 C牛輔 騎 No.189 C宋憲 歩 No.180 UC厳氏 弓 涼013 C臧覇 騎 涼008 UC高順 騎 No.191 C張繍 騎 涼009 C候成 騎 _ No.192 R貂蝉 騎 >> 涼-2 【涼001】UC閻行 【涼002】R王異 【涼003】R賈詡 【涼004】R華雄 【涼005】C韓遂 【涼006】C魏続 【涼007】C牛輔 【No.180】UC厳氏 【涼008】UC高順 【涼009】C候成 【No.183】C胡車児 【涼010】SR蔡文姫 【涼011】C蔡邕 【No.186】UC徐栄 【No.188】UC鄒 【涼012】UC鄒 【No.189】C宋憲 【涼013】C臧覇 【No.191】C張繍 【No.192】R貂蝉 【涼001】UC閻行 武将名 えんこう なし 閻行 韓遂の娘婿。剛勇で名を馳せた。韓遂と馬騰が戦った際、閻行は馬騰の息子で、同じく剛勇で名高い馬超と一騎討ちを演じた。閻行は矛で馬超を突き刺し、さらに折れた矛の柄で馬超のうなじを殴りつけ、かの馬超を殺す寸前まで追い込んだ。「貴様も腕におぼえがあるらしいな?」 コスト 1.5 兵種 騎兵 能力 武力6 知力4 特技 なし 計略 蚩尤の如く 自身の武力と移動速度が上がる。さらに計略効果中、突撃状態を続けることにより、武力が上昇していく。 必要士気4 戦器 薬 強壮丹 最大兵力UP(10%) Illustration 原友和 UC曹仁と同じ基本性能だが、計略は半神速+加速時阿蒙と「神速戦法」と同じ士気とは思えぬほどの上位版。 加速する前の時点で武力+2、突撃状態を続けると武力が上がり、突撃解除されると止まる(武力はそのまま)。 しかも、一度止まっても突撃を再開すると再び武力が上昇していく。 無駄に高い武力を目指して走り回らなくても、武力を12あたりまで上げてからの連続突撃でも十分に強い。 二度目、三度目と突撃時の武力は上昇していくので余計に強く感じる。 即効性はないが、蚩尤の如くで走りまくって武力を上げた後に、R呂布の生け贄にすることも可能。 ちなみに蚩尤というのは、中国神話で天界の王である黄帝と戦った大邪神(戦神)。 単騎で場をひっくり返す強さを誇る計略、まさに「蚩尤」。 【涼002】R王異 武将名 おうい なし 王異 益州刺史、趙昴の妻。知勇と節義を兼ね備えた烈女で、馬超との戦いで息子を人質に取られた際には、「恥辱をすすぐためなら、自分の首を失っても大した事ではない。まして子が何だ!」と決然として敵に挑み、これを打ち破った。「さあアンタ達、ここが踏ん張りどころだよ!」 コスト 1.5 兵種 騎兵 能力 武力4 知力5 特技 防柵 魅力 計略 金城鉄壁 【ため計略】(計略ボタンを押してから一定時間で発動する。この計略は反計されない)自軍の城ゲージが回復する。 必要士気4 戦器 馬 西涼麗馬 移動速度UP Illustration 安野モヨコ 金城鉄壁はため時間がかなり長いので注意。その長さ、なんと脅威の9c。 ため始めた途端敵城から周瑜がのこのこ歩いてきて赤壁大火で台無しなんてことはざらである。 しかしその回復量は相当なもので、城ゲージを10で考えると3近くは回復する流星キラー計略。 暴剣や破滅、望郷のお供に。暴虐は派手に削れるようになったので一人で修復は厳しい。 武力4柵馬は貴重な戦力なのだが只でさえライバルが多い涼の1.5枠。他武将達の便利な計略に押されて出番は少ないか。 それでも女性単デッキでは呂姫と並ぶ不動のエース、W姫ライダーの片翼である。 【涼003】R賈詡 武将名 かく ぶんわ 深遠なる策士 賈詡 -文和- 董卓軍配下の参謀。董卓が呂布に殺されると、董卓の配下らを団結させ、長安から呂布を追放した。しかし李カクらにその才を危険視されたために逃亡。その後、張繍の参謀となり、奇策によって曹操をあと一歩のところまで追い詰めた。「ふっ、我が策に失策なし」 コスト 1.5 兵種 騎兵 能力 武力4 知力8 特技 伏兵 計略 虚誘掩殺の計 範囲内の味方の武力が上がる。この効果は敵軍の士気が少ないほど大きい。 必要士気5 戦器 宝物 謀略指揮棒 計略時間UP Illustration ファントム 最大上昇値(相手の士気が0)は+8。 計略と伏兵能力のお陰で、開幕から攻めてくるデッキへの抑止力としての活躍が期待される。 計略の範囲に自分が含まれないが、その分重ねがけ可能で破壊的な威力を誇る。 ちなみに相手の士気が6以上の時に撃つと武力は2上がるようだ。 【涼004】R華雄 武将名 かゆう なし 華雄 董卓配下の筆頭武将。身の丈9尺、体は虎、腰は狼、頭は豹、と例えられるほど恐ろしい容貌をしていた。董卓軍の先鋒として出陣し、反董卓連合の軍勢を打ち破り、敵の看板武将たちを次々と斬って、連合軍を恐慌に陥れた。「泣イテ許シヲ請エイ、漢王室ノ負ケ犬ドモガ!」 コスト 2 兵種 騎兵 能力 武力8 知力4 特技 勇猛 計略 悪鬼の暴剣 武力が大幅に上がる。ただし、効果中は自軍の城にダメージを受ける。 必要士気3 戦器 武具 大薙刀「九天応」 勇猛効果UP Illustration TOHRU 城ゲージリードを有効活用出来る計略と優秀なスペックで西涼2コスの筆頭武将。 悪鬼の暴剣で受ける自城ダメージ以上に城ゲージにリードがあれば士気3でノーリスク超絶強化。 中知力伏兵やハゲキャノン程度なら耐えられる知力も魅力の1つ。 R呂布の餌としても極上の一品。 【涼005】C韓遂 武将名 かんすい ぶんやく なし 韓遂 -文約- 馬騰の義兄弟。若くして西方で名を上げ、30年もの長きにわたり、幾度となく中央に乱を起こした反乱の士。馬超と手を組んで、覇者となりつつあった曹操を追い詰めるが、賈詡の離間の計によって敗れた。「さあさあ、西方の風を再び都に吹き荒らすぞ!」 コスト 1 兵種 騎兵 能力 武力5 知力6 特技 なし 計略 反逆の狼煙 自身の武力が大幅に上がる。発動時、戦場にいる自軍の部隊どれかひとつが撤退する。撤退する部隊がいない場合は効果が低い。 必要士気4 戦器 馬 西涼黒馬 移動速度UP Illustration 三好載克 Cで5/6とイマイチ目立たない反逆の首謀者。これが涼州の最高実力者とはなんたることだ。 狼煙は戦場に出ていない味方は対象にならないので、ある程度狙って斬ることが可能。 他軍に活持ちの周倉シリーズが要るので、彼らを切ればリスクも少ない。 西方の乱は馬騰より彼の方がしっくりくるのではないだろうか? 【涼006】C魏続 武将名 ぎぞく なし 魏続 呂布軍の武将。濮陽の戦いで曹操軍を撃ち破り、敗走する曹操をあと一歩で捕える所まで追い詰めた。しかし下邳の篭城戦で曹操に水攻めをくらい形勢不利と見るや、呂布軍の軍師であった陳宮を捕え、それを手土産に曹操に降った。「もう曹操んとこ行っちまおうぜ!どうよ宋憲?」 コスト 1 兵種 弓兵 能力 武力3 知力4 特技 なし 計略 卑屈な急襲 武力が上がる。この効果は敵軍の士気が少ないほど大きい。 必要士気3 戦器 薬 悪心丹 最大兵力UP(10%) Illustration 宮澤由佳 西涼では唯一の1コスト武力系弓兵。 計略も地味に良い味を出している。何気に馬鹿連環対策にもなる。 弓なので武力が上がってもそこまでの存在感をもてないのが少し残念か。 【涼007】C牛輔 武将名 ぎゅうほ なし 牛輔 董卓の娘婿。別働隊として地方に駐屯し、李カク・郭シに諸県の攻略をさせていた。董卓死後、呂布と戦って 大敗を喫した牛輔は味方の陣地から、あらんかぎりの金銀財宝を奪って逃走した。しかしその逃亡中、自分の部下に捕まり、あえない最期を遂げた。「これだけありゃあワシの人生バラ色じゃあ!」 コスト 1 兵種 騎兵 能力 武力3 知力3 特技 なし 計略 卑屈な急襲 武力が上がる。この効果は敵軍の士気が少ないほど大きい。 必要士気 3 戦器 防具 こそ泥マント 移動速度UP Illustration 原友和 コスト1卑屈騎馬。うまく計略を使えば、士気3で最大武力17の騎兵が出来上がる。 同コスト枠のライバルが強力すぎて目立たないが、戦器や計略によっては化けるか? 【No.180】UC厳氏 武将名 げんし なし 厳氏 呂布の妻。曹操に下邳の城を攻められた際、陳宮は呂布に城を出て敵の後方から突くよう進言したが、厳氏は夫が妻子を残して城を陳宮に預けることに猛反発し、呂布は陳宮の策を取り下げた。呂布処刑後、家族と共に許都に送られた。「ちょっと奉先、あたしを残して出て行く気?」 コスト 1 兵種 弓兵 能力 武力1 知力6 特技 防柵 魅力 計略 悪女の劇毒 範囲内の敵の兵力を徐々に下げる。この効果は城に入ることで消滅する。 必要士気5 戦器 なし Illustration 小室和生 李儒とは対照的に即効性の毒を盛る飛将軍の妻。 厳氏・李儒・SR蔡文姫、三人とも特徴が違う毒を使うので誰を使うかは好みに応じてどうぞ。 ただ、もうちょっと毒の総ダメはあってもいい気はする。 【涼008】UC高順 武将名 こうじゅん なし 高順 独立後の呂布配下の筆頭武将。敵陣を必ず落とすという「陥陣営」と呼ばれる精鋭部隊を率いて、敵軍を恐怖に陥れた。劉備、夏侯惇の軍を次々と破るも、最期は降伏を良しとせず、呂布と運命を共にした。「どけどけい、我らの行く手、阻めると思うてか!」 コスト 2 兵種 騎兵 能力 武力8 知力2 特技 なし 計略 陥陣営 武力と城攻撃力と防柵攻撃力が上がるが、効果中は強制的に前進する。上昇する武力は、自軍の城ゲージが少ないほど大きい。 必要士気3 戦器 馬 西涼鉄騎 突撃ダメージUP Illustration ファントム 陥陣営は自分の城ゲージがミリだとなんと武力21まで上昇する。 その状態で城門を攻城すればゲージを3割前後持っていくことが可能。 スペックはイマイチだが計略の持続時間も知力のわりには長く、陥陣営の名は伊達ではない。 暴虐や悪鬼華雄、陳宮などの自城ダメージ系とも非常に相性がいい。 ダメ計に弱いのは相変わらずだが、士気3を士気6や7で潰すのは大損。 相手にする場合は確実に落城させないと苦しい。 もしくは武力があまり上がらないように、城壁に1発だけ入れて守りきるか。 【涼009】C候成 武将名 こうせい なし 候成 呂布の騎将。曹操軍に下ヒ城を攻められ、篭城の最中、食客に盗まれた15頭の馬を、自ら兵を率いて取り戻した。侯成は兵の士気を上げるため、その祝いの席を設けたが、呂布はこれに怒り、侯成を鞭打ちに処した。侯成は呂布に見切りをつけ、曹操に降った。「魏続よ。俺は呂布にゃあ、ほとほと愛想が尽きたぞ」 コスト 1 兵種 騎兵 能力 武力4 知力1 特技 なし 計略 強化戦法 自身の武力が上がる。 必要士気4 戦器 馬 奪還良馬 移動速度UP Illustration 川瀬圭一 臧覇とポジション争いをする西涼の1コスト武力担当。 計略や特技、伏兵や孫桓の火計に対する防御力、など総合能力ではかなり劣るが、 武力と戦器効果ではこちらの方が上。 素の状態での戦闘能力のみを求めるならば、クセもなく扱いやすい。 【No.183】C胡車児 武将名 こしゃじ なし 胡車児 張繍の部下で、軍内で随一の武勇を誇った。怪力の持ち主で、500斤の重量を背負って、一日700里を歩いたと言われている。張繍が曹操に謀反を働いた際、曹操の護衛に当たっていた典韋の鉄戟を盗んだ。「これで奴は裸同然。悪来・典韋恐るるに足らず!」 コスト 1.5 兵種 歩兵 能力 武力7 知力1 特技 なし 計略 卑屈な急襲 武力が上がる。この効果は敵軍の士気が少ないほど大きい。 必要士気3 戦器 なし Illustration 騎崎サブゼロ はたしてこの能力で悪来を倒せるのか? コスト1.5でありながら武力7。計略も使うタイミングしだいでは暴走するが、所詮知力1。 武力は7だが歩兵と悲しい能力。 計略の使い勝手の悪さもあり残念だが黄色いゴリラを超える存在にはなれそうにはない……。 しかも1.5のコストオーバー武力が欲しいならば鄂煥で良く、あちらは勇猛付き。 【涼010】SR蔡文姫 武将名 さいぶんき 囚われの才女 蔡文姫 漢の重鎮・蔡ヨウの娘。都が混乱した際に、匈奴に攫われるも、王の側室として不遇ではない生活を送った。二人の子供を儲けるが、曹操によって救出された際に生き別れとなり、悲しみに暮れたという。「生きようとも思わぬのに救われ、我が子を泣かすことになろうとは。なんと儚き世の定めか……」 コスト 1 兵種 弓兵 能力 武力2 知力7 特技 なし 計略 望郷の歌 範囲内の敵の兵力を徐々に下げる。この効果は城に入ることで消滅する。また効果中は自軍の城にダメージを受ける。 必要士気5 戦器 宝物 名宝「胡兒」 最大兵力UP(15%) 士気上昇UP Illustration 中村博文 計略の城ダメージは、相手1隊を撤退するまで放置した場合に馬の壁一発分程度。 計略時間が知力依存で、兵力満タンの知力7相手にかけた場合は1割残る程度。範囲は反計と同程度。 厳氏より長時間かつ、減りの速度も速いのでマウント中の敵部隊複数を確実に仕留められる。 騎兵以外は撤退するしかないというのが現状。その後騎兵で城門1回でも叩けば大体元は取れる。 毒+乱戦でサッサと敵を倒すと、こちらがもらうダメージは微々たるものであることを覚えておこう。 これまた使いこなした時の強さは恐ろしい物がありそうなカード。 計略範囲の性質上、敵主力複数を巻き込んだ場合、自爆特攻のような形になりやすい。 戦器は兵力アップと士気上昇速度アップの二つの効果を持ち、さらに兵力アップは平均より多め(2割近い)でかなり優秀。 【涼011】C蔡邕 武将名 さいよう はくかい なし 蔡邕 -伯喈- 後漢を代表する学者。隠棲していたが、董卓が権力を掌握すると、恫喝されやむなく出仕した。しかし董卓が呂布に討たれた際、厚遇され恩義を感じていた蔡邕は涙ながらに悲しんだという。司徒・王允はこれを怒り投獄し、史書を記そうとする蔡邕を処刑した。「この国の行く末、もう私にも見通せぬ……」 コスト 1 兵種 騎兵 能力 武力1 知力8 特技 防柵 計略 封印の計 範囲内の敵は計略が使用できなくなる。 必要士気3 戦器 書物 後世への記録 計略時間UP Illustration 河崎淳 伏兵処理、端攻城要員、計略封印、おまけに防柵と、コスト1としては非の打ち所がない。 封印の計は先がけ必須とは言え、重要な場面では存在だけで相手のキー計略を威圧できる。 またそれ以外でも柵を持っていたり、 端攻めピンポンダッシュを狙わせたり全突や人馬の先鋒にしたりとその存在には全く無駄がない。 計略頼みの低武力デッキや決め手を複数持たないデッキに対しては無類の強さを誇る。 戦器をつければより長く封印できるものの封印したい計略に限って軒並み高知力なのも相変わらず。 封印の効果範囲は広く、計略時間も士気3とは思えないほど長いが、 おのずと士気差ができるため過信をすると痛い目にあう点に注意が必要。 【No.186】UC徐栄 武将名 じょえい なし 徐栄 董卓軍の武将。反董卓連合軍に属する孫堅に勝利した。さらに曹操とも戦ってこれを撃ち破り、その戦いで敗走する曹操を追撃し、曹操の肩を矢で射抜いた。しかし助勢に駆けつけた夏侯惇に突き殺された。「待て待て待てーい!奴の首はワシのもんじゃあ!」 コスト 1.5 兵種 騎兵 能力 武力6 知力4 特技 なし 計略 悪逆無道 武力が上がる。ただし効果中は自軍の城にダメージを受ける。 必要士気3 戦器 なし Illustration 飯田岳士 悪逆無道は悪鬼の暴剣に比べれば自城へのダメージは低い。でも多用は禁物。 【No.188】UC鄒 武将名 すう なし 鄒 元董卓軍の張済の妻。張済が死んだ後、甥の張繍の元に身を寄せていた。曹操が張繍を降伏させた際、曹操は鄒をいたく気に入り、毎晩自陣に呼び寄せた。張繍はこれに怒り反乱を起こし、曹操を追い詰めた。「魏の曹操すら私に夢中。男なんて単純な生き物ね」 コスト 1 兵種 歩兵 能力 武力2 知力6 特技 伏兵 魅力 計略 誘惑 戦場にいる敵部隊のうち、最も武力の高い部隊の武力と移動速度と知力を下げる。 必要士気5 戦器 なし Illustration 唯登詩樹 Ver.2カードのUC鄒に比べると知力が1少なく伏兵としては微妙。 知力2までは容赦なく殺せるからプレッシャーにはなる。知力3~4が踏みそうなときには味方の援護を忘れずに。 計略はピンポイントだが武力・知力を-5、移動速度を大幅に下げるので悪くない。ただ、知力6なので過信は禁物。 【涼012】UC鄒 武将名 すう 魔性の色香 鄒 張繍の叔父・張済の妻。その類い稀なる美貌は、あらゆる男を虜にする魔性の色香を放っており、張繍討伐に訪れた曹操ですら、彼女にすっかり骨抜きにされ、危うく張繍に寝首をかかれるところだった。「女の色香はどんな武器よりも強いの。おわかり?」 コスト 1 兵種 歩兵 能力 武力2 知力7 特技 伏兵 魅力 計略 堕落の舞い 【舞い】(使用すると移動できなくなるが、自身が撤退するまで効果が続く)両軍の士気ゲージ最大値が下がる。 必要士気5 戦器 宝物 真珠の首飾 士気上昇UP Illustration 藤谷 堕落の舞を踊ると、一勢力デッキは最大士気6、二勢力デッキは最大士気5、 三勢力以上のデッキは最大士気4にそれぞれ強制変更される。 抑止力は高い。……が当然自軍の最大士気も減るのでその辺は注意しよう。 ちなみに歩兵であるため、攻城兵や槍兵のいない涼では攻城力の高さにも魅力あり。 歩兵の壁の一撃は騎馬の城門を上回る。陥陣営が使えないときの攻城ユニットとしての採用も考えましょう。 最近では相手の士気を「縛る」使い方以外に、士気を「削る」という考え方も。 当然、士気差で損することがほとんどだが、相手のコンボや士気を大量に使った戦術を無効化できるのであなどれない。 紫と青の国の人たちの天敵でもあるので、暴虐デッキのアクセントとして採用されている。 【No.189】C宋憲 武将名 そうけん なし 宋憲 呂布軍の武将。下邳の篭城戦で自軍に勝機の無い事を悟り、侯成、魏続と共に曹操に投降。一説では、呂布を捕えて曹操に降ったとも言われている。その後、曹操軍にて官渡の戦いに従軍するも、袁紹軍の顔良に斬り殺された。「土産イル。俺アイツ土産ニスル、侯成ドウスル?」 コスト 1 兵種 歩兵 能力 武力4 知力3 特技 なし 計略 卑屈な急襲 武力が上がる。この効果は敵軍の士気が少ないほど大きい。 必要士気3 戦器 なし Illustration 飯田牧子 西涼軍に彼の居場所はない……が、滅多に使われないカードであるためか、魏続以上に卑屈な急襲の存在を忘れられる。 【涼013】C臧覇 武将名 ぞうは せんこう なし 臧覇 -宣高- 泰山郡の山賊の頭目。無実の罪で獄に入れられた父を、若干18歳で奪還したことで名を馳せた。呂布と曹操が対峙した際、山賊を引き連れ呂布に協力した。呂布の死後、魏に降り、対袁紹戦などで活躍。曹叡の代まで仕えた。「野郎ども!身包み剥ぐのは勝ってからじゃあ!」 コスト 1 兵種 騎兵 能力 武力3 知力4 特技 勇猛 計略 火事場の馬鹿力 自身の武力が上がる。その効果は自軍の城ゲージが少ないほど大きい。 必要士気4 戦器 防具 太鼓盾 弓兵防御UP Illustration 青木梨恵 知力4の火事場の馬鹿力は意外なほど長い。 城爆破計略との相性の良さと1コスト勇猛と言うのが非常に強力。 加速能力こそ無いものの、1コストが軽々と10や20の武力越えを達成するのは脅威の一言。 ただし、そこまでの武力になる場合は自城が確実に粉々なので、落城させる覚悟で攻めないといけないが。 自城削り系の計略とも相性が良く、1コスト武力要員として候成と共に候補筆頭。 【No.191】C張繍 武将名 ちょうしゅう なし 張繍 董卓亡き後、曹操に降伏したが、曹操が叔父張済の未亡人である鄒を妾にしたことに憤慨し反逆。あと一歩のところまで追い詰めた。最終的には賈詡の薦めで曹操についた。「ふははは!奴等油断しまくっとるぞぉ~!」 コスト 1.5 兵種 騎兵 能力 武力5 知力5 特技 伏兵 計略 卑屈な急襲 武力が上がる。この効果は敵軍の士気が少ないほど大きい。 必要士気3 戦器 なし Illustration 絵楽ナオキ 存在は地味だが隠れた名将。5/5馬 伏兵とまずまずの能力。 こいつの真価は計略にあり。知力5の卑屈は長い。 こいつ自身の武力も地味に5あるため、計略を忘れているとひどい目にあう。 まさにセリフ通りの武将である。 西涼の1.5コス馬にはライバルが多過ぎるのが難点か。 【No.192】R貂蝉 武将名 ちょうせん なし 貂蝉 その美貌で董卓と呂布という二人の豪傑を手玉に取った絶世の美女。王允が養女として引き取り、歌や踊りを教え込んだ。董卓の悪政に悩む王允に自らを犠牲にする策を提案する。貂蝉は酒宴の席で歌と舞を披露し、見事に董卓を魅了したと言われている。「父様、私の舞いで董卓と呂布を虜にしてみせるわ」 コスト 1 兵種 騎兵 能力 武力1 知力5 特技 防柵 魅力 計略 破滅の舞い 【舞い】(使用すると移動できなくなるが、自身が撤退するまで効果が続く)自城と敵城にダメージを与え続ける。 必要士気5 戦器 なし Illustration 曽田正人 両軍を破滅へと導く悪女。そしてコスト1の柵騎馬。 破滅の舞いは傾国の舞いの両者ダメージ版。リードしてる時に使わないと自爆負けや引き分けになってしまう。 R王異とのコンボが期待される。 これまで - 人が閲覧しました。 昨日は - 人が閲覧しました。 今日は - 人が閲覧しました。