約 576 件
https://w.atwiki.jp/kansangokushi/pages/40.html
編集 徒衆を主り、礼義を以って教す。(孔安国) 八政。一曰食、二曰貨、三曰祀、四曰司空、五曰司徒、六曰司寇。七曰賓。八曰師。(『尚書』) 司徒とは、朝廷の職官である。前漢後期より置かれた朝廷の最高官、三公の一人に数えられ、宰相(首相)の職務を、他の二者と三分する。民事を司った。 三公の制定から後漢初期に掛けては、大司馬、大司空に合わせて大司徒と称した。光武帝期の半ばに司徒と改称され、以後その名が定着する。 目次 目次 歴史前漢 後漢 三国 位 職掌 属吏長史 掾属 令史及び御属 属官太僕 廷尉 大鴻臚 司直 所属項目(タグ) 関連項目・人物 詳説 歴史 前漢 成帝綏和元年、周制に法り三公の官を置くが、この時は丞相、大司馬、大司空であり、司徒の名は無かった。 哀帝元壽元年、改めて三公官の分職を正して、大司馬衛将軍を大司馬と為し、丞相を大司徒と為し、御史大夫を大司空と為す。また、司隷校尉を復して司隸と為し、護軍都尉を改めて司寇の職を造り、司直と共に三者の職分を正す。司直は大司徒に、司寇は大司馬に、司隷は大司空に属す。 王莽新も大司空の名を引き継ぐ。 後漢 世祖光武帝が即位すると、前制を改めず、大司馬、大司徒、大司空をして三公官を定めた。 また武帝故事に倣い、司直を置いた。司直は大司徒府内に居り、諸州の督録を助けた。 建武十一年、司直を省いた。 建武二十七年、「大」を去り司徒とした。 献帝建安八年十二月、また司直を置くが、司徒に属さず(*1)、中都官の督を掌り、諸州を領しなかった。 建安十三年夏六月、三公官を罷じ、丞相、御史大夫を置いた。司直は丞相に属した。 三国 魏は三公の制を踏襲し、変わらず司徒を置く。 呉は当初丞相制を敷くが、宝鼎三年、司徒、司空の官を置く。丞相も継続して併置される。 蜀漢は三公を殆ど置かなかったが、ただ一人、劉備の帝位即位時に司徒許靖の記録が残る。 位 三公、一人。 職掌 (後漢) 人民の事を掌る。 およそ民に孝悌、遜順、謙倹,養生、送死の事を教え、則ちその制を議し、その度を建てる。 およそ四方の民事を功課し,歳尽きば則ちその殿最(勤務評価)を奏して賞罰を行う。 およそ郊祀の事には,牲を省(み)、濯を視ることを掌る。大喪には則ち安梓宮を奉じることを掌る。 およそ国に大疑・大事有れば、太尉と同じい。則ち太尉、司空と通じ而してこれを論ず。国に過ちの事有れば,則ち二公と通じこれを諫争す。 属吏 詳しくは三公の属吏を参照。 長史 一人、千石。 掾属 三十一人(或いは三十人)。 令史及び御属 三十六人。 属官 太僕 廷尉 大鴻臚 九卿のうちの三。 司徒の部署する所と言う(*2)。しかし、その実際の関係は不詳。 司直 一人、比二千石。 職は監せざるもの無し。諸州の督録を助けた。 光武帝建武十一年に省く。 所属項目(タグ) 三公 丞相 公 司徒 周制 大司徒 職官 関連項目・人物 司徒 詳説 編集 -
https://w.atwiki.jp/kansangokushi/pages/52.html
編集 大傅は父子君臣の道を審らかにして以ってこれに示す。(『礼記』文王世子) 太子太傅とは、その名の通り、皇太子の太傅に当たる職官である。徳行、礼楽によって師として皇太子を輔け導き、後の皇帝を養育することを任とする。 目次 目次 歴史 太子少傅 所属項目(タグ) 関連項目・人物 詳説 歴史 太傅は古官である。周の成王が即位した時、幼少であったので、この官を置いた。畢公高とも太公望とも言われる。 太子太傅についての論は『礼記』文王世子に詳しい。 漢はこれを継ぎ、以後の王朝も長くこれを置き続けた。 (前漢) 一人、秩二千石。 (後漢) 一人、中二千石。 太子を輔導するを職掌す。礼の師の如く、官属を領さず。 太子家家政は太子少傅が掌る。 太子少傅 諸々の官属を主り、太子家の家政を掌る。 所属項目(タグ) 二千石 卿 太傅 太子 太子太傅 皇太子 職官 関連項目・人物 太子少傅 太子太傅 詳説 編集 -
https://w.atwiki.jp/ng3ggc/pages/2713.html
名稱:司徒平 伺服器及顏色:5服綠類型:武 性別:男 生命值:650 武力:43 智力:12 防禦:15 敏捷:38 運勢:23 敘述:後起一代劍客中被人稱為第一高手的司徒平出自於《新月傳奇》
https://w.atwiki.jp/ng3ggc/pages/1923.html
名稱:司徒橫 伺服器及顏色:6服綠類型:武 性別:男 生命值:498 武力:32 智力:20 防禦:11 敏捷:30 運勢:25 敘述:《俠客行》中人物。前長樂幫幫主,外號八爪金龍
https://w.atwiki.jp/ng3ggc/pages/2478.html
名稱:司徒靜 伺服器及顏色:4、5服綠 類型:武 性別:女 生命值:482 武力:32 智力:20 防禦:12 敏捷:44 運勢:21 敘述:楚留香(鐵血傳奇)神水宮水母陰姬和雄娘子只女,被無花利用其偷天一神水,懷有無花骨肉,最後死於自殺
https://w.atwiki.jp/ng3ggc/pages/1333.html
名稱:司徒千鐘 伺服器及顏色:5服綠類型:武 性別:男 生命值:470 武力:31 智力:22 防禦:12 敏捷:37 運勢:24 敘述:醉不死 司徒千鐘。玩世不恭,聽說不拜師,不收徒,不屬任何門派幫會,生平極少與人動手,誰也不知他的武功底細,說起話來冷嘲熱諷,倒往往一語中的。 -出自《倚天屠龍記》
https://w.atwiki.jp/ng3ggc/pages/1201.html
名稱:山佐司徒 伺服器及顏色:6服綠 類型:武 性別:男 生命值:606 武力:42 智力:12 防禦:15 敏捷:43 運勢:25 敘述:古龍小說武林外史中人物 山左司徒一家,不但易容精妙,輕功、暗器、迷香,以致大小推拿之學,無一不是精到毫巔,昔日在江湖中之聲名,不過稍次於雲夢仙子而已。但由於他們功夫大半屬於陰損,是以遭了天報,一門死絕。唯一後人,投入快樂王門下。
https://w.atwiki.jp/kansangokushi/pages/30.html
編集 三公とは、天子の相(助け、大臣)である。(*1) 公とは、天子に直接仕える内爵、公卿大夫の最上位である。(*2) 『礼記』等は、周でのその定数を三として、天子を補佐し、教え導く最高位の臣とした。 漢代以降、三公の座に充てられる官は幾度か変遷するが、宮廷秩序の最上位を占める階級として重んじられた。 目次 目次 歴史 位 職掌 属吏 所属項目(タグ) 関連項目・人物 詳説 歴史 三公は周官であり、成王の時代に太師、太傅、太保を以って三公としたという。 前漢成帝綏和元年、古制復古の風潮と、政事の煩瑣という実情から、大司馬驃騎将軍から将軍号を取り去り、大司馬としての印綬と官属を置き、御史大夫を大司空として秩禄を丞相と同格に引き上げて、これらと丞相の職責を三分した。これが漢の三公の始まりとなる。 哀帝建平二年に一旦は旧に復されるが、元壽二年、丞相を大司徒、御史大夫を大司空とし、大司馬衛将軍を大司馬として、再び三公とした。 平帝元始元年、王莽に安漢公の爵を賜うのに伴い、四輔の政を置いて三公の上位とした。それは太傅、太師、太保、少傅であり、三公は大司馬、司徒、司空であった。王莽は太傅と大司馬を兼務した。 新王朝では太師、太傅、国師、国将の四輔を上公とし、大司馬、大司徒、大司空を三公として、更始将軍、衛将軍、立国将軍、前将軍の四将と合わせて十一人を公爵に封じた。 光武帝が中興すると、大司馬、大司徒、大司空を三公とし、建武二十七年には太尉、司徒、司空と改称した。以後、この三者が長く三公として位を占める。 光武帝、続く明帝は尚書を重用して実質の宰相の職責を与え、文吏を登用して法治を重んじたため、周制を汲む三公の影響力は低下した。章帝は太尉と司徒に録尚書事の任を与えて権限を復させようとした。しかし、次の和帝が幼年だったため、録尚書事の権は司徒から太傅に移り、やがて大将軍の地位上昇によって録尚書事はこの上公二者に占められることが多くなる。 幼帝が続いた後漢の朝政は、幾度かは外戚が専権し、大将軍の座を占めて栄華を誇るが、やがて臨朝皇太后と幼帝を掌握した宦官・内臣(内朝官)によって太傅、大将軍でさえも枢機から締め出されて、三公及び上公は、天子を補佐し教導するという古来の任を果たせなくなる。しかし、彼ら五者は五府と呼ばれる公府を構え、多数の官吏を擁して平常の執務を取り、人士に重んじられ、辟召の隆盛にもよって門生故吏と呼ばれる広い人脈を作った。これが後漢後期の清流の活動、引いては後漢末動乱の軍閥の形成にも寄与していく。 また、安帝永初元年の太尉徐防の例が災異策免が始まりとなる。霊帝中平三年には太尉張温が使者持節として長安に就き、三公が京師の外に在る始めての例となった。 建安元年、献帝を奉戴した鎮東将軍曹操は、自ら司隷校尉・録尚書事を兼務したあと、司空・行車騎将軍事となり、「百官総て、以ってこれを聴け」と幼帝に代わり摂政する体制を取った。 建安十三年、司徒趙恩を選挙不実の咎で免じ、五ヵ月後には三公の官自体を罷めて丞相・御史大夫の制に復した。太尉は置かれず、丞相曹操が名実共に万機を一統する体制となる。 魏が建国され、曹操が崩じて曹丕が王位を継ぐと、王廷に太尉賈詡、相国華歆、御史大夫王朗の三公相当の官を置いた。禅譲によって三人は太尉・司徒・司空となり、天子の三公は復旧した。 しかし、文帝曹丕は尚書を、明帝曹叡は中書を重んじたため、後漢後期と同じく三公の影響力は大きく後退した。しかし、明帝景初二年からは司馬懿が太尉のままで兵を領し征伐に当たり、景初三年の曹叡の托孤を受けて曹芳の輔政の任にあたった。その年のうちに太傅に任じられるが、持節統兵都督諸軍事は故の如くであった。 司馬氏が専権する魏末期には上公として太保の名が見える。禅譲を受けると、太宰(*3)、太傅、太保、及び大司馬の四人を上公とし、大尉、司徒、司空を三公とした。 位 (前漢) 公、三人。秩万石、金印紫綬。 (後漢) 公、三人。金印紫綬。 (魏) 公、三人。金印紫綬。品秩第一品。 (晋) 公、三人。金印紫綬。品秩第一品。 職掌 (前漢) 丞相の職分を分掌する。 (後漢) 宰相の職分を分掌する。 年の終わりには管掌の官吏を殿最(考課)し、賞罰を奏す。 国に大造・大疑が有れば、他の二公と共に諌争する。 郊祭を始め、祭祀では百官の首座として役目を負う。 録尚書事に任じられる場合がある。 (魏) 後漢とほぼ同じか。ただし、録尚書事の例は無い。 詳細は個別の職官を参照→大尉、司徒、司空、大司馬 属吏 個別の職官を参照→大尉、司徒、司空、大司馬 所属項目(タグ) 公 周官 天子 官制 関連項目・人物 相国 太尉 司空 司徒 丞相 詳説 公とは、天子に直接仕える内爵、公卿大夫の最上位である。(*4) その人数が三とされ、故にその三名を総称して「三公」と言うが、その名称や役割については、各経書が成立する漢代までに、さらには前漢後期に三公がまた置かれる過程の論議の中で、様々な伝承・解釈があったようである。 三公は周官であり、成王の時代に太師、太傅、太保を以って三公とした。 一説に、太公望が太師を、周公旦が太傅を、召公奭が太保を担い、幼王を補佐したと言う。 また、周公旦が陜の東を、召公奭が陜の西を主り、残る一人(太公望に当たる)が京師の内を治めたとも謂う。上公、牧伯の説とも通じるものである。 三公は、天子を教導し、天文や災異を見て陰陽をおさめる者であって、百官を統率する意味での宰相の任ではない。また、必ずしもその席が埋められるものではなく、ただ相応しい徳を持つ人のみを任じるものである。 しかし、漢代には、拡大した領域と風俗の疲弊を治める責務が丞相独りに掛かる問題を解決し、宰相の任を分割する目的で導入された。 諸公とは何か。諸侯とは何か。天子の三公、公を称す。王者の後、公を称す。その余の大国、侯を称す。小國は伯・子・男を称す。天子の三公とは何か。天子の相なり。天子の相が則ち三を以ってするのはなぜか。陜より東、周公がこれを主る。陜より西、召公がこれを主る。一相、内に処すや」(『春秋公羊伝』隠公五年) 太師、太傅、太保を立つ。これただ三公。道を論じ邦を経(はか)り、陰陽を燮理す。官は必ずしも備えず。ただその人とす。(『尚書』周書/周官) 賈生曰く、 「天子が先聖の徳を諭らず、君民の道を知らず、礼義の正を見ず、詩・書は宗ばれず、学業は法られず。これ太師の責なり。古きは斉太公これを職す。 天子が庶民を恵まず、大臣に礼せず、折獄に中せず、百官に経無く、喪に哀せず、祭に敬せず、齊に戒せず、事を信ぜず。これ太傅の責なり。古きは周公これを職す。 天子が位に処って端(ただ)さず、業を受けて敬わず、言語は敍べず,音声は中らず、進退升降は礼を以ってせず、俯仰周旋に節無く。これ太保の責なり。古きは燕召公これを職す。(『百官志』太傅) 成帝時に及び、何武が九卿と成り、建言して、 「いにしえは、民は樸(素朴)、事は約(つづま)やかであり、 国の輔佐は必ずや賢聖を得ました。然れどもなお天の三光に則り、三公官を備え、おのおの分職が有りました。 今、末俗は弊え、政事は煩多であり、宰相の材は古に及び能ざるのに、しかして丞相が独り三公の事を兼ねており、久しく廃れ治まざる所以であります。宜しく三公官を建て、卿大夫の任を定めて、職を分かち政を授け、以って功效を考えてくださいますように」 その後、上は以って師の安昌侯張禹に問い、禹は以って然りと為す。時の曲陽侯王根を大司馬票騎將軍と為し、しかして何武を御史大夫と為した。これに於いて上は曲陽侯根に大司馬の印綬を賜い、官属を置き、票騎將軍官を罷め、御史大夫何武を以って大司空と為し、列侯に封じた。皆丞相の如く增奉した。以って三公官を備えたのである。議者の多くは古今の異制を以って為し、漢は天下の號より下は佐史に至るまでみな古と同じくないのに、独り三公を改めては職事を分明し難く、治乱に於いて無益であるとした。……(『漢書』朱博伝) 『韓詩外伝』に曰く、 「三公の得とは何か? 曰く司馬、司空、司徒なり。司馬は天を主り、司空は土を主り、司徒は人を主る。 故に陰陽が不和、四時が不節で、星辰が度を失い,災変が非常なるは、則ち責これ司馬である。 山陵が崩阤し、川谷が不通で、五穀が植たず、草木が茂らないのは、則ち責これ司空である。 君臣が正しからず、人道が和さず,国に盜賊多く,民がその上を怨むは、則ち責これ司徒である。 故に三公はその職を典じ、その分を憂い、その弁を挙げ、その得を明らかにする。この謂いが三公の事である。」 夏、商以前、天子は爵に無く,三公は官に無し。 周、太師、太傅、太保を以って曰く三公。 漢、丞相、大司馬、御史大夫を以って三公と為す。 後漢、また太尉、司徒、司空を以って三公と為す。 魏、晉、宋、齊、梁、陳、後魏、北齊皆以太尉、司徒、司空為三公.(『通典』職官一/要略/三公) 編集 -
https://w.atwiki.jp/hoyoworkswiki/pages/235.html
キャラの基本情報 新生編に登場。太虚戦線を指揮した。人類契約連盟の理事でもある。 寒鉄や慕寒音の上司。 差分 登場ストーリー一覧 今思えば 昔往きし時
https://w.atwiki.jp/22shisakki/pages/61.html
73.四世三公 西漢(前漢)では韋・平両氏が二世代にわたって宰相を務めたが、些細なことに過ぎない。(韋賢は宣帝(劉詢)の時代に丞相となり、その子韋玄成は元帝(劉奭)の時代にまた丞相となった。鄒・魯の地方の諺では「黄金を籠に満たすとも、子に経典を教えるには如かず」と言った。また平当は丞相となり、その子平晏は大司徒となった。このとき丞相は大司徒と改称されており、大司徒とは宰相に相当するのである。『平当伝』に言う。漢が建国されて以来、父子で宰相に昇ったのは韋・平両氏だけである。)東漢(後漢)には子孫代々がみな公になった例がある。楊震は太尉に就任し、その子楊秉は劉矩の後任として太尉となり、楊秉の子楊賜は劉郃の後任として司徒、また張温の後任として司空となり、楊賜の子楊彪は董卓の後任として司空、また黄琬の後任として司徒、淳于嘉の後任として司空、朱儁の後任として太尉・録尚書事となった。楊震から楊彪まで四世代がみな三公になったのである。袁安は司空に就任し、また司徒にも就任し、その子袁敞および袁京はみな司空となり、袁京の子袁湯もまた司空となり、太尉を歴任して安国亭侯に封ぜられ、袁湯の子袁逢もまた司空に就任し、袁逢の弟袁隗は袁逢よりも早く三公となり、官位は太傅まで昇った。それを臧洪は「袁氏は四世代で五人の公を出した」と言っているのであって、楊氏と比べても公はさらに一人多い。古来、この両家ほど一族の繁栄した例はない。范蔚宗(范曄)は西京(西漢)の韋・平両氏でも彼らに比べれば大したことはないと述べているが、まったく些細なことだと言えよう。両家代々は名声徳望でもって国家譜代の臣下となったが、ただ家柄や資産だけで出世したのではなく、なかなか真似できないものである。 于定国が丞相となり、その子于永が御史大夫となっている。(二世代にわたる三公である。西漢では丞相・大司馬・御史大夫を三公と称していた。) 73.四世三公 西漢韋、平再世宰相,已屬僅事,(韋賢,宣帝時爲丞相,其子玄成,元帝時亦爲丞相,鄒、魯諺曰:「黄金滿籝,不如教子一經。」又平當爲丞相,其子晏爲大司徒,時已改丞相爲大司徒,大司徒即相也。平當傳謂漢興,惟韋、平父子至宰相。)東漢則有歴世皆爲公者。楊震官太尉,其子秉代劉矩爲太尉,秉子賜代劉郃爲司徒,又代張温爲司空,賜子彪代董卓爲司空,又代黄琬爲司徒,代淳于嘉爲司空,代朱儁爲太尉、録尚書事。自震至彪,凡四世皆爲三公。袁安官司空,又官司徒,其子敞及京皆爲司空,京子湯亦爲司空,歴太尉,封安國亭侯,湯子逢亦官司空,逢弟隗先逢爲三公,官至太傅。故臧洪謂袁氏四世五公,比楊氏更多一公。古來世族之盛,未有如二家者。范蔚宗謂西京韋、平,方之蔑如,眞可謂僅事矣。而二家代以名德,爲國世臣,非徒以名位門第相高,則尤難得也。 于定國爲丞相,其子永爲御史大夫。(係兩代三公。西漢丞相、大司馬、御史大夫稱三公也。) 前頁 『廿二史箚記』巻五 次頁 累世經學 73.四世三公 東漢尚名節