約 583 件
https://w.atwiki.jp/ng3ggc/pages/448.html
名稱:宇文莫槐 伺服器及顏色: 4服綠 類型:武 性別:男 生命值:608 武力:41 智力:12 防禦:17 敏捷:31 運勢:24 敘述:(出生年不詳,卒於293年),西晉時期中國北方宇文部鮮卑首領,《魏書》稱他是匈奴人,“出於遼東塞外,其先南單於遠屬也,世為東部大人。其語與鮮卑頗異。”不過,一般認為,宇文部應該是東漢時北匈奴瓦解後的余眾與鮮卑族長期雜處而被同化的後裔。
https://w.atwiki.jp/websangokushi-wiki/pages/23.html
任務>平定へ戻る 任務名 任務目標 任務奨金 備考 木材 鉄鋼 石材 食糧 名声 銅銭 その他 倭国の乱 忍者服10個倭寇トーテム10個 日本刀:3000名声:3000 1部隊約900~1300が3~5部隊。兵器LV15以上で3000人以上の兵力があれば、何とか戦える。 鮮卑の乱 端牛の角 10個鮮卑トーテム 10個 牛角弓:5000名声:5000 鮮卑は1部隊約2000が6~10部隊。兵器、技術レベルにもよるがLv20兵器で揃えると兵力10000あれば楽勝。鮮卑攻撃は名声30000程度までは名声1000はもらえる。 烏桓の乱 珍獣の皮:10個烏桓トーテム:10個 投影弓 8000名声 8000 1部隊約3000が7~10部隊。兵器、技術レベルにもよるがLv20兵器で揃えると兵力20000あればいける。名声40000程度までは名声4500はもらえる。烏桓攻撃は名声100000程度までは名声2000はもらえる。名声150000程度で名声はもらえなくなる。 山越の乱 白虎の皮10個山越トーテム10個 獅子槍:15000名声:15000 5000~6000程度の部隊が10~14部隊で構成されている40000程の部隊が必要(推奨は50000程)。複数部隊か、1部隊で行くかは個人の判断だと思われる。名声100000までは12000程の名声が獲得出来る。 羌氐の乱 戦闘槍 10個羌氐トーテム 10個 屠馬戈:30000名声:30000 11-14部隊 兵9500-13200LV25装備で兵数100000程必要。被害はおおよそで10000前後。羌氐攻撃は名声15万程度までは名声23000はもらえる。名声25万保有で約8000程の獲得。名声30万程度で獲得名声は打ち止め。 南蛮の乱 戦闘像 10個南蛮トーテム 10個 蔓鎧:50000名声:50000 兵力20万あればいける。名声値35万までは、1万は名声を得られる。名声値37万程度で獲得名声は打ち止め。 匈奴の乱 匈奴馬 10個匈奴トーテム 10個 匈奴騎馬:90000 名声:90000 兵力40万あればいける。(ただし、蛮族武将が入っている場合この限りではないb)名声値44.5万で獲得名声は打ち止め。 護国功臣1 蛮族の印章20個勤王の詔2個 名声:10000 勤王の詔は歴史任務の報酬 護国功臣2 蛮族の印章20個獅子の印章10個功績牌1個 名声:40000 功績牌は歴史任務の報酬 護国功臣3 獅子の印章10個狼の印章10個武将令1個 名声:90000 武将令は歴史任務の報酬 南越部隊 南蛮と同等の強さを持っています。
https://w.atwiki.jp/epicofbattleroyale/pages/407.html
【クラス】 アーチャー 【外見】 銀髪碧眼で、冷ややかな表情の少女。背はやや高い。髪型はおさげ(辮髪)。軽装の革鎧を纏い弓矢を持ち、戦いに際しては馬に乗る。 +霊基再臨LV1 瞳が輝き、牙が唇の上まで突き出す。「狼祖」の力が増大し、筋肉が肥大化、体毛がざわめく。 +霊基再臨LV3 狼の耳と尻尾が生える。あざとい。 +最終再臨 ? 【真名】 +第四節 迷走仕掛け(ストレイ・ラン) 下クリアで開放 冒頓単于 【性別】 女 【属性】 秩序・中庸 【ステータス】 筋力:B 耐久:C 敏捷:B 魔力:D 幸運:B 宝具:B 【クラス別スキル】 対魔力:D 一工程(シングルアクション)による魔術行使を無効化する。魔力避けのアミュレット程度の対魔力。自身の弱体耐性をアップさせるパッシブスキル。 単独行動:A マスター不在でも行動できる。ただし宝具の使用などの膨大な魔力を必要とする場合は、マスターのバックアップが必要。 自身のクリティカル威力をアップさせるパッシブスキル。 【固有スキル】 騎乗:B 騎乗の才能。「乗り物」という概念に対して発揮されるスキルであるため、生物・非生物を問わない。 大抵の乗り物なら人並み以上に乗りこなせるが、魔獣・聖獣ランクの獣は乗りこなせない。宝具である馬に跨る。 騎射の達人だが、馬も所詮は道具とみなす。自身のクイックカードの性能をアップさせるパッシブスキル。 仕切り直し:B 戦闘から離脱する能力。また、不利になった戦闘を戦闘開始ターンに戻し、技の条件を初期値に戻す。 敗走を恥とせず、ヒット・アンド・アウェイで敵を釣り出す。自身の弱体化を解除し、HPを回復する。 覇王:A カリスマと軍略の複合スキル。大軍団を指揮する天性の才能。Aランクはおおよそ人間として獲得しうる最高峰といえる。 団体戦闘において自軍の能力を向上させ、自らの対軍宝具の行使や、逆に相手の対軍宝具に対処する場合に有利な補正が与えられる。 自身のクイックカードの性能をアップさせ(パッシブスキル)、味方全体の宝具威力を1ターンアップさせる。 【宝具】 +第五節 コスメル襲撃(バーニング・コスメル) 下クリアで開放 『鳴鏑萬箭(フンヌ・トゥマン・オク)』 ランク:B 種別:対軍宝具 種類:Quick 敵全体にかなり強力な攻撃&味方全体のスター発生アップ(3ターン)&自身に必中状態を付与(1ターン) 【マテリアル】 +キャラクター詳細 ……暑い。 なんでこんな場所に喚ばれねばならん。 +絆LV1で開放 身長:166cm 体重:57kg 時代:紀元前3世紀-前2世紀 地域:モンゴル高原(匈奴) 属性:秩序・中庸 性別:女 匈奴(フンヌ)の大単于(皇帝)。父は頭曼単于。その名はおそらくテュルク諸語で「勇者」を表す「バガトゥル/バートル」のこと。 紀元前209年、父を殺害して即位し、東胡・月氏など周辺諸族を討伐して、広大なモンゴル高原を統一する最初の遊牧帝国を築き上げた。 +絆LV2で開放 前201年には漢帝劉邦を白登山に釣り出して包囲し、毎年漢から多額の物資を貢がせ、単于が代替わりするごとに公主(皇女)を嫁がせると約束させた。 匈奴はその後も長城を越えては人畜や財産を掠奪し、漢の諸侯王にも匈奴に通じる者が多かったので、漢は対応に手を焼いた。 劉邦の死後、冒頓単于は国政を牛耳る呂后(劉邦の妻)に侮辱的な手紙を送ったが、呂后は怒りを抑えて遜った返書を送ったという。 さらに西域諸国を部下に平定させた後、前174年に在位36年で逝去し、子の稽粥(老上)単于が後を継いだ。以後も半世紀近く、漢は匈奴に頭が上がらぬ状況が続いた。 国や軍を中央・左・右に分ける方式、十進法による組織化などを定着させ、死後も数百年続いた匈奴帝国の始祖として長く崇拝された。 現代トルコでは「メテ・ハーン」と呼ばれて古代トルコ人の英雄と考えられ、ノアの子ヤペテの子孫オグズ・ハーンとも同一視されている。 烏桓・鮮卑・契丹(キタイ)・蒙古(モンゴル)は冒頓単于が討伐した東胡の末裔であり、匈奴は言語的にはテュルク諸語に近かったのではないかという。 漢人には目の上のたんこぶで大魔王のような存在であるが、厳罰と軍事調練、公平な分配で雑多な遊牧民を統合・組織化したため「秩序」の属性を持つ。 モンゴル高原ではチンギス・カンに次ぐレベルの大英雄であり、本調子なら超強いはず。ただ個人の武勇より集団を重視し、政治的解決で済むならそっちを選ぶ。 +絆LV3で開放 『鳴鏑萬箭(フンヌ・トゥマン・オク)』 ランク:B 種別:対軍宝具 レンジ:1-500 最大捕捉:1000 アーチャーの親衛兵による一斉射撃の逸話が宝具化したもの。アーチャーが射た鏑矢に追随して、無数の矢が出現する。 標的一つに集束させれば針鼠のように矢が突き刺さり、敵陣全体を標的とすれば雨のように降り注ぐ。鏑矢に火を纏わせて放てば、追随する矢にも全て火が灯る。 鏑矢なので音が鳴るのと、鏑矢の数に限りがある(30本、魔力で補給可能)のが難点。威力は鋼鉄の甲冑を貫く程度で、カラテがあれば弾ける。 若き頃、アーチャーは配下らを率いて狩猟に出、「我が射る標的を射よ。射ねば斬る」と命じた。まず獲物に鏑矢を放ち、射なかった者を尽く殺した。 これを繰り返して忠実な者を選んだ後、彼は自分の愛馬を射た。射なかった者は尽く殺した。続いて自分の愛妾を射た。射なかった者は尽く殺した。 さらに父の愛馬を射ると、全ての部下が射た。最後に父・頭曼単于を射ると、部下も尽く射、単于の全身には針鼠のように矢が突き立った。 そして継母や弟たち、自分に従わぬ家臣を尽く殺し、自ら大単于の位についたのであった。 +絆LV4で開放 『日行千里汗血馬(フェルガーナ・アト)』 ランク:C 種別:対人宝具 レンジ:450km 最大捕捉:1 アーチャーの乗騎。一日千里(450km)の範囲だけ、一瞬にして飛翔して拠点へ撤退する事ができる。 かつて父は末子を溺愛して位を継がせようと思い、太子であったアーチャーを西の国・月氏へ人質に送った。 しばらくして、父は兵を率いて月氏を攻めた。人質がいると思って油断していた隙を突くと共に、月氏が人質を殺すことを期待したのである。 だが、アーチャーは月氏から「一日千里を駆ける馬」を奪って逃亡し、母国へ生還した。父はやむなくアーチャーを褒め、親衛兵を与えたという。 この馬がその後どうなったかは不明だが、愛馬を矢で針鼠にさせたという逸話があったり、東胡に「千里の馬」を求められて差し出したりしているので、 アーチャー自体は馬をあくまで道具として扱い、それほど執着していなかったようである。 なお漢の武帝は西域の大宛(現ウズベキスタンのフェルガーナ地方)に遠征軍を送り、その地の名馬を獲得した。 これが「一日千里を駆け、血の汗をかく馬(汗血馬)」で、武帝は「西極天馬」と呼んで大いに寵愛し、宮殿の周囲に大牧場を作ったという。 トルクメニスタン原産の馬種「アハルテケ」は、この汗血馬の子孫ではないかとも考えられている。 +絆LV5で開放 縁もゆかりもないユカタンくんだりに呼ばれた上、暑くて海辺なので全体的にデバフ気味。 史実でもパーソナリティ上も男性だが、アルテラのデータがコンタミしたのか女っ気が足りなかったせいか、なんか雑に女体化している(リリィではない)。本人は嫌な模様。 匈奴帝国には中央アジア系コーカソイドとモンゴロイドが混在しており、そのためか混血美少女っぽい感じに。 なお匈奴に確たる狼祖神話はないが、本拠地の一つは「狼居胥山」と呼ばれ、モンゴル人は始祖たる蒼き狼の住んだ「ブルカン・カルドゥン(神の山)」と号した。 +???クリアで開放 ? 【絆礼装】 +絆LV10で開放 ?
https://w.atwiki.jp/kansangokushi/pages/222.html
編集 臧旻は、後漢後期の人物。県令・太守や使匈奴中郎将を歴任して良吏と謳われ、賊や鮮卑を討って功績を挙げた。 子に臧洪 情報 臧旻 姓氏 臧 名 旻 本貫地 広陵郡射陽県 家柄 射陽臧氏 起家 徐州從事 官歴 辟召(司徒府) 盧奴令 挙尤異 揚州刺史 丹陽太守使匈奴中郎将 議郎 長水校尉 中山太守(時期不詳) 太原太守 評 幹事の才を有し、政(まつりごと)に従って達し、漢の良吏と為る。 子 臧洪 事跡 幹事の才を有し、政(まつりごと)に従って熟達し、漢の良吏となった。 初め、徐州従事に徐任された。 司徒府に辟召され、中山国の盧奴県令に徐任された。 冀州によって治績が最も異(とりわけ優れている)と推挙された。 揚州刺史に遷った。 霊帝の熹平元年(172)十一月、会稽郡人の許生が「越王」を自称し、郡県を寇した。臧旻は丹陽太守陳夤と共にこれを討ち破った。 熹平三年(174)十一月、丹陽太守の陳寅を率い、許生を會稽郡にて大いに破り、これを斬った。 丹陽郡太守に遷った。 この時、辺方(辺境)は警(緊急警戒)を有し、羌、胡が出寇していた。 三府が能あるものを挙げ、臧旻は使匈奴中郎將に遷った。 熹平六年(177)十一月、破鮮卑中郎将の田晏が雲中を出、臧旻が南単于とともに鴈門を出、護烏桓校尉の夏育が高柳を出て、並んで鮮卑を伐ったが、大敗した。 臧旻は賊を討って功が有り、徴されて議郎を拜して京師(洛陽)に還った。 太尉袁逢と見えると、袁逢が西域諸国の土地、風俗、人物、種族の數を問うた。臧旻は具さに答えて言うには、西域はもとは三十六国であったが、後に分れて五十五となり、稍(やや)して散って百余国に至ったこと。その国の大小、道里の近遠、人数の多少、風俗の燥湿、山川・草木・鳥獣・異物・名種の中国と同じくないもの、悉くその状況を口陳、地形を手書きした。袁逢はその才を奇とし、歎息して言った。 「班固が西域伝を作ると雖も、何を以ってこれに加えるだろうか?」 転じて長水校尉を拜し、太原郡太守で終わった。 三国志臧洪伝は中山太守にも任官したとするが、時期は不明。 年表 所属項目(タグ) 人物 後漢 人物 後漢末 出身 射陽県 出身 広陵郡 官歴 使匈奴中郎将 官歴 守相 官歴 州刺史 官歴 州從事 官歴 県令 官歴 議郎 官歴 長水校尉 射陽臧氏 辟召 関連項目・人物 「臧旻」をタグに含むページは1つもありません。 編集 -
https://w.atwiki.jp/wagun35online/pages/44.html
遊騎兵 女騎兵の精鋭。機動力が高い。単独戦に長け、殺傷力の高い必殺技を持つ。 体力 攻撃 防衛 武力 知力 反応 体格 要統率 1005 54 74 65 55 65 65 20 +660 +20 +39 +29 +23 +23 +27 +5 攻撃属性:刺傷40% 防御耐性:斬防30%射防40%仙防25%妖防25% 注1:実際は、兵のレベルアップ時の能力値ボーナスが付くので、これよりも大きい値になる 注2:下の差分は、女騎兵からみた基礎能力値の上昇数値 注3:精鋭化すると、攻撃+30、防衛+50、体力+800のボーナスがある。他の能力や必要統率は変わらない。 必殺技:弦月斬(単体攻撃 威力240%) ◆高威力。舞姫の火炎舞より若干威力がある程度。 高威力の必殺技を持つが、匈奴兵にお株を奪われ、実際はかなり影が薄い存在。 では、その存在意義は何か? それは、高い反応による高回避率と高命中率にある。 匈奴兵は兵のポテンシャルにもよるが、対人戦でここぞというときに必殺技を稀に外すことがある。 あと一撃、が重要な対人戦では、この空振りは非常に惜しい。 しかし、遊騎兵ならば、その可能性は極めて低くなる。 確実にダメージを与えられ、敵からの攻撃を避けることも可能だ。 あとは、攻撃属性が刺属性なのも注目。 刺属性は、非常にカバーしにくい攻撃属性である。 プレイヤー全職業の多くの主要な攻撃属性は斬か砕、若しくは射である。 猛将の一撃や砕月、散弾などもそうだが、強力な武将技も同じような傾向が見られる。 当然、これらの耐性を上げようと躍起になるが、刺は攻撃方法も少なく、なかなか意識が向かないことがある。 故に、刺属性はプレイヤーによっては、大きな弱点になりうるのだ。 遊騎兵は、その穴を付ける大きなアドバンテージを持っており、これだけでも匈奴兵に負けていない売りになる。 余談ではあるが、匈奴兵より断然見た目はカッコイイ。 あと、ポニーテールの戦乙女に心引かれるのであれば、遊騎兵がお勧めだ。 転職令で、狼騎兵へと転職できる。 転職令ゲットするならこいつを倒せ! 【遊騎兵令】 冀州遊騎兵、涼州遊騎兵 【精鋭遊騎兵令】 冀州遊騎隊長、涼州遊騎隊長、精鋭兵令の福箱 高レベルの狩り場でないと入手できない。 狙う際には、充分に鍛錬を積んでから臨もう。 現金に余裕があれば、福箱から狙うのも手だ。 ↑の転職令で狼騎兵へのとこ精鋭遊騎兵じゃないですか? -- 名無しさん (2009-08-31 21 10 01) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/kword/pages/74.html
■東アジア王朝史年表(一部クラン名表記) 夏 BC1800 殷 BC1550-1027 ● 周 BC1027-256 西周BC1027-BC771 東周BC771-BC256 ● 春秋時代BC770-BC403 戦国時代 BC403-BC221 燕BC1100-BC222 魯BC1055-BC249 晋BC1100-BC378 姫(キ)氏。 智氏、中行氏、士氏、郤氏、欒氏 韓BC403-BC230 姫姓韓氏。 魏BC403-BC225 魏家。 趙BC403-BC228 趙氏。参考 宋BC1100-BC286 戴氏。 斉BC1046-BC386 呂氏。 田斉BC386-BC221 田氏 鄭BC806-BC375 姫氏。 衛BC1100-BC209 姫氏。 呉(WU) BC585-BC473 姫氏。 楚-BC223 ミャオ族 越BC600-BC334 紹興。百越族。 ● 秦 BC221-BC207 ●漢 BC206- 前漢(西漢)BC206-8 新 8-23 後漢(東漢)25-220 ● 三国時代 220-280 曹魏220-265 呉222-280 孫氏。 蜀221-263 ●<晋>265-420 西晋265-316 司馬氏。 東晋317-420 司馬氏。 ●<五胡十六国時代>304-439 ※五胡=匈奴・鮮卑・羯・氐(テイ)・羌 前涼301-376 漢族 前趙304-329 フン族(匈奴) 成漢 304-347 チベット系テイ族 後趙330-351 フン族(匈奴) 冉閔(ゼンビン)349-352 漢族 前燕337-370 テュルク=ツングース(鮮卑)系 前秦351-394 チベット系テイ族 後燕384-409 テュルク=ツングース(鮮卑)系 後秦384-417 チベット系羌(キョウ)族 西秦385-431 テュルク=ツングース(鮮卑) 北魏386-534 テュルク=ツングース(鮮卑) 後涼389-403 チベット系テイ族 南涼397-414 テュルク=ツングース(鮮卑) 北涼397-439 盧水胡の族長。匈奴、月氏説。 南燕400-410 テュルク=ツングース(鮮卑) 西涼400-421 漢族 夏407-431 フン族(匈奴) 北燕409-436 漢族 ● 南北朝時代439-589 <南朝> 宋420-479 斉479-502 梁502-557 陳557-589 北朝> 北魏386-534 東魏534-550 西魏535-556 北斉550-577 テュルク=ツングース(鮮卑)の高氏 北周556-581 テュルク=ツングース(鮮卑)の宇文氏 ●隋581-619 楊氏(普六茹)は鮮卑系漢人 突厥552-745 テュルク人。阿史那(アシナ)氏。 ●唐618-907 李氏(大野氏)は鮮卑系漢人 吐蕃633-877 トボット。チベット。 渤海698-926 南詔738-937 ●<五代十国時代>884-960 五代 後梁907-923 後唐923-936 後晋936-946 後漢947-950 後周951-960 十国 前蜀907-925 後蜀934-965 呉902-937 南唐937-975 荊南907-963 呉越907-978 閩909-945 楚907-951 南漢909-971 北漢951-979 それ以外 岐901-924 桀燕911-913 契丹(遼)916-1125 キタイ族 大理937-1254 タイのペー族(白族) →後、雲南王国(梁王国)1256-1390 ●宋王朝(北宋・南宋)960-1279 西夏1038-1227 タングート族 金1115-1234 ツングース系女真族 ●元ウルス1271-1368 モンゴル族 ●明1368-1644 朱氏。 グーシ・ハーン王朝1642-1724 オイラート族 ●清1644-1912 ツングース系満州族 ジュンガル国1676-1757 オイラート族 ■参考 二十五史 史記、前漢書、後漢書、三国志、晋書、宋書、南斉書、梁書、陳書、魏書、北斉書、周書、隋書、南史、北史、旧唐書、新唐書、旧五代史、新五代史、宋史、遼史、金史、元史、明史、清史稿。
https://w.atwiki.jp/tsugan/pages/121.html
資治通鑑巻第十八 漢紀十 世宗孝武皇帝上之下 元光二年(戊申、前一三三) 1冬,十月,上行幸雍,祠五畤。 1. 2李少君以祠灶卻老方見上,上尊之。少君者,故深澤侯舍人,匿其年及其生長,其游以方遍諸侯,無妻子。人聞其能使物及不死,更饋遺之,常餘金錢、衣食。人皆以爲不治生業而饒給,又不知其何所人,愈信,爭事之。少君善爲巧發奇中。嘗從武安侯飲,坐中有九十餘老人,少君乃言與其大父游射處;老人爲兒時從其大父,識其處,一坐盡驚。少君言上曰:「祠灶則致物,致物而丹沙可化爲黄金,壽可益,蓬萊仙者可見;見之,以封禪則不死,黄帝是也。臣嘗游海上,見安期生,食臣棗,大如瓜。安期生仙者,通蓬萊中,合則見人,不合則隱。」於是天子始親祠灶,遣方士入海求蓬萊安期生之屬,而事化丹沙諸藥齊爲黄金矣。居久之,李少君病死,天子以爲化去,不死;而海上燕、齊怪迂之方士多更來言神事矣。 2. 3亳人謬忌奏祠太一。方曰:「天神貴者太一,太一佐曰五帝。」於是天子立其祠長安東南郊。 3. 4鴈門馬邑豪聶壹,因大行王恢言:「匈奴初和親,親信邊,可誘以利致之,伏兵襲撃,必破之道也。」上召問公卿。王恢曰:「臣聞全代之時,北有強胡之敵,内連中國之兵,然尚得養老、長幼,種樹以時,倉廩常實,匈奴不輕侵也。今以陛下之威,海内爲一,然匈奴侵盜不已者,無他,以不恐之故耳。臣竊以爲撃之便。」韓安國曰:「臣聞高皇帝嘗圍於平城,七日不食;及解圍反位,而無忿怒之心。夫聖人以天下爲度者也,不以己私怒傷天下之功,故遣劉敬結和親,至今爲五世利。臣竊以爲勿撃便。」恢曰:「不然。高帝身被堅執鋭,行幾十年,所以不報平城之怨者,非力不能,所以休天下之心也。今邊境數驚,士卒傷死,中國槥車相望,此仁人之所隱也。故曰撃之便。」安國曰:「不然。臣聞用兵者以飽待饑,正治以待其亂,定捨以待其勞;故接兵覆衆,伐國墮城,常坐而役敵國,此聖人之兵也。今將卷甲輕舉,深入長驅,難以爲功;從行則迫脅,衡行則中絶,疾則糧乏,徐則後利,不至千里,人馬乏食。兵法曰:『遺人,獲也』,臣故曰勿撃便。」恢曰:「不然。臣今言撃之者,固非發而深入也。將順因單于之欲,誘而致之邊,吾選梟騎、壯士陰伏而處以爲之備,審遮險阻以爲其戒。吾勢已定,或營其左,或營其右,或當其前,或絶其後,單于可禽,百全必取。」上從恢議。 夏,六月,以御史大夫韓安國爲護軍將軍,衞尉李廣爲驍騎將軍,太僕公孫賀爲輕車將軍,大行王恢爲將屯將軍,太中大夫李息爲材官將軍,將車騎、材官三十餘萬匿馬邑旁谷中,約單于入馬邑縱兵。陰使聶壹爲間,亡入匈奴,謂單于曰:「吾能斬馬邑令、丞,以城降,財物可盡得。」單于愛信,以爲然而許之。聶壹乃詐斬死罪囚,縣其頭馬邑城下,示單于使者爲信,曰:「馬邑長吏已死,可急來!」於是單于穿塞,將十萬騎入武州塞。未至馬邑百餘里,見畜布野而無人牧者,怪之。乃攻亭,得鴈門尉史,欲殺之,尉史乃告單于漢兵所居。單于大驚曰:「吾固疑之。」乃引兵還,出曰:「吾得尉史,天也!」以尉史爲天王。塞下傳言單于已去,漢兵追至塞,度弗及,乃皆罷兵。王恢主別從代出撃胡輜重,聞單于還,兵多,亦不敢出。 上怒恢。恢曰:「始,約爲入馬邑城,兵與單于接,而臣撃其輜重,可得利。今單于不至而還,臣以三萬人衆不敵,只取辱。固知還而斬,然完陛下士三萬人。」於是下恢廷尉。廷尉當「恢逗橈,當斬。」恢行千金丞相蚡,蚡不敢言上,而言於太后曰:「王恢首爲馬邑事,今不成而誅恢,是爲匈奴報仇也。」上朝太后,太后以蚡言告上。上曰:「首爲馬邑事者恢,故發天下兵數十萬,從其言爲此。且縱單于不可得,恢所部撃其輜重,猶頗可得以慰士大夫心。今不誅恢,無以謝天下。」於是恢聞,乃自殺。自是之後,匈奴絶和親,攻當路塞,往往入盜於漢邊,不可勝數;然尚貪樂關市,嗜漢財物;漢亦關市不絶,以中其意。 4. 三年(己酉、前一三二) 1春,河水徙,從頓丘東南流。夏,五月,丙子,復決濮陽瓠子,注巨野,通淮、泗,泛郡十六。天子使汲黯、鄭當時發卒十萬塞之,輒復壞。是時,田蚡奉邑食鄃,鄃居河北,河決而南,則鄃無水災,邑收多。蚡言於上曰:「江、河之決皆天事,未易以人力強塞,塞之未必應天。」而望氣用數者亦以爲然。於是天子久之不復事塞也。 1. 2初,孝景時,魏其侯竇嬰爲大將軍,武安侯田蚡乃爲諸郎,侍酒跪起如子侄。已而蚡日益貴幸,爲丞相。魏其失勢,賓客益衰,獨故燕相穎陰灌夫不去。嬰乃厚遇夫,相爲引重,其游如父子然。夫爲人剛直,使酒,諸有勢在己之右者必陵之;數因酒忤丞相。丞相乃奏案:「灌夫家屬橫穎川,民苦之。」收繋夫及支屬,皆得棄市罪。魏其上書論救灌夫,上令與武安東朝廷辨之。魏其、武安因互相詆訐。上問朝臣:「兩人孰是?」唯汲黯是魏其,韓安國兩以爲是;鄭當時是魏其,後不敢堅。上怒當時曰:「吾並斬若屬矣。」即罷。起,入。上食太后,太后怒不食,曰:「今我在也,而人皆藉吾弟;令我百歳後,皆魚肉之乎!」上不得已,遂族灌夫;使有司案治魏其,得棄市罪。 2. 四年(庚戌、前一三一) 1冬,十二月晦,論殺魏其於渭城。春,三月,乙卯,武安侯蚡亦薨。及淮南王安敗,上聞蚡受安金,有不順語,曰:「使武安侯在者,族矣!」 1. 2夏,四月,隕霜殺草。 2. 3御史大夫安國行丞相事,引,墮車,蹇。五月,丁巳,以平棘侯薛澤爲丞相,安國病免。 3. 4地震。赦天下。 4. 5九月,以中尉張歐爲御史大夫。韓安國疾愈,復爲中尉。 5. 6河間王德,修學好古,實事求是,以金帛招求四方善書,得書,多與漢朝等。是時,淮南王安亦好書,所招致率多浮辯。獻王所得書,皆古文先秦舊書,采禮樂古事,稍稍增輯至五百餘篇,被服、造次必於儒者,山東諸儒多從之遊。 6. 五年(辛亥、前一三〇) 1冬,十月,河間王來朝,獻雅樂,對三雍宮及詔策所問三十餘事。其對,推道術而言,得事之中,文約指明。天子下太樂官常存肄河間王所獻雅聲,歳時以備數,然不常御也。春,正月,河間王薨,中尉常麗以聞,曰:「王身端行治,温仁恭儉,篤敬愛下,明知深察,惠於鰥寡。」大行令奏:「謚法:『聰明睿知曰獻,』謚曰獻王。」 班固贊曰:昔魯哀公有言:「寡人生於深宮之中,長於婦人之手,未嘗知憂,未嘗知懼。」信哉斯言也,雖欲不危亡,不可得已!是故古人以宴安爲鴆毒,無德而富貴謂之不幸。漢興,至於孝平,諸侯王以百數,率多驕淫失道。何則?沈溺放恣之中,居勢使然也。自凡人猶繫於習俗,而況哀公之倫乎!「夫唯大雅,卓爾不羣」,河間獻王近之矣。 1. 2初,王恢之討東越也,使番陽令唐蒙風曉南越。南越食蒙以蜀枸醬,蒙問所從來。曰:「道西北牂柯江。牂柯江廣數里,出番禺城下。」蒙歸至長安,問蜀賈人。賈人曰:「獨蜀出枸醬,多持竊出市夜郎。夜郎者,臨牂柯江,江廣百餘歩,足以行船。南越以財物役屬夜郎,西至桐師,然亦不能臣使也。」蒙乃上書説上曰:「南越王黄屋左纛,地東西萬餘里,名爲外臣,實一州主也。今以長沙、豫章往,水道多絶,難行。竊聞夜郎所有精兵可得十餘萬,浮船牂柯江,出其不意,此制越一奇也。誠以漢之強,巴、蜀之饒,通夜郎道爲置吏,甚易。」上許之。 乃拜蒙爲中郎將,將千人,食重萬餘人,從巴、蜀筰關入,遂見夜郎侯多同。蒙厚賜,喩以威德,約爲置吏,使其子爲令。夜郎旁小邑皆貪漢繒帛,以爲漢道險,終不能有也,乃且聽蒙約。還報,上以爲犍爲郡,發巴、蜀卒治道,自僰道指牂柯江,作者數萬人,士卒多物故,有逃亡者。用軍興法誅其渠率,巴、蜀民大驚恐。上聞之,使司馬相如責唐蒙等,因諭告巴、蜀民以非上意;相如還報。 是時,邛、筰之君長。聞南夷與漢通,得賞賜多,多欲願爲内臣妾,請吏比南夷。天子問相如,相如曰:「邛、筰、冉駹者近蜀,道亦易通。秦時嘗通,爲郡縣,至漢興而罷。今誠復通,爲置郡縣,愈於南夷。」天子以爲然,乃拜相如爲中郎將,建節往使,及副使王然於等乘傳,因巴、蜀吏幣物以賂西夷。邛、筰、冉駹、斯楡之君。皆請爲内臣。除邊關;關益斥,西至沬、若水,南至牂柯爲徼,通零關道,橋孫水以通邛都,爲置一都尉、十餘縣,屬蜀。天子大説。 2. 3詔發卒萬人治鴈門阻險。 3. 4秋,七月,大風拔木。 4. 5女巫楚服等教陳皇后祠祭厭勝,挾婦人媚道;事覺,上使御史張湯窮治之。湯深竟黨與,相連及誅者三百餘人,楚服梟首於市。乙巳,賜皇后冊,收其璽綬,罷退,居長門宮。竇太主慚懼,稽顙謝上。上曰:「皇后所爲不軌於大義,不得不廢。主當信道以自慰,勿受妄言以生嫌懼。後雖廢,供奉如法,長門無異上宮也。」 5. 6初,上嘗置酒竇太主家,主見所幸賣珠兒董偃,上賜之衣冠,尊而不名,稱爲「主人翁」,使之侍飲;由是董君貴寵,天下莫不聞。常從遊戲北宮,馳逐平樂觀雞、鞠之會,角狗、馬之足,上大歡樂之。上爲竇太主置酒宣室,使謁者引内董君。是時,中郎東方朔陛戟殿下,辟戟而前曰:「董偃有斬罪三,安得入乎!」上曰:「何謂也?」朔曰:「偃以人臣私侍公主,其罪一也。敗男女之化,而亂婚姻之禮,傷王制,其罪二也。陛下富於春秋,方積思於六經,偃不遵經勸學,反以靡麗爲右,奢侈爲務,盡狗馬之樂,極耳目之欲,是乃國家之大賊,人主之大蜮,其罪三也。」上默然不應,良久曰:「吾業已設飲,後而自改。」朔曰:「不可。夫宣室者,先帝之正處也,非法度之政不得入焉。故淫亂之漸,其變爲簒。是以豎貂爲淫而易牙作患,慶父死而魯國全。」上曰:「善!」有詔止,更置酒北宮,引董君從東司馬門入;賜朔黄金三十斤。董君之寵由是日衰。是後,公主、貴人多踰禮制矣。 6. 7上以張湯爲太中大夫,與趙禹共定諸律令,務在深文。拘守職之吏,作見知法,吏傳相監司。用法益刻自此始。 7. 8八月,螟。 8. 9是歳,征吏民有明當世之務、習先聖之術者,縣次續食,令與計諧。 菑川人公孫弘對策曰:「臣聞上古堯、舜之時,不貴爵賞而民勸善,不重刑罰而民不犯,躬率以正則遇民信也;末世貴爵厚賞而民不勸,深刑重罰而姦不止,其上不正,遇民不信也。夫厚賞重刑,未足以勸善而禁非,必信而已矣。是故因能任官,則分職治;去無用之言,則事情得;不作無用之器,則賦斂省;不奪民時,不妨民力,則百姓富;有德者進,無德者退,則朝廷尊;有功者上,無功者下,則羣臣逡;罰當罪,則姦邪止;賞當賢,則臣下勸。凡此八者,治之本也。故民者,業之則不爭,理得則不怨,有禮則不暴,愛之則親上,此有天下之急者也。禮義者,民之所服也;而賞罰順之,則民不犯禁矣。 臣聞之:氣同則從,聲比則應。今人主和德於上,百姓和合於下,故心和則氣和,和則形和,形和則聲和,聲和則天地之和應矣。故陰陽和,風雨時,甘露降,五穀登,六畜蕃,嘉禾興,硃草生,山不童,澤不涸,此和之至也。」 時對者百餘人,太常奏弘第居下。策奏,天子擢弘對爲第一,拜爲博士,待詔金馬門。 齊人轅固,年九十餘,亦以賢良征。公孫弘仄目而事固,固曰:「公孫子,務正學以言,無曲學以阿世。」諸儒多疾毀固者,固遂以老罷歸。 是時,巴、蜀四郡鑿山通西南夷道,千餘里戍轉相餉。數歳,道不通,士罷餓、離暑濕死者甚衆;西南夷又數反,發兵興撃,費以巨萬計而無功。上患之,詔使公孫弘視焉。還奏事,盛毀西南夷無所用,上不聽。弘毎朝會議,開陳其端,使人主自擇,不肯面折廷爭。於是上察其行愼厚,辯論有餘,習文法吏事,縁飾以儒術,大説之,一歳中遷至左内史。 弘奏事,有不可,不廷辨。常與汲黯請間,黯先發之,弘推其後,天子常説,所言皆聽,以此日益親貴。弘嘗與公卿約議,至上前,皆倍其約以順上旨。汲黯廷詰弘曰:「齊人多詐而無情實。始與臣等建此議,今皆倍之,不忠!」上問弘。弘謝曰:「夫知臣者,以臣爲忠;不知臣者,以臣爲不忠。」上然弘言。左右幸臣毎毀弘,上益厚遇之。 9. 六年(壬子、前一二九) 1冬,初算商車。 1. 2大司農鄭當時言:「穿渭爲渠,下至河,漕關東粟徑易,又可以漑渠下民田萬餘頃。」春,詔發卒數萬人穿渠,如當時策;三歳而通,人以爲便。 2. 3匈奴入上谷,殺略吏民。遣車騎將軍衞靑出上谷,騎將軍公孫敖出代,輕車將軍公孫賀出雲中,驍騎將軍李廣出鴈門,各萬騎,撃胡關市下。衞靑至龍城,得胡首虜七百人;公孫賀無所得;公孫敖爲胡所敗,亡七千騎;李廣亦爲胡所敗。胡生得廣,置兩馬間,絡而盛臥,行十餘里;廣佯死,暫騰而上胡兒馬上,奪其弓,鞭馬南馳,遂得脱歸。漢下敖、廣吏,當斬,贖爲庶人;唯靑賜爵關内侯。靑雖出於奴虜,然善騎射,材力絶人;遇士大夫以禮,與士卒有恩,衆樂爲用,有將帥材,故毎出輒有功。天下由此服上之知人。 3. 4夏,大旱,蝗。 4. 5六月,上行幸雍。 5. 6秋,匈奴數盜邊,漁陽尤甚。以衞尉韓安國爲材官將軍,屯漁陽。 6. 元朔元年(癸丑、前一二八) 1冬,十一月,詔曰:「朕深詔執事,興廉舉孝,庶幾成風,紹休聖緒。夫十室之邑,必有忠信;三人並行,厥有我師。今或至闔郡而不薦一人,是化不下究,而積行之君子壅於上聞也。且進賢受上賞,蔽賢蒙顯戮,古之道也。其議二千石不舉者罪。」有司奏:「不舉孝,不奉詔,當以不敬論;不察廉,不勝任也,當免。」奏可。 1. 2十二月,江都易王非薨。 2. 3皇子據生,衞夫人之子也。三月,甲子,立衞夫人爲皇后,赦天下。 3. 4秋,匈奴二萬騎入漢,殺遼西太守,略二千餘人,圍韓安國壁;又入漁陽、鴈門,各殺略千餘人。安國益東徙,屯北平;數月,病死。天子乃復召李廣,拜爲右北平太守。匈奴號曰「漢之飛將軍」,避之,數歳不敢入右北平。 4. 5車騎將軍衞靑將三萬騎出鴈門,將軍李息出代;靑斬首虜數千人。 5. 6東夷薉君南閭等共二十八萬人降,爲蒼海郡;人徒之費,擬於南夷,燕、齊之間,靡然騷動。 6. 7是歳,魯共王餘、長沙定王發皆薨。 7. 8臨菑人主父偃、嚴安,無終人徐樂,皆上書言事。 始,偃游齊、燕、趙,皆莫能厚遇,諸生相與排擯不容;家貧,假貸無所得,乃西入關上書闕下,朝奏,暮召入。所言九事,其八事爲律令;一事諫伐匈奴,其辭曰:「司馬法曰:『國雖大,好戰必亡;天下雖平,忘戰必危。』夫怒者逆德也,兵者凶器也,爭者末節也。夫務戰勝,窮武事者,未有不悔者也。 昔秦皇帝併呑戰國,務勝不休,欲攻匈奴。李斯諫曰:『不可。夫匈奴,無城郭之居,委積之守,遷徙鳥舉,難得而制也。輕兵深入,糧食必絶;踵糧以行,重不及事。得其地,不足以爲利也;得其民,不可調而守也;勝必殺之,非民父母也;靡敝中國,快心匈奴,非長策也。』秦皇帝不聽,遂使蒙恬將兵攻胡,闢地千里,以河爲境。地固沮澤、咸鹵,不生五穀。然後發天下丁男以守北河,暴兵露師十有餘年,死者不可勝數,終不能踰河而北,是豈人衆不足,兵革不備哉?其勢不可也。又使天下蜚芻、嚙輓粟,起於東陲、琅邪負海之郡,轉輸北河,率三十鐘而致一石。男子疾耕,不足於糧餉,女子紡績,不足於帷幕,百姓靡敝,孤寡老弱不能相養,道路死者相望,蓋天下始畔秦也。 及至高皇帝,定天下,略地於邊,聞匈奴聚於代谷之外而欲撃之。御史成進諫曰:『不可。夫匈奴之性,獸聚而鳥散,從之如搏影。今以陛下盛德攻匈奴,臣竊危之。』高帝不聽,遂北至於代谷,果有平城之圍。高皇帝蓋悔之甚,乃使劉敬往結和親之約,然後天下忘干戈之事。 夫匈奴難得而制,非一世也;行盜侵驅,所以爲業也,天性固然。上及虞、夏、殷、周,固弗程督,禽獸畜之,不屬爲人。夫上不觀虞、夏、殷、周之流,而下循近世之失,此臣之所大憂,百姓之所疾苦也。」 嚴安上書曰:「今天下人民,用財侈靡,車馬、衣裘、宮室,皆競修飾,調五聲使有節族,雜五色使有文章,重五味方丈於前,以觀欲天下。彼民之情,見美則願之,是教民以侈也;侈而無節,則不可贍,民離本而徼末矣。末不可徒得,故縉紳者不憚爲詐,帶劍者誇殺人以矯奪,而世不知愧,是以犯法者衆。臣願爲民制度以防其淫,使貧富不相燿以和其心;心志定,則盜賊消,刑罰少,陰陽和,萬物蕃也。昔秦王意廣心逸,欲威海外,使蒙恬將兵以北攻胡,又使尉屠睢將樓船之士以攻越。當是時,秦禍北構於胡,南掛於越,宿兵於無用之地,進而不得退。行十餘年,丁男被甲,丁女轉輸,苦不聊生;自經於道樹,死者相望。及秦皇帝崩,天下大畔,滅世絶祀,窮兵之禍也。故周失之弱,秦失之強,不變之患也。今徇西夷,朝夜郎,降羌、僰,略薉州,建城邑,深入匈奴,燔其龍城,議者美之。此人臣之利,非天下之長策也。」 徐樂上書曰:「臣聞天下之患,在於土崩,不在瓦解,古今一也。 何謂土崩?秦之末世是也。陳渉無千乘之尊、疆土之地,身非王公、大人、名族之後,郷曲之譽,非有孔、曾、墨子之賢,陶硃、猗頓之富也;然起窮巷,奮棘矜,偏袒大呼,天下從風。此其故何也?由民困而主不恤,下怨而上不知,俗已亂而政不修。此三者,陳渉之所以爲資也,此之謂土崩。故曰天下之患在乎土崩。 何謂瓦解?呉、楚、齊、趙之兵是也。七國謀爲大逆,號皆稱萬乘之君,帶甲數十萬,威足以嚴其境内,財足以勸其士民;然不能西攘尺寸之地,而身爲禽於中原者,此其故何也?非權輕於匹夫而兵弱於陳渉也。當是之時,先帝之德未衰而安土樂俗之民衆,故諸侯無竟外之助,此之謂瓦解。故曰天下之患不在瓦解。 此二體者,安危之明要,賢主之一留意而深察也。 間者,關東五穀數不登,年歳未復,民多窮困,重之以邊境之事,推數循理而觀之,民宜有不安其處者矣。不安,故易動;易動者,土崩之勢也。故賢主獨觀萬化之原,明於安危之機,修之廟堂之上而銷未形之患也,其要期使天下無土崩之勢而已矣。」 書奏,天子召見三人,謂曰:「公等皆安在,何相見之晩也!」皆拜爲郎中。主父偃尤親幸,一歳中凡四遷,爲中大夫。大臣畏其口,賂遺累千金。或謂偃曰:「太橫矣!」偃曰:「吾生不五鼎食,死即五鼎烹耳!」 8. 二年(甲寅、前一二七) 1冬,賜淮南王几杖,毋朝。 1. 2主父偃説上曰:「古者諸侯不過百里,強弱之形易制。今諸侯或連城數十,地方千里,緩則驕奢,易爲淫亂,急則阻其強而合從以逆京師。以法割削之,則逆節萌起,前日晁錯是也。今諸侯子弟或十數,而適嗣代立,餘雖骨肉,無尺地之封,則仁孝之道不宣。願陛下令諸侯得推恩分子弟,以地侯之,彼人人喜得所願。上以德施,實分其國,不削而稍弱矣。」上從之。春,正月,詔曰:「諸侯王或欲推私恩分子弟邑者,令各條上,朕且臨定其號名。」於是籓國始分,而子畢侯矣。 2. 3匈奴入上谷、漁陽,殺略吏民千餘人。遣衞靑、李息出雲中以西至隴西,撃胡之樓煩、白羊王於河南,得胡首虜數千,牛羊百餘萬,走白羊、樓煩王,遂取河南地。詔封靑爲長平侯,靑校尉蘇建、張次公皆有功,封建爲平陵侯,次公爲岸頭侯。 主父偃言:「河南地肥饒,外阻河,蒙恬城之以逐匈奴,内省轉輸戍漕,廣中國,滅胡之本也。」上下公卿議,皆言不便。上竟用偃計,立朔方郡,使蘇建興十餘萬人築朔方城,復繕故秦時蒙恬所爲塞,因河爲固。轉漕甚遠,自山東咸被其勞,費數十百巨萬,府庫並虚;漢亦棄上谷之鬥辟縣造陽地以予胡。 3. 4三月,乙亥晦,日有食之。 4. 5夏,募民徙朔方十萬口。 5. 6主父偃説上曰:「茂陵初立,天下豪桀,並兼之家,亂衆之民,皆可徙茂陵;内實京師,外銷姦猾,此所謂不誅而害除。」上從之,徙郡國豪傑及訾三百萬以上於茂陵。 軹人郭解,關東大俠也,亦在徙中。衞將軍爲言:「郭解家貧,不中徙。」上曰:「解,布衣,權至使將軍爲言,此其家不貧。」卒徙解家。解平生睚眥殺人甚衆,上聞之,下吏捕治解,所殺皆在赦前。軹有儒生侍使者坐,客譽郭解,生曰:「解專以姦犯公法,何謂賢!」解客聞,殺此生,斷其舌。吏以此責解,解實不知殺者,殺者亦竟絶,莫知爲誰。吏奏解無罪,公孫弘議曰:「解,布衣,爲任俠行權,以睚眥殺人。解雖弗知,此罪甚於解殺之。當大逆無道。」遂族郭解。 班固曰:古者天子建國,諸侯立家,自卿大夫以至於庶人,各有等差,是以民服事其上而下無覬覦。周室既微,禮樂、征伐自諸侯出。桓、文之後,大夫世權,陪臣執命。陵夷至於戰國,合從連衡,繇是列國公子,魏人信陵,趙有平原,齊有孟嘗,楚有春申,皆藉王公之勢,競爲遊俠,雞鳴狗盜,無不賓禮。而趙相虞卿,棄國捐君,以周窮交魏齊之厄;信陵無忌,竊符矯命,戮將專師,以赴平原之急;皆以取重諸侯,顯名天下,扼腕而游談者,以四豪爲稱首。於是背公死黨之議成,守職奉上之義廢矣。及至漢興,禁網疏闊,未知匡改也。是故代相陳豨從車千乘,而呉濞、淮南皆招客以千數。外戚大臣魏其、武安之屬競逐於京師,布衣遊俠劇孟、郭解之徒馳騖於閻閭、權行州域。力折公侯,衆庶榮其名跡,覬而慕之。雖其陷於刑辟,自與殺身成名,若季路、仇牧,死而不悔。故曾子曰:「上失其道,民散久矣。」非明王在上,示之以好惡,齊之以禮法,民曷由知禁而反正乎!古之正法:五伯,三王之罪人也;而六國,五伯之罪人也。夫四豪者,又六國之罪人也。況於郭解之倫,以匹夫之細,竊殺生之權,其罪已不容於誅矣。觀其温良泛愛,振窮周急,謙退不伐,亦皆有絶異之姿。惜乎,不入於道德,苟放縱於末流,殺身亡宗,非不幸也。 荀悅論曰:世有三游,德之賊也:一曰遊俠,二曰遊説,三曰遊行。立氣勢,作威福,結私交以立強於世者,謂之遊俠;飾辯辭,設詐謀,馳逐於天下以要時勢者,謂之遊説;色取仁以合時好,連黨類,立虚譽以爲權利者,謂之遊行。此三者,亂之所由生也;傷道害德,敗法惑世,先王之所愼也。國有四民,各修其業。不由四民之業者,謂之姦民。姦民不生,王道乃成。 凡此三游之作,生於季世,周、秦之末尤甚焉。上不明,下不正,制度不立,綱紀馳廢;以毀譽爲榮辱,不核其眞;以愛憎爲利害,不論其實;以喜怒爲賞罰,不察其理。上下相冒,萬事乖錯,是以言論者計薄厚而吐辭,選舉者度親疏而舉筆,善惡謬於衆聲,功罪亂於王法。然則利不可以義求,害不可以道避也。是以君子犯禮,小人犯法,奔走馳騁,越職僭度,飾華廢實,競趣時利。簡父兄之尊而崇賓客之禮,薄骨肉之恩而篤朋友之愛,忘修身之道而求衆人之譽,割衣食之業以供饗宴之好,苞苴盈於門庭,聘問交於道路,書記繁於公文,私務衆於官事,於是流俗成而正道壞矣。 是以聖王在上,經國序民,正其制度;善惡要於功罪而不淫於毀譽,聽其言而責其事,舉其名而指其實。故實不應其聲者謂之虚,情不覆其貌者謂之僞,毀譽失其眞者謂之誣,言事失其類者謂之罔。虚僞之行不得設,誣罔之辭不得行,有罪惡者無僥倖,無罪過者不憂懼,請謁無所行,貨賂無所用,息華文,去浮辭,禁僞辯,絶淫智,放百家之紛亂,壹聖人之至道,養之以仁惠,文之以禮樂,則風俗定而大化成矣。 6. 7燕王定國與父康王姫姦,奪弟妻爲姫,殺肥如令郢人。郢人兄弟上書告之,主父偃從中發其事。公卿請誅定國,上許之。定國自殺,國除。 齊厲王次昌亦與其姊紀翁主通。主父偃欲納其女於齊王,齊紀太后不許。偃因言於上曰:「齊臨菑十萬戸,市租千金,人衆殷富,巨於長安,非天子親弟、愛子,不得王此。今齊王於親屬益疏,又聞其姊亂,請治之!」於是帝拜偃爲齊相,且正其事。偃至齊,急治王后宮宦者,辭及王;王懼,飲藥自殺。偃少時游齊及燕、趙,及貴,連敗燕、齊。趙王彭祖懼,上書告主父偃受諸侯金,以故諸侯子弟多以得封者。及齊王自殺,上聞,大怒,以爲偃劫其王令自殺,乃征下吏治。偃服受諸侯金,實不劫王令自殺。上欲勿誅,公孫弘曰:「齊王自殺,無後,國除爲郡入漢,主父偃本首惡。陛下不誅偃,無以謝天下。」乃遂族主父偃。 7. 8張歐免,上欲以蓼侯孔臧爲御史大夫。臧辭曰:「臣世以經學爲業,乞爲太常,典臣家業,與從弟侍中安國綱紀古訓,使永垂來嗣。」上乃以臧爲太常,其禮賜如三公。 8. 三年(乙卯、前一二六) 1冬,匈奴軍臣單于死,其弟左谷蠡王伊稚斜自立爲單于,攻破軍臣單于太子於單,於單亡降漢。 1. 2以公孫弘爲御史大夫。是時,方通西南夷,東置蒼海,北築朔方之郡。公孫弘數諫,以爲罷敝中國以奉無用之地,願罷之。天子使硃買臣等難以置朔方之便;發十策,弘不得一。弘乃謝曰:「山東鄙人,不知其便若是,願罷西南夷、蒼海而專奉朔方。」上乃許之,春,罷蒼海郡。 弘爲布被,食不重肉。汲黯曰:「弘位在三公,奉祿甚多;然爲布被,此詐也。」上問弘,弘謝曰:「有之。夫九卿臣善者無過黯,然今日廷詰弘,誠中弘之病。夫以三公爲布被,與小吏無差,誠飾詐,欲以釣名,如汲黯言。且無汲黯忠,陛下安得聞此言!」天子以爲謙讓,愈益厚之。 2. 3三月,赦天下。 3. 4夏,四月,丙子,封匈奴太子於單爲渉安侯,數月而卒。 4. 5初,匈奴降者言:「月氏故居敦煌、祁連間,爲強國,匈奴冒頓攻破之。老上單于殺月氏王,以其頭爲飲器。餘衆遁逃遠去,怨匈奴,無與共撃之。」上募能通使月氏者,漢中張騫以郎應募,出隴西,逕匈奴中;單于得之,留騫十餘歳。騫得間亡,郷月氏西走,數十日,至大宛。大宛聞漢之饒財,欲通不得,見騫,喜,爲發導譯抵康居,傳致大月氏。大月氏太子爲王,既撃大夏,分其地而居之,地肥饒,少寇,殊無報胡之心。騫留歳餘,竟不能得月氏要領,乃還;並南山,欲從羌中歸,復爲匈奴所得,留歳餘。會伊稚斜逐於單,匈奴國内亂,騫乃與堂邑氏奴甘父逃歸。上拜騫爲太中大夫,甘父爲奉使君。騫初行時百餘人,去十三歳,唯二人得還。 5. 6匈奴數萬騎入塞,殺代郡太守恭,及略千餘人。 6. 7六月,庚午,皇太后崩。 7. 8秋,罷西夷,獨置南夷、夜郎兩縣、一都尉,稍令犍爲自葆就,專力城朔方。 8. 9匈奴又入鴈門,殺略千餘人。 9. 10是歳,中大夫張湯爲廷尉。湯爲人多詐,舞智以御人。時上方郷文學,湯陽浮慕,事董仲舒、公孫弘等。以千乘兒寬爲奏讞掾,以古法義決疑獄。所治,即上意所欲罪,與監、史深禍者;即上意所欲釋,與監、史輕平者;上由是悅之。湯於故人子弟調護之尤厚;其造請諸公,不避寒暑。是以湯雖文深、意忌、不專平,然得此聲譽。汲黯數質責湯於上前曰:「公爲正卿,上不能褒先帝之功業,下不能抑天下之邪心,安國富民,使囹圄空虚,何空取高皇帝約束紛更之爲!而公以此無種矣。」黯時與湯論議,湯辯常在文深小苛;黯伉厲守高,不能屈,忿發,罵曰:「天下謂刀筆吏不可以爲公卿,果然!必湯也,令天下重足而立,側目而視矣!」 10. 四年(丙辰、前一二五) 1冬,上行幸甘泉。 1. 2夏,匈奴入代郡、定襄、上郡,各三萬騎,殺略數千人。 2.
https://w.atwiki.jp/shikino/pages/94.html
兵馬俑1 秦の始皇帝は、紀元前221年中国を統一し自らを始めて皇帝と称した。中国の統一後、全国から武器を集めさせてそれを溶かし、巨大な像を作りました。さらに度量衡、貨幣、車の幅を統一した。また文字では、秦で使われていた漢字を全国で使うように定め、全国の交通の整備を進めた。後世の統一王朝の範となる、合理的な支配体制を確立しました。 始皇帝は、匈奴に備えるために万里の長城を修復し、北方へ将軍を派遣して匈奴を討たせ、また罪人を兵として使い、南の嶺南(ベトナム北部)を征服しました。 始皇帝は不老不死を求めて徐福に東方にあるという蓬莱の国へ行き、不老不死の薬を探させた。この時の徐福伝説が日本各地に残っています。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/tsugan/pages/130.html
資治通鑑巻第二十七 漢紀十九 中宗孝宣皇帝下 神爵四年(癸亥、前五八) 1春,二月,以鳳皇、甘露降集京師,赦天下。 1. 春、二月、京師で甘露が降り、鳳凰が集まったとして天下に大赦を下した。 2穎川太守黄霸在郡前後八年,政事愈治;是時鳳皇、神爵數集郡國,穎川尤多。夏,四月,詔曰:「穎川太守霸,宣布詔令,百姓郷化,孝子、弟弟、貞婦、順孫日以衆多,田者讓畔,道不拾遺,養視鰥寡,贍助貧窮,獄或八年亡重罪囚,其賜爵關内侯、黄金百斤、秩中二千石。」而穎川孝、弟、有行義民、三老、力田皆以差賜爵及帛。後數月,征霸爲太子太傅。 2. 潁川太守黄霸が郡にあること前後八年、政事は優れていた。この時、鳳凰、神雀が郡国で確認されたが、潁川が最も多かった。夏、四月、宣帝は詔を出して褒めて言った。「潁川太守霸は、わが詔令を宣布して民を治め、百姓は教化され、孝行な子弟や貞婦、老人を敬う孫ばかりで土地の争論もなく、道には他人の遺失物を拾う者なく、孤者、寡婦、寡夫を養い、貧窮の者を救い援け、獄中には八年連続して冤罪の囚人がいない。よって、関内侯の爵と黄金百斤を賜い、秩禄中二千石にする。」また宣帝は潁川郡中の孝行な子や友愛なる兄弟および行いに仁義ある民、三老や農事に励む者に、爵を賜い、帛を賜った。その数ヵ月後、宣帝は黄霸を太子太傅とした。 3五月,匈奴單于遣弟呼留若王勝之來朝。 3. 五月、匈奴の単于が弟の呼留若王勝之を遣って朝廷に参朝した。 4冬,十月,鳳皇十一集杜陵。 4. 冬、十月、十一羽の鳳凰が杜陵に集まったとした。 5河南太守東海嚴延年爲治陰鷙酷烈,衆人所謂當死者一朝出之,所謂當生者詭殺之,吏民莫能測其意深淺,戰慄不敢犯禁。冬月,傳屬縣囚會論府上,流血數里,河南號曰「屠伯」。延年素輕黄霸爲人,及比郡爲守,褒賞反在己前,心内不服。河南界中又有蝗蟲,府丞義出行蝗,還,見延年。延年曰:「此蝗豈鳳皇食邪?」義年老,頗悖,素畏延年,恐見中傷。延年本嘗與義倶爲丞相史,實親厚之,饋遺之甚厚。義愈益恐,自筮,得死卦,忽忽不樂,取告至長安,上書言延年罪名十事;已拜奏,因飲藥自殺,以明不欺。事下御史丞按驗,得其語言怨望、誹謗政治數事。十一月,延年坐不道,棄市。 初,延年母從東海來,欲從延年臘。到洛陽,適見報囚,母大驚,便止都亭,不肯入府。延年出至都亭謁母,母閉閣不見。延年免冠頓首閣下,良久,母乃見之,因數責延年:「幸得備郡守,專治千里,不聞仁愛教化,有以全安愚民。顧乘刑罰,多刑殺人,欲以立威,豈爲民父母意哉!」延年服罪,重頓首謝,因自爲母御歸府捨。母畢正臘,謂延年曰:「天道神明,人不可獨殺。我不意當老見壯子被刑戮也!行矣,支汝東歸,掃除墓地耳!」遂去,歸郡,見昆弟、宗人,復爲言之。後歳餘,果敗,東海莫不賢智其母。 5. 6匈奴握衍朐鞮單于暴虐,好殺伐,國中不附。及太子、左賢王數讒左地貴人,左地貴人皆怨。會烏桓撃匈奴東邊姑夕王,頗得人民,單于怒。姑夕王恐,即與烏禪幕及左地貴人共立稽侯犬冊爲呼韓邪單于,發左地兵四五萬人,西撃握衍朐鞮單于,至姑且水北。未戰,握衍朐鞮單于兵敗走,使人報其弟右賢王曰:「匈奴共攻我,若肯發兵助我乎?」右賢王曰:『若不愛人,殺昆弟、諸貴人。各自死若處,無來汚我!」握衍朐鞮單于恚,自殺。左大且渠都隆奇亡之右賢王所,其民衆盡降呼韓邪單于。呼韓邪單于歸庭;數月,罷兵,使各歸故地,乃收其兄呼屠吾斯在民間者,立爲左谷蠡王,使人告右賢貴人,欲令殺右賢王,其冬,都隆奇與右賢王共立日逐王薄胥堂爲屠耆單于,發兵數萬人東襲呼韓邪單于,呼韓邪單于兵敗走。屠耆單于還,以其長子都塗吾西爲左谷蠡王,少子姑瞀樓頭爲右谷蠡王,留居單于庭。 6. 五鳳元年(甲子、前五七) 1春,正月,上幸甘泉,郊泰畤。 1. 2皇太子冠。 2. 3秋,七月,匈奴屠耆單于使先賢撣兄右奧鞬王,與烏藉都尉各二萬騎屯東方,以備呼韓邪單于。是時西方呼掲王來與唯犁當戸謀,共讒右賢王。言欲自立爲單于。屠耆單于殺右賢王父子,後知其冤,復殺唯犁當戸。於是呼掲王恐,遂畔去,自立爲呼掲單于。右奧鞬王聞之,即自立爲車犁單于。烏藉都尉亦自立爲烏藉單于。凡五單于。屠耆單于自將兵東撃車犁單于,使都隆奇撃烏藉。烏藉、車犁皆敗,西北走,與呼掲單于兵合爲四萬人。烏藉、呼掲皆去單于號,共並力尊輔車犁單于。屠耆單于聞之,使左大將、都尉將四萬騎分屯東方,以備呼韓邪單于,自將四萬騎西撃車犁單于。車犁單于敗,西北走。屠耆單于即引兵西南留闟敦地。 漢議者多曰:「匈奴爲害日久,可因其壞亂,舉兵滅之。」詔問御史大夫蕭望之,對曰:「春秋,晉士踰帥師侵齊,聞齊侯卒,引師而還,君子大其不伐喪,以爲恩足以服孝子,誼足以動諸侯。前單于慕化郷善,稱弟,遣使請求和親,海内欣然,夷狄莫不聞。未終奉約,不幸爲賊臣所殺;今而伐之,是乘亂而幸災也,彼必奔走遠遁。不以義動兵,恐勞而無功。宜遣使者弔問,輔其微弱,救其災患。四夷聞之,咸貴中國之仁義。如遂蒙恩得復其位,必稱臣服從,此德之盛之。」上從其議。 3. 4冬,十有二月,乙酉朔,日有食之。 4. 5韓延壽代蕭望之爲左馮翊。望之聞延壽在東郡時放散官錢千餘萬,使御史案之。延壽聞知,即部吏案校望之在馮翊時廩犧官錢放散百餘萬。望之自奏:「職在總領天下,聞事不敢不問,而爲延壽所拘持。」上由是不直延壽,各令窮竟所考。望之卒無事實。而望之遣御史案東郡者,得其試騎士日車服侍衞奢僭踰制;又取官銅物,候月食鑄刀,效尚方事;及取官錢帛私假徭使吏;及治飾車甲三百萬以上。延壽竟坐狡猾不道,棄市。吏民數千人送到渭城,老小扶持車轂,爭奏酒炙。延壽不忍距逆,人人爲飲,計飲酒石餘。使掾、史分謝送者:「遠苦吏民,延壽死無所恨!」百姓莫不流涕。 5. 二年(乙丑、前五六) 1春,正月,上幸甘泉,郊泰畤。 1. 2車騎將軍韓增薨。五月,將軍許延壽爲大司馬、車騎大將軍。 2. 3丞相丙吉年老,上重之。蕭望之意常輕吉,上由是不悅。丞相司直奏望之遇丞相禮節倨慢,又使吏買賣,私所附益凡十萬三千,請逮捕繋治。秋,八月,壬午,詔左遷望之爲太子太傅;以太子太傅黄霸爲御史大夫。 3. 4匈奴呼韓邪單于遣其弟右谷蠡王等西襲屠耆單于屯兵,殺略萬餘人。屠耆單于聞之,即自將六萬騎撃呼韓邪單于。屠耆單于兵敗,自殺。都隆奇乃與屠耆少子右谷蠡王姑瞀樓頭亡歸漢。車犁單于東降呼韓邪單于。冬,十一月,呼韓邪單于左大將烏厲屈與父呼□累烏厲温敦皆見匈奴亂,率其衆數萬人降漢;封烏厲屈爲新城侯,烏厲温敦爲義陽侯。是時李陵子復立烏藉都尉爲單于,呼韓邪單于捕斬之;遂復都單于庭,然衆裁數萬人。屠耆單于從弟休旬王自立爲閏振單于,在西邊;呼韓邪單于兄左賢王呼屠吾斯亦自立爲郅支骨都侯單于,在東邊。 4. 5光祿勳平通侯楊惲,廉潔無私;然伐其行能,又性刻害,好發人陰伏,由是多怨於朝廷。與太僕戴長樂相失。人有上書告長樂罪,長樂疑惲教人告之,亦上書告惲罪曰:「惲上書訟韓延壽,郎中丘常謂惲曰:『聞君侯訟韓馮翊,當得活乎?』惲曰:『事何容易,脛脛者未必全也!我不能自保,眞人所謂「鼠不容穴,銜窶數」者也。』又語長樂曰:『正月以來,天陰不雨,此春秋所記,夏侯君所言。』」事下廷尉。廷尉定國奏惲怨望,爲訞惡言,大逆不道。上不忍加誅,有詔皆免惲、長樂爲庶人。 5. 三年(丙寅、前五五) 1春,正月,癸卯,博陽定侯丙吉薨。 班固贊曰:古之制名,必由象類,遠取諸物,近取諸身。故經謂君爲元首,臣爲股肱,明其一體相待而成也。是故君臣相配,古今常道,自然之勢也。近觀漢相,高祖開基,蕭、曹爲冠;孝宣中興,丙、魏有聲。是時黜陟有序,衆職修理,公卿多稱其位,海内興於禮讓。覽其行事,豈虚虖哉! 1. 2二月,壬辰,黄霸爲丞相。霸材長於治民,及爲丞相,功名損於治郡。時京兆尹張敞捨鶡雀飛集丞相府,霸以爲神雀,議欲以聞。敞奏霸曰:「竊見丞相請與中二千石、博士雜問郡、國上計長史、守丞爲民興利除害,成大化,條其對。有耕者讓畔,男女異路,道不拾遺。及舉孝子、貞婦者爲一輩,先上殿;舉而不知其人數者,次之;不爲條教者在後。叩頭謝丞相,雖口不言,而心欲其爲之也。長史、守丞對時,臣敞捨有鶡雀飛止丞相府屋上,丞相以下見者數百人。邊吏多知鶡雀者,問之,皆陽不知。丞相圖議上奏曰:『臣問上計長史、守丞以興化條,皇天報下神爵。』後知從臣敞捨來,乃止。郡國吏竊笑丞相仁厚有知略,微信奇怪也。臣敞非敢毀丞相也,誠恐羣臣莫白,而長史、守丞畏丞相指,歸捨法令,各爲私教,務相增加,澆淳散樸,並行偽貌,有名亡實,傾搖解怠,甚者爲妖。假令京師先行讓畔、異路、道不拾遺,其實亡益廉貪、貞淫之行,而以偽先天下,固未可知也。即諸侯先行之,偽聲軼於京師,非細事也。漢家承敝通變,造起律令,所以勸善禁姦,條貫詳備,不可復加。宜令貴臣明飭長史、守丞,歸告二千石,舉三老、孝弟、力田、孝廉、廉吏,務得其人,郡皆以法令檢式,毋得擅爲條教;敢挾詐偽以姦名譽者,必先受戮,以正明好惡。」天子嘉納敞言,召上計吏,使侍中臨飭,如敞指意。霸甚慚。 又,樂陵侯史高以外屬民侍中,貴重,霸薦高可太尉。天子使尚書召問霸:「太尉官罷久矣。夫宣明教化,通達幽隱,使獄無冤刑,邑無盜賊,君之職也。將相之官,朕之任焉。侍中、樂陵侯高,帷幄近臣,朕之所自親,君何越職而舉之?」尚書令受丞相對,霸免冠謝罪,數日,乃決。自是後不敢復有所請。然自漢興,言治民吏,以霸爲首。 2. 3三月,上幸河東,祠后土。減天下口錢;赦殊死以下。 3. 4六月,辛酉,以西河太守杜延年爲御史大夫。 4. 5置西河、北地屬國以處匈奴降者。 5. 6廣陵厲王胥使巫李女須祝詛上,求爲天子。事覺,藥殺巫及宮人二十餘人以絶口。公卿請誅胥。 6. 四年(丁卯、前五四) 1春,胥自殺。 1. 2匈奴單于稱臣,遣弟右谷蠡王入侍。以邊塞亡寇,減戍卒什二。 2. 3大司農中丞耿壽昌奏言:「歳數豐穰,谷賤,農人少利。故事:歳漕關東谷四百萬斛以給京師,用卒六萬人。宜糴三輔、弘農、河東、上黨、太原郡谷,足供京師,可以省關東漕卒過半。」上從其計。壽昌又白:「令邊郡皆築倉,以谷賤增其賈而糴,以利農,谷貴時減賈而糶,名曰常平倉。」民便之。上乃下詔賜壽昌爵關内侯。 3. 4夏,四月,辛丑朔,日有食之。 4. 5楊惲既失爵位,家居治産業,以財自娯。其友人安定太守西河孫會宗與惲書,諫戒之,爲言「大臣廢退,當闔門惶懼,爲可憐之意;不當治産業,通賓客,有稱譽。」惲,宰相子,有材能,少顯朝廷,一朝以晻昧語言見廢,内懷不服,報會宗書曰:「竊自思念,過已大矣,行已虧矣,常爲農夫以沒世矣,是故身率妻子,戮力耕桑,不意當復用此爲譏議也!夫人情所不能止者,聖人弗禁,故君、父至尊、親,送其終也,有時而既。臣之得罪,已三年矣,田家作苦,歳時伏臘,烹羊,炰羔,鬥酒自勞,酒後耳熱,仰天拊缶呼烏烏,其詩曰:『田彼南山,蕪穢不治;種一頃豆,落而爲萁。人生行樂耳,須富貴何時?』誠淫荒無度,不知其不可也。」又惲兄子安平侯譚謂惲曰:「侯罪薄,又有功,且復用!」惲曰:「有功何益!縣官不足爲盡力。」譚曰:「縣官實然。蓋司隸、韓馮翊皆盡力吏也,倶坐事誅。」會有日食之變,騶馬猥佐成上書告「惲驕奢,不悔過。日食之咎,此人所致。」章下廷尉,按驗,得所予會宗書,帝見而惡之。廷尉當惲大逆無道,要斬;妻子徙酒泉郡;譚坐免爲庶人,諸在位與惲厚善者,未央衞尉韋玄成及孫會宗等,皆免官。 臣光曰:以孝宣之明,魏相、丙吉爲丞相,於定國爲廷尉,而趙、蓋、韓、楊之死皆不厭衆心,惜哉,其爲善政之累大矣!周官司寇之法,有議賢、議能。若廣漢、延壽之治民,可不謂能乎!寬饒、惲之剛直,可不謂賢乎!然則雖有死罪,猶將宥之,況罪不足以死乎!揚子以韓馮翊之愬蕭爲臣之自失。夫所以使延壽犯上者,望之激之也。上不之察,而延壽獨蒙其辜,不亦甚哉! 5. 6匈奴閏振單于率其衆東撃郅支單于。郅支與戰,殺之,並其兵;遂進攻呼韓邪。呼韓邪兵敗走,郅支都單于庭。 6. 甘露元年(戊辰、前五三) 1春,正月,行幸甘泉,郊泰畤。 1. 2楊惲之誅也,公卿奏京兆尹張敞,惲之黨友,不宜處位。上惜敞材,獨寢其奏,不下。敞使掾絮舜有所案驗,舜私歸其家曰:「五日京兆耳,安能復案事!」敞聞舜語,即部吏收舜繋獄,晝夜驗治,竟致其死事。舜當出死,敞使主簿持教告舜曰:「五日京兆竟何如?冬月已盡,延命乎?」乃棄舜市。會立春,行冤獄使者出,舜家載屍並編敞教,自言使者。使者奏敞賊殺不辜。上欲令敞得自便,即先下敞前坐楊惲奏,免爲庶人。敞詣闕上印綬,便從闕下亡命。數月,京師吏民解馳,枹鼓數起,而翼州部中有大賊,天子思敞功效,使使者即家在所召敞。敞身被重劾,及使者至,妻子家室皆泣,惶懼,而敞獨笑曰:「吾身亡命爲民,郡吏當就捕。今使者來,此天子欲用我也。」裝隨使者,詣在公車上書曰:「臣前幸得備位列卿,待罪京兆,坐殺掾絮舜。舜本臣敞素所厚吏,數蒙恩貸。以臣有章劾當免,受記考事,便歸臥家,謂臣五日京兆。背恩忘義,傷薄欲化。臣竊以舜無状,枉法以誅之。臣敞賊殺無辜,鞠獄故不直,雖伏明法,死無所恨!」天子引見敞,拜爲冀州刺史。敞到部,盜賊屏跡。 2. 3皇太子柔仁好儒,見上所用多文法吏,以刑繩下,嘗侍燕從容言:「陛下持刑太深,宜用儒生。」帝作色曰:「漢家自有制度,本以霸王道雜之。奈何純任德教,用周政乎!且俗儒不達時宜,好是古非今,使人眩於名實,不知所守,何足委任!」乃歎曰:「亂我家者,太子也!」 臣光曰:王霸無異道。昔三代之隆,禮樂、征伐自天子出,則謂之王。天子微弱不能治諸侯,諸侯有能率其與國同討不庭以尊王室者,則謂之霸。其所以行之也,皆本仁祖義,任賢使能,賞善罰惡,禁暴誅亂。顧名位有尊卑,德澤有深淺,功業有鉅細,政令有廣狹耳,非若白黑、甘苦之相反也。漢之所以不能復三代之治者,由人主之不爲,非先王之道不可復行於後世也。夫儒有君子,有小人。彼俗儒者,誠不足與爲治也,獨不可求眞儒而用之乎?稷、契、皋陶、伯益、伊尹、周公、孔子,皆大儒也,使漢得而用之,功烈豈若是而止邪!孝宣謂太子懦而不立,闇於治體,必亂我家,則可矣;乃曰王道不可行,儒者不可用,豈不過甚矣哉!殆非所以訓示子孫,垂法將來者也。 3. 4淮陽憲王好法律,聰達有材;王母張婕妤尤幸。上由是疏太子而愛淮陽憲王,數嗟歎憲王曰:「眞我子也!」常有意欲立憲王,然用太子起於微細,上少依倚許氏,及即位而許後以殺死,故弗忍也。久之,上拜韋玄成爲淮陽中尉,以玄成嘗讓爵于兄,欲以感諭憲王。由是太子遂安。 4. 5匈奴呼韓邪單于之敗也,左伊秩訾王爲呼韓邪計,勸令稱臣入朝事漢,從漢求助,如此,匈奴乃定。呼韓邪問諸大臣,皆曰:「不可。匈奴之俗,本上氣力而下服役,以馬上戰鬥爲國,故有威名於百蠻。戰死,壯士所有也。今兄弟爭國,不在兄則在弟,雖死猶有威名,子孫常長諸國。漢雖強,猶不能兼併匈奴。奈何亂先古之制,臣事於漢,卑辱先單于,爲諸國所笑!雖如是而安,何以復長百蠻!」左伊秩訾曰:「不然,強弱有時。今漢方盛,烏孫城郭諸國皆爲臣妾。自且鞮侯單于以來,匈奴日削,不能取復,雖屈強於此,未嘗一日安也。今事漢則安存,不事則危亡,計何以過此!」諸大人相難久之,呼韓邪從其計,引衆南近塞,遣子右賢王銖婁渠堂入侍。郅支單于亦遣子右大將駒於利受入侍。 5. 6二月,丁巳,樂成敬侯許延壽薨。 6. 7夏,四月,黄龍見新豐。 7. 8丙申,太上皇廟火;甲辰,孝文廟火;上素服五日。 8. 9烏孫狂王復尚楚主解憂,生一男鴟靡,不與主和,又暴惡失衆。漢使衞司馬魏和意、副侯任昌至烏孫。公主言:「狂王爲烏孫所患苦,易誅也。」遂謀置酒,使士拔劍撃之。劍旁下,狂王傷,上馬馳去。其子細沈瘦會兵圍和意、昌及公主於赤谷城。數月,都護鄭吉發諸國兵救之,乃解去。漢遣中郎將張遵持醫藥治狂王,賜金帛。因收和意、昌繋瑣,從尉犁檻車至長安,斬之。 初,肥王翁歸靡胡婦子烏就屠,狂王傷時,驚,與諸翎侯倶去,居北山中,揚言母家匈奴兵來,故衆歸之。後遂襲殺狂王,自立爲昆彌。是歳,漢遣破羌將軍辛武賢將兵萬五千人至敦煌,通渠積穀,欲以討之。 初,楚主侍者馮嫽,能史書,習事,嘗持漢節爲公主使,城郭諸國敬信之,號曰馮夫人,爲烏孫右大將妻。右大將與烏就屠相愛,都護鄭吉使馮夫人説烏就屠,以漢兵方出,必見滅,不如降。烏就屠恐,曰:「願得小號以自處!」帝征馮夫人,自問状。遣謁者竺次、期門甘延壽爲副,送馮夫人。馮夫人錦車持節,詔烏就屠詣長羅侯赤谷城,立元貴靡爲大昆彌,烏就屠爲小昆彌,皆賜印綬。破羌將軍不出塞,還。後烏就屠不盡歸諸翎侯民衆,漢復遣長羅侯將三校屯赤谷,因爲分別其人民地界,大昆彌戸六萬餘,小昆彌戸四萬餘。然衆心皆附小昆彌。 9. 二年(己巳、前五二) 1春,正月,立皇子囂爲定陶王。 1. 2詔赦天下,減民算三十。 2. 3珠崖郡反。夏,四月,遣護軍都尉張祿將兵撃之。 3. 4杜延年以老病免。五月,己丑,廷尉於定國爲御史大夫。 4. 5秋,七月,立皇子宇爲東平王。 5. 6冬,十二月,上行幸萯陽宮、屬玉觀。 6. 7是歳,營平壯武侯趙充國薨。先是,充國以老乞骸骨,賜安車、駟馬、黄金,罷就第。朝廷毎有四夷大議,常與參兵謀、問籌策焉。 7. 8匈奴呼韓邪單于款五原塞,原奉國珍,朝三年正月。詔有司議其儀。丞相、御史曰:「聖王之制,先京師而後諸夏,先諸夏而後夷狄。匈奴單于朝賀,其禮儀宜如諸侯王,位次在下。」太子太傅蕭望之以爲:「單于非正朔所加,故稱敵國,宜待以不臣之禮,位在諸侯王上。外夷稽首稱籓,中國讓而不臣,此則羈縻之誼,謙亨之福也。書曰:『戎狄荒服,』言其來服荒忽亡常。如使匈奴後嗣卒有鳥竄鼠伏,闕於朝享,不爲畔臣,萬世之長策也。」天子采之,下詔曰:「匈奴單于稱北潘,朝正朔。朕之不德,不能弘覆。其以客禮待之,令單于位在諸侯王上,贊謁稱臣而不名。」 荀悅論曰:春秋之義,王者無外,欲一於天下也。戎狄道理遼遠,人跡介絶,故正朔不及,禮教不加,非尊之也,其勢然也。詩云:「自彼氐、羌,莫敢不來王。」故要、荒之君必奉王貢。若不供職,則有辭讓號令加焉,非敵國之謂也。望之欲待以不臣之禮,加之王公之上,僭度失序,以亂天常,非禮也!若以權時之宜,則異論矣。 8. 9詔遣車騎都尉韓昌迎單于,發所過七郡二千騎爲陳道上。 9. 三年(庚午、前五一) 1春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。 1. 2匈奴呼韓邪單于來朝,贊謁稱籓臣而不名。賜以冠帶、衣裳,黄金璽、盭綬,玉具劍、佩刀,弓一張,矢四發,棨戟十,安車一乘,鞍勒一具,馬十五匹,黄金二十斤,錢二十萬,衣被七十七襲,錦繡、綺縠、雜帛八千匹,絮六千斤。禮畢,使使者道單于先行宿長平。上自甘泉宿池陽宮。上登長平阪,詔單于毋謁,其左右當戸羣臣皆得列觀,及諸蠻夷君長、王、侯數萬,咸迎於渭橋下,夾道陳。上登渭橋,咸稱萬歳。單于就邸長安。置酒建章宮,饗賜單于,觀以珍寶。二月,遣單于歸國。單于自請「願留居幕南光祿塞下;有急,保漢受降城。」漢遣長樂衞尉、高昌侯董忠、車騎都尉韓昌將騎萬六千,又發邊郡士馬以千數,送單于出朔方雞鹿塞。詔忠等留衞單于,助誅不服,又轉邊穀米糒,前後三萬四千斛,給贍其食。先是,自烏孫以西至安息諸國近匈奴者,皆畏匈奴而輕漢,及呼韓邪單于朝漢後,咸尊漢矣。 上以戎狄賓服,思股肱之美,乃圖畫其人於麒麟閣,法其容貌,署其官爵、姓名。唯霍光不名,曰「大司馬、大將軍、博陸候,姓霍氏」。其次張安世、韓增、趙充國、魏相、丙吉、杜延年、劉德、梁丘賀、蕭望之、蘇武。凡十一人,皆有功德,知名當世,是以表而揚之,明著中興輔佐,列於方叔、召虎、仲山甫焉。 2. 3鳳皇集新蔡。 3. 4三月,己巳、建成安侯黄霸薨。五月,甲午,於定國爲丞相,封西平侯。太僕沛郡陳萬年爲御史大夫。 4. 5詔諸儒講五經同異,蕭望之等平奏其議,上帝稱制臨決焉。乃立梁丘易、大、小夏侯尚書、穀梁春秋博士。 5. 6烏孫大昆彌元貴靡及鴟靡皆病死。公主上書言:「年老土思,願得歸骸骨,葬漢地!」天子閔而迎之。冬,至京師,待之一如公主之制。後二歳卒。 元貴靡子星靡代爲大昆彌,弱。馮夫人上書:「願使烏孫,鎭撫星靡。」漢遣之。都護韓宣奏烏孫大吏大祿、大監皆可賜以金印紫綬,以尊輔大昆彌。漢許之。其後段會宗爲都護,乃招還亡叛,安定之。星靡死,子雌栗靡代立。 6. 7皇太子所幸司馬良娣病,且死,謂太子曰:「妾死非天命,乃諸娣妾、良人更祝詛殺我。」太子以爲然。及死,太子悲恚發病,忽忽不樂。帝乃令皇后擇後宮家人子可以娯侍太子者,得元城王政君,送太子宮。政君,故繡衣御史賀之孫女也,見於丙殿。壹幸,有身。是歳,生成帝於甲館畫堂,爲世縕皇孫。帝愛之,自名曰驁,字大孫,常置左右。 7. 四年(辛未、前五〇) 1夏,廣川王海陽坐禽獸行、賊殺不辜,廢,徙房陵。 1. 2冬,十月,丁卯,未央宮宣室閣火。 2. 3是歳,徙定陶王囂爲楚王。 3. 4匈奴呼韓邪、郅支兩單于倶遣使朝獻,漢待呼韓邪使有加焉。 4. 黄龍元年(壬申、前四九) 1春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。 1. 2匈奴呼韓邪單于來朝;二月,歸國。始,郅支單于以爲呼韓邪兵弱,降漢,不能復自還,即引其衆西,欲攻定右地。又屠耆單于小弟本侍呼韓邪,亦亡之右地,收兩兄餘兵,得數千人,自立爲伊利目單于;道逢郅支,合戰,郅支殺之,並其兵五萬餘人。郅支聞漢出兵谷助呼韓邪,即遂留居右地;自度力不能定匈奴,乃益西,近烏孫,欲與並力,遣使見小昆彌烏就屠。烏就屠殺其使,發八千騎迎郅支。郅支覺其謀,勒兵逢撃烏孫,破之;因北撃烏掲、堅昆、丁令、並三國。數遣兵撃烏孫,常勝之。堅昆東去單于庭七千里,南去車師五千里,郅支留都之。 2. 3三月,有星孛于王良、閣道,入紫微宮。 3. 4帝寢疾,選大臣可屬者,引外屬侍中樂陵侯史高、太子太傅蕭望之、少傅周堪至禁中,拜高爲大司馬、車騎將軍,望之爲前將軍、光祿勳,堪爲光祿大夫,皆受遺詔輔政,領尚書事。冬,十二月,甲戌,帝崩于未央宮。 班固贊曰:孝宣之治,信賞必罰,綜核名實。政事、文學、法理之士,咸精其能。至於技巧、工匠、器械,自元、成間鮮能及之。亦足以知吏稱其職,民安其業也。遭値匈奴乖亂,推亡固存,信威北夷,單于慕義,稽首稱籓。功光祖宗,業垂後嗣,可謂中興,侔德殷宗、周宣矣! 4. 5癸巳,太子即皇帝位,謁高廟,尊皇太后曰太皇太后,皇后曰皇太后。 5.
https://w.atwiki.jp/22shisakki/pages/301.html
56.王莽之敗 漢祚中衰,元后長壽,王莽藉其勢以輔政,援立幼弱,手握大權,詭託周公輔成王,由安漢公而宰衡,而居攝,而即真。權勢所劫,始則頌功德者八千餘人,繼則諸王公侯議加九錫者九百二人,又吏民上書者前後四十八萬七千五百七十二人。雖宗室有安衆侯劉崇、徐郷侯劉快等,臣僚有東郡太守翟義、期門郎張充等,先後起兵匡復,皆旋即敗滅。其威力所劫,亦已遍天下,靡然從風,使能逆取順守,沛大澤以結人心,則天下雖未忘前朝,而亦且安於新政,未必更有發大難之端起而相抗者。其敗也,一由收天下田名曰王田,禁之不得買賣,一夫田過一井者分與里族,敢有非議者投四裔。又禁積五銖錢,犯者亦投四裔。於是農商皆失業,以賣田、積錢坐罪者,不可勝數。繼又設六筦之令,令州縣酤酒、賣鹽、鑄造鐵器、諸采取名山大澤衆物者税之。此召怨于中國也。莽自以爲北化匈奴,東致海外,南懷黄支,惟西方未廓,乃遣人誘西羌獻地,置西海郡,而西羌以失地遂叛。又改蠻夷諸王皆爲侯,使人授單于新印,收故漢印,改璽爲章,單于欲得故印,使者椎破之,單于大怒,遂寇邊。句町王亦以改王爲侯而叛。此召怨於外夷也。又以匈奴之叛,遣十二將出討之,偏裨以下百八十人,兵三十萬。又擿鑄錢鄰伍坐罪者,男子檻車,兒女歩行,鐵鎖琅當其頸詣軍前,以十萬數,到者易其夫婦。州縣饋運糧餉,自江海至北邊。兵先到者屯駐,候到畢同出。於是將吏在邊者縱恣爲害,五原、代郡,尤被其毒。(漢書匈奴傳,北邊自宣帝以來,不見烽火,人民繁盛,牛馬蔽野。及莽撓亂匈奴,與之搆難,邊民亡死相繼。又十二部屯兵久不出,肆行侵暴。于是野多暴骨。)其討句町者,士卒死什之五六。此又因用兵而病民,使外夷與中國胥怨者也。於是四海沸騰,寇盜蠭起。更始、赤眉、光武因得以劉宗號召天下。人但知莽之敗由於人心思漢,而不知人心之所以思漢,實莽之激而成之也。當其始也,詭激立名,以濟其闇干之計,似亦姦雄之所爲。及僭逆已成,不知所以撫御,方謂天下盡可欺而肆其毒痡,結怨中外,土崩瓦解。猶不以爲虞,但鋭意於稽古之事,以爲制定則天下自平。乃日夜講求制禮作樂,附會六經之説,不復省政事,制作未畢而身已爲戮矣,此其識真三尺童子之不若。語云:「今之愚也詐而已矣。」若莽者,其詐也愚而已矣。 前頁 『廿二史箚記』巻三 次頁 長官喪服 56.王莽之敗 王莽時起兵者皆稱漢後