約 1,796 件
https://w.atwiki.jp/toragaku2/pages/300.html
IDdata Name クリスティナ・ロセッティ Alias 【エデンキーパー(楽園の侍従長)】 Class ワーカー&ミスティック Rank ロード+&マスター Money 12,673,883,563W¢ Point 680124157 pt Ranking 281/6473226 OOPARTS Link Life and life keeper所属 Age 20 学年 四五年度入学 予科程五年終了 本科六年目 職業 ハウスキーパー 人種 英人 所在地 ノースヤード リトルウィンザー城 連帯保証人 リリコ・レジェロ PROFILE 女性ワーカーリンク【Life and Life keeper(生命と生活の保護者)】の代表であり、リトルウィンザー城のメイド長。勿論、衣装はメイド服。 かなりのクールビューティーで、別名を『鉄血侍女』。サイボーグのメイド部隊を有するデウスエクスマキナのメイド達にこそ相応しい呼び名だが、彼女らをおいてクリスティナがその勇名を掲げている。 常に笑顔のリリコとは対照的な鉄面皮で、常に怒っているような印象を受ける。 なお、リリコとは親友同士。同期の中でも入学当初から親しく付き合っている。現在はその関係からマリアとも親しい。 色々あって現在は殆どリトルウィンザー城専属メイドになっているが、たまに自身が代表を勤めるリンクに戻って指導や経営指南を行っている。 イギリスの裕福な家で生まれ育ったクリスティナは英才教育を受け、単身学園へ。 メイドと言う道を選んだのは、全くの偶然だ。親しくなったリリコがメイドを志していたから、自分もその道へ進んだ。それだけの事だ。 実はクリスティナ、流されやすい性格をしている。影響されやすい、とも言える。 だからといって彼女が押しに弱いとか、そういう訳でもない。寧ろ押してくる相手には反発するという性格をしていて、そういった意味で我は強い。 彼女が弱いのは、『私はこうするけど、あなたはどうする?』といった状況だ。そういった時、彼女はつい自分も相手と同じ道に進んでしまう。態度が堂々としているので、偶然同じ事を考えていたのだ、と大半の相手は思っているが、実際はその場で流されただけだ。 なまじ優れているので、急な方針転換でもすぐに慣れてしまうから余計に気づかれないのだろう。リリコと共にメイドの道を志した時、その話をしてから一週間もすれば、昔からメイドを目指していたかのような熟練ぶりを見せつけたほど。 本人はその性格を自覚した上で、納得している。プライドとは縁が遠いらしく、岐路を人任せにする事に納得している。主義主張もなく、誰かが流してくれればそれに従う。そこには善悪さえない。 幸いにして、誰の言葉でも流される訳ではないらしい。けれど、それでも危険な事には違いない。 あり得ないことではあるが、もしもリリコが『瞑獄を捕らえようと思っている』と打ち明けてくれば、リーダーである鞍楽を迷いなく捕らえるだろう。反対に、鞍楽が『リリコを捕まえようと思っている』と打ち明けてくれば、親友であるリリコを迷いなく捕らえるだろう。彼女はそういう人物なのだ。もしも『協力して』と言われたら首を横に振るのだが、もしも道を任せられたら、彼女に迷いはない。流れる事に、否はない。 尤も、現状で彼女を流すことができるのは、ザンス側一部とニュクス側の一部くらい。これらが敵対するとは考えづらいので、その点で心配はないだろう。 そういう理由もあって、クリスティナは忠実とは思われても流されやすいとは思われていない。その操縦法も、リリコが薄々感じている程度なので、現状で問題はないようだ。 クリスティナもリリコと同じく、予科生時代から多くの学内リンクでアルバイターとして働いていた。リリコが一種のロールモデルなのだから、当然と言えば当然と言える。学内で名を上げたことも、予科程を終えてから世界に飛び立ち、大中小の企業、経営者、幹部の元で働いたのも同じだ。そこで数多くの人物、企業から引き止められたことも。 リリコとの違いといえば、当時得たエイリアスと評価くらいだ。とは言え、それは当然。大きな流れのロールモデルはリリコでも、細部においては大分異なる。 二人とも何でもこなす万能型のメイドだが、どちらかと言えばリリコが一人で何でも行うメイドオブオールワークタイプ、クリスティナは的確な指示で人を使うハウスキーパータイプ。はたから見ればどちらも同じように見えるが、分かる人には違いが分かるらしい。 その為か、当時のクリスティナが呼ばれたエイリアスは【トップメイド(侍女の頂点)】。年長も年少も性格も全て問題とせず、あらゆるメイドを完璧に使いこなすその様子はまさに侍女の【トップ】に君臨するメイド長だった。また、例え誰もメイドがいなくとも、自身の能力によって召喚したゴブリンたちを使いこなす様からもそう呼ばれたのだろう。 リリコが自分も動いて魅せるタイプなら、クリスティナは他人を効率的に動かして魅せるタイプ。そういう事だ。 ただし、前述したが、普通ははたから見れば違いは分からない。リリコも充分すぎるほど他のメイドをうまく使うし、クリスティナも一人で大抵の事はできる。その僅かで、しかし辿り着けない高みの違いを見切れる人物は一流のみだ。 その後も、やはりリリカと同じく、数多くの一流の元で働いた。そうしてクリスティナへの評価は最高クラスにまで達し、能力も相俟ってこう語られる。『彼女の元で動けば、例えどのような素人でも一流に高められる。我侭なピクシーも、傲慢なゴブリンも、カーニバルで熱狂した者でさえ、彼女の一言一句に従ってしまうのだ』とまで語られた。 元来、命令を与えなければ気ままに動き回るゴブリンたちを指揮し、常にリトルウィンザー城はゴブリン達によって完璧な状態に保たれている。 時折、指示漏れがあって気ままにくつろぐゴブリンたちを見かけることができる程度だ。 ABILITY 【ゴブリンズカーニバル(小さな奴らの謝肉祭)】 小さなゴブリン達を召喚できる。ゴブリンといってもその外見は様々で、個々で違う。最大で300匹を召喚できるが、そのそれぞれに性格と外見に特徴がある。 クリスティナは300全てのゴブリンの特性や外見、特徴を把握しているが、特に名づけたりはしていない。一号、二号、三号と記号で呼び分けている。 彼らは一様に小人で、10cm以上のサイズである事はあまりない。ただしどのゴブリン達も力は強く、そのサイズにも関わらず、標準的な成人女性〜男子ほどの力はある。小さいので大きいものを一人で持つ事は出来ないが、重い机なども10匹ほどいれば自由に運べるという便利な存在である。 外見は大まかに分けて二種類、男性型と女性型だ。男性型は、一概に連想するようなゴブリンの姿をしていて、一般的に見て美麗とは言い難い。 対し女性型は、。ピクシーと呼ぶ方が相応しい美麗な外見をしている。ただし飛ぶ事は出来ない。 それぞれに個性があり、赤い帽子を被った者もいれば青い目のものもいる。大体の形状は上記の2タイプだが、装飾品や髪質、瞳など細かい部分では千差万別だ。 ゴブリンたちを召喚するには、二つのものが必要になる。労働契約書と賃金だ。 労働契約書は全てクリスティナの血で記入しなければならない。といっても記入内容は、召喚日時と契約期間、そして召喚対象と仕事内容の四つなので、それ程に多量の血が必要な訳ではない。その最低限さえ記入されていれば成立する。形式はどのようなものでも構わないが、羊皮紙でなくてはならない。 召喚対象は、勿論クリスティナが召喚する対象だ。ここはピクシーかゴブリンと書けば、書いた方がランダムで召喚される。より細かい選択も可能であり、その場合は条件を書き加えていけば(力に優れる、細かい作業が得意など)条件にあったゴブリンが召喚される。特定を選出したい時は、クリスティナが割り当てた記号を書けばいいので、現在は専らそうしている。 それらを記入した契約書にクリスティナの血判を押し、日当分の賃金をその上に乗せると、契約書と賃金がゴブリンに入れ替わる。日当の額は幾らでも構わない。 金額に応じて働きぶりが変わるような事もないので、1日1WCが基本だ。 召喚には結構なオドを消費するらしく、一日に五匹が限界。ただ、召喚に比べて維持にかかるオドは少ないらしく、同時存在なら50匹~100匹まで可能のようだ。 召喚後は、オドが尽きるか、契約期間が満了するか、クリスティナが死ぬか、ゴブリンが殺されるかどうかすれば消える。その4つ以外では消える事はなく、クリスティナの意志で消す事もできない。 ただし、ゴブリン召喚中に、契約期間を延長する事はできる。追加日当を渡せば、その分だけ存在が継続する。 ゴブリンたちにはそれぞれ特性と言うか性格があるが、能力に大差はない。なので、どのゴブリンに何の仕事を任せても大きな違いはないが、クリスティナはその小さな違いを見つけては仕事を最適化して与えている。 ゴブリンは単純で、一つ以上の作業はできない。洗濯一つを取っても、どこどこの部屋から衣服を持ってくる、衣服を洗濯する、衣服を干す、衣服を回収する、など細かく分けて指示しなければ動かない。 ただ、ゴブリンたちも学習能力があり、一連の仕事を行わせていると、複数の作業をこなすようになる。その代わり、複数の作業を行うゴブリンは、複数分の賃金を渡さないと動かない。 契約書とは別の仕事を与えることも可能だが、その際は追加で日当の二倍の賃金を渡さなければ動かない。また、その場合は最初の仕事はやらなくなる。あくまでも一つの事しかゴブリンは行わない。賃金の二倍が必要になるのは命令を変更する時だけで、翌日からはまた最初の日当で構わない。 その代わり、更に別の仕事を与えると二倍の二倍、更に変えると二倍の二倍の二倍、と変更時に渡す額は増えて行く。一度そのゴブリンが消えればリセットされるが、働いているあいだは継続するので注意。 仕事分の日当は、7時~10時の間に支払えばよい。召喚後は、誰が日当を渡しても問題はないが、必ずクリスティナの所持金でなければならない。例え雇い先からでも、一度クリスティナの口座、或いは手元を経由しなければ受け取らない。 なので大体の場合、クリスティナは『早朝にゴブリン達を集めるゴブリン』『集めたゴブリンを並ばせるゴブリン』『並んだゴブリン達に日当を渡すゴブリン』『日当を渡すゴブリンに本日分の日当を渡すゴブリン』と分類し、ゴブリン達で仕事を回している。 ゴブリン達は渡した賃金を体内に溜め込み、それは契約が満了してゴブリンが消えても帰ってこない。オドが尽きてゴブリンが消えた場合も同様。 ただし、クリスティナ、或いは当該ゴブリンが死んだ場合は、それまでに支払った全ての金額がゴブリンと入れ替わる。その場合、同じゴブリンを再度召喚することは可能だが、ゴブリンの経験も初期化される。つまり、複数の仕事をこなすゴブリンが、また単一しかできなくなる。 ゴブリンを倒して得られる金が多ければ多いほど、そのゴブリンは優れていたと言える。基本的に金=ステータスだ。 ゴブリンが消えるのは上記の場合のみなので、賃金を払わなくても消えたりしない。その代わり、働かなくなる。 その時にゴブリンの個性が出るようで、内外を走りまわったり勝手にお茶を飲んでいたり(ゴブリン達に食事は必要ない)、他のゴブリンを観察していたりと様々。他のゴブリンの仕事の邪魔をするゴブリンなどもいる。人に攻撃するゴブリンもいるので油断はならない。 なお、召喚主であるクリスティナに直接の被害を加えるゴブリンだけはいない。 普段はクリスティナの手腕によって統制されているので、賃金が支払われなかったり、支払われずとも暴れまわるようなことはない(暴れてたらクリスティナに捕まって身動き取れなくされる)のだが、クリスティナが出掛けている時に、賃金を払うゴブリン達が死んだり、代理人がそのゴブリン達に賃金を渡しそこねた時などは、ゴブリン達が暴れまわって大変な事になるようだ。 その時がまさに 【ゴブリンズカーニバル(小さな奴らの謝肉祭)】 である。
https://w.atwiki.jp/monosepia/pages/9510.html
昭和天皇 / 大日本帝国海軍 / 天皇+帝国海軍VS帝国陸軍 +ニュースサーチ〔海軍と天皇〕 昭和天皇の側近まで...陸軍親ソ派による「共産主義国家の建設」という野望 - PHPオンライン衆知 「美しく死ぬなんて、できない」零戦操縦士が語る【日米開戦】と開戦阻止に奔走した福島県人の思い(福島テレビ) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 3回目のワクチン接種 医療従事者対象に実施 感染拡大防止へ 【福島県いわき市】 - www.fnn.jp 日米開戦80年…いくつもの誤解や読み違い、重ねた揚げ句の「真珠湾」だった - 読売新聞 「真珠湾のスパイ」吉川猛夫、「一国の命運を左右できるのはスパイだ」 昭和史の天皇 企画・連載 - 読売新聞 日米開戦の日、「悲惨な敗北」予期していた近衛文麿 終戦工作重ねた末の「A級戦犯」:朝日新聞GLOBE+ - GLOBE+ 米国への通告前に真珠湾奇襲 国際法違反をあえて選んだか - 毎日新聞 - 毎日新聞 <速報>新型コロナ1人感染確認【福島県12月7日公表分】 - www.fnn.jp 昭和天皇は「覚悟あらせられる様子」 太平洋戦争直前、側近が日記(朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 都大路へ!全国高校駅伝に男女揃って出場・学法石川高校が大会での活躍を誓う<福島県> - www.fnn.jp 在日インフルエンサーが魅力発信「呼びたいけど呼べない…」感染状況に影響される観光業界の一手<福島県> - www.fnn.jp 3回目接種8カ月を待たず前倒しへ 福島県は3月までに対象者全員が打てる計画 - www.fnn.jp お酌せず・ノンアルコールの新たな宴会様式 第6波・オミクロン株に警戒しながらの忘年会 - www.fnn.jp 福島刑務所に服役中の男 初対面の刑務官を殴った疑いで書類送検 - www.fnn.jp 「日本国紀」の悲しみ 単行本で修正繰り返したが…文庫版も誤り続々 - 毎日新聞 - 毎日新聞 『鬼滅の刃』の舞台「大正」ってどんな時代? さまざまな疑問について、スタディサプリの人気講師・伊藤賀一さんに聞いた!(ダ・ヴィンチニュース) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 日米開戦80年-プレミアムA:朝日新聞デジタル - 朝日新聞デジタル バンダイキャラ「神酒ノ尊」に仲間入り 「元帥」ゆかりの地 探訪 あすからスタンプラリー 鳥取・倉吉(日本海新聞) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース ひき逃げ容疑で福島市職員の女を逮捕 容疑を否認〈福島県〉 - www.fnn.jp 9歳女子児童が重傷 国道横断中に乗用車にはねられる〈福島県会津若松市〉 - www.fnn.jp 13日連続 1日も感染確認なし《福島県12月2日発表・新型コロナ》 - www.fnn.jp 中州に取り残された3人を救助 12月としては異例の大雨 いわき市では避難指示発令 【福島県】 - www.fnn.jp キニナル【火災警報器】火事から命を守るために その有効性は? - www.fnn.jp 大雨・強風の影響で在来線が運休・運転見合わせ<福島県>(12月1日午前9時30分時点) - www.fnn.jp 「犯行態様は危険性が高く悪質」母親に暴行を加え死亡させた男に懲役8年の判決〈福島県いわき市〉 - www.fnn.jp セクハラ・速度超過・夫婦げんかで夫を蹴る…福島県職員3人が懲戒処分 - www.fnn.jp 30日は今週一番の穏やかな陽気に 朝は冷え込む 福テレ斎藤気象予報士《これから天気》11月29日 - www.fnn.jp 新型コロナ変異株「オミクロン」福島県知事も危機感 厚労省が多くの遺伝子解析を自治体に通知 - www.fnn.jp 日英の緊密な関係の根底にある皇室と英王室の絆 |「新・日英同盟」の行方(6) - Nippon.com 議長の辞職を全会一致で可決<同僚議員に現金を配る>【福島県喜多方市】 - www.fnn.jp 【孤高の国母】(135)大正天皇の生母、柳原愛子の悲しい旅立ち - 産経ニュース 東日本台風で流された集落につながる唯一の橋が復旧<福島県矢祭町> - www.fnn.jp バス代補助やリフト券割引 雪不足・新型コロナに苦しんだスキー場を福島県が支援 若い世代を呼び込む狙い - www.fnn.jp 虐待があった保育園への福島県の対応は?再発防止向けて調査へ【福島県二本松市】 - www.fnn.jp スキー場は前倒しオープンへ 福テレ斎藤気象予報士《これから天気》11月25日 - www.fnn.jp 福島空港で不審者が侵入した想定で訓練 避難から確保の対応を確認 <福島県> - www.fnn.jp 東條英機内閣が誕生し、陸軍省のM将校が担当した石油調達の裏事情|保阪正康 日本史縦横無尽 - 日刊ゲンダイ すべての役者が揃った! 遂にキスカ島撤退作戦の艦隊が出撃す(歴史人) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース トップアスリートが直接指導 陸上王国・福島をさらにアツく 日本陸上800m優勝の田母神一喜選手 - www.fnn.jp 福島県知事「法律に基づく設立」を求める 浜通りに整備される国際教育研究拠点 - www.fnn.jp 鈴木貫太郎記念館の再開「億単位の費用」 千葉 - iza(イザ!) 4日連続 22日は感染確認なし《福島県11月23日発表・新型コロナ》 - www.fnn.jp 切り付け事件を受け訓練 「被害を最小限に」 初動対応を確認 【福島県郡山市】 - www.fnn.jp 新たな医療体制の確保計画とは モデルナワクチン接種センター設置も《福島県・新型コロナ》 - www.fnn.jp 福島市長選挙・投票率は過去最低34.79% 現職の木幡浩さんが2期目の当選<福島県> - www.fnn.jp 3日連続 21日は感染確認なし 今後に備え医療提供体制の確保計画を示す《福島県・新型コロナ》 - www.fnn.jp エリザベス女王「セーターは継ぎはぎ」英王室の質素な子育てに驚き!根柢の想い(婦人画報) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 徳川を超越していた小栗上野介忠順の幕政改革【消された「徳川近代」明治日本の欺瞞】(サライ.jp) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース まだまだ空きがある《県民割プラス》福島県民対象の宿泊割引 週末や高価格の宿に集中する課題も - www.fnn.jp 福島県でも部分月食 ISS通過で豪華な天体ショーに 福テレ斎藤気象予報士《これから天気》11月19日 - www.fnn.jp 追い続けたフォトグラファーに聞く 魅力とすごさ エンゼルス・大谷翔平選手MVP受賞 - www.fnn.jp 第一次上海事変 川島芳子を使った関東軍の謀略(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース カラオケ店内にスイーツ店が開店 コロナ禍で遠のいた客足を映えスイーツで取り戻す<福島県郡山市> - www.fnn.jp 創業120周年の老舗駅弁屋さん、そのルーツとは? ~松江駅弁・一文字家(ニッポン放送) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 寒冷前線の影響で警報級の大雨の恐れ いわき市小名浜では1時間降水量が25.5ミリ<福島県> - www.fnn.jp 米海軍、同性愛者の人権活動家ハーヴィー・ミルク氏の名前を艦艇に - WEDGE Infinity 〝日本一周〟した中露艦隊の脅威 これからもやってくる - WEDGE Infinity 天皇賞・秋はエフフォーリアが優勝 - 京都新聞 両陛下、和歌山の国民文化祭に - 京都新聞 【孤高の国母】(126)二・二六事件の舞台裏 天皇の弟宮がとった行動 - 産経ニュース カンボジア海軍基地に新たな建築物、中国軍関与か…米大使館が名指しで非難 - 読売新聞 「カメラ好き」大正天皇、庶民とパチリ 集合写真が松江で見つかる - 毎日新聞 - 毎日新聞 米海軍、沖縄寄港の洋上艦公開…全長240mで最大規模のヘリコプター収容可能 - 読売新聞 中国、独軍艦艇を受け入れず 東京に11月入港見通し - 産経ニュース 100年前の昭和天皇の写真集見つかる 皇太子時代の欧州歴訪 富山 - 毎日新聞 - 毎日新聞 中国海軍の潜水艦か、奄美大島周辺の接続水域内を潜水航行…領海侵入なし - 読売新聞 【戦争秘話】「玉音放送」直前まで戦い続け、死んでいった“若き零戦パイロット”たち - 現代ビジネス 昭和天皇も感心、隻脚の重光葵にマッカーサー側近が絶妙の気遣い ハワイ沖で散ったマッカーサー側近が見た日本【後編】(1/4) - JBpress 「どうするんですかね?」眞子さま“駆け落ち婚”で秋篠宮家の教育に疑問の声《悠仁さま15歳でも帝王教育が始まらない》(文春オンライン) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 中国の「ルール変更」拒絶のために、日本がやるべきこと ~英空母「クイーン・エリザベス」が米軍横須賀基地へ入港(ニッポン放送) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 常夏通信:その109 戦没者遺骨の戦後史(55)能弁な為政者と無言の庶民 - 毎日新聞 - 毎日新聞 太平洋戦争開戦直前 昭和天皇の心情 侍従長の日記で明らかに - NHK NEWS WEB 「残存、奇跡なのに」…映像ソフトレンタル会社に売られた海軍基地跡 - 毎日新聞 - 毎日新聞 常夏通信:その108 戦没者遺骨の戦後史(54)戦没者310万人、大半は敗戦1年前 - 毎日新聞 - 毎日新聞 特ダネの記憶 NHKスペシャル㊦「全貌 二・二六事件」 - 論座 いまも残る加害の歴史、日本の「戦争遺跡」を見つめ直す(Yahoo!ニュース オリジナル 特集) - Yahoo!ニュース 【戦争秘話】“徹底抗戦”を主張し続け、「特攻の父」と呼ばれた男の意外過ぎる真意 - 現代ビジネス 昭和天皇の「聖断」は「英断」だったのか 終戦の日に考えた - 毎日新聞 - 毎日新聞 終戦の日に考える「日本はなぜ負けたのか」元陸自幹部の言葉、国民と報道の責任とは:朝日新聞GLOBE+ - GLOBE+ 最強戦艦「大和」に特攻させた「組織の論理」の怖さ - 東洋経済オンライン それぞれの戦争を訪ねて21⑦ 故 吉野 伊太郎さん - 日高新報 常夏通信:その106 戦没者遺骨の戦後史(52)天皇が却下した即時講和論 - 毎日新聞 - 毎日新聞 ヴォーリズ、戦後は日米の橋渡し役に 天皇のお言葉発信 - 朝日新聞デジタル 昭和天皇も思わず「あれ、まだある?」…土用の丑の日が数倍楽しくなる“日本人の鰻好き”エピソード決定版(辻田真佐憲) - 個人 - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 日英同盟廃棄とチャーチルの悔恨|「新・日英同盟」の行方(4) - Nippon.com 沖縄戦「航空部隊だけなのか」と御下問 大和「特攻」軍そんたく 出撃、沈没から76年 - 毎日新聞 元大本営参謀が上層部を批判、「昔のままの戦をやろうと」…「昭和史の天皇」音声公開第2弾 - 読売新聞 「海軍グルメ」を再現し呉の街をPR “最後の海軍料亭”では戦艦・長門の料理も楽しめる【広島発】 - www.fnn.jp 「皇太子の学校」総裁就任を固辞した東郷の本心 - 東洋経済オンライン <明治から大正へ>第4回~陸海軍の軍備増強 - 読売新聞 終戦のご聖断もあわや水の泡!? 日本海軍最強部隊叛乱事件の真相 - 現代ビジネス 昭和天皇の「人間宣言」に関与 山梨勝之進氏の日記を発見 戦中・占領期の実態解明に期待 - 毎日新聞 - 毎日新聞 昭和天皇の人間宣言はだれの主導なのか 「親しい」元海軍大将の日記は語る - 毎日新聞 - 毎日新聞 二・二六事件 海軍極秘文書を発見 | 注目の発言集 - NHK NEWS WEB 大元帥たる昭和天皇「作戦にも介入」 吉田裕さんに聞く [空襲1945] - 朝日新聞デジタル版 【昭和天皇の87年】条約めぐり天皇と軋轢 東郷平八郎は晩節を汚したのか - 産経ニュース 保阪正康の「不可視の視点」 明治維新150年でふり返る近代日本(17) 天皇の「代理人」自任した軍人たち - J-CASTニュース 【昭和天皇の87年】皇太子を名君に… 大任は海の英雄、東郷平八郎に託された - 産経ニュース 【昭和天皇の87年】軍服を着た11歳の皇太子 だが本心は「博物博士になりたい」 - 産経ニュース 【昭和天皇の87年】前例なき御前会議 陸海軍両総長は泣きながら抗戦を訴えた - 産経ニュース ● 海軍と天皇〔ノイズレスサーチ〕 ● 海軍と天皇〔blog Google検索〕 . .
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/769.html
Template 日本の法令? 皇室令(こうしつれい)は大日本帝国において皇室典範(旧皇室典範)を根拠とし、皇室典範に属する法体系、いわゆる「宮務法」のもとで制定されていた皇室に関係する一連の諸法を指す。これは大日本帝国憲法を根拠とし、憲法に属する法体系、いわゆる「国務法」とは異なり、皇室典範と同様、制定・改定には帝国議会は関与しない。 日本国憲法施行に伴い、1947年(昭和22年)5月2日を最後に廃止された。 概説 皇室典範(旧皇室典範)に基づく諸規則、宮内官制及びその他の皇室の事務に関して、勅定を経た規定で発表を要するものは、皇室令として制定し、上諭を附してこれを公布した。皇族に準じた礼遇を受けていた王公族や、貴族である華族・朝鮮貴族の権利・義務などについてもこの法形式で規律していた。日本国憲法施行に伴い、この法形式が廃止されることとなり、1947年(昭和22年)5月2日公布の「皇室令及附屬法令廢止ノ件」(昭和22年皇室令第12号)によって全ての皇室令が廃止されている。 上諭には親署の後、御璽を鈐し、宮内大臣は年月日を記入しこれに副署することとされていた。但し、国務大臣の職務に関連する皇室令の上諭には、内閣総理大臣又は内閣総理大臣及び主任の国務大臣とともにこれに副署することとされていた。 皇室令の一覧 皇室令について、公布された年次毎に一覧を記す(一部の漢字は旧字体で表記)。 明治時代 明治40年(1907年) 皇族會議令(明治40年2月28日皇室令第1号) 華族令(明治40年5月8日皇室令第2号 宮内省官制(明治40年11月1日皇室令第3号) 内大臣府官制(明治40年11月1日皇室令第4号) 皇后宮職官制(明治40年11月1日皇室令第5号) 東宮職官制(明治40年11月1日皇室令第6号) 皇族附職員官制(明治40年11月1日皇室令第7号) 帝室會計審査局官制(明治40年11月1日皇室令第8号) 帝室林野管理局官制(明治40年11月1日皇室令第9号) 御歌所官制(明治40年11月1日皇室令第10号) 帝室博物館官制(明治40年11月1日皇室令第11号) 帝室林野管理局臨時職員官制(明治40年11月1日皇室令第12号) 宮内官官等俸給令(明治40年11月1日皇室令第13号) 宮内官任用令(明治40年11月1日皇室令第14号) 宮内官分限令(明治40年11月1日皇室令第15号) 宮内官懲戒令(明治40年11月1日皇室令第16号) 明治41年(1908年) 皇室祭祀令(明治41年9月19日皇室令第1号) 宮内傳染病豫防令(明治41年10月10日皇室令第2号) 明治42年(1909年) 登極令(明治42年2月11日皇室令第1号) 攝政令(明治42年2月11日皇室令第2号) 立儲令(明治42年2月11日皇室令第3号) 皇室成年式令(明治42年2月11日皇室令第4号) 宮内省官制中改正ノ件 東宮職官制中改正ノ件 帝室林野管理局中改正ノ件 帝室博物館官制中改正ノ件 宮内官官等俸給令中改正ノ件 宮内官任用令中改正ノ件 宮内官分限令中改正ノ件 皇室服喪令(明治42年6月11日皇室令第12号) 明治43年(1910年) 皇族身位令(明治43年3月3日皇室令第2号) 皇室親族令(明治43年3月3日皇室令第3号) 宮内官内国旅費令(明治43年7月12日皇室令第13号) 朝鮮貴族令(明治43年8月29日皇室令第14号) 朝鮮ニ在住スル貴族ニ関スル件 (明治43年8月29日皇室令第15号) 朝鮮貴族ノ敍位ニ関スル件(明治43年8月29日皇室令第16号) 前韓国宮内府職員ニ関スル件(明治43年8月29日皇室令第20号) 朝鮮貴族タル有爵者大礼服制(明治43年12月19日皇室令第22号) 皇室財産令(明治43年12月24日皇室令第33号) 李王職官制(明治43年12月30日皇室令第34号) 朝鮮人タル宮内官ニシテ朝鮮ニ在勤スル者ノ俸給ニ関スル件(明治43年12月30日皇室令第36号) 朝鮮ニ於ケル李王職ノ事務及朝鮮ニ在勤スル李王職職員ニ関スル件(明治43年12月30日皇室令第39号) 李王職経費ノ支弁及李王歳費ノ収支監督ニ関スル件(明治43年12月30日皇室令第40号) 朝鮮ニ在勤スル宮内官ノ恩給遺族扶助料及退官賜金ニ関スル件(明治43年12月30日皇室令第41号) 明治44年(1911年) 皇族服装令(明治44年5月27日皇室令第3号) 宮内官制服令(明治44年5月27日皇室令第4号) 非役有位大礼服ノ帽ニ関スル件(明治44年5月27日皇室令第5号) 華族戒飭令(明治44年12月28日皇室令第6号) 明治45年(1912年) 皇室会計令(明治45年7月10日皇室令第2号) 旧堂上華族保護資金令(明治45年7月10日皇室令第3号) 大正時代 大正元年(1912年) 皇太后宮職官制(大正元年7月30日皇室令第1号) 当分ノ内侍従長二人ヲ置クノ件(大正元年7月30日皇室令第6号) 皇太后宮職職員ノ任用ニ関スル件(大正元年7月30日皇室令第7号) 宮内職員ノ懲戒免除ニ関スル件(大正元年10月11日皇室令第16号) 大正2年(1913年) 皇子附職員官制(大正2年4月9日皇室令第2号) 初叙官等ノ制限ヲ受ケサル宮内高等官他ノ宮内高等官トナリ又ハ初叙官等ノ制限ヲ受ケサル高等文官初叙官等ノ制限ヲ受クル宮内高等官トナル場合ノ官等ニ関スル件(大正2年4月9日皇室令第5号) 地租地租附加税及段別割ニ関スル法規ヲ皇族所有ノ土地ニ適用スルノ件(大正2年7月31日皇室令第8号) 天皇ノ御服ニ関スル件(大正2年11月14日皇室令第9号) 大正3年(1914年) 式部職掌典部職員中掌典内掌典及掌典補臨時増置(大正3年1月12日皇室令第1号) 皇族附職員官制(大正3年7月20日皇室令第5号) 御料牧場官制(大正3年7月20日皇室令第10号) 学習院教授臨時増置ニ関スル件(大正3年7月20日皇室令第11号) 宮内省ニ臨時編修局設置(大正3年12月1日皇室令第22号) 大正4年(1915年) 宮中ニ参入スル者ノ袿袴ノ制(大正4年7月26日皇室令第8号) 祭祀及策命宣読ノ為参向ノ勅使及其ノ随員ノ服装ニ関スル件(大正4年10月1日皇室令第9号) 大正5年(1916年) 帝室制度審議会規則(大正5年11月6日皇室令第6号) 大正6年(1917年) 宮内省官吏准官吏恩給遺族扶助料更正ニ関スル件(大正6年12月29日皇室令第12号) 大正7年(1918年) 宮内省旅費臨時増賜ニ関スル件(大正7年7月22日皇室令第7号) 皇宮警手恩給令(大正7年12月11日皇室令第15号) 不要存御料地処分令(大正7年12月28日皇室令第16号) 大正9年(1920年) 帝室林野管理局臨時職員官制(大正9年4月1日皇室令第2号) 朝鮮人タル宮内官ニシテ旧韓国宮内府其ノ他旧韓国政府ニ在官又ハ在職シタル者ノ恩給及遺族扶助料等ニ関スル件(大正9年7月24日皇室令第7号) 宮内省官吏准官吏恩給扶助料増額等ニ関スル件(大正9年12月3日皇室令第12号) 大正10年(1921年) 学習院高等科ニ適用スヘキ規程ニ関スル件(大正10年4月23日皇室令第4号) 宮内奏任官及同判任官ノ優遇ニ関スル件(大正10年5月23日皇室令第5号) 宮内省官制(大正10年10月7日皇室令第7号) 皇后宮職官制(大正10年10月7日皇室令第8号) 東宮職官制(大正10年10月7日皇室令第9号) 帝室会計審査局官制(大正10年10月7日皇室令第10号) 帝室林野管理局官制(大正10年10月7日皇室令第11号) 帝室林野管理局臨時職員官制(大正10年10月7日皇室令第12号) 御歌所官制(大正10年10月7日皇室令第13号) 帝室博物館官制(大正10年10月7日皇室令第14号) 宮内官考査委員会官制(大正10年10月7日皇室令第16号) 宗秩寮審議会官制(大正10年10月7日皇室令第17号) 宮内官官等俸給令(大正10年10月7日皇室令第18号) 宮内官任用令(大正10年10月7日皇室令第19号) 侍従次長侍従及東宮侍従ノ定員ニ関スル件(大正10年11月25日皇室令第21号) 大正11年(1922年) 学習院学制(大正11年3月16日皇室令第1号) 女子学習院学制(大正11年3月16日皇室令第2号) 宮内省在外研究員令(大正11年11月1日皇室令第9号) 大正12年(1923年) 学習院官制(大正12年4月2日皇室令第5号) 女子学習院官制(大正12年4月2日皇室令第6号) 外国ニ出張ヲ命セラレタル者ノ渡切旅費ニ関スル件(大正12年7月9日皇室令第12号) 皇室ノ祭祀ニ関スル件(大正12年9月21日皇室令第14号) 宮内職員ノ制服ニ関スル件(大正12年9月21日皇室令第15号) 宮内省恩給令(大正12年9月28日皇室令第16号) 通常会計及帝室林野管理局会計ニ於テ収入シタル土地売払代金ニ関スル件(大正12年10月22日皇室令第18号) 震災ニ基ク特別ノ事情ニ因リ皇室会計令中特例ヲ設クルコトヲ得ルノ件(大正12年11月26日皇室令第19号) 大正13年(1924年) 宮内職員ノ懲戒免除ニ関スル件(大正13年皇室令第4号) 帝室林野管理局臨時職員官制(大正13年1月30日皇室令第6号) 臨時御歴代史実考査委員会官制(大正13年3月8日皇室令第7号) 通常会計及帝室林野局会計ニ於テ収入シタル土地売払代金等ニ関スル件(大正13年11月21日皇室令第16号) 大正14年(1925年) 帝室林野局臨時職員官制(大正14年5月6日皇室令第6号) 東京市京都市及其ノ付近所在御料地ノ売払ニ関スル件(大正14年6月25日皇室令第10号) 大正15年(1926年) 宮内伝染病予防令(大正15年10月5日皇室令第4号) 皇統譜令(大正15年10月21日皇室令第6号) 皇室儀制令(大正15年10月21日皇室令第7号) 皇族就学令(大正15年10月21日皇室令第8号) 皇族後見令(大正15年10月21日皇室令第9号) 皇族遺言令(大正15年10月21日皇室令第10号) 皇室喪儀令(大正15年10月21日皇室令第11号) 皇室陵墓令(大正15年10月21日皇室令第12号) 皇室裁判令(大正15年12月1日皇室令第16号) 王公家軌範(大正15年12月1日皇室令第17号) 租税ニ関スル法規ヲ王公族所有ノ土地ニ適用スルノ件(大正15年12月1日皇室令第18号) 昭和時代 昭和元年(1926年) 皇太后宮職官制(昭和元年12月25日皇室令第1号) 侍従ノ定員ニ関スル件(昭和元年12月25日皇室令第7号) 昭和2年(1927年) 王公族ノ服装ニ関スル件(昭和2年1月19日皇室令第1号) 宮内職員ノ懲戒免除ニ関スル件(昭和2年皇室令第3号) 式部職掌典部職員臨時増置ノ件(昭和2年12月30日皇室令第18号) 昭和3年(1928年) 宮内職員ノ懲戒免除ニ関スル件(昭和3年皇室令第10号) 昭和5年(1930年) 皇族附職員官制(昭和5年3月4日皇室令第3号) 昭和6年(1931年) 宮内省ニ於テ委嘱ニ依リ財団法人帝室博物館復興翼賛会事務ヲ施行スルノ件(昭和6年10月1日皇室令第2号) 宮内省ニ臨時職員増置ノ件(昭和6年10月1日皇室令第3号) 昭和7年(1932年) 外国旅費等臨時増給ニ関スル件(昭和7年12月24日皇室令第4号) 昭和8年(1933年) 恩給ノ増額等ニ関スル件(昭和8年9月19日皇室令第2号) 東宮ニ関スル事務主管ノ件(昭和8年12月23日皇室令第11号) 昭和9年(1934年) 宮内職員ノ懲戒免除ニ関スル件(昭和9年皇室令第1号) 出納官吏等ノ弁償責任ノ免除ニ関スル件(昭和9年皇室令第2号) 図書寮ニ臨時職員増置ノ件(昭和9年12月21日皇室令第5号) 昭和11年(1936年) 東宮傅育職員官制(昭和11年4月10日皇室令第3号) 帝室林野局臨時職員官制(昭和11年12月24日皇室令第13号) 昭和12年(1937年) 帝室博物館特別資金令(昭和12年12月20日皇室令第2号) 昭和13年(1938年) 宮内職員ノ懲戒免除ニ関スル件(昭和13年皇室令第3号) 出納官吏等ノ弁償責任ノ免除ニ関スル件(昭和13年皇室令第4号) 林野資金ノ原額ヲ帝室林野局会計ノ歳計剰余金ヨリ移入スルコトヲ得ルノ件(昭和13年5月28日皇室令第5号) 昭和14年(1939年) 掌典職官制(昭和14年12月26日皇室令第4号) 昭和15年(1940年) 宮内職員ノ懲戒免除ニ関スル件(昭和15年皇室令第2号) 出納官吏等ノ弁償責任ノ免除ニ関スル件(昭和15年皇室令第3号) 皇后宮職ニ皇子傅育官ヲ置クノ件(昭和15年10月7日皇室令第9号) 昭和16年(1941年) 牧場又ハ林野経営ノ為ノ皇室会計令ノ特例ニ関スル件(昭和16年12月27日皇室令第13号) 昭和17年(1942年) 宮内職員死亡又ハ退職ノ場合ニ於ケル任用等ノ手続ニ関スル件(昭和17年6月20日皇室令第3号) 昭和18年(1943年) 大東亜戦争ニ際シ陸海軍ニ召集セラレタル宮内職員ノ補欠及復帰ニ関スル件(昭和18年8月2日皇室令第10号) 宮内官任用令ノ特例ニ関スル件(昭和18年8月2日皇室令第14号) 宮内職員優遇令(昭和18年8月2日皇室令第15号) 宮内伝染病予防令(昭和18年10月23日皇室令第20号) 皇室会計令臨時特例(昭和18年12月28日皇室令第21号) 昭和19年(1944年) 学習院学制戦時特例ニ関スル件(昭和19年3月31日皇室令第1号) 女子学習院学制戦時特例ニ関スル件(昭和19年3月31日皇室令第2号) 宮内省内国旅費令(昭和19年5月10日皇室令第3号) 宮中ニ於ケル男子ノ通常服ニ関スル件(昭和19年5月12日皇室令第4号) 宮中ニ於ケル女子ノ通常服ニ関スル件(昭和19年10月2日皇室令第8号) 宮内省特別需品資金令(昭和19年11月21日皇室令第9号) 昭和20年(1945年) 宮内官制服令第九条ノ臨時特例ニ関スル件(昭和20年2月9日皇室令第1号) 正倉院管理署官制(昭和20年3月5日皇室令第3号) 宮内部内臨時職員設置制(昭和20年3月5日皇室令第4号) 女子学習院ニ研究科ヲ置クノ件(昭和20年3月17日皇室令第7号) 東宮職官制(昭和20年8月10日皇室令第15号) 宮内職員ノ任用及懲戒ノ手続等ニ関スル臨時特例ノ件(昭和20年8月21日皇室令第19号) 禁衛府官制(昭和20年9月10日皇室令第22号) 宮内職員ノ懲戒免除ニ関スル件(昭和20年皇室令第34号) 出納官吏等ノ弁償責任ノ免除ニ関スル件(昭和20年皇室令第35号) 天皇ノ御服ニ関スル件(昭和20年11月7日皇室令第37号) 宮中ニ於ケル男子ノ通常服ニ関スル件(昭和20年11月7日皇室令第39号) 昭和21年(1946年) 王公族附職員官制(昭和21年1月31日皇室令第4号) 宮内省恩給令ノ特例ニ関スル件(昭和21年2月22日皇室令第9号) 皇宮警察署官制(昭和21年3月30日皇室令第12号) 皇族王公族附職員官制(昭和21年3月30日皇室令第13号) 宮内官任用叙等令(昭和21年3月30日皇室令第14号) 宮内官俸給令(昭和21年3月30日皇室令第15号) 戦時補償特別措置法及附属法令ヲ御料ニ係ル戦時補償請求権ニ関シ準用スル等ノ件(昭和21年12月11日皇室令第26号) 昭和22年(1947年) 財産税法及附属法令ヲ御料ニ関シ準用スル等ノ件(昭和22年2月21日皇室令第1号) 租税ニ関スル法令ヲ皇族ニ適用スルノ件(昭和22年2月21日皇室令第2号) 御資会計財本部ニ属スル現金、登録国債又ハ有価証券ヲ納税ノ用ニ充ツルコトヲ得ルノ件(昭和22年2月24日皇室令第4号) 恩給法臨時特例ヲ宮内職員ノ恩給ニ準用スルノ件(昭和22年3月31日皇室令第8号) 財産税法及附属法令ヲ御料ニ関シ準用スル等ノ件(昭22皇室令1)ノ施行ニ関スル件(昭和22年4月30日皇室令第11号) 皇室令及附屬法令廢止ノ件(昭和22年5月2日皇室令第12号) 関連項目 皇室 旧皇室典範 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年7月4日 (金) 06 59。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/254.html
Template 日本の内閣総理大臣? 濱口 雄幸(はまぐち おさち、明治3年4月1日(1870年5月1日) - 昭和6年(1931年)8月26日)は、日本の官僚、政治家。第27代内閣総理大臣。正二位勲一等。初の明治生まれの内閣総理大臣である。 来歴 高知県長岡郡五台山村(現高知市)の林業を営む水口家に水口胤平の3人兄弟の末子として生まれる。幸雄と命名されるが、父親が出生届を出しに役所に行く途中で酒を飲み、役所に着いたときには酩酊状態になっていた。その状態で出生届を記入し、誤って名前を前後逆に記入した届が受理されてしまい雄幸となった。 明治22年(1889年)、高知県安芸郡田野村(現田野町)濱口義立の長女夏子と結婚し、濱口家の養嗣子となる。旧制高知中学(現高知県立高知追手前高等学校)、第三高等学校を経て、明治28年(1895年)東京帝国大学法科を卒業。 大蔵省に入り、専売局長官、逓信次官などを務め、大正4年(1915年)に立憲同志会に入党、衆議院議員に当選して代議士となる。加藤高明内閣の大蔵大臣、第一次若槻内閣の内務大臣などを務める。立憲民政党初代総裁として、張作霖爆殺事件の責で総辞職した田中義一内閣の後に内閣総理大臣に就任(任期:1929年7月 - 1931年4月)して組閣を行う。財界からの信任のある井上準之助前日本銀行総裁を蔵相に起用して金解禁や緊縮政策を断行し、また政友会の反対を排除してロンドン海軍軍縮条約を結ぶ。 ライオン宰相の生き様 官僚出身でありながら、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、謹厳実直さも相まって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた首相が濱口雄幸である。濱口が政治家として過ごした大正から昭和初期は、まさに激動の時代だった。この激動を乗り切って首相に上り詰めたのは、濱口の実直さや正義感、頑固さを高く評価して彼を押し上げていった周囲の政治家・財界人たちの期待の結果である。 濱口は大蔵省入省後、1度上司と衝突、しばらく地方回りをしてかなり苦労した。見るに見かねて若槻禮次郎ら先輩や友人が、東京帰京の嘆願を行って呼び戻したというエピソードもある。その後、濱口の有能さを見込んで後藤新平が財界入りを口説き、さらに政治家となってからは加藤高明が自身の腹心として重用した。やがて蔵相を歴任するなどした濱口は、憲政会の幹部として影響力を増していった。中でも、後に国際協調と呼ばれる軍縮に賛同する姿勢が終始一貫していたのは注目される。第一次世界大戦中より帝国海軍拡張は当然の空気もあり、軍部、とりわけ海軍省・海軍軍令部は帝国国防方針に基づく八八艦隊確立のため、国防費増額を要求していた。しかし濱口は、大戦も連合国の勝利に終わり、平和の到来が確定するや国防の充実に理解を示しつつも、国家予算の多くが国防費に消費されていることによる国民生活の危機を感じ始めていた。その上、戦後軍拡の名の下に際限なき海軍費の膨張が始まると、列国間の建艦競争が激化することをも憂慮していた。特にアメリカ合衆国が国際社会の中で早晩1番の大国となるのは明らかであり、そのことについて濱口は「我国の貧しきを以て米国に追従せんことを到底思ひも寄らず」、「我国は国力の関係上仮令一切を犠牲とするも英米二国の海軍力に追従することを能はず」とまで述べている。 日本の国力、実力を知る濱口は、英米との対決は不可能であることを理解していた。このことは国民生活の負担の軽減と見事にリンクする。戦後不況、社会不安が増大する中で、軍拡から軍縮に転換し、その軍縮余剰金を財源に、国民負担を軽減する施策を提示したのである。明治以来、軍備拡張が当たり前の空気がある中で、大戦後、戦争から平和へ、軍拡より軍縮へ、積極財政から緊縮財政へという政治家の信念を貫き通す姿勢は高く評価する声がある一方で、反面緊縮財政がデフレ不況を悪化させ、国民生活を圧迫し(後述)社会不安を増大させるなど、経済政策においては酷評されることもある。 日本の首相で初めて当時最新のメディアであったラジオを通じて国民に直接自身の政策を訴えた首相でもある。 根回しに頼らない正面突破 Template See also? 以上の経験は、昭和4年(1929年)に成立した濱口内閣に遺憾なく発揮された。田中義一内閣が異例な形で総辞職した後を受けて、濱口は、政治空白は許されないとしてわずか1日で組閣を行った。その電光石火の早業に、宮内大臣牧野伸顕が「意気込頼母しく感じたり」と記すのも無理はなかった。 濱口は、内には大戦の好況に時代慣れした弛緩に警告を与えて不況からの脱出を唱え、他方、外には外務大臣幣原喜重郎を重用して国際協調路線を貫いた。しかし、そのためには政府与党が磐石でなくてはならない。第2回普通選挙で政友会に圧勝した濱口は、政局運営に自信を持った。だが、その濱口でさえも、政党政治は最高の形態と見ていたわけではない。「世界多数の文明国に於ける政治の形式であって、他に代るべき良き政治の形式を見出すことが出来ないため」としている。ベストではないがベター・チョイスというわけである。それがゆえに濱口は、この時代を政党政治の「試験時代」と認識した。この認識はロンドン軍縮でも活用された。濱口は日本側の首席代表に若槻禮次郎を任命した。ワシントン会議では加藤友三郎、ジュネーブ会議では齋藤實と、それまでの海軍軍縮会議の責任者は海軍出身者だったが、今回は民政党(立憲民政党の略称)の大幹部たる若槻、つまり文官を任命しただけでも、濱口のスタイルが理解できる。ロンドン軍縮会議は紛糾を重ねた。軍令部を中心に、強硬派が巡洋艦の日本の対英米保有比率7割に猛反対、これに右翼や野党も同調して対外問題は一挙に国内問題に転じた。濱口首相は根回しを山梨勝之進海軍次官に依頼するが、反対派には伏見宮博恭王、東郷平八郎といった大物が存在し、速やかな解決は不可能だった。宮中ではこの事態を危惧して、侍従長・鈴木貫太郎に根回しをさせるほどだった。 圧倒的な議席を有する民政党を率いる濱口は、大衆に支持されていた。また宮中からも信頼されているという自信があった。そこに彼自身の頑固な性格が加味されて根回しに頼らず、正面から難局を突破しようとしたのである。いみじくも、海軍大臣財部彪に「唯一正道を歩まん」、「仮令玉砕すとも男子の本懐ならずや」と述べているのは、まさに濱口の真骨頂なのである。料亭政治を嫌い、また根回しを回避し、断固たる姿勢で政局に臨んだ濱口は、戦前の首相としては珍しい存在である。その政治手腕はその意味で一長一短はあったが、自らの政治哲学を頑固に追い求めた点、首相としては稀有な存在といえよう。 金本位への転換 濱口が内閣総理大臣を引き受けるにあたって、主眼となっていた課題は経済政策であった。第一次世界大戦後の国内好況が既に終わりを告げて久しく、昭和2年(1927年)に起きた金融恐慌をはじめ、日本国内が長い不況に喘いでいる一方で、軍拡の動きも活発であった。軍部の動きを抑え、同時に日本を不況から脱するためには、金解禁が不可欠であると濱口は考えたのである(実際には第一次世界大戦後に再建された新たな金本位制は、諸外国においても正貨不足から軒並みデフレの原因となっていたため不況から脱するどころか、むしろ各国を不況に追い込んでいた)。 一貫して国際協調を掲げていた濱口は、蔵相に元日本銀行総裁の井上準之助を起用し、彼の協力の元、軍部をはじめ内外の各方面からの激しい反対を押し切る形で金解禁を断行。当時、日本経済はデフレの真っ只中にあり「嵐に向かって雨戸を開け放つようなものだ」とまで批判された。特に当時の日本経済の趨勢を無視して、旧平価(円高水準)において解禁した(石橋湛山ら経済学者は新平価での解禁を主張していた)ことで、輸出業の減退を招き、その後のより深刻なデフレ不況を招来することになる。結果としては、直後に起きた世界恐慌など、世界情勢の波にも直撃する形となり、濱口内閣時の実質GDP成長率は昭和4年(1929年)には0.5%、翌・昭和5年(1930年)には1.1%と経済失政であると評される事になる。 濱口自身「我々は、国民諸君とともにこの一時の苦痛をしのんで」と語るように、国内の経済問題が一日にして好転するとは考えておらず、むしろ金解禁は経済正常化への端緒であり、その後長い苦節を耐えた後に、日本の経済構造が改革されると考えていた。しかし、結果的には大不況とその後の社会不安を生み出した原因ともなり、経済失策は、後に禍根を残した。また、ともすれば「清貧」思想、「苦難を乗り越えてこその繁栄」などの精神論に傾きがちであり、石橋ら経済学の観点からの反対論を封じてしまうこともしばしばあった。 任期中に濱口自身が凶弾に倒れたため、その後の経済政策は第2次若槻内閣が引き継ぐ。そして昭和6年(1931年)の成長率はまたも0.4%と低迷することとなる。この大不況は民政党内閣から交代した政友会犬養内閣において蔵相を務めた高橋是清のリフレーション政策により、長きに渡るデフレを終熄させることでようやく終わりを告げることになる。高橋の取った政策は金輸出の再禁止と日銀の国債引き受けによる積極財政という濱口内閣とは正反対の政策であった。犬養内閣において、成長率は昭和7年(1932年)に4.4%、同8年(1933年)に11.4%、同9年(1934年)に8.7%と劇的な回復を見せ、日本は世界に先駆けて不況からの脱出に成功する事になる。 濱口首相遭難事件 これらの思い切った断行が右翼からの反感を買い、昭和5年(1930年)11月14日、濱口は広島県福山市郊外で行われる陸軍の演習を視察する予定で、昭和天皇の行幸に付き添い(更にお国帰りも兼ねて)特急燕に乗車するために東京駅を訪れるが、第4ホーム(現在の東北新幹線改札付近)で愛国社社員の佐郷屋留雄(さごやとめお。21歳)に銃撃される。この時は、弾丸が骨盤を砕き、東大病院にて腸の30%を摘出したが、一命を取り留めた。翌・昭和6年(1931年)3月に、野党政友会鳩山一郎らの執拗な登院要求に押され、まだ傷の癒えない身で無理をして衆議院に登院、5ヵ月後に亡くなった。この間、臨時首相代理を幣原喜重郎にゆだねた。 ちなみに濱口の死因に関しては、後日濱口が特殊な細菌の保有者であり、その細菌が傷口に侵入して化膿した事による症状の悪化であると判明したため、狙撃犯・佐郷屋の裁判において被告が殺人罪にあたるのかそれとも殺人未遂罪にあたるのかで大いに紛糾した。審理の結果、狙撃と死亡との間の相当因果関係がないとして、殺人未遂罪が適用されたものの、昭和8年(1933年)の判決の内容は死刑であった(但し昭和9年(1934年)に恩赦で無期懲役に減刑され、昭和15年(1940年)11月に仮出所している。佐郷屋は第二次世界大戦後も右翼活動を続け、昭和47年(1972年)4月死去)。 家族・親族 長男 雄彦(銀行家・元東京銀行頭取、元国際電電(KDD)会長) - 二女淑は皇后美智子の兄正田巌の夫人である。 二男 巌根(銀行家・元長期信用銀行会長) - 二女英子は元首相鳩山一郎の女婿元日本輸出入銀行総裁古沢潤一の長男義文の夫人である。 三女 富士(官僚、政治家大橋武夫に嫁する) 系譜 浜口氏 昭和天皇━━━今上天皇 ┃ ┏美智子 正田英三郎━━┫ ┗正田巌 ┃ ┏淑 小林和介━━直 ┃ ┣━━━╋宏 浜口雄幸 ┏浜口雄彦 ┃ ┃ ┃ ┗幸 ┃ ┃ ┣━━━━━╋富士 ┏大橋宗夫 ┃ ┃ ┣━━━━┫ 夏 ┃大橋武夫 ┗大橋光夫 ┃ ┗浜口巌根 ┏郁子 ┣━━━┫ 稜 ┗英子 古沢潤一 ┃ ┣━━━━━━古沢義文 ┏百合子 鳩山一郎━┫ ┗鳩山威一郎 参考文献 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 角川書店 1983年 158-161頁 関連項目 濱口内閣 『随感録』 濱口雄幸 TVドラマ 「男子の本懐」(1981年NHKドラマ 原作:城山三郎) 石橋湛山…遭難事件直後に「東洋経済新報」誌上において濱口首相退陣論を唱えるが、26年後にこの時の持論に従って自らが首相を退陣した。 外部リンク 浜口雄幸肖像写真(国立国会図書館) 浜口 雄幸 / クリック 20世紀 系図でみる近現代 第11回 美智子皇后 正田家 安西家 浜口雄幸 大原家 濱口雄幸:みすず書房 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月22日 (土) 10 49。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/221.html
Template 基礎情報 君主? 香淳皇后(こうじゅんこうごう、1903年3月6日 - 2000年6月16日)は、昭和天皇の皇后。名は良子(ながこ)。お印は桃。 家系 父は久邇宮邦彦王、母は十二代薩摩藩主公爵島津忠義七女俔子(ちかこ)。祖父久邇宮朝彦親王は男子九人にめぐまれた子福者で、東久邇宮稔彦王は皇后の叔父の一人である。また、五女島津貴子の夫の島津久永は母方の従弟に当たる。 生涯 少女時代 1903年(明治36年)3月6日、久邇宮邦彦王の第一王女子として誕生。良子と名づけられ、久邇宮良子女王と号す。 1907年(明治40年)9月2日、学習院女学部幼稚園に入園。幼稚園では皇族は別室で昼食をとるが、そのとき妹・信子女王の他、迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)・淳宮雍仁親王(後の秩父宮)と一緒であった。優しい一方運動神経に優れ(昭和天皇からゴルフを教わり、度々天皇を負かしたと伝わる)しっかりとした性格で、二人の妹が彼女の行動を全て真似ることもあったという。 同小学科を経て(1909年入学)、1915年(大正4年)には学習院女学部中学科進学。在学中の1918年(大正7年)1月14日に皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の妃に内定。内定の理由には、彼女の性格や素質以外にも、明治天皇が久邇宮家を気にかけていたこと等が挙げられる。内定にともない学習院を退学し、同年4月13日以降久邇宮邸内に設けられた学問所で皇后としての教育を受ける。学問所は お花御殿 と呼ばれ、妹たちの他・親しい学友が学習院の授業を終えた後に通い、ともに学んだ。学問所の建物はその後東京都立駒場高校に下賜され、部活動等に利用された。 1920年(大正9年)5月7日に皇太子裕仁親王が元服礼を行ったことをうけて、同年6月10日に正式に婚約。しかし、1921年(大正10年)に入って母系島津家に色盲の遺伝があり、皇太子妃として不適当として元老山縣有朋が久邇宮家に婚約辞退をせまったいわゆる 宮中某重大事件 がおこる。事件の内容は極秘扱いされたが、世上さまざまな憶測が流れ、なかでも宮中に影響力を保持しようとする山県の策略とする見解が強かったため良子女王に同情があつまり、原敬らの反山県勢力が山県追落しにこの事件を利用したこともあって、最終的には翌年2月10日に宮内省から「良子女王殿下東宮妃内定の事に関し、世上の様々の噂あるやに聞くも、右御決定は何等変更なし」の発表が行われて事件は決着した(翌日づけで新聞記事解禁)。最終的な決めてのひとつが、生物学者でもあった天皇の決断であったといわれている。 学問所での教育は2・3年前後の予定であったが、宮中某重大事件、さらに関東大震災の影響により婚儀は延期され続けた。 皇太子妃時代 thumb|180px|成子内親王を見守る皇太子[[昭和天皇|裕仁親王と良子妃]] 1922年(大正11年)6月20日、結婚について大正天皇の勅許がくだり、9月18日に納采。同日付で勲一等宝冠章を受章する。翌1923年(大正12年)の内にも婚儀の予定であったが、関東大震災の惨状を目の当たりにした裕仁親王が自ら延期した。 1924年(大正13年)1月26日に結婚。皇太子妃となり、赤坂の東宮御所に住まう。裕仁親王との関係はこの頃より円満で、当時も手をつないで散歩をしていたという。1925年(大正14年)12月6日には第一皇女・照宮成子内親王が誕生する。良子は乳人こそ置いたが、可能な限り自らの母乳で育てた。子女を幼少時は手元で育てたことも、非常に画期的な出来事であった。 皇后時代 1926年(昭和元年)12月25日、昭和天皇の即位に伴い立后。1927年(昭和2年)、第二皇女・久宮祐子内親王が誕生するも、翌1928年(昭和3年)に敗血症のため夭折。皇后は自ら死化粧をほどこし、天皇も禁を破り通夜に出席した。同年11月10日、即位の大礼が京都御所で盛大に執り行われた。1929年(昭和4年)、宮城(きゅうじょう:当時の呼称)に住いを移す。この後、なかなか男児を得られず、華族たちから「皇后さまは女腹」と言われ非難され、側室制度の復活が本格的に検討された。彼女も心労とプレッシャーに苦しむが、この案は昭和天皇が自ら拒否した。1933年(昭和8年)12月23日、継宮明仁親王が誕生。待望の皇子誕生とあり、日本全体から盛大に祝賀を受ける。 thumb|180px|[[明仁|継宮明仁親王を抱く皇后]] 一方この頃より、皇女は学習院前期(小学校)入学とともに天皇・皇后の手元を離れ呉竹寮で養育される。これは天皇の元では養育係が仕え辛く、その結果わがままに育ったと言う批判に加え、将来的に降嫁することに備えるためである。また、天皇家の神格化が推進され、明仁親王に至っては1937年(昭和12年)より東宮仮御所にて養育された。土日以外は親子とは言え、会うことはできなくなった。皇后は親王のために好物の豆腐料理を手ずから用意していたが、親王が皇后の手料理を口にすることはなかった。 第二次世界大戦中は昭和天皇とともに東京に留まり、心労の多かった夫を支えたといわれる。またこのころには、「皇后は天皇の仕人」とされたため天皇の車に同乗できなくなったともいう。戦中の食糧難の折には、天皇と夕食をともにする際、二人で相談して、かならず料理の一皿か二皿を残し、侍従や女官に下げたという。戦争末期には、皇后自ら吹上御苑で野菜を作り養鶏も行った。敗戦後は引き揚げ者のための布団や着物作りを行なった。 皇室の在り方が一変して後は、皇后同伴の公務が一般的になったこともあり、積極的に国民と親しもうとする昭和天皇の意向を汲んで各種の活動を活発に行った。1947年(昭和22年)の日本赤十字社名誉総裁就任をはじめとして、1952年(昭和27年)以降の全国戦没者追悼式、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開会式、1970年(昭和45年)の日本万国博覧会開会式、1972年(昭和47年)の札幌オリンピック開会式および沖縄復帰記念式典などへの出席はその例である。靖国神社への天皇親拝にも度々同行している。 また皇女たちの結婚にあたり、長女・成子内親王の例から、娘達の意思を尊重するためのお見合いやデートをすすめた。その一方で、皇太子と平民出身である美智子との婚約が決定された際には秩父宮妃勢津子及び高松宮妃喜久子、側近の松平信子らと共に強い不快感を示している。入江相政日記においては、松平信子が宮崎白蓮などと示し合わせて結婚に反対する右翼団体と連絡を取ったと記されており、この問題は後々まで尾を引くことになった。表だって美智子妃に反感を示すことはなかったが、1975年の訪米に際して空港で挨拶する美智子妃を無視する映像が残されている。美智子妃との関係は礼宮文仁親王の出生後、文仁親王の容貌が自身によく似ていたことから氷解に向かったという。 1960年(昭和35年)11月、降嫁した東久邇成子が病に倒れる。すでに末期がんで、翌年4月からは宮内庁病院に入院。皇后はほぼ毎日、私事のため人目を避けながら見舞いに訪れた。しかし7月に成子が死去。天皇ともども、愛娘の死に大きな衝撃と悲しみを受けた。内孫である浩宮徳仁親王の存在が慰めになり、大変かわいがったという。 また、昭和40年台前半の入江相政日記においては、皇后が絶大な信頼を置いた今城誼子の問題が頻出している。新興宗教に深く関わり、粗暴な言動で周囲の顰蹙を買っていたことから今城は入江の日記には「魔女」のニックネームで登場する。今城は、皇后を通して当時簡略化が進められていた宮中祭祀に口を挟む、天皇皇后の欧州歴訪において自身の同行を求めるなど、侍従長の入江相政以下の天皇側近はこの問題に頭を痛めることになり、天皇の支持を取り付けた上で、昭和46年に今城を宮内庁から事実上追放する。 1971年(昭和46年)には天皇と共に訪欧。皇后にとっては、これが初めての外国訪問となった。1974年(昭和49年)には金婚式を迎え、記者団の楽しかった思い出という問いに、天皇・皇后ともに先の欧州訪問をあげた。1975年(昭和50年)の訪米にも行を共にした。 1976年(昭和51年)には天皇在位50年記念式典に出席し祝賀を受けるものの、この前後から老いの兆候があらわれ、翌年の夏に那須御用邸で腰椎を骨折、長期間那須に滞在し治療が遅れたため完全な回復は不可能な状態となる。これ以降老いの兆候は顕著になった。歩行に際しても杖を用いることが多くなり、散歩のさい天皇が手を引く姿も見られた。やがて車椅子を頻繁に利用するようになる。 皇太后時代 1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇が崩御し、皇太子明仁親王の践祚にともない皇太后となる。この年には昭和天皇の他に、第三皇女・鷹司和子、実妹の大谷智子が死去した。これ以降、その動静が伝えられることがまれになり、メディア等への露出も少なくなった。 1994年(平成6年)、後冷泉天皇の皇后・藤原寛子の数え年92歳を抜いて、歴代最長寿となった。最晩年には認知症の症状があったともいわれる(マスメディアでは「老人特有の症状」と伝えられることが多かった)。 2000年(平成12年)6月16日老衰による呼吸不全のため皇居吹上大宮御所で崩御した(皇太后の死は「崩御」とよばれる例であるが、マスコミの殆どが「逝去」と報じた)。享年97。歴代の皇后中最長の在位であり、または神話時代を除き最長寿でもある。 7月10日に「香淳皇后」と追号され、7月25日に斂葬の儀が行われた後、武蔵野東陵に埋葬。 追号「香淳」は、号にちなみ、『懐風藻』の「花舒桃苑香、草秀蘭筵新」(安倍広庭「春日侍宴」)および「四海既無為、九域正清淳」(山前王「侍宴」)に拠る。和書を典拠にする諡号はこれがはじめて。 皇子女 thumb|250px|日米開戦前日の[[昭和天皇一家]] 昭和天皇との間に7人の皇子女をもうける。以下誕生順。 照宮成子内親王(てるのみや しげこ、1925年-1961年) - 東久邇宮盛厚王妃 久宮祐子内親王(ひさのみや さちこ、1927年-1928年) 孝宮和子内親王(たかのみや かずこ、1929年-1989年) - 鷹司平通夫人 順宮厚子内親王(よりのみや あつこ、1931年-) - 池田隆政夫人 継宮明仁親王(つぐのみや あきひと、1933年-) - 第125代天皇・今上天皇 義宮正仁親王(よしのみや まさひと、1935年- ) - 常陸宮 清宮貴子内親王(すがのみや たかこ、1939年- ) - 島津久永夫人 人となり・逸話 おおらかでおっとりとした円満な性格の持主であるといわれ、昭和天皇との夫婦仲はまことによかったと伝えられる。いわゆる従順に「夫を立てる」タイプの古風な女性で、それだけに天皇もよく彼女のことを気遣ったらしい。 天皇は彼女のことを「良宮(ながみや)」と呼んでいた。 天皇との間に夫婦喧嘩は一度も無かった、と近しい人は繰り返し証言しているが、河原敏明氏は「文藝春秋」(昭和54年2月号)に「天皇陛下の『夫婦喧嘩』」という随筆を載せ、側近がたった一度目撃したという夫婦喧嘩の光景を紹介している。 天皇と皇后の晩年の楽しみは皇居内を二人で散歩することで、植物の好きな天皇がよく皇后に説明をしながら歩いたという。またわかれ道にくると、しばしば天皇が「良宮、どちらにしようか」と問い、皇后が「陛下のお好きなほうへ」と答えたというエピソードがある。 朝食のひとときにNHKの連続テレビ小説を見るのが好きだった天皇につきあって、この番組をよく見ていた。、 活発で開明的な姑貞明皇后とは性格の違いもあってうまくゆかず、特に結婚した当初は関係に悩んだともいわれる。 書、刺繍、日本画、謡(観世流)、バラの栽培など多趣味で、バラは皇后自ら鋏をとり、枝の剪定やなどを行っていた。特に、日本画は玄人はだしで、ご成婚以前には高取稚成から大和絵を学び、その後川合玉堂、前田青邨に師事、1956年以降宮内庁職員美術展によく出品した。号を桃苑といい、現在皇居のなかにある桃華楽堂はこの号に由来するもの。画集に「桃苑画集」(1967年)、「錦芳集」(1969年)がある。 皇居の庭は天皇の意向により、武蔵野の面影を残し、自然の生育にまかせて、雑草の類もむやみに除くことを禁じたが、唯一の例外は皇后のバラ園で、ここだけは天皇も口をはさむことはなかった。 香淳皇后の登場する作品 1982年にTBS系で放送されたドラマ「いつもお陽さま家族」で、女優の高峰三枝子が香淳皇后の役を演じている。香淳皇后を俳優が演じたのはこれが初めてと言われている。 2005年に製作された(日本公開は2006年)映画「太陽」では、桃井かおりが香淳皇后役を演じた。 関連項目 Template Commonscat? 昭和天皇記念館 外部リンク 昭和天皇・香淳皇后 宮内庁による紹介 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月24日 (土) 17 41。
https://w.atwiki.jp/eirei/pages/619.html
萩原朔太郎(はぎわら さくたろう)日本(群馬県東群馬郡)1886~1942統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------詩人。北原白秋の『朱欒』に寄稿し、室生犀星と知り合い生涯の友人となる。従来の詩の概念を打ち破り、日常的な口語で詩を綴った口語自由詩を完成させ『日本近代詩の父』と呼ばれる。代表作に『月に吠える』、『青猫』、『氷島』などがある。 橋本欣五郎(はしもと きんごろう)日本(福岡県)1890~1957統率:C 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------砲兵大佐。翼賛政治会総務。トルコ公使館付武官となり、当時のトルコ大統領ケマル・パシャの革命思想に感化される。後に参謀本部で「桜会」を結成し、三月事件、十月事件を計画する。日中戦争でレディーバード事件で退役するが、戦後の東京裁判でA級戦犯として終身禁固刑となる。 畑俊六(はた しゅんろく)日本(福島県)1879~1962統率:B 武力:C 政治:C 知力:C 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------陸軍元帥。阿部・米内内閣の陸相。ドイツ駐在武官、第十四師団長、台湾軍司令官、軍事参議官、陸軍教育総監を歴任する。陸相を辞任して米内内閣を瓦解させる。後に支那方面軍司令官となり、中国で戦い、太平洋戦争末期に第二総軍司令官となる。戦後の東京裁判で中国の戦いの責任で終身禁固刑を受ける。 畑中健二(はたなか けんじ)日本(京都府丹波町)1912~1945統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------陸軍少佐。太平洋戦争期には陸軍省に勤めた。日本がポツダム宣言を受諾し、玉音放送が録音されると、日本の降伏を阻止しようとする宮城事件の首謀者の一人となり、近衛第1師団長の森赳中将を殺害する。しかしクーデターは失敗したため椎崎二郎中佐と共にピストル自殺した。 蜂須賀茂韶(はちすか もちあき)日本(阿波国)1846~1918統率:C 武力:D 政治:B 知力:C 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------徳島藩14代にして最後の藩主。蜂須賀斉裕の長男。侍従、阿波守。戊辰戦争において新政府郡に与したが少数の兵しか送れなかったため、冷評を受けた。維新後オックスフォード大に留学し、第11代東京府知事、第2代貴族院議長、第二次松方内閣の文部大臣を務めた。また、麝香間祗候の待遇を受ける。 鳩山一郎(はとやま いちろう)日本(東京府東京市)1883~1959統率:B 武力:C 政治:A 知力:A 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第52代~第54代総理大臣。自由党を結成し総裁となるが、公職追放となる。後に日本民主党を結成し総裁、総理となり、後に自由民主党を結成し総裁となる。モスクワで「日ソ共同宣言」を発し、日ソ国交の回復を成し遂げた。フリーメーソンに所属する。 花房義質(はなぶさ よしもと)日本(備前国)1842~1917統率:B 武力:C 政治:A 知力:B 文化:B 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------外交官。花房端連の長男。子爵。緒方洪庵の適塾で学び、欧米に留学する。清国人奴隷虐待問題のマリア・ルース事件では外務卿・副島種臣の補佐を務める。初代李氏朝鮮公使となるが、壬午事変では暴徒に包囲された公使館から命からがら帰国する。農商務次官、宮内次官、枢密顧問官、日本赤十字社社長などを歴任する。 馬場鍈一(ばば えいいち)日本(東京府芝区)1879~1937統率:C 武力:C 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:E--------------------------------------------------------------------------------大蔵官僚を経て高橋内閣の法制局長官や日本勧業銀行総裁を務める。その後広田内閣の大蔵大臣となるが、国防を重視し軍事費を増やし増税を決定し、大蔵官僚の人事を刷新した。結果、円相場は急激に下落して物価が高騰してしまった。 浜口雄幸(はまぐち おさち)日本(高知県高知市)1870~1931統率:A 武力:C 政治:B 知力:C 文化:C 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------第27代総理大臣。立憲民政党初代総裁として、張作霖爆殺事件の責で総辞職した田中内閣の後を継ぐ。官僚出身でありながら、謹厳実直で『ライオン宰相』と呼ばれた。金輸出解禁や、ロンドン海軍軍縮条約締結を断行するが、東京駅で銃撃される。一命を取り留めるが、傷も癒えず登院し、5ヵ月後に死亡する。 浜田国松(はまだ くにまつ)日本(三重県伊勢市)1868~1939統率:C 武力:C 政治:A 知力:A 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------弁護士。衆議院議員。立憲国民党の結成に参加し、犬養毅と共に革新倶楽部を結成、その後、立憲政友会に合流する。田中義一内閣の法務次官や衆議院議長を務める。自由主義・反ファッショの姿勢を貫き、寺内寿一陸軍大臣に対して軍部の政治干渉を批判する“腹切り問答”をした。 林銑十郎(はやし せんじゅうろう)日本(石川県金沢市)1876~1943統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第33代総理大臣。陸軍大将。日露戦争に従軍し、旅順攻撃に参加し、斉藤、岡田の両内閣で陸軍大臣を務める。謹厳、温厚な人物だったが、内閣としては評判が悪かった。予算成立後に衆議院を解散させ総選挙をしたことから「食い逃げ解散」と称された。 林董(はやし ただす)、佐藤東三郎日本(下総国印旛郡)1850~1913統率:C 武力:C 政治:A 知力:A 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------蘭方医・佐藤泰然の五男で松本良順の弟。ヘボン塾で学び、留学生としてロンドンに渡る。箱館戦争にも参加するが、岩倉使節団に加わり再度外遊する。その後、香川、兵庫の県知事を務め、大使、外務次官、外務大臣、逓信大臣と要職を歴任する。日仏協約、日露協約、第三次日韓協約などを締結した。 林友幸(はやし ともゆき)、林半七日本(長門国)1823~1907統率:B 武力:A 政治:A 知力:B 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------萩藩士。宝蔵院流槍術の名手で奇兵隊の参謀として下関戦争をはじめ戊辰戦争で活躍した。維新後は新政府の会計官権判事として盛岡に派遣され、盛岡県大参事、九戸県権知事を経て内務少輔となる。さらに明治天皇の北陸巡行に同行して元老院議官、貴族院議員、枢密顧問官などを務めた。伯爵。 林芙美子(はやし ふみこ)日本(山口県下関市)1903~1951統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:B 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------小説家。貧しい身の上を描いたデビュー作『放浪記』が好評を博した。日中戦争から太平洋戦争期には毎日新聞の特派員として現地に赴いた。一貫して庶民の生活を描き、『清貧の書』、『浮雲』、『めし』などの著作を残す。 早矢仕有的(はやし ゆうてき)日本(美濃国武儀郡)1837~1901統率:B 武力:C 政治:B 知力:B 文化:A 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------岩村藩医。福沢諭吉に学び、丸屋善八商店(現在の丸善)を設立して洋書を中心に商いを営む。世襲が基本の商習慣を廃して、所有と経営を分離した。内務省衛生局御用係、横浜司薬場設置長などを務め、輸入書籍や文房具を扱った。肉と野菜を煮込んだ滋養食を友人に振る舞いハヤシライスとして広まったとされる。 原敬(はら たかし)日本(岩手県)1856~1921統率:C 武力:D 政治:A 知力:C 文化:C 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------第19代総理大臣。立憲政友会総裁。陸奥宗光の引き立てで外交官を務める。爵位を拒み、衆議院議員であり続け『平民宰相』と称された。任期中に第一次世界大戦が終結し、パリ講和会議、国際連盟の結成があり、日本は常任理事国となる。しかし、東京駅にて中岡艮一に在任中に刺殺される。 東山魁夷(ひがしやま かいい)、本名:東山新吉日本(神奈川県横浜市)1908~1999統率:D 武力:D 政治:C 知力:B 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------日本画家。結城素明に師事し、帝展に『山国の秋』を出展して入選する。戦後、日展で『残照』が特選となると風景を題材にした独自の表現を追求し、東宮御所、皇居宮殿の障壁画を担当した。ほかに『光昏』、『朝明けの潮』も受賞している。文化勲章受賞者。 東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)日本(京都)1834~1912統率:C 武力:D 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------公家。東久世通徳の子。朝廷で尊皇攘夷を唱えるが、八月十八日の政変で都を追われる(七卿落ち)。明治維新後は、開拓長官、侍従長となる。岩倉使節団に随行し、元老院副議長、枢密顧問官、貴族院副議長、枢密院副議長などを歴任する。維新の功績を考慮されて、伯爵に叙された。 東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)日本(京都府)1887~1990統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第43代総理大臣。皇族。久邇宮朝彦親王の九男。陸軍大将。『反骨の宮様』と呼ばれた。東久邇宮家を創設する。支那事変では武漢攻略の指揮を執る。太平洋戦争時に軍事参議官と防衛総司令官を務めた。戦後処理のため、皇族として首相となるが、僅か54日で退陣する。後に臣籍降下によって平民となる。 樋口季一郎(ひぐち きいちろう)日本(兵庫県三原郡)1888~1970統率:A 武力:B 政治:C 知力:A 文化:B 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------陸軍中将。ロシア語が堪能で、ハルビン特務機関長、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官などを務めた。ナチスの迫害から逃れシベリアを越えてきたユダヤ人難民の満州国通過を認め「ヒグチ・ルート」と呼ばれた。太平洋戦争ではアッツ島の戦い、キスカ島撤退作戦、占守島の戦いを指揮した。 土方久元(ひじかた ひさもと)日本(土佐国)1833~1918統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------維新志士。土佐勤王党に参加する。長州藩士らと交流し、七卿落ちの際には三条実美に同行した。中岡慎太郎、坂本竜馬らと共に薩長同盟に尽力した。明治維新後は、宮内少輔、内務大輔、太政官内閣書記官長、侍補、宮中顧問官、元老院議官、第一次伊藤内閣の農商務大臣、宮内大臣などを歴任する。伯爵。 人見絹枝(ひとみ きぬえ)日本(岡山県御津郡)1907~1931統率:C 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------陸上競技選手。アムステルダム五輪の800mで日本人女性初のメダリスト(銀メダル)となった。100m、200m走り幅跳びの元世界記録保持者。 日野熊蔵(ひの くまぞう)日本(熊本県球磨郡)1878~1946統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------陸軍中佐。発明家でもあり、銃器や航空機などを開発した。フランスに留学後、軍の飛行実験で空を飛ぶ。しかし、公式の記録では徳川好敏が先に飛んだため、初飛行とはならなかった。 百武三郎(ひゃくたけ さぶろう)日本(佐賀県)1872~1963統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------海軍大将。日清戦争、日露戦争に従軍し、日進、朝日、磐手、伊勢、榛名など多くの軍艦に乗艦した。鎮海要港部司令官、舞鶴要港部司令官、練習艦隊司令官、佐世保鎮守府長官、軍事参議官などを歴任する。侍従長として昭和天皇に仕え、枢密顧問官を務めた。 百武晴吉(ひゃくたけ はるよし)日本(佐賀県)1888~1947統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------陸軍中将。太平洋戦争でガダルカナル島の奪回に送り込まれた第17軍の司令官。玉砕を覚悟するが、上官の今村均に止められる。後にガダルカナル戦記『戦い終わる』を著す。 平賀譲(ひらが ゆずる)日本(東京)1878~1943統率:B 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------海軍技術中将。男爵。「八・八艦隊」の設計・建造に関わり、『造船の神様』と呼ばれた。退官後は母校である東京帝大の総長となり、戦時下の東大を束ねた。彼の脳は東大医学部に保管されている。 平塚らいてう(ひらつか らいちょう)、奥村明(おくむら はる)日本(東京府東京市)1886~1971統率:C 武力:D 政治:C 知力:C 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------思想家、評論家、作家。戦前戦後を通じて、日本における女性解放運動(フェミニズム)、婦人運動を指導した。青踏社を設立し、女性のための『青踏』を出版した。その中で「元始、女性は太陽であった」と記した。女性の権利、参政権を持つ運動、平和運動に一生を捧げた。 平沼騏一郎(ひらぬま きいちろう)日本(岡山県津山市)1867~1952統率:C 武力:D 政治:C 知力:A 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第35代総理大臣。男爵。司法官僚を務め、大審院長、枢密院議長を歴任する。在任中に独ソ相互不可侵条約が締結されると退陣する。戦後はA級戦犯として終身禁固刑。 平沢貞通(ひらさわ さだみち)日本(北海道(生まれは東京府))1892~1987統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------テンペラ画家。今村奨励賞を受賞し、日本水彩画家会委員に就任する。しかし、帝国銀行椎名町支店で行員に毒物を飲ませて死亡させる強盗事件(帝銀事件)の容疑者として逮捕される。死刑が確定するも、冤罪の可能性が極めて強かったため、執行されずに刑務所で病死した。 広岡浅子(ひろおか あさこ)日本(山城国京都)1849~1919統率:B 武力:D 政治:B 知力:B 文化:B 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------実業家。教育者。実業家・広岡信五郎と結婚し、明治維新後に傾いた夫の実家の加島屋の立て直しを図る。潤野炭鉱を開発し、加島銀行を設立、大同生命創業に参画し、『一代の女傑』と称えられた。女子教育の発展にも尽力し、日本女子大学の設立にも関わった。 広瀬宰平(ひろせ さいへい)日本(近江国野洲郡)1828~1914統率:B 武力:C 政治:A 知力:B 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------実業家。住友家に仕え、別子銅山の総支配人を任される。明治維新後もフランスの技師ラロックを招いて鉱山の開発に努めた。後に住友家第12代当主・住友友親に住友総理人に指名され、家業の一切を取り仕切った。 広瀬武夫(ひろせ たけお)日本(豊後国竹田)1868~1904統率:B 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------海軍中佐。ロシア通で知られ、ロシア駐在武官を務める。日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事する。福井丸を指揮したが、砲撃を受け、部下を探している時に戦死する。この逸話は日本初の軍神となった。 広田弘毅(ひろた こうき)日本(福岡県福岡市)1878~1948統率:C 武力:D 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第32代総理大臣。斉藤、岡田の両内閣で外相を務める。後に大命が下り、組閣する。軍事拡張予算を成立させ、日独防共協定を締結するが、議会との折り合いが付かず、総辞職する。東京裁判においてA級戦犯として文官で唯一絞首刑となった。 広津柳浪(ひろつ りゅうろう)、広津直人(ひろつ なおと)日本(肥前国長崎)1861~1928統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------小説家。日清戦争後の社会の近代化と貧富の差の拡大に目を向けた悲惨小説を書いた。代表作に『変目伝』、『黒蜥蜴』、『今戸心中』などがある。 福澤桃介(ふくざわ ももすけ)日本(武蔵国横見郡)1868~1938統率:B 武力:C 政治:C 知力:A 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------実業家。福沢諭吉の婿養子となり、相場師として日露戦争後の株式投資で財を成す。電気事業に関連して木曽川の水力発電開発を手掛け、大同電力の初代社長となり、『電力王』、『電気王』と呼ばれた。 福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)日本(大分県)1835~1901統率:C 武力:C 政治:B 知力:A 文化:A 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------長崎で蘭学を学び、大阪で緒方洪庵の適塾に学ぶ。その後、勝海舟らと咸臨丸で渡米する。明治維新後は、慶応義塾を創設し、教育を広めた。欧米より保険、簿記を紹介する。『西洋事情』、『學問ノスゝメ 』を著する。明治六大教育家の一人に数えられる。 福士成豊(ふくし なりとよ)日本(北海道函館市)1838~1922統率:C 武力:D 政治:D 知力:C 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------函館の船大工の子に生まれる。始め通訳をしていたが、気象観測、測量、港湾工事などの分野でも功績を残した。自宅を改造して創った気象観測所は日本初となった。 福島安正(ふくしま やすまさ)日本(長野県)1852~1919統率:C 武力:C 政治:C 知力:B 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------陸軍大将。男爵。シベリアの単騎横断を成し遂げ、その情報は日露戦争で大いに役立てられた。義和団事件では義和団鎮圧のための日本軍司令官、日露戦争では満州軍総司令部参謀に任官、戦後に参謀次長、関東都督を務めた。 福田赳夫(ふくだ たけお)日本(群馬県群馬郡)1905~1995統率:C 武力:C 政治:C 知力:B 文化:B 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------第67代総理大臣。第8代自民党総裁。均衡財政志向の安定経済成長論を唱え、台湾との外交を重視した。ダッカ日航機ハイジャック事件では「人命は地球より重い」としてテロの脅迫に屈し、国際的な批判を浴びる。また一方で、日中平和友好条約の締結する。 福地源一郎(ふくち げんいちろう)、福地桜痴(ふくち おうち)日本(肥前国長崎)1841~1906統率:B 武力:C 政治:B 知力:A 文化:A 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------幕臣、作家、ジャーナリスト、衆議院議員。西南戦争では従軍記者として活動し、後に東京日日新聞社長となる。演劇改良の場として歌舞伎座を設立、脚本『春日局』、『侠客春雨傘』、『鏡獅子』のほか『もしや草子』、『懐往事談』、『幕府衰亡論』などを著し、福沢諭吉と並んで『天下の双福』と呼ばれた。 藤沢武夫(ふじさわ たけお)日本(東京都小石川区)1910~1988統率:A 武力:D 政治:B 知力:B 文化:B 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------実業家。本田宗一郎の参謀役として本田技研工業(ホンダ)の重役に就く。「技術の本田、経営の藤沢」と言われ、ホンダを世界的企業に育て上げる経営力を持ち、その手法は米国MBAの教科書にも載るほど。 二葉亭四迷(ふたばてい しめい)、長谷川辰之助(はせがわ たつのすけ)日本(江戸市ヶ谷)1864~1909統率:C 武力:C 政治:C 知力:B 文化:A 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------小説家。坪内逍遥の勧めで『小説総論』を発表し、口語文を用いた写実主義小説『浮雲』を書き、『日本の近代小説の開祖』と呼ばれた。ロシア人作家ツルゲーネフの翻訳や、森鴎外、国木田独歩の露訳も手掛けた。ペンネームは父親が文学志望を罵って言った「くたばってしめえ」がモデルとされるが誤り。 淵田美津雄(ふちだ みつお)日本(奈良県北葛城郡)1902~1976統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:B 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------海軍大佐。第三航空戦隊参謀。空母・赤城の飛行隊長。真珠湾奇襲において、作戦成功の暗号「トラ・トラ・トラ」を打電した。戦後は、GHQ歴史科嘱託として戦中資料の整理研究を行った。後にキリスト教に入信し、日米各地で伝道活動を行なった。 北条氏恭(ほうじょう うじゆき)日本1845~1919統率:B 武力:C 政治:B 知力:A 文化:A 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------狭山藩12代にして最後の藩主。相模守。下野国佐野藩主・堀田正衡の七男。北条氏燕の養子となり家督を継ぐ。和泉高石海岸に砲台を設置して海防を強化し、天誅組討伐、大坂城警備などを務める。版籍奉還により狭山藩知事となり、維新後は明治天皇の侍従となる。子爵。 星亨(ほし とおる)日本(江戸)1850~1901統率:B 武力:B 政治:B 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------政治家。イギリスに留学し、日本人初の法廷弁護士資格を取得した。自由党議員。陸奥宗光の知遇を得て朝鮮政府法律顧問や駐米公使、衆議院議長を務める。第一次大隈内閣に外相として入閣予定だったが、大隈重信に拒否された。後に第四次伊藤内閣で逓信大臣に就任し、その政治手腕で「おしとおる」と呼ばれた。 星野直樹(ほしの なおき)日本(神奈川県横浜市)1892~1978統率:C 武力:C 政治:B 知力:B 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------官僚、政治家。大蔵官僚として昇進し、満州国務院総務長官となる。第二次近衛内閣で企画院総裁、東條内閣で内閣書記官長 を歴任する。戦後の東京裁判では、A級戦犯として終身禁固刑となる。後に、旭海運会社社長、東京急行電鉄取締役、東急国際ホテル社長、ダイヤモンド社会長などを歴任した。 穂積八束(ほづみ やつか)日本(伊予国宇和郡)1860~1912統率:C 武力:D 政治:C 知力:B 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------法学者。ドイツ留学後に日本大学の前身である日本法律学校の設立に参画する。東京帝国大学法科大学長、貴族院議員、宮中顧問官などを歴任する。美濃部達吉らの天皇機関説に対して、日本は天皇主権を中心とするという天皇主権説を唱えた。 堀直弘(ほり なおひろ)日本(越後国)1861~1919統率:C 武力:D 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------村松藩12代にして最後の藩主。堀直央の三男。先代藩主・堀直賀が奥羽越列藩同盟に参加して米沢藩に逃れたため、藩主に擁立される。維新後、版籍奉還で、村松知藩事に任じられた。 堀直賀(ほり なおよし)日本(越後国)1843~1903統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------村松藩11代藩主。6代藩主・堀直教の孫に当たり、堀直休が若くして死去したため家督を継ぐ。幕末期には、尊王攘夷と軍制改革を主張する一派を形成する。自身は佐幕保守派で、奥羽越列藩同盟に参加して米沢藩に逃れた。 掘辰雄(ほり たつお)日本(長野県北佐久郡)1904~1953統率:D 武力:D 政治:D 知力:C 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------小説家。意識的にフィクションを用いて西洋風の形式を融合して独自の小説を確立した。後に肺結核を病み、軽井沢で療養した。代表作に『ルウベンスの偽画』、『聖家族』、『風立ちぬ』などがある。 堀口九萬一(ほりぐち くまいち)日本(越後国)1865~1945統率:B 武力:B 政治:B 知力:B 文化:B 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------外交官。漢詩人、随筆家。外務省領事官補として朝鮮に赴任するが、乙未事変に連座して停職処分となる。その後、臨時代理公使としてメキシコに赴任するが、軍事クーデターに遭遇、殺害されたマデロ大統領の家族を保護し、『サムライ外交官』と呼ばれた。 堀越二郎(ほりこし じろう)日本(群馬県藤岡市)1903~1982統率:C 武力:D 政治:D 知力:B 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------航空技術者。現在の三菱重工業に入社し、零戦をはじめ雷電、烈風などの名機の設計を手がけた。戦後は東京大学の宇宙航空研究所講師、防衛大学校教授、日本大学の生産工学部教授などを歴任する。 本庄繁(ほんじょう しげる)日本(兵庫県篠山市)1876~1945統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------陸軍大将。男爵。関東軍司令官、侍従武官長、第10師団長、枢密院顧問官などを歴任する。日露戦争、第一次世界大戦に従軍する。満州事変当時の関東軍司令官であり、戦後、GHQの逮捕状が下ると、翌日に自決する。 本多光太郎(ほんだ こうたろう)日本(愛知県碧海郡)1870~1954統率:C 武力:C 政治:C 知力:B 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------物理学者、冶金学者。磁性金属の応力や歪みの研究を行い、磁性鋼であるKS鋼、新KS鋼を発明する。『鉄の神様』、『鉄鋼の父』と呼ばれる。 本田宗一郎(ほんだ そういちろう)日本(静岡県磐田郡)1906~1991統率:C 武力:B 政治:C 知力:B 文化:A 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------実業家、技術者。本田技研工業(ホンダ)の創業者。自動車の修理工として技術を学び、オートバイ「ドリーム号」「スーパーカブ号」を開発する。バイクだけでなく自動車産業に進出し、エンジンの研究をし、世界中のレースで優勝し、「ホンダ」の名を世界に広めた。右腕の藤沢武夫と共に「技術の本田、経営の藤沢」と言われた。 本間雅晴(ほんま まさはる)日本(新潟県佐渡島)1867~1946br()統率:B 武力:B 政治:C 知力:C 文化:A 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------陸軍中将。太平洋戦争において第14軍司令官としてフィリピンを攻撃し、多くの捕虜を得た。しかし、戦場となるバターン半島に多くの捕虜を置いてはおけないので移動を命じた。これが戦後、マニラ戦犯裁判で「バターン死の行進」として問題視され、死刑宣告を受けて銃殺刑に処された。
https://w.atwiki.jp/tvrecorde/pages/44.html
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 過去3回、国会で審議された「生前退位」 ──30年前、宮内庁は譲位を容認しなかった ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ この世を長く生きてきたご老体を侮ってはならないとつくづく思った。 御年80の元参議院議員・平野貞夫氏が、国会で過去に3回、「生前退位」について議論したことがあると誌上座談会で指摘している(「週刊ポスト」2016年9月2日号〈http //www.news-postseven.com/archives/20160824_440504.html〉)。 「マスコミの皆さんは不勉強で知らない人が多いですが、生前退位の話は、昭和天皇崩御より前の昭和59年に、国会の内閣委員会で議論したことがあるんですよ。実際には、これまで3回議論されている。そういった経緯があるわけだから、今になって陛下にああいうことを言わせたら気の毒なんですよ」 国会議事録で検索すると、なるほど以下の3件がヒットする。(1)昭和58年3月18日参議院予算委員会 (2)昭和59年4月17日参議院内閣委員会 (3)平成4年4月7日参議院内閣委員会 いずれも参議院での議論だった。▽1 皇室典範改正は「デマ」 (1)は、江田五月議員(社民連)が、ウォーターゲート事件、ロッキード事件に触れつつ、当時、「生前退位」問題が話題になっていることを取り上げ、皇室典範改正の可能性を法制局にただそうとしたのだった。 「皇室典範を改めて、皇位の継承を天皇の生前退位によってもできるようにして、そして恩赦を適用して何とか救おうというようなことがいろいろ世上取りざたされておりますが、まず皇室典範、これは国会で改正することができるものであるのかどうかということを、これは法制局になりますか、伺います」 これに対し、法制局を制して答弁したのは中曽根康弘首相で、「不謹慎なデマだ」と完全否定している。 「いま皇室典範を改正して云々という言葉がありましたが、私はそういうデマに政治家がだまかされてはいかぬと思います。それは非常に不謹慎なデマだと思うのです。事皇室、日本の象徴である皇室に関することについて、いまのようなことを結びつけるということは私は非常に心外であります。そのことだけをまず申し上げて法制局長官から答弁させます」 この答弁に、江田議員は「いいです。デマであるということをはっきりさせていただければそれで結構です」と応じ、これで質疑応答は終わっている。 かつて若き日に、同じ国会(昭和27年1月31日衆院予算委)で、「もし天皇が御みずからの御意思で御退位あそばされるなら」と質問し、吉田首相から「非国民」と撃退された中曽根氏だが、のちに自身が首相になると、風見鶏の面目躍如というべきか、皇室典範改正の論議それ自体を封じたのだった。 蛇足ながら、新聞記事では、私が知るかぎり、「生前退位」に言及した初例は、「朝日新聞」昭和62年12月15日夕刊の皇室関連記事だが、国会ではその5年前、野党議員の質問に登場していた。ただ、政府答弁では「生前退位」の表現は避けられた。▽2 今日と異なる宮内庁の姿勢 (2)は、ほかならぬ平野氏が座談会で取り上げた国会審議で、この日は皇室経済法の一部改正が議題だった。 最初に質問に立ったのが公明党の太田淳夫議員で、内廷費・皇族費の改定問題について、山本悟宮内庁次長(のち侍従長)らとのやりとりがあったあと、まさに今日と同様、昭和天皇がご高齢のなか、激務をこなされている現実をあぶり出し、「生前退位」の提案が出ていることを指摘したうえで、宮内庁の考え方を問いかけている。 「天皇陛下も御高齢であられますし、皇太子殿下も銀婚式を迎えられたわけです。満五十歳を超えられていますが、そのためかどうかあれですが、一部には天皇の生前退位ということも考えてはどうかという声もあるわけですけれども、宮内庁としてはこれはどのように考えてみえますか。検討されたことがございますか」 これに対する山本次長の答弁はじつに興味深い。 山本氏は、昭和天皇はたいへんお元気である。皇室典範は退位の規定を持たない。天皇の地位を安定させるためには退位を認めないことが望ましいと承知している。摂政、国事行為の臨時代行で対処できるから宮内庁としては皇室典範を再考する考えはない、というのである。今日の議論とは真逆なのだ。▽3 「天皇の地位安定のため退位を認めず」 議事録を正確に引用すれば、以下の通りである。 「御指摘のとおり、いろいろな御意見を伺う機会はあるわけでございますが、先ほど来申し上げますように、現在、陛下は御高齢ではいらっしゃっても非常にお元気に御公務をお務めあそばしていられるわけでございます。 現行の皇室典範は、御指摘のとおりに、生前の退位というものについての規定を全く置かない。置かないということは、制定当時からその制度をとっていないということを申していいのだろうと思います。 この現行の皇室典範が制定されます際にいろいろな場において議論がされているようでございますが、制定いたしました趣旨としては、退位を認めると歴史上見られたような上皇とか法皇とかいったような存在がでてきてそれが弊害を生ずるおそれがあるのではないか。歴史から見るといろいろな批判があり得たわけでありまして、こういったことは避けた方がいいということが一つ。それから、そういった制度があれば必ずしも天皇の自由意思に基づかないで退位の強制ということがあり得る可能性もないとは言えない。これも歴史の示すところだと思います。それから三番目には、逆に今度は天皇が恣意的に退位をすることができるということになるとそれもまたいかがなものか。こういったようないろいろな観点からの論議がございまして、典範制定当時、そういった制度は置かないということになったと存じております。 結局、ねらったところは、天皇の地位を純粋に安定させることがいいのだ、それが望ましいというような意味から退位の制度を認めなかったというように承知をいたしているわけでございまして、こういったような皇室典範制定当時の経緯を踏まえて、かつまた身体の疾患または事故等がある場合には現在でも摂政なりあるいは国事行為の臨時代行なりというような制度によりまして十分対処ができるわけでありますので、現在、宮内庁といたしましてこの皇室典範の基本原則に再考を加えるというような考えは持っていないところでございます」▽4 宮内庁の方向転換の理由は? この山本答弁によって分かるのは、今日、「宮内庁関係者」のリークを起点として、皇室典範改正を訴える議論が盛んに展開されているけれども、当時の宮内庁は、退位容認=皇室典範改正の可能性を完全否定し、もっぱら「国事行為臨時代行法による代行の適用」(太田議員)で足りると考えていたことである。「生前退位」という表現も避けられている。 とすると、それから30余年、宮内庁がいまや、女系継承容認=「女性宮家」創設も含めて、方針を180度転換させたように見えるのはどうしたことなのか。 陛下の「生前退位」のお気持ちが出発点だから、宮内庁が皇室典範改正にシフトすることは十分、大義名分が立つ、ということだろうか。 しかし、世上、伝えられているのとは異なり、「生前退位」が陛下のご意向ではなく、宮内庁当局者の発案だったのだとしたら、説明にはならない。 宮内庁当局は方向転換の理由を、納得のいくよう十分に説明する必要があるだろう。 いみじくも「週刊ポスト」の座談会で、平野貞夫氏はさらにこう指摘し、「生前退位」をスクープしたNHKの報道姿勢を批判している。「今回のことで私が問題視しているのは、NHKが勝手に『陛下の意思は生前退位だ』と限定して、それを実行しろと報道していることです。これは大問題です。 皇室典範で両院議長と総理、最高裁長官などで構成すると規定された皇室会議でまず議論すべきなのに、それを差し置いて、NHKが国権の最高機関であるかのようにふるまっている」 「陛下の意向をNHKに伝えた人間がいて、NHKもそれを切り札に議論をショートカットしようとしている。しかし、天皇は政治に関与してはいけないわけで、陛下のお気持ちは切り離して、国民が自律的、理性的に判断しなければ国民主権とは言えない」 平野氏はNHKを批判しているが、問われているのは報道したNHKではなくて、意図的に「生前退位」をリークしたと思われる「宮内庁関係者」ではないだろうか。いや、戦後70年、象徴天皇のあり方を真剣に考えてこなかった平野氏ら政治家の責任こそが問われているのではないのか。▽5 退位が認められない3つの理由 (3)は、平成になってからの審議である。この日のテーマは予算だったが、時あたかも江沢民が中国共産党中央委総書記として初来日した翌日で、午前中は日本の侵略と賠償、請求権問題、天皇の訪中問題などが議題となった。 午後になり、質問に立ったのが社会党の三石久江議員で、宮尾盤宮内庁次長との間で、加藤紘一内閣官房長官をも交えて、質疑応答が展開された。 三石議員は単刀直入に、「天皇の生前退位の問題について伺います」と切り出し、歴史上、譲位された天皇がしばしばおられるのに、なぜ認めなくしたのか、と質問している。 これに対して宮尾次長は、3つの理由があると答弁している。「これも現在の皇室典範制定当時いろいろな考え方があったようでございますけれども、その制定当時、退位を認めない方がいいではないか、こういうことで、制度づくりをしたときの考え方といたしましては三つほど大きな理由があるわけでございます。 一つは、退位ということを認めますと、これは日本の歴史上いろいろなことがあったわけでございますが、例えば上皇とか法皇というような存在が出てまいりましていろいろな弊害を生ずるおそれがあるということが第一点。 それから第二点目は、必ずしも天皇の自由意思に基づかない退位の強制というようなことが場合によったらあり得る可能性があるということ。 それから第三点目は、天皇が恣意的に退位をなさるというのも、象徴たる天皇、現在の象徴天皇、こういう立場から考えまして、そういう恣意的な退位というものはいかがなものであろうかということが考えられるということ、これが第三番目の点。こういったことなどが挙げられておりまして、天皇の地位を安定させることが望ましいという見地から、退位の制度は認めないということにざれたというふうに承知をいたしております。 以上でございます」▽6 誰が「生前退位」といわせているのか? 三石議員はさらに責め立てる。つまり、「生前退位」は歴史的伝統のはずだが、伝統重視を掲げつつ、現代の国民意識を基準に否認するのは矛盾だと指摘するのだった。 「ただいまの御答弁は、天皇の地位が日本国民の象徴であるという新憲法の趣旨にそぐわない、また生前退位にはいろいろな弊害があるので、伝統として生前退位はあったけれども、現代の国民意識から認めるわけにはいかないということだと思うんです。 この生前退位は、横田耕一氏の法律時報によりますと、百十三人の天皇のうち六十三人、実に五二・五%なのです。立派に伝統的制度ですが、現代の国民意識のもとでは認められないということのようです。このように皇位継承に関して伝統を重んじるとはいいながら、時代の道徳的判断あるいは趨勢に応じて、あるいは道徳的にも受け入れられない伝統は、現行の皇室典範では外されてきたわけです」 これに対する宮尾次長の反論が聞きたいところだが、三石議員は話題を男系主義に転じてしまう。それはそれでまた興味深いのだが、今日のテーマとは異なるし、長くなるので、残念だが触れない。 簡単にいえば、当時の宮内庁の見解では、憲法が定める「皇位の世襲」は男系男子による継承と解釈されていた。宮内庁が女系継承容認へと踏み出すのは、宮尾次長退任後、鎌倉節長官の登場を待ってのことといわれる。女系継承容認=「女性宮家」創設論の浮上が転換点であることは間違いないと思う。 30年前、宮内庁は退位を制度的に否認し、「生前退位」なる表現をも避けていた。その宮内庁内で、10数年前、「生前退位」検討の動きが生まれたとする報道もあるが、そうだとして、陛下ご自身が「生前退位」のご意向を示されたとされるのは、どう見ても不自然だと思う。 つまり誰かが「生前退位」と表現させていると考えるほかはない。いったい誰が、何のために?
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/266.html
Template 日本の内閣総理大臣? 桂 太郎/桂 清澄(かつら たろう/かつら きよずみ、弘化4年11月28日(1848年1月4日) - 大正2年(1913年)10月10日)は、日本の武士・長州藩士、軍人、政治家。第11・13・15代内閣総理大臣。元老、陸軍大将・正二位・大勲位・功三級・公爵。台湾協会学校(現拓殖大学)創立者初代校長。毛利家の庶流で重臣であった桂家の出身で、大江広元や桂元澄などの子孫に当たる。通称は「太郎」、諱は清澄(きよずみ)。元老第二世代。長州閥で山縣有朋の直系。 経歴 長門国阿武郡萩町、萩城下の武家屋敷地である平安古(現・山口県萩市平安古)に生まれる。父は長州藩士の桂與一右衛門(禄120石余り)で長男、母は藩士中谷家の娘喜代子。桂家の遠祖は戦国時代の桜尾城主・桂元澄と言われ、桂姓は安芸国高田郡桂村に由来するといわれる。 幼少時に阿武郡川島村(現・山口県萩市川島)に移る。万延元年(1860年)には藩政府の西洋式操練に参加し、鼓隊に編入される。元治元年(1864年)には、禁門の変など中央政界で藩政府が窮地に立たされるなか、7月には世子元徳の小姓役となる。戊辰戦争では敵情視察や偵察任務、連絡役など後方支援に従事し、奥羽鎮撫軍の第二大隊司令として活躍。 明治維新後、横浜語学学校で学びドイツへ留学。帰国後山縣有朋の下で軍制を学び陸軍次官、第三師団長、台湾総督を歴任した後伊藤博文内閣、大隈重信内閣、山縣有朋内閣で陸軍大臣をつとめた。1901年首相に就任。以後西園寺公望と交代で総理大臣を務め、「桂園時代」と呼ばれた。総理大臣在職日数2886日は歴代1位。尚、彼は連続して在職してはおらず、連続在職の記録は佐藤栄作に譲る形となっている。 1900年9月15日には拓殖大学の前身である台湾協会学校を創立している。また、現在の獨協大学の前身である獨逸学協会学校の校長を1887年4月から1890年7月までつとめた。 ニコポン宰相 Template Infobox 軍人? 桂太郎は「ニコポン宰相」と呼ばれた。命名者は「東京日日新聞」記者の小野賢一郎で、桂がニコニコ笑って肩をポンと叩き、政治家や財界人を手懐けるのに巧みだったため新聞にそう書いたと言われている。このやり方からすると、桂は下積み時代から苦労して成功したかのように思われがちだが、実は恵まれた上士の出身である。長州藩で伊藤博文や山縣有朋は最下級の中間、小者(武士身分ではない)の出身だったが、桂は125石の上士の長男で、母の実家の中谷家は180石。叔父の中谷正亮は松下村塾のスポンサーだった。桂は入門しなかったが、それは吉田松陰が刑死したとき、数え年で13歳だったからである。しかし、中谷の甥であったことによって、桂がどれほど恵まれたかは計り知れないものがある。 家柄の良い桂は、はじめ藩の正規軍である「選鋒隊」に編入されたが、蛤御門の変の前に、世子毛利元徳の御小姓になった。これが彼の幸運の手始めで、もし選鋒隊士のままだったなら、山縣の奇兵隊との戦いに敗れ、そこで人生を終えていたかもしれないのである。その後の江戸幕府軍との戦争では志願して石州方面で戦い、戊辰戦争では奥羽を転戦し、250石の賞典を受けた。彼の部下は約200名だったが、戦死者41名、負傷者53名。非常に高い死傷率といえるが、隊長の桂はかすり傷1つ負わなかった。 政治家としてのしたたかさ 1870(明治3)年8月、桂はドイツに留学した。ただしこれは私費留学で、生活はかなり苦しかった模様である。岩倉具視に同行してきた木戸孝允(桂小五郎)に自身を官費留学生にしてもらえるよう依頼し、木戸はそれを承知した。中谷正亮は1862(文久3)年に急死しているが、木戸は中谷とは親しくしていたため、中谷の甥の桂にも目をかけていた。だが、木戸の帰国は1873(明治6)年の7月、忙しい政争の合い間に桂のため手続きを行ったが、桂は10月半ばに留学を打ち切って帰国した。 木戸は陸軍卿の山縣有朋に依頼し、桂を陸軍に入れ、山縣は桂を大尉に任命した。250石を受けた軍歴からすれば佐官クラスであるが、山縣は桂に、「君が留学中に陸軍の秩序も整って、初任の場合はいきなり佐官にしないことになった。しばらく辛抱してくれ」「御言葉ですが、秩序と規律は軍の根幹であります。大尉ではなく少尉の方が陸軍のためには良かったと思います」「では聞くが、陸軍を良くするについて何か方策はあるか」「帰国して日が浅いので何ともいえませんが、徴兵制が実現したことは欣快に存じます。後は兵士をどう訓練するかでしょう」。これを聞いた山縣は大喜びだった。 山縣の発案した徴兵制度は、士族出身者から白眼視されていた。桂は山縣の派閥に組み入れられたが桂の木戸に対する気配りは大変なもので、駐在武官となって赴任したドイツからも月に1度は手紙を出し、珍しいものを木戸夫人宛てに贈った。また、木戸宛ての宛名には「木戸尊大人様閣下」になっている。この仰々しい敬称にはかえって木戸の方で驚いたに違いないが、桂にはそれを平然とやってのける図太さがあった。 日露戦争を勝利に導いた「第二流内閣」 以後は山縣の引き立てもあり、順調に昇進を重ねた。日清戦争には名古屋の第3師団長として出征し、その後台湾総督を経て、第3次伊藤内閣で陸軍大臣になり、大隈重信、第2次山県、第4次伊藤内閣の途中までその任を務めた。そして、義和団事件が一段落した1900(明治33)年12月に兒玉源太郎と交代した。もちろん、すべて山縣の意向である。この時期の最大の案件は「ロシアと戦うことになるのか否か、戦うとすれば誰に首相の大任を委ねるか」である。 伊藤博文は4回、山県有朋と松方正義は各2回の首相経験があり、薩長閥の大物で残っているのは西郷従道と井上馨の2人である。西郷は例によって兄・隆盛を持ち出して断ったが、井上は引き受ける決心をし、大命を受けて組閣にとりかかった。財政難を切り抜ける手腕のある大蔵大臣を誰にするか。すぐれた作戦家だが、軍政には適していない兒玉を変えるかどうか。井上は蔵相に渋沢栄一、陸相に桂の再任を求めたが、両者に拒否されてあっさり組閣を断念した。 元老会議は桂を推し、明治天皇は桂に組閣を命じた。1901年(明治34年)6月、山本権兵衛海軍大臣、兒玉陸相の留任を除いて、小粒な内閣が発足した。蔵相兼外務大臣の曾禰荒助をはじめ、初めて大臣になるという官僚が大半で、その多くが内務省出身の山県閥官僚であった。世人は「第二流内閣」と揶揄した。桂は首相就任と同時に予備役となるはずであったが、明治天皇の意向により現役軍人であり続けた。 桂は9月に小村寿太郎を外相に起用した。日英同盟締結を推進するためで、桂は自伝で、自分と小村とは日露問題の解決は武力によるしかないと最初から覚悟していたと語っている(もっとも、この自伝について山縣は、桂本人に都合のいい作文みたいなものだと酷評している)。現実に日英同盟は日露戦争において日本に有利に作用し、戦争そのものは海軍の東郷平八郎、陸軍の兒玉の働きで勝利した。ポーツマスでのロシアとの和平交渉は陰でセオドア・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領を動かした金子堅太郎の努力で、何もかも成功した。桂は、明治天皇から参謀総長であった山縣の頭越しに戦争指導について諮詢を受けるなど、戦争運営を通じて強い信頼を得、自信を深めていった。 桂は首相として称賛されるべきだったが、国民的人気は湧かなかった。戦争の実状を国民に秘匿していたため、賠償金は取れず、割譲されて得た領土が樺太南部だけという結果に、民衆が不満を持っていたからである。講和条約の内容に関する鬱積に端を発する日比谷焼き打ち事件も、この第1次桂内閣の頃に起こっている。 その後桂は西園寺公望と交互に組閣(俗に言う桂園時代)、1908年7月~1911年8月に第2次内閣、1912年12月~1913年2月に第3次内閣を組閣する。この桂園時代は立憲政友会の原敬との攻防と「情意投合」、盟友である西園寺との信頼関係のもと、凋落する元老世代からの自立を図った時代でもある。第2次内閣の時代には、韓国併合や大逆事件による社会主義者への弾圧、関税自主権の回復による条約改正の達成などの業績を残した。だが、それは山縣との間に微妙な亀裂を生み始める。2度の内閣での実績を盾に山縣からの自立を図り、更に反立憲政友会を結集させた「桂新党」までも視野に入れた桂とそれを許さない山縣。山縣は、明治天皇の崩御(死去)により急きょ海外視察から帰国した桂に「新帝輔翼」の重要性を説き、内大臣兼侍従長として宮中に押し込めることで桂の政治的引退を図った。だが、二個師団増設問題を桂は巧みに利用し、第2次西園寺内閣の倒閣後、山縣自らが桂を擁立せざるを得ない状況へと誘導する。 だが、第3次桂内閣の時に第一次護憲運動が起こり、これに対して桂は「桂新党」構想実現のための新政党(後の立憲同志会)を立ち上げて対抗しようとしたが、達成できないままわずか62日で退陣を余儀なくされた(大正政変)。その8ヶ月後に胃ガンで死去した。日露戦争を勝利に導いた総理大臣であるにも関わらず、国葬をもって送られることはなかった。しかし増上寺で行われた葬儀の会葬者は数千人にのぼり、8ヶ月前に桂を倒したはずの民衆までも大挙して押し寄せた。 栄典 1895年8月20日 子爵、勲一等瑞宝章 1902年2月27日 伯爵 日英同盟の功による 1906年4月1日 大勲位菊花大綬章 1907年9月21日 侯爵 日露戦争時に首相だったことによる 1911年4月21日 公爵 日韓併合の功による この時点で、先輩格の井上馨や松方正義を抜いてしまった 1913年10月10日 大勲位菊花章頸飾 第2次内閣の総辞職後に元帥贈号の内示があったが、現役の政治家でありたいという本人の意向により撤回された。 家族親族 最初の妻歌子(旧姓・野田、明治7年結婚、明治19年没)との間に1男2女。2番目の妻貞子(旧姓・宍道、歌子の兄の未亡人、明治19年結婚、明治23年没)との間に1男2女。3番目の妻可那子(旧姓・木村、名古屋時代に出会い明治24年より事実婚、明治31年結婚、昭和15年没)との間に2男1女。 五女寿満子は首相伊藤博文の庶子文吉に嫁いでいる。 三男三郎は井上馨の嫡男(娘婿)の養子となり井上家を継ぐ。更にその間に生まれた井上光貞は歴史学者として活躍した。 愛妾として知られる芸者・お鯉(安藤照)とは日露戦争中に山縣の紹介で知り合った。病弱だった本妻可那子に代わり桂の世話をし、総理官邸に「お鯉の間」が設けられたり、日比谷焼き討ち事件では妾宅が襲撃の対象になったりした。 系譜 桂氏 本姓は大江氏。江戸時代、代々長州藩士。 與一右衛門━┳太郎━┳與一━┳広太郎━┳繁太郎━┳伸太郎 ┗二郎 ┣テウ ┣壽雄 ┣茂都子 ┗美香子 ┣茂子 ┗友子 ┗栄二郎 ┣三郎━━光貞 ┣潔子 ┣輝子 ┣五郎 ┣壽満子 ┗新七 桂太郎━━井上三郎 ┃ ┣━━━井上光貞 ┃ ┃ 井上馨━━千代子 ┃ ┃ 伊達宗徳━━二荒芳徳 ┃ ┃ ┏明子 ┣━━┫ ┃ ┗治子 北白川宮能久親王━━━拡子 ┃ ┃ ┏石坂一義 ┃ ┣石坂泰介 ┃ 石坂泰三 ┣石坂泰夫 ┃ ┃ ┣━━╋石坂泰彦 ┃ ┃ 織田一━━雪子 ┣石坂信雄 ┃ ┣智子 ┃ ┗操子 ┃ 霜山精一━━霜山徳爾 参考文献 宇野俊一 校注『桂太郎自伝』(平凡社東洋文庫、1993年) ISBN 4582805639 小林道彦『日本の大陸政策1895-1914/桂太郎と後藤新平』(南窓社、1996年) ISBN 4816501940 古川薫『山河ありき 明治の武人宰相 桂太郎の人生』 (文藝春秋、1999年) ISBN 4163187103 (文春文庫、2002年) ISBN 4167357151 伊藤之雄『立憲国家と日露戦争――外交と内政 1898-1905』(木鐸社、2000年) 杉山茂丸『桂大将伝』(ゆまに書房歴代総理大臣伝記叢書第6巻、2005年) ISBN 4843317845 宇野俊一『桂太郎』(吉川弘文館人物叢書、2006年) ISBN 4642052348 小林道彦『桂太郎』(ミネルヴァ書房、2006年) ISBN 4623047660 関連項目 大江氏(桂氏の本姓) 華族 第1次桂内閣 第2次桂内閣 第3次桂内閣 大正政変 桂園時代 小村壽太郎、後藤新平 - 政権時代のブレーン。 加藤高明、若槻禮次郎、濱口雄幸 - 桂の政治的継承者。「桂新党」(立憲同志会)の結党に参加し、憲政会-立憲民政党内閣で(桂が新党構想で掲げた)健全財政・軍縮・協調外交路線をとる。 松陰神社 - 周囲に桂の墓所がある。 大三 - 桂の「ニコポン主義」に由来する「ニコホン綿」で知られる。 外部リンク Template commonscat? 歴代総理の写真と経歴(首相官邸ホームページ) 桂氏系譜 桂太郎肖像 明治宰相列伝 : 桂太郎 | 国立公文書館 拓殖大学 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月4日 (日) 08 08。
https://w.atwiki.jp/lonerlife/pages/14.html
作中に登場する組織・派閥のまとめです。 転移者男子(23人) 女子(20人) JK騎士団 オムイ領 その他の領地 ディオレール王国王都 近衛師団 第一師団 第二師団 地方 教国 商国 ガメレーン共和国 エルフの国 超越者、英雄 転移者 日本の一般的な進学校に通う高校2年生。日本人なので黒髪黒目の者が多い。→高校 校内で「美少女クラス」,「芸能クラス」と呼ばれるように、良くも悪くも目立つ生徒ばかりを意図的に委員長のもとに集めた学級。 異世界においてはあくまで遠い国からやってきたということだけ伝えているので、戦闘に長けているのは戦闘民族だからだとか遥みたいなのゴロゴロいると思われている。 31日目頃には遥の影響で名前呼びしなくなってきている。 58日目にLv100超過。(遥を除く) 個々の能力だけでなく一団として冒険者としてはトップクラスの実力であり、英雄や勇者と呼んで差し支えない。 男子(23人) うち13人は死亡。魔法職が多かった。 所属 人物 備考 ぼっち 遥 本作の主人公。 オタク オタA(小田) クラスのいじめられっ子グループ。 〃 オタB~D 莫迦 莫迦A(柿崎) クラスの運動部系男子グループ。 〃 莫迦B~E 不良 不良A(勝山) クラスのいじめグループ。 〃 不良B~F 男子生徒 モブ男子A クラスのモブ男子。 〃 モブ男子B~G 女子(20人) 全員が戦闘職ではあるが遊撃型や一撃離脱型、防御型や後衛型が多い。柔軟な戦闘が得意な小田達,柿崎達と組むことで盤石となる。 男子がいなくても安全に戦えるように日々精進している。 好きなスイーツとして委員長やセレスらお饅頭派、シャリセレスやネフェルティリらクレープ派、副委員長Cらパンプキンパイ派に分かれている。 所属 人物 備考 委員会 委員長 クラスの学級委員長。両手剣と剣の二刀流を主としながら魔法も使えるオールラウンダー。速さと技を重視した戦闘スタイル。 〃 副委員長A 委員長に負けず劣らずの美少女。対人戦向きの二刀流で、スキルによる影の手2本も操れるので実質四刀流。「残影刀」持ち。 〃 副委員長B 良い人ランキング1位。Job 大賢者であり「神秘の杖」の他にも魔法特化の装備かつ同級生で一番のMP量を誇る。理由あって前衛で無双している。おそらく「杖術」持ち。 〃 副委員長C 小動物、子供服を着れる体型。胸部装甲も小動物並み(AA)。一方で、大人っぽい衣装が好み。カボチャが大好物。撹乱と囮からの背後からの急所攻撃という暗殺者や忍者系の戦闘スタイル。DeXの高さを活かし、フランシスカ2本を器用に扱う。「鬼迫の帽子」持ち。 〃 楯っ娘(ミワ) 楯職であり、遥から「カウンター・シールド」,「アーマード・プレート」,「魔重のモーニングスター」を落札。背はそこそこあるが線が細く、弾き飛ばされてばかりだった。高いHP,ViT,SpE,DeXを生かした受け流しと間合いの詰め方をアンジェリカから学び成長。 ビッチ ビッチリーダー(島崎) クラスのわがまま女子グループ。人気読モ。 〃 ビッチA~D 体育っ娘(*1) ギョギョっ娘(千佳) 元水泳部で、福貫のコーチ。囮役として敵を引き付ける役回り。ホラー耐性がないのでアンデッド系の魔物が苦手。 〃 裸族っ娘(福貫) 競泳の五輪強化選手で、国際大会に出ている。"マーメイドプリンセス" 〃 新体操っ娘 新体操の五輪強化選手で、国際大会に出ている。"フロア上のフェアリーダンス"リボンやフープやボールに変形する棍棒型の武器を扱う。「錬金」持ち。 〃 バレー部A,B 垪和(はが)と酒々井(しすい)。高1のときインターハイで準優勝した"ツインタワー"。楯をメイン武器に、剣,斧,ハンマー,槍をサブ武器に扱う。半円型の防御陣における中央の要。 文化部っ娘 図書委員 委員長に次いで戦力としてもリーダーとしても遥に信頼されている女子。「正しすぎて碌でもない」幻覚,目くらましなど状態異常,足場への細工など搦め手,陽動を行える。 〃 手芸部っ娘 髪を三つ編みにして纏めている。編み物やレースの縫い方を遥に教えた。 〃 服飾部っ娘(天羽) 手芸部とともに服作りの基本を遥に教えた。 〃 料理部っ娘 職業によるマイナス補正で、料理が上手くいかない。調味料のレシピなどを遥に教えた。 〃 美術部っ娘 島崎達の服飾のアイデアを作画して遥に伝えている。 女子の誰か ジョブ「剣聖」+特殊能力「剣の極み」でもオークを斬れない(14日目時点) 女子の誰か 四大魔法LvMaxでもオークの頭を吹き飛ばせない(14日目時点) 女子の誰か 遥が女子に興味なさそうに振る舞うことからBLを期待した腐女子。 女子の誰か 両手剣使い。 女子の誰か 双刀使い。(副委員長A?) 女子の何人か 「瞬歩」や「縮地」持ち。 女子の何人か 弓職。それぞれ「必中」,「軌道予測」などを持つ。 女子の何人か 王級の称号持ち。 胸部装甲についてブラが要らない者(副委員長Cなど),スポーツブラで事足りる者(副委員長Aなど)がそれぞれ数名ほど。委員長,副委員長Bはトップ5に入る。バレー部A,Bも大きい部類。新体操っ娘,盾委員長は中の上。島崎達は副委員長Aよりは大きい。図書委員,美術部,三つ編みっ娘は上位勢。 JK騎士団 クラスメイトの女子20人および彼女らとともに行動するようになった異世界人の女性達による軍団。ただしそれぞれに立場があり、いつも一緒にいるわけではない。 オムイ領 所属 人物 備考 領主一族 メリ父さん オムイ領主。辺境伯とも呼ばれる。本名はメロトーサム・シム・オムイ。代々イケイケな性格で、オムイ領を守るため自ら陣頭に立って戦い続けている。また生活費を削って方々に資金援助を行うなど辺境のために尽くす様子が見られる。 ムリムリさん オムイ領主夫人。本名はムリムール・シム・オムイ。先代の姫騎士にして「暴虐のムリムール」と呼ばれていた。長大な剣を扱う。 メリメリさん 領主の娘。本名は、メリエール・シム・オムイ 領主配下 側近A メロトーサム付きの側近。代々側近を務めている家系で、イケイケな領主一族を諫める立場にある。領内の政治についてメロトーサムに代わって遥とやり取りすることも多い。 メイドA 領主夫妻付きのメイド。若くはない。 メイドB メリエール付きのメイド。若い。 シノ一族 尾行っ娘 シノ一族の若頭。看板娘と同年代で15歳くらい。 〃 シノ一族々長 尾行っ娘の父。 〃 尾行っ娘一族 主に情報伝達のために登場する。基本的に顔に布を巻いているので素顔はわからないが、おっさんもいればお姉さんもいる。 冒険者ギルド ギルド長のおっさん 真面目な性格のギルド長。本名はハキエス。 受付委員長 ジト目が得意な受付のお姉さん。 受付のお姉さんA 口を滑らせては怒られる方の受付のお姉さん。辺境のギルド唯一の鑑定士。 冒険者(*2) 剣のおっちゃん Bランク冒険者パーティーのリーダー。本名はオフタ。 槍のおっちゃん オフタパーティーの一員。本名はガテク。 キリキル エルフの弓使い。 アーケミー 全身鎧。モデルのような西洋系の美女。 イェブギィーク フードを被った魔法使いの女性。可愛い系。 ゲヴェンティエ 聖術師の女性。可愛い系。 〃 蜘蛛餌っ娘 辺境外からやってきた冒険者4人組。→コロコロ同好会 白い変人 看板娘 幼少期から白い変人(人物)の英雄譚を聞かされて育ったので感謝・尊敬・憧れがある。喜んだり怒ったりすると、変な踊りをする。遥がスライムさんのお守りを任せてもいいと言うくらいの実力がある。仲良しの尾行っ娘とは同年代(二人とも15歳未満)。 行商 行商人 怪しいフードの男性。概ねダンジョン産のアイテムを販売している。ガテクに命を救われた過去があるという。 武器屋 鍛冶師のおっちゃん 禿げたおっちゃん。鍛冶師。武器防具を販売している。 雑貨屋(ズァカーリャ商会) 雑貨屋のお姉さん 美人店主。オムイの街で一番の品揃え。 孤児院 王都孤児っ子 王都から引っ越してきた孤児。伝令っ娘など。50~60人。遥達に保護されてからもしばらく、良い子にしているからご飯を食べられているという強迫観念に駆られていた。→孤児っ子 〃 辺境の孤児っ子 辺境の勇者が遺した子供たち。40~50人程度。 〃 イレイリーア エルフの巫女で、ヴィズムレグゼロの妹。孤児っ子達とともに引っ越してきた。 その他の領地 所属 人物 備考 ナローギ領 領主 オーク顔で、ぶよぶよの体。貴族であり、剣を扱う。辺境が鎖国した事態の責任をその命をもって取らされたと思われる。 〃 配下 オムイ領主一族の馬車を襲って返り討ちにあった。知力はゴブリン並み、顔はオーク並み。技こそあるが、SpEはコボルトLv5未満。 〃 シノ一族 元はオムイ領のために働く一族。一時期はナローギ領に仕えていたが改めてオムイ領に巣戻りした。 カスギール領 領主 大侯爵。 〃 後継ぎA,B 双子、色男、背も高い。金をかけて教育されたので学問も剣術も優秀、金と家柄で女性を誑かしてきた。 ギエスダット領 ダジマカム 大侯爵の飼い犬であり、王国最強の暗殺者だった。 ディオレール王国 王都 所属 人物 備考 王族 ディアルセズ・ディー・ディオレール なんちゃら王国のなんちゃら王。賢王。 〃 ムスジクス 王弟。白地に赤菱の印。 〃 グヴァデーイ 第一王子。シャリセレスの兄であり、それなりにおっさん。豚。王位継承権を巡って争いを起こす。母親が大侯爵家の出身であり、大侯爵と癒着している。 〃 クザリュスヴェリ 第二王子。グヴァデーイの弟。シャリセレスの兄。猿。王位継承権を巡って王国を乗っ取る。ムスジクスやグヴァデーイよりは有能。 〃 シャリセレス・ディー・ディオレール 王女であり近衛騎士団々長。 〃 第三王子 才覚があるかもわからないほどに幼く、外国との繋がりもなく、母親も大貴族の出身ではないため特に後ろ盾もない。 〃 第四王子 同上。 〃 第五王子 同上。ただしシャリセレスとは同腹の姉弟。(*3) 王族配下 侍従長 ディアルセズ達が幼少の頃より従事してきた爺。元教育係として、ムスジクスが愚王と呼ばれていることに責任を感じている。 〃 セレス メイドっ娘。シャリセレスの側近であり影武者。スキル 「覇威」 〃 ヴィズムレグゼロ 王国最強の護衛。 貴族 「王の剣」 腐敗した貴族社会と相容れず没落してなお有事の際には王国のために装備を調えていた。元は男爵や子爵だがおそらく褒章として爵位が上げられている。 近衛師団 近衛騎士団 シャリセレス・ディー・ディオレール 近衛騎士団々長であり王女。 〃 女騎士A 真っ赤な髪の西洋美人。ムスジクスとともに辺境へやってきた。 〃 女騎士B ブルネットな髪に彫刻のような整った顔立ち。ムスジクスとともに辺境へやってきた。 第一師団 第一師団 バルバレラ 第一師団々長であり、シュコバサス家当主の娘。身長180㎝超えのマッチョなお姉さん。 〃 士官A~D バルバレラとは幼馴染の4人。 第二師団 第二師団 テリーセル 第二師団々長。男爵。 地方 貴族 ○○・シュコバサス 北部大侯爵シュコバサス家の当主。かつて熊の様な壮観な大男だった。病に臥せていたが祝勝会で全快した。 教国 王族 アリーエール・アン・アリューカ 王女。シスターっ娘。「教会組」も参照。 国軍 聖堂騎士団 教国の最高戦力。辺境平定時の同級生達に匹敵する強さを誇った。 〃 教会騎士団 聖堂騎士団には及ばないものの十分に強い。狂信者に自爆特攻を課すなど非人道的。 傭兵 森林戦部隊 主に獣人を捕らえている。辺境に向かうムスジクスを追い詰めた。深緑に白線の印。 教会 教会組 アリアンナとともに辺境にやってきた修道士と修道女5人。 〃 サバサ 街の修道士。 教皇 ビンビザール 教導騎士団 ガシャクルス 騎士団長。 〃 レイテシア 保母騎士っ娘さん。 教会騎士団 将軍A Lv62かつLvに見合う技術もあり、教国軍では最強クラス。 商国 七剣 ヴィズムレグゼロ 商国の懐刀だったが、離反し王国へ寝返る。 軍人 指揮官A 元S級冒険者。明記はされていないがおそらく七剣の1人。 デイリバウル商会 エリゥース 会頭。若くて美人。 〃 ハルス 副会頭。ヘルスさん。20代半ばくらいの外見。 ガメレーン共和国 王 ヴァクワック・ガメレーン わくわく王。獅子人族の誇り高き獣王。 側近 側近A 山羊人族。王にくどくどと意見する役目。 狼人族 族長 虎人族 族長 その体躯から生み出される膂力としなやかな敏捷性から凶獣とすら呼ばれる。 熊人族 族長 何者にも倒せぬと言われる巨体を持ち最強の一撃を誇るらしい。 猿人族 族長 獣の膂力と人以上の奸智に富むらしい。 豹人族 族長 敵がその姿を捉えるより早く斬り殺すため、最速の暗殺者と呼ばれる。 王国大使 レイター レターさん。山羊人族の色黒な男性。 兎人族 ウサミミっ娘 剣士。 エルフの国 超越者、英雄 所属 人物 備考 超越者 神 元は人間。魂の波長および総量が合致したとして遥達を辺境に召還した。教会が宣う「天罰」のような直接的な干渉はできない爺。 村人A サバイバー。 英雄 白い変人(人物) とある村の英雄。
https://w.atwiki.jp/anozero/pages/3534.html
トリステイン王国の誇る麗しきプリンセス、アンリエッタ姫殿下。 ご身長158サント、バスト84・ウエスト59・ヒップ85。当年とって17歳! 顔立ちは無垢なる白百合の如く、微笑みはあたかも咲き誇る薔薇。 薄いブルーの瞳はラグドリアン湖の水にも似て澄み渡り、高貴にして清楚、たおやかにして凛然として芯強し。 先王陛下亡き今、唯一の正統なる王位継承者。 ああ、まさに姫君の中の姫君、この僕の運命のパートナー……! 「のっけから長々と、変態じみたモノローグくっちゃべんじゃねぇっ。」(みし) 突如ルイズの部屋に湧いて出たギーシュの顔面を、らんまが両足で踏んだ。 そう、そのアンリエッタ姫殿下が、明日学院にやって来られるのだ。 「姫様が……ああ、どんなにかお美しくなられたことかしら!」 「そーいや、ルイズはそのお姫様の幼馴染だってな。 俺にも女の子の幼馴染がいて、今でも仲良くしているけど、ルイズはどうだ?」 ギーシュを窓から放り投げ、質問するらんまに、ルイズはベッドに腰掛けながら答える。 「いかに私が、王家の血を引く公爵家の令嬢とは言え、身分の差ってもんがあるわよ。しばらくお目にかかっていないわ。 でも、懐かしいわぁ。幼い頃、中庭で一緒に蝶々を追いかけ、泥だらけになったこと。 侍従長のラ・ポルトさまに叱られて、私だけお尻を鞭で叩かれたわ」 「……そりゃまあ、王女様は叩きにくいよな」 「ふわふわのクリーム菓子を巡って、掴み合いになったこともあったわ。 私が姫様のお髪を掴んだら、姫様はクリームを私の眼の中に擦り付けられて、ひるんだ隙に奪い去ったの」 「ははは、随分お転婆じゃねーか」 「それに、姫様の寝室で国際政治ごっこをして、ドレスを奪い合った時なんて! お互い全力で格闘して、右ストレートがクロスカウンターで決まり、二人とも倒れたの。 私たちはあの戦いを《百合戦争》と名づけたわ」 「お転婆っちゅーか、何ちゅーか……」 「とにかく、今は将来国家を担われる大切なお方よ。無礼があってはならないわ、ランマ。 だから、今夜はビシッと宮中作法を躾けてあげなくちゃね!」 「ひええ、勘弁してくだせー貴族さま」 翌日。教師も生徒も衛兵も使用人も、ビシッと整列して姫殿下を迎える。 まず馬車から降りてきたのは、国政を担う『鳥の骨』マザリーニ枢機卿。 痩せて白髪で老人のようだが、まだ40代半ばだ。眼光は鋭く、大宰相の威風がある。 続いて麗しき姫気味が姿を現し、一同は「ほー」と感嘆する。 「アンリエッタ姫殿下万歳!!」「トリステイン万歳!!」 ゲルマニア人のキュルケは、あまり面白くなさそうだ。 「ふんだ、私のほうが美人でスタイルもいいじゃない。そーでしょ、ランマちゃん?」 「そーだけどよー、高貴さで言ったら姫様の方が……いてっ、いてててて」 ルイズがランマの耳を引っ張る。 「ぞんざいな言葉使いはやめなさいよ、ランマ。私の品位も疑われるわっ」 歓迎式典はつつがなく終わり、王女一行は食事と休息を取る。 何でも、隣国ゲルマニアとの政治交渉を行っていたらしい。明後日には王都へ帰還するとのこと。 『フリッグの舞踏会』は翌日の夜に延期されたが、姫殿下は学院の生徒の『実力』を見ておきたい、と言い出した。 ルイズの部屋で、らんまが訝しげな声をあげた。 「あ? 『使い魔品評会』?」 「そ。姫様が急に言い出されたそうよ。こういう気紛れは相変わらずね。 とにかくメイジが自分の使い魔を紹介して、特技を披露して楽しませろ、だって。 あんたはまぁ、問題ないわよね、ランマ」 ルイズはPちゃんを抱えたまま微笑む。らんまは「むっ」という顔をした。 「……おい、変身体質をあんまり大っぴらにはしたくねーぞ」 「もうギーシュ以外の全員が知っているわよ、この学院では。 どーせやるなら優勝よ! 貴族はね、名誉のためなら命も賭けるもんなのよ!」 「ちぇっ、命を賭けるのは、俺たち下々の者じゃねーか」 「そうでもないわよ。貴族は後ろを見せずに戦うし、侮辱されれば相手に決闘を申し込めるし。 王族を守り、平民を保護してやるのも貴族の役目なんだから」 「貴族っつーか、サムライみてえだな……あれもまあ、貴族っちゃーそうか」 「そんじゃーまぁ、曲芸でもやってやっか。 わりと何でもできるぜ、手品に軽業にジャグリング、空中ブランコ……」 「じゃあ、猛獣の背中に跨って、ナイフをお手玉しながら火の輪くぐりして、 口にバチをくわえて、その先でポットでもくるくる回してもらおうかしら」 「全部いっぺんにできるかっっ! そーだ良牙、おめーにも協力してもらうぜ」 らんまがルイズの腕の中からPちゃんを引っ掴み、大きな壷の中に投げ入れて、ヤカンのお湯を注ぐ。 Pちゃんは人間の青年、響良牙に戻った。ただし、全裸で。 「ぷわっ! き、きさまあ、いきなり何をするっ!」 「うーん、人間になったとき全裸になっちまうのが問題だな。いっそ腹踊りでもやらせよーか」 「お前がやるんだろーがっ! ええい、お前も男になりやがれっ」(ばしゃっ) 「い、いいから服を着なさいリョーガ! またギーシュとかが湧いて出たら、ややこしくなるでしょーがっ」 どたばたと喧嘩を始める乱馬と良牙。 と、ガチャリとルイズの部屋のドアが開いた。部屋の中にはルイズと二人の男、一人は裸。 「……あらルイズ、騒がしいと思ったら、お楽しみ中だったのね。 ノックはしたけど、こりゃ失礼」(バタン) 「ままま待ってキュルケ、誤解だわっ」 良牙は、部屋においてあった自分のリュックサックから服を取り出して着ると、ルイズに問いかける。 「……なあ、ルイズとやら」 「なによ、リョーガ」 「俺が、その……、ブタになることを、イヤではないのか?」 「あんた、もともとブタなんでしょ。どーぶつが喋ろうが人間になろうが、どーぶつに違いないじゃない。 同じブタ男でもオーク鬼よりゃマシよ、あんたは可愛いんだし」 「…………うぐっっ」 ち、違う、違うんだルイズちゃんっ。俺はブタじゃない、人間なんだっ。 くううっ、しかし真実を話してしまえば、もう『Pちゃん』として可愛がられなくなってしまうかもっ。 ああ、俺は、俺は人間扱いされていないのか。気が、気が重い! 「それもこれも乱馬のせいだあっ、『獅子咆哮弾』!!」(ドォオオオオン) 「どわあああっっ!?」 良牙の掌から『重い気』が放たれ、乱馬は窓の外へ吹っ飛ばされた。 そして良牙も、涙目でルイズの部屋から走り去ってしまった。 「……ま、いいわ。疲れたから今夜は寝ましょう」 翌日。学院の正門前広場に特設ステージが作られ、ぱぱーんと花火が上がる。 『使い魔品評会』の開催である。司会はコルベール、ゲストはアンリエッタ姫殿下とマザリーニ枢機卿だ。 「えー、本日はお日柄もよく、ここに姫殿下をお迎えしての使い魔品評会を開催できる事は、喜びの極みであります。 生徒諸君には日ごろの学業の成果を十二分に発揮し、もって国家有為の人事と……」 珍しく、オールド・オスマンが真面目に開会の挨拶をする。 教師席には、まだミス・ロングビル(フーケ)の姿もあった。 「それではエントリーナンバー1、グラモン元帥のご子息、ミスタ・ギーシュ・ド・グラモン!」 「ははははは、僕こそが『トリステイン魔法学院の青銅の薔薇』ギーシュ・ド・グラモン17歳。 よろしくお見知りおきを、アンリエッタ姫殿下!」 しょっぱなからこいつか。学院側一同の顔が引きつる。 「いでよ、我が使い魔『ヴェルダンデ』くん!!」 ギーシュの呼びかけに答え、巨大モグラのヴェルダンデが地面から出現する。 「ほほう、ジャイアントモールですか。城攻めで活躍できそうですな」 「お目が高い、枢機卿。しかもこのヴェルダンデくんは、馬と同じ速度で地下を進み、鉱脈や宝石を嗅ぎつけて…… ああちょっと、どこへ行くのだヴェルダンデくん」 ヴェルダンデは鼻先を動かしながら、貴賓席へ近付いていく。 「い、いかん、姫様が身につけておられる『水のルビー』を嗅ぎつけよったか」 マザリーニの合図で、魔法衛士隊の隊長が、すっと姫様の前に立ちふさがる。 「ふ」 と、その前に巨大な直立二足歩行する猫が立ちはだかる。 司会コルベールの使い魔、コタツネコだ。それを見たらんまは、こそこそとルイズの後ろに隠れる。 「フゴフゴッ(じろっ)」 「ふ(ぎんっ)」 「……フゴッ(すごすご)」 コタツネコに気圧されて、ヴェルダンデは引き下がった。 一同からコタツネコに歓声と拍手が沸き起こる。 「……次っ!!」 モンモランシーの使い魔は、黄色い蛙のロビン。大きなリボンをつけて、歌声を披露する。 マリコルヌの使い魔は、フクロウのクヴァーシル。こちらは空中でくるくるとダンスをしてみせる。 キュルケの使い魔は、サラマンダーのフレイム。火竜山脈のブランド品で、口から火を吐いて威圧する。 一番会場が沸いたのは、タバサの風竜シルフィード。これだけ立派な使い魔はそういまい。 「いよいよ次よ、ランマ! リョーガはどこ行ったのかしら、私の使い魔じゃないけど」 「良牙を召喚したメイジって、今頃進級できずに泣いてねーかな。よっし、練習も済ませたし、準備はいいぜ」 らんまは、デルフリンガーを背負い、人間の背丈ほどもある丸太を傍らに置いている。 「次! ラ・ヴァリエール公爵家令嬢、ミス・ルイズ・フランソワーズ!!」 コルベールの呼び出しに、二人はステージに進み出る。 「私の使い魔は、このサオトメ・ランマですっ!」 「へへ、よろしくお願いします、お姫様」 『我こそは魔剣デルフリンガー! 今から面白いもんを見せてやるぜえっ!』 「人のセリフ取るんじゃねーよ、目立ちたがりがっ。そんじゃー、行くぜデル公!」 ステージ上に、縦に据えた丸太へデルフリンガーを向けて構え、気息を調える。左手のルーンが輝き始めた。 「無差別格闘早乙女流・新奥義、『神速造型剣』! だだだだだだだだだだーーーっっ!!」 らんまは凄まじい速度でデルフを振るい、丸太を削っていく。 みるみるうちに人間の顔が、髪が、肩が、胸が、腕が、腰が、スカートが、靴が削り出される。 「完成っ! ジャスト1分!」 なんと、丸太から『アンリエッタ姫殿下の彫像』が削り出された! 瓜二つである。 「「おおおおーーーっっ」」(パチパチパチパチ) 反応は上々、らんまは得意げだ。 「へっへーん、『ガンダールヴ』とやらの効果で、武器の扱いも超一流だぜ。 素手でもルーンが反応するといいんだが、まだ修行が足りねぇのかな」 『そーいうふうにできてんのさ、そのルーンは。おめーさんはてえしたもんだよ、ランマ』 いよいよ結果発表。一同は静まり返り、優勝者の発表を待つ。 「優勝は、ミス・ルイズ・フランソワーズの使い魔、ミス・ランマ!!」 わあーーーーっと歓声が上がる。あの『ゼロ』のルイズの使い魔が、優勝だ! 二人は手を取り合い、躍り上がって喜ぶ。 「どーでいルイズ、やっぱり俺は大したもんだろーが」 「すごいわランマ、優勝よ優勝! もう私、『ゼロ』じゃないわ!」 「えーそれでは、優勝者には姫殿下より賞品として……えー、 『シャルロットちゃん』と『フランソワーズちゃん』が下賜されます? なんですかな、これは?」 「え? フランソワーズちゃんって、私よね?」 ルイズが首をかしげ、タバサもなぜか周りを見回す。 「そうよ、ルイズ。でも今はこの子が『フランソワーズちゃん』」 姫様がぱかっと傍らの宝箱を開けると、中には1枚の料理用エプロン。 胸のところに、ヒヨコと『PIYO PIYO』というアルファベットのプリントがある。 「これは現代の技術では作れない、特殊な材質で作られた謎のエプロンよ。 私が名付けたの、フランソワーズちゃんってね。はい、ルイズにあげましょう」 「はあ……ありがとうございます」 らんまは何か、嫌な予感がした。 「じゃあ、その、『シャルロットちゃん』って?」 「はい、これがシャルロットちゃんよ、ミス・ランマ。 さっき殴って捕まえたの。ほーら、美味しそうでしょ」 姫様がぱかっと二つ目の宝箱を開ける。 「……やっぱり、おめーか……良牙……」 もう一つの宝箱の中には、たんこぶを作って気絶したPちゃんがいた。 どこまでも不幸な男であった、響良牙。 「思い出したわ、姫様は可愛いと思ったものに自分で名前をつけて、勝手に持っていっちゃう変な癖があるのよ。 ほらランマ、あんたの賞品よ。受け取りなさいな」 「は……ははははは……」 鏡の中の異世界は、やっぱり『るーみっくワールド』だったり……するのかも知れない。 (続く)