約 3,508,974 件
https://w.atwiki.jp/kotokoto2/pages/2015.html
所在地福島県河沼郡柳津町柳津字下大平 開業日1928/11/20 接続路線只見線 隣接駅会津坂本(只見線:会津若松方面) 郷戸(只見線:小出方面) 訪問日2004/8/7 戻る
https://w.atwiki.jp/kotokoto2/pages/2018.html
所在地福島県大沼郡三島町大字宮下字田中 開業日1941/10/28 接続路線只見線 隣接駅会津西方(只見線:会津若松方面) 早戸(只見線:小出方面) 訪問日2004/8/7 戻る
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/505.html
Template Battlebox? 会津戦争(あいづせんそう、慶応4年/明治元年(1868年))は、戊辰戦争の局面の一つであり、会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩・長州藩を中心とする明治新政府と会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの旧幕府勢力との間で行われた戦いである。主に現在の福島県、新潟県、栃木県が戦場となった。なお、同時期に進行していた長岡藩をめぐる戦いは北越戦争として区別される場合が多い。 背景 文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保は京都守護職に就任し、尊攘派志士の取り締まりや禁門の変において幕府方の中核となって奮闘した。この経緯もあり、薩摩・長州を中心とした新政府に幕府方の首謀者として会津藩は、鳥羽・伏見の戦い後の慶応4年(1868年)、新政府から追討令を受ける。追討を命じられた仙台藩、米沢藩など東北諸藩は会津藩に同情的で、会津藩赦免の嘆願を行う一方、奥羽越列藩同盟を結成し結束を強めた。奥羽14藩では会議開き会津藩、庄内藩の赦免嘆願を目的とし、新政府の九条総督に赦免嘆願書を提出するも認められず、朝廷へ直接建白を行う、(太政官建白書)も作成されたが認められることはなかった。奥羽越藩同盟では(白石盟約)の時点では赦免嘆願であったが、会津藩が新政府の通達に対して罪を認めず謝罪を拒否する回答書を示した事と、仙台藩士による新政府の鎮撫使である世良修蔵を殺害した事件から戦争に傾くことになる。 経過 白河口の戦い Template main? 白河藩は当時国替えにより藩主不在となり幕府直轄領であった。旧幕府軍は会津藩家老の西郷頼母を総督として、慶応4年閏4月20日(1868年6月10日)に白河城を占領。これに対し新政府軍は、薩摩藩参謀伊地知正治の指揮のもと、閏4月25日(6月15日)に白河への攻撃を開始し、5月1日(6月20日)に白河城を落城させる。旧幕府軍は7月までの約3か月間、白河奪回を試みて戦闘を繰り返したが、奪回はならなかった。 二本松の戦い Template main? 6月24日(8月12日)に棚倉城が落城、7月16日(9月2日)に三春藩が奥羽越列藩同盟を脱退し、新政府軍はじりじりと北上した。7月29日(9月15日)、藩兵の大半が白河口に出向いている隙をつき新政府軍は二本松城を攻撃。二本松城は落城し二本松藩主丹羽長国は米沢へ逃れた。二本松藩は少年兵部隊を動員しており、彼らは後世、二本松少年隊と呼ばれた。特に木村銃太郎率いる20名は攻城戦の最中にそのほとんどが戦死し、会津戦争の悲劇のひとつとして語り継がれた。 若松城下への侵攻 Template main? 二本松領を占領した新政府軍はでは、次の攻撃目標に関して意見が分かれた。大村益次郎は仙台・米沢の攻撃を主張し、板垣退助と伊地知正治は、会津藩の攻撃を主張した。板垣・伊地知の意見が通り会津藩を攻撃することとなった。 二本松から若松への進撃ルートは何通りか考えられたが、新政府軍は脇街道で手薄な母成峠を衝いた。8月21日(10月6日)、新政府軍は母成峠の戦いで旧幕府軍を破り、40キロ余りを急進して8月23日(10月8日)朝に会津若松城下に突入した。新政府軍の電撃的な侵攻の前に、各方面に守備隊を送っていた会津藩は虚を衝かれ、予備兵力であった白虎隊までも投入するがあえなく敗れた。このとき、西郷頼母邸では篭城戦の足手まといとなるのを苦にした母や妻子など一族21人が自刃し、城下町で発生した火災を若松城の落城と誤認した白虎隊士中二番隊の隊士の一部は飯盛山で自刃した(最年少隊士の飯沼貞吉のみは蘇生し、昭和6年(1931年)まで生き抜いた)。 日光口の戦い 会津地方南方の日光街道沿いでは、大鳥圭介率いる幕府歩兵隊と会津藩家老の山川大蔵とが防衛に当たっていた。閏4月21日(6月11日)と5月6日(6月25日)の今市攻略戦では攻略に失敗したが、その後は一進一退の戦いを続けていた。だが二本松が陥落すると母成峠の防御に伝習隊を抽出し、新政府軍が若松城下に突入するに至って、山川大蔵は戦線を放棄して若松城へ駆けつけた。山川大蔵は、会津地方の伝統芸能である彼岸獅子のいでたちをすることで新政府軍の目を欺き、包囲下の若松城への入城に成功したと伝えられる。 降伏 会津藩は若松城に篭城して抵抗し、佐川官兵衛らは開城後も城外での遊撃戦を続けたが、9月に入ると頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩の降伏が相次いだ。孤立した会津藩は明治元年9月22日(11月6日)、新政府軍に降伏した。同盟諸藩で最後まで抵抗した庄内藩が降伏したのはその2日後である。旧幕府軍の残存兵力は会津を離れ、仙台で榎本武揚と合流し、蝦夷地(北海道)へ向かった(箱館戦争)。 戦後処理 Template main? 薩摩藩の軍監・桐野利秋の計らいで容保は死一等を減じられ、江戸に蟄居。本来であれば家老上席にあった西郷頼母、田中土佐、神保内蔵助が切腹するところであったが、西郷は行方知れず、神保と田中は城下での戦闘において自刃していたため、次席の萱野権兵衛が戦争の責任を一身に負って切腹した。 (新政府軍)は会津戦争の戦死者を「賊徒」として埋葬を許さず、このために長期間に渡って放置された死体は風雨に晒され、鳥獣に食い散らかされる悲惨な状況だったと言われている。横たわる死体にはカラスが群がり、首のないもの、袴、褌が脱がされたもの、中には裸にされ性器を切り取られ口の中に押し込まれているものなども見うけられた。戊辰戦争の中でもこの会津に至っては遺体への残忍な恥辱、見せしめが多く観られた。見かねた庄屋の吉田伊惣冶が戦死者を埋葬したため、西軍民政局に投獄され数日が経ち「今回だけは許す、今後このようなことがあれば直ちに首を刎ねる、村人に知らしめよ。」と釈放された。(飯盛山に彼を顕彰する碑が立てられている。)半年程経ち遺体取り片付けの誓願書が多く寄せられ、実際には疫病の要因になるという理由からようやく埋葬を許された。死体の処理には藩士や村人を許さず、被差別部落民(記録では763人)を使い墓ではなく、罪人塚という形で認められた。彼らは大きな穴を掘り、遺体をお風呂桶、古棚、莚にぎゅうぎゅうに詰め、ごみ同然に投げいれたという。戦後処理のため残された会津藩士二十人は皆、涙ながらに立ちすくんでいたと言う。この中にはごみ同然に捨てられている遺体を、丁重にしょうと身分を捨て部落民になる伴百悦(後に軍務筆頭監察局の久保村文四郎を殺害する)もいる。またこの頃、同時期に偽札、偽金が横行し久保村文四郎によって取調べすら行わず54人の町民が母子の前で公開処刑されている。この苛烈極まりない処理は長州藩の(民生局も含め)管理下で行われており、逆に薩摩藩の管理下だった(会津藩と同じく列藩の中心の)庄内藩は寛大な処置で、これに感激した庄内藩士は後に西南戦争で西郷隆盛と運命をともにしている。 山縣有朋を筆頭にした長州閥は、明治期を通じて会津地方民や会津地方出身者を「朝敵風情が」と侮蔑し、学界や官界に進んだ会津藩出身者の登用について徹底的な妨害工作を行ったと言われている(昭和天皇の弟である雍仁親王と松平容保の孫、節子の婚儀に際しての話は有名である。)こういった処置は会津民衆の新政府軍側諸藩(薩摩・長州)に対する遺恨となったと言われる。西南戦争では多くの会津人が薩摩の巨魁である西郷隆盛への恨みを晴らす為に政府軍に志願したといわれる。また会津藩出身の軍人・柴五郎などは、西郷や大久保利通など薩摩藩出身政治家の非業の死に対して「当然の帰結であり断じて喜べり」と語っている。 しかし遺体放置の話の根拠とされる「明治戊辰戦役殉難之霊奉祀の由来」に記されている官命では、会津軍、新政府軍双方の戦死者に対する一切の処置を禁止する内容となっており(戦死者からの金品剥ぎ取りが横行したための一時的措置と考えられる)、会津側の戦死者のみを埋葬禁止とした内容ではない。また戦後の会津統治を委ねられ遺体埋葬にも当たった会津民政局には薩長の人間は全く入っておらず(幹部は主に東北諸藩の人物、職員は従来の村役人によって構成されていた)又、会津庶民の長年に渡る藩政への遺恨、会津軍による周辺の街の焼き払い、領内における身分差別等、様々な背景があったとされる。(会津世直し一揆参照)。従ってこういった遺体放置の話が薩長によるものであったのかどうか、明確な根拠がなく一方的な視点で書かれた小説等が多く疑問が多い。 後世への影響 近年でも以下のようなエピソードがあり、現在でも会津戦争の因縁の例として上げられる事が多い。 Template 要出典範囲? Template 要出典範囲? Template 要出典範囲? ただし、実際には第二次世界大戦前夜の陸軍内における長州閥は勢力争いに敗れており、「長州出身と書けば採用や出世に不利になる」のが現実であり、少なくとも第二次世界大戦当時にこのようなことはありえない。 ちなみに、福島県に龍馬会(坂本龍馬に因む会)が結成されたのは、47都道府県の中で最後である。 昭和61年(1986年)には長州藩の城下町である萩市が会津若松市に対して、「もう120年も経ったので・・・」と会津戦争の和解と友好都市締結を申し入れたが、会津若松市側は「まだ120年しか経っていない」とこれを拒絶した。 Template 要出典範囲? 評価 新政府軍は北越戦争に大兵力を投入し、白河方面の兵力展開は小規模であった。しかし新政府軍の指揮官伊地知正治は寡兵を率いての白河城奪取とその後の防衛戦、また母成峠突破と若松城下への電撃侵攻と果敢な戦いぶりで終始旧幕府軍を圧倒した。これに対して旧幕府軍は日光口での山川大蔵の奮戦を除くと全く良いところがなかった。装備・軍制の面でも旧幕府軍は新政府軍に及ばなかった。例えば白虎隊は鳥羽・伏見の戦いの後の軍制改革によって誕生したものであるが、身分別の編成を残すなど、近代化は不徹底であった。 会津戦争を描いた作品 早乙女貢 『会津士魂』(歴史小説) 星亮一 『会津白虎隊』(歴史小説) 宮崎十三八 『物語会津戦争悲話』(歴史小説) 間島勲・小桧山六郎編『幕末・会津藩士銘々伝』 『獅子の時代』(NHK大河ドラマ) 『花の白虎隊』(1954年 大映) 『白虎隊』(1986年テレビドラマ/日本テレビ年末時代劇スペシャル) 『白虎隊』(2007年テレビドラマ/テレビ朝日) 関連項目 中野竹子 松江豊寿 会津世直し一揆 バルトの楽園 外部リンク 「なぜ遺体は埋葬されなかったのか」大山格ホームページ 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月11日 (火) 10 07。
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/33747.html
登録日:2016/02/16 (火曜日) 23 40 00 更新日:2024/06/28 Fri 23 41 39 所要時間:約 5 分で読めます ▽タグ一覧 トンネルだらけ 会津鉄道 単線 東武鉄道 栃木県 温泉 福島県 秘境駅 第三セクター 野岩鉄道 鉄道 電化 野岩鉄道会津鬼怒川線(やがんてつどう・あいづきぬがわせん)は、新藤原駅と会津高原尾瀬口駅を結ぶ野岩鉄道の鉄道路線である。 沿線に温泉が多いことから、「ほっとスパ・ライン」の愛称がある。 (*1) 【概要】 1986年10月9日に全線が一挙に開業し、開業当初から全線電化されている。 新藤原駅は東武鬼怒川線、会津高原尾瀬口駅は会津鉄道会津線とそれぞれ接続しており、東京から会津地方までのルートを構築している。 元々は国鉄日光線の今市駅に接続する国鉄線として建設されていたが、国鉄の財政難で工事が凍結。その後第3セクター路線として建設を引き継ぐにあたり、終着駅を新藤原駅に変更したという経緯がある。 栃木県と福島県の県境の中でも山間の区間を通り、標高も一番低い新藤原駅ですら425.3m、最高地点の男鹿高原駅は759.7mと、いかにも山岳路線という感じを見せている。 が、実際は全長30.7kmのほとんどがトンネルと高架となっていて直線区間が多く、これだけ高所を走る単線電化の路線にしては表定速度も50km/hと意外に高めとなっている。 沿線人口は非常に少ないため定期利用よりも観光客がメインとなっており、特に東京まで繋がる東武への依存度は高め。 東武鉄道、会津鉄道と合わせた3社で連携したフリーきっぷなども販売している。 【運行形態】 現在の列車 ○特急リバティ会津 東武鉄道の特急で、浅草~会津田島間を結ぶ私鉄二位の長距離特急。 野岩鉄道線内は男鹿高原を除いた各駅に停車する。 鬼怒川温泉~会津田島間は普通列車の補完扱いとなっているため、同区間のみ座席指定なしでの利用に限り特急料金なしで乗車できる。 ○快速AIZUマウントエクスプレス 東武鬼怒川線、会津鉄道会津線に直通して鬼怒川温泉~会津若松・喜多方(土休日のみ)間を結ぶ列車で、野岩鉄道線内は男鹿高原を除いた各駅に停車する。 2012年3月17日から2022年3月11日までは、下今市でスイッチバックして東武日光まで乗り入れる便も設定されていた。 ○やがぴぃ 6050型61103編成(61103号車・62103号車)によって運用される臨時普通列車。 やがぴぃカー(61103号車)は事前予約の定員制で、畳席や椅子席は座席整理券(大人:500円/小児:250円)を購入すれば利用可能だが、 掘りごたつ席は掘りごたつ席利用券(大人:500円/小児:250円)、運転台席は運転台席利用券(大人:500円/小児:250円)も別途必要になる。 運転台席利用券は、新藤原~湯西川温泉、湯西川温泉~上三依塩原温泉口、上三依塩原温泉口~会津高原尾瀬口、の三区間に分けられて発券されている。 トイレの洋式化や多目的スペースの設置という部分改修に留まった62103号車は追加料金不要で、乗車券類のみで利用できる。 ○普通 運転は1~3時間1本程度となっているが、普通が運転されない時間帯は特急・快速が普通の代わりとなる。 早朝の便を除いて、サイクルトレインの対象になっている。 この他、臨時列車で東武鉄道から「尾瀬夜行」・「スノーパル」、会津鉄道から「会津浪漫号」などが運転される。 また、「スカイツリートレイン」・「DL大樹」の入線実績もある。 過去の列車 ○快速・区間快速 全列車が東武スカイツリーライン浅草~会津鉄道会津田島間の運転となるロングラン列車。 線内は2両編成で全て各駅に停車していた。 2017年4月21日ダイヤ改正で廃止となり、浅草直通列車は特急リバティ会津に置き換えられた。 【車両】 現行 ○6050型 快速以下の全列車に使用され、6050型では唯一定期運用がある車両。 東武鉄道の車両と全く同じ仕様で、野岩鉄道所属車は100番台を名乗り、2両編成2本が在籍する。 クラウドファンディングによる資金援助で、61103編成(61103号車・62103号車)が観光列車に改修されている。 やがぴぃカーと命名された61103編成61103号車の運転台席は、61101編成(61101号車・62101号車)の廃車発生品を流用している。 ○会津鉄道AT-700形・AT-750形 会津鬼怒川線内を走行する気動車。 福島県会津若松・喜多方から直通する快速「AIZUマウントエクスプレス」で使用される。 東武鉄道同様、野岩鉄道の運転手も気動車の運転免許を持っていないため、運転は会津鉄道に委託している。 ○東武500系 2017年4月21日ダイヤ改正でデビューした東武鉄道最新の特急用車両。 線内は3両で運転されるが、東武日光線下今市以南では2編成繋いだ6両編成で運転される。 特急ではあるが運転種別の項目の通り、実質普通列車のような扱いとなっている。 車内設備は特急用のリクライニングシートとなっているため、線内のみ利用として考えると乗り得列車とも言えるかもしれない。 過去の車両 ○東武350系 臨時列車「尾瀬夜行」・「スノーパル」で使用されていた東武鉄道の特急用車両。 2両編成が基本の当線内では例外的に入線していた4両編成の車両である。 かつては座席指定急行「南会津」として日中も会津田島まで乗り入れていた。 【駅一覧】 ○新藤原 東武鬼怒川線乗り換え。起点駅。 いきなりトンネルが多くなる。 ○龍王峡 1面1線の駅でホームの半分はトンネルの中にある。 同名の峡谷の最寄駅。 ○川治温泉 1面2線の高架駅。 駅名で温泉と名乗っているが、実際は隣の川治湯元が最寄り。 ○川治湯元 こちらが川治温泉の最寄駅。 高架1面1線で駅前に広場もあるが、結構な山の中。 ○湯西川温泉 同温泉の最寄駅で、トンネル内に1面1線のホームがある。 ホームの北側は五十里湖を渡る湯西川橋梁となっていて、トンネルを出た瞬間に橋を渡る。 ○中三依温泉 1面2線の交換駅だが、1日平均利用客は16名と線内で2番目に少ない…。 開業当初は当駅始発・終着列車があった。 ○上三依塩原温泉口 塩原温泉郷のアクセス駅ではあるが、その温泉郷まではここからバスで20分程。 「洋風とんがり帽子の屋根の駅」が特徴で、関東の駅百選にも選ばれている。 ○男鹿高原 牛山氏の全国秘境駅ランキング16位。冒頭で述べた通り、線内かつ栃木県で最も標高の高い駅。 …なのだが、立地がいかにも秘境駅らしい場所にあり、周囲には民家も何もない。 そして1日平均利用客はなんと1名しかおらず、そのせいか特急や快速が唯一通過する駅に…。 ○会津高原尾瀬口 会津鉄道会津線乗り換え。終点駅。 線内で唯一の福島県の駅で、会津高原や尾瀬へのバスが発着している。 観光プラザの他、会津線が国鉄時代に使用していた転車台があったりする。 追記・修正お願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/16.html
陸奥国 会津郡 滝沢組 滝沢(たきさは)村 大日本地誌大系第31巻 12コマ目 村東の山中に白糸滝とて佳景(かけい)の瀑布あり。この村その下流にある故(ゆえ)滝沢村という。 旧3町計西にあり。文禄4年(1595年)今の地に移せしという。 府城の東北に当り行程26町余。 家数57軒、東西4町2間・南北1町27間。 白川街道を夾み南北両頬に住す。 東は山に倚り西は牛墓村にて続て1村の如く。 南北は田圃(たんぼ)なり。 村中に官より令ぜらるる掟条目の制札あり。 東13町54間金堀村の山界に至る。その村は寅(東北東)に当り17町50間余。 南4町30間本郡南青木組慶山村の界に至る。その村まで9町10間余。 北11町12間長原新田村の界に至る。その村まで17町30間。 また 戌(西北西)の方9町10間藤原村の界に至る。その村まで11町10間。 村中に1里塚あり。 端村 中島(なかしま) 本村の北3町40間余にあり。 家数4軒、東西25間・南北25間。 4方田圃(たんぼ)なり 北滝沢(きたたきさは) 中島の北1町にあり。 家数26軒、東西1町59間・南北1町34間。 4方田圃(たんぼ)にて、東西北は山に近し 小名 大杉新田(おほすぎしんでん) 北滝沢より辰(東南東)の方1里余、山奥にあり。 家数4軒、東西40間・南北40間、高山の中腹にあり。 昔この地にに大なる杉樹あり。因ってこの称ありとぞ。 金堀小屋 石盛(いしがもり) 本村より丑寅(北東)の方28町山中にあり。 家居1軒渓流に傍で住す。 慶長8年(1603年)この地の山より金を採初め、年を累(かさ)ねて繁昌(はんじょう)し、諸国より人多く集まり小数1700軒に至れり。その後盛衰あれども寛文の頃(1661年~1673年)までは猶(なお)56軒男女200余人集まれりとぞ。 山川 飯盛山(いひもりやま) 村より辰巳の方にあり。 頂まで3町50間、松樹雑木茂れり。 西の麓に宗像の神社あり(宗像神社の条下に詳なり) 法眼山(ほうげんやま) 村より辰巳(南東)の方14町30間にあり。 頂まで20町余。 南は原組赤井村の山に連なる。 葦名盛隆の頃(1580年~1584年頃か?)糟尾宗頥という医師あり。先祖は野州の産にして松浦氏なしりが、糟尾村を領せるより糟尾を氏とせしとぞ。宗頥盛隆のために織田信長の方に使せしに旨に称て法眼に任ぜらる。仍(よっ)て盛隆もその労を賞しこの山を与へき。故にこの名あり。 松樹多し。 高山(たかやま)(大杉山) 村より辰巳(南東)の方1里にあり。 頂まで29町計。 東は赤井村の山に続く。 松樹雑木多し。 境内にこの山に並べる高山なし、因って名くという。 また、大杉山ともいう。 大塚山(おほつかやま) 端村北滝沢の西1町40間余にあり。 高48間、周10町。 離れ山にて田圃(たんぼ)の中にあり。 いつの頃にか大塚某(なにがし)という者住せる故名けりという。また、葦名の頃石塚某という者も住せしとぞ。 北の腰に馬場・的場等の字(あざ)残れり。また、昔南の中腹に蝦夷穴(えぞあな)とて9尺4方計の洞1つ、小き洞5つありしに漸々に崩れて貞享の頃(1684年~1688年)まで尚1つありしとぞ。今はそれも崩れて只跡のみあり。 一箕山(いつきやま) 村より戌亥(北西)の方6町30間田圃(たんぼ)の中にあり。 高10間、周6町50間。 頂に八幡宮の社あり(八幡宮の条下と照見るべし)。 小山(こやま) 北滝沢より寅(東北東)の方2町にあり。 頂まで20間計。 西南の方限界広く土地草木美なる故、肥後守正之この地を択で士民の葬地とす。 元禄中(1688年~1704年)肥後守正容、中峯に標石を建つ。高6尺に1尺3寸四面。 銘あり。その分如左 自是南至畠境貳十一間自是北至畠境貳十貳間自是東至瀧澤山境百七間自是西至小敷澤路百貳十五間 右小山葬地界限寛文四年甲辰九月晦日 先君中将源公始教士民禁火化仍所置之者也元禄四年辛未六月廿八日表之 ※原文も参照のこと 石盛山(いしがもりやま) 金堀小屋石盛の西にあり。 高13丈、周3町余。 巨石を積み累ぬるが如く形状螺髻に似たりとて螺髻山(かさつふりやま)ともいう(かさつふりは蝸牛の方言なり)。 西南の隅より小径をつたえて頂に至の外に攀?るべき路なし。 4面に対し並べる諸山は皆山勢(さんせい)陵夷(りょうい)にて松樹叢莽(そうもう)なれども、この山のみ巉巌(ざんがん)孤立して大樹なく草木稀に巌間(いわま)にあり。 近隣に並びなき奇観(きかん)なり。 麓はこれより北を経(へ)西に廻って数町の間は大抵平地の如くにて、漸々(ぜんぜん)に西へ卑し。南は山の尾引いて1町計隔り並べる山に続く。北は渓水の清流に臨み風景麗秀(れいしゅう)の勝境(しょうきょう)なり。 昔は夥(おびただ)(し)く良金を産し麓の渓流にも砂金ありしとぞ。因って200年来抗を穿ちし処峯(みね)房の如し。この山多く好金を出せしは蒲生秀行の時慶長8年(1603年)より8ヶ年を経て蒲生忠郷の時同15年(1610年)まで。貢(こう)ずる処288萬両に及ぶ。されども水ありて穿つに便り悪かりしを、松澤傅兵衛という者水を抜き坑を穿つ。金また多く出て同16年(1611年)より元和6年(1620年)まで10ヶ年の間72萬500両を出せり。前に通ずれば360萬500両。これ蒲生氏2代の内に得たる処の総額なり。加藤氏に及で前後の貢ずる処640萬8030両に至る。寛永20年(1643年)に肥後守正之封に就てより万治元年(1658年)まで16ヶ年の間に1萬6438両2分、吹金38貫481文目を貢ず。寛文4年(1664年)江戸より道喜という者来り、再び坑を穿ち同10年(1670年)まで7ヶ年の間に1萬4000両を貢ぜりという。 滝沢坂(たきさはさか) 村端より丑寅(東北)の方に登る白川街道なり。 麓より登ること16町、頂きを九折峙(くのおれじ)という。 金堀村に界ふ旧の往還は、この村より南20町余を隔て本郡南青木組院内村より背炙峠(せなかあぶりとうげ)(加藤嘉明、冬坂と改む)を踰(こ)えて原組原村に出しを、寛永4年(1627年)この道を改め闢(ひら)けり。されども秋雨の折は泥濘(でいねい)(*1)深くして駄馬通せず旅人往来に苦しめり。仍(よっ)て加藤嘉明の時寛永9年(1632年)より8万人の人夫を以って泥土を除き2尺余3尺計の石を敷しむ。同11年(1634年)に功成れり。これより今に至り人馬往来に患なし。 この坂より西に連なる支峯2あり。南を堂作山(たうがさくやま)(また堂柵に作る)という。北を柏木山(かしはきやま)という。里人この山より秣(まぐさ)をとる。 石 村北畠中にあり。土人名佛(ほとけ)と称ふれども佛像にもあらず。 高4尺計の野面石なり。瘧(おこり)を憂るものこれに祈れば験ありとて昔より崇敬す。 滝沢川(たきさはかわ) 源を赤井村の山中高清水(たかしみづ)という処に発し、山間を戌亥(北西)の方に流れ、諸渓を受け白糸滝に注ぎ、飯盛山の麓に至り、屈曲して北に流れ、村中を過ぎ、戌亥(北西)流る。 この村の境内を系経ること凡2里10町余、藤村村の界に入る。 広4間余。 雁打沢(がんうちさわ) 村より寅(東北東)の方31町にあり。 鴻雁(こうがん)昿平(こうへい)の里地より猪苗代湖に浴するに多くこの沢を過ぐ。 昔は風烈き日竹竿にて雁を打落し獲しという。 天正18年(1590年)豊臣家当国に下向の時、これを見んとて馬上10騎計にてこの村の畷道(なわてみち)(*2)を通り稲刈る農夫を傍近く召し、この所に案内せしめられしとぞ。 今は小綱を投じて鳧(かも)を取る。 白糸滝(しらいとがたき) 村東9町20間山中にあり。 高8丈余。 急流崖上より遥かに断岸に灑(そそ)(ぎ)て白糸を垂るが如し。故に名とせり。頗(すこぶ)る佳景(かけい)なり。 また、この奥10町計を隔て二滝(にのたき)三滝(さんのたき)とて2あり。 共に高3丈計。 土産 金 石盛山に産す。良金なり。出ること稀なり。 無名異同所に産す。 石膏 同所に産す。効能唐物に均し。 松蕈(まつたけ) 山中所々に産す。美味なり。 雚菌 同上 関梁 大橋(おほはし) 村中にあり。 長4間余・幅2間、勾欄あり。 滝沢川に架す。 水利 戸口堰(とのくちせき) 河沼郡代田組八田野村の方より来り金堀村・下居合村・長原新田村の境内を過ぎ、またこの村の境内に入り田地に灌ぎ牛墓村の方に注ぐ。 堤 端村・北滝沢の北3町50間にあり。 東西42間・南北34間。甗澤堤(こしきさはつつみ)という。 郷原村の田地に灌ぐ。 寛永6年(1629年)築く。 神社 八幡宮 村より戌(西北西)の方6町にあり。 →八幡宮(滝沢村) 宗像神社 村より辰巳(南東)の方飯盛山の西の麓にあり。 →宗像神社(滝沢村) 三島神社 祭神 大山祇命 鎮座 不明 村より辰巳(南東)の方2町50間にあり。 伝え言う。何の頃にか比丘尼2人金像の神體(しんたい)3軀を屓来り、里人に告て曰く「これ三島明神の尊像なり。よく正法を資護持し国家を鎮撫し給う神霊なり」とて、衆人を勧て社をこの地の山頂に剏建し神像を安ず。この時よりこの山を堂柵(どうがさく)と称せり。比丘尼は落城の後行く所を知らず。 後に石部某という者深く尊崇せり。されども山高く路嶮く参詣の便り悪しとて社を麓に移せりと。 承應中(1652年~1655年)に至ては社頭の廃壊極り只礎のみ残りしを里民再興せり。 別当 常楽院 本山派の修験なり。 明和4年(1767年)弁掌という者当社の別当となる。厳重祐堅が父なり。 寶物 笈 1荷。 弁慶が物なりという。 高2尺8寸。幅下にて2尺2寸、上にて1尺9寸5分。深1尺3寸。 前面は黒漆の堅地塗にて菱と草木をひら彫にし花は朱漆をもて彩る。心は魚子流金にて花と葉に銅の鑣を打て模様をうつす。極めて古雅なり。その図左に載す(※略)。 諏訪神社 祭神 諏訪神? 相殿 諏訪神 山神 4座 稲荷神 3座 伊勢宮 2座 天子神 若宮八幡 三宮 御嶽神 地神 権現 鎮座 不明 端村・北滝沢にあり。鳥居拝殿あり。 郭内諏訪神社神職佐久上総が司なり。 熊野宮 祭神 熊野神? 相殿 伊勢宮 2座 稲荷神 4座 月崇神 明神 権現 蛇神 2座 鎮座 不明 北滝沢の西2町50間、大塚山の頂にあり。 鳥居あり。郭内諏訪神社神職諏訪近江司なり。 寺院 妙国寺 村より戌(西北西)の方3町40間にあり。 山號を寶光山と称す。享保中(1716年~1736年)今の山號に改む。法華宗府下滝沢町妙法寺の末寺なり。 この地は妙法寺の開山日什が墓所なり。明徳3年(1392年)日什寂せし時、父母の遺跡なるによりここに葬り、弟子日仁この寺を草創して住し朝夕香花を供せしという。 日什塔 五輪なり。『日什大聖人明徳三壬申年二月二十八日』と彫付あり。 前に慶長中(1596年~1615年)建てる所の堂あり。即日什荼毘所の迹なりという。 棟札あり。左に載す(※略)。 成就院 村中にあり。 揚柳山と號す。 府下鳥居町亀福院の末寺真言宗なり。 旧村北にありしを慶長の始め(1596年~)見宥という僧住せし時この地に移せり。 本尊地蔵を客殿に安ず。 古跡 館跡2 一は村北3町20間にあり。葦名の頃石部治部大輔某という者住せりという(年代詳ならず)。 一は端村・北滝沢の村中にあり。東西30間・南北29間。葦名の頃、堂家某という者住めりという(年代詳ならず)。今は百姓家となり。土居の形存ぜり。 石部桜(いしべさくら) 館跡の北10間計、菜圃(さいほ)の中にあり。 石部治部大輔が庭中の桜樹故(ゆえ)この名残れりという。 樹根の周り3丈6尺。数株となりて四面に螺れり。高もまた3丈6尺枝葉の庇う処20間計。 寛文の風土記に枝葉扶疎(ふそ)四に敷くこと数歩と称すれば、その古木なることしるべし。今なお枝茂り花艶ばしく香風数十畝に満てり。春月には賞花の人多し。誠に500年外の物にして佳観(かかん)比なし。ここに至るもの懐古の情おこり、今詠鮮なからず。また謾(みだ)りに人の攀折せんことを厭て柵を繞(めぐ)らし禁止の札を側にたてり。 船石(ふないし) 滝沢坂の上、街道の西側にあり。 縦横丈余の巨石にて貌(かたち)船に似たり。府下鳥居町に鎮座ある伊舎須弥明神乗給ひし船の化する所なりといい伝う。 産清水(うぶしみず) 村より戌(西北西)の方6町余、畠中にあり。 周1間計、日什誕生の日この水を汲て洗沐す。因て名くという(日什が条下に詳なり) 壇 村より丑寅(北東)の方4町、菜圃(さいほ)の中にあり。 9つ並べり。共に高5尺・周3間計。九壇という。由来詳ならず。 釈門 日什 二位僧都と称す。 この村の住石塚某という者の子なり。 父母嗣子無ことを憂い八幡宮に祈誓して懐胎す。母産子の安穏を祈らんとて正和3年(1314年)4月28日に八幡宮に参詣せしに、社前にてその兒を産めり。その時清水忽(たちま)ち湧出てしかば、その水を汲で兒を洗ひしという。 その兒幼年にて父母に後れ7歳の時より出塵の志あり。後に薙髪して僧となり玄妙と称し、比叡山に登り天台の扇を究め兼て諸宗に通ず。満山の僧侶器重せざる者なし。 その後故郷に返し羽黒山東光寺に住し講筵を開く。遠方より来り学ぶ者常に500人に余れり。 68歳の時始て日蓮が開目抄如説修行抄を熟読し、法華に帰依し宗旨を易え名を日什と改めき。且日蓮が法末祖師の本意を失わんことを憂て、上京して勅許を得、別に一派を立て洛陽妙満寺・遠州玄妙寺・本郡妙法寺を開基し弟子日仁・日義・日妙に付属す。 明徳3年(1392年)2月28日妙法寺にて寂す。歳79歳。今の妙国寺の塔その墓所なり。 日什が弟子専ら弘通を務む。因て信仰する者多く、武・総2州の間に700箇寺を建立すという。 日什置文を3弟子(日仁・日義・日妙)に付す。名で三紙一通という。その文如左(※略) 八幡宮(滝沢村) 宗像神社(滝沢村) 滝沢峠 Google Map飯盛山 堂ヶ作山 滝沢不動滝(白糸の滝) 戸ノ口堰洞穴 三島神社 諏訪神社 熊野神社 日蓮宗滝沢妙國寺 石部桜(石部邸跡) 福島県会津若松市一箕町大字八幡滝沢 福島県会津若松市中島町 福島県会津若松市北滝沢 福島県会津若松市一箕町大字八幡石ケ森 福島県会津若松市一箕町大字金堀雁取沢(雁打沢?) 日什(wikipedia)
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/337.html
陸奥国 会津郡 高久組 界沢(さかひざは)村 大日本地誌大系第31巻 39コマ目 会津・河沼両郡の界にあるゆえ名けりという。 府城の西北に当り行程1里31町。 家数50軒、東西1町25間・南北1町55間。 四方田圃(たんぼ)にて西は黒川に近し。 東7町10間中森台村の界に至る。その村まで10町40間余。 西2町高久村の界に至る。その村は申(西南西)に当り11町30間。 南8町15間下吉田村の界に至る。その村は辰(東南東)に当り7町余。 北4町河沼郡笈川組米丸村の界に至る。その村まで10町20間。 また未(南南西)の方9町10間横沼村の界に至る。その村まで14町30間余。 戌亥(北西)の方5町5間笈川組熊川村の界に至る。その村まで7町20間。 もと村の戌亥(北西)の方40間余に西舘(にしたて)という端村あり。今は廃せり。 山川 黒川 村西1町にあり。 上吉田村の境内より来り、北に流るること25町余高久村の界に入る。 水利 清水堰 上吉田村の方より来り田地に注ぎ米丸村の方に注ぐ。 神社 熊野宮 祭神 熊野宮? 相殿 伊勢宮 山王神 鎮座 不明 村より亥(北北西)の方2町にあり。 鳥居幣殿拝殿あり。高久村黒沢縫殿之助が司なり。 寺院 耕真寺 村中にあり。 曹洞宗高雲山と號す。開基詳ならず。 天正3年(1575年)獨峯という僧中興し、天寧村天寧寺の7世正元を請して開山とせり。 即天寧寺松山なり。 本尊如意輪観音客殿に安ず。 稲荷神社 境内にあり。 古蹟 館跡2 一は村中にあり。 東西20間・南北27間、 土手高5尺・根置3間、 北に堀形残れり。幅3間。 昔葦名直盛の臣金屋尾張某という者住せりという。 一は村より戌亥(北西)の方40間にあり。 東西20間・南北30間。 西館という。 何の頃にか金屋某居りしという。 今田畝を開く。 堀の趾僅(わず)かに遺れり。 東雲寺跡 村北にあり。 元禄4年(1691年)本郡南青木組大豆田村に移れり。 壇 村より未(南南西)の方7町にあり。 高9尺・周21間。 古堂という。 往古堂ありし所といい伝う。 下橋(くたりはし) 村北2町にある字なり。 昔橋ありし時、源義経馬より下りて過しとてこの名ありとぞ。 今は橋架すべき川もなく名のみ遺れり。 Google Map熊野神社 耕真寺 永和の暮らしと歴史(会津若松市)より界沢の記述を引用 会津郡と河沼郡との境にある沢があることで付けられました。東高久遺跡は、平安時代の1200年前、会津郡下の「多具郷」の跡です。慶長16年の会津大地震で集落が崩壊し、慶長18年(1613)に高久と堺沢(現在は界沢)に村は分かれました。また、もともとある集落内には戦国時代に松本一族がすみ、後に金屋尾張守(かなやおわりのかみ)と名乗り住んだ館跡があります。金屋氏は、慶長6年(1601)上杉景勝に付いて山形県へ移っています。集落の北側、北界沢には、越後時代の上杉景勝・直江兼続にゆかりのある雲洞庵がが建てられましたが、寺は、東雲寺に名を変えて若松城下と市内大戸町上三寄大豆田へ寺が分かれて移され、城下の寺は戊辰戦争で焼失しています。また、上杉氏の米沢移封に伴い米沢にも移りました。 思わぬ所で多具郷の話が出てきました。 この多具郷は和名類聚抄(国立国会図書館:陸奥国の記述参照。69コマ目)に出てくる平安時代に会津郡にあった郷です。発掘記録によると元富士通の工場があった場所に存在していたようです(現高久工業団地)。
https://w.atwiki.jp/happy4/pages/16.html
夏休みの申請をしてきたぁぁぁ~♪ 思い切って、8連休にしてしまった~^^ でもすっごくダメ人間に絶対になりそうだな^^; 7連休にしておけばよかったかな・・・ 実家に帰ること以外、何も予定は入れてないんだけど何しようかな? 友達もみんな休み合わないし、8連休取ったなんて言ったら顰蹙買いそう^^; こんなとき彼とか欲しいけど、なかなかできないんだよねー 実は前の彼が忘れられなくて、次にいけないんだよね・・・ 復縁を成功する方法ってないのかなぁ? 今年は海に行くからと思って、アンダーヘア脱毛の体験はこちらでしてきたのに・・・ アテニア化粧品でお肌のケアも頑張ってしてたのに、振られちゃった>< シングルになってから、車に乗るようになった♪ 最近ガソリンの減りが早いんだけど、なんでだろ? 今月はガソリン代オーバーかななんて思ってたけど 久々にコスモでガソリン入れたら、最後の1メモリからなかなか減らない^^; 暑いからガソリンが膨張してるのかな?なわけないかw 週明けまで持ってくれー! 「アナログ放送終了まであと○日」 自分の中ではお給料日までのカウントダウン。すんごく長いな~>< ♪えー!?今月まだ20日もあるの~♪あ~あ~明日になんかならなきゃいいのに~♪ なんてネガティブな歌なんだwwwでも懐かしい^^
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/365.html
※地理院地図(明治43年測図) 会津郡滝沢組滝沢村・滝沢坂(たきさはさか)の説明文より 村端より丑寅の方に登る白川街道なり。 麓より登ること16町、頂きを九折峙(くのおれじ)という。 金堀村に界ふ旧の往還は、この村より南20町余を隔て本郡南青木組院内村より背炙峠(せなかあぶりとうげ)[加藤嘉明冬坂と改む]を踰(こ)えて原組原村に出しを、寛永4年(1627年)この道を改め闢(ひら)けり。されども秋雨の折は泥濘(でいねい)深くして駄馬通せず旅人往来に苦しめり。仍(よっ)て加藤嘉明の時寛永9年(1632年)より8万人の人夫を以って泥土を除き2尺余3尺計の石を敷しむ。同11年(1634年)に功成れり。これより今に至り人馬往来に患なし。 この坂より西に連なる支峯2あり。南を堂作山(たうがさくやま)(また堂柵に作る)という。北を柏木山(かしはきやま)という。 旧滝沢本陣より東に道なりに進むと(途中白糸神社への案内板あり)、旧滝沢街道を示す石碑と案内板があります。 案内板の記述を引用します。 旧滝沢峠(白河街道) この峠は、天正十九年(一五九一)にときの会津領主蒲生氏郷により、若松から白河に至る白河街道として開かれました。 寛永四年(一六二七)に会津に入部した加藤嘉明も街道の整備に力を入れましたが、雨天や雪解け時などには泥道となって往来に困難したため、その子成明は寛永九年(一六三二)から十一年(一六三四)にかけて、延八万人の人足を動員して石畳道に改修、冬坂峠の表街道を廃止して滝沢道と表街道としました。以来大名の参勤交代、旅人の往来などに利用されて、大変賑わった街道でありました。 新奥の細道 環境庁・福島県 道中に舟石(滝沢村の説明参照)があります。 案内板の記述を引用します。 舟石 伊弉諾・伊弉冉尊が会津に天降らせ給うた際、投じられた鉾が化して八角の水晶となった。 そこで伊舎須弥神社として崇め、宮を号して八角と云う、と言い伝えられています。その宮というのは会津若松市内にある八角神社のことで古くは伊舎須弥神社と呼ばれておりました。 また、上が天降る際に乗り来たった舟が化して石となったのが、この舟石であるといい、昔から名所でありました。 ハァー恋(鯉)の滝沢 舟(鮒)石越えて 親は諸白 子は清水 新奥の細道 環境庁・福島県 後半の「ハァー」は何だ?とお思いの方、盆踊りで有名な民謡・会津磐梯山の歌詞です。 余談。 よく滝沢峠は滝沢町から強清水までの道と言われていますが実際には滝沢~金堀までで、金堀~原新田(強清水)は沓掛峠(くつかけとうげ)です。 関連会津郡滝沢組滝沢村 会津郡滝沢組金堀村 会津郡原組原新田村 伊舎須弥神社 参考白河・会津街道(会津若松市) 堂ヶ作山・滝沢峠(福島登高会) 滝沢峠と堂ガ作山に行ってきた!(会津駒ヶ岳駒の小屋のブログ) 福島県の滝 金掘の滝 会津若松市一箕町大字金堀沓掛(我流天晴のじっとしてれないブログ) Google Map滝沢峠案内碑(ストリートビュー) 沓掛峠案内碑(ストリートビュー) 堂ヶ作山
https://w.atwiki.jp/damsite/pages/2619.html
大川ダムをお気に入りに追加 大川ダムのリンク #blogsearch2 ウィキペディア 大川ダム 大川ダムの報道 アニメ「範馬刃牙」来年1月10日にTV放送開始、島崎信長ら登壇する試写会も開催 - マイナビニュース ハッピー金属工業 住宅設備 ハッピーポスト 田村商店 フェンス取付 NO640 ヘアーライン仕上げ ファミール フェンス取付 HSK NO640 20200802164150 01021 - 3x3.EXE 湯浅政明監督ミュージカルアニメ「犬王」ティザービジュアル解禁 - おた☆スケ 「鉄印帳」手に会津若松巡り…読売旅行のモニターツアーに19人が参加 - 読売新聞 アニメ「範馬刃牙」TV放送決定!オリバと刃牙が対峙する新ビジュアルも公開(コミックナタリー) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 軽石でガソリン購入に制限 川が埋め尽くされる - QAB 琉球朝日放送 デスク日誌(11/6):国民審査 - 河北新報オンライン 「日本応用地質学会表彰」受賞者の2件に対し表彰状の授与が行われました!:時事ドットコム - 時事通信 「水が噴き出している」名護市で騒然 一時50メートルの高さまで(沖縄タイムス) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 砂防施設7県21事例で効果 8月の大雨、国交省調査 - 沖縄タイムス 大川小の事故、なぜ起きた 経営視点で危機管理検証 - 河北新報オンライン クリークの先行排水の広域化に着手~筑後川下流地域の湛水被害軽減を目指す~ - 福岡県庁ホームページ 気仙沼に新たな曙橋完成 産業活性化に期待 - 河北新報オンライン 震災遺構大川小、18日から公開 - 河北新報オンライン 『東北DC開催記念 南東北第三セクター鉄道合同企画 「鉄道むすめ」記念入場券』発売 - 鉄道ファン 大川ダムカレーを開発 7月中旬から福島県・芦ノ牧温泉の食堂で提供 - 47NEWS 命守る学校防災に決意 大川小で初の新採教職員研修 - 河北新報オンライン ダムはもういらない ドキュメンタリー映画『悠久よりの愛~脱ダム新時代』 7月17日、文化パルク城陽で上映会/全国各地の運動を取材、鴨川ダム反対の取り組みも紹介 - 京都民報Web 大川小で妹を亡くした女性、経験を映画に 「春をかさねて」「あなたの瞳に話せたら」 - 河北新報オンライン 大戸川ダム建設容認提言へ 京都府有識者会議 豪雨想定し「緊急性高まった」 - 毎日新聞 - 毎日新聞 伊東大川に奥野ダム 洪水備え22日から放流 - 東京新聞 全国42のダムで土砂が許容量を超え堆積 国が対策支援へ | 注目記事 - NHK NEWS WEB この駅名も不思議です【私鉄に乗ろう81】会津鉄道(東武鉄道)その10(43) | 鉄道コラム - 鉄道チャンネル 大川ダムの構造分析 大川ダムの93%は白い何かで出来ています。大川ダムの3%は媚びで出来ています。大川ダムの2%は知恵で出来ています。大川ダムの1%は鉄の意志で出来ています。大川ダムの1%は砂糖で出来ています。 powered by 成分解析 大川ダムの掲示板 名前(HN) カキコミ すべてのコメントを見る ページ先頭へ 鹿児島県/大川ダム このページについて このページは大川ダムのインターネット上の情報を時系列に網羅したリンク集のようなものです。ブックマークしておけば、日々更新される大川ダムに関連する最新情報にアクセスすることができます。 情報収集はプログラムで行っているため、名前が同じであるが異なるカテゴリーの情報が掲載される場合があります。ご了承ください。 リンク先の内容を保証するものではありません。ご自身の責任でクリックしてください。
https://w.atwiki.jp/damsite/pages/2338.html
大川ダムをお気に入りに追加 大川ダムのリンク #blogsearch2 ウィキペディア 大川ダム 大川ダムの報道 アニメ「範馬刃牙」来年1月10日にTV放送開始、島崎信長ら登壇する試写会も開催 - マイナビニュース ハッピー金属工業 住宅設備 ハッピーポスト 田村商店 フェンス取付 NO640 ヘアーライン仕上げ ファミール フェンス取付 HSK NO640 20200802164150 01021 - 3x3.EXE 湯浅政明監督ミュージカルアニメ「犬王」ティザービジュアル解禁 - おた☆スケ 「鉄印帳」手に会津若松巡り…読売旅行のモニターツアーに19人が参加 - 読売新聞 アニメ「範馬刃牙」TV放送決定!オリバと刃牙が対峙する新ビジュアルも公開(コミックナタリー) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 軽石でガソリン購入に制限 川が埋め尽くされる - QAB 琉球朝日放送 デスク日誌(11/6):国民審査 - 河北新報オンライン 「日本応用地質学会表彰」受賞者の2件に対し表彰状の授与が行われました!:時事ドットコム - 時事通信 「水が噴き出している」名護市で騒然 一時50メートルの高さまで(沖縄タイムス) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 砂防施設7県21事例で効果 8月の大雨、国交省調査 - 沖縄タイムス 大川小の事故、なぜ起きた 経営視点で危機管理検証 - 河北新報オンライン クリークの先行排水の広域化に着手~筑後川下流地域の湛水被害軽減を目指す~ - 福岡県庁ホームページ 気仙沼に新たな曙橋完成 産業活性化に期待 - 河北新報オンライン 震災遺構大川小、18日から公開 - 河北新報オンライン 『東北DC開催記念 南東北第三セクター鉄道合同企画 「鉄道むすめ」記念入場券』発売 - 鉄道ファン 大川ダムカレーを開発 7月中旬から福島県・芦ノ牧温泉の食堂で提供 - 47NEWS 命守る学校防災に決意 大川小で初の新採教職員研修 - 河北新報オンライン ダムはもういらない ドキュメンタリー映画『悠久よりの愛~脱ダム新時代』 7月17日、文化パルク城陽で上映会/全国各地の運動を取材、鴨川ダム反対の取り組みも紹介 - 京都民報Web 大川小で妹を亡くした女性、経験を映画に 「春をかさねて」「あなたの瞳に話せたら」 - 河北新報オンライン 大戸川ダム建設容認提言へ 京都府有識者会議 豪雨想定し「緊急性高まった」 - 毎日新聞 - 毎日新聞 伊東大川に奥野ダム 洪水備え22日から放流 - 東京新聞 全国42のダムで土砂が許容量を超え堆積 国が対策支援へ | 注目記事 - NHK NEWS WEB この駅名も不思議です【私鉄に乗ろう81】会津鉄道(東武鉄道)その10(43) | 鉄道コラム - 鉄道チャンネル 大川ダムの構造分析 大川ダムの93%は白い何かで出来ています。大川ダムの3%は媚びで出来ています。大川ダムの2%は知恵で出来ています。大川ダムの1%は鉄の意志で出来ています。大川ダムの1%は砂糖で出来ています。 powered by 成分解析 大川ダムの掲示板 名前(HN) カキコミ すべてのコメントを見る ページ先頭へ 福島県/大川ダム このページについて このページは大川ダムのインターネット上の情報を時系列に網羅したリンク集のようなものです。ブックマークしておけば、日々更新される大川ダムに関連する最新情報にアクセスすることができます。 情報収集はプログラムで行っているため、名前が同じであるが異なるカテゴリーの情報が掲載される場合があります。ご了承ください。 リンク先の内容を保証するものではありません。ご自身の責任でクリックしてください。