約 36,420 件
https://w.atwiki.jp/buraku2/pages/19.html
永井配信の経歴(2008~) 第九部 さよならスロ板編<後>(2008.1.1~) 2008年 1月11日 ゴールドXR拷問配信3日目でついに確率1/8192のPGGを引く。スレに『明日朝早いからもう寝るわ』と書かれているのを読み上げ、 「おいおい、寝た五分後ぐらいにひくんだがwいいのか?w」といいながら押したレバーで全消灯。突然の事態にスレも永井も歓喜の嵐に包まれた。 「神はこういう台本を用意していた」という名言まで飛び出した。 ↓ 1月13日 永井兄弟ガチスロバトル第三幕~華麗なる蝶の舞~開催。互いに南国育ち設定4、ジーコが負ければ「シーマン2」ひろゆきが負ければ「アイマス10週」という罰ゲームを賭けての一戦となった。(途中リスナー数2600人越え) 序盤はひろゆきが永井をひきはなしたが、永井が般若心経で二度も当たりをひきこむ奇跡をみせるなど神がかった展開で追い上げた。 最後は般若心経で終了のベルをひきこみ、いいオチもつけ、結果ひろゆきがこの勝負をものにした。 ↓ 2月2日 久しぶりのパチスロ実機配信。永井家初の5号機がリスナーから届く。事前に永井にはその音楽の良さから絶賛していたマーベルヒーローズが届くことが知らされており、公式HPに「マーベルきたぁああああ!!!!!!」とまで書くほど永井は大歓喜! だが、配信で開封すると出てきたのはマーベルヒーローズではなく、モーニング娘。であった。 最初は落胆していた永井であったが、プレイを続けていくうち、自分がモーヲタだった時代を思い出し、懐かしんだ。 ↓ 2月14日 バレンタイン配信。去年は貰えたP子からのチョコが無く落胆する永井。更に毎年の母・祖母からのものも今年はなく、「手渡しチョコは0個」という事でややテンションが下がっていたが、浩二・博之(と正宗)にファン達から大量のチョコが届く。 ↓ 2月17日、永井板2にて今後の掲示板のあり方について意見を募る聴取会が開催され、「管理は基本的に永井自身が行う」「BANの基準は各自察すること」「荒らしに対しては専用スレでIP公開の処分を行う」等が確認された。 ↓ 2月24日 深夜の天鳳兄弟バトル配信。お互い3戦し、どちらが合計点数が高いかを、負ければ永井がライドウ配信、博之がアイドルマスター配信という罰ゲーム付きで勝負。初戦から永井が9万点をたたき出し、自らをゴッドジーコと煽るなど勝敗は決したかと思われたが、博之の倍プッシュ案により最後までわからない天鳳史上最も熱いバトルとなった。 結果、神がかり的なひきときれをみせた永井が勝利し、散々ごねた博之も渋々ながら、後日罰ゲームを決行することを約束。 ↓ 2月25日 浩二配信終了後、引き続いて博之のイミソーレ配信。午前3時20分頃、奇跡が起きる。 ↓ 3月2日 博之自身初である『アイドルマスター』決行。かねてから幾度も「アイドルマスターだけはやらん」と言っていた博之も、罰ゲームとあってリスナーのためと銘うって、嫌々ながらプレイ開始。 ↓ 3月24日 博之配信「龍が如く2」内のミニゲームである将棋に、永井が挑戦した。 その戦術は「王を前線で戦わせる」という常軌を逸した肉弾玉砕戦法であり、当然苦戦を強い入れられた。だがとても逆転できないような状況でも諦めず、最後まで粘り続け、まさかの逆転勝利をおさめた。 永井先生が永井名人になった瞬間であった。 ↓ 3月26日 ひろくん、ライドウクリア。 ↓ 4月2日、解約していたサミータウンに再入会、久々のサミタ配信を行う。永井の登場に多数のリスアバターが(リスナーと思われる)追っかけを始める。この後約一月に渡って定期的にサミタ配信が行われるようになる。 ↓ 4月3日 ひろくん、ドラクエ5攻略開始。 ↓ 4月17日 博之配信「ドラゴンクエスト5」 はぐメタブートキャンプ~そして伝説へ 20日は午前2時50分頃からキャンプ再開。案の定テンションがやけに高い博之の絶叫で、浩二は眠れず隣室から起きてくる。合いの手を入れたり雑談で間をつないだり、肝心のところで般若心経を唱えるなど、弟を必死でサポートするも、睡魔が限界となり午前8時前にダウン。しかし、その約1時間後の、20日午前9時28分ついにはぐれメタルをGETした。(944匹目)テンション最高潮の博之は食欲も眠気も吹っ飛び、その後も配信を継続。愛するあまり仲間にしたはぐりんのレベルをMAXにしようとするが、住民の猛反対もあり、仕方なくストーリーを進めることになる。結局17日の記録に並ぶ約12時間の長時間配信となった。 ↓ 4月25日 ひろくん、ドラクエ5クリア。 ↓ 4月26日 ジーコ、ひろくん、トシのウイイレ配信→絶体絶命都市2攻略開始。以後、絶体絶命都市2の続きはひろくんが単独で攻略。 ↓ 5月5日 ひろくん、絶体絶命都市2クリア。 第十部 永井板2BAN騒動編(2008.5.9~) 5月9日、永井のサミタ配信(Eカード)と前後して永井板2にて大量のBAN(地域プロバイダ規制)が発生した。 以後、不定期に規制と解除が繰り返されるようになる。 この一連の規制により多数の難民が発生したため、永井の古巣であるスロ板の避難所に住民が流出した。これを境に、一連の規制と永井ら管理側の態度に批判的な住民と、 管理側の行動に好意的な住民の対立が深刻化してゆく。 ↓ 5月21日 ひろくん、FF5(PS ファイナルファンタジーコレクション収録)攻略開始。 ↓ 6月5日ひろくん、FF5クリア。レア武器・ジョブ等、さんざんこだわりを見せてきたにもかかわらず、最後はぜになげに頼るという大波乱の展開に。住民に心底叩かれたがいつもどおり博之はマイペースにエンディングを見続け空気を読んで即座に退散。華麗なスルー技術を見せ付けた。 ↓ 6月9日、永井の30歳の誕生日ということもあり配信に期待が寄せられていたが、公式Blogに永井への誕生日プレゼントに対するお礼の言葉が書かれただけで、この日配信はなかった。久々の配信を心待ちにしていた住民によって永井板2は大荒れとなる。 ↓ この頃、ニコニコ動画にアップされていた一部の永井動画がうp主本人に削除される(『永井先生の国際交流』等の再生数6万超になる人気動画含む)。 ↓ 同日 ひろくん、龍が如く2を遂にクリア。引き続き自腹で買ってきた悪魔城ドラキュラ闇の呪印攻略開始。 ↓ 6月23日、ひろくん、悪魔城ドラキュラ闇の呪印クリア。 ↓ 6月29から30日にかけて、立て続けに永井板2で永井の殺害をほのめかす様な書き込み及びスレ立てが行われる。 6月29日の段階では当該書き込みがスレごと削除される処分に留まったが、翌日(30日)に永井殺害を示唆するスレッドが立てられるに至って管理側が通報処分を行う。 ↓ 7月3日早朝 ひろくん配信中に永井が降臨、二ヶ月ぶりの復活に永井板は歓喜する住民で溢れ返った。 先日の殺人予告や一連のBANなどの暗い話題には触れず、兄弟でパチンコ実機配信(CR倖田)を行う。 ↓ 7月20日 前永井先生@wiki閉鎖。プライバシーの侵害・名誉毀損の二点において、 「生活に実質的な被害が生じている」と永井氏本人が主張したことが理由とのこと。 ↓ 同日19時頃、ピアキャスト配信者佐々木とスカイプ対談を行う。 久しぶりのピアキャスト配信者二大巨頭の対談ということで永井板は活気付いたが、 その他のスレ(BAN民避難所や佐々木板)などでは、BAN騒動には勿論全く触れなかったことや、 ジーコのテンション自体が低かったことに加え、前wikiの閉鎖騒動もあり、 このスカイプ対談自体が「wiki問題の火消し」との冷めた意見が大半だった。 ↓ 7月30日未明、永井板2に突如永井浩二本人が降臨。また悪意のある者が迷惑行為に及ぼうとしてるらしく、自分も博之も少し疲れたので、配信をしばらく休みます(レス番号16)とのこと。その直後に永井板閉鎖。 ↓ 9月6日未明、NHK-BSの番組「ザ☆ネットスター!9月号」内において、 ネットで話題になっている単語として、「永井先生」があがる。 番組内では「現在出演交渉中」とのナレーションがなされたが、永井兄弟は配信休止中であり、実現しなかった。 第十一部 ニコ生で復活=jukeと永井先生=編(2010.4.26~) 2010年 4月26日、ニコニコ生放送の放送主Jukeの放送枠内にスカイプで永井兄弟が話をするという形式で1年9か月の沈黙を破り復活した。 ※以下ニコニコ大百科から転載(できるだけ中立な情報にするため、一部表現を変えています) 前述の通り永井兄弟の復活は、生放送主であるJukeの放送にskypeでのゲスト出演という形で行われた。Jukeによれば、永井は親友Jukeの一年間に及ぶ説得に応じて出演したという。 しかし、復活当初は「皆兄弟を求めているだろうから俺はじじゅうする」と裏方に回っていたにも関わらず、途中からJukeは永井先生の発言を遮って話し始める上、その自分語りは長時間に及んだ。それに対し視聴者が批判コメントをし、それにもいちいち突っかかったため、それがさらに顰蹙を買うこととなる。 また、永井先生自身も、視聴者をイラつかせるJukeに対して発言された批判コメを全て「荒らし」と断じ、Jukeを擁護する発言を繰り返した。そして、放送の中でJukeを自分の親友だとも語った。しかし、この「親友」という言葉に対し疑問を呈する視聴者も現れ始めた。 というのも、永井先生がアラジンチャンスのBGMで「ケイコごめんよ」の歌を歌うように頼まれた際のJukeの態度が親友のそれとは思えなかったからである。頼まれた当初、永井先生はさすがに恥ずかしいのか、歌うことを渋り、関係ない話でお茶を濁そうとした。ところが、Jukeはこうした態度の永井先生に対し突然、「ごちゃごちゃ言ってないで歌えやコラ!」と怒鳴りつけたのである。こうしたことから、永井先生とJukeの間には上下関係があり、永井先生はJukeに頭が上がらないのではないかという推測する者も現れ始めた。ついには「愛媛の奴隷」という揶揄の言葉さえ生まれた。しかし、結局のところ永井先生とJukeとの間に何があったについては定かではない。 また、ゆきと(生放送主)を批判した際に、「しょうもない事言いよる奴はサンクスかローソンかすき家か吉牛の店員か、もうそんなレベル。マジで。それぐらいやろなレベル低い」と発言してしまった。これにより、職業差別をしたと判断されてしまい、ついには永井先生自身が叩かれる理由を作ってしまった。 ↓ 5月、画伯という配信者がブロッコリーという別の配信者に対しJukeのスカイプIDを聞いたところ、ブロッコリーは画伯にそれを教えてしまう(ただし、この二人は別に公の場でそのIDを曝したわけではない)。そして、Jukeに対しゆづか姫(生放送主)を騙ってJukeにスカイプチャットやメールを送った。このことにJukeが激怒し、Jukeの親友である永井先生はJukeと共にブロッコリーを批判する生放送を行った。この放送の中では、Jukeはブロッコリーに対し、少額訴訟を起こすつもりだと語った。さらにブロッコリーの生放送のミラー画像を出し、その外見を「犯罪者の顔」「のび太」等と呼んで中傷した。しかし、この中傷が原因で、放送中に運営側からBAN(強制停止)される。 Jukeと永井先生はこの運営の仕打ちに怒り、5月16日の生放送で運営と画伯とブロッコリーを徹底的に批判した。さらに「著作権侵害」を理由に運営側に対してニコニコ動画にアップロードされている全ての永井関連の動画を削除するように要求した。そして永井先生は引退宣言を出し、2度と配信を行わないことを明言した。ただし、Jukeの方は単独でニコニコ生放送で配信を続ける意思を表明した。その後、永井先生の動画を投稿したユーザーの一部は、自主的に永井動画の削除を開始した。自主的に削除された永井動画の中には、再生数が70万回以上を誇った「組曲『永井動画』」も含まれている。この件に関し、画伯は「自分は単にJukeに対してスカイプチャットやメールの送信しか行っていない」と釈明し、責任は自分にJukeのIDを伝えたブロッコリーにあると説明した。 5月20日のJukeの生放送で復帰した。この時の放送は、以前とはうって変わって静かなものであり、Jukeと永井先生のエギング(イカ釣り)に関するやり取りが続いた。 5月24日午後5時28分に、元PeerCast配信者の佐々木健介がニコニコ生放送にて復活した。この佐々木の生放送中に偶然にも同じく生放送していたJukeと永井先生は、それを見ながら佐々木に関するコメントを出した。佐々木は放送の中で、永井先生は嫌いだがJukeは敵に回したくないと語った。しかし、その後に行った永井先生のニックネームを決めるアンケートによって状況は一変した。そして、これで永井先生とJukeがキレる原因を作ってしまった。 というのも、佐々木は、「1.モルボル永井」・「2.歯糞乞食野郎」「4.愛媛の恥」という選択肢を用意し、リスナーは「3.豚の奴隷」という選択肢を用意したからだった。永井は嫌いだがJukeを敵に回したくない佐々木にとって、この3番目の選択肢は予想外だったらしく、自分の考えた選択肢を選ぶようにリスナーに呼びかけた。なお、結果は69.0%で3番目が圧勝した。これを聞いていたJukeは生放送中の最中に佐々木を中傷するようなことを言ったため、運営からBAN(強制停止)されてしまう。その後、Jukeは2つ目のプレミアムアカウントを用いて再度生放送を開始するも、物の数分も経たずしてBANされてしまう。 こうして全てのアカウントを停止されてしまったJukeと永井先生は、永井先生の持つアカウントを使って再度生放送を行った。そして、2度目のBANについては全く納得がいかないと怒りを露わにした。永井先生は、「何歳ぞマジで」・「帰れ」・「お前らホント大概にせえよマジで」・「来るなや」など、運営に面白がって通報したリスナーを強い口調で批判し、怒りのあまり泣き出してしまった。Jukeは何故か佐々木に対する批判コメントを出した。なお、この放送の中で永井先生は、「俺一人でやりよったらそんなにならんぞホントに」とも言った。 現在 (2012.2~) 2012年 永井先生はその後もJukeと共にニコ生で散発的に配信を行なっていたが、2012年2月の時点で、完全にJukeとは手を切った事が、Juke自身により明かされる(永井先生側からのコメントは特にない為、真相は不明)。 尚その際、Jukeが永井浩二公式Webサイトの管理人(通称・公式管理人)だった事も明かす。 永井先生の今後の動向については、現在の所は不明である。
https://w.atwiki.jp/shiomura/pages/4.html
□78年(昭和53年)7月6日 生誕。広島県福山市出身。 父親は塩村一。母親は塩村文子(現在は離婚で旧姓に戻っている。) (左写真・塩村一氏) (左写真・塩村(旧姓)文子氏) 兄弟は兄が一人(交通事故で他界)、 弟、妹(結婚済、夫婦で実家の福山市に母と同居)がいる。 参考 http //web.archive.org/web/20121202115748/http //carnifty.cocolog-nifty.com/shiomura_ayaka/2007/06/index.html http //web.archive.org/web/20121202115610/http //carnifty.cocolog-nifty.com/shiomura_ayaka/2008/12/index.html □85年(昭和60年)4月 広島県福山市立光小学校入学 ◇86年(昭和61年) 塩村性を名乗り始める(8歳の頃) ◇88年(昭和63年) いわゆる「福山市汚土事件」が発覚。 ※福山汚土事件:1989年(平成元年)に福山市の汚土収汚土収集委託業務をめぐり、 元委託産廃業者(塩村文夏氏の実父)の詐欺や暴力行為、市長への委託念書の強要などの疑惑から 福山市議会に百条委員会が設置され、並んで市長、助役、収入役と産廃処理業者に対して住民訴訟( 平成1(行ウ)9)が提起された事件。 ◇89年(平成元年) 「福山市汚土事件」で父親の塩村一氏逮捕。父の暴力団との繋がりも明らかになる。 □91年(平成3年)4月 広島県福山市立鷹取中学校入学 □94年(平成6年)4月 岡山県岡山市の私立就実高等学校入学。 高校時代は寮に入寮。 http //shiomura-ayaka.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-940c.html >高校の寮時代は毎日一緒にいたな~! □96年(平成8年) 高校在学中にスポーツ用品販売会社アルペンのイメージガールコンテストに応募して準グランプリ。 □97年(平成9年)4月 共立女子短期大学に入学。大学には、高校の指定校推薦で入学。 http //ascii.jp/elem/000/000/454/454093/index-3.html >小さいときからずっとアイドルに憧れていて、高校に入るころには >自分もグラビアアイドルを目指そうと考えていました。 >でも親の反対もあったし、実家は広島。上京する口実を作るために、 >親に内緒で東京の短大の指定校推薦を決めちゃったんです。 所 属:オフィスパレット サイズ:T163.B84.W60.H86.46K(1997) http //www.tisen.jp/pukiwiki/?%A5%B9%A5%B3%A5%E91997 ◇97年(平成9年)9月 講談社『スコラ』1997年09/11号にてグラビア ◇97年(平成9年)12月28日 『スーパーJOCKEY』熱湯コマーシャルのコーナーに出演。 ◇98年(平成10年) 『第3回ミスヤングマガジン』(準グランプリ)に選出。 ※写真は当時のヤンマガ(98年03/9号)に掲載されたもの。 ※こちらは表紙に掲載された98年03/9号。 ※第3回ミスヤングマガジン(98年) グランプリ ・柴田あさみ 特別賞 ・山川恵里佳 準グランプリ・塩村文夏、綾瀬のぞみ(現:小清水希)、雑部いづみ http //www.geocities.jp/fooming/data/newkaredonia.html ◇98年(平成10年)3月 第8回ニューカレドニアプリンセスコンテスト グランプリ ・豊浜 美和 準グランプリ・菊川 怜 審査員特別賞・塩村 文夏 ◇99年(平成11年) ニッポン放送と平塚競輪場がタイアップして募集をした、 平塚競輪マスコットガール「ウィンディ君の恋人」の3名のうちの一人に選ばれる。 00年5月までキャンペーンガールを務める。 ※キャンペーン当時の写真 http //www.netlaputa.ne.jp/~peach/tms99/map400/map2.htm ◇99年(平成11年)10月22日~11月3日 第33回 東京モーターショー 1999(幕張)にてコンパニオンを務める。 ※担当はスズキのブース。 http //web.archive.org/web/20090419225147/http //www.motormagazinesha.co.jp/medialog/ms2001/c/4i/253.html ◇01年(平成13年)10月26日~11月7日 第35回 東京モーターショー 2001にてコンパニオンを務める。 ※担当は米国クライスラーのPTクルーザー。 ------------------------------------------------------------------------------- ■宇川徹(2輪世界GPライダー) http //carnifty.cocolog-nifty.com/shiomura_ayaka/2007/10/post_b38d.html >その時の私の立ち位置と、いまの立ち位置は変わってしまっています。 >それによって態度が変わってしまった人が多い中、阿部さんは本当に昔と変わらず接してくれて、 >私は心の中で感謝をしていました。 ※阿部ノリックと最初の面識は98年ということが分かる。 当然宇川のツテでの面識、ということになる、と容易に推測できる。 つまり、短大在学中のグラビアアイドル駆け出し時に宇川と知り合い付き合い始めた、と推測される。 ※千葉県松戸出身の宇川は両親の離婚で母に育てられ、姉ひとり。 http //matome.naver.jp/odai/2140410600896527601? page=2 >恋のから騒ぎ 第619話 「彼の器の小ささが見えた瞬間」 >彼氏とその家族と同棲していたのであるが、3,4年もすると、いろいろと軋みが生まれる。 >たとえば、彼氏の母と姉のところに行くと、2人が一緒にいて楽しそうにしているのだが、 >塩村が来た瞬間、どこかに消えてしまったり。親戚から電話がかかってきたとき、 >彼氏の母に取り次ぐように言われたとき、親戚は、彼氏が結婚していないのになぜ知らないに女性がいるのか不思議に思った。 >親戚は、彼氏が結婚したか否かを母に聞いたらしく、母は、 >「新しく建てた家に、(母と彼氏と姉と)3人で暮らせると思ったら、よく分からないの(塩村)が入ってきて、辛いんですよ」 >とか言い始めて。はじめ、バリバリ、煎餅を食べながら、聞いていたのに、煎餅も口を通らなくなってしまった。 ※02年に宇川と破局をしている塩村。『から騒ぎ』での発言から、 「3、4年」宇川の母、姉とともに宇川と同棲していたことが分かる。 つまり98年頃(塩村19~20歳くらい)には同棲を開始していたということに。 □01年(平成13年)頃 芸能活動(グラドルなど)を一旦休止 ※欧州でGPロードレーサー宇川徹にヘルパーとして帯同することとなった為の、事実上の芸能活動引退。 □02年(平成14年) GPロードレーサー宇川徹のロードレース世界選手権MotoGP転戦に帯同。 ※02年頃破局? 1500万ゲッツは多分ココ ※宇川徹は06年に現役引退後、結婚。 ------------------------------------------------------------------------------- □03年(平成14年) イギリスに語学留学。場所はブライトン。 ブライトンは観光都市で、語学留学の定番中の定番の場所。 ※お金を払えば誰でも留学できる、とも言う。 恋のから騒ぎ 第633話では、留学の理由を「彼氏から逃げる為」と本人談。 ※元彼から1500万円の慰謝料をもらってイギリスに留学した。 その彼の部下イギリスまで塩村文夏さんを口説きに行った。 本人によると、語学留学は1年間。 >「言われてみれば。40分ディレイなんてザラだったなぁ、ブライトン。」 https //twitter.com/shiomura/status/54743165307068416 >「イギリスに戻りたい。ブライトンで勉強したい。しっかり遊びたい。 >ティちゃんに会いたい。もう会えないのは寂しい。悲しい。 >一緒にスイスに旅行したのを思い出す。お金がなくても楽しかった。 >何にも変えがたい日々だったんだな。思い出は思い出のままに、、だね。」 https //twitter.com/shiomura/status/65443522580463616 □04年(平成15年) オーストラリア・パースのカレッジ(Perth International College of English)に入学。 ケンブリッジ英検準備(FCE)コースを受講。 http //www.sunsetdreams.com.au/school/english/pice.php?PicID=1 http //www.languagecourse.net/discount-ryugaku/gakko-perth-international-college-of-english-perth.php3 http //www.macslink.com/column/content/1113798963/ 第24回 塩村 文夏さん(Perth International College of English) (2005/08/11 19 31更新) http //archive.today/diV0Z >Australian School of Tourism and Hotel Management >“The high quality training and friendly and professional staff have made my studies very enjoyable and >rewarding at the Australian School of Tourism and Hotel Management.” >Ayaka Shiomura > Japan > Student 2004 □05年(平成16年)~06年(平成17年)頃 豪州のカレッジ在学中にカンボジアの航空会社に合格。 最初は広報として働き、CAとしてフライトも一回経験。 航空会社は不明だが、当時の状況からアンコール航空(Angkor Airways, 呉哥航空)と思われる。 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AB%E8%88%AA%E7%A9%BA http //ascii.jp/elem/000/000/454/454093/index-2.html >その後1年間、イギリスに語学留学して、オーストラリアのカレッジに入り、 >ホテルやレストランでお客様をどのようにおもてなしするか、 >そしてそれをどう運営していくかというHospitality Managementを >一年半ほど学びました。そうこうしているうちに、 >カンボジアの航空会社に受かったんです。 >でも、最初は広報として働いてたんです。やっとフライトアテンダントとして1回飛べたところで、 >日本から直行便を飛ばすという計画自体が頓挫しちゃって。 http //carnifty.cocolog-nifty.com/shiomura_ayaka/2009/02/jaia-vol1-6f25.html ■韓国人の彼氏 >実は...留学時代に韓国の方とお付き合いをしたことがあり、その人がとてもいい人だったんです。 >だから、韓国製のおクルマに興味があったんですよね。 □06年(平成18年)末頃~07年3月頃 日本に帰国後からの数か月間、自動車評論家・小沢コージに師事。「眞野夏帆」のペンネームを使用。 小沢の弟子は実質3ヶ月で辞め、07年春には独立している。 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B2%A2%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B8 (左写真・小沢コージと眞野夏帆) http //koji-ozawa.sakura.ne.jp/2007/ >さようなら眞野夏帆… >エイプリルフール!? ではなく唐突なことに、本HPで好評連載中の「眞野夏帆 幸せに結婚したい人のクルマ選び」が >一身上の都合により3月末で終了することになりました。ちょっとしたステキな嵐でした。 >またの新コーナーにこうご期待! 懲りずにさらなる美人? もしくは美男が!?? □07年(平成19年)4月~08年3月 明石家さんまが司会を務めるテレビ番組『恋のから騒ぎ』(日本テレビ)の第14期生として、 同番組に1年間、全47回にわたって出演 参考(塩村文夏登場シーンまとめ動画) 「塩村文夏 都議会議員 みんなの党 塩村文夏(あやか)の『恋の 」 https //www.youtube.com/watch?v=1xaRy-aI9r0#t=184 □07年(平成19年)6月5日~ カニリカが講師を務める女性放送作家講座に参加。 http //kanirica.eplus2.jp/article/43083907.html http //shiomura-ayaka.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-9bfa.html □07年(平成19年) 『恋のから騒ぎ』出演後、放送作家の見習いとしての活動を始める。 ※構成作家としてオフィス・トゥー・ワンに所属。 □08年(平成20年)頃 構成作家としてギャラを得られるようになる。 http //ascii.jp/elem/000/000/454/454093/index-3.html >「恋のから騒ぎ」収録中にひな壇からスタジオを眺めていたら、ひとりの女性が目に留まったんです。 >ディレクターさんでもADさんでもない、何をしてる人なんだろうと思っていたら、その方が構成作家さんだったんです。 >そこで初めて構成作家というお仕事を知って、自分の意見や考えたことが番組になって全国に流れるってスゴい! >私もやりたいと思いました。 >その最中に制作会社の方から「見習いとしてやってみないか」とお誘いを受けまして。しかもちょうど日本テレビの番組だったので >「恋のから騒ぎ」のことを覚えている方も多くて、その縁でいくつかの番組で見習いを経験させてもらいました。 >見習いの1年間、ギャラは出ませんでした。ライターのお仕事をこなして生活費を稼ぎつつ、見習いとしてもフルで働いていたので、 >睡眠時間が1日2時間弱という状態で1年間。この時期が一番キツかったです。構成作家としてギャラをいただくようになっても、 >最初のうちは一回きりの特番が主で、安泰とはとても言えませんでしたね。 放送作家として入った番組では、 「ナンシー塩村」の名義で自らも何度か番組に登場している。 http //carnifty.cocolog-nifty.com/shiomura_ayaka/2008/09/post-b5e8.html ●08年(平成20年)9月16日 ポルシェ986ボクスター購入。 http //shiomura-ayaka.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-5f15.html ◆09年(平成21年)11月 >ココまで読んだ方なら分ると思うけど、はい、失恋しちゃいました。 ●10年(平成20年)10月 大田区に引っ越し。 https //twitter.com/shiomura/status/27626212676 >大田区に引っ越したらtvkが見られるようになりました。 ------------------------------------------------------------------------------- ■トヨタ関連の御曹司 ●11年(平成23年)7月~8月頃 大田区から南青山に引っ越し。 ※トヨタ御曹司のマンションに移るにあたり、荷物等を徐々に移したとみられる。 http //shiomura-ayaka.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/cat-4804.html ◆11年(平成23年)7月2日 >暑さ対策のため、表参道にお引越ししました。 ※御曹司の家の南青山3丁目は表参道駅徒歩1分。 https //twitter.com/shiomura/status/108430959464034304 >大田区に戻って引っ越し準備。 >ああ、転出届もいるわね。 ※御曹司が学生時代の同級生との結婚に失敗した後 アイドル崩れ女たちとの合コンで塩村と知り合い その2週間後に、「猫を預かってください」と御曹司の家を訪れ、 気がつけばそのままマンションに転がり込んでいたとのこと。 (ソース・『週刊新潮』2014年7月10日号) http //blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1801299.html ●11年(平成23年)9月14日 「加藤茶 仲本工事さん、、。ぶっちゃけ気持ち悪いと思うのは私だけ?」とツイート http //ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%AD%E6%96%B0%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%A1%BE □12年(平成24年)3月 開講した維新政治塾に応募、同年6月に第一期塾生となる http //carnifty.cocolog-nifty.com/shiomura_ayaka/2012/03/6-is250-399f.html ●12年(平成24年)3月2日 レクサスIS250納車時点での、塩村自宅のナビ設定は南青山3丁目10番地。 >デスク「目的地設定を承りますが、いかが致しましょうか? >塩村 「はいお願いします。じゃあ自宅を。」 >デスク「畏まりました。東京都港区南青山に御座いますご自宅で御座いますね?」 >塩村 「はい、そこでお願いします。」 > >音声&ナビ設定画面 >http //youtu.be/Kg52GKgqgWc?t=47s http //e-room.co/address/3636.html 港区南青山3-10-30南青山ライズハウス 家賃 500000円 3LDK ●12年(平成24年)4月 http //carnifty.cocolog-nifty.com/shiomura_ayaka/2012/04/index.html >「お姉さん、東京の人でしょ!」とまた唐突に話しかけてきた江頭6時10分。 >ビンゴだったので「正解!」というと、(略 >私は本を読みたかったけど、仕方なく江頭6 10分の話に付き合うことにし、 >新宿ではないと言うと、「じゃあ、池袋でしょ!」。 >「いえ、青山です(相方にヤドカリだけど)」と答えました ●12年(平成24年)9月 http //carnifty.cocolog-nifty.com/shiomura_ayaka/2012/09/index.html 気になっていたおクルマ「プリウスPHV」vol.1 2012年9月16日 (日) 気になっていたおクルマ「プリウスPHV」vol.2 2012年9月25日 (火) >私は都内在住なので駅が徒歩圏の何駅もあって >自宅のマンションで充電をしようと >三田からうちまでは6kmはあるので、 □12年(平成24年)11月13日 地域主権型道州制国民協議会の港区第2支部を結成。 http //www.dousyusei.jp/topic.php?t_no=16 >竹下友浩板橋区支部長の紹介で塩村文夏氏を支部長として港区に第2支部が誕生しました。 > >塩村文夏支部長は放送作家として活躍中の多才な女性です、 >地域主権型道州制国民協議会に新風を吹きこみ、 >大いに活躍されるよう期待します。 http //megalodon.jp/2014-0702-1511-56/www.dousyusei.jp/shibu_order.php?serial=92 東京都港区第二支部 住所 東京都港区南青山3-10-30-103 支部長 塩村 文夏 (左写真・東京都港区第二支部) □12年(平成24年)12月24日 https //twitter.com/shiomura/status/283459133443813376 港区選挙管理委員会に問い合わせ。 ※維新政治塾の終了も近く、立候補に向けた動きの端緒か。 □13年(平成25年)2月 維新政治塾を卒業 http //shinpei3.blog102.fc2.com/blog-entry-93.html >2月9日 維新政治塾修了式 >修了式終了後、私は同志達と企画していた、名刺交換会のセッティング。 >主宰で親友の塩村文夏女史が司会をし、 http //asumaken.blog41.fc2.com/blog-entry-8307.html ●13年(平成25年)3月 3月現在、住所は港区南青山。 ※トヨタ御曹司の住所は港区南青山。 ------------------------------------------------------------------------------- ■三谷英弘(みんなの党倫理委員長で弁護士資格を持つ衆議院議員) ※昭和51年6月28日生まれ(蟹座 A型) 家族:妻、長女、次女 □13年(平成25年)3月15日 >みんなの党が都議選(6月23日投開票)の新たな公認候補予定者を発表。 >▽塩村あやか(34)=世田谷区 >塩村さんを引っ張ってきたのは、党の倫理委員長を務める弁護士出身の三谷英弘衆議院議員です。 >みんなの党の世田谷区にはすでに他の候補がいたんです。(註: 日比靖昌・みんなの党東京都議会第19支部長 ) >ところが、三谷さんは候補者選定の際に党本部に >『塩村といういいのがいるので、自分の地盤の世田谷区から出したい』と報告し、塩村さんを後押しした。 >塩村さんの選挙事務所も三谷さんが提供し、まさに二人三脚で選挙戦を戦っていた(略)」 (週刊文春2014年7月3日号) □13年(平成25年)3月27日 世田谷選挙区から、塩村氏よりも先にみんなの党公認都議選候補となっていた 日比靖正氏が、選挙区調整の結果、立候補を辞退することとなり、 政治団体の解散届けを提出。 これによりみんなの党世田谷選挙区は塩村氏に候補を一本化。 http //shiomura-ayaka.com/2013/10/04/news-529.html □13年(平成25年)3月24日~8月2日(参院選を挟み荷物撤去は8月上旬) 世田谷の事務所(世田谷区駒沢2-6-1-2F)を借りて、政治活動および選挙活動 ※事務所を紹介したのは不倫疑惑とされたみんなの党・三谷英弘 ※事務所開きには、トヨタ関連企業の重役を務める40代男性が駆けつけている。 選挙スタッフの間では、この男性は“塩村都議の婚約者”で通っていた(ソース・『週刊新潮』7月3日号) http //shiomura-ayaka.com/2013/04/08/news-174.html □13年(平成25年)4月8日 政治家としてのオフィシャルサイト開設 □13年(平成25年)6月14日 2013年東京都議会議員選挙へ世田谷選挙区からみんなの党公認候補として出馬。 余談だが、選挙期間中、選挙カーに乗ったウグイス嬢3名はいづれもタレントやモデルの仲間である。 まず「恋のから騒ぎ第14期」で一緒だった小倉星羅。 つぎにモデルの塔筋真弓(美人時計モデル) 。 最後にフリーアナウンサーの市川えり菜。以上3名が選挙カーでウグイス嬢を務めた。 □13年(平成25年)6月23日 2013年東京都議会議員選挙の開票の結果、世田谷選挙区(定数8)で23,621票を得て6位で初当選。 ●13年(平成25年)7月 参議院選挙の比例代表でのみんなの党の政見放送に、 都議選当選から一週間足らずの塩村都議が、渡辺喜美代表と共に出演。 参考 Youtube「政見放送 NHK 2013参院選 比例代表 みんなの党」 https //www.youtube.com/watch?v=wq6SfY7H3G4 (6分20秒頃から塩村都議が登場) ※都議選立候補時の、届け出た住所は「世田谷区三軒茶屋二丁目2番11-401号」 この場所には「三軒茶屋プラザ」というマンションが建っている。 https //web.archive.org/web/20130622172154/http //www.h25togisen.metro.tokyo.jp/pdf/rikkouhosya_ichiran.pdf 「三軒茶屋プラザ」の部屋情報によると、賃料は14万円/月、敷金2、礼金1。 これを参考として、敷金礼金家賃半年を一括すると126万円という数字となる。 http //www.hiroo5161.com/blog/?p=12 ※ちなみにこの「三軒茶屋プラザ」は現在(註:14年8月)は解体されており、新しい建物が建築中である。 (三軒茶屋プラザ跡地・2014年8月撮影) また、これまで塩村氏の事務所として使われてきた祖師ヶ谷大蔵事務所(世田谷区砧8-8-20 吉浦ビル1F)が このころ引き払われた模様である。 参考 塩村あやか公式ページ(2013年6月30日Webアーカイブ) http //archive.today/ytByr 祖師ヶ谷大蔵事務所のGoogle Earthの画像が、6月にはあった塩村事務所が 7月には引き払われた様子がはっきりと残っている。 (2013年6月) (2013年7月) ◆13年(平成25年)7月頃 おそらくこのあたりでトヨタ御曹司と破局。(興信所が内偵のち強制離縁) ※手切れ金として赤レクサス、1000万円、世田谷マンションの敷金と 礼金半年分の家賃などを支払った。御曹司と破局したのは議員になった翌月。 (ソース・『週刊新潮』2014年7月10日号) ------------------------------------------------------------------------------- ◆13年(平成25年)8月末から9月頃 三谷英弘議員が、世田谷用賀に事務所を新規開設。 事務所所在地は世田谷区用賀4‐11-17グリーンハウスNo.6 404号室。 ※この事務所は三谷と塩村、世田谷区議会議員すえおか雅之の共同事務所。 奇しくも塩村が駒沢の事務所を退去した直後に開設。 8月、9月は塩村都議と三谷代議士の二名の共同で賃借。 10月頭に二人の不倫報道がフライデーされたのを機に、末岡区議に共同使用者に加わってもらう。 ◆ しかし都議選後、二人の間に微妙な空気が流れ始めたという。(中略) 「塩村氏は選挙資金を三谷氏に頼っていたようで、そのお金のことでもめたようです。(中略) 感情的なもつれにならないよう三谷氏の友人の弁護士が間に入って、話し合いを続けています」 (前出・党関係者) 「週刊文春」(2014年4月24日号) ------------------------------------------------------------------------------- ■太田匡彦(朝日新聞 元AERA記者) ※東大卒でJTB、読売新聞(東京本社)を経て01年に朝日新聞に入社経済部で流通を担当した後、 07年から13年3月まで『AERA』編集部に在籍。 父親は太田光明・麻布大学獣医学部教授。 http //www.azabu-u.ac.jp/teacher/va/ohta_mitsuaki.html ◆13年(平成25年)頃 塩村とは動物愛護活動を通じて知り合った(週刊文春2014年7月3日号) http //blog.goo.ne.jp/wanwan3111/e/ac71802546ce4a4b9a861ab999d2a7a7 ※著書「犬を殺すのは誰か」のあとがき(10年8月に執筆)では、 「夫婦共働きなので昼間は長時間の留守番をしており」とある。 ◆『週刊朝日』が塩村都議の事務所経費問題に関する取材を進めていたところ、 『AERA』編集部に在籍していた男性(太田匡彦)が、「自分は(塩村都議の)婚約者だ」と介入 (ソース・『週刊新潮』7月3日号) ●13年(平成24年)10月13日 駒沢の選挙事務所家賃の請求にたびたび訪れる大家さんを 塩村都議は「ストーカー」と認識し、警視庁玉川警察署へと相談に出向く。 ●愛車レクサスのナンバー(番号0076)が前後共に盗難に遭う。 修理とナンバー変更の為、しばらく代車を使用。 https //twitter.com/shiomura/status/401041732399161344 ●13年(平成24年)12月26日 駒沢大家の横溝氏が、民事被告乙2の男性と共に東京都庁を家賃請求に訪れる。 来訪を察知した塩村都議は「たいへん 横溝(註:大家さん)が来た! たすけて」と 携帯からメールを送って逃亡。 大家さんらは都庁4階のみんなの党TOKYO(当時)控え室に行くも、 控え室には両角穣都議と、音喜多駿都議しかおらず。 音喜多都議が大家さんに対応をし、塩村都議逃亡の時間を稼いだ模様。 (後日大家さんは両都議へ謝罪を要求。) ●14年(平成25年)1月28日 東京都知事選の選挙戦で、細川護煕元首相が候補として 三軒茶屋キャロットタワー前にて街頭演説。 みんなの党の地方議員達は細川陣営の応援へと入っており、 塩村都議も公式の運動員の腕章をつけビラを配布。 ここに駒沢大家の横溝氏と、民事被告乙2の男性がラミネートのプラカードを手に 「家賃を払え!」とアジり塩村都議へと突撃を敢行。 ●14年(平成25年)2月 塩村都議が原告となり、東京地裁に民事訴訟を提訴。 (東京地方裁判所・平成26年(ワ)7625号「債務不存在確認等請求事件」) 被告乙1が横溝眞由美氏(選挙事務所の大家さん)、乙2が横溝氏支援の男性、 そして被告丙として三谷英弘氏(当時衆議院議員)。 民事訴訟の提訴を受け、大家さんに「面会強要禁止等」の仮処分決定が出される。 (これは罪がある事を示すものではなく、単に状況を保全するための決定。) http //shiomura-ayaka.com/2014/03/18/news-655.html ●14年(平成25年)3月18日 都議会の厚生委員会で動物愛護 女性施策等について質問 ●14年(平成25年)5月 塩村都議に民事訴訟を提訴された大家さんが、塩村都議を反訴。 (東京地方裁判所・平成26年(ワ)10938号) 被告は塩村文夏氏、および三谷英弘氏。 □15年(平成26年)6月18日 都議会本会議の定例会一般質問で、塩村都議が晩婚化対策に関する質問を行う。 この質問の最中に、「早く結婚したほうがいいんじゃないか」などと 性差別的な野次が飛ばされたとして、連日報道を騒がす事態に発展。 塩村都議の質問光景がニュースで次々と流され、一躍時の人となる。 □14年(平成25年)8月19日 みんなの党が定例記者会見の中で、東京都議会でのヤジ問題について、 発言者が特定されていないヤジについての声紋鑑定実施を断念した、と発表。 この問題では塩村都議は、「産めないのか」といった「出産に関するヤジ」を受けたと主張しており、 都議会所属会派のみんなの党Tokyoでは民間の鑑定機関への声紋鑑定の依頼を検討。 しかし鑑定機関側からは「雑音が大きすぎることなどから発言者の特定が技術的に困難」と回答があったとのこと。 http //www.yomiuri.co.jp/national/20140819-OYT1T50100.html?from=tw ●14年(平成25年)9月 三谷英弘氏が、駒沢の大家さんからの請求のあった家賃相当額を完済。 13年8月に一端50万円を支払っていた三谷氏は、13年12月に20万円、 14年1月~9月に毎月10万円づつを大家さんへと支払った。 全ての合計は160万円となり、大家さんの請求額と一致。 この完済を受け、大家さんは10月7日に三谷氏への反訴を取り下げ。 塩村都議の提訴の被告からも取り下げられ、被告から外れる。
https://w.atwiki.jp/filinion/pages/266.html
https://w.atwiki.jp/wwenorider/pages/43.html
NWA-AWA 幼少時代からリック・フレアーに憧れ、高校在学時にプロレスラーになることを決意した[要出典]。また、JBエンジェルスの熱烈なファンであり、特に山崎五紀には心酔している。18歳の頃にホセ・ロザリオに師事し、1984年9月8日に地元サンアントニオ地区のテキサス・オールスター・レスリングにてアート・クルーズを相手にデビュー。ポール・ダイヤモンドとのタッグチーム「アメリカン・フォース」でキャリアを積み、海外武者修行中だった冬木弘道と川田利明の「ジャパニーズ・フォース」との抗争も行われた[1]。 1985年にNWAセントラル・ステーツ地区(ミズーリ州、カンザス州近郊)においてマーティ・ジャネッティとミッドナイト・ロッカーズ を結成し、セントラル・ステーツ・タッグ王座を獲得。その後ダラス地区などを転戦し、1986年にAWAに移籍(AWAでは当初「USエクスプレス」と名乗るプランもあった)。翌1987年1月にAWA世界タッグ王座を獲得した。同年夏にWWF(現・WWE)と契約するが、ナイトクラブでの乱闘事件が元でわずか2週間で解雇される[2]。その後、ミッドナイト・ロッカーズはAWAに戻り、再びAWA世界タッグ王座を獲得。なお、当時のAWAには後にマネージャーを務めるシェリー・マーテルや、後世に語り継がれる名勝負を残すことになるスコット・ホールも在籍していた。 WWF 1988年、チーム名をザ・ロッカーズに改め、再びWWEと契約を交わした。後のライバル "ヒットマン" ブレット・ハート率いるハート・ファウンデーションなどと抗争を繰り広げ次第に人気を高め、1992年、相棒のマーティ・ジャネッティと決別し、ヒールのシングルプレイヤーに転向した。その年には初のシングルタイトルとなるIC王座を獲得した。その後、しばらくはかつての相棒ジャネッティなどと抗争を繰り広げるが、その頃はまだ中堅クラスという感は否めなかった。そんな状況を脱するきっかけは1994年のWrestleMania Xで訪れた、レイザー・ラモンとのラダー・マッチである。ショーンは敗れたものの、双方ともに実力を出し切ったこの試合によってショーンの名前は全米に広がり、広く実力も知られるようになった。 1995年、ロイヤルランブルにおいて優勝し、WrestleMania XIではディーゼルの持つWWF王座に挑戦したが敗れた。WrestleMania XI後はベビーフェイスに戻り、1996年には再びロイヤルランブルを制しWrestleMania XIIにおいてブレット・ハートとWWF史上初のアイアンマン・マッチを行い、延長戦の末勝利。初のWWF世界ヘビー級タイトルを奪取した。しかし、この時の経緯を巡りブレット・ハートは激怒し、彼との間に大きな確執を残すこととなった。 名実ともにWWFの頂点に立ったショーンは、ブレットが長期休養を取ったこともあり、マンカインド、ベイダー、ブリティッシュ・ブルドッグらを相手に防衛を重ねるが、サバイバー・シリーズでサイコ・シッドにWWF王座を奪われた。翌1997年1月19日、地元サンアントニオのアラモドームに6万人超の観客を集めたロイヤルランブルで王座を奪回するが、この試合で膝を痛め王座返上し、レッスルマニア13には不出場。しかし、これは直前にブレットが契約更改で、ビンス・マクマホンから高額な契約金を引き出したことに対しての試合ボイコットであった、という説もある。 1997年秋、再度ヒールターンしてハンター・ハースト・ヘルムスリー、チャイナらとD-Generation Xを結成。再びブレット・ハートと抗争を繰り広げた。9月20日にはブリティッシュ・ブルドッグからWWF欧州王座を奪取し、WWF史上初のグランドスラムの快挙を達成する。同年11月にモントリオールで開催されたサバイバー・シリーズで、既にライバル団体WCWへの移籍が決定していたブレットとのWWF世界ヘビー級タイトルマッチの最中、ショーンがブレットの必殺技のシャープ・シューターを繰り出した瞬間、突如としてショーンの勝ちが宣告される不可解な事件が起こった(モントリオール事件を参照)。最大のライバルであったブレットはWWFを去ったものの、この頃から長年に渡るハードな受身が災いし、持病の椎間板ヘルニアが悪化した。様々な治療やリハビリを試みたがこの時点では回復は困難と見られ、1998年3月29日、WrestleMania XIVでのストーン・コールド・スティーブ・オースチン戦を最後に引退した。 1998年-2002年 引退後は故郷サンアントニオに戻り、プロレスリング・スクール兼WWFファーム団体のTWA(Texas Wrestling Academy)を設立し、後進の育成に励んだ。TWAには若手時代のタッグパートナーでありAWAやWWFでも活動を共にしたポール・ダイヤモンドもトレーナーとして協力しており、卒業生にはブライアン・ケンドリック、ポール・ロンドン、ランス・ケイド、ブライアン・ダニエルソンなど後にWWEで活躍する選手も多い。 また、この時期にはストーリー上WWFのコミッショナーに就任して、テレビにその姿を見せることもあった。1999年11月23日に横浜アリーナで行われたFMW10周年記念大会では、特別レフェリーとして久々の来日も果たしている。私生活においては、親友ケビン・ナッシュの紹介で出会った元ナイトロ・ガールズのレベッカ・カーチと結婚した。 WWE 2002年、nWoの新メンバーとして衝撃の復帰を果たしたが、ケビン・ナッシュの負傷に伴いnWoが崩壊。その後トリプルHと抗争が始まり、SummerSlam 2002でのトリプルH戦(団体未公認試合)でついにリングへの復帰を果たした。さらにSurvivor Series 2002でのエリミネーション・チェンバー・マッチで初の世界ヘビー級王座を獲得。2003年にはWrestleMania XIXでクリス・ジェリコと戦った。 2003年は世界ヘビー級王者トリプルH、あるいはその派閥エボリューションとの抗争を続け、年末からはトリプルHとの試合を繰り返した。ロイヤルランブル覇者クリス・ベノワが王座への挑戦権を得たため、WrestleMania XXではトリプルH、ベノワと三つ巴戦でメインイベントに出場した。翌月のBacklashでの再戦ではモントリオール事件がテーマとなり、ブレット・ハートと関係が深いベノワのシャープシューターにタップアウトした。以降はトリプルHとの抗争に戻り、バッド・ブラッドでのヘル・イン・ア・セルでの決着に至った。翌日のケインの襲撃を期に長期欠場に入った。復帰後はケイン、あるいはエッジと抗争。 2005年のRoyal Rumble 2005以降、SmackDown! 所属のスーパースターであるカート・アングルとの抗争を開始し、WrestleMania 21の番組対抗戦で対決するも敗北。WrestleMania 21以降は一時復活したハルク・ホーガンとチームを組み、Backlash 2005までモハメド・ハッサン、デバリの嫌米チームと抗争。6月に行われたドラフトでカートがRAWへ移籍し、Vengeance 2005で再戦し雪辱を果たす。7月4日に開催されたRAWでのマイケルズ&ホーガンvsカート&クリス・マスターズ戦の試合終了後、突如ホーガンにスウィート・チン・ミュージックを浴びせヒールに転向。以降ホーガンとの抗争を開始する。SummerSlam 2005のメイン戦でホーガンとの対決には敗れたが、再びベビーとなった。秋からは同じくベビーターンしたリック・フレアーと組み、マスターズと抗争を開始。マスターズとの抗争を終え、USAネットワークに戻ったRAWでカートとのアイアンマン・マッチを行った。その後SmackDown!との一連の抗争ではRAWの主将を勤めた。 2006年からは、「モントリオール事件」についても語られている、ブレット主演のDVDの発売に絡んで、ビンス・マクマホン、シェイン・マクマホンと抗争。Saturday Night Main Eventでのシェイン戦は、シェインがショーンに対してシャープ・シューターを出した瞬間にビンスがゴングを要請して試合が決着するという、モントリオール事件を再現するアングルが組まれた。WrestleMania 22ではビンスとのストリート・ファイト戦が行われた。以後もマクマホン親子との抗争は続き、7月、トリプルHと組み、9年ぶりにD-Generation Xを再結成した。 2007年にはロイヤルランブルで激闘の末、ジ・アンダーテイカーに敗れた。 同年、ランディ・オートンに頭を蹴られ(というストーリー。本当は足の怪我)欠場していたが、ノー・マーシーの翌日のRAWでいきなり復活した。その後はオートンなどと抗争。 2008年ロイヤルランブルでアンダーテイカーと共に1番手として出場したが、Mr.ケネディに落とされた。 WrestleMania 24では、ビンスにより試合に負けたら即引退を課されていたリック・フレアーと対戦。そしてこれに勝利し、フレアーを引退へと導いた。 その後もクリス・ジェリコ、JBLなどとの抗争で番組の中心として活躍するが、アルマゲドンにて景気悪化の煽りを受け破産状態になったと「告白」、JBLの"従業員"となって彼の試合に介入、観客からブーイングを浴びると共にトリプルHとの仲も微妙になり、悩めるベビーフェイスとして葛藤の日々が続いた。 しかし2009年のノー・ウェイ・アウトで行われた、マイケルズが勝ったら今までの報酬が全て支払われるが負ければHBKやショーン・マイケルズの名前の権利がJBLに奪われるという"オール・オア・ナッシング"マッチに見事勝利し、ハート・ブレイク・キッドが復活した。 2月のRAW放送ではそれまで無敗を誇っていたウラジミール・コズロフをスウィート・チンで下すなど破竹の快進撃を続け、WrestleMania25でジ・アンダーテイカーの16勝0敗という記録を破ると宣言。 その後のRAW及びSmackDownにおいてあの手この手でテイカーを挑発、翻弄するが、WrestleMania25本番ではテイカーの無敗記録を破る事はできずマットに沈んだ。このWrestleMania25後は長期休養に入った。 その後8月のRAW放送においてオートン率いるレガシーのコーディ・ローデスとテッド・デビアスとのハンディキャップマッチに敗れたトリプルHが「テキサスに電話を一本かけるか」とDX復活を示唆。翌週テキサスに飛び、とある会社の食堂でシェフをしていたショーンを発見する。ショーンは「会社は尊敬してくれる」と言ったが直後に上司に罵倒され、スウィート・チンで撃沈。DXが再結成した。(このスキットは映画「レスラー」のパロディ) 再結成後はレガシーのローデス&デビアスと抗争。WWE Breaking Point 2009では史上初の試合形式であるサブミッション・カウント・エニウェア・マッチで闘うが、ローデスの鉄柱4の字固め、デビアスのミリオンダラー・ドリームのダブル攻撃に屈してしまい、DXとしては初めてのタップアウト負けを喫した。 しかし次PPVのHell in a Cell 2009では勝利し、決着がついた。 12月に開催されたTLC Tables, Ladders and ChairsでのTLC戦でクリス・ジェリコ ビッグ・ショー組に勝利し、統一タッグ王者となる。
https://w.atwiki.jp/springwater/pages/167.html
作山 若子氏 Sakuyama Wakako株式会社 和みblogNATULURE<ナチュルア>和顔愛語<わがんあいご> 経歴 1970年生まれ 38歳 1988年 高校卒業後、株式会社ヨークマツザカヤ入社 1990年 株式会社ユナイテッドスティール(現ユニマットライフ)入社 2002年 同社退社、半年後有限会社 和み設立。 2004年 資本金増資、株式会社へ組織変更 有機栽培やフェアトレードのコーヒー・紅茶・日本茶・中国茶・ハーブティーなどの飲料品を取り扱う、株式会社 和みを経営。自社ブランド「NATULURE」「和顔愛語」商品および原料の卸売、OEMによる商品開発事業のほか、直営店舗やWEBでの小売販売事業を展開する。 「人と自然を結ぶ」をキーワードに、ワンストップで原料の輸入から、企画、製造、販売に携わることで、生産者の生活と消費者の健康の双方への貢献を実現している。またユニークな社員教育方法でも注目を集めている。 24歳のときに飲料品を販売する株式会社ユナイテッドスティールで全国トップの営業成績を収め、その後も営業の第一線で活躍。管理職という立場ながら、出産・産休の後に職場に復帰するなど仕事と育児とを両立するなどバイタリティに溢れる女性の生き方を実現していた。出産と育児をキッカケに飲料品生産の劣悪な現場環境への問題意識を強くし、自らが納得できる商品を販売するために独立し、2002年有限会社 和みを設立。 JAS及び自社基準に基づいたオーガニックな飲料品を通して消費者へ健やかな生活を提供している。また生産者に適正な報酬を支払うフェアトレード取引を行うことにより、海外の生産者への生活支援と生産力向上を目指している。 作山社長講演の直伝セミナーは10/18開催! 詳細はこちら ※当ページの内容は変更になる可能性がございます。 当ホームページ掲載の記事、写真、イラスト等の無断掲載を禁止します。 Copyright (C) SpringWater. All rights reserved.
https://w.atwiki.jp/springwater/pages/114.html
近藤 昇 Kondo Noboruブレインワークスグループ CEO株式会社ブレインワークス 代表取締役 経歴 1962年 徳島県生まれ 神戸大学建築学科卒業 1級建築士、1種および特種情報処理技術者 1993年 有限会社ブレインワークスを設立 1995年 有限会社ブレインワークスを株式会社化 1998年 ベトナム・ホーチミンにビジネス進出 2006年 ベトナムにITエンジニア育成学校「SGBJ(サイゴンブレインジャパン)」設立 ブレインワークスグループは中小企業支援を中核に、日本国内、アジア地域で活動を展開。 企業の経営革新を実現するペースメーカー(伴走者)として、人材育成支援、セキュリティ支援、 ITアウトソーシング支援、ブランディング支援などのサービスを提供する。 アジア地域における展開として、ベトナムのホーチミンとハノイに拠点を設立。ITエンジニア育成学校 「SGBJ(サイゴン・ブレイン・ジャパン)」を設立し、ベトナム人の人材育成に力を注いでいる。 その他、アジアビジネス情報誌の発行、視察ミッションの主催など、日本とアジアをビジネスで結ぶ橋渡し役として活動の幅を広げている。 主な著著 タイトル 出版年 出版社 バカモン!―― 一流ビジネスパーソンへの登竜門 2007 カナリア書房 IT、情報活用、セキュリティで右往左往しない社長の鉄則77 2005 明日香出版社 社内情報革命に失敗する会社・成功する会社―IT工務店からの提言 2003 光芒社 こうすればできる「社内情報革命」II 2003 清話会 仕事は自分で創れ!―タフな時代を生き抜くビジネス筋力の鍛え方 2002 オーエス出版 こうすればできる「社内情報革命」I 2002 清話会 だから中小企業のIT化は失敗する 2001 オーエス出版 これで中小企業の「情報共有化」は成功する 2001 オーエス出版 Pioneerへの10の質問はこちら インタビューはこちら 当ホームページ掲載の記事、写真、イラスト等の無断掲載を禁止します。 Copyright (C) SpringWater. All rights reserved.
https://w.atwiki.jp/hirokana/pages/16.html
このページでは今までにインタビュー等で話してきた事も参考にしながら、経歴のまとめや補足を記します。 吉井香奈恵さんの経歴まとめ 吉井香奈恵さんは時々デビュー前の話をしているので、 それらをつなぎ合わせるとおよその経歴も分かると思います。 歌とダンスを習い始めた時期については本人がブログに 「ダンスは実は3歳から地元のダンススクールに通ってました」「歌は中学生から(習っていた)」 (http //yaplog.jp/lp-yoshii/archive/264)と書いています。 また2004年にTRFのバックダンサーをしたこともあるそうです(http //yaplog.jp/lp-yoshii/archive/262)。 「(地元のダンススクールに通っていた)当時はバリバリのダンサーを目指して」いた(「TopYell」2012年7月号)、 「スクール行ってた時もダンスコースやったんですよ。 ダンスしかしてへんで、ダンスが好きやった、ダンサーになろうと思った」(2013/9/8のF9GBP)など 元々はダンサー志向であり実力もあったことが伺えます。 そこから歌手志望へと変わっていった切っ掛けについては、 音楽好きな両親が色々なライブに連れて行ってくれたこと(アニカンR Vol.79)、 BOAやSPEEDのライブを見て歌って踊れるアーティストに憧れたこと(「TopYell」2012年7月号)、 などと話しています。 在籍したスクールは分かる範囲で「ESSEアカデミー」→「リトルキャット」→「YAMAHAボーカルレッスン」 のようです(http //www.unknown24.net/bbrk/20100909/9nine)。 とはいえ3歳で通ったスクールは知りようもないですし、各スクールの在籍時期もはっきりしません。 MX TV「Go!Go!9nine」ではリトルキャット時代に歌を習った杉山徹先生を訪れるシーンがあったので、 本格的な歌の指導はそこで受けたのかもしれません。 ちなみに年表内で初めてギターを弾いた記録があるのは2009/3/28なので 中学生の頃にはギターの練習もしていたようです。 村田寛奈さんの経歴まとめ 村田寛奈さんはもともとダンスを始める前にバレエ教室に通っていたそうです(B.L.T.特別編集 U-17 Vol.24)。 小学1年生の時にダンススクールの発表会を見たことがきっかけでダンススクールに通い始めます(つぼみ3 村田寛奈)。 そのダンススクールは創叡のSTS DANCE schoolのようで、 ペトラキッズというスクール内のユニットで活躍をしていたようです。 在籍したスクールは分かる範囲で「創叡」→「SEED Vocal Club」→「HMS大阪校」のようです (http //www.unknown24.net/bbrk/20100909/9nine)。 MX TV「Go!Go!9nine」では歌を習った豊原平行先生を訪れるシーンがあり 「9歳の時にここへ初めてきた」と話していました。2005年頃に出会ったことになります。 推測ですが創叡でダンスの他に歌も本格的に習い始めたのがその頃だったということかもしれません。 豊原平行先生は創叡の講師、後にSEED Vocal Clubを主催するようになったそうなので (http //www.unknown24.net/ev/ev200902.html) 村田寛奈さんも先生に合わせてスクールを移ったのでしょう。 2006年にはavex audition 2006に合格しますがデビューはできず。 ちなみに同オーディションは合格者が58名もいたためか、 同様にavexを去ってから別のオーディション等で改めてデビューした人も多くいるようです。 MX TV「Go!Go!9nine」にはライブハウス北堀江club vijonを訪れるシーンもあり、 「小学6年生の時にお友達とステージに立ちたいねとなって、初めて探して応募したのがここのステージでした」 と思い出を話していました。 別のインタービューでもオーディションを1年間程受け続けたことを話したり(B.L.T.特別編集 U-17 Vol.24)、 デビュー前に書いていたブログ最後の投稿で「去年の9月から1年間 たくさんのライブやコンテストに出て」 いたと書いていたようです(http //ameblo.jp/nanpii/entry-10633693720.html)。 これらの話を総合すると2009/9/12の北堀江club vijonでのライブを皮切りに ライブとオーディションに本気で挑み続けた末に9nine加入が決まったのだろうことが分かります。 年表からも2009年9月~2010年8月の間にライブを繰り返していた事がわかります。 9nine審査 9nineの審査についても過去に何度か話をしています。 「5月にオーディションがあって」(「Zipper」2012年11月号での吉井香奈恵さん)。 「閃光ライオット3次LIVE審査大阪大会に出場した直後の週末に9nineのオーディションを受けていた」 「9nineのオーディションでも同じ曲(西野カナさんの『Best Friend』)を歌」った (ガッキーLOCKS! 2011/7/25での吉井香奈恵さん http //www.tfm.co.jp/lock/aragaki/onair/110728/)。 ちなみに閃光ライオットへの出場は2010/6/26なので、9nineの審査は5~6月頃から行われていたようです。 吉井香奈恵さんのオーディション風景の一部はF9GBP(2013/9/8)でも公開されました (その映像のキャプションに14歳と出たのは17歳の誤りです)。 7月末の審査合宿は2泊3日で「Fly」のレコーディングとダンス、撮影をこなすものでした (TOKYO MX「9nine誕生SP」ないしアルバム「9nine」初回版A特典映像)。 ちなみに村田寛奈さんが「Fly」を歌う時に音の調節が自分でできる事を知らずに 仮歌も無しのカラオケだけだったのが上手く歌えなかった原因のようです(2013/9/8のF9GBP)。 「(合宿から合格発表まで)1ヵ月くらいです」(「TopYell」2012年7月号) 吉井香奈恵さんと村田寛奈さんが大阪で二人一緒に合格が伝えられた時の様子は「Go!Go!9nine」で放映されました。 吉井香奈恵さんと村田寛奈さんのニアミス 確認できた限り初めて二人が同じステージに立ったのは2010/3/20です。 その前に2009/9/21の吉井香奈恵さんのステージを村田寛奈さんが見ていたことがあったようです。 オーディションやコンテストではニアミスを繰り返してきていました。 AVEX系のオーディションに 村田寛奈さんはavex audition 2006合格(2006/12/29)、 吉井香奈恵さんはa-motion’07決勝大会進出(2007/6/5)。 セルシー キッズ ボーカル・ダンスコンテストに 吉井香奈恵さんは第2回(2007/11/17,18)第3回(2008/3/29)に、 村田寛奈さんは第4回(2008/7/20)第7回(2009/10/3)に出場。 ORC200ヴォーカルクイーンコンテストに 吉井香奈恵さんは第12回(2008/5/4)第13回(2009/5/4)に、 村田寛奈さんは第14回(2010/5/4)に出場。 デビュー前の二人の関係を「オーディションで良く会う友達くらいでした」 (2013/9/16「立川こしらのUstラヂオ」での吉井香奈恵さん)と言っていますし、 二人とも関西でライブ活動やオーディションを繰り返していたので スクールは違ったようですが9nine加入前から自然と面識ができたのだと思います。 ニアミスを繰り返した末に同じステージに立つようになり、 9nineに同時に加入したのも二人の運命を感じるような気がします。 デビュー前からの知り合い 吉井香奈恵さんが話したものとしてNMB48の山本彩さんは同じスクール出身(「Zipper」2012年11月号)、 シンガーソングライターの沢井美空さんと親友(https //twitter.com/lespros_kanae/status/247230713324261376)だそうです。 山本彩さんとはリトルキャットでの関係かと思います(http //ameblo.jp/kenjey-factory/entry-10115386171.html)。 また沢井美空さんは年表に名が出ている竹井彩夏さんのようです(http //www.unknown24.net/bbrk/20101002/sawaimiku)。吉井さんと沢井さんは4、5才の頃に出逢っているようです(https //twitter.com/SawaiMiku_39/status/502438684486950914)。 その他に大阪からの友達として文さん、声優のタカオユキさんの名を挙げています(http //yaplog.jp/lp-yoshii/archive/477)。トマト会と言う集まりのようです(http //ameblo.jp/takaoyuki/entry-11562552432.html)。 文(あや)さんも音楽活動をされていた方のようですが(https //twitter.com/yoshida_aya http //ameblo.jp/music-of-heart)、 デビュー前にライブ会場で一緒だったこともある吉田文さんでしょうか?(http //d.hatena.ne.jp/kyoheit/20100207 https //twitter.com/fuka_kido/status/201690332751073280)。 タカオユキさんは新人声優としてブログを始めたのが2013年5月ですが(http //ameblo.jp/takaoyuki/entry-11541772447.html)、 第12回ORC200ヴォーカルクイーンコンテストで一緒に受賞したキタオユカさんと同じ人でしょうか?(http //ameblo.jp/music-of-heart/entry-11378617186.html https //twitter.com/yoshida_aya/status/255288913617362944)。 その他に歌手のハナエさんと高校の同級生(https //twitter.com/Hanae_xxx/status/361907538683363329)、 E-girlsの中島美央さんとも同級生(https //twitter.com/lespros_kanae/status/383912984604450816)だそうですが デビュー前の面識の有無は分かりません。 村田寛奈さんが自分で語ったものは、Dancing Dollsのみいさんと大阪のコンテストで一緒に受賞したことがある、 また乃木坂46の川村真洋さんと一緒にレッスンしていた(http //yaplog.jp/lp-hiroro/archive/314)、 E-girlsの川本璃さんとも以前に会ったことがある(https //twitter.com/lespros_hirona/status/383907135211335680)、 などがあります。 みいさんと同時に受賞したのは2010年5月の第14回 ORC200ヴォーカルクイーンコンテスト、 それ以前に2008年7月の第4回セルシー キッズ ボーカル・ダンスコンテストでもすれ違っていたようです (http //orc200.com/what_new/queen_list.html http //www.unknown24.net/ev/ev200807.html)。 川村真洋さん、川本璃さんとはSEED Vocal Clubで一緒だったようです (http //www.unknown24.net/bbrk/20130121/kawamotoruri)。 Fairiesの林田真尋さんと同じスクール出身であることを本人が話していたそうですが (2013年7月26日「わくわくドワンゴミュージックランド」での西脇彩華さん発言)、 おそらく創叡でのことと思います(http //www.soei-net.co.jp/production/)。 あと本人は直接語ってはいませんが、村田寛奈さんとavex audition 2006合格者仲間と思われる人を挙げておきます。 東京女子流の新井ひとみさん(http //yaplog.jp/lp-hiroro/archive/253) SKE48の古川愛李さん(https //twitter.com/lespros_hirona/status/231684999852720129) アイドリング!!の石田佳蓮さん(https //twitter.com/lespros_hirona/status/231627793086152707) ベイビーレイズの大矢梨華子さん(http //yaplog.jp/lp-hiroro/archive/61) SUPER☆GIRLSの溝手るかさん(https //twitter.com/lespros_hirona/status/366217508002357248) Dream5の重本ことりさん(https //twitter.com/lespros_hirona/status/366216117296979968)
https://w.atwiki.jp/serkan_anilir/pages/22.html
2スレ781氏による「アニリールセルカン氏の講演活動」Googleカレンダー版、HTML版も参照のこと。 注意:インタビュー等の扱いは、「インタビューが行われたという事実」は第三者ソースの情報、「インタビューで明かされた情報」はセルカンソースの情報として扱っています。また、セルカンソースのうち、報道機関等により確認されたものには (詐称) と記載しています。(詐称) という記載がない情報も詐称である可能性があります。 日時 第三者ソースの情報 セルカンソースの情報 備考(ソースなど) 1973.3.22 ケルンで誕生 1982 科学コンテストで優勝、奨学金で寄宿舎へ 「宇宙エレベーター」の記述 1987(14歳) スイスの寄宿舎時代にU-20スキーヨーロッパ大会で優勝 建築ノート2009 No 7の記述 1987 寄宿学校でボヤ騒ぎを起こし退学 ビッグコミックスペリオールのインタビュー、「宇宙エレベーター」の記述では「15歳当時」とあり、矛盾 1988 トルコのスキー代表選手として活躍 (詐称) The Invension 2007 No 10の記述 1988?(15歳) スキーの回転競技でカルガリーオリンピックに出場、14位の成績 (詐称) 「ポケットの中の宇宙」の記述。掲載されている写真は「回転」ではなく「大回転」であり矛盾。 1988 ドイツで12人の仲間とタイムマシンを制作、地元のサッカースタジアムで実験。観衆が詰めかけ、新聞社やテレビ局などが取材 ビッグコミックスペリオールのインタビュー、「ポケットの中の宇宙」の記述 1989(16歳) アメリカの高校に入学 建築ノート2009 No 7の記述 1989-1996 イスタンブール工科大学、イリノイ・インスティテュート・オブ・テクノロジー学士課程 (詐称) 外交フォーラムの記述 1990?(17歳) アメリカでPPL(プライベート・パイロット・ライセンス)を取得 「ポケットの中の宇宙」の記述 1991(18歳)-1995卒業 イリノイ工科大学建築学科(詐称) 建築ノート2009 No 7の記述 1991?(18歳) シカゴで運転免許を取得 「ポケットの中の宇宙」の記述 1993?(20歳) トルコ国籍を選択 「ポケットの中の宇宙」の記述 1994 練習中の事故で足に大怪我し、スキー選手を引退。ロータスエリーゼを購入 「ポケットの中の宇宙」の記述。なお、ロータスエリーゼの発売は1996年であり、矛盾。 1995.2 イリノイ工科大学建築学部建築学科卒業 (詐称) 東大助手採用時の書類 1995.9 イリノイ工科大学建築学部建築学科卒業 (詐称) 研究室のHPの記述 1995(23歳)-1996卒業 イスタンブール工科大学建築学科(詐称) 建築ノート2009 No 7の記述 1996.2 イスタンブール工科大学建築学部建築学科卒業 (詐称) 東大助手採用時の書類 1996.9 イスタンブール工科大学建築学部建築学科卒業 (詐称) 研究室のHPの記述 1995?1996? 卒業制作で「スペースエレベーター」をデザイン、NASAで発表。バウハウス建築技術学校への門を開く 外交フォーラムの記述 1996.9.3 ユルディス工科大学建築学部卒業 建築学士 (Bachelor of Science in Architecture) 東大の公式発表 1996 11次元宇宙理論を発表 かがくナビの記述 1997 プリンストン大学数学部客員教授 (詐称) 科研費申請書類の記述、EUにおけるレオナルド交換プログラムにおぴてバウハウス大学より派遣、8ヶ月の就任と記載 1997 プリンストン大学数学部講師 (詐称) 「宇宙エレベーター」の記述 1997 Intern at European Space Agency Space Architecture Technical Committeeのサイトの記述 1998 長野五輪のトルコスキーチームとして初来日 (詐称) ビッグコミックスペリオオールのインタビュー 1998 ESA宇宙技術移転開発部メンバー 科研費申請書類の記述、EUにおけるエラスムス交換プログラムにおいてバウハウス大学より派遣、3ヶ月の就任と記載。外交フォーラムの記述ではインターン。 1998 MAS建築事務所でドイツ・ハノーヴァー万博のトルコ館の設計コンペに優勝 建築ノート2009 No 7の記述 1998年末 文部省の奨学金制度に応募 外交フォーラムの記述 1999.2 バウハウス大学エンジニアリング学部修士課程修了 (詐称) 1999.4 東京大学大学院工学系研究科博士課程進学 外交フォーラムの記述。これが正しいなら、バウハウス大学を修了する前に博士課程に進学したことになる。 1999.12.17 バウハウス大学建築学科都市地域専攻修了 (Diploma) 東大の公式発表 1999 Associative Architect at Kajima Corporation Space Architecture Technical Committeeのサイトの記述 1999? ケルンにあるサヴォイ・ホテルのデザインコンペ優勝、メディア・パーク・ケルンの南ウイングビルの国際デザインコンペ優勝、ともにデザインが採用される 外交フォーラムの記述 1999? ドイツのアウレンバッハ空港のために開発したスパイダーシステムが採用 外交フォーラムの記述。「アウレンバッハ空港」は、Space Architecture Technical Committeeのサイトの記述によると"Auerbach Airport"のことか? 2000.4.27 日本トルコ協会 トルコから見た日本 後に見られるとような詐称経歴の記述なし 2000 Research Associate at Shimizu Corporation Space Architecture Technical Committeeのサイトの記述 2000 鹿島建設株式会社 東京大学より実務交換留学として建築設計 エンジニアリング部所属。ならびに宇宙開発設計部・部長就任 おにぎり隊の紹介の記述 2000-2002 鹿島建設デザインエンジニアリング部 研修生 科研費申請書類 2000-2003 NASAジョンソンスペースセンター アドバンスプロジェクト チームリーダー 宇宙エレベータープロジェクトの統括、技術の一般企業への移転 科研費申請書類 2001.4 NASAアドバンスプロジェクトチームリーダー 研究室のHPの記述 2001.10 NASA宇宙居住テクノロジー・グループに参加 外交フォーラムの記述 2001.12.13 Bilkent大学で講演 NASAのメンバーとして招待されたことになっている 2001 NASAジョンソンスペースセンター宇宙構造・材料系客員研究員として宇宙飛行士プログラムを終了 (詐称) 「宇宙エレベーター」の記述 2001-2003 Muses-C Mission Design Group Member Space Architecture Technical Committeeのサイトの記述、Muses-Cとは小惑星探査機「はやぶさ」のこと 2002.12.9(?) 宇宙建築研究会発足 スペースレフ、読売新聞の記事。宇宙建築に興味を持つ留学生2人が居合わせたことがきっかけ。追及ブログのコメントによると、村川氏が松村教授に発足を提案したとのこと。 2002 清水建設株式会社 宇宙開発部 研究グループ研究員 おにぎり隊の紹介の記述 2002 日本建築学会建築生産研究専門委員会委員 委員名簿 2003.1 外交フォーラム2003月2月号に「日本で見つけたトルコあれこれ」掲載 宇宙エレベーター設計、宇宙飛行士の訓練を受けた(宇宙服コラ写真も掲載)などが記載 2003.3.28 東京大学大学院工学系研究科博士課程修了 博士(工学) 2003.4 日本宇宙航空研究開発機構(JAXA)講師 (講師は詐称) 研究室のHPの記述 2003 宇宙科学研究所(ISAS)宇宙航空プロジェクト研究員 (ISASは10月にJAXAに統合) 国内では講師(科研費申請書類、研究室のHPなど)、海外ではassociated professorと詐称 2003 11次元宇宙理論に関する論文の最初のドラフトをPhysical Review Letters誌に投稿 日経サイエンスの取材に対する言い訳(2010年6月号) 2003年度 JAXA/ISAS 2003年度年次要覧 研究成果の発表の状況(業績削除前), (業績削除後) JAXAにより4本の論文が削除 2004.1.30 ホワイトマン プレゼンラジオ4日目「ホワイトマンの2004年宇宙の旅」ゲスト ウェブ上で確認できるセルカン氏の活動の初出。NASAからJAXAに来てる宇宙研究者として紹介されている。 2004.3.10 ASCE2004 "Industrial Processes in Space Manufacturing for Converting Asteroidal Materials into Useful Construction Elements,""MICRO-G Architecture – An Innovative Design and Education Experience in Turkey," 発表、Session Chair 2004.6 雑誌「×10渋谷PPP」の特集、落ちこぼれ数学者×最先端の数学者の対談 バリバリの最先端数学者として紹介 2004.9.18 今井雅子(広告業出身脚本家),小山理子らと会食 宇宙飛行士として紹介 2004.10.23-31 おにぎり隊 トルコ 煎茶道、黄檗売茶流家元の中澤弘幸氏、出版プロデューサーの磯尾克行氏も参加 2004.12.21 せんだいデザイン・ウィークフォーラム9特別参加 上記の中澤弘幸氏の講演に特別参加 2004.12 宇宙飛行士候補に選ばれる (詐称) 「宇宙エレベーター」の記述 2004 11次元宇宙理論に関する論文の2回目のドラフトをPhysical Review Letters誌に投稿。ケンブリッジ大学で講演 日経サイエンスの取材に対する言い訳(2010年6月号)。Physical Review Letters誌を出版しているAmerican Physical Societyのサイトでは論文の存在は確認できない。JAXAは年次要覧から該当する業績を削除済み 2004年度 JAXA/ISAS 2004年度年次要覧 研究成果の発表の状況 2005.5 東京大学助手採用 2005.7.21 交通新聞社 散歩の達人2005年8月号「散歩者インタビュー」掲載 2005.10.29-11.6 おにぎり隊 ウェールズ セルカンカレッジのマネージャー高橋国子女史も参加 2005.11.7 科研費申請書類提出 日付は書類に記載のもの 2005.12.4 広告サミット2005にSpeakerとして出演 Navigator 木下謙一Speaker 福田敏也 中村勇吾 セルカン 2005.12.5 ロハスクラブ第1回トークセッション 坂本龍一氏、福岡伸一氏らが参加 2005 ケンブリッジ大学特別物理化学賞 科研費申請書類の記述、宇宙エレベータープロジェクトの業績で 2006 この年より、講演、インタビュー等、メディアに露出する数が急増 2006.1.21 読売新聞2006年1月21付 夕刊 7頁 2版に記事掲載 記事 2006.6.17 ブログ開設 2006.6.22 「宇宙エレベーター」(大和書房)発売 編集協力 磯尾克行 高橋国子執筆協力 木内アキ帯の推薦文 坂本龍一 2006.7.17 トルコ大使館で宇宙エレベーター出版記念パーティ 参加者のブログ 2006.7.22 11次元Tシャツ発売 2006.11.22 「ドラゴン桜」16巻にインタビュー掲載 「東大は簡単だ」のシュメール語訳(盗作)掲載、雑多な情報参照 2006.11.23 「タイムマシン」(日経BP)発売 公式ブログのアーカイブ 2006.11.26 タイムマシーン出版記念お茶会 参加者のブログ 2006.12.13 第1回インフラフリーシンポジウム ブログでの記述 2006.12.20 構想日本第113回J.I.フォーラム「切り拓く人たち」に討論者として参加 議事録。NASAで大佐まで上がったと自称 2006年度 2006年度 科研費実績報告書 2007.4.27 ビッグコミックスペリオールのインタビュー「都内で宇宙のソトに立つ」が行われる ビッグコミックスペリオール2007年6月27日号、および「宇宙百景」に掲載 2007.8.11 日本科学未来館でアニメ 宇宙エレベータ ~科学者の夢みる未来~ 上映開始 2007.9.1 和歌山県串本町が串本大使第1号に委嘱 2007.9(?) THE INVENSION 発明 2007 No 10にインタビュー「Mothers Mars~8ヵ国語を話すトルコ人宇宙飛行士の素顔に迫る~」掲載 2007年度 2007年度 科研費実績報告書 2008.5.26 日経アーキテクチュア2008年5月26日号にインタビュー「弱点を知る 100年後の建築を子どもたちに語れるか」掲載 2008.8 「セルカンの国を知ろう」プロジェクト。3468人の日本人がイスタンブールを観光 実態は三基商事によるキャンペーン旅行。参考 歐亞茶房(ユーラシアのチャイハナ) 2009.2.25 リエゾンセンターのサイトにコラム「アニリールセルカンが今考えていることは?」掲載 削除済み。スクリーンショット 2009.4.10 セルカンカレッジ開催決定記念特別講演「インテリジェントデザイン」 スクリーンショット 2009.5.29 セルカンカレッジ東京第1回開催 2009.8.29 朝日beフロントランナー掲載 記事1, 2 2009.8 「ポケットの中の宇宙」(中央公論新社)発売 編集担当 横手拓治 神原博之メインタイトル発案、編集協力 高橋国子 2009.9.5 2ch理系全般板 論文投稿あれこれXIスレの315で、業績に関する疑惑が持ち上がる 2009.10.14 日本建築学会編集委員会委員を解嘱される 理由は「一身上の都合による」とのこと。理事会議事録 2010.3.2 学位取消 2010.3.16 串本大使解任 2010.3.30 兵役のためトルコへ出向 公式ブログの管理人のコメント 2010.3.31 懲戒解雇相当の処分 2012.2.24 松村教授、停職1月の懲戒処分 発表は2.29 2012.2.29 研究費の不適切な使用に関する調査結果が報告される 平成18年度~21年度の間に合計10,085,467円
https://w.atwiki.jp/serkan_anilir/pages/16.html
東大工学部建築学科教員 アニリール・セルカン博士の経歴・業績に関わる疑惑の検証 ~注意!~ 以下の記述はWeb上の公開情報を元に客観的に比較検証を行った結果であり、特定思想や人種・宗教等に由来する一方的な中傷ではありません。もちろんそれらの偏見を助長するものでもありません。 【2-B 疑問点と、その外部ソースに基づく検証・業績編】 【2-B-1 セルカン氏の研究業績に関わる疑問点とその検証】 <査読付原著論文> 05, ANILIR S., “ A Proposal to understand the 11th Dimensional membrane universes and their architectural forms in space environment”, Physical Review Letters, ケンブリッジ大学出版, 2003/09, p. 39-50、2003年9月 ⇒Physical Review Letters(PRL)はケンブリッジ大学出版ではなくAmerican Physical Society(APS)、 さらにレター誌なので一編の論文は4ページまでに制限されており10ページものフルペーパー論文が掲載されることはありえない。さらに、PRLでは2001年以降ページ番号が廃止され6桁の論文番号で論文を指定している。 また、PRLはすべての論文タイトルをWebアーカイブで公開している(http //prl.aps.org/)が、このタイトルの論文は存在しない。 05-b, S.Anilir Designing in Parallel Universes and 11th Dimension Physical Review Letter, January 2004 Edition, p.22, (2003). ⇒このタイトルの論文もまた、PRLには存在しない。 さらに、PRLを含め、Physical Review全誌で著者名 Anilir の論文は存在しない。なお、本論文を含めたセルカン氏の論文発表3件がJAXAの2003年度年次報告に業績として記載されているが、それらの検証結果については http //blog.goo.ne.jp/11jigen/ を参照されたし。 06, ANILIR S., “Energy for Housing in the 21st Century- Advanced Technology Paths from Space Solar Power into Terrestrial Architecture”Journal of the Faculty of Architecture, Middle East Technical University (METU) Vol. 23, No. 9-10, (2003). ⇒ 雑誌は存在し、バックナンバーもWebで公開されている。 http //jfa.arch.metu.edu.tr/ しかし、上記論文は存在しない。そもそも、年2回刊で毎巻 No. 1とNo. 2のみがあり、上記論文が掲載されたはずの No. 9-10 は存在しない。 09, ANILIR S., “Proposal for air-filled construction systems to develop ultra-high rise buildings in earthquake zones”, TASARIM建築専門月刊誌, 2004/08, p.73-78, ISSN 1300-7351, 2004年8月 ⇒ 同号にセルカン氏は寄稿しているが、タイトルや内容は以下のようになっており、まったく異なる。 "Japonya da 800 mt. yuksekliginde bir yapi"(日本における800m級高層ビル), p. 128 <知的財産> 21, EU Patent 3,743,229 ‘SPIDER FACADE SYSTEM’, July 2001 ⇒EU Patent EP 3,743,229 は存在しない (http //ep.espacenet.com/searchResults?locale=en_EP NUM=3743229 ST=number compact=false DB=ep.espacenet.com ) 22, US Patent 6,324,603 ‘AIR-SUPPORTED CONSTRUCTION SYSTEM’, October 2002 ⇒US Patent 6,324,603 は別人による出願の特許である(http //www.patentstorm.us/patents/6324603/claims.html) <学術刊行物> 34, ANILIR S, “GUIDEBOOK”, (革新的な視点を取り入れた宇宙物理学を一般読者に紹介する書籍)、大和書房出版、2005年9月(出版予定) ⇒このタイトルの書籍が大和書房より出版された事実は無い。ただし、当該書籍のタイトルが変更されて『宇宙エレベータ』として出版された可能性はある。 【2-B-2 外部ソースにより存在が確認されたセルカン氏の研究業績】 原著論文(以下3本についてはWeb of Knowledgeで調査した) ① Anilir, S. (2008). "A decentralized/self-sustaining (infra-free) kitchen-system proposal with a home incinerator and Sabatier reactor-integrated waste management utility." Waste Management and the Environment Iv 109 385-394 ② Anilir, S., M. Nelson, et al. (2008). "Designing a small-scale infra-free (IF) system for community applications Managing energy, water and waste." Journal of Asian Architecture and Building Engineering 7(1) 77-84. ③ Anilir, S. (2004). "Industrial processes in space manufacturing for converting asteroidal materials into useful construction elements." Engineering, Construction and Operations in Challenging Environments Earth and Space 2004 1015-1022 国際学会発表 (調査中) S. Anilir, S. Matsumura, R. Schmidt, K. Fukuda, S. Nishii, and M. Araki, "Infra- Free Life (IFL)- Proposal for a Spin- Off Technology from Aerospace into Building Industry" AIAA "Space 2006" 20 September 2006, San Jose CA, USA http //www.aiaa.org/agenda.cfm?lumeetingid=1393 formatview=1 dateget=20-Sep-06 2006年12月にトルコのイスタンブールで開かれた「第一回 国際インフラフリーシンポジウム」 ここでは、セルカン氏は東京大学の准教授(Associate Professor)として紹介されている。 http //www.kale.com.tr/english/sosyal_faaliyetler/mimarlik_sempozyumu.asp “ATA” SPACE ELEVATOR ATA宇宙エレベーター‘A Gateway to Heaven’ASANSOR’2005 Conference, April 2005 (JAXA所属のもとでの発表となっている) 本発表のOHP資料は、http //www.asansoristanbul.com/presentations/space_elevator_SAnilir.ppt にて閲覧可能である。 【2-B-3 ATA宇宙エレベーター についての検証】 上に掲載した国際学会での講演内容を元に、ATA宇宙エレベーター計画について検証する。 “ATA” SPACE ELEVATOR ATA宇宙エレベーター‘A Gateway to Heaven’ASANSOR’2005 Conference, April 2005 本発表のOHP資料は、http //www.asansoristanbul.com/presentations/space_elevator_SAnilir.ppt にある。 ⇒ここでは、セルカン氏の提案するATA宇宙エレベーター計画についての概略が述べられている。それによると、ATA宇宙エレベーター計画が関わる日本国内外の学会受賞歴として、 ※2000 JSPS ‘Young Promoting Scientist’ Award ⇒この受賞に関する記録はweb上では確認できない (JSPSは学術関連では通常、日本学術振興会を指すが、日本学術振興会はそのような賞を授与していない。 ちなみに、「創造性に富み優れた研究能力を有する若手研究者を早い段階から顕彰する」ことを目的として平成16年に創設された日本学術振興会賞の英文名称は"JSPS Prize"。同賞の過去の受賞者一覧はhttp //www.jsps.go.jp/jsps-prize/index.html で確認可能であるが、セルカン氏の名前はその中にない。) ※2003 Japanese Ministry of Science and Technology Award ⇒この受賞に関する記録はweb上では確認できない ※2004 Science and Engineering Award , Japanese Chamber of Architects and Engineers ⇒この受賞に関する記録はweb上では確認できない ※2005 ’21st Century’s Top 10 Scientific Projects Award’, Cambridge University ⇒この受賞に関する記録はweb上では確認できない が挙げられている(OHP2枚目) また、プロジェクトチームの人員構成は、セルカン氏を筆頭に各界著名人を集めた以下の陣容であるとされている。 ※Ass.Prof. Dr. Serkan ANILIR Head of Space Physics Department, JAXA ※Prof.Dr. Michiro NATORI Head of Space Structures Department, JAXA ※Dr. Fumihiko MORI Dr. Hiroko MUKAI Astronaut, Supervisor, JAXA ※Prof. Dr. Susumu NARA 2004 Physics Nobel Award Winner, Kyoto University (2004 Physics Nobel Award Winnerとあるが、2004年のノーベル物理学賞は米国のデイビッド・グロス (David J. Gross)、H. デビッド・ポリツァー (H. David Politzer)、フランク・ウィルチェック (Frank Wilczek)の3人でありナラ・ススムという人物は不明である) ※Dr. Arthur C.Clarke Science-Fiction Writer (Author of “The Fountains of Paradise”) (『2001年宇宙の旅』などで有名なSF作家のアーサー・C・クラーク氏のことではないかと推測される) ※Prof. Dr. Tadao ANDO Architect, Professor (打ち放しコンクリート建築で有名な建築家の安藤忠雄氏のことではないかと推測される) ※Prof. Dr. Shuichi MATSUMURA Head of Department of Architecture, University of Tokyo (セルカン氏が所属する研究室の松村秀一教授のことではないかと推測される) ※and 16 universities, numerous companies, agencies, research laboratories and hundreds of students with great vision…(OHP3枚目) また、ATA宇宙エレベーターに関わる知財として、以下の米国特許が挙げられている ※U.S. Patent 6,378,203 Patent Holders Matsumuto S., Anilir S., Lorenzo H., Nozaki K., Tetsuhashi H., Takagi M (OHP16枚目) ⇒しかしこの特許番号(U.S. Patent 6,378,203) については、http //www.patentstorm.us/patents/6378203/fulltext.html で確認可能な内容は下記のとおりである。 US Patent 6378203 - Method of making fluid heat exchanger Inventors Lu, James W. B. Sanatgar, Homayoun Holt, Neil Johnson, Gary F. セルカン氏についての日本語版wikipediaでは「学会で懇意となった研究者と共に、現在この計画(ATA宇宙エレベーター)はNASAで研究が続けられている」との記述があるが、上記の発表を見る限りATA宇宙エレベーター計画は日本のJAXA主体で行われているように見える。 また理由はまったく不明であるが、上記の多数の表彰歴や非常に大規模な人員計画、知財については、東京大学やJAXAのHPでは一切触れられていない。 ちなみに、Google検索によると、NASAサイト中で"space elevator"を含むページは1,610件ヒットする("space elevator" site nasa.gov で検索)が、NASAサイト中で"ATA space elevator"を含むページは1件もない。 このセルカン氏によるATA宇宙エレベーター計画について、朝日新聞は以下のコメントを寄せたとされている(OHP2枚目) "Japanese researchers, under the supervision of a young Turkish scientist, are heading to develop the technology of the next century’s vertical ‘Shinkansen’", Asahi Newspaper 【2-C セルカン氏の非学術著作についての検証】 調査中(http //blog.goo.ne.jp/11jigen/ を参照されたし)
https://w.atwiki.jp/free_nippon/pages/20.html
民主党の不祥事2003~2005年度 ◎11月 都築譲衆院議員(愛知15区落選、比例復活当選)の公設秘書ら公設第1秘書、選対事務-局長(市議)ら5人が買収の約束の容疑で相次ぎ逮捕。連座制により失職する前に辞職 ◎12 月 今野東衆院議員(宮城1区)派のNTT労働組合80数万円で電話作戦を業務委託したとの利害誘導容疑で逮捕。05年議員辞職。07年参議院選比例区で当選。不祥事・逮捕より4年、議員辞職より2年で平然と立候補させる民主党執行部の国民無視は同義上許されるべきものではない! 比例区当選なので民意の洗礼を受けたとも断じて言えない! トコトン国民をバカにし国政へ犯罪者を送る政党という民主党の姿勢を明確にした事象であると言えよう!! ◎12月 鎌田さゆり衆院議員(宮城2区)派労組幹部労組幹部らが電話作戦を業務委託していたとして再逮捕。連座制で辞職 2004年 ◎1月 浅田清喜 愛知・尾西市議会議長 市発注の公共事業への便宜の見返りに現金数十万円を受け取ったあっせん収賄容疑で逮捕 ◎1月 古賀潤一郎衆院議員学歴詐称で党除籍。2月に外国人からの献金を受けていた政治資金規正法違反疑惑も発覚 ◎3月 佐藤観樹衆院議員(元自治相)公設秘書の名義借り疑惑で議員辞職。秘書給与約1700万円をだまし取った詐欺容疑で逮捕 ◎4月 中山義活衆議院議員(東京2区)の私設秘書笹野康俊が女性のスカート内を盗撮したとして、東京都迷惑防止条例違反容疑で警視庁に逮捕 2005年 ◎6月 鳩山由紀夫元代表・衆院議員の私設秘書、寺坂康生容疑者を苫小牧署は酒気帯び運転による道交法違反の現行犯で逮捕。 ◎9月 小林憲司前衆議院議員が覚せい剤で逮捕 ◎10月 五島衆議院議員政策担当秘書らが公職選挙法違反(買収)で逮捕。12月に議員辞職 ◎10月 計屋圭宏前衆院議員秘書に運動員を買収させたとして、公選法違反容疑で逮捕 ◎11月 西村真悟衆院議員(民主党除籍)弁護士法違反で逮捕 ◎12月 木俣佳丈参院議員(民主党離党)飲食店で女性従業員に暴力を振るい、害事件で逮捕、現在議員辞職せず現在民主党参院会派に復帰!!