約 3,931 件
https://w.atwiki.jp/eos-gin/pages/55.html
【名古屋叢書続編 士林泝洄 名古屋市教育委員会 抜粋】 【名古屋叢書続編 第十七巻 士林泝洄(一) -第七回配本- 名古屋市教育委員会 昭和41.1.31 抜粋】 P6~P7 癸部 慶安以後新参衆 慶安三年寅 瑞公襲封以還至元禄六年酉菟裘時其間徴出立身者、載在此部。 (※省略 巻之百十六 癸之部 に、石谷氏記載) 【名古屋叢書続編 第二十巻 士林泝洄(四) -第十八回配本- 名古屋市教育委員会 昭和43.11.30 抜粋】 P440~P441 石谷 姓藤原西郷支流 家紋 七曜 政清 十郎右衛門 仕今川義元後奉仕于 神君。天正二年戌四月十五日卒。 清重 (政清の子) 又太夫 奉仕于 神君関原役、奉従于 秀忠公。元和九年亥正月十一日卒。 清春 (清重の子) 弥兵衛 浪人。寓駿州足久保邑。万冶三年子正月廿九日 卒。 清宣 (清春の子) 又太夫 寛永十四年丑、嶋原之役、属同氏十蔵有武功。 瑞公御代被召出為成瀬隼人正同心、賜二百 石。元禄七年戌閏五月十三日、致仕。宝永二年酉 正月廿七卒。 清紹 (清宣の子) 又太夫 継父家領、属同組。享保十四年酉六月十五日、 致仕、号道宇。延享元年子七月八日卒。 清光 (清宣の子) 浅之右衛門 元禄十年丑九月四日、被召出、五十人組、賜俸。 十六年未正月十八日卒。 清章 (清紹の子) 又太夫 初名長右衛門 享保十四年酉六月十五日、継父家領、属同組。 女子 (清紹の子) 加藤貞四郎妻 清行 (清章の子) 又助 清生 (清章の子) 弥八郎 清賀 (清章の子) 西郷又吉 元政 (清章の子) 鍋四郎 冒外姓称佐々。 戻る
https://w.atwiki.jp/saikouon_dokoda/pages/859.html
調査楽曲数 22 詳細版データ→(未作成) あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行 あ行 タイトル 地低 地高 裏低 裏高 備考 anschluss mid1F mid2G# mid2G# か行 タイトル 地低 地高 裏低 裏高 備考 カッコーの巣の上で mid1G mid2G# キェルツェの螺旋 mid1F# mid2F# 九月は讃美歌による - - 全編シャウトのみの構成。 解毒される樹海 mid2A# hiA# camm aven mid1E hiA タイトルは「女の子」という意味の造語で、読み方は不明。 さ行 タイトル 地低 地高 裏低 裏高 備考 sarasa - - 全編シャウトのみの構成。 skór mid1G hiA# すべて叫んだ mid1D# mid2G hiD# た行 タイトル 地低 地高 裏低 裏高 備考 第八病棟 mid1D# hiA# hiC 地図 mid1G# hiA# hiA# 地声最高音はラスサビで一回のみ。 チャールズ・ブロンソンのために - - 全編シャウトのみの構成。 な行 タイトル 地低 地高 裏低 裏高 備考 二月の兵隊 mid1F hiA# nicol kills nicolas for nicola mid1C# mid2G# mid2G# hiC は行 タイトル 地低 地高 裏低 裏高 備考 haiku about kdyla - - 全編シャウトのみの構成。 花のように mid1D# hiA# purusha mid1G# mid2G# 僕たちに明日はない mid1F hiA# hiA hiC や行 タイトル 地低 地高 裏低 裏高 備考 Your eyes have all the answer mid1C hiA# mid2F hiC 地声最高音はラスサビで一回のみ。 ら行 タイトル 地低 地高 裏低 裏高 備考 ラズロ、笑って mid1E hiB hiB Leland mid1F# hiB hiA hiB わ行 タイトル 地低 地高 裏低 裏高 備考 わたしたちの失敗 mid1D# hiA 関連ページ KEYTALK 外部リンク 検索用文字列
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/42239.html
【検索用 あめをまつ 登録タグ 2019年 VOCALOID あ 午後ティー 曲 曲あ 殿堂入り 音街ウナ】 + 目次 目次 曲紹介 歌詞 コメント 作詞:午後ティー 作曲:午後ティー 編曲:午後ティー 唄:音街ウナ 曲紹介 曲名:『雨を待つ。』(あめをまつ。) 午後ティー氏の21作目。 数年前の秋に、物心が付いた頃から一緒だった愛犬が亡くなったんですが、それ以来、秋という季節は僕の中で「別れの季節」って認識になってしまいました。暑くもなく寒くもないので、一番好きな季節なんですけど。(動画説明文より転載) 歌詞 (PIAPROより転載) 夏の残滓 虫が鳴く河川敷 夕の帰路 烏が飛び立つ頃 雨を待つ。 別れは夏のゲリラ 君の言葉の本意は 所詮、綺麗事だったな 信じたよ 馬鹿 九月の暮れの静寂 金木犀が香ったら ここから出て行こうか 忘れたいから ねぇ、夕景 いつかのように泣いて 伏し目がちな私なんて 「嫌いだ」って そう言って 洗い流してよ ねぇ 言葉、心はもう死んだ 街が綺麗で吐きそうだ もうさ 有象無象 構ってないでさ 飲み込んでしまえよ 雨 思い出は露 泡沫 約束だって同じだ 未だに夢であればと 願うのは哀だ 言ったよね 何処かに行く時は一緒に 二ケツの後ろは特等席 帰りは笑って 「じゃあね、ばいばい」 もう馬鹿みたいじゃん 言えない 消えない もう消えたい 癒えない 脳内 さっさとそっから出てけ ねぇ、夕景 どうにもこの世界は 生きにくくて仕方ないわ 「嫌いだ」って 「もういい」って 言えりゃ良かったよな 「再会なんてどうせ詭弁だ」って この歌もまた詭弁だ だから 雨を待つ。 夕景 いつかのように泣いて 泣き止まない私なんて 「嫌いだ」って そう言って 洗い流してよ ねぇ 夏も私ももう死んだ そう思わなきゃ死にそうだ 早く 有象無象 構ってないでさ 飲み込んでしまえよ 雨 別れは夏のゲリラ コメント だから、雨を待つ。 泣けるようにね・・。 好きです、ありがとうございます。 -- しらとり (2022-03-22 19 16 16) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1334.html
2008年6月26日(木) 朝刊 1面 原告の証人申請却下/「集団自決」訴訟 http //www.okinawatimes.co.jp/day/200806261300_03.html 沖縄戦時に座間味島と渡嘉敷島に駐屯していた旧日本軍部隊の元戦隊長やその遺族が、「沖縄ノート」などの書籍で住民に「集団自決(強制集団死)」を命じたと記され、名誉を傷つけられているとして、著者の大江健三郎氏と発行元の岩波書店に慰謝料や出版の差し止めなどを求めている訴訟の控訴審の第一回口頭弁論が二十五日、大阪高裁であった。元戦隊長側は「命令を断定できないことは日本現代史研究者や文科省にとって明らか」として、現代史家の秦郁彦氏を証人申請したが、小田耕治裁判長は却下した。 元戦隊長側は、旧日本軍の「集団自決」に対する深い関与を認め、両戦隊長による命令を「十分推認できる」とした一審・大阪地裁判決について、「証拠の評価と事実認定が全く恣意的で、到底容認できない」などと批判。 判決が正当だとしても、隊長命令に真実性が認められなかった一審判決以降、「沖縄ノート」の増刷は違法と主張した。 日本兵による住民への手榴弾配布をめぐっても、戦隊長命令を否定する根拠になる話があるほか、日本軍が駐屯していなかった屋嘉比島でも「集団自決」は発生している、とした。 岩波・大江氏側は、一審判決は隊長命令に合理的な資料や根拠があるとして、出版の適法性を明確に認めていると指摘。 戦隊長側が指摘する日本兵による住民への手榴弾配布は、米軍の捕虜にならないように渡しており、屋嘉比島で二家族が「集団自決」したことが日本軍の関与否定にはならないと反論した。 第二回口頭弁論は九月九日午後二時から。原告と被告双方の代理人は、今後の証人申請はないとしており、次回の弁論で結審する可能性もある。 2008.6.25第1回口頭弁論の報道
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/809.html
陸奥国 大沼郡 野沢組 安座(あさ)村 大日本地誌大系第34巻 13コマ目 相伝ふ。昔この所に八蛇沼(やしやぬま)と唱え大なる沼ありて八頭の大蛇住しが、上野国赤城山の神と下野国二荒山の神と中禅寺の湖界を争う時に、二荒山の神越後国蒲原郡鹿瀬組実川村に住せし猿丸に請て赤城山の神百足虫に現せしを射斃せし時(事迹実川村の条下に詳なり)、その霊この沼に移し住し故(ゆえ)八頭の蛇は大沼郡大石組沼沢村の沼に逃れるという。 その後地震に逢て岩崩れこの沼を埋めし時、長10丈計の百足虫死せり。因てそのほとりに村里を開き沼岡村(ぬまおかむら)と名付けしが神霊祟りを成しかば、大同3年(808年)空海ここに来りし時、神託に依て余水を抜き百足虫の霊を境内の宮嶽(みやがたけ)という山上に封じ、骨を集めて1堆の塚に築き馬蚿塚と名け八蛇を龍嶽に封じて護摩を修せしよりその祟やむという。 今境内に護摩壇岩(こまたんいわ)、十三佛岩(しふさんふついわ)、七福神岩(しちふくしんしわ)等の岩あるはその遺趾なりとぞ。今もこの村の者日光山に至れども二荒神を拝すること能わず。また山中に宿することを得ざるは赤城神のことに因るという。実もしかありしにや。 四面の山勢(さんせい)殊に嶮しく奇石怪岩のみにて、灌木(かんぼく)地に蟠屈(ばんくつ)し往々水の齧(かけ)し跡の如く見ゆ。 葦名氏の時今の名に改むとぞ。 府城の西に当り行程8里32町。 家数23軒、東西3町2間・南北1町5間。 安座川をはさみ山間に住し2区の端村と相望み鼎(かなえ)の如し。 東18町牧村の山界に至る。その村は寅卯(東北東~東の間)に当り20町余。 西26町23間蒲原郡上條組土井村に界ひ九才坂を限りとす。その村は申(西南西)に当り1里7町50間余。 南1里18町中野村の山界に至る。その村は辰巳(南東)に当り1里11町余。 北7町堀越村に界ふ。 また未(南南西)の方1里1町21間上條組柴倉村の界に至る。その村まで1里16町20間余。 端村 水沢(みつさは) 本村の西4町40間余にあり。 家数23軒、東西4町5間・南北40間。 北は山に傍ひ三方田圃なり。 堰根(せきね) 本村の南4町40間余にあり。 家数6軒、東西20間・南北1町。 東は山に傍ひ三方田圃なり。 山川 台倉山(たいくらやま) 端村堰根より未(南南西)申(西南西)の方5町30間にあり。 (本郡の条下に詳なり)。 目指山(めさしやま) 端村水沢より酉戌(西~西北西の間)の方12町にあり。 頂まで10町。柀(まき)杉姫松多し。 土井村と峯を界ふ。 龍嶽(りようがたけ) 村北4町にあり。 頂まで3町30間。巉岩(ざんがん)にしてたやすく登ることを得ず。 灌木地わだかまりその勢削成せるが如し。 堀越村と峯を界ふ。 鳥居峠(とりいとうげ) 堰根の南30町にあり。 頂まで15町。 中野村と峯を界ふ。 九才坂(くさいさか) 水沢の西5町にあり。 登ること12町。 土井村と峯を界ふ。 大師山(たいしやま) 水沢より申(西南西)の方4町にあり。 頂まで4町。山勢大抵龍嶽に比すべし。 この山の七分目計に、長3町計大岩列布す。 その東の方に空洞あり。内に柱を建て堂とす。東西2間半・南北1間半・高8尺。中に空海の木像、長1尺5寸なるを安ず。また大日薬師の像7軀あり。堂の側に清水湧出、土人大師の硯水という。炎天にも涸ることなしとぞ。 安座川 源2つ。 一は大倉山の南より出、北に流るること28町これを大沢川(おほさはかわ)という。 一は大倉山の北より出、御坂川(みさかかわ)という。東に流るること12町、村より未(南南西)の方3町にて2水合し安座川となり、東に流れ丑寅(北東)に廻り北に転じ村中を経て牧村の界に入る。 2水合してよりここに至るまで20町。 この川に瀑布あり。高3間・幅1間、不動滝という。 沼2 一は堰根の南7町10間余にあり。周1町、オソノ沢沼という。 一は村より未申(南西)の方5町10間余にあり。周わずかに6間余・深量るべからず。土人これを大清水池という。この沼、沼沢村の沼と水脉(*1)相通じて冬夏水の増減を同じくする故(ゆえ)夫婦沼と名くという。この沼に魚あり。その形チホヤに類し口尖れり。これを安座魚という。この沼と沼沢村の沼のみに生じて他より産することなし。これ昔の八蛇沼のあとなりという。 温泉 村より寅(東北東)の方5町にあり。 微温にして人浴することあたわず。 土産 榑木(くれき) 境内の山中及び小川荘の諸山に入り製して府下に出す。 関梁 橋2 一は村中にあり。長5間半・幅7尺、大橋という。 一は高橋といい、村より未(南南西)の方40間余にあり。長5間、丸木橋なり。 共に村中の通路安座川に架す。 水利 堤2 一は村東14町にあり。周1町50間。 一はその東に並ぶ。周2町。 共に年附沢堤(としつけさはつつみ)という。 神社 赤城神社 祭神 赤城神? 相殿 熊野宮 鎮座 不明 村より辰巳(南東)の方40間にあり。 鳥居幣殿拝殿あり。 神職 二瓶大和 寶永の頃(1704年~1711年)にや、伊豆吉綱という者この社の神職となる。今の大和方義は7世の孫なりとぞ。 寺院 清昌寺 村中にあり。 曹洞宗大澤山と號す。越後国高田耕文寺の末寺なり。開基詳ならず。 天正19年(1591年)耕文寺より達傳という僧来り住す。その後真言・浄土の徒かわるがわる住せしが、寛文4年(1664年)全昨という曹洞の僧住してより相続いて今に至る。 本尊弥陀客殿に安ず。 また正観音あり。木佛立像、長1尺余。石川隼人某という者の守本尊なりという。天正中(1573年~1593年)この像をここに移せし時の文書なりとて今この村の肝煎石川久右衛門という者の家に伝う。縁起に載ざる所なれども本書のままに左に出す。 證文 當村大澤山青松寺殿堂従中山此所引移天正十三酉年當寺二世與達代殿堂建立極故今寺移地蔵観音者古佛而石川隼人守本尊佛柵作ニ傳此寺墓所墳始ハ隼人孫實名主殿古證跡謂此人永正三卯九月十五日死右子孫久吾代地蔵観音ノ木像堂大破而天正五亥九月十五日移當寺領置故實證跡久吾ニ渡之可傳也 天正十五年亥九月 大澤山青松寺 印 與達 石塔 境内にあり。 高3尺、『青松院傳翁儀山居士永正三卯九月十三日』と彫付けあり(永正3年:1506年)。石川隼人某が孫主殿某という者の墓なりという。後人の建しものと見ゆ。 古蹟 壇 端村水沢より戌亥(北西)の方40間にあり。 高1丈・周16間。 昔蛇骨を埋めし所なりとて蛇壇(しやだん)という。 土人伝て、昔空海百足虫を埋めし馬蚿塚ならんを誤てかく唱るも知るべからずという。 旧家 八之丞 その先詳ならず。 寛永の頃(1624年~1645年)二瓶七左衛門というものあり肝煎を勤む。 加藤家府城修築の時所々より大材を運送せしに、七左衛門人夫を催促し上條組橡堀村の山中より大木数多伐出し車峠・束松峠等の新道を闢き真先に到着せしかば、嘉明嘉恱の余り褒賞は望に任すべしとありしに「安座村は卑湿にて五穀の実り勝れず、また四山絶嶮にして薪樵の便あしく村民産業に苦めり。願わくは1村の人をして蒲原郡小川荘の諸山に伐採することを得さしめん」といいにぞ。嘉明その望に任せしより今に至てなお故の如し。 家系を失て七左衛門より今の八之丞に至までの世数詳ならず。 家に古文書を蔵む。如左(※略)。 大沼郡大石組沼沢村 - 沼沢沼あり 蒲原郡鹿瀬組実川村 - 猿丸について記載あり Google Map安座地区 水沢地区 関根地区(堰根) 宮ヶ岳(宮嶽) 台倉山大倉山の方かもしれません 目指岳 竜ヶ岳(龍嶽) 鳥居峠 九才坂峠 大師山? / 弘法岩屋 赤城神社 清昌寺 赤城と日光の戦い(まんが日本昔話データベース) 鳥居峠 ※地理院地図(大正2年測図/昭和6年修正) 現在の大山祇神社奥の院の西より台倉山・日向倉山の間を抜け安座川上流の方へ下る峠道のようです。果して道は残っているのかどうか。 八蛇沼の大蛇 西会津史に安座の大蛇の伝承が記載されていましたので引用します。 野沢から4キロ、四方を岩山に囲まれた3つの集落が安座である。昔は周囲5~6里もあったかと思われる沼であった。これが八蛇沼という沼で、この沼には100尋(約180メートル)もある大蛇の主が住んでいたが、大蛇には沼沢沼の主である雌の大蛇との美しい恋があった。そして、八蛇沼の大蛇と沼沢沼の大蛇とは、互いに沼と沼に通ずる水路を通っては逢瀬を楽しんでいた。 沼沢沼の主は時折、織りあげた美しい織物を八蛇沼へ向けて水路から流した。その織物が八蛇沼の水面に浮かび上がっているのを沼の近くの村人たりは見かけることがあったという。そうした沼の主たちの美しい恋の沼にある日のこと、思わぬ大異変が起こったのである。 突然、大きな地鳴りとともに山の一角が崩れ、満々とたたえていた沼の水がまたたく間に引いていった。宝亀年間(770-780)に起こった大地震である。 やがてすかりみずが引いた時、岩石に打たれた大蛇はのた打ちながら、干上がった沼の底にもがき苦しんでいた。沼沢沼から流れ出る水路の水も、わずかに沼の底を流れるにすぎなかったのである。そして、やがてカラカラに干上がった沼の底で大蛇はついに死んだ。この後間もなく、沼岡村の人達はつぢつぎと疫病にかかり、倒れ死ぬ者が多かった。ちょうどその折、妙法寺に足を止めていた弘法大師は、この話を伝え聞いて妙法寺から急ぎ八蛇沼に至り、3日間岩土の洞窟にこもって護摩を焚き、大蛇の骨を拾い集めて地中に封じ込め、塚を築いてこれを修めてからこの大蛇のたたりがやみ、疫病はなくなったという。 弘法大師は、護摩を焚いた洞窟に1軒の堂を建て、己の木像を彫り、この堂に安置し「われこの地に末代安座するなり」といわれたことから、その後にこの沼岡村を改め、安座と呼ぶようになったという。 関根のムラの前に沼沢沼に通じているといわれる1坪ぐらいの大清水があってごぼごぼ流れている底の知れない深さであったが、圃場(*2)整備のために今は小さな和泉となった。また大蛇が苦しみながら登って巻き付いたという尾多返山は、今は竜ヶ岳と改められ、大蛇の骨を埋めた大塚が村の後ろの木立の中にあるが、今は近づく人もいない。 参照:西会津史 P.583~584
https://w.atwiki.jp/m-jinbutu/pages/32.html
『民経記』寛喜三年七月二十三日 《関白家氏院参賀》廿三日、丁未、天晴、今日関白家氏院参賀云々、家司右少弁忠高奉行云々、未刻許参殿下、先之権右中弁光俊朝臣祗候、以右少弁信盛申条々事、公卿勅使間事、可為九月中旬之旨被仰下候、仰云、其程間日次可申定、近江・伊世駅家雑事之間事、両国司共以不在京候、江州国司(近江守源信綱)居関東、差進清廉代官可申沙汰之旨怱可被仰遣関東候歟、勢州国司事、其間在京無懈怠可申沙汰之旨、可被仰遣候歟、仰云、先可申定日次、其後両国司事可仰遣之旨有御気色、先々奉行仏事、辞申候、今度可被仰他人旨申之、仰云、不始神事之以前猶可申沙汰、始神事之後可辞申、北野祭大蔵省切下文諸国散状所内覧也、有御点、任近例可引付御輿長・駕輿丁之旨可被仰下歟之由所申也、仰云、任此御点猶可加催促、申子細者可引御輿長之由可載御教書、散状頗遅々如何之由有仰、先々此事頗沙汰、近々有其沙汰前一両日之間、引御輿長已下譴責諸国定事也、去々年且予奉行、去年又信盛職事之時奉行、信盛乍知其子細、頗散状遅々歟之由於御前申之歟、凡信盛殊予辺事当時殊不快之体有之、頗以奇怪、信盛任廷尉佐之時、土御門殿御摂 之時殊令挙申給、新補之間、如記録・次第殊被借遣、固実又細々令扶持給、其程常参入申子細き、而土御門殿御篭居之後素縁《疎遠歟》、称為二条中納言定高卿猶子之由、家礼人以咲之、頗献名簿歟、当時為伝奏之人数、其躰頗見苦、於予辺事此躰頗奇恠也、(後略)
https://w.atwiki.jp/forsale-lawyer/pages/187.html
実説大逆事件三代記 元米国伯爵 山崎今朝弥 はしがき 大逆事件といふのは刑法第七十三条「天皇、太皇太后(天皇の祖母)皇太后(天皇の母)皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」の犯罪で、要するにこれは皇室に対する上は爆弾、銃剣による殺傷から下は投石、鉄拳制裁の暴行乃至その既遂未遂は勿論予備陰謀、相談、協議等いやしくも網にかかるもの人の想像に浮ぶものは一律一体すべてこれに死刑を言渡すといふ真に古今に照して侮いず中外に施して恥じない広大無慈悲の犯罪をいふのである。 現行刑法は明治四十年頃制定されたものだが、明治十三年頃制定された旧刑法にもこの皇室危害罪の規定があつて、その制定委員中には、皇国で皇室に危害を加へる者の出ることは到底想像できない。この規定を設けることはかへつて皇国の体面を損ずるといふ理由でその存置に反対した者があつたが、杞憂には相違ないが皇族に対する危害罪、神宮に対する不敬罪はどうしても設けねばならず、これを設けるとなれば法律の体裁からも皇室危害罪は存置すべきだといふ論が勝つて、ついに設置することになつたとの事である。とにかくその後三朝一系大逆連綿として短期間に続出三つに及んだ事は、その当時の委員連は勿論何人といへども当時夢にも予期しなかつたところであらう。 三つの大逆事件とは 幸徳事件 明治四十三年七月検挙開始、翌年一月十九日判決、同月二十四日(幸徳以下十二名)及び二十五日(管野スガ)死刑執行の幸徳秋水等二十六名(二名は有期懲役十一名は特赦で無期)に係る、明治及び大正天皇に対する第一次大逆予備陰謀罪。 朴烈事件 大正十一年中相談開始、同十二年九月大震災検束中に拾ひ上げ、同十五年三月二十五日死刑宣告の大正及び昭和天皇に対する朴烈及び金子文子の第二次大逆陰謀相談罪。世人稍もすると朝鮮独立運動社金社変の二重橋爆弾事件(私は偶然この事件の弁護人でもあつた)とこの朴烈事件をゴツチヤにしてゐるが、この二つは全く別々で何の関係もない、只金君は死にたい主義者でないばかりに、日本の反省を促すために二重橋に爆弾を叩き付けようとしたのだ、と言抜けて大逆罪にならなかつたのである。 虎の門事件 大正十二年十二月二十七日の虎の門事件で通用する。同日現行犯逮捕、翌大正十三年十一月一日公判、同月十三日判決、翌々十五日急遽死刑執行の難波大助に係る昭和天皇に対する大逆狙撃罪である。 私はこの三つの大逆事件の真相を書くに当つて、全然無駄の事ではないと思ふから、先づ私と大逆事件との因縁関係を書いてみる。 私と大逆事件との因縁 第一次との因縁 私は明治三十八、九年頃米国桑港で初めて幸徳を知つたのであるが、懇意になつたのは二人相前後して帰国後の明治四十年からであつた。比較的短期間の交際であつたにかかわらず、幸徳から手紙端書が沢山来てゐること、まだ日の浅いの単純の交友関係に過ぎないのにヨク平民新聞などに私の事を書いたこと、身から出たサビとはいへ、私が遂に米国伯爵を通称しなければならなかつた程米国伯爵の名声を籍甚ならしめてくれたこと、等から考へると、堺利彦君がさうであつたやうに、幸徳もまた元来の世話好きの他に、同志への獲得目的があつたのかも知れない。私の処女出版であり初原稿料稼ぎであつた「粗食養生論」の小著も、幸徳が当時白柳秀湖君、安成貞雄君等の居つた本屋(多分今の星島商相が後に社長になつたことのある隆文館と思ふ)に紹介してくれたのである。(この小著時節柄見たいと思ふが多年絶版で手元に一冊もない。誰か御所持の方に譲渡又は借覧を願ひたい。尚賀川豊彦君が余り面白い本だから無断一萬部を印刷して方々へ配つたと私に語られたが、この分でも結構)ズツト後の事ではあるが、平民社の遺産分けをした時、堺君が「平民社で幸徳秋水が愛用し大算盤也」と箱書してそれを贈られた程に私と幸徳の間柄はなつてゐた。 私のメリケン友達の一人に「嗚呼わが祖国」の秘密出版一書を置土産に日本を脱走米国に出奔した厳穴赤羽一といふ新聞記者があり、この人も幸徳と前後して帰国した。思想的には当時の所謂直接行動派テロ傾向のアナキストで、往来する交友関係は自然幸徳派の者が多かつたが、失敗ばかりしてゐて余り貧乏だつたのか、幸徳が病身で営養静休を必要とし、又相当の友人が多くてその静休営養が出来た事が諒解出来なかつたのか、或は性格的であつたのか、幸徳とは合はず幸徳の生活を贅沢だと不平をツブヤキ続け余り寄り付かなかつた。赤羽は後に「農民の福音」を秘密出版し、出版法違反で捉へられ公判廷では日本革命萬歳三唱の皮切りをして入獄牢死したが、生きてる間は貧乏のし通しで、私の「疳作集弁護士大安売」の自伝中にある「明治四十年二月勢ひに乗じて錦衣帰朝、一躍直に天下の平弁護士となる・・・・・・即ち業を東京に興し」て赤坂に法律事務所を設けた時も「忽ち田舎に逃亡し」して生地信州諏訪に事務所を持った時も、永い間私の事務所にゴロゴロしてゐた。 新村忠雄が紀州大石誠之助の処からの帰りに、私の諏訪の事務所に二三泊して明科に帰つたのは、赤羽が諏訪の事務所にゴロゴロしてゐる時だつた。赤羽も新村も信州の人である。この時の新村、赤羽は諏訪境村の小池青陽といふ小百姓の主義者を呼び寄せ何かと相談した。この小池はその後間もなく秋水等の大逆事件検挙直後、「信州共産党秘密結社」で検挙され出獄後北海道に入植中百姓となり二三年前に死んだとのことだが、日本で共産党結社の走りだと云はれる近藤栄蔵君、高津正道君等大正十一年の暁民共産党より十二三年前の走りであつた。 却説新村が帰つた後の赤羽の口裏やその時の新村の話し振りから判断想像すると当時新村の逆謀はすでに成り新村は赤羽の参加を勧誘に来たが、赤羽はその企図には反対しないが参加は厭だと拒絶し、新村は仕方なく明科へ帰り宮下太吉と爆弾製造に取掛かつたものの如くであつた。幸徳事件直後に書いた前記私の自伝に「明治十年逆賊西郷隆盛の兵を西南に挙ぐるや君之れに応じて直ちに信州諏訪に生る明科を距る僅かに八里」と木に竹を接いだように逆賊や明科が飛出たのも亦所以ある哉だ。 私は当時甲府市遊郭大門前化物屋敷に事務所があつて明治四十三年中に甲州人の宮下太吉は二度私を訪問したが二度共生憎留守で私は幸ひ会へなかつた。 私が「転戦三年甲信を徇へ各地を荒し再び東京に凱旋し爾来頻りに振はず」になつたのはその年すなはち明治四十三年の秋頃、東京銀座大通りの真ん中の裏小路に小さい巣を構へたが、引越し前すでに隣家へ私の交番所が出来てゐたには聊か驚かされる。甲信中も警察の警戒は非常識に厳重だつたし、甲府検事局での信州共産党、新村忠雄、赤羽一、宮下太吉等との関係の取調べも随分執拗だつたが、懲りたことのない私には少しも響かずかへつて物足らぬ位のものであつた。しかし専属交番は近所の手前もあり不便のこともあり少し大袈裟すぎて余り気持ちよいものではなかつた。でも初めの中は大逆者少くとも幸徳と新村の弁護は進んでヤル積りヤルべきだと思つてゐたが、若しも新村が間違つた申立でもしたら?刑法七十三条は幸徳事件の判決文にもある通り「逆謀を告げらるるに会ふも敢て之れを拒まなかつた」と認定されれば成立することに想到する。官僚裁判の危険を絶対全面的に信用する私だけに、杞憂を生み大逆事件の世論評判と共に益々拡大強化したので、私は遂に来て頼む者も咎める者もないのと、天下第一最高峰の花井、今村両弁護士が弁護するのを好い事にして元気なく弁護する事を止め、何かとオヂケて傍聴にも行かなかつた。そして予期した死刑の判決をきいた時は左程でもなかつたが、死刑執行の号外を見た時はゾツとして、思はず知らずイツか掌が首に廻つてゐた。後日私が危険を犯して幸徳秋水全集六巻を私の解放社から無届出版したのは私の卑怯に対する聊かの罪亡しでもあつた。 第二次との因縁 大逆陰謀で死刑を宣告され、特赦で無期懲役となり昨秋マ司令部の指令で秋田刑務所から釈放された朴烈君から、本年一月二十五日「拝啓、厳多の候益々御清祥の段慶賀仕り候、却説過去二十四年前法廷闘争に於て誠意御尽力下され候、今尚感銘致し居候、就ては来る廿六日午後四時左記場所に於てお挨拶申上可く御招待申上候御多忙中甚だ御迷惑に御座候へ共萬障御繰合せの上何卒御来駕下され度く御願申上候、場所東京杉並区高円寺一ノ一富士料亭」との速達が届いた。明日では到底間に合ひ兼ねるので私は折返し「イカンフサン キンガシンセイトウジト フミコサントヲシノビ カンムリヨウ ダンコケントウイノル」と至急電した。 朴烈君はその昔、弁護面会の時、二三度訪問して私を知つてるといつたが私は不逞社「太い鮮人」の他朴君個人に就ては記憶がなかつた。で朴君とは弁護したので初めて関係ができたのだといへる。その弁護も妻君の金子文子さんを弁護する序でに弁護するようになつたのだ。文子さんは本郷追分町の堀新印刷所でも麹町有楽町の、おでん岩崎でも私を識つてゐると云つたが、私はおでん岩崎での他は記憶してゐない。 おでんの岩崎善右衛門君が文子さんの弁護を頼みに来た時は、荒井要太郎君と田坂貞雄君が既に官選弁護士に選任されて居り、私が兄弟の如くしてゐる親交の田坂君から、共犯二人は虚無主義者で、死刑を免がれたり弁護士を付けたりする事は望んで居らぬ、と聞いてゐたのだが、本人の希望であるから是非にと岩崎がいふので、本人の意思を確めるため兎に角と三四度面会に行きその都度朴烈君にも会ひ、協議の結果二人の弁護をする事になつたのだ。その時私の希望で、も一人弁護士を附けることにして、私は私の近くの若くて元気がよく、腰の軽い刑事々件得意の上村進君を相棒に推し官選と共に四人で弁護した。これは大正十四年末頃か十五年の正月頃のことであるが、上村君は大正十二年七月八日の高尾平兵衛社会葬に事務所を借りて以来其筋から当時の所謂赤弁護士、左傾弁護士に編入されてゐたのである。 社会葬に上村君の事務所を借りたのは、私の芝新桜田の事務所と上村君の麹町内幸町の事務所とはドブ一つの距離であるが、私の方は芝署上村君の方は丸の内署の管轄であつたから、日本最初の社会葬に対する警察の不法弾圧に備へ私方を秘密事務所、まだ注意人物でない上村君方を公表事務所として置く戦術を採つたのだ。で上村君には私の事務所は平民大学と自由法曹団と機械労働組合(総連合の前身)と対露非干渉同盟の事務所になって居り(当時日本社会主義同盟は大正十年五月二十七日付で禁止解散となり、日本フエビアン協会「大正十三年二月十七日創立」はマダ創立されず、その機関誌『社会主義研究』も『解放』もマダ発行されてゐなかつた。山川均主筆岩佐作太郎主幹平民大学発行の『社会主義研究』社会主義同盟機関誌『社会主義』は当時既に廃刊、狭くて困るから集会だけさせてくれと、ホントウのことは言はずに頼んだ。 社会主義同盟や社会葬の事を出したのは、朴烈君も文子さんも大正十年五月九日神田青年会館の社会主義同盟全国大会にも同十二年七月八日青山斎場の高尾社会葬にも参加し、大会ではいたく当局の横暴弾圧に憤慨し社会葬では非常に死に対する感激を深くし、特に文子さんは以前より高尾を識り之れに敬服してゐたとの因縁からであるが、この高尾君及び吉田一君と組み戦線同盟を代表して大正十二年六月十六日早暁、私の友人赤化防止団長米村弁護士を襲撃し目的を達したはよいが、帰途高尾を打たれ死骸を残してそのまま二人で私方へ駆け込み、相談の結果は隠れて秘かに決死の覚悟で、社会葬の準備とその日を大成功させた。長山直厚中尉だつたか、又は平岩巌君だつたか忘れた(実は平岩君と思ひ込んだ。書き終つて後訂正したので此項一貫して変んなところがある)が、その後戦線同盟の平岩君が何かで検挙されて予審中面会に行つた私に、係りの立松判事の面前で立松判事が特別に良くしてくれると感謝して語つたのに、出獄後立松判事の撮影した朴烈君文子君の写真を手にいれ(地方裁判所に於ける朴烈君等の係予審判事も立松君)内閣倒壊運動の政争用具に供したは何の因縁か。 立松君は責を負ふて辞職弁護士開業後、平岩君の事業顧問をして儲けさせて貰つとると語つたが、朴烈君は出て来て今は働きも出来ず大に貧乏してるらしい。平岩君のことだ、もし元通りの景気なら、あの写真でアラレもないデマまで飛びだした罪亡しに何か罪亡しがあるだらう。 文子さんは大正十五年七月二十六日暁方二十三歳を一期として、「私が生きて居れば朴烈にこの世に未練が残り思想に動揺を来たすから特赦を拒否して自殺する」との遺書を残し、宇都宮刑務所栃木支所で自ら縊れたとのことである。 第三次との因縁 私が昭和四年頃から数年間毎年私の解放社から発行してきた「年鑑日記」には、難波大助の虎の門事件を第二次、朴烈事件を第三次大逆事件としてあるが、これは判決又は世間公知となつた日の前後からで事柄からすれば、朴烈文子事件は大正十一年十月頃からゆへ大正十二年十二月の虎の門が第三次となる。 却説私と虎の門とは難波の友人に難波の弁護を頼まれそれを松谷与二郎弁護士に復頼みしたといふ極く稀薄の関係にすぎないが、大助大逆の動機を掘下げて見ると相当因縁の深いものがある。 月日は判然しないが大正十三年の春か夏の頃難波大助の署名で大助の弁護を相談してきた鉛筆の端書が届いた。テツキリ其筋の悪戯乃至挑発と信じた私は歯牙にもかけず屑籠に投入した。一ケ月とは経たぬ中無署名の手紙がきて、葉書より短文で私は難波大助の縁故者だが近い中に御伺するから弁護のことに就て御義侠を御願したいとの意味が書いてあつた。半信半疑の私は取りあへずその手紙を破つて屑籠に入れた。数日後に若い男が難波の友人と名乗つて来て新に大助の弁護を依頼し、尚大助は先生を知つてゐるから先生の弁護を希望してるだらうと附け加へた。結局考へて置くで別れたが、双方、私は態と、前の手紙、彼れの居所、大助との関係などには触れなかつた。 私の彼れに対する不安はまだ消へなかつたが、幸徳事件の卑怯を自己批判自己後悔してる際ではあり、難波とこそ微塵の関係もなくその点は大胆に安心だつたから、仮令彼が何者であらふと危惧することなく大逆者の弁護をしてやらうと秘かに決心した。で恰度その頃来訪した堺利彦君と橋浦時雄君に相談すると、二人は当時例の第一次共産党事件で謹慎中であつたせいか又は幸徳事件後の主義者弾圧を慮つてか、共産党事件と関係ある私が共産主義者の大逆事件を弁護する事を好まず「我々の運動と全然関係のない弁護士に弁護して貰つたらどうか」と提案した。その時は暑くて障子を明放して話したことを記憶してるから夏であつたであらう。又五色温泉の第一次共産党の検挙開始は大正十二年六月五日だつたから二人の来訪は翌十三年の保釈中だつたらう。然るに幸徳、難波両事件の弁護士だつた今村力三郎氏の写本著述「芻言」には同氏が大助の弁護士に官選されたは大正十三年二月廿二日とあり、松谷君の著述には同君が私から頼まれて難波の弁護をする事を大審院に届出てあるにかかわらず、大審院は松谷君には何の知らせもなく不意に今村、花井、岩田(前法相)の三氏のみを官選し公表したから即時大審院長に抗議したとある。夏だといふのは私の記憶違ひか或は又二月官選の公表が夏になつたのか、私が「月日は判然しない」といつたのはコレだ。 却説、社会運動に関係なくて大逆事件の弁護を喜んで引受けてくれそうな弁護士は、当時自由法曹団の松谷君か上村君の他には見当らなかつた。自由法曹団は大正十年八月十一日神戸三菱の大争議で警官に惨殺された争議団員常山俊一の団葬の際、無抵抗示威行列の指導者賀川豊彦君等数百名が検挙され、東京の弁護士数十名がその調査応援に赴いた時、海員ホームで私と故鈴木文治君と宮崎龍介君とが社会運動犠牲者救援の弁護士団を作らうと相談し、帰京後調査応援に行つた弁護士その他に呼びかけ、其月二十日、日比谷公園の松本楼に約百名が集合して喧々怒号の末、牧野充安君、宮崎龍介君の自由法曹団と命名説が勝つて誕生したものだが、当時はマダ一般帝国臣民の人権擁護が専門で労働者の味方、社会運動の支持団体には頗る遠いものであつた。 この自由法曹団の上村君とは大正初年の東京法律事務所以来別懇の間柄であつて、私として松谷君よりも頼み易いのだが、上村君は前述の通り高尾社会葬以来少くともその筋では注意弁護士になつてゐたので、堺君等の意思に副ふべく当時の小山検事総長横田大審院長及び弁護士界の大御所原嘉道博士等と特別の関係ある松谷与二郎君を頼んだ。尤も松谷君は弁護士界切つての押し切り屋であるかわりに又有名無類のヤカマシ屋であつたから、私は松谷君に『難波の友人が大助の弁護を是非松谷弁護士に頼んでくれと云つて来た、それは私にも何も聴いてくれるな、松谷弁護士にもさう頼んでくれと云つて帰つた』と話し松谷君は早速快諾してくれた。もし私の記憶に誤りがないなら私が「花井、今村、岩田の三氏が弁護士に定まり、大審院の肚は他に弁護士を附けたくないのだから、君の弁護を妨害せずに認めるかは甚だ疑問だ」とアヂリ、松谷君が必らず成功してみせると軽く引受けたのは矢張り此の時だつたと思ふ。今考へてみても、あの時あの場合、種々諸々の困難を克服して強引に弁護士となれたのは松谷君なればこそで、誰にも真似の出来る芸当ではなかつた。 難波に面会したり記録を調べたりした後の事、松谷君は「大助はおれや君を知つてるし、おれの演説を聞いた事もあるし、君の事務所も知つてるといつたが、多分自由法曹団の演説会だらう、君の事務所を知つてるのは、当日新橋駅から裏伝いに虎の門へ行つた時見たのだらう。」と語つた。しかし私はそれは違ふと思ふ。 私の判断では、難波の思想が左傾して社会主義的になつたのが大正九年九月四谷鮫ケ橋貧民館に間借生活した頃から、テロリストの出てくるを当然と考へたのが大正十年三月「改造」の河上博士断片を読んでから、自分が大逆者たらんと決心したのが大正十年四月幸徳等大逆事件の判決文を読んでから、となつて居り大正九年五月総選挙の父の立候補に憤慨して上京、大正十二年九月大震災直後まで東京市内で苦学苦労し、その間唯一可能の趣味娯楽は遠近を問はず政談演説会、思想講演会その他の集会をテクリ廻る事で、当時社会主義同盟は大正九年初夏から平民大学事払の事務所を根城に発企され党員獲得解散予防の戦術上イツでも創立準備会で進む事とし、(ところが、所謂大衆の要望に押され、結社の即時解散を承知の上で同年十二月十日創立大会を神田基督教青年会館に持たねばならなくなつた。その創立大会も開会前に集会解散になるは必定の形勢だつたので岩佐作太郎君の機智で、前夜九日の大会準備相談会を緊急創立大会として創立し同時に翌十日の大会を創立報告大会とする決議をし、その会もその決議と共に中止解散となつた。十日の大会が前夜から会場へ潜入工作してゐた高津正道君の大赤旗翩飜と開会宣言と中止、解散とが三位一体同刻同時であつたは勿論だつた。検束者は大杉栄、赤松克麿、岩佐、近藤君等数十名で、残つた十数名が監房で暴れ、警視庁破壊罪で処罰されたはこの時である。大学を開放して連日座談、討論、講演、演説等の会合を持ち、誰でもが自由に出入が出来(この会合が常に解散されたことは勿論だが)又平民大学は大正十年から十二月卅一日に「恒例平民大学徹夜放談除夜会」を開始し、入り替り毎年数百の人が元旦まで自由に出入でき(時の人今の徳田球一君も元労働農民党書記長細迫兼光君もイツからイツまでか判然覚へて居ないが当時私の事務所にゐて、徳田君はひととせこの放談会を司会してアヂリ、何かの雑誌へ、次年の運動傾向はこの放談会で予測できると書いた事を覚へてる。)だから、難波は興味を持つてこれらの会合に出席自然私の事務所を知つたものだらう。 問題の葉書と手紙及び自称友人は今以て私の疑問だが、松谷君はその自称友人は梅田与一で手紙は与一の書いたものだと判断した。梅田は難波の性格と思想を熟知する唯一の親友、彼れが杖銃を携へて上京するのを見て当事を予知危惧し難波の後を追つて兇行の翌日新橋到着、新聞で犯罪詳細を読んで驚愕所在を晦まし遂に共犯嫌疑で一時留置取調を受けた者、もし自称友人も手紙の書き主も梅田なら私にも梅田を共犯と疑へる説が沢山ある。葉書と手紙には大助の弁護を私に頼むとはハツキリ書いてなかつたから、私は投蔵して置いた屑籠から拾ひ出してこれを松谷君に渡したのである。 大杉栄虐殺のこと 難波の大逆動機には色々あるが、社会主義同盟に対する圧迫、幸徳一派の大逆判決の過酷、大震災ドサクサ紛れの労働者、主義者、朝鮮人に対する支配階級の残忍極まる大量虐殺が重なる動機の一つであり、大助は之れに激憤蹶起その復讐と意久地なき主義者達を覚醒するためと、反省なき支配階級最上乗の見せしめとして国際検事団に魁けして(圏点は筆者の註<「国際検事団に魁けして」に傍点>)最高責任者を狙つたのだと壮言豪語してゐる。この三つは何れも私と相当深い因縁関係があり前の二つは既にその概要を或は長過ぎるほど書いたから、私は最後の一つのドサクサ大虐殺に就て少し書いてみる。 難波は大正十二年九月一日大震災当時のドサクサ虐殺の例として平澤計七君、河合義虎君等八名の所謂亀井戸事件、甘粕正彦大尉、森慶次郎伍長、鴨志田利一上等兵等憲兵隊本部の大杉栄外二名虐殺の所謂憲兵隊古井戸事件、軍隊警察及びその指導保護下にあった暴力団の朝鮮人に対する日本人的暴虐即ち朝鮮人大虐殺事件を挙げてゐる。 亀井戸事件は一日の地震を待ってゐたかの如くその日より警視庁は社会運動者、主義者、朝鮮人達一切無差別至極公平に検束し東京ではその数何萬、一時は生屍室に充ち頭の上に立たせて漸く収容したと云はれたものだつた。亀井戸署には約千とかで平澤君は二日かに夜警当番中を河合君は三日かに老母看病中を検束され、四日、戒厳中の軍隊によつて暴動を起すの虞れがあつたとの口実で虐殺されたが、銃殺か刺殺か砲殺かは未だ不明だ。先死者の高尾社会葬に後れて大正十三年二月十七日漸く労働組合葬が青山斎場で挙行された。憲兵隊事件の大杉君も妻の伊藤野枝さんと大杉君の妹の橘あやめサンの子米国生れの米国人宗一(当時七歳)と三人で自警昼警中を、一寸来て下さいでダマされ、憲兵隊本部に連行され、九月十六日夜、大杉、伊藤の二人共不意に後ろから甘粕に首を締められ、宗一は伍長上等兵二人掛りで首を締められ、屍体は三人一緒に隊内平親王ゆかりの古井戸奥深く埋められた。これが十九日にバレて三人共軍事裁判に付せられたが、甘粕は酌情の余地なき三人残虐謀殺で十年、大杉、伊藤二人殺しの共犯部下森は、三年の懲役、二人がかりの宗一地蔵殺しは上官の命令なればとて無罪でケリ、大杉君の葬式はその年十二月は覚へてるが日に記憶はない。しかし骨を盗まれたはその日の朝だつた。 朝鮮人の虐殺されたのは社会主義者と共謀して大震災を起したのだといふ流言から、井戸に投毒した、火を放けた、暴動を起した、朝鮮軍が東京近く押寄せた、の蜚語まで飛んだため、日本人古来の酔風美俗が曝露されたものであるが、その数に至つては今以て私には不明だ。当時の朝鮮総督は確実の処合計二人、司法当局は取あへず、南葛を除いてザツト千人と発表し、南葛は千人とも二千人ともいはれた。慰霊祭に鄭然圭君は弔文で三千人と読み戒厳令下鮮人取締に来た習志野から帰隊した人は優に五千と告げ、生命からがら上海に逃げ帰つた人は確かに萬を越へてると云つたさうだ。兎に角当時を追想すると、血の気の多い情熱の純真な若者だつたら、難波大助君たらずとも誰でもが卑怯者でない限り正気の沙汰で狂気の行動に出でないのが不思議の位であつた。現に五十近くの老境に達し、血も熱も失せた上人一倍卑怯であつた私ですら、痛憤止み難く、当時の情勢上随分遠慮はしたが、色々の策動をしたり新聞雑誌の注文や問合せに対して雑多の小論を文したり葉書返答を出したりした。その小文が大正十三年九月十日発行の「地震憲兵火事巡査」(サブタイトル又は鉢巻タイトルは「甘粕は三人殺して仮出獄?久さん未遂で無期の懲役」)の小著に集録されてるから、私は之れをところどころ引抄してこの項の因縁記に代へる。 朝鮮人事件 地震流言火事暴徒 (前略)今度の地震は朝鮮人と主義者とが組んだ陰謀だといふ風説はこの頃地震博士等が漸く震源地は却て他にあり大島と相州との間、海底陥落の地辺ならんと発表して以来全くその跡を絶つた形跡がある。併し火事に付ては尚諸説紛々で流言蜚語が盛んにとんでる。しかし、全国の内鮮人が地震を合図に一斉蜂起し、火を放ち毒を投じ人を殺し財を掠め日本を乗取らんと企んだのだ、主義者は予め図て之を煽動したのだ、といふ点は一致してゐる。この流言蜚語当然の結果(中略)戒厳令は布かれる軍隊は出る銃丸はとぶ伝令は走る演説はやる掲示は貼る内訓は出る公報も出る自警団もできれば義勇団もできる。在郷軍人も青年団員も兇徒も暴徒も皆一斉に武器を執つた。そこで朝鮮人の大虐殺となり中国人の中虐殺となり半米人(二重国籍者宗一幼年)の小虐殺となり主義者運動者のタダの虐殺となつた。(中略)到る処巡査兵卒仲間同志の手柄話を立聴くがよい。今でも血に飢へた彼等は憚る処なく当時の猛烈なる武勇とその役得とを自慢するではないか。(中略)実に当時の戒厳令は火に油を注いだものであつた。(中略)全く軍隊や警察が、人夫、車掌、配達夫の萬分の一でも役に立つてくれたなら、騒ぎも起らず秩序も紊れず市民はどんなにか幸福であつたら、然るに(中略)輿論が頻りに戒厳令を賛美渇仰し功績を独り軍隊にのみ帰せんとするは抑も何故であるか。(中略)中には長い物には巻かれ、なく子と地頭には勝たれなかつた者も頗る多かつた。故に間もなく正気の沙汰となり軍閥に対し一斉射撃を開始する日も遠くはあるまい。(中略)僕のこの憤慨は無理だらうか、間違つてるだらうか、僕が動揺常なき確乎不動の感情に拠る正直の凡人であるから、そう思ふは当然だといふなら、朝鮮人問題に対する日本及日本人の態度をみた世界の人々が全部僕のような考へになるのも当然である。(中略)今度こそ愈々愛想もこそ尽き果て低能でバカで意久地のない日本人と主義者と国士と朝鮮人と大和魂とが、手に糞のはいた程厭になり嫌ひになつた。(中略)鮮人問題解決唯一の方法は早く個人には充分損害を払ひ、民族には直に自治なり独立なりを許し、以て誠心誠意低頭平心慰謝謝罪の意を表する以外はない。(大正一二・一二・一四日) 朝鮮問題問答集 (三)過般の震火災に際し行はれた鮮人に関する流言蜚語に就ては、実に日本人と云ふ人種はドコの成下りか知らないが、実にバカで臆病で人でなしで爪のアカほどの大和魂もない呆れた奴だと思ひました。その後の事は切歯痛憤身震ひがします。(中略)小供が鮮人ゴツコをする度に死ぬ程ヒツパタイてやります。小供がこの次には朝鮮人になつて日本人を鏖殺しにしますからと泣いて陳謝れば許してやります。 (五)(イ)朝鮮人の殺された到る処に鮮人塚を建て、永久に悔悟と謝罪の意を表し、即時独立を許すこと、然らざれば日鮮親和は到底見込なし、(ロ)憲兵隊司令官本部平親王井戸辺に宗一地蔵を建立し、幼児の冥福を祈ると共に軍部の無智無謀と残虐とを記念すること、外国の悪感情は総て之れに基因すればなり。(ハ)毎年その日にセツテンデー若くは亀井戸労働祭を挙行記念し、亀戸警察で軍隊の手に殺された多くの労働者の魂を猛烈に祭ること、噴火口を密閉したのみで安泰だと思つてるはバカの骨頂だ、イツか奮然として爆発するは当然で思ひ知ること近きにあるべし。(大正一三・八・一〇)後略。 亀戸事件 平沼司法大臣への公開状 (前略)此書は眇たる天下の一小問題亀戸虐殺事件に司法権の発動を求むるに過ぎません。が、其延て波及し影響する処は断じて軽視すべきでなく、貴下としては後日自責遂に自決消失せざるを得ざるかも知れず、私としては人間と性質と信念が激変するかも知れません。(中略)私が急に思立つたは一昨十五日文壇関係諸氏の平澤計七君追悼会で其思ひ出を新にした処へ、昨夜は筆にするに忍びない残虐を極めた平澤君等の惨殺死体、首と胴との実物写真を届けてくれた特志家があり、今日は又全く期待に反した貴下の横山勝太郎君の質問に対する答弁を読まされたからです。(実は私から其の写真を提供して横山君に質問して貰つたのだ)(中略)吾々自由法曹団の調書の一部として検事正に提出した私の始末書中の「此調書を読んで泣かない者は日本人でない人間でない・・・・・・国賊である悪党である」との一節は今も尚之を維持します。(中略)彼等犠牲者は皆別別に、就床中夜警中を抜刀士足の正服私服の憲兵巡査に襲はれたのです。(中略)殊に親思ひ兄弟思ひの川合君は、麻布より飛んで家に戻る帰途倒壊家屋中から瀕死の二幼女を救ひ出し、老母の身を案じつつ一昼夜之れを看護し漸く其幼女を隣家に渡して帰宅、一日老病母を看護したる処を急襲されたのです。(中略)亀戸署が急に遺骨発掘を拒んだは実は死体何個の実数曝露を感付いたからです。私共が全部の遺骨を受取つてもよいと申出たは、実は死体が何千あつたか、其人種別の割合、生焼半焼全焼けの比率、鉄砲か大砲か刀剣か、首があるかないか其割合は、を知りたかつたからです。(中略)然るに一昨日の新聞警察種は遺族が引取らぬから警察で埋葬すると報導し、飽くまで其の非を遂げんとします。(後略)(一二・一二・一八) 平澤計七君を憶ひて 平澤君が殺されたのは九月四日の真夜中、僕の同君を知つたは前年同月同日の真昼間、変んな因縁だ。僅か一年だが其間平澤君一家は僕の家に同居し平澤君は一家で僕の労働週報を編集し僕と共に種々の陰謀も企て、僕の看板で、「労働者法律相談所」もやつたから、短い割合には深い間柄だとも云へる。(中略)僕が労働週報を創みた時その道の玄人は皆一家で週刊の編集ができつこないと保証してくれた。しかし平澤君は編集から事務発送まで一人でヤリ遂げた。しかも後の評判では労働新聞としては週報前に週報なく週報後に週報なしとの事であつた。(中略)平澤君は熱と力と気と押と、根と理と柔とで大山公、二條公、古河、川崎、和田、大倉、浅野、大橋等大資本家大会社に対する数多の労働法律事件を見事上手に解決し死後今に至るまで未知の労働者からさへ感謝感憤の礼状を貰つてる。(中略)平澤君がこれ等大中小の芝居を味方友達仲間同志に打つことが評判を悪くし誤解を招いたらしい。しかし友愛会時代に弾劾排斥された事は全く一派の誤解若しくは陰謀で平澤君に過失はなかつたとは現総同盟主事の加藤勘十君と当時の弾劾の急先鋒高田和逸君とが僕に語つた処である。(中略)平澤君は元鍛冶屋で七等俳優で、講談もやり芝居もやり文学者もやつた人である。(中略)でも平澤君は可なり仕事もして生甲斐のあつた仲間であり其の最後も華々しく言伝へられ死甲斐もあつたから諦らめも出来ようが、なすべき多くの仕事を持つたまま同じ運命に落ちた南葛労働会の若い諸君及その氏名も知れずに終つた多くの人々の事を思ひ出すと、イクラ僕でも独り粛然として恨骨髄に徹し只血涙限りなく流るるのみで、もう冗談一つ書けなくなつた。(大正一三・五・二一日) (これは菊池寛君、下中彌三郎君の尽力で刊行された平澤君の遺署序文だ。平澤君の遺妻よしサンは私の紹介で野中誠之君と結婚、遺女和嘉子サンも私の媒酌で元警視庁の新潟県人佐藤君(入籍手続困難で和嘉子サン家に入り松本姓)と結婚一男二女を儲けた。佐藤君出征後野中松本両家終戦直前大森を疎開、佐藤君は終戦直後復員其処へ落ち着く、両家の疎開先又は現在地知りたし、私は長野県諏訪郡川岸村蛇ノ洞) ○ 憲兵隊事件 外二名及大杉君の思出 大杉君の逸話又は思出を十枚計りといふ注文に、この表題で一度原稿を書き終つたは十月七日の夜であつた。その原稿では先づ大杉君の系図を掲げ、当局があくまでかくさんとする外二名は野枝さんと半米人の幼児橘宗一であること及び陸軍が触れられては困る、大杉君が山田保永中将とは三親等前憲兵司令官現京都師団長山田良之輔中将とは四親等の血族であることを曝露せんと試みた。・・・・・・が大杉君には詳細の自叙伝もあり、長い間その日その日の生活は新聞雑誌の種になり又は大杉君の飯の足しにもなつた・・・・・・で永年深い間柄であつたのを楯に珍味新鮮の処を盛沢山に・・・・・・大杉君は確かに殺されたに相違ないがイクラ考へても本当に死んだとは思へない、宮内省の坂本といふ大杉君の柔道の先生は、大杉の腕ならイクラ欺し討でも手を縛られて居らない限り、三人や四人では到底首を締めきれるものでないと、杉浦重剛翁に話したさうだ・・・・・・大杉君と最後に別れたのは八月末・・・・・・例の三人でやつて来た時である・・・・・・妻が下へ降りると洋行の用向、秘くして行つたわけ、旅費調達の苦心、今後の運動方法などを語り出した。その間マコと堅公とは歌つたり踊つたり泣いたり笑つたり喧嘩したりバカにハシヤギ廻つてゐた。堅公は僕の独り子でもし僕と共に之れを殺しでもした者があれば僕はキツトその下手人は申すに及ばずの少しでもの関係者(殊にその上の方の関係者)は本人は勿論その九族までを皆殺しにして復讐してみせる。・・・・・・先日朝日で志賀重昻翁が、恰度百年前の九月十六日に、モルモン宗の始祖が同じく軍人に親子三人で殺された。そのためモルモン教は大成した。後世日本に赤化思想が蔓延したら、それは無智なる軍人の功績である。と諷刺したが、百年前、九月十六日、軍人に三人で・・・・・・何の因縁か・・・・・・(大正一二・一〇・一三日) ○ 一つにつき公平に二つ宛とし、も一つは甘粕事件軍法会議の判決批評も抜書する積りだつたが、これは難波の大逆動機とアヤカリも因縁付けも余りに縁遠いから止める。難波は朝鮮人および亀戸署の虐殺には大憤慨をしてるが、憲兵隊事件には余り憤慨しなかつたようで、私の書いたものも亦それに似てるが、それは当時堺君等多数の者が共産党事件で留守中、その他の同志も多数が震災で散逸中の人手不足ではじめは、私が近藤憲二君と、あやめサン相手に自由法曹団にうつたへたりして事件暴露に専念していそがしく、後には村木、和田、古田君等の復讐事件弁護の必要上、自身あまり復讐主義強調はつつしまねばならなかつたからで、大杉とは格別親しく、あやめサンの愁歎場と大杉等三人の発掘惨殺屍体とを現実にみた私としては、朝鮮人や南葛労働者虐殺と同様に、大杉等の虐殺を憤慨したのは当然である。 難波君は又幸徳や大杉の一派同士が復讐をしないことを意久地なしとして憤死したが、大杉の同志に関する限り之れは当らなかつた。村木源次郎は君よりも一層生ツ粋のテロリスト、久さん事件和田久太郎君は害悪に対しては乞食にでも生命を捧げタンクにでもタンをヒン投げるといふ徹底した君よりも純真な感激家、果して二人は君の憤慨し初めた頃から復讐を計画してゐた。一周年忌には少し早かつたが十三年八月十四日には未遂ながら当時の最高責任者福田大将一家の爆殺を謀り、記念の九月一日には大将を狙撃した。村木は松岡洋右に先例を残し、幸徳の命日を期し大正十四年一月二十四日巣鴨監獄を出て無罪で病死した。久さんは大正十四年九月十日無期懲役、特赦で有期となり秋田へ移されてから同志との約束に反し、好んで獄死した。久さんで今でも私の気にかかることは、久さんがイツモのニコニコで無雑作に、甘粕の最高責任者は誰かとの問にウツカリ、時の司令官福田大将と答へたこと、「獄窓から」の久太漫評に岩佐作太郎君の書いた、大杉の葬式を終へた直後某氏方に立ち寄ると、某氏は頗る緊張して「大杉のかたきを誰が打つだらう、かたきを取るものがないやうでは、アナキストもへちまもあるものか」と、僕を詰るやうに言つた。僕もこれには少なからず面喰つた。とある。某氏とは誰の事か、私か服部かと迷ふことである。 ○ 猫の尻尾で何の役にも立たなかつたかも知れないが、私が九月震災ドサクサ虐殺を、よくもこう長々と山鳥の尾式にかいたのは、要するに、相当思慮ある注意深い慎重居士五十男の私も、血気盛んで感激感受性多い、気違ひじみた二十五男の難波も、それに就ての気分心持は怖しいほど同じで、私が難波と共謀して書いたか、難波が私と相談して裁判陳述をしたかと疑はれるくらゐであり、全然無縁の衆生ではない、といふ事を云ひたかつたのだ。 大逆罪と天皇制 前にも書き後にも書くであらう如く、三つの大逆事件には一つの共通したものがある。それは卑俗低級無哲理のものではあらうが、復讐しなければならない。どうせ死ぬのだから、一ばん華々しい人の目に著き口の端に上る最高責任者を狙へといふ至極簡単明瞭の無鉄砲である。幸徳事件が赤旗事件の復讐である事は天下に隠れのない事実、虎の門事件又前来長過ぎる記述通り、朴烈文子事件は死滅と最高責任者強調に忙しくて、復讐の理由は軽く述べてゐるだけだが、もし九月の震災ドサクサを見た後だつたら、全く難波と同じで或は朝鮮人虐殺に付ては其れ以上であつたに相違ない。 私はなんでも民主々義第一の今日、今更圧制専制弾圧とその結果の恐怖などに就て説く愚を敢へてしないが、最後に天皇制に就て一言してみたいと思ふ。 ○ 大逆罪が最高責任者を狙ふものである限り天皇制を廃止すれば大逆罪は直になくなるが、政治上の最高地位を天皇とする天皇制の存する限り如何に刑法を改正しても、如何に憲法を粉飾しても大逆罪の発起は免れない。しかし私は老年者共通の保守消極温健同情平穏を愛好し、今急に茲で此際天皇制を廃止することは、却て混乱無秩序を来たし、何もかも制度の悪い昔の事で今は忘れて何の恨みもなく、自分に関係なく他人がヤツてくれるにしても面倒臭く、有るものを捨てるやうで惜しくもあり、天皇に気の毒のやうにも感じ、すべて私の好みに反するから賛成できない、のみならず私は故郷へ帰れば墓参りをし線香を立て茶を啜つて茶話をするため、生家に立寄るを楽しむやうに、東京へ出たら一寸寄つて会つたり拝んだり、花や庭をみたり散歩したり、を楽しみに宮城や皇室を保存したいとさへ思つてる。 こうするには天皇が最高にも最低にも責任者であつてはダメだ。それは実質上は勿論だが形式上にも責任者であつてはならない。多数バカ者の中には形式をみて実質と誤解する者多数ないとは保証できない。怖しい事だ。で真に天皇制の存続と皇室の安泰とを希ふ者こそ、天皇と政治干与とを切離し、改正憲法の所謂天皇の儀礼的大権をも極度に縮小し、使用文字で誤解を招かぬやうよく注意し、未来永劫大逆罪の原因除去を望むべきである。象徴認証ですらどうかと思へるに、これを元首裁可に変へるなど寧ろ発起奨励で、危険千萬とんでもないことである。 <以上は、山崎今朝弥氏が著作者である。> <旧仮名遣いはそのままとし、踊り字は修正した。旧漢字は適宜新漢字に直した。> <底本は、『雑誌真相復刻版(第1巻)』(三一書房、1980年)、底本の親本は、『真相』(人民社)第6号(1946年11月)3頁>
https://w.atwiki.jp/asterisk99/pages/118.html
2009.7.11 No.51 徳永直『光をかかぐる人々』(四) 定価:200円(税込) p.263 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(245項目)p.1117 最初の印刷工場 一/二/三/四 作者言 ※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。 ※ JIS X 0213・ttz 形式。 ※ この作品は青空文庫にて入力中です。翻訳・朗読・転載は自由です。 ※ テキストおよび底本画像は、 徳永直『光をかかぐる人々』入力中(http //d.hatena.ne.jp/HikariwokakaguruHitobito/)(uakira)にて公開中です。 (c) Copyright is public domain. フランクリンが十三歳で印刷屋の小僧となってから、十七歳の一七二三年フィラデルフィアに移って以来週刊新聞を発行するまで、彼のイギリス渡りの二、三枚の活字ケースがどんな重大なはたらきをしたかは、周知のように彼の『自伝』が彼がアメリカ憲法草案を書いたときのそれにもおとらぬ感動をもって語っているところだ。(略) しかし私の考えるところでは、フランクリンが「世界印刷術中興の祖」といわれる所以のもっとも大なるものは、活字や印刷機の多少の改良よりは、活字や印刷術を人々の日常生活のなかにひっぱりだしたこと、たとえばフィラデルフィアの町で、町有志の会合の記録などを、この青年書記がたちまち印刷にして配布し、その翌朝は町有志の人々がもれなく昨夜の激論の推移と成果を知ることができ、さらに次の会合のため各自がいっそうおのれの考えを進めることができるような印刷物を作ったこと、つまり活字のために新しい任務をひらいた点にあるのであろう。フランクリンは図書館をつくり、新聞をつくり、志ある人々をたすけてアメリカじゅうに印刷所ができるよう尽力した。しかし書籍組合創立や印刷所建設やではヴェニスのマヌチウスも、ウエストミンスターのカクストンも、フランクリンに劣りはしなかったのだから、つまりフランクリンの功績の大なる所以は、彼の図書館の建設方法や、同じ著述でもその内容や、新聞という独自の形式と内容や、印刷所建設でもその経営方法と作業規律の内容や、その性質に相違があったのである。 51.rm (朗読:RealMedia 形式 384KB、3'05'') #ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 週刊ミルクティー*第51号 ※ ダウンロードサイトへジャンプします。 (856KB) 徳永 直 とくなが すなお 1899-1958(明治32.1.20-昭和33.2.15) 熊本県飽託郡花園村(現熊本市)生まれ。1922年上京、博文館印刷所(後の共同印刷所)に植字工として勤務。1925年に「無産者の恋」「馬」などを発表。翌年共同印刷争議に敗れ、同僚1700人とともに解雇される。1929年この時の体験を基にした長編「太陽のない街」を『戦旗』に連載。1958年『新日本文学』に長編「一つの歴史」を完結させないまま世田谷の自宅で病没した。享年59。 ◇参照:Wikipedia。 底本 http //d.hatena.ne.jp/HikariwokakaguruHitobito/ 底本:『光をかかぐる人々』河出書房 1943(昭和18)年11月20日発行 NDC 分類:210 914 【*年表】 ※ 本文中の和暦表記にはカッコ書きで西暦を付与。本文中の西暦表記はそのままとした。 ※ 嘉永は七年一一月二六日まで。一一月二七日(一八五五年一月一五日)をもって安政に改元だから、本文中「安政元年七月」は「嘉永七年七月」が正しいはず。「安政元年」の直後に * 印を加えて注意をうながす。 (例)安政元年*(一八五四)の七月 一四五五 「流し込み活字」ドイツ、マインツで発明(以下、印刷文明史)。 一四六五 イタリアへ流布。 一四六六 ギリシャへ流布。 一四六八 スイスへ流布。 一四七〇 フランスへ流布。 一四七三 オランダ、ベルギー、オーストリア・ハンガリーへ流布。 一四七四 スペインへ流布。 一四七七 イギリスへ流布。 一四八二 デンマークへ流布。 一四八三 スウェーデン、ノルウェーへ流布。 一四八七 ポルトガルへ流布。 十六世紀初頭 全イタリアで四百三十六の印刷工場があったという。 一五三三 「流し込み活字」ロシアへ流布。 慶長二十年(一六一五) 江戸金地院の崇伝『大蔵一覧集』を銅活字で印刷。校合、寿閑。 一六三八 「流し込み活字」北米合衆国へ流布。 元禄八年(一六九五) 『洋学年表』「十一月長崎オランダ通詞目付の員を設け衆員を監督せしむ、本木庄太夫始て補さる」 一七二三 フランクリン(十七歳)、フィラデルフィアに移って以来週刊新聞を発行。 一七九六 フィラデルフィアのアダム・ラメージが世界ではじめての鉄製のハンドプレスを作る。ロンドンでも数学者スタンホープが「スタンホープ式ハンドプレス」を完成。 一八一三 フィラデルフィアのジョージ・クライマーが「コロムビア・プレス」を作る。 文化十年(一八一三) 圭斎、生まれる。 一八二〇 ボストンのダニエル・トリードウェルが世界最初の足踏印刷機を発明。 一八二一 ニューヨークのラストとスミスが「ワシントン・プレス」を作る。 文政七年(一八二四) 昌造、生まれる。 一八三三 「ファラデーの法則」が確立。 天保年間(一八三〇年代) 平賀源内橋本曇斎、本木道平ら「エレキテル」の実験。 天保五年(一八三四)四月 昌左衛門と後妻クラとの間に、縫、生まれる。 一八四〇年以後 ロシア人ヤコビ、イギリス人ジョルデイン、アメリカ人アダムス、オーストリア人プレッチェら、電気写真版および凸版完成。(西洋印刷文明史) 一八三八 ケーニッヒのシリンダー式以上に世界の印刷界を嵐のなかに捲きこんだニューヨークのデヴィッド・ブルースの「ブルース式カスチング」を発明。 一八四六 ニューヨークで世界最初の輪転機「ホー式回転印刷機」が誕生。 天保十三年(一八四二) 異国船打ち払い令改正。 弘化元年(一八四四) オランダ軍艦「バレムバン」来航。 弘化年間(一八四四〜一八四八) 幕府はオランダに注文して、小型の蒸汽機関を注文。 弘化三年(一八四六) オランダのライデンにおいて『オランダ文典文章編』出版。のちに昌造、翻刻。 嘉永二年(一八四九) 「近来蘭医増加いたし世上これを信用するもの多くある由、相聞え候、右は風土も違候ことにつき、御医師中は蘭方相用候儀、御禁制仰出され」る。 嘉永二年(一八四九) 吉雄圭斎、日本で最も早く、自分の三児に種痘を試みる(日本科学史年表)。 嘉永三年(一八五〇) 全鉄製ハンドプレス「スタンホープ・プレス」いわゆる「ダルマ型」が、オランダから幕府へ献納。 嘉永三年(一八五〇) 中浜万次郎、漂民として日本へ帰着、後二年間は自由の身ではなかったが、安政の開港以後、幕府の軍艦操練所教授となる。 嘉永五年(一八五二) 土屋喬雄『封建社会崩壊過程の研究』によれば、薩摩藩、蘭書にもとづいて蒸汽船雛型を作る。 嘉永六年(一八五三) 川本幸民『遠西奇器述』で電胎法のことを祖述。 嘉永六年(一八五三) 第三回めのロシア使節が長崎へ来る。昌造三十歳。この年はじめて父となる。妻女縫はこのとき十五歳。長男昌太郎生まれる。 嘉永六年(一八五三) ペリー、プーチャチンの来航。 嘉永六年(一八五三)末 「長崎談判」のおり森山栄之助が訳述して公用に役立った英書を、同じ応接係役人の箕作阮甫でさえが読むことができなかった。 嘉永七/安政元年(一八五四*)正月 吉雄圭斎、長崎出島の蘭館において電気分解の実験。 嘉永七年(一八五四)正月十三日付 阮甫の文中「後に三宝寺に来たり」。三宝寺は「長崎談判」のため筒井、川路に随従してきた彼の宿舎。プーチャチンらの軍艦が退帆したあと「川路君」左衛門尉らとともに出島蘭館を巡見。 嘉永七年(一八五四)正月十三日付「これはエレキテルとジシャクを合したる法なり」(川路日記) 嘉永七年(一八五四)十五日 阮甫、川路らとともに、当時日本では数少ない鉄精錬所をもっている佐賀藩の洋式新台場をみて「鎖国の弊はいたらざる所なし」と叱�。 安政年間(一八五四〜一八六〇) このころ昌造作の鋼鉄製日本文字字母が帝室博物館に所蔵。 安政年間(一八五四〜一八六〇) 「ワシントン・プレス」が上海を経て長崎奉行所の印刷工場に使用(川田久長)。 嘉永七/安政元年(一八五四*) 「神奈川」「下田」二条約の成立。 嘉永七/安政元年(一八五四*)六月 神奈川条約成立後、ペリー退帆。 嘉永七/安政元年(一八五四*)〜二年 箕作阮甫、川路左衛門尉にしたがって「下田談判」へ参加。清水卯三郎、阮甫が下田にいる所へ行って弟子入りを頼む(呉秀三)。 嘉永七/安政元年(一八五四*) 「当時病用相省き、もっぱら書生を教導いたし、当今必要の西洋学者を育て候つもりに覚悟し」(緒方洪庵伝) 嘉永七/安政元年(一八五四*) 福沢諭吉、二十一歳で長崎へ遊学。 嘉永七/安政元年(一八五四*)七月 昌造、土佐侯の築地の造船場にいる。『吉田東洋伝』に見える引用文では九月初旬まで昌造の名が出てくる。おそらく九月中旬まで江戸にいて幕府天文方の仕事。 嘉永七/安政元年(一八五四*)七月 長崎の通訳本木昌造、公用をおびて下田に来るの途次、転じて江戸に入る。(東洋伝) 嘉永七/安政元年(一八五四*)七月朔日 遠江守樣御出に付、八つ頃再び出動、直ちに退く。長崎鹽田氏幸八と云者、蒸汽船雛形持出し、御馬場に於て御覽あり。(寺田志斎日記) 嘉永七/安政元年(一八五四*)七月四日 昌造自身で蒸汽船を運転してみせる。(寺田志斎日記) 嘉永七/安政元年(一八五四*)七月十六日 寺田志斎、渋谷へ行って蒸汽船注文のことを昌造と相談。 嘉永七/安政元年(一八五四*)七月二十四日 寺田志斎、築地の造船場を他の藩士たちと共に下検分。 嘉永七/安政元年(一八五四*)閏七月二十四日 「御用番久世大和守殿に左之伺書留守居共持參差出候處、被請取置、同八月廿三日、同所え留守居共被呼出、右伺書え付紙を以て被差返上、則左之通」「今度大船製造御免(被仰出候ニ付、為試」(土佐藩記録)。 嘉永七/安政元年(一八五四*)閏七月二十四日 「右之通雛形、築地於屋舖内、手職人え申付爲造立度、尤長崎住居大工幸八と申者、此節致出府居候に付、屋舖え呼寄、爲見繕申度、出來之上於内海致爲乘樣、其上彌以可也乘方出來候時は、海路國許え差遣し、船手之もの共爲習練、江戸大阪共爲致往還度、彼是相伺候、可然御差圖被成可被下候、以上、閏七月廿四日、松平土佐守」 嘉永七/安政元年(一八五四*)八月朔日 「本木昌造より約束の品をし來る」(寺田志斎日記) 嘉永七/安政元年(一八五四*)八月四日 「供揃にて、供りの面々も馬乘に申付、砂村屋舖に相越し、長崎之通辭召連れ、蒸汽船一覽せらる」(容堂日記) 嘉永七/安政元年(一八五四*)八月五日 寺田志斎、建造中の船のことで昌造と談。 嘉永七/安政元年(一八五四*)八月八日 宇和島藩主伊達侯を招待して「夕方本木庄藏と申す通辭、蒸汽船持參致し候に付、馬場に於て伊達遠江守殿と一所に一覽せらる、その節中濱萬次郎も呼寄せ——」(容堂日記) 嘉永七/安政元年(一八五四*)九月七日 「雨、出て蒸汽船製造場に過たる、船の形、頗る成る」(寺田志斎日記) 嘉永七/安政元年(一八五四*)八月二十九日 豊信(容堂侯)昌造を召して海外の事情を聞き、携うるところの蒸汽船の模型を見、随従の工夫幸八に命じて、さらに模型を作らしめ、幕府に請うて試運転をなす。(東洋伝) 嘉永七/安政元年(一八五四*)九月下旬 昌造、大阪の安治川尻、プーチャチンの船へ幕府の諭書を持参。箱館奉行経由のプーチャチンの書簡を森山(当時栄之助)と連名で翻訳。 嘉永七/安政元年(一八五四*) 『和英対訳商用便覧』。イギリス船へも開港した長崎の商取引のため、もしくは蘭語から英語にうつりつつあった時代にさきがけたもの。 安政二年(一八五五) 活字板摺立所。 安政二年(一八五五) 福沢諭吉、大阪の洪庵塾へ入る。 安政二年(一八五五) 戸田村の「スクーネル船」、洋式船舶建造の最初。 安政二年(一八五五)四月 薩摩藩の昇平丸が江戸へ回航。 安政二年(一八五五)三月二十三日 プーチャチンの下田退帆。乗組員の一部は残る。 安政二年(一八五五) 昌造、下田から長崎へもどる。 安政二年(一八五五)七月 長崎に永井玄蕃頭、勝麟太郎らを主とする海軍伝習所できる。昌造、伝習係通訳となる。森山栄之助(改め多吉郎)外国通弁方頭取となり、堀達之助は蕃書取調所教授となる。 安政二年(一八五五) 昌造、「蘭書取次」あるいは「購入」で幕府に罪を問われて「入牢」。「時の長崎奉行・水野筑後守は幕府の命によりて、氏に突然揚屋入りを申し付けた」安政二年(一八五五)から安政五年(一八五八)十一月まで。(印刷文明史)。昌造を訊問した水野筑後守は「下田談判」当時の次席応接係で、昌造はその配下。昌造の養父昌左衛門は通詞目付で現存。長崎奉行所の「入牢帳および犯科帳」には記録がない。(本木、平野詳伝) 安政二年(一八五五) 蘭書の輸入が間にあわなくて、長崎奉行西役所内に印刷所をつくって「日本製洋書」をこしらえる。 安政二年(一八五五)〜三年 昌造、出島の蘭館で活版技師インデル・モウルを監督して『蘭話字典』を印刷。(本木、平野詳伝) 安政二年(一八五五) 昌造、活字板摺立係を命ぜられる。(本木、平野詳伝) 安政二年(一八五五) 昌造、造船海運についての「由緒書」を奉行荒尾岩見守を経て永井玄蕃頭に提出。(本木、平野詳伝) 安政二年(一八五五) 豊信、参勤交代の期に際し、帰国の後これを高知に回漕し、浦戸港内にうかべ、豊資その他連枝および諸士に縦覧せしめて西洋事情の新奇進歩せる実物標本を紹介。(東洋伝) 安政二年(一八五五)八月 土佐藩の船が築地でできあがって、土佐の港で運転。 安政二年(一八五五)八月四日 「由比猪内へ過く。夫より出勤。今日は早仕舞九つ時退く。——蒸汽船江戸より着す」(寺田志斎日記) 安政二年(一八五五)八月二十三日 「今日雅樂助君(容堂弟)蒸汽船御見物に御出」(寺田志斎日記) 安政二年(一八五五)以後 昌造の消息、万延元年(一八六〇)末飽ノ浦製鉄所御用係となるまで、ほとんど絶える。(徳永) 安政二年(一八五五)ごろ 蘭書の輸入なり勉強なりの取締りはゆるやかになりつつある。(徳永) 一八五五 世界最初の印刷雑誌の編集者トーマス・マッケラー「活字の歌」を歌う。 安政三年(一八五六)か四年 福沢諭吉、黒田侯から一冊の原書を借りて、エレキトルの部分を書生らと写本(福翁自伝)。 安政三年(一八五六)六月 昌造、『オランダ文典文章編』を著述。(本木、平野詳伝)=『文法書シンタクシス』(印刷文明史)=『文法書セイタンキシス』(川田久長) 安政三年(一八五六)九月 『スプラークキュンスト』発行。 安政四年(一八五七) 昌造、オランダで出版した『日本文典』の日本活字の種書を送る。(本木、平野詳伝) 安政四年(一八五七) 昌造、『和英対訳商用便覧』を出版。(本木、平野詳伝) 三年? 安政四年(一八五七) 縫、小太郎を産む。 安政五年(一八五八) 昌造、『物理の本』を出版(本木、平野詳伝)。原名『フォルクス・ナチュールクンデ』、和訳『理学訓蒙』(川田)。 安政五年(一八五八)七月 縫、死亡。四か月前、長男昌太郎没。 安政五年(一八五八)八月十五日 夜、当時紀州侯の御用達をつとめていた青木休七郎、ひそかに新任の奉行岡部駿河守の役宅を訪れ、昌造の保釈を願い出る。 安政五年(一八五八)十一月二十一日 夜、岡部駿河守、用人小林某を休七郎宅へつかわし、本月二十八日に昌造を保釈するむねを伝える。(印刷文明史) 安政五年(一八五八) 昌造、三十五歳。 万延元年(一八六〇) 昌造、飽ノ浦製鉄所御用係に登用。 万延元年(一八六〇)か文久一、二年(一八六一、一八六二)ごろ 昌造三十七、八歳のころのめずらしい写真。(印刷文明史第四巻) 万延、文久(一八六〇〜一八六四)ごろ 神奈川および下田条約。五か国条約実施問題をめぐる攘夷論沸騰時代。 一八六〇 ニューヨーク・トリビューン紙がもちいた輪転機、時速二万枚を記録。 文久二年(一八六二) 土佐藩の吉田東洋、攘夷派の志士に暗殺される。 文久二年(一八六二) 緒方洪庵、西洋医学所頭取となる。 元治元年(一八六四) 昌造、八丈島に漂流。折にできた妾某、娘松を産む。 元治元年(一八六四) 後妻タネ、清次郎を生む。 慶応三年(一八六七) タネ、昌三郎を生む。 慶応年間(一八六五〜一八六八) 昌造、薩摩の島津屋舗からハンドプレスをゆずりうける。 明治初年(一八六八) 平野富二、銀座の古道具屋から某大名からの流れものという形状不明のハンドプレスを発見。 明治二年(一八六九) 昌造、長崎でガムプルから電胎法を学ぶ。 一八七〇年代 マリノン式輪転機、完成。 明治十年(一八七七) ドイツ人ケーニッヒの「シリンダー式印刷機」を東京朝日新聞社で使用。 明治三十年 フランスで発明された「マリノン式輪転機」新聞印刷機として日本へ最初に入る。 明治四十五年(一九一二) 昌造へ贈位の沙汰。『印刷文明史』の著者は、当時在世中であった昌造の友人諏訪神社宮司・立花照夫氏、門人境賢次氏などを長崎に訪ねる。御贈位の内申書には『蘭話通弁』の他に『海軍機関学稿本』などあり。 昭和十七年(一九四二) 川田久長「蘭書翻刻の長崎活字版」『学鐙』九月号所載。 2009.7.18:公開 目くそ鼻くそ/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1449.html
渡嘉敷村・座間味村共編 『渡嘉敷島における戦争の様相』 琉球大学図書館。日付なし。手書き・ガリ版刷り。伊敷論文よりの復元版。 大阪地裁の公判において『渡嘉敷島における戦争の様相』は原告側証拠甲B23及び被告側証拠乙3として提出された。また、『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』は被告側証拠乙10として提出された。参照:書証一覧 まえがき この記録は米軍上陸から赤松隊降伏までの沖縄戦の一端渡嘉敷島の一部を記録しましたが本島と切離された孤島の戦線は幾多相様を異にするものが多々あった。 当時村長古波蔵惟好氏、役所吏員防衛隊長屋比久孟祥(現生存者)等の記憶を辿って其の概要を纒めたものでありますが過去を省みて如何に戦争が罪悪であるかを吾々は実際に体験し、そして今後幾多反省すべきことがあるかを痛感した。将来に再度この様な事を繰返すことのないよう永遠に平和を愛好し人類の幸福と繁栄を自由の中に樹立して行くよう願って止まない。 昭和十九年九月二日七千屯級の汽船が慶良間海峡、阿佐港外に停泊してゐた。その船を目標に友軍戦闘機が三機編隊で毎日急降下演習が続けられてゐる。 この汽船は兵器弾薬を南方へ輪送するものと住民は相像してゐた。 同 九月七日沖縄憲兵隊某軍曹が突然来島した。用件は渡嘉敷の漁船を軍需部の漁撈用に徴用の目的であった。 鰹漁船、嘉豊丸、源三丸、神祐丸、信勝丸の四隻は乗組員一三〇名と共に九月八日午前四時を期して阿波連港へ集結を命ぜられ同日午前十時那覇港へ出発した。 旬日を出でずして村営航路嘉進丸も軍需運搬の目的で徴用され、那覇、久米島間の輸送任務についた。軍は秘密保持のため移動性のある船舶の慶良間各港の出入を堅く禁じていた。 同 九月九日午前八時南方行きと思はれた汽船から渡嘉志久に小型舟艇が近づいて来た。驚いたことには、武装した陸軍の兵隊が上陸してきたからである。或る兵に尋ねたら渡嘉敷に駐屯するとのことである。部隊は鈴木部隊で兵員一千名、基地隊と呼ぱれた。鈴木部隊は渡嘉志久に上陸を完了し渡嘉敷部落へ前進した村国防婦人会は部隊歓迎のため総動員で湯茶の接待をし軍の慰労に努めた。兵員の中には長途の輸送で疲労した為か下痢患者を続出する有様であった。部隊の宿舎には住民の住家があてがわれ、村民は部隊長鈴木少佐の要請により男子十六才から六〇才まで、女子十六才から六〇才までが部隊に協力九月十日から陣地構築作業に従事した。 同 九月二十日特幹船舶隊と称する部隊が赤松大尉を隊長とし兵員一三〇名と舟艇百隻をもって来島渡嘉志久と阿波連に駐屯し日夜猛烈な攻撃演習が秘密裡に行われていた。 数日後徴用された漁船は漁業の根拠地を渡嘉敷港に変更された為、全漁船帰港連日鰹漁業に従事軍需獲得に従事した。 同 十月十日那覇上空は爆音と共に平素と異った様子が見られた。時には高射砲の弾雲も見受けられるので鈴木部隊本部に問ひ合わすと友軍の対空射撃演習だとのことで村民は安心して何時もの通り陣地作業へついた。漁撈班においても嘉豊丸は出漁し源三丸神祐丸は港内に繋留してゐた。その頃前島前方の上空では数百の飛行機が乱舞してゐたが間もなく八千米の上空に四機編隊の銀翼が見られ異様な爆音に不案を抱きながら眺めてゐると飛行機は機首を下げて底空すると同時にダヾヽヽと機銃掃射を始めた。はじめて敵機の空襲と知り村民は上を下への大混乱に陥った大人は陣地作業のため留守であり老人は幼児をかヽえ教員は学童の手を引き右往左往待避に長時間を要した 敵機の空襲は益々猛烈を極め機銃掃射と共に小型爆弾が投下され、何回となく波状空襲が繰り返へされた。 嘉豊丸は東海岸で餌料採捕中、爆沈され、機関長古波蔵鉄彦氏は戦死し、他の乗組員はかろうじて生命を得た。源三丸、神祐丸、は港内に於て炎上沈没し軍用船(えぴす丸)も港内待避中爆破され、戦死者二名を出した。村営航路嘉進丸は軍需物資輸送久米島からの帰途渡名喜島沖合で空襲を受け撃沈され機関長金城連平事務長小嶺賀明の命を奪った。船長古波蔵良秀は三日漂流の後渡名喜島へ上陸生還した。全漁船を失った乗組員は翌日から陣地構築作業に従事すると同時に各高地に設けられた軍監視哨勤務につき、日夜軍に協力した。状況は日毎に悪化し島の東海岸には暗夜に乗じ接近浮上した敵潜水艦の姿が度々見受けられた。 同十月下旬、 今まで自家通勤で軍陣地作業に従事していた村民に防衛隊として七十九名の召集が下令された。兵舎には村の国民学校が充てられ初年兵勤務が続けられたが教練ではなく壕掘作業に従事し、昭和二十年の元旦を兵舎で迎えた。 サイパン島陥落後状況は益々悪化し、沖縄部隊へ入隊する現役兵を送り出すにも困難を極めた。学童も率先して軍に協力し婦人会、青年団員も軍の炊事班に徴用された。その頃軍の防衛陣地及壕は大方完成し舟艇の待避壕も完成、海辺に至る枕木も敷設を終へ舟艇百隻は橇の上に乗せられ出撃の準備は全く完了した。 昭和二十年二月下旬 渡嘉敷島の陣地構築は殆んど完成したが基地隊である鈴木部隊は整備中隊と通信隊の一部及赤松隊特幹隊を残し、沖縄本土防衛のため島尻地区へ移駐した。それと前後し水上勤務中隊と称する朝鮮人軍夫三百二十名が楠原中尉を隊長として来島し、その任務についた。鈴木部隊移駐後は村出身の防衛隊員は赤松隊長の指揮下に属した。 同 三月二十三日午前五時空襲讐報が発令された。事態は悪化し早朝からグラマン機の波状空襲が間断なく燥り返された。 B二十九と思われる大型機の編隊も再三飛来し爆音は山谷にこだまし、耳をつんざく凄しさである。午前八時半村役所、郵便局が犠牲となり続いて防衛隊の兵舎である国民学校の爆破炎上し部落も大半焼失した。伊野波診療所長外十名は村役所附近の壕で待避中重症を負ふた。 空襲は一時止んだ。住民は事前に構築してある谷間の待避所へと避難を急いだ。平素の防空訓練も実戦には全く駄目であった。明けて二十四日、二十五日も空襲は続き美しき山河は火の海と化し、夜空を真赤に染めた。永年住みな {(引用者注)奈の仮名}れた故里も今は戦場と化したかと思へば涙すら出ない程であった。 同三月二十五日未明米軍は艦砲の援護射蟹の下に阿嘉島に上陸を開始したが間もな {(引用者注)奈の仮名}く慶良間海峡に潜水艦を伴った艦隊が浸入し如何にも日本軍を見くびったかの如く悠々と投錨し渡嘉敷陣地を攻撃し、山谷や部落はまたヽく間に昔日の面影を止めざる焼土と化した。午後後十一時赤松隊長は特幹隊員に出撃準備の令命を発した。 夜空に敵艦砲の落下もものかわと防衛隊七十余名、男女青年団員一〇〇名壮年団員三〇名、婦人会四十名が軍に協力、舟艇百隻は待避壕より引き出され二十六日午前四時渡嘉志久、阿波連の海辺に勇姿を揃へた。気の早い元気旺盛な特幹隊員は勇躍乗船しヱンヂンの音も高々と敵艦撃沈に心を躍らせて出撃の命令を今かヽヽと待っていた。 防衛隊員新城信平上等兵以下八名は機関銃をかヽえ援護射撃の陣地へついた。東の空は白みつつあり出撃の機を失しつヽありな {(引用者注)奈の仮名}がら赤松隊長は出撃命令を下さず壕の奥に待避し戦闘意識を全く失っていた。 百隻の舟艇は出撃の勇姿を揃へたまヽ夜明けとな {(引用者注)奈の仮名}り敵グラマン機の偵察に会った。隊長赤松大尉は何を考へてか、或は気が狂ったのか。全舟艇破壊を命令した。特幹隊員は呆然としていたが。上官の命令に抗することも出来ず既に出撃の機は失したるため、隊員は涙を呑んで舟艇の破壊を実施した。舟艇を失った特幹隊員は本来の任務を全く捨て、かねて調査済みの西山の奥深く待避し赤松隊の生き伸ぴ作戦が始まった。陸士出の大尉赤松は完全に卑怯者の汚名を着せられた。 船舶団長三宅少佐も座間味島を抜け出し赤松大尉と行動を共にした。 同三月二十六日敵は海空援護射撃の下に渡嘉志久、阿波連より上陸を開始した。が赤松隊は応戦の意志は勿論、武器、弾薬を放棄し隊長以下全将兵の生き伸び作戦が西山陣地に於て始められ敵は完全にこの島を無血占領した。 同三月二十七日 夕刻駐在巡査安里喜順を通じ住民は一人残らず西山の軍陣地北方の盆地に集合せよとの赤松隊長の命令が伝達された。その夜は物凄い豪雨であった。米軍の上陸は住民に生きるに安全な {(引用者注)奈の仮名}場所を失はしめ、ひたすらに頼るは赤松隊のみである。ハブの棲む真暗な山道を猛雨と戦いつヽ、子を持つ親は背に嬰児を負い、三ツ児の手を引き、合羽の代りに叺や莚を覆ひ、老人の足を助けながら砲弾の中を統制もなく西山へたどりついた。雨の谷間は親子、兄弟を見失った人々の叫声がこだまし、全く生地獄の感である。西山の軍陣地へたどりついた住民は兵事主任新城真順をして結集場所を連絡せしめた。赤松隊長は意外にも住民は軍陣地外へ徹退せよとの命令である。 同三月二十八日午前十時住民は涙を呑んで軍の指示に従い軍陣地北方の盆地へ集った。その頃島を占領した米軍は友軍陣地北方百米の高地に陣地を構え完全に包囲体型を整え迫撃砲を以て赤松陣地に迫り遂に住民の退避する盆地も砲撃を受けるに至った。危機は刻々に迫った。事こヽに至っては如何ともし難く全住民は皇国の万才と日本の必勝を祈り笑って死なうと悲壮な決意を固めた。かねて防衛隊員に所持せしめられた手榴弾各々二個が唯一の頼りとなった。 各々親族が一かたまりになり一発の手榴弾に二、三十名が集った。手榴弾がそこ、こヽで発火したかと思ふと轟然たる無気味な音は谷間を埋め、瞬時にして老幼男女の肉は四散し、阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された。死にそこなったものは梶棒で頭を打ち合ひ、剃刀で自らの頸部を切り、鍬で親しい者の頭をたヽき割る等世にもおそろしい情景が繰り拡げられ、谷川の清水は血の流れと化した。一瞬にして三二九人の生命を奪った。その憎みの盆地を村民は今なお玉砕場と呼んでいる。手榴弾不発で死をまぬかれた者は軍陣地へと押しよせた。赤松隊長は壕の入口に立ちはヾかり軍の壕へ入ってはいけない速に軍陣地を去れと厳しく構え住民を睨みつけた。 住民はすごヽヽと軍陣地東方の盆地に集り一夜を明した。 同二十九日米軍の迫撃砲は執拗にも集民待避の盆地へ飛来し住民三十二名の命を奪ひ去り防衛隊数名の戦死者を出した。 同三十一日米軍は赤松隊の兵力を見くぴったか夜半島を徹 ママ 退した。空襲も止み生き延びた住民は張りつめた気力を失ひ五日間の空腹に夢遊病の如くさまよい歩む足どりもふらヽヽと浮いていた。死場所を失った住民は迷い歩いた揚句僅かな食糧を残して置いたもとの避難地恩納河原へ集った。 赤松隊も持久態勢に入り食糧確保に奔走した。 間もなく赤松隊長からの命令が伝達された。我々軍隊は島に残って凡ゆる食糧を確保し持久態勢を整へ上陸軍と一戦を交えねぱならぬ、事態はこの島に住むすべての人間に死を要求していると主張し住民に家畜屠殺禁止の隊長命令が出され違反者は銃殺といふ厳しい示達である。直ちに住民監視の前哨線が設けられ多里少尉がその任についた。 住民の座間味盛和にスパイの嫌疑をかけ、無実の罪におとし入れ斬り殺したのも多里少尉である。 亦家族の全部を失って山をさまよい歩く古波蔵樽を之敵に通ずる恐れありと高橋伍長の軍刀にかける等住民に対する残虐行為がはじまった。 海峡には敵飛行艇百五十隻が常駐、駆逐艦十数隻、小型空母等が周辺に停泊していた。その他艦船を含む船舶の数は三〇〇隻を下ったことはない。 時々友軍特攻隊の攻撃もあったが敵対空砲火には抗し難く火を吐き海中に落下する尊い姿も見られた。 同 四月下旬頃から軍民共に飢饉にひんし、蘇鉄の切干に野草を混じた代用食で露命をつないだ。 元気の者は監視の眼を逃れて島の各所から蘇鉄を集めた。生き残った防衛隊員は軍の命により防衛隊長屋比久孟祥の指揮で軍の食糧獲得に努力した。 同五月初旬軍は遂に住民の保有している僅かな非常食糧の供出を強要し朝鮮人軍夫をして食糧を徴集せしめた。住民は急激に老、幼男女の栄養失調が続出し生き延ぴて無甲斐さを感ずる者もあった。気力ある者は夜間海岸に出で、米艦船から捨てられた肉切れや、果物の標流物を探し求めて食糧の足しにした。座間味島を逃れて赤松大尉と行動を共にした三宅少佐は危険の多いこの島を脱出し沖縄本島へ抜け出すことを考へ絶えず機会をねらっていた。防衛隊員の中から割舟に経験のある者の調査が行われた。この時の白羽の矢が防衛隊員小嶺賀牛、玉城定夫の両名に当った。本人達は希望する所でなかったが軍命であれぱ致し方なく決死行の意を固めた。 刳船は三宅少佐外三名の軍人を乗せ漕手の糸満漁夫二名と共に渡嘉敦港を出発した。 静かな海峡を敵艦艇の監視綱をくぐり、四哩の海路を見事前島部落へ辿りついた。 前島北方海岸に刳舟をかくし上陸して見ると住民の姿は見受けられない。その夜も沖縄本島への砲撃は寸時も止まぬ照明弾の合間に砲声は十六哩の海をこえて耳をつんざく有様である。夜は明けて昼の沖縄本島を望めぱ無事目的を達することは到底望めない。然し少佐は万難を排して決行せよとのことである。宵暗と共に前島を出発したが掃海艇の讐戒厳しく二回、三回と失敗を操り返し命からヾヽ引返した。鈴木少佐は舟長小嶺賀牛を呼ぴ出し言葉厳しくなじった。小嶺は慎重を期せねぱ目的達成はおぼつかないと答へると少佐は激昂し軍刀を握って睨んでいる。切るなら切れと前に迫ると少佐は何を考えてか平静に返った。今こヽで切っては勿論目的達成が出来ないことを知ったのであらう。漕き手は疲れ切って精一杯だった。遂に最後の決死行に意を決し再ぴ前島を後にした。輻輳する艦船の横腹を手操りつヽスクリューの波に巻込まれながら遂に神山島北方へ出た。暗夜に乗じて那覇へ向けたが掃海厳しく接岸不能である。合議の上、舟首を糸満港へ向けた。東天は既に夜明けを知らせつヽあり島伝ひに力漕し糸満港は目前に迫った。夜明けにあせりながら必死に力漕し遂に糸満港についた。一人の負傷者もいない全員無事を喜びながら疲れも忘れて真玉橋の部隊本部へと急いだ。 同五月初旬米軍は再び渡嘉敷を占領した。赤松隊へ備へて各高地に砲陣地が構築された。間もなく伊江島住民が渡嘉敷部落へ移動され、米軍の保護下で収容された。赤松隊は極度に食糧欠乏し若い下士官や将校は夜間切り込みと称して米軍食料集積所を襲ひ食料、煙草等を確保する様になった。そのために米軍は各要所に地雷を施設した。鈴木、小松原両少尉はその犠牲となった。 伊江島住民は米軍の保護を受けつヽ渡嘉敷部落の焼け残った家屋で生活していた。 米軍の要求により伊江島住民から選ぱれた若き青年男女六名が赤松隊へ派遣された。それは戦争が既に日本の不利であり降伏することが最も賢明な策であることを伝へるためであったが赤松隊長は頑固として聞き入れず六名の者を斬殺した。亦集団自決に重傷を負ひ米軍に収容された十六才の少年小嶺武則金城幸二郎の両名は米軍の治療を受け、やうやく依復したので米軍の指示に従い、渡嘉敷住民への連絡のため避難地へ遺けられた。目的は住民へ早く下山する様伝へるためであったが途中赤松隊の将士は二人を捕へ米軍に通じた理由のもとに之は処刑した。 渡嘉敷小学校訓導大城徳安氏は敵に通ずるおそれありと斬首された。かくして住民は日々欠乏する食糧と赤松隊の恐喝に益々くたぱるのみであった。食ふに糧なく下山に方途なく栄養失調は続出する有様である。 飢餓と戦ひつヽ六月、七月のニケ月を過し八月を迎へたが食糧は欠乏の極に達し住民は死の寸前にさらされた。 同八月十二日、午前自決場で妻を失ひ幼児二人を抱へた郵便局長徳平秀雄氏は長女を背負い、長男の手を引き住民十五名と共に食を求めて山谷を移動中、米軍の潜伏斥侯四十数名に包囲され拉致された。これが住民下山の第一歩となった。 同八月十五日米軍機から赤松隊陣地ヘビラが撒かれた。ボツダム宣言の要旨が述べられ降伏は矢つき刀折れたる者のとるべき賢明な途だと勧告してあった。住民は集団投降の意を固め代表者を選んで村長古波蔵惟好氏と相談した。村長も民意の趣むく所止むなくこれを許し住民は八月十五日迄に殆んど下山した。 同八月十六日防衛隊員と残った一部住民が下山したが赤松隊は依然として投降せず米軍の指示により渡嘉敷住民の中から軍使として出すことになり、新垣重吉、古波蔵利惟、与那嶺徳、大城牛の四名が選ぱれた。軍使としての任は勿論赤松隊への投降勧告であるが一旦見付かれぱ死を覚悟せねぱならない。新垣、古波蔵は軍隊生活の経験あるため、勧告文を木の枝に縛り付け密に任を果した。与那嶺、大城の両名は要領得ずして、赤松隊に捕へられ即座に切り捨てられた。 同八月十八日赤松隊知念副官が軍使として米軍に投降の交渉に当った。 同八月十九日赤松隊長、知念副官、外将校一名が米軍本部へ到着、渡嘉敷小学校々庭に於て武装を解除され、降伏文に調印した。次いで西村大尉の率いた赤松隊将兵は戦死した戦友の遺骨を先頭に二十二日渡嘉敷校々庭に集合し武装を解除され間もなく沖縄本島へと出発した。 総べての力を結集し、あらゆる食糧を確保し持久態勢を整へ米軍と一戦を交へ、皇国のために全員玉砕渡嘉敷島に屍を曝すと剛語した赤松隊も米軍の鉄量には抗すべくもなく牧牛の如く連れ去られたかと思ふと一掬の涙を催すものがあった。 斯くして本島作戦と切り離されていた島の戦線は独得の様相と経路を辿りつヽ沖縄本島の降伏に遅れること一ケ月昭和二十年八月二十三日その幕を閉じた。 最後に特筆すべきは三月二十七日渡嘉志久道路上で米軍と遭遇し激戦の後、伊芸山山頂で護国の花と散った佐藤小隊の一事である。(完) 『渡嘉敷島における戦争の様相』と『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の異同 沖縄戦資料index
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/58939.html
【検索用 いのり 登録タグ 2015年 UTAU い 曲 曲あ 櫻歌ミコ 浮世P 滲音かこい 雪歌ユフ】 + 目次 目次 曲紹介 歌詞 コメント 作詞:浮世P 作曲:浮世P 編曲:浮世P 唄:雪歌ユフ、櫻歌ミコ、滲音かこい 曲紹介 九月にさようなら 曲名:『祈り』(いのり) 使用されている画像は葛飾北斎の「富嶽三十六景 東海道江尻田子の浦略圖」 歌詞 ひとつ またひとつだって いずれまた積み上がるって 同じこと続けてって それでまたやりなおし 何をどうやったって 無駄だったでしょ 何をどうやったって 無駄だったかな ひとつ またひとつだって いずれまた積み上がるって 同じこと続けてって それでまた…… ぼんやりと現れた朝日がとびこえて どこかで回る さようなら ひとつ またひとつだって いずれまた積み上がるって 同じこと続けてって それでまたやりなおし 何をどうやったって 無駄だったでしょ 何をどうやったって 無駄だったかな ひとつ またひとつだって いずれまた積み上がるって 思えるのならばきっと 繰り返しはもう終わり ぼんやりと現れた朝日がとびこえて どこかで回る さようなら 唐突に現れた夕日はすぐ消えて かすかな祈り また明日 コメント 名前 コメント コメントを書き込む際の注意 コメント欄は匿名で使用できる性質上、荒れやすいので、 以下の条件に該当するようなコメントは削除されることがあります。 コメントする際は、絶対に目を通してください。 暴力的、または卑猥な表現・差別用語(Wiki利用者に著しく不快感を与えるような表現) 特定の個人・団体の宣伝または批判 (曲紹介ページにおいて)歌詞の独自解釈を展開するコメント、いわゆる“解釈コメ” 長すぎるコメント 『歌ってみた』系動画や、歌い手に関する話題 「カラオケで歌えた」「学校で流れた」などの曲に直接関係しない、本来日記に書くようなコメント カラオケ化、カラオケ配信等の話題 同一人物によると判断される連続・大量コメント Wikiの保守管理は有志によって行われています。 Wikiを気持ちよく利用するためにも、上記の注意事項は守って頂くようにお願いします。