約 80,168 件
https://w.atwiki.jp/kbt16s/pages/220.html
阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) 第Ⅱ部 日本国憲法の基礎理論 第1章 日本国憲法における立憲主義 本文 p.111以下 <目次> [74] (1) 立憲主義の意義 [75] (2) 日本国憲法の特異さ [75続き] (3) 日本国憲法と法の支配 ■用語集、関連ページ ■要約・解説・研究ノート ■ご意見、情報提供 [74] (1) 立憲主義の意義 立憲主義は、大きく、「近代立憲主義」と「現代立憲主義」に区別することが出来る。 前者の近代立憲主義は、また大きく、「立憲君主制」と「立憲民主制」とに分けることが出来る(但し、私自身は、「立憲民主制」というタームは避けることにしている。なぜなら、既に [22] でふれたように、近代立憲主義の狙いは、民主制の実現にはなかったからである。立憲民主制なる用語は、「君主制でも、貴族制でもなく、僭主制でも寡頭制でもない立憲主義」を表そうとして選択されたのだろう。が、それは、立憲主義の本来のニュアンスである《憲法によって統治権を制限すること》を表し切れていない、と私は確信している)。 体系書または教科書は、上のような幾つかの立憲主義を念頭に置いたうえで、「近代立憲主義から現代立憲主義へ」の展開に言及することが多い(⇒[24]~[25])。 このふたつの違いと展開は、通常、こう説明される。 近代立憲主義とは、 自由権(国家からの自由)の保障を第一義とするために「制限された権力をもっての統治」を目指す憲法体制のことをいう。これに対して 現代立憲主義とは、 「社会国家の樹立を目指すために権力を積極的に行使する統治」を容認する憲法体制をいう。現代立憲主義は、近代立憲主義のもたらした負の遺産、すなわち、貧富の差、経済恐慌、失業等に有効に対処するために20世紀当初以降立ち現れたのだ(⇒[24])。 ところが、不思議なことに、「社会国家」の真の意味は明確にされたことがない。 私の推察するところ、それは、「ブルジョア(市民)/労働者または弱者(社会)」という亀裂を念頭に置いて(⇒[8])、“社会権(社会保障)を充実させることが国家の任務だ”という国家観をいう(「社会」の意味は、「市民法秩序/社会法秩序」といわれるとき、最も明確に浮かび上がる。この点については [25] をみよ)。 社会国家の原型は、ヴァイマルそして今のドイツにあり、思想的論拠は「社会民主主義」にあり、その最大の特徴は所得再分配政策である。 ドイツ理論の影響を受けて、我が国の憲法学者の相当数が、“日本国憲法は、社会国家原理を採用してきた”と論じてきた。 が、私は、この理解に大いに批判的である(社会権や社会保障については、『憲法2 基本権クラシック』において、私は既に私見を披瀝した)。《日本国憲法は、想像以上に、古典的な種類の立憲主義憲法に属している》と私は診断しているからである。 日本国憲法が採用している、法の支配、権力分立、議会制、議員の地位、条約締結、普通選挙制、自由権保障等々は、近代立憲主義に忠実である。 また、議会(国会)について二院制を採用していること、各院に強い自律権を保障していること、執政府について内閣制を採用していること、司法府について自律権を保障しアメリカ型司法審査権まで付与していること(司法審査制はアメリカ建国時に既に気づかれていた)、硬性憲法としていること等も、日本国憲法が近代立憲主義、なかでも古典的な種類のそれに属していることの反映だといえる。 社会権はこの例外だ、と考えたほうがいいだろう([80]もみよ)。 [75] (2) 日本国憲法の特異さ もっとも、日本国憲法における統治構造には、主要立憲主義国の現行憲法には見出し難い、独自の特徴が見出される(基本権保障については、ここではふれない)。 第一は、 かつての君主であった天皇につき、世界でも稀な象徴天皇制(*注1)としている点である。天皇が元首かどうか論議があるとはいえ、憲法の全体構造のなかで天皇制を考えれば、日本国憲法が立憲君主制によっていないことは明らかである(この点については、後の [84] 参照)。象徴天皇制は、社会国家とか現代立憲主義とかに特徴づけられる日本国憲法にあって、いかにも古色蒼然とした色合いをみせている。これは、現代立憲主義から大きくズレており、内閣(宮内庁)の天皇に対する処遇は、明治憲法の臭いすら感じさせるところがある。 第二は、 日本国憲法には、自衛戦争まで放棄する決意まで読みとれる、徹底した「平和主義」が謳われている点である(9条は天皇制の存続と引き替えとしてGHQから提案されたと指摘する論者もいる。この視点からすればこの第二点も第一点と絡んでいる)。9条の解釈論争については後の [95] でふれるとしても、その文理を一読したとき、主要立憲主義国家の憲法を「抜け出ている」との印象は免れない([89]もみよ)。この特異さを“現代立憲主義の一要素だ”と考えてよいか、それとも、“普通の立憲国家からの逸脱だ”と考えてよいか、この評価の違いが9条の解釈に反映されるだろう。 我が国の憲法学界は、明治憲法に否定的な評価を与え、他方で、日本国憲法を“民主的に”解釈すればするほど正しい姿勢である、といてきたところがある。 確かに、現実の統治過程には、明治憲法におけるプラクティスまたは習律が、時々顔を覗かせており、私にとっても気になるところがある。 上にふれた天皇の処遇以外について、少しばかり例を挙げると、 (1) 予算を法律の形式で審議議決しないこと、 (2) 閣議に全員一致を要するとしてきたこと、 (3) 院の自律権よりも、国会の議決(法律)を優位としてきたこと、 (4) 地方公共団体を国家の下位機関であるかのように扱ってきたこと、 (5) 法の支配を法治主義と同じものであるかのように意味づけてきたこと 等である。 なかでも(5)は、統治の要であるはずの法の支配が我が国に根付かないことの原因となっている。 (*注1)象徴天皇制についてアメリカのある論者は、“象徴天皇制は談合オリエンタリズムだ”と、それが日米の妥協の産物だったことを絶妙な表現で象徴天皇制の由来を指摘した。いわゆる国旗・国歌法の制定(平成11年)にあたって小渕総理大臣は「君が代の『』は日本国および日本国民統合の象徴であり、その地位が日本国民の総意に基づき、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国のことを指しており・・・・・・」との解釈を示した(平成11年6月29日衆院本会議)。この芒洋とした一文は、天皇制と国民主権との不整合さを浮かび上がらせている。 [75続き] (3) 日本国憲法と法の支配 以下では、近代立憲主義が法の支配とセットとなって歩んできたことの重要な意味に留意しながら、日本国憲法の統治構造を概観していこう。 その基本的な構造を理解するには、第Ⅰ部でみた基礎理論を応用すればいい。 そのままのかたちで応用できない箇所があれば、その理由を考えればいいのだ。 もっとも、「基礎理論を応用する」といっても、その応用の仕方には、論者それぞれの選好が反映される。 先にふれたように、我が国の多くの憲法学者であれば、“民主的に”応用することを好むだろう。 それに対して、私のように、“自由主義的に”応用することを好む研究者もいるだろう(民主主義、自由主義の意義については、既に [26]~[29] でふれた)。 この本の筆者として正直にいえば、基礎理論の部分を私は既に“自由主義的”に語ってきた。 この第Ⅱ部では、自由主義的に構成された基礎理論をさらに自由主義的に日本国憲法へ刻み込もうと私は努めるだろう。 ※以上で、この章の本文終了。 ※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。 ■用語集、関連ページ 阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第四章 立憲主義と法の支配 第五章 立憲主義の展開 ■要約・解説・研究ノート ■ご意見、情報提供 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/kbt16s/pages/120.html
日本主義・・・?なんか反欧米的な臭いがしますが。反欧米・アジア主義なんか掲げていると特亜と同類になるぞ。アジアの中でも西欧的で合理的な日本は愛するべきだが、アジア主義(そもそもアジアというものは地理的概念以上の意味などないのだが)に染まった日本などたまらんな。 -- 名無しさん (2011-06-27 03 59 33) ↑◆5.革新右翼(国家社会主義者)と観念右翼(伝統保守) の図表を見てください。昭和期の日本主義者はアジア主義や国家社会主義と対立的です。 -- 名無しさん (2011-06-28 21 48 21) 一時期、反抗期と記載するのを禁止された事がありましたが、誰が禁止したのでしょうか。 -- 定塚甫 (2011-10-23 01 48 32) 昭和期の日本主義の思想に英米保守主義を混ぜて大成したらすごい物ができる気がします -- 名無しさん (2012-03-03 00 33 39) 自律思想・・・日本主義+α、他律思想・・・武士道、経済思想・・・無し -- 日本人の核となる思想 (2014-12-21 23 28 26) ・・・ W.G.I.P.に洗脳された人々 ・・・ -- 月光(A.H.) (2016-01-31 10 42 31)
https://w.atwiki.jp/parranto/pages/10.html
パルラーニャント社会主義共和国連邦基本設定 国 名:パルラーニャント(議会)社会主義共和国連邦 通 称:パ連、パルラーニャント連邦、議会連邦 人 口:4億6061万6000人 民 族:ロシア人、他多数 公 用 語:ロシア語 元 首:タレンコフ書記長 首 都:モスクワ 《基本情報》 通 貨:₽ ↳円との為替レート:1₽=60円 イデオロギー:社会主義 宗 教:無し、無宗教 募 兵 制 度:応募制 国家ハッシュタグ:#パルラーニャント社会主義共和国連邦 #議会連邦 国歌:我らが議会と共に 歌詞(日本語訳:任意) 1.自由な共和国の揺ぎ無い同盟は 偉大な同志諸君が永遠に結びつけた 人民の意思によって建設された 団結した強力な議会連邦万歳! サビ.讃えられてあれ、我らの自由な議会よ 民族友好の頼もしい砦よ! 議会の旗、人民の旗が 勝利から勝利へと導く! 2.雷雨を貫いて自由の太陽は我々に輝き そして偉大なタレンコフは道を照らした ヤマザキコフは我々を育てた――人民への忠誠を 労働へそして偉業へと我々を鼓舞したのだ! サビ.繰り返し 我々の軍は戦いによって我々を成長させ 卑劣な侵略者を道から一掃した! 大戦によって我々は世代の運命を決定し 我々が我が祖国に栄光をもたらそう! サビ.繰り返し 《概要》ヨーロッパから北アジアに跨ぐ巨大な社会主義連邦国家で、世界初の社会主義国家。 共産主義の実現を目指している。 また、国名に入っているパルラーニャント(парламент)とはロシア語で議会という意味の言葉である パルラーニャント連邦には自治区域があり、 ロシア・パルラーニャント連邦社会主義共和国、 ラトビア・パルラーニャント社会主義共和国、 エストニア・パルラーニャント社会主義共和国、 リトアニア・パルラーニャント社会主義共和国、 白ロシア・パルラーニャント社会主義共和国、 ウクライナ・パルラーニャント社会主義共和国、 カザフ・バルト社会主義共和国、 ウズベク・パルラーニャント社会主義共和国、 アゼルバイジャン・パルラーニャント社会主義共和国、 グルジア・パルラーニャント社会主義共和国、 タジク・パルラーニャント社会主義共和国、 モルダヴィア・パルラーニャント社会主義共和国、 キルギス・パルラーニャント社会主義共和国、 トルクメン・パルラーニャント社会主義共和国、 アルメニア・パルラーニャント社会主義共和国、 フランス・パルラーニャント社会主義共和国、 ポーランド・パルラーニャント社会主義共和国、 ベルギー・パルラーニャント社会主義共和国、 オランダ・パルラーニャント社会主義共和国、 ルクセンブルグ・パルラーニャント社会主義共和国 がある。 《軍備》 時によって変わるためここでは書かないものとする 《国土》 ソビエト連邦国土22,402,200km² 551,700 km²フランス 322,600 km²ポーランド 30,690 km²ベルギー 41,850 km²オランダ 2,586 km²ルクセンブルグ 78,870 km²チェコ 83,870 km²オーストリア 93,030 km²ハンガリー 20,270 km²スロベニア 計 23,627,666km² 《国内経済など》 GDP:8550710000000₽ 一人あたりのGDP:1,239,101.5000₽
https://w.atwiki.jp/jounoyuuki_gunjibu/
このwikiは未完成です。多くの問題点が存在します。リンク先のページがないこともあります。ご了承ください。 本日の訪問者 - 人 これはマインクラフト軍事部@wikiにおける国家である北露西亜軍事主義平和大国のwikiです。 このwikiでは主に軍備について紹介していきます。 北露西亜軍事主義平和大国とは? 前述したとおり、マインクラフト軍事部@wikiにおける国家です。このwikiでは、北露西亜軍事主義平和大国の軍備、歴史などについて紹介していきます。 各ページへのリンク 各種申請(同盟など) 陸軍 空軍 海軍
https://w.atwiki.jp/regulussov/
ようこそ 本ページはPC版での閲覧を前提として記載されています、ご注意下さい。 閲覧者 本日 - 人総合 - +10549(旧ページ)人目次 ソビエト共産主義共和国連邦 -ニュース -国名 -地理 -国土の変遷 -歴史 -国民 -政治 -行政 -立法 -イデオロギー -司法裁判 -地方行政 -外交関係 -経済 -文化 -連邦革命軍 新ソ連革命軍 コメント欄 ▶概要ソビエト共産主義共和国連邦(Union of Soviet Communist Republics)は、中東に位置し、メソポタミア・レバント地域を中核領域とする社会主義連邦国家である。現在の指導者はオットー・ジェルジンスキー。その領土は中核領域に加え、地中海中部のマルタ諸島とチュニジアのアルグラ港も含む。国名は多くの場合、旧ソ連との混同を避けるため「新ソ連」と呼ばれる。短縮表記はUSCR。また俗称として知られる「レグルス」は歴史的にこの地域に存在した国家の呼称ではあるが、最後のレグルス国家の法的な継承国家であるレグルス国民国が依然としてバングラディシュに存在し、新ソ連政府もレグルス国家の継承は否定しているためこの呼び方は不適切である。新ソ連は連邦制国家であり、その領土は9の共和国と連邦の直轄域(Union direct control region)で構成される。領土の大半を広大な砂漠が占め、河川の沿岸のわずかな地域とオアシス近辺に人口の過半が居住する。また統一歴140年代に起きたレグルス戦争末期のNBC戦と現在まで続く長年に及ぶ環境破壊に生物が適応し独自の生態系を構成している。それは人間も例外ではなく、新ソ連人は一般的な人間より重金属や放射線による汚染に対する耐性が強い傾向にある。また新ソ連各地には核兵器残留放射線濃度が高い地域が残っており、各国政府は新ソ連への観光の際には注意するよう呼び掛けている。外交的には社会主義陣営の盟主として第五インターナショナルに加盟し、社会主義諸国と連携している。また伝統的な反君主制の立場から自由主義国家や共和制国家と友好的である。▶経済主な産業は石油・天然ガス類の採掘・精製・加工や、肥沃なメソポタミアでの農業(穀物類)、安価なエネルギー単価を利用したアルミニウム精練。政府主導の大規模な投資と社会主義市場経済の導入によって近年世界で最も成長した経済の一つとなっている。特に新ソ連が今日まで推し進めていた大規模な産業計画である人民総合計画(VGP)は、現在の新ソ連経済の基礎を形作っている。主要な中核都市としては新ソ連東部の産業ハブであるバグダッドや金融都市ベイルートなどが知られ、これらの都市がが新ソ連経済をけん引している。また中小企業に比べ大企業が多いことでも知られ、独特の運営方式で知られる西亜重工社や、アパレルのDUB、巨大ホールディングのMWHが著名な企業として挙げられる。▶地理・気候国土の全域が乾燥帯に属し、月別の平均気温は20-25度と、一年を通じて温暖。また極めて降雨が少ない。国土の東北部は新期造山帯に属する山地であり、3000m級の山々が並ぶ。国内最高峰のシェーハ・ダー山もここに存在する。新ソ連で最も豊富な天然資源は石油及び天然ガス。石油埋蔵量はメソポタミア地域だけで2400億バレルに達し、これは世界全体の石油埋蔵量の13%に達する。非燃料資源では北部のリン鉱石や硫黄が主要な鉱物である。その一方でそれ以外の資源、特に金属資源はごく乏しく、国内需要の大部分を輸入に頼っている。この傾向は新ソ連の外交政策にも影響を与えている。▶歴史過去に存在したレグルス帝国の崩壊に伴い成立した共和国を母体として成立した。歴史を通じて欧州諸国と敵対関係にある。▶政治大統領の権限が強い民主共和制を取る。国会は共和国評議会と連邦評議会の二院制。現在の与党は共産党を中心とした社会民主主義労働者党(SDP)と急進進歩党(RPP)の連立であり、国民人気の高いジェルジンスキー大統領の下で安定多数を確保している。▶文化文明の十字路とも言われた地理的環境と東西冷戦の最前線であった歴史的背景から、アラブ文化を基に東西の文化が混合された独特な文化を持つ。 ソビエト共産主義共和国連邦Union of Soviet Communist Republics imageプラグインエラー ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (国旗.png)国旗 imageプラグインエラー ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (国章.png)国章 国歌インターナショナル 国家スローガン民主平等連帯 公用語 アラビア語 首都 新バビロン 通貨 テーベ(T) 補助通貨 ヴェル(1テーベ=100ヴェル) 政府 救国委員会委員長 空席 中央ソビエト連邦評議会議長 クリメント・シュターゼン 人民大統領 ヴァルター・シャイデマン 人口 総計 8551万 成立 アッシリア労兵ソビエト救国政府 統一歴150年 ソビエト共産主義共和国連邦 統一歴151年 国教 なし 中の人 yamato ◆ニュース 平時 軍事 連邦報知 24/07/15 山岳演習 連邦陸軍は昨年末にルメリア・アナトリア社会主義共和国連邦行われた冬季山岳演習の記録を公開した。参加したのは各軍から選抜された精鋭兵で約1500人が参加した。演習では冬季行軍や山岳戦を想定した訓練が行われた。訓練は実戦さながらの強度で行われ、天候不順で遭難した部隊もあった。(吹雪が晴れた後彼らは救助された。)しかし総合的に見て演習は成功であり、この教訓をもってスキー部隊の創設も認可された。また彼らのうち特に優秀な者は次期南極探査の一員に選抜されたとのことだ。 国内 人民新報 24/07/10 連邦評議会選挙 与党大敗 imageプラグインエラー ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (国章.png) 昨晩187年度連邦評議会選挙の開票が行われた。共産党・社労党は合計で30の議席を失いFS-BISが勢力を伸ばした。失われた議席は大都市圏に集中しており世論調査によると若年層の離反がこの敗北を招いたようだ。今回の選挙の争点は増加する軍事費と人口増大に対し限界を迎えつつある都市のインフラだった。どちらの項目についても昨年の評議会から野党が繰り返し追及してきた事項だ。軍事費については国際紛争が収まり協力機構をはじめとする国際協力体制が整った現状で軍事費を増加させる必要はないとする野党議員の批判に端を発するものだ。共産党は新たな同志国を防衛するために軍事費の維持は必須と訴えたが社労党の反発を受け削減を余儀なくされた。しかしそれでも依然として軍事費は国家予算の多額の割合を占め国民は生活を圧迫させるものとして受け止めたようだ。インフラ不足についてはここ十年間ずっと問題とされ続けてきたが戦争を理由に先延ばしされ続けてきた。共産党はVGPの完遂以降公共投資に消極的で、インフラ拡張にも消極的だった。しかし新聞がバグダッドの環境の劣悪なスラム街を取り上げたことで社会問題として注目を集めた。各党もこの問題について多くの政策を提示したが、FS-BISは人口増加の原因となっている人口法改正に切り込んだ。人口法は人口増加・保全を目的として避妊・堕胎を禁止する法律でこれまでこの法律は一種の聖域となっていた。しかし若年層にはこの法律は負担と考えられるようになっており、FS-BISの得票に繋がった。この選挙の結果を受けシャイデマン大統領は「残念だ」としてつつも依然として議会の過半数は占めているとして政権運営は従来通り進める考えを示した。今回の選挙で党勢を大きく拡大したFS-BISのトレスコウ代表は「農兵だけでなく都市層の声も聞こうという態度が支持を得た結果だと認識している」と述べた上で、長年続く与党の支配が問われつつあると述べた。 国内 人民新報 24/06/04 第二運河計画 政府は今日の予算委員会で第二スエズ運河計画の予算を正式に請求した。第二スエズ運河計画はレグルス帝国時代から存在する計画でエイラート港から北方50kmまで掘削が進んでいたが、その後予算不足などの問題から中止になっていた。政府の計画によれば掘削予定箇所はレグルス帝国の計画と概ね一致する。政府はこの計画について経済・国防の両方に寄与する計画だとして100億テーベを請求した。政府は安全保障上不安定なエジプトのスエズ運河に依存する危険性は度重なる指摘を受けてきたと指摘し、スエズ運河の閉塞リスクの回避が可能だと説明した。また運河の通航収入の確保や荒廃したパレスチナの復興に役立つと述べた。野党はこれに対し「不要な出費」、「無駄な予算」と批判し、パレスチナについては土地接収などで現地住民の尊厳を著しく侵害するものだと批判した。 国内 人民新報 24/05/28 The Black Curtain最終章上映決定 The Black Curtain劇場版製作委員会は同シリーズの最終章であるThe Black Curtain~ショーダウン~が来年3月に全国公開されることを明かした。The Black Curtainシリーズはウォルター・クロウリーの原作小説The Black Curtainを元にしたアクションドラマ映画だ。これまで2作が公開されている本シリーズは映画化に当たって原作と設定に差異が生じ雰囲気も異なると評論家からの批判の浴びつつも高い興行収入を上げ続編の制作は確実とされていた。マスコミ向けの完成披露試写会には監督のジョー・バーナードや主人公のアレックス・アレキサンダーを演じる俳優レマイア・ミケランジェロが登壇した。 国内 人民新報 24/05/20 商業省改名、商業金融省へ imageプラグインエラー ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (国章.png) 最高会議で名称の変更に関わる法律改正案が通過したことで商業省の名称変更が確定した。商業省は185年12月1日から商業金融省へ名称が変更される。省の名称変更は国家安全保障省から国土安全保障省への改名に次いで二度目。今回の改名は新ソ連の金融業発展を受けて進む省庁改組の一環。 国際 連邦報知 24/05/19 ルーシーの混乱「妥当な結果」 介入については明言せず imageプラグインエラー ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (国旗.png) 先週から続くルーシー帝国の首都モスクワにおける混乱について政府は公式の見解を発表した。エン・リッター政府広報官は記者会見で次のように述べた。「今日ロシア、モスクワで発生している武力闘争は歴史的な必然だ。ユークバニアの進歩政権を反動主義者が取り除いたとしても民衆の心まで数世紀逆行するわけではない。自由と平等を求める革命的闘争が起こるのはルーシに再び君主が戴かれた時からの必然で、妥当な結果だ。帝国反動政府はこの動きを押し留めようとするだろうが、根本的な問題が切除されない限り問題は続くだろう。」このように政府は反乱側を支持する声明を出す一方で実効力のある措置の執行には慎重だ。会見後に行われた質問で月ノ谷や大エンダーで議論されている軍事的な介入について問われた際には「あらゆるオプションは常に検討されている。」としつつも「平和的な解決策が無いわけではない。無駄な血が流れないに越したことはない。」と明言を避けた。 国際 連邦報知 24/05/18 バグダッドで十四か国要人が会合、新たな国際機関の設置に合意。 バグダッドにユーラシア・オセアニアの各地域からイベリア連合、ルークリア人民共和国、大中華、ラティアンス連合を含む14か国の要人が集結し歴史的な会談を行った。この会談は連邦政府の主導で行われたもので、安定と発展を目指した新たな国際機関の創設にかかわるものであった。会談は基本非公開だったが公開で行われた部分では各国が協力的な姿勢を示し歩み寄りは順調に進んだ。会談は離脱国もなく順調に進み、予定通り当日6時に全国家の連名で合意が発表された。合意では新たな国際機関である「バグダッド協力機構」の創設が宣言された。総則には加盟国間の投資促進や国際紛争の非軍事的解決が明記され、月ノ谷と聖セントリアのような対立を深めていた国家を含みこれらの合意を宣言できたことで新ソ連の国際的リーダーシップを示す形となった。 国内 人民新報 24/05/09 大統領選挙実施 与党連合の勝利 imageプラグインエラー ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (国章.png) 戦時のため延期されてきた大統領選挙が行われた。共産党・SDPの与党連合がジェルジンスキー政権で副大統領を務めたヴァルター・シャイデマンの擁立で一致した一方で野党マルクス主義連合は意見で対立、最終的に合意に至らずバラバラに立候補者を立てた。結果的に選挙はシャイデマン候補の地滑り的勝利に終わった。投票率は65%だった。シャイデマン候補はジェルジンスキー政権の路線の継承者と見られており、公約も概ね共産党・ジェルジンスキー政権の物を踏襲したものとなっている。ジェルジンスキー大統領も大統領として最後の議会演説で自身の継承者としてのシャイデマン氏に期待をにじませた。一方で与党の勝利はマルク主主義連合に致命傷を与えたようだ。開票後に行われた連合会議でこれまでに既に露になりつつあったFSA・人民党間の亀裂が表面化、今回の選挙結果を受けて両党は連合の解散を決断した。今回の解散の要因ともなっていた自由市場への傾斜を強めているFSAは連合の解散を受けて本格的に社会主義市場経済の支持を大会で決議した。 国際 連邦報知 24/05/03 WAR END! imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 先の大空襲から続く連邦軍の戦略爆撃作戦、さらに未だ多国籍軍の大部隊が展開し南部を狙う北アフリカ戦線の存在から遂にアークランド政府は連邦政府に対し和平交渉を開始した。連邦政府及び多国籍軍はアークランド政府に対し戦前に行われた要求に加え、アークランド政府が宣戦布告前の奇襲攻撃や毒ガス攻撃を行った事実からアークランド政府に対し合計約1700万トンの純金賠償を敷いた。更に連邦政府はアークランドの非武装化を監視する拠点として北アフリカ戦線の策源地となっていたアルグラ軍港を割譲することを要求した。爆撃によって弱体化したアークランド政府にこれを拒む力はなく、アークランド政府はこの要求を受け入れた。アークランド政府の和平受け入れと同時に北アフリカ戦線では休戦が発効し約200日ぶりに兵士たちはガスのない空を見た。連邦政府、多国籍軍に参加した国々の代表、そしてアークランドの代表団はマルタ島沖に停泊する連邦海軍の戦艦アレクセイ・レオーノフの艦上に集った。北アフリカ戦線総司令官を務めたバルター・ヘルシング外務相の演説の後、終戦条約への調印が行われた。まずアークランドの代表が調印し、続けて多国籍軍に参加した国々の代表が調印を行った。最後に連邦の代表としてヘルシング大臣が調印し、長きに及んだ戦争は終わった。終戦条約締結の報はその比重に連邦各地で号外と速報で伝えられた。街では市民が通りに繰り出し連邦の勝利を祝った。大統領はテレビ・ラジオで演説を行い「連邦政府、国際社会、そして正義が果たされたことを祝福をもって受け入れる。国民の戦争努力への貢献に深く感謝し、私は準備が整い次第大統領職を辞任する。」として戦時特例により延期されていた大統領選挙の開催についても言及した。 国内 人民新報 24/05/02 パレスチナ秩序領域解体へ 今日連邦評議会でパレスチナ秩序領域はその役割を完了したとして解散が決議された。決議に先立って連邦軍が秩序領域に侵入し同地を制圧していた。同地は今後再び沿ヨルダンSPSRに統合されることとなる。パレスチナは第三次東地中海戦争後、欧州諸国によって教化された市民を再教育し、また連邦に再編成する中途の過程として秩序本部の統治にゆだねられていた。最高責任者にはかつて失脚したオズワルド・ヴェーヴェルスベルク元秩序本部長官が任命され、秩序領域には親ヴェーヴェルスベルク派が多く含まれていたことから秩序領域の設置にはいまだ強い影響力を持つヴェーヴェルスベルク一派の追放としての側面が強かった。しかしヴェーヴェルスベルクは秩序領域で核開発を行うなどその脅威は国内でもささやかれるようになっていた。そのような中で行われたこの解体の背景には秩序本部の混乱がある。今年(185年)の年始にかけて秩序本部内で多くの異例な事態が発生しており、連邦政府はヴェーヴェルスベルク長官が死亡、或いは執政能力を失ったと判断したようだ。連邦軍はこれまで暗黙の了解として避けてきたパレスチナへの進出を行い、抵抗する秩序本部の部隊を反逆部隊として排除しつつパレスチナを占領、今日の解体決議につながった。 軍事 連邦報知 24/05/01 連邦空軍大空襲実行 imageプラグインエラー ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (スクリーンショット 2024-04-30 234219.png) 連邦空軍は北アフリカ戦線の形成以来停止していたアークランド全域に対する戦略爆撃を再開したことを発表した。航空司令部は先日には戦爆連合1500機がアークランド帝国奥深くへ侵攻しアークランドの地下交通網・地下工場に対する重爆撃を実行したと述べた。作戦にはRn-49フライングバトルシップをはじめとする超重爆撃機が参加し、新型爆弾をアークランド全域へ投下した。 軍事 連邦報知 24/04/19 アークランド帝国化学兵器を使用 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 北アフリカで戦争を続ける多国籍軍司令部は今日行われた記者発表で全戦線でアークランド軍による毒ガス攻撃が行われたと発表した。この発表に続けて政府はアークランドを強く非難する旨の声明を発した。大統領は会見で「彼らは超えてはならない一線を越えた。彼らは自らの手で自身の危険性を証明し、我々の大義は一層明らかになった。今後も連邦は多国籍軍と協働してアークランドの平和化を実行する。」と述べ、連邦軍の対応についての記者からの質問に対しては「連邦軍は世界で最も進んだ化学戦を装備を携えており戦闘能力に支障はない。今回の件に対する適切な反応は既に準備されている」と答えた。 軍事 連邦報知 24/04/09 多国籍軍空港を奪取 制空権奪回へ imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 北アフリカ戦線に対する記者発表で一昨日連邦軍歩兵大隊による夜間浸透強襲によって大規模空港を占領したことを連邦軍は発表した。現地では空母機動艦隊の後退によって制空権が脅かされ停滞を余儀なくされていたが、この作戦の成功で制空権は再び多国籍軍が握ることとなった。多国籍軍を悩ませていたアークランド列車砲部隊も制空権の喪失によって後退を強要され戦線は再び多国籍軍の優位に展開しつつある。 軍事 人民新報 24/03/29 アフリカ戦線膠着 列車砲が目撃される imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 北アフリカに侵攻した多国籍軍は苦戦を強いられているようだ。沿岸支援を展開していた連邦艦隊が補給のため一時的に後退し、またアークランド軍が山岳に防衛線を展開したことで進撃は停滞を余儀なくされている。また前線からの報告によると30㎝を越える口径の砲が投入されていることが確認され、航空偵察の結果アークランド軍の列車砲であると確認された。革命軍統合参謀本部プレスリリースは進撃が鈍っていることを事実とと認めつつも、速やかに第二次作戦が実行されることを約束した。 軍事 連邦報知 24/03/24 連合軍アークランドに上陸 多国籍軍が占領域を拡大中 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 連邦海軍海上機動軍団が先鋒を担い、地中海艦隊と航空艦隊の支援を受けた強襲上陸部隊がアークランド北部に侵攻した。先陣を切った海上機動軍団だけで4万、後方の多国籍軍を含めると20万を越える大軍がアルジェリア海岸に殺到している。この作戦規模は先のインド戦争のベンガル上陸作戦を上回るものである。参加した多国籍軍には月ノ谷、大中華、セントリア、アルシング国が参加しさらに4カ国が物資提供などの手段で多国籍軍の支援を表明している。この作戦、そして作戦に参加した多国籍軍はアークランドに対する国際社会の意志を示すものであり、アークランド帝国に決定的な打撃を与えるものになるだろう。 軍事 連邦報知 24/03/19 アークランドの海上交通を破壊 海軍の面目躍如 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 連邦海軍は今日付けの発表で革命軍特殊潜水艦部隊がアークランドの主要軍港であるアルグラ軍港に侵入、停泊中の軍艦多数を撃沈破した。同部隊は母艦より発進し敵の意表を突く形で港内へ潜入、魚雷とダイバー部隊の設置した爆弾によって同軍港を大混乱へ陥れ、同時に空軍が展開する機雷封鎖作戦とともにアークランドの海上戦闘能力に決定的打撃を加えた。 国際 連邦報知 24/03/18 ルークリア首都ジャイプルの秩序回復 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 在印革命軍及びルークリア人民解放軍は合同でルークリア人民共和国首都ジャイプルを正式に暴徒の支配から解放したと発表した。発表によると革命軍・解放軍はジャイプル市を包囲し暴徒に武装解除と解散を要求、これに応じなかった暴徒の実力による排除を行なった。ジャイプル市は軍の突入から80時間後に解放された。市内には暴徒と暴動を煽動した反動主義者による白色テロの跡が色濃く残っている。人民共和国の国家評議会員や官僚らは「売国奴」として暴徒にリンチされ、その死体が市内各地に散乱していた。人民解放軍によって構成される人民共和国暫定執政委員会はすでに街に展開した憲兵に対し革命的秩序の回復を指令しており、戦場から逃亡し隠れていた多くの煽動者を逮捕し裁判の後処刑した。暴動の中心であったジャイプルが解放された事で全国的に暴動は鎮静化に向かっており、人民共和国の秩序は近く完全に回復するだろう。しかしこの暴動によってルークリア人民共和国の体制の不完全さが顕になったと多くの要人は語っており、人民共和国は人民解放軍の下で再編が進むと予想されている。 軍事 連邦報知 24/03/14 連邦軍アークランド爆撃を実行 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 マルタ島及びシチリア島の連邦軍基地から離陸した連邦軍の爆撃機部隊がアークランド全域に対する爆撃作戦を実施した。作戦には計1000機以上が参加し広大な領域を持つアークランドの領土一体を爆撃し焦土化した。アークランド軍の迎撃に対しては連邦軍の護衛機が対抗し爆撃機部隊を頑強に護衛した。 軍事 連邦報知 24/02/26 アークランド帝国マルタ島を奇襲 最高会議は戦時を発令 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 前例のない前代未聞の攻撃としてアークランド帝国海軍はマルタ共和国の革命軍基地に対し奇襲攻撃を開始した。連邦政府は度重なる暴挙を続けるアークランドに対し平和への努力を求める要求を行い交渉中であった最中の攻撃だった。アークランド軍の砲爆撃によって革命軍は大きな被害を被った。6時間にわたって続けられた攻撃によって戦艦ミハイル・フルンゼ以下8隻が大破着底しその他の艦艇も大きな損害を負った。一度の攻撃で連邦艦隊の半数が行動不能においやられた。ジェルジンスキー大統領は速やかに対応し最高議会で演説を行った。「昨日、183年3月29日、我がソビエト連邦は突然かつ悪意を持ってアークランド帝国の海空軍によって攻撃を受けました。連邦は彼の国に対し再三の平和化への要求と交渉を行ってきた最中の攻撃です。(中略)我々は行動すべき時に来たのです。私は最高会議に対し3月29日の攻撃以降連邦とアークランドが交戦状態にある事を宣言するよう求めます。」この演説が行われた直後に実施された最高会議両院の決議で連邦はアークランド帝国と交戦状態にあることが確認された。革命軍は既に行動を開始しているが、同時に諸外国も連邦政府に同調している。セントリア国をはじめとする国家は直接の軍事力展開についても合意しており、更に5か国以上の国が連邦への物資援助を約束した。 国際 連邦報知 24/02/19 ルークリア暴動 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 先月からルークリア人民共和国で発生している反政府暴動についてルークリア人民共和国政府はもはや事態を制御できないとして連邦政府に救援を求めた。これを受け在印革命軍と北ルークリア軍は合同で治安回復のための軍事作戦を開始した。作戦には先の紛争で大きな活躍を果たした西方方面軍が参加し既に北ルークリア南部の要衝において政府のコントロールを再確立している。 軍事 連邦報知 24/02/26 連邦軍初の水爆実験に成功 連邦軍は連邦直轄区ゼラン県封印地区における核実験を行ったことを公表した。核出力は従来の原子爆弾の100倍に達する2.4Mt(TNT火薬240万トンと同等)に達し周辺地域では最大震度3の地震が観測された。連邦軍は強化型原爆として詳細の公表を明らかにしていないが水素爆弾の実験であったことは明らかであり、新ソ連はついに熱核兵器を開発したことになる。大統領は「連邦の核秩序(相互確証破壊)の維持に対する断固たる決意の表明」であるとし、急速に緊張を高める核保有国家諸国への対決姿勢を鮮明にした。 国際 連邦報知 24/02/19 ルークリア国境紛争停戦 今日南北ルークリア軍事境界線近くのマノハル・ターナー市で南北ルークリア軍と新ソ連軍の停戦交渉が行われ、発効した。停戦協定では概ね現状を維持することが決定され、例外的に南ルークリアの撤退費用の負担の下でベンガル地方からの撤兵が定められた。この停戦協定の発効によって4年に渡った紛争は遂に終局を迎えることになり経済動員体制も間もなく終わるものと考えられている。 ニュースアーカイブ + ... 軍事 連邦報知 22/02/18 短距離弾道ミサイル発射実験を敢行 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 連邦軍は先日地中海で新型弾道ミサイル「ポラリス」の発射訓練を行ったことを発表した。連邦軍によれば訓練は成功に終わりキプロス島沖西300kmに弾着した。この実験は近年緊張を増すハウィクルタフとの対決を見越したものとみられている。戦略宇宙軍のアンドレイ・サハロフ司令は「戦争になれば確実に敵を撃滅する」と述べた。地中海世界での緊張の高まりの中での実験に世界からの批判は不可避とに見解も存在するが、連邦政府は国家の安全保障に関与する事項であるとして決意を示した。 国際・軍事 連邦報知 22/02/16 カルカッタ無防備都市宣言 紛争の趨勢決す 連邦政府はカルカッタが無防備都市を宣言し連邦革命軍の占領下に置かれたことを発表した。港湾都市ハルディアの戦いが連邦軍特殊部隊XEISの活躍によって大勝利に終わりカルカッタへの連邦軍の全面攻撃が迫ったことを受け、カルカッタ市長は無防備都市を宣言した。カルカッタはパキスタン戦争でルークリア国反動政府が連邦軍によってアジュメールを追放されたあとルークリア国の首都となっていた。しかしこの無防備都市宣言によってルークリア国政府は再び疎開を余儀なくされることになった。連邦軍の電撃的作戦によってルークリア国政府は大混乱に陥っており、占領されたカルカッタにはルークリア国が処分に失敗した多くの書類が発見されている。もはやルークリア国政府に継戦能力はなく停戦は目前である。 国際・軍事 連邦報知 22/02/14 連邦軍カルカッタ進出、戦争終結へ一撃! 連邦政府はインド洋における大作戦の発動を報じた。大統領によれば本作戦は紛争を終結に導く決定的な作戦であるとしている。同時に革命軍参謀本部は連邦軍が南ルークリア本拠地カルカッタに対し大規模な強襲上陸作戦を開始したと述べた。作戦には連邦の主力艦隊と25万以上の大戦力が参加していると報じられ、カルカッタ占領が完了すれば戦局は大きく連邦に傾くだろう。 国際・軍事 連邦報知 24/02/10 国家再生政府再び最後通牒。連邦政府は回答を控える。 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 今日午前6時をもって2日半の間にわたって全国に布告されていた緊急攻撃警報及び避難命令が全面的に解除された。政府はラジオで国民に対し「全ての攻撃の危険は去った。革命軍の軍事行動によって国家再生政府の攻撃能力は完全に破壊された。」と放送した。国家再生政府に対し行われた軍事行動の詳細は明らかにされていないが、外国の報道機関や研究機関は国家再生政府占領地域における大規模な核爆発を確認したことを知らせ降り、革命軍が先制核攻撃を行ったものとみられている。この推測に対し政府は「推測については否定も肯定もしない」としつつも「核の脅しを行った以上、我々はあらゆる手段で報復すると常々述べてきた」と述べた。 緊急警告 国家警報システム 24/02/09 緊急攻撃警報 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 国家警報システムが作動しました。敵国による大規模な攻撃が差し迫っています。全ての市民は速やかに割り当てられたシェルター、防空壕、避難施設に退避し政府による次の発表があるまで絶対にその場所を離れないで下さい。連邦国家安全保障本部は全国に対し緊急避難指令を発令しました。全ての市民は速やかにシェルター、防空壕、避難施設に退避し政府による次の発表があるまで絶対にその場所を離れないでください。 国際・軍事 人民新報 24/02/05 国家再生政府再び最後通牒。連邦政府は回答を控える。 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 今日午前零時レグルス国家再生政府は国際チャンネルで連邦と中華国に対しメッセージを発した。メッセージは「即時停戦、さもなければ然るべき手段での報復」というごく短文であったが、先の戦争での国家再生政府の核使用から国家再生政府が再び核を使用するのではないかという懸念が高まっている。国内でも不安が広がっているが、連邦政府はこれについて一切の回答を拒んでいる。 国際 人民新報 24/02/04 大統領月ノ谷を訪問。同盟発効へ imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 今日ジェルジンスキー大統領は月ノ谷連邦を訪れ首脳会談及び両国間同盟の正式な発効に向けた交渉を行った。会談は終始和やかなムードで進められ、ヤーシナ月ノ谷大統領とジェルジンスキー大統領は両国間の友情を強調した。共同宣言では、近年地中海・黒海で勢力を強めるトラ気を帝国を意識したとみられる社会主義間の共同戦線と連帯の宣言がなされた。また同時に両大統領は正式に同盟締結を決定し、同盟の調印も行われることになった。 国際 人民新報 24/02/03 ガルシア共和国非核化で合意。連邦政府の通告に折れる。 今日連邦外務省はガルシア連邦共和国が先日同国に対し通告した4条件に同意したことを発表した。同国は近年帝国君主軍国主義同盟参加国との友好関係や武器取引、核開発など独自路線をとり連邦と対立を深めていた。連邦政府は同国の長岡帝国への武器供与をきっかけに同国に対し帝国君主軍国主義同盟・OFC加盟国との武器取引と秘密協定の停止、核開発の停止を含む四箇条の要求の通告を発した。連邦政府と同国は交渉を重ね、最終的にガルシア国は全条件に同意した。大統領はこの件について「地中海の懸念であった半島の非核化を成し遂げたことは連邦の外交的勝利だ」と述べ連邦の地中海におけるプレゼンスを強調した。 国際 人民新報 24/02/01 大統領ヌークを訪問 先日ジェルジンスキー大統領はヌーク共和国首都ゴットホープを訪問し首脳会談を行った。大統領は以前から進めていた外交革命政策で非主流派社会主義国との連帯にも意欲を見せており、今回の訪問もその一環であると考えられている。以前からヌーク国は新ソ連との関係に積極的であり、会談後の声明には期待が集まっていた。6時間の会談の後午後6時から開始された共同宣言では新ソ連・ヌーク間の実態を持った軍経の協力条約の締結が発表された。声明では詳細は伝えられなかったが、翌日行われた条約の調印式で詳細が判明した。内容は一部の推測に反し軍事同盟や関税同盟には達さなかったが、ヌークの資源採掘のための合弁会社の設置やヌークへの新ソ連軍駐屯など今後新ソ連がより積極的に北極情勢に関与することが推察される内容が多数盛り込まれた。条約は早ければ今週中に最高会議で承認される見込みだ。 国際・軍事 人民新報 24/01/25 ソビエト=イベリア合同軍事演習 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 昨日キプロス共和国の軍事演習場でイベリア連合と連邦軍による合同の軍事演習が決行された。イベリア連合からは2個大隊と揚陸部隊が参加し、連邦軍からは戦時中にも関わらず戦艦スターリンを筆頭とした地中海艦隊と第43空挺師団が参加した。演習の目的について連邦政府は「地中海の秩序を保つ憲兵である両国の協力関係を示す」としており、昨今の地中海での核実験やOFCの躍進への牽制と見られている。大統領は喫緊の課題があるとして演習には参加しなかったが、定時会見では演習に言及し「何者も地中海の秩序を乱す事は許さない。開かれた地中海の実現に向け同志イベリアとは今後も協力していく」と述べた。 国際 人民新報 24/01/17 ロマノフ外相訪中 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 今日レム・ロマノフ外相が大中華昆明を訪問し楊外相と会談を行った。会談内容は非公開とされているが、現在ルークリアで起きている武力紛争について話し合いがもたれたものと見られている。 国内 人民新報 24/1/10 カトリック法改正 キリスト教徒の入国容認へ imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 今日連邦評議会でカトリック法の改正案が可決された。同法案は先月末に共和国評議会を通過しており、1週間後に改正された法が布告される予定だ。これまで連邦ではカトリック法によって西方カトリック教会はテロリストに指定されており関係者と支持者は入国が規制されていた。この法律は元々第十一次十字軍の後に成立した法律で、西欧諸国への抗議の側面が強かった。しかし近年新ソ連はイベリア連合との友好関係を深めており、同国で多数派を占めるカトリック教徒に配慮する形で改正案が提案された。法案は野党側からの強い反発を受けたものの、与党は憲法の信教の自由を根拠に採決を強行した。改正カトリック法ではカトリック教会の扱いはテロ組織から「望ましくない団体」と表現が変更され、関係者は依然として入国に制限がかかるが信徒は入国を許可されることになる。 国内 人民新報 23/12/27 競馬速報180年黒銀杯 シャングリラ圧勝 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 先ほどバグダッド競馬場で行われた黒銀杯の結果が確定した。一着は4枠シャングリラだった。シャングリラは9番人気でオッズは104.3と支持は薄かったが、驚きの番狂わせとなった。シャングリラはこれまで目立った戦績は3月のGⅡフレミング賞(2400m,芝,バグダッド)の2着しかなかったが、それを思わせない圧倒的な勝利だった。シャングリラはレース後半まで後方でレースを進め、最終直線で1番人気に支持されたサンドスターや逃げ切りを図った晴風杯馬オールフォーワンを差し切り2馬身差を付け勝利した。2着、3着にはオールフォーワンとアヴローラが続いた。 国際・軍事 連邦報知 23/12/22 ヴァドーダラーで決戦、南ル軍を撃破 グジャラート占領を目指す南ルークリア軍とグジャラート防衛を目指す新ソ連・ルークリア人民解放軍連合軍がアフマダーバード前面のヴァドーダラーで激突した。機甲師団を前面に押し出す南ル軍に対し連邦が生産した対戦車車両を装備したルークリア人民解放軍の試験部隊が迎撃し敵戦車320両以上を破壊し敵部隊を潰走に追い込んだ。さらにダマンの街で包囲下に置かれている連邦軍も連邦海軍の支援を受け以前として侵略軍に対し抵抗を続けており南ル軍の攻勢頓挫は時間の問題だ。 国際・軍事 連邦報知 23/12/15 南ルークリア軍攻勢を開始 新ソ連北ルークリア司令部はグジャラート州で南ルークリア軍が大規模な攻勢を開始していることを発表した。既に現地に展開する北ルークリア人民解放軍が反撃戦を開始しており、また近く連邦軍による航空阻止作戦が実施される見込みだ。この攻勢を受け連邦外務省は南ルークリアに対し「平和の試みに逆行している」と非難し、即座にグジャラート州の境界線を越えた侵略的軍事行動を停止するよう求めた。 国際・軍事 連邦報知 23/12/13 パンジャーブ州爆撃 連邦軍は武装勢力の支配下にあるパンジャーブ州に対し大規模な爆撃作戦を実行した。Rn-153及びTo-449の混成編隊は次々と飛行場を発進し占領地の武装勢力の駐屯地を爆撃した。この爆撃作戦によって武装勢力の兵士、武器、さらに彼らが略奪した資源も彼らの"本土"に搬入される前に多数を破壊した。この攻撃によって武装集団の活動は著しく制限されるものとみられており、司令部は反撃は時間の問題だとしている。 国際・軍事 連邦報知 23/12/09 ルークリア武装集団がパンジャーブに侵攻 パンジャーブ州長官と在印連邦軍司令部は合同でパンジャーブ州がルークリア国内の武装集団ノルトラント百合騎士団がパンジャーブ州に侵攻した。百合騎士団は国家百合主義政権の残党軍であり、南印の占領地域のヒマラヤ北部3州に渡って実効支配を行っている。以前から連邦統計省の推定データによれば百合騎士団の支配地域では食料自給が成立しておらず近い将来飢餓が発生すると推測されていた。司令部はパンジャーブの占領地では騎士団兵による収穫されたばかりの食糧の略奪が行われており、飢餓を阻止するために行われた侵攻だと分析している。連邦軍は北印軍ともに早期反撃と治安の回復を約束した。 国際 人民新報 23/12/05 大統領帰国、成果なしか imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 大統領が乗った政府専用機が今日正午空港に到着した。空港に降り立った大統領は記者団から質問攻めにあったが、大統領は回答を拒否した。夕方に行われた記者会見でも大統領は大中華についてあくまで休暇先だとしてそれ以上触れなかったことから外交的成果はなかったとみられている。原因の一つと推測される大中華の軍事侵攻については記者に質問されて初めて批判する言及を行った。また大中華の占領地で行われたとされる大虐殺について質問されると大統領は珍しく語気を強め不快感を表明した。 国際 人民新報 23/12/05 南米の反体制派掃討戦 在パインランド連邦軍司令部は同国の要請を受け反体制派掃討作戦の支援を実施したと発表した。同国の密林地帯には旧体制の残党群が潜んでおり、活発な活動を行っており同国の民間施設に攻撃を行っている。特に先月行われた連邦も支援したプランテーション施設での作物の大規模な盗難事件には同国ナンバーツーのコロ元第一書記が関与していたとして話題になった。パインランドのシログミ主席はこの事件を受けた徹底的なゲリラ殲滅作戦を決定し、連邦も支援に回った形だ。連邦報道官は休暇中とされている大統領の言葉として「白色テロルは全労働者への攻撃であり、それがどこで起ころうとも徹底的に殲滅する。テロがガルシアで起ころうがパインランドで起ころうがそれは問題ではなく、我々の手から逃れることはできない」と述べた。 国際 人民新報 23/12/03 大統領大中華へ。秘密会談か? imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 政府専用機が昨日の夜半にメッケルニッヒ空港を発った。政府は搭乗者について明かしていないが、一昨日から休暇を取っており公の場に姿を現していないジェルジンスキー大統領が乗っているのではないかとの目算が高い。大中華の駐在記者によって、専用機が中華国に着陸していたことが明らかになったことでこの憶測はおそらく正しいことが証明されている。同国はインドにおける紛争への介入姿勢を強めており、近く大規模侵攻を行うのではとの推測もなされている。大統領の秘密訪問がおそらく中華国との更なる連携、ともすれば同盟につながるのではないかとするのが専門家の支配的な見解となっている。 国際・軍事 連邦報知 23/11/30 連邦軍セイロン島の要衝を攻略。既に残党こもる内陸の掃討戦に移行 連邦軍統合参謀本部は今日未明抵抗を続けていたセイロン島の最大都市コロンボの制圧を完了したと発表した。市街に立てこもり抵抗していた南印現地軍はいずれも排除されるか郊外に敗走しており、市街戦の決着はついたものとみられている。セイロン島ではコロンボの陥落に先立ち既にトリンコマリー、ガルなど沿岸の要衝が連邦軍によって占領されており、セイロン島における南印軍の無力化は時間の問題である。参謀本部によると連邦軍は現在沿岸の大半を占領した連邦軍は全方面から内陸に進撃、セイロンの南印軍を圧迫し同島全土の占領を目指している。南印軍は再び内陸に撤退し、市民を盾にゲリラ戦の構えを見せているようだ。しかし連邦軍は焼夷弾をはじめとする対抗手段を用意しており、彼らの抵抗は微弱なものになるだろう。 国際・軍事 連邦報知 23/11/28 ガルシア共和国でテロ攻撃。政府は機能不全か。連邦政府は対抗を表明、動員令発動へ 連邦政府は先日ガルシア連邦共和国で発生したテロ攻撃について公式な声明を発表した。大統領はテロリストを強く非難し、革命政府に対する白色テロを断じて許してはならないとした。また同時に犯行声明を出したアラ・イスラム国に対し最大限の非難を行い、ガルシア共和国との安全保障条約に基づき速やかに対抗措置を取ることを発表した。さらに続けて発表された文書では、ガルシア共和国の支援のため政軍経の計三人の顧問を送るとともに、駐ガルシア連邦軍が治安作戦を行うことを発表した。一部からは内政干渉との声も上がっているが、連邦議会の議員は超党派でこの内容を支持する声明を発表した。また大統領は同時に昨今の安全保障情勢の悪化を受けて動員令を発動することを発表した。これまで連邦政府はインドでの戦闘を事変とし動員を避けていたが、戦闘の激化やテロ攻撃を受け姿勢を変えたものとみられている。動員令は明日中にも大統領の署名を受け、今週中には動員が開始される見込みだ。 国際・軍事 連邦報知 23/11/23 海上においても赫々たる戦果 セイロン沖で南印艦隊を撃破 今日午後6時の定例記者会見で、統合参謀本部は次のように発表した。インド洋に展開する革命軍海軍部隊は昨日から今日の午前中にかけて要衝セイロン島沖にて南印艦隊と交戦した。部隊を指揮するエンロン・ルーデルゲン艦隊司令は季節性のサイクロンに艦隊を隠す大胆な策を講じ、南印艦隊の航空部隊を完封し艦隊決戦を挑んだ。艦隊は荒天下でも勇猛果敢な戦闘を行い、敵艦20隻以上を撃沈破する大戦果を上げた。更に嵐が過ぎ去った後も司令は追撃戦を展開し、単艦逃走する敵空母イレーナ級2隻、ロイテレツキー級1隻、更に敵旗艦ディー・カイゼリンを撃沈した。一方当方の被害は駆逐艦3隻、巡洋戦艦1隻の沈没に止まった。この結果、連邦海軍はセイロン沖の制海権を完全に奪取、陸海空軍の総力を持ってセイロン島の攻略を開始した。 国際・軍事 連邦報知 23/11/16 連邦軍快勝!解囲軍を粉砕、デリー包囲を死守! 在印革命軍司令部の発表によるとデリー南東の街アリーガルで会戦が発生した。デリー包囲に活躍した第七装甲師団の偵察隊がデリーに向けて進出する南印軍を発見し、師団長であるゲオルグ中将はこれに先制攻撃を行った。ゲオルグ中将の陣頭指揮のもと、最新鋭の戦車を装備した第七装甲師団の各部隊は高度な連携で南印軍を次々と撃破、逆に南印軍の兵站拠点を襲撃し破壊する戦果を挙げたとのことだ。 国際・軍事 連邦報知 23/11/16 連邦軍デリーを包囲! 本日連邦軍は南印軍と人民共和国軍の間で銭湯が発生しているデリー市を完全に包囲し南印軍およそ6万を市内に封印することに成功したと発表した。軍事機密として詳細は未だ明かされていないが、連邦軍の新型自走砲が多数投入され電撃的な作戦が行われたようだ。 国際・軍事 連邦報知 23/11/12 デリーで大規模市街地戦発生か 先日戒厳令が発動されたデリー市でルークリア人民解放軍と南印軍の間で大規模な武力衝突が発生している模様だ。人民共和国の発表によると、南印軍が境界線を突破しデリーの大半を軍事占領した模様だ。南印軍はデリーで暴挙を繰り返しているようで、人民共和国の支配下にあるデリーに工作員を送り込むと共に、南印占領下から逃亡してきた市民の報告によれば市民の虐殺を行なっているようだ。人民共和国は新ソ連と共同で南印の暴挙を非難し、デリーの即時奪回を宣言した。現在デリー市街は市民を巻き込んだ混乱した戦況であるが、人民共和国は市民の支援を受け優勢に戦闘を展開してきる。また人民共和国支配下に潜入した南印工作員に対しては特殊部隊である「特殊行動群」が鎮圧を行っており、多くの工作員を逮捕・殲滅したと見られている。 国際・軍事 連邦報知 23/11/08 デリーで武力衝突か、戦闘拡大止まらず imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 ルークリア人民共和国政府はデリー市の治安の悪化に対応するため今日正午を以て市全域に戒厳令を発動することを宣言した。すでに市街には戒厳令の発動に先立って人民共和国軍が出動し治安作戦を開始している模様だ。これに対抗したものか、南印軍もデリーに展開したことが確認されており両軍の衝突は不可避と見られている。デリー市では先週から人民共和国市民に対する南印工作員による虐待が頻発し、市民同士でも相互不信から衝突が相次いでいた。特に先週木曜日に起きた百合主義者の暴徒によって商店の主がリンチされ殺害されたことは市全体に衝撃を与え、彼の死に対する抗議運動が活発化していた。このような動きは東デリーでも起きており、既に事態は国境を越えたものになっているものと考えられる。2000万都市であるデリーでの武力衝突を受け連邦政府は停戦に向け行動を開始したようだ。外務省はカルカッタにルークリア駐在大使を送り協議を開始したことを発表した。事態がどのように動くのかはいまだ不明瞭だ。 国際・軍事 連邦報知 23/11/09 インド紛争尚も継続、連邦軍敵砲兵陣地を沈黙 在印新ソ連軍総司令部によれば先日から続くルークリアの国境紛争は未だ収束する見込みがないようだ。ジェン・レナート報道官は記者の戦況に関する質問に対し、「連邦軍の反撃によって南印軍の攻撃能力は大きく損なわれている」としつつも、事態は予断は許さないと述べた。また同時に別の場所でも紛争の火種が上がろうとしているようだ。デリー支局の特派員によれば、デリーでは人民共和国はの市民と南印に先導された市民の衝突が相次いでおり、治安の悪化が懸念されている。人民共和国政府はこの事態に対し近く戒厳令を発するのではないかとの見方もあるが、公式な発表は行われていない。 国内 人民新報 23/11/08 ヴェルゼルシキー郵政大臣に逮捕状、不逮捕特権は非行使の構え imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 今日正午連邦最高裁はヴェルゼルシキー郵政相に対し贈収賄の容疑で逮捕状を発行した。現在ヴェルゼルシキー大臣は憲法第八十一条によって不逮捕特権を所持しているが、大臣は辞任を申し出たため行使されない見込みだ。大臣は昨日にはジェルジンスキー大統領との会合を行なったものと見られ、そこで対応を話し合ったものと見られている。国会では現職大臣に逮捕状が発行された事で与党に対する批判がますます高まっている。人民党は共産党・大統領の任命責任を追求し、体制を糾弾した。リンネ書記は「高級大臣にこのようなブルジョワ的犯罪が行われた事は現体制がブルジョワ化し腐敗している明白な証拠だ」として大統領を非難した。 国際・軍事 連邦報知 23/11/08 南北印国境で爆発、紛争再開か?政府は南印に厳重抗議。 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 コルネリウ・シマ南アジア副高等弁務官は今日の会見でラジャスターン州ガンジサガールで南印軍との衝突があったと報道官に明かした。該当地区はラジャスターン州に併合されているが、南印は同地からの連邦軍撤退を求めていた。連邦政府はこの要求を北印に行うように求め黙殺していた。副弁務官は攻撃は南印から行われたとした上で、再び大規模な戦闘が起きることを懸念していると述べた。 国内 人民新報 23/11/06 ヴェルゼルシキー郵政大臣宅が家宅捜査を受ける。贈収賄容疑か。 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 昨日午前十一時ごろからCODIAFCACの職員がヴェルゼルシキー郵政大臣宅に家宅捜査を開始した。CODIAFCACはその目的をいまだに明らかにしていないが、同大臣は以前から芸術品交易商社ミケランジェログループとの金銭授与が疑われており多くの有識者・政治家はおそらくこの問題か、その延長線上に今回の調査があると考えている。これを受けて野党各党は議事を一時中断しこの問題について説明するよう郵政大臣に求めた。議会を病欠した郵政大臣に代わり答弁に立ったジェルジンスキー大統領は今回の問題について「説明責任はない」と前置きしながらも、状況が明らかになり次第大臣自らの口で説明を行うと述べた。また一部の野党議員が求めたCODIAFCACからの説明について大統領は、「説明するしないはCODIAFCACの専権事項であり、CODIAFCACは今は説明しないと連絡している。憲法規定上説明を強要することはできない」と答弁した。 国際・軍事 人民新報 23/11/03 南印懲罰作戦の完了を宣言。紛争終結へ imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 新ソ連大統領府とルークリア人民共和国政府は南印に対する軍事懲罰作戦の完了を宣言した。アフマダーバードでの記者会見に出席した在印新ソ連軍総司令官ドレクスラー将軍は「作戦の成功によってベンガルデルタまでの道は切り開かれ、不用意な挑戦は彼ら自身の破滅を招くことが誰の目にも明らかになった」と述べ作戦目標が達成されたことを強調した。既に現地部隊には停戦が発令されエスファハーン条約で規定された軍事境界線への撤退が行われている。一方で異なる見方をする人々もいる。野党各党は早速国会でこの軍事作戦が全く実りのない人命の浪費であったとして大統領を非難している。また軍の一部では作戦の終了の原因が人民共和国軍の弱体のせいだとする言説が流布されており、政府が水面下で人民共和国への統制を強めようとしていることがそれを根拠付けていると一部の有識者は述べた。 国内 人民新報 23/10/28 ジェルジンスキー大統領当選、危なげない勝利 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 大統領選挙管理員会がジェルジンスキー現大統領の当選を発表した。投票率は83%、ジェルジンスキー現大統領の得票率は67%に達し、対抗候補と目されたリンネ候補を大差で破った。市民の多くからはこの勝利は当然のことであると受け取られている。ジェルジンスキー大統領は選挙活動中一貫して自身の新ソ連への貢献を強調し、リンネ候補はこれに対し有効な反論ができていなかった。(と受け止められた)リンネ候補陣営の幹部の一人はこう漏らした。「結局(ジェルジンスキー大統領に)対抗できる人物は見つけ出せず、選挙活動で後れを取った。議会選で盛り返すしかない。」この当選によってジェルジンスキー大統領は史上初の3期目を務めることになり、183年まで任期を務めることになる。 国際・軍事 連邦報知 23/10/24 南印軍人民共和国を突如砲撃。在印連邦軍越境反撃 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 現地時間今日午前2時頃、ルークリア人民共和国実効支配領域に対して南印軍が突如として砲撃を加えた。砲撃された近辺に展開していた在印連邦軍、人民共和国軍は速やかに反撃を実施した。南亜高等弁務官と人民共和国首脳アドラー・ホーネッカー氏は電話対談を行い、この攻撃を南印軍による侵略の前兆であると結論付けた。在印連邦軍と人民共和国軍は人民共和国に存在するすべての市民の生存権と財産権を保護するため先制的自衛権を行使し全面的な奇襲的反撃を実行、不用意にも人民共和国の破壊を試みた南印軍を粉砕し既に南印領の一部を制圧した。大統領は夕方の定時記者会見で「人民共和国から正式に軍事作戦の要望があった。南印の野望は断固として阻止されなければならない」と記者団に述べた一方で「今回の事変は懲罰作戦であり南印との全面戦争を意味するものではない」と総力戦を否定した。 国内 人民新報 23/10/18 人口8500万を越す。歴史上最高値を更新 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 統計省人口庁の発表によると今年の新ソ連の人口は8551万人で過去最高になると予測されることが明らかになった。レグルス戦争直前にレグルスの人口は最高の8428万人を記録していたため、34年ぶりの更新となる。ジェルジンスキー大統領は「市民が大戦の災禍を遂に乗り越えた輝かしい証だ。レグルス戦争が遂に終わりを迎えた。」と述べた。新ソ連の人口の成長はこれまで経済に大きく貢献してきたとされる。特に人民の泉計画以降の出産ブームは需要を喚起し新ソ連民需の成長に貢献してきた。またもう数年でこの時の子供たちが社会人となることで新ソ連は例を見ない成長を経験すると専門家は述べる。一方で明るいニュースばかりではない。連邦各地の社会インフラは現在も拡張を続けているが、実際には追い付いていないのが実情だ。特に再建が進み人口成長も著しいバグダッドではスプロール現象や路上の不法占拠が問題となり、先の市長選でもこの改善が焦点の一つだった。また孤児数や貧困家庭、児童犯罪の件数も過去最高を記録し続けている。また人口成長にも陰りが見え始めている。政府による世界で最も厳格な人口政策にもかかわらず人口成長率は政府が目標としていた3%を下回った。しかし多くの人口学の専門家はこれが適正な数字であると述べ、出産ブームの子供たちが親になれば再び3%を超えるとも述べている。 国内 人民新報 23/10/18 大統領選迫る。連邦各地で選挙運動が活発化 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 9月に行われる大統領選挙に向けて連邦各地で選挙運動が活発化している。ジェルジンスキー大統領が史上初の3期目を達成できるのかが焦点だ。与党は既にジェルジンスキー大統領の続投で一致して選挙活動を展開している。ジェルジンスキー大統領自身も各地を遊説し、自身が新ソ連の国際的地位を回復し国民生活を改善したことを強調した。他方野党の連携は遅れている。ジェルジンスキー大統領の最初の選挙となった10年前は野党の殆どがマルクス主義連合として同じ候補者を擁立したが、現在は党同士の意見対立が表面化し連携に苦慮しているようだ。現在筆頭と思われるのは人民党のリンネ書記長だが、リンネ氏の立候補に反対する声は人民党内でも数多くある。野党は一貫してジェルジンスキー大統領の行った政策が資本主義的・帝国主義的であると批判しているが、野党の連携の無さは選挙に響くだろう。 国内 連邦報知 23/10/09 我が国初の人工衛星打ち上げに成功 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。↑地球周回軌道上のフロンティア1号 大勢の観衆が見守る中で、連邦は初の人工衛星の打ち上げに成功し、宇宙開発における重要な節目を達成した。打ち上げは沿ヨルダン共和国のマーン発射基地で行われ、この画期的な瞬間を目撃しようと政府高官、科学者、そして連邦中から市民が集まった。時計が午前10時15分を指すと衛星を搭載したグリーゼⅡロケットが轟音を立てて天へ上がっていった。打ち上げは綿密に計画されたスケジュールに従い、トラブルなくスムーズに進行した。午後三時の記者会見には打ち上げにも臨席した大統領自ら壇上に上がり、衛星打ち上げの成功を発表した。大統領は関係する技術者の努力を称賛するとともに、人工衛星を「フロンティア1号」とすることを発表した。専門家はフロンティア1号の打ち上げが新ソ連にとって重要なマイルストーンであると述べた。人工衛星の軌道投入によって新ソ連は科学の世界的最前線に到達しただけでなく、拡大する革命軍の行動範囲がついに宇宙空間に到達することを意味している。 国際 人民新報 23/10/08 伊蘇安全保障条約改正 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 イットリカン・ソビエト安全保障条約の更新が本日、ベイルートのソビエト・イットリカン友好タワーで行われた。この162mのタワーは建造物は、破壊されたベイルートの復活の力強い象徴として、そしてイットリカンと新ソ連の友好の象徴としてベイルート中央市街に立っている。イットリカン・ソビエト安全保障条約は16年前の西暦162年に締結され、それ以来新ソ連国内にイットリカン軍を配備するための法的基盤となている。。当時、新ソ連は軍事力・国力に乏しい小国であり、この条約は両国間の外交関係が急速に改善する中で、新ソ連はイトリカンの軍事力を利用して周辺諸国からの外圧を抑止するため、イットリカンは中東への戦略的橋頭保を確保するため締結された条約だった。条約の改正は主に新ソ連の国力の成長を反映したものとなった。最大の変化として、条約はソ連を保護するというイトリカンの一方的な義務から二国間防衛の約束へと移行した。さらに、両当事者は地域内に駐留するイットリカン軍の数を削減することに合意した。また条約改正に臨んだイトリカンの代表者らはイットリカン・ソビエト紛争慰霊碑に追悼の意を表し、献花し、永続する友情への心からの願いを表明した。 国際 人民新報 23/10/05 大統領、ガルシアとの安全保障条約とマルタ諸島の取得を発表。 本日の重要な進展として、ジェルジンスキー大統領は連邦とガルシア共和国との間の安全保障条約の署名を明らかにした。両国間の友好外交関係は長年続いているが、この条約は軍事協力への初めての言及となる。協定の条件に基づき、連邦はガルシア共和国の安全を一方的に保証し、この地域の平和と安定の維持への取り組みを示唆している。その結果、ガルシア州の国境内への連邦軍の配備は恒久的なものとなる見通しである。またこれを受け政府は公式にガルシア共和国を社会主義の同胞として認め、第五インターナショナルに推薦を行った。同時に、連邦政府は戦略的に重要なマルタ諸島をガルシア共和国から買収するという衝撃的な発表を行った。この協定には、ガルシアに対し同地域の排他的経済水域(EEZ)の無制限の使用を認めることも含まれている。地中海に位置するマルタ諸島は、かつてレグルス帝国が領土的野心を示していた戦略的要衝である。マルタ諸島の購入価格は12億5000万テーベに固定され、この金額の一部は武器輸出によって賄われる。ジェルジンスキー大統領は、この買収を地中海における重要な地位を確保するための戦略的措置として位置づけ、地域の安定にとっての重要性を強調した。しかし、一部の政治専門家は、今回の措置が次期選挙を前に右派有権者にアピールする狙いである可能性があると疑っている。またこの買収に対し、野党はこの買収を無駄であり、最悪の帝国主義の現れであると激しく非難した。 国際 連邦報知 23/10/01 ガルシアに連邦軍展開へ。同国の政情不安を背景に。 外務省は今日ジェルジンスキー大統領とガルシア連邦共和国指導者との電話会談で連邦軍の同国駐屯が決定されたことを報じた。大統領と与党は駐屯に関する立法に向け動き出している。一方で野党はつい数年前まで戦争していた国に軍を駐留させるなど迷走した外交政策の産物だと非難し即時撤回を要求した。大統領は今回の決定をガルシア連邦共和国の治安の悪化を根拠に挙げている。同国には以前から連邦の企業が進出してきたが、近年ガルシアの外交的孤立や経済政策の失敗から反政府活動が活発になっており邦人の安全が危惧されていた。連邦軍の展開は在ガルシア邦人や企業を安心させ、株価を安定させる狙いがあったと見られる。一方で一部の識者は新ソ連によるガルシア乗っ取りの陰謀だと批判し、展開される部隊は有事が起きれば即座にガルシアを制圧できる数だと非難した。非難の対象になっている展開部隊の総数は在外連邦革命軍の中ではルークリア方面軍についで多い。しかしガルシア共和国軍の数を考えればその様な非難は事実無根であると政府関係者は述べた。 国際 連邦報知 23/09/10 新ソビエト共和国指導者レーニン氏が新バビロンを訪問 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 新ソビエト社会主義共和国の大統領が新バビロンを訪問し、首脳会談が行われた。同胞社会主義国家である新ソビエト社会主義共和国は、近年、世界の舞台で積極的に外交的プレゼンスを高めている。今回の首脳会談では、主に軍事と経済に関する広範な問題が話し合われた。軍事面では、同盟の締結に関して決定的な合意が得られた。この同盟の可能性は以前から検討されていたもので、短い応答の後同盟が合意された。しかし経済的パートナーシップをめぐる議論は白熱したものとなった。両首脳は、苦境にある新ソビエト共和国の経済に関して広範な対話を行い、最終的にいくつかの合意に達した。連邦は、同共和国の主要貿易港であるロストフへの開発援助とともに、同共和国への債務融資を提供した。それと引き換えに、レーニン氏は新ソビエト連邦内での連邦企業の優遇を約束した。とはいえ、連邦経済界が希望していた共和国での鉱山買収は、同国の指導者の強い反対に遭い頓挫した。しかしながら首脳会談は両国の外交関係を大きく前進させ、軍事・経済両分野における将来の協力の扉を開くものとなった。 国名 正式名称はソビエト共産主義共和国連邦(Union of Soviet Communist Republics)。過去に存在した同名の国家と区別するため通称新ソ連と呼ばれる。 漢字では新蘇聯邦、新蘇聯などと表記され、蘇と略される。「ソビエト」(露 Совет)は「評議会」の意味を持つ。国名については連邦法中に「本連邦の名称は過去に存在した前衛的社会主義の実験国家の遺志の継承としてソビエト共産主義共和国連邦と定める」としている。また法令での新ソ連の呼称は正式名称である「ソビエト共産主義共和国連邦」の他、「本連邦」「我が連邦」などの表記が混在する。ソビエト共産主義共和国連邦は、国名に固有名詞(地名)を含まない世界でも希有な例であるが、連邦を構成する各共和国の国名には「アッシリア労兵ソビエト連邦共和国」など地名が含まれている。国際規格(ISO)では3文字略号をSOC、2文字略号をSCと規定している。 レグルスという呼称 新ソ連は先に述べた通り固有名詞を含まない国名であり、固有名詞として新ソ連の領域を指す際はマシュリク、またはレグルスと呼ぶ。マシュリクは「日が昇る所」を意味する言葉である。 レグルスという呼称について説明する為には古く古代メソポタミア時代まで遡る必要がある。現在に残されている数少ない資料によればこの地域に初めて成立した統一国家が獅子の王国を冠していたと考えられている。この「獅子の王国」と古代ギリシャが邂逅した際に、ギリシア人がこの国をラテン語で獅子を意味する「レグルス」と呼んだのがその初出と考えられている。しかしその後ローマ帝国の征服以後にかけて肥沃な土地を有し交通の要衝でこの地域は大国の征服に遭い続けた。ローマの征服から約2000年ほどの間レグルスの名を冠する統一国家は現れずその名は歴史的用語としての意味しか持たなかった。近代になって2度の世界大戦が勃発した頃この地域でもナショナリズムの高揚と民族運動が発生した。この時の統一国家のスローガンこそが「レグルス国家の復活」であり、その後の一連の時間を経て統一国家としてのレグルスが成立した事でレグルスはこの地域一帯を指す言葉になった。 国旗と国章 imageプラグインエラー ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (国旗.png) imageプラグインエラー ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (国章.png) ▲新ソ連の国旗。 ▲新ソ連の国章。 新ソ連の国旗は紅一色で構成される珍しい単色旗である。革命運動の際民衆が既存の旗を真っ赤に染め直し革命軍の旗として使ったことに由来する。革命で流れた血と社会主義を象徴している。 ◯政治・経済 ※12月01日現在 民主的 ---■----- 独裁的 政治的左派 ■-------- 政治的右派 自由経済 -----■--- 中央計画経済 常備軍 -----■--- 徴兵軍 好戦主義 ---■----- 穏健派 介入主義 -■------- 孤立主義国内経済 良 ■------ 不 好況国民幸福度 高 --■---- 低 改善傾向体制への不信感 高 -----■- 低 低い国防に対する意識 高 -■----- 低 特に変わらず 食料自給率 115%エネルギー自給率 255% ◯各地域への興味・関心度 地域 関心ゲージ コメント アルプス以北欧州 高 -■----- 低 外交情勢の変化により関心度は高い 地中海 高 ■------ 低 国家戦略上の重要拠点であるため関心度が高い ロシア 高 ----■-- 低 変化が少ないため関心度は低い 北米 高 ----■-- 低 特に関係国が無いため、関心度は低い 南米 高 ---■--- 低 パインランド国の活動により関心は高い 東アジア 高 -----■- 低 特に動きが無いため、関心は低い インド洋 高 ■------ 低 敵対国と友好国が存在するため関心度が高い アフリカ 高 -----■- 低 特に動きが無いため、関心は低い ※12月01日現在
https://w.atwiki.jp/kbt16s/pages/249.html
阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 国家と憲法の基礎理論 第四章 立憲主義と法の支配 p.59以下 <目次> ■第一節 立憲主義の歴史的展開[64] (一)最古の意味での立憲主義にいう constitution はルール概念と結びついていた [65] (ニ)中世における constitution は「統治」と「司法」との区別を知っていた ■第ニ節 「法の支配」の観念の成立[66] (一)立憲主義的 constitution は「基本法」による統治を求める [67] (二)「基本法」のもとでの統治は「法の支配」を意味する [68] (三)18世紀のイギリスにおいて法の支配は定着期を迎える [69] (四)「法の支配」は、その後一時低迷する [70] (五)法の支配はアメリカにおいて新たに継承・発展させられた ■第三節 「法の支配」の公式化[71] (一)法の支配はA. ダイシーによって公式化された [72] (二)ダイシーの法の支配の理解は完全無欠ではなかった [73] (三)H. ハートは「法の支配」を形式的・手続的正義として公式化し直した [74] (四)「法の支配」の小括 [75] (五)日本国憲法も、法の支配の思想に強く影響されている ■ご意見、情報提供 ■第一節 立憲主義の歴史的展開 [64] (一)最古の意味での立憲主義にいう constitution はルール概念と結びついていた 立憲主義(constitutionalism)の体系は、18世紀になって確立された([3]参照)。 もっとも、その起源は、古代ギリシャに遡り、封建時代にあってもその思想は消え去らなかった。 それは、ときには宗教的な主張として、ときには歴史的な主張として、その内容に変遷をみせながらも、宗教的・歴史的な秩序による統治者(統治権)の制限を説く理論から、道徳哲学によって支えられた法体系による制約論へと、理論体系化されたのである。 その過程は、円滑なものではなかった。 最古の立憲主義は、国家権力の恣意的行使(専制政治)を防ぐために、constitution によってそれを統制することを目指した。 そこでの constitution は、先にふれたように([30]参照)、「ルールを定める行為」またはかく定められた「ルール」を意味した。 もっとも、それは、政体の長所短所を判定する物差しにとどまり、強制力をもつものではなかった。 その後、中世までは、恣意的統治に対する法の勝利は、莫大な血とエネルギーの代価の割には、緩慢であった。 なぜなら、正常時においては、領主とその下の領民は、旧き良き法、良き慣習によって包まれる法共同体であったために法の必要は意識されず、不正規状態にあっては、それまでの立憲主義は、constitution に反する恣意的な統治に対して有効な「制裁」を用意していなかったからである。 それでも、立憲主義の思想は、歴史から消え去ることはなかった。 [65] (ニ)中世における constitution は「統治」と「司法」との区別を知っていた イギリスにおいては、「立法」という思考はなく、法は作られるのではなく発見され維持されるものであると考えられてきている。 中世におけるコモン・ローは、宣言された法の集積であり、基本的な法の体系とみられたが、王権全体を統制する法力まで持たなかった。 その法上の空隙部分は、王権といえども法のもとにあるという理論によって補充され続けた。 13世紀の法律家H. ブラクトンは、王権にも、法によってその行使の制限されている領域と、制限されざるそれとがあることを指摘した。 前者は jurisdictio (司法)と呼ばれ、後者は gubernaticum (統治)と呼ばれた(マクワルワイン著、森岡敬一郎訳『立憲主義 その成立過程』)。 ブラクトンは、jurisdictio の領域に関しては、王権の行為であっても、立法行為であっても、コモン・ローによって拘束されていると説き、また、H. ボーリングブルクは、国民の歴史から確定されるはずの実体的な制約原理として、太古からの憲法(ancient constitution)が存在してきた、とも主張した。 これが後世の立憲主義思想の母胎となる。 これに対して、ヨーロッパ大陸諸国では、この思想は、意図的に排斥されてしまう。 ■第ニ節 「法の支配」の観念の成立 [66] (一)立憲主義的 constitution は「基本法」による統治を求める 「人間に服従するのではなくて、ただ法に服するときに、人々は自由である」(I. カント)。 「神の支配」や「人の支配」に代わる「法の支配」は、自由の法的表現であり、近代立憲主義の追究してきたのは、まさにこの点にある。 constitution は、近代に至って初めて「基本法」(fundamental law)としての属性をもつに至る。 その属性をもつに至った歴史的背景を、イギリスについてみれば、次の通りである。 第一は、 ブラクトンの説いたように、「統治」と区別された「司法」(jurisdictio, ius)という概念が一貫して存在し続け、これが君主の統治権を絶対的・無制約とさせない力として作用していたためである。16世紀の重大な政治的軋轢は、「司法」と「統治」との両者を分かつ不明確な境界線を巡って反復された。その闘争の中で、コモン・ローの比類のない強靭さの故に、司法領域の最終的判定者は、パーラメントと裁判所とであり、それらの機関も、法のもとにある、との思想が17世紀にかけて勝利を収めるに至る。国王の大権に基づいて、コモン・ロー手続に拠らない裁判をしていた星法院の廃止(1641年)は、このコンテクストで捉えられる。 第二は、 宗教上の見解の対立によって、一つの教義によって統治することができなくなった結果、宗教的教義に代わる基本的・世俗的な統一的価値が求められた背景がある(宗教教義による統治権の制約から法理論による制約へ)。そればかりか、16世紀の宗教改革は、不正な支配者に対する抵抗と不服従の宗教的正当性を説いた。この宗教的抵抗義務を、権利の概念に再編成したのが、モナルコマキと呼ばれる抵抗権論者であった。彼らは、「法が国王をつくる」とするアリストテレスの言葉に依拠することによって、「神によらざれば権力なし」としてきた王権神授説を打破しようとしたのだった。 こうした歴史的背景は、フランスについても基本的に妥当する。 同国においても、フランスの国王の至上権を拘束してきた三つの枷として、16世紀の思想家たちは(J. ボダンでさえ)「王権の基本法」、「司法」および「宗教」に言及していたのである(同国の政治的実践は、現実にはこれを侵犯してしまう。それでも、立憲主義思想は、完全に死滅することはなく、市民革命という形で一挙に噴出したのである。それは、立憲主義の見方をも根本的に変えたという意味でも、まさに「革命」だった)。 [67] (二)「基本法」のもとでの統治は「法の支配」を意味する 「基本法」にいう「基本」(fundamental)とは、統治に先立って存在し、統治を先導し、拘束する性質をもつこと、そして、通常の法的手続によって改廃されないこと、をいう。 また、“law”(法、法則)とは、人間の意思を超える永遠の真理を表した。 これらが含意することこそ「法の支配」の意である。 「法の支配」(rule of law)とは、語源からみると、「法(則)による統治」(government by law)を意味した。 立憲主義(constitutionalism)とは、基本法としての属性をもった憲法による統治を指す。 18世紀末にみられた市民革命は、統治者が「法」(law)と「立法」(legislation)、「司法」と「統治」との区別を無視したために勃発した。 当時の立憲主義は、統治権からの法や司法への侵入に対して、それを保護する法的制裁方法に欠けていたために、ブルジョアジィからの実力による制裁として発生したのである。 「法の支配」の前提には、次のような思想が流れている。 ① 統治主体が誰であろうと、統治と憲法(国制)とは、同じものではないこと。または、法と統治権力とが同じ源泉に拠らないこと。 ② 憲法(constitution)は、統治を先導し、拘束するものでなければならないこと。 ③ 憲法は、人民が政府に委託する権能を規定していること。それ故に、憲法は、統治権限を制限するものであること。 ④ 如何なる統治であれ、憲法の示す制限を越えた権能行使は、正当ならざる権力の行使であること。「法は王である(Lex, Rex.)」とか「もともと法(lex)とは正しきこと(ius)の確認である」ともいわれる。 ⑤ 統治そのものが憲法であるとする国家、すなわち、統治に対して憲法が制限を課していない国家は、憲法をもっておらず、専制国家であること。 こうした思想は、さらに、統治が憲法上の限界を逸脱しているか否かの判定を為す独立機関の必要性を気づかせ、それがまずは司法府の独立保障として、そして、やがてアメリカにおける司法審査制として結実するのである。 右のような思想を底流にもつ「法の支配」は、次第に、統治者を拘束するための具体的な内容と形式とを持つものとして次のように実定法体系中に明示化されていき、法執行の正しさをも実現しようとしている。 (a) 法令の規定なく刑罰は科せられないこと。 (b) 法令は遡及的に適用されないこと。 (c) 行政官の裁量は、厳しく制限されるべきこと。 (d) 裁判官は、法が語ることを伝える口述者に過ぎないこと。 [68] (三)18世紀のイギリスにおいて法の支配は定着期を迎える 裁判官が法を発見して、それを伝える口述者としてふさわしい権能をもつためには(法の支配の一内容である右の(d)を実現するためには)、原則的に、その地位を他の政治部門の影響の外に置かなければならない。 イギリスにおいては1701年の王位継承法が裁判官の独立保障につき次のように謳ったのは、この点に配慮したためである。 「裁判官の任命は、『罪過なきかぎり』続くものとして為されるべきであり、その俸給は不動のものとする。但し、議会の両院の奏上に基づいて裁判官を罷免することは、合法である。」 この裁判官の独立保障は、後世代によって権力分立の一要素であると理論構成されるばかりでなく、裁判官の準拠する法は、君主の「命令意思としての法」ではないこと(「法を確認し維持する《司法》」と「君主の意思を確認し執行する《裁判》」との違い)を気づかせる契機となったのである([412]、[501]参照)。 その他、法の支配の内容として、前記(a)、(b)、(c)を具体化する罪刑法定主義や、一般的・抽象的法の定立と、そのもとでの平等な処遇を意味する「法の平等保護」が摘示されるようになる。 人の自由に対して強制を加えるときには、《未知の無数の将来の事例に等しく適用される法に拠らなねばならない》と考えられたからである(法の一般性・抽象性・平等普遍性)。 この「法の支配」の原型は、D. ヒュームの法哲学に求めることができる。 彼は、自由な国家においては、為政者の恣意的な裁量が廃止されるべきこと、為政者は「すべての政府構成員と被治者に予め知られている一般的で平等な法に従って行動しなければならない」こと、「法が明確に犯罪と定めた行為以外は、いかなる行為も犯罪とされてはならない」ことを述べた(ヒューム著、小松茂夫訳『市民の国について(下)』162、216頁)。 ところが、イギリスにおいて、議会主権という観念と慣行が形成されると共に、議会が制定したものが「法」である、と考えられがちとなって、ヒューム的思考は後退していった。 これに対して、植民地アメリカにおける人々は、当初、旧き良き法の保障する権益に訴えかけることによって、イギリス人としての生命・自由・所有権を正当化しようとしたが、独立戦争を契機として、自然法と結びついた「法の支配」思想を強調するに至った。 それが独立宣言中の「自然の法と自然の神の法」との表明となったのである。 [69] (四)「法の支配」は、その後一時低迷する ところが、その後法の支配の理念は、フランス革命と、大陸的合理主義哲学(真の自由を知らない抽象的理論、人民の意思が法を作るとする意思中心主義、民主主義と自由主義とを区別しない理論)の影響によって、停滞する。 というのも、意思中心主義を採る限り、誰の意思によって制定されるかという手続が明示的に形式化されれば「法」となると観念されてしまうからである。 ここに、議会または多数者の意思が定めたものであれば、正当な意思の源泉がそこに示されている、といわれることになる([60]において既にふれた、憲法典の正当性を人民の意思に根拠づけようとする理論も、これと無関係ではない)。 こうした思考が、すぐ後の[72]でふれる形式的法治主義に繋がるのである。 [70] (五)法の支配はアメリカにおいて新たに継承・発展させられた 独立戦争は制限君主制を求めて勃発した。 為にアメリカにおいては、統治機関は人民によって委託された権能だけを行使するものと考えられた。 そのために、全ての統治機関は、基本的な法文書によって特定の権力を与えられ(授権規範としての憲法)、同時にその権力も「基本法としての憲法典」のもとで、厳格に限界を定められなければならない(制限規範としての憲法)とされた。 《憲法典は法の支配を具体化した法文書である》と観念することは、法規範の構造を階梯的に捉えることでもある。 アメリカ合衆国憲法上、司法審査に関する明文規定がないにも係わらず、裁判所は、憲法典に違反する下位法の効力を否定しうるとされてきたのは([444]参照)、法規範構造を階梯的に捉えた帰結である([93]でふれるケルゼンの法段階説と比較対照せよ)。 統治機関が人民によって委託された権能だけを行使するということは、全ての権力が人民に由来することでもある。 これは、国家機関の創設権限を有する国民、すなわち、後述する憲法制定権力の主体としての国民、という考え方をアメリカが最初に実定憲法に取り込んだことを表す([118]参照)。 これ以降、「法の支配」が憲法典のもとでの統治と同視されがちとなった。 【表5】「法の支配」の展開 ①「司法/統治」の区別論 → ②「基本法」のもとでの統治 → ③イギリスでの定着 → ④大陸での低迷(形式的法治主義) → ⑤アメリカでの発展的継承 → ⑥大陸での見直し ■第三節 「法の支配」の公式化 [71] (一)法の支配はA. ダイシーによって公式化された A. ダイシー(1835~1922年)は、「法の支配」を成文憲法典による政治権力の統制として捉えなかった(巻末の人名解説をみよ)。 彼は、イギリス独特の不文法的伝統のなかで、法の支配を公式化したのである。 彼のいうその内容は、次の三つである。 ① 専断的権力支配とは対照的に、正式(正規)の法(regular law)が絶対的優位に立つこと。正規の法とは、司法的合理性によって確認された法をいう。そこには、法(law)と立法(legislation)との区別が前提とされており、前者が後者を指導していくものとされている。従って、当然のことながら、立法の実体的側面も法による統制を受けることになる。 ② 何人も正規の法のもとにあり、通常の裁判所の管轄権に服すること(「行政裁判所をイギリス法は知らない」といわれる)。これは、行政官の裁量は厳に統制されるべし、という命題([66]参照)の帰結である。 ③ 憲法は、憲法典によって与えられるのではなく、正式の法の展開(裁判所による適用および議会の活動)の結果である。人権は、正式の法がある限り破壊されることはない。これも、法と立法の区別を前提とした議論であり、人権を実定法たる憲法典で語り尽くすことは不可能でもあり、語り尽くせると想定することこそ危険である、とダイシーは言いたいのである。 [72] (二)ダイシーの法の支配の理解は完全無欠ではなかった 右のような「法の支配」の理念は、その後、誇張され、あたかも不動の価値であるかのように説かれていく。 もともとダイシーのいう「正規の法」が何を意味するか定かではなく、正規の法によって自由を中心とした基本権が守られるというのも、イギリスが不文憲法の国であるとする誇張のうえに成立していた。 また、彼の理論は、大陸における法の支配が不完全であるという誤った前提に立っていた。 ダイシーは、大陸法上の欠陥が行政権の行使につき司法審査(適法性審査)の及ばない点にあるとみた。 そのために、行政行為を通常裁判所によって審査する点こそ法の支配にとっての鍵であるとみたのだった。 ところが、実際には、フランスにおいても、ドイツ(プロイセン)においても、法の支配と同じ観点から「法治主義」が説かれていたのである。 もっとも、フランス第三共和国やプロイセンにおいては、その理論が実践に取り込まれないまま、通常裁判所とは系列を異にする、行政機関のための行政裁判所が設置されてしまう([443]参照)。 これを契機に、R. グナイスト(1816~95)によって理論的に(政治的に)歪められた法治主義の考え方が1860年以降、支配的となる。 そして、その後は、ドイツ的法治主義、すなわち議会の定めたものをもって法とする形式的法治主義と、英米的法の支配とは、あたかも、水と油であるかのように今日まで語り継がれているのである。 形式的法治主義は、ルールが従うべき手続上の制約を課すのみである。 【表6】形式的法治主義 議会の意思による法の定立(意思の発動形式の重視)↓ 【議会と行政との関係】法律のもとでの統治=法律による行政の原理(ア) 法律の法規範創造の原則(イ) 法律の留保原則(ウ) 法律優位の原則↓ 【裁判所と行政との関係】通常裁判所の民事刑事の司法権行使(限定的司法概念)通常裁判所による国家行為の合憲性統制の意識的排除通常裁判所の独立官僚統制のための行政裁判所(ただし、統治行為は審判対象外)行政裁判所裁判官の身分保障 [73] (三)H. ハートは「法の支配」を形式的・手続的正義として公式化し直した 「法の支配」とは何であるか、積極的に定義づけ、さらにその論拠を呈示しようとすることは、容易な業ではない。 法の支配は、よく次のように説明される。 (a) 人の恣意的な意思による支配ではなく(マサチューセッツ憲法前文にいうように、「人の支配ではなく、法の統治」である)、 (b) 形式的法治主義でもない(《法の支配は法律の支配にあらず》)。 ところが、この解明では、 (ア) 人の恣意によらざる支配とは、いかなる支配であるのか(《法が支配する》、との解答は、統治の実態を覆い隠すに過ぎない)、また、 (イ) 法の支配にいう「法」とは何であるのか、 積極的に論証したことにはならないのである。 上の(ア)の疑問に関しては、こう解答することも出来なくはない。 すなわち、《人権をよりよく保障することが、法の支配のいいたいところである》、とか、《個人の尊厳をよりよく保護することである》と説くこと、これである。 ところが、法の支配を個人の尊厳の実現と関連づけることは、《法の支配が何を目指すか》という問に対する解にとどまり、《法の支配にいう法とは何であるか》という、法の内実を問う際の解ではない。 法の支配の意義を積極的に呈示する方向として、二つの見方が存在してきた。 第一は、 問題の法令が、human nature という法則(実体的正義や理性)を体現しているか、という法の実質・内容を問う立場である。その典型的立場が、自然法論である。 第二は、 法の形式を重視するタイプである。これは、問題の法令が、どのような特定の人々をも対象とせず、特定の目的も知らず、一般的で抽象的な形式を満たしているか否かを問うのである。 法の一般性・抽象性・普遍平等性という形式は、次のような普遍可能性原理の応用編である。 ① 法は、人を定数で(固有名詞として)扱ってはならない。私個人と他の個人との間の数的差異を法的には関連性のない要素とみなさなければならない。 ② 私個人にとって重要であるとみられる類的・質的差異を、法は関連性なき要素とみなさなければならない。 以上は、要するに、《全ての人々の観点から受け入れられることのできる原理を法は組み込むべし》、とする思考である(『憲法理論Ⅱ』 [36] もみよ)。 法の支配の要諦は、法が、特定の人々に対して、特定の仕方で、処遇してはならない、という形式性にある。 その形式性は、「具体的効果を知らないこと、これらのルールがどのような目的を促進するか知らないこと」を含意するのである(ハイエク著、一谷藤一郎訳『隷従への道』108、103頁)。 ところが、ヘーゲル=マルクス主義は、この形式性こそ、人々に対して形式的平等と形式的自由だけを与えるものと批判したために、特定の個人の置かれた地位を配慮して、実質的平等・実質的自由を保障する法令が正義に適う、と考えられがちとなって、法の支配の思想が侵食されていったのである。 法の支配の復権にとって重要な視点を提供したのがH. L. A. ハートである。 ハートは、法の支配の内実として、法としての適正の原理と、自然的正義の原理を挙げる。 前者は、 法の一般性、明確性、公開性、不遡及性を要請する。それは、形式的正義をいうものと思われる。 後者は、 個別的適用にあたって不偏不党公平であり、また事実の証明や法律の解釈に当って紛争当事者双方の意見を考慮することを要請する。それは、手続的正義を意味するものと思われる。 法と道徳との必然的関連性を否定するハートは、法の支配の中に、「公正」とか「実体的正義」を含めることに躊躇せざるを得なかった。 この点は、「法律は悪法で、不公正であるかも知れないが、しかし、それを一般的で、抽象的な形に成文化することにより、この危険は極小にまで押さえられる」と考えたデュギーも同様であった。 正義の実体は、いつも論争されてきた。 その論争の中で我々は、得てして過剰な実体を求めがちとなる。 ハート、デュギーが懸念したのはその点であった。 法は最小限の正義を体現すべきものなのである。 その正義は、誰にも積極的な義務を課すことなく、不正義を為さないよう求める消極的なものでなければならない(負の力としての正義。[47]もみよ)。 [74] (四)「法の支配」の小括 「法の支配」とは、統治機関(立法権を含む)が強制力を用いる場合には、公知の、事前に予知可能で(確実性・公開性を持ち)、平等に適用される、一般的・抽象的立法を要請する「基本法」(fundamental law)のもとでの統治をいう。 「基本的」法は、立法とそのもとでの統治がどうあるべきかに関するルールである(統治を先導するための規範)。 「基本的」であるか否かは、法の権威の源泉(誰の意思が法をつくるか)によって決まるわけではない。 それは、一般性・抽象性・平等普遍性といった形式的正義や、両当事者の意見を聴くべしといった手続的正義に従っているかどうかによって決せられる。 この意味での正義は、先にふれたように、誰にも積極的な義務を課すことはなく、個別的な文脈の中で発見され宣言されるに過ぎない。 では、立法がこうした正義を具備しているか否かを判断するに相応しい構造をもっている機関はいずれであるか。 それは、個別的な文脈のもとで、合理的な手続を踏みながら公正な観察者の視点から法を宣言し維持する権限を与えられている司法府である。 「法の支配」が、司法府の独立のみならず、司法的手続の整備の要請、司法審査制と結びつくのは論理必然的である([446]参照)。 「法の支配」による統治機関の統制は、国家が人の自由に対して強制を加える領域に及ぶ。 もっとも、今日では、いわゆる政府の受益的活動についても「法の支配」を必要とするという立場もみられる。 国家の財政政策を法の支配に服せしめることも重大な視点であろう。 [75] (五)日本国憲法も、法の支配の思想に強く影響されている 日本国憲法は、多方面にわたって法の支配の思想を具体化している。 そのことは、 ① 76条において、司法権を一元的に通常裁判所に帰属させ、司法権の独立を保障し、さらに、特別裁判所の設置を禁止していること、 ② 98条1項において、憲法典の最高法規性を宣言して、階梯的法規範構造を採用し、これに反する国家行為の効力を否定していること、 ③ 81条において、司法府が一切の国家行為につき、統治を先導する基本法(最高法規)と適合しているか否かを判断できるとされていること、 ④ 11条において、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」と定め、さらに、13条において「国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と謳って、形式的法治主義を排除していること、 ⑤ 31条において、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」と定めて、法令の規定なく刑罰を科せられないことを確認していること(31条の解釈によっては、実体規定の明確性まで要請しているとみることもできる)、 ⑥ 39条において、「何人も、実行のときに適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。」と謳って、事後処罰と二重の危険の禁止を定めていること、 等に表れている。 もっとも、以上の諸条規に言及するだけでは、日本国憲法が法の支配を組み込んでいることを論証したことにはならない。 なぜなら、ある法体系内の公理を出発点として当該体系の公理を論証しようとすることは、決定不可能だからである。 これを「自己言及のパラドックス」という。 ■ご意見、情報提供 ※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/kbt16s/pages/325.html
ヨーロッパでの成立の経緯に照らしてみればわかるように、立憲主義は、多様な価値観を抱く人々が、それでも協働して、社会生活の便益とコストを公正に分かち合って生きるために必要な、基本的枠組みを定める理念である。 ~ 長谷部恭男(東大法学部教授(憲法学))『憲法と平和を問いなおす』p.178 要旨■立憲主義は、①人権・②国民主権・③反戦平和主義といった特定の価値観を絶対視し強制するものではなくて、逆にデモクラシーの行き過ぎに歯止めをかけ、寛容で自由な価値多元的社会を守るための、脱イデオロギー的な理念である。 ※本ページが難しい方は、まずリベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配をご覧下さい。 <目次> ■1.このページの目的 ■2.「立憲主義」の辞書的定義・用語説明◆1.日本の辞書類による定義 ◆2.英米圏の辞書による定義 ■3.「立憲主義」に関する様々な見解◆1.左翼の見解(芦部信喜、高橋和之) ◆2.リベラル左派の見解(長谷部恭男) ◆3.中間派の見解(佐藤幸治) ◆4.リベラル右派の見解(阪本昌成) ◆5.保守主義の見解(中川八洋) ■4.(要約)立憲主義とは何か◆1.各論者の見解の評価 ◆2.法の支配《広義》、フランス型立憲主義、アメリカ型立憲主義 ◆3.立憲主義とデモクラシーの緊張関係 ◆4.立憲主義と反戦平和主義の緊張関係 ■5.参考図書 ■6.ご意見、情報提供 ■1.このページの目的 「平和主義」という言葉がまるで神通力を失ったことに気づいた左翼護憲論者は、近年は「立憲主義」という言葉を新たな旗印に掲げて断固改憲を阻止する構えである(憲法クイズで有名になった民主党の小西参議院議員や東京都知事選に出馬した元日弁連会長の宇都宮健児氏、社民党前党首・福島みずほ氏らが近年「立憲主義」を連呼し、また旧民主党系の護憲派が結集して「立憲民主党」なる新政党を設立etc.)。 これに対して改憲論者の側からは、残念ながら今までのところ余り効果的な反駁が提示されているようには見えない。 しかし実は、こうした左翼護憲論者の掲げる「立憲主義」の理解は、英米圏で主流となっている標準的な理解ではなく、フランス革命に由来するフランス・ドイツなど大陸法系の既に破綻した古い理解でしかなく、そのことは阪本昌成氏(リベラル右派の憲法学者)によって明示的に指摘されているほか、長谷部恭男氏(東大法学部教授(憲法学))のような法学の世界的パラダイムを考慮に入れて発言する近年のリベラル左派の憲法学者からも暗に指摘されるに至っている。 このページでは、そうした時代遅れの左翼的「立憲主義」理解(=立憲主義のフランス的理解)の誤謬を指摘し、英米圏で常識となっている真っ当な「立憲主義」理解(=立憲主義のアメリカ的理解+その保守的バリエーション)を紹介する。 ■2.「立憲主義」の辞書的定義・用語説明 ◆1.日本の辞書類による定義 りっけん-しゅぎ【立憲主義】(constitutionalism) 広辞苑 憲法を制定し、それに従って統治する、という政治のあり方。 (1) この場合の憲法とは、 ①人権の保障を宣言し、②権力分立を原理とする統治機構を定めた憲法を指し、 (2) そうでない場合を 外見的立憲主義という。 りっけんしゅぎ【立憲主義】constitutionlism 日本語版ブリタニカ (1) 法の支配 rule of law に類似した意味をもち、 ① およそ権力保持者の恣意によってではなく、 という政治原則をいう。 ② 法に従って権力が行使されるべきである、 (2) 狭義においては、とくに 1 政治権力を複数の権力保持者に分有せしめ、 とする政治原則である 2 その相互的抑制作用を通じて権力の濫用を防止し、 3 もって、権力名宛人の利益を守り、政治体系の保全を図ろう (3) 狭義における立憲主義は、既に古代ギリシア、ローマ、あるいは中世ヨーロッパの一定の都市国家などに見出されるが、近代市民革命を経て、近代立憲主義に変貌した。 そこでは、 [1] 国民の一定の範囲における国政参加を前提に、 と考えられるようになった。 [2] 権力分立構造を通じて国民個々人の権利・自由の保全を図ろうとする意図が明確にされ、 [3] それを具備する成文憲法を制定することが肝要である、 (4) 立憲主義に立脚する民主制が①({立憲民主制}であり、君主制と結合している場合が②立憲君主制である。 りっけんしゅぎ【立憲主義】(constitutionalism) 百科事典マイペディア (1) 広義には政治権力を法(憲法)によって規制しようという政治原則。 (2) 狭義には近代市民国家におけるような権力分立の原則に立つ憲法に基づいて政治を行うという原則。 (3) 権力分立が形式的にのみ認められている場合は外見的立憲主義といわれる。 ※このように日本の辞書類は「立憲主義」について表層的な説明に留まっているが、英米圏の辞書では constitutionalism について、より根本的な考察が行われている(下記)。 ◆2.英米圏の辞書による定義 constitutionalism ODE [mass noun] constitutional government ・adherence to a constitutional system of government (翻訳) 国制に基づく統治 ・特定の統治に関する規約体系を堅持すること ※残念ながら、 Britannica Concise Encyclopedia には constitutionalism の項目がないため、英文wikipedia(2013.8.17時点)で代用する。 ※注釈:以下の文章にある、①記述的(descriptive)とは、物事のあるがままの状態を客観的に記述すること、また、②規範的(prescriptive)とは、物事の当否を主観的に判別すること、をそれぞれ言い表わす説明の方法であり、おおむね、①記述的(descriptive)部分が概念(concept ~とは何か)の説明、②規範的(prescriptive)部分が理念ないし概念構想(conception ~はどうあるべきか)の説明に該当する。 なお、①記述的(descriptive)とは外的視点(非構成員)によって観測されるものであり、②規範的(prescriptive)とは内的視点(構成員)によって遵守されるものである(H.L.A.ハートの法体系参照)→後述するように以下の英文wikipediaの説明は、ハートやJ.L.オースティンといった日常言語学派(第二次大戦後のイギリスで隆盛した分析哲学の一派)の思考パラダイムに基づいている。 constitutionalism 英文wikipedia Constitutionalism, in its most general meaning, is "a complex of ideas, attitudes, and patterns of behavior elaborating the principle that the authority of government derives from and is limited by a body of fundamental law".A political organization is constitutional to the extent that it "contain[s] institutionalized mechanisms of power control for the protection of the interests and liberties of the citizenry, including those that may be in the minority".As described by political scientist and constitutional scholar David Fellman △ Constitutionalism is descriptive of a complicated concept, deeply imbedded in historical experience, which subjects the officials who exercise governmental powers to the limitations of a higher law.Constitutionalism proclaims the desirability of the rule of law as opposed to rule by the arbitrary judgment or mere fiat of public officials…. Throughout the literature dealing with modern public law and the foundations of statecraft the central element of the concept of constitutionalism is that in political society government officials are not free to do anything they please in any manner they choose; they are bound to observe both the limitations on power and the procedures which are set out in the supreme, constitutional law of the community.It may therefore be said that the touchstone of constitutionalism is the concept of limited government under a higher law. UsageConstitutionalism has prescriptive and descriptive uses. Law professor Gerhard Casper captured this aspect of the term in noting that "Constitutionalism has both descriptive and prescriptive connotations.Used descriptively, it refers chiefly to the historical struggle for constitutional recognition of the people s right to consent and certain other rights, freedoms, and privileges….Used prescriptively … its meaning incorporates those features of government seen as the essential elements of the … Constitution." (1) DescriptiveOne example of constitutionalism s descriptive use is law professor Bernard Schwartz s 5 volume compilation of sources seeking to trace the origins of the U.S. Bill of Rights.Beginning with English antecedents going back to the Magna Carta (1215), Schwartz explores the presence and development of ideas of individual freedoms and privileges through colonial charters and legal understandings.Then, in carrying the story forward, he identifies revolutionary declarations and constitutions, documents and judicial decisions of the Confederation period and the formation of the federal Constitution.Finally, he turns to the debates over the federal Constitution s ratification that ultimately provided mounting pressure for a federal bill of rights. While hardly presenting a "straight-line," the account illustrates the historical struggle to recognize and enshrine constitutional rights and principles in a constitutional order. (2) PrescriptiveIn contrast to describing what constitutions are, a prescriptive approach addresses what a constitution should be.As presented by Canadian philosopher Wil Waluchow, constitutionalism embodies "the idea … that government can and should be legally limited in its powers, and that its authority depends on its observing these limitations.This idea brings with it a host of vexing questions of interest not only to legal scholars, but to anyone keen to explore the legal and philosophical foundations of the state."One example of this prescriptive approach was the project of the National Municipal League to develop a model state constitution. (3) Authority of governmentWhether reflecting a descriptive or prescriptive focus, treatments of the concept of constitutionalism all deal with the legitimacy of government. One recent assessment of American constitutionalism, for example, notes that the idea of constitutionalism serves to define what it is that "grants and guides the legitimate exercise of government authority."Similarly, historian Gordon S. Wood described this American constitutionalism as "advanced thinking" on the nature of constitutions in which the constitution was conceived to be "a" set of fundamental rules by which even the supreme power of the state shall be governed. "Ultimately, American constitutionalism came to rest on the collective sovereignty of the people - the source that legitimized American governments. (4) Fundamental law empowering and limiting governmentOne of the most salient features of constitutionalism is that it describes and prescribes both the source and the limits of government power.William H. Hamilton has captured this dual aspect by noting that constitutionalism "is the name given to the trust which men repose in the power of words engrossed on parchment to keep a government in order."(omission) (翻訳) 立憲主義とは、その最も一般的な意味では、「統治の権威(ないし根拠)(the authority of government)は、特定の一まとまりの基本法(a body of fundamental law)から派生し、且つ、それによって限定される、という原則を、精一杯入念に作り上げている、諸アイディア・諸態度そして諸行動パターンの複雑な集まり」のことである。ある政治機構が、「一般市民の諸利益と諸自由を、(専ら)少数者のものであるかも知れないものをも含めて、保護するための制度化された権力制御メカニズムを備えている」といえる場合、(その政治機構は)立憲的である。政治科学者であり憲法学者であるデイヴィッド・フェルマンの説明によれば、 △ 立憲主義は、統治権力を行使する政府当局は特定の高次の法による制限に服する、という、歴史的経験が深く埋め込まれている、複雑に入り組んだ厄介な概念として記述される。立憲主義は、法の支配(the rule of law)を、政府当局による恣意的な判定や単なる勝手な命令による支配とは正反対のものであり、望ましいものである、と公然と宣明(proclaim)している。近代的な公法や治世術の基礎を取り扱うあらゆる諸文献を通して見て、立憲主義の概念の中心的要素とは、政治社会において政府当局者(government officials)は、その選択する要求を、どのような態様であれ、無制限に実行できる訳ではなく、その共同体における至上の実質憲法(=国制)(the supreme constitutional law of the community)によって予め定められている権力の諸制限および諸手続きの両方を遵守することを義務付けられている、ということである。そのため、立憲主義の試金石は、特定の高次の法の下にある制限された統治(limited government under a higher law)という概念にある、と云われている。 使用法立憲主義(という用語)には、記述的用法と規範的用法とがある(※注釈)。法学教授ガーハード・キャスパーは、この言葉のこうした側面を以下のように捉えている。「立憲主義には記述的と規範的の両方の含意がある。記述的に使用される場合、それは主に、人々の「同意」権や特定の他の諸権利・諸自由・諸特権に関する憲法的認定(constitutional recognition)についての歴史的葛藤のことを指している。規範的に使用される場合・・・その意味には、××憲法典(the ・・・ Constitution)の本質的諸要素と考えられている、統治のそうした諸特徴(those features of government)が組み込まれている。」 (1) 記述的(用法)立憲主義(という用語)の記述的使用例の一つは、法学教授バーナード・シュワルツによるアメリカ合衆国憲法の権利章典(the U. S. Bill of Rights)の諸起源を追跡した5巻の資料編著作集である。マグナ・カルタ(1215年)に遡る英国の先行事例を始まりとして、シュワルツは、個人的諸自由と諸特権のアイディアの発生と発達を、植民諸憲章および法的諸合意を通過点として探索している。そして、そうした物語を推挙するに当たって、彼は、連合期(※注釈:アメリカ独立13邦間に結ばれた連合規約により、1781-89迄存在したアメリカ国家連合の期間。アメリカ合衆国憲法の発効により消滅)の諸革命宣言・諸憲法典・諸文書・司法的諸決定、さらに連邦憲法典(※注釈:1787年起草、88年6月批准、89年3月4日施行のアメリカ合衆国憲法)の成立過程を見定めている。最後に、彼は連邦憲法典の批准に関する諸討論に注意を向けているが、そこでは最終的に連邦(憲法典)に対して権利章典(を追加すること)を要求する高いプレッシャーが懸っていた。「一直線」の説明を提示することは非常に困難ではあるが、こうした説明は、国制秩序に関する憲法的諸権利・諸原理の認知と神聖化に対する歴史的苦闘に、生き生きとした描写を与えてくれる。 (2) 規範的(用法)constitution(憲法ないし国制) とは何か、という記述(的アプローチ)とは対照的に、規範的アプローチでは、constitution はどうあるべきか、が述べられる。カナダ人哲学者ウィル・ワルチャウの提案によれば、立憲主義(という用語)は、「政府(government)は、その権力が法的に制限可能であると同時に(その権力は)制限を受けるべきであり、そして、その権威は政府がそうした諸制限を遵守することに懸っている・・・というアイディア」を表現したものである、という。この(立憲主義という)アイディアは、法学者達のみならず、国家(state)の法的また哲学的基礎の探索に強い関心を持つ全ての者に対して、その関心に対する数知れぬ苛立たしい疑問をもたらしてしまう。この規範的アプローチの一例は、あるモデル国家の憲法典を作成しようとしたナショナル自治体リーグ・プロジェクトであった。 (3) 統治の権威(ないし根拠)記述的あるいは規範的焦点をどう思案するのであれ、立憲主義の概念の取扱いは、すべて統治の正統性(the legitimacy of government)に関するものである。例えば、アメリカ立憲主義に関する最近の評価の一つは、立憲主義のアイディアは「政府当局の正統な実力行使に承認を与え且つ指針を与える」ものの定義に役立っている、ということである。同様に、歴史家ゴードン・S・ウッドは、こうしたアメリカ立憲主義を、constitutions(憲法ないし国制) の性質に関する「先進的な思想」であって、(そこでは)constitution は国家の最高権力でさえも舵取りされるべき根本的諸ルールの特定の一セットとして受胎されたものである、と説明している。最終的に、アメリカ立憲主義は、人々の集合的至高性(the collective sovereignty of the people)-アメリカ政府諸機関に正統性を付与する源-に到達して終わる。 (4) 統治機関に授権し且つそれを制限する根本法立憲主義(という用語)の最も顕著な特徴の一つは、政府権限(government power)の源であり同時に制限であるものを、①記述する(describe)とともに②規約化する(prescribe)ことである。ウィリアム・H・ハミルトンは、この二重の側面を、立憲主義とは「政府が正常に機能することを目的として、人々が羊皮紙に書かれた正式な言葉の効力に信認を置くこと、に対して与えられた名称である」と表現することで把握している(※補注)。(以下省略) ※補注:このように、英文wikipediaは、「立憲主義とは、憲法典(という公的に宣明された法文書)の効力に対して人々が信認を与える、という一種の言語行為(speech act)を意味する用語である」ことを印象的に指摘している。 げんご-こうい【言語行為】 広辞苑 J.L.オースティンが提起した言語哲学上の概念命令・約束・依頼などに見られるように、事実の描写ではなく、言葉を発することが同時に行為の遂行でもあるような言語の働きを指す。発話行為。 げんごこういろん【言語行為論】speech act theory 日本語版ブリタニカ イギリスの哲学者J.L.オースティンによって提唱され、J.R.サールらによって展開された言語論。従来の言語論が命題の真偽を主として問題にしてきたのに対し、文の発話は同時に行為の遂行となっていると指摘した。たとえば「約束する」と発話することは、すなわち「約束」という行為を行うことにほかならない。このように何かを語ることによって執行される行為を「発話内行為」という。 ★ポイント★ 立憲主義の最も顕著な特徴は、 (1) それが何等かの絶対的な真理を意味するものでもなければ、 (2) 単なる一個人の価値観の表明に過ぎないものでもなくて、 (3) 特定の共同体に所属する人々の暗黙の了解によって継続的に遂行されている、統治に関する①社会的事実の記述(description)であり、且つ、②規範(prescription)である慣行(practice)に対して付けられた名称である、ということである(この点に関して詳細な説明は、落合仁司『保守主義の社会理論』内容紹介参照)。 ⇒以下に、日本の代表的な憲法学者の立憲主義に関する論説を列挙していくが、それらが、 1 立憲主義を (1) 何らかの絶対的な真理を含意するもの(価値絶対主義→自然法論に基づく大陸法系のパラダイム)ないし として説明する段階に留まっているのか (2) 特定の価値観を表明するに過ぎないもの(価値相対主義→ケルゼン型の法実証主義パラダイム) 2 それとも (3) 英米圏で第二次大戦後に急速に発展した(言語行為論を含む)分析哲学に基づく新しい法学パラダイム(ハートの法=社会的ルール説) を踏まえたうえで「立憲主義」を論じる段階に到達しているのか の区別に留意して読み解いていくと良い。 ※結論から先にいうと、阪本昌成(リベラル右派)および長谷部恭男(リベラル左派)以外の憲法学者は全て、(1)自然法論に基づく古い大陸法系の法学パラダイムの段階に留まっている。 ■3.「立憲主義」に関する様々な見解 ※代表的な憲法学者の見解を、①左翼、②リベラル左派、③中間派、④リベラル右派、⑤保守主義、という政治的スタンスの順に列挙する。 ◆1.左翼の見解(芦部信喜、高橋和之) 芦部信喜『憲法 第五版』(2011年刊) 第一章 憲法と立憲主義 二. 憲法の意味 p.xx以下 1. 形式的意味の憲法と実質的意味の憲法 (ニ). 実質的意味 (2). 立憲的意味実質的意味の憲法の第二は、自由主義に基づいて定められた国家の基礎法である。一般に「立憲的意味の憲法」あるいは「近代的意味の憲法」と言われる。18世紀末の近代市民革命期に主張された、専断的な権力を制限して広く国民の権利を保障するという立憲主義の思想に基づく憲法である。その趣旨は、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていない社会は、すべて憲法をもつものではない」と規定する有名な1789年フランス人権宣言16条に示されている。この意味の憲法は、固有の意味の憲法とは異なり、歴史的な観念であり、その最も重要な狙いは、政治権力の組織化というよりも権力を制限して人権を保障することにある。以上の三つの憲法の観念のうち、憲法の最もすぐれた特徴は、その立憲的意味にあると考えるべきである。従って、近代に至って一定の政治的理念に基づいて制定された憲法であり、国家権力を制限して国民の権利・自由を守ることを目的とする憲法である。そのような立憲的意味の憲法の特色を次に要説する。 2. 立憲的憲法の特色 (一). 淵源 立憲的意味の憲法の淵源は、思想史的には、中世にさかのぼる。中世においては、国王が絶対的な権力を保持して臣民を支配したが、国王といえども従わなければならない高次の法(higher law)があると考えられ、根本法(fundamental law)とも呼ばれた。この根本法の観念が近代立憲主義へと引きつがれるのである。もっとも、中世の根本法は、貴族の特権の擁護を内容とする封建的性格の強いものであり、それが広く国民の権利・自由の保障とそのための統治の基本原則を内容とする近代的な憲法へ発展するためには、ロック(John Loche, 1632-1704)やルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712-78)などの説いた近代自然法ないし自然権(natural rights)の思想によって新たに基礎づけられる必要があった。 この思想によれば、 ① 人間は生まれながらに自由にして平等であり、生来の権利(自然権)をもっている、 ② その自然権を確実なものとするために社会契約(social contract)を結び、政府に権力の行使を委任する、そして、 ③ 政府が権力を恣意的に行使して人民の権利を不当に制限する場合には、人民は政府に抵抗する権利を有する。 このような思想に支えられて、1776年から89年にかけてのアメリカ諸州の憲法、1788年のアメリカ合衆国憲法、1789年のフランス人権宣言、91年のフランス第一共和制憲法などが制定された。 五. 立憲主義と現代国家 - 法の支配 p.xx以下 3. 立憲主義の展開 (一). 自由国家の時代 近代市民革命を経て近代憲法に実定化された立憲主義の思想は、19世紀の「自由国家」の下でさらに進展した。そこでは、個人は自由かつ平等であり、個人の自由意思に基づく経済活動が広く容認された。そして、自由・平等な個人の競争を通じて調和が実現されると考えられ、権力を独占する強大な国家は経済的干渉も政治的干渉も行わずに、社会の最小限度の秩序の維持と治安の確保という警察的任務のみを負うべきものとされた。当時の国家を、自由国家・消極国家とか、または軽蔑的な意味を込めて夜警国家と呼ぶのは、その趣旨である。 (ニ). 社会国家の時代 しかし、資本主義の高度化にともなって、富の偏在が起こり、労働条件は劣悪化し、独占的グループが登場した。その結果、憲法の保障する自由は、社会的・経済的弱者にとっては、貧乏の自由、空腹の自由でしかなくなった。そこで、そのような状況を克服し、人間の自由と生活を確保するためには、国家が、従来市民の自律に委ねられていた市民生活の領域に一定の限度まで積極的に介入し、社会的・経済的弱者の救済に向けて努力しなければならなくなった。こうして、19世紀の自由国家は、国家的な干渉と計画とを必要とする社会国家(積極国家ないしは福祉国家(*)とも呼ばれる)へと変貌することになり、行政権の役割が飛躍的に増大した。 (*) 社会国家・福祉国家社会国家(Sozialstaat)は主としてドイツで用いられる言葉であり、福祉国家(welfare state)は主としてイギリスで用いられる言葉である。その内容は必ずしも明確ではないが、おおよそ、国家が国民の福祉の増進を図ることを使命として、社会保障制度を整備し、完全雇用政策をはじめとする各種の経済政策を推進する国家であると言えよう。我が国では、かつて、福祉国家論は国家独占資本主義の矛盾を覆い隠すイデオロギー的理論であるという批判が学説の一部に強かった。そのような問題点があるとしても、現実の経済・社会に照らして、プラス面の実現を強化していくことが必要である。 4. 立憲主義の現代的意義 (一). 立憲主義と社会国家 立憲主義は、国家は国民生活にみだりに介入すべきでないという消極的な権力観を前提としている。そこで、国家による社会への積極的な介入を認める社会国家思想が、立憲主義と矛盾しないかが問題となる。しかし、立憲主義の本来の目的は、個人の権利・自由の保障にあるのであるから、その目的を現実の生活において実現しようとする社会国家の思想とは基本的に一致すると考えるべきである。この意味において、社会国家思想と(実質的)法治国家思想とは《両立する》。戦後ドイツで用いられてきた「社会的法治国家」という概念は、その趣旨である。 (ニ). 立憲主義と民主主義 また、立憲主義は民主主義とも密接に結びついている。すなわち、 ① 国民が権力の支配から自由であるためには、国民自らが能動的に統治に参加するという民主制度を必要とするから、自由の確保は、国民の国政への積極的な参加が確立している体制において初めて現実のものとなり、 ② 民主主義は、個人尊重の原理を基礎とするので、すべての国民の自由と平等が確保されて初めて開花する、 という関係にある。民主主義は、単に多数者支配の政治を意味せず、実をともなった《立憲民主主義》でなければならないのである(*)。 このような《自由と民主の結合》は、まさに、近代憲法の発展と進化を支配する原則であると言うことができよう。戦後の西欧型民主政国家が「民主的法治国家」とか「法治国家的民主政」と言われるには、そのことを示している。 (*) 自由主義と民主主義戦前の憲法学 - とくにワイマール憲法時代のドイツ - では、自由主義を否定しても民主主義は成り立つという見解が有力であった。しかし、宮沢俊義が説いたとおり、「リベラルでない民主制は、民主制の否定であり、多かれ少なかれ独裁的性格を帯びる。民主制は人権の保障を本質とする」、と考えるのが正しい。 高橋和之『立憲主義と日本国憲法憲法 第3版』(2013年刊) 第2章 立憲主義の基本原理 p.24~ 1 近代立憲主義の成立 (1) 中世立憲主義 立憲主義とは、国の統治が憲法に従って行われねばならないという考えをいう。この思想が最初に成立するのは、ヨーロッパ近代においてであるが、その淵源はすでに中世のゲルマン法思想の中に存在した。中世においては、「国王も神と法の下にある」(ブラクトン)といわれ、国王といえども法には従わねばならないと考えられていた。そこにいう法とは、国王が自己の意思によって人為的に制定するものではなく、国王の意思からは独立に存在する客観的な正義であると観念されていた。それは、現実には慣習法の形で存在したのであるが、この客観的に存在する正義としての法(慣習法)が裁判において《発見》され適用されたのである。そして、国王がこの法に違反して恣意的な政治や裁判を行えば、それに抵抗することも正当であるとされた。抵抗権が承認されていたのである。もっとも、誰もが抵抗権を発動しうると考えられていたわけではない。国王が法に従うよう監視する役割は、通常は、国王の臣下を集めた国王顧問会議(後の身分会議・等族会議の前身)が担うとされたのであり、抵抗権を発動するのも、次第にこの顧問会議の役割と考えられるようになっていく。それはともあれ、ここには中世的な「法の支配」が見て取れるのであり、これを中世立憲主義と呼ぶことができよう。 (2) ローマ法思想と絶対主義国家の形成 法は制定するものではなく発見するものだというこのゲルマン法的観念を覆したのは、ローマ法の観念であった。12世紀にイタリアのボローニャでユスティニアヌス法典を素材としたローマ法の研究が始まるが、そのローマ法思想によれば、法とは皇帝の意思・命令により制定されるものであった。中世的諸身分の特権・既得権を内容とする慣習法により縛られていた国王は、この呪縛をふりほどき中央集権的国家の建設を推進するために、このローマ法思想を援用するようになる。それが最も典型的に現れるのがフランスであったが、フランス国王は主権者たる自己の意思こそが法であると主張し、これに反対する身分会議(三部会)の招集を回避して絶対王政を確立していく。その過程で、国王権力は対内的に最高であり、対外的に独立であると主張する「主権」の概念が、ローマ法思想を基礎に形成されたのである。 (3) 絶対主義との闘いと近代立憲主義の成立 主権者(国王)の意思が法だということになると、国王が自由に法を制定しうるということになるから、臣民(*)の権利が危険にさらされる。 ローマ法思想の下では、もはや中世的な慣習法により保障された特権・既得権という論理は通用しなくなるから、絶対君主に対抗して権利保障を主張するための新たな論理が必要であった。 (ア) 統治契約論 初期の段階でこの要請に応えようとしたのは、統治契約(服従契約)の理論であった。国王の側が主権を神から授けられたとする王権神授説を唱えたのに対し、統治契約論は、神から主権を授かったのは国王ではなく人民であり、それを服従契約により国王に委任したのであると主張した。この理論では、国王の権力は人民との契約を根拠にするから、人民の権利(その内容は、身分的・慣習法的な既得権)を侵害すれば契約違反となり、人民は服従の義務から解放され抵抗権に訴えることが可能となるとされたのであり、多分に中世的な性格を残した理論であった。 (イ) 社会契約論 しかし、その後、ジョン・ロック(John Loche, 1632-1704)に代表されるような社会契約論が形成され、これにより権力の制限と自由の保障が理論化されるに至る。それによれば、人は最初、社会の成立以前の「自然状態」において自然権を有していたが、その自然権をよりよく保障するために契約により社会を形成し、政府を設立して権力を信託する。この政府の設立・信託が、憲法の制定行為にあたる。政府の設立と権力の信託は自然権の保障が目的であるから、政府は人々のもつ自然権を侵害することは許されず、侵害した場合には、抵抗権あるいは革命が正当化されるのである。このような論理で絶対王政に替わるべき新しい政治構造が示され、かかる思想によってアメリカの独立やフランス革命が行われ、立憲主義に基づく憲法が制定されたのである。 (ウ) 立憲主義の構成原理 かくして確立した近代立憲主義の内容は、権利(自由)の保障と権力の分立を基本原理とするものであったが、その前提として人民が主権者として憲法を制定するという原理が要求されていた。また、権力分立や人民主権は、「法の支配」を通じての自由という中世法的理念をローマ法的観念の下で再構成するための制度原理という意味ももっていた。以上から、近代立憲主義の基本原理として、①自由の保障、②法の支配、③権力分立、④人民主権、を指摘することができる。 以下に、それぞれについてより詳しく見ていくことにしよう。 2 近代立憲主義の内容 (1) 近代立憲主義の基本原理 (省略) (2) 近代立憲主義の二つのモデル 以上の基本原理の各々は様々な理解を許容し、現実にどのように制度化されるかは各国により異なるが、全体のあり方を大きく分ければ二つの主要なモデルに整理できる。立憲君主政モデルと国民主権モデル(立憲民主政モデル)である。 (ア) 立憲君主政モデル 立憲君主政モデルにおいては、君主政原理(君主主権)が出発点に置かれ、そこから君主が憲法を欽定して自己の権力を制限するという論理をたどる。そこで、まず第一に、議会が設立され、これに立法権が与えられる。ただし、君主も議会の可決した法律の裁可権を留保する。したがって、法律を制定するには、原則として、議会と君主の同意が必要となり、少なくとも議会の同意が必要となった限りで、君主の立法権は制限されることになる。 では、議会の同意が必要とされたのは、いかなる範囲においてか。それは、国民の権利を制限しあるいは義務を課す場合である。 このような法規範を、ドイツでは「法規(Rechtssatz)」と呼んだが、法規の制定は法律をもってしなければならないとされたのである。 これを「法律の留保」という。法規以外の事項については、君主はそれを議会の同意を必要としない「命令」の形式で定めることができた。もちろん、それを法律で定めることもできたが、その場合には君主の裁可が必要であり、したがって「法規」が法律事項と命令事項の分配のキー概念だったのである。第二に、独立の裁判所が設置され、それに法律の解釈・適用の争いを裁定させた。そして、立法権と裁判権以外の残りの全権力が行政権として君主の手に残されたのである。 (イ) 国民主権モデル これに対し、国民主権モデルでは、国民主権を出発点にして、主権者たる国民が憲法を制定し立法権・執行権・裁判権を創設する。立法権を授権された議会は、国民の直接的な代表者であることから、優越的地位を与えられる。あらゆる法定立は、まず法律によってなされなければならない。 いわば憲法の下におけるあらゆる始源的(イニシャル)決定が法律に留保されるのであり、「法規」に限らず、行政組織の基本もまず法律により規定されなければならない。執行権は法律の執行を本来の職務とするのであり、ゆえに、そのあらゆる活動につき法律の存在が常に前提となる。法制定の権限が否定されるわけではないが、法律の存在しないところで命令を制定するということは許されない。命令は法律の執行に必要な細目的な定めか、あるいは、法律により委任を受けたことについてのみ規定しうるにすぎない。他方、裁判権は、法律の執行についての争いが生じた場合に、訴えを待ってそれを最終的に裁定する権力であるとされる。 ◆2.リベラル左派の見解(長谷部恭男) 長谷部恭男『憲法 第5版』(2011年刊) 1. 憲法とは何か p.xxx 1.2 立憲的意味の憲法 1.2.1 近代立憲主義 市民革命と近代立憲主義実質的意味の憲法の内容は、国家によってさまざまである。一人の独裁者の命令がそのまま国家の意思と見なされ、それによって強制的に国民の自由や財産が奪われるような内容であることもあろう。これに対して、17世紀から18世紀にかけて、欧米諸国で起こった市民革命をきっかけとして、憲法は、権力者の恣意を許すものであってはならず、個人の権利と自由を保障するために、そしてその限りにおいて国家の行為を認めるものであるべきだとの考え方が確立した。この近代立憲主義と呼ばれる思想は、国家の任務を個人の権利・自由の保障にあると考えるが、その任務を果たすために強大な権力を保持する国家自体からも権利と自由を守らねばならないとの立場をとり、このような目的に即して、国家機関の行動を厳格に制約しようとする。そして、このような考え方に立脚した憲法を、立憲的意味の憲法、あるいは近代的意味の憲法と呼ぶ。「すべての権利の保障が確保されず、権力分立が定められていない国家は憲法を有しない」(フランス人権宣言16条)といわれるときは、このような意味で憲法という言葉が使われている。近代的意味の憲法においては、多くの場合、国家の任務と限界を示す権利が権利宣言という形で成文化され、他方、権力の乱用を防ぐために、統治機構についても権力分立や法による支配など、さまざまな組織上の工夫が施されている。 【価値の多元性と近代立憲主義】近代立憲主義およびそれを支える個人の自然権という思想は、宗教上の対立を典型とする根底的な価値観・世界観の対立が深刻な紛争を引き起こした16~17世紀のヨーロッパにおいて形成された。人々の抱く根本的な価値観の相違にもかかわらず、すべての人が社会生活の便宜とコストを公平に享受し、負担する枠組みを作り出すことが、こうした思想の狙いである(長谷部 [1999] 第1章 [2000] 第4章)。1.1.4 で述べた調整問題や公共財の提供について、何が適切な解決かを社会全体で理性的に審議・決定するためにも、各人の根底的価値観・世界観に関わる問題について国家は干渉しない(つまり「正しい」価値観を提供することは国家の任務ではない)という保障をあらかじめ与えておくことが前提となる。中世の自然法思想に比べて、そこでいわれている自然権の内容がきわめて縮減されたものであることも、根本的に立場の異なる人々すべてに受容可能な社会生活の枠組みが何かを探ろうとした、その結果として説明できる。当時の自然権思想を、各人に天賦の自然権があることをアプリオリに前提とし、そこから国家のあり方を演繹したものだとする理解は一面的であること(そして自然主義的虚偽論 naturalistic fallacy(※注釈:pleasure(快)などの非倫理的な=事実的前提から、the good(善)などの倫理的結論を導くことは誤謬である、とする分析哲学者G.E.ムーアが1903年に指摘した仮説) に陥りかねないこと)に留意する必要がある。 なお、以下で説明するように、国家が保護すべきものとされる「自然権」と実定憲法において保障されるべき「憲法上の権利」ないし「基本権」とは、必ずしも一致しない。 長谷部恭男『憲法とは何か』(2006年刊) p.67~ 第3章 立憲主義と民主主義 本書では、リベラル・デモクラシーを、立憲主義を基底とする民主主義体制という意味に用いている。立憲主義がいかにして生まれたか、そして、民主主義がいかにして冷戦後の世界の共通の政治体制となったかについては、前章までで説明した。ここでは、立憲主義および民主主義ということばの使い方について、あらためて整理しておきたい。 1 立憲主義とは何か △ 二つの立憲主義立憲主義ということばには、広狭二通りの意味がある。本書で「立憲主義」ということばが使われるときに言及されているのは、このうち狭い意味の立憲主義である。広義の立憲主義とは、政治権力あるいは国家権力を制限する思想あるいは仕組みを一般的に指す。「人の支配」ではなく「法の支配」という考え方は広義の立憲主義に含まれる。古代ギリシャや中世ヨーロッパにも立憲主義があったといわれる際に言及されているのも広義の立憲主義である。他方、狭義では、立憲主義は、近代国家の権力を制約する思想あるいは仕組みを指す。この意味の立憲主義は近代立憲主義ともいわれ、私的・社会的領域と公的・政治的領域との区分を前提として、個人の自由と公共的な政治の審議と決定とを両立させようとする考え方と密接に結びつく。二つの領域の区分は、古代や中世のヨーロッパでは知られていなかったものである。 △ 近代以前と近代以降近代以降の立憲主義とそれ以前の立憲主義との間には大きな断絶がある。近代立憲主義は、価値観・世界観の多元性を前提とし、さまざまな価値観・世界観を抱く人々の公平な共存をはかることを目的とする。それ以前の立憲主義は、価値観・世界観の多元性を前提としていない。むしろ、人としての正しい生き方はただ一つ、教会の教えるそれに決まっているという前提をとっていた。正しい価値観・世界観が決まっている以上、公と私を区別する必要もなければ、信仰の自由や思想の自由を認める必要もない。さらに、近代国家は、各人にその属する身分や団体ごとに異なった特権と義務を割り当てていた封建的な身分制秩序を破壊し、政治権力を主権者に集中するとともに、その対極に平等な個人を析出することで誕生した。人々の社会生活を規律する法を定立し、変更する排他的な権限が主権者の手に握られた以上、社会内部の伝統的な慣習法に依存する中世立憲主義はもはや国家権力を制約する役割を果たしえない。近代国家成立後になお意味を持つ立憲主義は、その意味でも、国家権力を外側から制約する狭義の立憲主義、つまり近代立憲主義に限られる。 △ 立憲的意味の憲法近代立憲主義に基づく憲法を立憲的意味の憲法ということがある。こうした憲法は、政府を組織し、その権限を定めると同時に、個人の権利を政府の権限濫用から守るため、個人の権利を宣言するとともに、国家権力をその機能と組織に応じて分割し、配分する(権力分立)。フランス人権宣言16条が「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていない社会は、憲法を持つものとはいえない」とするとき、そこで意味されているのは、立憲的意味の憲法である。立憲的意味の憲法は、必ずしも成文化されないが(イギリスが典型例)、近代立憲主義に基づく国家の多くでは、憲法は成文化され、しかも通常の立法過程による変更を許さない憲法として、硬性化されている。さらに、硬性憲法を持つ国の多くでは、憲法典の最高法規性を確保し、国家権力の制約を確実なものとするための違憲審査制が採用されている。日本国憲法も、近代立憲主義に基づく硬性の憲法典であり、その81条は最高裁判所を頂点とする違憲審査制の採用を定めている。第1章で描いたように、近代ヨーロッパで立憲主義が成立する経緯においては、宗教戦争や大航海を通じて、この世には比較不能な多様な価値観が存在すること、そして、そうした多様な価値観を抱く人々が、それにもかかわらず公平に社会生活の便宜とコストを分かち合う社会の枠組みを構築しなければならないこと、これらが人々の共通の認識となっていったことが決定的な意味を持っている。立憲主義を理解する際には、硬性の憲法典や違憲審査制度の存在といった制度的な徴表のみにとらわれず、多様な価値観の公平な共存という、その背後にある目的に着目する必要がある。立憲主義と敵対した思想家 - たとえばカール・シュミットやカール・マルクス - と立憲主義との対立点は、制度的な表層の背後にこそあるからである。 △ 九条解釈と立憲主義たとえば、憲法9条の文言にもかかわらず自衛のための実力の保持を認めることは、立憲主義を揺るがす危険があるという議論があるが、これは手段にすぎない憲法典の文言を自己目的化する議論である。立憲主義の背後にある考え方からすれば、特定の生き方を「善き生き方」として人びとに強制することは、許されない。公と私の区分を無視し、特定の生き方を他の生き方に優越するものとして押しつけることになるからである。しかし、自衛のための実力を保持することなく国民の生命や財産を実効的に守ることができるかといえば、それは非現実的といわざるをえない。となると、それを憲法が命じているという解釈は、それでもそれが唯一の「善き生き方」であるからという理由で、国民の生命・財産の保護という社会全体の利益の実現の如何とはかかわりなく、特定の価値観を全国民に押しつけるものと考えざるをえない。9条の文言は、たしかに自衛のための実力の保持を認めていないかに見えるが、同様に、「一切の表現の自由」を保障する21条も表現活動に対する制約は全く認めていないかに見える。それでも、わいせつ表現や名誉毀損を禁止することが許されないとする非常識な議論は存在しない。21条は特定の問題に対する答えを一義的に決める「準則(rule)」ではなく、答えを一定の方向に導こうとする「原理(principe)」にすぎないからである。9条が「原理」ではなく、「準則」であるとする解釈は、立憲主義とは相容れない解釈である。 長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』(2004年刊) p.178~ 終章 憲法は何を教えてくれないか △ ヨーロッパでの成立の経緯に照らしてみればわかるように、立憲主義は、多様な価値観を抱く人々が、それでも協働して、社会生活の便益とコストを公正に分かち合って生きるために必要な、基本的枠組みを定める理念である。そのためには、生活領域を公と私とに人為的に区別すること、社会全体の利益を考える公の領域には、自分が一番大切だと考える価値観は持ち込まないよう、自制することが求められる。 △ 立憲主義は、ありのままの人間が、自然に受け入れられる考え方ではない。少々無理をしなければ理解できないし、身につくはずのない考え方である。自分が一番大切だと思う価値観、自分の人生に意味を与えてくれる価値観を、みんなのためになることを議論し、決定する場には持ち込むなというわけであるから。 △ しかし、そうした自制がないかぎり、比較不能な価値観の対立は、「万人の万人に対する闘争」を引き起こす。それは、遠い昔の話でもなければ、ただのおとぎ話でもない。いまも世界のいたるところで、そうした闘争はつづいている。立憲主義はたしかに西欧起源の思想である。しかし、それは、多様な価値観の公正な共存を目指そうとするかぎり、地域や民族にかかわりなく、頼らざるをえない考え方である。 △ 立憲主義にもとづく憲法 - 日本国憲法はその典型だが - は、人の生きるべき道や、善い生き方について教えてくれるわけではない。それは、個々人が自ら考え、選びとるべきものである。憲法が教えるのは、多様な生き方が世の中にあるとき、どうすれば、それらの間の平和な共存関係を保つことができるかである。憲法は宗教の代わりにはならない。「人権」や「個人の尊重」もそうである。さまざまな信仰を持つ人々、無信仰を奉ずる人々が共存する術を教えるだけである。 △ 立憲主義は現実を見るように要求する。世の中には、あなたとは違う価値観を持ち、それをとても大切にして生きている人がたくさんいるのだという現実を見るように要求する。このため、立憲主義と両立しうる平和主義にも、おのずと限度がある。現実の世界でどれほど平和の実現に貢献することになるかにかかわりなく、ともかく軍備を放棄せよという考え方は、「善き生き方」を教える信仰ではありえても、立憲主義と両立しうる平和主義ではない。 △ 別の側面から見ると、立憲主義的憲法は、民主政治のプロセスが、自分では処理しきれないような問題を抱え込まないように、民主政治で決められることをあらかじめ限定する枠組みでもある。根底的な価値観の対立を公の領域に引きずりこもうとしたり、大きなリスクをともなう防衛の問題について、目先の短期的考慮で勇み足をしないように、憲法は人為的な仕切りを設けようとしている。引かれた線が「自然」な線に見えないという指摘は、反論にはならない。憲法が扱うさまざまな線のなかに「自然」な線などどこにもないからである。「自然」な線でないからこそ、いったん後退を始めると、踏みとどまるべきところはどこにもない。 △ 立憲主義は自然な考え方ではない。それは人間の本性にもとづいていない。いつも、それを維持する不自然で人為的な努力をつづけなければ、もろくも崩れる。世界の国々のなかで、立憲主義を実践する政治体制は、いまも少数派である。立憲主義の社会に生きる経験は僥倖である。 △ 本書をここまで読み進めた方は、国家の主権や国境だけではなく、人権や個人の尊重という観念まで相対化されてしまったことに戸惑いを覚えておられるかもしれない。こうした観念は、いろいろな問題を解決するに際して、自分で考えないですませるための「切り札」として使うには便利な道具である。自分で考えるということは、「・・・・・・である以上、当然・・・・・・だ」という論法で使われる、そうした「切り札」など実はないとあきらめをつけることである。 △ そして、自分で考えはじめた以上は、本書ももはや用はないはずである。願わくば、本書を踏み台としてさらに進まれんことを。 ◆3.中間派の見解(佐藤幸治) 佐藤幸治『憲法 第三版』(1995年刊) 第一編 憲法の基本観念と日本国憲法の展開 第一章 憲法の基本観念 p.xx以下 1.第一節 憲法の生成と展開 Ⅱ 立憲主義の成立と展開 (1) 近代以前と立憲主義 憲法は、最広義においては、およそ国家の組織・構造の基本に関する法を意味する。かかる意味での憲法なき国家はあり得ず、それはあらゆる時代のあらゆる国家について妥当する。ところで、およそ国家統治の本質は権力であり、その権力の背後には顕在的もしくは潜在的に強制力が控えている(レーヴェンシュタイン)。 原初的段階にある国家にあっては、この権力を扱う権力保持者による権力服従者に対する権力行使のあり方に関し、何らかの拘束力ある明確な規則というようなものはなく、宗教的信条とか伝統的な慣習あるいはときには単なる便宜ないし恣意に委ねられていた。しかし、人間の本性の省察に基づき、権力保持者による権力の濫用を抑制するための装置を積極的に創出し、それを政治過程に嵌め込むことによって、あるべき国家体制の保全を図り、権力名宛人の利益を守ろうとする努力がみられるようになってくる。我々は、それを既に古典古代ギリシャ、ローマにおいてみることができる(ギリシャ人は、自由社会を自分たちの言葉として語り、意識し、それを築こうとした最初の人間であるということは広く承認されている)。そこでは、政治権力を幾つかに分割し、それらの相互的な牽制によって権力の濫用を防止しようとする様々な試みがなされている。このように権力保持者による権力濫用を意識的に阻止し、権力名宛人の利益保護を憲法の終局の目的と捉えた場合、この段階に至ってはじめて人類は憲法をもったと称することができる。ここにおいてはじめて憲法に基づいて政治を行なうということの意義が認められるもので、これを立憲主義と呼ぶならば、立憲主義は近代固有のものではなく、既に古典古代において成立していたということができる。 これを立憲主義の第一段階ないし古典的立憲主義と呼ぶことにする。この立憲主義は中世およびルネサンス期のイタリアの都市国家などでもみられるもので、とりわけヴェネツィア共和国は、権力濫用を抑制し独裁的な絶対主義を阻止するための極めて複雑かつ多元的な抑制・均衡のシステムを案出し保持したことで知られている。 (2) 近代立憲主義の登場 古典的立憲主義は、中世の封建体制下において、また近代絶対主義国家における君主の圧倒的な支配の前に、背後に退くことを余儀なくされたが、近代市民革命を契機に、新たな理念と構想の下に再生した。 近代市民革命は、市民階級の経済活動面における絶対君主制に対する不満を梃子に、かつ、ルネッサンス運動期に醸成された個としての自覚を媒介とする個人の自由という基本観念の下に、生起したといわれる。つまり、近代市民革命は、国家(公)に対して個人の自由の領域(私的領域)の存在を設定し、かつそれを積極的に評価し、国家(公)はかかる私的領域の確保のためにこそ存在理由があり、従って国家の活動もそのような目的のためのものに限定されると捉えるところに本質をもち、そのための具体的方策として憲法の意義が明確に自覚され、そのあり方をめぐる認識が深められるところとなったのである。かくして国民の自由・権利と、そのための権力の構成と行使のあり方を、正式な文章において確認するという考え方が生まれた。 議会制が発達し、マグナ・カルタやコモン・ローの発展などによって国王の権力濫用に対する抑制装置が既に十分に確立されたイギリスでは成文憲法の制定をみるところとはならなかったが(もっとも、クロムウェルの統治典範(インストルメント・オブ・ガヴァメント)(1653年)のような例がみられた)、アメリカやフランスにおいて相次いで成文憲法の制定をみるに至った。1776年のヴァージニア権利章典はロック流の天賦人権・国民主権・革命権などを規定し、次いで採択された「政府の組織(Frame of Government)」において権力分立機構を定め、ここに近代的成文憲法の範型が成立した。1789年のフランスの「人および市民の権利宣言」は、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもつものではない」(16条)と宣明しているが、我々はここに近代立憲主義の心髄の簡潔な要約をみることができる。 立憲主義といっても、上述の古典的立憲主義は、国家(公)に対する「私」の積極的評価の観念の下に成立したものではなく、むしろ個人の幸福は国家の幸福(公的幸福)の中にこそ存するとの考え方を基盤とするものであった点が注意されなければならない。 このように近代立憲主義は、成文憲法を制定して個人の人権を保障し、権力分立を定め、その一環として国民の国政参加への途を開いたが(従って、近代立憲主義は同時に立憲民主主義であった)、しかし、近代立憲主義は国民大衆の積極的な政治参加に必ずしも好意的ではなかったという側面をもっていたことに注目する必要がある。元来革命というものは国民に直結する議会に権力を集中しようとする傾向(いわゆる会議制的統治形態)をもつが、アメリカの諸邦でも当初議会全能の傾向を現出せしめた。そのことは革命保守派の警戒心を強めるところとなり、ここに主権者たる国民を憲法制定権力として把握し、国民の直接の関与の下に成立した憲法をもって議会の活動を抑制しようとする構想が登場することになる。1780年のマサチューセッツ憲法がそれで、憲法制定に憲法制定会議と人民投票を採用した最初の憲法であるが、それは国民主権を建前としてたてつつ議会の権力を抑え込もうとする巧妙な考案であった。1788年発効の合衆国憲法は、このマサチューセッツ憲法の延長線上にあるといえる。違憲立法審査制もかかる背景において生まれてくる。 フランスでは、中道左派を多数とする国民議会が、1789年の人権宣言を前文とする憲法を1791年に成立せしめたが、この憲法では、人民大衆に対する警戒から、意識的にルソー流の「人民主権」を避けて「国民主権」とされ、主権者たる国民はただ「委任」によってのみその主権を行使できるものとされた(この点については、第四節Ⅱ(57頁)で論及する)。この「委任」は包括的・集団的な代表委任であって、代表者を拘束するような国民の意思の存在は忌避され、代表者は国民の選挙によって選ばれることを不可欠の要素としなかった(議会とともに国王も代表者とされた)。英米でもフランスでも制限選挙制であった。 (3) 成文憲法の普遍化 18世紀末のアメリカおよびフランスにおける成文憲法の制定は他の諸国にも強い刺激となり、19世紀に入ると国家という国家のほとんどが成文憲法を制定するようになった。君主国とて例外ではなかった。かかる現象を捉えて19世紀は「憲法の世紀」とも呼ばれることがあるが、成文憲法の普遍化時代であり、立憲主義の第三段階と称することもできよう。ただ、それとともに、超越的ないし道徳的な自然権思想が後退して実証主義的な権利観念が強まり、憲法概念も、価値的ないし目的的要素を希薄化ないし消失せしめて、形式化していった。そうした傾向の中で、立憲主義の外見によって旧体制の温存を図ろうとするようなものもみられるようになる。いわゆる外見的立憲主義である。大日本帝国憲法もかかる系譜に連なるものである。このような限界はあったが、成文憲法の普遍化という現象は、後の世代がより徹底した自由・権利の保障と民主主義を要求する基盤を提供するという機能を果たした点は看過してはならないであろう。 ◆4.リベラル右派の見解(阪本昌成) 阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) p.26以下から抜粋⇒全文は 第6章 立憲主義 へ 1. 立憲主義の意義と展開 (1) 立憲主義の意義 先の [1] で私は、《統治とは、国家機関を通して為す、一元的・統一的な権力支配だ》と述べた。統治は、限られたリソースを巡る利害の対立を調整しながら、その配分のあり方を権力的に決定する恒常的かつ永続的な国家作用である。この権力的、永続的な統治活動の牙を抜いて正当な枠に閉じ込めようとするにが、規範的意味での国制の役割である。統治を、流動的で恣意的な政治に委ねることなく、国制のもとに規律し安定化させる思考を「立憲主義 constitutionalism」という。近代国家が規範的意味での国制によって統制されるに至った段階のものは、「近代立憲主義国家」といわれる。これは、国家という強制の機構から各人の「自由」を擁護する、統治上のルールとしての憲法をもっている国家のことである。 (2) 立憲主義の展開 (中略)自然権の保全と権力分立という二つの要素を憲法の必須要素だと明言したのが、フランス人権宣言16条の「権利の保障が確保されておらず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法を持たない」という有名なフレーズである。この二つの要素を満たす憲法を「立憲主義的憲法」と一般にいわれることがある。つまり、《憲法とは、人権宣言と権力分立を含む成文の法文章だ》、 《この法文章は、国家樹立の際の社会契約および憲法協約を成文化したものであるから、主権者をも統制する法力をもっている》という思想である。 今日、立憲主義を想起する場合、人々の脳裏に浮かぶのは、一般にこのタイプである。が、フランス人権宣言とその16条は近代立憲主義のモデルではなく、「このタイプだ」と簡単に片付けることは正確でない。フランス的立憲主義とアメリカ的立憲主義は、憲法に関する見方を大きく異にしているのだ。 〔D〕近代立憲主義の枝分かれフランス型は、憲法をあるべき国家の最適モデルに適合させようとする理論に従って設計しようとした。なかでも、憲法を制定する力を民主的に創造するための人為的理論が最重要視された。これが、後の [39] でふれる憲法制定権力の理論である。人権も、まったく新たに創設され、最適規範に相応しい内容を人為的に持たされた。人権は、人が精神的にも物質的にも、あるべき姿となるための規範だった。こうした憲法のモデルが理論通りには運ばないと判明したときには、また別の理論に従って人為的に憲法が制定された。フランスの憲法は、何度も何度も制定されては軌道修正された。そして、結局のところ、自由の構成(constitution)に失敗したのだった。これに対してアメリカ型は、経験と伝統とを基礎とする憲法制定の道を辿った。理論的な最適規範を設計したところで、上手く定着することはない、と建国の父たちは知り尽くしていた。それと同時に、憲法制定会議を頻繁に開設して討議を繰り返すと、統治力学の振り子が大きく揺れ過ぎることも予知していた。建国の父たちは、モンテスキューが理想としていた「中庸な統治体制=混合政体」から多くを学んだ(合衆国憲法はJ. ロック(1632~1704年)の影響を受けて制定された、といわれることがあるが、これは誤診だと私は考えている)。合衆国憲法が、House of the Senates(通常、「上院」と訳される元老院=貴族政的要素+連邦制)と House of the Representatives(通常、「下院」と訳される庶民院=民主政的要素)という権力分立、さらには、大統領という「民主化された君主」を置いたのは、そのためだった。また、アメリカ建国の父たちは、人間の理性・知性の限界を知っていた。人間は、有徳の存在ではなく、権力欲に満ちており、私利を追求するにあたって公共の利益を口にすること等々を建国の父たちは知っていた。合衆国憲法は、人権保障にあたっても、“自然権を実定化する”とは考えなかった。権利章典(Bill of rights)は、歴史的・経験的に徐々に姿を現してきた人の権利を確認するものだった(*注1)。 (*注1) アメリカ合衆国憲法における権利章典について 合衆国憲法にみられる「個人の自由と権利」は、自然権思想の影響をさほど受けてはいない。そこでのカタログは、歴史的にそれまで存在してきた権益を確認したものである。『憲法2 基本権クラシック』 11頁を参照願う。 (3) 立憲主義のふたつのモデル - 法の支配か民主主義か 以上のように、一言で「近代立憲主義」という場合でも、一方には純粋理論型または超越型があり、他方には経験型・伝統重視型がある。見方を換えていえば、フランス型は 民意を統治過程に統合するなかで同時に自由を作り出すための憲法構造を理論的に追究したのに対して、アメリカ型は 多元的な民意を統治過程に多元的に反映させる憲法構造を伝統のなかから発見しようとしたのだった。アメリカ型立憲主義は、《個人の権利自由を擁護するための制度的装置として権力分立制を用意する》とよくいわれる。他方、憲法の民主化を重視するフランスにあっては、議会に反映される一般意思のもとに行政と司法を置くことが、その眼目であると考えられた。J. ルソー(1712~1778年)の影響だろう。そのために、議会中心の統治が理想とされた。これに対して、合衆国憲法は、モンテスキューの理論モデルを参考としながら、民主主義を万能としない権力分立制を導入した。アメリカ憲法は、「立憲主義=法の支配=権力分立」という等式を基礎として制定されたのである。 立憲主義のモデルをアメリカに求める人物は、《立憲主義とは、法の支配と同義であり、それは民主主義の行き過ぎに歯止めをかける思想でもある》と考える傾向にある。これに対して、立憲主義モデルをフランスに求める人は、「立憲民主主義」という言葉を多用する傾向がある。後者は、「立憲」の中に権力分立と人権尊重の精神を含め、「民主主義」の中に、「国民主権」と議会政を含めているようである(民主主義の中に人権尊重を忍び込ませる論者もいる)。が、それらの一貫した関連性をそこに見て取ることは困難であるように私にはみえる(自由主義と民主主義との異同については、後の [26] でふれる)。 私は、《立憲主義とは、誰が主権者であっても、また、統治権がいかに民主的に発動されている場合であっても、主権者の意思または民主的意思を法のもとに置こうとする思想だ》と考えている。 本書が「立憲民主主義」という言葉を決して用いないのは、そのためである。 阪本昌成『法の支配 - オーストリア学派の自由論と国家論』(2006年刊) 第1章 何が問われるべきか 第2節 現代国家のパラドックス p.13~ 1. 統治の必要性と個人の自由 (1) 現代国家の新任務 極端な無政府主義に与しない限り、国家統治の必要性は肯定されるだろう。その必要性を承認しながらも多数の人は、国家の統治権力のもつ強制の力が個人の自由にとって脅威となると感じ取ってきた。このパラドックスを憲法によって解こうとしてきたのが近代立憲主義または自由主義(リベラリズム)だった。立憲主義またはリベラリズムは、統治の必要性と個人の自由の保障、これを同時に成立させようとする歴史上の思索だったのである。(以下省略) 2. 近代立憲国家の特徴 (1) 立憲自由主義 近代立憲主義とは、一体、どんな主義・主張だったのか?そこでの国家構造(constitution)は、どんなものだったのか?(憲法の基礎にある国家構造を constitution と呼び、「国制」と表現することにしよう。)私は、近代立憲主義を「立憲自由主義」と呼び、その国制を次のように特徴づけている。 (ア) 民主主義を貫徹させない仕掛けを国制上もった国家である。二院制を含めた権力分立構造しかり、違憲審査制、複数政党制またしかりである。なかでも「法の支配」がその要である。 (イ) 立憲主義と民主主義とが、別の系譜に属することを知っている国家である。近代立憲主義は、リベラリズムを国制(constitution)の基本とする思想であり、デモクラシーを貫徹する思想ではない。近代立憲主義は、立憲自由主義と同義であって、民主主義を立憲化すること(国制の基本として組み入れること)ではない。「立憲民主主義」とは、「憲法によって制限される民主主義」を指すということであれば、有意となる。 (ウ) 統治権の担当機関が何であれ、その権力が制限されている国家である(制限政府, Limited Government)。 (エ) 制限政府の具体的装置として、司法権の独立保障のみならず、「法の支配」形式をもっている国家である(なぜ、ここで私が「形式」と表現したのか、それは、本書を読み進むに従って明らかになるだろう。均衡財政も「法の支配」のひとつであるが、本書はこれについて述べる余裕がない)。 (オ) 公共財を提供するほかは、市場には直接に介入しない「公/私」の区別をわきまえた国家である(公共財の意味については、本章第2節での【N.B.3】を参照、「公/私」の区別は、次章で論じられる)。この国家は「自由《放任》」国家ではなく、各人の行為の自由を維持するための手段となるよう「法」を提供する機構である。 (カ) 官僚団の権限と裁量を最小化せんとする国家である。 (2) 立憲主義と「法の支配」 ハイエクは、(近代)立憲主義の特徴を次のように纏めあげている。これには学ぶべき点が多い。 △ 「専制君主の最後から無制限の民主主義の発生に至るニ世紀もの間、立憲政治の主要目的はあらゆる政府権力を制限することであった。あらゆる恣意的な権力行使を阻止するために次第に確立されていった主要な原理は、権力の分立、法の支配あるいは法の主権、法の下の政府、私法と公法の区別、および訴訟手続の規定であった。これらはすべて、個人に対する強制がどのような条件の下に承認できるかを定義し、制限するのに役立った。強制は一般利益になるばあいにのみ正当化されると考えられた。また、統一ルールに従って万人に等しく適用できる強制だけが一般利益になると考えられた」 上のハイエクの指摘のうち、①「法の支配」、②公法と私法(または国家と市民社会)の区別、③強制の許容される条件、について詳細に解析することが本書のねらいである。(以下省略) ◆5.保守主義の見解(中川八洋) 保守主義の憲法学者としては百地章氏などが有名だが残念ながら体系的な著作が存在しない。中川八洋氏は憲法学者ではないが、政治思想の把握が確りしており、歯に衣を着せぬ左翼的「立憲主義」(=立憲主義のフランス的理解)批判を展開しているため参考になる。(⇒なお、中川氏の憲法論全体は、中川八洋『国民の憲法改正』抜粋 を参照) ↓詳しい説明はここをクリックして表示/非表示切り替え +... <目次> 第三部 国家簒奪・大量虐殺の思想を排除する - 根絶すべきフランス革命の教理第四章 「国民主権」は暴政・革命に至る - 「デモクラシーの制限と抑制」こそ憲法原理◇第一節 英米憲法は、なぜ「国民主権」を完全に排撃したか ◇第二節 「フランス革命の教理」を“憲法原理”だと詐言する学者たち 中川八洋『国民の憲法改正』(2004年刊) p.129以下 第三部 国家簒奪・大量虐殺の思想を排除する - 根絶すべきフランス革命の教理 フランス革命とは、・・・人民の政府でもなければ、人民による政府でもなく、・・・国民から絶対的に独立した地位に自らを置いた、国民の代表者を僭称する革命家たちの、「主権の簒奪」であった。(アーレント) 第四章 「国民主権」は暴政・革命に至る - 「デモクラシーの制限と抑制」こそ憲法原理 ◇第一節 英米憲法は、なぜ「国民主権」を完全に排撃したか 日本の憲法学では、授業でも教科書でも、米国憲法を事実上、全く触れない。避ける。 東京大学法学部ですら然りである。 この理由は明確で、米国憲法に言及した瞬間、日本の憲法学者の九割が虚偽とプロパガンダの常習者、つまり詐欺師と分かってしまうからである。 日本における憲法学者のほとんどは、人格的にも病いに冒されている。 例えば、米国憲法には「国民主権」などというものは匂いほども存在しない。 そんなものは積極的に排斥され否定されている。 とくに、米国は、その憲法制定によって「立憲主義(constitutionalism)」を憲法原理としたから、いかなる権力も制限される。 このため、「制限されない権力」の意である「主権」は、当然に憲法違反であり、完全に排撃される。 「立憲主義」と「国民主権」は水と油で両立しないから、米国は前者を採用して後者を追放した。 日本の憲法学者が「立憲主義」を是とし、「国民主権」を称賛しているのは分裂症的思考である。 バジョットは、米国憲法の起草者たちは「何処にも主権を置かないようにしたのである。それは、主権によって暴政が生じることを恐れたからである」と、米国憲法を正しく観察している(※注1:ウォルター・バジョット『英国憲政論』、中央公論社「世界の名著」第72巻、246頁)。 ハンナ・アーレントも次のように述べている。「政治それ自体における偉大な、そして長期的に見ればおそらく最大のアメリカ的革新は、共和国の政治体内部において主権を徹底的に廃止したということ、そして、人間事象の領域においては主権と暴政とは同一のものであると洞察したこと」(※注2:ハンナ・アーレント『革命について』、ちくま学芸文庫、239頁)統治に関する「主権」の廃止は、英国本国のコーク以来の伝統であって、「アメリカ的革新」ではない。また「主権」と“暴政”の同一視も、英国の常識であって、「米国の発明」とはいえない。このような小さなミスをしているけれど、アーレントは米国憲法の核心を正確に把握している。 ノーベル経済学賞受賞の政治哲学者ハイエクは、次のように「国民主権」のことを「迷信」という。その通りであって、政府の統治を受けている被治者を「主権者」などとは、酔っ払いの寝言か戯言かであろう。あるいは、迷信とか妄念上の幻覚としか言いようがない。「主権が何処にあるかと問われるなら、何処にもない・・・・・・というのがその答えである。立憲政治は(権力が)制限された政治であるので、もし主権が無制限の権力と定義されるなら、そこに主権の入り込む余地はあり得ない。・・・・・・無制限の究極的な権力が常に存在するに違いないという信念は、・・・・・・・迷信である(※注3:F. A. ハイエク『法と立法と自由』、『ハイエク全集』第10巻、春秋社、171頁)」 統治において「主権」を排除するのは、自由にとって最高の憲法原理である。 「法の支配」の下で憲法を成長させてきた英国においても同様である。 英国の「法の支配」の原理にあっては、ブラクトンの法諺のとおり、“法”は神よりも国王よりも上位にあって神や国王を支配するから、神や国王ですら主権者になり得ない。 かくして、「何にも支配されない権力」という意味である「主権」は、英国では“法”に支配される国王にすら適用されなかった。 むろん、英国にも、ボーダンの『国家論六書』(1576年)などによって、「主権」というフランス生まれの思想が上陸していたから、16世紀末からのイギリス国王も「主権」に並々ならぬ関心を寄せるし、その周辺の臣下のなかには国王に阿諛すべく「国王主権」を言い出すものは少なくなかった。 だが、ちょうどこの17世紀の初頭、英国は幸運なことに「法の支配」を死守せんとするエドワード・コーク卿というコモン・ローの大法曹家が存在していた。そして、不敬罪で牢に繋がれることを恐れず、「国王主権」論を断固排撃した。例えば、1608年10月、国王ジェームスⅠ世に向って、コークは直接ブラクトンの法諺「国王は、すべての臣民の上にあるが、“法”の下にある」を持ち出し諌言している(※注4:『コーク判例集12』、原著、63~5頁)。また、チャールスⅠ世時代の1628年の「権利請願」(Petition of Right)の草案に貴族院が「国王主権」の文字を挿入したとき、当時たまたま下院議員になっていたコーク卿は「主権は国会の用語ではない」と、ばっさりと削ってしまった(※注5:W. Holdworth, A History of English Law, Vol. 5, p.451)。現代風の表現では、「主権は憲法に背反する」である。 今日に至るも、英国に、憲法を含め国家の統治関係に「国民主権」という概念が全く存在しないのは、コークに代表される「法の支配」を守らんとした多くの英国の法曹家と政治家の汗の結晶による。 かくして、英国には、ブラックストーンの「“法”主権」や、ダイシーの『憲法序説』で日本でも有名になった「国会主権(※注6:中川八洋『保守主義の哲学』、PHP研究所、116~8頁)」の概念はあっても、「国民主権」も「人民主権」も存在しないのである。 英米の憲法が“正統な憲法”として世界的にもそのモデルになっている事実については、日本でも広く知られている。 この点からでも「国民主権」が存在しないか、否定されているのが“正しい憲法”であるのは自明であろう。 つまり、「国民主権」を美化し神格化している日本の憲法学の教科書はすべて、“狂った憲法学”である。 しかも、この狂気は度が過ぎ、オウム真理教よりも遥かに酷い。 米国社会から排除された“アメリカのはぐれ者”たちの巣窟であったGHQ民政局では、日本国憲法を書くに当たってスターリン憲法やワイマール憲法を参考にしたように、彼らは通常の“米国人”ではなかった。 そのことは、非英米的な「国民主権」が前文や第一条にあることですぐ分かる。 彼らは「英米の憲法が正統」であることに耐えられない、“アメリカの異分子”たちであった。 話を戻して、米国憲法が「国民主権」を排しているのは、米国がイギリス17世紀の法思想で建国されたからである。 独立戦争(1775~83年)とは、この17世紀という百年ほど昔の英国の法思想で武装したアメリカ植民地に住む“古い英国人”と、議会が強くなりすぎた18世紀後半の英本国に住む“新しい英国人”との闘いであった。 また、建国当時のアメリカのエリートたちとは主として大農園主であるが、コークの『英国法提要』とこのコークを継ぐブラックストーンの『イギリス法釈義』を座右の書とする、高い教養人であった。 コークとブラックストーンこそは「法の支配」の法曹家であるが、それらを血肉としたアメリカ「建国の父たち」は、主としてこの両名の法思想を学び、そこから「立憲主義」とか、「(立法に対する)司法審査」とかを「発明」した。 19世紀において、英本国では、「ベンサム→オースティン」らの命令法学に汚染され、「法の支配」が衰退していった。 しかし、米国は17世紀初頭のコークの思想を頑固に19世紀末までは継承し続けた。 20世紀に入って米国でも「法の支配」は衰退したが、しかし「国民主権」などという、暴力とテロルを生んだ革命フランスの、国民を暴君に仕立てあげてこの凶暴な暴君に自分たちの自由を侵害させる狂気のドグマは、全く芽すら出ることなく今日に至っている。 「国民主権」という言葉は、米国では今でも火星語のようなもので誰も理解できない。 一方、英国とは、マグナ・カルタに代表される中世封建時代からのコモン・ローと、それと不可分の関係にある自由擁護の憲法原理「“法”の支配」とを死守すべく、フランスから流入する「主権」思想を撃退するために血を流した歴史を持つ国家である。 革命フランスに宣戦し、22年戦争(1793~1815年)を戦ったのである。 英国にとって「国民主権」は、英国に上陸してはならない、根を張ってはならない、有害な教理として合意され現在に至っている。 「国民主権」が米国に存在もせず米国人の関心の対象にもならなかったことは、米国にルソーやその他のフランス啓蒙哲学(モンテスキュー1名のみ例外)がさっぱり流入しなかったことに通じている。 あるいは、米国の建国から数ヶ月後に発生した革命フランスの革命思想も簡単に排除され流入しなかったこととも関係していよう。 英国ではエドマンド・バークを先頭にして国を挙げて革命フランスの革命思想の流入の阻止に血眼にならざるを得なかったが、米国にはそんな苦労は全くなかった。 英米憲法の思想は、革命フランスの思想とは水と油のごとく対立的である。 共通する所がどこにもない。 フランスが、フランス革命の思想こそが“本当の憲法”を蹂躙すると悟って、英国系の憲法思想の正しさにやっと気づいたのは、1875年の第三共和国憲法からであった。 つまり、1789年から1875年までの86年間とは、フランスにとって無意味で有害な反憲法のドグマに熱狂した「狂愚の86年間」であった。 そして、このフランス第三共和国憲法が米国憲法(1788年)に似たものであることは、米国に遅れること87年もかかってフランスがようやく米国の足下に及んだということである。 話を米国憲法に戻せば、そこに「国民主権」がはっきりと不在になっているのは、憲法起草者が一致して民衆(demos)というものに「潜在的専制者(potential tyrant)」を透視し警戒したからである。 育ちも教養も高い君主ですら「専制君主」になると恐れるならば、その逆の、育ちも悪く教養もない民衆は主権を与えられれば直ちに“暴君”になるだろうことは、「米国の建国の父たち」にとって自明であった。 民衆が多数を恃(たの)んでその意志を強制力に転換したならば、それは必ず国民の自由を侵害するものになるのは、自明であった。 「建国の父」の一人で、米国憲法の起草者の一人でもあったマディソンは、この「多数者の専制」を次のように恐れている。 「民主政治(popular government、民選政府)の下で多数者が一つの党派を構成するときは、党派が、公共の善と他の市民の権利のいずれをも、その圧倒的な感情や利益の犠牲とすることが可能になる(※注7:A. ハミルトンほか『ザ・フェデラリスト』、福村出版、46頁)」 このようにデモクラシーへの警戒感は、“人間というものへの不信”という、正しい人間観を、アメリカの「建国の父」たちが持っていたからであった。 フランスの啓蒙哲学者や革命屋たちは、あろうことか、政治過程での人間が善性であり得ると逆さに妄想した。 マディソンの、次のような主張こそが不変の真理であろう。 「そもそも政府とはいったい何なのであろうか。それこそ、人間性に対する最大の不信の現れでなくして何であろう。万が一、人間が天使ででもあるというならば、政府などもとより必要としない(※注7:前掲『ザ・フェデラリスト』、254頁)」 「建国の父たち」の筆頭アレグザンダ・ハミルトンも、デイビット・ヒュームの影響もあるが、「全ての人間はごろつき(a knave)と見なすべきである」と、政治家が持つべき正しき人間観を持っていた。 ニューヨーク邦での米国憲法批准会議で、ハミルトンは次のように演説した。 「純粋デモクラシーは、歴史を紐解けば、これほどの政治における偽りは他に類をみない。古代デモクラシーでは市民(国民)自身が議会に参加するが決して良き政府をもったことがない。その性格は専制的であり、その姿は奇形である(※注8:Selected Writings and Speeches of Alexander Hamilton, AEI, p.207)」(1788年6月21日) 国民の自由の擁護は、民衆の政治参加を警戒し、その代表者の議会に対してすらさらに警戒し、デモクラシーを制限する「制度」をつくることであるが、これが「建国の父たち」の一致した意見であった。 マディソンは、民衆が選出した代議士たちの議会(立法府)に対して、この議会が国家権力を簒奪しないかとも恐れた。 「・・・・・・この立法部(国会)に対してこそ、冒険的な野心をもつことがないように、人民はその一切の猜疑心を注ぎ、警戒をおさおさ怠りないようにしなければならない(※注9:前掲『ザ・フェデラリスト』、242頁)」 実際に革命フランスでは、「議会」が権力を簒奪して、国民を好き放題にギロチンその他で殺害するに至った。 ジャコバン党独裁下の「国民公会」は、単なる“殺人許可書を発行する村役場”であった。 フランス革命は、米国憲法のあとに発生したが、またラファイエット侯爵のようなワシントン・マニアックもいたのに、米国憲法の思想から何かを学ぼうとした形跡が全くない。 日本の憲法学者のほぼ全ては、米国憲法の解説書『ザ・フェデラリスト』をその教科書でまともに取り上げていないが、それはフランス革命の凶暴なジャコバン・テロリストと日本の憲法学者とが「兄弟」だからである。 ◇第二節 「フランス革命の教理」を“憲法原理”だと詐言する学者たち 日本の憲法学者の多くは、一種の詐話師である。 いかに言論の自由があるとはいえ、何らかの刑法上の犯罪になるのではないかと思うほど、彼らが書き散らした教科書は嘘とトリックだらけである。 「国民主権」一つを例としよう。 英米憲法はそれを拒絶している。 現代フランスの第五共和国憲法(1958年)は“蝉の抜け殻”のようにその形骸を残してはいるが、憲法として何かの意味を持たせているわけではない。 つまり、フランスは、「国民主権」を実態上は死刑に処しているが、その屍を埋めたあとに立派な墓をたててあげた。 それが第五共和国憲法の第三条に当たる。 ところが、日本の憲法学は、プリンセス天功のマジック・ショーも顔負けに、まず現実の自由社会の世界地図から英国も米国も現代フランスも、主要三ヶ国を消してしまう。 次に、歴史の彼方にとっくの昔に葬られたほずの、1789年から1794年にかけての血塗られた革命フランスを「現在」に存在する、「世界に存在する唯一の憲法先進国である」という“大幻想”のスクリーンを映し出す。 杉原泰雄の『国民主権の研究』や辻村みよ子の『フランス革命の憲法原理』などは、彼らが1789年から1794年のジャコバン・テロリストになりきっており、彼らの思考も時間もこの18世紀末のフランスに止まっている、そして、この18世紀が、「20世紀後半である」「21世紀である」とのマジックに専念している。 彼らの本は、読むたびにゴースト・タウンの光景か、お化け屋敷が浮かんでくる。 異様な本である。 なお、フランス革命のフランスに憲法原理など全く存在しないから、『フランス革命の憲法原理』との、辻村の著作タイトルは、悪徳不動産屋の誇大広告と同じ虚偽広告に当たる。 なぜ日本の憲法学者の九割がこれほどまでに虚偽と欺瞞に狂奔するのであろうか。 理由の第一は、彼らはマルクス・レーニン主義者であり、日本を何としても社会主義化したい、共産主義国にしたいという執念にのみ生きている宗教信者であるからだろう。 そして、革命を排除する智恵が憲法の魂に沿っていなくてはならないのに、革命に誘導する革命の教理を、あろうことか憲法学だと詐言的に転倒する。 宮沢俊義、長谷川正安、杉原泰雄、小林直樹、横田耕一、渡辺浩、樋口陽一、辻村みよ子ら、名をあげると数十名にも及ぶ。 英米憲法を全面的に消してこの地球上には存在しないことにした「情報操作(トリック)の達人」辻村みよ子とは、フランス人権宣言(1789年)や1793年ジャコバン憲法に関して荒唐無稽かつ出鱈目なプロパガンダ(嘘宣伝)を平然となす人物でもある。 前述したその作品『フランス革命の憲法原理』で、辻村の嘘は「はしがき」の冒頭一行目から始まる。 そこでは「(フランス革命200年目にあたる今年)フランスをはじめ世界の国々で、大革命の偉業を讃え、その意義を考える記念行事・・・・・・(※注1:辻村みよ子『フランス革命の憲法原理』、日本評論社、i頁、ii頁)」、としているからだ。 だが実際には、フランスにおいてすらフランス革命離れは決定的である。 フランス政府は、革命記念日行事その他を今では可能な限りロー・キー化している。 フランスは、東欧の解放(1989年11月)とソ連邦の崩壊(1991年12月)をもって、フランス革命記念日の安楽死を模索している。 世界のどこにもフランス革命の「偉業を讃え」る、そんな国は実態としては一ヶ国もない。 辻村の虚偽記述は病気である。 さらに、人権宣言やジャコバン憲法についての、細々とした“屍体解剖”的な研究は散見されるが、「フランス憲法学界の最近の傾向、すなわち1789年宣言の憲法規範性を認め、・・・・・・(※注1:前掲『フランス革命の憲法原理』、i頁、ii頁)」などという研究動向は、ゴミほどのもので無視すべきレベルである。 人権宣言はフランス国家全体を宗教団体に改造する宣言で、“モーゼの十戎”などをモデルとしたカルト宗教の戒律もしくは呪文の性格をもつことは、今では定説であろう。 かくも憲法から程遠いものが、どうして「憲法規範性」を持ち得るというのだろうか。 辻村の言説が麻原彰晃のそれに重なるのは、辻村が殺人鬼ロベスピエールの崇拝者であることだけではない、 「近代市民憲法原理ないし近代立憲主義の基本原理を確立したのは、人権宣言かジャコバン憲法か、あるいは1791年憲法かジャコバン憲法か」などと言ったり、それが「<新しい問題>である」など、と述べているからである(※注1:前掲『フランス革命の憲法原理』、i頁、ii頁)。 「立憲主義」とは、「立憲君主」という概念でも簡単に分かるように、憲法に従っって如何なる権力も制限されることを指すから、「国民主権」という「主権」が高らかに謳いあげられた革命フランスに全く存在しなかったのは明々白々ではないか。 例えば、ジャコバン憲法は制定されたが施行されなかった。 そればかりか、この憲法に定められていない、“無法組織”たる公安委員会と革命裁判所をもって独裁とフランス国民の大量虐殺が実行された。 「立憲主義」とは対極的な“憲法破壊主義”がジャコバンの本性であった。 だから、自由、生命、財産への大々的な侵害という蛮行が実行されたのである。 フランスが米国生まれの「立憲主義」を初めて理解したのは、約百年後の1875年であった。 しかも、「フランス人権宣言」こそが、“憲法破壊主義”を牽引し正当化した。 その第三条が「国民主権」を定めたからである。 この「国民主権」によって、人間を無制限に殺戮したいという、国民の一部の“意志”が絶対化され神化されたからである。 これが大規模テロルに至った主要な理由の一つである。 このように、「国民主権」が反・憲法原理であることは、このフランス革命史が百パーセント以上に証明している。 「立憲主義」を史上初めて創造したアメリカの「建国の父たち」が、「国民主権」とそれに類する思想すべてを排撃したが、彼らが如何に優れた賢者であったかはこれだけでも充分に判明する。 樋口陽一は、東京大学教授として最も強い悪影響と深い傷跡とを日本に遺した憲法学者である。 この樋口もまた、時間がフランス革命でとまり、事実上、それから現在に至る二百年間の歴史が抹殺されている。 また、場所もパリに限って、英米を含めて世界各国の憲法を決して鳥瞰しようとしない。 ときたまタイム・マシーンに乗って、ホッブズとルソーを狂信する「ヒットラーの芸者学者」のカール・シュミット(ナチ党員)の所にお伺いに出かけるぐらいである。 これが樋口陽一の憲法学の全てである。 “知の貧困”もここまでくると絶句するほかない。 具体例を挙げる。 樋口陽一の主著『憲法Ⅰ』(※注2:樋口陽一『憲法Ⅰ』、青林書院)は、英国憲法は全面無視し歪曲する。 米国憲法は完全拒絶する、オランダ、ベルギー、北欧の立憲君主国憲法はないことに処理し、現代フランスの憲法は隠す、……。 マジック・ショーのトリック以外の記述が全くないという奇本、それが樋口著『憲法Ⅰ』である。 別の表現をすれば、憲法としてはとっくの昔に死んで白骨と化している革命フランスのそれと、カルト宗教の経典であったフランス人権宣言だけでもって、腐った枯れ枝を集めたような樋口流「憲法理論」を創る。 まずその第Ⅰ部では、主に「立憲主義」を取り上げる(第一章第三節、第四章その他)。 ところがそこでは、米国の「立憲主義」には全く言及しない。 「立憲主義」を全面破壊したい“反・立憲主義者”である樋口にとって、その内容について実質的に一行も言及しないことによって自分の狙う目的を果している。 しかし「立憲主義に言及しないとは何だ!」の批判を回避すべく「立憲主義」という四文字のみは選挙宣伝カーの連呼の如く書き散らす手法をとっている。 次に、近代憲法の基本構造が「主権」と「人権」だとする(第二章第一節)。 ここでも、樋口は卑劣なほどのトリックで論述していく。 なぜなら、そのタイトルは一般的な「近代憲法の基本構造」としているのに、実際には、「身分制秩序を否定する国家=国民主権原理によって、人権主体としての個人が成立した」(28頁)などと、革命フランスのみに限定してその「憲法」なるものを記述しているだけだからである。 羊頭狗肉である。 また、この第一節のタイトルを「主権と人権 - その近代性」としているのは、革命フランスのみに特殊であった「(国民、人民)主権」と「人権」が、当時の欧米に一般的にも存在し「近代的」であったかのように学生が誤解するよう誘導するためである。 近代の英米憲法には、「国民(人民)主権」も存在しない。 「人権」も存在しない。 が、この事実については樋口は一文字も書いていない。 英米憲法について正しく記述すれば、「人権」が近代とは無関係であるのが一瞬にしてバレるからである。 それを避けるための詐術としての「抹殺」である。 次に、ここまで米国憲法を抹殺するのは極端で拙いと思ったのか米国に言及する所がある。 が、この事実については樋口は一文字も書いていない。米国憲法とは何の関係もない、1835年のトクヴィルの作品を出して誤魔化すのである(30頁)。 英国については、17世紀の“主権潰し”のコークなどには一言も言及せず、それから200年以上もたった19世紀のダイシーの『憲法序説』のさわりにちょっと触れてオシマイにする(25頁)。 全体を通してみると、結局、革命フランスの部分だけで「全世界の憲法と近代以降2~400年間の全ての憲法の話をした」ことにしている。 レトリックというより、低級な詐言としか形容できない。 「立憲主義」に話を戻せば、ここまで真っ赤な嘘を吐ける人間がこの世にいるのかと、ただ驚愕するしかない。 例えば、樋口は次のように、出鱈目も度が過ぎた虚偽定義をするからである。 「近代立憲主義は、人権主体としての個人の尊厳という究極的価値を前提にして、権利保障と権力分立をその内容とする」(22頁) 「立憲主義」は、統治機構内の如何なる権力も憲法に従って制限されるという、1788年の米国憲法を嚆矢とするアメリカ的な憲法原理である。 が、決してこれには触れない。 また、マディソンらの「建国の父たち」が起草した米国憲法には「人権」は匂いすらなく、「個人の尊厳」もない。 当然、「権利の保障」とも無関係である。 いったい、「人権主体としての個人の尊厳」と「立憲主義」とがどう関係すると言うのだろう。 まるで、「フランスのケーキは我が日本国の伝統文化の象徴である」などと同じ言辞であり、酔っ払いでもこれほどの酔言は吐かない。 そして、米国憲法から100年も後の、しかも米国でない、19世紀ドイツの「立憲主義」などのマイナーな話にすり替えていく(22~3頁)。 次のような、もう一つの虚偽定義も全く意味不明である。 なぜなら、「立憲主義」は、「国民主権」や「絶対君主」を排撃するものであるが、単なる「個人」を対象としないからである。 樋口の「強い個人」の意味ははっきりしないけれど、それが“個々(アトム)主義”の「個人」を指すのであれば、ルソーの『人間不平等起源論』から生まれた「平等」と表裏一体をなす概念である。 つまり、樋口はフランス啓蒙思想をもって、水と油の関係にあるコーク系列の「立憲主義」とが混じり合えるという、マジック・ショー的にこの一文を書いている。 「近代立憲主義を想定する個人は、ひとことでいえば、強い個人である」(33頁) 樋口陽一の「憲法学」は“憲法学”ではない。 「法の支配」など、自由を擁護する憲法原理を完全に無視するか、歪曲している。 ひたすらフランス革命を日本に起こすことのみに執念を燃やす扇動のパンフレットになっている。 アジビラである。 附記読売憲法試案(2004年5月3日)は、樋口陽一や辻村みよ子の直系の、大量虐殺者ロベスピエールと同じイデオロギーというか、共産革命のロジックというか、それが冒頭に展開されている。「日本国憲法は、日本国の主権者であり、……」が、前文の最初に書かれているからである。その意は、日本人は「一億二千六百万分の一の絶対君主」になったとでも言いたいのだろうか。しかも、一般に日本人のほぼすべては被治者であるからこの主権者に絶対的な服従を強いられる「一人の奴隷」になったとの宣言である。そればかりか、わざわざ「第一章 国民主権」を新しく設け、それを現第一章「天皇」の直前にもってきている。天皇は、「主権者」たる国民の下にある、と言いたいのである。あのルイ16世の処刑の直前の血塗られた革命フランスを模倣している。読売憲法試案より、現GHQ憲法の方が日本国にとって何十倍もましである。 ■4.(要約)立憲主義とは何か ◆1.各論者の見解の評価 政治的スタンス 論者 評価 (1) 左翼 芦部信喜 芦部は「立憲主義は~という淵源(あるいは特色)を持つ」「~という展開をしてきた」とその属性や発展経緯を述べるものの、「立憲主義とは何か」という肝心の理念論に関しては慎重に口を閉ざしている。これは芦部の憲法論が英米圏で主流となっている「立憲主義」や「法の支配」理念の理解とは実は無縁の古いドイツ系法学に依拠していることに原因がある。⇒芦部の後継者である高橋和之も同様。 高橋和之 高橋は「近代立憲主義の基本原理は~である」「近代立憲主義には立憲君主政モデルと国民主権モデル(立憲民主政モデル)の2つがある」とするが、それらの詳細を読むと初めから結論ありきで自論を並べているだけであり、阪本昌成や長谷部恭男の論説にあるような相対立する見解同士を真摯に比較検討するスタイルに全くなっていない。 (2) リベラル左派 長谷部恭男 長谷部は、芦部・高橋説にあるような「日本ローカル」ないし「半世紀前の法学パラダイム」のままの立憲主義の理解を否定して、立憲主義の本質を互いに比較不能な価値の多元性を保障するための枠組みとする世界標準の理解を正当に論じており、かつ左翼論者にありがちなルソー的な「民主主義」や絶対平和主義への強い懐疑・否定をも明確に打ち出している点は大いに評価できる。しかし長谷部は、何故かハートの法概念論には依拠しながらもそれと強い親和性をもつハイエクの自由主義論、そして阪本昌成の論にあるようなフランス型とアメリカ型の2つの立憲主義の枝分かれ論を完全に等閑視しており、立憲主義の論理的追求が中途半端なまま終わっている。 (3) 中間 佐藤幸治 佐藤も芦部と同様に、「近代立憲主義」と「現代立憲主義」を対比して言及するものの、立憲主義そのものの理念の説明はない。つまり芦部や佐藤の世代ではベースがまだドイツ系法学であったために、英米系の「立憲主義」「法の支配」といった理念を英米圏の用法の通りに消化できていないのである。 (4) リベラル右派 阪本昌成 ハイエクの自由主義論、ハートの法概念論に依拠する阪本は長谷部が故意に突かなかった「フランス型立憲主義」の欠陥を明確に指摘して芦部・高橋説の誤謬を明らかにしている。 (5) 保守主義 中川八洋 中川は、立憲主義ないし「法の支配」と、「国民主権」「人民主権」といった主権論との矛盾までをも明確に暴きだしている。 ◆2.法の支配《広義》、フランス型立憲主義、アメリカ型立憲主義 自由主義(liberalism)が近代以降、①イギリス型(真正の自由主義)と②フランス型(左翼的リベラリズム)の二つの系譜にはっきりと枝分かれした(※詳細はリベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜を参照)こととパラレルの関係で、それと密接に関連した立憲主義(constitutionalism)の系譜も上記の阪本昌成氏の指摘にあるとおり、①アメリカ型と②フランス型に分離したものと捉えるのが英米圏の常識である(※参考図書に紹介したH.アーレントなど)。 ここでは、①アメリカ型立憲主義および②フランス型立憲主義に加えて、これらの考え方の本となった③イギリスの「法の支配《広義》」を併せて解説する。 ※サイズが合わない場合はこちらをクリック。 ※上図の詳細は、日本国憲法改正問題(上級編)参照。 ※イギリスは成文憲法を持たないため「立憲主義」といわず「法の支配」というのが通例である(但し形式的/手続的正義の要請を意味する「法の支配《狭義》」と区別するために《広義》と付記する)。 ※日本は明治期に国制を明確にするために成文憲法(憲法典)を定めたが、国制と憲法典の関係を見ると明らかに伝統国家型であるため、イギリスと同じカテゴリーとした(但し、これをプロイセン憲法に由来する「外見的立憲主義」とする見解の方がずっと有力である)。 ※いずれにせよ明治憲法下の日本は、アメリカ型(創成型憲法典)でもフランス型(革命型憲法典)でもない第3の憲法体制のカテゴリーだったのは確かである(それを保守型憲法典と位置づけるか、それとも外見的立憲主義と位置づけるかの当否はともかく)。 ※戦後の日本については、左翼の多い憲法学者の間では、日本国憲法は革命型憲法典であるとする論説が強いが(八月革命説)、日本政府の公式見解は当初から「日本の国体は戦前戦後を通じて一貫している」としており、日本は伝統国家であり、日本国憲法は保守的に解釈するのが正当である。 区分 (1) 法の支配《広義》(=ノモクラシー) 憲法典なし(例:イギリス)又は、保守型憲法典(例:大日本帝国憲法) 既にある国制を明確化しようとする伝統国家の場合 混合政体、とくに立憲君主制と親和的 「法の支配(rule of law)」とは何か参照 (2) フランス型立憲主義 革命型憲法典(例:フランス1793年憲法) 旧国制を積極的に破壊する革命国家の憲法典の在り方 ルソー的な民主主義、反戦平和主義、人権論、自然法論、価値一元論(価値絶対論)等と親和的 左翼護憲論者の強調する「立憲主義」理解 (3) アメリカ型立憲主義 創成型憲法典(例:アメリカ合衆国憲法) 新興国家が憲法典を基幹として国制を創設していく場合 民主制、正戦論、権利・自由二元論、価値多元論等と親和的 英米圏で主流の「立憲主義」理解 ※民主制(デモクラシー)と「民主主義」の区別については、デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る参照 ◆3.立憲主義とデモクラシーの緊張関係 長谷部および阪本の論説参照。芦部・高橋説にあるような手放しでの「民主主義」賞賛には論理的説得力がなく避けるべきである。 ◆4.立憲主義と反戦平和主義の緊張関係 長谷部および阪本の論説参照。芦部・高橋説にあるような「絶対的な反戦平和主義」への無邪気な志向は避けるべきである。 ■5.参考図書 『立憲主義と日本国憲法 第3版』 (高橋和之:著 (2013年刊))高橋和之は、故・芦部信喜(東大憲法学の最大の権威)門下の現代左翼を代表する憲法学者であり、芦部『憲法』の補訂者としても知られる。民主党の小西参議院議員ら護憲派左翼の「立憲主義」論の元ネタはこの本と芦部『憲法 第五版』が全てなので、それらの内容と誤謬を確り押さえておきたい(芦部説についてはよくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編)も参照)。 憲法を守るのは誰か(青井未帆:著 (2013年刊))典型的な「立憲主義」連呼の護憲派左翼プロパガンダ本(その1)。読書案内のページにお勧めする憲法学のテキストとして上記の高橋和之『立憲主義と日本国憲法』が紹介されており、本書の主張内容は高橋の憲法論に依拠していることは明白である。 憲法問題(伊藤真:著 (2013年刊))典型的な「立憲主義」連呼の護憲派左翼プロパガンダ本(その2)。強烈な護憲論者として知られる伊藤真弁護士による自民党改憲案への批判書。 『革命について』(ハンナ・アレント:著 (1963年刊))自由な立憲政体を建設したアメリカ独立革命と、暴虐のテロと全体主義に沈んだフランス革命・ロシア革命を鮮烈に対比した名著。ルソーの絶大な影響下に実行されたフランス革命への幻想を完全に打ち砕く名著。 憲法と平和を問いなおす(長谷部恭男:著 (2004年刊))立憲主義の捉え方、そして立憲主義と無制限的な民主主義さらに絶対的平和主義との相克関係などを分かり易く説明する好著。ただし長谷部氏は政治学者・丸山眞男の日本ファシズム論に未だに囚われているために残念ながら結論的には憲法9条護憲論者であることに注意が必要である(※参考ページ よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編)) 憲法とは何か(長谷部恭男:著 (2006年刊))上記の内容を補完する一冊。 『新・近代立憲主義を読み直す』(阪本昌成:著 (2008年刊))フランス型とアメリカ型の2つの立憲主義を峻別し解説する好著(amazonユーザーレヴュー欄も参照のこと)※なお阪本氏の立憲主義論として下記も参考になる。・阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)第一部 国家と憲法の基礎理論△第三章 憲法(典)の存在理由とその特性△第四章 立憲主義と法の支配△第五章 立憲主義の展開・阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)第一部 統治と憲法△第6章 立憲主義△第7章 法の支配第二部 日本国憲法の基礎理論△第1章 日本国憲法における立憲主義 ■6.ご意見、情報提供 ↓これまでの全コメントを表示する場合はここをクリック +... 中川八洋公式掲示板に3/24付けで記事あり。言葉づかいは相変わらず激しくてちょっとどうかとは思うが、論旨明快で参考になる。「立憲主義」を振り回す“反・立憲主義”の朝日新聞 ──「集団的自衛権」への第九条解釈変更こそ“立憲主義”http //nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2014/03/24/131147 -- 名無しさん (2014-04-03 02 23 43) 松尾光太郎氏blog記事。一記事に内容が詰め込まれすぎていて(思想の累多)とてもではないが全部理解するには行かない、という珍しい(そして貴重な)タイプ br()立憲主義の無知が爆裂した朝日新聞 br()http //blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/archive/2014/02/08 -- 名無しさん (2014-04-05 03 28 05) 以下は最新コメント表示 中川八洋公式掲示板に3/24付けで記事あり。言葉づかいは相変わらず激しくてちょっとどうかとは思うが、論旨明快で参考になる。「立憲主義」を振り回す“反・立憲主義”の朝日新聞 ──「集団的自衛権」への第九条解釈変更こそ“立憲主義”http //nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2014/03/24/131147 -- 名無しさん (2014-04-03 02 23 43) 松尾光太郎氏blog記事。一記事に内容が詰め込まれすぎていて(思想の累多)とてもではないが全部理解するには行かない、という珍しい(そして貴重な)タイプ br()立憲主義の無知が爆裂した朝日新聞 br()http //blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/archive/2014/02/08 -- 名無しさん (2014-04-05 03 28 05) 名前 ラジオボタン(各コメントの前についている○)をクリックすることで、そのコメントにレスできます。 ■左翼や売国奴を論破する!セットで読む政治理論・解説ページ 政治の基礎知識 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 政治思想(用語集) リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る ※別題「デモクラシーの真実」 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 ※別題「リベラリズムの真実」 保守主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ ナショナリズムとは何か ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 国家解体思想(世界政府・地球市民)の正体 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か 中間派に何を含めるか 「個人主義」と「集産主義」 ~ ハイエク『隷従への道』読解の手引き 最速!理論派保守☆養成プログラム 「皇国史観」と国体論~日本の保守思想を考える 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える 右翼・左翼の歴史 靖國神社と英霊の御心 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 国体とは何か① ~ 『国体の本義』と『臣民の道』(2つの公定「国体」解説書) 国体とは何か② ~ その他の論点 国体法(不文憲法)と憲法典(成文憲法) 歴史問題の基礎知識 戦後レジームの正体 「法の支配(rule of law)」とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 立憲主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 正統性とは何か ~ legitimacy ・ orthodoxy の区別と、憲法の正統性問題 自然法と人権思想の関係、国体法との区別 「国民の権利・自由」と「人権」の区別 ~ 人権イデオロギー打破のために 日本国憲法改正問題(上級編) ※別題「憲法問題の基礎知識」 学者別《憲法理論-比較表》 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編) よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編) ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ
https://w.atwiki.jp/tsukubun/pages/69.html
【主義】 筑波文學の会に所属する会員なら誰しも持っている特殊能力の呼び名。 基本的には秘密。 超クール。
https://w.atwiki.jp/p_ethics/pages/13.html
利己主義真正の道徳者のパラドクス 倫理的利己主義のパラドクス ニーチェと利己主義 独我論との関連―「言うことに意味がないと同時に言われるべき必然性のある主張」 利他主義 (参考文献:Wikipedia、『プレップ倫理学(拓植尚則)』、『倫理とは何か-猫のアインジヒトの挑戦-(永井均)』) 利己主義 利己主義者とは何よりも自己の利益を追及する者のことである。ここでいう利益とは健康や幸福といった観念だけでなく、地位や名誉や権力などの自分が欲しいと思ったものすべてを含めてよい。思いやりといった利他的なものも含まれる。 利己主義はまず心理的なものと規範的なものに大別される。前者は心理的利己主義(記述的利己主義とも呼ばれる)は、事実として人間は自己の利益を追求するという立場で、近代イギリスのホッブズなどが論じている。後者は倫理的利己主義(規範的利己主義)と呼ばれ、利己的でない人間も含めて自己の利益を追求するべきとする立場で、現代アメリカのランドなどによって論じられている。 もう一つよくなされる分類が、短期的利己主義と長期的利己主義との分類である。短期的利己主義では、長期的に見た自分の利益を考慮せずに現在の自分の欲求を満たそうとする。いまどうしてもタバコが吸いたければ将来肺ガンになることなど意に介さない、刹那的な立場と言えよう。逆に、現在の自分の利益を断念しても全体として見た場合の自分の人生の最大の利益を考えて、いわば理性的に統御して利己的に生きるのが長期的利己主義の立場である。 真正の道徳者のパラドクス 長期的利己主義者は、その方が自分の人生全体の利益になると判断した際には利他的に振る舞うことがある。完璧な長期的利己主義者は外見上道徳的な人間と区別がつかないことが多く、実証主義的見地からはそもそも区別がないとも言える。ゆえに道徳は、利己主義者が自分の長期的な幸福を考えて自分を理性的に統御したときに、多少とも利他的に振る舞わざるを得ないようにさせるシステムになりうる。 長期的利己主義者は、誰にも知られない状況では、自分が道徳的でない行動をすることがありうる一方、自分の人生全体の利益のために道徳に従うこともある。このとき、道徳に従うことそれ自体が利己的なものになる。道徳に従う快さはここに見出される。今ここで道徳に従って行動しておけば、長い目で見て幸福でいられる、と感じられることも快楽の一つだからだ。 逆に、絶対に誰にも知られないと分かっていながら悪を犯さず、道徳的な行動をすることの幸福感が存在するとしても、不思議ではない。その幸福感のために行動するという利己主義もまた考えられるから、そこまで含めると「すべての人は利己主義者である」という普遍的で記述的な利己主義が完成する。 ここでは、ただ道徳的に良いことをしただけで嬉しくなれるか、ただ道徳的に悪いことをしたというだけのことで本当に落胆し不幸になれるか、という実質的な心の在り方が効いてくる。そのような人は、極めて道徳的な人であるが、普遍的で記述的な利己主義者という考え方が同語反復的に当てはまってしまう。利己主義に対立していたはずの真正の道徳的行為が、利己主義に包含されてしまうのである。 倫理的利己主義のパラドクス 倫理的利己主義(以下、単に利己主義とする)においては、利己的でない人間も含めて自己の利益を追求するべき、としている。いわば、利己主義を推奨しているのだ。利己主義を推奨するというのは、道徳的でない人間になることを推奨する。道徳的に善いことをしただけで嬉しくなったり、道徳的に悪いことをしただけ悲しくなったりする人間であることをやめよう、と呼び掛けようとするのだ。だが、それは自分に対して不利益になる可能性がある。 だが、本当の利己主義者が他人にも利己主義になって欲しいと思って呼び掛けようとするのは、実はその人のためを思うからなのだ。例え自分の利己主義にとっては利益にならず、むしろ害になる可能性があったとしても、他人に道徳なんか本気で気にするのはやめろよ、と言いたくなるのは、利己主義者の非利己的な道徳によるのだ。 この利己主義の破れこそが、いわば利己主義者の愛のようなものであり、利己主義の逆説なのだ。そもそも、主義と名のつく以上、誰か他の人に対して推奨し、思想を共有するものでなければならない。ゆえに、利己主義が主義たること自体、実は大きな矛盾をおかしているのだ。利己主義は語ることができないものなのだ。 ニーチェと利己主義 ニーチェの思想には、上記の利己主義のパラドクス――真の道徳者と長期的利己主義者は、外見上の区別がつかないこと、利己主義を他人に語ろうとすることができないこと――がはっきりと表れているようだ。たとえば「ツァラトストラはかく語りき」の祭司たちの章を読んでみよう。 或時、ツァラトストラは弟子たちに合図して、かれらに次の言葉を語った。 「ここに祭司たちがいる。かれらはわが敵である。しかはあれど、 なんじらはかれらの傍を行くには、静かに、また眠る剣をもて過ぎりゆけよ! かれらの間にも勇者がいる。かれらの中の多くの者は、苦しむこと多きに過ぎた。 ――この故に、かれらは他人をも苦しませんとする。 かれらは悪しき敵である。かれらの謙抑より以上に、復讐の念の深いものはない。 かれらを攻むるものはたちまちに汚される。 さあれ、わが血液はかれらの血液と相通じている。われはかれらの血液に於て、 わが血液が尊敬されんことを欲する。」―― しかし、かれらが行き過ぎたときに、ツァラトストラは苦痛に襲われた。 彼しばらくこの苦痛と闘った後、かく言いはじめた。―― この祭司らはわが心を傷ましむる。かれらはわが感興を害する。しかし、かかる事はなお、 われが人間の中に交ってより経し瑣事にすぎぬ。 われはかれら祭司たちと苦難を共にする。また、してきた。かれらは囚われの徒であり、 印を烙かれた者である。かれらが救い主と呼ぶかの者が、 かれらを桎梏の中に縛いだのである。 謬まれる価値と妄想の言葉との桎梏の中に縛いだのである! ああ、何人かあって、かれらをかれらの救い主より救い出すを得るならば! ――新潮文庫『ツァラトストラはかく語りき』より引用 祭司たちは真正の道徳者であり、ツァラトストラは利己主義者である。ツァラトストラは既に、「神は死んだ!」ことに気づいている。にもかかわらず、彼の「血液はかれらの血液と相通じている」。ということはつまり、神の死とは全く無関係に、いや神の死を越えて、彼には祭司たちと共有している感情(血は感情のメタファともいえる)があるのだ。この感情が利己心である。真正の道徳者が利己心を共有している(あるいは外見上そう見做されてしまう)という事態がここに言い表されている(真正の道徳者のパラドクス)。 また、ツァラトストラが「かれら祭司たちと苦難を共にする」のは、ツァラトストラの立場を祭司たちに「推奨する」ことができないからであり、これは利己主義者が利己主義を伝えることができないのと同じことなのだ。「救い主」とはもちろんキリストのことだ。ここでツァラトストラは祭司たちをキリスト教道徳のうちに囚われた存在として見出すのであるが、口で言って祭司たちにキリスト教道徳を辞めさせることもできない、なぜならそもそも伝達することが不可能だから(倫理的利己主義のパラドクス)。 独我論との関連―「言うことに意味がないと同時に言われるべき必然性のある主張」 「倫理的利己主義のパラドクス」の問題から分かるように、倫理的利己主義はヴィトゲンシュタインの主張する独我論と同様に「伝達することができない」という不可能をもつ。 - 5.6 私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する。 5.61 論理が世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。 それゆえに、論理の内側で「世界にはこれらは存在するが、あれは存在しない」と語ることはできない。 そう語ることは、明らかにある種の可能性の排除を前提としているが、しかし、それは事実ではありえな い。なぜなら、事実であるとすれば、論理は世界の限界を超えなければならない。すなわち、世界の限界 を超えることによってのみ、論理は世界の限界を外側からも見ることができるのだから。 思考できないことを思考することはできない。思考できないことを語ることもできない。 - 5.62 以上の見解が、独我論はどの程度まで正しいかという問いの鍵となる。 すなわち、独我論の言わんとするところはまったく正しい。ただ、それは語ることができず、自らを示すだけである。 世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一のこの言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。 ――http //tractatus-online.appspot.com/Tractatus/jp/index.htmlより引用 独我論は当然主張されうる。だが、それを言うこと自体に意味はない。独我論の表すような状況がそもそも純粋実在論と一致しているということもあって、独我論的な状況は語り得ぬもの、つまり「伝達することができない」という不可能を抱えたものとなるのである。 利他主義 言わずもがな、自己の利益よりも他者の利益を優先する考え方である。対義語は利己主義。特に永井均の「倫理とは何か」においては、道徳的であることとまったく同義のものとして扱われる。
https://w.atwiki.jp/kbt16s/pages/270.html
「真の個人主義」と「偽の個人主義/集産主義」の、社会の原則は、「人々を平等に取り扱うこと」→「人々を同等に取り扱うこと」とすべき。 -- 名無しさん (2011-09-24 08 21 31) 「真の個人主義」に平等はないからです。 -- 名無しさん (2011-09-24 08 25 10) collectivismに産の意味はない。集団主義でいい。 -- 名無しさん (2011-09-24 08 28 49) 真の個人主義は決して家族をないがしろにしないと思います。自助の精神をもつ、誇り高い個人を生み出すのは、他でもない家族だからです。 -- 政治家志望の一高校生 (2012-01-01 02 12 59) いわゆるネット右翼に個人主義者はいないと思います。 -- 名無しさん (2014-06-14 05 13 46) ソクラテスに一票。 -- 名無しさん (2016-07-02 10 46 46)