約 311,797 件
https://w.atwiki.jp/teitoku_bbs/pages/1002.html
473 :ひゅうが:2012/04/13(金) 02 06 18 新島誕生世界の第2次大戦までの道のり?考察 ――そもそもの発端は、1923年に太平洋上に出現した「瑞穂島」と呼ばれる日本列島の四つの島と同等の大きさを持つ巨大な島嶼だった。 この島の出現と同時に、太平洋を隔てたアメリカ西海岸では地震が多発しはじめた。 シアトル沖合からは300年ぶりに長さ200キロにわたるプレート境界が破壊され大津波が西海岸北部を襲った。 続いてサンフランシスコでは再び直下型の大地震が発生し、とどめとばかりにアラスカ沖で発生した大地震はアラスカ半島を壊滅させたあと大津波でもってハワイ真珠湾を炎と汚泥で埋め尽くした。 これらの大災害の結果、北米西岸は瓦礫の山と化したが合衆国がわいていた好景気と世界大戦の結果拡大していた生産能力はそれを補って余りあるものだった。 結果として1934年の末に至るまでアメリカ合衆国は好景気を持続させ、アメリカ合衆国大統領ハーバード・フーヴァーは「アメリカ合衆国最高の大統領」として歴史にその名を刻むことになったのである。 好景気を後押ししたのはこれら復興需要だけではなかった。 瑞穂島を手に入れた太平洋の向こう側の「友邦」日本帝国はその維持に合衆国の機械を必要としており、日米が共同経営する満州鉄道株式会社をはじめマンチュリアにおける影響力の拡大をストップさせていたのだ。 結果、復興需要が一段落したアメリカ財界は国内からマンチュリア、そしてチャイナへと投資の行く先を変えていったのである。 このため、1934年12月に個人投資家たちを没落させた「悪夢のクリスマス」以降もしばらくは経済はゆるやかな下降路線をたどっていったが、国内製造業は軒並み干上がっておりただ海外投資のみがそれを下支えしている状況に変わりはなかった。 緊急経済対策を開始したフランクリン・D・ローズヴェルト政権はこれに続く1938年に生じた「第2次大暴落」と、中国国民党政権が名実ともに崩壊したために生じた翌年の「第3次大暴落」により史上初の大統領弾劾を経て崩壊。 1940年には挙国一致政権としてダグラス・マッカーサー政権が誕生するに至る。 時をほぼ同じくして、ソ連崩壊(1925年)以来東へ領土を拡張していたポーランド共和国においてクーデターが発生。 「対独警戒軍事評議会」による軍事独裁政権が成立するに至る。 これは、1940年のウィルヘルム2世死去に伴い帰国を許されたウィルヘルム皇太子(3世)とそれを主導したアドルフ・ヒトラー政権、ひいてはドイツ復活への恐怖心が生み出したものだったといわれる。 欧州には戦火の香りが再び漂い始めた。 マッカーサー政権はフランスとともにポーランド支持を明言。 ドイツは英国と友好関係を構築するという奇妙な事態が生じた。 そして太平洋では、マッカーサー政権が「統治能力を失った中国国民党にかわり満州自治政府が中国全土を統治する」ことに支持を表明。 見返りに在満米軍の大幅拡充を日本の頭ごなしに認めさせていた。 これは、マッカーサーをはじめとするアメリカの「満瑞交換論」に立脚した措置であった。 彼らにしてみれば「瑞穂島」という有望な資源地帯と広大な領土を手に入れた日本はそれで満足すべきであり、今こそ門戸開放に協力しチャイナを明け渡すべきというわけだった。 そしてマンチュリアを基地とすれば、米国は日本本土に直に圧力をかけられるようになり自然に太平洋における米国の覇権は完成する。 そうなれば日米は運命共同体として次代の世界新秩序を主導できる。アメリカに都合のいい設定ではあったが彼らは彼らなりの「善意」で行動したのだった。 だが、これを認められるほど日本人はお人よしではなかったし、大英帝国もアジアを放棄する意思は持っていなかった。 今やロシアをも支配するに至ったポーランドは、そのあふれる復讐心をドイツに向けつつありそれにフランスもまた同調しはじめている。 太平洋の緊張は頂点に達しつつあり、日米両軍は満州で、そして西太平洋上でにらみ合いつつあった。 時に、西暦1947年・・・ 世界は第2次大戦を迎えようとしていた・・・
https://w.atwiki.jp/fweo/pages/874.html
福川国民党(英 Fukukawa National Party)は、福川国の政党。党首は飯沼賢治。その後継政党の福川民主党についても説明する。(旧福川民主党とは無関係) 党役員人事 最高顧問・広報本部長 上川梓 代表 飯沼賢治
https://w.atwiki.jp/nishigoushu/pages/24.html
国家国民党 我国における政党のひとつ。 第二回下院総選挙から参戦の政党。 一般的に「国々党」と略されることが多い。 主な政策としては、 合衆国政府解体と新体制政府樹立。 強行的外交政策 が挙げられる。
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2487.html
日中歴史共同研究 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 第1部 近代日中関係の発端と変遷 第3章 日本の大陸拡張政策と中国国民革命運動 日本の大陸拡張政策と中国国民革命運動 服部龍二<その1> 服部龍二 中央大学総合政策学部准教授(外部執筆委員) http //www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 目次 日本の大陸拡張政策と中国国民革命運動 服部龍二<その1>はじめに 1.第1 次世界大戦1) 第1 次世界大戦の勃発と対華21 カ条要求 2) 西原借款から新4 国借款団へ 3) パリ講和会議と5.4 運動 2.ワシントン体制の成立1) ワシントン会議と9 カ国条約 2) 山東問題と対華21 カ条要求関連条約の改廃問題 3) ワシントン体制の成立とその後 3.北京政府「修約外交」と第1 次幣原外交1) 5.30 事件 2) 北京関税特別会議 3) 北伐と南京事件 日本の大陸拡張政策と中国国民革命運動 服部龍二<その2>4.国民政府「革命外交」と田中外交・第2 次幣原外交1) 第1 次山東出兵、東方会議、山本─張鉄道協約 2) 済南事件と張作霖爆殺事件 3) 国民政府「革命外交」 4) 奉ソ戦争と経済関係 5) 中国における日本人コミュニティ おわりに はじめに 近代の日中関係において、第1 次世界大戦と満州事変が大きな転機であったことに異論はなかろう。第1 次大戦に参戦した日本は、中国に対華21 カ条要求を突きつけた。かつて義和団事件や辛亥革命では列国との関係に配慮した日本だが、21 カ条要求では中国と単独で対峙するに至った。また、満州事変が日中関係を暗転させたことも明らかである。だからといって日中関係が、21 カ条要求から満州事変へと直線的に向かったわけではない。その間には、ワシントン体制と呼ばれる比較的に安定した国際秩序が存在していたし、「東方文化事業」という文化交流の試みもあった。 このため本章では、第1 次世界大戦が勃発した1914 年から満州事変直前の1931 年までをたどり、日中関係の起伏を論じてみたい。この間の日中関係は、4 つの時期区分で変遷してきたといえよう。第1 期は、第1 次世界大戦からパリ講和会議までである。第2 期は、パリ講和会議後からワシントン会議を経てワシントン体制が成立するまでとしたい。第3期は、北京政府の末期から北伐の時期であり、日本では第 1 次幣原外交期となる。第4期は、国民政府の成立から満州事変前までとする。そのころ日本は、田中外交と第 2 次幣原外交の時代だった。 そのような4 つの時期区分に沿いながら、以下では20 年弱の日中関係を跡づけていく。分析の比重は日中間の外交関係に置かれるが、列国の動向についても適宜ふれることにしたい。パリ講和会議やワシントン会議、北京関税特別会議などに示されるように、国際政治のなかで日中関係が規定されたところも多いからである。「おわりに」では、ワシントン体制と呼ばれる1920 年代の国際秩序について、日中関係に即して考察する。 1.第1 次世界大戦 1) 第1 次世界大戦の勃発と対華21 カ条要求 1914 年6 月28 日、サラエボでオーストリア皇位継承者とその妻が暗殺された。このサラエボ事件を契機として、7 月28 日にはオーストリアがセルビアに宣戦布告したため、ドイツ・オーストリアの同盟国側とロシア・フランス・イギリスの協商国側が戦争を開始した。第1 次世界大戦の勃発に際してグリーン(William Conyngham Greene)駐日イギリス大使は、中国近海のドイツ仮装巡洋艦を攻撃するため日本に支援を求め、大隈重信内閣の加藤高明外相に日本海軍の出動を要請した。グリーンの対日要請は、イギリス商船の保護という限定的なものであったが、加藤はこれを手がかりに全面的な参戦を進めた。 日英同盟を根拠として日本は8 月15 日、ドイツ艦艇の即時退去ないし武装解除だけでなく、膠州湾租借地を中国に還付する目的で日本に交付するよう求めて、ドイツに最後通牒を発した。通牒の回答期限は1 週間であり、ドイツがこれに応じなかったため、23 日に日本はドイツに宣戦布告した。日本は第1 次世界大戦に参戦したのである。日本海軍の第2 艦隊は27 日、膠州湾を封鎖した。9 月2 日には日本陸軍の久留米第18 師団が山東半島 2 北岸の龍口から上陸し始め、山東鉄道を占領した。11 月に日本軍は、青島の要塞を攻略してドイツ軍を投降させた。イギリス軍も小規模ながら青島戦に参加した 1。 1915 年1 月に日本は、中国に対して 5 号 21カ条の要求を行った。この要求は、中国外交部を経ずに日置益駐華公使から袁世凱大総統に対して直接になされた。対華 21カ条要求といわれるものであり、主な内容は次のとおりであった。 第1 号:山東省におけるドイツ権益の対日譲渡(4 カ条) 第2 号:大連・旅順租借期限と南満州・安奉鉄道の期限を99 年延長するなど南満州・東部内蒙古における権益の拡充(7 カ条) 第3 号:漢冶萍公司の日中合弁化(2 カ条) 第4 号:中国沿岸の不割譲(1 カ条) 第5 号:政治財政軍事顧問として日本人を傭聘することなど(7 カ条) 広範な要求ではあるが、加藤外相の力点は第2 号の満蒙に置かれており、その目的は既得権益の存続に対して条約的根拠を与えることにあった。また、対華21 カ条要求の第5号は、「希望条項」として交渉の最終段階で棚上げとされた。それでも日本は、5 月7 日に最後通牒を突きつけた。中国が最後通牒を受諾した5 月9 日は、中国では国恥記念日とされた。5 月25 日には北京で、2 つの条約と13 の交換公文が結ばれた。山東省に関する条約、南満州および東部内蒙古に関する条約、漢冶萍公司に関する交換公文、膠州湾租借地に関する交換公文、福建省に関する交換公文などである 2。 このうち山東省に関する条約の第1 条では、中国政府がドイツ山東権益の処分を日独間協定にゆだねるとされていた。この条約と同時に交わされた膠州湾租借地に関する交換公文には、膠州湾を商港として開放し日本専管居留地を設置することを条件として、膠州湾租借地を中国に返還することが明記されていた。加えて1918 年9 月24 日にも、済南―順徳間鉄道と高密―徐州間鉄道を日本の借款によって建設するという交換公文が日中間で交 わされた。他方で、イギリス、フランス、ロシア、イタリアは1917 年2 月から3 月、日本の参戦に対する代償として、山東半島や南洋諸島での権益獲得を支持すると相次いで日本に伝えていた。とりわけ山東問題は、のちのパリ講和会議などでも議論になっていく。 加藤外相の後任には石井菊次郎が就任し、一方の中国では袁世凱が皇帝となることを表明した。だが日本は、イギリスやロシアとともに袁世凱に帝政の中止を勧告した。袁世凱に対する大隈内閣の態度は強硬であった。大陸浪人の川島浪速らは、中国の政治結社である宗社党を援助して満蒙独立運動を企てており、日本の参謀本部もこの動きを支えようとした。帝政に反対する第3 革命が広がると、袁世凱は帝政を取り消し、1916 年6 月に急逝した。すると日本は、黎元洪大総統を支援する方針に転じ、満蒙独立運動は収束していった 3。 1 斎藤聖二『秘 大正3 年日独戦史 別巻2 日独青島戦争』(ゆまに書房、2001 年)。 2 外務省編『日本外交年表並主要文書』上巻(原書房、1965 年)404-416 頁、臼井勝美『日本と中国──大正時代』(原書房、1972 年)61-89 頁。 3 北岡伸一『日本陸軍と大陸政策』(東京大学出版会、1978 年)181-193 頁、櫻井良樹「第2 巻 解題 大正時代初期の宇都宮太郎──参謀本部第2 部長・師団長時代」(宇都宮太郎関係資料研究会編『日本陸軍とアジア政策 陸軍大将宇都宮太郎日記』第2 巻、岩波書店、2007 年)4-5 頁。 3 2) 西原借款から新4 国借款団へ 1916 年10 月には、寺内正毅内閣が発足した。寺内首相の意向を受けた西原亀三は、北京で段祺瑞国務総理らと会見し、日本興業銀行、台湾銀行、朝鮮銀行などを通じて対中国借款を行うこととした。西原借款といわれるものであり、段祺瑞政権との間で8 つの契約、総額1 億4500 万円の借款を成立させた。その内訳は、第1 次・第2 次交通銀行借款、有線電信借款、吉会鉄道借款前貸金、吉黒両省森林金鉱借款、満蒙4 鉄道借款前貸金、山東2 鉄道借款前貸金、参戦借款である。 中国側でこれに応じたのは、段祺瑞国務総理のほか、曹汝霖交通総長、陸宗輿中華.業銀行董事長などである。西原借款は、第1 次大戦下で好景気にある日本の外貨を中国に投資し、段祺瑞などの安徽派を軸に親日派を養成しつつ「日中提携」を築こうとするものであった。だが西原借款に対しては、国際協調を重んじる外務省などから批判が高まり、「日中提携」の試みは頓挫した。西原借款の返済については、1 億2000 万円がこげついた 4。 中国は1917 年3 月にドイツと国交を断交し、8 月にはドイツとオーストリアに宣戦布告して第1 次世界大戦に参戦した。このころ日本は、存在感を増していたアメリカと対中国政策の合意を形成しようとした。寺内内閣からは元外相の石井菊次郎がアメリカに特派され、11 月にランシング(Robert Lansing)アメリカ国務長官との間に交換公文を成立させた。この石井・ランシング協定では、アメリカが中国における日本の「特殊利益」を認めるとしながらも、日米両国は主義として門戸開放や機会均等を支持すると規定された 5。 この間にロシアでは革命が起こり、1918 年には革命後のロシアに対する出兵が懸案となった。当初から共同出兵に積極的なのは、イギリスとフランスであった。もともと消極的だったウィルソン政権は、同年7 月にウラジオストクへの共同出兵を日本に提起した。その名目は、チェコ軍の救済であった。8 月からは日米の共同出兵が実行され、出兵された日本軍は7 万3000 名となった。9 月に成立した政友会の原敬内閣は、初の本格的な政党内閣であり、シベリア出兵について兵力の削減と出兵地域の限定を行った 6。 同じころにアメリカのウィルソン政権は、日本、イギリス、フランスに対して新4 国借款団を提起した。アメリカの提案では、日米英仏が共同して中国に借款を行うこととされた。交渉の過程で原内閣は、条約的根拠のある既得権益に限って満蒙除外を行うという「列記主義」を受け入れた。米英側は、満蒙を地域として除外する「概括主義」を日本に許さなかったのである 7。とはいえ、北京政府は新4 国借款団そのものに懐疑的であり、日本も 4 森川正則「寺内内閣期における西原亀三の対中国『援助』政策構想」(『阪大法学』第50 巻第5 号、2001 年)117-146 頁。 5 高原秀介『ウィルソン外交と日本』(創文社、2006 年)61-102 頁。 6 細谷千博『ロシア革命と日本』(原書房、1972 年)85-104 頁。 7 三谷太一郎『増補 日本政党政治の形成──原敬の政治指導の展開』(東京大学出版会、1995 年)334-344 頁。 4 新4 国借款団との合意内容に抵触する南潯鉄道延長借款契約や四.鉄道借款契約を独自に成立させた。 3) パリ講和会議と5.4 運動 第1 次世界大戦が終結すると、1919 年1 月から5 月にかけてパリ講和会議が開催された。原内閣は、パリ講和会議に向けて西園寺公望を首席全権として、牧野伸顕枢密顧問官、珍田捨巳駐英大使、松井慶四郎駐仏大使、伊集院彦吉駐伊大使を全権に任命した。会議の半ばでパリに到着した西園寺に代わって、事実上の首席全権の役割を果たしたのが牧野であった。一方の中国代表団は、陸徴祥外交総長を首席全権として、これに顧維鈞駐米公使、施肇基駐英公使、王正廷の各全権が加わった。 原内閣は、パリ講和会議でイギリスとの協調による旧ドイツ権益の継承を主眼とし、そのほかの問題では大勢に順応した。日中関係で最大の問題は、山東懸案であった。すでに述べたように、対華21 カ条要求後の1915 年5 月には、山東権益に関する条約が日中間で締結されていた。これによって中国政府は、ドイツの保有する山東権益の処分を日独間協定にゆだねると規定されたのである。1918 年9 月にも日中間では、山東鉄道を日本の借款によって建設するという交換公文が成立していた。 そこで牧野全権は1919 年1 月27 日、日米英仏伊各国によって構成される5 大国会議において旧ドイツ権益の無条件譲渡を要求した。一方の中国代表団は、旧ドイツ権益の対日譲渡に強く反発した。中国側からこの問題を主導していた顧維鈞は、翌28 日の5 大国会議で発言を認められた。このとき顧維鈞は、大戦中の山東問題関連協定は「暫定措置にすぎない」との持論を披露して、山東権益の直接返還を要求した。山東問題をめぐる日中双方の見解は、このように相容れないものであった。2 月以降の会議では国際連盟創設についての討議が中心となり、山東問題は4 月下旬まで棚上げとされた 8。 結局のところパリ講和会議では、日本の要求がヴェルサイユ条約の第156 条から第158条に山東条項として盛り込まれた。これによってドイツは、鉄道や鉱山、海底電線などの山東権益を日本に譲渡した。そのことを不服として中国代表団は、6 月28 日のヴェルサイユ条約調印式に欠席した。ただし、中国は対オーストリア講和のサン・ジェルマン条約に調印しており、その批准によって中国は国際連盟に加盟し、アジア枠を利用することで国際連盟の非常任理事国に何度か当選した 9。 この間に中国では、民衆を主体とする5.4 運動が起こっていた。そこで北京政府は、運動の標的となっていた曹汝霖交通総長、章宗祥駐日公使、陸宗輿幣制局総裁を6 月10 日に罷免した。さらに13 日には、銭能訓国務総理が引責辞職を発表した。にもかかわらず、山東問題に端を発する日貨排斥運動は、それから1 年近く途絶えなかった。対日不信をぬぐえない中国は、単独での対日交渉を不利とみなし、パリ講和会議後も山東問題をめぐって日本との直接交渉を拒んだため、その解決はワシントン会議に持ち越された。 8 服部龍二『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』(有斐閣、2001 年)20-46頁。 9 川島真『中国近代外交の形成』(名古屋大学出版会、2004 年)249-265 頁のほか、唐啓華『北京政府與国際聯盟(1919-1928)』(台北:東大図書公司、1998 年)も参照。 5 このころ満州では、張作霖が念願の東三省制覇を果たしていた。張作霖は、安直戦争と呼ばれる1920 年7 月の北洋軍閥間紛争で直隷派に加担し、その地位を高めた。この内乱で没落した安徽派に代わって張作霖が北京政府に発言力を得るようになり、原内閣は張作霖に接近する姿勢を示した。原内閣は1921 年5 月に東方会議を開催し、東三省内における張作霖への支援という方針を確認した。それでも、奉天派と直隷派が1922 年春に第1次奉直戦争と呼ばれる内紛に陥ると、日本陸軍の出先は張作霖を支持すべきだと主張したものの、高橋是清内閣の内田康哉外相らは武器供給や財政支援を拒んだ。 2.ワシントン体制の成立 1) ワシントン会議と9 カ国条約 パリ講和会議後から1920 年にかけて小幡酉吉駐華公使は、山東問題の交渉を中国に呼びかけつつ、排日運動の取り締まりを申し入れた。だが北京政府は1920 年5 月、山東問題の直接交渉を拒否すると回答した。日本は山東問題解決の条件を示したものの、中国は一国で日本と交渉することを不利と判断し、直接交渉に同意しなかった。1921 年1 月には、日中共同防敵軍事協定を廃止する公文が交換された。 アメリカでは1921 年3 月に、共和党のハーディング(Warren G. Harding)政権が誕生した。ハーディング政権は「平常への復帰(Return to Normalcy)」を唱えて、戦時体制からの転換を図った。そのハーディング政権の呼びかけによって、ワシントン会議が同年11 月に開幕した。ワシントン会議の直前には原敬首相が暗殺され、原と同じく政友会総裁の高橋是清を首班とする内閣が成立した。高橋内閣は原内閣の全閣僚を留任させており、対外的には原内閣の路線を継承したが、内政的には軍縮に移行しようとしていた。 ワシントン会議は、1921 年11 月から翌年2 月にかけて開催された。ワシントン会議の主な成果としては、中国をめぐる9 カ国条約、海軍軍備制限に関する5 カ国条約、太平洋問題についての4 カ国条約が挙げられる。日中関係では、9 カ国条約が重要な位置を占めることになった。9 カ国条約とは、1922 年2 月に結ばれた中国関係の条約であり、日本と中国のほか、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ポルトガルの9 カ国がこれに調印した。ソヴィエトは会議に呼ばれていなかった。また、日本、アメリカ、イギリス、フランスは4 カ国条約を締結し、その第4 条に日英同盟の廃棄が明文化された。 日本の首席全権は加藤友三郎海相であったが、中国関係については駐米大使の幣原喜重郎全権が担当した。一方の北京政府は、会議に際して国内から意見を求めるとともに、代表団に各派を含めることで統一の体裁を整えようとした。極東問題について中国首席全権の施肇基駐米公使は、1921 年11 月に10 原則を提起した。施肇基の10 原則には、中国の領土保全、門戸開放、機会均等などが盛り込まれていた 10。 これに対してアメリカ全権のルート(Elihu Root)が、現状維持的な「ルート4 原則」を提起した。その4 項目とは、主権の独立と領土的行政的保全、安定政権の樹立、機会均等、友好国の権利などを害する行為を慎むこと、であった。このルート4 原則が採択され 10 川島真『中国近代外交の形成』266-318 頁。 6 たため、中国の主権を尊重しつつも、各国の既得権益を原則的に維持することで列国は合意したのである。ルートの路線は、現状維持的対日協調策ともいうべきものであった。「ルート4 原則」は、9 カ国条約の第1 条に盛り込まれた。このため、9 カ国条約の第3 条は門戸開放と機会均等を規定しているものの、第1 条には現状維持的な規定が採用されていた 11。 これと関連してヒューズ(Charles Evans Hughes)国務長官は、門戸開放原則について決議案を提示した。門戸開放原則に関する調査機関として、「諮議会」の設立を盛り込もうとしたのである。ヒューズ案によると「諮議会」は、諸外国の既得権益も門戸開放原則の観点から審議できるという。したがって、既得権益への門戸開放原則の適用という問題を再燃しかねなかった。だが、全権で駐米大使の幣原喜重郎は、既得権益までもが「諮議会」の審査対象となることに異論を唱えた。このため、既得権益については審議の対象外とされたのであり、門戸開放原則についての決議案は採択されたものの、具体的な成果には乏しいといえよう。 2) 山東問題と対華21 カ条要求関連条約の改廃問題 ワシントン会議では、山東問題についても協議された。日本と中国は1922 年2 月、山東懸案に関する条約に調印したのである。この条約では、15 年賦の国庫証券によって鉄道財産を日本に償却し、国庫証券の償還期間中は運輸主任と会計主任に日本人各1名を任用して、鉱山経営は日中合弁とすることが盛り込まれた。山東問題をめぐる日中交渉では、米英からマクマリー(John Van Antwerp MacMurray)とランプソン(Miles Wedderburn Lampson)がオブザーバーとして参加し、停滞しかけていた日中交渉を打開した。そのことは、中国を調印拒否に追い込んだパリ講和会議と大きく異なっていた。 ワシントン会議では、中国の関税をめぐる条約も締結された。中国に増徴を認める内容の条約が成立したことは、のちの北京関税特別会議につながっていく。さらには、シベリア撤兵問題や東支鉄道問題なども議論されたが、中国の関税自主権回復や治外法権の撤廃については合意されなかった。 他方で顧維鈞全権は1921 年12 月、中国における租借地の回収を提議していた。これについて埴原正直全権は、南満東蒙条約によって関東州租借権を99 年間延長したという立場を堅持した。つまり埴原は、原内閣期の新四国借款団交渉によって日本の特殊権益がアメリカ、イギリス、フランスに承認されたと解釈し、さらに在華権益の現状維持的規定としてルート4 原則を援用したのであった。イギリスも日本の立場に理解を示し、関東州をイギリスの九龍租借地になぞらえて埴原の主張を擁護した。 それでも王寵恵全権は、21 カ条要求に関連する条約の改廃を要求した。しかしこれには、日本が批判的であったことはもとより、アメリカとイギリスも冷ややかであった。イギリス代表団は日本の立場を支持し、既成条約の効力を論議するのは不条理であるとした。さらにアメリカのヒューズは、21 カ条要求関連条約の改廃問題を山東問題と密接な関係にあるとみなし、山東問題の解決までその審議を延期した。 11 麻田貞雄『両大戦間の日米関係──海軍と政策決定過程』(東京大学出版会、1993 年)128-132 頁。 7 このため、21 カ条要求関連条約改廃問題が初めて審議されたのは、閉会間際の1922 年2 月2 日であった。日本側からは幣原が、中国側の主張を批判しつつも3 項目で譲歩した。その譲歩とは、「列記主義」的南満特殊権益の範囲を除いて南満東蒙の借款優先権を新借款団に提供し、南満での外国人顧問傭聘における優先権を放棄したうえで、留保していた対華21 カ条要求の第5 号を撤回するというものであった。もっとも、これらの譲歩は1921年10 月の原内閣閣議決定で形式的な譲歩として予定されていたものにすぎない。ヒューズも、王寵恵の提起を支持しなかった 12。 なお、ジャーナリストの石橋湛山は、ワシントン会議に際して「一切を棄てる覚悟」を主張していた。つまり、日本は満州権益を放棄し、台湾や朝鮮に独立を認めて中国と提携すべきだと石橋は考えた。石橋は東洋経済新報社に太平洋問題研究会を設置し、国民党代議士の鈴木梅四郎、田川大吉郎、植原悦二郎、さらには知識人などもこれに参加した 13。 3) ワシントン体制の成立とその後 日本の学界では、1920 年代の国際秩序をワシントン体制という概念で論じることが通例になっている。すなわち、ワシントン体制とは日米英3 国による協調外交の体系であり、中国はそのもとに位置づけられており、ソヴィエトは体制から排除されていた。その起点となるのが、1921 年から翌年にかけて開催されたワシントン会議にほかならない。 ワシントン会議の9 カ国条約に即していうなら、北京関税特別会議や北伐、1929 年の中ソ紛争、中国「革命外交」などへの対応が試金石となり、ワシントン体制は1931 年の満州事変で崩壊したといえよう。もう1 つの支柱である5 カ国条約に関しては、1930 年の第1 次ロンドン海軍軍縮会議で、補助艦などについて軍備制限が補強された。だが日本は、1936 年1 月に第2 次ロンドン海軍軍縮会議に脱退を通告し、海軍軍縮について無条約となった。 日中間では王正廷外交総長と小幡酉吉駐華公使が、1922 年12 月に山東懸案細目協定や山東懸案鉄道細目協定を結んだ。山東鉄道については、4000 万円の中国国庫証券と引き換えに返還することとされた。青島には日本総領事館が同月に設置され、青島守備軍は撤退した14。 それでも中国では、国権回収運動が高まりつつあった。なかでも、日本の租借地であった旅順・大連をはじめ、教育権や商租権、鉄道権益などに対して回収運動がなされた。このうちの商租権とは南満州における土地貸借権であり、1915 年に日中間で締結された南満東蒙条約に基づいていた。とりわけ重要なのが、中国の旅順・大連回収運動であった。対華21 カ条要求の関連条約を無効とみなす北京政府は、関東州租借地の期限が1923 年3 月で満期になると日本に主張したのである。しかし、中国側の主張は日本に認められなかったため、示威行動や日貨排斥が中国の各地で行われた。 このころ日本は、中国に対して「対支文化事業」という文化的アプローチを打ち出して 12 服部龍二『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』89-112 頁。 13 増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995 年)73-81 頁。 14 本庄比佐子編『日本の青島占領と山東の社会経済 1914-22 年』(財団法人東洋文庫、2006 年)。 8 いた。第1 次世界大戦後に中国人の日本留学は2、3 千人に低迷しており、中国の留学先はアメリカが主流になっていた。義和団事件賠償金を中国への文化事業に還元する構想は、寺内内閣が中国の第1 次大戦参戦に伴って賠償金の支払いに猶予を与えたころから存在していた。1922 年6 月に顔恵慶外交総長が小幡駐華公使を通じて義和団事件賠償金支払いの2 年延期を要請すると、日本政府は文化事業構想を具体化していった。 日本政府は「対支文化事業」の基礎となる特別会計法を1923 年3 月に制定し、岡部長景外務省対支文化事務局事務官や入沢達吉外務省嘱託東大教授による現地視察を経て、対日留学の奨励、研究所や図書館の設置、および東亜同文会による中国での教育といった事業を推進しようとしたのである。その財源には、義和団事件賠償金残額のほか、山東懸案解決時の山東鉄道補償金も繰り入れられた。同年4 月には、北京政府から朱念祖江西教育庁長らが日本に派遣された。 1923 年12 月に再来日した朱念祖は、汪栄宝駐日公使とともに出淵勝次対支文化事務局長などと交渉した末に、その成果を1924 年2 月の覚書として結実させた。この出淵・汪覚書は、北京に図書館と人文科学研究所を設立し、上海に自然科学研究所を設立したうえで、博物館、医科大学、および病院の設立を検討し、日中同数の評議員会を設置して会長は中国人とすることを内容とした。したがって、中国側の意向をかなり反映していた。名称も、「対支文化事業」から「東方文化事業」と改められた。にもかかわらず、その後も東三省を中心とする教育権回収運動と呼応して、「東方文化事業」は文化的侵略であるとの批判が中国側から相次ぎ、1928 年の済南事件後には中国の委員が脱退するに至った15。 3.北京政府「修約外交」と第1 次幣原外交 1) 5.30 事件 出淵・汪覚書が1924 年2 月に成立したころ、日本の首相は清浦奎吾であった。清浦は山県有朋直系の官僚であり、主な閣僚の母体を貴族院の研究会などとする清浦内閣は、政党との関係では政友本党のみを与党とした。この清浦内閣に対して、憲政会、政友会、革新倶楽部の護憲三派は時代錯誤と批判した。その護憲三派が総選挙に圧勝したため、憲政会総裁の加藤高明を首班とする護憲三派内閣が6 月に誕生した。外交面ではソ連との国交を樹立するなどした加藤内閣は、男子普通選挙法を成立させてもおり、政党内閣は1932年の5.15 事件まで続いていく。 加藤内閣の外相が幣原喜重郎であった。1924 年7 月の議会で幣原は、中国に対する不干渉を堅持し、機会均等主義のもとに両国民の経済的な関係を深めることで、ワシントン会議の精神に依拠した国際秩序を形成すると公言した。幣原は、加藤内閣のほか第1 次若槻礼次郎内閣、浜口雄幸内閣、第2 次若槻内閣という憲政会─民政党系の内閣において、通算5 年以上も外相を務めた。 幣原は、第2 次奉直戦争や郭松齢事件などの中国内乱において不干渉の立場を貫いたが、 15 阿部洋『「対支文化事業」の研究──戦前期日中教育文化交流の展開と挫折』(汲古書院、2004 年)、山根幸夫『東方文化事業の歴史──昭和前期における日中文化交流』(汲古書院、2005 年)。 9 日本陸軍の上層部や中堅層のみならず外務省出先からも無策と批判されがちであった。第2 次奉直戦争で日本陸軍の出先は、裏面工作によって馮玉祥のクーデターをもたらした。 クーデター後には張作霖、馮玉祥、段祺瑞の会談が開かれ、段が臨時執政となった。郭松齢事件では関東軍が、満鉄付属地30 キロ以内での戦闘禁止を独断で通告している。このとき関東軍は、ソ連に操縦された馮玉祥と国民党が郭松齢に接近して東三省の赤化を企てていると認識したのである。これによって馮玉祥がソ連への亡命に追い込まれたのに対して、張作霖は関内での影響力を強め、大元帥として北京に君臨するに至った。 このころ中国には、日本の綿業資本によって紡績工場が設立されていた。中国にある日系の紡績工場は、在華紡と呼ばれた。もともと在華紡の中心は上海であったが、第1 次世界大戦後には青島や天津にも在華紡が進出した。日本の対中綿糸輸出は1914 年を頂点に減少しており、賃金高騰などによって日本紡績業の競争力が低下するなかで、中国の綿糸市場を掌握するためには現地に進出して紡績業を経営する必要があった16。だが1925 年2月上旬には、内外綿株式会社や大日本紡績、および日華紡績といった上海の主要な在華紡でストライキが行われた。ストライキは青島の在華紡にも波及し、4 月には大日本紡績の職工約2500 人が賃上げや労働条件の改善を要求してストライキに入った。ストライキに対して日本側は、沈瑞麟北京政府外交総長に取り締まりを要請した。 すでにドイツやソ連と対等な条約を締結していた北京政府は、中国外交史上初の賠償をドイツから獲得することに成功しており、列国との間でも不平等条約の改廃を目標とする「修約外交」の機会をうかがっていた。この「修約外交」とは、狭義には不平等条約の期限が到来した際に改廃を求めるものであり、広義には1912 年以来の北京政府による不平等条約改正外交全般を含んでいる。 1925 年5 月30 日にはイギリスを中心とする租界警察が、上海でデモに発砲して多数の死傷者を出した。このため、6 月からは大規模なストライキやデモが中国の主要都市で行われた。6 月1 日から3 回にわたって沈瑞麟北京政府外交総長は、日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、オランダ各国の公使などで構成されていた駐華公使団に対して、逮捕された学生などの釈放や事件の再発防止を強く要請した。さらに北京政府外交部は6 月24 日、不平等条約によって諸外国との友好関係が阻害されていることを5.30 事件の一因とみなし、中国の国際的地位は第1 次世界大戦の敗戦国にも劣っているとして、領事裁判権や租借地での改善を駐華公使団に提起した。このため5.30 事件は、不平等条約の改正問題につながった。 5.30 事件について中国の世論は、弾圧を主導したイギリスに最も批判的であった。しか 16 高村直助『近代日本綿業と中国』(東京大学出版会、1982 年)107-132 頁。商工省貿易局「日華貿易ノ概況」1931 年5 月、11-13 頁によると、日本の対中貿易額は次のように推移していた(単位円)。 90,037,354(1910 年)、 88,152,792(1911 年)、 114,823,727(1912年)、 154,660,428(1913 年)、 162,370,924(1914 年)、 141,125,586(1915 年)、 192,712,626(1916 年)、 318,380,530(1917 年)、 359,150,818(1918 年)、 447,049,267(1919 年)、 410,270,497(1920 年)、 287,227,081(1921 年)、 333,520,262(1922 年)、 272,190,662(1923 年)、 348,398,787(1924 年)、 468,438,956(1925 年)、 421,861,235(1926 年)、 334,183,608(1927 年)、 373,141,991(1928 年)、 346,652,450(1929 年)。 10 し、「日英米三国協力」を基調とする幣原外相は、警察責任者の処分や犠牲者への救恤による5.30 事件自体の解決を優先し、直接関係のない条約改正は審議すべきでないという方針であった。北京政府外交部の派遣した交渉員と矢田七太郎駐上海総領事の間で、ストライキ解決の条件が交渉された。労働組合法に基づく工会の承認、ストライキ中の賃金支給、賃上げ、理由なき解雇を行わないことなどをめぐって協議が行われた末に、日中間で妥協が成立した。 2) 北京関税特別会議 ワシントン会議で1922 年2 月に調印された中国関税条約は、関税率を速やかに5%に改定して、地方政府の課す通行税である釐金を廃止するために特別会議を条約実施後3 月以内に開催し、その特別会議においては2.5%の増徴を行うと規定していた。つまり、合計で7.5%の付加税を承認する方向が打ち出されたのである。その後に中国の関税率は5%に改定されたものの、フランスの批准が遅れたため関税会議は長らく開催されなかった。ようやくフランスが1925 年8 月にこれを批准すると、北京政府は関税会議を10 月に開催すべく各国に呼びかけた。政権基盤の脆弱な北京政府は、会議の成功によって財政を確保し、正統性を高めることに努めた。 北京関税特別会議は1925 年10 月26 日に開幕した。中国はこの会議に沈瑞麟、顔恵慶、王正廷、黄郛、蔡廷幹の各全権らを送った。日本代表団は日置益を首席とし、次席の芳沢謙吉に加えて佐分利貞男、重光葵、堀内干城、および日高信六郎らが随員となった。会議は、沈瑞麟外交総長の開会宣言と段祺瑞執政の歓迎挨拶によって開幕した。王正廷全権は、関税自主権の回復を要求し、5%から30%の差等税率を暫定措置とすることを提起した。これに対して日置全権は、関税自主権を原則的に承認する用意があると演説した。この原則的承認案が合意を得ると、関税自主権獲得までの暫定措置が最大の焦点となった。 2.5 から22.5%の差等税率という日米英共同の妥協案が1926 年3 月に採用されると、焦点は増収分を債務整理に充当させるか否かという問題に移った。イギリスが2.5%付加税の無条件承認を打ち出したため、充当問題を未決のままに付加税を先行させることで合意が成立するかに思われた。だが、債務整理などを重んじた幣原は、この付加税先行案に賛同しなかった。そのため、会議はこれといった成果のないままに、7 月に無期延期となった。幣原の秩序構想とは、概してワシントン会議における決議の枠内にとどまろうとするものであった17。 北京関税特別会議が不毛な結果に終わったためもあり、北京政府の外交に対する一般的な評価は高くない。しかしながら、北京政府の「修約外交」に具体的な成果がなかったわけではない。国務総理兼外交総長の顧維鈞は、1926 年11 月に臨時弁法と呼ばれる暫定協定を導入することで、中比和好通商行船条約を強引に失効せしめている。そのほか北京政府は、1920 年代前半までにドイツ、オーストリア、ソ連の天津租界を回収していた。さらに1927 年に北京政府は、ベルギーとの新条約交渉において天津租界を回収する合意を取りつけた。このため天津租界の保有国は、日本、イギリス、フランス、イタリアだけとな 17 Akira Iriye, After Imperialism The Search for a New Order in the Far East, 1921-1931 (Cambridge Harvard University Press, 1965), pp. 57-88;臼井勝美『日本と中国』196-254 頁。 11 った18。 3) 北伐と南京事件 その間に広州では、1924 年1 月に国民党第1 回全国代表大会で連ソ・連共・労農扶助の3 大政策が決定され、第1 次国共合作が成立していた19。さらに広州の国民政府では、蒋介石が1926 年6 月に国民革命軍の総司令となった。その国民革命軍が、中国の再統一に向けて北方へ軍事行動を展開した。北伐の進展に伴って、1927 年1 月には国民政府が武漢に移された。さらに国民革命軍は、同年3 月に上海や南京を占領した。日本では1926年1 月に加藤首相が死去し、同じく憲政会の若槻礼次郎内閣が成立していた。若槻内閣には幣原外相が留任しており、元大蔵官僚の若槻は外交を幣原に任せた 。 1927 年3 月24 日に南京が国民革命軍によって占領されたとき、南京では、日英の領事館や外国人などが中国の国民革命軍によって襲われた。アメリカ系の金陵大学も被害にあった。これに対してイギリスとアメリカは、南京の城内を軍艦で砲撃した。しかし日本は、居留民の要請もあって報復しなかった。若槻内閣の幣原外相は、この件で中国への制裁に反対であった。むしろ幣原は、蒋介石を評価してこれを交渉相手にしようとした。このため幣原は、軟弱外交として非難された。 南京事件翌日の3 月25 日には、第6 軍第17 師団長の楊杰が南京領事の森岡正平を訪れた。ここで楊は、南京事件について遺憾の意を表したうえで、「掠奪ハ在南京共産党部員カ悪兵ヲ煽動案内セルニヨルモノニシテ即時徹底的ニ取締ヲ為シ外交部ノ設置ト共ニ賠償ノ交渉ニ応ス」と述べた。このように楊が南京事件の責任を共産党に帰したことは、森岡の電報を通じて幣原の中国観にも影響した。のみならず、黄郛を介して蒋介石も、南京事件が共産党によるものだという見解を日本側に示し始めた。 そこで幣原は、蒋介石らに「深甚ナル反省ト決意トヲ促サムコト」を矢田上海総領事に訓令した。つまり、蒋介石に対して幣原は、「共産派」への断固たる措置を暗に求めたのである。中国の秩序形成を支援するという観点から「外交的平和的方法」を用いつつ、「蒋介石ノ如キ中心人物」によって時局を収束させるべきだと幣原は考えた。このような判断の根底には、経済的利益を重視する国益観があった。蒋介石は4 月12 日、上海で反共クーデターに至った。 蒋介石を交渉相手とすることに加えて、幣原の方針にはもう1 つの特徴があった。すなわち、イギリスやアメリカと歩調を合わせることである。南京事件において日本は、イギリス、アメリカ、フランス、イタリアとともに一度は共同通牒を行った。しかし、その後は列国との調整が難航した。とりわけ、イギリスが中国への再通告を主張したのに対して、アメリカはそれに批判的であった。このため、中国との交渉は各国別となった20。 18 服部龍二『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』156-169 頁。 19 その前後の孫文に関する最近の研究として、田嶋信雄「孫文の『中独ソ3 国連合』構想と日本 1917-1924 年──『連ソ』路線および『大アジア主義』再考」(服部龍二・土田哲夫・後藤春美編『戦間期の東アジア国際政治』中央大学出版部、2007 年)3-52 頁。 20 服部龍二『幣原喜重郎と二十世紀の日本──外交と民主主義』(有斐閣、2006 年)110-112 頁。ただし、南京事件の原因について現在の学界では、「共産派」に断定されているわけではなく、北軍陰謀説などもある。この点については、栃木利夫・坂野良吉『中国国民革命──戦間期東アジアの地殻変動』(法政大学出版局、1997 年)259-262 頁を参照。 12 そのほか同年4 月3 日には、漢口事件が発生した。日本外務省の調書によるとその契機は、漢口の日本租界において日本人水兵2 名が、中国人の群衆によって暴行を受けたことであった。このとき日本は、海軍陸戦隊を上陸させることで租界を確保したが、それでも幣原を軟弱外交とする世論は高まっていた。他方、反共クーデターを起こした蒋介石は、南京に国民政府を成立させた。汪兆銘の率いる武漢国民政府も、9 月に南京の国民政府と合流した21。 21 外務省編『日本外交文書』昭和期Ⅰ、第1 部、第1 巻(外務省、1989 年)660-666 頁、家近亮子『蒋介石と南京国民政府──中国国民党の権力浸透に関する分析』(慶應義塾大学出版会、2002 年)55-136 頁。 日本の大陸拡張政策と中国国民革命運動 服部龍二<その2> 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 日中歴史共同研究
https://w.atwiki.jp/areb/pages/187.html
アイドレス「になし国国民」(職業) L:になし国国民 = { t:名称 = になし国国民(職業) t:要点 = ぽちのプロマイド,赤毛,竜への憎しみに燃える瞳 t:周辺環境 = になし藩国 t:評価 = 体格3,筋力2,耐久力4,外見3,敏捷3,器用2,感覚2,知識0,幸運2 t:特殊 = { *になし国国民の職業カテゴリ = 特別職業アイドレスとして扱う。 *になし国国民は、ぽちを守るとき、もしくは竜と戦う時に+3の修正を得る。 *になし国国民は同調判定を行う際に+8の修正を得る。 } t:→次のアイドレス = 竜狩り?(職業),テロ組織”ぽちの怒り”?(強制イベント),商店街?(施設),巨大地下迷宮?(イベント) } はてない国人 騎士 黒騎士 それぞれから要点継承しています。 はてない国人+犬妖精+騎士+黒騎士を置き換え、 はてない国人+になし国国民+騎士+黒騎士へ になし藩国戦史より、序文 母親が自分の子を愛するようにその体を心配し、父親が自分の子を誇るようにその行いを語る。 になし藩国民とはそういう民である。 ほかの誰があの人を気にかけるより早く、思う気持ちは誰に関わらず決して負けない。 相手が皇帝だろうと、それが子供でも老人でも確実に口にして憚らない。 になし藩国民とはそういう民である。 何のことはない ただ彼らはあのおてんばな人が好きなだけである。 あの人が国を駆け回ったその日を忘れることなく、ただ笑った思い出をしり、語るのであった。 になし藩国。ぽちによって立つ赤く燃える髪の国。 その根本はただ、好きだと言う原始的な思いであった。 になし藩国という国がある。ただぽちが好きだという国是によりなる国である。もっとも、そうなったのはごく最近の事ではあるが、今は置く。 かつてはただ領土があるのみの、なんら変哲のない国であった。 その運命が変わったのはすなわち、あのになし藩国炎上である。 運命示すイクドラシルが伸びて定めるのはやはり運命であったといえよう。 この時よりになし藩国はただのぽち姫ファンをやめた。 全ての民はその瞳に赤熱するが如き意志を宿し、その髪は燃え上がるような赤を宿すようになったと、当時の学者は記している。 (文 Areb) ~になし藩国・戦いの歴史より~ になし藩国とコパイロット になし藩国の戦いの歴史は、I=Dと騎士の戦いの歴史でもある。 歩兵が必要な時は騎士として、I=Dが必要な時はそれらのパイロットおよびコパイとして、 になし藩国民はその責務を全うしてきた。 その戦いの歴史の中で常に重要視されてきたのはコパイロットとしての騎士である。 パイロット+コパイ騎士×2の構成が戦力として有用である、というのは元より、国の気質が大いに影響されている。 要するに「自分が主役でどうこうよりも、脇役として誰かを支えたい」と思う者が多いのであった。 勿論その『誰か』に当て嵌まる人物がヒロイックなら言う事なし。 になしの民にとってヒロイックとは大概の場合ぽち姫そのものであり、故に全ての国民は王女の力になる事こそを一義とする。 例え、あのおてんば姫が「がるる」した相手が、オーマだろうが、なりそこないだろうが、それ以上のものであろうが。 例え、あの無謀な姫を、共和国が見放し、帝国が見捨て、全ての世界が見限ろうと。 それでも、になしの民はぽち姫の力になりたいのだ。 あの正義感の塊の彼女が許せないものを見つけ、先陣切って突き進むのならば、 になしの技術陣は総力を上げて王女のゴールデンを仕上げ、 になしの兵は姫に負けじとI=Dを駆り、 になしの多くの民は歓声をもってぽちの武運を祈る。 そして、になしの騎士は、 常に彼女の傍には彼女を慕う者が居る事を示すように、 遠い空の下、そこには居られない多くの者の代理として、 姫と共にゴールデンを駆るのだ。 故に、になし藩国民はコパイロットを尊ぶ。 誰かを支え、誰かを守るときに最大の力を発揮する。 そうありたいと願い、そう生きる民の国がになし藩国であった。 ここでは、比較的地味な役割であるコパイの戦歴の中から、 特に大きな役割を担った二つの戦いについて記そうと思う。 22407002 後ほねっこ領奪還戦 この日、コールドスリープから目覚めたぽち王女と共に、 帝國共和国合同で編成された部隊が後ほねっこ領にいた。 白オーマのアラダ達によって占拠されたこの地を奪還する為である。 まず偵察部隊を出し、持ち帰った情報を元に本隊が動く手はずだった。 その報は突然訪れた。 偵察部隊として出した二部隊の内一部隊が全滅。 もう一部隊が救助を求めている、と。 偵察部隊救出の為、急遽編成された王家仕様トモエリバーのコ・パイロットに、下丁と玲瓏堂が選ばれた。 本隊にも偵察部隊にも編成されていなかった為であった。 「月空さん達の偵察部隊がピンチらしいです」 「そうみたいだな」 「こちらにある戦力はトモエリバー一機。敵は何でもアラダが1000居るとか」 「絶望的、と言う奴だな」 「何、我らの王女が見ておられるのです。絶望など無いも同じですよ」 「うむ、そうだな。それに、こちらにも白にして秩序殿がいる。やれるだけやるか」 「はい。行きましょう、下丁さん」 たった一機だけで、彼らは1万2千以上ものアラダ達がひしめく戦場へと向かった。 トモエリバーは帝国最大の駄作と言われてきた。 ただ、圧倒的に優れている所もあった。ARが18と高かったのだった。 これの意味する所は、敵が動く前に動く事が出来る、である。 結果として、偵察部隊が全滅する前に現れて敵を撃破。 全滅をなかった事にすると言う離れ業をやってのけた。 その後も彼らの乗るトモエリバーは持てる弾のすべてを撃ちつくすまで戦い、 作戦の中で大きな戦果を挙げた。 10408002 プリンセスハートガードの初陣 禁断の技術に手をつけた者が暴走を始めた事が発端となり、その影響を受けて 各地に「なりそこない」と呼ばれる敵が出現。世界を崩壊させ始めていた。 レムーリアの空の下、発掘兵器「ファーヴニル」のコ・パイロットスペースに、イタと月空が乗っている。 この地には1万を数える「なりそこない」がいた。先発している暁の円卓別働隊を探しつつ、 本隊をなりそこない部隊の最深部へと送り届ける事になっていた。 「毎度の事ながらすごい戦力差ですね、イタさん」 「戦力の差など、大した問題ではありませんわ」 「…そうですね。私が助けられた時もそうでした」 「ええ。どれだけの数が来ようと、この子はそう簡単にやられはしません」 「ファヴさんすごいですね」 「そうですとも。わたくし達が手塩にかけた子ですから」 「パイロットよりコパイ両名へ、出撃準備よろし?」 「いつでも」 「勿論ですわ」 「了解。ファーヴニル、出撃します」 レムーリアでは銃火器などが使えないと言う制約があった。 世界によって文明発達の度合いが異なる為である。 だがファーヴニルはそんな制約をものともせずに空を駆けた。 敵陣を偵察し、ただ一機先行して白兵を行い、全部隊合流後も休む事無く敵陣へと切り込んだ。 やがて敵の布陣に穴が開き、本隊は無事なりそこない達の最深部へとたどり着いた。 この戦いでファーヴニルの果たした役割はとても大きな物だったと言えるだろう。 (文 月空)
https://w.atwiki.jp/kokubou/pages/11.html
尖閣諸島領有権問題 尖閣諸島とは 尖閣諸島は東シナ海にある魚釣島などをはじめとする大小の無人の島々のことです。一番大きい魚釣島を基点とすると石垣島と台湾まではほぼ等距離で約170㎞、沖縄本島まで約410㎞、中国大陸までは約330㎞の距離があります。明治28年に閣議決定で大日本帝国の領土として沖縄県に編入されています。昭和43年の東シナ海海底の学術調査で同諸島周辺海域に石油が埋蔵されている可能性があると発表されて以降、台湾(中華民国)と中国(中華人民共和国)が領有権を主張している。竹島問題、北方領土と並んで日本の領土問題の一つである。 尖閣諸島関連年表 明治28年大日本帝国に編入。 明治29年頃からカツオ節製造など経済活動が行われ、延べ数百人の日本人が従事する。 昭和20年ポツダム宣言受諾。一部が米軍の射爆場として使用される。 昭和43年秋東シナ海海底学術調査で石油の埋蔵が指摘される。 昭和44年石垣市が標柱を設置。 昭和46年中華民国と中華人民共和国が領有権を公式に主張。 尖閣諸島が日本領である根拠 沖縄が返還された際アメリカ合衆国はその協定の範囲に尖閣諸島も含めている。 明治28年に閣議決定で大日本帝国の領土として正式に編入している。その際に中国の清政府は異議申し立てを行っていない。 明治29年頃から同諸島の魚釣島ではカツオ節の製造が行われており、延べ数百人の日本人が同島で経済活動を行っていたことが判明している。 中国共産党政府、中国国民党政府が領有権を主張する前の昭和44年に石垣市が地籍表示の為標柱を立てている。 中国(中華人民共和国)が尖閣諸島を自国領とする根拠
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/70.html
塘沽協定(たんくーきょうてい)は、1933年5月31日に河北省塘沽で締結した満州事変の停戦協定。 妥結に至る背景 満州事変によって満州国が建国されると、それまで強硬な抵抗姿勢を取っていた孫科内閣は倒れ、代わりに対日妥協策を取る汪兆銘内閣が成立した。その一方で日本軍は1933年に熱河省へ侵攻、万里の長城(長城線)以北の地域を満州国に併合する。更に長城線を越えて河北省へと進撃するが、ここで宋哲元率いる29軍の抵抗に遭ってしまう。何とか侵攻は成し遂げたが日本は国際連盟を脱退して国際的な孤立感を深め、国民政府との間で一応の妥協点を探ることになった。 最初のうちは北平政務委員長の黄郛和と関東軍副参謀長の岡村寧次との間で秘密裏に交渉が持たれていたが、最終的には国民政府軍事委員会から何応欽が全権として出席し協定妥結にこぎつけた。 協定の骨子 国民政府軍は河北省東北部から撤退し、軍事的な挑発行為を行わない。 前項が遵守されているか日本軍が監視することを認める。国民政府もそのための便宜を図る。 日本軍は長城線以北へ撤退する。 長城線以南~国民政府軍撤退地域は国民政府の警察によって治安を維持する。 影響 この協定によって国民政府(中国国民党)は事実上、満州国の建国を認めたばかりか華北における主権の一部を喪失する結果となってしまい、協定を妥結した汪兆銘は非難の矢面に立たされることになった。また中国共産党は協定を売国的と非難声明を出した。 一方、日本軍は大部分の軍勢を撤退させたものの、一部を「国民政府軍の行動を監視するため」と称して駐留させていた。 関連項目 満州事変 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月6日 (日) 21 55。
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2566.html
日中歴史共同研究 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 第1部 近代日中関係の発端と変遷 第3章 日本の大陸拡張政策と中国国民革命運動 日本の大陸拡張政策と中国国民革命運動 服部龍二<その2> 服部龍二 中央大学総合政策学部准教授(外部執筆委員) http //www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 目次 日本の大陸拡張政策と中国国民革命運動 服部龍二<その1> 日本の大陸拡張政策と中国国民革命運動 服部龍二<その2>4.国民政府「革命外交」と田中外交・第2 次幣原外交1) 第1 次山東出兵、東方会議、山本─張鉄道協約 2) 済南事件と張作霖爆殺事件 3) 国民政府「革命外交」 4) 奉ソ戦争と経済関係 5) 中国における日本人コミュニティ おわりに 4.国民政府「革命外交」と田中外交・第2 次幣原外交 1) 第1 次山東出兵、東方会議、山本─張鉄道協約 若槻内閣は1927 年4 月20 日に退陣し、政友会の田中義一内閣が発足した。政権交代の主因は金融恐慌であったが、政友会は幣原の外交にも不満をつのらせていた。北伐が華中から華北に差し掛かると、田中内閣は5 月下旬に居留民保護のため山東出兵を行った。山東省には、日本陸軍の1 個旅団が派遣された。国民革命軍は山東省から撤退し、蒋介石が8 月に武漢政府と南京政府の妥協策として下野すると、第1 次北伐は中断された。来日した蒋介石は11 月に田中を私邸に訪問したものの、田中と蒋介石の溝は埋まらなかった22。 この間の1927 年6 月下旬から7 月上旬に田中内閣は、芳沢謙吉駐華公使や武藤信義関東軍司令官らを招集し、東方会議という大規模な会議を開催した。ここで田中は、包括的な方針として「対支政策綱領」を訓示した。田中にとって理想的なのは、反共的な傾向にある蒋介石や張作霖が中国の南北を分割して統治することであった。田中は、蒋介石による統一を認めつつ、張作霖を東三省に帰還させ地方政権としての安定を図ろうとした。 もっとも田中の構想は、日本外務省や陸軍の方策を集約していなかった。東方会議の総決算であるはずの「対支政策綱領」には雑多な主張が盛り込まれており、前文では「日本ノ極東ニ於ケル特殊ノ地位ニ鑑ミ支那本土ト満蒙トニ自ラ趣ヲ異ニセサルヲ得ス」としながらも、第6 項では「満蒙南北ヲ通シテ均シク門戸開放機会均等ノ主義ニ依リ内外人ノ経済的活動ヲ促ス」とされた。「対支政策綱領」には矛盾する部分が少なくないのである23。 東方会議に関連して、「田中上奏文」と呼ばれる怪文書がある。この「田中上奏文」とは、田中首相が昭和天皇に上奏したとされるものである。その内容は、東方会議に依拠した中国への侵略計画であった。だが「田中上奏文」は、実際の東方会議と大きく離反していた24。 22 佐藤元英『昭和初期対中国政策の研究──田中内閣の対満蒙政策』(原書房、1992 年) 23-76 頁、小林道彦「田中政友会と山東出兵──1927-1928 (1)(2)」(『北九州市立大学法政論集』第32 巻第2・3 号、第33 巻第1 号、2004-2005 年)1-33、1-52 頁。 23 佐藤元英『昭和初期対中国政策の研究』77-164 頁。 24 重光葵駐華臨時代理公使らが国民政府外交部に「田中上奏文」の根本的な誤りを説いており、満州事変前の中国は日本の取り締まり要請にある程度応じていた。このため国民政府外交部は、「田中上奏文」を偽書と知っていた可能性が少なくないと思われる。その史料的根拠などについては、服部龍二「『田中上奏文』と日中関係」(中央大学人文科学研究所編『民国後期中国国民党政権の研究』中央大学出版部、2005 年)455-493 頁、同「『田中上奏文』をめぐる論争──実存説と偽造説の間」(劉傑・三谷博・楊大慶編『国境を越える歴史認識──日中対話の試み』東京大学出版会、2006 年)84-110 頁、同「満州事変後の日中宣伝外交とアメリカ──『田中上奏文』を中心として」(服部龍二・土田哲夫・後藤春美編『戦間期の東アジア国際政治』)199-275 頁を参照されたい。 13 田中内閣は、満州における鉄道政策を重視していた。田中内閣は同年10 月、満鉄社長の山本条太郎を介して張作霖と満蒙5 鉄道の協約を成立させた。山本・張鉄道協約と呼ばれるものであり、田中外交は張作霖との関係を柱の1 つとしていた。さらに田中内閣は、敦化―老頭溝―図們線、長春―大賚線、吉林―五常線、.南―索倫線、および延吉―海林線の5 鉄道建設請負を骨子とする山本・張鉄道協約の細目を交渉し、1928 年5 月には吉林―五常線を除いて各鉄道の建設請負契約を成立させた。 2) 済南事件と張作霖爆殺事件 蒋介石が1928 年4 月に北伐を再開すると、田中内閣は第2 次山東出兵を行った。済南で居留民保護に携わった日本軍は、支那駐屯軍臨時済南派遣隊と第6 師団であった。日本軍と国民革命軍は、5 月3 日に済南で衝突した。藤田栄介駐青島総領事は、「三日午前十時頃邦人家屋内ニ支那兵ノ掠奪アリトノ報ニ我軍四名救護ノ為赴キタルニ対シ発砲負傷セシメタルニ付我軍已ムナク応戦」と伝えた25。ただし、多くの事件と同様に、済南事件の発端に関して日中の史料は相容れない。 この済南事件に際して田中内閣は、第3 次山東出兵に踏み切った。正確な数字を挙げるのは困難であるが、済南事件では日本側よりも中国側に多数の死傷者を出している。このころ吉野作造は、「今度の様な形で支那と戦ふは我国に取て一大不祥事である」と論じていた26。済南事件の事後処理をめぐって、日中交渉は難航していった。 それでも、済南での松井石根参謀本部第2 部長―張群間交渉、南京での矢田七太郎駐上海総領事―王正廷外交部長間交渉、上海での芳沢謙吉公使―王正廷外交部長間交渉、および重光葵駐上海新総領事―周龍光外交部第2 司長間交渉を経て、ようやく1929 年3 月に芳沢公使と王正廷外交部長が済南事件解決文書に調印した。すなわち、「該事件ニ伴フ不快ノ感情ヲ記憶ヨリ一掃シ以テ将来両国国交ノ益々敦厚ナランコトヲ期スル」との共同声明、共同調査委員会の損害調査による双方への賠償、国民政府による日本人保護の保証、および山東派遣軍の2 カ月以内の撤退などによって済南事件は解決されたのである27。 他方で田中首相は1928 年5 月、東三省治安維持への積極的関与を全面に押し出した閣 25 外務省編『日本外交文書』昭和期Ⅰ、第1 部、第2 巻(外務省、1990 年)344 頁。なお、北伐期日中関係についての中国側研究として、邵建国『北伐戦争時期的中日関係研究』(北京:新華出版社、2006 年)がある。 26 吉野作造『吉野作造選集』第9 巻(岩波書店、1995 年)345 頁。 27 外務省編『日本外交文書』昭和期Ⅰ、第1 部、第3 巻(外務省、1993 年)501-507 頁。 14 議決定を踏まえ、奉天軍が東三省へ早期撤退した場合には国民革命軍の追撃を阻止するものの、交戦状態にて退却した場合には両軍ともに武装解除を要求すると芳沢公使に訓令していた。田中としては奉天軍を早期撤退させることを意図し、最後的手段としてのみ武装解除を想定していたのである。 国民政府は田中内閣の方策を内政干渉と批判する一方で、奉天軍撤退の際には追跡せず、閻錫山に京津地区の治安を担当させる意向を日本側へ示した。張作霖も奉天に向けて出発することを町野武馬顧問に伝えており、田中首相の構想は表向きには批判を浴びながらも、実際には中国南北の両勢力に了承されつつあるかにみえた。 田中構想に対する痛烈な批判は、むしろ日本陸軍から寄せられた。白川義則陸相は従来の張作霖援助論から一転して張作霖下野を主張するようになっていたし、荒木貞夫第1 部長も奉天軍の武装解除を目的とした満鉄付属地外への派兵を熱心に説いていた。陸軍中央は、村岡長太郎司令官が率いる関東軍の立場に接近していたのである。 関東軍の謀略によって6 月4 日に発生した張作霖爆殺事件は、田中首相の構想を現実に葬り去るものであった。すなわち、張作霖が北京から奉天へと向かうと、関東軍高級参謀の河本大作大佐らは張作霖を列車ごと爆殺した。この張作霖爆殺事件は、当時、満州某重大事件とも称された。この事件で田中内閣は、対満州政策の柱と位置づけてきた張作霖を失った。張作霖没後の満州では、息子の張学良が実権を掌握した。 張学良政権は、12 月に蒋介石の南京国民政府と合流した。このことは、中国の再統一を意味した。中国史上に易幟と呼ばれるものである。張学良政権が満州問題の外交権を国民政府に移管すると、田中内閣の重視する満州での鉄道政策は停滞した。 3) 国民政府「革命外交」 中国南方では国民政府が、正式に承認される前から積極的な対外政策を展開していた。その手法は実力行使をも視野に入れた国権回収策であり、しばしば「革命外交」と称された。国民政府「革命外交」の典型は、1927 年1 月の漢口・九江イギリス租界回収であろう。最初に「革命外交」を唱えたのは陳友仁であった。陳友仁は広州国民政府の外交部長代理を経て、武漢国民政府の外交部長となった。1928 年になると南京国民政府外交部長の黄郛や王正廷が、中国の関税自主権を欧米列国に承認させた。 欧米列国に関税自主権を承認させたのは国民政府初期外交の主たる成果であり、通商条約改正、差等税率の暫定的導入、外資系輸出に対する付加税導入、および陸境特恵関税廃止といった通商問題でも、国民政府は成果を収め始めていた。もっとも、そうした外交的成果は、黄郛や王正廷による政治指導だけに還元されるべきではない。アメリカなどの中国寄りな対応は、すでに北京政府末期の「修約外交」によって相当程度まで準備されていたし、国民政府の通商政策も北京政府の「修約外交」を大筋において継承したものだからである。このような中国の方針は、日本にも対応を迫るものであった。関税自主権承認で遅れをとった田中内閣は、差等税率や輸出付加税への対処をめぐってイギリスとの共同歩調を模索したが、うまくいかなかった。 田中内閣は、国民政府による漢冶萍公司や南潯鉄道の接収を阻止したものの守勢に立たされており、満蒙鉄道交渉も頓挫していった。張学良の政権が、易幟に際して中国東北を 15 めぐる外交権を国民政府に移管したためである28。後年に王正廷は、「アメリカ政府、とり わけアメリカの国民は、常に大いなる友情を中国に示していた」し、ランプソン駐華イギ リス公使は「知的かつ多才であり、完全なる対等を求める中国に同情的であった」と回想 している。他方で王は、「対日政策には細心の注意を払った」という29。 このように田中外交は、次第に手づまりの状態となっていた。1928 年から1929 年ごろ の国民政府「革命外交」と田中内閣の対応については、以下の表を参照されたい。日本国 内では野党の民政党が、田中外交への批判を強めた。張作霖爆殺事件の真相を知った田中 首相は一旦、昭和天皇に厳罰を約束した。だが、陸軍の圧力が高まったため、関係者の行 政処分にとどまった。これによって河本大作は停職となり、関東軍司令官の村岡長太郎は 予備役になった。昭和天皇が田中の変節を叱責すると、田中内閣は1929 年7 月に総辞職 した。民政党の浜口雄幸内閣が誕生し、外相には幣原が復帰したのである。 国民政府「革命外交」と田中内閣の対応(1928-1929 年) 「革命外交」の3 類型 細目 田中内閣の対応 不平等条約改正策 関税自主権の回復 次期内閣に持ち越し 通商政策 新通商条約締結 交渉には合意 差等税率暫定導入 差等税率導入を承認したうえで外債整理への充当を追求して失敗 外資系輸出に対する付加税 徴収阻止に失敗 陸境特恵関税廃止 抗議によって延期せしめた 重要産業接収策 漢冶萍公司接収 抗議して接収を放棄させた 南潯鉄道国有化 債権保持に成功 出典:服部龍二『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』(有斐閣、2001 年)222 頁 4) 奉ソ戦争と経済関係 1929 年の下半期には、中ソ間に紛争が起こった。その発端は、中国による東支鉄道の回収策であった。当初、中国側の当事者が張学良政権であったことから、この中ソ紛争は奉ソ戦争とも呼ばれる。日本では浜口内閣で幣原が外相に復帰しており、次の第2 次若槻内閣にも幣原は外相として留任する。幣原は、奉ソ戦争について汪栄宝駐日中国公使やトロヤノフスキー(Aleksandr A. Troianovskii)駐日ソ連大使と個別に会談し、中ソ間の直接交渉を斡旋するように努めた。 28 久保亨『戦間期中国〈自立への模索〉──関税通貨政策と経済発展』(東京大学出版会、1999 年)23-49 頁、服部龍二『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』218-226頁、小池聖一『満州事変と対中国政策』(吉川弘文館、2003 年)115-127 頁、後藤春美『上海をめぐる日英関係 1925-1932 年──日英同盟後の協調と対抗』(東京大学出版会、2006年)98-99、154 頁。「革命外交」については、李恩涵『北伐前後的「革命外交」(1925-1931)』(台北:中央研究院近代史研究所、1993 年)も参照。 29 服部龍二編『王正廷回顧録 Looking Back and Looking Forward』(中央大学出版部、2008 年)131-132 頁。 16 幣原の発想は、ソ連側の要求が原状回復である限り、中国側はこれを認めねばならないというものであった。他方で、アメリカのスティムソン(Henry L. Stimson)国務長官は、日米英仏など不戦条約の批准国で委員会を構成しようとした。しかし、王正廷外交部長は、スティムソンの試みを有効とみなさなかった。やがて張学良は、東支鉄道の復旧や検挙者の即時解放というソ連側要求をほぼ全面的に承認する意向を示した。このため、ハバロフスクを舞台とする中ソ交渉は急速に妥結へ向かった。東北政権とソ連政府は12 月に東支鉄道の原状回復についての議定書に調印し、国民政府とソ連政府の間でも同様の議定書が調印された。奉ソ戦争はようやく終結したのである30。 同年11 月には佐分利貞男駐華公使が、箱根のホテルで怪死を遂げた。そこで日本は、小幡酉吉を後任の駐華公使に任命した。すると中国は、小幡へのアグレマンに難色を示した。アグレマンとは、大使や公使の任命に先立って、派遣先の国家が与える承認のことである。かつて対華21 カ条要求のときに小幡が駐華日本公使館の1 等書記官であったことを理由に、国民政府は小幡へのアグレマンに難色を示したのである。しかも王正廷外交部 長は、小幡にアグレマンを与える交換条件として、公使館を大使館に昇格することを日本に提起した。だが小幡は、すでに対華21 カ条要求後の1918 年から1923 年に駐華公使を務めており、その後も駐トルコ大使などになっていた。幣原外相は、中国の求める交換条件を理不尽なものとして退けた。結局のところ中国は、小幡へのアグレマンを拒否した。 浜口内閣は、経済不況の克服を政策の目標に掲げており、井上準之助蔵相のもとで金解禁を断行した。のみならず、中国への経済進出は重要課題の1 つであった。1930 年1 月から幣原は、駐華臨時代理公使の重光葵を関税自主権の交渉に当たらせた。中国で日中関税協定の推進に積極的なのは、財政の安定化を図る宋子文財政部長であった。王正廷外交部長は、むしろ治外法権の撤廃に関心を寄せていた。そこで重光は宋子文財政部長と関税自主権交渉を進め、日中関税協定が5 月に調印された。この協定で中国に関税自主権が認められ、その交換公文では、綿製品や海産物の現行税率を3 年間据え置きとするほか、関税協定実施の4 カ月後に特恵関税を廃止するなどと規定された。 さらに日中関係では、治外法権撤廃問題や外債整理問題が中心的な課題となった。王正廷外交部長が治外法権の即時撤廃を強く求めたのに対して、列国の足並みはそろわなかった。治外法権撤廃とともに焦点となったのは、中国の外債をいかに償還せしめるかという問題であった。日本は西原借款などの不確実債権を保有しており、以前から外債整理交渉を行っていた。国民政府内では、宋子文が対外的信頼を回復して中国への投資を活性化させようとしたのに対して、王正廷は西原借款償還の否認を公言した。中国において西原借款は、軍閥間の内争に利用されたものとして悪名高かったからである。そこで重光は、宋子文や蒋介石と提携するように努めた。だが、1931 年9 月には満州事変が勃発し、外債 30 土田哲夫「1929 年の中ソ紛争と『地方外交』」(『東京学芸大学紀要 第3 部門 社会科学』第48 集、1996 年)173-207 頁、同「1929 年の中ソ紛争と日本」(『中央大学論集』第22 号、2001 年)17-27 頁、服部龍二/雷鳴訳・米慶余校正「中国革命外交的挫折――中東鉄路事件与国際政治(1929 年)」(米慶余主編/宋志勇・藏佩紅副主編『国際関係与東亜安全』天津:天津人民出版社、2001 年)294-308 頁。 17 整理交渉は頓挫した31。 5) 中国における日本人コミュニティ 最後に、中国における日本人コミュニティを論じておきたい。日本外務省亜細亜局の調書によると、1930 年末の時点で中国には「本邦人」が90 万3311 人いたという。この「本邦人」とは、「内地人」「朝鮮人」「台湾人」を合わせた概念である。90 万3311 人の内訳は、「内地人」28 万3870 人、「朝鮮人」60 万9712 人、「台湾人」9729 人となっている。 「内地人」の分布は、関東州11 万6052 人、満州11 万2732 人、「支那本部」5 万3212人、香港1868 人、マカオ6 人となっている。したがって、「内地人」約28 万人のうち、関東州および満州に約23 万人が在留していたことになる。 「内地人」の居住する「支那本部」5 万3212 人のうち、半数近い2 万4182 人が上海に暮らしていた。2 万4182 人の内訳は、上海の共同租界に1 万8607 人、フランス租界に392 人、「付近支那街」に5183 人となっている。上海以外では、青島1 万1211 人、天津5760 人、漢口2137 人、済南2048 人、北平1208 人などとなっている。「朝鮮人」60 万9712 人のうち、60 万5325 人までが満州に居住していた。なお、関東州の中国人人口は、82 万534 人であったという32。 このうち在満日本人の居住地は、9 割がた関東州と満鉄付属地に偏っていた。在満日本人の半数近くは満鉄社員や関東庁官吏およびそれらの家族であり、そのほかに日本企業の支店関係者、貿易業者、在満日本人を顧客とする商工業者・サービス業者などがいた。このため満州の日本人社会は、満鉄社員と関東庁官吏を中心として、その周辺に日本人向けの商工業者やサービス業者が存在していた。1920 年代に在満日本人による経済活動は、満鉄の人員整理などによって低迷した。日本人の居住地は、関東州と満鉄付属地に固まるようになっていた。張学良政権と日本の間には、「満鉄包囲鉄道網」や商租をめぐるせめぎ合いもあった33。 列国の権益が集中する上海には、1930 年代初頭の時点で約2 万4000 人の日本人がおり、多くは共同租界の北部に居住していた。上海の日本人は、よりよい生活を求めて主に西日本から移住した「土着派」と、商社や銀行の支店、紡績会社などで働く「会社派」に大別された。したがって、上海の日本人社会は、上海のイギリス人コミュニティなどと同じく階層社会であった。1931 年7 月の万宝山事件で日貨排斥が高まると、上海の日本人居留民は、日本総領事館にではなく日本海軍に期待するようになった。日本外務省と日本海軍 31 Edmund S. K. Fung, The Diplomacy of Imperial Retreat Britain s South China Policy, 1924-1931 (Hong Kong, Oxford, New York Oxford University Press, 1991), pp.184-189; 久保亨『戦間期中国〈自立への模索〉』51-71 頁、服部龍二『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』263-278 頁、小池聖一『満州事変と対中国政策』127-218 頁。 32 外務省亜細亜局「支那在留本邦人及外国人人口統計表(第23 回)」1930 年12 月末日現在(木村健二・幸野保典解題『戦前期中国在留日本人統計』第4 巻、不二出版、2004年)1、96、106、108、110-111、119-120 頁。 33 塚瀬進『満洲の日本人』(吉川弘文館、2004 年)46-51、120-121、161-170 頁。 18 は、意思の疎通に支障をきたしていた34。 天津には、1898 年から日本租界が置かれており、中国における日本の専管租界としては最大のものであった。居留民の数は、満州、上海、青島に次ぐ多さであった。上海や漢口などと同様に、天津には居留民団が設置され、水道や電気などの行政を担った。租界の運営には、議決機関の居留民会や執行機関の行政委員会が当たった。天津の日本人は、貿易業を中心としていた。その日本人社会の上層には、大企業の支店長や貿易商、運輸・通信業者、金融業者、医者、弁護士などがいて、その下に中流の地元商人がおり、さらに下層には零細な雑貨商や料理屋などがいた。1920 年代末に天津の日本人は、中国の日貨排斥、治外法権の撤廃、租界回収の動きに対応するため、中国各地の居留民団や商工会議所と糾合して日本政府に訴願しようとしたものの、うまくはいかなかった35。 このように中国各地の日本人と中国の間では、摩擦も少なからずあった。満州事変後に日本外務省は、リットン調査団を意識しながら権益侵害について報告書をまとめた。外務省の報告書には、中国における日貨排斥などについて記されている36。のちのリットン報告書も、中国のボイコットは合法的に行われたという中国側の主張を支持していなかった37。 おわりに 本章では、第1 次世界大戦から満州事変直前までの日中関係をたどってきた。主な争点でいうなら、対華21 カ条要求、西原借款、新4 国借款団、パリ講和会議と5.4 運動、ワシントン会議における9 カ国条約や山東条約、「東方文化事業」、5.30 事件、北京関税特別会議、北伐と南京事件、山東出兵、張作霖爆殺事件、奉ソ戦争、小幡アグレマン拒否、日中関税協定、中国の治外法権撤廃問題と外債整理問題、日本人コミュニティなどである。 34 上海居留民団創立三十五周年記念誌編纂委員『上海居留民団三十五周年記念誌』(上海居留民団、1942 年)、高綱博文「西洋人の上海、日本人の上海」(高橋孝助・古厩忠夫編『上海史 巨大都市の形成と人々の営み』東方書店、1995 年)123-131 頁、後藤春美『上海をめぐる日英関係 1925-1932 年』45-48、217-243 頁。上海居留民団創立三十五周年記念誌編纂委員『上海居留民団三十五周年記念誌』1101 頁によると、「土着派と会社派といふやうな分野が居留民の間に出来て、さうして相当激烈な競争があり民会も紛糾したらしい」のであり、「土着派」と「会社派」の対立は上海だけでなく天津や漢口でも同様だったという。 35 臼井忠三編『天津居留民団三十周年記念誌』(天津居留民団、1941 年)、小林元裕「天津のなかの日本租界」(天津地域史研究会編『天津史──再生する都市のトポロジー』東方書店、1999 年)185-207 頁。なお、重慶、漢口、杭州などの租界については、大里浩秋・孫安石編『中国における日本租界──重慶・漢口・杭州・上海』(御茶の水書房、2006 年)がある。 36 服部龍二編『満州事変と重光駐華公使報告書――外務省記録「支那ノ対外政策関係雑纂『革命外交』」に寄せて』(日本図書センター、2002 年)。 37 外務省編『日本外交文書 満州事変』別巻(外務省、1981 年)227-229 頁、加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』(岩波新書、2007 年)141-142 頁。 19 そして、1920 年代の東アジアをめぐる国際秩序となったのがワシントン体制だった。 第1 次世界大戦期に日本は、対華21 カ条要求という過大な要求を最後通牒で突きつけるという失策を犯した。とはいえ、そこから日本が一貫して大陸への膨張に突き進んだわけではない。重要なのは、21 カ条要求の経験に加藤高明や幣原喜重郎らが学ぼうとしたことであろう。のちに首相となった加藤は幣原外相に外交を任せるようになり、加藤の憲政会が体制内化することで、日本は政党政治の時代を迎えたのである。原内閣を含めて第 1 次大戦後の日本は、概して対米英協調の枠組みを守ろうとした。 1920 年代を通じて日本外交の中心的役割を担ったのが幣原であり、幣原は駐米大使としてワシントン会議に参加したうえで、5 年以上も外相を務めた。ワシントン体制を最も体現していたのが、幣原にほかならない。ワシントン会議の精神のもとで幣原外交は、統一へと向かう中国に理解を示した。だが、とりわけ南京事件後に国内では、「軟弱外交」という幣原批判が高まった。山東出兵を行った田中外交も、ワシントン体制を脱しようとするものではなかったが、田中の意図に反して関東軍は張作霖爆殺事件を引き起こしてしまった。 一方の中国は、この間に北伐と易幟によって再統一を果たした。袁世凱没後に政局が混乱することもあったが、中国は北京政府の「修約外交」や国民政府の「革命外交」などを通じて、政治的安定と国権回復を期していたといえよう。日本と中国の間では、「日中提携」構想や文化交流などを含めてさまざまな可能性と試みがあったことも、この時代の大きな特徴である。 1920 年代の国際秩序となったワシントン体制は、中国関係のみならず海軍軍縮、太平洋を含む多面的なものであった。日中関係についていうなら、ワシントン体制は2 つの面を備えていた。第1 に、ワシントン会議の精神に基づいて日本が米英との協調を基軸としたため、日本の大陸進出は比較的に抑制された。第2 に、列国の在華権益はワシントン会議によっても基本的には維持されており、日米英の協調は中国における現状維持を前提としていたところがある。中国にとってワシントン体制は、不平等条約を容認していたことでは不利な半面で、日本に対する抑止としては有益でもあったことになる。ワシントン体制の二重性といってもよい。 このようなワシントン体制は、固定的なものではなく次第に変容をとげていった。中国が国権回収と統一に向かったときの対処について、日米英に十分な合意はなかった。それだけに、中国が「修約外交」や「革命外交」を進めると、日米英は足並みを乱して秩序構想を分化させた。とりわけ田中外交期の日本は、国民政府との関係構築に取り残されることになった。やがて満州事変では、幣原外相までもが中国との直接交渉に挫折し、日本陸軍主導の傀儡政権構想に妥協するようになった。幣原外交の変質と崩壊によって、ワシントン体制の終幕は日本側から引かれたといわねばならない。 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 日中歴史共同研究
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/854.html
西安事件(せいあんじけん、西安事変 -じへん、ともいう)は民国25年(1936年)12月12日に西安で起きた、張学良・楊虎城らによる蒋介石監禁事件。 概要 1936年10月、国民政府主席蒋介石は、紅軍(共産党軍)の根拠地に対する総攻撃を命じた。この攻撃に参加していた張学良は、父である張作霖が殺害されたことから抗日的気運が高く、共産党の内戦の停止、一致抗日の主張に対してシンパシーを感じており、紅軍に対する攻撃が消極的となっていた。蒋介石は消極的な張学良を督戦するため、12月4日に西安に行った。西安に来た蒋介石に対し、張学良は内戦を停止するように説いたが、蒋介石にこれを拒絶された。このことを切っ掛けに、蒋介石を監禁し、以下の8項目の要求を全国に流した。 8項目の要求 南京政府の改組、諸党派共同の救国 内戦の停止 抗日七君子の釈放 政治犯の釈放 民衆愛国運動の解禁 人民の政治的自由の保証 孫文遺嘱の遵守 救国会議の即時開催 国共合作 国民政府は、当初、張学良を討伐するために西安に対し爆撃を開始し、事態は緊迫したものとなった。しかし、12月7日に共産党の周恩来、秦邦憲、葉剣英が西安に入り、国民政府側の蒋介石、宋子文、宋美齢との間に前8項目に関する合意ができて蒋介石は解放され、国共対立は収拾された。翌1937年に日中戦争が勃発した後に第二次国共合作が成立するが、このことは西安事件を土台としたものであった。 蒋介石監禁の報を受けた中国共産党は、蒋介石殺害計画を検討したが、スターリンの鶴の一声で立ち消えとなった。これは陳立夫のスターリンへの働きかけもあったし、蒋介石と和睦することで、共産党勢力を温存し、国民党と手を組んで抗日戦を継続する事が、日本を中国に釘付けにして対ソ戦を回避させるスターリンの思惑が働いたという。 なお、事件の首謀者である張学良は、事件を起こした責任をとるとして、自ら進んで国民政府の軍法会議にかけられることになった。 後年、蒋介石は数々のインタビュー内において、西安事件に関して一切発言しようとはしなかった。 関連項目 蒋介石 宋美齢 毛沢東 中国国民党 中華民国の歴史 中国共産党 日中戦争 国共合作 八・一宣言 蘆溝橋事件 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月3日 (水) 16 14。
https://w.atwiki.jp/studykorea/pages/46.html
トップページ>中国>中国近現代史研究 『中国近現代史研究』40、2008.12 論文 申義植「清代天主教宣教師間に発生した若干の問題:宣教保護権及び宣教師間の教権葛藤を中心に」 차경애「義和団運動鎮圧戦争当時の戦争見聞録を通じて見た戦争地域民衆の暮らし」 姜抮亜「韓末彩票業と華商同順泰号:20世紀初東アジア貿易ネットワークと韓国」 金泰丞「中国の「近代化」議論に表れた「他者性」の問題:1920/30年代と1990年代の論争を中心に」 金志煥「満鉄と東北交通委員会」 朴宣冷「土門江をめぐる中国の「歴史造作」嫌疑」 趙京蘭「現代中国の保守主義文化:新保守主義の出現と儒学の再照明」 書評 千聖林「尹惠英著『쉬광핑 루쉰의 사랑, 중국의 자랑』서해문집、2008」 『中国近現代史研究』39、2008.9 論文 李永玉「清末満州族地位下落と反満情緒」 尹恩子「20世紀初南京の韓人兪留学生と団体(1915-1925)」 文明基「1920年代韓国・台湾の自治運動についての比較史的接近:支配層の存在様態と「中国」要因を中心に」 兪長根「1920-30年代初紅卍字会の発展様相とその性格」 鄭炯児「中日戦争時期の中ソ関係:盛世才の役割を中心に」 金志勛「1950年景気沈滞と中国政府の私営商工業調整政策」 박장배「「新中国」のチベット政策」 『中国近現代史研究』38、2008.6 論文 윤미영「康有為の『大同書』に表れた女性解放思想」 李銀子「「訴訟」案件を通じて見た清日戦争以後(1895-1899)韓中関係研究」 朴敬石「民国時期上海友声旅行団と「レジャー旅行」」 裴京漢「汪精衛と西安事変」 孫承会「中華人民共和国の建国と学習・批評の組織化:1952年『学習』停刊事件を中心に」 書評 美診亜「久保亨編『一九四九年前後の中国』汲古書院、2006」 『中国近現代史研究』37、2008.3 論文 崔炳旭「近代中国不平等条約の中のキリスト教関連条項の意味」 姜京洛「近代中国対外貿易を通じて見た中国経済:対外貿易が天津と背後地市場に及ぼした影響を中心に」 金亨洌「近代済南の人口流動と都市問題」 崔恩珍「南京国民政府時期浙江省教育輔導制度」 鄭文祥「廃止内戦大同盟会の廃戦運動とその正確」 朴橿「日本の阿片政策と三井物産・三菱商事の活動」 『中国近現代史研究』36、2007.12 論文 鄭惠仲「開港期仁川華商ネットワークと華僑定着の特徴」 김수영「ヴォイチンスキーと初期東アジア共産主義運動」 金志煥「臨城事件と中国鉄道管理案」 姜明喜「1940年代韓中中間路線の「新民主」的国家建設指向」 争点と動向 尹徳「第八届両案三地歴史学研究生論文発表会 参加記」 李在鈴「中国近現代史の学術用語標準化方案:中等教科書の事例を中心に」 『中国近現代史研究』35、2007.9 論文 李永玉「韓・中民間訴訟研究1906-1910:張導之案・姚貴春案・劉金有案等殺人事件を中心に」 李丙仁「国民党政権の公民観と「民族伝統」:革命と民族伝統の交換と交流」 朴尚洙「1920-30年代中国西南地域農村の神兵運動:農民集団行動の原因・形態及び近代革命運動との関係」 金河林「1930年代中国知識人の亜細亜論と民族主義:『新亜細亜』『新東方』を中心に」 李正煕「中日戦争と朝鮮華僑:朝鮮の華僑小学校を中心に」 『中国近現代史研究』34、2007.6 論文 李春馥「西欧議会制度に対する中国近代知識人の認識とその意義:戊戌変法以前議会制度の職能分析と政治思想史的意義を中心に」 李升輝「ソ連に対する孫文の「外交」:越飛と関連して」 孫承希「1930年代中国青年団の政治的・思想的変化:中国国民党との関係改善を中心に」 白永瑞「20世紀前半期中国人の香港旅行と近代体験:もうひとつの境界を越えて」 孫准植「植民地朝鮮の台湾認識:『朝鮮日報』(1920-1940)の記事を中心に」 1-20 21-40 41-60 61-80