約 311,797 件
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/542.html
中山艦事件(ちゅうざんかんじけん)は、1926年3月20日中華民国の広州で軍艦中山艦の回航をきっかけに、黄埔軍官学校長蒋介石が中国共産党員らの弾圧を開始した事件。「三二〇事件」「広州事変」とも。この事件をきっかけに中国国民党内での蒋介石の地位が急速に上昇し、また翌年4月の上海クーデターで第一次国共合作が破綻へ向かう端緒となったが、事件の中核の経緯は未だにはっきりしていない。 事件の背景 1924年中国国民党は第一次全国代表大会で「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示。ソ連のコミンテルンの指示を受けた中国共産党もこれに応じ、共産党員が国民党に入党するという形式で両党の間に国共合作が行われることになった。それよりやや以前から国民党総理孫文(孫中山)はソ連式の軍人教育にならって将校を育成する機関の必要性を感じ、蒋介石をソ連へ派遣していたが、これを機に広東省広州の長洲島にある黄埔に軍官学校(士官学校)を建設することを決定した。国共合作の実を挙げるため、同校の校長には蒋介石が就任する一方で、政治部主任などの要職に国民党幹部の廖仲愷・戴季陶や共産党幹部の葉剣英・周恩来などが就き、さらにソ連からの軍事顧問団が教官となるなど、呉越同舟の組織となり、三民主義とマルクス主義が同時に教えられた。しかし、国民党主催の学校であるにも関わらず、共産党やソ連軍事顧問団が擡頭してきたことに校長の蒋介石は危機感を募らせていた。 また、1925年孫文の死にともない、国民党首脳部は混迷を極める。党内左派の領袖廖仲愷が暗殺され、その暗殺の首謀者と目された右派の胡漢民は国外へ逃亡。常務委員会主席・軍事委員会主席で人望のあった汪精衛(汪兆銘)も指導力を発揮できず、国民党の悲願である北伐(全国統一)を開始できない状況にあった。発言力の大きかったソ連軍事顧問団のキサンガらも北伐は時期尚早であると反対しており、北伐推進派の蒋介石はこの状況の中で主導権を握る機会を狙っていた。 中山艦の回航と弾圧開始 1926年3月18日、国民党海軍局所轄の軍艦「中山」が突如として広州の黄埔軍官学校の沖合に現れた。蒋介石はこれを中国共産党員による蒋介石拉致のための策謀と断じ、3月20日艦長の李之竜(共産党員)をはじめ共産党・ソ連軍事顧問団関係者を次々に逮捕、広州の共産党機関を捜索し労働者糾察隊の武器を没収し、広州全市に戒厳令を発するという挙に出る。 蒋介石の主張によれば、この中山艦の行動は、汪精衛とソ連軍事顧問らが共謀して蒋介石を拉致し、ウラジヴォストークへ強制連行しようと謀議し、共産党員が実行に移したものであるという。しかし、果たして本当にそのような計画が存在していたかは定かではない。この事件をきっかけに蒋介石の党内の地位は急速に上昇していくことになった。 事件の影響 それまで蒋介石は国民党軍の総監という比較的低い地位に留まっていたが、事件後には国民党軍事委員会主席に就任し、党内の実権を握っていった。汪精衛は蒋介石の傀儡となることを拒み自発的に辞任して、妻を伴いフランスへ逃れた。国民党の主導権を確立した蒋介石は以前から危機感を持っていた共産党員の擡頭に対処するため、軍事委員会に「整理党務案」を通過させ、共産党員を国民党の訓令に絶対服従させるとともに、国民党の要職から共産党員を排除していく。共産党員は当然これに反撥したが、スターリンの意向を受けたソ連軍事顧問団はこれを抑制。むしろ蒋介石と対立していたキサンガらを召還するなど、蒋介石に妥協している。こうしてかろうじて国共合作は引き続けられた。 邪魔者を排斥した蒋介石は国民革命軍総司令に就任し、同年7月1日念願の「北伐宣言」を発表して北伐戦争を開始した。北伐戦争は順調に進み各地軍閥を圧倒、翌1927年には武漢・南京・上海などを占領する。しかし、蒋介石の独善的な指導に党内にも反蒋的な空気が横溢し、解放された武漢や上海では共産党員・国民党員らが蒋介石から独立した動きを見せるようになり、南昌に本拠を移した蒋介石に対抗した。こうしたなかの4月12日蒋介石の指揮により上海で大規模な共産党員弾圧(上海クーデター)が開始され、第一次国共合作は完全に崩壊するに至った。 関連項目 蒋介石 汪兆銘 中国国民党 国共合作 黄埔軍官学校 北伐 上海クーデター 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月7日 (日) 14 47。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/732.html
中山艦事件(ちゅうざんかんじけん)は、1926年3月20日中華民国の広州で軍艦中山艦の回航をきっかけに、黄埔軍官学校長蒋介石が中国共産党員らの弾圧を開始した事件。「三二〇事件」「広州事変」とも。この事件をきっかけに中国国民党内での蒋介石の地位が急速に上昇し、また翌年4月の上海クーデターで第一次国共合作が破綻へ向かう端緒となったが、事件の中核の経緯は未だにはっきりしていない。 事件の背景 1924年中国国民党は第一次全国代表大会で「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示。ソ連のコミンテルンの指示を受けた中国共産党もこれに応じ、共産党員が国民党に入党するという形式で両党の間に国共合作が行われることになった。それよりやや以前から国民党総理孫文(孫中山)はソ連式の軍人教育にならって将校を育成する機関の必要性を感じ、蒋介石をソ連へ派遣していたが、これを機に広東省広州の長洲島にある黄埔に軍官学校(士官学校)を建設することを決定した。国共合作の実を挙げるため、同校の校長には蒋介石が就任する一方で、政治部主任などの要職に国民党幹部の廖仲愷・戴季陶や共産党幹部の葉剣英・周恩来などが就き、さらにソ連からの軍事顧問団が教官となるなど、呉越同舟の組織となり、三民主義とマルクス主義が同時に教えられた。しかし、国民党主催の学校であるにも関わらず、共産党やソ連軍事顧問団が擡頭してきたことに校長の蒋介石は危機感を募らせていた。 また、1925年孫文の死にともない、国民党首脳部は混迷を極める。党内左派の領袖廖仲愷が暗殺され、その暗殺の首謀者と目された右派の胡漢民は国外へ逃亡。常務委員会主席・軍事委員会主席で人望のあった汪精衛(汪兆銘)も指導力を発揮できず、国民党の悲願である北伐(全国統一)を開始できない状況にあった。発言力の大きかったソ連軍事顧問団のキサンガらも北伐は時期尚早であると反対しており、北伐推進派の蒋介石はこの状況の中で主導権を握る機会を狙っていた。 中山艦の回航と弾圧開始 1926年3月18日、国民党海軍局所轄の軍艦「中山」が突如として広州の黄埔軍官学校の沖合に現れた。蒋介石はこれを中国共産党員による蒋介石拉致のための策謀と断じ、3月20日艦長の李之竜(共産党員)をはじめ共産党・ソ連軍事顧問団関係者を次々に逮捕、広州の共産党機関を捜索し労働者糾察隊の武器を没収し、広州全市に戒厳令を発するという挙に出る。 蒋介石の主張によれば、この中山艦の行動は、汪精衛とソ連軍事顧問らが共謀して蒋介石を拉致し、ウラジヴォストークへ強制連行しようと謀議し、共産党員が実行に移したものであるという。しかし、果たして本当にそのような計画が存在していたかは定かではない。この事件をきっかけに蒋介石の党内の地位は急速に上昇していくことになった。 事件の影響 それまで蒋介石は国民党軍の総監という比較的低い地位に留まっていたが、事件後には国民党軍事委員会主席に就任し、党内の実権を握っていった。汪精衛は蒋介石の傀儡となることを拒み自発的に辞任して、妻を伴いフランスへ逃れた。国民党の主導権を確立した蒋介石は以前から危機感を持っていた共産党員の擡頭に対処するため、軍事委員会に「整理党務案」を通過させ、共産党員を国民党の訓令に絶対服従させるとともに、国民党の要職から共産党員を排除していく。共産党員は当然これに反撥したが、スターリンの意向を受けたソ連軍事顧問団はこれを抑制。むしろ蒋介石と対立していたキサンガらを召還するなど、蒋介石に妥協している。こうしてかろうじて国共合作は引き続けられた。 邪魔者を排斥した蒋介石は国民革命軍総司令に就任し、同年7月1日念願の「北伐宣言」を発表して北伐戦争を開始した。北伐戦争は順調に進み各地軍閥を圧倒、翌1927年には武漢・南京・上海などを占領する。しかし、蒋介石の独善的な指導に党内にも反蒋的な空気が横溢し、解放された武漢や上海では共産党員・国民党員らが蒋介石から独立した動きを見せるようになり、南昌に本拠を移した蒋介石に対抗した。こうしたなかの4月12日蒋介石の指揮により上海で大規模な共産党員弾圧(上海クーデター)が開始され、第一次国共合作は完全に崩壊するに至った。 関連項目 蒋介石 汪兆銘 中国国民党 国共合作 黄埔軍官学校 北伐 上海クーデター 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月7日 (日) 14 47。
https://w.atwiki.jp/taebaeksanmaek/pages/372.html
説明 中国国民党の最高指導者 巻 章 ページ 4巻 10章 341-342 12章 398, 401
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/308.html
Template 中華圏の人物? 宋慶齢(そう けいれい、簡体字:Template lang?、繁体字:Template lang?、ピンイン:Template lang?、1893年1月27日 - 1981年5月29日)は、孫文の妻。中華人民共和国名誉国家主席。 プロフィール 客家の宋耀如(宋嘉樹、チャーリー宋)の次女として清国の上海で生まれた。母は倪桂珍。「宋氏(家)三姉妹」の次女で、宋靄齢の妹、宋子文、宋美齢(蒋介石夫人)の姉。妹の美齢と同じくアメリカのウエスレイアン大学に留学。 孫文とは父が支援者であったことから知り合い、結婚前には孫文の英文秘書を務めていた。結婚年については諸説あるが、孫文が日本亡命中の1913年~1916年とされる。孫文の没後もその遺志を継いで革命活動に従事、1926年には中国国民党執行委員に就任している。 国民党左派で容共的立場をとり、1927年の上海クーデターに反対し、蒋介石や宋一族と対立。国民党左派の武漢政府崩壊後、一時はソ連に身を寄せたものの、スターリンによる反対派の粛清と中国革命に対する冷淡な態度に幻滅し、中山陵(南京郊外の紫金山にある孫文の墓所)完成の式典に際して中国に帰国。やがて、抗日戦が始まると彼女は香港に行き、1938年に保衛中国同盟を設立。第二次国共合作が実現した後、宋家の三姉妹は抗日統一戦線のシンボルとして戦地の慰問等の活動を行うが、これは政治的パフォーマンスであったという。 中華人民共和国成立後は中央人民政府副主席などを歴任。婦人運動や子女の保護、教育の分野に尽力した。慶齢は中国革命の指導者である孫文夫人であり、国母として統一戦線の象徴的存在であった。 文化大革命では、蒋介石の義姉として攻撃を受けることとなったが、文革終結後、死去の2週間前に中国共産党中央政治局から共産党員として承認され、その翌日中華人民共和国名誉国家主席の称号を授与された。政府要職にあっても北京での執務以外では故郷の上海に滞在することが多く、同地の墓所は宋慶齢陵園として整備されている。 関連項目 中国共産党 中国国民党革命委員会 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年10月29日 (水) 06 30。
https://w.atwiki.jp/peopleonstamps/pages/538.html
林森 / Lin Sen (1868/3/16-1943/8/1) 清末民初の政治家。中国同盟会以来の古参の革命派人士で、中国国民党では西山会議派に加わった右派 最初の切手/出身国最初の切手(1945年、中国発行)
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/351.html
東方会議(とうほうかいぎ)は、1927年6月27日から7月7日まで東京で開催された会議。 1927年4月に成立した田中義一内閣は強硬外交を推進し、翌5月に中国の権益強化と拡大のために山東省に兵を送った(山東出兵)。そして同年6月、田中義一首相は東京に閣僚・外務省首脳陣、中国公使、軍部首脳陣などをかき集めて、対中国政策についての方針を決めるための「東方会議」を開いたのである。そして、会議では次のようなことが決定された。当時、中国は中国国民党と中国共産党が覇権を争って内戦状態であり、軍閥が各地に分散していた。日本政府ではこの機を見て武力による大陸進出を図るべきという意見と、あくまで現在の権益を守ることを第一とするべきという意見があった。田中義一はこれに対して、日本の権益が侵される恐れが生じたときは、断固たる措置を採る。そして満蒙(満州と内蒙古東部のこと)における権益は中国本土と切り離して、同地域の平和のために日本が責任をもって支配下に置くなどが決定された(対支政策綱領)のである。また、万が一中国の内乱が激化した場合には中国国民党と結んで、中国共産党による中国の共産化を阻止する方針も定められた。ちなみに満蒙は日露戦争後、日本にとって大きな権益を有する重要拠点として見なされていた。 1928年、蒋介石率いる国民革命軍が徐州を占領し、済南付近(山東半島の中西部にある省都)にまで迫ると、田中義一は再度、東方会議を開催して日本の権益を守るために国民革命軍と戦って、済南を占領してしまった。これを、「済南事件」という。 関連項目 森恪 吉田茂(奉天総領事として出席) 田中上奏文 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月23日 (日) 15 45。
https://w.atwiki.jp/observingmonsters/pages/28.html
国共合作 #本来の意味 「国共合作」とは - 中国国民党と中国共産党の間に結ばれた協力関係である。 軍閥を 討伐するための第一次国共合作と、抗日戦争の為の第二次国共合作がある。 #現代の意味 てきとうにわいわい見守る会が活動すること
https://w.atwiki.jp/peopleonstamps/pages/530.html
蔣中正 / Chiang Kai-shek (1887/10/31 - 1975/4/5) 中華民国の政治家、軍人。第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統、中国国民党総裁 最初の切手/出身国最初の切手(1929年、中国発行)
https://w.atwiki.jp/peopleonstamps/pages/524.html
孫中山 / Sun Yat-sen (1866/11/12 – 1925/3/12) 中国の政治家・革命家。初代中華民国臨時大総統。中国国民党総理 最初の切手/出身国最初の切手(1912年、中国発行) 米国 1942. 7. 7 中国の抗日戦争5年 5c 凹 鮮青 リンカーンと孫文の肖像。中国地図 米国 1961.10.10 中華民国50年 4c 凹 青 肖像。青天白日章
https://w.atwiki.jp/nishigoushu/pages/21.html
国民党 我国における政党のひとつ。 建国時の第一回上下統一全国総選挙で政権を掌握するも、第二回下院総選挙で自由党に政権を明け渡す。 主な政策は、 自由党との対立(R日本における民主と自民の対立に似ている) 強気の対外政策 経済最優先政策 が挙げられる。