約 555,888 件
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/48.html
原初の人工言語は暗号で、約4000年前に遡ることができる。暗号としての用途は国家規模から個人の日記に至るまで、広く使われてきた。また暗号ではなく言語改革として人工文字が作られることもあった。その場合しばしば文字は歴史的背景を背負うこととなった。神代文字のように現代でも民族意識を背景に論じられているものもある。それを考えると文字という要素は人工言語において最も長く論じられてきたものといえる。 では文字以外に視点を向けてみるとどうなるか。そもそも人工言語は自然言語と同じく言語の一種であるから、音韻や語彙や文法を持ったものが本来的である。そういう視点で人工言語を見ると最古の人工言語は12世紀に見ることができる。尤もこれは現存している文献から見たものにすぎないため、人類の歴史ではそれより前に人工言語が作られていた可能性が十分考えられる。 最古の人工言語と目されているのはビンゲンのヒルデガルトによるLingua Ignota(未知なる言語)である。ヒルデガルトは女子大修道院長であった。 Lingua Ignotaの文字はアルファベットを元にした23字からなる後験性表音文字である。彼女はLingua Ignotaの語彙集を残しており、そこには1011の単語が記されていた。注釈にはラテン語などが使われ、説明が施されていた。語彙は驚くべきことに先験語であったが、修道院長でもあったことから神学的な語が多い。 名詞は神や天使などを頂点にした階級性を持った順序で陳列され、徐々に親族語などの人間を表す語に下っていく。たとえば神はAigonzであり、辞書のヒエラルキーの頂点に位置する。キリスト教徒であった彼女の発案であるため、この神は勿論一神教の神――キリスト教の神――を表している。神の次に来るのは天使を意味する Aieganz である。 Aigonz に近い語形を持っており、アプラウト(母音交替)しているだけの違いという点が興味深い。この造語の仕組みは当時のゲルマン語を反映しているが、彼女の出自のビンゲンはいまのドイツにあるからもっともらしく感じられる。母は Maiz といい、義理の母は Nilzmaiz である。この点を鑑みるに複合概念は合成語で表すことができた。また合成語は右側決定則にしたがっている。この造語感覚についても当時のゲルマン語との類似性が指摘できる。 ただ、文法についてはラテン語を意識した屈折を持っている。ラテン語の使用は彼女の社会的階級や出自、そして実際の語彙集における注釈からも濃厚に示される。こういったことから Lingua Ignota は人工言語学の類型論においてラテン語・今日のドイツ語を参照言語とした後験語であるといえる。ただ語彙が先験性を帯びているため、エスペラントと同じ感覚で後験語に篩うことはできない。したがって語彙については先験語だが文法その他については後験語であったと定義するのがより正確である。 尚、Lingua Ignota の語彙を1011とするのは誤りである。これは彼女の残した語彙集に収められた語の数であり、彼女が作った例文にはこれに含まれない単語がある。したがって Lingua Ignota の語彙は1011よりも大きい。 宗教改革もルネサンスも起きていないこの時代においてキリスト教は世界観そのものであった。その点でヒルデガルトが階級的な名詞の序列を定めたことや、ラテン語やゲルマン語からアイディアを得たのは不可避である。 Lingua Ignota の目的は何か。色々な議論がなされているが筆者は暗号型であると考える。エーコは Lingua Ignota を夢状態にあって発せられる言語と分類しているが、神秘主義や或いは異言に結びつけるよりも用途で見て暗号型に分類するのが妥当と考える。(注 エーコは異言と明示していはいないものの、夢状態にある言語の下位区分にしている) 恐らくこういった人工言語はヒルデガルトに起因するものではない。彼女でなければ作れなかった理由はない。 修道院長という高い立場とそれに由来する深く広い知識というのは確かに一般の農民にはないものだった。しかし彼女以外に識者は存在したし、有閑なものも中にはいただろう。彼らが暗号型として人工言語を作らなかった保障はどこにもない。それは西洋だけでなく地球の至るところでもいえることである。 暗号型が人工言語を占める中、他の型はどのような黎明を迎えたのであろうか。最も種類の多い普及型の兆しについては少なくとも13世紀に見ることができる。ではまず、このころの普及型人工言語は何を背景にしていたか。それはまずキリスト教の普及である。上述のキリル文字を考案したキュリロス・メトディオス兄弟も9世紀に宣教師としてロシアに赴いた。キリルというのは彼のロシア名である。この時代の人工言語の普及はキリスト教の普及に裏打ちされたものである。 勿論キリスト教は実際には自然言語を用いて普及されたが、ここで作られた人工言語が目的としたものがキリスト教の普及であることは重要である。 具体的にこの時代に作られたキリスト教の普及を目的とする人工言語は何か。 13世紀の修道士ライモンドゥス=ルルスを例に挙げよう。 歴史的背景として、この時代は十字軍におけるキリスト教徒とイスラム教徒の時代である。彼が生まれた1235年ごろはヨーロッパ側がエルサレムを支配した希少な時期である。 15世紀まで続いた名目上の十字軍を度外視すると、事実上の十字軍遠征はこのころ終わる。事実上の十字軍が終わるこの時代に生まれた彼の生誕地はちょうど宗教のサラダボールであり、キリスト・イスラム・ユダヤが混在していた。 したがって、彼が非キリスト圏の言語や文化に通じていたことは容易に想像できる。 とはいえ彼はキリスト教の修道士であったため、非キリスト教徒をどう改宗させようかと考える。多くの宣教師と異なり、こうして本論に取り上げられるに至ったのは、彼が"Ars magna"などで哲学的言語を試みたことに起因する。この言語の目的は異教徒の改宗である。 彼の言語は我々がエスペラントなどからイメージするものとは異なっており、数学的な結合を用いた方法だった。9個の文字を幾何学的に組み合わせて「善は偉大である」といったような命題から数多くの問題まで表現する。幾何は星型のもの、階段状のもの、円状のものなどがある。有名なのは円状のもので、これは3つの同心円から成る。使われる文字は9字で、BCDEFGHIKである(最後はJではなくK)。この3枚の円盤を回転させることによって任意の3文字の組み合わせを作る。更にこの3文字のどこかにTを挿入し、4字1組を作る。この組み合わせから適宜命題や問題を得る。 慣れ親しんだ自然言語の方法からは想像しにくいもので、数学的な要素が濃い哲学的言語である。この機械的な方法だと善と貪欲を組み合わせることもできる。善と貪欲は受け入れられない組み合わせであるのに算出されてしまう。したがってどの要素とどの要素が結び付けられるかといったことを使い手が知っていなければならないというのが問題視される。しかしそれは思想上の問題であって言語上は大きな問題でない。日本語でも「丸い四角」「貪欲は善である」などという表現が可能であるが、そのことを以って言語上の問題とはされない。ヒルデガルトと違い、ルルスは改宗のための普及型人工言語を目指した。更にその手法は語学的なものではなく極めて数学的な方法で、内容も神学的・哲学的なものであった。さて実際この手法の効果であるが、極めてゼロに近い。その上ルルスは14世紀の初頭アフリカで布教中イスラム教徒の投石により殉死している。こうして原始的な普及型は失敗に終わるが、彼の思想はこの後も受け継がれることになる。 さてルルスが殉死した14世紀前半は十字軍国家がイスラム教徒に殲滅されたころでもある。西洋人は西アジアから撤退。同時にドミニコ会らによりアラビア語の文献が流入される。続いて15世紀に東ローマ帝国がオスマン帝国に滅ぼされたのを期にギリシャ文献が西欧に流入される。まとめると、13~15世紀の間にアラビア文献とギリシャ文献が西欧に流入したことになる。このことは自然言語における語の翻訳や借用を含意する。 このような歴史的背景にあって言語はどのように変化していたか。当時東欧がギリシャ語圏であるのに対し、西欧はラテン語圏であった。ラテン語は19世紀まで学位論文の言語でもあり、現代でも専門用語に多く取り入れられている。その地位と格式の高さは歴史的に上下はしつつも、決して無くなりはしなかった。ただ保持されてきたのは文語としての或いは学問の言葉としてのラテン語であり、口語ではない。 12世紀にはラテン語は西洋の共通語としての地位を復活させた。但しそれは旧ローマ帝国時代とは異なり、学問や教育の上という限定付きである。口語としてのラテン語は崩れ、土着語を生む土壌となった。 12世紀にはカタロニア語が生まれ、南仏ではプロヴァンス語が生まれる。プロヴァンス語はフランス・イタリア・スペインの一部で共通語の様相を呈する。しかしその後フランスではカペー王朝のフランス語によって退けられる。但し実際南仏では19世紀までプロヴァンス語は日常語であった。また13~14世紀に近代イタリア語が成立する。これはいわばラテン語の嫡男であり、口語としてのラテン語がとうに廃れていたことが見て取れる。そのころスペインのほうではカスティリャ語、ガリシア語などが既にあり、 14世紀中葉ではポルトガル語が成立する。 このようにしてラテン語の崩壊によりロマンス語などの土着語が西欧を占めていく。(当然土着語についてはゲルマン語も忘れてはならない) また文化面において西洋は主に14世紀から16世紀にかけてルネサンスを迎えた。復活という語源にふさわしく、それは抑圧され失われた人間性の復古であった。それとともにローマ・ギリシャの古典の復興が起こる。 結果、大量の古典単語が西洋語に咲き返ることとなった。島国のイギリスではルネサンスは遅れて16世紀ごろに始まり、そこで英語は古典単語を吸収した。この流れに反対が起こり、古典語を英語から排斥しようとするチークらの運動が起こったが、それでも尚古典語は学識の象徴から動かなかった。ラテン語が英語に関わったのはルネサンスだけではない。そもそもキリスト教典の伝来とともにangelなど400強の語彙が流入し、ノルマンコンクエストまでの古英語に影響を与えてきた。また、中期英語には上述のようにアラブ圏の言葉がラテン語に大量に翻訳されたため、結果的にこのことが英語にも影響を与えることになる。 そしてもうひとつ述べておきたいのが非西洋圏との関わりである。古代ギリシャの世界観にとって世界とは地中海周りとオリエントを意味していた。しかしアレキサンダー大王の東方遠征によって世界観はアジア(インドや中国)にまで拡張される。後にシルクロードによって東西間でやり取りがされるがその範囲は極めて限定的であった。時代が下って11世紀に始まった十字軍が結果的には東西交易を促進させた。この公益で利益を生んだ結果、余裕の生まれたイタリアでルネサンスが起こった。経済を下敷きに文化が発展してきた。 13世紀ごろモンゴル帝国がイスラム勢を征服したことで西洋は東アジアへ進出。ここで西洋は極東と出会うが、ここで出会った漢字という存在がその後の人工言語の運命を大きく変える。 15世紀にモンゴルが弱まるとオスマン帝国が優勢を極める。東西の中間に位置したため、オスマン帝国は交易品に重税をかける。既に交易品無しには暮らせない精神に陥っていた西洋人はルネサンスで磨いた科学技術を利用し、東洋への海路を開こうとした。海岸国のスペインやポルトガルがいち早くこれに着手できた。危険な航海ではあったが利益が大きく一攫千金が狙えることから航海熱が起こる。更にこの動きにローマ教皇が協賛する。対プロテスタントを目論み、新天地での信者獲得を期待したためでもある。したがって商人以外にも宣教師らが同乗した。 こうして大航海時代を向かえ、アフリカ、アジア、アメリカなどを発見するに至る。これにより西洋人の世界観は広がっていった。 社会・言語・文化・経済、これらの観点から中世を雑感した。こうした時代背景は人工言語にどのような影響を与えたか。それは一言でいえば共通語の需要である。ラテン語は西欧の共通語であるとともに知識の象徴でもあった。つまり共通語・象徴という2面性を持つ。後者は現代にも色濃く残る性質であるが、前者は中世で既に廃れていた。 17世紀でもラテン語はいまでいう英語のような高い地位を占めており、習うべき言語とされていた。識者はラテン語によって辛うじて意思疎通を図ることができた。つまり不完全ではあるものの共通語としての機能は死滅したわけではなかった。 しかし、である。ラテン語は問題が山積みであった。まずラテン語の習得の難しさ。これは特にラテン語そのものよりもその教育に批判が向けられた。だがいずれにせよラテン語が学びにくいという点で批判を受けていたのは変わらない。そして共通性の問題。ラテン語は西欧とりわけロマンス語の中では共通語の意識が強く持たれるが、東欧やアラブ圏ましてアジアに至ってはまるで通用しない。西洋人の世界観が広がるにつれ、ラテン語は共通語としての性質を弱められていった。そしてルネサンス以前に起こっていたラテン語の崩壊とそれに端を発する土着語の普及。これらの複合的な要因によってラテン語は共通語としての価値を弱められ、そのことが同時に別なる共通語の需要を高めた。 特に言語的に見て重要なファクターは土着語の普及と台頭であろう。上述13世紀のルルスは俗語と呼ばれていた土着語で学術書を書いたし、同世代のダンテは『俗語論』を著している。その後も続々と土着語で文献が作られていく。このころの著作は写本によって広まっていたが、15世紀にドイツのグーテンベルクが活版印刷を実用化したことにより事態は激変する。 要するに彼は土着語が急激な勢いで広まるための要因を作ったということである。 16世紀前半に同じドイツのルターが宗教改革を行い、聖書をドイツ語に訳したことも土着語の急激な頒布を示唆している。文章が各々の土着語で書かれることの弊害は何より翻訳の手間を必要とすることである。ラテン語で書かれていればどの国の人間にも難しい反面、どの国の人間にも読める。しかし土着語は違う。母語で書くのは簡単でも受け手がそれに対応していない。翻訳は大きな手間であったし時間も長く待たなければならなかった。これも共通語が欲された原因のひとつである。 以上のような要因で西洋では共通語の必要性が高騰してきた。これらの要因が重なったからこそ16, 7世紀に普遍言語論争が起こったといえる。したがってこれら社会・経済・文化などの要因は外すことができない。この時代の人たちは始めからエスペラントのような人工言語を作ろうと意図していたわけではない。始めは共通の書字を作ることが目的であった。それは真正文字や普遍文字などとも呼ばれたもので、概ね万人に通ずる共通の文字を意味していた。本論では代表として主に普遍文字という言葉を使う。こう聞くとオリジナルの文字を作ろうとしたように聞こえるが必ずしもそうではない。むしろオリジナルの文字を作ったロドウィックやウィルキンズは例外的で、アルファベットや数字を使ったもののほうが多い。 普遍文字は誰にでも読めるというのが前提なので、主に2つに分かれる。1つは字は同じだけれどもその読みは各国語で読むというもの。もう1つは共通の字に固定の読みを与えるものである。前者はとりわけヒエログリフや漢字から影響を受けている。死滅してしまったヒエログリフに比べ、当時ライブで使われていた漢字は西洋人にとっては開眼的なものであった。上述の西洋と東アジアとの交流により漢字の使用状況が西洋に伝えられた。中国人や日本人は互いの言葉が異なるにもかかわらず漢字という共通の文字で意思疎通をしているという報告が西洋に広まった。これはセンセーショナルであった。ベーコンは漢字を激賞したことがある。(ルルス→ベーコン→ライプニッツらの繋がりは哲学的に重要) まさにこれこそ普遍文字であると大急ぎで西洋では研究が行われた。 しかし研究を重ねるにあたり、徐々に漢字にも問題が見つかった。ヒエログリフも同様で、他の字についてもあれもだめこれもだめという結論に落ち着いていった。更には既存の自然文字だけでなく、速記に使われる文字なども試された。速記文字は本来は速記という目的で使われたが、なにせ読める人間が限られているので同時に秘密文字の性質も持っていたし、意図的に秘密文字の性質を帯びさせられることもあった。そしてその秘密文字が逆説的にも普遍文字の材料として分析された。文字だけに終始するイメージがあるがそうとは言い切れず、読み方が定められた文字もあった。このころは普遍文字ができれば人類にとって非常に有益であるという論調が盛んで、次々と言語案が提案された。 この論争は特にこの16, 7世紀に栄え、ベーコン、デカルト、ライプニッツ、パスカル、メルセンヌなど、この当時の高名な識者が大なり小なり関わりを持っている。 ところで普遍文字の探求は目的の上でおおまかに2派に分けることができる。ひとつはウィルキンズやライプニッツのように普遍文字を哲学的に分析した派である。彼らにとって普遍文字ひいては普遍言語は哲学上の問題であった。後にドゥリンチェコがライプニッツを哲学的言語に分類したのはその思想背景によるものである。 一方、もうひとつは普遍文字を神学上・宗教上の問題と分析した派である。この宗教というのは勿論キリスト教のことであるが、なぜ宗教が普遍言語に絡むのだろうか。 聖書の『創世記』では神がアダムに生き物の命名をさせ、そのアダムの名付けがそのままそのものの名前になったというくだりがある。つまりアダムは唯一の言語を持っていた。(と少なくとも当時の一部の人間は考えていたし、細かな聖書の矛盾もどうにか解釈で都合をつけている)ところが大洪水のあと、人間が天に届くバベルの塔を作る。それに怒った神が塔を崩壊させ、罰として人間の言語をばらばらにしてしまう。聖書のこの話は言語の単一紀元説を表している。単一だったアダムの言語が罰によってばらばらにされ、言語の複数性が生まれたのだとする説である。そして当時の一部の人間はこれを信じていた。 教徒の中にはアダムの言語を発見しようという試みをするものがいた。この思想は16, 7世紀の普遍言語論争以前から存在していた。2世紀ごろの神学者オリゲネスは既にバベル以前の言語がヘブライ語であったろうことを示唆していた。これらの神秘主義者はアダムの言語を発見すべく古典語の探求にいそしむ。研究された言語は主にヘブライ語である。 無論その研究は現代言語学の成果とは比肩できるものではないが、かなり長きに渡って研究されてきたことであることは否めない。この神秘主義は普遍言語論争にあって更に動きを高めた。アダムの言語の発見だけでは飽き足らず、アダムの言語への回帰を目指した。つまりアダムの言語の普及によって世界をバベル以前の秩序に引き戻そうとしたわけである。 この時代にアダムの言語への回帰意識きが高まった理由は何か。ちょうど普遍言語論争の時代であったというのも一因であるが、プロテスタントの出現も大きく関与している。プロテスタントは教会が聖書の解釈に介在することを厭ったため、彼らの間では聖書を直に読もうという意識が高まっていた。尚、教会が認めているラテン語訳でさえ彼らは拒絶している。それゆえの祖語ヘブライ語への回帰、アダムの言語への回帰である。更にこの思想を細分化していくと話が言語から遠ざかりすぎるためここで打ち切るが、このように神秘主義によるアダムの言語としての普遍文字や普遍言語というものが存在していた。 つまりこの時代の普遍言語論争では大きく分けて哲学的理由の一派と神学的理由の一派があったといえる。ただ両者は明確に区別されるとはかぎらない。グレーゾーンにいる作成者をどちらに分類するかは難しい。神学派と混同されて激しく相手であるウェブスターを非難したウィルキンズのようなものもいた。ともあれこのような背景を元に数々の人工言語が作成されたことは留意すべきである。ここで作られたのは普及型に分類される。従来の暗号型を追いやるかのような破竹の勢いで普及型は増えてきた。 では次に、具体的にどのような人工言語案が作られたのかを見ていこう。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/85.html
言語学は人工言語を対象としないので、言語学の用語はしばしば人工言語を作る際に使いづらいことがあります。 例えば時制について考えたとき、過去、現在、未来のほかに、「時制がない」とか「過去から未来までを包括的に指す時制」というのが考えられます。 えてして人工言語は体系的に作られるので、言語によってはこういった時制を示すことがあります。 しかし自然言語ではこのような時制を持つものが稀なので、これといって決まった術語がありません。 アルカはたまたまこの「過去から未来までを包括的に指す時制」を持つので、自分で「通時」と名付けました。 自然言語ではギリシャ語に「格言的アオリスト」というものがあり、これが意味的に「過去から未来までを包括的に指す時制」に近いことから、格言時制と呼んだ例を聞いたことがあります。 過去の私も含め、できるだけ言語学に合わせようとすることがあります。実際私も、昔は言語学大辞典を購入して、できるだけ権威ある術語に近づけようとしていました。 しかし作業をしていくうち、人工言語にとってやりやすい術語を作るほうが効率がよいことに気付いたのです。 上の例ですと、まずギリシャ語を知らない人はこのネーミングでしっくりきません。 また、一般的に人工言語を作る際はたくさんの言語を調べることになるので、ギリシャ語の背景がないと説明できない用語は汎用化に適しません。 このような場合は、新しく自分で造語するのが良いです。というのも、人工言語学は私たちで作る分野ですから。 造語の際は、無理に言語学に合わせるよりも、字面から分かりやすいものを選ぶと良いです。 なお、通時がいいかどうかは分かりません。共時態との混同もありますしね。常時というような造語でもいいような気がします。 ただ、無理に言語学の用語に似せるのはお勧めできません。特定の希少な現象を元にネーミングすると分かりにくくなるので、このような手法は避けるのがよいでしょう。 また、言語学に同じ意味の術語があっても、そのネーミングでは誤解を招くような場合も、新しく造語したほうがいいことがあります。 例えば、私の言語アルカでは英語の進行形にあたるものを経過相と呼んでいます。 言語学的にはprogressiveですが、英語と異なり「燃えている」というような燃焼現象の進行について、アルカはこの相を使いません。進行しているのに進行形が使えないのは誤解を招きます。 さらに「開始から完了までの間の経過部分を指す」というニュアンスを持たせたかったことも重なり、経過相と名付けました。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/95.html
人工言語は作る目標を設定することができるため、同時に成功と失敗という概念が発生する。 普及型の場合、小集団に広める以外を目標とすると、ほとんど失敗する。国際補助語以上を目指すと失敗する。 演出型は世界観の演出ができれば成功だが、ものすごく細かいリアリティを追求すると、成功までに極めて長い時間がかかる。 演出型はつまるところ作者が自分で「この程度なら世界観を演出できたといえよう」と納得できるかどうかが境界線なので、成功と失敗の判断が主観的である。 研究型は研究目標に達すれば成功するので分かりやすい。 例えば「アプラウトだけでテンスを表す言語で意思疎通ができるだろうか?」という疑問を立てた場合、作って実験して意思疎通ができれば成功なので、分かりやすい。 最も客観的に成功か失敗かを判断できる。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/82.html
気になった -- (名無しさん) 2008-10-09 23 10 34 セレンさん、なんかあったんですか? 随分とご機嫌が悪いみたいですね。 てか、いつのまにか言語論に飛ばされてたw何この突然のワープww別窓で表示してくれれば分かったんですがね。どうも失礼しました。 -- 名無しさん (2008-10-09 23 12 37) ありがとうございます。大丈夫ですよ。あぁ……それより、毎日ここ巡回しないとなぁ。通知サービスがほしいです。 -- seren (2008-10-12 23 43 00) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/6.html
アーカイブ @wikiのwikiモードでは #archive_log() と入力することで、特定のウェブページを保存しておくことができます。 詳しくはこちらをご覧ください。 =>http //atwiki.jp/guide/25_171_ja.html たとえば、#archive_log()と入力すると以下のように表示されます。 保存したいURLとサイト名を入力して"アーカイブログ"をクリックしてみよう サイト名 URL
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/107.html
In the Land of Invented Languages by Arika Okrent
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/100.html
人工言語より一歩踏み込んだ説明をしています。内容的には重複するものがあります。 1 言語は文化と風土から切り離せない 2 アプリオリとアポステリオリ 3 人工と自然 4 文化と風土が言語を支える 5 文化と風土を持った人工言語 6 エスペラントと文化 7 人工文化と人工風土 8 文化と言語の組み合わせ 9 演出型のあゆみ 10 演出型のこれから
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/13.html
人工言語の基礎がわかるコーナーです。 1 人工言語とは? 2 レトルト人工言語 3 言語と文化 4 言語の普及 5 人工言語のあゆみ 6 人工言語のこれから .
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/29.html
文法 文法は言語のシステムの中で最も組み立て感が得られるためか、人気のある分野です。 作成者の多くは文法システムを作るのが好きなようで、未完成の言語でも文法はそれなりにできていたりします。 語順 まず始めに決めるのは語順だと思います。語順はメジャーなものを選んでおけば無難でしょう。 一番世に多いのはSOVで、次に多いのはSVOです。このどちらかを選んでおけば問題ありません。もちろん、VSOでも大丈夫です。 類型論的に見て 文法に関しては皆さん腕をふるいたいところでしょうからあまりうるさいことは言いませんが、いくつか注意点はあります。 まず、類型論的に見て、屈折語や抱合語は避けたほうがいいでしょう。 文中の単語が辞書形でないことが多く、活用語が一々辞書に収録されないからです。 フランス語のJe t aime では aimer を引かねばなりません。t や aime を探してもまず載っていません。 また、動詞の活用と名詞の曲用はなるべく避けたほうがいいでしょう。 名詞の性は無くしたほうが効率的です。形容詞と名詞の一致も避けたほうが学習が容易でしょう。 エスペラントは形容詞と名詞が一致しますが、国際語イドではその点が排他されています。 スペーシング 単語間のスペーシングもあったほうがいいです。 日本語のようにスペーシングがないと、どこまでが1単語か分かりにくいです。 中国語で4文字くらい並ぶと、何文字で何パーツに区切ればいいのか分からないときがあって困った経験があります。 スペーシングがあれば語の区切りが分かりやすいので、その分辞書が引きやすくなります。いずれ言語を機械処理をする際も作業が楽になるでしょう。 数 英語みたいに単数か複数かを常に気にする言語と、日本語のように数を気にしない言語があります。 どちらかというと後者のほうが長所が多いと思います。 単複を分けるのできめ細やかな表現ができるのは確かですが、逆に複雑すぎて扱えないとか、毎回数を気にするのが煩雑という欠点があります。 furniture や advice は数えられるのに不可算名詞だったりするのは不自然に感じられます。(まぁ、集合名詞だからなんですけど) every は単数を取るのにallは複数を取るというのも、とても不自然に感じます。 数の表現が細かいと、かえって複雑すぎて扱いづらいということがあります。 実際、英語ネイティブも単複どちらか判断できないことがふつうにあります。 ただ、数のカテゴリーを持つ長所もあります。 「古池や蛙飛び込む水の音」 ラフカディオハーンらがこれを英訳したとき、この蛙が1匹か複数か気になったそうです。 この句の場合、単数で訳されるほうが一般的ですが、彼は複数にしました。 "old pond -- frogs jumped in -- sound of water." 私はこれを知ったとき、驚きました。今までこの蛙がそもそも何匹かなど考えたこともなかったからです。 数がカテゴリー化されている言語では、数の分だけ情報量が高くなります。日本人が気付かない疑問に気付くことがあります。 そういう意味では長所ですね。 また、英語では fire か fires かで、それが数えられない単なる火なのか、数えられる火事としての火なのかが区別できます。 火と火事という別の語を作ったり覚えたりする必要がなく、fireかfiresかで区別できるのは便利です。 こういった長所が残されているため、必ずしも数のカテゴリーを外すことを奨励しません。 ――しませんが、かといって文法カテゴリー(必須の要素のこと)にするほどでもないだろうという考えです。 普段は解釈を文脈に依存させ、明示が必要なときに複数マーカーを付ければ良いと思います。 テンスとアスペクト テンス(時制)は現在・過去・未来を基本として備えるべきです。 人間は現在を中心に未来と過去を見ているから、この分類は自然です。 他に作るとしたら通時のように一般的な真理を述べるものや、不定時制のように時制が不定で曖昧というのが考えられます。 どちらも面白いですが、あればいいというほどではありません。 時制のない言語というのもあります。yesterday のような時間を表す副詞を時制の代わりとする言語です。合理的です。 アスペクト(相)は完了と未完了の対立が一番大事です。大抵の自然言語でもそうなっています。ロシア語に顕著なカテゴリーです。 ですが、完了と開始と経過などをそれぞれ等位に置くのも良いでしょう。 要は完了とそれ以外を差異化できることが重要です。 ほかに作るとしたら将然相(~しそうだ)などがありますが、これはあってもなくてもいいです。 行為の反復などはアスペクトでなく、副詞で表わすほうが合理的かもしれません。 アスペクトは副詞で表わしても構いません。テンスも実はそうです。 いずれにせよ、テンスもアスペクトも動詞と関連付けるのが一般的です。 品詞 品詞の種類ですが、少なければいいというわけでもなく、多ければいいというわけでもありません。 多いと制御しづらく、学習しづらいです。 少ないと、少ないものを組み合わせるので必然的に文が長くなり、煩雑になります。 筆者は8~10程度が適切ではないかと考えています。 .
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/74.html
前回の高級語は具体的な物に限定したので、今回は自然物以外のやや抽象的なものについて言及したいと思います。 自然物以外の高級語とはたとえば学術用語や道具の類のことです。 道具というのはここでは時計、車、洗濯機、医療器具など、人工的に作り出したものを指します。 科学・技術・芸術などの学術用語は抽象的ですが、大雑把に言って道具はそういった知識を応用した具体的なものだといえます。 学術用語や道具の数は極めて多いです。学術用語は勿論として、道具はその物の名称だけでなく、各部品の名前まで必要ですから。 これらを全て命名するのは事実上不可能です。人類が長年の歴史で作り上げてきたものを個人や少人数では命名しきれません。 そこで、日常生活に必要なものから作っていくのが重要になります。 特に日常目にするものを優先し、中でも日常その名称を目にする物を優先すべきです。 たとえば車の細部は目にしますが名前は書いてありません。 一方、日用品の原材料名は箱に書いてあり、名称が目に触れます。目に触れる物は優先的に作るべきです。 さて、道具の名前なら車のブレーキやハンドルは作るとして、とても細かい部品、母語でさえ知らない部品を命名する必要はありません。 もし自言語で車の開発をする必要が出てきたら、そのとき初めてそういう部品を命名すればいいだけのことです。 学術用語も同じです。別に自言語でそれを研究したり勉強したりする必要がなければ作らなくていいです。必要だったら作るまで。それだけのことです。 しかし意外と日常生活に必要な学術用語は多いものです。 特に注目すべきは化学です。日用品の中に――特に原材料名の中に化学が多く潜んでいます。 今横にあるジュースの缶を見ましたが、ゲル化剤(増粘多糖類)、果糖ブドウ糖液糖、ビタミンCなどと書いてあります。 ふだん気にすることはありませんが、確かによく目にするものが当たり前のように記載されています。 日常的に目に触れる名称なのに自言語で訳せないと、人に聞かれたときに困るでしょう。 子供に聞かれたときなど一番困るはずです。日本語なら「知らない。そういう材料」と答えてもいいでしょう。 日本語名は既に決まっているから、それがどんな物質であるか知らなくても構いません。 でも自言語の場合、子供への回答は「知らない」ではなく「その語が存在しない」です。 これはまるで事情が異なります。あっても知らないならともかく、日常目にするのにその名称が無いでは困ります。 それがはたして何という物であるかという質問さえできません。 そこで、日常目にするものは命名しておいたほうが無難です。 特に化学は日用品の中に堂々と出ている上に、しっかり物質名が記載されています。 なのでこれを避けて通るのは難しいでしょう。テレビの部品のように一々名称が書かれていなければ無視できるのですが……。というわけで、意外な伏兵は化学です。 他は名称が細かくとも一々記載されていないので誰にも突っ込まれることはないでしょう。 自分でも母語でさえ知らない部品について述べることはないでしょうから、先回りして一々命名する必要はありません。 もちろん、名前が書いてないものは命名しなくて良いといっているのではありません。 細部までは命名しなくていいですが、その物自身の名称程度は命名しましょう。 たとえばパソコンやマウス、スキャナ、プリンタ、テレビ、ビデオなど、家電の類は命名しなければなりません。 もっとも、日本ほどの技術力の文化圏で実用するならですが。 なお、パソコン用語を全て命名する必要はありません。 メモリやハードディスクやインターネット程度なら作っておいたほうが良いかもしれませんが、イントラネット辺りはグレーゾーンで作成者次第です。 いずれにせよ高レベルな語は必要時に作りましょう。 さて、作る範囲を日常目にするものに区切って学術用語と道具を命名するとしたら、今度はどうやって命名するかが次の課題です。 自然物と同じく、人工文化がある場合は自文化の科学史等を参考に一々命名しますが、自力で地球の科学力を越えるのは実質不可能なため、実際には当該分野の本を調べて命名していく地道な作業になります。 後験語の場合、術語をそのまま自言語に直訳するか、音訳してそのまま取り込むのが一番便利でしょう(特に後者が楽なのでお勧め)。 自言語に訳す場合、注意点があります。大抵の術語はもはや英語なので英語を訳すことになりますが、訳し間違いには気をつけてください。 たとえば日本語の数学用語の「有理数」は「有比数」の間違いです。rationalという語の訳を間違えた結果です。こういう間違いをしないように気をつけてください。 また、英語には及びませんが日本語文献も相当多いので、日本語を母語とする作成者の中には日本語の術語を自言語に訳す人もいるでしょう。 そのときは有理数みたいな術語に気をつけて、本などで一々裏を取ったほうがいいです。 有理数は既に日本語の時点で間違っている術語なので、それをそのまま訳してしまうと間違いを踏襲してしまうからです。 もちろん英語にも日本語の有理数のような「既に間違った表現」があります。試しに「帝王切開」の語源を調べてみてください。そういったものを訳す際はご注意を。 もっとも、後験語の場合、たとえ間違っていても国際的な英語を正しいと認めて命名することも考えられます。 人工文化がある場合、そのようなことは推奨されませんが、広く使われたい後験語の場合は参考言語の間違えさえ肯定しても構わないでしょう。 たとえそうしても、作成者と学習者が「間違っていてもむしろ覚えるのが簡単で良い」と思えれば、なんら問題はないと思います。