約 555,888 件
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/96.html
自分に合った人工言語は? 自分に合った人工言語のタイプが判定できます。 チャートの①からYesかNoで進んでいってください。 ドキドキの判定は!?→あなたのタイプ (注) 結果はあまり真剣に受け取らないでくださいね(^ω^;
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/40.html
『言語学大辞典』の「人工語」によれば、ドゥリンチェコは人工言語を次のように分類した。 先験語――哲学的言語 後験語――図式派:エスペラントなど 自然派:インテルリングワなど 先験語とはアプリオリ言語と同義で、後験語とはアポステリオリ言語と同義である。 同辞典によると先験語すなわち哲学的言語とは「人間がもっている論理は人類全てに共通であるからこれを基盤として言語を構築すれば コミュニケーションの手段として機能を発揮しうるという発想から生まれてきた言語案」である。 先験語は人工言語の歴史のわりと始めごろ、ベーコン、デカルト、ライプニッツらによって考察されてきた。(注 本論では先験語=哲学的言語ではない。これはあくまで辞典の分類である) 対して後験語は先験語に少し遅れて発達し、19世紀にザメンホフの台頭で一世を風靡した。後験語とは実際に使われている言語に手を加えたものを指す。図式派とは自然言語の持つ不規則性や例外を排したものである。対して自然派とは自然言語の持つ不規則性や例外を多少認めたものである。 ドゥリンチェコの分類は全ての人工言語を分類しきれないという欠点を持っているが、先験語と後験語に人工言語を大別したことは有益である。人工言語を先験語と後験語に分けた上で自然言語と対比すると、人工言語と自然言語はデジタルな違いではなくその間に異物の存在を許すアナログなものであることが分かる。 後験語は自然言語を基盤とした言語で、図式派も自然派もそれは共通する。図式派は言語の持つ不規則性や例外を認めないが、自然派はそれらを認める。したがって、上記の図で最も自然言語から遠いのは先験語であり、最も自然言語に近いのは自然派である。同じ人工言語でも後験語のほうが先験語より自然言語に近い。同じ後験語でも自然派のほうが図式派より自然言語に近い。ゆえに、人工言語と自然言語の間にはより人工言語らしいものとより自然言語らしいものがあるといえる。以上を図示すると以下のようになる。左に行くほど人工言語の度合いが強い。 先験語>図式派>自然派>自然言語 また、上掲の混成言語をこの中に加えると、上の図は以下のようになる。 先験語>図式派>自然派>混成言語>自然言語 このように、人工言語は自然言語を対極としながらも、その間にはグラデーションともいうべき中間物が存在しているといえる。人工言語は孤立した存在ではなく、自然言語と密接に関わりながら、しかも自然言語との間に中間物を挟むものである。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/92.html
人工言語類型のひとつ。普及を目的とする。 20世紀までの人工言語において最も一般的な類型。エスペラントはこれに含まれる。 普及の段階は以下のとおり。 1 地球上の人間にあまねく広める 2 英語のような国際語にする 3 英語などが通じない相手に、補助として使う。すなわち国際補助語にする 4 広域集団に広める 5 小集団に広める このうち1は非現実的で、通常は2か3を目標とする。 言語の普及は政治力・経済力・戦力・人口に依存するため、実際は5しか実現しない。 5以外を目標とする普及型は失敗する。 なお、体制や宗教が人工言語を普及させた場合、かなり広域に広めることができ、4が実現する。 ヘブライ語、ハングル(文字のみ)などがこの例である。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/47.html
ところで、表音文字と表意文字では概して表意文字のほうが人工言語に与える背景が広範で深淵なようである。言い換えれば人工文字に与える影響が大きい。ハングルの血の歴史や神代文字の民族意識を見ても頷けることだが、なぜ表意文字のほうが人工文字に大きな影響を与えると示唆されるのであろうか。こう書くと西洋の血の歴史を気が滅入るほどご指摘いただきそうだが、それは無論踏まえての上である。 背景が後半で深淵という仮説の原因は民族性の違いでもないし、東西文化の違いでもない。表意文字は表音文字に比べて文字の象徴性が強い。また、文字数が多く字形が複雑で習得が難しい。これらが大きく関わっている。 ハングルが起こった理由を思い出してほしい。そもそも漢字が難しくなかったらハングルの必要性は無かった。中国が20程度からなる表音文字を用いていて、朝鮮語と似たような音韻体系を持っていたら、ハングルは決して生まれなかった。表意文字の持つ難しさがハングルを生んだ。 一方、神代文字については民族意識の問題があった。表意文字である漢字は表音文字のアルファベットよりも象徴性が強いため、「自分達は固有の文字を持たない」という劣等感を日本人に強く植え付けた。その劣等感への反動が神代文字を生んだ要素のひとつであることは否めない。このように、表意文字はその習得の困難さと象徴性の強さにより、表音文字に比べて、人工言語の文字に大きな影響を与えると考えられる。 表意文字は絵文字の性質を持っているので、ピクトグラムと重複する点がある。ピクトグラムという点で見ればアルファベット圏の西洋も、ピクトグラムの持つ象徴性の強さに翻弄されてきた。そもそもアルファベットにも象徴性は認められている。たとえばXは相手が入れないようにドアに打ち付けた木の板を象形している。そこから意味が未知に転じた。 いまでも数学で変数をXとしたり未知の要素をXとするのはこれが原因のひとつであろう。 また紋章などをはじめとした象徴的なピクトグラムが西洋には多数ある。中でも最も象徴的なのは十字である。十字は人工文字ではないものの、極めて象徴的な意味を持つ。具体的にいえば、十字は包括的にキリスト教を象徴する。十字の象徴は、キリストと彼が磔を被った十字架との間におけるメトニミー(より厳密にいえばトポニミー)から作られた。そのため、漢字でいえば象形ではなくむしろ指示といったほうが正しい。 この十字という象徴文字は西洋に多大な影響を与えてきた。西洋人の精神の中に十字はあまりに象徴的に刷り込まれており、十字軍やナチスドイツの鍵十字(ハーケンクロイツ)などを例に出すまでもなく、十字を背景とした出来事は多い。 このように、表音文字圏である西洋でも一部のピクトグラムがその象徴性によって東洋と同じように広範な背景を持つことは認められる。そしてこのことは表意文字の象徴性が広範な背景を文字自身に与えることの傍証でもある。 表音文字圏にある西洋人にとって表意文字やピクトグラムは日常的に自分達の言語を表すためのものではなかった。それゆえ西洋人が表意文字やピクトグラムを見るときは、その象徴性が取りざたされた。神話や聖書の解釈を見るとしばしば西洋の象徴性への執着が見られる。この執着は16, 7世紀の真正文字より前に遡ることができる長きに渡るものである。日常言語が表音文字を使うため、西洋人の表意性への渇望がこの執着を生んだとも考えられる。表意文字の持つ象徴性に神秘主義を重ねた一部の真正文字の探求者は将にこの好例である。 漢字の影響を強く受けた東洋にとって表意文字は日常的で生活臭のするものである。何かを象徴するという神秘的な意味合いは薄れ、単に市場に置いてある桃といった即物的な日常品などを表すものという側面が大きい。生活に密着している分、表意文字を過度に象徴的に捉えないのが特徴的である。表音圏にいる西洋のほうが慣れがないため、過度な期待や意味を表意文字に持たせやすく、神秘主義に陥りやすい。 16世紀、表意文字ブームがにわかに起こったとき、 ――たとえそのブームが普遍文字を求めたものであったとしても――しばしば表意文字の象徴性が取りざたされたのはその裏付けである。 人工言語の黎明は暗号と文字の歴史である。これがこの項の結論である。 まとめよう。原初の人工言語は暗号であった。暗号には文字が使われた。人工言語に使われる文字は自然言語の文字に影響を受けてきた。東洋では表意文字である漢字の影響を受け、ハングルのような先験文字が生まれた。西洋では表音文字であるアルファベットの影響を受け、キリル文字のような後験文字が生まれた。どちらも自然文字の背景を背負うことに変わりはなく、人工言語における文字は自然言語の文字から影響を受けてきた。 尚、文字は人工文字と自然文字に分かれる。人工文字は先験性・後験性の観点から、先験文字(ハングルなど)と後験文字(キリル文字など)に類別することができる。自然文字を人工的に作り変えていない仮名文字は自然文字を改良した自然文字であり、人工文字ではない。 表意文字の難解さと象徴性の強さにより、表意文字を参照した人工文字のほうが広範かつ深淵な背景を与えられる。表意文字が大きな背景を抱えるというのは人工文字だけでなく自然文字やピクトグラムにもいえることである。西洋でも十字などは非常に大きな象徴性を持ち、歴史的事件を何度も背景にしてきた。但し、表音文字は背景を持たないというのは全くの誤解で、トルコアルファベットのように社会情勢や民族意識を背景としたものもあった。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/69.html
ピクトグラムとは絵文字のことで、表意文字より意味合いが若干広いです。 一般に漢字は表文字ですが、落石注意の標識は表意文字ではなくピクトグラムです。 ピクトグラムという点で人工言語を見ると、地球語やLoCoSなどが挙げられます。 LoCoSの場合、基本的に文字は左から右に進みますが、副詞は動詞の「上」に来ます。形容詞は名詞の「下」に来ます。つまり、文字の位置によって品詞が決まります。 この発想は非常に面白いです。ただ、こういう構成の文が自然言語に無いということを考えると、これは人間の自然な認知に背くと考えられます。 文あるいは句をひとつのまとまったゲシュタルトとして認知しづらいのが問題です。 一方、この問題を解決しているのが地球語で、重ね文字という方法を使っています。 文字を重ねて新たな単語を作ります。漢字と同じく象形・会意・指示をきちんと表すことが可能です。 漢字と違うのは漢字が「へん」と「つくり」による「組み合わせ文字」であるのに対し、地球語は字を「重ね」ている点です。 長所もあれば短所もあります。 重ねが過ぎると見づらくなります。3重くらいで抑えると使いやすいです。 3, 4重の語1つで表すか、2, 3重の語2つからなる複合語を使えば、ほとんどの語が表せるのではないでしょうか。 ちなみに、地球語は単語に使う文字を音声表記にも流用できます。しかもIPA並みの細かさを表せるので驚きです。 地球語には形声文字が欠けていますが、音声記述においては漢字より遥かに細かいです。 両者に共通しているのは、象形・会意・指示の割合が漢字に比べて大きいことです。 漢字は形声の比率が大きいですが、人工言語だとこれが減少します。 また、直線と曲線を区別しているので、書体が漢字に比べて限定されます。 書体を変えて丸みを帯びさせたら、地球語では「字母37」と「字母gd」の区別が困難になります。 ところで、ピクトグラムの難しさはちゃんと伝わるかどうかです。 「上」「下」は指示文字です。横の「ちょん」(点)が方向を表しています。でも、これを世界中の人が同じように理解するとは限らないですよね。 きちんと指示文字で受け取ってくれたとしても理解されるとは限りません。長い横棒が上方向に来ている「下」という字のほうがむしろ上だと思う人や民族がいるかもしません。 更に、もし間違って象形として取られたらどうなるか。「下」は空から雷が降ってるみたいだから上だとか、「上」は地面に木が生えてるみたいだから下だとか。 ――際限ないですね。 この辺がピクトグラムの難しいところで、しばしばシンボル性が強すぎて逆の意味で取られてしまうんです。 また、受け取り方が違うせいで誤解を受けやすいのも避けられない難点です。 落石注意の看板を見て「どうやって落ちてくる岩に気をつけるんだ?」って言う人が偶にいます。 半分冗談でしょうが、あれは既に落ちているかもしれない岩に注意という意味です。 誤解を許さないほど情報を盛り込むと、かえって記号が複雑になってしまうので、バランスが大事ですね。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/64.html
ある人工言語で色に象徴を持たせようとしました。 ほら、日本語にもあるじゃないですか。青は「未熟」を表すとか。ああいう感じです。 で、高貴な色に紫を当てました。 でも、どうやって紫が高貴な色であると演繹したのでしょう。 日本語の冠位十二階制を盗用するだけだと、ちょっと捻りが足りないですねぇ。 じゃあ、何を根拠に紫を高貴にしましょう。 ちなみに、前提としてその人工言語独特の基本色に紫が含まれ、 Berlin and Kay(1969)の焦点色理論を正しいとしましょう。 また、高貴という概念の範囲は不定にせよ、その言語に存在すると仮定しましょう。 (↑何のことだか分からなくても支障ないので、安心してください) もし科学的に波の長短が人間に高貴さを感じさせるのならそれが答えで良いと思います。 つまり、人間の目はなぜか紫の波長に高貴さを感じるというような理屈です。でもまぁ、それはなさそうですね。 もし科学的に高貴だと言い切れないとしたら、ゼロから作る人工文化としては何を参考に紫を高貴とすべきでしょうか。 紫の染料はどうやって得ていたのでしょう。日本ではムラサキという植物の根から作りました。特に乾燥させて水と灰汁を混ぜた媒染剤を紫根色といいます。 が、これは非常に高価だったんです。つまり貴重。したがって、ダイヤや金と同じく高貴な人ばかり手に入れてました。 それで日本では紫が高貴になりました。昔の人はよっぽど紫がほしかったのか、藍と蘇芳で染めて偽紫を作っていたそうです。 これは西洋でも似たようなものでした。 purpleという語を辿っていくと、シリアツブリボラ貝という染料に行き着きます。この貝から採れる染料はほんのちょっとなんです。 したがって日本と同じく貴重で、そこから高貴に落ち着きました。 実は科学的な根拠ではなく、単に染料としての高価さが原因だったんです。 だからある人工風土で紫の染料がこういう草や貝しかないところだとしたら、そこの人工文化でも紫は高価になり、そこから高貴に転じやすいと言えます。 最終的にはそれが人工言語にも現われ、「紫は高貴な色」という表現として具現化されるわけです。 さて、基本的にはこのように分析し、ひとつずつ文化なり言語なりを作っていっています。 紫の件ですが、一元的にひとつの理由からひとつの結果を即座に導いてはいません。 文化は関数ではないので、ひとつの原因を入れればひとつの答えが返ってくるわけではありません。 もっと細かく多元的に見ていっています。だから時間がかかります。 たとえば紫にしても、紫の染料が容易く手に入る風土を仮定すれば、紫は高貴にならなかったでしょう。 紫は別に人類共通の高貴色ではありません。 たとえばカーストの初期ではヴァルナというバラモンなど4種の身分がありました。 高位のバラモンは白で、4番のシュードラが黒ですが、これだと白が高貴になります。 理由はというと、諸説ありますが、 アーリア人のほうが先住民より肌が白かったことによる人種差別というのが一説です。 当然、人工文化がこういった事情だったらカーストと同じく白が高貴になったでしょうね。 人工文化はパラレルワールドみたいなもので、いくつもの可能性を持っています。 作る人によって独特のものになるため、誰の文化が一番とか、そういうことはないです。 ついでにいうと、歴史も考えないといけません。紫が高貴だとしても、その世界で変わるかもしれませんから。 たとえば中国ではいまは皇帝の色といえば黄色です。現代では卑猥な色でもありますが。 でも昔、皇帝の色は紫でした。皇帝の家は「紫禁城」ですよね。あれは天帝が極北の紫微垣という星に近いところにいると考えたからです。 このように、文化は規定しても歴史によって変わりうるということです。 もうひとつ例を。 西洋では青が後に高貴な色に変わる時期がありますが、あれは単に紫を取るための貝を採り尽くしたのでその代理という説があります。 こちらは絶滅という理由で歴史的に変わった例です。 また、紫の染色が安価になると、徐々に紫のランクが落ちるとも考えられます。 このままいくと日本もどうなるか分かりませんね。 というように、一度作っても文化は通時的に変わるものなので、その点にもご注意ください。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/22.html
エスペラントと文化 エスペラントはオリジナルの、つまりアプリオリの文化と風土を持ちません。 普及型という事情を考えると、文化と風土の差を明瞭にするよりは、漂白したほうが効率がよいからです。 さて、そもそもエスペラント人という民族がどこかに特定の地域に住んでいるわけではないので、エスペラントに風土はありません。 また、エスペラントのネイティブの大集団が特定地域に住んで特殊な生活を営んでいるわけでもないので、文化もありません。 演出型の人工言語だと、トールキンの指輪物語みたいに架空の風土や文化を作ることがありますが、エスペラントはそういうことをしません。 この意味で、エスペラントは固有の文化・風土を持ちません。 エスペラントの文化と風土は、主に西洋のもので、われわれ日本人とは異なった感覚を持っています。ちょっと実例を挙げます。 エスペラントでは兄弟に長幼の区別はなく、姉妹はどちらも fratino です。 また、代名詞も「彼」と「彼女」を表すもので分かれています。 これら傾向は多くの西洋語にいえることですが、日本語にはない特徴です。 父は patro といいます。母は女性を表す -in- という接中辞を加えて patrino といいます。 一般に「親」を表すときは patro を代表させることがあります。男が無標になるのは英語の man などと同じ発想です。 もっとも、これは多くの諸言語にもいえることなので傍証としては弱いのですが。 より良い傍証は lupo(狼)です。 これは形容詞になると lupa(狼の)という意味になりますが、同時に「残酷な」という意味も持ちます。 グリム童話などに見られるように、狼のイメージは「残酷」です。 しかし、日本では狼は「大神」に通じることから、必ずしも「残酷」とは限りません。「孤高」などを象徴することがあります。そのことは今日でも「一匹狼」のような単語に残っています。 もし、日本のエスペランティストが lupa と言ったら、それは孤高を意味するかもしれません。 当然、西洋人は「lupa に孤高の意味はない」と言うでしょうが、私たちはそれでもエスペラントを世界語と呼ぶ気になるでしょうか。 このように、あくまでlupa は西洋文化を反映しています。 また、akvo は「水」ですが、同時に「お湯」でもあります。 akvo と聞いた日本人が「水」だと思って触れたら、実は「お湯」だったということがありえます。 エスペラントは世界語を目指しているので、西洋に傾倒している事実は好ましくありません。 かといってあらゆる文化に対応した言語を作ることはできません。 稲と米を区別すれば日本にひいき的だし、区別しなければ西洋にひいき的です。どっちにしても不平等で、世界語としては批判されます。 これはとても難しい問題です。 世界語なので、各ユーザーがそれぞれの文化を背景に喋って良いということになったら、いったいどうなるでしょう。 日本人は勝手に akvo に冷たいイメージを持つし、イギリス人は勝手に lupa に残酷さを想起します。誤解が絶えませんね。 じゃあ逆に、特定の文化を採用したら?例えば西洋文化を公式に採用したらどうなるでしょう。 そしたら今度は「世界語のくせに何で西洋中心なんだよ」という批判を受けることになります。 この矛盾が解決できないので、エスペラントに限らず普及語をやっている人たちは、この問題そのものをあまり議論しない傾向にあります。 .
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/56.html
人工言語学で扱うべき内容は以下のことである。 まずは意味の曖昧性および同音異義語について。哲学的言語はあらゆる言語の中で最も曖昧性の少ない言語である。そもそもそれが言語作成の目的のひとつだからである。曖昧性をなくすためには統語規則が厄介になるうえに、同音異義語というものが原則存在しない。ダルガーノやウィルキンズやライプニッツなどの言語は全てこのタイプである。ただそれで完全に曖昧がなく同音異義語がないとはいえない。なるほど構文的には完全に曖昧さを払拭することができるだろう。規則を固めればどれが何の格を持ち、どの修飾部がどこまで修飾するのかも明示できる。「美しい水車小屋の少女」における美しいものが何であるか常に曖昧さなく表現することもできるだろう。また、ラテン語でliberが手紙であったり自由であったりするといった多義語の曖昧さも百科的分類によって防ぐことができるだろう。 しかし曖昧さとはそれだけの問題ではない。たとえば日本人は「兄弟いる?」と聞かれて「うん、兄弟が1人いるよ」と返されると違和感を感じる。ところが英語では"Do you have any brothers?"に対して幾分丁寧すぎるが"Yes, I have a brother"と答えても違和感はない。更にいえば日本語の会話だと答えになってない気がするのに対し、英語ではきちんと答えになっている。なぜ違和感があるのかというと、日本語の質問文に対しては「兄が」とか「弟が」といった答えを想定しているからである。それなのに「兄弟が」と言われると曖昧な返答だ、或いは場違いな返答だと取られる。すなわち言語ごとに基本レベルとなる語やタクソノミー(分類法)が異なるということである。今回の例だと基本レベルの違いが違和感を生んでいる。このように曖昧さというのは語にも及ぶものである。百科分類に基づいて作った言語は独自な世界観の百科的切り分けをしているが、この切り方は言語によって異なるため、曖昧さを排他することはできない。 哲学的言語ほどやかましい分類を行わない言語に関しては同音異義語の問題が出てくる。意図的に同音異義語を作らない方法も考えられるし実行可能である。しかし実際のところ音声環境によって同音異義語が出てくることがままある。そういった音声変化も見越して予め同音異義語ができないようにすることも可能である。問題はそこまでして曖昧さを排他する価値があるかどうかである。実際の言語の運用では文脈でどの意味か分かるし、概ね我々人間が誤解するのは同音異義語ではなく pot, podのような最小対語のほうである。 次に意味の変化について。以前述べたが言語は常に変化するため、意味の変化も逃れられない。仮に逃れられるとするならば誰もその言語を使わないことである。実用される限り仮に統制を行っても言語は変わる。アラビア語は教義に従って1000年もの間言語を殆ど変えていないが、実際に街で使われる俗語と聖書の言葉を比べれば変化がなかったとは言えない。意味の変化のパターンは自然言語と同じであり、たとえばメタファー(隠喩)やメトニミー(換喩)によるものなどがある。人工言語は――特に普及型は――曖昧さを嫌うのでできるだけメタファーなどを定義しないようにする傾向にあるが、比喩能力は人間の言語能力の上で重要であり、表現の幅を狭くして言語を殺そうとしないかぎりは必要な要素である。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/83.html
人工言語はRPGゲーム制作に譬えられる。 アポステリオリは自然言語を参照にするので、もともと存在するソースを利用することができる。 そのため手軽に作れるが、作り込みという点ではアプリオリに引けを取る。 語法や語彙をアポステリオリにするだけで、ずいぶん言語制作の労力は減る。 もちろんアポステリオリで作った言語でも、語法や文法や語彙は存在するから、言語としての実用は問題なく行える。 その意味で、アポステリオリはRPGツクールを使ったゲーム制作に似ている。 ある程度のひな形があるので、手軽に作れ、出来上がりも決して悪くない。 それで十分と納得できれば、お勧めする。 一方、アプリオリはプログラムから絵描きまですべて自作でゲームを作るようなものだ。 ツクールを使わないので、安定した言語制作ができない。 当然、出来栄えもツクールを使ったもの以下というのが往々にしてある。 しかし、作り込みをしていけば、ツクールで作るより立派なものができる可能性がある。 FFやドラゴンクエストだってツクールではないが、あれと同じようなものだ。 もちろん、FFを一朝一夕で作ることなどできない。 アプリオリでツクール以上のものを作ろうと思うなら、相当な労力が必要だ。 つまり、アプリオリはアポステリオリに比べて安定性がなく、出来栄えもピンキリだということだ。 アポステリオリが預貯金なら、アプリオリは投信や株と同じ。ハイリスク・ハイリターンだ。 どこまでも作りこもうじゃないかというハードユーザーには、アプリオリがお勧めだ。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/63.html
私は高校時代、若いこともあって、自分の言語で世界征服をしたいなんて考えていました。 ダークですねぇ。 一方、ザメンホフの場合は征服ではなく、言語の壁を取り除くという立派な目標を持っていたようです。 ザメンホフはホマラニスモ宣言の5番で、「あらゆる人間は個人生活では好きな言葉を話し、好きな宗教を信じる完全かつ明白な権利を有すると認める」といっています。 彼はエスペラントを世界語というよりは「どこでも通じる国際補助語」と捉えていたようです。 さて、世界語にせよ国際補助語にせよ、現実には厳しいものがあります。 言語っていうのは、経済力と軍事力の強い国の言葉が広まるものだからです。 高校時代の自分に言ってやりたいですが、「言語が論理的で合理的で優れている」とか「言語の壁を崩して平和な世の中を作る」といった理由では、広まりません。 アメリカは強い国なので、自分が英語だけできればやっていけますから、別にエスペラントが広まっても嬉しくないです。 逆にリゾート地のおばちゃんとかは、エスペラントできるより、英語できたほうが食っていけるので、英語をやります。 なんていうか、本当は行動を起こすべき「貧しい人」ほど、自分の言語やアイデンティティを捨ててしまうんですね。 そういう悲しい事情があって、人工言語という理想を広めるのは、難しいのです。 このサイトの読者には「俺の言語をあまねく世の中に広めてやるZE!フハハハハ!!」という人がいるかもしれませんが(笑)、それはちょっと無理そうです。 エスペラントは作った時期が良かったこともあり、ユーザーは多いです。ただ、世界語にも国際補助語にもなれていないのが実情です。 また、日本では特にユーザーが高齢化してきており、若手が少なくなってきているようです。(ただしネットを介したユーザーは増加しています)