約 11,571 件
https://w.atwiki.jp/srwux/pages/125.html
シナリオ攻略 第36話 『天に選ばれし覇者』 勝利条件 敵の全滅 敵増援1後 エルシャンク(ロミナ)が指定ポイントに到達 敵増援2後 呂布の撃墜 敗北条件 味方戦艦の撃沈 敵増援2後 味方戦艦の撃沈 曹操の撃墜 敵増援3後 味方戦艦の撃沈 曹操の撃墜 孫権の撃墜 ステージデータ 初期 初期味方 ペインキラー(美海) R-ダイガン(エイーダ) フェィ・イェンHD(フェィ) プトレマイオス2改(スメラギ) エルシャンク(ロミナ) マクロス・クォーター要塞艦型(ジェフリー) 任意選択×16 初期敵 重バジュラ(バジュラ)&ハウンドバジュラ(バジュラ)×3 ハウンドバジュラ(バジュラ)&ハウンドバジュラ(バジュラ)×2 バジュラ(大)(バジュラ)&バジュラ(大)(バジュラ)×5 バジュラ(小)(バジュラ)&バジュラ(小)(バジュラ)×10 敵ユニット数10以下 敵増援1 東 バジュラ(大)(バジュラ)&バジュラ(大)(バジュラ)×2 バジュラ(小)(バジュラ)&バジュラ(小)(バジュラ)×4 西 バジュラ(大)(バジュラ)&バジュラ(大)(バジュラ)×2 バジュラ(小)(バジュラ)&バジュラ(小)(バジュラ)×4 エルシャンクの指定ポイント到達or敵ユニット数12以下 味方増援1 北東 紅蓮装 曹操ガンダム(曹操) 敵増援2 北 呂布トールギス(呂布)&貂蝉キュベレイ(貂蝉) 呂布or貂蝉のHP60%以下 味方増援2 マクロス・クォーター周囲 猛虎装 孫権ガンダム(孫権) YF-29デュランダルF(アルト) 敵増援3 北東 バジュラ(大)(バジュラ)&バジュラ(大)(バジュラ)×2 バジュラ(小)(バジュラ)&バジュラ(小)(バジュラ)×3 北西 バジュラ(大)(バジュラ)&バジュラ(大)(バジュラ)×2 バジュラ(小)(バジュラ)&バジュラ(小)(バジュラ)×3 ユニットデータ 敵 機体名 パイロット Lv補正 HP 射程(P) 資金 撃破アイテム 備考 初期 重バジュラ バジュラ +1 21200 7(3) 5000 ハウンドバジュラ バジュラ +1 10200 6(3) 2300 バジュラ(大) バジュラ +1 7200 6(3) 2100 バジュラ(小) バジュラ 0 5700 5(3) 1900 増援 呂布トールギス 呂布 +3 39200 6(3) 18000 孔明の兵法書 貂蝉キュベレイ 貂蝉 +2 27200 6(4) 17000 三璃沙の握り飯 イベント・敵撤退情報等 敵ユニット数10以下敵増援1、勝利条件が「エルシャンク(ロミナ)が指定ポイントに到達」に変更 エルシャンクの指定ポイント到達or敵ユニット数12以下敵ユニット数で条件を満たした場合エルシャンクが指定ポイントに移動、敵増援2、味方増援1 全敵ユニットの気力150 ジョウ、浩一、アレルヤ、ピーリス、ティエリア、劉備、総士、フェイ、チャム、エレボス、主人公、サヤの気力-30、SPが0に低下生存及び加入している場合、翔子、カレン、バーンも同様に気力-30、SPが0に。 曹操の気力150に上昇、「熱血」がかかる 勝利条件が「呂布の撃墜」に変更、敗北条件に「曹操の撃墜」追加 呂布のHP60%以下敵増援3(気力は90)、味方増援2、曹操に「天鳳華炎斬」・「炎鳳獄焔燐」追加、全味方ユニットのHP・SP全回復 呂布のHP全回復、「魂」がかかる 曹操に「熱血」、孫権に「気迫」・「鉄壁」、アルトに「必中」・「ひらめき」が掛かる 敗北条件に「孫権の撃墜」追加 以後、毎ターンアルトに「必中」・「ひらめき」が掛かる クリア後孫権に「王虎轟獣擊」追加 攻略アドバイス イベントでSPが0になるキャラはイベント前に精神を使っておこう。SPが0になってもかかっている精神は解除されない。 その後のイベントで全ユニットのHPとSPが回復するので、それ以外のキャラも精神は出し惜しみ無しでいこう。が、呂布登場時に下がった気力は回復しない。ENも回復しないので大技を使いきって呂布が倒せないということが無いように。 最後の増援バジュラは北東・北西それぞれ隅っこに出るため、呂布周辺で戦っていると倒すのが手間だが、実はストライクフリーダムとケーニッヒモンスターのマップ兵器範囲にキレイに収める事が出来る。イベントを起こす前に前もって2機を配置しておくと手早く稼げる。 隠し要素 呂布 貂蝉曹操で呂布を撃墜する。反撃不可の遠距離で攻撃できるので安全に戦える。その代わり援護防御や遠距離攻撃の貂蝉が脅威のためあらかじめ撤退させる必要はある。援護攻撃役が撃墜しても曹操が倒したことになるのでそれでもOK 戦闘前会話 初戦闘:エイーダ、フェイ、美海、オズマ、SNSメンバー、曹操、アルト 呂布:劉備、曹操、孫権、孫尚香、ショウ、エイサップ、九朗、一騎、シン、海動、ジョーイ、葵、フェイ、アーニー クリアボーナス 資金+37000、インファイトLv+1、全体攻撃Lv+1、闘争心、サイズ差無視 隣接シナリオ 第35話『選択-けつい-』 第37話『命あるもの』
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/43749.html
登録日:2020/01/17 Fri 22 10 00 更新日:2024/09/20 Fri 14 45 16NEW! 所要時間:約 25 分で読めます ▽タグ一覧 バウ レッドウォーリア 一匹狼 三国志 三国演義 世界史 中国史 元ヤン 名門 四番目の男 庶子 曹操 汝南袁氏 盟主 群雄 華北 袁家 袁紹 袁術 金髪縦ロール 袁紹とは、後漢末期の武将・群雄。 北方圏の覇者となり、あの曹操をして正面から打倒しうる存在でありえた、おそらく最大にして最後の男。 一般的な歴史評価は低いものの、天下一四州のうち四州を支配に収め、その軍動員規模は劉備や孫権よりも上回る勢力を得た三国志の「四番目の男」である。 【生涯】◆出生 ◆反董卓連合 ◆河北の雄 ◆曹操との対立 ◆官渡の戦い ◆晩年 【人物】◆勢力拡張 ◆統治能力 ◆官渡決戦 ◆臣下について ◆献帝拒絶について 【三国演義の袁紹】 【各作品】 【生涯】 ◆出生 後漢中期~後期を代表する名門豪族、「四世三公」汝南袁氏の出身。 生き馬の目を抜く官界において、四代に渡って位人臣を極めた、実力・財力・組織力を備えた実力派の名門の出身である。 ちなみに、汝南郡汝陽県は現在の河南省は周口市の商水県だが、その東隣の項城市からは二千年近くのちに袁世凱が産まれる。 というといかにもボンボンの御曹司と思われるが、実際の袁紹はかなり恵まれない立場にあった。 まず、袁紹の父親がはっきりしない。 袁紹の父親の世代は(有名なのは)袁成・袁逢・袁隗の三人である。(汝南袁家については袁術の項目に) このうち、最初は袁家の当主の座は袁成が継ぐはずだったが、彼が早世したため、袁逢が当主となった。 しかし袁紹は、袁成の息子という説と、袁逢の庶子だったのをあとで袁成の養子になったという説がある。 前者の場合「本来当主になるはずだった血統の忘れ形見」、後者の場合「嫡流の兄弟を差し置いて当主になりかねない立場になった泥棒猫」、となり、 どう転んでも御家騒動を引き起こす立場である。 しかも、袁紹の母親が「卑しい身分」だったことだけは確定している。ある話では母親を「婢女」と表現して「袁家の恥・袁紹の罪」などと書かれたことさえある。 父親がはっきりせず、しかもどっちにしても危うい立場、かつ母親の身分が奴隷並み、となると、貴族社会ではかなりのハンデを背負っていたはずだ。 生まれた年すらはっきりしないのもこれが一因であろう。 とくに、袁逢の正室の息子で、自分にとっては異母弟であり従弟になる袁術からはかなり憎まれていた。 そうしたこともあって、袁紹は一族のなかでかなり浮いていた。市井に交じって遊侠を好み、ヤンチャをしていたこともあったという。 曹操ともこのころからつきあいがあり、信憑性はともかく「一緒に花嫁を奪った」話は語り草。 ただ、そうした愚連隊のなかにあっても、袁紹は名門の気品と名門らしからぬ謙虚さを忘れず、威厳と闊達さを併せ持ち、多くのひとから慕われたという。 春秋戦国時代の孟嘗君もそうだが、幼少期に苦労をしたために人情に通じるようになり、それによって人心収攬の術を磨いていったのかもしれない。 曹操と親しくなったのも、かたや「宦官の孫」、かたや「婢女の息子」という出生のレッテルに苦しんだもの同士、シンパシーを感じたからか。 二十歳のころには県令を勤め、評価も高かったのだが、母の死とその服喪を期に退役。 しかも、母の喪が済むと今度は袁成の服喪、それが済んでもなお謹慎、となぜか動かなくなる。 あの黄巾の乱にすらも沈黙を通し、徹底して後漢王朝と距離をとっていた。 ただ、専横を極めた宦官の十常侍が不審なものを感じたことや、袁隗が激怒したという話、謹慎していながら侠客仲間と深い契りを結ぶなどの逸話から、ただ引き籠もっていたわけではない様子。独自の人脈を作っていたのだろうか。 結局、袁隗の提案から、時の権力者・何進の幕僚に納まり、その後は急速に昇進。 188年には曹操や淳于瓊らとともに「西園八校尉」の一角に座っている。 ◆反董卓連合 189年に霊帝が没し、帝位を巡り権力闘争が起きると、袁紹たちは上司である何進の側について宦官と争うことになる。 袁紹は何進の幕僚として暗躍し、各地の軍閥を呼び寄せて、その軍事力で宦官たちを威圧。 何進が宦官たちに暗殺されると、袁紹はこれをすぐさま「宦官の謀反」として糾弾し、袁術・曹操とともに宮中に突撃。 問答無用で宦官とそれに阿る官僚を虐殺し、ついに長年に渡る宦官の跋扈に終止符を打った。 ところが、宦官が最後の悪足掻きで皇太子二人を連れ出してしまい、それがたまたま入朝しにきた董卓の軍団に拾われたことで、 一連の権力闘争は董卓の一人勝ちとなる。 袁紹たちは董卓への反発から、首都を脱走して冀州にて挙兵。袁紹は「反董卓連合」の盟主となった。 ところで袁紹は、故郷の汝南には向かわず、地縁のない冀州にて挙兵している。 これは董卓が袁紹を追討せず懐柔しようとし、渤海郡太守に任命したからである(後漢代の渤海郡は冀州に属していた)。挙兵したのはその任命を受けた後。 しかし出奔から懐柔目的の太守任命、そして挙兵まで三カ月という短期間、 渤海郡自体中堅程度の規模の郡であること、 更には河北での地縁もないという状態では、兵力を作ることはできず、盟主でありながら軍事力=統率力が弱かった。 というか、統率力がないからこそ諸侯に担がれたと見ることもできる。 他諸侯は袁紹よりも格上で実力を持っていた州牧・州刺史だったり(そもそも袁紹の渤海郡自体が冀州の一郡に過ぎず、連合には冀州牧の韓馥も参加している)、 袁紹と同格程度の郡太守・諸侯相(中には渤海郡よりも大きい郡の太守もいた)であったため、 少なくとも連合内で袁紹が実力で抜きん出ていたという事はまずあり得ない。 曹操や張邈など軍事力を持った昔馴染みの盟友はいたものの、曹操(+張邈の援軍)がいきなり徐栄に撃破され兵を失ったため、袁紹の統率力はあっさり限界に達する。 他方、ライバルの袁術は孫堅を支えつつ南方で雄進し、董卓は長安に逃亡。 董卓はもともと涼州を縄張りにしており、長安遷都は本拠地への接近・戦力増強を意味する。 他方、連合にとって長安は目標として遠すぎ、攻撃限界に達して追撃は不可能に。 そのうえ、もとより統率力のなかった連合の分裂はますます悪化。諸侯同士の殺し合いにまで発展して、自然消滅した。 袁紹はそのまま冀州に戻り、腰を据えて勢力拡充に勤しむようになる。 ◆河北の雄 連合を崩壊させた利害闘争がひと段落したところ、天下は大きく分けて袁紹・曹操・張邈・劉表など袁紹グループと袁術・孫堅・陶謙・公孫瓚など袁術グループに分裂していた。 ちなみに、このころの劉備・関羽・張飛は公孫瓚の遊軍といったところで、間接的に袁術グループに属した。 初手は袁術グループが大規模な攻勢を仕掛けたものの、劉表が孫堅を討ち取ったのを皮切りに、袁紹は公孫瓚を、曹操は陶謙を各個に撃破。 盟主である袁術も、袁紹と曹操のタッグが打ち負かし、戦況は袁紹側がリードした。 袁紹自身も河北にて飛躍。 上述のように袁紹は河北に地縁がなく、人脈も勢力も持たなかったため、かなり厳しいスタートになったが、 彼は策略を巡らせて冀州を奪取、反袁紹派だった冀州の幕僚・豪族たちすら口説き落として、冀州に盤石の体制を築き上げた。 当初は乏しかった軍事力も、在地の武将たちを抜擢・再編することで獲得。 北方の異民族に対し抜群の軍功を挙げ強盛な騎馬軍団を有した・公孫瓚、軍勢百万と言われた黒山賊、孔子の末裔・孔融など、錚々たるメンツを打ち破り、 また幽州に人望のある劉虞の遺族を保護する、異民族勢力を取り込むなどして剛柔合わせた政策をとり、 十年たらずのあいだに冀州のみならず、幽州・并州・青州を版図に収めた。 全盛期の兵力は十数万を数え、名実ともに当時の中国における最大最強の軍閥にのし上がる。 ここまで読んだ方は三国志演義の各登場人物からダメ出しをされている人物像と大きく離れた経歴に驚く方も多いかもしれない。 そう……実は彼は生まれながらに河北に勢力を構えていたわけではなく、後漢末期の混乱期の10年前後の間に、 彼一代で河北四州に覇を唱える事に成功した、まさに風雲児的な飛躍を遂げた人物なのである。 このまま彼の成功が続けば、『三国志』はなく、代わりに時代の寵児・袁紹のサクセスストーリーが後世の人たちを魅了したかもしれない。 だが、10年という短期間の間に膨張した勢力、そしてそこに所属する家臣たちが産み落とした(新勢力ゆえの)功績争いのための確執は、 少しずつ、袁紹の統治能力を越えたところで彼の人生を狂わす歯車となっていくことになる――― ◆曹操との対立 先述の通り、当初は袁紹と曹操は利害面で友好関係にあり、特に袁紹側は曹操を陰に陽に支援。 曹操を南方の防波堤に利用するという打算もあるにせよ、陳宮の寝返り・呂布の猛攻など曹操の苦境を助けたのは間違いなく袁紹であった。 もちろん、曹操も袁紹を助けて袁術・呂布ら強敵と戦っていたのであり、この時点では両人はまさにパートナーだった。 しかし、やがて袁紹と曹操が周辺の敵をあらかた駆逐すると、その勢力は必然として、お互いに向かざるを得なくなった。 初めの亀裂は献帝の処遇だった。 長安からほうぼうのていで中原に逃げてきた献帝と朝臣たちを、迎え入れるか否かで、袁紹・曹操はともに悩んだ。 確かに献帝を擁立すれば皇帝の権威と大義名分を得られるが、一棲両雄の禁を犯すことになるし、権威と権力が分裂する危険を孕む(*1)。 まだ迎える前の時点でさえ、臣下のあいだで意見の対立が生じたぐらいである。 謀臣のひとり郭図について「賛成した」説と「反対した」説があることからも、混迷がうかがえる。 結局、袁紹は献帝を拒絶したのだが、曹操が擁立したため、権威において曹操が袁紹の上に立ってしまう。 この時点で曹操は袁紹と戦うつもりはなく、袁紹を大将軍に、自らは格下の車騎将軍を名乗ることで納まった。 ……が、既に後漢の皇帝が支配力を失いわずかな権威のために帝位を許されているという、実力主義の世の趨勢の中、 兗州・豫州・司隸・徐州に勢力を伸ばした曹操、冀州・青州・并州・幽州に地盤を築いた袁紹の間で、いずれ大規模な衝突が起こるであろうことは、 多くの人が予測していた事だった。 そして199年、南の袁術と北の公孫瓚と東の呂布が相次いで死亡し、天下はついに袁紹と曹操の二大巨頭の決戦前夜とも言える情勢となっていた。 どうやら袁紹は199年時点では曹操と戦うつもりはなかったようで、劉備を曹操が攻撃した際、田豊の出兵進言を拒否している。 「子供(*2)の病気」を理由とされるが、実際には199年とは幽州と并州(*3)を併合した年で、後方の安定に不安があったからだろう。 実際、199年に公孫瓚の息子・公孫続に大軍を貸した黒山賊の張燕が、いまだ勢力を残していたし、 公孫瓚が敗死したのが199年の3月で、南征の意志を固めて出陣したのが200年の2月のため、新支配地の安定化に時間を取ったと見ることができる。 しかし、先に曹操へ反旗を翻した劉備が使者を袁紹へ送り、両者が同盟関係を結んだこと、 その劉備が曹操の大群の前に離散し、青州で袁譚に保護されたことをきっかけに袁紹と曹操の軍事的緊張が一気に高まっていった。 そして200年2月、ついに袁紹は総力を挙げて出陣。いわゆる「官渡の戦い」の幕が上がった。 ◆官渡の戦い 序盤は、先遣隊であった顔良・文醜が相次いで戦死したものの、袁紹直属の本隊は兵力十万以上という大軍団で正面から圧倒。 数で大きく劣る曹操軍は素早く退却し、黄河の支流が激しく入り組んだ難所、官渡一帯に展開する。 これに対して袁紹は、麾下全軍の総力を結集した猛攻で防衛線を次々突破。曹操は最終防衛ラインと言うべき官渡の砦にまで押し込まれた。 袁紹軍が発射する矢弾は雨のように降り注ぎ、曹操軍の兵は盾をかぶらなければ外を歩けなかったとまで言われる。 しかし曹操もまた必死の奮闘を繰り広げた。 袁紹が櫓をつくって射掛ければ、曹操は発石車を投入して反撃。 ならばと地下道を掘り進める袁紹軍に、曹操軍は急きょ塹壕を掘ってこれを潰す。 さらに袁紹は官渡戦線のみならず、孫策や劉表に北上を唆したり、故郷・汝南に劉備を派遣して挙兵させたりと、外交面でも活発に攻勢を掛けた。 孫策は挙兵直前に暗殺されたものの、劉備ら汝南の別働隊は逃走と来襲を繰り返し、曹操の戦力を確実に削っていた。 だが曹操もまた戦線を死守し、やがて戦況は官渡水を境として膠着化、長期戦にもつれ込む。 袁紹軍は遠征軍の常で補給が厳しく、烏巣に大規模な補給基地を作っていた。 ところがある日、袁紹の最古参の腹心だった許攸が、曹操に寝返ってしまった。 許攸は頭こそ切れるが曲者で(*4)、官渡で献策が度々遠ざけられることに不満を抱いていた上、審配から親族の汚職を弾劾され、主君を見限って逃げたのである。 最高幹部の一人だった許攸のタレコミにより、烏巣こそが最重要の補給拠点であると確信した曹操は、みずから精鋭を率いて烏巣を強襲。 袁紹も事前に淳于瓊の部隊を警護につけていた。彼もまた旗揚げからの古参であり、激しい反撃を展開。一時は曹操自身も危ういほどになった。 更には曹操軍本隊の手薄を察知した袁紹軍は数の利を活かし、烏巣の救援に快速の騎兵隊を送るとともに、手薄になった曹操本陣も重装歩兵隊に急襲させ、関ヶ原もかくやという急所の一戦が巻き起こる。 しかし、この機を逃しては勝ち目はないと確信していた曹操も火を吹くように攻撃。味方から「敵援軍が来ます! 兵を分けましょう!」と言われても「やかましい! 来てから言え!」と怒鳴りつけて攻撃に兵力を傾注し、ついに淳于瓊らを撃破。烏巣の食料をすべて焼き払ってしまった。 さらに、烏巣救援と同時に派遣していた、官渡攻撃部隊はそのまま曹軍に投降してしまう。 こちらの指揮官は張郃だったが、彼は烏巣救援を主張したのになぜか官渡攻撃を命じられる。 張郃は後々曹操軍で大活躍する名将であり、顔良・文醜を既に失っている袁紹としては重要な任務にその実力序列のまま優秀な大将を派遣したつもりだったのかもしれない。 しかし袁紹軍に他に優秀な将軍がいなかったとも思われず、その中で作戦に反対していた者を大将にするのは流石に悪手であり、張郃はいずれ責任を負わされると感じて投降したという。 + ……ただ…… ……ただ「作戦に反対していた者をその作戦の大将にする」のはどう考えても不合理なことであり、 たとえ張郃が兵を率いるに有能な指揮官だったと認められていたとしても、どのような経緯でそのような無神経な人員配置になったかは多くの人が議論しているところである。 実際、この張郃の投降劇については「武帝紀」「袁紹伝」と「張郃伝」で時間軸に矛盾がみられる。これは裴松之も指摘している。 (「武帝紀」「袁紹伝」「荀攸伝」では「まず張郃らが曹操に投降し、その後袁紹本陣も敗れた」とするが、「張郃伝」では「袁紹本陣が先に崩れ、そのあと郭図の讒言があって、曹操に投降した」としている) 別に、史書に相矛盾する記録があるのは常のことだが、張郃が降伏する過程で何があったのか、いずれの者に投降劇を招いた責任があるのかは、 後世の我々からは判断しづらい部分がある。 とにかく、食料・兵站を失い、かつまた主力級の将軍を多く失った袁紹軍は敗北を認めざるを得ず、ついに退却。 しかも追撃を掛けた曹操軍によって多くの兵が失われ、逃げ遅れた沮授が捕縛されるなど、さらなる傷を負った。 ここに、官渡の戦いは袁紹の敗北で終わったのである。 ただ敗退しただけならばともかく、最古参の大幹部だった許攸を初め、淳于瓊・顔良・文醜・張郃・高覧といった軍部の重鎮や、 冀州の大豪族で政治面を支えていた沮授を失った痛手はあまりにも大きかった。 また、この敗戦の余波で審配への讒言、田豊の処刑なども続き、河北の袁紹支配は大きく動揺。権力のゆらぎを見て取った各地の小豪族たちが反乱を繰り返した。 ◆晩年 しかし袁紹は多くの幹部を失いながらも短期間で組織を再建。 領内で起きた多数の反乱を一年ほどの間に鎮圧して、敗戦で揺らいだ政権の威信を立て直すことに成功する。 また、これと平行して官渡決戦の翌年、再び曹操が袁紹の倉亭の軍を襲って「倉亭の戦い」が起きている。 この倉亭の戦い、いちおう曹操が勝利したとされ、演義でも官渡には及ばないもののそれなりに重要な戦いとして描かれている。 しかし正史においては官渡と違って記述がほぼなく、実際は守備隊が一部撃破されたと言った程度のものだったようだ。 実際のところ、冀州に動揺が走っていた頃も、曹操はこれ以上の軍を派遣できず、袁紹存命中はにらみ合いの状況が続いていた。 これは袁紹が身を以て自勢力の瓦解を防ぎ河北の支配を維持できる力をいまだ有していたことを意味している。 しかし、官途での敗北、支配地の叛乱を鎮撫するために東西奔走した心労等が重なったためか、 冀州の地の安定を再び定めてからほどなくして、袁紹は病に掛かり、西暦202年の6月28日、吐血して没してしまう。 ただでさえ政権が大きく動揺した直後、河北を一手に束ねていたカリスマの急逝は再び河北を揺るがし、 また後継者を明確に定めていなかったタイミングで世を去ったため、あとに遺された者たちはまとまりを欠く行動に走るようになり、 以後河北の袁家は坂を転がり落ちるように衰退していく。 【人物】 一般には「見かけだけは立派だが、優柔不断で打たれ弱い、名門出の青っちょろいボンボン」という扱いで、かなり罵倒されている。 しかし、実際の袁紹の行動をたぐると、むしろ野心と行動力に富んだカリスマ経営者だったといえる。 まず河北に割拠したことからして決して順調ではないスタートだった。 というのも、もともと彼の故郷は予州汝南郡であり、中国全体ではやや南より。冀州とはかなりの距離がある。 董卓の元から冀州方面へ逃亡し、半ば無理やり渤海郡の太守に任命され河北から離れられなくなったいきさつがあるとはいえ 袁紹には後ろ盾になるものや、頼りとなる血族を引き連れていた描写がない。 彼の政権において、袁紹の「一族」といえるのは三人の息子のほかは甥が一人だけで、 曹操における夏侯惇や曹仁、孫家における孫賁や孫静、袁術における袁胤などのような組織を支える同世代の親族がまったくいない。 つまり河北袁紹政権は、「名門袁家」の血縁や地縁がまったく及ばない、純粋に「袁紹の力」だけで運営された政権だったということである。 親族衆を中心とした統治は、勢力を集めやすく、結束を固めやすいというメリットがある。 なにせ血族である。昔からのつきあいがあるし、土地のつながりも強いし、敵に寝返る可能性も低い。 もし敵対勢力に寝返っても「やっぱりあいつの帰属先は実家だろう」と白い目で見られ続けるのである。よほどの事態がない限り、血族が敵に寝返ることはない。 また名門一族なら、子女には生まれた時から相応の学を身につけさせられる。大成する人材は限られていても、無難な人材程度は継続供給できる。 曹操が覇者としての地位を確立できたのも、優れた人材が一族に多かったのも一因だ。 しかしデメリットもある。最たるものは「当主の乗っ取り」だろう。なにせ血族である。 なにかしら血のつながりがあれば、「戦死された殿のご子息はまだ幼い、これからは一族の年長である私が束ねる」「殿もお年です。隠居なさって〇〇に当主を譲られては」となっても、そんなにおかしくはない。 実際、袁術の死後に一派を率いたのは息子の袁燿ではなく従弟の袁胤だし、馬超は息子がいるのに後事を馬岱に託した。 孫策でさえ、当主の座を従兄の孫賁と争っていた形跡がある。日本史ならば武田勝頼が、一門衆によって破滅した例だ。 曹操陣営の中では一族による乗っ取りが起きなかったが、曹操自身がカリスマで比較的長生きしており、死ぬまでに後継者の権力を確立できていたことと無関係ではないだろう。 血族は血族そのものを裏切りはしないが、血族の内部で裏切りうる。 しかし袁紹の周辺には子と甥しか一族がいない。 反董卓連合軍結成の際に中央にいた袁一族が董卓に族滅させられているのが最大の原因だろうが、袁家ほどの名族であれば相応の生存者はいたと思われる。実際袁術の周囲には袁一族を慕う者もやってきていたようだ。 袁紹が天下を握りそうな情勢にもかかわらず周囲に親族がいないとなると、近寄ってくる一族を故意に排除していたか、仮に保護しても何の力も与えず飼い殺しにしていたかもしれない。 (ほぼ)族滅状態である以上一族に生存者はいたとしても大した力はなく、そんなのを吸収しても勢力拡大にはつながらないし、却って紛争の種になりかねないからだ。(*5) それだけに、袁紹には出自を卑しんで足を引っ張り、隙あらば取って代わろうと考える、やっかいな親戚は組織にいなかった。 血族から自由になり、自分の能力とカリスマだけで権力を握れたのだ。 こうしたタイプは、三国志なら劉備や劉表が該当する。 劉備は東北の幽州の出身だが、最後は西南の益州に割拠した。現地に地縁など皆無であるし、めぼしい親族など養子くらいだ。 劉表は由緒正しい皇族だが、荊州に派遣されたときは単身赴任同然であった。 この手の君主は、自前の権力に乏しいから、へたすると実権を失ってしまう。 劉表は赴任当初、地元豪族に阻まれて荊州に入ることすらできず、そのあと蔡瑁たちに擁立されることでやっと荊州支配ができたが、 今度は彼らの傀儡となり、後継者は蔡瑁に擁立され、すぐに曹操に降伏した。 しかし逆に、劉備や劉焉のように智恵と気力さえあれば、地元豪族を束ねて活動できる。 それに権力を簒奪しようという血族がほとんどいないため、クーデターは起きにくい。 あまり聡明でない劉禅のもとでも、魏や呉のような皇族由来の政変がほとんど起きなかったのは、皇族そのものが少なく管理しやすかったというのも一因だ。 袁紹の場合、出自が卑しく、とくに袁術からは散々敵視されて生きてきた。 恐らくはその経験から、袁紹はあえて「名門袁家」をネームバリューとしての活用にとどめ、自らの資質だけで決起、多数の臣下を傘下に収めようとしたのだろう。 つまり袁紹は「幼少期からの忠実な家臣に恵まれた名門出身の御曹司」とは程遠い、「独立志向の一匹狼」だったのだ。 ◆勢力拡張 旗揚げ直後に起きた「反董卓連合」では、袁紹は盟主でありながらリーダーシップを発揮できなかった。曹操からも非難されている。 だがこれは河北逃亡から三カ月後のことであり、地縁も血縁も時間もなかった袁紹には兵を集める余裕すらなく、 主導権云々以前に「権力」そのものがなかったからである。 袁紹に決断力があろうとなかろうと、連合を動かすことは不可能だったし、だからこそ祭り上げられたとも言える。 しかしその後、袁紹は「根無し草」にもかかわらず驚異的な飛躍を見せた。 まず、策略を巡らせて冀州を制圧すると、冀州の豪族たちを瞬く間に統率。 袁紹の冀州入りに反対していた沮授たちでさえ組織に組み込み、君臨してみせた。 先述の劉表もそうだが、権力を持たない支配者は、権力を握る地元有力者の傀儡になりかねない。 袁紹は自前の軍事力はほぼない。にもかかわらず冀州の権力を完全に掌握できたのは、 単なる「出自の尊さ」だけではなく、ギラついた行動力とそれで周囲を惹きつける統率力、明確な独立心があってこそである。 加えてその後、袁紹は十年間で冀州のみならず、幽州・并州・青州に進出し、これらを統一してのけた。 「三国志」の群雄は、実のところあまり勢力拡張には熱心でなかった。一州全体まで勢力を広げるとそこで固定し、あとは守勢に回る、というパターンがほとんどだ。 群雄個人に拡張意欲があっても、実権を握る在地豪族の大多数に拡張の意欲がなければ絵に描いた餅になってしまうし、在地豪族は迂遠な天下統一より自領土の保全に関心が強く下手な拡張は負担が大きいと考えるからだろう。 劉表亡き後の荊州劉氏のように、例えトップの群雄が破れても、新たな主が現れたらさっさとそちらにつけば良い豪族は、併呑されることがさほどリスクではない。 それだけに、外征をするならば在地豪族の協力を取り付けられるだけの群雄の意欲・気力・力量は本当に桁外れなものが要求される。 一州でとどまらず、さらに進撃しようとしたのは、袁紹のほかは曹操、孫策&孫権兄弟、劉備、諸葛亮、姜維、ぐらいのものである(*6)。 しかし一地方政権にとどまるだけでは決して状況は好転しない。むしろ積極的に統一しようとする勢力が現れた場合、守勢に回り続ければいずれは滅ぼされてしまう。 諸葛亮や姜維の北伐は「国力の浪費」と批判されやすいが、「守勢に回る」というのは国力の回復どころか、主導権の喪失、ひいては戦略の放棄につながる。 戦術がいかに巧みでも、対処療法では駄目なのだ。 ところで袁紹の場合、彼は常にイニシアティブを取ろうとしてきた。 当初は献帝に取って代わるよう劉虞に皇帝即位を打診したが、これを断られるとすぐに地方での勢力割拠へと舵を切る決断を見せる。 冀州制圧のためにさまざまな手を打ち、公孫瓚が劉虞との騒乱の中で大義名分を欠いたと見るや否や、 次は冀州からの勢力拡大の好機と見て各方面へ猛攻を掛けて数年で河北を統一、さらには曹操よりも先に南征を開始した。 袁紹は終始一貫して、積極的に行動し続けていたし、それをするだけの河北豪族の支持と有能な家臣団の形成に成功していた。 これらはほぼ袁紹一代の功績であり、曹操前半生の好敵手に相応しい地方割拠の代表的な成功例である。 曹操を打ち破れていれば、次は天下統一を目指したと考える方が自然だろう。 袁紹には「優柔不断で決断力がない」という認識が強いが、彼の人生の行動と結果は、袁紹の「名家の名に奢らない覇気と気力」を強く印象づけている。 惜しむらくは、袁紹一代の中……しかも冀州への逃亡から約10年という短期間の間で肥大化した 配下の豪族団・家臣団の取りまとめの難しさが、官途の戦い前夜~烏巣兵糧庫襲撃の、曹操との決戦時に彼の判断力を鈍らせる形で露呈してしまった事で、 敗北者としての人物評価の下げ幅を大きくしてしまった事であろうか。 ◆統治能力 袁紹は根無し草から、ものの十年で河北四州をを占領したわけだが、その河北の統治能力はどうだったのか。 これもまた、かなり優秀なものだったようだ。 袁紹政権は曹操に滅ぼされたため、その治績はどうしても史書「三国志」ではおとしめられてしまう。 プロパガンダ的にも「袁紹の統治からよりよい曹操の統治にシフトした」と書かないと、魏晋の正当性が立たないのだ。 しかし、それでも各史書には「袁紹は仁政を敷いていた」という記録・発言が散見される。 郭嘉や荀攸といった、袁紹と直接戦った参謀たちからも、袁紹の優れた政治について言及されているし、 袁紹の死が公表されると、河北の人民はだれもが嘆き悲しんだという。 実際の活動を見ても、官渡決戦に動員した「十万以上の大軍」は、袁紹の統治がよほどうまく行っていないとできないことである。 実際、同じく四州を統治していた曹操は、官渡の戦いへ臨む際に兵力的劣勢を強いられ、当時の人的資源の優位性とそれを支える統治力は、袁紹側に利があった部分が確かに存在する。 ただし、曹操側にあった曹操一族・夏侯一族といった親族のバックアップに恵まれず、統治を支えた家臣団は袁紹個人に対する利害関係を中心に結びつきが築かれていた。 これは「単一のカリスマ経営者」対「同列の配下団」という構図での拡張期に起こりがちな、いわゆる「気の合う者・合わない者」同士での同僚間の確執を生み、 のちのち袁紹軍閥の中を蝕む禍根となり、それが官渡決戦~袁紹死後に決定的な混乱を引き出してしまう事になった。 もし、袁紹を内部から支え家臣団の規律を調整し得る有力な親族がいたら、袁紹の負担も減り、曹操との戦いに勝つ未来図があったかもしれない。 ◆官渡決戦 「官渡の戦い」において、袁紹は曹操に敗北し、ついに覇権を失う。 この敗因は、一般には「沮授・田豊の説く持久戦を却下し、逢紀・郭図らの説く即時決戦を採用したから」とよく言われる。 沮授・田豊の説いた持久戦は、「今は我々の国内も荒れている。国内を整えた上で軽騎兵を使ってあちこちを攻め、曹操の勢力を国内ともども疲弊させよう、3年でケリは付く」というもので、短期決戦自体を前提としないものであった。 そして、策を聞いた当の曹操も、「その策で来られたら負けたのはこちらだっただろう」と評している。 短期決戦を挑んだ結果が敗北…ということであるから、持久戦策を取らなかった袁紹の失敗…ということもできなくはない。 しかし、持久戦策をとればそれは曹操にも時間や対応の余力を与えることとなる。何より権威が衰えていたとはいえ、後漢皇帝を擁していたのは曹操側である。 その立場を利用し、時間と余裕があれば曹操がどんな奇策を使ってくるか分かったものではない。 曹操以外の有力な群雄が動いてくる可能性も出てくる。 勝てるときには機を逸さず攻めるというのは当然の考え方であり、決して落ち度ではない。 そして現実はどうだったか。 関羽に顔良が、輸送部隊深に入りした文醜が討たれ、序盤に前線指揮官を相次いで失う計算外の事態はあったものの、 開戦から半年、多くの局面で袁紹側が優勢であり各方面で曹操軍を破っていた。 予想していたとはいえ、その予想通りとも言える劣勢ぶりに、曹操は敗走を予感し荀彧へ退却の相談を行っているほどである。 この事から、袁紹が正面からの決戦を決断し軍を進めたことは、確かに有力な選択肢の一つであり、それはかなりのところまで上手くいっていたと言えるだろう。 故に、上記の論はいささか妥当性を欠くものと見れる。 では、その有利だったはずの袁紹軍が何故敗れたのか。 この戦いで、袁紹側の致命傷となったのは兵糧集積地であった鳥巣への襲撃、そしてその直接的原因となった許攸の寝返りであったのは間違いないのだが、 本当の意味での敗因は、その寝返りの根本的な要因でもある、膨張した家臣団の確執の深まり、それが袁紹個人の求心力だけでは解決しきれなくなったタイミングで、官渡決戦の火ぶたが切られてしまった事だと言えるだろう。 田豊や沮授にしてもそうだが、一度主君が決断を下せば、次は自らの主張の矛を収めその決断を成功に結び付けるための次善の協力態勢を執ることが必要である。 審配や郭図、逢紀などもこの一大決戦を前にするならば、普段の人間関係の好意・嫌悪を収め、表面上だけでも同僚との衝突を回避する姿勢を見せる必要があったのは言うまでもない。 しかし現実は、おのおのが団結力を示さなければいけない局面でも、君主たる袁紹や他の幹部と協力し身を挺して国難に当たったとは言い難かった。 田豊は強固に自己主張を繰り返した挙句に投獄され、許攸は献策の却下と審配との対立で、張郃は郭図との戦術方針の対立から曹操軍にそれぞれ投降する、など、 袁紹が採った、官途の戦いに対する戦略方針とは別なところで、人間関係を起因とする戦力低下が続出してしまっている。 その最たる例が許攸の裏切りであり、鳥巣の敗戦、それに伴う袁紹軍の混乱と敗走の直接的原因となってしまっている。 許攸は古参の大幹部、なおかつ袁紹とは若年期に「奔走の友(心を許しあい、危機に遭った時は駆けつける仲間)」の契りを結んだ同志でもあり、 官渡での部隊展開について相談を受け献策する参謀の座を田豊とともに(彼は投獄されたため、実質1人で)担当していたと史書に記録されているほどであり、 そんな彼が白昼堂々、曹操軍に投降するなど、袁紹にとってはすべての機密が漏れるのみならず、それ以降の軍の方針を揺るがす一大損失であった。 これは袁紹自身のカリスマを頂点として成り上がった彼の軍閥が、あまりに短い期間で伸長を進め続けて、「豪族の寄り合い所帯」「代を重ねての忠勤が乏しい」性格を解決できず、 それが最悪の形で、当初は成功していたかに見えた官渡決戦における袁紹の決断の優位性を、あっという間にひっくり返してしまったのである。 ちなみに曹操は戦後、袁紹軍が置き忘れていった部下が内応する手紙の存在を聞いた際、 「俺だって心が折れそうだった。部下たちは当然のこと。不問にするから手紙は中身を見ずに焼き捨てろ」と命じている。 内応リスクを抱えていたのは、曹操軍も同じだったのだ。 この官渡決戦における軍団のまとまりの欠乏を除けば、それ以前の河北進出時代は、袁紹の戦術的成功はかなり強調して描かれている(実際、その功績が無いと河北四州を支配することなどできなかったので当然だが)。 北方の異民族の脅威を退け逆に協力関係まで結び、公孫瓚を粘り強く攻めて難攻不落と言われた易京を陥落させ、青州には名代として袁譚を送り込み孔融を排除する事に成功している。 また黒山賊が領内の反乱と呼応したときには、食客たちがパニックに陥るなか、顔色一つ変えずに鎮圧の指示を出すなど、現場での胆力に優れたところを見せている。 三国時代屈指の軍略家とも評された曹操には及ばないにしても、当代としては十分すぎるほど軍人として非凡な成功を収めた人物だったのだ。 ◆臣下について 大きく分けて「袁紹側近」と「河北豪族」と「潁川名士」の三大派閥があったとよく言われる。 袁紹直属として手足となって働く、逢紀・許攸ら「側近組」。 河北出身で実際に兵力や財力を供出する、審配・沮授・田豊ら「河北豪族組」。 荀攸らの同郷で、主に知識層を形成した、淳于瓊・郭図・辛評・荀諶ら「潁川人士組」。 袁紹自体がヨソ者であるため、よけいに彼らのあいだでモメやすかったという。 また、当たり前だが一つの派閥のなかでも足の引っ張りあいが起きる。とくに田豊はわりと浮いていたようだ。 + 「派閥と豪族について」 これについては史書に間違いなくそう記されているわけではないが、状況はこれを示唆している。 まず中国は文字の表記が統一されたのだが、漢字は表意文字なので発音までは統一できない。 そのため、出身地が違うと会話ができないとは現代でもいわれるところであり、それゆえに出身地方で固まりやすい。 それでなくとも地縁・人脈は重要な繋がりである。 なにより、当時の人口問題がある。 「三国志における人口」、具体的には魏・呉・蜀の「戸籍に登録された人口」の総数は、わずかに800万だった。 この数値は後漢最盛期の6000万に比べるとたった1/7である。 疫病などで多くの死者が出たのは確かだが、それにしても異常な数値であり、 実際は「国家が直接徴税・徴兵できたのは国土の15%前後に過ぎず、まともに政権を運用したければ、実際に人間を抱えている地方豪族・各派閥の支援を受けなければ無理だった」とされる。 当時の情勢を見渡しても、荊州刺史劉表は在地豪族に拒まれて荊州入りすらできず、 豪族の蔡瑁・蒯越が擁立してくれてやっと赴任できた、というエピソードがある。蜀漢に荊州派と益州派が存在したというのもこのあたりに由来する。 日本の選挙を揶揄して、政治家に必須なのは「地盤(後援組織)・看板(知名度)・鞄(資産)」という。 これは中国も同様で、まして古代・中世ならなおのこと、「地縁」「豪族」「派閥」といった存在は大きい。 もちろん、それらはあくまで条件に過ぎず、そうした条件下でどう動くかは歴史人物個人の判断によるが、条件を軽視することもならない。 沮授についてアタリがきついのもよく言われるところ。 沮授はもともと軍権を一手に握るほどの重鎮だったが、官渡決戦の直前に、軍権を沮授・郭図・淳于瓊の三人に分割されている。当然彼は不満に思ったという。 もっとも、沮授はただでさえ冀州出身の大豪族で、河北に勢力を誇っていた。 そんな彼がいつまでも軍権を一手に握っていては、権力が沮授>袁紹となりかねず、極めて危険である。 沮授と袁紹が本気の殺し合いにならないうちに、軍権だけでも分散させるというのは、 むしろ双方の殺し合いを予防したといえそうだ(*7)。 袁紹が沮授を嫌っていたということはないようで、白馬津攻撃を顔良に専任しないよう進言したときは受け入れている(支援部隊として郭図・淳于瓊を派遣)。 沮授の死後も息子の沮鵠が幹部になっていた。 ◆献帝拒絶について 献帝を袁紹が拒み曹操が迎え、その結果曹操が外交の主導権を握れたことから、これは袁紹の敗北と見なされがちである。 ただ、袁紹は何度も述べたが、自前の権力でのし上がったのではなく、個人のカリスマと手腕で束ねたタイプである。 こんな袁紹がうかつに献帝という「君主以上の権威」を迎え入れると、かえって組織内部の権威が二分し、組織そのものが分裂しかねない。 まだ曹操の場合、献帝が来ようと夏侯惇がゆらいだりはしないだろうが(曹操が失脚すれば次は夏侯惇の番)、 袁紹の場合は、それこそ淳于瓊あたりが董承らと結託して良からぬ画策をしかねないのである。 (淳于瓊は後漢朝廷直属の官僚で、袁紹とは同格であった。そのため「献帝に仕える」形式をとって袁紹に並び立つことも理論的には可能。 ついでに彼は潁川の名門出で、実は郭図・辛評・荀諶らとは同郷でもあり、横の繋がりもあったとみられる。また、彼らは袁譚派である。 もし彼らが、献帝と袁譚を接近させて担ぎ上げ、袁紹を駆逐する、なんてことになったら大ごとになる(*8)) それでなくても袁紹は献帝を特に嫌っていたので、彼が擁立することは絶対になかっただろう。 もし宮中殴り込みの際にちゃんと二皇太子の身柄を確保できていたら、果たしてどう立ち回ったことだろうか。 【三国演義の袁紹】 三国演義では、基本的に正史準拠。 名将だった淳于瓊が酒飲みの無能にされるなど多少の脚色はあるが、ほとんど変わりない。三国演義成立過程ではかなり後期に流入したタイプなのだろう。 しかし、実際の袁紹にはかなりアクティブな面があるため、ときどき変に威勢のいい場面がある。 呂布を従えた董卓に向かって正面から罵倒し、剣を抜いてにらみつける場面は、中国の実写ドラマでもすさまじい名シーンとなった。 公孫瓚戦での啖呵も採用されている。 ただ、やっぱりというかなんというか、作中ではことあるごとに「おぼっちゃま」「優柔不断」と連呼されており、とにかく哀れな扱いとなっている。 【各作品】 正史~演義の時点で評価が安定しているうえ、そこにあるのが「金持ちのボンボン」という時代を問わず理解しやすく弄りやすいキャラ像であるため、創作でのキャライメージは大分固まっている。 とはいえそのイメージから過度に貶められたり、三国以外に興味なしの方針であえなくハブられることもしばしばではあるが。 横山三国志 原作では反董卓連合終了あたりでフェードアウトするが、アニメ版では官渡の戦いが描かれている。 曹操軍の面々から決断力に欠けるだの散々な言われようだったが、その決断力は悪い方向に発揮されることになる。 圧倒的兵力差の慢心からか、とにかく戦時中にもかかわらず酒浸りになり、重臣達からの献策・助言を悉く無視し、演義同様許攸の離反を招く。 ちなみに許攸はアニメでは清廉な人物であったことにされ、家族の汚職は彼が黒幕であったという謂れなき罪を着せられそうになったため曹操の下に奔るという展開になっていた。 袁紹が許攸を問い詰めるときのセリフはある意味語り草。 「許攸!貴様の甥が税を横領したぞ!」「貴様の指図に違いあるまい!いや、そうに決まった!」 コーエー三国志 顔グラは名門らしく金ピカ鎧に身を包んだヒゲの偉丈夫という感じで一貫している。勢力のイメージカラーは黄色。 最近ではどの能力値も70~80台、魅力があれば90台とバランスよくまとまっている。 政治は「Ⅶ」から70台安定、悪い時は「Ⅲ」~「Ⅳ」の50前後とナメられ傾向だが、全体的な評価はシリーズ通して大差ない。 そこらの凡庸な君主とは比べ物にならないが、魅力以外突き抜けることがなく特技もあまり優遇されないため、かなり優秀ではあるものの曹操には及ばない1.5流。 似たような能力傾向の劉備より少し弱いくらいのところに収まりがちで、良くも悪くも劉・曹・孫に次ぐ4番手である。 後年の作品では魅力の重要性(行動力、配下の忠誠)が高まったのでマシになっているが、能力以上に深刻なのが隠しパラメータの「相性」。 ライバルの曹操と真逆に設定されていることが多いのだが、曹魏の人物は単純に割合として多く、また曹操が身近の敵勢力という立場ゆえ、それは思った以上に痛い。 黄河を越えて中原に出ても人材が思うように揃わなかったり、たとえ揃っても多大な俸禄を要求してきたり、官渡の戦いを制しても曹操達が全然傘下に加わってくれなかったり… 臣下は一線級を擁してはいるがあまりバランスがよくない上、能力の高い人物に相性の悪い奴が多いため、後半になればなるほど苦戦しがち。 しかも袁紹の寿命は(史実の没年を参考にしているため)基本短く、後継の息子たちの能力は悲惨なので、なおのこと攻略を急ぎたいところ。 さらに、「Ⅱ」では魅力に反して、魅力と並んで忠誠や外交に関わる「人徳」のパラメータが残念なことになっているので、家臣たちの初期の忠誠が低め(ひどい場合は60台のものも)なうえに、忠誠も自然低下しやすいのでさらにきつい。重要な家臣は早いうちに褒美をやって忠誠を上げたいところだが…… ただ、幸い彼を嫌っている武将もかなり少ない(上に割とすぐ死ぬ奴らばかり)なので、戦力はあくまでも揃いにくいだけで揃わないわけではない。 しっかり袁術には嫌われてる(上に相互嫌悪)ので完全に袁家の栄光とはいかないが。 物量や攻城力に長けていることが多いので、数に物を言わせる戦略がベター。 また魏勢力との相性は悪い反面、蜀勢力とも呉勢力とも相性がいいという特徴がある。 もし近くに劉備の勢力があるなら、先に併合して関羽・張飛・趙雲を部下にする手もあり。 三国無双 詳細は袁紹(三國無双)を参照。 初期から登場。名族の誇りを連呼するお騒がしキャラ。覇気はあるが、自尊心が強すぎて打たれ弱い。 その打たれ弱さは『2』では合肥の戦いの総大将で放っておくと僅か一分足らずというすさまじい速度で敗走するほどで、袁紹敗走RTAなどというネタにまでされている。現在最速は23秒だとか。 一時期はやたらと歪んだプライドを強調され「それはどちらかと言うと袁術では?」という声もあったが、 その袁術が脱モブした『8』にて路線転換し、周囲が自然にヨイショしたくなるような格好良いキャラへと変わった。一方で最近はなんだか老けてきているのが哀しい。 一番さみしいのは、未だに脱モブした部下が曹操に降伏する変態貴公子と寝取られ貴婦人しかいないことだろう。 呂布陣営には曹操に所属しない無双武将が多いので、是非とも開拓してもらいたいところ。 蒼天航路 序盤はとりわけ「尊大で自己顕示欲が強い分だけ蒙昧な面も目立つ、ダメなエリートの典型」という点が強調されていた。 が、中盤からはその自尊心だけをそのままひたすら肥大化させ、自らを 「常に太陽が照らし続ける道を進むが如く、一切の憂慮や苦難を伴わない覇道を進む英雄」 とし、曹操とはまったく別ベクトルのカリスマの怪物と化す。 その英雄像に心酔した軍団がもたらす圧倒的な力は曹操をして「語るすべなし、為すすべなし」といわしめ、 肥大化を止めないそのエゴはついに「自身を人の枠を超えた聖なる存在へ昇華させる」という領域に到達するまでに至る。 しかし…… 白井式三国志 ほとんどモブ扱いで、先に登場した袁術の髭と冠を変えただけのコンパチキャラ。 「家族だ! 家族の為なら頑張れる」 一騎当千 一応Aランクなので弱くは無いのだが、卑怯な手も辞さない悪党。曹操の軍門にあっさり下ったことが語られるのみ。 恋姫†無双 真名は「麗羽」。美羽(袁術)は従妹。 ひたすらゴージャスな金髪縦ロールにお嬢様口調で巨乳、明るい声に仁王立ち、名門のプライドガン積みといった、いかにもな袁紹像。 もちろん能力では華琳(曹操)に大きく水をあけられている…が、スタイルでは華琳に大きく水をあけている。 実は涙もろくてお人好し。また、アホ呼ばわりされているが意外なことに学力そのものは華琳よりも高い。 十三支演義 CV 周瑜ヒャクシキ 銀髪をたなびかせた美丈夫。 一見分け隔てなく接する温厚篤実な人物に見えるが、実の所性格は最悪で、人を利用価値でしか判別できない卑劣漢。 PS版でとってつけたかのような個別ルートができた。 三国志大戦 登場は2からで袁術とともに袁勢力ごと参戦。 以降は一貫して「優秀なステータスを持ち強力な号令を扱えるカード」として参戦している。 号令持ちとしては高い武力と中程度の知力に魅力をはじめとした豊富な特技を兼ね備え、 「栄光の大号令」「大兵力の大爆進」「王者の決断」などといった一発で勝敗を決定づけるような大型号令を所持するキーカード。 主導権を握った状態で号令を使えると非常に強いが、使わされる展開になると弱い計略デザインもシリーズを通して共通。 リブート後は勢力が漢に移るものの、やはりキーカードとしての位置は揺らがない。 光魔法が使える勇者になってもそれらのせいで立ち位置がないほどに重要な位置を占めている。 でも人を惹きつける熱唱はA面B面共に良好なので結局勇者が微妙というだけの気がする。 BB戦士三国伝 「『河北の勇』袁紹バウ」として登場。演者はバウ。中の人は師匠。 家の権威を振りかざす無能なボンボンであり、劉備のような在野の侠を露骨に軽蔑している。 当初は敵から逃げようとして後ろを振り向いた瞬間、弟である袁術ズサが遥か彼方まで逃走していて呆れるといったコメディリリーフ的な側面も目立ったものの、 袁術ズサが暴走し始めた辺りからは野心家として覚醒。 彼の残した玉璽を入手した事で覇道を進み始め、遂には地獄を彷徨う弟の魂を取り込んで四本の腕を持つ異形の姿「龍飛形態」へと変貌。 最期は官渡の戦いを経て幼なじみにしてライバルである曹操ガンダムに討ち取られた。 初代のコミックワールドだと空気で、伝説の「公孫瓚憤死!」をやったのは彼では無く曹操という事になっている。 初代ではキットは発売されず、アニメ版に際して他の武将と同じ「真」名義で発売された。設定通り袁術(別売)との合体で龍飛形態を再現可能。 また後年にはプレミアムバンダイから、成形色を変更しパッケージを初代のフォーマットに改めたバージョンのキットも販売された(*9)。こちらにはボーナスパーツとして暗黒の力をイメージした紫色の玉璽も付属する。 袁家復興のために追記・修正をお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 田豊の持久戦策って「決戦を挑むが持久戦で戦う」という訳じゃなくて「決戦自体挑まないで背後をかく乱させて崩壊させる」だったみたいだから、持久戦って言っても性質が違うんじゃないかな? -- 名無しさん (2020-01-17 23 01 52) 官渡の戦いで敗れた後も勢力崩壊させず維持していた所を見ると、やはり非凡な人物だったのは間違いないね。 -- 名無しさん (2020-01-17 23 09 49) 長生きしていたら再逆転して天下取れてたかな? -- 名無しさん (2020-01-18 00 46 54) なかなか読みごたえのある項目だな -- 名無しさん (2020-01-18 03 12 06) 哀れな扱いだったとしても三国志を語る上でこれまで記事が無かったのが不思議なくらいの存在感はあるからな -- 名無しさん (2020-01-18 10 30 52) 個人の器量は他の群雄と負けず劣らずだったけど部下や後継者に恵まれなかったな...特に後継者は... -- 名無しさん (2020-01-18 11 34 09) こんな主人公張れそうな人物だったのか・・・ 知らなかった -- 名無しさん (2020-01-18 12 05 22) 間違いなく実力者だったけど死後が…という点で今川義元も連想する人が結構いる -- 名無しさん (2020-01-18 12 08 00) 三国志大戦だと何気に強カードだよね。二次創作の中では一番優遇されてるんじゃないかと思う。 -- 名無しさん (2020-01-18 15 34 37) ↑4 孫権「恵まれなくても後継者はきっちり定めておかないとな」 -- 名無しさん (2020-01-18 19 32 12) 彼の参謀たちの項目もお願いします -- 名無しさん (2020-01-18 19 38 43) ↑2 劉備「君が言うなよ。」 曹操「そうそう。」 -- 名無しさん (2020-01-18 20 24 57) 董卓と公孫瓚の項目もお願いします -- 名無しさん (2020-01-18 21 18 19) 曹操や袁術の放蕩が不良とヤンチャしてたとするなら、袁紹の場合は政治犯と組んで宦官相手にテロを仕掛けると言う当局最大の敵って感じで、そら叔父さんも嘆くのも納得の危険人物よ -- 名無しさん (2020-01-18 21 40 51) 官渡のあとも立て直してたのか凄いね それでもポックリは天命尽きちゃってたのかなぁ… -- 名無しさん (2020-01-20 14 44 00) 曹操とうまくやっていく未来はなかったのかなと、ちょっと悲しく思ったり -- 名無しさん (2020-01-20 17 43 54) ↑どちらも人の下につけるタイプじゃない感じだからどう足掻いても最終的には対立しそう -- 名無しさん (2020-01-21 02 21 22) ↑決定的に反目するまではお互い、支援しあって意外といい感じで盟友にやってそうにも見えるんだけどなぁ。やっぱだめかぁ -- 名無しさん (2020-01-21 14 28 49) 麴義みたいに功臣が増長しやすい、あるいは功を誇って他の派閥を蹴り落とすって方向に行きやすい環境だったのはちょい痛かったかもな -- 名無しさん (2020-01-23 10 40 49) ↑曹操の所でいう荀攸みたいな群臣のまとめ役がいればまた違ったのかもな。 -- 名無しさん (2020-01-23 13 32 08) 何故かなかなか立たなかった・・・って程ではないかもしれないけど、なかったのはちょっと意外だなと思う項目だ -- 名無しさん (2020-01-28 20 13 55) 一番上で田豊が決戦でなく謀略戦を推した、ということであってもやはり決戦以外の手はないのでは?孫策死んだし劉表劉備(陳登)や降ったばかりの張繍辺りなんてまず動かんだろうし扇動できそうな有力者特にいないだろ -- 名無しさん (2020-01-28 20 58 47) 背後のかく乱は、あちこち「ヒット&アウェー的に攻めて対応に疲れさせる」ってことで、扇動狙いってことではない。というか決戦を挑んだ史実でもいろいろ扇動して曹操を追い詰めてるし。 -- 一番上 (2020-01-28 21 28 43) 横山三国志で官途の戦いが割愛されたのは返す返すも残念。こっちはトップの何進が謀殺されたのに構わず宮中になだれ込んで宦官を皆殺しにするなど結構な危険人物である -- 名無しさん (2020-09-30 12 29 23) 袁紹は曹操の策謀を知っていたから、裏をかく小細工なしの大軍による正攻法で攻めたんじゃないかな?曹操孟徳正伝ではそう解釈して描かれていた。 -- 名無しさん (2020-11-07 16 49 56) 陳宮に乗せられた張邈も曹操袁紹の旧友だし張邈見捨てられたことにキレて反目した臧洪は側近組だし、組織運営ってホント難しいな -- 名無しさん (2021-02-05 06 02 43) 平時の丞相とか先祖のように司徒・司空が適した器だったんだろうな。 -- 名無しさん (2021-02-05 12 04 45) 官渡の戦いの後も袁紹が優勢だったが袁紹の死によって分裂した。もし袁紹が健在であったら曹操もどうなっていたかわからない。 -- 名無しさん (2021-03-27 20 56 30) 「地縁」「豪族」「派閥」←「鎌倉殿の13人」でも思ったけど、こういうドロドロをゲーム化できないもんかなって -- 名無しさん (2022-10-20 03 44 10) 内政に関しては相当優秀だった様で河北では西晋の時代になっても「袁紹の頃は良かったなあ」と言われたいたという。 -- 名無しさん (2022-10-20 09 11 32) 一族が袁紹ではなく袁術の元に集合した辺り例え兄弟だったとしても袁術の方が嫡流と見なされていたのは確かだろうな -- 名無しさん (2023-01-22 06 42 14) 『SDガンダムワールド 三国創傑伝 蒼翔記』では少年時代からの曹操との対立と嫉妬が描かれた結果「反董卓連合結成前に曹操勢力との戦いに敗北し没落後黒幕に自らの意思すら奪われ生ける屍にされ亡骸すら残らず消滅(反董卓連合は董卓の横暴を見かねた孫堅の提案に合意した曹操と、両者の行軍中偶然出会った劉備一行の同行を孫堅の保証により曹操が認めたことで成立)」と曹操との関係性が重視された結果動向は大胆なアレンジが加えられることに。 -- 名無しさん (2023-01-22 17 53 55) ↑4 光栄の三国志6がそれに近かったけど、不評だったのかそれ以降ではそういうシステムはでてない……はず -- 名無しさん (2023-07-15 00 03 24) 袁紹はいつの間にか大勢力になっていたけど官渡であっさり負けた雑魚ボス、的に描かれることが多い しかし河北制圧して巨大勢力になるまで相当苦労している それこそ主人公になれるくらいに面白い -- 名無しさん (2023-07-15 00 06 47) 日本史の人物だと今川義元ってイメージ。 -- 名無しさん (2023-11-22 08 02 27) 子供が無能達だったのはともかく、せめて生前に後継は明確にしておくべきだったし、そこは死後内紛から崩壊していった本人の責任だと評価下げる擁護不能な部分ではあるな -- 名無しさん (2024-06-09 00 39 36) ウォーロンだとちょっと生まれでコンプレックスあるけど才能あるし情に厚いしカリスマあるよねというすごい高評価であった -- 名無しさん (2024-09-07 23 40 48) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/kessen2/pages/61.html
曹伯 参戦条件 最初から 能力 役職 兵科 信念 武力 妖力 勇名 経験 将軍 騎兵 慈悲任侠 53 54 10 33 習得可能陣形 円 月 鶴 鱗 雁 蛇 牛 矢 平 錐 方 箕 鉤 習得可能特技 ―― 鼓舞 鉄壁 ―― ―― 参戦可能ステージ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 徐州 汝南 博望 長坂 赤壁 潼関 定軍 樊城 涼州 天水 成都 武昌 蜀魏 長城 考察 曹操の伯父。ほとんど全ての戦いで曹操隊の小隊長を務める。 劉備と曹操が兄弟だという事実を知る唯一の人物であるが、これは重大なネタバレなのでここでも伏せておくことにする。 やたら兵器の開発許可を求めてくるが、許可なんぞいらねェから!作ってから持ってきちゃっていいから!と思う人がほとんどであろう。 曹伯の部隊も騎兵であり、曹操隊の機動力を損なうことなく、鼓舞・鉄壁で地味ながら確実に強化してくれている良伯父さん。 経験が高めだが伸びしろはほとんどなく、そういう点からいっても曹操隊の育成は後回しで良いだろう。
https://w.atwiki.jp/orifusai/pages/43.html
208年(建安13年) 司隷 河南尹 河内郡 河東郡 弘農郡 京兆尹 馮翊郡 扶風郡 豫州 潁川郡 皇帝:劉協? 司空・車騎将軍曹操 汝南郡 梁国 沛国 陳国 魯国 冀州 魏郡 丞相:曹操 鉅鹿郡 常山国 中山国 安平国 河間国 甘陵国 趙国 勃海郡 [亠兌]州 刺史:司馬朗? 陳留郡 東郡 東平国 任城国 泰山郡 済北国 山陽郡 済陰郡 徐州 刺史:臧覇→孫権 東海郡 琅邪国 彭城国 広陵郡 下[丕β]国 青州 刺史:孫観?→劉琮? 済南国 平原郡 楽安国 北海国 東莱郡 済国 荊州 曹操は大軍を率いて荊州に侵攻。直前に劉表?は病死し、劉琮?が跡を継ぐ。(魏書・武帝紀) 劉琮は曹操に降伏するが、劉備は人民を引き連れて逃走し、孫権と組む。(魏書・武帝紀) 12月、曹操は周瑜?率いる呉の水軍に敗れる。(魏書・武帝紀) 牧:劉表? 刺史:劉琮?(曹操)、劉琦?(劉備) 南陽郡 南郡 劉備は長坂で曹操軍に追いつかれて妻子を捨てて逃げる。(蜀書・先主伝) 江夏郡 劉備はからくも夏口まで逃げ、関羽?・劉琦?と合流。諸葛亮を派遣して孫権と組む。(蜀書・先主伝) 周瑜?は赤壁で曹操を破り、その軍船を焼く。(蜀書・先主伝) 太守:劉琦? 零陵郡 太守:劉度? 桂陽郡 太守:趙範? 武陵郡 太守:金旋? 長沙郡 太守:韓玄? 揚州 刺史:劉馥?→ 九江郡 曹操は蒋済?が守る合肥に張喜?を援軍として派遣し、孫権と戦わせた。(魏書・武帝紀) 丹陽郡 廬江郡 有力者:雷緒? 会稽郡 呉郡 予章郡 益州 牧:劉璋? 漢中郡 巴郡 広漢郡 蜀郡 [牛建]為郡 牂牁郡 越[山雋] 益州郡 永昌郡 広漢属国 蜀郡属国 [牛建]為属国 涼州 牧:韋康? 隴西郡 漢陽郡 武都郡 金城郡 安定郡 北地郡 武威郡 張掖郡 酒泉郡 敦煌郡 張掖属国 張掖居延属国 并州 上党郡 太原郡 上郡 西河郡 五原郡 雲中郡 定襄郡 雁門郡 朔方郡 幽州 [シ豕]郡 広陽郡 代郡 上谷郡 漁陽郡 右北平郡 遼西郡 遼東郡 太守:公孫康? 玄菟郡 楽浪郡 遼東属国 交州 南海郡 蒼梧郡 太守:呉巨? 郁林郡 合浦郡 交趾郡 太守:士燮? 九真郡 日南郡
https://w.atwiki.jp/cloaks/pages/53.html
武将城、情報 ■ 洛陽(0,0) - 曹操危うし 包囲大手:砂漠の狐(曹操攻略) ■ 許昌(88,88) - 砂漠vs曹操 隣接:砂漠の狐、曹操攻略 ■ 襄陽(88,-88) - ゼロワン優勢 包囲大手:ゼロワン(不死鳥、RosenKreuz) ■ 鄴(-88,88) - チョロQ完勝 完全包囲:チョロQ ■ 成都(-88,-88) - 接戦ムード 隣接:りらっくま、grentai ■ 建業(220,0) - 大混戦 隣接:なし ■ 長安(-220,0) - BLUE圧倒! 隣接:BLUE .
https://w.atwiki.jp/san_ds3/pages/70.html
発生はランダムの場合あり。条件を満たしてもたまに発生しない場合があるので、その場合は発生直前でセーブして 戦略時のコマンド選択を少し変えながら発生するまでセーブ ロードを繰り返すと大抵うまくいきます。 条件は三國志Vとだいたい同じ? 継続イベントは前を発生させないと続かなくなります。 年月 イベント名 条件 コメント 184年3月 桃園の誓い 劉備・関羽・張飛の3人が代県にいる 3人の君主への忠誠度が100になり、兵の訓練と士気が100になる。難易度★ 184年-月 人中の呂布、馬中の赤兎 ①シナリオ1②184年4月以降の1月・4月・7月・10月③プレイヤー君主が「赤兎馬」を所持しており、呂布がプレイヤー君主と別の君主に仕えている③参謀がいる 呂布がプレイヤー君主の配下に(忠誠度100)。※進言を拒否した場合は何もなし。難易度★★ 184年8月 張角、中道で死す ①張角がCOM君主②張角配下に張宝・張梁がいる ランダムで低確率で発生し張角が死亡、張角領の民忠低下。難易度★★ 190年1月 反董卓同盟 ①曹操・袁紹・董卓が君主で、曹操が陳留、袁紹が南皮を支配してて董卓と同盟していない。②董卓配下に呂布・華雄・李儒がいる 同盟参加君主間で12ヶ月の同盟締結。プレイヤー時は曹操・袁紹は強制参加、その他の参加君主は加入拒否も可能。加盟君主と董卓間の敵対度+10、加盟を拒否しても特にペナルティはなし。同盟参加君主曹操、劉備、孫堅、馬騰、袁紹、袁術、公孫瓚、孔融、陶謙、韓馥、橋瑁、孔伷難易度★ 190年2月 董卓、長安へ遷都す ①「反董卓同盟」が発生済み②董卓配下に王允・李儒がいる③曹操・袁紹・董卓が君主で曹操が陳留、袁紹が南皮を支配している。 洛陽が空白都市になり、人口・開発・商業などが大幅に下降董卓は洛陽での略奪により金・兵糧が増えるも名声が大幅に下降(基本値-100)董卓配下全員(李儒除く)の忠誠度-10。※遷都拒否の場合は名声上昇(基本値+50)+王允の忠誠上昇(+10)・李儒の忠誠低下(-10)。難易度★ 192年-月 連環の計 「董卓、長安へ遷都す」発生済みが条件(1回目・酒宴編)①192年1月以降②長安の民忠誠度50以下③董卓配下に呂布・王允がいる(2回目・鳳儀亭編)①董卓配下に呂布・王允がいて、彼ら以外の参謀がいる(3回目・偽勅使編)①董卓配下に李粛がいる(4回目・誅殺編)①董卓配下に呂布・王允がいる 董卓が死亡し呂布が君主になる李儒・董旻は処刑される李傕・郭汜ら5名は董卓配下の場合西涼の在野武将に。※貂蝉を暇に出した場合は名声大幅低下・貂蝉死亡・配下全員の忠誠低下。難易度★★ 193年-月 悪来、山中に虎を追う ①1月・4月・7月・10月(何年でも可)②典韋が未発見(在野武将の状態はNG)③曹操配下に夏侯惇がいる④夏侯惇が典韋の出現都市にいて、その都市の民忠が80以上 184年から可典韋の出現都市は「黄巾の乱」184年許昌、「洛陽炎上」189年譙典韋が曹操配下(忠誠100)になり夏侯惇、典韋の勇名+200腕試しで敗れるのもNG。腕試しに来たらYボタンを押さずに無視する事。シナリオ2の曹操の場合、開始直後に譙を攻め取らないと在野武将として発見される恐れあり。難易度★★ 195年-月 虎痴対悪来 ①1月・4月・7月・10月(何年でも可)②許褚が未発見(在野武将の状態はNG)③曹操配下に典韋がいる④典韋が許昌にいて、許昌の民忠が80以上 「黄巾の乱」は189年から、「洛陽炎上」は190年から可許褚が曹操配下になる典韋、許褚の勇名+200難易度★★ 196年-月 曹操、屯田制を実施する ①曹操が許昌を領有②曹操配下に韓浩がいる③韓浩以外の参謀が曹操と同じ都市にいる④金3000以上所持⑤196年10月以降 屯田制を実施すると許昌の農業・民忠と曹操の名声が上昇難易度★ 196年-月 許田の巻狩り ①4月(197年でも可)②曹操がCOM君主・許昌を領有③劉備配下に関羽・張飛がいる④劉備と曹操が同盟中 曹操の名声下降。イベントイラストが鹿ではなく虎になってるのはご愛嬌。難易度★ 196年-月 酒を煮て英雄を論ず ①6月(197年でも可)②曹操がCOM君主・許昌を領有③劉備配下に関羽・張飛がいる④劉備と曹操が同盟中⑤袁術・袁紹・孫策・劉表・劉璋が君主か皇帝である 特に何もなし。専用の一枚絵があるので見たい方は是非。条件の君主数は1~2つ滅びててもOK?この場合はイベント中の台詞が一部省略される。難易度★★ 197年3月 袁術、皇帝を称する ①袁術が寿春と汝南を領有し、玉璽を所持②袁術配下に紀霊・張勳・雷薄がいる 袁術が皇帝になる。支配都市の民忠+10、配下の忠誠度+5。他国との敵対度+10、孫策が君主である場合袁術に対しての敵対度が100になる。難易度★ 200年-月 周郎、魯子敬に兵糧を求む ①孫策が君主である(何年でも可)②孫策が1都市のみ領有③周瑜が孫策配下で参謀である④都市の米が5000未満⑤魯粛が在野か未発見 都市の米が30000増加。名声基本値-3条件を満たしても2~3ヶ月くらい発生しない場合あり。難易度★★ 200年-月 呉下の阿蒙にあらず ①孫権が君主である②呂蒙・魯粛が孫権配下で、孫権と同じ都市にいる 呂蒙の知力が5上昇し、孫権の名声が上昇。難易度★ 200年-月 張飛、劉備に主座を譲る ①12月②張飛がプレイヤー君主で、支配都市数が3以下③張飛配下に劉備がいる 選択次第で劉備が君主になる。関羽千里行5回目で劉備に主座を返さず進行すれば出る。難易度★★ 200年-月 関羽千里行 200年4月以降に発生(1回目・関羽、曹操の元を辞する)曹操配下に関羽・麋氏・張遼と、もう一人以上の参謀が居る(2回目・劉備、袁紹陣営から逃走す)①袁紹配下に劉備・簡擁が居る②袁紹・劉表が同盟を結んでいない(3回目・山賊、関羽に帰順す)①関羽・周倉・斐元紹が在野か未発見武将(4回目・張飛、関羽と争う)(5回目・劉備、再び大地に立つ)①劉備が在野か未発見武将(6回目・猛将、劉備の元に帰参)①趙雲が在野か未発見武将②「劉備、再び大地に立つ」で劉備が君主になっている (1回目)関羽が在野武将に、曹操がプレイヤー君主の際は辞する事を許すと名声70上昇(2回目)劉備・簡擁が在野武将になる袁紹がプレイヤー君主の際は使者になる事を許すと名声35上昇(4回目)関羽・周倉・斐元紹が張飛配下に(5回目)劉備が張飛配下になる、簡擁も在野武将なら張飛配下にこの時劉備に主座を譲ることも可能でその時は劉備が君主に(6回目)趙雲が劉備配下に難易度★★ 203年-月 脾肉の嘆 ①1月(ランダムで203年以降に発生する可能性あり。207年まで?)②劉備が新野を含む3都市未満を領有③曹操が許昌を含む8都市以上を領有④劉備と劉表が同盟しており、劉表がCOM君主 劉備と劉表間の敵対度減少。難易度★★ 203年-月 凶馬的盧 ①9月(ランダムで203年以降に発生する可能性あり。207年まで?)②劉備が的盧を所持③劉表がCOM君主で、劉備と劉表が同盟中(敵対度が高すぎると発生しない)④伊籍が劉備か劉表の配下(劉備の配下の時は同じ都市にいることも条件?) 劉備の名声上昇。劉備と劉表間の敵対度減少。難易度★★ 205年-月 郭奉孝、身の不運を呪う ①1月・4月・7月・10月②プレイヤー君主が10~25都市を領有③郭嘉がプレイヤー君主の配下にいる④郭嘉が病死する(209年4月に発生を確認) 郭嘉が統一前に病死することを恨む。条件2が見落としがちなので注意。難易度★★ 207年-月 銅雀台建造 ①曹操が鄴を領有し8領以上で参謀がいる②金10000以上所持 銅雀台の建設開始。プレイヤーが曹操の場合は建造拒否も選択可で、この場合は何も起こらない。難易度★ 208年1月 徐庶、劉備の元を辞する ①劉備が新野を領有し8領以下、配下に徐庶がいる(参謀でなくても可)②曹操が許昌を領有し劉備の2倍以上を領有、配下に程昱がいる③諸葛亮が未発見 徐庶の別離を認めると劉備の名声が上昇(一応拒否も可能)。徐庶が曹操のいる都市で曹操配下に(忠誠70)。徐庶は206年に新野(シナリオによっては汝南)で発見可能。難易度★★ 208年-月 三顧の礼 「徐庶、劉備の元を辞する」発生済みが条件(1回目)①劉備が新野を領有し8領以下、配下に関羽・張飛がいる②諸葛亮が未発見(2回目・3回目)①劉備が新野を領有し8領以下、配下に関羽・張飛がいる②諸葛亮が未発見※イベントリストには3回目の訪問後に掲載されます。 3回とも訪問すると諸葛亮登用+劉備の名声上昇。3回目で「行かない」を選んでも諸葛亮は配下になる。1度目で訪問を拒否すると関羽・張飛の忠誠度上昇(2度目での拒否は何もなし)。襄陽を確保していないと捜索されてイベントが途中で潰されてしまう可能性大。難易度★★ 私劉備の場合徐庶は配下の軍師にいながら、曹操配下に程昱がいるのを確認し、新野のみを領有。207年1月から孔明に会うか聞かれるようになった。一月に一回目、二月に二回目と諸葛亮に会えないかったが、三月の三回目で会えた。力を貸して欲しいと劉備の頼みに応じて軍師となる。張飛は諸葛亮に来させれば良いのでは?関羽は熱意に心腹のコメントあるがとにかく会いにいけば成立する。関羽張飛の忠誠が下がったりはなく、徐庶のイベントなくとも、諸葛亮は配下になる。徐庶は配下でいながら諸葛亮も配下となる。 208年-月 甘興覇、呉国へ亡命す ①劉表が襄陽と江夏を領有し、配下に甘寧・蘇飛がいる②甘寧の忠誠が80未満③孫権が建業と予章を領有している4~6月に発生 甘寧が孫権配下に。条件を満たせば劉表・孫権以外の君主でプレイしてても発生。低忠誠度キープが難しいので、割込プレイしながら作敵・没収を駆使しよう。(劉表でプレイし、3月になったら甘寧からアイテム没収するのが一番楽)難易度★★★ 209年-月 馬氏の五常、白眉最もよし ①劉備配下に諸葛亮・伊籍がいる②馬良が在野か未発見※208年時点で発生を確認。(臥龍出淵から開始した場合、開幕で伊籍が仕官してそのまま発生することもある) 馬良が劉備配下に。劉備の名声上昇。難易度★ 209年10月 孫尚香の結婚 ①プレイヤー君主配下に劉備・諸葛亮・張飛がいる(プレイヤー君主が劉備でなくても構わない)②プレイヤー君主と孫権が同盟中③江夏を領有の未確認情報(プレイヤー君主が趙範・江州での発生は確認) 孫尚香がプレイヤー君主配下に。支配都市の民忠+5、配下の忠誠+2難易度★ 210年-月 周公瑾、臥龍の才を妬む ①213年までに周瑜が寿命で死亡②周瑜と魯粛がプレイヤー君主に仕えている 周瑜が魯粛に後事を託して死去する。三国志Vと違い諸葛亮所属君主との敵対度は関係なく、孔明への恨みも吹かない。(213年1月孫権、劉備との敵対度40で発生を確認)難易度★★ 210年4月 銅雀台完成 ①「銅雀台建造」発生済みで建造を許可しているもしくは臥龍出淵から開始②建造許可から鄴領有を維持している 曹操の名声上昇鄴の人口・民忠・商業が上昇難易度★ 211年-月 落第県令龐統 ①劉備配下に諸葛亮・龐統・張飛がいる②龐統が荊南4郡(零陵・武陵・桂陽・長沙)に所在で、劉備はその都市よりも人口の多い都市にいる※208年時点で発生を確認。 龐統の忠誠度・勇名が上昇。龐統が劉備のいる都市に移動。難易度★★ 211年-月 張松、劉備に西蜀地図を渡す ①211年7月②劉備が襄陽・江陵・武陵の1都市以上、張魯が漢中、劉璋が成都・江州・永安をそれぞれ領有③劉璋配下に張松がいる④張松が西蜀地形図を所持⑤張魯と劉璋が同盟していない 選択次第で劉備と劉璋間で12ヶ月の同盟締結。西蜀地形図が劉備に譲渡される。難易度★★★ 212年-月 建業遷都 ①孫権が建業を支配しており、孫権自身は建業以外の都市にいる②張紘、張昭が孫権配下である③張紘が寿命で死ぬと発生(発生年月は212年より早くても遅くても大丈夫) 遷都すると孫権の名声と所領すべての民忠が上昇、断ると何もなし。張紘は220年以降も生き続ける場合があるので気長に待とう。難易度★★ 212年10月 魏公推挙騒動 ①212年10月曹操が許昌と鄴を含む12領以上②曹操配下に荀彧と董昭がいる 魏公になると家臣の忠誠と曹操のいる都市の民忠上昇・名声低下・荀彧が死亡。断れば曹操の名声と荀彧の忠誠が上昇。難易度★★ 214年-月 美髯公には及ばず ①劉備配下に諸葛亮・関羽・馬超がいる②劉備・諸葛亮・馬超が同じ都市にいる③関羽が劉備たちと違う都市の太守 関羽の勇名上昇。213年時点で発生を確認。難易度★★ 216年5月 曹操、魏王に即位す ①曹操が許昌と鄴を含む12領以上②曹操配下に曹丕、曹植、鍾繇がいる 民忠、家臣の忠誠上昇。魏公推戴を蹴ってもイベントは発生。こちらは推戴拒否不可。難易度★ 216年-月 左慈、曹操のもとを訪れる ①劉備が群雄として存在。②曹操が鄴を含む18都市以上を支配して領内に左慈が未発見でいる。209年4月でも発生確認(季節の変わり目に発生?)。 ・曹操が病気になる。・曹操の寿命が延びる(寿命に近いと発生しやすい?)。・遁甲天書が曹操のものに(劉備との敵対度が低いと発生しやすい?)。3つのうちいずれかがランダム発生。任意に選択することは不可。難易度★ 219年7月 劉備、漢中王に即位す ①劉備が漢中と成都を含む8領以上②曹操または曹丕が許昌と鄴を含む12領以上③劉備配下に諸葛亮、許靖、張飛 民忠・名声・家臣の忠誠上昇。イベント絵に関羽・趙雲・馬超が居るが、3人が居なくてもイベントは発生する。難易度★★ 219年7月 五虎大将成立 ①漢中王即位と同時に発生②関羽と張飛が劉備配下③趙雲、馬超、黄忠、魏延のうち三人が劉備配下 五人が五虎大将に選ばれる(魏延は補欠)。五虎大将は忠誠が100になり、経験と勇名が上がる。難易度★★ 220年-月 九品官人法制定 220年1~6月に曹操または曹丕が12領以上で陳羣が配下 民忠・名声・配下の忠誠が上昇。難易度★ 220年10月 魏皇帝即位 曹操または曹丕が洛陽を含む12領以上で華歆、王朗、司馬懿が配下 民忠・名声・配下の忠誠が上昇。皇帝即位イベントと異なり拒否は不可。曹丕・曹植・曹彰がいると専用台詞あり。九品官人法イベントと合わせ民忠・家臣忠誠度がほぼ全て100に。難易度★ 221年4月 蜀漢皇帝即位 ①劉備が成都を含む8領以上で諸葛亮、譙周、許靖が配下②魏皇帝即位が発生し曹操または曹丕が洛陽を含む12領以上 民忠・名声・配下の忠誠が上昇。皇帝即位イベントと異なり拒否は不可。関羽・張飛・趙雲がいると専用台詞あり。難易度★★ 221年8月 孫権、呉王に封ぜられる ①孫権が建業を含む8領以上で張昭、徐盛、諸葛瑾が配下②蜀漢皇帝即位が発生し劉備か劉禅が成都を含む8領以上③魏皇帝即位が発生し曹操か曹丕が許昌と鄴を含む12領以上 民忠・名声・配下の忠誠が上昇。難易度★★ 227年3月 出師の表 ①劉禅皇帝が成都、梓潼、下弁を領有し諸葛亮が配下②曹操か曹丕か曹叡が魏皇帝で長安、天水、安定を領有し劉禅の2倍以上領有③劉備が死亡済 ④諸葛亮が下弁以外の都市にいる ⑤諸葛亮が兵を所有している 劉禅の名声上昇、諸葛亮が下弁に移動。下弁にいる全武将の訓練と士気が100(兵士0でも100になる)。進言を拒否した場合は名声低下・諸葛亮の忠誠低下。劉備は230年頃まで生きる可能性が高いので、他勢力に斬ってもらうのも手。難易度★★ 229年4月 呉皇帝即位 ①孫権が建業を含む8領以上で張休、諸葛恪、陸遜が配下②蜀漢皇帝即位が発生し劉備か劉封か劉禅が成都を含む8領以上③魏皇帝即位が発生し曹操か曹丕か曹彰か曹植か曹叡が洛陽を含む12領以上②と③は片方だけでも出来る? 民忠・名声・配下の忠誠が上昇。皇帝即位イベントと異なり拒否は不可。張昭・徐盛・顧擁が配下にいると専用台詞あり。難易度★★ 234年4月 献帝、失意のうちに崩御す ①234年4月②皇帝が存在しない、または三国鼎立の状態 献帝が亡くなる。以後勅使が来なくなる?難易度★ 23-年-月 諸葛子瑜、息子恪を戒める ①諸葛瑾と諸葛恪がプレイヤー君主に仕えている。②諸葛瑾が寿命死すると発生。 諸葛瑾が息子に警告するイベント。諸葛瑾は250年頃まで生きるので発生まで相当の辛抱が必要。難易度★★ 234年-月 姜維、孔明の遺志を受け継ぐ ①劉備か劉禅が蜀漢皇帝として成都にいて諸葛亮、姜維、蒋琬、費禕が配下。②曹操か曹丕か曹叡が魏皇帝として長安を領有し蜀より支配都市が多い。③漢中、下弁、天水、安定のいずれかを領有し、諸葛亮がその中のどこかにいる。④諸葛亮が「兵法二十四編」を所有し寿命死する。 姜維に「兵法二十四編」が受け継がれる。孔明が曹叡より長寿になる場合があるので占卜での寿命操作を推奨。難易度★★★ 237年-月 公孫淵、燕王に即位す ①襄平と洛陽を同一の君主が治め領地が繋がっており公孫淵が襄平太守②賈範、卑衍、楊祚、倫直のうち一人以上襄平にいる③1月か4月に発生 公孫淵が名声400強で独立し、公孫淵とその配下の兵士数が増加。賈範・倫直が襄平にいる場合は両者が死亡(片方だけいる場合は居る方だけ死亡)。前述5人以外の襄平の武将が全員国外退去。難易度★★ 238年-月 倭人朝貢 襄平と洛陽を皇帝の君主が治め領地が繋がっている。※一定確率で発生。 所持金と名声が上昇。難易度★ 251年-月 司馬仲達、遺言を子に託す ①司馬懿と司馬師、司馬昭がプレイヤー君主に仕えている。②司馬懿が寿命死すると発生。 司馬懿が息子二人に教訓を語る。司馬懿は260年ごろまで生きるので根気よく待とう。難易度★★ 262年-月 奸臣の讒言 ①皇帝劉禅が天水と成都を領有し分断されていない。②安定と長安が他国。③諸葛亮、董允が死亡している。④劉禅が成都にいる。⑤姜維が天水太守で黄皓と閻宇が天水以外。 閻宇が天水太守になり、姜維が成都に移動し忠誠低下。劉禅の名声低下。条件を満たせば261年以前でも発生。難易度★★ 266年-月 羊祜と陸抗 ①羊祜と陸抗がそれぞれ別に君主に仕えていて、隣り合った都市にいる。②イベント発生の間隣接する。266年以前でも発生(241年時点で発生を確認)。 友誼イベントが計3ヶ月間発生。イベントを全て終えると羊祜と陸抗の勇名が300上昇。中途終了した場合は特に何もなし。連環の計と異なり、条件を満たせば多少年月を飛ばしてもイベントは継続。難易度★★★ ーーー年ーー月 皇帝即位 ①偶数年の1月②支配都市35以上(玉璽を持っている場合は30以上)③君主と参謀が同じ都市にいる 皇帝に即位すると、支配都市の民忠+20配下の忠誠度が上昇史実・仮想モードどちらでも発生難易度★ コメント 寿命操作は操作したい武将・占卜使いの二人で出陣すると、狙った武将を占ってくれる確率が高い。 - 名無しさん 2017-12-29 10 48 33 凶馬的盧 - 名無しさん (2019-01-22 01 00 01) 207年9月に発生しましたが、劉表と同盟はしていませんでした。敵対心は0です。 - 名無しさん (2019-01-22 01 00 56) スマホ版の「落第県令龐統」、龐統の任地より人口の多い都市に劉備を置いても発生せず、江陵に置いたら発生しました。 - 名無しさん (2019-05-03 13 24 53) 美髭公にも及ばずは、211年3月で発生しました。 - 名無しさん (2020-02-23 17 33 01) 周瑜死亡イベント214年4月厳白虎で確認しました - 名無しさん (2020-06-08 16 07 15) 関羽千里行が発生しません。先に、劉備出奔が出てしまいます。 - 名無しさん (2020-12-08 14 44 11) 出師イベントが出ません。皇帝にするために、219年からのシナリオで始めて、各国の身分が皇帝になって他条件満たしてもだめでした。史実通り呉皇帝前でもだめ。 - 名無しさん (2020-12-09 09 42 38) 劉備と劉表が同盟結んでなくても凶馬的盧のイベント起きました。敵対は45 - 名無しさん (2021-04-28 15 59 31) 209年10月「孫尚香の結婚」を追加しました。追記・訂正事項あれば - 名無しさん (2021-06-13 18 41 41) 234年 姜維、孔明の遺志を受け継ぐが起きません - 名無しさん (2021-07-16 21 42 23) 劉禅が皇帝で成都 魏は曹丕が皇帝 劉禅は安定、天水、漢中、下弁を持っていて孔明、姜維、蔣琬、費禕は安定にいます。長安は曹丕が。孔明アイテムも持っていて、占卜で寿命操作して234年に死亡しても発生しません。。条件おかしいでしょうか?? - 名無しさん (2021-07-16 21 45 43) 支配都市数も魏の方が多いのですが… - 名無しさん (2021-07-16 21 52 59) 名前
https://w.atwiki.jp/pazdra/pages/9045.html
全然賑わってないなwww -- 2015-06-08 19 55 29 こんなん誰も興味ないやろ -- 2015-06-08 20 59 28 いやさっさと常時2倍にしろ。もうそういうのいいから。 -- 2015-06-08 21 40 08 周回してみたが、何とも実入りの無いダンジョン。アンケートとってこれかい。 -- 2015-06-08 22 14 54 信じられんくらいファイロン落ちないwもち超級 -- 2015-06-08 23 20 07 コメント数… -- 2015-06-09 00 17 46 ツナドン進化後で落ちんしなぁ ピィラゲしたほうが早いし楽だから石回収して終わりかも 来週何もイベントなくてBoxに空きがあったら集めるかも -- 2015-06-09 01 17 51 超級でもファイロンがまったく落ちない、ツナドンならともかく・・・ -- 2015-06-09 07 22 44 今週土曜PM、来週日曜PMに泥2倍来るからそれまで放置。ストレス溜まるだけ無駄 -- 2015-06-09 10 56 50 曹操は前回のコインD・焔の龍騎姫やったかな?でスキルマにしてしまってて、ミューズは面倒臭いばかりでヤル気失せる -- 2015-06-09 14 07 43 丼龍で凶悪だったツナドン、アンケ用に設定するとレベル3相当なのか… -- 2015-06-09 21 21 33 超級5回ファイロンスルー…ムリッゲー -- 2015-06-10 08 42 07 まったく盛り上がらないアンケ17 開催3日目で13ゲット -- 2015-06-10 09 46 25 ドロップ率2倍まで待ってたらスキルアップ確率2.5倍が終わるんだがどっち優先? -- 2015-06-10 10 34 46 超級、敵弱すぎるのにスコアありってたまドラ配布してるようなものだね。LFはHP高めの攻撃倍率3倍以上(掛け合せで9倍以上)、Sは全部レア1で誰でもSランク取れそう。 -- 2015-06-10 11 20 01 竜騎姫常設されたからここでファイロン集める意味ないよな -- 2015-06-10 12 11 27 超級でこのドロップ率なら石使う必要もないな -- 2015-06-10 19 09 18 4体で3up、曹操スキルマ完成!ありがとうございました -- 2015-06-10 23 38 07 1.5倍で超級2上級8回って上級で1ドロのみ・・もうやらん -- 2015-06-11 13 17 12 ↑1.5倍でも酷いくらい絞ってるよね -- 2015-06-11 13 39 02 ファイロン狙いだからいいけど、ファイロンに比べてツナドン全然落ちんw -- 2015-06-11 14 24 12 ツナドン10体集める間にファイロン12体ゲット。 そしてミューズ2/10で曹操0/12。うーん・・・ -- 2015-06-11 14 48 01 スキレベアップ2.5倍まだまだ続くやん、今日頑張る必要なし。 -- 2015-06-11 15 32 44 なにこの泥率の低さ。無課金なのに曹操2体いるんだけど大丈夫かな・・・ -- 2015-06-11 16 27 13 ↑9 このコメント見て初めて竜騎姫常設されてたこと知った。めんどくさいから暦龍で止まってたよ。ありがとう。 -- 2015-06-11 17 10 05 龍騎姫回るくらいならこっち回るわ -- 2015-06-11 18 15 33 LF究極呂布進化後ソニア、Sダクレはまひめ闇鞄よりしろのいつものPTでS取れるね。スコア19万ちょいでした。たまドラごちです。 -- 2015-06-11 20 53 03 ミューズさん5体で4up。青仮面集め忘れてて、もう無かったけど無事スキルマ。偉い!それに引き換え曹操ときたら… -- 2015-06-11 21 35 44 曹操イチタリナイまでは5体でスッと行ったんだが、そこから全く上がらなくなった。取り敢えず14スルー。まあイチタリナイだからこのまま運用でいいんだけどなんか釈然としない -- 2015-06-12 20 49 38 泥率二倍って本当なのか。まるでボス落ちないんだが -- 2015-06-13 12 10 47 ホルス×ハトホルでSランク。アンケダンジョンはもう毎回コレ。 -- 2015-06-13 12 36 27 ↑↑俺はむしろ4Fのほうが落ちない -- 2015-06-13 12 57 21 うちの曹操天才すぎワロタ。もともと1上がってたんだが、5体合成4upで一気に終了。こんなこともあんだね -- 2015-06-13 13 08 23 悟空×ベジットでSランク。ドロップ2倍でもボス落ちなかった… -- 2015-06-13 16 16 29 超級LバハムートヘルヘブンLv42 F絶世ソニアHでノーコンSランク。ツナドンは闇3列6コンボとメガフレアで、陣残った。 -- 2015-06-13 17 52 04 2倍で確泥なしとかどんだけ絞ってるんだ -- 2015-06-13 18 02 42 超級二倍であまり落ちません石使うのはやめておいたほうがいいです -- 2015-06-13 18 04 06 久し振りにアンケ回そうと思ったけど上級道中全く落ちなくなってんな、道中モンスターもただの4Fボスと化してるし -- 2015-06-13 19 56 02 なんだよこれ。ドロ2倍を待ってたのに、上級どころか超級も確定じゃねーのな。全く回る気しねーわ -- 2015-06-13 20 14 13 超級実装されてから上級はマジ糞泥になった気がする。赤フェアリーは上級で集めた記憶あるが、今は落ちなさ過ぎて、上級以下は空気過ぎるわ -- 2015-06-13 20 50 02 ドロ率ダメダメですね。超級20周でやっと5体。2倍って本当かい? -- 2015-06-13 21 01 56 ちなみにファイロンね -- 2015-06-13 21 03 11 ファイロンはそこそこ落ちてるけどボスが50%くらいかなぁ・・まぁ15ターンでいいかなって気になってきた -- 2015-06-13 21 26 47 上級10週でファイロン1体とかまじで絞りすぎ。 -- 2015-06-13 23 08 18 曹操20入れて1しか上がんないんだが、どこが2.5倍なわけ? -- 2015-06-13 23 11 19 上級でファイロン20匹集めて19匹でスキルマ。 -- 2015-06-13 23 12 38 元の確立が不明な時点で何倍になろうが意味が無かったりして -- 2015-06-13 23 12 01 超級スタミナ40で確定ドロじゃないってのもアレだが経験値たった2000とか落ちないときの救いようの無さはどんだけだよ。 -- 2015-06-13 23 37 17 二倍上級でもファイロンまったく落ちず。ゴミ -- 2015-06-14 01 28 39 ファイロン狙いなら龍騎姫回る方がいいぞマジで。ツナドン欲しい人だけが行く価値のあるアンケ。 -- 2015-06-14 11 35 29 龍騎姫2倍がなくなった今となってはアンケの方がよくないか? -- 2015-06-14 15 15 15 スペDの時は超級が2倍でロンの階ほぼ確定だったわけで、それ以上のドロ率の地獄級を集めたあれが常設になったからって確率変わってるとは思えない -- 2015-06-14 21 09 03 7体で曹操スキルマ。本当に頭のいい子だった -- 2015-06-14 21 15 42 曹操初期実装から持ってて初めてロン見た! スキルは友情ガチャのミニで上がってたり(^^;; -- 2015-06-15 09 51 21 って書きに来たんじゃなくて、超級スタミナ40使って確定じゃないし、経験値が少な過ぎでしょ… どんだけ搾取する気なんだか -- 2015-06-15 09 53 53 1.5倍超級だが、4F以外の道中ファイロン全くドロしないねぇ・・・30回以上遭遇してるが、ドロ0ってどうなの? -- 2015-06-16 21 25 56 やっと1体目の曹操スキルマになった・・・はぁ 2体目の曹操スキルマになるか不安になってきた。日曜日の2倍にかけるしかない。 -- 2015-06-16 22 08 30 スキル上げダンジョンなのに経験地で文句言ってるやつは頭冷やしたほうがいい -- 2015-06-17 17 00 25 何もやることないから等倍で6周だけしたけどロンもドンもドロ無し。アンケも昔のやつより落ちにくくなってるのでしょうか? -- 2015-06-17 20 40 33 ロン欲しけりゃテクダンの方行けマジで。等倍ですらこっちの2倍よか落ちるぞ。さすがにアンケに価値無さ過ぎて笑ったわ。 -- 2015-06-18 23 57 54 S取ろうとソニアソニアで行ったら、1F2Fともに全部水の中忍出てきて負けた… -- 2015-06-19 08 03 34 ここまで龍騎姫勧めてるのが同じ人というね -- 2015-06-19 08 16 07 スペDの時知ってる人は周回しないし用無いから書き込みもしない 書いてくれてるだけむしろ親切なくらい -- 2015-06-19 10 23 26 スキル上げダンジョンって書いてあるけど、落ちないんなら代わりが欲しくないですか? 確定じゃないしスタミナ40の価値ないならスキル上げダンジョンの意味無いような… 他のが良いって書いてくれてる方も居ますし -- 2015-06-19 17 45 26 光のアンケカーニバルした後だと余計にダルイ 覚醒リセットも足引っ張ってるし -- 2015-06-19 23 15 12 曹操はあっさりスキルマになったんだが、ミューズが1/25しか上がらなくてテンションさげさげ・・・2.5倍でこれかい・・・ さすがに水番人尽きたからもうダメポ。来週以降に頑張るしか無い -- 2015-06-20 18 23 32 2倍は午後からだっけ? -- 2015-06-21 08 41 16 2倍は12時から。ただ2倍だろうがミューズ上げをしない人がここ周るのはスタミナ捨ててるようなもん。 -- 2015-06-21 11 30 41 二倍でも丼落ちなくて萎える。 -- 2015-06-21 13 21 12 ツナドンはともかく、鬼面を一気に集める手段が断たれたので・・アンケ開催中にツナを10体だけ集めておいて素材が集まり次第進化させてゆく養殖方式を取らざるを得ないから、逆に言えば今日は石を使って周回する必要が無くなってしまっているという状況。 -- 2015-06-21 13 25 32 2倍超級9周で丼3体って、なんのご冗談?今回ミューズのスキルマあきらめた。みんながんばってくれ。 -- 2015-06-21 16 51 18 ボス3回行って1体だけ。アホらしいのでやめた -- 2015-06-21 17 18 25 先週からツナドン育ててミューズに合成したが…15体スルー…絞ってるでしょ? -- 2015-06-21 18 54 41 やはり絞ってきたよね?こっちも15スルーでおかしな~とおもってた。ツナドンじゃないけど -- 2015-06-21 20 16 27 ミューズ26スルー。 もういいや -- 2015-06-21 23 06 52 あーあ。結局曹操1足りないでおわちゃった。シクシク -- 2015-06-22 01 13 35 先日の1体目につづき、最終日2倍でやっと曹操2体目もスミルマ、最後の5体で2UPしなかったら俺もイチタリナイだった。 -- 2015-06-22 01 19 00 ツナドン結構集まったけど進化前なのでBOX圧迫が半端ないよ。 -- 2015-06-22 01 22 17 覚醒シヴァのスーパーサブとしてスキルマ曹操大活躍!2体目あってもええなーと思っていたらランク999発突破ドッドフェスで引いてしまった が、アンケ終わっているという… -- 2015-07-03 16 59 46 ↑続き アンケ17前にコインDでスキルマにしたが、どこでやったかな? -- 2015-07-03 17 03 13
https://w.atwiki.jp/seikouudoku/pages/76.html
偽忠狼心(ぎちゅうろうしん) 一 曹操を搦(から)めよ。 布令(ふれ)は州郡諸地方へ飛んだ。 その迅速(じんそく)を競(きそ)って。 一方―― 洛陽(らくよう)の都をあとに、黄馬(こうば)に鞭(むち)をつづけ、日夜をわかたず、南へ南へと風の如(ごと)く逃げて来た曹操は、早くも中牟県(ちゅうぼうけん)(河南省(かなんしょう)中牟・開封(かいほう)―鄭州(ていしゅう)の中間)――附近までかかっていた。 「待てっ」 「馬を降りろ」 関門へかかるや否(いな)、彼は関所の守備兵に引きずり降ろされた。 「先に中央から、曹操という者を見かけ次第召(め)し捕(と)れと、指令があった。其方(そのほう)の風采(ふうさい)と、容貌(ようぼう)とは人相書に甚(はなは)だ似ておる」 関(せき)の吏事(やくにん)は、そう言って曹操が何と言いのがれようとしても、耳を貸さなかった。 「とにかく、役所へ引ッ立てろ」 兵は鉄桶てっとう)の如(ごと)く、曹操を取り囲んで、吟味所(ぎんみしょ)へ拉(らっ)してしまった。 関門兵の隊長、道尉(どうい)陳宮(ちんきゅう)は、部下が引っ立てて来る者を見ると、 「あっ、曹操だ!吟味にも及ばん」と、一見して言(い)き断(き)った。 そして部下の兵を犒(ねぎら)って彼が言うには、 「自分は先年まで、洛陽に吏事おしておったから、曹操の顔も見覚えている。――幸いにも生擒(いけど)ったこの者を都へ差し立てれば、自分は万戸侯(ばんここう)という大身(たいしん)に出世しよう。お前たちにも恩賞を頒(わ)かってくれるぞ。前祝いに、今夜は大いに飲め」 そこで、曹操の身はたちまち、かねて備えてある鉄の檻車(かんしゃ)の抛(ほう)りこまれ、明日にも洛陽(らくよう)へ護送して行くばかしとなし、守備の兵や吏事(やくにん)たちは、大いに酒を飲んで祝った。 日暮れになると、酒宴もやみ、吏事も兵も関門を閉じて何処(どこ)へか散ってしまった。曹操(そうそう)はもはや、観念の眼(まなこ)を閉(と)じているもののように、檻車の中に倚(よ)りかかって、真暗(まっくら)な山谷の声や夜空の風を黙然(もくねん)と聴いていた。 すると夜半に近い頃、 「曹操、曹操」 誰か、檻車に近づいて来て、低声(こごえ)に呼ぶ者があった。 眼をひらいて見ると、昼間、自分を一目で観破(みやぶ)った関門兵の隊長なので、曹操は、 「何用か」 嘯(うそぶく)如(ごと)く答えると、 「おん身は都に在(あ)って、董相国(とうしょうこく)にも愛され、重く用いられていたと聞いていたが、何故(なにゆえ)に、こんな羽目になったのか」 「くだらぬ事を問うもの哉(かな)。燕雀(えんじゃく)なんぞ鴻鵠(こうこく)の志(こころざし)を知らんやだ。――貴様(きさま)はもうおれの身を生擒(いけど)っているんじゃないか。四の五の言わずと都へ護送して、早く恩賞にあずかれ」 「曹操。君は人を観(み)る明(めい)がないな。好漢(こうかん)惜(お)しむらく――というところか」 「なんだと」 「怒り給(たも)うな。君が徒(いたず)らに人を軽んじるから一言酬(むく)いたのだ。かくいう自分とても、沖天(ちゅうてん)の大志を抱いておる者だが、真に、国の憂(うれ)いを語る同志もない為(ため)、空(むな)しく光陰の過ぎるのを恨(うら)みとしておる。折から、君を見たので、その志を叩(たた)きに来たわけだが」 意味ありげな言葉に、曹操も初めの態度を改めて、「然(しか)らば言おう」と、檻車の中に坐(すわ)り直した。 二 曹操は、口を開いた。 「なるほど董卓(とうたく)は、貴公(きこう)の言われたようにこの曹操を愛していたに違いない。――しかしそれがしは、遠く相国(しょうこく)曹参(そうさん)が末孫(ばっそん)にて、四百年来、漢室(かんしつ)の禄(ろく)をいただいて来た。なんで成り上がり者の暴賊董卓ごときに、身を屈(くっ)すべいや」 と語気、熱をおびて来て―― 「如(し)かず国の為、賊を刺し殺して、祖先の恩を報ずべしと、董卓の命を狙(ねら)ったが、天運いまだ我(われ)に非(あら)ず――こうして捕われの身となってしまった。なんぞ今さら、悔(く)いる事があろうか」 白面細眼(はくめんさいがん)、自若(じじゃく)としてそう言う容子(ようす)、さすがに名門の血すじをひいているだけに、争い難い落ち着きがあった。 「…………」 黙然――やや暫(しばら)くの間、檻車の外にあってその態(てい)を見ていた関門兵の隊長は、 「お待ちなさい」 言うかと思うと、檻車の鉄錠(てつじょう)を外(はず)して、扉を開き、驚く彼を中から引き出して、 「曹操どの。貴君(あなた)はどこへ行こうとしてこの関門へかかったのですか」 「故郷――」 曹操は、茫(ぼう)とした面持(おももち)で、隊長の行為を怪しみながら答えた。 「故郷の譙郡(しょうぐん)に帰って、諸国の英雄に呼びかけ、義兵を挙げて再び洛陽へ攻め上り、堂々、天下の賊を討(う)つ考えであったのだ」 「さもこそ」 隊長は、彼の手を曳(ひ)いて、密(ひそ)かに自分の室(へや)へと請(しょう)じ、酒食を供して、曹操のすがたを再拝した。 「思うに違(たが)わず、御辺(ごへん)は私の求めていた忠義の士であった。貴君(あなた)に会ったことは実に喜ばしい」 「では御身(おんみ)も董卓に恨(うら)みのある者か」 「いや、いや、私怨(しえん)ではありません。大きな公憤(こうふん)です。義憤(ぎふん)です。万民の呪(のろ)いと共に憂国(ゆうこく)の怒りをもって、彼を憎み止(や)まぬ一人です」 「それは、意外だ」 「今夜がぎり、てまえも官を棄(す)てて此関(ここ)から奔(はし)ります。共に力を協(あわ)せて、貴君(あなた)の赴(ゆ)く所まで落ちのび、天下の義兵を呼び集めましょう」 「えっ、真実ですか」 「なんで噓(うそ)を。――すでにこう言う間に、貴君(あなた)の縄目を解(と)いているではありませんか」 「ああ!」 曹操(そうそう)は初めて、回生(かいせい)の大きな歓喜を、その吐息(といき)にも、満面にも現わして、 「して、貴公はいったい、何と仰(お)っしゃる御仁(ごじん)か」 と、訊(たず)ねた。 「申しおくれました。自分は、陳宮(ちんきゅう)字(あざな)を公台(こうだい)という者です」 「御家族は」 「この近くの東郡(とうぐん)に住まっています。すぐそこへ参(まい)って、身仕度を代え、すぐさま先へ急ぎましょう」 陳宮は、馬を曳(ひ)き出して、先に立った。 夜もまだ明けないうちに、二人は又、その東郡をも後にすてて、ひた急ぎに、落ちて行った。 それから三日目―― 日夜わかたず駆け通して来た二人は、成皐(せいこう)(河南省・衛輝(えいき)附近)のあたりを彷徨(さまよ)っていた。 「今日も暮れましたなあ」 「もうこの辺まで来れば大丈夫だ。――だが、今日の夕陽は、いやに黄いろッぽいじゃないか」 「又、蒙古風(もうこかぜ)ですよ」 「あ、湖北(こほく)の沙風(さふう)か」 「どこへ宿(やど)りましょう」 「部落が見えるが、この辺はなんという所だろう」 「先程の山道に、成皐路(せいこうじ)という道標が見えましたが」 「あ。それなら今夜は、訪ねて行くよい家があるよ」 と、曹操は明るい眉(まゆ)をして、馬上から行く手の林を指さした。 三 「ほ、こんな辺鄙(へんぴ)の地に、どういうお知り合いがいるのですか」 「父の友人だよ。呂伯奢(りょはくしゃ)という者で、父とは兄弟のような交(まじ)わりのあった人だ」 「それは好都合ですな」 「今夜はそこを訪れて一宿を頼もう」 語りながら、曹操と陳宮の二人は、林の中へ駒(こま)を乗り入れ、やがてその駒を樹(き)に繋(つな)いで、尋ね当てた呂伯奢の門をたたいた。 主(あるじ)の呂伯奢は驚いて、不意に客を迎え入れ、 「誰かと思ったら、曹家(そうけ)の御子息じゃないか」 「曹操です。どうも暫(しばら)くでした」 「まあ、お入りなさい。どうしたのですか。いったい」 「何がです」 「朝廷から各地へ、あなたの人相書が廻(まわ)っていますが」 「ああその事ですか。実は丞相(じょうしょう)董卓(とうたく)を討(う)ち損(そん)じて逃げて来た迄(まで)の事です。私を賊と呼んで人相書など廻しているらしいが、彼奴(きゃつ)こそ大逆(たいぎゃく)の暴賊です。遅かれ早かれ、天下は大乱となりましょう。曹操も、もう凝(じっ)としてはいられません」 「お連れになってる人は誰方(どなた)ですか」 「そうそう、御紹介をするのを忘れていた。これは道尉(どうい)陳宮(ちんきゅう)という者で、中牟県(ちゅうぼうけん)の関門を守備しており、私を曹操と見破って召し捕えたくらいな英傑(えいけつ)ですが、胸中の大志を語り合ってみたところ、時勢に鬱勃(うつぼつ)たる同憂(どうゆう)の士だという事がわかったので、陳宮は官を捨て、私は檻(おり)を破って、共にこれまで携(たずさ)え合(あ)って逃げ走って来たというわけです」 「ああそうですか」 呂伯奢(りょはくしゃ)は跪(ひざまず)いて、改めて陳宮のすがたを拝(はい)し、 「義人(ぎじん)。――どうかこの曹操を扶(たす)けて上げてください。もし貴方(あなた)が見捨てたら曹操の一家一門はことごとく滅んでしまう他はありません」 と、曹操の父の友人というだけに、先輩らしく慇懃(いんぎん)に将来を頼むのであった。 そして呂伯奢(りょはくしゃ)は、いそいそと、 「まあ、御(ご)ゆるりなさい。手前は隣村まで行って、酒を買ってきますから」 と、驢(ろ)に乗って出て行った。 曹操と陳宮は、旅装を解(と)いて、一室で休息していたが、主(あるじ)はなかなか帰って来ない。 そのうちに、夜も初更(しょこう)の頃、どこかで異様な物音がする。耳をすましていると、刀でも磨(と)ぐような鈍(にぶ)い響きが、壁を越えて来るのだった。 「はてな?」 曹操は、疑いの目を光らし、扉(と)を排(はい)して、又耳を欹(そばだ)てていたが、 「そうだ、……やはり刀を磨ぐ音だ。さては、主の呂伯奢は、隣村へ酒を買いに行くなどと言って出て行ったが、県吏に密訴(みっそ)して、おれ達を縛(しば)らせ、朝廷の恩賞にあずかろうという気かもしれん」 呟(つぶや)いていると、暗い厨(くりや)の方で、四、五名の男女の者が口々に――縛れとか、殺せとか――言い交(か)わしているのが、曹操の耳へ、明らかに聞こえて来た。 「さてこそ、われわれを、一室に閉じこめて、危害を加えんとする計(はかりごと)にうたがいなし。。――その分なれば、こっちから斬(き)ッてかかれ」 と、陳宮へも、事の急を告げて、にわかにそこを飛びだし、驚く家族や召使い八名までを、またたく間にみな殺しに斬ってしまった。 そして、曹操が先に、 「いざ逃げん」と、促(うなが)すと、どこかで未(ま)だ、異様な呻(うめ)き声をあげて、ばたばた騒ぐものがある。 厨の外へ出て見ると、生きている猪(いのこ)が、脚(あし)を木に吊(つる)されて、啼(な)いているのだった。 「ア、しまった!」 陳宮は甚(はなは)だ後悔した。 この家の家族たちは、猪を求めて来て、それを料理しようとしていたのだ――と、わかったからである。 四 曹操は、もう闇(やみ)に向かって、急ごうとしていた。 「陳宮。はやく来い」 「はっ」 「何を愚図愚図(ぐずぐず)しているのだ」 「でも……。どうも、気持が悪くてなりません。慚愧(ざんぎ)にたえません」 「なんで」 「無意味な殺生(せっしょう)をしたじゃありませんか。かわいそうに、八人の家族は、われわれの旅情をなぐさめる為(ため)に、わざわざ猪(いのこ)を求めて来て、もてなそうとしていたんです」 「そんな事を悔(く)いて、家の中へ、、掌(て)を合わせていたのか」 「せめて、念仏でも申して、科(とが)なき人たちを殺した罪を、詫(わ)びて行こうと思いまして」 「はははは。武人に似合わんことだ。してしまったものは是非(ぜひ)もない。戦場に立てば何千何万の生霊(せいれい)を、一日で葬(ほうむ)ることさえあるじゃないか。又、我が身だって、何時(いつ)そうされるか知れないのだ」 曹操には、曹操の人生観があり、陳宮には又、陳宮の道徳観がある。 それは違うおのであった。 けれど今は、一蓮托生(いちれんたくしょう)の道づれである。議論していられない。 二人は、闇へ馳(か)けた。 そして、林の中に繋(つな)いでおいた駒(こま)を解き、飛び乗るが早いか、二里あまりも逃げのびて来た。 ――と、彼方(かなた)から、驢(ろ)に二箇(こ)の酒瓶(さけがめ)を結びつけて来る者があった。近づき合うにつれて、ぷーんと芳熟(ほうじゅく)した果物の佳(い)い匂(にお)いが感じられた。腕には、果物の籠(かご)も掛けているのだった。 「おや、お客人ではないか」 それはいま、隣村から帰って来た呂伯奢(りょはくしゃ)であったのである。 曹操は、まずい所で会ったと思ったが、あわてて、 「やあ、御主人か。実は、きょうの昼間、これへ来る途中に寄った茶店に、大事な品を忘れたので、急に思い出して、これから取りに行くところです」 「それなら、家の召使いをやればよいのに」 「いやいや、馬で一鞭(ひとむち)当てれば、造作(ぞうさ)もありませんから」 「では、お早く行っておいでなさい。家の者に、猪(いのこ)を屠(ほふ)って、料理しておくように言っておきましたし、酒もすてきな美酒(びしゅ)をさがして、手に入れて来ましたからね」 「は、は、すぐ戻って来ます」 曹操は、返辞もそこそこと、馬に鞭打って呂伯奢と別れた。 そして、四、五町ほど来たが、急に馬を止め、 「君!」と、陳宮を呼び止め、 「君はしばらく此処(ここ)で待っていてくれないか」 と言い残し、何を思ったか、再び道を引っ返して馳(か)けて行った。 「どこへ行ったのだろう?」と、陳宮は、彼の心を解(と)きかねて、怪しみながら待っていたところ、やがての事曹操は又戻って来て、いかにも心残りを除いて来たように、 「これでいい!さあ行こう。君、今のも殺(や)って来たよ。一突きに刺し殺して来た」 と、言った。 「えっ。呂伯奢を?」 「うん」 「なんで、無益な殺生(せっしょう)をした上にもまた、あんな善人を殺したのです」 「だって、彼が帰って、自分の妻子や雇人が、皆ごろしになったのを知れば、いくら善人でも、われわれを恨(うら)むだろう」 「それは是非(ぜひ)もありますまい」 「県吏に訴(うった)え出られたら、この曹操の一大事だ。背に腹はかえられん」 「でも、罪なき者を殺すのは、人道に反(そむ)くではありませんか」 「否(いな)」 曹操は、詩でも吟(ぎん)じるように、大声で言った。 「我(われ)をして、天下の人に反かしむるとも、天下の人をして、我に反かしむるを休(や)めよ――だ。さあ行こう。先へ急ごう!」 五 ――怖(おそ)るべき人だ。 曹操の一言を聞いて、陳宮はふかく彼の人となりを考え直した。そして心に懼(おそ)れた。 この人も、天下の苦しみを救わんとする者ではない。真に世を憂(うれ)えるのでもない。――天下を奪わんとする野望の士であった。 「……過(あやま)った」 陳宮も、ここに至って、密(ひそ)かに悔(く)いを嚙(か)まずにはいられなかった。 男子の生涯を賭(と)して、道づれとなった事を、早計だったと思い知った。 けれど。 すでにその道は踏み出してしまったのである。官を捨て、妻子を捨てて共に荊棘(けいきょく)の道を覚悟の上で来てしまったのだ。 「悔いも及ばず……」と、彼は心を取り直した。 夜が更(ふ)けると、月が出た。深夜の月明りを頼りに十里も走った。 そして、何処(どこ)か知らぬ、古廟(こびょう)の荒れた門前で、駒(こま)を降りて一休みした。 「陳宮」 「はい」 「君も一寝入(ひとねい)りせんか。夜明けまでには間がある。寝ておかないと、あしたの道に又、疲労するからな」 「寝(やす)みましょう。けれど大事な馬を盗まれるといけませんから、どこか人目につかぬ木陰(こかげ)に繫(つな)いで来ます」 「ムム。そうか。……ああしかし惜しいことをしたなあ」 「何ですか」 「呂伯奢(りょはくしゃ)を殺しに戻ったくせにしてさ、おれとした事が、彼が携(たずさ)えていた美酒と果物を奪って来るのを、すっかり忘れていたよ。やはり幾(いく)らかあわてていたんだな」 「…………」 陳宮んは、それに返辞する勇気もなかった。 馬を隠して、暫(しばら)くの後、又そこへ戻って来てみると、曹操は、古廟(こびょう)の軒下に、月の光を浴びていかにも快(こころよ)げに熟睡していた。 「……なんという大胆不敵な人だろう」 陳宮は、その寝顔を、つくづくと見入りながら、憎みもしたし、感心もした。 憎む方の心は、 (自分は、この人物を買(か)い被(かぶ)った。この人こそ、真に憂国(ゆうこく)の大忠臣だと考えたのだ。ところがなんぞ計(はか)らん、狼虎(ろうこ)にひとしい大野心家に過ぎない) と、思い、又敬服する方の半面では、 (――しかし、野心家であろうと姦雄(かんゆう)であろうと、とにかくこの大胆さと、情熱と、おれを買い被らせた程の弁舌とは、非凡(ひぼん)なものだ。やはり一方の英傑にちがいないなあ……) と、自(ひと)り心のうちで思うのであった。 そして、そう二つに観(み)られる自分の心に質(ただ)して、陳宮は、 「今ならば、睡(ねむ)っている間に、この曹操を刺し殺してしまう事もできるのだ。生かしておいたら、こういう姦雄は、後に必ず天下に禍(わざわい)するだろう。……そうだ、天に代わって、今刺してしまった方がいい」と、考えた。 陳宮は、剣を抜いた。 寝顔をのぞかれているのも知らず、曹操は鼾声(いびき)をかいていた。その顔は実に端麗(たんれい)であった。陳宮は迷った。 「いや、待てよ」 寝込みを殺すのは、武人の本領でない。不義(ふぎ)である。 それに、今のような乱世に、こういう一種の姦雄を地に生まれさせたのも、天に意(こころ)あっての事かもしれない。この人の天寿(てんじゅ)を、寝ている間に奪うことは、かえって天の意に反(そむ)くかもしれない。 「噫(ああ)……。なにを今になって迷うか。おれは又煩悩(ぼんのう)すぎる。月は煌々(こうこう)と冴(さ)えている。そうだ、月でも見ながらおれも寝よう」 思い止(とど)まって、剣をそっと鞘(さや)にもどし、陳宮もやがて同じ廂(ひさし)の下に、丸くなって寝こんだ。
https://w.atwiki.jp/ng3ggc/pages/326.html
名稱:徐晃 伺服器及顏色: 5服紫 類型:武 性別:男 生命值:3836 武力:73 智力:67 防禦:41 敏捷:71 運勢:70 描述:徐晃字公明,是曹操部下“五子良將”之一,原跟隨楊奉,曾保護漢獻帝東行,有功。後降於曹操,跟隨曹操四處征戰,於延津率兵擊殺文醜,於官渡率兵截 燒糧草,平馬超時率先渡河,守漢中時大敗蜀將陳式,多有戰功。特別是在解樊城之圍的戰鬥中,徐晃率軍長驅之入,一舉擊退蜀軍,立下了大功,受到曹操的贊 揚。魏明帝時期,徐晃病逝。
https://w.atwiki.jp/sangokushi11/pages/891.html
条件シナリオ開始年月が190年1月以前 董卓勢力、曹操勢力、袁紹勢力が全て存在している 以下の何れかを満たす現在年月が190年4月以降 虎牢関が董卓勢力の支配拠点ではない 董卓勢力後漢皇帝を擁立している 長安、洛陽を支配している 李儒が配下にいる 董卓の所属都市は洛陽である 曹操勢力、袁紹勢力との友好が何れも険悪である 曹操勢力、袁紹勢力の何れとも同盟を結んでない 曹操勢力と袁紹勢力が同盟関係にある 董卓が以下の条件を満たしている曹操、袁紹とは有縁関係がない 行動済でない 李儒が行動済でない 後漢皇帝が生存しており、所属都市が長安ではない 結果董卓がCOM勢力の場合、長安に遷都。 董卓がプレイヤー勢力の場合は、遷都するかしないかを選択。遷都したとき後漢皇帝と洛陽所属の全武将が長安に移動 「漢室重視」の武将の忠誠が低下 洛陽の都市圏にある金、兵糧、兵士、兵装を全て長安に移動 洛陽の耐久、治安が0になる 洛陽の開発地にある内政施設が全て撤去 洛陽の都市圏にある罠や軍事施設が全て撤去 洛陽の都市圏で、董卓勢力の支配拠点は全て空白化 長安の金+30000 遷都しないとき変化なし