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兵庫県三木市末広1丁目の粟生線・三木駅近くにある木造2階建て民家から火出。2018.03.04ことだ。三木駅は神戸電鉄です。
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三木眞一郎 みきしんいちろう BLACK WOLFS SAGA ネッソ タグ:三木眞一郎 声優
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三木眞一郎 Arrival 森川智之三木眞一郎 ドラマCD「春を抱いていた」IM
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SN0335 まちぶせ 三木聖子 2005/11/12 赤羽 リッキーズ バー
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#三木孝浩 amazonで探す @楽天で #三木孝浩 を探す! wikipedia 47歳 youtube検索 dailymotion検索 Hulu NETFLIX PrimeVideo dTV U-NEXT TVer Paravi Gyao 放送日 年 タイトル 曜時局 視聴率 hulu NETFLIX PrimeVideo dTV U-NEXT TVer Paravi Gyao YouTube 2021.06 46 夏への扉-キミのいる未来へ- 映画 Hulu NETFLIX PrimeVideo dTV U-NEXT TVer Paravi Gyao YouTube 脚本 2019.02 44 フォルトゥナの瞳 映画 Hulu NETFLIX PrimeVideo dTV U-NEXT TVer Paravi Gyao YouTube 脚本 2015.02 40 くちびるに歌を 映画 Hulu NETFLIX PrimeVideo dTV U-NEXT TVer Paravi Gyao YouTube 脚本
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●憲法9条 ラインナップ 憲法ともに考えよう 「九条の会」1万人講演会 要項決まる 9条を世界へ!「グローバル9条キャンペーン」8/15に世界同時意見広告を出そう! 「集団的自衛権議論、馬鹿げている」米国防総省日本部長 [朝日] 憲法9条は人類史的意義もつ パグウオッシュ会議へ科学者236人がメッセージ [赤旗] 「九条の会・有明」に9500人 [赤旗] 自衛隊もどれ雨のなか歩く ワールドピースナウ [赤旗] 「9条の会」結成続く 音楽、1062人が賛同、全国で草の根コンサート [赤旗] コメント 名前 コメント 「9条の会」結成続く 音楽、1062人が賛同、全国で草の根コンサート [赤旗] 池辺晋一郎さん(作曲家)、日下部吉彦さん(音楽評論家)を世話人代表に三十人の呼びかけで二十七日、音楽家と音楽愛好者でつくる「音楽・九条の会」が発足しました。 同日、大阪市内で行われた記者会見には、日下部さんをはじめ桂直久(大阪音楽大学名誉教授・オペラ演出家)、櫻井武雄(大阪芸術大学名誉教授)、茂山千之丞(狂言役者)の呼びかけ人四氏が、同会オリジナルのロゴマークつきTシャツを着て出席。 日下部氏は「音楽こそ平和と九条の尊さを訴えるもっとも有効な手段。草の根でコンサートを開き、一万人、十万人の会にしていきたい」とのべました。各氏も「特攻隊で生き残った。戦争は殺人であり、正しい戦争などない。世界各地で戦争がある。日本だけでなく九条を世界に広げていく時期ではないか」(桂氏)、「戦争ほど人類の大きな罪悪はない。人類の宝である憲法九条をどうしても守らねばならない」(櫻井氏)、「九条を守るために命をかけることは、戦争で殺しあうよりはるかに人間としてすばらしい。これから育つ子どもたちが戦争に行かないよう九条を守り通したい」(茂山氏)と語りました。 「音楽・九条の会」は、昨年四月と今年三月の二回、大阪で開かれた九条を守るコンサートをきっかけに日下部さんが結成を提唱。連名で七月末、「戦争は社会全体を窒息させ自由に音楽をつくり楽しむこともできなくしてしまいます。平和でこそ美しい音楽が花開きます」と賛同を全国に広く募りました。同日現在、作曲家の小林亜星さんや詩人の、まど・みちおさんら千六十二人が賛同を寄せています。 来年一月二十六日に大阪市のいずみホールで発足記念コンサートを開くほか、東京でのコンサートや草の根のコンサートを全国で行い、賛同者を広げたいとしています。 音楽・九条の会の記者会見で呼びかけ人がそろって着ていたTシャツにプリントされたロゴマーク。九条の「9」と平和(PEACE)の「P」を組み合わせ、音楽のト音記号に似せてデザインしたものです。 「建設に携わる私たちは戦争協力を拒否します」。建設産業の分野で仕事や研究活動をする人たちが結成した「建設人・九条の会」が二十七日、東京都内で発足記念集会を開きました。七百三十人が参加しました。 集会後に開いた発足総会では、「建設に携わる私たちは平和であってこそ役割を果たせる」「建設人の知恵と力を発揮して憲法九条を守るたたかいに奮闘しよう」と掲げた設立宣言を満場の拍手で採択。全国に六百万人といわれる建設関係者に、会への賛同を呼びかけることを提案しました。 「九条の会」事務局長の小森陽一さん(東京大学教授)は、九条が戦争に加担する公共事業を防いできたと指摘。「すべての建築関係者が命をかけて九条に恩返しすべきときではないかと、みなさんふれ回ってくださいと呼びかけました。 記念講演した弁護士の田中隆さんは、真っ先に戦争へ動員されるのが建設・医療・輸送分野の人たちだとのべ、「建設人にとって九条改憲の問題は遠いかなたのことではない」と強調。「いまこそ憲法を託された民衆の出番」と訴えると、会場は拍手に包まれました。 集会では、建設関係者の三人が壇上で戦争体験を報告。歌手のきたがわてつさんは、憲法にまつわる歌を披露しました。 同会は、中小企業の経営者や大学教授、労組役員ら二十六人が呼びかけ人となっています。 ■主な分野別「九条の会」 二十七日に発足した「音楽・九条の会」や「建設人・九条の会」のほかにも、これまで「九条の会」のアピールに賛同するさまざまな分野別の組織が結成されています。主な分野別「九条の会」(略称)は、次のとおりです。 九条の会・医療者の会/映画人九条の会/九条科学者の会/九条歌人の会/九条の会・詩人の輪/宗教者九条の和/障害者・患者九条の会/女性「九条の会」/スポーツ9条の会/俳人「九条の会」/九条美術の会/マスコミ九条の会など TITLE 「9条の会」結成続く DATE 2005/09/28 13 35 URL http //www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-09-28/2005092801_01_2.html 自衛隊もどれ雨のなか歩く ワールドピースナウ [赤旗] 「9条は世界に拡(ひろ)げるタカラモノ!」をメーンテーマに「BE―IN+WORLD PEACE NOWパレード」が十一日、東京・新宿区の明治公園で開かれました。衆院選投票日と重なり、「平和のための投票を」のスローガンを掲げたパレードに約千二百人が参加。強い雨のなか、反戦平和を訴えました。集会は、BE―IN2005実行委員会が主催、今年で四回目。 米国同時多発テロから四年、米英によるイラク戦争開始から二年以上が経過するなか、「すぐもどれ自衛隊 終わらせようイラク占領 戦争も暴力もない世界を」と、憲法九条をテーマにした歌や「9」をモチーフに絵を描き、多彩なアーティストが平和を表現しました。 ワールドピースナウ実行委員会の主催でピースパレードに出発。強い雨が再び降り出したにもかかわらず、参加者はびしょぬれになりながら「平和のための投票を」と繁華街を歩きました。 TITLE 自衛隊もどれ雨のなか歩く/ワールドピースナウ DATE 2005/09/13 09 39 URL http //www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-09-12/2005091201_02_2.html 「九条の会・有明」に9500人 [赤旗] (抜粋) 「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」―会場に響きわたる憲法第九条の唱和。東京・有明コロシアムで三十日、「九条の会・有明講演会」が開かれ、高知県から朝一番の飛行機できた男性や、神戸市から前日に上京し開会の三時間以上前にかけつけた女性など、全国から九千五百人が参加。大江健三郎さん(作家)が紹介した「求めるなら助け(変化)は来る/しかし、決して君の知らなかった仕方で」との詩の贈り物に、「勇気をもらった」との若い人の感想も。中国、韓国をはじめ米、英の放送局も取材、国際的注目を集めました。 クラシックギターの第一人者・荘村清志さんのやさしく澄みわたった音色が響くギター演奏で始まった集いでは、「九条の会」呼びかけ人のうち六氏が講演。三木睦子さん(三木武夫記念館館長)が「九条が危ないと燃えたぎるような血を燃えたたせてやってきた。静かで平和で楽しい、芸術の光に満ちた日本でありますように」との思いを語り、『もうろくの春』という詩集を出した鶴見俊輔さん(哲学者)が「“もうろく”をたてに、戦争反対を続けていきたい」とのべるなど、個性豊かな話に会場は拍手や笑い、共感の声に包まれました。 小田実さん(作家)は、中国革命の父・孫文が日本に対し軍事力による支配という“覇道”をめざすのか、道義による“王道”をめざすのかと問いかけた意味をもう一度考え直すべきだと提起。「この憲法があってこそアジアと世界に生きる日本に対する信頼がある」と強調しました。 奥平康弘さん(憲法研究者)は、自民党などの九条二項改変論に対し、「九条一項は二項があってはじめて宣言としての意味がある。二項を欠けば一項はもぬけの殻となる」と批判。「九条改正の動きを防ぐことができれば日本の歴史において画期的なことになる」とのべました。 大江さんは沖縄戦や広島・長崎の原爆被害などを「受忍せよ」と迫る国の姿勢を告発し、「『受忍しない』という覚悟を固める必要がある」と力説。現状を悲観する意見に対し、米国の詩人シュナイダー氏が「五年は嘆く通りかもしれないが十年たてばどうだろう」と語りかけたことを紹介しました。 井上ひさしさん(劇作家)は、昭和二十年(一九四五年)の平均寿命が男子で二十四歳に満たなかったことなど数々の事実を紹介しつつ、「あの戦争が正しい、あの時代がすばらしかったという人々が増えている」と告発しました。北海道・帯広での講演で欠席した澤地久枝さん(作家)はメッセージビデオで「息の長いことをやっていくのに、あきらめず、揺らがず、にこやかにやっていきたい」と呼びかけました。 「九条の会」事務局は講演会終了後、今後の行動について提起しました。行動提起は、次の四点です。 ―アピールに賛同し広範な人びとが参加する「会」を全国の市区町村、学区、職場、学校につくり、広げよう ―相互に情報や経験を交流しあうネットワークを広げ、全国的な交流集会の開催をめざそう ―大小無数の学習会を開き憲法九条の意義を学び、改憲キャンペーンをはね返そう ―一人ひとりが、ポスター、ワッペン、署名、意見広告、政治家やマスコミへのハガキ運動など、九条改憲に反対する意思をさまざまな形で表明し、大きな世論をつくりだそう TITLE 「九条の会・有明」に9500人/三木・鶴見・小田・奥平・大江・井上氏が講演/“変化は来る”“勇気もらった” DATE 2005/07/31 09 35 URL http //www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-07-31/2005073101_01_1.html 「九条の会・有明講演会」 紹介された来賓 「九条の会・有明講演会」で紹介された来賓は、次の方々です。(国会議員はあいうえお順) 石井郁子衆院議員、市田忠義、糸数慶子(代理)、井上哲士、紙智子、小池晃各参院議員、穀田恵二、志位和夫、土井たか子、中川治(代理)各衆院議員、仁比聡平、福島瑞穂各参院議員、山口富男衆院議員、吉川春子参院議員、岡野加穂留元明治大学学長、品川正治経済同友会終身幹事、伏見康治元学術会議会長、王朝輝氏(中国大使館) TITLE 「九条の会・有明講演会」/紹介された来賓 DATE 2005/07/31 09 36 URL http //www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-07-31/2005073102_03_1.html 九条の会オフィシャルサイト http //www.9-jo.jp/news/news_index.html 憲法9条は人類史的意義もつ パグウオッシュ会議へ科学者236人がメッセージ [赤旗] 広島で二十三日から始まるパグウオッシュ会議に、二百人をこえる日本の科学者らが、憲法九条の人類史的意義をアピールする連名メッセージを二十二日送りました。 このメッセージは、田中正、加藤利三の両京都大名誉教授、高木修二・大阪大名誉教授が呼びかけたもの。京都大の尾池和夫総長や同基礎物理学研究所の九後太一所長、立命館大国際関係学部の安斎育郎教授ら二百三十六人が賛同しています。 メッセージでは、憲法九条について「核時代のさまざまな脅威を超えて、もはや国ごとの軍備を必要としない真に平和、かつ公正な世界システムをこの地球上に実現する布石」と強調。憲法九条が存続の危機にひんしている今日、ラッセル・アインシュタイン宣言とともに人類史的な意義をもつことを同会議の名前で評価し、世界に表明するよう求めています。 二十二日に京都大学内で会見した田中、加藤の両氏は、同宣言を発した一人、故湯川秀樹氏と同じ京大物理の研究者。湯川氏が世界連邦の提唱など平和のために行動したことと、戦力不保持を定めた憲法九条には、核廃絶後の世界のビジョンになる共通点を強調。賛同の呼びかけに電子メールなどを介して、若い学者・研究者はじめ、予想をこえて賛同が広がった驚きと確信などを語りました。 TITLE 憲法9条は人類史的意義もつ/きょう開幕のパグウオッシュ会議へ/科学者236人がメッセージ DATE 2005/07/23 01 15 URL http //www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-07-23/2005072315_02_2.html 「集団的自衛権議論、馬鹿げている」米国防総省日本部長 [朝日] 2005年07月19日23時38分 米国防総省のジョン・ヒル日本担当上級部長は19日、東京都内で開かれたシンポジウムで講演し、在日米軍の再編に関連して「安全保障上の利益がグローバル化している今の世界では、集団的自衛権(の行使)が憲法上許される範囲を超えているかどうかという議論はまったく馬鹿げたものになる」と述べた。日本で、政府が集団的自衛権の行使は憲法で許される自衛権の範囲を超えるとの立場と取っていることをめぐり、さまざまな議論が繰り広げられていること自体、世界の実情からかけ離れていると批判したものだ。 在日米軍の再編をめぐっては現在、2月に合意された共通戦略目標の達成に向け、両国間で役割と任務の分担や、兵力構成や配置の再編に関する協議が進められている。今後の展望についてヒル氏は「問題は日本の安全保障に対する姿勢が、新たな任務を引き受けられるように進化しているかどうかだ」と指摘した。 具体的には、昨年12月に発表された防衛計画の大綱などは、自衛隊の役割拡大を明示したことで注目を集めたとする一方で、「驚くべきことは、戦後60年たった今でも多くの日本人がそうした道が適切かどうか疑っていることだ。集団的自衛権の行使につながるのではないかと懸念している」と述べた。 ヒル氏は、安全保障上の利益はグローバル化していると指摘したうえで「いかなる国家の防衛にとっても、集団的自衛権(の行使)が憲法上許される範囲を超えるかどうかという難解で神学論争にも似た議論は、まったく馬鹿げたものになる。なぜなら、自国を防衛できるかどうかの能力は、他国との集団的防衛と不可分に絡み合っているからだ」と語った。 TITLE asahi.com: 「集団的自衛権議論、馬鹿げている」米国防総省日本部長 - 政治 DATE 2005/07/19 19 30 URL http //www.asahi.com/politics/update/0719/006.html 9条を世界へ!「グローバル9条キャンペーン」8/15に世界同時意見広告を出そう! ■世界に誇るべき9条 日本人にとっての平和の誓いであり、かつて侵略したアジアの人々に対しての不戦の誓いでもある憲法9条は「戦争をしない」「軍隊を持たない」という理念を明記した世界に誇るべき存在です。この9条を世界に伝え、国際的なサポートを得るために、私たちは「グローバル9条キャンペーン」をはじめました。 ■9条サポート!8・15世界同時意見広告 最初のアクションとして戦後60年目の8月15日、9条を支持する世界の市民の声を全国紙の意見広告で紹介。さらに同日、約20カ国で現地NGOと協力して地元紙に9条をアピールする意見広告を出します。この世界同時意見広告ではインターネットでの9条サポート署名も呼びかけます。 <掲載予定国と予定紙> 台湾 …中國時報紙 ・イギリス…ガーディアン紙 香港…蘋果日報 ・コスタリカ…ラ・ナシオン紙 スペイン…エル・パイス紙 ・韓国…ハンギョレ新聞 イラク …アズ・ザマン紙 ・中国…人民日報 米国…ニューヨークタイムズ紙 ・フィリピン…インクワイアラー紙など約20紙 ※日本では、全国紙(全五段)に掲載予定 ■世界同時意見広告賛同のお願い 必要な掲載費は国内外を含め総額2,000万円です。9条に対する世界の支援の声を日本国内に届け、さらに9条への支持を世界に広げるチャレンジです。是非ともご賛同お願いいたします。 個人賛同金 一口¥1,000より 団体賛同金 一口¥5,000より郵便振替口座 00110-9-741009 口座名 GPPAC 東北アジア ※通信欄に「世界同時意見広告」と記入 <呼びかけ人>(順不同) ■ 灰谷 健次郎(作家) ■ 土井 香苗(弁護士) ■ 松井 ケティ(清泉女子大学教授) ■ 武者小路 公秀(反差別国際運動) ■ 前田 哲男(軍事ジャーナリスト) ■ 姜尚中(東京大学教授) ■ 小林 カツ代(料理研究家) ■ 小森 陽一(九条の会事務局長) ■ 佐高 信(評論家) GPPAC JAPAN(ジーパック・ジャパン)とは? アナン国連事務総長の呼びかけに応え始まった、NGO主導の国際紛争予防ネットワーク=GPPAC(武力紛争予防のためのグローバルパートナーシップ)を、憲法の9条理念に基づき継続的かつ発展的に広げていくことを目的とした日本のNGO紛争予防ネットワーク。 <問い合わせ先>GPPAC JAPAN(ジーパック ジャパン) 〒169-0075東京都新宿区高田馬場3-14-3-2F ピースボート内(担当:松村、吉岡)電話 03-3363-7561 FAX 03-3363-7562 E-mail gppac@peaceboat.gr.jpURL http //www.peaceboat.org/info/gppac/index.html 憲法ともに考えよう 「九条の会」1万人講演会 要項決まる 岸田今日子・湯川スミ・辻井喬さんら 参加訴え 大江健三郎さんや加藤周一さんら日本を代表する知識人・文化人九氏でつくった「九条の会」は十七日、国会内で記者会見し、七月三十日に東京・有明コロシアムで開催する「有明講演会」(午後一時半開会)のプログラムや開催要項などを発表しました。 会見した小森陽一事務局長は、「講演会へ参加してみませんか」と呼びかけている各界の著名八氏を発表しました。有馬頼底(金閣寺・銀閣寺住職)、岡野加穂留(元明治大学学長)、岸田今日子(俳優)、品川正治(経済同友会終身幹事)、白柳誠一(カトリック枢機卿)、辻井喬(作家)、伏見康治(元学術会議会長)、湯川スミ(世界連邦全国婦人協議会会長)の各氏です。 小森氏は「全面的に『九条の会』のアピールに一致しなくても、『九条の会』の話を聞いて憲法九条について考えましょう、というよびかけだ」と話しました。 また小森氏は、講演会では、「九条の会」呼びかけ人の井上ひさし、大江健三郎、奥平康弘、小田実、鶴見俊輔、三木睦子の六氏が講演することを明らかにしました。 「九条の会」はこれまでに各分野でも大きく広がっています。この講演会では「映画人九条の会」「宗教者九条の和」「女性『九条の会』」など、分野別で「九条の会」アピールに賛同する十の組織が協賛しています。 発足二年目の今年、同会はさまざまな思想信条、政治的立場の異なった人たちがさらに幅広い運動の輪をつくることを目指します。 今回の東京での一万人規模の講演会をその出発点としたいとしています。 TITLE 憲法ともに考えよう/「九条の会」1万人講演会 要項決まる/岸田今日子・湯川スミ・辻井喬さんら 参加訴え DATE 2005/06/17 14 15 URL http //www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-06-18/01_01_2.html
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1. 左翼思想の日本への紹介 (1) 中江兆民(1847-1901)とルソー『民約論』 中江兆民(本名:篤介)は土佐藩の足軽出身で政府留学生として渡仏後ルソー『民約論』を翻訳し「東洋のルソー」と呼ばれたが、勝海舟を通じて西郷隆盛の話に心酔し、やがて西郷を直接知る頭山満と知り合って生涯の親交を結ぶなど、その思想は複雑である。 (2) 幸徳秋水(1871-1911)と平民新聞(1903発刊-1907廃刊)、大逆事件(1910) 幸徳秋水(本名:伝次郎)は土佐の有力な商家の出身で、同郷の中江兆民の門弟となり、やがて師の紹介した社会主義思想に傾倒して、堺利彦らと平民社を起こし平民新聞を発行、非戦論を経て急進的な革命思想(天皇制打倒)を抱くに至り、大逆事件に連座して刑死した。 2. 無産政党の結成~社会民主党(1901)、日本社会党(1906)、労働農民党(1926)、社会民衆党(1926)、社会大衆党(1932) (1) 堺利彦(1871-1933)と赤旗事件(1908) 堺は豊後の士族の出で『萬朝報』の記者となり、のちに社会主義者になって幸徳秋水とともに平民社を起こし平民新聞を発行。1906年に日本社会党(戦後の政党とは別)を結党し、1908年には赤旗事件(大杉栄・堺らが革命歌を歌いつつ赤旗を掲げてデモ行進し検挙された事件)を起こして入獄。1922年の日本共産党結成にも参加したが、活動方針を巡って講座派と対立し離党した。 (2) 安部磯雄(1865-1949)と日本フェビアン協会(1923)・社会民衆党(1926)・社会大衆党(1931) 安部は福岡藩士の子で、ドイツ・アメリカ留学を契機にキリスト教社会主義者となり、片山潜・幸徳秋水・河上清らと共に社会民主党を結党(1901)したが2日後に禁止された。1920年前後の大正デモクラシー期には穏健社会主義(右派社会主義)路線を明確に打ち出し、日本フェビアン協会を設立(1923)、さらに反共産主義の立場で現実的な議会政治を通じて社会改良を目指す社会民衆党を結成(1926)、委員長として普通選挙法(1925年成立)に基づく初の選挙となった昭和3(1928)年の第16回衆議院議員選挙に立候補し当選。昭和7(1932)年には全国労農大衆党と合同して戦前における最大の無産政党であった社会大衆党を結成(安部磯雄委員長・麻生久書記長)するなど社会民主主義者として活躍した。 (3) 杉山元治郎と労働農民党(労農党)(1926) 杉山は大阪泉佐野の小作農民の出で天王寺農学校在学中に受洗。賀川豊彦(キリスト教社会主義者で農民運動家)の影響を受けて共に日本農民組合(日農)を設立(1922年)。更に普通選挙法成立を機に議会政治を通じて農民生活の改良を目指す労働農民党を結成した(1926年)。しかし労農党の地方支部を組織する過程で共産党系活動員の浸透を許し、共産主義を目指す下部組織と反共産主義の幹部層が対立。幹部層は脱党して社会民主主義者の安部磯雄と合同で社会民衆党を結成(1926)、麻生久ら中間派も脱党して日本労働党(1926年)を結成したため、杉山は辞任(1927年)を余儀なくされ、労農党は左派に乗っ取られた。 3. コミンテルン指導下に日本共産党結党(1922 第一次、1926 第二次) (1) 片山潜(1859-1933)とコミンテルンの接近 片山は岡山県の庄屋の出身で、アメリカ留学中にキリスト教社会主義者となり、社会民主党結成に参加。ロシア革命(1917)が起こるとマルクス主義に傾倒し、1921年にソ連に渡航。コミンテルン常任執行委員会幹部となり国外にあって日本共産党結党の指導を行った。1933年の片山の死に際してソ連は国葬の礼を持って生前の活躍を賞した。 (2) コミンテルン22年テーゼ(方針書)と日本共産党結党(第一次結党 1922) 前年にソ連に渡航した片山潜の指導の下、コミンテルン日本支部として、1922年7月15日に堺利彦・渡辺政之輔・市川正一・徳田球一・山川均らによって結成。党の方針書(テーゼ)としてコミンテルンの理論家ブハーリンが起草した「日本共産党綱領草案」(22年テーゼ)が示されたが、その内容(①君主制の廃止、②軍隊の廃止、③労働者の武装権、④朝鮮・中国からの撤退、⑤土地公有化など)のうち、①君主制の廃止、は日本では弾圧を招くとの反対があり、同テーゼは採択されるに至らなかった。翌23年6月には早くも多数の幹部が検挙され、24年山川均の提議により解散し地下活動に入った。 (3) 日本共産党第二次結党(1926)とコミンテルン27年テーゼ(1927) 地下活動中の日本共産党の方針を巡って山川均(山川イズム:大衆運動を重視)と福本和夫(福本イズム:党の建設(再建)を重視)が対立し、福本が一時主導権を握って26年に共産党再建大会を開いたが、コミンテルン日本問題特別委員会が翌年に27年テーゼを発して福本・山川両氏を批判し渡辺政之輔の下で新体制を作らせた。同テーゼは、アジアにおける労働者・農民の階級闘争を呼びかけるとともに、日本の来るべき革命は「ブルジョワ民主主義革命」であるとした。 (4) 労農党浸透工作と3.15事件(1928)、4.16事件(1929) 議会政治を通じて農村改良を目指す合法政党として労農党が結成(1926年)されると共産党員は各地の労農党地方支部に浸透し、昭和3(1928)年2月の第16回衆議院議員選挙に徳田球一・山本懸蔵など何人かの党員を労農党候補として立候補させることに成功。選挙戦の中で公然と「日本共産党」を名乗る印刷物を発行したため、田中義一内閣は選挙直後の3月に治安維持法に基づき共産党員および労農党員の一斉検挙に踏み切り(3.15事件)、労農党は一時結社禁止となった(その後再建し全国労農大衆党に改名後、社会大衆党に合同)。なお、3.15事件の検挙者に東大・京大以下32校148名もの学生が含まれた事実は政府当局を震撼させ、①治安維持法強化と共に、②学生の思想を調査する機関として文部省内に「学生課」設置を招いた。(のち「思想局」に昇格)翌29年4月には更に大規模な共産党員の検挙が行われた(4.16事件)。 4. コミンテルン32年テーゼと日本資本主義論争 (1) コミンテルン32年テーゼ(1932)~絶対主義天皇制論・二段階革命論の提示 昭和7(1932)年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパビューローにより『日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ(方針書)』が決定され、河上肇の翻訳で同年7月に『赤旗』に掲載され、戦前の日本共産党の綱領的文書となった。同テーゼは日本の支配体制を、①絶対主義的天皇制、②地主的土地所有、③独占資本主義の3ブロックの結合と規定し、地主階級と独占資本の代弁者かつ絶対主義的性格をもつ政体として天皇制をみた。(ソ連の「ツァーリズム」に擬して「天皇制」という言葉を造語)そこから、当面する革命は絶対主義的天皇制を打倒するための「ブルジョア民主主義革命」(反ファシズム解放闘争)であり、「プロレタリア革命」はその次の段階であると位置づけた(いわゆる二段階革命論)。この32年テーゼは、講座派の指針となり、また徳田球一(戦後に共産党を再建した)や羽仁五郎(マルクス主義歴史学者。戦後に参議院議員となり国会図書館法前文を起草・GHQ焚書実行。元日教組代表)の指針となって戦後日本にまで大きな影響を及ぼした。一例を挙げれば、羽仁五郎が委員長を勤めた歴史学研究会(歴研、歴史研究の学術団体)は戦後ずっと32年テーゼに示された絶対主義天皇制論を金科玉条とする戦後歴史学を展開し続け、それが否認されたのは漸く平成15(2003)年になってからである。⇒高森アイズまた戦後に政治学者としてマスコミに持て囃され、現在も信奉者の多い丸山眞男の根本的主張は「国民主権とは天皇制を打倒すること」であり、最近もそれに影響を受けた異様なNHKの世論誘導番組が放送されている。 (2) 講座派(日本共産党の思想基盤)~岩波書店『日本資本主義発達史講座』発刊(1932) 講座派とは、日本資本主義の性格規定と来るべき日本の革命形態を巡ってマルクス主義思想家を二分した論争(日本資本主義論争)において、日本資本主義の本質は軍事的半封建的段階にあるとして、来るべき革命は「ブルジョワ民主主義革命」(第一革命)であると主張した論者達であり、戦前~戦後を通じて日本共産党の思想的基盤を為した。主な論者として山田盛太郎、平野義太郎、羽仁五郎、服部之総、山田勝次郎、大塚金之助らがいる。 (3) 労農派(社会主義協会(のちの日本社会党左派)の思想基盤)~雑誌『労農』発刊(1927) 労農派とは、日本資本主義論争において、明治維新は不完全ながらブルジョワ革命であり、日本における封建制は消滅しており、現下で国家権力を握っているのはブルジョワジーであるとして、来るべき革命を「社会主義革命」(第二革命)であると主張した論者達であり、のちの社会主義協会(日本社会党の最左派にして主流勢力)の思想的基盤を為した。主な論者として山川均、猪俣津南男、荒畑寒村、櫛田民蔵、土屋喬雄、大内兵衛、向坂逸郎(マルクス主義経済学者。戦後に向坂派社会主義協会を擁して日本社会党の最大のイデオローグとなる)、宇野弘蔵らがいる。 5. 左翼思想の弾圧~国家社会主義への転向 (1) 赤松克麿と日本国家社会党(1932) 赤松は山口県の浄土真宗大谷派の住職の子でロシア革命の影響を受け日本共産党第一次結党に参加し中央委員に就任するが検挙され獄中で転向。労農党・社会民衆党(書記長)を経て、1931年に日本国家社会党を結成。天皇を中心とした一君万民の平等社会建設を唱えた。 (2) 佐野学・鍋山貞親の転向声明(1933)と大量転向 佐野は大分の西欧医学者の子で、赤松と同じく日本共産党第一次結党に参加し中央委員に就任。第二次結党にも参加し1927年に委員長に就任し党を指導。翌28年にはソ連に渡航してコミンテルン常任執行委員に選ばれたが、29年に上海で逮捕された。1933年に鍋山貞親と共に「ソ連の指導を受けて共産主義運動を行うのは誤りであり、今後は天皇を尊重した社会主義運動(一国社会主義運動)を行う」とする転向声明を出し、これを受けて獄中の多くの共産党員が転向した。 (3) 講座派の一斉検挙(1936) 政府当局は3.15事件以来、共産党検挙者に多数の学生が含まれ、学生・知識人層にマルクス主義が蔓延している事実を憂慮していたが、思想汚染の根源として、1936年7月遂に講座派の理論的指導者であった東京大学助教授山田盛太郎・平野義太郎、明治大学助教授小林良正ら32名を治安維持法違反で一斉検挙に踏み切った(コム・アカデミー事件)。 (4) 労農派の一斉検挙(1937-8) 1936年にフランス・スペインで成立した人民戦線(共産党を含む左翼勢力の連合政権)に衝撃を受けて、翌37年から38年にかけて、日本共産党以外のマルクス主義者(主に労農派)の一斉検挙が行われ、日本の言論界からマルクス主義は消滅した(人民戦線事件)。これらの事件は戦後、左派により「軍国主義者の思想弾圧」として糾弾され続けているが、当時は経済不況下でフランス・スペインのように現実に左派勢力によって国家が乗っ取られ、その背後にコミンテルンが暗躍している切迫した状況があった。言い換えれば、ソ連の思想侵略を防止するために日本は自ら思想統制を行わざるを得ない状況にあったのであり、それを戦前も戦後も思想侵略の手先であった日本の左派に糾弾される謂れはない。 6. 敗戦と左翼運動の隆盛~現在まで (1) GHQによる左翼活動家の一斉釈放・左翼運動の支援(1945) 昭和20(1945)年8月末に進駐した連合国軍総司令部(GHQ)は、10月以降、治安維持法や特別高等警察を撤廃し、共産党員その他の思想犯を釈放。更に新聞・ラジオ・出版物等に強力な検閲を行って占領軍に不都合な事実や戦前/戦中の日本を擁護する言論を封じると同時に、皇室否定/廃止論を含む左翼的・反国家的な言論を奨励した。 (2) 日本共産党の再建(1945) 終戦後、まず昭和20(1945)年10月に機関紙「赤旗」を復刊。占領軍により釈放された徳田球一、袴田里見、志賀義雄、宮本顕治らによって12月1日に再建大会を開催。「32年テーゼ」を再び党綱領として採択。翌46年1月には支那より野坂参三が帰国。4月の衆議院選挙で日本共産党は初の5議席を獲得した。これにより日本共産党は占領軍を「解放軍」と規定した。 (3) 日本社会党の結成(1945) 戦前の無産政党のうち、労働農民党(左派・マルクス主義労農派)・日本労農党(中間派)・社会大衆党(右派・社会民主主義)など非共産党系の3派が合同して昭和20(1945)年11月に発足。右派の片山哲が初代書記長(のち委員長)に就任。翌年4月の衆議院選挙で93議席を得て、日本自由党(鳩山一郎総裁)・日本進歩党(町田忠治総裁)に次ぐ第三党となり、更に新憲法下での初の衆議院選挙(1947年4月)で第一党を占めて、民主党(芦田均総裁)・国民共同党(三木武夫委員長)と共に片山連立内閣を組織した。しかし党内左派が公然と内閣の施政方針を批判するなど内紛が絶えず片山内閣は10ヶ月弱で瓦解した。日本社会党は、このあと民主党の芦田均を担いで芦田連立内閣に参画したが昭電疑獄が発覚し7ヶ月で内閣総辞職、第二次吉田茂内閣(民主自由党)が発足して、以降1993年に至るまで社会党が政権に参画することはなかった。 (4) 2.1スト中止(1947) 再建された共産党では革命実行(天皇制打倒)が公然と語られ、意に従わない学者や出版社に対して革命後にはギロチンに処する等と脅迫する党員も現れた。当時GHQは意図的に日本の左翼運動・労働運動の拡大を望んでおり、戦後の経済的困窮の中で、日本共産党は新設された労組に絶大な影響力を及ぼし始めた。日本共産党は、1947年に入ると官公庁労組を中心とするゼネ・ストにより吉田茂首相(日本自由党)を打倒・日本を共産化する方針を公言するに至り、2月1日を期して無期限ゼネ・ストに入ることを宣言したが、限度を超えた共産党・労組の暴発を恐れたGHQは方針転換して1月31日になってマッカーサーの名で中止命令を出したため、ストは中止された。 (5) GHQの方針転換(レッドパージ)(1950)と日本共産党所感派の武力闘争路線 1949年10月に中華人民共和国が成立すると米国の対日方針が大転換し、日本の保守勢力を再建し共産主義勢力を弱体化させる動きが出てきた。1950年に朝鮮戦争が勃発すると徳田球一など共産党幹部や言論界/官公庁/一般企業の共産主義者が一斉に公職追放され、徳田・野坂参三らは中国へ亡命した。徳田らはスターリン・毛沢東の指示を受けて米軍を解放軍とする規定を廃止し、武装闘争路線を取って各地で巡査襲撃事件を起こし、日本が主権回復(GHQの占領統治終了)した3日後の1952年5月1日には血のメーデー事件を起こしたので、国民の共産党への支持は地に落ちて、衆参両院で議席ゼロでとなる時期がしばらく続いた。徳田球一ら武装闘争路線をとった日本共産党の主流派を「所感派」といい、宮本顕治ら反対派を「国際派」という。なお1952年7月には武装闘争を取り締まるために破壊活動防止法(破防法)が制定され日本共産党は同法の「調査対象団体」に指定された。1953年に徳田が北京で客死すると所感派は指導力を失い、1955年3月に宮本顕治が実権を握って日本共産党は合法活動路線に戻った。 (6) 安保闘争と新左翼 自社55年体制がスタートした昭和30(1955)年頃から、武力闘争を否定した社会党・共産党に代わって「暴力革命」を闘争方針に掲げる新左翼運動が起こり、1960年や70年の反安保闘争を主導した。新左翼活動家のマスコミ・政党・官公庁・学界への浸透は非常に深いとされ、また日本赤軍その他の多くの分派が発生、各派の活動は現在も続いている。
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1. 左翼思想の日本への紹介 (1) 中江兆民 (1847-1901)とルソー『民約論』 中江兆民(本名:篤介)は土佐藩の足軽出身で政府留学生として渡仏後ルソー『民約論』を翻訳し「東洋のルソー」と呼ばれたが、勝海舟を通じて西郷隆盛の話に心酔し、やがて西郷を直接知る頭山満と知り合って生涯の親交を結ぶなど、その思想は複雑である。 (2) 幸徳秋水 (1871-1911)と平民新聞(1903発刊-1907廃刊)、大逆事件(1910) 幸徳秋水(本名:伝次郎)は土佐の有力な商家の出身で、同郷の中江兆民の門弟となり、やがて師の紹介した社会主義思想に傾倒して、堺利彦らと平民社を起こし平民新聞を発行、非戦論を経て急進的な革命思想(天皇制打倒)を抱くに至り、大逆事件に連座して刑死した。 2. 無産政党の結成~社会民主党(1901)、日本社会党(1906)、労働農民党(1926)、社会民衆党(1926)、社会大衆党(1932) (1) 堺利彦 (1871-1933)と赤旗事件(1908) 堺は豊後の士族の出で『萬朝報』の記者となり、のちに社会主義者になって幸徳秋水とともに平民社を起こし平民新聞を発行。1906年に日本社会党(戦後の政党とは別)を結党し、1908年には赤旗事件(大杉栄・堺らが革命歌を歌いつつ赤旗を掲げてデモ行進し検挙された事件)を起こして入獄。1922年の日本共産党結成にも参加したが、活動方針を巡って講座派と対立し離党した。 (2) 安部磯雄 (1865-1949)と日本フェビアン協会(1923)・社会民衆党(1926)・社会大衆党(1931) 安部は福岡藩士の子で、ドイツ・アメリカ留学を契機にキリスト教社会主義者となり、片山潜・幸徳秋水・河上清らと共に社会民主党を結党(1901)したが2日後に禁止された。1920年前後の大正デモクラシー期には穏健社会主義(右派社会主義)路線を明確に打ち出し、日本フェビアン協会を設立(1923)、さらに反共産主義の立場で現実的な議会政治を通じて社会改良を目指す社会民衆党を結成(1926)、委員長として普通選挙法(1925年成立)に基づく初の選挙となった昭和3(1928)年の第16回衆議院議員選挙に立候補し当選。昭和7(1932)年には全国労農大衆党と合同して戦前における最大の無産政党であった社会大衆党を結成(安部磯雄委員長・麻生久書記長)するなど社会民主主義者として活躍した。 (3) 杉山元治郎 と労働農民党(労農党)(1926) 杉山は大阪泉佐野の小作農民の出で天王寺農学校在学中に受洗。賀川豊彦(キリスト教社会主義者で農民運動家) の影響を受けて共に日本農民組合(日農)を設立(1922年)。更に普通選挙法成立を機に議会政治を通じて農民生活の改良を目指す労働農民党を結成した(1926年)。しかし労農党の地方支部を組織する過程で共産党系活動員の浸透を許し、共産主義を目指す下部組織と反共産主義の幹部層が対立。幹部層は脱党して社会民主主義者の安部磯雄と合同で社会民衆党を結成(1926)、麻生久ら中間派も脱党して日本労働党(1926年)を結成したため、杉山は辞任(1927年)を余儀なくされ、労農党は左派に乗っ取られた。 3. コミンテルン指導下に日本共産党結党(1922 第一次、1926 第二次) (1) 片山潜 (1859-1933)とコミンテルンの接近 片山は岡山県の庄屋の出身で、アメリカ留学中にキリスト教社会主義者となり、社会民主党結成に参加。ロシア革命(1917)が起こるとマルクス主義に傾倒し、1921年にソ連に渡航。コミンテルン常任執行委員会幹部となり国外にあって日本共産党結党の指導を行った。1933年の片山の死に際してソ連は国葬の礼を持って生前の活躍を賞した。 (2) コミンテルン22年テーゼ (方針書)と日本共産党 結党(第一次結党 1922) 前年にソ連に渡航した片山潜の指導の下、コミンテルン日本支部として、1922年7月15日に堺利彦・渡辺政之輔・市川正一・徳田球一・山川均らによって結成。党の方針書(テーゼ)としてコミンテルンの理論家ブハーリンが起草した「日本共産党綱領草案」(22年テーゼ)が示されたが、その内容(①君主制の廃止、②軍隊の廃止、③労働者の武装権、④朝鮮・中国からの撤退、⑤土地公有化など)のうち、①君主制の廃止、は日本では弾圧を招くとの反対があり、同テーゼは採択されるに至らなかった。翌23年6月には早くも多数の幹部が検挙され、24年山川均の提議により解散し地下活動に入った。 (3) 日本共産党第二次結党(1926)とコミンテルン27年テーゼ (1927) 地下活動中の日本共産党の方針を巡って山川均 (山川イズム:大衆運動を重視)と福本和夫 (福本イズム:党の建設(再建)を重視)が対立し、福本が一時主導権を握って26年に共産党再建大会を開いたが、コミンテルン日本問題特別委員会が翌年に27年テーゼを発して福本・山川両氏を批判し渡辺政之輔の下で新体制を作らせた。同テーゼは、アジアにおける労働者・農民の階級闘争を呼びかけるとともに、日本の来るべき革命は「ブルジョワ民主主義革命」であるとした。 (4) 労農党浸透工作と3.15事件 (1928)、4.16事件 (1929) 議会政治を通じて農村改良を目指す合法政党として労農党が結成(1926年)されると共産党員は各地の労農党地方支部に浸透し、昭和3(1928)年2月の第16回衆議院議員選挙に徳田球一・山本懸蔵など何人かの党員を労農党候補として立候補させることに成功。選挙戦の中で公然と「日本共産党」を名乗る印刷物を発行したため、田中義一内閣は選挙直後の3月に治安維持法に基づき共産党員および労農党員の一斉検挙に踏み切り(3.15事件)、労農党は一時結社禁止となった(その後再建し全国労農大衆党に改名後、社会大衆党に合同)。なお、3.15事件の検挙者に東大・京大以下32校148名もの学生が含まれた事実は政府当局を震撼させ、①治安維持法強化と共に、②学生の思想を調査する機関として文部省内に「学生課」設置を招いた。(のち「思想局」に昇格)翌29年4月には更に大規模な共産党員の検挙が行われた(4.16事件)。 4. コミンテルン32年テーゼと日本資本主義論争 (1) コミンテルン32年テーゼ (1932)~絶対主義天皇制論・二段階革命論の提示 昭和7(1932)年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパビューローにより『日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ(方針書)』が決定され、河上肇の翻訳で同年7月に『赤旗』に掲載され、戦前の日本共産党の綱領的文書となった。同テーゼは日本の支配体制を、①絶対主義的天皇制、②地主的土地所有、③独占資本主義の3ブロックの結合と規定し、地主階級と独占資本の代弁者かつ絶対主義的性格をもつ政体として天皇制 をみた。(ソ連の「ツァーリズム」に擬して「天皇制」という言葉を造語)そこから、当面する革命は絶対主義的天皇制を打倒するための「ブルジョア民主主義革命」(反ファシズム解放闘争)であり、「プロレタリア革命」はその次の段階であると位置づけた(いわゆる二段階革命論)。この32年テーゼは、講座派の指針となり、また徳田球一(戦後に共産党を再建した)や羽仁五郎 (マルクス主義歴史学者。戦後に参議院議員となり国会図書館法前文を起草・GHQ焚書実行。元日教組代表)の指針となって戦後日本にまで大きな影響を及ぼした。一例を挙げれば、羽仁五郎が委員長を勤めた歴史学研究会 (歴研、歴史研究の学術団体)は戦後ずっと32年テーゼに示された絶対主義天皇制論を金科玉条とする戦後歴史学を展開し続け、それが否認されたのは漸く平成15(2003)年になってからである。⇒高森アイズ また戦後に政治学者としてマスコミに持て囃され、現在も信奉者の多い丸山眞男 の根本的主張は「国民主権とは天皇制を打倒すること」であり、最近もそれに影響を受けた異様なNHKの世論誘導番組が放送されている。 (2) 講座派 (日本共産党の思想基盤)~岩波書店『日本資本主義発達史講座』発刊(1932) 講座派とは、日本資本主義の性格規定と来るべき日本の革命形態を巡ってマルクス主義思想家を二分した論争(日本資本主義論争)において、日本資本主義の本質は軍事的半封建的段階にあるとして、来るべき革命は「ブルジョワ民主主義革命」(第一革命)であると主張した論者達であり、戦前~戦後を通じて日本共産党の思想的基盤を為した。主な論者として山田盛太郎、平野義太郎、羽仁五郎、服部之総、山田勝次郎、大塚金之助らがいる。 (3) 労農派 (社会主義協会(のちの日本社会党左派)の思想基盤)~雑誌『労農』発刊(1927) 労農派とは、日本資本主義論争において、明治維新は不完全ながらブルジョワ革命であり、日本における封建制は消滅しており、現下で国家権力を握っているのはブルジョワジーであるとして、来るべき革命を「社会主義革命」(第二革命)であると主張した論者達であり、のちの社会主義協会(日本社会党の最左派にして主流勢力)の思想的基盤を為した。主な論者として山川均、猪俣津南男、荒畑寒村、櫛田民蔵、土屋喬雄、大内兵衛、向坂逸郎(マルクス主義経済学者。戦後に向坂派社会主義協会を擁して日本社会党の最大のイデオローグとなる)、宇野弘蔵らがいる。 5. 左翼思想の弾圧~国家社会主義への転向 (1) 赤松克麿 と日本国家社会党(1932) 赤松は山口県の浄土真宗大谷派の住職の子でロシア革命の影響を受け日本共産党第一次結党に参加し中央委員に就任するが検挙され獄中で転向。労農党・社会民衆党(書記長)を経て、1931年に日本国家社会党を結成。天皇を中心とした一君万民の平等社会建設を唱えた。 (2) 佐野学 ・鍋山貞親の転向声明(1933)と大量転向 佐野は大分の西欧医学者の子で、赤松と同じく日本共産党第一次結党に参加し中央委員に就任。第二次結党にも参加し1927年に委員長に就任し党を指導。翌28年にはソ連に渡航してコミンテルン常任執行委員に選ばれたが、29年に上海で逮捕された。1933年に鍋山貞親と共に「ソ連の指導を受けて共産主義運動を行うのは誤りであり、今後は天皇を尊重した社会主義運動(一国社会主義運動)を行う」とする転向声明を出し、これを受けて獄中の多くの共産党員が転向した。 (3) 講座派の一斉検挙(1936) 政府当局は3.15事件以来、共産党検挙者に多数の学生が含まれ、学生・知識人層にマルクス主義が蔓延している事実を憂慮していたが、思想汚染の根源として、1936年7月遂に講座派の理論的指導者であった東京大学助教授山田盛太郎・平野義太郎、明治大学助教授小林良正ら32名を治安維持法違反で一斉検挙に踏み切った(コム・アカデミー事件)。 (4) 労農派の一斉検挙(1937-8) 1936年にフランス・スペインで成立した人民戦線(共産党を含む左翼勢力の連合政権) に衝撃を受けて、翌37年から38年にかけて、日本共産党以外のマルクス主義者(主に労農派)の一斉検挙が行われ、日本の言論界からマルクス主義は消滅した(人民戦線事件 )。これらの事件は戦後、左派により「軍国主義者の思想弾圧」として糾弾され続けているが、当時は経済不況下でフランス・スペインのように現実に左派勢力によって国家が乗っ取られ、その背後にコミンテルンが暗躍している切迫した状況があった。言い換えれば、ソ連の思想侵略を防止するために日本は自ら思想統制を行わざるを得ない状況にあったのであり、それを戦前も戦後も思想侵略の手先であった日本の左派に糾弾される謂れはない。 6. 敗戦と左翼運動の隆盛~現在まで (1) GHQによる左翼活動家の一斉釈放・左翼運動の支援(1945) 昭和20(1945)年8月末に進駐した連合国軍総司令部(GHQ)は、10月以降、治安維持法や特別高等警察を撤廃し、共産党員その他の思想犯を釈放。更に新聞・ラジオ・出版物等に強力な検閲を行って占領軍に不都合な事実や戦前/戦中の日本を擁護する言論を封じると同時に、皇室否定/廃止論を含む左翼的・反国家的な言論を奨励した。 (2) 日本共産党の再建(1945) 終戦後、まず昭和20(1945)年10月に機関紙「赤旗」を復刊。占領軍により釈放された徳田球一、袴田里見、志賀義雄、宮本顕治らによって12月1日に再建大会を開催。「32年テーゼ」を再び党綱領として採択。翌46年1月には支那より野坂参三が帰国。4月の衆議院選挙で日本共産党は初の5議席を獲得した。これにより日本共産党は占領軍を「解放軍」と規定した。 (3) 日本社会党の結成(1945) 戦前の無産政党のうち、労働農民党(左派・マルクス主義労農派)・日本労農党(中間派)・社会大衆党(右派・社会民主主義)など非共産党系の3派が合同して昭和20(1945)年11月に発足。右派の片山哲 が初代書記長(のち委員長)に就任。翌年4月の衆議院選挙で93議席を得て、日本自由党(鳩山一郎総裁)・日本進歩党(町田忠治総裁)に次ぐ第三党となり、更に新憲法下での初の衆議院選挙(1947年4月)で第一党を占めて、民主党(芦田均総裁)・国民共同党(三木武夫委員長)と共に片山連立内閣を組織した。しかし党内左派が公然と内閣の施政方針を批判するなど内紛が絶えず片山内閣は10ヶ月弱で瓦解した。日本社会党は、このあと民主党の芦田均を担いで芦田連立内閣に参画したが昭電疑獄が発覚し7ヶ月で内閣総辞職、第二次吉田茂内閣(民主自由党)が発足して、以降1993年に至るまで社会党が政権に参画することはなかった。 (4) 2.1スト中止(1947) 再建された共産党では革命実行(天皇制打倒)が公然と語られ、意に従わない学者や出版社に対して革命後にはギロチンに処する等と脅迫する党員も現れた。当時GHQは意図的に日本の左翼運動・労働運動の拡大を望んでおり、戦後の経済的困窮の中で、日本共産党は新設された労組に絶大な影響力を及ぼし始めた。日本共産党は、1947年に入ると官公庁労組を中心とするゼネ・ストにより吉田茂首相(日本自由党)を打倒・日本を共産化する方針を公言するに至り、2月1日を期して無期限ゼネ・ストに入ることを宣言したが、限度を超えた共産党・労組の暴発を恐れたGHQは方針転換して1月31日になってマッカーサーの名で中止命令を出したため、ストは中止された。 (5) GHQの方針転換(レッドパージ)(1950)と日本共産党所感派 の武力闘争路線 1949年10月に中華人民共和国が成立すると米国の対日方針が大転換し、日本の保守勢力を再建し共産主義勢力を弱体化させる動きが出てきた。1950年に朝鮮戦争が勃発すると徳田球一など共産党幹部や言論界/官公庁/一般企業の共産主義者が一斉に公職追放され、徳田・野坂参三らは中国へ亡命した。徳田らはスターリン・毛沢東の指示を受けて米軍を解放軍とする規定を廃止し、武装闘争路線を取って各地で巡査襲撃事件を起こし、日本が主権回復(GHQの占領統治終了)した3日後の1952年5月1日には血のメーデー事件 を起こしたので、国民の共産党への支持は地に落ちて、衆参両院で議席ゼロでとなる時期がしばらく続いた。徳田球一ら武装闘争路線をとった日本共産党の主流派を「所感派」といい、宮本顕治ら反対派を「国際派 」という。なお1952年7月には武装闘争を取り締まるために破壊活動防止法(破防法) が制定され日本共産党は同法の「調査対象団体」に指定された。1953年に徳田が北京で客死すると所感派は指導力を失い、1955年3月に宮本顕治 が実権を握って日本共産党は合法活動路線に戻った。 (6) 安保闘争 と新左翼 自社55年体制がスタートした昭和30(1955)年頃から、武力闘争を否定した社会党・共産党に代わって「暴力革命」を闘争方針に掲げる新左翼運動が起こり、1960年や70年の反安保闘争を主導した。新左翼活動家のマスコミ・政党・官公庁・学界への浸透は非常に深いとされ、また日本赤軍その他の多くの分派が発生、各派の活動は現在も続いている。
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プロフィール 【名前】三木谷振怜(みきや しんれい) 【性別】女 【年齢】17 【職業】学生、三木谷家10代目当主 【身体的特徴】赤紫色のロングヘア。巨乳。クールで端正な顔立ち 【性格】基本的に変態。 【趣味】男装 【特技】剣術、魔術 【経歴】四大元素魔術のうちのひとつ火属性魔術と、剣術を織り交ぜた三木谷計穿流(みきやけいせんりゅう)剣術の当主。 黍奈子とも知り合いである。 【好きなもの・こと】男装 【苦手なもの・こと】常識人 【特殊技能の有無】三木谷計穿流剣術と火属性魔術を使いこなす 【備考】黍奈子同様『アタラクシアの逆転』の登場人物。 他キャラとの関係性 プロフィールでの情報に限ります。本編で新たに絡んだキャラとの関係性は記録しません キャラ名 関係 本編追跡表 0XX [[]]