約 1,907,050 件
https://w.atwiki.jp/pokemonhacks/
ポケモン改造ツール Advance Map これはポケモンの地形を改造したいときに使うツールです。 ダウンロード Stirling これは改造ポケモンに向いているバイナリエディタで、バイナリ編集の時などに 使用します。 ダウンロード Pokemon_Synthesis これは、ポケモンのデータの書き換えや、ポケモンの画像差し替えなど さまざまな形で応用できるツールです。 ダウンロード
https://w.atwiki.jp/taisendsten/pages/156.html
ぁsだs
https://w.atwiki.jp/ymeconomy/pages/103.html
「官渡の戦い」で、主君の袁紹に持久戦を進言したが反対され 投獄された末、殺されたという中国・三国時代の武将は? →田豊 「長坂の戦い」で趙雲に倒され青こうの剣を奪われてしまった小説『三国志演義』に登場する曹操配下の武将といえば? →夏侯恩 優れた人を例えた言葉「白眉」の由来となった中国・三国時代の武将は? →馬良 『三国志演義』で曹操の窮地を救うために奮戦し立ったまま死亡したという伝説が残っている武将は? →典韋 『三国志演義』を題材とした本宮ひろ志の漫画でファミコンやアーケードゲームでも人気となった作品は? →天地を喰らう 『三国志演義』において董卓と呂布との間で争奪戦が繰り広げられた絶世の美女の名前は? →貂蝉 中国で208年に起きた劉備・孫権連合軍と曹操軍が激突した合戦は「○○の戦い」? →赤壁 中国の三国時代に曹操が作らせたといわれる豪華絢爛な展望施設のことを何という? →銅雀台 小説『三国志演義』で、諸葛亮の計略にかかり石に囲まれて動けなくなった陸遜を救出した諸葛亮の舅にあたる人物は? →黄承彦
https://w.atwiki.jp/tacticsogre/pages/66.html
基本的にインデックスレジスタ(X,Y)は16bit(2バイト)です。 MVN呼出 JSR $00AC (20 AC00) A 転送回数(16bit) X 展開元下位アドレス Y 展開先下位アドレス 実際には $AC 54 $AD 展開先上位アドレス(8bit) $AE 展開元上位アドレス(8bit) AF 60 をあらかじめ入れておかないと何も起きません DBを書き換えます 初期化 JSL $809DC8 (22 C89D80) 引数 A 初期化する値(16bit) X 範囲 Y 初期化開始下位アドレス DB 初期化開始上位アドレス 確率判定 JSL $80ADC0 (22 C0AD80) 引数 A 確率値(0~100)(8bit) 戻り値 C(判定が真の場合C=0) N*M/L JSL $80A86F (22 6FA880) 引数 $00 N(16bit) $04 M(16bit) $08 L(16bit) 戻り値 $04(16bit) N*M/100 JSR $EA12 (20 12EA) 引数 $00 N(16bit) $04 M(16bit) 戻り値 $00(16bit) バンク $8D 1~100制限 JSR $EA40 (20 40EA) 引数 $00(16bit) 戻り値 $00(16bit) バンク $8D 最大999制限 JSR $EA58 (20 58EA) 引数 $00(16bit) 戻り値 $00 バンク $8D 最小1最大999制限 JSR $EA6C (20 6CEA) 引数 $00(16bit) 戻り値 $00(16bit) バンク $8D 相手との距離(X座標の差+Y座標の差)取得 JSL $8D9B6F (22 6F9B8D) 戻り値 A(8bit)
https://w.atwiki.jp/wanisita/pages/50.html
Q 1991年にテレビ東京系でTVアニメ化されたこともある漫画『三国志』の作者は? A 横山光輝 Q 1994年から2005年まで「週刊モーニング」に連載された『三国志』をモチーフにした王欣太の漫画は? A 蒼天航路 Q 三国志の武将の魂を受け継ぐ美少女たちが闘う2003年にTVアニメ化もされた塩崎雄二の漫画は? A 一騎当千 Q 『三国志』の英雄たちが生まれ変わった少年達の戦いを描いた「月刊少年ガンガン」連載中の漫画は『○○○○三国志』 A ブレイド Q 『三国志』をはじめ、多数のSLGを手がけた、コーエーの創業者・襟川陽一のペンネームは「○○○○・コウ」? A シブサワ Q 『董卓討つべし』『呂伯薯』など『三国志』を題材とした楽曲で知られるテクノアーティストは「○○○○三国志」? A おもしろ Q さまざまな知恵を絞ってたくみに人をあざむく策略のことを、「数」という字を使って何という? A 権謀術数(けんぼうじゅっすう) Q 後漢末期、宦官の横暴に対抗しようとした知識人たちが逆に弾圧された事件を何という? A 党錮の禁 Q 諸葛亮が書いた「出師の表」の冒頭部分に出てくる絶体絶命の状態であることを意味する言葉は? A 危急存亡 Q 蜀の武将・馬忠を生け捕りにするなど戦場でも活躍した『三国志演義』に登場する南蛮王・孟獲の妻は? A 祝融夫人 Q その最中に丞相の陸遜が憤死してしまった、中国・三国時代に呉で起きた、約10年間にも及ぶ政治戦争を何という? A 二宮の変 Q 第1回菊池寛賞の受賞者としても知られる、小説『三国志』『宮本武蔵』で有名な作家は? A 吉川英治 Q 「相手を自分の思いどおりにあしらう」ことを、『三国志』における軍師・諸葛亮と南蛮王・孟獲のエピソードから何という? A 七縱七禽 Q 中国・三国時代の学者・董遇が弟子に本を熟読することを勧めたことから生まれた故事成語は「○○○○義自らあらわる」? A 読書百遍 Q 中国・三国時代に、魏の皇帝・曹丕が制定した管吏を登用するための制度は「○○○○法」? A 九品官人 Q 『三国志演義』においてそのヒゲと瞳の色から付けられたという孫権の異名は? A 紫髯碧眼 Q 中国・前漢王朝の第6代皇帝・景帝の子で、三国時代の武将・劉備が「彼の末裔である」と自称したことで知られるのは? A 中山靖王 Q 『三国志演義』に登場する魏の荀いくの策で、劉備を徐州の官職を与え、呂布を討たせようとしたのは「○○○○の計」? A 二虎競食 (上記分岐)ですが、劉備に南陽の袁術を討たせてそのすきに呂布に劉備のいない徐州を襲わせようとしたのは「○○○○の計」? A 駆虎呑狼 Q 中国の三国時代に劉備が諸葛亮を軍師として迎え入れるため、彼の庵に何度も出向いたことを何という? A 三顧の礼 Q 歴史小説『三国志』『水滸伝』やハードボイルド小説『檻』『弔鐘はるかなり』で知られる作家は? A 北方謙三
https://w.atwiki.jp/rupt/pages/111.html
Universal BEAT ../ ソフトウェア名 Universal BEAT 現Version ? 作者(敬称略) Bernard SERRES 配布元 Ruputer - France同サイト内(直リン) - ソフトウェア形態 ? ソース 公開/C 紹介 インターネット時間(BEAT)表示する時計。フランス製らしい。 コンセプトとしてはR-BEATと変らないが、 こちらはワールドタイムのWeekly.ini(v1系)から基準都市データを読んでくれる。 つまり、日本(JST)に限らず使うことができるということだ。 Ruputer - France は内容が充実している、 Ruputerユーザなら一度は訪れたほうが良いサイトの一つだろう。 (スクリーンショット情報) 全:RuputerPRO + 画面キャプチャ(rupcaptu) ver1.00
https://w.atwiki.jp/turbo/pages/11.html
リップル 直流電圧で波をうつ オープンコレクタ トランジスタのコレクタがどこにも接続されていないもの DES、T-DES Data Encryption Standard アメリカ合衆国の旧国家暗号規格 64ビットブロック暗号 鍵長56ビット ELFファイル (Executable and Linkable Format) 実行可能な CPU コード イメージが含まれており CPU 上で実行可能なバイナリ データ ファイルです。 ELF ファイルは基本的なデータ入力形式であるため、Data2MEM で使用されます。 このファイルはバイナリ データのため、直接編集できません。 このファイルの拡張子は .elf です。
https://w.atwiki.jp/gods/pages/1472.html
イナリ(稲荷神) 穀物を司る神の尊称で、ウカノミタマ(宇迦之御魂神)をはじめ多くの神の呼称となっている。 日本で最も信仰されている神といえ、稲荷を祀る社はどの神よりも多い。 神仏習合の際、キツネの精ダキニテン(荼吉尼天)と同一視されたことからキツネを祀るようになる。 関連: ウカノミタマ (宇迦之御魂神) トヨウケビメ (豊宇気毘売神) ウケモチ (保食神) オオゲツヒメ (大宜都比売神) ワカウカメ (若宇迦売神) ミケツ (御饌津神) ダキニテン (荼吉尼天) 別名: イナリダイミョウジン (稲荷大明神) イナリノオオカミ (稲荷大神) オキナガミ (翁神) オコンコンサマ (オコンコン様) イイナワ (飯縄) イナリギツネ (稲荷狐) 祭神とする神社: 全国の稲荷神社 松島神社(東京都中央区) 東大島神社(東京都江東区)
https://w.atwiki.jp/saint_elmo/pages/31.html
かんたんストーリー 後漢の衰退 黄巾の乱 董卓の暴政 弱肉強食 赤壁の戦い 三国分立 三国の没落 その後の歴史 ノンフィクションからフィクションへ 陳寿の歴史書『三国志』 習鑿歯の蜀漢正統論 裴松之の注記『裴松之注』 民間伝承と朱子学 施耐庵あるいは羅貫中の小説『三国志通俗演義』 かんたんストーリー 後漢の衰退 三国志の時代が始まる直前、中国は“漢”と言う国でした(それ以前にも別の“漢”と言う国があったので、区別のために“後漢”と呼ばれています)。 ぶっちゃけ、この“後漢”は長く平和が続いていたので腐りかけてました。腐った政治に絶望した農民どもは、ありがちなパターンとして宗教に救いを求めます。このとき人々が救いを求めた宗教は、張角と言う人が教祖の新興宗教“太平道”でした。 黄巾の乱 新興宗教“太平道”は、やがて教祖張角が「立てよ国民!」と全国各地に訴え、政府に対して反乱を起こします。このとき張角を支持する人々も反乱に加わり、彼らが印として黄色い頭巾を着けたことから、この反乱は“黄巾の乱”と呼ばれました。 政府は平和に溺れ権力争いに終始していたので、この反乱に慌てます。武力らしい武力がなかった政府は「助けてドラえも~ん」と地方の武将に泣きつき、地方の武将たちに「反乱軍を鎮圧したら大出世のチャーンス!」と言う自信を与えることになります。 こうして全国規模の戦乱が起こりますが、戦乱の最中、張角は病死してしまい、統率力を失った反乱軍は次第に鎮圧されていきました。 董卓の暴政 反乱は鎮圧されたものの、まだ世情が不安定な中で時の皇帝が死亡。幼い2人の後継者のどちらを次の皇帝にするか、と言う大人の事情で政府内は分裂します。当然、2人の後継者は命を狙われる立場となり、黄巾の乱で活躍し損ねた武将董卓と言うおっちゃんに保護されました。運がいいですね、董卓。 後継者2人を保護した董卓は「俺の命令は皇帝の命令だ」と言い出し、ライバルをぶっ殺しまくって好き勝手を始めます。逆らう奴もぶっ殺します。ついでに、後継者争いをなくすため、2人の後継者の片方を殺しちゃったりして。更に董卓は、当時最強の武将だった呂布を餌付けし、「黄巾の乱の時は役に立たなかった癖に」「新皇帝を殺した」と不満を持っていた武将たちをも黙らせました。 しかし董卓は最終的に、董卓の侍女(フィクションでは当世一の美女貂蝉)に惚れた呂布に殺されてしまいます。いつの世でも色恋沙汰の恨みは恐ろしいと言うことでしょう。まだ幼い皇帝献帝は逃げ出して、黄巾の乱で活躍した武将の一人曹操に保護されました。 弱肉強食 お飾りの最高権力者を保護した武将曹操。こうなると考えることは誰でも一緒です。お飾りを盾にした国家支配って奴。ただ曹操は、他の連中と違って賢かったのです。と言うのは、曹操は“皇帝の代理”ではなく、あくまで“皇帝の部下”として行動したのです。皇帝献帝も賢かったので「曹操には逆らわない方がいいぞ」と分かっていて、実質的に曹操が政府を動かしていたわけですね。 しかし曹操が皇帝を保護した頃、すでに“漢”と言う統一国家は名前だけで、各地の武将が武力で勢力を広げていると言う状況でした。そこで曹操は、都があり政府の目が行き届きやすかった中国北部を、まず武力で統一します。そこから、まるで寒冷前線のように南を目指して進軍したのでした。 赤壁の戦い この頃、曹操が目指した中国南部は大きく東西に分かれていました。南東部は董卓が好き勝手している間に孫一族が支配し、それなりに平和でした。一方の南西部は、都からも離れ小さなゴタゴタが続いている中、やはり黄巾の乱で活躍し、曹操の知り合いでもある劉備が頭角を現していました。 曹操は天下統一に向けて、まず情勢が不安定で征服しやすそうな南西部を攻めました。しかし「俺は“漢”の皇帝劉一族の血筋じゃ」とプライド高い劉備が邪魔して、思うように進軍できません。そこで曹操は南東部を攻めることにしますが、南東部を支配していた孫一族は劉備と協力して曹操軍を撃破します。これが世に言う“赤壁の戦い”です。 三国分立 その後も曹操は、自分に逆らう勢力と戦いつつ、政治家としても次々優れた政策を打ちたてながら、天下統一はできないままに亡くなります。その父の後を継いだ曹丕は「俺は部下は嫌だ、皇帝になるぞ!」と、まだ皇帝だった献帝から皇帝の座を奪って、“漢”を“魏”と言う国に替えてしまいました これに怒ったのが、“漢”の皇帝の子孫を自称する劉備さん。「“漢”の皇帝の後を継いでいいのは、皇帝の子孫である俺だけだ!」ってことで、こちらも「俺は劉備~“漢”の皇帝~♪」宣言をして、中国南西部に新しく“漢”の国を作っちゃいます。これが世に言う“蜀(蜀漢)”の国です。……えーと、国の名前は“漢”なのに、なんで“蜀”なんだって? これは後世になって「劉備は偽皇帝」と言うことになっちゃったので、この国の名前を“漢”と認めちゃいかんだろって話になり、この地方の伝統的な呼び名である“蜀”に呼び替えたわけです。 こうなると黙っていられないのが、中国南東部を支配していた孫一族の三代目孫権です。こちらも曹丕や劉備に対抗して「俺が皇帝だ、文句あっか!」と、自分の支配していた中国南東部を“呉”の国とします。 三国の没落 こうして出来上がった“魏”“呉”“蜀”のうち、一番強いのは“魏”で、一番弱いのは“蜀”でした。そのため、“魏”は何度も“蜀”へ攻め込み、“蜀”も“漢”の後継国として都のある北を目指したので、この二国は何度も戦います。 しかし“蜀”の国が出来上がった頃、国の礎を築いた超人どもはみんな爺になったり死んだりで、その中では若かった軍師諸葛亮が一人で頑張っていました。そんな諸葛亮も病気には勝てません。病気なのに五丈原と言う場所へ出陣し、死ぬ直前に部下に秘策を授け“魏”の軍師司馬懿を逃走させます。これが世に言う「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言う奴です。“孔明”は諸葛亮の通称、同じく“仲達”は司馬懿の通称です。 諸葛亮の死後も残された人々はよく頑張っていましたが、建国から40年余り、諸葛亮の死から約30年で“蜀”は“魏”に負けて滅びてしまいます。それでも30年、よく頑張りました。皇帝は初代劉備と二代目劉禅のみです。 一方の“魏”も、諸葛亮が死んで以降は緊張が緩んだようで、皇帝の曹一族と軍師の司馬一族が対立するようになり、皇帝一族は徐々に軍師一族の操り人形となっていきました。まるで先祖の曹操と皇帝献帝を見ているようですね。そして“蜀”を滅ぼしたたった2年後、曹一族はついに司馬一族に皇帝の座を明け渡すことになり、ここに“魏”も滅びます。まるで先祖の(ry 司馬一族の新しい国は“晋(西晋)”です。“魏”の国も、建国から滅亡まで40年ちょっとですが、曹操が国を支配していた時代も“魏”に含めるべきと言う意見があるみたいです。ちなみに皇帝は5人(曹操は含まず)。 この時期、放置プレイされていた“呉”は後継者争いで内紛が起こっていました。こちらは“魏”や“蜀”に比べれば平和だったので、国が腐り始めるのが早かったわけです。そんな中、国の建て直しを期待された新皇帝孫皓はとんでもないバカ殿で、逆に腐敗を順調に発酵させました。そんな“呉”を頑張って何とかしていた軍師が死ぬと、「今がチャーンス!」と“晋”に攻められてしまいます。国民はあまりのバカ殿っぷりに孫皓を見捨て、孫皓は“晋”に降伏するしかありませんでした。こうして“呉”も滅び、三国志の時代は終わりを告げます。“呉”は孫権が皇帝となってから60年弱続きましたが、孫権の前の二代も含めると、実質的にはもう少し長いと言う意見があるようです。ちなみに皇帝は4人(孫権以降)です。 その後の歴史 こうして中国は“晋”によって再び統一されますが、“魏”の時代に作られた政治システムを流用し初期から政治が安定していたことや、対立する国が全て滅亡したことなどから、早くも腐り始めました。やがてバカ殿が皇帝になったため、後継者争いが元で戦乱が起こり、建国から約50年で国が分裂してしまいます。再び中国全土が統一されるのは、250年以上後の“隋”の時代です。 ノンフィクションからフィクションへ 陳寿の歴史書『三国志』 ノンフィクションである歴史書『三国志』は、三国志の時代とほぼ同時代に、“晋(西晋)”の官僚陳寿によって個人的な記録として書かれました。このとき、陳寿は歴史書を“魏”“呉”“蜀”の3ヴァージョンで書き、これが後にまとめて「三国志」と呼ばれるようになったと言われています。 陳寿が書いた歴史書『三国志』では、“魏”が正統な皇帝の国で、“呉”“蜀”は偽皇帝の国と言うことになっています。それもそのはず、陳寿が勤めている“晋”は遡れば“魏”だったので、“魏”が偽皇帝の国だと“晋”も偽皇帝の国と言うことになるからです。 しかし陳寿さん、実は“晋”ができる前は“蜀”の官僚でした。なので、当時は偽皇帝の国と扱われていた“蜀”について、かなり贔屓した内容であるとされています。例えば“呉”の皇帝は孫権などと呼び捨てなのに対し、“蜀”の皇帝は劉備を「先主」、劉禅を「後主」と言った具合です。 習鑿歯の蜀漢正統論 陳寿が『三国志』を書いた頃の中国は“晋(西晋)”に統一されていましたが、後に“晋”が分裂して影響力が弱まると、“魏”を偽皇帝の国と批判できるようになったため、“魏”“呉”“蜀”のどこが正統な皇帝の国か、議論が盛んに行われるようになりました。 この頃習鑿歯という人が、強引ながらも様々な改革を行い実質的に“漢”を強奪した曹操を「悪」、“漢”の皇帝の子孫と言われ強引な策を取らず中国各地を流浪した劉備を「善」として“蜀”の正統性を主張しました。これが「蜀漢正統論」です。 この「行動の善悪」を基準とした「正統性」の考え方は、国が乱れ分裂していた背景もあって、大いに支持されました。多くのフィクションで「善」の劉備、「悪」の曹操として描かれているのは、この考え方が後に大きく広まることになったからなのです。 裴松之の注記『裴松之注』 陳寿が書いた『三国志』は、事実かどうか疑わしい話に関しては全て排除され、非常にシンプルなものでした。しかし個人的な記録とは言え、歴史書としては非常に良くまとまっていたため、書かれた当時から高い評価を得ていました。 陳寿の『三国志』から約150年後、当時の皇帝(と言ってもまだ分裂状態ですが)に命じられた歴史家裴松之が、このシンプルな歴史書に注釈を付けることになりました。このとき裴松之は、フィクションかノンフィクションかに関わらず、当時あった三国志に関する話を「全て」出典付きで紹介しました。これが歴史書『三国志』の注記である『裴松之注』です。 『裴松之注』は、当時の書物に存在する三国志関係の話を全て紹介したため、中には矛盾する内容のものも含まれています。しかも、裴松之自身の自説とともに、自説に反する話も紹介すると言う徹底振り。習鑿歯の「蜀漢正統論(に基づいて書かれた書物『漢晋春秋』)」も、当然ながら紹介されています。また、「こりゃどう考えてもフィクションだろう」と言うような話も紹介されているため、後のフィクション『三国志演義』の成立に大いに貢献したと言われています。 民間伝承と朱子学 これら習鑿歯の「蜀漢正統論」や裴松之の『裴松之注』を参考に、「三国志」時代の話には段々尾ひれが付き、面白おかしい講談として民間に広がっていきました。中には、明らかに「元ネタ」が分かるものまであるそうで。 また陳寿の『三国志』は、「三国志」の時代から約400年後、“唐”の時代に「国が認めた正統な歴史書」となりました。このことから陳寿の『三国志』や裴松之の『裴松之注』は、知識人にとって必須のものになったのです。 更に、「三国志」の時代から約900年後、朱子学の創始者である“宋(南宋)”の学者朱熹と言う人が「蜀漢正統論」を支持しました。この朱子学が後に“明”の国家教学となったため、「蜀漢正統論」も国の知識層・支配層に浸透することになり、引いては全国に「蜀漢正統論」が広まることとなります。 と言うのも、当時の中国には「科挙」と言う官僚試験があり、これに受かれば貧乏人でも国家官僚に出世できたからです。その競争率は約3000倍(!)とか。科挙の試験科目には当然「歴史」があり、“明”の時代には「朱子学」も試験科目になりました。つまり「三国志」を勉強すれば出世できたんですね(激違)。 施耐庵あるいは羅貫中の小説『三国志通俗演義』 「三国志」の時代から約1100年後の“明”の時代、歴史書『三国志』を基本にしつつも、荒唐無稽な講談の中から様々なエピソードを取り入れ洗練し、今日知られる『三国志演義』が成立しました。 この『三国志演義』を「編集」したのは施耐庵または羅貫中とされていますが、二人ともどういう人物かはっきりとは分かっていません。施耐庵に至っては「多くの編集者の共同ペンネームじゃないか?」と言う説まであるそうです。 ちなみに『三国志演義』に採用されなかったエピソードの中には、後世の京劇に採用されたものもあります。そのため、小説『三国志演義』と京劇『三国志』では内容が異なる部分もありますが、細かいことは気にしちゃいけません。どちらも「事実をアレンジした作り話」なのですから。
https://w.atwiki.jp/seiken_binary/pages/133.html
11F712,必要経験値 ,4,4,,10,,600,,