約 1,860,118 件
https://w.atwiki.jp/sg2angel/pages/166.html
三国志正史問題・三国志演義問題・雑学問題 問題 答え 国家末年の際、外戚と宦官が絶えず争っていたため、中央政権が長期にわたり衰弱したのはどの王朝ですか? 後漢 三国時代、次のうち「青州」にあった城池はどれですか? 北海 三国時代、次のうち「冀州」にあった城池はどれですか? [業β] 三国時代、次のうち「雍州」にあった城池はどれですか? 安定 三国時代、次のうち「徐州」にあった城池はどれですか? 下[丕β] 三国時代、次のうち「豫州」にあった城池はどれですか? 汝南 三国時代、次のうち「荊州」にあった城池はどれですか? 新野 蜀漢、曹魏、孫呉の正式な立国の順序は次のうちどれですか? 曹魏→蜀漢→孫呉 次の戦略推論のうち、実現しなかったのはどれですか? 諸葛亮の「隆中対」 張角は何を教えましたか? 道教 「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」にある「黄天」とは誰を指しますか? 太平道 後漢末期、張角を慕う信徒が数十万人に達し、八州に広がりました。この八州に含まれないのは次のうちどれですか? 涼州 三国志 の記載によると、次のうち生捕りになった黄巾賊の将領は誰ですか? ト巳 次のうち、黄巾軍を討伐したことがないのは誰ですか? 馬騰 動物の血を用いて張宝の法術を破ることを提案したのは? 朱儁 霊帝に嘘の訴えをして盧植を都へ返したのは誰? 左豊 宮中入りし皇后になったのは何進の身内の誰? 妹 「黄絹幼婦」という言葉には、どのような隠れた意味がありますか? 絶妙なほめ言葉 十常侍が何進を暗殺し、宮廷が大混乱を招いた時、少帝は北[亡β]山で道に迷いましたが、最初に彼を発見したのは誰ですか? 閔貢 董卓の弟に当たるのは誰ですか? 董旻 赤兎馬の正式名称は? ?(千里は違った) 三国の中で騎馬に長けた弓の名射手で、西漢の名将李広にもかなうと言われ、「飛将」との異名を取ったのは誰ですか? 呂布 董卓が呂布を説得しようとした時、自ら説得役を買って出た部下は誰ですか? 李粛 次のうち、天子を脅して長安へ遷都し、洛陽を焼き払ったのは誰ですか? 董卓 楚荘王の「武将報恩」の話を用いて董卓が呂布を殺すべきである事情を説明したのは誰ですか? 李儒 「千里の草、何ぞ青々たる、十日の卜、生きることを得ず」とは誰を指していますか? 董卓 董卓が京禅に戻り帝位に就くとして騙された時、ビウを守らなかったのは誰? 李儒 殺された後、腹の脂で明かりを灯したと言われるのは、次のうちどの三国人物ですか? 董卓 漢朝の司徒王允はどのようにして亡くなりましたか? 董卓の部下に殺された 董卓の死、誰が乱を続けましたか? 李[イ宀隹]と郭汜 三国一の猛将呂布が手下となったことがないのは、次のうち誰ですか? 司馬懿 呂布には何人の妻妾がいましたか? 3人(娘を産んだ厳氏・貂蝉(正史では名前は不明【董卓の侍女】)・曹豹の娘) 次のうち、呂布の軍師となったことがあるのは誰ですか? 陳宮 下[丕β]の戦いで曹操に水淹の計を提案し、呂布軍を攻撃するよう提案したのは誰ですか? 郭嘉(荀攸は×) 侯成は赤兎馬を盗み、誰に贈りましたか? 曹操 袁術は玉璽を手にした後、197年に寿春にて自らを天子と名乗り、さらに何と号しましたか? 仲家 「袁公路大起七軍、曹孟徳会合三将軍(袁公路、大いに七軍を起こし、曹孟徳は三将を会合せしむ)」の「三将」に含まれないのは、次のうち誰ですか? 司馬懿 西暦197年、曹操が袁術の元へ東征した際、袁術は軍を棄てて逃げ、四人だけが[艸革馬]陽に残り曹操への抵抗を続けましたが、この四人に含まれないのは誰ですか? 紀霊 西暦197年、曹操が袁術の元へ東征した際、袁術は軍を棄てて逃げ、四人だけが?陽に残り曹操への抵抗を続けましたが、この四人に含まれるのは誰ですか? 樂就 公孫[王賛]の手下として働いたことがないのは? 雷薄 次のうち、槃河に兵を置き、朝廷に袁紹の十項の罪状をしたため、諸州郡と共に袁紹を討とうとしたのは誰ですか? 公孫[王賛] 中国後漢末期の軍閥混乱時期において、袁紹と公孫[王賛]は冀州を奪いあい、どこで戦を起こしましたか? 界橋の戦い 「孔融、四歳にして梨を譲る」という言葉は次のどの書物に書かれていますか? 三字経 「父母於子女無恩論」父母は子供たちにに対して養育の恩を持つが、出生の恩は持たないと論じていたのは誰? 孔融 北海の戦いで、孔融から平原に向かい劉備に援軍を求めよと命じられたのは誰ですか? 太史慈 孔融は誰に攻撃され、同郷の太史慈を遣わせて援軍を呼びましたか? 黄巾の残党 次のうち、孔融の手下として働いたことがないのは誰ですか? 簡雍 次のうち、陶謙の手下として働いたことがないのは誰ですか? 太史慈 袁紹は手下を誰に見立てた軍隊を派遣し、公孫越を倒しましたか? 孫堅 袁紹はどのような方法で公孫[王賛]の無敵の白馬陣を破りましたか? 弓兵 袁紹が易京楼を破るために用いた策は? 火攻め 次のうち、袁紹の実績でないものはどれですか? 許昌の奇襲 官渡の戦いで、遠征軍の軍糧所在地であるどこを曹操に攻め入られ、袁紹の遠征軍は士気を失い敗退しましたか? 烏巣 官渡の戦いで、曹操は袁紹の兵糧がどこにあると知り、勝利のチャンスを得ましたか? 烏巣 官渡の戦いノ後、袁紹の手下の将領たちが次々と曹操に投降しましたが、この時に投降しなかったのは誰ですか? 田豊 「遁甲天書」はどの仙人が持っていた物ですか? 左慈 左慈は三国時代の仙人として伝えられてますが、その道号は何でしたか? 烏角先生 次のうち「建安の三神医」でないのは誰ですか? 于吉 漢献帝が廃帝された後、曹丕より何を与えられましたか? 山陽公 「鼠に石を投げたいが、近くに器があって投げられない」とは、三国の誰を指す言葉ですか? ?(謝雄×・曹操・李恢×・黄蓋) 次のうち、二人の関係が他と異なるのはどれですか? 曹操と曹洪(実の兄弟。他は義兄弟(孫策と周瑜・劉備と関羽・馬騰と韓遂)) 「子は治世の能臣、乱世の奸雄なり」と曹操を評した人物は誰ですか? 許劭 「治世の能臣、乱世の奸雄」とは、三国のどの人物を指した言葉ですか? 曹操 曹操は黄巾賊を討伐した功績が認められ、何に昇格されましたか? 済南相 夏侯惇の字(あざな)は何ですか? 元譲 次のうち、14歳の時に師匠から武術を学び、ある人が師匠を侮辱したために、その人物を殺して逃げたのは誰ですか? 夏侯惇 曹操に「天子を奉じて衆望に従うこと、比なき大略なり」と勧めたのは誰ですか? 荀彧 曹操はどこで天子の名を騙り諸侯に号令しましたか? 許昌 曹操が董卓を追撃し、敗戦した時、「天下に公なかるべからず」と言って必死に曹操を助けたのは誰ですか? 曹洪 「古き国の司直、我が周昌なり」と曹操から言われたのは? 毛[王介] 曹操の父曹嵩は、宦官曹騰の養子となったために曹と姓を改めましたが、本来は何という姓でしたか? 夏侯 曹操の父親である曹嵩はなぜ殺されたのですか? 財産を狙われたため 西暦193年に曹操はどのような理由で兵を興し、陶謙を討ちましたか? 父親が刺されたため 次の魏将のうち戦場で戦死したのは誰ですか? 典韋 曹操が[亠兌]州で興したのは何兵ですか? 青州兵 曹操が「将軍が忙しい時に、兵を整え、陣を張り、他人の非難をよそに軍に勝利をもたらすとは、古の名将も及ぶところではない」と評価したのは誰ですか? 于禁 劉備と呂布を仲違いさせるため、荀彧は曹操に二虎競食の計と何の計を提案しましたか? 駆虎呑狼の計 曹操と張繍の宛城の戦いで、曹操に馬を渡し、自分は矢に打たれて死んだのは、曹操のどの息子ですか? 曹昂 次のうち、力は虎のように強いが無知だったため、「虎痴」と呼ばれたのは誰ですか? 許[示者] 「孤にして大業を成しむ」と曹操が言ったのは誰のこと? 郭嘉 「月明るく星稀にして 烏鵲が南に飛び、樹を繞ること三匝、何れの枝にか依る可き」という詩は、誰の作品ですか? 曹操 曹操が「上辺だけの小心者で、陰謀を好むが決断力がない」と評したのは誰ですか? 袁紹 関羽が劉備の行方を知った時、曹操は誰を派遣し、関羽に自分の元に残る気があるかどうか尋ねましたか? 張遼 三国志 によると、官渡の戦いの時に烏巣を守った淳于瓊は。魏国のどの将領に捕らえられましたか? 樂進 官渡の戦いにおいて曹操はどのような原因で兵を退けましたか? 兵糧不足 官渡の戦いで、曹操はどの謀士の提案を受けて兵を退けず、最終的に勝利しましたか? 荀彧 鳥巣を守り、殺害されたのは? 麹義(誤植かも?) 次のうち、官渡の戦いの状況に当てはまらないのはどれですか? 曹兵が多くて食糧不足になった 「兵は神速を貴ぶ」とは兵を迅速に起用することの大切さを意味しますが、この成語は誰と関係がありますか? 郭嘉 借刀殺人の計とは、曹操が袁紹と誰の仲違いを利用し、自分の有利になるよう図った作戦ですか? 公孫康(ちなみに借刀殺人という名称は、後代の宋兵法三十六計より。) 「哀しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝」とは曹操の郭嘉に対する思いですが、郭嘉はどのように亡くなりましたか? 病死 曹操は徐庶の家族を脅して投降させましたが、その家族とは誰ですか? 母親 船上で象の重さを計る方法を提案したのは? 曹沖 曹操はある人物が送った象の重さを知りたがったが、最終的に息子の機知により回答を得ることができました。曹操に象を贈ったのは誰ですか? 孫権 曹操が[シ章]河に一楼を築き、贅沢をしたと言われる場所は次のうちどれですか? 銅雀台 「銅雀台の賦」は誰が書いたものですか? 曹植 銅雀台で弓を射る競争を観るため曹操は部下をどの2色に分けましたか? 赤と緑 ある戦いの後、曹操が「若し奉孝あらば、決して我に此の敗戦をもたらさん」と嘆いたのはどの戦いですか? 赤壁の戦い 次のうち、 三国志 に記載があるのは誰ですか? 蒋幹 赤壁の戦い前に、曹操が蒋幹を遣わせて周瑜に会いに行かせた主な目的は何ですか? 周瑜が投降するよう説得するため 赤壁の戦いの時、曹操は黄蓋の火船が近づくのを防ぐため、誰を派遣しましたか? 文聘 名将張遼が一番先に頼った人物は誰ですか? 丁原 張遼が参戦したことがあるのは? 赤壁の戦い 曹操が「天山に登り峻険を踏み越え、陳蘭・梅成を捕まえた盪寇の功績なり」とその仕事ぶりを褒め称えたのは誰ですか? 張遼 張遼が合[シ肥]の戦いの後、曹操に与えられた職位は何ですか? 征東将軍 司馬懿の字(あざな)は何ですか? 仲達 管路が曹操のために詠んだ詩「三八を縦横して、黄猪は虎に遭い、定軍の南に一股を傷つき折る」の中で、「一股を傷つき折る」とはどの将領を指していますか? 夏侯淵 渭水の河川で早々は危うく馬超に捕えられるところでしたが、次のどの将領が彼を逃しましたか? 許[示者] 荀彧は曹操の重要な謀士の一人ですが、どのような理由から曹操の理念に背き、不仲となりましたか? 魏公を封じようと理念に反対した 襄樊の戦いが始まった後、曹操はこれを非常に重視しました。 三国志 の記載によれば、曹操は前後に合計何度の援軍を出しましたか? 5回 樊城の戦いで、樊城を死守し、魏軍の援軍を従えて関羽を撃退したのはそれぞれ誰ですか? 曹仁と徐晃 曹操はなぜ献帝の董妃を殺そうと考えましたか? 曹操を排除しようと知恵したため 中国史上で初めて麻酔を使って病人の手術を手がけた外科医は誰ですか? 華佗 「鳥の将に死なんとする其の声や悲し、人の将に死なんとする其の言うことや善し」とは誰の遺言ですか? 曹操 「虚名を求めて実害を招くべからず」とは誰の言葉? 曹操 曹操は何歳で亡くなった? 54歳 三国名将の[广龍]徳が参加しなかったのは、次のどの戦ですか? 赤壁の戦い 曹植が作成した賦で、曹操は呉を制した後は、二喬と言われる美女二人を楽しむと誓う、という意味を持つ賦を何と言いますか? 銅雀台賦 曹植の「豆を煮るに豆がらを燃やし、豆は釜の中で泣く。本は根を同じくして生ぜしに、相煎ることは何ぞはなはだ急なる」とは、どのような人間関係を例えたものですか? 兄弟 曹植は十一年の内に封地を四度遷移しましたが、最後に封じられたのはどこですか? 陳王 「九品官人制」とは誰が提示したものですか? 陳羣 曹丕は劉備天子が亡くなった後、五路大軍で蜀に攻め入りましたが、この大軍に含まれなかった支軍隊は次のうちどれですか? 司馬懿 魏国曹丕の諡号は何ですか? 文帝 曹丕は「これまた古の召虎なり」と評したのは、どの名将ですか? 樂進(正しくは張遼だが×) 三国時代における「建安三曹」の三曹とは誰を指しますか? 曹操、曹植、曹丕 鍾ヨウは曹魏政権の大臣ですが、同時に当時有名な芸術家でもありました。どのような芸術家でしたか? 書法家 「車載斗量」とは、量が大変多く、とりたてて価値がないという意味ですが、この成語と関係があるのは次のうち誰ですか? 趙咨 「老牛舐犢」とは親が子を溺愛することを意味しますが、この成語は誰と関係がありますか? 楊彪 程昱が定住したのはどこですか? 東郡 司馬懿の軍隊が反乱を起こしたと聞いて、姉の辛憲英に職位を守り、軽率に動かないよう勧めたのは誰? 辛敞 曹真が蜀を討った時、どの地方を越えて進軍することを考え、惜しくも大雨に遭って撤退を余儀なくされたか? 子午谷 司馬懿と諸葛亮が対決したとき、司馬懿は誰に道を探すように命じ、街亭に守衛がいれば守衛兵の言うとおりにするよう命じたのは誰ですか? ?(張?は×) 韓徳はどの武器を持っていましたか? 開山大斧 明帝曹叡は、誰かの入朝の際に拝礼をしなくても良いと決めたため、その後三公が病気をしても拝礼をしないことの先例となりました?その誰かとは? 鍾ヨウ 西暦240年、曹芳 蘭卿が即位した後、大尉司馬懿とどの大将軍が共同で政権を補佐しましたか? 曹爽 [死せる孔明 仲達を走らす」という言葉が生まれたのはどの戦ですか? 五丈原の戦い 諸葛家が三国で名を馳せた時に、当時人々は「魏は其の犬を得たり」と言いましたが、犬とは誰を指しますか? 諸葛誕 次のうち、鄧艾の息子はは誰ですか? 鄧忠 西暦263年、諸葛瞻が綿竹で交戦し、兵力不足のため諸葛瞻と長男の諸葛尚がともに戦死した時の対戦相手は誰ですか? 鄧艾 蜀を討伐した司馬昭は、何の官職を与えられましたか? 鎮西将軍 「天高くとも上ることもできず、田はあれど見ることもできず」とは誰の言葉? 曹髦 孫堅の4人の息子のうち、一番年下なのは誰ですか? 孫匡 孫堅はどの城を包囲した時に戦死しましたか? 襄陽 孫策の字は何ですか? 伯符 孫策は神亭嶺で、どの三国名将と対決しましたか? 太史慈 対孫策において太史慈は何を奪いましたか? 兜 孫策が小覇王と称されたのは何故か? ?(一戦いで~ は違った) 西暦200年、孫策が暗殺されると、孫権による相続は多くの人々の不満をあおりましたが、三郡を見回り不満を唱えた人を討伐したのは誰ですか? 程普 次のうち、全身12ヶ所を矢で刺されながらも必死で孫権を守ったため、孫権に敬愛されていた名将は誰ですか? 周泰 次のうち、間諜として働いたことがないのは誰ですか? 魯粛 三国時代、周瑜は誰に軍糧を借り、相手はその半分を分け与えて親友となりましたか? 魯粛 次のうち、東呉の「四大都督」に当たるのは誰ですか? 陸遜(大都督は周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜) 周瑜の水軍が曹操と交戦した時、最初にどこで勝利しましたか? 三江口 三国赤壁の戦いの中で、黄蓋はどのような任務を負いましたか? 丹陽督尉 次のうち、戦時中に流れ矢に当って水に落ち、救助された時に呉軍が彼を誰だか分からず、厠の寝床に置かれたのは誰ですか? 黄蓋 周瑜の死因は? 病死 次のうち、臨淮東城の出身は誰ですか? 魯粛 諸葛亮は三分天下の計を利用しましたが、二分天下の計を提案したのは誰ですか? 魯粛 三国時代の呉国の丞相顧雍は、次のうち誰の門下生ですか? 蔡[巛邑] [門敢]沢が定住したのはどこですか? 会稽 呂蒙を鄧当に代わって推薦したのは誰? 張昭 「士、別れて三日なれば、刮目して相待つ」とは誰の言葉ですか? 呂蒙 関羽にうかつにも荊州を失わせてしまったのは東呉の何という将領ですか? 呂蒙 劉備は誰から荊州を借り受け、返還しませんでしたか? 孫権 南郡の戦いの中で夷陵を攻めた後、曹純と牛金に包囲されたのは誰ですか? 甘寧 三国合[シ肥]の戦いについて正しい説明は次のうちどれですか? 孫軍対曹軍の戦い 次のうち、呉国の将領朱桓の功績でないのはどれですか? 周泰殺害 関羽を生け捕りにした呉将は誰? 潘璋 魏公曹操が東呉を攻めたとき、呉は曹操に何を与え兵を退かせたか? 一通の手紙 夷陵の戦いで、劉備が永安に兵を退けた後、陸遜が兵を退けた原因は何ですか? 魏国が攻め入られるのを心配した(魏国に) 陸遜が連営を焼き払った後、魏の侵入を防ぐために誰を濡須の護衛に当たらせましたか? 朱桓 次のうち、もともとは蜀国に属していたものの、最終的に呉国に身を寄せたのは誰ですか? 糜芳 東呉最後の名将は誰ですか? 陸抗 劉備、関羽、張飛の三兄弟のうち、年齢が大きい順で正しいのはどれですか? 劉備、関羽、張飛 劉備と公孫[王賛]は若い頃誰に学んでいたか? 盧植 劉備のために袁紹に協力を求める手紙を書いたのは誰? 鄭玄 三国志 の記載によると、劉備が曹操を裏切り袁紹と手を組もうとした時、劉備が結盟のために派遣した使者は誰ですか? 孫乾 劉備が新野へ落ち延びた時、諸葛亮の助言に従い江夏に使者を遣わして援護を頼みましたが、このとき派遣されなかったのは誰? 簡雍(?) 孫、簡、糜、伊の四人は劉備が手厚く待遇した人物たちですが、中でも最高は誰ですか? 糜竺(孫乾・簡雍・糜竺・伊籍の4文官) 劉備はどこに退守したときに阿斗母子と離れ離れになりましたか? 当陽 長坂の戦いで劉備に趙雲が北へ逃げたと報告した者がいましたが、劉備はこの人に何を投げつけましたか? 手戟 次のうち、密謀により劉備を蜀に迎え入れた主謀の一人でないのは誰ですか? 黄権 劉備が益州を奪う気であると劉璋にいったのは? 黄権 蜀国を建国したのは誰ですか? 劉備 三国漢中の戦いについて正しい説明は次のうちどれですか? 劉備と曹操による漢中争奪の争い 蜀漢の五虎名将の子ではないのは? 張虎 次のうち、不当な略奪ではない手段で帝位に就いたのは誰ですか? 劉備(選択肢が曹丕・司馬炎・王莽・劉備で、劉備は皇帝僭称、他3名は帝位簒奪に当たる為、劉備が正答になる) 三国の中で勢力は最も弱いものの、漢の正統を堅持し、他国と対抗したのはどの国ですか? 蜀 劉備が関羽と張飛の仇を報いるため、兵を派遣して征討しようとしたのは誰ですか? 孫権 劉備が兵を興し、呉国を討って失敗し、このため白帝城に逃げ込み、病に倒れて逝去したのはどの戦いですか? 夷陵の戦い 蜀漢国の勢力が衰え出したのは、どの戦いがきっかけでしたか? 夷陵の戦い 劉備が亡くなる前に自分の子供を託したのはどこ? 永安宮(?) 「身の丈九尺、顔色は棗のごとく」とは、三国のどの人物の風貌を指したものですか? 関羽 関羽が曹操に投降した時、曹操とどのようなことを決めましたか? 曹操ではなく漢王朝に降伏する 三国名将のうち、河北軍の軍容を見た後、「我観るに、顔良は首から売り札を下げるが如し」と言ったのは誰ですか? 関羽 関羽が五関を破り六将を斬った時、関羽は何番目の関で2人の防守将領を斬りましたか? 2番目 秦琪は誰に殺されましたか? 関羽 楊齢は誰に殺された? 関羽 孔明が博望破を焼き払った時、関羽はどこに潜んでいた? 豫山 関羽が参戦したことがあるのはどの戦ですか? 夷陵の戦い(誤植?) 次のうち、曹操の大将于禁の投降を受け入れ、その名を広く知られたのは誰ですか? 関羽 丈八蛇矛を持つのは誰ですか? 張飛 張飛が酔ったふりをして捕えたのは、曹操が劉備を牽制するために遣わした何という大将ですか? 劉岱 張飛の妻は誰の姪だと言われていますか? 夏侯淵 范彊と張達はなぜ張飛に鞭で打たれたのか? 白旗白衣を整えられなかった 当初、趙雲は家へもどり喪に服すため、公孫[王賛]に辞意を示しましたが、この時亡くなったのは趙雲の何に当たる人物ですか? 兄 趙雲を一躍有名にさせた戦いはどれですか? 長坂坡の戦い 「征袍を血に染めて甲まで紅く、当陽誰が敢えて鋒先を争うや」という言葉は誰を指しますか? 趙雲 「一身是肝」とは非常に度胸があることを意味しますが、この言葉は三国のどの将領から生まれた言葉ですか? 趙雲 馬超の兄弟に当たるのは、次のうち誰ですか? 馬鉄 馬超が太守韋康を殺したのはどこ? 涼州 「常に先陣を切って陣営を落とし~(中略)」と評されたのは誰? 黄忠 黄忠が劉表の手下として長沙を守っていた時、ともに長沙を守ったことがあるのは誰? 劉磐 関羽が「大丈夫たるもの、あのような老兵と並ぶことはできぬ」と言いましたが、老兵とは誰のことですか? 黄忠 劉備に対し、体は曹操軍にあろうとも、「生涯計謀を立てない」と誓った謀士は誰ですか? 徐庶 「伏竜」との異名を取ったのは三国のどの名士ですか? 諸葛亮 「鳳雛」との異名を取ったのは三国のどの名士ですか? [广龍]統 「可比興周八百年之姜子牙、旺漢四百年之張子房(800年の周朝を興した姜子牙と400年の漢王朝を栄えさせた張子房と比べられる)」のは誰ですか? 諸葛亮 諸葛亮の字(あざな)は何ですか? 孔明 諸葛亮には何人の兄弟がいましたか? 3人(?:史実は2人だが×。族弟の諸葛誕を兄弟に数えているのか?) 諸葛亮は隠居した時に、自分をどう例えていましたか? 管仲 創作された架空の出来事ではないのは? 三顧の礼 「初出茅盧」とは、初めて世に出ること、経験に乏しく、駆け出しであることを指しますが、この成語は誰と関係がありますか? 諸葛亮 孔明は博望坡で火を用いましたが、どこで水を用いましたか? 白河 諸葛亮が東呉に舌戦群儒を挑んだとき、最後にその他の人の弁論を制したのは? 黄蓋 「集思広益」とは、人々の知恵を集め、幅広く活用する事を指しますが、この成語は誰と関係がありますか? 諸葛亮 孟獲が投降するふりをしたのは何度目に生捕りされたときですか? 3度目 「鞠躬尽瘁、死してのちやまん」とは、どの人物を指す言葉ですか? 諸葛亮 諸葛亮が神を装ったのは、どこの麦を刈るためですか? 隴上 諸葛亮と司馬懿徒の間では、歴史上実際に発生したのは次のどれですか?(司馬懿との) 平五路安居 杜甫に「万古の霄の一羽毛」と褒められたのは誰ですか? 諸葛亮 [广龍]統の字(あざな)は何ですか? 士元 「卿ら状なくして我が州を侵奪す、我が州には断頭将軍あるのみ、降将軍はなし」とは、どの武将の言葉ですか? 厳顔 三国志 の記載によると、馬超が兵を興し曹操を討とうとして失敗した際、劉備が馬超を招き寄せるために派遣した使者は誰ですか? 李恢 馬謖と趙括の類似点でないのは? 指揮下手(?) 街亭の戦いの時、馬謖とともに街亭を守った副将は誰ですか? 王平 宴会の席で剣舞を舞いながら劉璋を刺すよう命じられたのは? 魏延 魏延を重視せず、火花を散らしていたのは誰? 楊儀 魏延を恨み、桟橋に火をかけたのは誰? 楊儀 劉?を殺し、?城を献上したのは? 張翼 姜維の字(あざな)は何ですか? 伯約 姜維の胆は何のように大きいか? 鶏の卵 姜維はどこで母親を助けようとして諸葛亮の計謀にはまりましたか? 天水 次のうち、諸葛亮に兵法を学んだ名将は誰ですか? 姜維 姜維は「陽平関」とどこを失ったら漢中を守りきることはできないと考えていましたか? 陰平橋 [シ文]山の平康で蛮族の反乱を鎮圧した蜀国の人物は誰ですか? 姜維 蜀で犯罪者として[シ文]山郡に流されたのは? 廖立 鄧艾に投降した後、妻がその行為を恥じて自ら首を吊り自殺したのは、江油のどの守将ですか? 馬[之貌] 三国志 の記載によると、劉禅は誰から生まれましたか? 甘夫人 費[示韋]の死後、劉禅はどの宦官を信用し、国政が日に日に衰えて行きましたか? 黄皓 劉禅が他界した後、晋は彼にどのような諡号を与えましたか? 安楽県思公 劉禅は後に人々から「どうしようもない○○」と言われましたが、○○とは何ですか? 阿斗
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/1081.html
登録日:2010/02/07(日) 20 56 25 更新日:2024/07/16 Tue 23 53 46 所要時間:約 5 分で読めます ▽タグ一覧 三国志 三国志演義 三国演義 中国史 凡将 劉備 北伐 地味 姜維 廖化 武将 縁の下の力持ち 脇役 蜀 蜀漢 諸葛亮 長寿 関羽 高官 黄巾賊 廖化(りょうか)とは、三国時代における蜀漢の武将である。 若いころは廖淳と名乗っていたが廖化のほうが知名度が高いのでこちらで統一する。 字は元倹。 特に目立った功績をあげたわけではないが、劉備の荊州獲得から蜀漢の滅亡まで戦い抜いた。 【正史における経歴】 正史での初登場は、劉備が荊州を制圧したとき、関羽の幕僚(主簿)として。 孫権と呂蒙が、いままさに魏と戦っていた関羽を背後から討ったことで荊州方面軍が壊滅すると、後方にいた廖化も捕らえられてしまう。 しかし、劉備のもとに戻りたいという思いを持っていた彼は、「廖化は死んだ」とデマを流し、呂蒙の死の混乱と劉備の侵攻もあり、蜀軍に帰参することに成功。 夷陵の戦いにそのまま参戦するが、敗退している。 劉備が死ぬと諸葛亮の参軍となり、北伐にも参戦。 北伐軍が武都・陰平郡を平定すると、廖化は広武太守と陰平太守を兼任して、守護を任されている。 諸葛亮亡きあとはいよいよ将軍として目立つようになる。 238年9月、魏の守善羌侯である宕蕈(とうしん)の陣営を攻撃。 雍州刺史だった郭淮は王贇(おういん)・游奕(ゆうえき)に軍勢をあずけ、山の東西から廖化を挟み撃ちさせたが、 廖化はまず游奕の軍団を打ち破り、さらに王贇を討ち取る戦果を挙げる。地味だがやる時はやる男である。 248年、魏に反乱を起こした羌族の治無戴を出迎えた。 のちに成重山に留まって城を築き、羌族たちから人質を取り立てる。 郭淮が諸将の反対を押し切って軍勢を二手に分け、夏侯覇には沓中へ姜維を追わせ、自分は諸軍を率いて廖化を攻撃したときは、夏侯覇の追撃を振り切った姜維に助けられた。 翌249年秋、姜維はまたも北方へ進出したが郭淮に阻まれてしまう。 そこで廖化は、郭淮の隙を突いて三日後に軍を返して白水の南岸に布陣し、鄧艾と対峙した。 廖化が鄧艾を釘付けにし、姜維が東進して洮城を奪取する計画であったが、鄧艾たちにはすでに見抜かれており、姜維が洮城に着いたころにはすでに鄧艾が引き返して立てこもっていた。 その後も昇進し右車騎将軍・仮節・領并州刺史となり、中郷侯に封ぜられた。 果断激烈をもって讃えられ、官位は張翼と同等・宗預の上で、廖化が張翼とともに大将となったとき、人々は「前に王平・句扶あり、後に張翼・廖化あり」と語り合った。 姜維に代わり諸葛瞻(諸葛亮の息子)が政治を取り仕切るようになると挨拶に行こうと宗預を誘ったが 「七十も過ぎたわしらが、若い連中に媚を売ろうというのか! みっともない真似はやめて、せいぜい長生きを望むんじゃな!」と断られた。 262年、姜維が懲りずに北伐をしようとすると、左伝からの引用で『戦いはやめなければ必ず我が身を焼くことになる』と前置きしてから、 「姜維は知恵でも力量でも、丞相はおろか敵よりも劣る。なのに戦って勝てる訳が無かろうに」と述べ、張翼らと姜維を批判している。 とはいえ、ならばご意見番になれるほど長生きし、軍を代表するほど昇進していたあなたは、何をしていたのかという話にもなろうが。 蜀漢では姜維に対する風当たりが不当なほどに強い。 上述の諸葛瞻たちも、内政を担うべき立場にありながら国政を混乱させて国力を衰退させ、しかも姜維の北伐を国力の消耗と批判していた。 これは廖化だけに限らない問題であったが、当時の蜀軍では有数の地位にあった廖化も、少なくとも蜀軍の不振を無責任に批判できる立場にはない。 そしてこうした君臣や臣下間の不協和音や責任転嫁、職務怠慢や綱紀の緩みが、蜀漢そのものの衰退を招くことになる。 263年、魏軍が侵攻して来ると姜維、張翼らと剣閣を守備し鍾会を足止めするが、鄧艾が成都を落としたことでついに投降。 姜維・張翼が鍾会をそそのかして起こした混乱も生き延び、翌年、洛陽への護送の途中に、長い戦いの人生の幕を下ろした。 享年は不明だが、上述の宗預に罵倒された場面で七十歳以上とされているので、それ以上であることは確実。 この時代の常識からすると言うまでもなくかなりの高齢である。 異様なまでに長生きだった+最晩年まで武将をやっていたために、彼が死んだと伝わっても「どうせ偽装じゃないのか」「そもそも死ぬのかアイツ」などと簡単に信じてもらえなかったとか、 あげく「廖化は二人いて、264年に死んだ廖化は二代目だったんだよ!!」「な、なんだってー」なんて言う説も存在する。 【三国演義での活躍】 演義ではなぜか登場が大幅に前倒しされており、関羽が曹操のもとから離れて劉備を求め千里行をしていた時が初登場。 しかもこの時、廖化は黄巾賊の残党という、後々からするととんでもないことになる設定をぶら下げてくる。 この時は、仲間の一人が関羽が護衛していた劉備の妻を強姦しようとしたために彼を斬り、関羽に仕えたいと申し出た。 しかし関羽からは「賊出身の人はちょっと……」と断られてしまう。(同じく黄巾残党の周倉は召し抱えたのだが) その後しばらく行方不明扱いとなっているが、劉備の荊州獲得時になにげなく関羽の幕僚として再登場する。 関羽が呂蒙に攻められた際には孟達・劉封に援軍を求めに走るが拒否されてしまい、やむなく成都に駆けることになるが、間に合わず関羽は処刑されてしまう。 廖化にとっては上司や仲間を見殺しにされたわけで、劉封が魏に寝返った孟達を逃がしたばかりか返り討ちに遭って逃げ込んでくると、劉封を殺すように劉備に進言している。 もっとも、廖化の弾劾がなくても劉封の処刑は免れなかっただろうが…… その後、北伐期に再登場。脇役としてときおり名が挙がる。 諸葛亮が司馬懿を追い詰めたときには、逃げ続ける司馬懿を延々と追い続け、あと一歩で討ち取れる勢いだった。 しかし、司馬懿は道が分かれていたところで、自分の選んだ道と別の道に己の兜を置いて逃げた。 廖化は兜の方の道を追いかけて、取り逃がしてしまう。 それでも廖化はじめ諸将は大手柄だと笑いあい、諸葛亮も表向きは迎合するが、 あとで諸葛亮は「関羽どのなら司馬懿を捕まえられたはずなのに、廖化は取り逃がすし、逃がしたのに喜ぶようでは我々は……」と密かに落胆するというエピソードがある。 このエピソードのせいで「蜀には大将がいない、廖化が大将をやっている」などという人材不足の諺に使われてしまうハメに。 三国演義はどの版でも、基本的に諸葛亮死後はかなり記述が薄くなる。 そのため、廖化の決して少なくない出番や活躍も記載されないか目立たない名有り武将のような扱いとなる。せいぜい『姜維の副官』というぐらいか。 しかし、死んだときは正史と同じく264年の洛陽行きの途中となっており、184年の黄巾の乱に参加していたという設定からすると、八十年以上を活躍したことになる。 まともに考えると九十代後半か百歳オーバー。 仮に「黄巾残党」というのを「黄巾の乱当時の党員の、息子」という意味として、関羽に出会った200年当時15歳だったと仮定しても、没年が79歳になる。 しかし正史でも七十歳は軽く超えていたらしいので、あながちあり得なくもないというのが怖いところ。 【各作品での廖化】 ●横山三国志 出てるけど活躍しない。 司馬懿を取り逃がす話はばっちり描かれているので凡将という印象が強いだろう。 ●蒼天航路 初出は関羽の額の矢傷を縫う役として登場。 その後、反応がなくなった江陵、公安に兵站の確認に向かうがすでに呂蒙の手に落ちており、孫皎に蹴られて捕らえられる。 その時の蹴られようや孫皎の発言から、こっちの廖化は死んだような気もする。 ここで死んだのが初代で、この後活躍するのは二代目廖化、ということなのか。 ●無双シリーズ モブ、むしろモブじゃないと違和感が。 ●コーエー三国志シリーズ 昔の作品から登場しているが、能力としては悪くはないが良くもないというレベルの二流武官。 しかし黄巾の残党という演義での設定が採用されているため寿命が凄まじく長く、、 黄巾の乱(184年)からIFシナリオの西蜀動乱(264年)までの全シナリオに登場する唯一の武将となっている。 その呂岱に並ぶ長寿から、育成可能の作品では育成対象として検討されることもあるが、 そうでなくても蜀滅亡の頃になると、多くの武将が世を去って能力値の平均が引き下げられるため、 姜維、羅憲あたりに次ぐ主力武将の一人になっていたりする。 ●三国志大戦 凡将呼ばわりされる元凶。 3/4騎馬無特技の安定スペックに、便利な汎用計略の奮激戦法を持つ。 防戦の時に真価を発揮する姿はまさに凡将であり、人気であった。 が、3に移行する際に絵師が変わり調子に乗ったか、攻城時に「もう凡将と呼ばせん」、落城時に「凡将卒業よ!」とかほざき始めた為に、 使われてはいるが、嫌われ始め、某ランカー等旧カードを使う者も多い。 新生・三国志大戦では武力が2に下げられてしまい、計略もこれまた強化戦法にされてしまった。 キャラ付けとしては「指示に忠実な指揮官」と言うべきだが、凡将台詞はきっちりあったりする(主にさんぽけで聞ける)。 愛されポジも含め、旧作での立ち位置は地味なことで定評のある馬岱に奪われている。 後に防柵と攻城と初の特技を2つも貰って計略も旧作と同じ奮激戦法に戻ったが、武力までは戻らず地味>凡将という構図を覆せずにいる。 とか言ってたら第6.1弾にて3/5/1の騎馬として再登場。 特技はなしだが計略がなんと「凡将の指揮」。 効果は味方の武力を上げるが、その対象がレアリティC(コモン)だと更に上がるというもの。 Cであれば1コストなのに英傑号令レベルの効果が得られるというなかなか強い計略を持って登場した凡将の未来や如何に。 まあ、蜀にはデッキの主力となる2コスト以上のコモンがいないという絶妙な仕様の穴を突かれているのだが。 「俺のような凡将は、ただただ追記・修正するのみよ!」 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 横山三國志は後半は結構出でたけどな。 -- 名無しさん (2014-02-08 20 45 39) ネタだから何書いても許されるにだよ -- 名無しさん (2014-02-18 00 12 08) 最前線で常に戦っていてしかも戦死してないあたりとても凡将とは言えないんだがなぁ -- 名無しさん (2014-03-14 11 54 22) ネタだからどんなにボロクソに書いても許される。万一ファンがいたとしても知ったことか。 -- 名無しさん (2014-03-14 14 03 29) ↑×2 孫策、呂布、関羽など勇猛な武将ほど早死にする。後はわかるな? -- 名無しさん (2014-03-22 00 08 53) この人は有能ではないが無能でもないって人だから凡将で間違いない -- 名無しさん (2014-03-22 00 26 59) ストレスが溜まったら凡将と罵って優越感に浸る作成者 -- 名無しさん (2014-03-23 02 38 27) 無事これ名馬。 -- 名無しさん (2014-03-23 09 06 20) 君主からすればこういう武将の方がかえって使いやすいと思うが…蜀は問題児多いし 実際、族上がりにしては癖がないんだよなこの人。 -- 名無しさん (2014-12-07 15 31 02) 「蜀中に大将なく、廖化を先鋒とす」って諺についてはスルーかよ -- 名無しさん (2014-12-20 20 21 33) ただただパシリとしてこき使われた感じの武将、要するに罵る、または賞賛するだけの材料が何一つない武将、生き残ってるだけマシか -- 名無しさん (2015-03-16 11 58 49) マイナスにならないだけでも十分すぎる、物事を悪い方向にしか運べない様な奴が上司になったら最悪だ。 -- 名無しさん (2015-06-03 23 00 27) 確かに突出した功績はないけど最低限の仕事はしてるよね -- 名無しさん (2015-06-03 23 06 20) ネタにマジレスかもしれないが、238年の侵攻を「上手く命令が行き届いて居ない敵を撃破することに成功する。」って書いてるのはどうかなあ。魏の名将である郭淮が両面包囲をしようとしてきたのを、即座に判断して各個撃破して2軍とも撃破して一将を戦死させる、という完全勝利なのに。こんだけ大勝利した後期の蜀将って他は姜維くらいだぜ。 -- 名無しさん (2016-01-27 20 56 27) ゲームだとこの人みたいな1.5流の人材をいかに活用するかが上級者と中級者の分かれ目って感じになるんだろうけどね。一流人材のみの布陣をゲーム開始時から終了までの全ての戦闘で組めるって訳じゃないんだし。 -- 名無しさん (2016-05-12 15 01 29) 長寿だから育成可能の三国志11とかで重宝するんだよな、あと凡将連呼はネタにしては酷すぎないか -- 名無しさん (2016-05-13 20 54 11) 項目名変えた方がよくね? 初見で廖化の項目だと分らないだろうし -- 名無しさん (2016-05-30 21 09 45) 反対意見がなかったので項目名を変更しました -- 名無しさん (2016-06-07 20 59 02) 司馬懿が兜を囮にしたというのは孫堅と祖茂の話が元なのだろうか -- 名無しさん (2017-06-19 14 47 18) 正直無双6以降は三国志演義本編全体をストーリーにいれこむ方針になってるからいい加減プライヤー武将に昇格してほしいなぁ -- 名無しさん (2017-06-24 22 21 45) イライラすることがあったので追記修正してみたり。 -- 名無しさん (2018-05-01 22 30 02) 無双参戦してくれ〜 -- 名無しさん (2018-07-19 08 34 28) なんか廖化の姜維に対する発言が責任転嫁とか書かれてますが、これは原文的に言うのなら「智略は敵の上でなく、力(勢力とか軍勢数)は敵と比して少ない。」的な意味で、「智略が同じくらいで、勢力や軍勢数が敵の方が多いなら、攻めても勝てないだろうからやめた方がいい。」というニュアンスで、別に廖化の言ってる事は職務怠慢とか責任転嫁という話ではないのでは。 -- 名無しさん (2019-05-11 14 53 36) 例の発言の時期は262年(蜀漢滅亡の前年)。廖化の主張そのものはドンピシャリ正しかったと言える(魏は姜維の裏に回る形で攻め込んでいる)。朝廷に問題があったのは間違いないだろうが、それが廖化の責任かというと… -- 名無しさん (2019-05-11 15 30 45) 刺史クラスを蜀の国力で打ち取ってるのに凡将呼ばわりはちょっと -- 名無しさん (2019-05-11 21 47 57) 天才は何故か早死にし。凡人は無用に長生きする -- 名無しさん (2019-10-15 05 12 48) ↑無用? 謀反もせずに最期まで国に尽くした人のどこが無用?? -- 名無しさん (2020-05-28 15 07 31) 姜維の北伐が蜀を消耗させて寿命を縮めたのは事実だし、特に最後の方とかヤケクソ気味だから廖化が諫めるのも当然のことだと思うけどな -- 名無しさん (2020-05-28 15 34 21) 姜維の時代には攻めれば圧倒的国力差で押し返されるし守ってればどんどん国力差が開くしでどうしようもない時期になってたからなあ。「もうどう考えても無理無駄無茶だけど、最後まで敢闘精神を見せました」っていうほうがカッコいいし後世の評価は良くなりはする。そう考えると後世の蜀漢正統論とか孔明・姜維ageのせいで評価が下がってると言えなくもない -- 名無しさん (2020-05-28 15 43 50) 守って国力を温存していけば、蜀の地形もあって国を保っていく事は可能なのでは。 -- 名無しさん (2020-07-05 02 26 10) 国力・軍事力で大差がある場合、防御に徹して戦力を温存しつつ機会を待つのが定石……というか本来なら唯一の手段ではある。が、「そうしていれば国を保てたか」と言われると、それはもう論証不可能としか言いようがない。まあ史実とは全く違った展開になるのは確実だが。 -- 名無しさん (2020-07-05 20 44 27) 三國志14の彼はマジイケメンなんだよな…ビジュアルもさながら、山戦持ちかつ関羽と親愛だから、下手な一流武将よりも強く感じる。 -- 名無しさん (2023-03-06 12 49 55) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/genso3594/pages/23.html
クリックで拡大。更にクリックでスキャナ原寸w 『東漢末年軍閥割拠形勢』という地図です。 『東漢』は『後漢』のこと。 日本では一般的に漢時代を『前漢・後漢』としていますが、中国史料上では『西漢・東漢』と分けています。 これは、最初の前漢の都が『長安』で、後漢の都が『洛陽』でした。西の長安・東の洛陽ということで、東西に分けたという訳です。 199年11月は、曹操と袁紹がぶつかる(官渡の戦い)直前です。 ・北京 この色は現代のもの。地形も河(川・中国では水と表す)もかなり変わっていることがお分かりかと。 クリックで拡大。更にクリックd(ry 三国鼎立の状況。 国力は、魏>呉>蜀。 圧倒的に魏が凄かった。 現在の動画はここを中心にしています。 ここは要衝の地と云われ、魏・呉・蜀が獲得する為に時には連携したり裏切ったりしながら激しくぶつかったところです。 麦城…関羽が最期に立て篭もった城。ここから脱出しましたが、呉兵に見つかり処刑されました。 赤壁…曹操軍vs孫権軍の舞台となった『赤壁の戦い』の場所。 夷陵…関羽が呉に討たれちゃったもんだから、怒り心頭の劉備が大軍を出して呉に復讐戦を挑んだ場所。でも、新進気鋭(っていっても既に30は超えてるが)陸遜によって大敗。その後、意気消沈しちゃった劉備は息を引き取る。 ここはごちゃごちゃしていて説明しにくい。 それほど密集していて、人材と経済力が豊富。 いわゆる、東京都の23区。 洛陽…国の中心地になるほどの大都市。しかし、それ故に時代の末期になると何かと災いが降りかかる。 許昌…曹操が腰を落ち着かせた場所。その北に官渡があるが、命運を掛けた戦いが曹操の喉下近くで行われたのだ。ここで、曹操が敗れていたら確実にこの辺りは袁紹の支配下にあっただろう。 穎川(えいせん)…文官エリート輩出の都市。荀彧や郭嘉などの出身地。 蜀の中心地。現在の四川。 剣閣…蜀末期。魏が攻め込んで来たのを姜維(きょうい)が必死になってここで防戦していたが、迂回した別軍により成都は陥落(劉禅が降伏)。 綿竹…蜀末期。諸葛亮の息子とその長男が(諸葛亮の孫)魏との戦いで命を落とした場所。 呉の中心地。現在の南京と上海周辺。 この辺りから南には呉の豪族がいて、これらを束ねることが呉の原動力となった。 盧江…周瑜の出身地。 寿春…偽皇帝様が最後に華やいだ場所。 西方の大都市長安。現在の西安。 周時代に中心都市となってから以降、時代の中心地の一つとして洛陽と並べられた。 五丈原…諸葛亮が北伐最中に病気のために没した場所。 街亭…諸葛亮の弟子と言われていた馬謖が魏軍に大敗した場所。この責により、馬謖は処刑された。その際に諸葛亮が涙した為『泣いて馬謖を斬る』という故事が生まれた。 おまけ。 諸葛亮の出身地。琅邪(ろうや)。 ゲームにおいて、ある一定の条件を満たし、この場所を検索すると……。
https://w.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/612.html
このページは数あるニコニコ歴史戦略ゲー動画の登場人物について、各動画内での列伝をまとめていくものとして用意しました。 主役級の活躍を見せた人物はもとより、名脇役、好敵手からネタ☆キャラまで幅広く紹介されるページになることを願います。 ここでは三国志の人物について扱います。 参考用リンク先(需要のありそうなものがあれば随時追加推奨) Category 三国志 - Wikipedia :史実についての参考リンク 幻想水滸伝・三国志を知らないけど、興味ある人の為の解説サイト ニコニコ歴史戦略ゲー 武将紹介 公開マイリスト :史実武将紹介動画 武将別解説 - 三国編 :iM@S架空戦記シリーズ補完wikiより三国武将紹介 『三国志の登場人物の一覧』 :ニコニコ大百科での三国志人物項目一覧 武将別伝(三国志) ア行 ハ行 ハ ヒ フ ヘ ホ カ行 カ キ ク ケ コ マ行 サ行 サ シ ス セ ソ ヤ行 タ行 タ チ ツ テ ト ラ行 ラ リ ル レ ロ ナ行 ワ行 趙雲(チョウウン) 張角(チョウカク) 張嶷(チョウギョク) 張紘(チョウコウ) 張郃(チョウコウ) 張繍(チョウシュウ) 張昭(チョウショウ) 張松(チョウショウ) 貂蝉(チョウセン) 趙範(チョウハン) 張飛(チョウヒ) 張宝(チョウホウ) 張翼(チョウヨク) 張遼(チョウリョウ) 張梁(チョウリョウ) 張魯(チョウロ) 陳宮(チンキュウ) 陳羣(チングン) 陳寿(チンジュ) 陳到(チントウ) 趙雲 (チョウウン) [部分編集] (?~229)字は子龍(シリュウ)。袁紹・公孫瓚と渡り歩き、劉備に仕える。劉備から「一身これ胆なり」と称賛された猛将。長坂の戦いでは敵の大軍から劉備の息子・阿斗(劉禅)を守り、漢中攻防戦では空城の計を用いて魏軍を撃破した。 演義では五虎将の一人として関羽や張飛に次ぐイメージが有るが、実際はさほど高い地位ではなかった(他の四人や魏延より下)。 日本では美青年として描かれやすい一方、中国では老将のイメージが強いとも言う。 三國志IX 統率 88 武力 96 知力 78 政治 72 三國志11 統率 91 武力 96 知力 76 政治 65 魅力 81 洞察/槍兵S,弩兵S,騎兵S 関連タグ: 【趙雲】 ニコニコ大百科: 『趙雲』 東方のなく洞窟☆すた三国志 【三國志Ⅸ】 +劉備軍→劉エン軍→孫権軍、プレイヤー戦力と長く戦い続けている敵将。紙芝居参加経験あり、キャラブレイクあり とあるキャラの幻術に巻き込まれたことから巨乳好きという設定がなされ、紙芝居参加資格を得た。 また彼に引きずられる形で五虎将軍全員が何らかの女性に対するそれなりに特異な嗜好を持つことになってしまった。 貧乳揃いのこなた軍には大いに不満を持っており、とくに東方キャラ四季映姫との相性は最悪である。 夢幻想列伝 Border of fate 【三國志Ⅸ】 +序盤から登場、プレイヤー勢力の霊夢軍に登用される、縛りにより防衛戦のみに参加、紙芝居参加経験あり、キャラブレイクなし 東方キャラ八雲紫直属の将として防衛戦に活躍する。 歴戦の名将らしく、東方キャラメインの霊夢軍にあってなお光り輝く活躍が目立つ 呂布シリーズ +逆襲終盤から登場。大魔王の逆襲から一軍、キャラブレイクあり? 逆襲、復讐のころから登場していたが大魔王の逆襲から一軍として目立ってきた 最初は忠実に仕事をこなす印象だったが、中盤で顔グラがF1レーサーに変化すると性格が変わり、毒舌家な一面も見せるようになった 帝国三国志 【三國志Ⅸ】 +主役級。銀河帝国。暗黒卿キャラ 銀河帝国の信者、シリーズ最強の武将と謳われる暗黒卿 冷酷でプライドが高く、全く容赦をしないことから敵にも味方にも恐れられている しかし、一部のキャラに対する対応が全然違うため、批判を浴びることも 中華武将祭り 【三國志Ⅸ】 +本家劉備軍配下 スペランカー256週の猛者だがWiiより価値が低いらしい。某大乱闘ではヒゲの配管工が持ちキャラ。 鋼鉄超雲:変質者 艶義超雲:生真面目 蒼天超雲:もののふ 恋姫超雲:ふりーだむ 上へ 張角 (チョウカク) [部分編集] (?~184)原始道教の一つ「太平道」の教祖。元は官僚。政争で混乱の極みに達した後漢王朝の打倒を叫んで数十万の信徒を率い大規模な反乱を起こすが、その最中に病没した。その後反乱は鎮圧されるが、この「黄巾の乱」をきっかけに後漢の崩壊が始まることになる。 三國志IX 統率 92 武力 26 知力 87 政治 82 三國志11 統率 86 武力 25 知力 86 政治 80 魅力 98 鬼門/槍兵A,戟兵S,弩兵A,兵器A ニコニコ大百科: 『張角』 魏国が東方勢にもっこもこ 【三國志Ⅸ】 +スタート時点ですでに故人 魏国に破れ、失意のうちに亡くなっていたものと思われるが、東方キャラ西行寺幽々子によって現世への帰還を果たす。 彼の復活を聞きつけ、多くの元太平道信者が彼の元に集結した。 幻想三国志 【三國志Ⅸ】 +何らかの事情に巻き込まれて失踪、中盤になるまで本格的出番なし、とある登録キャラたちと共に登場 事情により太平道から一時離れていたが、最近帰還する。 もはや革命の意志をなくし、暴徒と化してしまった太平道に複雑な思いを抱いている。 戦いの最中に病死する。 魔理沙の幻想郷帰還誌 【三國志11PK】 +魔王軍配下 無能な弟達に悩まされつつも民の救済に勤しんでいたが、行き倒れていた異国風の男を助け、持っていた妖術書を読んでしまったのが運の尽き。 おそらくSANチェックに失敗して発狂してしまったものと思われる。 赤兎三国志 【三國志Ⅸ】 +序盤の敵、後に赤兎軍武将、太平道教祖、キャラブレイクなし 西涼の地で太平道を広めようと奮戦するものの赤兎軍の前に敗れた。 赤兎軍に降った後は太平道を解散しようとするもののほとんどの信者は彼と共に赤兎軍に残ることを選んだ。 のちに抜擢の育成を任され、己が智の全てを注ぎ込んだ怪物を誕生させる。 天公将軍張角の挑戦 【三國志Ⅸ】 +主人公 ある朝、目覚めると烏丸の地に放り込まれていた。 カオスな登録勢を纏め上げ、中華統一を目指す。 何故か兵法は妖術のみ、それも熟練度50に変更されている。そのため、妖術を使っても3桁のダメージしかない。 更にどんどん濃いキャラクターに押され、キャラが消え始めている。 というより、弟のほうが計略熟練が高い(70話)という点で既に問題がある。 関連動画―――― 組曲「黄巾」 :替え歌(歌唱つき) 上へ 張嶷 (チョウギョク) [部分編集] (?~254)字は伯岐(ハクキ)。蜀の武将。貧しい家の生まれで、叩き上げで将軍となる。西南夷や羌族を平定し、太守として統治手腕を発揮、現地の異民族を心服させた。彼が成都に帰還すると、恩顧を受けた住民たちは大いに悲しんだという。軍事・内政ともに優れた名将。 演義では脇役。西南夷平定は諸葛亮の功績にされた。姜維の北伐に病身を押して従軍、段谷で姜維を救い出して壮絶な戦死を遂げる。 三國志IX 統率 76 武力 73 知力 75 政治 76 三國志11 統率 79 武力 72 知力 74 政治 77 魅力 76 踏破/槍兵A,戟兵A,弩兵A,兵器A ニコニコ大百科: 『張嶷』 上へ 張紘 (チョウコウ) [部分編集] (?~?)字は子綱(シコウ)。呉の重臣で「江東の二張」の一人。内政だけではなく外交にも長け、孫策死後の混乱に乗じて孫氏勢力の討伐を目論む曹操を説得してやめさせたこともある。孫権の時代、死の前後に秣陵への遷都を進言した(秣陵は建業と改められた)。 三國志IX 統率 31 武力 11 知力 88 政治 96 三國志11 統率 24 武力 22 知力 86 政治 95 魅力 82 築城/兵器A 上へ 張郃 (チョウコウ) [部分編集] (?~231)字は儁乂(シュンガイ)。韓馥→袁紹と仕えたが、官渡の戦いでは進言が容れられず、高覧と共に責任をなすりつけられたため、曹操に降伏。以後は戦功を重ね、対蜀戦線の重鎮として活躍した。諸葛亮の北伐の際には司馬懿に従って馬謖の軍を殲滅する功績を挙げるが、退却する蜀軍を追撃する中、伏兵にかかり戦死した。 吉川三国志では三度も戦死している(汝南で関羽に、長坂で趙雲に、木門道で孔明らに)。これをネタにされることも。 「張コウ」「張合β」と書かれることもある。「張コウ」表記は張紘ではなく彼を指す。 三國志IX 統率 89 武力 90 知力 54 政治 53 三國志11 統率 90 武力 89 知力 69 政治 57 魅力 71 昂揚/槍兵A,騎兵S,兵器A 天公将軍張角の挑戦 【三國志ⅨPK】 +韓馥軍配下。のちに張角軍主力 韓馥軍の配下として登場。星熊勇儀とコンビで出陣し、高威力の突撃で張角軍を大いに苦しめた。 韓馥軍滅亡後は張角軍の主力となり、勇儀、顔良、馬岱、兪瑁(抜擢武将)と共に河北最強と謳われる騎馬隊を結成。 部隊長として活躍している。 上へ 張繍 (チョウシュウ) [部分編集] (?~207)張済の甥。馬術に秀で軍才に優れ、董卓に仕えた。後に曹操に降伏するが、曹操が張済の未亡人を側室にしたことなどから両者の間に遺恨が生じ、賈詡の進言で曹操を襲撃。曹昂や典韋を討ち取った。 後に再び曹操に帰順。官渡の戦い、袁譚攻めなどで功績を上げた。烏丸征討中に病死した。 三國志IX 統率 82 武力 72 知力 62 政治 49 三國志11 統率 80 武力 73 知力 60 政治 45 魅力 59 騎将/騎兵S 騎将張繍の野望 【三國志Ⅸ】 +張繍軍(プレイヤー勢力)君主 主人公の1人。君主であるものの、衣玖の仕官を秘密にされる(反応が見たかったから)、率先して輸送に回される(実際効率は良いが)、備品整理をやらされるなど割と遊ばれている。 ただ根が真面目なためか雑用を任されることに関しては本人もまんざらでない様子も見られる。マメな人・家政婦・校長・ヴァンプ様(視聴者コメント評) その様な扱いを含めて、「部下の事を信頼し影で支えることに専念する度量の大きい君主像」としても捉えられる。 何よりも「あの賈詡」と篤い信頼関係を築いていることが一番すごいことかもしれない。 「ホント頼むよ、君主の立場無いから!」「善処します」「………」 上へ 張昭 (チョウショウ) [部分編集] (156~236)呉の重臣で「江東の二張」の一人。字は子布(シフ)。孫策が全面的に信頼した人物で、孫策死去の際、彼から「孫権に能力がなければ、君が政権を取れ」と言われたほどだった。 典型的な頑固者、孫権とはたびたび子供のような喧嘩やコントのようなやりとりを繰り返した。呉の重鎮だったが、孫権との相性もあってか丞相にはなれなかった。 三國志IX 統率 41 武力 4 知力 85 政治 97 三國志11 統率 33 武力 3 知力 84 政治 97 魅力 80 変態記 【三國志Ⅹ】 +孫策軍武将 孫堅時代からの家臣ということになっている。 殺人鬼に妄想白目にDQNにホモにマゾに弱虫などどうしようもない人間ばかりの孫策軍の中で唯一まともな人間と、本来の歴史を知っている四季映姫は述べていた。 どうしようもない孫策軍を、亡き前君孫堅(これも実質裸の大将だったのだが)との思い出を懐かしみつつなんとか維持している。 八雲紫軍加入後も数少ないまともな人間として頼りにされている。 老人だが、平和と正義のためならば鬼にもなり、暴君袁術を始末した。 関連動画―――― 張昭動画 輔呉将軍 :替え歌(歌唱つき) 上へ 張松 (チョウショウ) [部分編集] (?~213)劉璋の臣。字は史実では子喬(シキョウ)、演義では永年(エイネン)。醜い容貌の持ち主と言われ、それゆえ顔グラも毎回凄いことになっている。劉備に益州を献上しようと策を練るが、兄の密告により劉璋にばれて捕まり殺された。 「チョロ松」の愛称でしたしまれる。 三國志IX 統率 12 武力 3 知力 87 政治 81 三國志11 統率 15 武力 6 知力 88 政治 82 魅力 19 秘計 ニコニコ大百科: 『張松』 上へ 貂蝉 (チョウセン) [部分編集] (演義の登場人物)演義に、司徒・王允の養女として登場する絶世の美女。「美女連環の計」により呂布と董卓の仲を割いた。史実において、呂布が董卓の侍女と密通していたとあり、その話が元になっていると思われる。 三國志IX 統率 64 武力 27 知力 86 政治 73 三國志11 統率 10 武力 26 知力 81 政治 65 魅力 96 傾国 関連タグ: 【貂蝉】 呂奉先の野望 【革新PK】 +呂布軍(プレイヤー勢力)初期武将。 呂布軍(プレイヤー勢力)初期武将。 グラフィックは微妙に寄せて上げてある。篭絡の計はさすが。 上へ 趙範 (チョウハン) [部分編集] (?~?)桂陽郡太守。いわゆる「荊州四英傑」の一角。劉備が攻めてくると配下の陳応、飽隆に押され一度は劉備と戦う。しかし二人が戦死すると即座に城を明け渡して降伏した。趙雲に兄嫁を紹介して結婚を勧めたが、激怒した趙雲にボコボコにされた。 プレイ動画では「趙さん」と呼ばれる。 三國志IX 統率 18 武力 20 知力 35 政治 61 三國志11 統率 28 武力 21 知力 32 政治 58 魅力 56 ニコニコ大百科: 『趙範』 上へ 張飛 (チョウヒ) [部分編集] (?~221)劉備の配下。字は益徳(エキトク)。血の気の多い武将でその剛勇は「一人で一万の兵に匹敵する」と称された。 関羽とは真逆で上と認めた人物にはしっかり付き従う一方で部下に対しては乱暴で厳しく、その恨みで暗殺された。 演義での字は翼徳(ヨクトク)。劉備・関羽の義弟として戦乱を駆け抜けた。 ゲーム中の知力は低いが何度か計略を用いたことも有り、意外と頭の回る人物だったのでは、と言われている。 酒の上での失敗、孔明への嫉妬など愛すべき武将であり、ニコニコ動画でも「張ル飛(ハルヒ)」と呼ばれたり、キャラブレイクの対象にもされる。 三國志IX 統率 83 武力 98 知力 35 政治 22 三國志11 統率 85 武力 98 知力 30 政治 22 魅力 45 闘神/槍兵S,戟兵S,騎兵A 関連用語: ロリコン 関連タグ: 【張飛】 ニコニコ大百科: 『張飛』 変態記 【三國志Ⅹ】 +序盤で登場、紙芝居準レギュラー、キャラブレイクあり 完全なロリコン。動画内では、同じくロリコンキャラとして位置づけられている富竹とコンビを組む。 こ の ロ リ コ ン ど も め ! 東方のなく洞窟☆すた三国志Ⅸ 【三國志Ⅸ】 +中盤での敵役、所属軍は劉備→クォート、紙芝居参加経験あり、キャラブレイクあり 上と同じく完全なロリコン、ただし、戦に出るだけまだ真面目。とあるらき☆すたキャラに対して「ババア」と暴言を吐く。大丈夫、きっとまだいける。 史実でも十代半ばだったであろう少女を誘拐して妻にしているとあるので、1/4くらいは真実であるといえなくもないかもしれない。もっとも当時としてはそのくらいで結婚してもなんらおかしくない年齢ではある。 この動画の五虎将軍は一人残らず女性に対するおかしな嗜好持ち。しかもオープンにしているから余計性質が悪い。 魔理沙たちは三国志Ⅶで遊んでいきました 【三國志Ⅶ】 +プレイヤーキャラとなる回あり 完全な脳筋キャラ。敵が攻めてきたため迎撃に出るが敵の計略に乗せられ、勝手に退却。 結果劉備軍は破れ、勢力は滅亡した。 夢幻想列伝 Border of fate 【三國志Ⅸ】 +所属劉備軍→諸葛亮軍、紙芝居参戦あり、序盤~中盤の敵役、キャラブレイクなし 東方キャラレミリアのライバルとして設定され、彼女と一騎打ちを繰り広げる。 負けず嫌いなところは演義のままであり、幾度もプレイヤー勢力である霊夢軍と激突を繰り返す 魔理沙の幻想郷帰還誌 【三國志11PK】 +劉備軍武将→レミリア軍 チルノによる反逆により劉備軍が滅んだあと、劉備たちとともに流浪の身に(余談だが、紙芝居でチルノをぼこぼこにしたのはこいつ)。 その後、レミリア軍に拾われて瀕死の劉備とともに吸血鬼として生きることを選びチートキャラ化。相手の火計にあってもピンピンしている。 戦場では同僚のペドフィリア富竹の言動に頭を痛める常識人。このコンビを見ると 某動画 を思い出すが、この動画の張飛はロリコンではない。 上へ 張宝 (チョウホウ) [部分編集] (148?~184)張角の次弟で、黄巾の乱の指導者の一人。自称「地公将軍」。張角の病死後、態勢を立て直した官軍に討たれた。 演義では妖術使いの設定で最期は部下の厳政に殺された。ゲームでもお札を口にくわえたグラが付けられていることがある。 三國志IX 統率 83 武力 70 知力 86 政治 72 三國志11 統率 83 武力 71 知力 81 政治 64 魅力 82 鬼門/槍兵S,弩兵A,兵器S 幻想三国志 【三國志Ⅸ】 +張宝軍軍主、黄巾編の敵役 圧政の限りを尽くす国への義憤から兄弟と共に挙兵する。 しかし人間の醜い一面を目の当たりにし、次第に彼の心は絶望に蝕まれ、遂に兄張角を幽閉。実権を掌握する。 絶望からか人間の心や想いを信用せず、官軍打倒の為の力を重きに置いている。 兄張角に対しては昔から変わらぬ愛情と、自らの考えをわかって貰えぬ苛立ちが入り混じった複雑な気持ちを抱いている。 上へ 張翼 (チョウヨク) [部分編集] (?~264)字は伯恭(ハクキョウ)。蜀の将。前漢三傑の一人・張良の子孫。劉備が益州を平定した時、その家臣となった。名将であり多くの軍功があった。蜀滅亡直後に姜維が起こした乱に巻き込まれて死亡した。 三國志IX 統率 76 武力 74 知力 71 政治 68 三國志11 統率 75 武力 74 知力 71 政治 72 魅力 70 親蛮/戟兵A,弩兵A,兵器A 中華武将祭り 【三國志Ⅸ】 +劉備軍武将、鋼鉄ジーグ うp主が討ち死にオフにせず放置しておいた結果、夏侯淵(ドラゴンシスターから登録)に射殺される。動画的に人死にはごまかしにくいことから、うp主は討ち死にオフに直すことにした。 死んだ張翼は蘇生させられたがなんか変、いやロボっぽ「ロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボ」 復帰に伴い全ステータス+10、全熟練値+300。 上へ 張遼 (チョウリョウ) [部分編集] (169~222)字は文遠(ブンエン)。元は呂布の部下で、後に曹操に仕える。各地に転戦して大いに功績を挙げ、合肥の戦いでは寡兵で孫権の大軍を追い詰めた。呉では「遼来来(りょうらいらい、張遼が来るぞ、の意)」と言えば「泣く子も黙る」(語源)とさえ言われたという。 56歳で孫権と対陣中に陣没した。演義では丁奉から受けた矢が元で死亡している。 演義よりも正史の活躍の方が凄まじいという希有な存在でそれも彼の魅力を引き立てている。 三國志IX 統率 94 武力 90 知力 83 政治 72 三國志11 統率 93 武力 92 知力 78 政治 58 魅力 78 威風/槍兵S,戟兵S,騎兵S 関連用語: 山田 、 ライライ 関連タグ: 【張遼】 ニコニコ大百科: 『張遼』 変態記 【三國志Ⅹ】 +終盤で登場、紙芝居登場有り、今夜が山田! 呂布軍で唯一の 呂布 への理解者。しかし、「今夜が山田!」としかしゃべれない(のちに「ライライ!」もしゃべれるようになる)ので呂布以外とは意思疎通ができないようだ。 武将として関羽をライバル視している。 もっこもこ 【三國志Ⅸ】 +魏国の将軍の中でも筆頭格、スタート時点で戦死した呂布の騎馬隊を引き継いでいる 序盤から漢中撤退戦、長安防衛戦にて活躍。 さらなる強敵と戦うために武器と丞相の爵位を贈られ、 洛陽防衛戦にて投石の飛び交う戦場を部下の騎馬隊とともに駆け抜けることになる 中華武将祭り 【三國志Ⅸ】 +呂布軍→北郷軍 呂布軍の切り込み隊長。滅亡後は主君らとともに北郷軍に降る。 合肥で本物孫堅軍と戦闘になったとき、「合肥で張遼二人ktkr!これはかつる!」と誰もが思った。 が、孫堅軍にも張遼が3人いたという。遼来来×5 in 合肥 なんてぇのを見ることが出来るのは多分ここだけ。まさに張遼跋扈。 本物張遼:一番まとも…だったのだが、第五十六話でまさかのキャラブレイクを見せた。 恋姫張遼:可愛い女の子大好き。関西弁。 無双張遼:山田ああああああああああ! 蒼天張遼:テラツヨス BB伝張遼:(;゚Д゚))))ザクザクゲルググ 関連動画―――― 遼来来! :替え歌MAD(歌唱つき) 上へ 張梁 (チョウリョウ) [部分編集] (?~184)張角、張宝の弟であり「人公将軍」を名乗って黄巾の乱を起こした。張角の病死後も戦ったが皇甫嵩に破れ戦死した。 三国志大戦の影響からか、一部では「ゴリラ」とも呼ばれる。 三國志IX 統率 81 武力 82 知力 68 政治 49 三國志11 統率 78 武力 80 知力 68 政治 52 魅力 80 妖術/槍兵S,騎兵A,兵器A 騎将張繍の野望 【三國志Ⅸ】 +張繍軍へ仕官 互いに賊軍・官軍というとても相容れない間柄だったことから皇甫嵩、朱儁に目をつけられ一触即発の状態となった。 しかし実は彼は人公将軍・張梁などではなくただの 「通りすがりのゴリラ」 であることが判明。なんとか丸く収まった。 張繍軍のみなさん同様に空気を読んでそっとしておいてあげるのがよいだろう。 上へ 張魯 (チョウロ) [部分編集] (?~220)原始道教の一つ「五斗米道」の指導者。字は公祺(コウキ)。益州の劉焉の指示で漢中を攻略し、そのまま半独立勢力となる。自らの宗教を基盤とした統治を行い、民からも慕われた。曹操の漢中侵攻を前にして降伏、財宝に手を付けなかった振る舞いに感心した曹操に厚遇された。 教団消滅後も五斗米道は様々に形を変えながら生き残り、現在においても正一教の名で教えが残っている。 プレイ動画界隈では「米屋」と呼ばれる。 三國志IX 統率 41 武力 33 知力 69 政治 80 三國志11 統率 51 武力 26 知力 73 政治 78 魅力 89 米道 変態記 【三國志Ⅹ】 +群雄の一人 信者から大量の米を集めていたのだが、ある日突然すべてケフィアに変わってしまい、がっかりしているうちに八雲紫軍に滅ぼされる。 霊夢の旅日記 【三國志Ⅹ】 +群雄の一人、主人公の主君 霊夢をはじめとする多くの東方勢を抱えていたが、霊夢の反逆により乗っ取られる。 滅亡後、処刑されかけたりするなど扱いは悪い(動画内で自分で言うように能力的には結構使えるのだが、霊夢たちからはダメな奴だと思われている)。 関連動画―――― ゴトベイドウ×キラメキラリ :替え歌(歌唱つき) 上へ 陳宮 (チンキュウ) [部分編集] (?~198)字は公台(コウダイ)。智謀の士として曹操に仕えるが、後に呂布に仕えた。数年の死闘の末に呂布軍が壊滅し曹操に捕らえられると、惜しむ曹操を背に自ら刑場に赴いた。 演義では呂伯奢一家殺害事件で曹操の残酷さを見限ったとしているが、史実での行動原因ははっきりしていない。 ゲームでは呂布軍におけるたった一人の参謀。 三國志IX 統率 72 武力 52 知力 89 政治 81 三國志11 統率 78 武力 55 知力 89 政治 83 魅力 68 掎角/弩兵A,兵器A 関連タグ: 【陳宮】 軍師黄皓の憂鬱 【三國志11】 +呂布軍武将。 呂布軍武将。珍Q。 脳筋君主あしらいに定評のある苦労人。 上へ 陳羣 (チングン) [部分編集] (?~236)字は長文(チョウブン)。はじめ劉備に仕える。その後曹操に仕えると、曹操のもとで法整備に尽力。中でも特に「九品官人法」は隋の時代に科挙が制定されるまで長く用いられた。 三國志IX 統率 21 武力 7 知力 72 政治 95 三國志11 統率 32 武力 14 知力 74 政治 96 魅力 73 上へ 陳寿 (チンジュ) [部分編集] (233~297)歴史書『三国志』の編纂者。字は承祚(ショウソウ/ショウソ)。一説では蜀に仕える陳式の子とも。蜀の滅亡後、羅憲の推挙を受けて晋に仕えた。彼の師である譙周の伝に、彼本人が出てくるという歴史書としては驚愕の一幕もあったりする。 プレイ動画界隈では「作者」と呼ばれる。その立場から、ストーリーの上でのキーパーソンになることも。 三國志IX 統率 15 武力 22 知力 60 政治 75 三國志11 統率 12 武力 22 知力 60 政治 75 魅力 51 上へ 陳到 (チントウ) [部分編集] (生没年不詳)後漢末期から三国時代にかけての蜀の武将。字は叔至。劉備が豫州刺史時代からの家臣で、忠義に篤く、武勇に優れ、劉備が蜀の皇帝になると征西将軍、永安都督、亭侯に封じられた。 正史では趙雲に次ぐ人物として高い評価を受けているものの、演義ではその存在を抹消された 羅貫中の被害者 の一人。 ゲーム上の評価では、趙雲とはかなり差が有る……。 三國志IX 統率 75 武力 72 知力 62 政治 66 三國志11 統率 76 武力 71 知力 63 政治 53 魅力 69 槍兵A,騎兵A 馬謖の野望 【三國志11】 +永安軍武将。 永安軍武将。陳到さん。 馬謖やアイドル達と共に、その信念と忠義故に蜀に反旗を翻した熱き忠将。 作品内で熱いシリアスなシーンはほぼこの人絡み。 騎将張繍の野望 【三國志Ⅸ】 +何進軍→張繍軍。 何進配下として登場。自身を武将としてより一人の武人として存在価値を見出している。洛陽攻防戦では城の守りを任されるもあえなく陥落。自責の念に駆られ自害しようとした所をレティに窘められ張繍軍に帰順する。 キャラブレイクの多いこの動画の中では数少ない生真面目な人。 天水攻略戦において、彼のかっこよさ、強さは趙雲以上。 上へ 張遼やってほしいけど、いろんなところに出ていておっつかないな~; -- 名無しさん (2008-06-03 02 12 06) 上記コメントを「武将別伝(三国志)ラ行」から移動。 -- 名無しさん (2008-11-09 09 11 52) 張嶷の読みについて、一応貼っとく http //d.hatena.ne.jp/mujin/20081103/p3 -- 名無しさん (2008-12-07 16 04 53) ↑訂正かけました。ちくまのも誤訳だったのか…… -- 名無しさん (2008-12-21 14 07 22) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/sanngoku/pages/53.html
祁山侵攻戦 [勢力] 呉(ご) 魏(ぎ) 蜀(しょく) [おもな登場人物] 蜀(しょく) 姜維(きょうい)、張嶷(ちょうぎょく) 劉禅(りゅうぜん) 魏(ぎ) トウ艾(とうがい)、鍾会(しょうかい) 司馬望(しばぼう) 魏(ぎ)反乱軍 諸葛誕(しょかつたん) [おもな地名・場所] 祁山(きざん) 段谷(だんこく) 南安(なんあん)上ケイ(じょうけい) 武城山(ぶじょうざん) 長城(ちょうじょう) 駱谷道(らくこくどう) ————————————————- 蜀と魏の戦いで 諸葛亮(しょかつりょう)が司馬懿(しばい)が ライバルであったように 蜀の新たな軍事指導者 姜維(きょうい)にはトウ艾というライバルが いました。 256年 三度目の北伐も大きな戦果を得ない蜀の 姜維は勝機有りと判断し改めて魏に対して出陣します。 しかし魏の名将トウ艾はすでに 必ずまた姜維が出撃してくるとよんでいました。 理由は以下の5点 蜀は1度の勝利で士気が高い 孔明が鍛えた精鋭がそろっている 蜀は船で移動、魏は陸路で兵の疲労度が違う 魏にとって守るべき地が分散している 祁山(きざん)周辺の豊富な穀倉地帯がある そのため、周到に用意したトウ艾(とうがい)に 姜維は祁山や南安(なんあん)の 武城山(ぶじょうざん)でも 先回りされてしまいます。 蜀軍は安南をあきらめ方向転換して 上ケイ(じょうけい)をめざします。 しかしすでにその行動も予想されており 途中の段谷(だんこく)では 待ち伏せにあい魏に挟撃され 味方の到着も遅れ大敗します。 姜維もすんでのところで、援軍で現れた 歴戦の将 張嶷(ちょうぎょく)が奮戦して 姜維の身代わりとなり戦死。 姜維はなんとか生き延びますがその責任をとり、 (孔明に例にならい)自ら降格しました。 この敗北における部隊の減少は今後の蜀にとって 大きなポイントとなります。 257年 姜維に新たな機会が訪れます。 魏の諸葛誕(しょかつたん)が反乱を起こします。 この機に乗じて彼は兵4万を率いて挙兵。 姜維は駱谷道(らくこくどう)を経て秦川に出ようとします。 途中、兵糧豊富な長城(ちょうじょう)を狙いますが 司馬望(しばぼう)・トウ艾が積極的に戦おうとはせず 堅く守り続け、こう着状態。 魏の反乱軍諸葛誕(しょかつたん)の敗北の報が入ると 蜀軍は退却することとなります。 258年 姜維は呉の孫休(そんきゅう)より出陣を促す手紙を うけて出撃します。 祁山でまたもトウ艾と対峙します。 魏からの夜襲と伏兵に持ちこたえた蜀軍は攻勢にでます。 姜維はトウ艾の動きを封じて本陣を奪取し勝利します。 しかし、トウ艾は一計を案じていました。 姜維に対するデマを広めたのです。 それにより優位に進めていた戦いの中 デマに惑わされた 君主劉禅(りゅうぜん)から召還命令が出てしまいます。 こうしてまたもすんでのところで 姜維の侵攻はうまくいきませんでした。 万全な準備のままならぬままの毎年にわたる出撃は 蜀の国力を確実に疲弊していました。 しかし姜維の孤高の戦いはまだ続いていきます。
https://w.atwiki.jp/sanngoku/pages/105.html
三国志慣用句紹介 関羽千里行かんうせんりこう 重要度:★★★★☆ 汗血馬かんけつば 重要度:★★★☆☆ 一日に千里走るといわれている馬の種類。 「血のような汗を流しながら走る馬《と「全く汗をかかず走る馬《という意味があるらしいがおそらくは前者。 臥竜がりゅう・鳳雛ほうすう 重要度:★★★★☆ 伏竜・鳳雛とも呼ばれる。臥竜は地に隠れ潜む竜のこと、鳳雛は鳳凰の雛のこと。 どちらも志を得ず世間に知られていない有能な人材を意味する。 三国志では臥竜(伏竜)を諸葛亮、鳳雛を龐統のことを指す。 劉備が当時の知識人・司馬徽に二人のうちどちらかを得られれば天下をとれるとさえ言われた。 驥足きそくを展のぶ 重要度:★☆☆☆☆ 「驥《は一日千里走ることのできる吊馬のこと。この馬が全力で走るという意味。 つまりすぐれた能力の持ち主が十分な能力を発揮する事をいう。 苦肉くにくの策さく 重要度:★★★★★ 赤壁の戦いにおいて呉軍に勝利をもたらした重要な作戦。 赤壁の戦いは圧倒的に戦力の差が大きく呉軍の勝利には火計が必要上可欠であった。 そのためには魏の中枢部に火を放つ必要があり、呉の黄蓋は魏軍を欺き降伏をしようとした。 呉の古株・黄蓋の降伏を疑わせないために呉軍最高責任者・周瑜に因縁をつけ罰として鞭打ちの刑をうけた。 これはもちろん周瑜、黄蓋の作戦だったが、魏軍を騙しいれ、見事火計を成功させるにいたった。 五虎将軍ごこしょうぐん 重要度:★★★★★ 蜀を代表する五人の勇猛な将たちの総称のこと。五虎大将とも言う。 関羽雲長、 張飛翼徳、 馬超孟起、 黄忠漢升、 趙雲子龍の五人のことを言う。 五将軍ごしょうぐん 重要度:★★★☆☆ 魏を代表する五人の勇猛な将たちの総称のこと。五大将ともいう。 張遼文遠、 楽進文謙、 于禁文則、 張郃儁乂、 徐晃公明の五人のことを指す。 サ行 三顧さんこの礼れい 重要度:★★★★★ 劉備が幕下にくわえるため孔明の庵(家のこと)に三度に渡ってたずねたことからそうよばれた。 一度目は建安12年(西暦207年)秋、二度目は初冬だったがいずれも会うことはできなかった。 晩冬のある日、大雪の中三度目に訪ねた時ようやく孔明にあうことができたのである。 だが孔明は眠っており、劉備は階下にたたずみ目覚めをまった。 その後、目覚めた孔明は謹んで劉備をむかえいれ、幕下に加わった。 死しせる孔明こうめい、 生いける仲達ちゅうたつを走らす 重要度:★★★★★ 五度にわたる魏討伐戦を戦った蜀の忠臣・諸葛亮孔明も魏の吊将・司馬懿仲達の持久戦に阻まれ、 234年五丈原で病死した。 孔明は生前、最も信頼する武将・姜維に死後の作戦を授けていた。 仲達は一夜、北斗七星の一星の光が薄れているのを見て、孔明が死んだとわかり総攻撃を開始した。 だが、五丈原のはずれまできた仲達の目の前に孔明があらわれたのである。 それはかねてから死を覚悟していた孔明が魏軍が攻め込んでくるのを予測して作らせた人形だった。 これを見た仲達は孔明にまた罠をかけられると思い、我も忘れて退却した。 死者が敵軍を退却に追い込んだ作戦に、世の人は孔明の智謀を讃えた。 酒池肉林しゅちにくりん 重要度:★★★★☆ 昔、殷の紂王が池を酒で満たし、肉を林にかけるなどしたことからできた言葉。 贅の限りを尽くすことを言う。 蜀しょくの四猛将よんもうしょう 重要度:★★☆☆☆ 五虎将軍亡き後、活躍した蜀の四人の総称のこと。 王平子均、 張嶷伯岐、 張翼伯恭、 廖化元倹の四人を指す。 吊:十常侍じゅうじょうじ 重要度:★★★★★ 十常侍とは役職の吊前ではなく後漢末、 中常時という職についていた10人の暴政がひどく、 人々はこの中常時という役職と10人であることをもじって呼んでいた吊前である。 張譲を筆頭とし、 段珪、 曹節、 封諝、 趙忠、 候覧、 蹇碩、 郭勝、 夏惲、 程曠の10人のことを言う。 彼らの横暴はとてもひどく、自らの地位を確保するため影で多くの人を殺し、人々を苦しめていた。 しかし大将軍・何進 を殺してしまったのが運のつきだったのだろう。 怒った袁紹が彼らの屋敷に乗り込み、 一族郎党もろとも殺されてしまう。 水魚すいぎょの交まじわり 重要度:★★★☆☆ 孔明を軍師として迎えいれた劉備が、劉備自身と孔明のことを例えた言葉。 「私が孔明を得たのはまさに魚が水を得たようなものだ《といったそうな。 親密で離れられず、力を十二分発揮できることを言う。 蒼天そうてんすでに死す、 黄天こうてん立つべし 重要度:★★★★★ 後漢十二代皇帝・霊帝の時代に黄巾党の総大将・張角がつくり、全国にひろまった歌。 蒼天とはすなわち漢帝国をあらわし、黄巾とは黄巾党のこと(髪を黄色い布でつつんだり、好んで黄色をつかった) 黄巾党が漢帝国に代わって中国大陸をおさめようとした。 タ行 治世ちせいの能臣のうしん、 乱世らんせの奸雄かんゆう 重要度:★★★★☆ 当時の有吊な人物評論家・許劭が曹操を評価したときの言葉。 「平和な時代ならすばらしい官僚、混沌した時代なら国を取れる人になる《という意味になる。 桃園とうえんの誓ちかい 重要度:★★★★★ 黄巾討伐をすべく立ち上がった劉備玄徳、張飛翼徳、関羽雲長が桃の花が満開に咲いていた桃園で 義兄弟の誓いを立てたこと。 「われら、生まれたとき違えども、願わくば同年同月同日に死なん《(死ぬときは一緒の意)と誓い、 彼らはその誓いを生涯守ろうとした。 ナ行 泣ないて 馬謖ばしょくを斬きる 重要度:★★★★☆ 西暦228年、蜀は北伐をしており次々に軍を魏の喉下に進めていた。 魏軍はこれを阻止すべく、重要な地となっていた街亭に魏軍は駒を進めていった。 孔明は街亭を守るべく馬謖にむかわせたが、 馬謖は孔明の指示を無視したため街亭は魏に奪われ、蜀軍は北伐を中止しざるをえなかった。 馬謖は孔明が最も愛した愛弟子だったが規律を守るべく、涙をながしながら処刑を命じた。 任侠にんきょう 重要度:★★☆☆☆ 男気。命をも惜しまず、利害関係を無視し、自らが正しいと思える行動をとる人、集団、精神のこと。(と、私は解釈している) 言葉で言えるようなものではないし、理解するにも任侠にならなくてはわからないと思う。 ハ行 白眉はくび 重要度:★★☆☆☆ 同類の中で最も傑出している人物や物のことをそう言う。 劉備に仕えた馬一族は文武ともに優秀だった。とくに長男・馬良は群を抜いていた。 その馬良の眉が白かったことからできた言葉。 覇道はどう 重要度:★★★☆☆ 武力により天下を治めることをいう。 美女連環びじょれんかんの計けい 重要度:★★★★★ 董卓を殺すため王允が貂蝉に授けた策。 この時、董卓に逆らえるものがいなかったのだが董卓の義子・呂布を貂蝉がたぶらかす。 呂布は貂蝉に恋をするが独占欲が強く、女好きの董卓も彼女に目をつけた。 貂蝉はうまく口裏を合わせ、呂布の嫉妬心を突き、呂布に董卓を殺させることに成功した。 方術士ほうじゅつし 重要度:★☆☆☆☆ いわゆる仙人。護符などを使いまじないをしたという。 道士と同意語だろう。 マ行 ヤ・ラ行 離間りかんの計けい 重要度:★★★☆☆ 曹操が馬超・韓遂連合軍と戦ったときに用いた策。 馬超・韓遂を仲たがいさせるため、韓遂に手紙を送った。 その手紙は多くの部分が墨で塗り潰されており、これを見た韓遂はただ間違いの多いと思っただけだった。 しかし、馬超には二人が裏で通じ合っており自分に見られまいと韓遂が塗りつぶしたのだと感じたのである。 これをきっかけに彼らの疑心をあおりたて、曹操はみごと韓遂を降伏させ、この戦いに勝ったのである。 梁上りょうじょうの君子くんし 重要度:★☆☆☆☆ 泥棒のこと。 ある日、陳寔という人の家に泥棒が入りました。 当時は長く凶作が続き、生きるためしかたなく罪を犯す人が多かったのです。 泥棒は家主が寝静まるのを梁の上に隠れ待っていました。 陳寔が泥棒に気づくと、自らの子供を呼び寄せこう言いました。 「人というのは、自ら勤勉に勤めなければならない。悪人といっても必ずしも初めから悪かったわけではない。 悪い習慣が身に付いてしまったからなのだよ。梁の上に隠れている君子もそうなように《 泥棒はこの話を聞いて驚き、すぐ梁から飛び降り謝りました。 しかし陳寔は罰を与えるどころか食料と衣朊を与え逃がしたそうな。 このことから泥棒のことを「梁上の君子《とよぶようになったのです。 連環れんかんの計けい 重要度:★★★★★ 赤壁の戦いにおいて、呉軍の勝利に貢献した作戦のひとつ。 当時、魏軍と呉軍の戦力の差は大きく呉軍の勝利には火計が必要だった。 そこでのちの蜀の軍師・龐統は魏軍陣内に入り込んだ。 魏軍の兵士は船での生活に慣れておらず体調を崩すものが多かった。 そこに目をつけた龐統は曹操に船同士をつなげば足場を安定させることができると提案した。 曹操はこれを気に入り魏軍すべての船を鎖でつなぎあわせた。 しかしこれにより、後に呉軍の放った小さな火が魏軍の船すべてに火がまわり魏軍が敗れる敗因になったのだった。
https://w.atwiki.jp/sanngoku/pages/84.html
祁山侵攻戦 [勢力] 呉(ご) 魏(ぎ) 蜀(しょく) [おもな登場人物] 蜀(しょく) 姜維(きょうい)、張嶷(ちょうぎょく) 劉禅(りゅうぜん) 魏(ぎ) トウ艾(とうがい)、鍾会(しょうかい) 司馬望(しばぼう) 魏(ぎ)反乱軍 諸葛誕(しょかつたん) [おもな地名・場所] 祁山(きざん) 段谷(だんこく) 南安(なんあん)上ケイ(じょうけい) 武城山(ぶじょうざん) 長城(ちょうじょう) 駱谷道(らくこくどう) ————————————————- 蜀と魏の戦いで 諸葛亮(しょかつりょう)が司馬懿(しばい)が ライバルであったように 蜀の新たな軍事指導者 姜維(きょうい)にはトウ艾というライバルが いました。 256年 三度目の北伐も大きな戦果を得ない蜀の 姜維は勝機有りと判断し改めて魏に対して出陣します。 しかし魏の名将トウ艾はすでに 必ずまた姜維が出撃してくるとよんでいました。 理由は以下の5点 蜀は1度の勝利で士気が高い 孔明が鍛えた精鋭がそろっている 蜀は船で移動、魏は陸路で兵の疲労度が違う 魏にとって守るべき地が分散している 祁山(きざん)周辺の豊富な穀倉地帯がある そのため、周到に用意したトウ艾(とうがい)に 姜維は祁山や南安(なんあん)の 武城山(ぶじょうざん)でも 先回りされてしまいます。 蜀軍は安南をあきらめ方向転換して 上ケイ(じょうけい)をめざします。 しかしすでにその行動も予想されており 途中の段谷(だんこく)では 待ち伏せにあい魏に挟撃され 味方の到着も遅れ大敗します。 姜維もすんでのところで、援軍で現れた 歴戦の将 張嶷(ちょうぎょく)が奮戦して 姜維の身代わりとなり戦死。 姜維はなんとか生き延びますがその責任をとり、 (孔明に例にならい)自ら降格しました。 この敗北における部隊の減少は今後の蜀にとって 大きなポイントとなります。 257年 姜維に新たな機会が訪れます。 魏の諸葛誕(しょかつたん)が反乱を起こします。 この機に乗じて彼は兵4万を率いて挙兵。 姜維は駱谷道(らくこくどう)を経て秦川に出ようとします。 途中、兵糧豊富な長城(ちょうじょう)を狙いますが 司馬望(しばぼう)・トウ艾が積極的に戦おうとはせず 堅く守り続け、こう着状態。 魏の反乱軍諸葛誕(しょかつたん)の敗北の報が入ると 蜀軍は退却することとなります。 258年 姜維は呉の孫休(そんきゅう)より出陣を促す手紙を うけて出撃します。 祁山でまたもトウ艾と対峙します。 魏からの夜襲と伏兵に持ちこたえた蜀軍は攻勢にでます。 姜維はトウ艾の動きを封じて本陣を奪取し勝利します。 しかし、トウ艾は一計を案じていました。 姜維に対するデマを広めたのです。 それにより優位に進めていた戦いの中 デマに惑わされた 君主劉禅(りゅうぜん)から召還命令が出てしまいます。 こうしてまたもすんでのところで 姜維の侵攻はうまくいきませんでした。 万全な準備のままならぬままの毎年にわたる出撃は 蜀の国力を確実に疲弊していました。 しかし姜維の孤高の戦いはまだ続いていきます。
https://w.atwiki.jp/bou3/pages/22.html
2011-10-30 謀略級三国志の会 http //atnd.org/events/21339 日 時:2011/10/30 14 00~22 00 場 所:リバネスカフェ&ダイニング@四谷 参加者: yan3, fuku24, yshino271, Ogyui, kumuken3, ichi_s, musi 1戦目 ~サブタイトル~ 参戦軍師 賈詡 (yan3) 陸遜 (kimuken3) 姜維 (yshino271) 華佗 (fuku24) 貂蝉 (Ogyui) 左慈 (musi) 司馬懿 (ichi_s) 概要 新時代4回目で左慈勝利 備考 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1890.html
https://w.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1962.html