約 164,481 件
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/195.html
<魏 256年> <蜀漢 256年> <呉 256年> 256年 五鳳三年→太平元年(呉) 皇帝 孫亮(字子明・呉会稽王) 皇后 全氏(全尚の娘) 皇太子 (空位) 三公(呉) 丞相:孫峻→(死亡)→? 太傅:? その他の要職(呉) 太常:滕胤? 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:? 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 大司馬:呂岱(前上大將軍)→(死亡)→? 大将軍:?→孫綝(假節・永康侯) 驃騎将軍:呂據→? 車騎将軍:劉纂 衛将軍:滕胤 上大將軍:? 主な事件 太平元年春正月、孫權の廟を立て、太祖廟と称す《三国志呉書三嗣主伝孫亮に引く吳歷》 太平元年春二月朔、建業で火災があった。孫峻は征北大將軍の文欽の計を用いて、魏を征討した。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 八月、先に文欽及び驃騎將軍の呂據、車騎將軍の劉纂、鎮南將軍の朱異、前將軍の唐咨の軍を遣わして江都から淮、泗の領域に入った。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 九月丁亥、孫峻が卒す。從弟で偏將軍の孫綝を侍中、武衛將軍、領中外諸軍事と為し、呂據等を召還する。呂據は孫綝が孫峻に代わったことを聞いて大いに怒った。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 己丑、大司馬の呂岱が卒す。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 壬辰、太白が南斗を犯す。呂據、文欽、唐咨等は衛將軍の滕胤を丞相と為すよう表薦したが孫綝は聽かず。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 癸卯、(呂據らは)更に滕胤を大司馬と為して呂岱に代わって武昌に駐在させた。呂據は兵を引き還えし、孫綝を討たんと欲す。孫綝は使者を遣わして詔書をもって文欽、唐咨等を告喻させ、呂據を逮捕させようとした。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 冬十月丁未、孫憲及び丁奉、施寬等を遣わして舟で逆に呂據を江都に討たんとする。將軍の劉丞は步騎を督して胤を攻め、胤は敗れ三族皆滅んだ。 己酉、大赦。改年。 辛亥、呂據を新州で捕らえる。 十一月、孫綝を大將軍、假節と為し、永康侯に封じる。孫憲は將軍の王惇とともに孫綝を謀殺させんと欲すが事が発覚し孫綝は惇を殺す。憲を追捕させ自殺するよう命じた。 十二月、五官中郎將の刁玄が蜀に反乱があったことを告げた。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 誕生者 死没者 注 ▲PAGE TOP 255年<< >>257年
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/77.html
<魏 222年> <蜀漢 222年> <呉 222年> 222年 黄初三年(魏)→黄武元年(呉) 皇帝 曹丕(魏文帝) 三公(呉) 呉王:孫権 丞相:→孫邵《三国志呉書呉主権伝》 その他の要職(呉) 太常:? 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:? 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 大将軍:? 驃騎将軍:? 車騎将軍:? 衛将軍:? 主な事件 黄武元年春正月,陸遜の部隊の将軍宋謙等が蜀の五屯を攻める。これ皆破り、その将を斬る。《三国志呉書呉主権伝》 三月、鄱陽で黃龍が見られたと報告があった。《三国志呉書呉主権伝》 蜀軍は分かれて険地に拠り、前後五十余の陣営を張る。陸遜は軽重の兵をもって従え応じて拒む。正月から閏月に至って、大いに之を破り、数万人が降伏する。劉備は遁走し命からがら助かる。《三国志呉書呉主権伝》 初め孫権は魏の藩国として誠心仕えた。魏は侍中の辛毗、尚書の桓階を遣わして盟誓を伝え、人質として嫡子の入朝を促した。孫権は辞退し受けず《三国志呉書呉主権伝》 秋九月、魏は曹休、張遼、臧霸に命じて洞口に出撃し、曹仁は濡須に出撃し、曹真、夏侯尚、張郃、徐晃は南郡を囲む。孫権は呂範等に五軍を督させて水軍をもって休等を拒む。諸葛瑾、潘璋、楊粲は南郡を救援し、朱桓は濡須で監督し曹仁を拒む。時に揚、越の蠻夷は多くがいまだ平定されておらず、內に難問を抱えていた。それゆえ孫権は卑しく辭した上書を行い、自らの悔恨を披瀝した。「もし私の罪が余あるようでしたら、土地を民人に奉還して交州に拠って人生を終わらせようと思います」魏の文帝は答えて「君には本從橫之志があって、今は身を低くして國に奉り、自ら策名を寄越して遠く貢獻してきた。朕は君と大義を定めようと思っているのだ。どうして師を労って遠く江漢まで行くだろうか? しかし廊廟の議題で三公が君の過失を上奏し、それにはちゃんと筋道があって朕はわからなかったから、先に使者を遣わしたのだ。尚書、侍中を遣わして前言を踏襲させ、任子を定めたところ、君は理由をつけて辞退したため議者は怪しんだのだ。即日詔を下し、諸軍はただ溝を深く壘を高くして妄進しない。もし君が忠節を貫き、疑いを解き、孫登が朝に到れば夕には兵を召し還えすだろう。この言葉は真である。大江のごとくに!」孫権は遂に改年し、長江に臨んで拒守する。《三国志呉書呉主権伝》 冬十一月、大風。呂範等の兵で溺死者は數千。餘軍は江南に還る。曹休は臧霸に輕船五百を与え、決死の萬人で徐陵を襲わせた。攻城車を焼き、殺略したものは數千人。將軍の全琮、徐盛は魏の將の尹盧を追撃して斬る。殺したり捕獲した兵は數百。《三国志呉書呉主権伝》 十二月、孫権は太中大夫の鄭泉を遣わして劉備を白帝に訪れる。これより通交復す。そうしてなお魏文帝との往來もあった。後年断絶することになる。《三国志呉書呉主権伝》 是歲改夷陵為西陵《三国志呉書呉主権伝》 誕生者 死没者 注 ▲PAGE TOP 221年<< >>223年
https://w.atwiki.jp/coldmermaid/
当wikiについて。 当wikiは、正史三国志(+後漢時代)についてのあらゆる事柄を書き留める目的で作られました。 個人的な利用を想定しているので、原則非公開としています。 もし興味のある方がいらっしゃいましたら、右上部の「このウィキに参加」よりご連絡下さい。 注意書き 執筆者が呉の陸氏に傾倒しているため、記事の傾向に偏りがあります。 日本語訳は、ちくま学芸文庫「正史三国志」を参考にしています。 その他、独自の訳もあります。 郡県一覧は、後漢書の郡国志を参考にしています。 裴松之注や、三国志以外が出典の事柄には【】で出典を明記してあります。
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/133.html
<魏 246年> <蜀漢 246年> <呉 246年> 246年 延熙九年(蜀漢) 皇帝 劉禅(後主・魏安楽公) 皇后 張氏(前の皇后の妹・車騎將軍張飛の娘) 皇太子 劉璿 三公(蜀漢) 丞相:(空位) 司徒: その他の要職(蜀漢) 錄尚書事: 尚書令:蔣琬(前丞相留府長史)→(死亡)/費禕 太傅: 太常: 光禄勳: 衛尉:→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府: 大司馬:蔣琬→(死亡) 大将軍:費禕(尚書令) 驃騎将軍:? 車騎将軍: 衛将軍:? 主な事件 九年夏六月、費禕は成都に還る。《三国志蜀書後主伝》 秋、大赦。《三国志蜀書後主伝》 冬十一月、大司馬の蔣琬が卒す。《三国志蜀書後主伝》蔣琬が卒した後、劉禪は自ら國事を見るようになった《三国志蜀書後主伝に引く魏略》 誕生者 死没者
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/164.html
<魏 226年> <蜀漢 226年> <呉 226年> 226年 黄武五年(呉) 皇帝 孫権(呉大帝) 三公(呉) 丞相:顧雍(前太常) その他の要職(呉) 太常:陳化(兼尚書令)? 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:? 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 大将軍:? 驃騎将軍:? 車騎将軍:? 衛将軍:? 主な事件 五年春、令曰:「軍興日久,民離農畔,父子夫婦,不聽相卹,孤甚愍之.今北虜縮竄,方外無事,其下州郡,有以寬息.」是時陸遜以所在少穀,表令諸將增廣農畝.權報曰:「甚善.今孤父子親自受田,車中八牛以為四耦,雖未及古人,亦欲與均等其勞也.」《三国志呉書呉主権伝》 秋七月、孫権は魏文帝が崩御したと聞き、江夏を征討し石陽を囲むが、勝てず帰還する。《三国志呉書呉主権伝》 蒼梧で鳳皇が見られたと報告があった《三国志呉書呉主権伝》 三郡の惡地十縣を分けて東安郡を置く。全琮をその太守と為す。山越を討ち平定する《三国志呉書呉主権伝》郡の治所は富春《三国志呉書呉主権伝に引く吳錄》 冬十月、陸遜は便宜を陳情し、德を施し刑を緩めるよう勧めた。寬賦息調又云「忠讜之言,不能極陳,求容小臣,數以利聞.」權報曰:「夫法令之設,欲以遏惡防邪,儆戒未然也,焉得不有刑罰以威小人乎?此為先令後誅,不欲使有犯者耳.君以為太重者,孤亦何利其然,但不得已而為之耳.今承來意,當重諮謀,務從其可.且近臣有盡規之諫,親戚有補察之箴,所以匡君正主明忠信也.書載『予違汝弼,汝無面從』,孤豈不樂忠言以自裨補邪?而云「不敢極陳」,何得為忠讜哉?若小臣之中,有可納用者,寧得以人廢言而不採擇乎?但諂媚取容,雖闇亦所明識也.至於發調者,徒以天下未定,事以濟.若徒守江東,脩崇寬政,兵自足用,復用多為?顧坐自守可陋耳.若不豫調,恐臨時未可便用也.又孤與君分義特異,榮戚實同,來表云不敢隨容身苟免,此實甘心所望於君也.」於是令有司盡寫科條,使郎中褚逢齎以就遜及諸葛瑾,意所不安,令損益之.《三国志呉書呉主権伝》 是歲、交州を分けて廣州を置く。俄復舊.《三国志呉書呉主権伝》 誕生者 死没者 注 ▲PAGE TOP 225年<< >>227年
https://w.atwiki.jp/ishigamism_wiki/pages/151.html
作者:吉川英治 初版:2000年X月X日 感想:劉備、関羽そして張飛死す・・!次々に起こる訃報の知らせに孔明は南蛮へ往く。 【1回目】 期間:2010年4月12日(日)~18日(日) 日数: 三国志 吉川英治 歴史
https://w.atwiki.jp/san8/
このページは 「三國志Ⅷ」 の情報まとめWikiです。 公式サイト(PSP版) http //www.gamecity.ne.jp/psp/san08/ 現行スレ 三国志8・Ⅷ part31 https //medaka.5ch.net/test/read.cgi/gamehis/1568324136/
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/48.html
197年 建安二年(漢) 皇帝 劉協(漢献帝) 袁術(仲皇帝) 皇后 伏寿(琅邪郡東武県・父の伏完は不其侯、桓帝の娘陽安公主を娶る) 皇太子 (空位) 三公(漢) 太傅:(空席) 太尉:(空席) 司徒:趙温(前衛尉・194~208) 司空:曹操(196~209) その他の要職(漢) 録尚書事: ■曹操(司隸校尉・196~?) 太常: 光禄勳:→ 衛尉:→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府:→ 大司馬:張楊(前安国将軍・196~198) 大将軍:韓暹?/袁紹(自称・197~202) 驃騎将軍:? 車騎将軍:楊奉(196~) 行車騎将軍:曹操? 衛将軍:董承 地方官 司隸校尉:曹操(司空・行車騎将軍・196~) 豫州刺史:郭貢? 河南尹:駱業? 徐州牧:? 冀州牧:袁紹(191~202) 兗州牧:曹操?(前東郡太守) 荊州牧:劉表(192~208) 主な事件 二年春正月、曹操は宛に至り、張繡は降伏するが後悔し、復反く。曹操は戰って敗れ流矢にあたる。長子曹昂、弟の子である曹安民は害に遭う。曹操は兵を引き舞陰に還る。張繡は騎兵を率いて来攻するが擊破される。張繡は穰に走り劉表と合流した。曹操は諸將に私は張繡等が降伏したとき人質を取らなかったばかりに失敗した。私は敗因を知った。諸卿見ていてくれ。今後また敗れることはないだろう」遂に許へ還る。《三国志魏書武帝紀操》 曹操の乘馬は絕影という。流矢にあたって頰及足に傷を負う。また曹操も右臂を傷つく。《三国志魏書武帝紀操に引く魏書》曹昂は騎馬に乗れなくなり馬を曹操に進呈する。曹操は故に免れた。曹昂は害される。《三国志魏書武帝紀操に引く世語》舊制では三公が兵を領し謁見する際は、皆首の前で戟を交えた。曹操が張繡を討つため天子に謁見した時復古された。曹操は以後朝見することはなかった。《三国志魏書武帝紀操に引く世語》 曹操が舞陰から還えると、南陽、章陵の諸縣はまた張繡について離反した。曹操は曹洪を遣わして擊つも利あらず、葉に還り駐屯する。張繡と劉表は数度侵略してきた。《三国志魏書武帝紀操》 建安二年春、袁術が自ら天子を称する。《後漢書孝献帝紀》袁術は淮南で稱帝する。人を遣わして呂布に告げたが呂布は使者を捕らえて其書を上奏した。術は怒り布を攻める。布は破れる。《三国志魏書武帝紀操》 三月、袁紹は自ら大将軍と為す。#2《後漢書孝献帝紀》 夏五月、蝗。《後漢書孝献帝紀》 秋九月、漢水が溢れる《後漢書孝献帝紀》 秋九月、袁術は陳に侵入し、曹操は東征する。袁術は曹操自らが来たと聞いて軍を棄てて逃走する。其將である橋蕤、李豊、梁綱、樂就を留める。曹操は蕤等を撃破し皆斬る。袁術は淮河を渡って逃げ、曹操は許に帰還する。《三国志魏書武帝紀操》袁術は陳王劉寵を殺す。#1《後漢書孝献帝紀》 冬十一月、曹操は自ら南征し宛に至る。劉表の將である鄧濟は湖陽に拠っていたが之を攻め破る。鄧濟を生け捕る。湖陽は降伏した。舞陰を攻め、之を下す。《三国志魏書武帝紀操》淯水に臨み、亡き將士を祭る。流涕し、皆感慟。《三国志魏書武帝紀操に引く魏書》 この歳、飢饉。江淮の間に民相食う惨状。孫策が使いを遣わし奉献する《後漢書孝献帝紀》 誕生者 死没者 注 *袁術は陳に侵入した際、陳王劉寵を殺したものと思われる。 *この前年、三国志魏書武帝紀には十月頃曹操が大將軍を袁紹に譲った記述がある。詳細は不明。 ▲PAGE TOP 196年<< >>198年
https://w.atwiki.jp/ishigamism_wiki/pages/147.html
作者:吉川英治 初版:2000年X月X日 感想:裏切り続きの呂布、最後の時を迎える・・! 【1回目】 期間:2010年2月27日(土)~3月7日(日) 日数: 三国志 吉川英治 歴史
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/197.html
<魏 258年> <蜀漢 258年> <呉 258年> 258年 太平三年→永安元年(呉) 皇帝 孫亮(字子明・呉会稽王)→(廃位・会稽王)→孫休(呉景帝) 皇后 全氏(全尚の娘)→(廃位)→? 皇太子 (空位) 三公(呉) 丞相:?→孫綝→(誅殺)→? 太傅:? その他の要職(呉) 太常:全尚→(捕縛)→? 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:丁密(257?~262) 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 大司馬:? 大将軍:孫綝(假節・永康侯)→(誅殺)→? 驃騎将軍:? 車騎将軍:劉纂? 衛将軍:?→孫恩(前武衛将軍) 上大將軍:? 地方官 荊州牧:?→孫綝→(誅殺)→? 主な事件 三年春正月、諸葛誕が文欽を殺す。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 三月、司馬文王が壽春を落す。諸葛誕及び左右のものは戰死した。將吏以下皆降る。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 秋七月、故齊王の孫奮を章安侯に封じる。詔して州郡に宮材を徴発する。 八月から沈陰して雨が四十餘日降らなかった。四十餘日 孫亮は孫綝の専横に対して、太常の全尚、將軍の劉丞と謀り孫綝を誅殺せんとした。四十餘日 九月戊午、孫綝は兵を向かわせ全尚を捕らえ、弟の孫恩を遣わして劉丞を蒼龍門外で攻め殺す。大臣を召して宮門に集め、孫亮を會稽王にするとした。時に孫亮は年十六。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 己未、孫綝は宗正の孫楷と中書郎の董朝を遣わして孫休を迎える。孫休は初めその意を疑った。孫楷、董朝は孫綝等が奉迎する本意について説明した。一日二夜留まって、遂いに出発した。《三国志呉書三嗣主伝孫休》 十月戊寅、一行は曲阿に至る。老公が有って孫休に叩頭して曰わく「事は時間をかけますと変事が生じます。天下は待ちわびているのです。願わくば陛下速やかに行かれますよう」孫休は之を善しとして是日出発し布塞亭に到着する。武衛將軍の孫恩が行丞相事として百僚を率い乘輿法駕をもって永昌亭に出迎えた。宮を築き、武帳をもって便殿と為す。御座を設ける。 十月己卯、孫休が到着し便殿を望み住まうのを止めた。孫楷を遣わして先ず孫恩に会い、孫楷は還える。孫休は輦に乗って進む。衆臣は再拜して臣と称す。孫休は便殿に入り、謙譲して御坐につかず。東廂に留まる。戶曹尚書が前に出て階下から讚奏し、丞相が璽符を奉った。孫休は三度讓り、衆臣は三度請うた。孫休は「將相諸侯が寡人を推すならば、寡人は敢えて璽符を受けるのを拒まない」衆臣は次いで奉引し孫休は乘輿して百官は陪位した。孫綝は兵千人をもって半野に出迎え、道側に拝す。孫休は下車して答拜した。即日、正殿に御し、大赦す。改元。是歲は魏の甘露三年である。《三国志呉書三嗣主伝孫休》 永安元年冬十月壬午、詔して曰わく「こたびの論功行賞を行い、大將軍の孫綝を丞相、荊州牧と為し、食邑五縣を増す。武衛將軍の孫恩を御史大夫、衛將軍、中軍督と為し、縣侯に封じる。威遠將軍(授)[據]を右將軍と為し縣侯に、偏將軍の幹を雜號將軍、亭侯に封じる。長水校尉の張布は輔導勤勞であるから輔義將軍と為し、永康侯に封じる。董朝は親迎してくれたによって為鄉侯に封じる。」又詔して曰わく「丹陽太守の李衡は往事之ことがもとで自ら縛って有司に出頭した。李衡を郡に還らせよ。くれぐれも疑いないよう諭せ」《三国志呉書三嗣主伝孫休》 十月己丑、孫皓を烏程侯に、孫皓の弟の孫德を錢唐侯に、孫謙を永安侯に封じる《三国志呉書三嗣主伝孫休》 十一月甲午、風が四轉五復し、蒙霧が連日に及んだ。孫綝一門は五侯を拝し皆禁兵を司る。権勢は主を抜き、陳述するところあれば違うこともなく益々ほしいままであった。孫休は変事を恐れ数々の賞賜を与えた。《三国志呉書三嗣主伝孫休》 丙申、詔して「大將軍忠款內發,首建大計以安社稷,卿士內外,咸贊其議,並有勳勞.昔霍光定計,百僚同心,無復是過.亟案前日與議定策告廟人名,依故事應加爵位者,促施行之.」《三国志呉書三嗣主伝孫休》 戊戌、詔して「大將軍は中外の諸軍事を統括し、煩多であろう。衛將軍御史大夫の孫恩に侍中を加え、大將軍と政務を分けて諸事処理せよ」《三国志呉書三嗣主伝孫休》 壬子、詔して「諸吏家有五人三人兼重為役,父兄在都,子弟給郡縣吏,既出限米,軍出又從,至於家事無經護者,朕甚愍之.其有五人三人為役,聽其父兄所欲留,為留一人,除其米限,軍出不從.」又曰:「諸將吏奉迎陪位在永昌亭者,皆加位一級.」頃之,休聞綝逆謀,陰與張布圖計《三国志呉書三嗣主伝孫休》 十二月戊辰臘、百僚は朝賀す。公卿升殿,詔して武士が孫綝を捕縛し、即日誅に伏す。《三国志呉書三嗣主伝孫休》 己巳、詔して左將軍の張布が姦臣を討ったことから、張布に中軍督を加え、張布の弟の張惇を都亭侯に封ず。兵三百人を与える。張惇の弟の張恂を校尉と為す。《三国志呉書三嗣主伝孫休》 誕生者 死没者 注 ▲PAGE TOP 257年<< >>259年