約 164,484 件
https://w.atwiki.jp/sengokusi/pages/375.html
194年中国と1550年西日本を融合した半架空シナリオ。 あらすじ 時は西暦194年大陸ではもはや名ばかりの漢王室に見切りをつけ、有力な諸侯達が割拠。 中原を覗う。 時を同じくして日本では「下克上」の名のもとに各地の大名達が上洛を夢みていた。 大陸と日本 両国を股にかけた強者達の伝説が今始まる。 (OPより) 入手先 戦国史旧作シナリオ復興委員会 備考 シナリオデータ シナリオ名: 三国志vs戦国史(西日本) 作者: taka-mura 現バージョン: - 最終更新: 2006年1月31日更新 動作環境: SE◎ FE○ 旧× 規模: 中国大陸及び日本 開始年月: 194年1月 大名家数: 225 城数: 445 武将数: 1733 攻略難易度表(難 S ~ F 易) S A B C D E F キャプチャ画像 リプレイサイト 関連項目 以下、加筆求む
https://w.atwiki.jp/hdlwiki/pages/177.html
三国志11 【メーカー】コーエー 【発売日】2006/9/28 動作報告 HDL 純正 50000 HDLDump イメージ 数時間プレイ HDA3.0 SCPH-50000 純正 ok 商品の説明
https://w.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/329.html
編集を押すと内容の編集が行われます。 更新した内容は三国志9関連(更新中動画)に反映されます。 三国志9 編集 タイトル Part1 最新 リスト 備考 編集 外史英雄譚 Part1 Part5 リスト 更新停止(2014/11/7) 編集 サンゴクニカイドウ 1 87 リスト 編集 【三国志Ⅸ】 ルーミアの国取りグルメ旅2nd 0話 22話 リスト 更新中 編集 【三国志Ⅸ】 炎柱、蒼天を征く【鬼滅の刃】 0話 7話 リスト 更新中 編集
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/94.html
<魏 257年> <蜀漢 257年> <呉 257年> 257年 甘露二年(魏) 皇帝 曹髦(魏高貴郷公) 皇后 卞氏(父は卞隆) 皇太子 三公(魏) 太傅:司馬孚(前太尉) 太尉:高柔(前司徒) 司徒:鄭沖(前司空) 司空:盧毓(前尚書左僕射)→(死亡)→諸葛誕(征東大将軍) その他の要職(魏) 錄尚書事:司馬昭(大将軍) 太常: 光禄勳: 衛尉:→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府:→ 大将軍:司馬昭(大都督を加号) 驃騎将軍:王昶 車騎将軍:→孫壹 衛将軍: 地方官 冀州牧: 幽州牧: 并州牧: 青州牧: 徐州牧: 兌*州牧: 揚州刺史:楽綝→(死去) 雍州刺史:王経 交州牧:→孫壹(侍中車騎将軍) 主な事件 二年春二月、青龍が温県の井中に見られた《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 三月、司空の盧毓が薨ず《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 夏四月癸卯、詔に曰わく「玄菟郡高顯縣の吏民が反乱し、県長の鄭熙を殺した。民の王簡は熙の喪を行う。その忠節を嘉みし、特に王簡を忠義都尉に拝す《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 四月甲子、征東大将軍の諸葛誕を司空と為す《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 五月辛未、帝は辟雍に行幸する。会を開き臣に詩を賦すよう命じたが侍中和逌、尚書の陳騫等は作詩に戸惑った。有司が免官を奏上した。詔に言う「私は暗昧で文雅を愛好す云々」《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 五月乙亥、諸葛誕は徵するに応えず、兵を発して背く。揚州刺史の楽綝を殺す《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 五月丙子、誤って諸葛誕に付いた淮南将吏士民を赦す。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 五月丁丑、詔に曰わく「諸葛誕は狂乱を造り揚州を覆した。黥布、隗囂の故事もあり、威武を奮い輝かす。今、宜皇太后と朕は共に戎に臨み、速やかに平定する」《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 五月己卯、詔に曰わく「諸葛誕は逆乱を造り、忠義の士を脅かす。平寇將軍臨渭亭侯の龐会、騎督偏將軍の路蕃、各左右の将軍は門を突出し、忠壯勇烈、素晴らしい働きを見せた。龐会の爵を進め鄉侯とし、蕃を亭侯に封じる」《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 六月乙巳、詔して、呉の使持節都督夏口諸軍事鎮軍将軍沙羡侯の孫壹が帰属してきたので、侍中車騎将軍、仮節、交州牧、呉侯、開府辟召儀同三司と為す。古侯伯の八命の禮に依り、兗冕赤」《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 六月甲子、詔して、今車駕は項に駐留している。大將軍は天罰を行使し、前に淮浦を臨み、昔の相國大司馬が征討したように皆尚書とともに行くこととする」散騎常侍の裴秀、給事黃門侍郎の鍾會に令して大將軍とともに行かせる《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 秋八月、詔して曰わく「昔、燕が王を刺して謀反をした。韓誼等は諫めて死んだ。漢朝ではその子を顯みて官職を与えた。諸葛誕は凶亂を引き起こし、主簿の宣隆、部曲督の秦絜は節義を守って諌め殺された。絜の子を騎都尉と為し、下賜を加える」《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 九月、大赦《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 冬十二月、吳の大將である全端、全懌等が部族を率いて降ってきた《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 誕生者 死没者 盧毓(司空) 楽綝(揚州刺史)
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/174.html
<魏 236年> <蜀漢 236年> <呉 236年> 236年 嘉禾五年(呉) 皇帝 孫権(呉大帝) 皇后 (空位) 皇太子 孫登 三公(呉) 丞相:顧雍(前太常) その他の要職(呉) 太常:潘濬? 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:? 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 大司馬:? 大将軍:? 驃騎将軍:? 車騎将軍:? 衛将軍:? 上大將軍:陸遜? 主な事件 五年春、大錢を鋳る。一枚が五百に相当した。詔して吏民に銅を提供させ、銅を計って交換した。盜鑄之科を設けた。《三国志呉書呉主権伝》 二月、武昌で禮賓殿に甘露が降ったと伝えてきた。《三国志呉書呉主権伝》 輔吳將軍の張昭が卒す。《三国志呉書呉主権伝》 中郎將吾粲が李桓を捕らえ、將軍の唐咨が羅厲等を捕らえた。《三国志呉書呉主権伝》 去年の十月から雨が降らず今年の夏まで続く。《三国志呉書呉主権伝》 冬十月、彗星が東方に見られた。《三国志呉書呉主権伝》 鄱陽の賊の彭旦等が反乱する。《三国志呉書呉主権伝》 誕生者 死没者 注 ▲PAGE TOP 235年<< >>237年
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/13.html
<魏 264年> <呉 264年>? 264年 景元五年→咸煕元年(魏) 皇帝 曹奐(字景明・魏常道鄉公) 皇后 (空位)→卞氏 皇太子 三公(魏) 晉王:→司馬昭(相國) 晋公:司馬昭→(廃止) 相國:司馬昭(晋公→晉王) 太傅:司馬孚(前太尉) 太保:鄭沖(前司徒) 太尉:鄧艾(前征西將軍)→王祥(前司空) 司徒:鍾会(前鎮西将軍)→何曾(前征北將軍) 司空:王祥(前司隸校尉)→荀顗(前尚書左僕射) その他の要職(魏) 錄尚書事:司馬昭(大将軍) 太常: 光禄勳: 衛尉:→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府:→ 大将軍:司馬昭(大都督を加号) 驃騎将軍:王昶?→司馬望(前衛將軍) 車騎将軍:孫壹? 衛将軍:司馬望→ 地方官 司隸校尉: 冀州牧: 幽州牧: 并州牧: 青州牧: 徐州牧: 兌*州牧: 揚州刺史:? 雍州刺史:諸葛緒 交州牧:孫壹? 梁州: 主な事件 咸熙元年春正月壬戌、檻車で鄧艾を徵する。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 正月甲子、長安に行幸する。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 正月壬申、使者を使わして璧幣をもって華山を祀る。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 正月、鍾會が蜀で反乱を起こすが、兵に討たれる。鄧艾もまた殺される《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 二月辛卯、益州の地にあるものを特に赦す《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 二月庚申、明元郭后を葬送する《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 三月丁丑、司空の王祥を太尉に、征北將軍の何曾を司徒に、尚書左僕射の荀顗を司空と為す《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 三月己卯、晉公の爵を進めて王と為す。十郡に封じ、前と合せて二十とす。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 三月丁亥、劉禪を安樂公に封じる《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》景元五年三月丁亥、後主は家を挙げて東遷し、洛陽に至る。策命をもって太常を遣わし、劉禪を安樂縣公と為す。食邑萬戶、絹萬匹、奴婢百人、諸々を賜う。子孫は三都尉と為し侯に封じられた者は五十餘人。尚書令の樊建、侍中の張紹、光祿大夫の譙周、祕書令の郤正、殿中督の張通は皆列侯に封じられた。なお劉禅は晋の泰始七年に洛陽で薨じた。《三国志蜀書後主伝》諡は思公。子の劉恂が嗣いだ。《三国志蜀書後主伝に引く蜀記》 夏五月庚申、相國晉王が五等爵を復するよう奏上する。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 五月甲戌、改年する《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 五月癸未、舞陽宣文侯(司馬懿)を晉の宣王に、舞陽忠武侯(司馬師)を晉の景王に追命する《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 六月、鎮西將軍の瓘は雍州兵が成都縣で獲た璧玉印各一を上申する。印には「成信」に似た字が見えた。周の成王の歸禾之義にちなんで百官に宣示し、相國府に収めた《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 初め、蜀を平定した直後、吳は永安によって攻めてきたので、荊・豫の諸軍を掎角の形勢で赴かせ救った。七月、呉の賊は皆遁退した《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 八月庚寅、中撫軍の司馬炎に命じて相國の副と為し、昔魯公が拜した儀礼にならった。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 八月癸巳、詔して曰わく「前に逆臣の鍾會が反亂を企てたとき、相國左司馬の夏侯和、騎士曹屬の朱撫は成都にあって、中領軍司馬の賈輔、郎中の羊琇は各々鍾會の軍事に参与していたが、夏侯和、羊琇、朱撫は皆鍾會の凶言を拒み、危機に臨んで顧ず、軍を指し示した。輔語散將の王起は兵士を説いて有利な形勢を作った。これらの忠義を顕彰し広く知らしめる。夏侯和・賈輔の爵を進めて鄉侯と為し、羊琇・朱撫の爵位を關內侯と為す。王起を部曲の將と為す」《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 八月癸卯,衛將軍の司馬望を驃騎將軍と為す《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 九月戊午、中撫軍の司馬炎を撫軍大將軍と為す《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 九月辛未、詔して曰わく「吳賊の暴虐は極まりを知らない。孫休は鄧句を遣わして交阯太守に命じてその民を鎖につないで連行し兵に仕立て上げた。吳將の呂興は民心が憤怒したのを利し、また王師によって巴蜀が平定されたのを受けて即豪傑を糾合し鄧句等を誅殺し、太守長吏を駆逐して吏民を慰撫し、國命を待っている。九真郡と日南郡では呂興が逆を去り順に従ったとして応じようとしている。呂興は日南の州郡に書を届けて大計を示し、兵を合浦に進めて禍福を告げた。また都尉の唐譜等を遣わして進乘縣に留め、南中都督護軍の霍弋を通して上表し、交阯の將吏もまた各々上表してきた。曰く「時宜に合って呂興を督交阯諸軍事・上大將軍・定安縣侯と為しました。賜褒を乞い、辺境の荒廃を慰撫してください」と。今呂興を使持節都督交州諸軍事・南中大將軍と為し、定安縣侯に封じる」策命が至る前に興は下人に殺された《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 冬十月丁亥、詔して曰わく「今交阯の呉の將呂興は三郡を統べて万里の彼方から帰順している。武陵邑侯の相嚴等は五縣を糾合して臣従を請うている。豫章廬陵の山民は挙兵して吳に背き助北將軍と號している。また孫休は病死し、主帥が改まることで國內が乖離し人の心に動揺があるという。呉將の施績は賊の名臣だが、懷疑自猜し、嫌悪されている。以前より今に及ぶまで滅亡の兆しがここまで甚だしかったことはない。もし六軍を動員し南に長江を臨めば、吳會之域は必ず老幼を助けて王師を迎えるであろう。必然だ。しかしながら大動員をすればなお勞費がある。威德を告喻し仁信を開示して順を知らしめ附和同の利を示そう。相國參軍事の徐紹、水曹掾の孫彧は昔壽春にあって虜獲された者たちだが、徐紹は本呉の南陵督、孫彧は孫權の支屬で忠良である。徐紹を南に還えし、孫彧を副と為す。國命を宣揚し吳の人を告喻せよ。徐紹は散騎常侍を兼ねさせ、奉車都尉を加え、都亭侯に封じる。孫彧は給事黃門侍郎を兼ねさせ、爵は關內侯を与える。徐紹等が賜わった妾及男女家人で我が国にあるものは悉く随伴することを許す。國恩明らかをもって必ず還ることは出来ないだろうが、廣大に信を示せ」《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 十月丙午、撫軍大將軍で新昌鄉侯の司馬炎を晉の世子とするよう命じた。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 是歲、屯田官を廃止し政役を等しくした。諸典農は皆太守と為し、都尉は皆令長と為す。勸募蜀の人で內移したい者を募り、廩二年を給った。また二十歲の賦役を除いた。安彌・福祿縣で嘉禾が生えたと伝えてきた。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 正月十五日、魏の鍾会は成都に入った《三国志魏書鍾会伝》 正月十六日、鍾会は成都の政堂において太后の喪を発し、太后の遺詔を偽作して司馬昭を廃すよう申されたと宣言した《三国志魏書鍾会伝》 正月十八日、鍾会は胡淵率いる胡烈の軍兵に攻められ、姜維とともに亡くなった《三国志魏書鍾会伝》 誕生者 死没者 鍾会(魏の相国鍾ヨウの子・戦死・享年40歳) 姜維(蜀の大将軍・戦死) ▲PAGE TOP
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/110.html
<魏 238年> <蜀漢 238年> <呉 238年> 238年 景初二年 (魏) 皇帝 曹叡(魏) 皇后 (空位) 三公 燕王:公孫淵(自称:自立す。紹漢二年)→(死亡) 太傅:(空位) 太尉:司馬懿(前大将軍) 司徒:(空位)→韓暨(前大中大夫)→(死亡)→衛臻(前司空) 司空:衛臻(前尚書僕射)→崔林(前司隸校尉) 九卿 衛尉: その他の要職 大司馬:公孫淵(樂浪公・前車騎將軍)→(死亡) 大将軍:→曹宇(燕王)→曹爽(前武衛將軍) 驃騎大將軍:→ 車騎將軍:→ 地方官 荊州刺史:胡質 幽州刺史:母*丘儉 雍州刺史:郭淮 主な事件 景初二年春正月、太尉の司馬懿に詔して軍を出して遼東を討つ《三国志魏書明帝紀》 二月癸卯、大中大夫の韓暨を司徒と為す《三国志魏書明帝紀》 二月癸丑、月が心距星を犯す。又心中央大星を犯す《三国志魏書明帝紀》 夏四月庚子、司徒の韓暨が薨ず《三国志魏書明帝紀》 四月壬寅、沛國の蕭、相、竹邑、符離、蘄、銍、龍亢、山桑、洨、虹を分けて.十縣をもって汝陰郡を置く。宋縣、陳郡の苦縣を譙郡に属させる。沛、杼秋、公丘、彭城の豐國、廣戚を合わせて五縣をもって沛王國を作る《三国志魏書明帝紀》 四月庚戌、大赦《三国志魏書明帝紀》 五月乙亥、月が心距星を犯す。又中央大星を犯す《三国志魏書明帝紀》 六月、漁陽郡の狐奴縣を省き、また安樂縣を復活させる《三国志魏書明帝紀》 六月戊子、詔に曰く「昔漢の高祖は創業し光武が中興した。しかし墳陵は崩頹している。大魏が承代之意を尊崇するのに反する。高祖・光武の陵の四方百步は民が耕作牧樵採をしてはならないようにする《三国志魏書明帝紀に引く魏書》 秋八月、燒當羌の王芒中、注詣等が叛く。涼州刺史が諸郡を率いて攻め之を討つ。注詣の首を斬る《三国志魏書明帝紀》 八月癸丑、彗星が張宿に見られた《三国志魏書明帝紀》史官が帝に言上するに、「これは周の分野にあたり、洛邑は凶兆です」これによって大いに禳禱之術を修めきり抜ける《三国志魏書明帝紀に引く漢晉春秋》 九月、蜀の陰平太守廖惇が叛く。善羌侯宕の蕈營を攻め守る。雍州刺史郭淮は廣魏太守の王贇、南安太守の游奕に兵を率いさせて惇を討つ。郭淮は上書して贇﹑奕等は夾山の東西に兵を分けて挟み圍んでいます。まもなく落ちるでしょうと。帝は、兵勢が離れるのは悪いからと詔をもって郭淮を諌めたが、詔が至る前に奕の軍は惇に破られ、贇は流矢に当たって死んだ《三国志魏書明帝紀に引く漢晉春秋》 九月丙寅、司馬懿は公孫淵を襄平に囲み、大いに破る。淵の首は京都に送られる。海東の諸郡は平定される《三国志魏書明帝紀》 冬十一月、公孫淵を討伐した功績を記録する。太尉の司馬懿以下増邑封爵は各々格差があった。初め帝は司馬懿と議論し兵卒四萬人を発す。朝臣は四萬の兵が多く役費が提供し難たいのではないかと議す。帝は「四千里の彼方に征伐に赴き、奇策を用いるとはいえ兵力も必要であろう。役費から計るのは相応しくない」と言い、遂に四萬人を行かす。司馬懿が遼東に至り、霖雨が続き攻めることができなかった。朝臣らは淵を破ることができないのではないかと話し、司馬懿を詔で還すべきと議した。帝は「司馬懿は臨機応変のものだ。淵を虜にするのも時間の問題だ」と言う。まもなく皆策のようになった《三国志魏書明帝紀》 十一月壬午、司空の衛臻を司徒と為す。司隸校尉の崔林を司空とな為す《三国志魏書明帝紀》 閏月、月が心中央大星を犯す《三国志魏書明帝紀》 十二月乙丑、帝は病に臥す《三国志魏書明帝紀》 十二月辛巳、皇后を立てる。天下の男子に爵人二級を賜い、独り者に穀を賜う。燕王の曹宇を大將軍と為す《三国志魏書明帝紀》 十二月甲申、大將軍の曹宇を免じる。武衛將軍の曹爽を代わって大將軍と為す《三国志魏書明帝紀》帝は燕王の曹宇を大將軍と為し、使與領軍將軍の夏侯献、武衛將軍の曹爽、屯騎校尉の曹肇、驍騎將軍の秦朗等とともに輔政させようと思っていた。中書監の劉放、中書令の孫資は長く寵愛を受け権力を専らにしていたが、秦朗等ともとから仲がよくなかった。後に害があることを恐れていた。曹宇が常に帝の側にあって言を得られずにいた。甲申の日、帝は氣が微かになり、曹宇は曹肇を呼び議すところがあって殿をさがった。未まだ還る前、その少しの間にはただ曹爽が一人いるだけだった。劉放は之を知り、孫資を呼んで謀った。孫資は「動くべからず」と言うも、放は「俱入鼎鑊,何不可之有?」乃突前見帝,垂泣曰:「陛下氣微,若有不諱,將以天下付誰?」帝曰:「卿不聞用燕王耶?」放曰:「陛下忘先帝詔敕,藩王不得輔政.且陛下方病,而曹肇﹑秦朗等便與才人侍疾者言戲.燕王擁兵南面,不聽臣等入,此即豎刁﹑趙高也.今皇太子幼弱,未能統政,外有彊暴之寇,內有勞怨之民,陛下不遠慮存亡,而近係恩舊.委祖宗之業,付二三凡士,寢疾數日,外內壅隔,社稷危殆,而己不知,此臣等所以痛心也.」帝得放言,大怒曰:「誰可任者?」放﹑資乃舉爽代宇,又白「宜詔司馬宣王使相參」,帝從之.放﹑資出,曹肇入,泣涕固諫,帝使肇敕停.肇出戶,放﹑資趨而往,復說止帝,帝又從其言.放曰:「宜為手詔.」帝曰:「我困篤,不能.」放即上,執帝手強作之,遂齎出,大言曰:「有詔免燕王宇等官,不得停省中.」於是宇﹑肇﹑獻﹑朗相與泣而歸第《三国志魏書明帝紀に引く漢晉春秋》 誕生者 死没者
https://w.atwiki.jp/sangokushisenki/pages/40.html
多数いる武将の中に一部覚醒する武将が居て、その武将を精鋭部隊に入れていると、バトル中に一定確率で覚醒する事があります。 覚醒するとステータスが上昇するなど、大戦を有利にする効果があります。
https://w.atwiki.jp/sangokushisenki/pages/42.html
既に所持している武将を再度手に入れた際に自動で進化します。 進化一回目は、攻撃力・防御力の各ステータスが1.2倍になり、進化二回目は1.5倍になります。 ※どのレベルで進化しても倍率は同じです。
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/18.html
<魏 249年> <蜀漢 249年> <呉 249年> 249年 正始十年→嘉平元年(魏) 皇帝 曹芳(魏) 皇后 甄氏(文帝皇后の甄氏の兄甄儼の孫娘) 皇太子 三公 太傅:司馬懿(前太尉) 太尉:蒋済(前領軍將軍)→王淩 (前司空) 司徒:高柔(前司空) 司空:王淩(前車騎將軍)→孫禮(前司隸校尉) 九卿 大司農:桓範 地方官 荊州刺史:李勝 司隸校尉:畢軌→孫禮→ 主な事件 嘉平元年春正月甲午、車駕は高平陵(洛水の南の大石山にあり、洛城から九十里)へ詣でた。太傅の司馬懿は奏上して大將軍曹爽・爽の弟の中領軍曹羲・武衛將軍の曹訓、散騎常侍の彥官を免じる。以侯就第《三国志魏書三少帝紀》正月、魏の皇帝曹芳は曹爽兄弟を伴って高平陵へ参った。これを機会に司馬懿は兵を挙げ、武器庫を占拠し、ついで城外に出て洛水の浮き橋付近に駐屯して永寧宮(皇太后)に上奏した。皇太后は上奏を受け入れた。曹爽らは桓範の諌めを入れられず、司馬懿の使わした侍中の許允・尚書の陳泰らの進言を聞き入れ兵を解き、使者を返して自らの死罪を請わせた。かくて司馬懿は曹爽・曹羲・曹訓の下役と兵士を剥奪し、自邸に帰させた。その後張当が逮捕された時、曹爽・何晏らが実は三月にクーデターを起こす計画だったと陳述した。これによって曹爽・曹羲・曹訓・何晏・鄧颺・丁謐・畢軌・李勝・桓範・張当らを逮捕し、三族を処刑した。《三国志曹真伝》 正月戊戌、有司は奏上して黃門の張當を逮捕して廷尉に渡した。その言を考課するに、曹爽と不軌を謀ろうとしていたことが判明した。また尚書の丁謐・鄧颺・何晏・司隸校尉の畢軌・荊州刺史の李勝・大司農の桓範が皆曹爽と通謀していたとして三族皆殺しとなった。《三国志魏書三少帝紀》 正月丙午、大赦《三国志魏書三少帝紀》 正月丁未、太傅の司馬懿を丞相と為すも固辞して受けず《三国志魏書三少帝紀》詔して太常の王肅に冊命を持たせ太傅を丞相と為し、一萬戶を増し、臣奏事不得稱名の権を与え、漢の霍光の故事になぞらえた。太傅は上書して辞す。書は十餘以上もあり、詔して之を許す。また九錫之禮を加えようとするも太傅は又答えて固辞して受けず《三国志魏書三少帝紀に引く孔衍の漢魏春秋》 夏四月乙丑、改年。《三国志魏書三少帝紀》 四月丙子、太尉の蔣濟が薨ず。《三国志魏書三少帝紀》 九月、令孤愚は将軍の張式を白馬に派遣し、曹彪に挨拶させた。《三国志王淩伝》 十一月、令孤愚は再び将軍の張式を曹彪に派遣したが、張式が戻る前に病死した。《三国志王淩伝》 冬十二月辛卯、司空の王淩を太尉と為す。《三国志魏書三少帝紀》曹爽処刑後、王凌*を太尉に昇進させ節鉞を与えた。《三国志王淩伝》 十二月庚子、司隸校尉の孫禮を司空と為す《三国志魏書三少帝紀》 誕生者 死没者 令孤愚(王凌*の甥・病死) 曹爽(曹真の子) 曹羲(曹爽の弟) 曹訓(曹爽の弟) 何晏(何進の孫・曹操の側妾尹氏の子・公主を娶った) 鄧颺(後漢の功臣鄧禹の子孫) 丁謐(丁斐の子) 畢軌(息子が公主を娶った) 李勝(李休の子) 桓範(王象らと皇覧の編集をした) 張当