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ウィキペディアより引用します。 読むのが面倒だ!という方は日本における三国志の受容と流行までの文を読んでから 管理人が最後に書くまとめみたいなんでも読んでみてください。 といっても管理人もあまりよんでませんが。 三国志(さんごくし)は、中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃 - 280年頃)の興亡史である。“三国志”と呼ばれるのは、ほぼ同時代の歴史家陳寿(233年 - 297年)がこの時代の出来事を記録した歴史書の名前が、『三国志』であることにちなむ。 「三国志」とはその名のとおり、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国が争覇したことから付いたものであり、三国時代のことを叙述した歴史書が、元蜀の家臣で後に西晋に仕えた陳寿によって『三国志』と名づけられた事に由来する。この時代の曹操・孫権・劉備らが争い合ったことは一般にも良く知られている。 その後、歴史書の『三国志』やその他の民間伝承を基として唐・宋・元の時代にかけてこれら三国時代の三国の争覇を基とした説話が好まれ、その説話を基として明の初期に羅貫中らの手によって『三国志演義』として成立した。 「三国志」の世界は『三国志演義』を基としてその後も発展を続け、世界中に広まった。 日本における三国志の受容と流行 正史の受容 『三国志』の伝来時期は正確には判明していないようである。 天平宝字4年(760年)に成立した『藤氏家伝』大織冠伝には蘇我入鹿の政を「董卓の暴慢既に國に行なはる」と批判する記述があり、すでに董卓の奸臣としてのイメージが形成されていた事が窺われる。 天平宝字4年淳仁天皇は舎人6人を大宰府に遣わして吉備真備の下で「諸葛亮八陳」「孫子九地」といった陣法を修得させている(『続日本紀』巻23)。 神護景雲3年(769年)称徳天皇が大宰府の請に応じて『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』『晋書』を下賜している(『続日本紀』巻30)。これらの史書が日本国内に普及する過程を示す一例である。 藤原佐世が撰述した平安初期の漢籍目録『日本国見在書目録』には[2]当時の日本に存在した後漢時代の史料として『東観漢紀』『後漢書』『三国志』『後漢紀』『帝王世紀』を挙げる。また、平安末期の藤原通憲(信西)の『通憲入道蔵書目録』には「『魏呉蜀志』二十帖」があり、藤原頼長は読了した漢籍として「『三国志』帝紀十巻」を挙げている(『台記』巻3・康治2年(1143年)9月29日条)。 『太平記』巻20「斉藤七郎入道々献占義貞夢事付孔明仲達事」(西源院本の事書)には、大蛇に変身する夢を見た新田義貞が吉夢であると喜ぶが、斉藤道献は密かに大蛇を「臥竜」諸葛孔明の奮闘と無念の死に重ね合わせ、燈明寺畷での義貞の戦死を予感するという描写がある。この物語は曹操・劉備存命中に五丈原の役が起こるなど、史実や演義などと異同がある上孔明の出廬の場面も潤色されており、日本でアレンジされた一つの三国志物語とも言える。 中世以降、五山の学僧や江戸の漢学者は主に朱子学に基づき三国志の人物を論評した。諸葛亮が「王佐の才」を有するか否かについて鵜飼石斎はこれを肯定し、伊藤仁斎はこれを否定した[3]。 林鵞峰以降、江戸期の漢詩の題材としても三国志の人物が好まれ、特に関羽と諸葛亮が至忠の烈臣として讃えられた[4]。明治期の土井晩翠の新体詩「星落秋風五丈原」(明治32年(1899年)『天地有情』所収)もこの伝統を踏まえたものである。 明治以降の正史に基づいた史伝として内藤湖南『諸葛武侯』(東華堂 1897年)、吉川幸次郎『三国志実録』(筑摩書房 1962年)がある。また陳舜臣『秘本三国志』などの小説の一部には正史の記述が取り入れられている。しかし、吉川三国志などの急速な普及により三国志といえば、『三国志演義』の物語を指すのが通常であった。 状況が一変するのは『世界古典文学全集24 三国志』全3巻(筑摩書房 1977年 - 1989年)で『三国志』が初めて日本語訳され、1993年に文庫版が発売されてからである。これにより、一般の三国志愛好家が正史を読むことができるようになり、多くの人々が『三国志演義』により固定化されていたイメージに疑問を持つようになった。これ以後、正史を基礎とした三国志の解説書が多数登場し、漫画やゲームなどにも正史を基にした作品が現れるようになる[5]。ただし、これらの作品はいずれも横山三国志(漫画家横山光輝)など従来の演義ベースの設定に拠っている部分も多く(特に人物の外見や武具など)、純粋に正史に基づいた作品というよりは、演義に基づいた三国志ブームの中で人物設定や出来事など一部の事柄を正史に基づいて再構成したという意味合いが強い。 三国志演義・大衆文化の受容 『三国志演義』の伝来時期は確定されていないが、江戸初期には『演義』受容の記録が漸く増加し、詩文などの中に演義の影響を受けたものも見られる。[6]林羅山は慶長9年(1604年)までに『通俗演義三国志』を読了した[7]。また、元和2年(1616年)に徳川家康の遺志により駿府の文庫から水戸藩・尾張藩へ移された書籍の内に『演義』があった[8]。 『三国志演義』の日本語訳として、元禄2年(1689年) - 5年(1692年)に湖南文山(『大観随筆』によれば天龍寺の僧義轍および月堂の筆名)『通俗三国志』が刊行される。これは日本語完訳された初めての外国小説であり、満州語版に次いで2番目の外国語訳『三国志演義』である[9]。同書は以後も再刊を繰り返し、葛飾戴斗(葛飾北斎の弟子))の錦絵を付した池田東雛亭編『絵本通俗三国志』(天保7年(1836年) - 12年(1841年刊)が人気を博し、明治には幸田露伴『新訂通俗三国志』(東亜堂書房 1911年)がある。 明治以後には『通俗三国志』以外にも諸種の訳が現れ、明治期には久保天随『新訳演義三国志』(至誠堂 1912年)が名高い。戦後は小川環樹・金田純一郎『三国志』(岩波文庫 1973年 改版88年)、立間祥介『三国志演義』(平凡社 1958年、徳間文庫 1983年)、井波律子『三国志演義』(ちくま文庫 2003年)、渡辺精一『新訳三国志』(天・地・人の巻 講談社 2000年)があり、これらの訳本は改稿・重版を経て現在も通行している。 『通俗三国志』の刊行以後、大衆文化にも三国志が普及し歌舞伎においては早くも文化8年初演「助六由縁江戸桜」に「『通俗三国志』の利者関羽」という台詞が出る。また万延元年初演「三人吉三廓初買」では「桃園ならぬ塀越しの、梅の下にて」義兄弟の契りを結ぶ場面がある。また元文2年初演の作品に「関羽」というそのものずばりの題名もある。近年では市川猿之助のスーパー歌舞伎『新・三国志』がある。 洒落本では夢中楽介の『通人三国師』(天明元年(1781年)刊がある。劉備が吉原で料亭を営むところに借金を抱えた孔明が転がり込み、さらに仲達が押し掛けるが孔明の計略で撃退される、という筋立てである。このような三国志のパロディは文人のみならず読者層にも三国志の物語が広く敷衍していたことを示すもので、江戸人の『演義』読解への熱意を見出す見解がある[10]。 曲亭馬琴は羅貫中ら中国の小説家を崇敬し自らを羅貫中になぞらえており、読本の表現手法において『三国志演義』に負うところが大きい[11]。その一方、随筆においては関羽に対する辛らつなコメントを残している。 戦国の人物を三国志の登場人物になぞらえることも行われ、竹中半兵衛は諸葛亮に擬せられ[12]、豊臣秀吉・徳川家康は諸葛亮の智謀・関羽の勇を兼備した武将と評された[13]。 明治以後は『三国志演義』をもとにした時代小説も多く現れるようになり、児童向けの野村愛正『三国志物語』(大日本雄弁会講談社 1940年)などがあるが、戦後の三国志ブームの礎となったのが吉川英治の新聞小説『三国志』(『台湾日日新報』等に連載。単行本は大日本雄弁会講談社 1948年・六興出版 1956年)である。戦闘シーンなどの冗長な描写を省き、人物像にも独自の解釈を取り入れた格調高い歴史文学として評価されている。また、中国人と日本人との感性の差を考慮し、日本人にとって受け入れがたいエピソード(劉備をもてなすのに劉安が妻を殺してその人肉を提供するなど(鉢の木のエピソードの原型版))に作者のコメントを寄せるなどの改変を行っている。それまで単なる悪役扱いだった曹操を、人間味あふれる乱世の風雲児として鮮やかに描いているのが特徴である。日本では、吉川三国志が事実上の底本となっている。これ以後柴田錬三郎『三国志』(鱒書房 1955年)『柴錬三国志 英雄ここにあり』(講談社 1975年)『柴錬三国志 英雄生きるべきか死すべきか』(講談社 1977年)[14]、陳舜臣『秘本三国志』(文藝春秋 1974年)『諸葛孔明』1991年 『曹操』1998年(各.中央公論社 のち同文庫)、北方謙三『三国志』(角川春樹事務所 1996年)、安能務『三国演義』(講談社 1999年)、宮城谷昌光『三国志』(文藝春秋 2004年)を代表とする「三国志」小説が次々と登場する。 戦後のメディア作品としては吉川三国志をそのまま漫画化した横山光輝の漫画『三国志』や人形劇の『人形劇三国志』などが高い評価を受けた。また、曹操を主人公とした漫画である『蒼天航路』も高い評価を受けている。ゲームについては、『三國志シリーズ』や『真・三國無双シリーズ』などがヒット作品となっている。2008年には、ジョン・ウー監督のもとで「赤壁の戦い」をメインにした映画『レッドクリフ』が公開され、ヒット作品となっている。 高度成長期のビジネス競争の過熱の中で、競争を生き抜く知恵や企業のリーダー像の見本として、『孫子』などともに『三国志演義』もしばしば引き合いに出され、『三国志演義』に学べとしたビジネス書が多数刊行された。 1980年代以降、ゲーム・漫画において爆発的な三国志ブームが起き、三国志はジャンルの一つとして定着する。その後今日に至るまで、漫画やゲームや映画やアニメとして多数の作品が出版・製作され、不動の人気を博してきた。また他にも、三国志に出てくる人物の名前やその時代観を基にした、全く違ったものが作られるなど多彩なものと成りつつある。 そしてそれら三国志を題材にした作品は、必ずしも『三国志』あるいは『三国志演義』に忠実なものではなく、大きく改変が加えられているものも多い。特に顕著な傾向として、諸葛亮死後以降の展開については省略が目立ち、晋の統一に至るまで忠実に描き切った『三国志』作品は国内では皆無である。また、「もし、こうなっていたら」という仮定の設定で作られているものや、君主の設定が少し違うもの、あるいは基になっている人物の性別を換えているものなど、多種多様な作品が存在している。 三国志とは蜀の臣下の陳寿という方が記した歴史書だったんですね。 みなさん三国志は吉川三国志やその漫画版 横山光輝の三国志、 あるいはコーエーのゲーム三国志、三国無双。今年はレッドクリフなどの方がほとんどでしょうが ほとんどが三国志演義ベースなんですね。 北方謙三などが正史ベースです。 蒼天航路はどっちかな? えぇ?正史とか演義って何?ってかたは正史と演義を。 興味をもっていただけましたか? このwikiを読み通せばあなたも立派な 三国志オタク!!
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諸葛亮の次の天才軍師は? 選択肢 投票 龐統 (26) 司馬懿 (68) 陸遜 (25) (この三国志投票はどれかが50を超えると更新します。) 過去の投票 関羽と張飛、どちらが好き? 50対48で関羽の勝ち! 好きな皇帝は誰ですか? 劉備50 曹操13 孫権4で劉備の圧勝!
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ユーチューブ三国志ビデオ レッドクリフ予告編part1 レッドクリフ予告編part2 未来への最終決戦 三国志人形劇 三国無双4ムービー
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お気楽三国志日記 三国志日記始めましたの巻 2011 2/21 こんちは~~管理者で~す。いきなりお気楽ですみません。ところで皆さんは三国志好きですか?まぁ好きじゃないと多分このサイト見ないと思いますけどね(・ω・)僕は三国志を 愛してやまないです。(=Д=)特に諸葛亮大好き!!ヽ(^。^)ノみじかいですけどここらへんで終わります。バイバイ(/_;)ノシゥゥ 三国志とは奥が深いの巻 2/23 こんちは~いやぁ~三国志とは奥が深いですね~。え?なぜかって?そりゃぁ蜀が長安まであと一歩という所で雨が降ったりしたり、呉がいきなり裏切って関羽が死んだりして…人生もそんなもんですかね。例えば、親友だと思っていた人がヤクザのボスだったり(?) まぁ三国志と同じように人生は何が起きるか分かりませんね。じゃ、そういうことで~ 更新遅れてすみませんの巻 3/5 いやぁ更新遅れてすみません。m(_ _)mちょいとした理由がありましてね・・・ 許してくださいまし。。。じゃぁそういうことで~ ってだめですよね(笑)理由を教えないと。実は三国志読みまくっていて全く忘れてました。すみませ~ん。 もうこの日記の存在忘れてましたの巻 3/29 いきなり衝撃発言でごめんなさいwwできれば更新していきますんでヨロシク! ところで僕最近三国志11というゲームにはまってます。とってもおもしろいんで買ってね!(こ、これは宣伝ではないですよ(汗)) ほぼ壊滅状態の巻 2012 2/4 久しぶりに自分のサイトを覗いてみたら・・・ なんとこの日記があるのを思い出しましたぁ テヘッ☆ 次回予告ですが、一ヶ月ぐらいで更新したいと思います。 そろそろ勉強のほうもあるからなぁ・・・ 一ヶ月で更新なんて出来るかの巻 6/13 一ヶ月で更新だぁ? 絶対無理です。(´・з・`) 一年に一回更新できたら良いぐらいな感じで・・・ あ、それとハンゲーム様のブラウザ三国志って知ってますか? やってみたいんですけどどんな感じか教えてくださいorz デハデハ
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1:『三国志』って何? 語ると長いが、『三国志』自体は中国の歴史書の名前である。著者は陳寿(字は承祚。232-297。三国~晋の時代に生きてた人)。 裴松之(372-451)という人が後になって異説や民間伝承などを注釈として入れ、現存する今の形になっている。 この注釈部分が後に出る『三国志演義』に大きな影響を与えた。 『三国志』は、中国後漢・三国時代を紀伝体という書き方でまとめたもので、中国歴代正史の一つ。 その名の通り、中国大陸を「魏」・「呉」・「蜀」と三つに分けた時代の成り立ちから末路までを著している。 魏が30巻、呉が20巻、蜀が15巻の全65巻。 漢(後漢)の皇帝から禅譲(全く血の繋がらない貴方に皇帝の座を譲ります、ということ)された「魏」を正当な王朝としている。だから巻数も多い。 後漢が名ばかりの国となり群雄割拠の時代に入る。その中から飛び出した「曹操」・「孫権」・「劉備」が「魏」・「呉」・「蜀」という国をそれぞれ建国し、その後三国時代からその末期までを時代に生きた人物伝で追うことができる。 余談だが、「漢」という字自体中国に関することを表す。「漢方」・「漢字」・「漢文」など。 2:劉備が主人公?曹操って悪い奴って聞いたけど? そうではない。そんなのは人それぞれの感じ方次第だと言いたいが、文学の影響は絶大である。 何故、こんなイメージがついてしまったか。 全ては『三国志演義』にある。 『三国志演義』は中国明の時代(1368-1644)に出来た全120回の長編小説で、羅貫中( 施耐庵)という人がまとめた。 漢の皇帝の血を引いている(と言っても何十人といた皇帝の子供の末裔)劉備が、草鞋売りから一念発起して戦いと放浪の果てに今の中国四川省を中心に「蜀(蜀漢)」という国を作って、劉備が亡くなると臣下の諸葛亮が劉備の思いを叶えようと必死に頑張る姿が描かれている。 有名な横山光輝の『三国志』も、『三国志演義』をベース(吉川英治ベース)にしている。 だから劉備が主人公で、曹操がライバルとして描かれているのだ。 一言で「三国志」といってもごちゃごちゃになるので、『正史』・『演義』と区別することがある。ただ、基本的に「三国志」といったら『正史』を示す。 語弊があるかもしれないが、『三国志』が原作で、『三国志演義』が二次創作、と言えば分かりやすいか。 ちなみに。 『演義』の内容を正史だと言わんばかりに熱く語ると、痛い奴だと思われるし、笑われるので気を付けよう。 でも、『正史』が全て正しい訳ではないので、その点も注意しよう。(「正史」というのは、皇帝から正式に認められた史書という意味だよ) 3:三国志のゲームってどうなってるの? 『幻想三国志』で使用されているゲームは、KOEI(旧光栄。2ch内では”肥”と呼ばれる。面倒なのでここでも肥で)から出ている三國志シリーズ第9弾『三國志9』(PCPK版)。 PS2でも出ているが、顔グラの変更ができない。 基本的に三国志演義準拠。ただし、正史にしか登場しない人物も出てくる。能力値などは5作品目くらいから正史要素も含まれ始めた。 詳しいシステムについては三國志9の基本システムで述べるが、プレイヤーが君主となり、国を育て繁栄させる内政や、自国を守ったり他国の領土を奪う戦争、他国との外交、他国への計略などを指示する。で、領土を広げ、全ての都市を攻略し大陸統一を果たして終了。 シリーズによっては、プレイヤー=君主ではないものもある。三國志に出てくる全ての武将から一人選んで操作。つまり自分の分身。君主になるもよし、軍師を目指すのもよし、友達100人目指すのも、引き篭もりニートでもよし。 しかし、このシステムのシリーズは、大体売り上げと評判がわr(ry ちなみに、これから買う方に注意。 肥の歴史戦略ゲームシリーズには必ず「本体」とその後に出る「PK」がある。「PK」とはパワーアップキットの略。 「本体」の追加要素として販売されるが、実はコイツが曲者。 「本体」ではいろいろと不具合の多かった部分が改善されたり、面白システムが追加されていたりする。 『三國志9』でいう「抜擢武将システム」がいい例。 なので、「本体」だけでは絶対に後悔する。試作品とまで言われているくらいだ。なので、必ず「PK」と一緒に買うこと。 そして、肥のサイトへ行ってバグの修正(パッチをあてる)をしよう。 「本体」だけでは絶対に満足させず(人はこれを手抜きといふ)、「PK」を買わせる。これが『肥商法』である。 キタネーヨ、と思わせつつも、ついつい買うのが三國志ゲームファン。 歴代の三國志ゲームを続けているつわものは皆、この道を歩んでいる。 4:結局、歴史なんて難しすぎてワカンネーヨ 待て、慌てるな。これは孔明の(ry という、この孔明も三国志の人物である。 歴史は後世の人物が綴ったものであり、100%真実ではない。それを読んだ人間によって感じ方は様々。また、古ければ古いほど史料の残存率は低く、結局は想像と憶測でしか語れない部分も少なくない。 管理人の個人的意見だが、もし、『幻想三国志』の動画を見て『三国志』に触れたくなったら、吉川英治の「三国志」をまずお勧めする。北方謙三や横光もお勧め。 「お勧め三国志」という項目も作ったので、自分にあった三国志入門書が見つかると思う。 それから『正史』に触れて欲しいな。いきなり『正史』は難しいよ。 ▲ 上へ
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三国志(さんごくし) Wikipediaより 三国志(さんごくし)は、中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃 - 280年頃)の興亡史である。“三国志”と呼ばれるのは、ほぼ同時代の歴史家陳寿(233年 - 297年)がこの時代の出来事を記録した歴史書の名前が、『三国志』であることにちなむ。 つまり、コーエー「三國志オンライン」とは、史実を元にした物語を下地において作られている。コーエーの三國志シリーズは比較的三国志演義の影響を受けていると言われ、演義は史実とは異なる点も多々指摘されている。しかし史実を元に書かれたことには違いが無い。 魏呉蜀が三国で争っていた時代は西暦180年頃~280年頃のことであり、日本で言うところの倭の時代である。「三国志」魏書・東夷伝(いわゆる「魏志倭人伝」)によると、倭の女王卑弥呼が魏の明帝へ使者を送ったという。この明帝とは、曹叡(曹元仲)のことを指す。曹叡は高名な曹操(曹孟徳)の孫であり、文帝曹丕(曹子桓)の長男でもある。 時代考証 ただし、4gamerインタビューによると「年代を決めてしまうと,登場する有名武将が,限られてしまう」(上野氏)ために、三国志の長い歴史(180年頃~280年頃)のすべての時代を取り扱っているとされている。つまり、「三国志演義」に登場するような武将たちが史実の生没年代にかかわりなく登場するということである。 また、同インタビューにて上野氏が、「三國志の世界と古代幻想中国の融合を目指していますので,妖術はありますし,牛魔王のような,その当時信じられていたであろう怪物が存在します。」と言っている。 つまり、現代の歴史考察においては存在しない化け物など、「あの時代に生きていた人が普通に信じていたもの」もゲーム中に登場させるし、妖術といったものもまた然りということである。その代表的なものとして、青龍、白虎、朱雀、玄武のいわゆる四神のほかに、「陰陽五行説をベースにしている」ため麒麟までもが登場するという。 三国志オンラインの地名 プレイヤーが最初にゲーム内に降り立つ水鏡村は、水鏡先生つまり司馬徽が住んでいたといわれる村をモチーフにしている。水鏡村に立っている戦闘総師範徐庶は、司馬徽の弟子の一人。 実際には司馬徽は、荊州の都市襄陽にすんでいたと言われ、劉備が三顧之礼で迎えた諸葛亮は襄陽西北郊外の隆中山に住んでいたという。
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乱数を発生させるにはRandomクラスを利用する。(Mathクラスもあるが・・・) -------------------------------- import java.util.Random; /* 0~9までの乱数を10回標準出力へ */ public static void main(String[] args){ Random ran = new Random(); for(int i = 0; i 10; i++){ System.out.println(ran.nextInt(10)); } } //※nextInt(n)は0~(n-1)の範囲の乱数が生成される -------------------------------- Randomのメソッド nextBoolean() boolean型 trueまたはfalse nextInt() int型 -2147483648~+2147483647 nextLong() long型 -9223372036854775808~+9223372036854775807 nextDouble() double型 0.0以上1.0未満 nextFloat() float型 0.0以上1.0未満
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《三国志》 「西遊記」「水滸伝」と並ぶ「中国三大奇書」(時々「封神演義」を加えて四大奇書とするときもある)のひとつ。 しかしそのカテゴリーに入れられるのは、本来歴史書である「三国志」を題材に、民間伝承や異説などを交えて物語風にアレンジされたものを編纂した「三国志演義」である。 史書としての「三国志」は、中国の後漢末から呉の滅亡までのおよそ100年間(一八〇頃~二八〇頃)の中国の歴史を、東晋(3世紀ごろ)に陳寿がまとめ上げ、その後宋(5世紀ごろ)の時代に裴松之が注をつけたたもの。大きく分けて「魏書(魏志)」「蜀書(蜀志)」「呉書(呉志)」の三つから構成される。 形式は紀伝体(その時代に活躍した人物などの伝記を中心とする史書の形式)であり、日本史の授業でおなじみの「魏志倭人伝」は魏書の三十巻目に収録された「東夷伝」の一節にあたる。 なお「演義」が成立したのはそれから700年余り後、明の時代である。 「演義」の構成は「七実三虚」といわれ、七割は史実を基にしたネタ。実際正史と読み比べると、明らかに作り話としか思えないような話が史実だったりするから面白い。 逆もまた然りで、映画「レッドクリフ」の舞台でもあり歴史の上では三国時代幕開けの重要な戦役である赤壁の戦い(208年)も、演義準拠の各種メディアのイメージから劉・孫連合軍vs曹操軍の一大決戦というイメージも強いが、実際は小規模な戦闘があったかどうかすら解らないといわれるほど資料が乏しく、一説には「赤壁の戦いという戦役そのものが存在しない」とすらいわれる。 物語化されたものがさらに漫画等のメディアに転嫁しやすいためか、その金字塔ともされる横山光輝「三国志」(通称「横光三国志」)を筆頭に、コーエーのSLGシリーズや同社の「三国無双」シリーズなどゲーム化された作品も数多く存在する。 基本的にはこれらのストーリーは演義準拠のため蜀の劉備、諸葛亮が主役的な扱いで描かれていることが多いが、近年愛読者数を増やしている「蒼天航路」(講談社/作・李学仁、画・王☆欣太/全36巻)は、本来「演義」では敵役になる魏の太祖武帝・曹操を主人公とし、正史準拠の一大大河ドラマを描き出し人気を博した。 また、キャラの一部を女性化し、挙句学園モノのバトル漫画として世に出た塩崎雄二の「一騎当千」、あるいは完全に武将たちを女性化した美少女ADV+SLGである「恋姫無双」などが登場し、ある意味ではカオスな方向性に向かっているジャンルでもある。 ゲーム的な金字塔であるコーエーの「三国志」シリーズも、武将の能力は初期において非常に演義色が強かった(というか横光三国志など先行メディアの影響が強かった)ため、著名な武将や劉備関係の武将たち以外の能力値は悲惨な能力値査定をされていることが多かった。だが、近年は「帰正史運動」による人物再評価の影響もあり、見違えるほど有能な能力値を設定されるようになった人物も多数存在する(もちろん、逆に下方修正された人物も決して少なくない。趙雲などがそうかも)。 さらに、PC版などでは武将の能力値エディットをしたり、あるいはオリジナル武将を多数登録したりできるため、ニコ動ではそうしたオリジナルキャラを多数登録したりしてのリプレイ動画シリーズ(ニコ動歴戦シリーズ)も多く存在する。これの作者は物語作りの演出(俗に「紙芝居」と呼ばれるパート)にも凝ったつくりをしている。 その場合(特に東方Project関連キャラを加えたリプレイ動画において)、特定のキャラが設定数値に表れない強力な補正を発生させて、時にゲームバランスを崩壊させてしまうという事例の存在(俗にいう「チルノ補正」)も多数報告されている。 「三国志」ファンの中には、その興味が高じて正史や後漢書、あるいは関連歴史書まで読み漁るようなコアなファンもおり、そうしたコアなファンを特に「三国迷(さんごくめい)」と呼ぶこともあるらしい。 住人では狐が「蒼天航路」愛読者であり、彼奴がコメなどで使う「くぉのしれいぬ(痴れ犬)どもぐぁーッ」「どいつもこいつもどうしてくれよう!」「ならばよし!」などはこの漫画が出典。 三国志ネタコメは横光三国志ネタのほうが(知名度的なものもあってか)一般的には良く使われるのだが、狐は頑ななまでに横光ネタを避けて蒼天ネタに拘っている。何故かは良く解らない。
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三国志慣用句紹介 関羽千里行かんうせんりこう 重要度:★★★★☆ 汗血馬かんけつば 重要度:★★★☆☆ 一日に千里走るといわれている馬の種類。 「血のような汗を流しながら走る馬《と「全く汗をかかず走る馬《という意味があるらしいがおそらくは前者。 臥竜がりゅう・鳳雛ほうすう 重要度:★★★★☆ 伏竜・鳳雛とも呼ばれる。臥竜は地に隠れ潜む竜のこと、鳳雛は鳳凰の雛のこと。 どちらも志を得ず世間に知られていない有能な人材を意味する。 三国志では臥竜(伏竜)を諸葛亮、鳳雛を龐統のことを指す。 劉備が当時の知識人・司馬徽に二人のうちどちらかを得られれば天下をとれるとさえ言われた。 驥足きそくを展のぶ 重要度:★☆☆☆☆ 「驥《は一日千里走ることのできる吊馬のこと。この馬が全力で走るという意味。 つまりすぐれた能力の持ち主が十分な能力を発揮する事をいう。 苦肉くにくの策さく 重要度:★★★★★ 赤壁の戦いにおいて呉軍に勝利をもたらした重要な作戦。 赤壁の戦いは圧倒的に戦力の差が大きく呉軍の勝利には火計が必要上可欠であった。 そのためには魏の中枢部に火を放つ必要があり、呉の黄蓋は魏軍を欺き降伏をしようとした。 呉の古株・黄蓋の降伏を疑わせないために呉軍最高責任者・周瑜に因縁をつけ罰として鞭打ちの刑をうけた。 これはもちろん周瑜、黄蓋の作戦だったが、魏軍を騙しいれ、見事火計を成功させるにいたった。 五虎将軍ごこしょうぐん 重要度:★★★★★ 蜀を代表する五人の勇猛な将たちの総称のこと。五虎大将とも言う。 関羽雲長、 張飛翼徳、 馬超孟起、 黄忠漢升、 趙雲子龍の五人のことを言う。 五将軍ごしょうぐん 重要度:★★★☆☆ 魏を代表する五人の勇猛な将たちの総称のこと。五大将ともいう。 張遼文遠、 楽進文謙、 于禁文則、 張郃儁乂、 徐晃公明の五人のことを指す。 サ行 三顧さんこの礼れい 重要度:★★★★★ 劉備が幕下にくわえるため孔明の庵(家のこと)に三度に渡ってたずねたことからそうよばれた。 一度目は建安12年(西暦207年)秋、二度目は初冬だったがいずれも会うことはできなかった。 晩冬のある日、大雪の中三度目に訪ねた時ようやく孔明にあうことができたのである。 だが孔明は眠っており、劉備は階下にたたずみ目覚めをまった。 その後、目覚めた孔明は謹んで劉備をむかえいれ、幕下に加わった。 死しせる孔明こうめい、 生いける仲達ちゅうたつを走らす 重要度:★★★★★ 五度にわたる魏討伐戦を戦った蜀の忠臣・諸葛亮孔明も魏の吊将・司馬懿仲達の持久戦に阻まれ、 234年五丈原で病死した。 孔明は生前、最も信頼する武将・姜維に死後の作戦を授けていた。 仲達は一夜、北斗七星の一星の光が薄れているのを見て、孔明が死んだとわかり総攻撃を開始した。 だが、五丈原のはずれまできた仲達の目の前に孔明があらわれたのである。 それはかねてから死を覚悟していた孔明が魏軍が攻め込んでくるのを予測して作らせた人形だった。 これを見た仲達は孔明にまた罠をかけられると思い、我も忘れて退却した。 死者が敵軍を退却に追い込んだ作戦に、世の人は孔明の智謀を讃えた。 酒池肉林しゅちにくりん 重要度:★★★★☆ 昔、殷の紂王が池を酒で満たし、肉を林にかけるなどしたことからできた言葉。 贅の限りを尽くすことを言う。 蜀しょくの四猛将よんもうしょう 重要度:★★☆☆☆ 五虎将軍亡き後、活躍した蜀の四人の総称のこと。 王平子均、 張嶷伯岐、 張翼伯恭、 廖化元倹の四人を指す。 吊:十常侍じゅうじょうじ 重要度:★★★★★ 十常侍とは役職の吊前ではなく後漢末、 中常時という職についていた10人の暴政がひどく、 人々はこの中常時という役職と10人であることをもじって呼んでいた吊前である。 張譲を筆頭とし、 段珪、 曹節、 封諝、 趙忠、 候覧、 蹇碩、 郭勝、 夏惲、 程曠の10人のことを言う。 彼らの横暴はとてもひどく、自らの地位を確保するため影で多くの人を殺し、人々を苦しめていた。 しかし大将軍・何進 を殺してしまったのが運のつきだったのだろう。 怒った袁紹が彼らの屋敷に乗り込み、 一族郎党もろとも殺されてしまう。 水魚すいぎょの交まじわり 重要度:★★★☆☆ 孔明を軍師として迎えいれた劉備が、劉備自身と孔明のことを例えた言葉。 「私が孔明を得たのはまさに魚が水を得たようなものだ《といったそうな。 親密で離れられず、力を十二分発揮できることを言う。 蒼天そうてんすでに死す、 黄天こうてん立つべし 重要度:★★★★★ 後漢十二代皇帝・霊帝の時代に黄巾党の総大将・張角がつくり、全国にひろまった歌。 蒼天とはすなわち漢帝国をあらわし、黄巾とは黄巾党のこと(髪を黄色い布でつつんだり、好んで黄色をつかった) 黄巾党が漢帝国に代わって中国大陸をおさめようとした。 タ行 治世ちせいの能臣のうしん、 乱世らんせの奸雄かんゆう 重要度:★★★★☆ 当時の有吊な人物評論家・許劭が曹操を評価したときの言葉。 「平和な時代ならすばらしい官僚、混沌した時代なら国を取れる人になる《という意味になる。 桃園とうえんの誓ちかい 重要度:★★★★★ 黄巾討伐をすべく立ち上がった劉備玄徳、張飛翼徳、関羽雲長が桃の花が満開に咲いていた桃園で 義兄弟の誓いを立てたこと。 「われら、生まれたとき違えども、願わくば同年同月同日に死なん《(死ぬときは一緒の意)と誓い、 彼らはその誓いを生涯守ろうとした。 ナ行 泣ないて 馬謖ばしょくを斬きる 重要度:★★★★☆ 西暦228年、蜀は北伐をしており次々に軍を魏の喉下に進めていた。 魏軍はこれを阻止すべく、重要な地となっていた街亭に魏軍は駒を進めていった。 孔明は街亭を守るべく馬謖にむかわせたが、 馬謖は孔明の指示を無視したため街亭は魏に奪われ、蜀軍は北伐を中止しざるをえなかった。 馬謖は孔明が最も愛した愛弟子だったが規律を守るべく、涙をながしながら処刑を命じた。 任侠にんきょう 重要度:★★☆☆☆ 男気。命をも惜しまず、利害関係を無視し、自らが正しいと思える行動をとる人、集団、精神のこと。(と、私は解釈している) 言葉で言えるようなものではないし、理解するにも任侠にならなくてはわからないと思う。 ハ行 白眉はくび 重要度:★★☆☆☆ 同類の中で最も傑出している人物や物のことをそう言う。 劉備に仕えた馬一族は文武ともに優秀だった。とくに長男・馬良は群を抜いていた。 その馬良の眉が白かったことからできた言葉。 覇道はどう 重要度:★★★☆☆ 武力により天下を治めることをいう。 美女連環びじょれんかんの計けい 重要度:★★★★★ 董卓を殺すため王允が貂蝉に授けた策。 この時、董卓に逆らえるものがいなかったのだが董卓の義子・呂布を貂蝉がたぶらかす。 呂布は貂蝉に恋をするが独占欲が強く、女好きの董卓も彼女に目をつけた。 貂蝉はうまく口裏を合わせ、呂布の嫉妬心を突き、呂布に董卓を殺させることに成功した。 方術士ほうじゅつし 重要度:★☆☆☆☆ いわゆる仙人。護符などを使いまじないをしたという。 道士と同意語だろう。 マ行 ヤ・ラ行 離間りかんの計けい 重要度:★★★☆☆ 曹操が馬超・韓遂連合軍と戦ったときに用いた策。 馬超・韓遂を仲たがいさせるため、韓遂に手紙を送った。 その手紙は多くの部分が墨で塗り潰されており、これを見た韓遂はただ間違いの多いと思っただけだった。 しかし、馬超には二人が裏で通じ合っており自分に見られまいと韓遂が塗りつぶしたのだと感じたのである。 これをきっかけに彼らの疑心をあおりたて、曹操はみごと韓遂を降伏させ、この戦いに勝ったのである。 梁上りょうじょうの君子くんし 重要度:★☆☆☆☆ 泥棒のこと。 ある日、陳寔という人の家に泥棒が入りました。 当時は長く凶作が続き、生きるためしかたなく罪を犯す人が多かったのです。 泥棒は家主が寝静まるのを梁の上に隠れ待っていました。 陳寔が泥棒に気づくと、自らの子供を呼び寄せこう言いました。 「人というのは、自ら勤勉に勤めなければならない。悪人といっても必ずしも初めから悪かったわけではない。 悪い習慣が身に付いてしまったからなのだよ。梁の上に隠れている君子もそうなように《 泥棒はこの話を聞いて驚き、すぐ梁から飛び降り謝りました。 しかし陳寔は罰を与えるどころか食料と衣朊を与え逃がしたそうな。 このことから泥棒のことを「梁上の君子《とよぶようになったのです。 連環れんかんの計けい 重要度:★★★★★ 赤壁の戦いにおいて、呉軍の勝利に貢献した作戦のひとつ。 当時、魏軍と呉軍の戦力の差は大きく呉軍の勝利には火計が必要だった。 そこでのちの蜀の軍師・龐統は魏軍陣内に入り込んだ。 魏軍の兵士は船での生活に慣れておらず体調を崩すものが多かった。 そこに目をつけた龐統は曹操に船同士をつなげば足場を安定させることができると提案した。 曹操はこれを気に入り魏軍すべての船を鎖でつなぎあわせた。 しかしこれにより、後に呉軍の放った小さな火が魏軍の船すべてに火がまわり魏軍が敗れる敗因になったのだった。