約 97,226 件
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/111.html
<魏 239年> <蜀漢 239年> <呉 239年> 239年 景初三年 (魏) 皇帝 曹叡(魏明帝)→曹芳(魏齊王・字蘭卿) 皇后 (空位) 三公 太傅:(空位)→司馬懿(前太尉) 太尉:司馬懿(前大将軍)→滿寵(前征東將軍) 司徒:衛臻(前司空) 司空:崔林(前司隸校尉) 九卿 衛尉: その他の要職 大将軍:曹爽(前武衛將軍) 驃騎大將軍:→ 車騎將軍:→黃權(前鎮南將軍) 地方官 荊州刺史:胡質 幽州刺史:母*丘儉 雍州刺史:郭淮 主な事件 景初三年春正月丁亥、太尉の司馬懿は帰還し河內に至る。帝は駅馬を走らせ召す。臥內に引き入れてその手を取って曰く「私の病は甚だ重い。後事を君に託す。君は曹爽とともに少子を助けてくれ。吾は君を見られてよかった。恨む所は無い!」司馬懿は頓首し流涕する。即日帝は嘉福殿で崩御した。年三十六《三国志魏書明帝紀》帝は既に劉放の計に従って司馬懿を召す。自ら詔をしたため、既に封をする。宮中常を呼び使者に曰う「辟邪よ来い!汝は我が詔を持って太尉に授けよ」辟邪は馳せ去る。先に燕王は帝に計り、關中の事の重きを任す。司馬懿は河內の西に移っていた。司馬懿は前に詔を得て、間をおかずまた手筆の詔を得る。京師に變があったのではと疑い、急ぎ馳せ到たる。帝に会い勞わって問う。また齊・秦の二王を召し司馬懿に示す。別に齊王を指差し曰う、「此是也,君諦視之,勿誤也!」又教齊王令前抱宣王頸.魏氏春秋曰:時太子芳年八歲,秦王九歲,在于御側.帝執宣王手,目太子曰:「死乃復可忍,朕忍死待君,君其與爽輔此.」宣王曰:「陛下不見先帝屬臣以陛下乎?」《三国志魏書明帝紀に引く魏略》九龍前殿で殯した《三国志魏書明帝紀に引く魏書》齊王の曹芳はこの日皇太子に立てられ、即日皇帝の位についた。大赦する。皇后を尊んで皇太后とし、大將軍の曹爽、太尉の司馬懿が輔政する。詔に曰く「諸所の宮室之役は皆遺詔により罷めるように。官奴婢で六十以上のものを免じて良人とせよ」《三国志魏書三少帝紀》 正月癸丑、高平陵に葬る《三国志魏書明帝紀》 二月、西域より幾重にも通訳を介して火浣布が献じられ、大將軍、太尉に詔して試験に臨ませ、もって百寮に示す《三国志魏書三少帝紀》 二月丁丑、詔に曰く、「太尉の司馬懿を太傅と為して尊び、節を持って兵を統べ、諸軍を都督することは今まで通りとする」《三国志魏書三少帝紀》 三月、征東將軍の滿寵を太尉と為す《三国志魏書三少帝紀》 夏六月、遼東の東沓県の吏民が海を渡って齊郡の境界に住まう。故に縱城を新沓県と為して民を移す《三国志魏書三少帝紀》 秋七月、帝は始めて親しく朝議に臨む。公卿の奏事を聴く《三国志魏書三少帝紀》 八月、大赦《三国志魏書三少帝紀》 冬十月、鎮南將軍の黃權を車騎將軍と為す《三国志魏書三少帝紀》 十二月、詔して曰く「建寅之月を正始元年正月と為し、建丑の月を後の十二月と為す」《三国志魏書三少帝紀》 誕生者 死没者 曹叡(魏明帝):享年36歳。
https://w.atwiki.jp/sangokushisenki/pages/35.html
魏・呉・蜀・他の4種類があります。
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/194.html
<魏 255年> <蜀漢 255年> <呉 255年> 255年 五鳳二年(呉) 皇帝 孫亮 皇后 全氏(全尚の娘) 皇太子 (空位) 三公(呉) 丞相:孫峻 太傅:? その他の要職(呉) 太常:滕胤? 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:? 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 大司馬:呂岱(前上大將軍)? 大将軍:? 驃騎将軍:朱據 車騎将軍:? 衛将軍:滕胤? 上大將軍:? 主な事件 二年春正月、魏の鎮東大將軍の母*丘儉、前將軍の文欽が淮南を之西入。樂嘉で戦う。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 閏月壬辰、孫峻及び驃騎將軍の呂據、左將軍の留贊は兵を率いて壽春を襲撃する。軍は東興に着いた所で欽等が敗れたことを聞いた。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 壬寅、兵は橐皋まで進み、欽はやって来て孫峻に降った。淮南の餘衆數萬口が來奔した。魏の諸葛誕が壽春に入り、孫峻は軍を引き上げた。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 二月、魏の將軍の曹珍と高亭で遭遇し、交戰する。曹珍は敗れ、留贊為誕別將蔣班所敗于菰陂,留贊及び將軍の孫楞、蔣脩等は皆殺される。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 三月、鎮南將軍の朱異を遣わして安豐を襲撃させるが勝てず。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 秋七月、將軍の孫儀、張怡、林恂等が孫峻の謀殺を計るも發覺し、孫儀は自殺、林恂等は辜に伏せた。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 秋七月、陽羨の離里山の大石が自ら立った。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 衛尉の馮朝に廣陵に城を築かせ、將軍の吳穰を廣陵太守に、留略を東海太守と為す。《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 是歲、大旱。 十二月、太廟を作る。馮朝を監軍使者、督徐州諸軍事と為す。民は飢え軍士は怨畔《三国志呉書三嗣主伝孫亮》 誕生者 死没者 注 ▲PAGE TOP 254年<< >>256年
https://w.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/493.html
[部分編集] 三国求聞史記 http //www.nicovideo.jp/watch/sm2570203 使用ゲーム 三國志Ⅸ シナリオ・担当勢力 シナリオの設定 動画形態 登録武将 史実武将の扱い 投稿時期 2008年03月08日~ 投稿者名 unjiunji マイリスト マイリスト 関連タグ 関連サイト 備考 - ストーリー 変更点 簡単な解説 コメント欄 12話来てるーと思ったら権利者削除って・・・ なにがまずかったんだ?見てないけど -- 名無しさん (2008-12-31 07 40 00) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/163.html
<魏 225年> <蜀漢 225年> <呉 225年> 225年 黄武四年(呉) 皇帝 曹丕(魏文帝) 三公(呉) 呉王:孫権 丞相:孫邵→(死亡)→顧雍(前太常) その他の要職(呉) 太常:顧雍→陳化(兼尚書令)《三国志呉書呉主権伝に引く吳書》 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:? 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 大将軍:? 驃騎将軍:? 車騎将軍:? 衛将軍:? 主な事件 四年夏五月、丞相の孫邵が卒した。《三国志呉書呉主権伝》邵字長緒。北海人。身の丈八尺。孔融の功曹となり「廊廟才」と言われる。劉繇に従って江東に移り、孫権が統べるようになると廬江太守、車騎長史を拝す。黃武の初め丞相、威遠將軍となり、陽羨侯に封じられる。張溫、暨豔が奏上してその罪を請うと孫権は復職するよう命じた。年六十三で卒す《三国志呉書呉主権伝に引く吳錄》 六月、太常の顧雍を丞相と為す。《三国志呉書呉主権伝》 皖口言木連理《三国志呉書呉主権伝》 冬十二月、鄱陽の賊の彭綺が自ら將軍を称し、諸縣を攻沒する。衆數萬人。《三国志呉書呉主権伝》 是歲地震あり。《三国志呉書呉主権伝》 是冬、魏の文帝は廣陵に至り、長江を前に觀兵する。兵は十餘萬。旌旗は數百里に渡った。長江を渡ろうと思っていたが孫権が嚴しく守りを設けていた。時に大寒で凍り、舟は長江に入ることができなかった。曹丕は波濤洶涌を見て歎息して「嗟乎!天は頑に南北を隔ててるや!」と言った。帰還する。孫韶はまた將の高壽等を遣わして決死の兵士五百人を率いて夜徑路を固める。曹丕は大いに驚き、高壽等は副車羽蓋を獲得し還る《三国志呉書呉主権伝に引く吳錄》 誕生者 死没者 孫邵:字長緒。北海人。年六十三で卒す。 注 ▲PAGE TOP 224年<< >>226年
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/101.html
<魏 229年> <蜀漢 229年> <呉 229年> 229年 太和三年(魏) 皇帝 曹叡(魏) 皇后 毛氏(明悼毛皇后・河內人) 三公 太傅:鍾繇 太尉:華歆(前司徒) 司徒:(空位) 司空:陳群(前鎮軍大將軍) 九卿 その他の要職 大司馬:(空位) 大将軍:曹真(前中軍大將軍) 驃騎大將軍:司馬懿(前撫軍大將軍) 地方官 主な事件 三年夏四月、元城王曹禮が薨ず《三国志魏書明帝紀》 六月癸卯、繁陽王の曹穆が薨ず《三国志魏書明帝紀》 六月戊申、高祖大長秋の曹騰を高皇帝に、夫人の吳氏を高皇后に追尊する《三国志魏書明帝紀》 秋七月、詔して「禮,王后無嗣,擇建支子以繼大宗,則當纂正統而奉公義,何得復顧私親哉!漢宣繼昭帝後,加悼考以皇號;哀帝以外藩援立,而董宏等稱引亡秦,惑誤時朝,既尊恭皇,立廟京都,又寵藩妾,使比長信,昭穆於前殿,並四位於東宮,僭差無度,人神弗祐,而非罪師丹忠正之諫,用致丁、傅焚如之禍.自是之後,相踵行之.昔魯文逆祀,罪由夏父;宋國非度,譏在華元.其令公卿有司,深以前世行事為戒.後嗣萬一有由諸侯入奉大統,則當明為人後之義;敢為佞邪導諛時君,妄建非正之號以干正統,謂考為皇,稱妣為后,則股肱大臣,誅之無赦.其書之金策,藏之宗廟,著於令典《三国志魏書明帝紀》 冬十月、平望觀を聽訟觀に改める。帝は常に「獄は天下の性命なり」と言っていた。大獄を断つたびに常に之を觀に臨んだ《三国志魏書明帝紀》 十一月、それまで洛陽の宗廟が完成せず鄴にあったのを、廟が完成したので太常の韓暨に節を持たせ高皇帝、太皇帝を迎えた。武帝、文帝神主は鄴にあった《三国志魏書明帝紀》 十二月己丑至、神主を廟に安んずるよう奉った《三国志魏書明帝紀》黃初四年に有司が二廟を立てるよう奏上している。太皇帝大長秋と文帝を一廟とし、特に武帝廟を立てて百世あっても毀さないとした。今高祖の神主無く、蓋以親盡毀也.すなわち魏の初め唯親廟を立て、四室を祀った。景初元年に至って始めて七廟之制を定めた。《三国志魏書明帝紀に引く裴松之注》 十二月癸卯、大月氏王の波調が奉獻の使者を遣わす。波調を親魏大月氏王と為す《三国志魏書明帝紀》 誕生者 死没者 曹禮:元城王 曹穆:繁陽王
https://w.atwiki.jp/ishigamism_wiki/pages/152.html
作者:吉川英治 初版:2000年X月X日 感想:南蛮を制圧した孔明は、最大のライバル司馬懿との戦いに望む・・!そして孔明の運命はいかに 【1回目】 期間:2010年4月19日(日)~5月2日(日) 日数: 三国志 吉川英治 歴史
https://w.atwiki.jp/sanngoku/pages/16.html
戦紹介 黄巾の乱 汜水関の戦い 除州制圧戦 下ヒの戦い 江東・呉の戦い 官渡の戦い 長坂坡の戦い 赤壁の戦い 潼関の戦い(関中制圧戦) 成都制圧戦 漢中争奪戦 荊州争奪戦 夷陵の戦い 南中平定戦 街亭の戦い 諸葛亮北伐 魏対呉蜀連合戦 姜維北伐 魏呉対戦 祁山侵攻戦 姜維・孫峻北伐 蜀侵攻戦 旧蜀侵攻戦 鍾会・姜維クーデター 呉晋戦争 呉普西陵大戦 広州 郭馬の反乱 三国志終焉呉滅亡
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/156.html
<魏 254年> <蜀漢 254年> <呉 254年> 254年 嘉平六年→正元元年(魏) 皇帝 曹芳(魏斉王)→曹髦(魏高貴鄉公) 皇后 張氏→(廃位)→王氏→(廃位) 皇太子 三公 太傅:(空位) 太尉:司馬孚(前司空) 司徒:高柔(前司空) 司空:鄭沖(前光祿勳) 九卿 録尚書事:司馬師(大将軍) 光祿勳: その他の要職 大将軍:司馬師(前撫軍大將軍) 車騎將軍:郭淮(前征西將軍) 驃騎將軍:? 衛将軍: 地方官 雍州刺史:陳泰 主な事件 六年春二月己丑、鎮東將軍の母*丘儉は、諸葛恪が合肥新城を囲んだ折、城中の士の劉整、鄭像に功があったと上言した。詔して追って劉整、鄭像に關中侯の爵を賜い、各士の名を刻み、子に爵を継がせよ。《三国志魏書三少帝紀》 二月庚戌、中書令の李豐は皇后の父で光祿大夫の張緝等と謀り、大臣を廢易して、太常の夏侯玄を大將軍と為さんとする。事は発覚し、諸所で関連したもの皆誅に伏す《三国志魏書三少帝紀》 二月辛亥、大赦《三国志魏書三少帝紀》 三月、皇后の張氏を廃す《三国志魏書三少帝紀》 夏四月、皇后に王氏を立てる。大赦。《三国志魏書三少帝紀》 五月、皇后の父である奉車都尉の王夔を廣明鄉侯に封じ、光祿大夫、特進の位を授ける。妻の田氏は宣陽鄉君と為す《三国志魏書三少帝紀》 秋九月、大將軍の司馬師は廢帝を謀り、皇太后に相談する《三国志魏書三少帝紀》 九月甲戌、太后は令に曰わく、「皇帝の芳は年が長じても萬機に親しまず、耽淫內寵・沈漫女德・日延倡優・縱其醜謔である。天意に適わない。宗廟に奉って、太尉の高柔に兼ねさせて策を奉じ、宗廟に告げ、芳を齊国に歸藩させ、皇位を譲らせる」即日別宮に移る。年は二十三。使者は節を持って送る。齊王宮を河內の重門に営み、制度は皆藩國の禮に準じた。《三国志魏書三少帝紀》 九月丁丑、令して曰わく「東海王曹霖は、高祖文皇帝の子である。高貴鄉公の曹髦は大成之量あり、明皇帝の跡継ぎと為す《三国志魏書三少帝紀》司馬師はまた永寧宮に、「大宗は跡継ぎが無く、分家の中から賢者を選ぶべきです。東海定王の子である高貴鄉公は文皇帝の孫で正統なる血統であり、烈祖明皇帝の後を継ぐに問題ありません。臣は公を洛陽宮に徵することを望みます」と奏上し、可とされた。中護軍の司馬望、兼太常で河南尹の肅は節を持ち、少府の褒、尚書の亮、侍中の表等と法駕を奉じて、公を元城に迎えに行った。《三国志魏書三少帝紀に引く魏書》晉の受禪後、齊王を封じて邵陵縣公と為し、年四十三、泰始十年に薨ず。厲公と諡する《三国志魏書三少帝紀に引く魏世譜》 十月己丑、曹髦は玄武館に至り、臣下は舍前殿にお出ましになるのを請うた。曹髦は先帝がいた所として避けて西廂に止まる。臣下は又法駕をもって迎えることを請うたが聽かず。《三国志魏書三少帝紀》 庚寅、曹髦は洛陽に入る。臣下は西掖門の南で拝し迎える。曹髦は輿を降りて答拜した。儐者が「儀礼によれば拝礼しないものです」と言った所、公は「私は人臣です」と答え、拝礼した。止車門で輿を降りると左右の者が「輿に乗ったままお入りください」というと、公は「私は皇太后様に徵されただけでまだどうなるか分からないのだ」と答えた。步いて太極東堂に至り、太后に会った。即日皇帝に即位し太極前殿に現れた。百僚陪位者が迎えた。詔して曰わく「昔、三祖は神のような武と聖德によって天命に応じて禅譲を受け、齊王が皇位を嗣いだ。だが行いを律することができず、皇太后は社稷の重責を憚り、宰輔の謀を受け入れ、皇位を替えるに至った。私は大命を一身に受け、身も細る思いだ。祖宗の大訓を守り継ぐことができるか畏れる。今公卿士は股肱として輔佐し、四方征鎮はその力を発揮し、皆德を積み功を挙げよ。帝室に忠勤たれ。先祖先父以来の有德之臣よ、左右にある者よ、皇家を守れよ」大赦。改元する。乘る輿、服御、後宮の用度を減じる。また尚方御府百工を罷めさせ、技巧靡麗や無益の物は無くした。《三国志魏書三少帝紀》 正元元年冬十月壬辰、侍中に節を持たせて四方に分けて遣わし、風俗を観、士民を労り、職の無い者を調べさせた《三国志魏書三少帝紀》 癸巳、大將軍の司馬師に黃鉞を与え、入朝不趨、奏事不名、劍履上殿の権限を与えた。《三国志魏書三少帝紀》 戊戌、黃龍が鄴の井戸の中に見られた《三国志魏書三少帝紀》 甲辰、有司に命じて今回の廢立において定策之功を論じさせ、封爵、增邑、進位を行った。各々格差があった《三国志魏書三少帝紀》 誕生者 死没者
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/179.html
<魏 241年> <蜀漢 241年> <呉 241年> 241年 赤烏四年(呉) 皇帝 孫権(呉大帝) 皇后 (空位) 皇太子 孫登→(死亡) 三公(呉) 丞相:顧雍(前太常) その他の要職(呉) 太常:潘濬? 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:? 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 大司馬:? 大将軍:諸葛瑾→ 驃騎将軍:? 車騎将軍:朱然 衛将軍:全琮 上大將軍:陸遜 主な事件 四年春正月、大雪。平地に深さ三尺積もる。鳥獸は大半が死んだ。《三国志呉書呉主権伝》 夏四月、衛將軍の全琮は淮南を攻略し、芍陂を決する。安城の邸閣を焼き、そこの人民を捕らえる。威北將軍の諸葛恪は六安を攻め、全琮とともに魏の將の王淩と芍陂で戦う。中郎將の秦晃等十餘人は戰死した。車騎將軍の朱然が樊を囲む。大將軍の諸葛瑾が柤中を奪う。《三国志呉書呉主権伝》零陵太守の殷禮が孫権に上言した献策を孫権が用いて出兵した《三国志呉書呉主権伝に引く漢晉春秋》 五月、太子の孫登が卒す。《三国志呉書呉主権伝》 五月、魏の太傅の司馬懿が樊を救援に来る。《三国志呉書呉主権伝》 六月、軍を還えす。《三国志呉書呉主権伝》 閏月、大將軍の諸葛瑾が卒す。《三国志呉書呉主権伝》 秋八月、陸遜が邾に城を築く《三国志呉書呉主権伝》 誕生者 死没者 注 ▲PAGE TOP 240年<< >>242年