約 97,225 件
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/116.html
<魏 245年> <蜀漢 245年> <呉 245年> 245年 正始六年 (魏) 皇帝 曹芳(魏齊王・字蘭卿) 皇后 甄氏(文帝皇后の甄氏の兄甄儼の孫娘) 三公 太傅:司馬懿(前太尉) 太尉:蒋済(前領軍將軍) 司徒:衛臻(前司空) 司空:→趙儼(前驃騎將軍)→高柔(前太常) 九卿 衛尉: 太常:高柔→ その他の要職 大将軍:曹爽(前武衛將軍) 驃騎大將軍:趙儼→劉放(前左光祿大夫) 車騎將軍:王淩(前征東將軍) 衛将軍:→孫資(前右光祿大夫) 地方官 荊州刺史:胡質 幽州刺史:母*丘儉 雍州刺史:郭淮 主な事件 六年春二月丁卯、南安郡で地震《三国志魏書三少帝紀》 二月丙子、驃騎將軍の趙儼を司空と為す《三国志魏書三少帝紀》 夏六月、司空趙儼が薨ず《三国志魏書三少帝紀》 八月丁卯、太常の高柔を司空と為す《三国志魏書三少帝紀》 八月癸巳、左光祿大夫の劉放を驃騎將軍、右光祿大夫の孫資を衛將軍と為す《三国志魏書三少帝紀》 冬十一月、太祖廟を祀り、始めて先に論じられた所の建国の功臣二十一人を祀る《三国志魏書三少帝紀》 十二月辛亥、詔して、故人の司徒の王朗が作った「易傳」を、令して學ぶ者が課試に選べるようにした《三国志魏書三少帝紀》 十二月乙亥、詔に曰わく「明日大いに会す際、太傅司馬懿に乘輿上殿を許可する」《三国志魏書三少帝紀》 誕生者 死没者 趙儼:司空
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/100.html
<魏 228年> <蜀漢 228年> <呉 228年> 228年 太和二年(魏) 皇帝 曹叡(魏) 皇后 毛氏(明悼毛皇后・河內人) 三公 太傅:鍾繇 太尉:華歆(前司徒) 司徒:王朗(前司空)→(死亡) 司空:陳群(前鎮軍大將軍) 九卿 その他の要職 大司馬:曹休(前征東大將軍)→(死亡) 大将軍:曹真(前中軍大將軍) 驃騎大將軍:司馬懿(前撫軍大將軍) 地方官 主な事件 二年春正月、司馬懿は新城を攻め破る。孟達を斬り其首を都に送る。新城の内、上庸、武陵、巫縣を分けて上庸郡と為し、錫県を錫郡と為す《三国志魏書明帝紀》司馬懿は孟達の將の李輔と孟達の甥の鄧賢を誘った。賢等は門を開き軍を招き入れる。孟達は3ヶ月と6日囲まれ、敗れる。その首は洛陽の四達之衢で焚かれる《三国志魏書明帝紀に引く魏略》 蜀大將の諸葛亮が天水、南安、安定三郡を攻め、吏民は之に応じて叛く。大將軍の曹真を都督として關右に遣わし、並んで右將軍張郃の軍を進めて街亭を討つ。大いに破る。諸葛亮は敗走する。三郡を平らぐ《三国志魏書明帝紀》 丁未,長安に行幸する《三国志魏書明帝紀》 夏四月丁酉、洛陽宮に還る。死罪以下の囚人を赦免した《三国志魏書明帝紀》 四月乙巳,諸葛亮討伐の論功行賞を行う。封爵増邑に各々格差があった《三国志魏書明帝紀》 五月、大旱魃《三国志魏書明帝紀》 六月、詔に曰う「尊儒貴学。王教の本だ。博士を選びその才に任せ常に側に置くだろう。郡國に申し渡せ。經學の士を挙げよ」《三国志魏書明帝紀》 秋九月、曹休は諸軍を率いて皖に至り、吳將の陸議と石亭に於いて戦う。連敗す《三国志魏書明帝紀》 乙酉,皇子の曹穆を立てて繁陽王と為す《三国志魏書明帝紀》 庚子、大司馬の曹休が薨ず《三国志魏書明帝紀》 冬十月、詔して公卿近臣は良將各一人を挙げよ《三国志魏書明帝紀》 十一月、司徒の王朗が薨ず《三国志魏書明帝紀》 十二月、諸葛亮が陳倉を囲む。曹真は將軍の費曜等を遣わして之を拒む《三国志魏書明帝紀》これより先、將軍の郝昭に陳倉城を築かせる。諸葛亮は郝昭と同鄉の靳詳に城外から何度も説得させるが聴かず。このとき城兵は合せて千余人。諸葛亮は数万。東に救援を求めることも出来ず。諸葛亮が兵を進めて雲梯・衝車を立てて城に臨むと火箭をもって逆射し雲梯、梯、梯上人を皆燒死させた。又繩を以て連石磨を衝車に落し衝車を折る。さらに井闌百尺城中に射込む。土で丸填塹を造り、城をよじ上ろうとした。郝昭は又內側に重牆を築く。諸葛亮は又突を穿って城裏に出んと欲す。郝昭は又城內に地を穿ち橫に広げた。昼夜相攻拒こと二十餘日。諸葛亮は計無く、救援が至ったので引き退いた。詔してよく守備したことを嘉みし、列侯を賜う。及都に還り、帝は引見し慰勞する《三国志魏書明帝紀に引く魏略》 十二月、遼東太守公孫恭の兄の子である公孫淵が公孫恭の位を奪う。公孫淵は遼東太守を領す《三国志魏書明帝紀》 誕生者 死没者 曹休:大司馬
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/94.html
<魏 257年> <蜀漢 257年> <呉 257年> 257年 甘露二年(魏) 皇帝 曹髦(魏高貴郷公) 皇后 卞氏(父は卞隆) 皇太子 三公(魏) 太傅:司馬孚(前太尉) 太尉:高柔(前司徒) 司徒:鄭沖(前司空) 司空:盧毓(前尚書左僕射)→(死亡)→諸葛誕(征東大将軍) その他の要職(魏) 錄尚書事:司馬昭(大将軍) 太常: 光禄勳: 衛尉:→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府:→ 大将軍:司馬昭(大都督を加号) 驃騎将軍:王昶 車騎将軍:→孫壹 衛将軍: 地方官 冀州牧: 幽州牧: 并州牧: 青州牧: 徐州牧: 兌*州牧: 揚州刺史:楽綝→(死去) 雍州刺史:王経 交州牧:→孫壹(侍中車騎将軍) 主な事件 二年春二月、青龍が温県の井中に見られた《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 三月、司空の盧毓が薨ず《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 夏四月癸卯、詔に曰わく「玄菟郡高顯縣の吏民が反乱し、県長の鄭熙を殺した。民の王簡は熙の喪を行う。その忠節を嘉みし、特に王簡を忠義都尉に拝す《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 四月甲子、征東大将軍の諸葛誕を司空と為す《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 五月辛未、帝は辟雍に行幸する。会を開き臣に詩を賦すよう命じたが侍中和逌、尚書の陳騫等は作詩に戸惑った。有司が免官を奏上した。詔に言う「私は暗昧で文雅を愛好す云々」《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 五月乙亥、諸葛誕は徵するに応えず、兵を発して背く。揚州刺史の楽綝を殺す《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 五月丙子、誤って諸葛誕に付いた淮南将吏士民を赦す。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 五月丁丑、詔に曰わく「諸葛誕は狂乱を造り揚州を覆した。黥布、隗囂の故事もあり、威武を奮い輝かす。今、宜皇太后と朕は共に戎に臨み、速やかに平定する」《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 五月己卯、詔に曰わく「諸葛誕は逆乱を造り、忠義の士を脅かす。平寇將軍臨渭亭侯の龐会、騎督偏將軍の路蕃、各左右の将軍は門を突出し、忠壯勇烈、素晴らしい働きを見せた。龐会の爵を進め鄉侯とし、蕃を亭侯に封じる」《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 六月乙巳、詔して、呉の使持節都督夏口諸軍事鎮軍将軍沙羡侯の孫壹が帰属してきたので、侍中車騎将軍、仮節、交州牧、呉侯、開府辟召儀同三司と為す。古侯伯の八命の禮に依り、兗冕赤」《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 六月甲子、詔して、今車駕は項に駐留している。大將軍は天罰を行使し、前に淮浦を臨み、昔の相國大司馬が征討したように皆尚書とともに行くこととする」散騎常侍の裴秀、給事黃門侍郎の鍾會に令して大將軍とともに行かせる《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 秋八月、詔して曰わく「昔、燕が王を刺して謀反をした。韓誼等は諫めて死んだ。漢朝ではその子を顯みて官職を与えた。諸葛誕は凶亂を引き起こし、主簿の宣隆、部曲督の秦絜は節義を守って諌め殺された。絜の子を騎都尉と為し、下賜を加える」《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 九月、大赦《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 冬十二月、吳の大將である全端、全懌等が部族を率いて降ってきた《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》 誕生者 死没者 盧毓(司空) 楽綝(揚州刺史)
https://w.atwiki.jp/sangokushiglobal/pages/2.html
ここに文字を入力**初心者編ー 基礎的な知識 序盤の効率的な進め方 資源収集 陣営の選択 前期攻略 リセマラのやり方 システム編ー 基礎的な遊び方 城 政庁 内政 国家 通常建築 戰略建築 基礎兵種 昇進兵種 武将編ー 基礎知識 相性のいい武将編成 効率的な武将レベルの上げ方 武將能力一覽 装備と典籍 武技 攻城武将 募集 実戦編ー 声望値&勢力値 部隊操作 陣営 偵查 霸業 攻城 戰役 お勧め武将 曹操 孫權 専属ライター投稿 三国志グローバルの面白さ 三国志グローバル攻略 武将について 関連サイト 公式ツイート:https //twitter.com/3gokuglobal 公式サイト:https //3goku.4399jp.com/pindex/ 公式ディスコード:http //discord.gg/yRx4UxbJt3 ここを編集
https://w.atwiki.jp/taisendoujin/pages/14.html
https://w.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/495.html
[部分編集] 三国永夜抄 http //www.nicovideo.jp/watch/sm5017064 使用ゲーム 三國志Ⅹ シナリオ・担当勢力 シナリオの設定 動画形態 登録武将 史実武将の扱い 投稿時期 2008年10月23日~12月15日(7回・本編前に打ち切り) 投稿者名 miyako『額にNEETの傷がある男』と同じうp主 マイリスト マイリスト 関連タグ 【三国永夜抄】 関連サイト 備考 OPを2回削除されている。 ストーリー 変更点 簡単な解説 コメント欄 うp主のリアル事情により更新停止 -- 名無しさん (2008-12-24 11 40 33) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/3gokushi_saga/pages/16.html
【三国志SAGA @wiki】はコラムゲーム(koramgame.co.jp、北京崑崙万維科技有限公司、日本法人:崑崙日本株式会社)の運営するブラウザゲーム『三国志SAGA~戦火の嵐~』に関する情報をまとめた非公式ファンサイトです。 『三国志SAGA~戦火の嵐~』はコラムゲーム(koramgame.co.jp、北京崑崙万維科技有限公司、日本法人:崑崙日本株式会社)の著作物です。 この【三国志SAGA @wiki】で使用している『三国志SAGA~戦火の嵐~』の画像およびデータに関する著作権はコラムゲーム(koramgame.co.jp、北京崑崙万維科技有限公司、日本法人:崑崙日本株式会社)に帰属します。 この【三国志SAGA @wiki】における情報はあくまでも有志による非公式な推測であり【三国志SAGA @wiki】の利用者が掲載された情報を利用することによって生じるあらゆる事柄に対して管理者および情報提供者は一切の責任を負うことはありません。 Amazon.co.jp ウィジェット Amazon.co.jp ウィジェット
https://w.atwiki.jp/sangokushi/pages/1.html
ウィキはみんなで気軽にホームページ編集できるツールです。 このページは自由に編集することができます。 メールで送られてきたパスワードを用いてログインすることで、各種変更(サイト名、トップページ、メンバー管理、サイドページ、デザイン、ページ管理、等)することができます ■ 新しいページを作りたい!! ページの下や上に「新規作成」というリンクがあるので、それをクリックしてください。 ■ 表示しているページを編集したい! ページ上の「このページを編集」というリンクや、ページ下の「編集」というリンクを押してください。 ■ ブログサイトの更新情報を自動的に載せたい!! お気に入りのブログのRSSを使っていつでも新しい情報を表示できます。詳しくはこちらをどうぞ。 ■ ニュースサイトの更新情報を自動的に載せたい!! RSSを使うと簡単に情報通になれます、詳しくはこちらをどうぞ。 ■ その他にもいろいろな機能満載!! 詳しくは、FAQ・初心者講座@wikiをみてね☆ 分からないことは? @wikiの詳しい使い方はヘルプ・FAQ・初心者講座@wikiをごらんください。メールでのお問い合わせも受け付けております。 ユーザ同士のコミュニケーションにはたすけあい掲示板をご利用ください 要望・バグ・不具合報告はメールでお気軽にお問い合わせください。
https://w.atwiki.jp/judy/pages/9.html
魏 曹操 夏侯惇 夏侯淵 曹仁 曹洪 呉 孫堅 孫権の父。劉表を攻めている最中に戦死。 孫策 孫堅の子。玉璽を質に兵を借り受け江東を制圧。200年に暗殺される。 孫権 孫堅の子。呉の初代皇帝。249年に病死。 孫亮 呉の2代目皇帝。孫権の7男。孫休に毒殺される。 孫休 呉の三代目皇帝。文学を呉に広めた。 孫皓 孫和の子。呉の最後の皇帝。281年に石頭城で晋に降伏。 蜀 劉備 漢の皇族。義勇軍として各地を転戦する。221年に病死。 関羽 劉備・張飛と義兄弟。荊州攻めの最中に呉軍に攻められ戦死。 張飛 関羽の敵を取るための呉征伐の準備中に暗殺される。 諸葛亮 言わずと知れた天才軍師。234年、五丈原で病死。 姜維 諸葛亮の後継者。264年に魏軍に破れ戦死。 メインページに戻る
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/13.html
<魏 264年> <呉 264年>? 264年 景元五年→咸煕元年(魏) 皇帝 曹奐(字景明・魏常道鄉公) 皇后 (空位)→卞氏 皇太子 三公(魏) 晉王:→司馬昭(相國) 晋公:司馬昭→(廃止) 相國:司馬昭(晋公→晉王) 太傅:司馬孚(前太尉) 太保:鄭沖(前司徒) 太尉:鄧艾(前征西將軍)→王祥(前司空) 司徒:鍾会(前鎮西将軍)→何曾(前征北將軍) 司空:王祥(前司隸校尉)→荀顗(前尚書左僕射) その他の要職(魏) 錄尚書事:司馬昭(大将軍) 太常: 光禄勳: 衛尉:→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府:→ 大将軍:司馬昭(大都督を加号) 驃騎将軍:王昶?→司馬望(前衛將軍) 車騎将軍:孫壹? 衛将軍:司馬望→ 地方官 司隸校尉: 冀州牧: 幽州牧: 并州牧: 青州牧: 徐州牧: 兌*州牧: 揚州刺史:? 雍州刺史:諸葛緒 交州牧:孫壹? 梁州: 主な事件 咸熙元年春正月壬戌、檻車で鄧艾を徵する。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 正月甲子、長安に行幸する。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 正月壬申、使者を使わして璧幣をもって華山を祀る。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 正月、鍾會が蜀で反乱を起こすが、兵に討たれる。鄧艾もまた殺される《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 二月辛卯、益州の地にあるものを特に赦す《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 二月庚申、明元郭后を葬送する《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 三月丁丑、司空の王祥を太尉に、征北將軍の何曾を司徒に、尚書左僕射の荀顗を司空と為す《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 三月己卯、晉公の爵を進めて王と為す。十郡に封じ、前と合せて二十とす。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 三月丁亥、劉禪を安樂公に封じる《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》景元五年三月丁亥、後主は家を挙げて東遷し、洛陽に至る。策命をもって太常を遣わし、劉禪を安樂縣公と為す。食邑萬戶、絹萬匹、奴婢百人、諸々を賜う。子孫は三都尉と為し侯に封じられた者は五十餘人。尚書令の樊建、侍中の張紹、光祿大夫の譙周、祕書令の郤正、殿中督の張通は皆列侯に封じられた。なお劉禅は晋の泰始七年に洛陽で薨じた。《三国志蜀書後主伝》諡は思公。子の劉恂が嗣いだ。《三国志蜀書後主伝に引く蜀記》 夏五月庚申、相國晉王が五等爵を復するよう奏上する。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 五月甲戌、改年する《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 五月癸未、舞陽宣文侯(司馬懿)を晉の宣王に、舞陽忠武侯(司馬師)を晉の景王に追命する《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 六月、鎮西將軍の瓘は雍州兵が成都縣で獲た璧玉印各一を上申する。印には「成信」に似た字が見えた。周の成王の歸禾之義にちなんで百官に宣示し、相國府に収めた《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 初め、蜀を平定した直後、吳は永安によって攻めてきたので、荊・豫の諸軍を掎角の形勢で赴かせ救った。七月、呉の賊は皆遁退した《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 八月庚寅、中撫軍の司馬炎に命じて相國の副と為し、昔魯公が拜した儀礼にならった。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 八月癸巳、詔して曰わく「前に逆臣の鍾會が反亂を企てたとき、相國左司馬の夏侯和、騎士曹屬の朱撫は成都にあって、中領軍司馬の賈輔、郎中の羊琇は各々鍾會の軍事に参与していたが、夏侯和、羊琇、朱撫は皆鍾會の凶言を拒み、危機に臨んで顧ず、軍を指し示した。輔語散將の王起は兵士を説いて有利な形勢を作った。これらの忠義を顕彰し広く知らしめる。夏侯和・賈輔の爵を進めて鄉侯と為し、羊琇・朱撫の爵位を關內侯と為す。王起を部曲の將と為す」《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 八月癸卯,衛將軍の司馬望を驃騎將軍と為す《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 九月戊午、中撫軍の司馬炎を撫軍大將軍と為す《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 九月辛未、詔して曰わく「吳賊の暴虐は極まりを知らない。孫休は鄧句を遣わして交阯太守に命じてその民を鎖につないで連行し兵に仕立て上げた。吳將の呂興は民心が憤怒したのを利し、また王師によって巴蜀が平定されたのを受けて即豪傑を糾合し鄧句等を誅殺し、太守長吏を駆逐して吏民を慰撫し、國命を待っている。九真郡と日南郡では呂興が逆を去り順に従ったとして応じようとしている。呂興は日南の州郡に書を届けて大計を示し、兵を合浦に進めて禍福を告げた。また都尉の唐譜等を遣わして進乘縣に留め、南中都督護軍の霍弋を通して上表し、交阯の將吏もまた各々上表してきた。曰く「時宜に合って呂興を督交阯諸軍事・上大將軍・定安縣侯と為しました。賜褒を乞い、辺境の荒廃を慰撫してください」と。今呂興を使持節都督交州諸軍事・南中大將軍と為し、定安縣侯に封じる」策命が至る前に興は下人に殺された《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 冬十月丁亥、詔して曰わく「今交阯の呉の將呂興は三郡を統べて万里の彼方から帰順している。武陵邑侯の相嚴等は五縣を糾合して臣従を請うている。豫章廬陵の山民は挙兵して吳に背き助北將軍と號している。また孫休は病死し、主帥が改まることで國內が乖離し人の心に動揺があるという。呉將の施績は賊の名臣だが、懷疑自猜し、嫌悪されている。以前より今に及ぶまで滅亡の兆しがここまで甚だしかったことはない。もし六軍を動員し南に長江を臨めば、吳會之域は必ず老幼を助けて王師を迎えるであろう。必然だ。しかしながら大動員をすればなお勞費がある。威德を告喻し仁信を開示して順を知らしめ附和同の利を示そう。相國參軍事の徐紹、水曹掾の孫彧は昔壽春にあって虜獲された者たちだが、徐紹は本呉の南陵督、孫彧は孫權の支屬で忠良である。徐紹を南に還えし、孫彧を副と為す。國命を宣揚し吳の人を告喻せよ。徐紹は散騎常侍を兼ねさせ、奉車都尉を加え、都亭侯に封じる。孫彧は給事黃門侍郎を兼ねさせ、爵は關內侯を与える。徐紹等が賜わった妾及男女家人で我が国にあるものは悉く随伴することを許す。國恩明らかをもって必ず還ることは出来ないだろうが、廣大に信を示せ」《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 十月丙午、撫軍大將軍で新昌鄉侯の司馬炎を晉の世子とするよう命じた。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 是歲、屯田官を廃止し政役を等しくした。諸典農は皆太守と為し、都尉は皆令長と為す。勸募蜀の人で內移したい者を募り、廩二年を給った。また二十歲の賦役を除いた。安彌・福祿縣で嘉禾が生えたと伝えてきた。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 正月十五日、魏の鍾会は成都に入った《三国志魏書鍾会伝》 正月十六日、鍾会は成都の政堂において太后の喪を発し、太后の遺詔を偽作して司馬昭を廃すよう申されたと宣言した《三国志魏書鍾会伝》 正月十八日、鍾会は胡淵率いる胡烈の軍兵に攻められ、姜維とともに亡くなった《三国志魏書鍾会伝》 誕生者 死没者 鍾会(魏の相国鍾ヨウの子・戦死・享年40歳) 姜維(蜀の大将軍・戦死) ▲PAGE TOP