約 6,561 件
https://w.atwiki.jp/movie25cinema/pages/11.html
インスタグラムプラグイン 人気の画像共有サービス、Instagram(インスタグラム)の画像をアットウィキに貼れるプラグインです。 #ig_user(ユーザー名) と記載することで、特定ユーザーのInstagramのフィードを表示することができます。 例)@dogoftheday #ig_user #ig_tags(タグ名) と記載することで、特定タグのInstagramのフィードを表示することができます。 #dogofthedayjp タグ #ig_tag #ig_popular と記載することで、Instagramのpopularフィードを表示することができます。 詳しい使い方は以下のページを参考にしてください! =>http //www1.atwiki.jp/guide/pages/935.html
https://w.atwiki.jp/johokutf/pages/265.html
2016年度大会結果一覧へ 更新2016/07/17 東京リレーカーニバル2016/6/25.26駒沢 100m 大野 航平 高2 11 44 (+03) 草間 亮佑 高2 11 75 (-0.7) 田中 一希 高2 11 31 (-1.6) 予選 吉田 英史 高2 12 04 (-0.1) 伊藤 巧真 高2 11 62 (+0.1) 落合 健吾 高1 12 39 (+0.7) 吉野 虎太郎 高1 11 99 (-1.3) 野村 竜司 高1 11 89 (-0.6) 清水 亮佑 高1 11 94 (-0.9) 武田 龍威 高1 12 39 (-0.2) 篠根 一輝 高1 12 64 (+1.4) 安田 薫平 中3 12 35 (-2.3) 大門 弘樹 中3 12 30 (+0.3) 後藤 雅人 中3 13 53 (-4.3) 牛久保 晃平 中3 12 77 (-2.7) 小部 航太朗 中2 12 94 (-1.0) 吉野 晴葵 中2 12 88 (-0.9) 濱野 喬介 中2 12 45 (-2.2) 間篠 琢海 中2 13 96 (-2.0) 有川 遥人 中2 12 46 (-2.6) 永見 浩詩 中2 13 80 (-3.2) 末吉 祐貴 中1 14 24 (-0.1) 及川 十波 中1 13 41 (+0.1) 髙山 博史 中1 14 44 (-0.5) 八木 宥磨 中1 15 08 (-0.1) 落水田 樹 中1 14 38 (+1.0) 島田 悠平 中1 13 51 (-0.4) 田中 一希 高2 11 20 (-0.1) 準決勝 1500m 中村 雄飛 高2 4 29 65 中村 拓夢 高2 4 41 70 塩野 和也 高2 4 19 29 江刺 樹宏 高2 4 42 54 鈴木 悠生 高1 4 36 52 三上 飛龍 高1 5 33 94 大槻 知毅 中1 5 17 72 中谷 陸人 中1 5 42 95 横井 健道 中1 5 18 64 3000m 児玉 創志 中3 10 01 24 吉田 智洋 中3 10 32 86 荻迫 雅矢 中2 10 16 95 加藤 柾司 中2 10 27 11 芝山 弘将 中2 10 44 70 仁井 慶太郎 中2 10 02 23 走幅跳び 松本 良平 中2 5m11 (+0.6) 4×100mR 伊藤(2)-田中一(2)-草間(2)-大野(2) 43 01 大門(J3)-安田(J3)-後藤(J3)-牛久保(J3) 46 60 有川(J2)-松本(J2)-吉野(J2)-佐藤(J2) 48 15 低学年4×100mR 野口(J2)-及川(J1)-川上(J1)-濱野(J2) DQ(FS1)
https://w.atwiki.jp/gamemusicbest100/pages/5540.html
RPGツクール2003 機種:PC 作曲者:椎葉大翼、村上博美 発売元:エンターブレイン 発売年:2002 概要 『RPGツクール2000』に続くパソコン版のRPGツクールシリーズ。 基本的な仕様およびコンセプトは、『2000』と同じであるため、『2003』の曲を『2000』で使うなど、素材の転用も可能。 デフォルトの音楽はAコン受賞経験を持つ椎葉大翼氏(後に任天堂へ入社)と村上博美氏が作曲。 椎葉氏の曲はMIDIファイル内に名前が書いてあるので特定できる。MIDIファイルの曲名とそのファイル内部の曲名が異なるものもある。 RPGツクールシリーズの中でも曲の評価は高く、後に発売された『RPGツクールMV』にはこの『2003』のデフォルト曲のアレンジが多数収録されている。 (前作:RPGツクール2000 次作:RPGツクールXP) 収録曲 曲名(MIDIファイル) 作・編曲者 曲名(ファイル内部) 順位 いやしの泉 村上博美 カジノ三昧 椎葉大翼 カジノ コロシアム 椎葉大翼 闘技場 サイバーシティ 椎葉大翼 堕落都市 スノータウン 村上博美 パニック 村上博美 マキシマム・バトル 椎葉大翼 一瞬の迷いが死を招く 暗黒の祭壇 村上博美 異次元回廊 村上博美 遺跡探索 村上博美 一獲千金の夢 村上博美 王宮のパーティー 村上博美 穏やかな風 村上博美 街の酒場 椎葉大翼 酒場 街の賑わい 椎葉大翼 栄光 機械要塞 椎葉大翼 ヴァルハラ遺跡 記憶の彼方に 村上博美 教会 椎葉大翼 聖者の殿堂 極東の地 椎葉大翼 和風 第2回マイナーゲーム193位 緊迫 村上博美 繰り返される戦い 椎葉大翼 デュエル! 第2回マイナーゲーム213位 決戦の地 村上博美 古城 村上博美 孤独な旅立ち 村上博美 山あいの村 村上博美 邪神との戦い 村上博美 祝福ワルツ 椎葉大翼 舞踏会 小さな兵隊のマーチ 村上博美 静寂 村上博美 戦いの幕開け 椎葉大翼 四賢者の災厄 大空への翼 椎葉大翼 飛空挺 大混戦 村上博美 戦闘2 大聖堂 村上博美 地下迷宮 椎葉大翼 偉大なる悪の帝王 帝国~エンパイア 椎葉大翼 帝国 日だまりの村 椎葉大翼 陽だまりの中で 忍び寄る闇 村上博美 悲しみ 村上博美 祠 氷のラビリンス 椎葉大翼 絶対零度の迷宮 冒険者たち 椎葉大翼 冒険 未開の集落 村上博美 夢見心地 椎葉大翼 なんごく2 夢幻の森 椎葉大翼 mori 無人の館 村上博美 勇者の凱旋 椎葉大翼 Intro2003 悠久の時の流れに 村上博美 幼少の記憶 村上博美 妖精の森 椎葉大翼 静かの森 ホルン 村上博美
https://w.atwiki.jp/esekouhaotoge/pages/830.html
うちさぁ、音ゲーあんだけど、やってかない?*168 546 : 爆音で名前が聞こえません (ワッチョイWW 75c1-HB6C [118.10.211.225])[sage] 投稿日:2017/03/04(土) 21 51 44.12 ID lhUWWOxW0.net [4/7回] (ノスタル爺とケツドラムマニアとのセッションへの)救いはないんですか!? 549 : 爆音で名前が聞こえません (アウアウカー Sa7d-QkTJ [182.250.243.8])[sage] 投稿日:2017/03/04(土) 21 59 33.82 ID 3UGzsK1na.net [1/1回] 546 佐々木博史曲が映えますねぇ! 557 : 爆音で名前が聞こえません (ワッチョイWW 75c1-HB6C [118.10.211.225])[sage] 投稿日:2017/03/04(土) 22 20 00.97 ID lhUWWOxW0.net [6/7回] 549 誰だよ(無知) 子供の落書き帳とか作った人ですか?(適当解答) 558 : 爆音で名前が聞こえません (ワッチョイW 9674-J8Ld [153.172.138.117])[sage] 投稿日:2017/03/04(土) 22 22 52.38 ID VbfVEisS0.net [2/2回] 嵐(淫夢)とかに曲書いてる人だゾ 565 : 爆音で名前が聞こえません (ワッチョイW fa86-LuEe [221.119.226.131])[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 00 50 40.17 ID 3hATOYSg0.net [1/1回] 557 佐々木博史知らない癖にセッションしたいとか君、もう帰っていいよ。 566 : 爆音で名前が聞こえません (ワッチョイW fd2f-xJH3 [126.27.79.198])[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 00 54 06.11 ID y8mnqITn0.net [1/3回] 今からでも遅くないから、SSK兄貴のプログレ全部聞いて来て、どうぞ。 やっぱり僕は王道を往く、100秒ですか。 567 : 爆音で名前が聞こえません (ワッチョイW 9674-J8Ld [153.172.138.117])[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 01 01 55.83 ID a9c52u3M0.net [1/4回] サカナ野郎を知らないとマルチセッション(意味深)したくなっちゃいけないのか・・・んにゃぴ・・・(誤用) そもそも落書き帳って言ってる時点で知ってると思うんですけど(普推理) SSK=プログレのホモほんとひで MNBのSSK曲全部たまらねぇぜ。2回もMNB筐体で無反応に襲われた。糞が(悪態糞土方) 569 : 爆音で名前が聞こえません (スププ Sdda-diRS [49.96.23.177])[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 01 21 30.81 ID 5DSmncIkd.net [1/1回] はぇ^~プログレ以外もあるんすねぇ 主にきんたまゆらのイメージしかなかったゾ
https://w.atwiki.jp/commentary/pages/63.html
見える子ちゃん 1話[1巻]…雨宮天、本渡楓、佐倉綾音 3話[2巻]…雨宮天、本渡楓、佐倉綾音 5話[3巻]…雨宮天、本渡楓、佐倉綾音 7話[4巻]…雨宮天、本渡楓、佐倉綾音 10話[5巻]…雨宮天、本渡楓、佐倉綾音 12話[6巻]…雨宮天、本渡楓、佐倉綾音 未確認で進行形(BD-BOX版のみ) 1~12話,OVA1,2話…照井春佳、松井恵理子、吉田有里 ミカグラ学園組曲 1話[1巻]…松岡禎丞、島﨑信長 3話[2巻]…松岡禎丞、島﨑信長 5話[3巻]…松岡禎丞、島﨑信長 7話[4巻]…木村珠莉、大西沙織 10話[5巻]…木村珠莉、大西沙織 12話[6巻]…木村珠莉、大西沙織 ミギとダリ 1,5話[上巻]…堀江瞬、村瀬歩 10話[下巻]…浅沼晋太郎、武内駿輔、河西健吾 みつどもえ 1,2話[1巻]…高垣彩陽、明坂聡美、戸松遥 3,4話[2巻]…明坂聡美、戸松遥、三瓶由布子 5,6話[3巻]…高垣彩陽、明坂聡美、下野紘 7,8話[4巻]…明坂聡美、戸松遥、下野紘 9,10話[5巻]…明坂聡美、斎藤千和、山本和臣 11,12話[6巻]…高垣彩陽、戸松遥、大原桃子 13話,特別編[7巻]…高垣彩陽、明坂聡美、戸松遥 みつどもえ 増量中! 1,2話[1巻]…戸松遥、下野紘、大原桃子 3,4話[2巻]…明坂聡美、三瓶由布子、天田益男 5,6話[3巻]…高垣彩陽、斎藤千和、山本和臣 7,8話[4巻]…高垣彩陽、明坂聡美、戸松遥 Mission-E 1話[1巻]…稲村優奈、橋本まい、名塚佳織 4話[2巻]…稲村優奈、橋本まい、野村勝人 6話[3巻]…稲村優奈、橋本まい、水野理紗 8話[4巻]…稲村優奈、橋本まい、桃井はるこ 10話[5巻]…稲村優奈、橋本まい、遊佐浩二 12話[6巻]…稲村優奈、橋本まい、加藤敏幸(監督) みなみけ ただいま(BD版のみ) 1話[1巻]…佐藤利奈、井上麻里奈、茅原実里 2話[1巻]…井上麻里奈、茅原実里、森永理科 3話[1巻]…茅原実里、喜多村英梨 4話[2巻]…佐藤利奈、高木礼子 5話[2巻]…茅原実里、豊崎愛生 6話[2巻]…井上麻里奈、後藤沙緒里 7話[3巻]…茅原実里、喜多村英梨、豊崎愛生 8話[3巻]…佐藤利奈、小野大輔 9話[3巻]…井上麻里奈、後藤沙緒里、高梁碧 10話[4巻]…佐藤利奈、浅沼晋太郎 11話[4巻]…佐藤利奈、高木礼子、小野涼子 12話[4巻]…井上麻里奈、高梁碧 13話[4巻]…佐藤利奈、井上麻里奈、茅原実里 みにとじ 3話…衛藤可奈美(CV:本渡楓)、十条姫和(CV:大西沙織) 7話…安桜美炎(CV:茜屋日海夏)、益子薫(CV:松田利冴)、ねね(CV:松田颯水) 10話…山城由依(CV:上坂すみれ) 未来日記(BD限定版のみ) 1,2話[1巻]…富樫美鈴、村田知沙 3~5話[2巻]…相沢舞、川原慶久、仙台エリ 6~8話[3巻]…真田アサミ、水原薫 9~11話[4巻]…石田彰、松岡由貴、平松広和 12~14話[5巻]…田中正彦、石井真 15~17話[6巻]…関智一、桑谷夏子 18~20話[7巻]…ゆかな、白石稔 21~23話[8巻]…稲田徹、今野宏美 24~26話[9巻]…本田愛美、土門仁 みりたり! 1~12話…東山奈央、水瀬いのり ムーの白鯨(リマスター版のみ) 26話[3巻]…吉田理保子、武岡淳一 無限のリヴァイアス(BD-BOX版のみ) 23話…白鳥哲、桑島法子、愛河里花子 25話…白鳥哲、桑島法子、関智一 26話…白鳥哲、保志総一朗、関智一 無彩限のファントム・ワールド (キャストコメンタリー) 1,2話[1巻]…下野紘、田所あずさ 3,4話[2巻]…下野紘、早見沙織 5,6話[3巻]…下野紘、内田真礼、久野美咲 7,8話[4巻]…下野紘、上坂すみれ、内田真礼 9,10話[5巻]…下野紘、田所あずさ 11,12話[6巻]…下野紘、上坂すみれ、早見沙織 最終話[7巻]…下野紘、上坂すみれ、早見沙織、内田真礼 番外編[7巻]…下野紘、阪口大助 (スタッフコメンタリー) 1,2話[1巻]…石原立也(監督)、渡邊美希子(美術監督)、中上竜太(撮影監督) 3,4話[2巻]…石原立也、池田和美(キャラクターデザイン)、宮田佳奈(色彩設計) 5,6話[3巻]…石原立也、澤真平(ファントムデザイン)、小川太一(6話演出) 7,8話[4巻]…石原立也、北之原考將(8話演出)、唐田洋(小物設定) 9,10話[5巻]…石原立也、山本倫(3D監督)、藤田春香(10話演出) 11,12話[6巻]…石原立也、山村卓也(12話演出)、 高瀬亜貴子(11話原画) 最終話,番外編[7巻]…石原立也、武本康弘(最終話演出)、西川昌志(文芸) 蟲師 ダイジェスト[特別編集 蟲往来]…長濱博史(監督)、中野裕斗 蟲師 特別篇(日蝕む翳) 長濵博史(監督)、中野裕斗、太田今日子(宣伝プロデューサー) 蟲師 続章 1話[1巻]…長濵博史(監督)、中野裕斗、上村祐翔 2話[1巻]…長濵博史、中野裕斗、中博史、津田彩花 3話[1巻]…長濵博史、中野裕斗、植田慎一郎、谷田部美咲 4話[1巻]…長濵博史、中野裕斗、内山昂輝 5話[2巻]…長濵博史、中野裕斗、白石晴香 6話[2巻]…長濵博史、中野裕斗、宮本充 7話[2巻]…長濵博史、中野裕斗、日笠陽子、池田心雪 8話[2巻]…長濵博史、中野裕斗、斉藤陽介 9話[3巻]…長濵博史、中野裕斗、松下哲 10話[3巻]…長濵博史、中野裕斗、馬越嘉彦(キャラクターデザイン) 特別編(棘のみち)[3巻]…長濵博史、中野裕斗、三上哲、小林愛 11話[4巻]…長濵博史、沢城みゆき、中尾隆聖 12話[4巻]…長濵博史、中野裕斗、古川登志夫、柿沼紫乃 13話[4巻]…長濵博史、中野裕斗、鈴木れい子、西村知道 14話[4巻]…長濵博史、中野裕斗、島本須美、越川詩織 15話[5巻]…長濵博史、中野裕斗、金沢凜、東郷すばる 16話[5巻]…長濵博史、中野裕斗、松浦亜弓、飯野茉優 17話[5巻]…長濵博史、中野裕斗、潘めぐみ、折笠冨美子 18話[5巻]…長濵博史、中野裕斗、山田瑛瑠、小橋めぐみ 19話[6巻]…長濵博史、中野裕斗、矢部雅史 20話[6巻]…長濵博史、中野裕斗、辻本耕志 特別編(鈴の雫)[6巻]…長濵博史、中野裕斗、土井美加、齋藤智美、小川ゲン 無責任ギャラクシー☆タイラー 1~12話…小出ひかる、高尾奏音、樋口日奈 無敵看板娘 1,2話[1巻]…生天目仁美、小清水亜美 5,6話[2巻]…生天目仁美、小清水亜美 無能なナナ 1話[1巻]…大久保瑠美、下野紘 9話[2巻]…大久保瑠美、中原麻衣 13話[3巻]…大久保瑠美、中村悠一、遊佐浩二 明治東亰恋伽 1話[上巻]…浪川大輔、KENN、大地丙太郎(監督) 4話[上巻]…浪川大輔、KENN 5話[上巻]…鳥海浩輔、岡本信彦 8話[下巻]…福山潤、立花慎之介 10話[下巻]…諸星すみれ、浪川大輔 12話[下巻]…諸星すみれ、森川智之 メイドインアビス 烈日の黄金郷 3話[上巻]…小島正幸(監督)、つくしあきひと(原作)、倉田英之(脚本)、山下愼平(プロデューサー) 7話[下巻]…小島正幸、つくしあきひと、倉田英之、山下愼平 12話[下巻]…富田美憂、伊瀬茉莉也、井澤詩織、久野美咲 メカクシティアクターズ 1話[1巻]…じん(原作・脚本)、阿澄佳奈、鈴木健太(プロデューサー) 2話[2巻]…じん、柏山奈々美、富樫美鈴、鈴木健太 3話[3巻]…じん、甲斐田裕子、鈴木健太 4話[4巻]…じん、富樫美鈴、小岩井ことり、石川達也(アシスタントプロデューサー) 5話[5巻]…じん、保志総一朗、鈴木健太 6話[6巻]…藤原啓治、鈴木健太、石川達也 7話[7巻]…阿澄佳奈、鈴木健太、石川達也 8話[8巻]…じん、寺島拓篤、鈴木健太 9話[9巻]…じん、中原麻衣、鈴木健太 10話[10巻]…じん、立花慎之介、鈴木健太 11話[11巻]…じん、花澤香菜、鈴木健太 12話[12巻]…じん、宮野真守、鈴木健太 メガロボクス 1話[BOX1巻]…森山洋(監督)、真辺克彦(脚本)、小嶋健作(脚本)、藤吉美那子(プロデューサー) 4話[BOX1巻]…細谷佳正、斎藤志郎、村瀬迪与、三好慶一郎(音響監督)、森山洋 8話[BOX2巻]…安元洋貴、森なな子、鈴木達央、三好慶一郎、森山洋 9話[BOX2巻]…森山洋、真辺克彦、小嶋健作、藤吉美那子 12話[BOX3巻]…細谷佳正、安元洋貴、三好慶一郎、森山洋 13話[BOX3巻]…森山洋、真辺克彦、小嶋健作、mabanua(音楽)、藤吉美那子 女神のカフェテラス 3話[1巻]…山根綺、鈴代紗弓、瀬戸麻沙美、青木瑠璃子 4話[2巻]…和氣あず未、山根綺、瀬戸麻沙美、青木瑠璃子 7話[3巻]…和氣あず未、山根綺、鈴代紗弓、青木瑠璃子 9話[4巻]…和氣あず未、鈴代紗弓、瀬戸麻沙美、青木瑠璃子 10話[5巻]…和氣あず未、山根綺、鈴代紗弓、瀬戸麻沙美 15話[第2期1巻]…山根綺、竹達彩奈 18話[第2期2巻]…鈴代紗弓、芹澤優 20話[第2期3巻]…瀬戸麻沙美、高橋李依 22話[第2期4巻]…和氣あず未、上田麗奈 24話[第2期5巻]…青木瑠璃子、花澤香菜 め組の大吾 救国のオレンジ 12.5話[BOX1巻]…榎木淳弥、八代拓、佐倉綾音 17.5話[BOX2巻]…榎木淳弥、小西克幸 メタリックルージュ 1,2,8,13話[BOX]…出渕裕(総監修・シリーズ構成)、堀元宣(監督)、障子直登(プロデューサー) メルへブン 名場面集[8~12巻]…くまいもとこ、保志総一朗、清水愛、中島沙樹、阪口大助 名場面集[13~17巻]…保志総一朗、釘宮理恵、小野坂昌也、斎賀みつき、千葉進歩 ※以下はレンタル版にもコメンタリーの収録されているタイトル みつどもえ、みつどもえ 増量中!、Mission-E、みりたり!、蟲師、無敵看板娘、無責任ギャラクシー☆タイラー、メルへブン
https://w.atwiki.jp/anothermogidra/pages/2802.html
2026年ドラフト候補 内野手 192cm 103kg 右投右打 浦和学院 2004年度生(新1年) 3年春の県大会では公式戦初打席初安打が初本塁打。大柄な体格からのスイングは脅威 指名者コメント一覧2022年度第13回、阪神:育成1位(22/07/17) URL一覧ドラフトレポート ドラフト候補の動画とみんなの評価 球歴 一球速報(打撃成績) 指名者コメント一覧 2022年度 第13回、阪神:育成1位(22/07/17) 次代の大山 体格と飛距離は圧倒的であり同時に課題も山ほどある最高の育成選手 畑山総括担当スカウトの度肝を抜いた実績あり URL一覧 ドラフトレポート https //draftrepo.blog47.fc2.com/blog-entry-5581.html ドラフト候補の動画とみんなの評価 https //player.draft-kaigi.jp/PlayerInfo.php?PlayerId=31225 球歴 https //www.kyureki.com/player/178817/ 一球速報(打撃成績) https //baseball.omyutech.com/playerTop.action?playerId=2409061 teamId=11345 2026大学生野手 東都大学 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/400.html
唐書巻二百二十三上 列伝第一百四十八上 姦臣上 許敬宗 李義府 傅游芸 李林甫 陳希烈 許敬宗、字は延族、杭州新城の人である。父の善心は、隋に仕えて給事中となる。敬宗は幼き頃より文章を善くし、大業年間(605-618)に秀才に挙げられ、淮陽書佐に任じられ、俄かに謁者台となり、奏通事舎人事となった。善心は宇文化及によって殺され、敬宗は哀請するも死ぬことができず、去って李密によって記室となった。武徳年間(618-626)初頭、漣州別駕に補された。太宗がその名を聞き、召されて文学館学士となった。貞観年間(626-649)、著作郎に任じられ、修国史を兼任し、喜んで親しい者に「仕官して著作にならなければ、門戸をなすことはない」と言った。にわかに中書舎人に改められた。文徳皇后が喪すると、群臣が衰服したが、率更令の欧陽詢の容貌が醜異であり、敬宗は侮り笑うことがいつものようであったから、洪州司馬に貶された。累進して給事中に転じ、修史に復職し、労によって高陽県男に封じられ、黄門侍郎を検校した。高宗が東宮であったとき、太子右庶子となった。高麗の役で、太子は定州にて監国し、敬宗と高士廉は機密事務を司った。岑文本が卒すると、帝は駅伝にて敬宗を召し、本官を以て中書侍郎を検校させた。駐蹕山で敵を破ると、命によって馬前で詔の草案作成を行い、帝はその飾って聡明なのを愛し、これによって専ら誥令を司った。 これより以前、太子承乾が廃され、官属の張玄素・令狐徳棻・趙弘智・裴宣機・蕭鈞の全員が名を除かれ庶民となり、再び用いられなかった。敬宗は張玄素らのために諫言し、直言のために忌み嫌われ、今一律に罪されようとしたが、赦免寛恕があると思いいまだ至らざるところがあった。帝は悟り、多くを再審して復職させた。高宗が即位すると、礼部尚書に遷った。敬宗は貪欲で厭きることなく、ついに娘を蛮酋の馮盎の子に嫁がせ、多くの聘物を私にした。役人が弾劾して、鄭州刺史に左遷されたが、にわかに復官し、弘文館学士となった。 帝はまさに武昭儀(後の武后)を立てようとしたが、大臣が切諫した。しかし敬宗は陰で帝の私心をおしはかり、妄言して、「田舎の十斛の麦を得られるかどうかの者であっても、なお妻を変えたいと思うのです。天子の富は四海にありますが、一后を立てるのに、これを駄目だというのはなぜなのでしょうか?」と言ったから、帝は思いをついに定めた。王后が廃されると、敬宗は后家の官爵を削り、廃太子李忠を代王に立てることを願い出て、遂に太子賓客を兼任した。帝は欲するところを得て、そのため敬宗に詔して待詔武徳殿西闥とした。しばらくして侍中・監修国史を拝し、郡公の爵位を得た。 帝はかつて故長安城に行幸して、所々に止まっては徘徊し、古の区処を視て、侍臣に「秦・漢以来、どれほどの君がここを都としたのか」と問うた。敬宗は「秦は咸陽にいて、漢の恵帝がはじめてここを城としました。その後苻堅・姚萇・宇文周がここに居ました」と答えた。帝はまた「漢の武帝が昆明池を開いたのは実に何年であるか」と問うたから、答えて「元狩三年(前120)で、まさに昆明を討伐しようとして、実にこの池をつくって戦いの訓練をしたのです」と答えた。帝はそこで詔して弘文学士とともに古の宮室故区を検討させ、一つ一つ詳細に上奏させた。中書令に進み、よって侍中を守った。敬宗は立后に助力があり、武后が冷徹暴虐であることを知っていたから、よく主を固めて自身の権力を久しくし、そこで后と陰謀して韓瑗・来済・褚遂良を放逐し、梁王・長孫无忌・上官儀を殺し、朝廷の重足となって仕え、威寵は光り輝いていて、当時は比較するものはなかった。右相に改め、病により辞職したが、太子少師・同東西台三品を拝した。年老いて、趨歩ができなくなり、特に詔して司空の李勣とともに朝朔日に、小馬に乗って内省に至ることを聴(ゆる)した。 帝は東行して泰山を封じ、敬宗を領使とした。濮陽に行き、帝は竇徳玄に「ここを帝丘というのはどうしてなのか」と問うたが、竇徳玄は答えられなかった。敬宗は割り込んで「臣はよく知ってます。昔、帝顓頊が始めてこの地にいて、王となって天下を治めました。その後夏后もここによりましたが、寒浞のために滅ぼされました。后緡はまさに妊娠していて、城墻の水門から逃げ出して、この地にいました。後に昆吾氏がここによって、夏伯となりました。昆吾が衰えると、湯がこれを滅しました。その頌(毛詩)に『まず韋と顧とを討伐し、次いで昆吾と夏の桀王を追放した』とあるのはこれです。春秋の時代になると、衛の成公が楚丘より遷ってここにいましたが、左氏伝に『(夏王の)相が自分へのお供えを奪った』とあるのは、旧地であるからです。顓頊がいるところであるから、帝丘というのです。臣はこう聞いています。有徳の者はその国土を開き、失道の者はその国土を失うと。古より大いなる都、美しい国、居する者は一姓ではなく、そのため国家にある者は慎まないということをしてはならないのです」と言った。帝は「書(夏書・禹貢)に『済水から漯水に船を浮かべ』とあって、今済水と漯水は断絶して繋がっていないが、何故そうなったのか」と言った。答えて「夏の禹は沇水を東に導いて流して済水とし、黄河に入れました。今漯水より温水に至るまで黄河に、水はこれより地を渦巻いて流れて黄河を過ぎて南流し、出でて滎沢となり、また渦巻いて流れて曹・濮に至り、地に散出し、合せて東流し、汶水は南より流入します。いわゆる『余水を集めて滎沢とし、東して陶丘の北に出で、また東北して汶水に合わせ』(史記・夏本紀)とあるのはこれです。古は五行にはそれぞれすべてに官があり、水官は職を失わず、そこでよく味と色を語ってきました。潜っては出て、合流してはさらに分流しますが、すべてよく識っています」と答えた。帝は「天下の洪流巨谷は、祀典に載せられていないが、済水はとても細いのにも関わらず四涜となっているのは、どうしてなのか?」と問うた。答えて、「涜(とく)の言いは独(どく)です。他の河水によらず、ただ一河のみで海に流れます。また天に五星あり、運に四時があります。地に五岳があり、流れに四涜があります。人に五事があって四支となります。五は陽数で、四は陰数で、奇数・偶和・陰陽があります。陽は光曜で、陰は晦昧で、そのため辰隠れて見えにくいのです。済水は流れが潜ってしばしば断絶し、形は微細であるとはいえ、独立しているから尊いのです」と答えた。帝は「よし」といった。敬宗は退くと、誇って「大臣は無学であってはならない。竇徳玄は答えられなかったが、私はこれを恥じている」と言った。竇徳玄はこれを聞いて潔しとはせずに「人にはそれぞれ能力があって、努めない所を知らないのは、私のよしとするところなのだ」と言った。李勣は「敬宗は多く聞くのを美とする。竇徳玄が努めないというのはまた善くないことではないのか?」と言った。 それより以前、高祖・太宗の実録は、敬播が撰するところであり、信憑性があって詳細であった。敬宗が国史となると、改竄して公平ではなく、専ら己が私より出た。さらに以前、虞世基と許善心が同じく賊のために殺害されたが、封徳彝はいつも「昔、私は虞世基の死を見たが、弟の虞世南は這いつくばって身代わりとなるのを願い出た。許善心の死では、子の許敬宗は踊って命乞いをした」と言っていたから、世の人は口実として、敬宗は心に怒りを抱いた。封徳彝の伝を立てると、盛んにでっち上げて悪しざまに書いた。敬宗の子は尉遅敬徳の女孫を娶り、娘は銭九隴の子に嫁いだ。銭九隴は、もとは高祖の奴隷であり、偽りをなして門閥の功状となし、劉文静らと伝を同じくするに至った。太宗は長孫无忌に「威鳳賦」を賜ったが、敬宗は勝手に尉遅敬徳に賜ったのだとした。蛮酋の龐孝泰は兵を率いて高麗討伐に従ったが、敵はその臆病さに笑い、襲撃しこれを破った。敬宗はその金を受け取り、そこで「しばしば賊を破り、唐将で驍勇といえばただ蘇定方と龐孝泰であり、曹継叔・劉伯英はその下に出て遠く及ばない」と書いた。しかし貞観年間(626-649)より以後、論次の諸書で、晋より隋まで、『東殿新書』・『西域図志』・『姓氏録』・『新礼(永徽五礼)』等の数十種はすべて敬宗が総監し、賞や賜い物はあえて記すことができないほどであった。 敬宗は邸宅を造営し、驕って連楼を造り、諸妓をしてその上を馬で走らせ、酒をほしいままにし音楽を演奏して自ら楽しんだ。その婢(はしため)を寵愛して、継室とし、仮に姓を虞氏とした。子の李昂がこれと密通し、敬宗は怒って虞氏を追放し、奏上して李昂を嶺外に退け、しばらくして上表して帰還した。 咸亨年間(670-674)初頭、特進によって致仕したが、朔望に参朝したため、俸禄は続けて支給された。卒し、年は八十一であった。帝は挙哀し、百官に詔してその邸宅にて哭し、贈開府儀同三司・揚州大都督に冊し、昭陵に陪葬された。太常博士の袁思古は議して、「敬宗は子を辺境に棄て、娘を蛮族の集落に嫁したから、諡して「繆」とする」と言ったが、その孫の許彦伯は袁思古と仲が悪かったから、詔してさらに議させた。博士の王福畤は、「何曾は忠にして孝であったが、日に万銭を食に費やしたから「繆醜」と諡したが、ましてや敬宗は忠も孝も両方棄て、男女と飲食の累はこれよりもひどかった」と言い、執行しながらも改めなかった。尚書省に詔があって雑議し、さらに諡して「恭」とした。 許彦伯は、昂の子である。すこぶる文をよくした。敬宗の晩年には再び筆を下すことはなく、おおむね大典冊のことごとくを彦伯が作成した。かつて敬宗は戯れに李昂に「我が子は幼子に及ばない」というと、答えて「この子の父は昂の父に及ばないでしょう」と言った。後にまた婢の讒言を入れ、彦伯を嶺表に流すことを奏上し、赦免によって帰還して、累進して官を太子舎人となった。既に袁思古と仲が悪く、諸路で迎え撃とうとしたが、袁思古が「私はお前に先んじて報復するのみ」と言ったから、彦伯は恥じて止めた。 垂拱年間(685-688)、詔して敬宗を高宗の廟廷に配饗した。 李義府は、瀛州饒陽の人で、その祖はかつて射洪丞となり、永泰年間(498)に客人となった。貞観年間(626-649)、李大亮は剣南を巡察し、義府の才を表し、対策に及第し、門下省典儀に補任された。劉洎・馬周はさらに推薦し、太宗は召して謁見すると、監察御史に転任し、詔して晋王(後の高宗)に侍った。晋王は太子となり、舎人・崇賢館直学士に任じられ、司議郎の来済とともに文翰によって名をあらわし、時の人は「来李」と称した。「承華箴」を献上し、末語に「おべっか使いの類がいれば、邪悪な企みがあちこちに多くなる。その萌芽は絶えず、その害は必ず彰らかになる」とあったが、義府はまさに太子に諂い仕えていて、文は直言してはばからないかのようであった。太子はこの文を上表し、お褒めの詔があって帛を賜った。 高宗が即位すると、中書舎人に移り、修国史を兼任し、弘文館学士に進んだ。長孫无忌に憎まれ、上奏によって壁州司馬に排斥されるところであったが、詔がいまだ下る前に、義府は計略を舎人の王徳倹に問いただした。王徳倹は許敬宗の甥で、腫物があったが智恵者で、計略をよくしたから、「武昭儀はまさに寵があり、お上は后に立てたいと思っていますが、宰相に議るのを恐れて、未だ発覚していません。あなたはよく建白し、禍を福に転じるのです」と言った。義府はそこで王徳倹に代わって夜の当直となり、閤を叩いて上表し、王皇后を廃して武昭儀を立てることを請うた。帝は喜び、召見してともに語り、珠一斗を賜い、壁州司馬に左遷される詔書は停止され、留ってまた太子に侍った。武后が立后されると、義府と許敬宗・王徳倹、および御史大夫の崔義玄・中丞の袁公瑜・大理正の侯善業は互いに推挙し合い、その企みが済むと、硬骨の大臣は誅殺され、そのため武后は志をほしいままにすることができ威権を盗み、天子は襟を正した。 義府の容貌は柔和で慎みがあり、人と話せば、嬉しそうに微笑していたが、人を害する心を持ち、心にゆとりがなく妬み深さを心に現れていた。概ね思いもよらずに皆中傷されたから、時の人は義府を号して「笑の中の刀」と言った。また上辺は柔らかいのに物を害するから、「人猫」と号された。 永徽六年(655)、中書侍郎・同中書門下三品を拝し、広平県男に封じられ、また太子右庶子を兼任し、爵位は侯爵となった。洛州の女子の淳于が犯罪により大理に繋がれ、義府はその美しさを聞き、大理丞の畢正義に出獄させ、納れて妾としたが、大理卿の段宝玄がこれを上聞した。給事中の劉仁軌・侍御史の張倫に詔して、尋問・断罪させ、義府はまさに窮して、畢正義に迫って獄中で縊死させて口封じした。侍御史の王義方は朝廷で弾劾したが、義府は咎を引かず、三たび叱責され、その後に走り出ていった。王義方は極めてその悪を述べたが、帝は義府に秘かな貸しがあったから不問とし、王義方を抑えるために放逐した。しばらくもしないうちに中書令に進み、御史大夫を検校し、太子賓客を加え、さらに河間郡公に封じられ、詔によって私邸を造った。諸子は乳飲み子であったが皆清官に補任された。 初め、杜正倫が黄門侍郎となり、義府はわずかに典儀であった。同じく輔政するにおよんで、杜正倫は先任であることに恃んで相下さず、密かに中書侍郎の李友益とともに義府の排斥を測ったが、反って誣告され、交えて帝の前に訴えた。帝は両方斥け、杜正倫を横州刺史に、義府を普州刺史に、李友益を峰州に流した。翌年、召されて吏部尚書・同中書門下三品となった。母の喪で免官となったが、奪喪によって司列太常伯・同東西台三品となった。さらにその父を永康陵の側に葬り、県人の牛車を徴発して土を運んで墳墓を築き、徴発を助けるものはおよそ七県で、高陵令は労に堪えられずに死んだ。公卿はあらそって喪事をたすけて贈物を贈った。葬送の日、御史に詔して節哭させた。葬車を送るのに騎を従えて互いに銜(はみ)させ、帳は灞橋より三原に属して七十里も絶えず、葬車を動物に曳かせたが、奢侈が過度で法にかなわず、人臣の送葬の盛んなこと、これと比するものはなかった。殷王(後の睿宗)が宮中を出たから、殷王府長史を兼任し、しばらくして右相に遷った。 義府はすでに貴くなったから、そこで系譜を趙郡より出ると言い、諸李氏と昭穆を叙述した。無頼の者で往々として義府を尊んで父兄となす者が横行した。給事中の李崇徳は義府を引き入れて系譜に組み入れたが、義府が普州に流謫されると、しばらくして系譜より削除したから、義府はこれを恨み、国政に復すると、その罪を並べて獄中で自殺させた。貞観年間(626-649)、高士廉・韋挺・岑文本・令狐徳棻が『氏族志』を編修し、上も下も天下はその議を許し、ここに州に副本を蔵めて永遠の法度とした。その時、許敬宗は武后の本望が載らず、義府もまた先祖が書かれていないことを恥じ、さらに刪正を奏上した。孔志約・楊仁卿・史玄道・呂才らに委ねてその書を定めさせ、唐に仕えて官は五品に至る者はすべて士流に昇進した。ここに兵卒で軍功を進める者も、ことごとく書ける限りは入れ、さらに『姓氏録』と号したが、搢紳は共に嘲笑して、「勲格」と号した。義府は奏上してことごとく前の『氏族志』を回収して焼き捨てた。魏の太和年間(477-499)より望族(六朝・隋唐の名族)は定まり、七姓の子孫は互いに通婚し、後にますます衰えたとはいえ、なおも互いに尚んだ。義府は子のために求婚してもできなかったから、遂に奏上して通婚を一切禁止させた。 義府はすでに主に選ばれ、無品である者の才能を鑑別することとなったが、欲望が次から次と起こって満足を知らず、賄賂を受け利益を得て、また評選や鑑別しないから、人々は嘆息して当てこすった。また母・妻・諸子は売官して利益を得て、その門前は湯が沸くかのようであった。永徽年間(650-655)以後、御史は多く制授(制書にて任官)し、吏部は調注していたとはいえ、義府の門下に至ったから、わざわざ覆して留めるようなことはしなかった。義府はそこで自ら御史・員外・通事舎人に辞令し、役人はあえて断らなかった。帝はかつて従容として義府を戒めて「聞くに卿(なんじ)の子や女婿は法を曲げて過失が多いが、朕は卿のために遮断してきた。少しはつとむべきではないのか」と言ったが、義府は内に武后が座り、群臣が探って敢えてその罪を申す者はないから、帝がこれを知っていても恐れず、そこで突然怒って顔色を変え、おもむろに「誰が陛下にそんなことを言ったのですか」と言ったが、帝は「どうして我れの問いによって従うことができないのか!」と言ったから、義府は憮然として謝らず、おもむろに引き下がったから、帝はこれより喜ばなかった。 術を会得する者に杜元紀がいて、義府の邸宅を望気すると獄気があったから、「銭二千万を積んで、厭勝(厄除け)すべきです」と言った。義府は信じて、収斂する方法を探すのをことのほか急いだ。母の喪にあい、十五日間の告を賜わり、そこで破れ着を着て杜元紀とともに野に出て、高所より災眚(天災と人災)を窺い見たが、衆は謀があるのかと疑った。また子の李津を遣わして長孫延を召し、「私は子(なんじ)のために一官を得た」と言った。居ること五日、長孫延は司津監を拝命し、謝礼の銭七十万を求めた。右金吾倉曹参軍の楊行穎はその罪を申し、司刑太常伯の劉祥道に詔して三司とともに尋問し、李勣が監按し、罪状があり、詔して除名し、巂州に配流とし、子で率府長史の李洽・千牛備身の李洋および婿で少府主簿の柳元貞をあわせて廷州に配流とし、司議郎の李津は振州に配流とし、朝野は互いに喜び合った。三子および婿は最も凶漢で、失脚すると人は「四凶」が誅されたとした。ある者は「河間道行軍元帥劉祥道が銅山の大賊李義府を破る」の幟をつくって街に立てかけた。乾封元年(666)、大赦があったが、ただ流人は帰還を許されなかったから、義府は怒り憤りのあまり死んだ。年五十三歳。失脚してから天下は再び任用されるのかと憂いていたが、この死によって内外はようやく安堵した。 上元年間(674-676)初頭、妻子を赦して洛陽に帰還させた。如意年間(692)、義府に揚州大都督を、崔義玄に益州大都督を、王徳倹・袁公瑜に魏・相の二州の刺史を贈位し、それぞれ実封を賜ったが、睿宗が即位すると詔して停止した。少子の李湛は、李多祚伝に見える。 傅游芸は、衛州汲の人である。載初年間(690)初頭、合宮県の主簿となり再び左補闕に遷った。武后が政務を掌握すると、そこで上書して符瑞を詭説し、武后にすすめてまさに姓を革めて受命を明らかにすべきとしたから、武后は喜び、給事中に抜擢された。三か月後に同鳳閣鸞台平章事(宰相)に昇進し、鸞台侍郎を拝した。武后は唐を退けて周と称し、唐の宗廟を廃し、自ら皇帝と称し、傅游芸に姓武氏を賜い、兄の傅神童を冬官尚書に任じた。傅游芸はかつて湛露殿に登る夢を見て、目覚めると親しい者に語ったが、その謀反を密告する者がいて、獄に下されて自殺した。五品の礼にて葬った。 それより以前、傅游芸は武后の心内を探り、誣告して宗室を殺し、また六道使を発することを願い出たが、後に卒してからその言は用いられた。万国俊らが出て、天下はその酷政を蒙った。傅游芸は一年のうち、袍を青色・紫色を賜り、人は「四時仕宦」と号した。しかし年内に失脚し、往古でもこれに比するものは少ないといわれた。 李林甫は、長平粛王叔良の曽孫である。初め千牛直長となり、舅の姜晈はこれを愛した。開元年間(713-741)初頭、太子中允に遷ったが、源乾曜が宰相であり、姜晈と姻家であり、源乾曜の子の源絜が林甫のために司門郎中を求めたが、源乾曜は最初から冷淡で、「郎官はまさに才望がある者が得るべきで、哥奴はどうして郎中の人材といえるのか」と言った。哥奴は李林甫の小字である。そこで諭徳を授け、累進して国子司業に抜擢された。宇文融は御史中丞となり、引き上げられて同列となり、次第に刑・吏部侍郎を歴た。それより以前、吏部に長名榜が置かれ、定め留まった後に放った。寧王は私事として十人と謁見していたが、李林甫が「願わくは一人を罷免して公に示してください」と言ったから、ついに榜はただ一つだけとなり、「王の委嘱によって、冬集(職員の任期満了後、規定の冬期に集結して選考に参加すること)に放つ」とあった。 時に武恵妃は寵愛されて後宮を傾け、子の寿王・盛王は最も愛された。李林甫は宦官を仲介して妃に申し入れ、寿王を護って皇帝とする計略を願い出、妃はこれに恩義を感じた。侍中の裴光庭の夫人は、武三思の娘武氏で、かつて李林甫と密通していたが、高力士はもと武三思の家の出であった。裴光庭が卒すると、武氏は高力士に李林甫を代わって宰相とするよう願った。高力士がまた玄宗に上言する前に、玄宗は蕭嵩の上言によって、自ら韓休を登用し、まさに具さに詔しようとしたが、武氏は李林甫に暴露し、李林甫は使して韓休に伝えた。韓休は宰相となると、重ねて林甫に恩義を感じ、しかも蕭嵩と仲が悪かったから、そこで李林甫に宰相の才があると推薦し、武恵妃も陰に助力したから、そこで黄門侍郎を拝した。ついで礼部尚書・同中書門下三品(宰相)となり、再び兵部尚書に進んだ。 皇太子・鄂王・光王は讒言され、帝はこれを廃そうと思ったが、張九齢が厳しく諌め、帝は喜ばなかった。李林甫はその場ではあっけにとられ、密かに宦官に語って「天子の家の事なのだから、他者がどうして関われようか」と言った。開元二十四年(736)、帝は東都(洛陽)にあって、長安に帰還したいと思った。裴耀卿らは建言して、「農民の畑はまだ収穫が終わっていません。冬を待って帰還すべきです」と言った。林甫は表向きに苦しんでいるさまを見せ、一人だけ後ろにいた。帝に理由を聞かれたから、「臣は病気ではありません。奏事を願っていたのです。二都はもとより帝王の東西の宮で、車駕が行幸するのに、何の時を待つことがありましょうか。たとえ農業を妨げたとしても、ただ通過した所の租賦を免除すればいいだけなのです」と答えた。帝は大いに喜び、即時車駕を西に向けた。はじめ張九齢は文学により昇進し、正道を守って穏健であった。李林甫はとくにおべっかを使って、そのため大任を得たから、張九齢を妬むごとに秘かに害そうとした。帝は朔方節度使の牛仙客に実封を進めようと思ったが、張九齢は李林甫に「封賞は名臣の大功を待つもので、辺将一人が最も上だとしたら、議によるべきだろうか。公と一緒に厳しく諌めなければならないな」と言ったから、李林甫は許諾した。進見するにおよんで、張九齢は論を極めたが、李林甫は押し黙り、退いてからその言を漏らした。牛仙客は翌日帝に謁見して、泣いて辞退した。帝はますます牛仙客に恩賞を与えたいと思ったが、張九齢は不可を堅持したから、林甫は人のために「天子が人を用いるのに、何の不可があろうか?」と言ったから、帝は聞いて、李林甫が思った通りにしないことをよしとした。これによってますます張九齢を疎んじて粗略にし、にわかに裴耀卿とともに宰相を罷免され、李林甫が専任となり、牛仙客を宰相とした。それより以前、三宰相が就位し、二人は磬折(立ったまま腰を深く折り曲げてする礼)して趨(こばしり)したが、李林甫が中央にいても、極めて傲慢で少しも譲ることなく、喜びが津々と眉の間から湧き出た。見る者は秘かに「一羽の鷲を二兎が挟む」と言った。しばらくして詔書が出て、裴耀卿・張九齢を左右丞相から罷免し、李林甫は喜び笑って「左右丞相を尚ぶか」と言ったが、目は怒って送りそこで止めたから、公卿は戦慄した。ここに李林甫は昇進して中書令を兼任した。帝はついにその言を用い、三子を殺したから、天下はこれを冤罪だとした。大理卿の徐嶠は妄言して、「大理の獄は殺気が盛んで、鳥雀は敢えて棲むことはありませんでした。今刑部が死刑を執行したのは一年にわずか五十八人で、烏鵲の巣が獄戸に出来たのは、しばらく刑罰を止めていたからです」と言ったから群臣は帝に祝賀して、帝は功を大臣に推して、李林甫を晋国公に、牛仙客を豳国公に封じた。 帝がまさに太子を立てようとするのに及んで、李林甫は帝の意を探り、しばしば寿王を称えたが、言葉は秘して伝えず、しかし帝の思いは忠王(後の粛宗)にあり、寿王は立太子することができなかった。太子が既に定まると、李林甫は謀が実行されなかったのを恨み、かつ禍いを恐れ、そこで表向きは韋堅とよくした。韋堅は太子妃(韋妃)の兄である。要職に任じてから、まさにその家を罪で覆い、東宮を脅した。しかし太子は妃を絶って自らの潔白を明らかとしたから、李林甫の計略は退けられた。杜良娣の父杜有隣と婿の柳勣は互いに相性が良くなく、柳勣は軽薄かつ陰湿で、李林甫を助けようと思い、そこで杜有隣に変事ありと上奏し、逮捕されて詔によって獄中で死を賜った。裴敦復・李邕らも逮捕されたが、皆李林甫がもとより憎んでいる者であったから、連なって殺された。太子もまた杜良娣を出して庶人とした。しばらくもしないうちに、済陽別駕の魏林に暴露させ、河西節度使の王忠嗣が兵を擁して太子を助けようとしていると誣告したが、帝は信じず、しかし王忠嗣は結局左遷されてしまった。李林甫はしばしば「太子は謀叛をはかっています」と言ったが、帝は「我が子は宮中にいて、どうして外の人と接触することができようか。これは妄言である」と言った。李林甫はしばしば太子を危機に陥れたが、思い通りにできなかったから、ある日従容として「古は儲君を立てるのに必ず賢徳を先んじ、大勲があって宗稷に力があったものではない。それは天子の嫡長子のようなものではない」と言った。帝はしばらくして「慶王は往年猟をして、獣に顔をかなり傷つけられた」と言うと、答えて「顔が破られて治らなかったからといって国が破られますか」と言うと、帝はかなり困惑して、「朕はおもむろにそう思う」と言った。しかし太子は自ら謹孝をもって聞こえ、内外の評判は損なわれず、そのため飛語があっても入れられず、帝は猜疑心をおこすことはなかった。 李林甫はよく上意を探り、当時帝は年老いて、政務を次第に怠るようになり、署名・検断を嫌がり、重ねて大臣に接待するも、李林甫を得るにおよんで、任せて疑わなかった。李林甫はよく帝の欲を養い、これより帝は深く安楽にいて、寝所に沈溺し、主の徳は衰えた。李林甫は奏請するごとに、必ずまず食事時に配下を遣わし、審かに趣旨をうかがい、恩信を固くし、膳主や御婢にいたるまで皆親しく交わり、そのため天子の動静は必ず詳細に得られた。性格は陰密で、誅殺をしのび、喜怒哀楽を見せなかった。表面上は柔和で、初対面の者には親しげにみせたが、既に深く危険な落とし穴に阻まれるようなもので、ついには得られなかった。公卿はその門閥によらずに昇進すれば、必ず刑罰に服することになった。一旦ついた者が離れれば、小者であっても貶められた。一緒に宰相であった張九齢・李適之は皆追われた。楊慎矜・張瑄・盧幼臨・柳升らの縁者で連座した者は数百人となり、あわせて誅殺された。王鉷・吉温・羅希奭を自身の爪牙とし、しばしば大獄をおこし、貴族は長嘆した。李適之の子の李霅はかつて盛んに賓客を招いていたが、李林甫を恐れて、そこで終日一人も往く者がいなかった。李林甫は堂を所有して偃月のようであったから、「月堂」と号した。大臣を排斥するごとに、そこにいた。人を中傷する理由を思い浮かんだら、喜んで出てくると、その一家は打ち砕かれた。子の李岫は将作監となり、権勢がかえって苦しみ悩ませ、あやぶみ恐れた。常に後園で散歩するのに従っていたが、輦を曳くに人夫を見て、跪いて泣いて「父上は長らく宰相の座にあり、恨みは天下に満ちています。いったん、災いがあったら人夫になりたいと思ってもなれるでしょうか」と言ったが、李林甫は不機嫌となり「こうなった以上、もはやどうすることもできない」と言った。 当時、帝は詔して天下の士で一芸ある者は宮中に詣でさせ選につかせようとした、林甫は士が詔にこたえてあるいは自分を排斥することを恐れ、そこで建言して、「士はみな草茅の者で、禁忌を知らず、いたずらに狂言で聖聴を乱します。願わくはすべて尚書省の長官に委ねて試問させましょう」と言った。御史中丞して監督させて、一人として中程度の者はなかった。李林甫はこれによってお上に在野に才能ある者が留まっていないことを祝賀した。にわかに隴右・河西節度使を兼任した。右相に改められると、節度使を免ぜられ、加えて開府儀同三司に累進し、実封戸三百となった。 咸寧太守の趙奉璋は「林甫隠悪二十条」を書いて、まさに上言しようとした。李林甫は御史に仄めかして趙奉璋を逮捕させ、妖言したと弾劾し、死罪とした。著作郎の韋子春も親しかったから連座して左遷された。帝はかつて大いに楽を並べて勤政楼で演奏したが、それが終わると兵部侍郎の盧絢は馬の轡をもって道を横切って去った。帝はその奥ゆかしさを愛して、称えてこれをよしとした。翌日、林甫は盧絢の子を召して、「お父上はもとより嘱望されていて、お上は交州か広州刺史に任じたいと思っている。もし遠地に行くのに憚りがあるのなら、かつお上に願い出なさい」と言った。盧絢は恐れてこれに従い、そのため華州刺史となり、太子員外詹事を授けられたが、盧絢はこれによって失寵した。時に人材でその誉れが聞こえたる者がいれば、李林甫は過ちを認めず、すべてよく天子から遠ざけ、そのため在位中の恩寵でこれに比較できる者はなかった。おしなべて御府で貢納された遠方からの珍味などは、使者が伝送して賜った。帝が甘い物、美味な物を食べれば、必ず賜った。かつて百官に詔してこの年の尚書省に貢納された物は、貢物はことごとく李林甫に賜った。帝の輦はその家に到った。華清宮の行幸に従って、御馬・武士百人・女楽二部を給付された。薛王の別所で、勝麗なること京師で一等地を李林甫に賜り、その邸第・田園・水磑はみな優れた肥沃の地であった。車馬衣服は奢侈に靡き、最も声伎を好んだ。侍姫は房にあふれ、子は男女五十人である。故事では、宰相はみな元より功あって盛徳で、権威につとめず、出入する騎馬の従者は簡寡で、士庶は引き避けることは甚だしくなかった。李林甫は自らが怨む者が徒党を組んでいるのを知っているから、刺客を憂いてひそかに出発し、出入では広く騎馬が走り、先に百歩を駆け、伝令が何衛であるか叫び、金吾はそのために道を清掃し、公卿は辟易として走った。家の中では門や壁を何重にし、石畳を敷き、夜にしばしば移動して、家人でもどこにいるか知るものはいなかった。あるいは帝が不朝の時、群司要官はことごとくその門に走り、台や省は空となった。左相の陳希烈が府にいるとはいえ、ついに入謁する者がいなくなった。 李林甫には学がなく、いやしい発言をしたから、聞く者はひそかに笑った。苑咸・郭慎微と親しく書記とした。しかし文法を練り、その用人は迎合しなければ、一に格令によってこれを持し、そのため細々とした綱目は甚だしくは乱れず、人はその威権を憚った。しばらくしてまた安西大都護・朔方節度使を兼任した。にわかに単于副大都護を兼任したが、朔方副使の李献忠が反乱したから、譲って節度使を辞退した。 はじめ王鉷を厚遇したから、李林甫のために力を尽くしたが、王鉷が失脚すると、宰相治状を詔し、李林甫は大いに恐れ、表立って王鉷をどうこうすることもせず、獄に下す署名をし、また申して救うこともなかった。そのため楊国忠が代わって御史大夫となり、李林甫は楊国忠が愚かであるため軽視し、恐れることはなかったが、また楊貴妃のため厚遇した。ここにおよんで権勢が盛んになり、貴きこと天下を震わしたから、始めて憎しみを交えて仇敵のようになった。しかし楊国忠はまさに剣南節度使を兼任し、南蛮が入寇し、林甫はそのため建言して楊国忠を鎮に遣わして、これを離間しようとした。楊国忠は入朝して辞退したが、帝は「処置がまた終われば、すみやかに帰還せよ。日を数えて卿が戻ってくるのを待とう」と言ったから、李林甫はこれを聞いて悩み苦しんだ。この時すでに病となり、次第に重態となった。たまたま帝は温泉に行幸し、詔して馬輿で従わせ、御医は珍膳を継いで至り、詔旨して見舞いし、宦官は起居を守った。病が激しくなると、巫者が病を視て「天子がまみえると少しはよくなるでしょう」と言ったから、帝は見舞いしようとしたが、左右に諫止された。そこで李林甫の出廷中に詔して、帝は聖閣を昇り降りし、赤布をあげて招いたが、李林甫は起き上がれず、左右の者が代って拝した。にわかに楊国忠が蜀より至り、李林甫の寝所に謁して、涙を流して後事を託し、そこで食べずに卒した。諸子が護って京に帰って喪を発し、太尉・揚州大都督を贈位された。 李林甫が宰相の位にいること、およそ十九年、寵を受けて権力を弄び、天子の耳目を蔽い欺き、諫官はみな禄によって資を養ったから、敢えて正言する者はいなかった。補闕の杜璡が再び上書して政事を申し上げたが、斥けられて下邽令に左遷された。よってその他の者を動かし、「明主が上にあり、群臣はまさに従って暇ではないというのに、また何を議論しようというのか。君らはただ仗の前で立つ馬を見たことがないのか。終日声を出さなければ、三品と芻豆(馬の糧)が食べられる。一たび鳴けば、すぐに追い出される。後で鳴かなければよかったと思ったところで、何ができるのか」と言った。これによって争ってまで諫める者はいなくなった。 貞観年間(628-649)以来、蕃将で任じられた者に阿史那社尒・契苾何力のような者がいて、みな忠誠で力を奮ったが、それでもなお上将とはならず、すべで大臣が統制していた。そのため上は他の権があって、下を制したのである。先天・開元年間(712-741)、大臣で薛訥・郭元振・張嘉貞・王晙・張説・蕭嵩・杜暹・李適之らのような者は、節度使から入って天子の宰相となった。李林甫は儒臣が方略によって辺境で功績を積んで大任を任じられるのを憎み、その元を塞いで、自分の権力を長く保とうと思い、そこで帝に説いて、「陛下は雄材を用いて国家を富国強兵にしました。しかし夷狄はいまだ滅びておらず、文吏から将を任命すれば、矢石を憚って、自身は先頭に立つことはありません。蕃将を用いるのにこしたことはなく、彼らは生まれてから雄であり、馬上で養い、長く行陣し、天性のものなのです。もし陛下が感じてこれを用いられましたら、必死にならしめ、夷狄は図に足らないものになります」といい、帝はそうだと思い、そこで安思順を李林甫に代えて節度使を領せしめ、安禄山・高仙芝・哥舒翰らを抜擢して大将とした。李林甫はその蕃将を利用するのは、宰相となる資格がないからで、そのため安禄山は専ら三道の精兵を得て、場所を十四年も移らず、天子は李林甫の策に安心して疑わなかったが、安禄山はついに兵を動かして天下を覆し、王室はついに衰えた。 はじめ、李林甫は色白で髭を生やした人が夢に出て来て、まさに自分に迫ろうとしていた。目覚めて物色し、裴寛が夢みた者に似ていると思い、「裴寛は我に代わろうとしている」と言った。よって李適之の党として追放した。その楊国忠が李林甫に代わり、容貌は裴寛に似ていたという。楊国忠はもとから李林甫に含むものがあり、葬が行われる前に、ひそかに安禄山に仄めかしてその短所を暴露した。安禄山は阿布思の降将を遣わして入朝させ、李林甫と阿布思が約して父子とし、異謀があったとした。事は役人に下され、その婿の楊斉宣は恐れて、李林甫がお上を呪ったと妄言した。楊国忠はその死体を弾劾し、帝は怒り、詔して李林甫が淫祀を祀って呪術を行い、叛虜と結んで宗社を危うくしようとはかったとし、ことごとく官爵を奪い、棺を割って含珠金紫を削り取り、さらに小棺桶で庶人の礼によって葬られた。諸子の司儲郎中の李萼・太常少卿の李嶼および李岫らはことごとく嶺南・黔中に移され、それぞれ奴婢三人を給付され、その家の籍とした。諸婿の張博済・鄭平・杜位・元撝、属子の李復道・李光は、皆官位を貶された。 張博済もまた心がねじけていて情に薄く自らほしいままにし、戸部郎中となった。戸部には考堂があり、天下の年会計するところであったが、張博済は廃して員外郎中聴事とし、建物は雄健で華やかかつ広く、供給は豊かで多く、千品にも至り、別に都水監の地を取って考堂とし、ほししままに諸州の籍帳の銭を費やしてはかられず、役人はあえて言上しなかった。 帝は蜀に行幸して、給事中の裴士淹は学問を弁じて厚遇を得た。当時、粛宗が鳳翔にいて、宰相を任命するごとに、たちまち啓聞した。房琯が将軍となると、帝は、「これには賊を破る才覚は持ち合わせていない。もし姚崇がいたとしても賊は滅すにはたりなかったろうが」と言い、宋璟にいたると「彼は剛直さを売って名をとるだけだ」といい、十人あまりを歴評し、みなあたっていた。李林甫になると「こいつは賢才の能力に嫉妬して、このころに推挙された者はいなかったんだ」と言うと、裴士淹は、「陛下は本当にこのことを知っていたのでしたら、どうしてこんなのを長い間任命していたのですか」と言うと、帝は黙って答えなかった。 至徳年間(756-758)、両京(長安・洛陽)が平定され、大赦されたが、ただ安禄山の支党、および李林甫・楊国忠・王鉷の子孫は戻されなかった。天宝年間(742-756)、かつて玉を彫って玄元皇帝(老子)および玄宗・粛宗の像を太清宮に安置し、また李林甫・陳希烈の像を磨いて左右の序に並べた。代宗の時、ある者が「林甫は陰険で、かつて先帝(粛宗)と関係が悪く、宗廟が幾度も危き目にあいましたが、どうして像を今も留めているのでしょうか」と言ったから、詔があって太清宮中に埋めた。広明年間(880-881)初頭、盧攜が太清宮使となり、地を発掘してその像を得て、輦車で京兆に送って破壊したといわれる。 陳希烈は、宋州の人である。博学で、最も黄老に詳しく、文章も巧みであった。開元年間(713-741)、帝は道教経義を著したいと思っていた、褚无量・元行沖が卒して以来、希烈と康子元・馮朝隠が禁中に進講し、その応答や詔問は、敷衍して精深にして隠秘をつくし、すべて希烈が章句をなした。中書舎人に累進し、開元十九年(731)、集賢院学士となり、工部侍郎、知院事に進んだ。帝が撰述するところがあれば、陳希烈は必ずこれを助成した。門下侍郎に遷った。 天宝元年(742)、神(老子)が丹鳳門街に降ることがあり、老子のために霊符で教えをひろめた。陳希烈はそのため上言して、「臣が侍って『南華真経(荘子)』を講演し七篇にいたったとき、陛下は振り向いて『この養生の言は、朕はすでにその術を悟っている。しかし「徳充符」(荘子第五篇)にどうして「非常の応」がないのだろうか?』と仰せでした。臣は稽首して『陛下は内に徳充があり、外に符応しています。必ずめでたいしるしがあってこれに表れるでしょう』と答えました。今霊符は教えを広め、帝の意と合っています。よろしく史官にしめして顕祥をあらわし、述べて無窮に照らすべきです」と述べた。その悪賢くおもねる様はこのようであった。にわかに崇玄館大学士を兼任し、臨潁侯に封じられた。 李林甫が朝をほしいままにし、かりそめに用いて専制すべき者として、引き入れられて共に政務を行った。陳希烈は柔易で、かつ帝に目に懸けられることあつかったから、そこで推薦された。天宝五載(746)、累進して同中書門下平章事(宰相)となり、左丞相兼兵部尚書、許国公に遷り、また秘書省図書使を兼任した。寵は李林甫と等しかった。李林甫は宰相の位にあること久しく、その陰謀は自身を固めるのに十分たるものであったが、また陳希烈も左右にあった。楊国忠が宰相になると、もとよりこれを嫌い、陳希烈は引いて避け、楊国忠はそこで韋見素を代わりの宰相とし、罷免されて太子太師となった。陳希烈は職を失い、心が鬱々として頼るところなかった。安禄山が京師を占領すると、遂に達奚珣らとともに賊の宰相となった。後に罪を罪じて斬にあたるも、粛宗は上皇(玄宗)が厚遇していたから、私邸で死を賜った。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百二十二下 列伝第一百四十七下 『新唐書』巻二百二十三上 列伝第一百四十八上 巻二百二十三下 列伝第一百四十八下
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1027.html
検定審第2部会日本史小委員会の報告 『平成18年度検定決定高等学校日本史教科書の訂正申請に関する意見に係る調査審議について(報告)』 平成19年12月25日 教科用図書検定調査審議会第2部会日本史小委員会 http //www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/08011106/001.pdf http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1018.html 検定審第2部会日本史小委員会の報告資料1 専門家からの意見聴取結果・・・資料(1)林博史関東学院大学教授林博史「沖縄戦『集団自決』への教科書検定」はじめに Ⅰ 検定内容 Ⅱ つくる会の策動 Ⅲ 1980年代の教科書問題 Ⅳ 沖縄戦研究が明らかにしてきたこと Ⅴ 歴史学界になげかけるもの なおここで紹介した住民の証言はすべて『沖縄戦と民衆』に収録されているものか、その後の『沖縄タイムス』『琉球新報』『朝日新聞』から採ったものである。 資料1 専門家からの意見聴取結果・・・資料(1) 林博史関東学院大学教授 【添付参考資料】資料1 林博史「沖縄戦『集団自決』への教科書検定」 『歴史学研究』第831号、2007年9月 はじめに 2006年度より使用されている中学歴史教科書から一斉に日本軍「慰安婦」についての記述が消えたことはよく知られている。これは教科書検定で削除するように指示されたからではなく、「新しい歴史教科書をつくる会」(以下、「つくる会」)やそれを支持する国会議員らの運動(その中心には安倍晋三や中川昭一らがいた)、それをバックにした文部科学省(以下、文科省)からの教科書会社への圧力によって、各教科書会社が「自主規制」したからである。「つくる会」の教科書の採択率そのものは歴史でも0.4パーセントと低かったが、かれらの運動が与えた影響は大きかった。 2007年3月30日に発表された高校教科書の検定結果を見ると、ほとんどの教科書は、検定申請段階で「慰安婦」という言葉は書いていても、日本軍による強制あるいは関与には触れずにあいまいにしている。その結果、検定意見はつかなかった。アジアへの加害行為についての記述に検定意見をつけると国際問題化してしまうので、さまざまな圧力をかけて申請段階で叙述を減らす巧妙なやり方がとられ、それが「効果」を収めつつある。 その一方で、今回の検定では沖縄戦の「集団自決」について検定意見がつけられた。新たに仕掛けられた攻撃の対象が沖縄戦に関する記述だった。本稿では、この問題について考えたい。 Ⅰ 検定内容 まず検定内容について見ておきたい。5社7冊の日本史教科書に対して、「沖縄戦の実態について、誤解するおそれのある表現である」という検定意見がつけられた。いくつかの事例を紹介しよう(次項の表を参照)。 【検定意見による沖縄「集団自決」の記述変更】 申請段階 検定意見により修正、合格したもの 山川出版社日本史A 日本軍によって壕を追い出され、あるいは集団自決に追い込まれた住民もあった。 その中には日本軍に壕から追い出されたり、自決した住民もいた。 東京書籍日本史A 日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民や、集団で「自決」を強いられたものもあった。 「集団自決」に追い込まれたり、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民もあった。 三省堂日本史A 日本軍に「集団自決」を強いられた り、 追いつめられて「集団自決」した人や、 清水書院日本史B なかには日本軍に集団自決を強制された人もいた なかには集団自決に追い込まれた人々もいた。 実教出版日本史B 日本軍により、県民が戦闘の妨げになるなどで集団自決に追いやられたり、 県民が日本軍の戦闘の妨げになるなどで集団自決に追いやられたり、 修正された点を見ると、実教出版がかなり抵抗していることがわかるが、いずれにせよすべて、「集団自決」を強いた、あるいは追いやったものとしての“日本軍”が削除されていることがわかる。その結果、なぜ、なにによって追い込まれたのかがわからない表現になっている。読み方によっては、米軍が迫ってきたので追いつめられた、だから住民が自ら自決したのだという解釈もなりたちうるだろう。日本軍の加害性を削除させ、日本軍への否定的なイメージをなくすこと、そのための突破口として「集団自決」がねらわれた印象を受ける。「集団自決『軍の強制』削除」(『東京新聞』)、「『集団自決』軍関与を否定」(『沖縄タイムス』2紙ともに2007年3月31日)という新聞の見出しは、検定の特徴を端的に表わしている。 こうした検定意見をつけたことについて、文科省は、「軍の強制は現代史の通説になっているが、当時の指揮官が民事訴訟で命令を否定する動きがある上、指揮官の直接命令は確認されていないとの学説も多く、断定的表現を避けるようにした」「今回の検定から、集団自決を日本軍が強要した、命令したという記述については検定意見を付し、記述の修正を求めることとした」などと説明している。 ここで大きな問題は、地裁で係争中の訴訟の一方の側の主張を根拠にしていることである。文科省が報道機関に配布した沖縄戦関連の「著作物等一覧」では、原告側の使用する「沖縄集団自決冤罪訴訟」という呼称を使用し、明確に原告側を支持する姿勢を示している。伊吹文明文科相はその呼称を使ったことについて「極めて不適切だった」と衆議院文部科学委員会で陳謝する一方、検定では「日本軍の強制がなかったとは言っていない」と弁明した(4月11日)。また衆議院教育再生特別委員会での質問に対して伊吹文科相は、「すべて手りゅう弾で自決をされたとは言い切れない」と検定を弁護した(4月20日)。 日本語を普通に読めば、申請本のどこにも、部隊長の命令によって「集団自決」がなされたとは書かれていない。後でくわしく述べるように、これらの教科書記述はこれまでの沖縄戦研究の成果を適切に表現したものであり、これまで検定に合格していたものである。検定意見の理由は支離滅裂なものであり、文科相の言うとおり日本軍の強制を認めるのであれば、申請本の記述で何も問題はないだろう。また申請本では、そういう例もあったという表現をしており、すべてがそうだと断定した叙述ではない。伊吹文科相の説明は詭弁としか言いようがない。これほどまでに詭弁がまかり通ると、まともな議論はとてもできる状況ではない。日本軍の強制を削除させるという政治的判断が最初にあったとしか考えられない物の言い方である。「つくる会」などの主張がストレートに反映された検定意見である。 Ⅱ つくる会の策動 この検定の背後には「つくる会」があると言ってよいだろう。「つくる会」の歴史教科書では沖縄戦について、旧版(2001年検定合格)では、戦艦大和の海上特攻の話や「鉄血勤皇隊の少年やひめゆり部隊の少女たちまでが勇敢に戦って」というような叙述がなされていた。女子学徒隊までもが「勇敢に戦って」と歪曲もはなはだしく、間違いだらけのものだった。それが現行版(2005年検定合格)では「4月、米軍は沖縄本島に上陸し、日本軍の死者約9万4千人、一般住民の死者も約9万4千人を出す戦闘の末、2ヶ月半のちに沖縄を占領した」と味も素っ気もない叙述になっている。採択率を上げるために、批判されるような叙述を控えたのかもしれない。 しかし2006年度から使用される中学教科書の採択が本格化していた時期に、沖縄戦についての教科書記述を書きかえるべく、「つくる会」は新たな動きを始めた。2005年4月、「つくる会」の中心人物であった藤岡信勝氏は自由主義史観研究会の機関誌『歴史と教育』において、「沖縄プロジェクト」への参加をよびかけるアピールを発表し、5月に「沖縄戦慰霊と検証の旅」と称するツアーをおこなった。藤岡氏は、「過去の日本を糾弾するために、一面的な史実を誇張したり、そもそも事実でないことを取り上げて」、児童・生徒に「失望感」や「絶望感」を持たせようとする傾向があるとし、その「事例の一つ」が「沖縄戦で民間人が軍の命令で集団自決させられた」ということであると指摘している。 この呼びかけと一緒に同誌に掲載された沖縄戦についての「歴史授業案無念の授業『沖縄戦集団自決の真実』」では、この問題が「日本軍の名誉に関わるものであり、児童生徒の健全な歴史認識及び国防意識の育成にとって見過ごすことができない」とし、「皇軍および無念の冤罪を着せられた軍人の名誉を回復する授業を提案したい」としている。皇軍の名誉回復と国防意識の育成が教育の目標であると公然と主張される。その内容を整理すると、渡嘉敷島と座間味島における「集団自決」では、「自決せよ」という軍命令は出されていなかった、軍が命令したというのは、「国から補償金をもらうために」村の幹部がついたウソだと決めつけている。そのうえで、「授業案」では、<国からの補償金を得るため(「援護」)→ウソの証言→証言の拡大・定着>と「板書」し、教師が「このようにして、ウソが『事実』として拡大し、定着していったのです。恐ろしいですね」とまとめることとされている。 この動きを受けて、同年8月、「つくる会」などの支援の下に、座間味島の元日本軍部隊長と、渡嘉敷島の元部隊長の弟が、軍命令がなかったのにあったと書いたのは名誉毀損だとして大江健三郎氏と岩波書店を相手取って、「集団自決」に関する出版差し止めと損害賠償を求めて大阪地裁に提訴した。 そもそもこの二つの島での「集団自決」を最初に書いたのは、沖縄タイムス社編『鉄の暴風』(朝日新聞社、1950年、のちに沖縄タイムス社から刊行)だったにも関わらず、大江健三郎『沖縄ノート』(岩波書店〔新書〕、1970年)を訴訟の対象にしたのは、著名ではあるが研究者ではない大江氏を攻撃し、沖縄戦での策動の突破口にしようとしたものと思われる。またかれらは同時に、岩波書店から出版されている、家永三郎『太平洋戦争』(初版1967年、第2版1986年)と中野好夫・新崎盛暉『沖縄問題二十年』(1965年)の出版販売差し止めも請求している。この訴訟の弁護士らは、日本軍が南京攻略にいたる過程での百人斬りはなかったとして、本多勝一氏や毎日新聞社、朝日新聞社を訴えていたメンバーと重なっている(当然のことながらかれらは敗訴した)。 本来であれば、沖縄タイムス社を訴えるべきだろうが、そうすると沖縄全体を敵に回すことになるので、ヤマトンチューを相手に大阪で訴訟をおこなうという策に出たのかもしれない。 Ⅲ 1980年代の教科書問題 ここでこれまでの沖縄戦に関する教科書検定の歴史をふりかえっておこう。歴史教科書の中で沖縄戦の具体的な叙述はほとんどなかったが、1974年に家永三郎『新日本史』(三省堂)の脚注に「沖縄県は地上戦の戦場となり、10万をこえる多数の県民老若男女が戦火のなかで非業の死に追いやられた」という叙述が書き加えられたのがほぼ唯一だった。その背景には、住民の視点から膨大な証言を集め、その後の沖縄戦研究・記録の出発点となった『沖縄県史第9巻沖縄戦記録1』(1971年)が刊行されたことがあったのではないかと思われる。 その後、大きな社会問題になるのが1982年の検定だった。アジアへの「侵略」を「進出」などに書きかえさせる検定が国際問題化し、いわゆる教科書問題がおきた。このとき、高校教科書『日本史』(実教出版)の脚注において、江口圭一氏が日本軍による住民殺害について記述したところ、検定意見がつき、結局、削除せざるをえなくなった。文部省は、江口氏が示した沖縄県立平和祈念資料館のパネル資料は根拠にならないときめつけ、さらに『沖縄県史』は「体験談を集めたもので一級の資料ではない」とこれも認めなかった。 この検定について沖縄のメディアが批判しただけでなく、沖縄県議会は全会一致で、「県民殺害は否定することのできない厳然たる事実であり……、削除されることはとうてい容認しがたい」とし、「同記述の回復が速やかに行われるよう強く要請する」という意見書を採択した(1982年9月4日)。その結果、文部省は次の改定検定の際に配慮すると譲歩せざるを得なくなり、その後は日本軍による住民殺害の記述が教科書に載るようになった。 しかし、翌年1983年の検定において、家永三郎『新日本史』で日本軍の住民殺害を記述したところ、文部省はその点は認めざるを得なかったが、集団自決の人数の方が多かったのだから、集団自決をまず書けとの検定意見(修正意見)がつけられた。それに対して、家永三郎氏は1984年に提訴した。この第3次教科書訴訟では南京虐殺や731部隊などと並んで、沖縄戦における「集団自決」が争点となった。 1988年には沖縄出張法廷まで開かれた。国側は曽野綾子氏らを証人として出し、「集団自決」を日本軍による犠牲ではなく、自ら国家のために殉じた崇高な死として描こうとした。「戦闘に寄与できない者は、小離島のため避難する場所もなく、戦闘員の煩累を絶つため崇高な犠牲的精神により自らの生命を絶つ者も生じた」と書いた防衛庁の戦史『沖縄方面陸軍作戦』(朝雲新聞社、1968年)と同じであった。つまり住民殺害を認めざるを得ない代わりに、自ら国家に殉じた崇高な死を書かせることにより、日本軍の加害を薄めようとしたと言える。 このときも「集団自決」の命令の有無をめぐって論議があったが、家永側からは沖縄戦研究者の安仁屋政昭氏や石原昌家氏、渡嘉敷島の「集団自決」から生き残った金城重明氏らが証人に立ち、渡嘉敷島では米軍上陸前の3月20日、あらかじめ日本軍の兵器軍曹が村の兵事主任を通して役場職員や17歳以下の青年を集め、手りゅう弾を一人2個ずつ配り、いざという場合はこれで自決せよと命令していた事実が明らかにされた。そして米軍上陸後、防衛隊員たち(防衛召集で召集された正規の軍人)が島民に合流し、かれらによって持ち込まれた手りゅう弾も使われて「自決」がおこなわれた。判決では、集団自決を記述せよとの検定意見は違法とまでは言えないとして家永側の敗訴となったが、事実関係については家永側の調査研究にもとづく立証が明らかに勝っていた。 この第3次訴訟の最高裁判決(1997年8月29日、いわゆる大野判決)では、「原審の認定したところによれば、本件検定当時の学界では、沖縄戦は住民を全面的に巻き込んだ戦闘であって、軍人の犠牲を上回る多大の住民犠牲を出したが、沖縄戦において死亡した沖縄県民の中には、日本軍によりスパイの嫌疑をかけられて処刑された者、日本軍あるいは日本軍将兵によって避難壕から追い出され攻撃軍の砲撃にさらされて死亡した者、日本軍の命令によりあるいは追い詰められた戦況の中で集団自決に追いやられた者がそれぞれ多数に上ることについてはおおむね異論がなく(略)、県民を守るべき立場にあった日本軍によって多数の県民が死に追いやられたこと、多数の県民が集団による自決によって死亡したことが沖縄戦の特徴的な事象として指摘できるとするのが一般的な見解」であるとし、「集団自決の原因については、集団的狂気、極端な皇民化教育、日本軍の存在とその誘導、守備隊の隊長命令、鬼畜米英への恐怖心、軍の住民に対する防諜対策、沖縄の共同体の在り方など様々な要因が指摘され、戦闘員の煩累を絶つための崇高な犠牲的精神によるものと美化するのは当たらないとするのが一般的であった」としている。さらに「集団自決を記載する場合には、それを美化することのないよう適切な表現を加えることによって他の要因とは関係なしに県民が自発的に自殺したものとの誤解を避けることも可能」であるとも述べられている。最後の部分は、家永側の訴えを却下する理屈であるが、「集団自決」が日本軍によって強いられた、あるいは追い込まれたという叙述を容認するものでもあり、その後、教科書でもこうした書き方が一般化していくのである。 Ⅳ 沖縄戦研究が明らかにしてきたこと *1 住民たちの証言 ここで「集団自決」に関わる住民の証言を見てみよう。座間味島での事例をいくつか紹介すると、何人かの島民は米軍上陸の直前に日本兵から「明日は上陸だから民間人は生かしておくわけにはいかない。いざとなったらこれで死になさい」と言われて手りゅう弾を渡されている。それとは別に、弾薬運びを手伝っていた若い女性たちには、軍曹から「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさいよ」と手りゅう弾が渡されていた。彼女たちは、日本軍が斬り込みに行くと言って、いなくなってから、みんな死んでしまったと思い、もらった手りゅう弾で自決を図るが、幸い不発に終わって助かっている。壕の中で日本兵から「捕まらないように潔く死んでください」と言われた若い女性の証言もある。山の中に逃げ込んだある女性は、ある中尉が近くにいた島民たちを集め、「敵に見つか ったら舌をかみ切って死になさい」と言ったと証言している。 別の女性のグループは島内を逃げ回っているうちにほかの住民に出会ったが、そのとき、「あなた方はアメリカーに強かんされて、二本松に吊るされていたと兵隊さんたちが言っていたけど、なににあなた方、生きていたの」と驚かれた。つまり日本兵たちは、若い女性は強かんされ、木に吊るされているとウソをついて島民の恐怖心を煽っていたのである。 また座間味島でも渡嘉敷島でも何人もの島民が日本軍に殺されている。米軍に捕まったが殺されることもなく、かえって治療をうけ食糧をもらえたので、山中に隠れている島民に、米軍は悪いことをしないし食糧もたくさんあるから出てくるように呼びかけた島民は、自宅で寝ていたところを日本軍に殺された。また米軍が投降を呼びかけたのに対して、周りの人たちに出て行こうと促した二人の島民は日本兵に背後から撃ち殺された。 慶良間諸島に上陸した米軍作成の文書によれば(『沖縄タイムス』2006年10月3日)、「集団自決」のおきた慶留間島では、あらかじめ複数の日本兵から米軍が上陸してきたときには自決せよと命じられたと、生き残った島民が米軍に語っている。米軍上陸前に隣の阿嘉島にいた海上挺進第2戦隊長がやってきて演説をおこなったが、島民はいざというときは自決せよということだと理解していた。また「日本兵たちから、米軍が上陸してきたときには、家族を殺せと諭されていたという。民間人たちはいま、その指導に従ったことを非常に憤慨しており、ある民間人は恨みを晴らそうとある日本兵捕虜を殺そうとしたほどである」と米軍の報告書に書かれている。米軍が負傷している島民を親切に治療し、食糧などを与えて島民を保護した結果、人々は騙されていたことに気づいた。「幾人かは、捕らえられないように家族を殺したことを隠さずに後悔し、多くの者が山にもどってほかの民間人に真実を 話し、かれらもまた生きて家に帰れるようにしたいと頼んできた」という。 座間味島で負傷者の治療にあたっていた米軍政府のスタッフは、「明らかに、民間人たちは捕らわれないために自決するように勧告されていた」と報告している。慶留間島のある島民は、島に駐屯していた海上挺進第2戦隊第1中隊から「死ぬ場合には前もって1中隊に連絡しなさい。一緒に死ぬから」と言われていた。そこで米軍が上陸したので1中隊と連絡を取ろうとしたができず、それから「自決」がおこった。島民たちも日本軍と一緒に死ぬということは日本軍から既定のこととして言われていたのである。 こうした状況のなかで、米軍が上陸し、小さな島で逃げ場もほとんどない状況に追い詰められた島民は、「自決」するほかに選択肢はないと思い込まされていたのである。日本軍によって生きるという選択肢を封じられていたのである。 「軍命」について言えば、日本軍がくりかえし宣伝していた「軍官民共生共死」という思想が浸透していたなかで、村役場の通達はイコール軍命令と受けとめられる状況にあった。当時の沖縄は軍政下でも戒厳令下でもなく、日本軍が直接住民に命令を出すことは法的にはできなかった。物資の徴発にしても人の徴用・動員にしても行政機関を通しておこなわれていた(実際にはそうした法的な手続きを無視して軍による直接の乱暴な徴発・徴用さらには召集がおこなわれていたが)。軍の命令は村役場を通じて伝わるのが通常であった。したがって役場吏員から「軍命」が出たと言われれば、みんな信じるのは自然だった。 なお米軍上陸後の時点では、「合囲地境」つまり実質的に軍の戒厳令下におかれていたとも理解される。その場合には軍が直接、住民に命令を下すことも可能になるし、役場からの指示は軍命令と見なされることになる。 いずれにせよ日本軍と一緒に住民もみな「玉砕」するのが当然だと思われていた。そして「集団自決」は、日本軍もこれで玉砕するのだと思われたときにおきている。まとめて言えば、日本軍や各級行政機関ら日本国家全体が、住民をそうした「集団自決」に追いやったのである。だから、「集団自決」で死に切れず生き延びた住民が、後になって、日本軍が山中にこもって生き残っていることを知ると、裏切られたという思いをもち、もはや自決しようとはしなかった。つまり「軍官民共生共死」の思想を叩き込みながら、日本軍は山に隠れて生き残りを図る一方で、その思想を信じ込まされていた住民は、日本軍も玉砕すると信じて自らも「集団自決」をはかるという結果になったのである。渡嘉敷島でも座間味島でも、米軍に保護された者をスパイだとして殺害しながらも、日本軍の幹部たちは生き延び、のちに山から降りて米軍に武装解除されるのである。 かりに「集団自決」の問題を脇に置いたとしても、渡嘉敷島や座間味島に駐屯していた日本軍は多くの住民や朝鮮人軍夫を虐殺しており、その部隊長の残虐行為に対する責任は免れない。その点だけでも「皇軍の名誉」などとうてい回復できるものではない。 ところで、沖縄各地の状況を見てみると、日本軍がいなかったところでは、地域のリーダーの判断によって集団で投降して助かっているケースが少なくない。そうした事例は私の著書『沖縄戦と民衆』のなかでたくさん紹介しているのでここでは省略するが、日本軍の宣伝のウソを見抜き、住民の助けを求めて米軍と直接交渉し、集団で投降したケースもたくさんある。それらはいずれも日本軍がいなかったから可能だった。 *2 「集団自決」を引き起こした要因 なぜ「集団自決」がおきたのか、という要因を整理しておきたい。「集団自決」が沖縄のどこでどのようにして起きたのか、については私の著書で詳しく検討している。同書では、地域の階級階層構造のなかで原因を整理する議論をおこなっているが、ここでは詳述するスペースがないので、箇条書きにして整理してみたい。詳細は同書を参照していただきたい。 第1に、住民に対しても、捕虜になることは恥であり、捕虜になるくらいなら一人でも敵を殺して自らも死ぬか自決せよという宣伝・教育・語りがくりかえされていた。本来、捕虜になるのは軍人であって非戦闘員である住民は捕虜にはならないはずだが、住民も捕虜になるのは恥辱であるということが、教育や行政機関、新聞、さらには日本軍将兵からくりかえし叩き込まれた。皇民化教育はまさにこれにあたる。 第2に、米軍に捕らえられると、男は戦車でひき殺され、女は辱めを受けたうえでひどい殺され方をするとくりかえし宣伝・教育されていたことである。民家に分宿していた日本軍将兵たちは、日本軍が中国で自らおこなった強かんやさまざまな残虐行為を語った。住民にとっては、皇軍でさえそれほどひどいことをするのならば、鬼畜である米軍はどんなひどいことをするかわからないという恐怖心を煽る絶好の機会となった。若い女性には、とりわけ深刻な影響を与えたと見られる。 第3に、上記の点とも重なるが、米軍に投降しようとする者は非国民、裏切り者と見なされ、殺されても当然であるという意識が植えつけられ、しかもそれは単なる脅しではなく、実際の戦場の中で、投降しようとする者を日本軍が殺害することがあちこちでおこなわれたことである。 第4に、「軍官民共生共死の一体化」が叫ばれ、日本軍とともに住民も玉砕するのだという意識が叩き込まれていたことである。慶良間諸島での「集団自決」に共通してみられるのは、これで日本軍は玉砕するのだからわれわれ住民も一緒に玉砕するのだという意識である。「集団自決」という言葉は戦後の造語であり、当時の人々は「玉砕」と言っており、軍隊と民間人の区別がない使い方をしていたことからも、その一体化の状況がわかる。 第5に、慶良間諸島で見られるのは、あらかじめ日本軍あるいは日本軍将兵が住民に自決用の手りゅう弾を配布し、いざというときはこれで自決せよと命令あるいは指示・勧告していることである。日本軍の権威が絶大であった沖縄、特に慶良間のような離島では、日本軍将兵から言われることは命令以外の何物でもなかった。住民にとっては村役場の吏員でも「とても怖い存在でしたので、絶対服従」であったが、軍人の権威はそれよりはるかに高かった。この手りゅう弾が多くの場合、「集団自決」の引き金として使われている。さまざまな機会に多数の手りゅう弾が住民に配られていたということは、日本軍の承認あるいは容認なしには不可能である。当然、指揮官としての部隊長の責任は免れないと言うべきだろう。 第6に、慶良間の住民が「集団自決」するきっかけとなっているのが、「軍命」が下されたと聞いたことである。もちろん日本軍の部隊長がその命令を出すのを直接聞いたのか、という点についてはわからない。ただ確実に言えることは、「軍命」が下されたと伝えられたとき、その軍命に従って自決するのが当然であると信じ込まされていた。それは文科省が言うように住民が勝手に思い込んだのではなく、長い期間をかけて叩きこまれていたのである。 いくつかの要因を見てきたが、住民たちは米軍に保護されて親切な扱いを受けると、自分たちが騙されていたことがわかり、もはや自決しようとはしなかった。あるいは玉砕したはずの日本軍が生き残っていることがわかると自決をやめ生き延びようとし始めるのである。そうした実態を見ると、皇民化教育などの第1の要因の影響はかなり限定的であり、むしろ第2以下の要因が大きいことがわかる。 こうしたことから「集団自決」は住民たちが日本軍によって追い込まれ、強いられたものであることが沖縄戦研究の共通認識となっており、そのことが最初に挙げたような教科書記述にも反映されていたのである。 なお「集団自決」という用語については議論がある。しかし用語が問題ではなく、いずれにせよ、その実態が日本軍とその当時の国家の強制・誘導・脅迫・教育などによって住民が死を強いられたものであること、それがはっきりと理解される文脈のなかで説明されることが肝要であると考える。 *3 援護との関連 戦傷病者戦没者遺族等援護法(以下、援護法)の問題について触れると、軍に協力したものしか援護の対象にならないという原則がある。軍に食糧を強奪されても「食糧提供」、壕を追い出されても「壕提供」と申請しなければ援護を受けられない。日本軍に殺されたという理由では援護の対象にされない。「集団自決」でも日本軍によって強いられたという理由では認められないので、軍命令に従って軍の足手まといにならないように軍に協力して「集団自決」したのだと、「戦闘協力者」として申請しなければならなかった。この援護法の発想は、日本がおこした誤った戦争の被害者に償うというものではなく、軍に協力した者に報償として与えるというものであり、侵略戦争への反省のまったくないものである。こうした日本政府の姿勢こそが、問題にされなければならない。 いわゆる「戦闘協力者」の援護申請は沖縄では1957年からおこなわれているが、渡嘉敷島や座間味島の「集団自決」遺族の申請に対して、当初から短期間で厚生省が援護対象として認定していたことが『沖縄タイムス』(2007年1月15日)報道の文書から判明した。当時の琉球政府援護課は1953年に設置されてからすぐに慶良間諸島の調査をおこない、「軍命」があったことは当時から聞いていたことを関係者は証言している。 もともと軍命について書いた『鉄の暴風』は援護法が制定される前の1950年に刊行されたものであり、住民の証言でも、当時、軍命が下ったということは広く語られていたことである。あとになって援護の金ほしさに軍命を作り上げたと攻撃するのは、悪質なウソと言うほかない。 今回の検定に対して、沖縄県では全41市町村議会すべてで「『集団自決』が日本軍による命令、強制、誘導などなしに起こりえなかったことは紛れもない事実」(座間味村議会)などと検定意見の撤回を求める意見書を採択した。県議会では自民党が動揺したが、保守の仲井真弘多知事も検定に異議を唱え、さらに世論に圧されて6月22日、県議会は全会一致で検定意見の撤回と記述の回復を求める意見書を採択した。沖縄の力で検定を覆しつつあるのが現段階での状況である。 Ⅴ 歴史学界になげかけるもの 「つくる会」や文科省のやり方は、全体的な状況を一切捨象して、当日、直接の軍命令があったかどうかだけに争点を絞り、そこを否定することによって、皇軍の名誉回復、さらには沖縄戦における日本軍の加害行為、沖縄戦自体が沖縄住民を犠牲にするものだったことを否定しようとするものである。こうした方法は、南京事件でも「慰安婦」問題でもとられている常套手段である。 「集団自決」をめぐって命令があったという文書は残っていないという言い方もされる。その理屈は日本軍「慰安婦」への日本軍による強制はなかったという言い方と共通している。実際には「慰安婦」についての日本軍文書はたくさん残されており、その理屈は通用しないのだが、安倍首相のように「官憲が家に押し入って、人さらいのごとく連れて行く」狭義の強制はなかったと、極端に狭い解釈を持ち出して強制性を否認しようとしている。中国の山西省のケースでは、東京高裁でそうした拉致が事実認定されていることはまったく無視される。安倍首相の理屈で言えば、北朝鮮に拉致されたケースで狭義の強制はなかったということになるだろうし、拉致したという北朝鮮の公文書が出てこない限り、拉致を事実と認めることはできないはずだが。 それはさておき、『沖縄県史』は証言を集めただけで信用できないという理屈は、元「慰安婦」の証言は信用できないという理屈と共通している。自決せよと手りゅう弾を渡されたという住民の多くの証言は切り捨てられる。「慰安婦」は金ほしさにウソを言って賠償を要求しているという中傷も、「集団自決」での言い方と一緒である。彼らは人は金目当てでしか動かないと思い込んでいる心貧しき人々なのだろう。金をちらつかせれば基地を受け入れるだろうと高飛車な日本政府や自民党の指導者たちと同じだろう。 こうした論法を許してしまうならば、次は、沖縄戦での日本軍による住民虐殺を否定することにつながるだろう。日本軍が住民を虐殺したことを示す公文書や命令書はどこにあるのか、公文書である援護関係書類によると、住民自ら日本軍に協力したという内容ばかりではないか。だから公文書に基づくと、沖縄県民はみな自ら進んで日本軍のためお国のために命を捧げたのだ、という理屈が出てきてもおかしくない。公文書には現れない、民衆の営み、人々の証言でしか示すことのできない歴史は、信用できないものとして葬られていくことになる。 1990年代の戦争責任研究や戦後補償運動が、何よりも元「慰安婦」の女性たちの名乗り出とその証言のインパクトによって始まったことをあらためて思いおこす必要がある。それを根本から否定する動きが日本全体で広がっている。今回の検定は、沖縄戦にとどまらず、さまざまな分野にも波及する、きわめて大きな問題なのである。歴史学でいえば、民衆史や社会史、女性史をはじめ民衆の視点からなされてきた蓄積がある。しかし民衆の証言や記録など民衆の語ってきたことは信用できないと切り捨てようとする乱暴な手法が権力者たちによって公然とおこなわれている。これは沖縄戦研究や戦争責任研究だけにとどまらない、歴史学界全体が問われている深刻な問題ではないのだろうか。 しかし、沖縄戦や「慰安婦」問題でのこうした攻撃に対する歴史学界の反応は鈍いと言わざるを得ない。なぜなのか、その問題を考えてみると、これまでの歴史学界のあり方が問題となる。 1990年代以降について見てみると、1990年代初めより日本軍「慰安婦」など戦争犯罪に関する調査研究が進展し、同時に多くの市民、弁護士、研究者らが戦後補償を求める運動に取り組み始めた。多くの訴訟が提起されたことも周知の通りである。日本の戦争責任と戦後補償をめぐって国内外で運動が展開され、それに反発する右派との間で、激しい議論が展開されてきている。 そうしたなかで歴史学研究会(以下、歴研)は一貫して「慰安婦」問題を黙殺してきた。「慰安婦」問題にとどまらず戦争犯罪・戦争責任問題についてもほとんど見て見ぬ振りをしてきた。学会の姿勢を示すのは、大会テーマ・報告や機関誌の特集であろうが、今日にいたるまで「慰安婦」問題が取り上げられたことは一度もないし、戦争犯罪・戦争責任問題も無視されてきた。 『歴史学研究』のバックナンバーを見てみても、90年代においては、史料・文献紹介で「慰安婦」問題の共同研究の成果が1冊紹介されているだけで、数多くの成果が出されていたにも関わらず、書評で取り上げられた文献は皆無である。2004年になってようやく1冊が書評で取り上げられただけである。ほかの分野で見ると、天皇の戦争責任と南京虐殺事件についての本はいくつか取り上げられているが、ほかの戦争犯罪・戦争責任分野については成果に比して非常に少ない。 沖縄戦について言えば、2000年の大会の特設部会で沖縄戦の記憶についての報告がなされ、ほかに時評で少し沖縄の問題が取り上げられているが、沖縄戦の研究成果については書評でも取り上げられたことはない。沖縄戦研究に対しても歴研はきわめて冷淡であることがうかがわれる。 さきに、民衆の視点からの沖縄戦調査研究の出発点となった『沖縄県史』について触れたが、このとき、『歴史学研究』第379号(1971年12月)に荒井信一氏が「二つの沖縄戦史―防衛庁戦史と『沖縄県史』―」を執筆し、その意義を高く評価している。沖縄で沖縄戦に取り組んでいた研究者たちにとって、この荒井氏の論文が非常に励ましになり、自分たちがやってきたことが正しかったと自信になったという話を聞かされたことがある。防衛庁の戦史と対比して県史の意義を取り上げた視点は、その後の教科書検定をめぐる基本的な対立点をこの段階で浮き彫りにした先駆的なものだった。 また南京事件をはじめとする、日本の戦争犯罪研究を考える上で、1982年の教科書問題をうけて江口圭一氏が『歴史学研究』第511号(1982年12月)に書いた「十五年戦争史研究の課題」が、私を含めた研究者に与えたインパクトは大きかった。侵略戦争のなかでおこなわれた具体的な戦争犯罪研究はこれ以降、現代史研究の重要な課題となり研究者もこの問題に取り組み始めた。またそのときの教科書問題に対しても、歴研は1982年12月に『歴史家はなぜ“侵略”にこだわるか』を編集出版した(発売は青木書店)。私自身、歴研委員としてこの編集にかかわり、自らも東南アジアへの侵略についての項を担当した。この経験が、後にマレー半島などでの戦争犯罪研究をおこなうようになることにつながっていった。このときの歴研委員長が後に「日本の戦争責任資料センター」代表となる荒井信一氏であるし、また私がそのセンターの研究事務局長になったことも、このときの歴研の取組みが原点とな ったとも言える。 このように沖縄戦研究においても戦争犯罪研究においても歴研は大きな役割を果たしてきた。しかしそれは1980年代までのことで、90年代に入ると一転してこうした問題には冷淡になり、「慰安婦」問題が日本社会に与えた大きな衝撃に対しても、「見ざる聞かざる言わざる」という姿勢を貫いてきた。 歴研さえもがこうした姿勢に終始するなかで、「慰安婦」問題や沖縄戦を研究しようとする新たな担い手が果たして育つのだろうか。戦争犯罪や戦争責任研究は、政治の問題であって学問にはなじまないというような風聞が時々伝わってくる。歴研のこうした姿勢は、そうした風聞を裏づけしていると理解されても仕方がないだろう。 「慰安婦」問題にしても沖縄戦にしても、日本政府や右派の暴言がまかり通っている日本社会の寒々とした状況(唯一の例外は沖縄であるが)は、歴史学界にも共通しているように見える。歴史学界のどこかに、この現状に立ち向かおうとする力があるのだろうか。 【参考文献】 沖縄県歴史教育者協議会『歴史と実践』第26号(2005年7月)、第28号(2007年7月) 林博史『沖縄戦と民衆』大月書店、2001年 宮城晴美『母の遺したもの―沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言―』高文研、2000年 安仁屋政昭編『裁かれた沖縄戦』晩聲社、1989年 藤原彰編著『沖縄戦と天皇制』立風書房、1987年 『沖縄タイムス』『琉球新報』の記事 なおここで紹介した住民の証言はすべて『沖縄戦と民衆』に収録されているものか、その後の『沖縄タイムス』『琉球新報』『朝日新聞』から採ったものである。 筆者のウェブサイト「日本の現代史と戦争責任についてのホームページ」にも関連する論文が多数ある(http //www32.ocn.ne.jp/~modernh)。
https://w.atwiki.jp/sakuga/pages/199.html
MEMORIES ■スタッフ■ 製作総指揮・総監督:大友克洋 製作:山科 誠、渡辺 繁、八木ヶ谷昭次、宮原照夫 企画:大友克洋、鵜之沢伸 プロデューサー:杉田 敦、鮫島文雄、水尾芳正、田中栄子、井上博明 音響監督:藤野貞義 編集:瀬山武司 音楽プロデューサー:佐々木史朗、伊藤将生 音楽制作・オリジナルサウンドトラック:ビクターエンタテインメント タイトルミュージック:石野卓球 音響制作:音響映像システム、小野哲男 音響プロデューサー:会田昌克 制作:マッシュルーム、オニロ、よんどしい Episode.1「彼女の想いで」(MAGNETIC ROSE) 原作:大友克洋 監督・絵コンテ:森本晃司 脚本・設定:今 敏 音楽:菅野よう子 プロデューサー:田中栄子 メカニック設定:渡部 隆 美術:池畑祐治、小関睦夫、山川 豊、山本二三 キャラクターデザイン・作画監督:井上俊之 原画: 沖浦啓之、福島敦子、新井浩一、森田宏幸、 海谷敏久、松田勝巳、外丸達也、多田雅治、 濱州英喜、江口寿志、大谷敦子、木村貴宏、 戸倉紀之、安藤真裕 、吉田 徹、須藤昌朋、 佐々木守、宮崎康子、宇都宮智、桐生雅則、 村田充範、加藤義貴、佐藤 憲、片山雄一、 村木 靖、中山勝一、浦谷千恵 色彩設計:小針裕子 美術:伊奈純子、石川山子、平田秀一、海老沢一男、菊地正典、上久保義博 、小関陽子、久村佳津 ハーモニー:高屋法子 特殊効果:玉井節子 撮影監督:枝光弘明 C.G.I:安藤裕章 小道具設定:磯 光雄 音響効果:倉橋静男(サウンドボックス) アニメーション制作:スタジオ4゜C Episode.2「最臭兵器」(STINK BOMB) 原作・脚本・キャラクター原案:大友克洋 監督・絵コンテ:岡村天斎 キャラクターデザイン・作画監督:川崎博嗣 メカニックデザイン・メカニック作画監督:仲 盛文 作画監督補:藤田しげる 原画: 川尻善昭、菱沼義仁、箕輪 豊、三原三千雄、 新川信正、赤堀重雄、小池 健、大久保富彦、 江村豊秋、結城明宏、藤田しげる、松本憲生、 二村秀樹、関野昌弘、今掛 勇、高秀国男、 長濱博史、林 秀夫、橋本浩一、高橋しんや、 土屋堅一、川元利浩、中村 悟、村木 靖、 牧 由尚、羽山賢二、橋本敬史、浜崎博嗣、 沖浦啓之、阿部 恒 作画監督補:三原三千雄、箕輪 豊 美術監督:串田達也 音楽:三宅 順 監修:川尻善昭 プロデューサー:丸山正雄 色彩設計:鈴木たかこ 美術設定:加藤 浩 美術:スタジオ美峰、岡部 順、太田 大、竹田悠介、加藤 浩、荒井 賢、神山健治、平城徳浩、藤代 悟 特殊効果:谷藤薫児、前川 孝 撮影監督:山口 仁 音響効果:柴崎憲治(サウンドボックス) 助監督:西浦 哲 アニメーション制作:マッドハウス Episode.3「大砲の街」(CANNON FODDER) 原作・脚本・監督・絵コンテ・美術監督・キャラクター原案:大友克洋 キャラクターデザイン・作画監督:小原秀一 原画: 新井浩一、牧 孝雄、井上俊之、関 修一、 浦谷千恵、江口寿志、濱州英喜、志村隆行、 多田雅治、吉田忠勝、原 和孝、戸倉紀之 色彩設計:中内照美 SEデザイン:新井秀徳(フィズサウンド) アニメーション制作:スタジオ4゜C
https://w.atwiki.jp/anothermogidra/pages/1619.html
2021年ドラフト候補 外野手 185cm 78kg 右投右打 叡明 1999年度生(新4年) ガーナ人の父を持つ。強肩と50m6.2秒の脚力、パワーにも定評。大学では試合出場が少ない 指名者コメント一覧2021年度第1回、楽天:育成3位(19/12/21) URL一覧ドラフトレポート ドラフト候補の動画とみんなの評価 球歴 桐蔭横浜大公式HP 高校野球ドットコム(高校時代) 指名者コメント一覧 2021年度 第1回、楽天:育成3位(19/12/21) 大学での出番はまだないが身体能力の高さを持ちスラッガー候補として期待したい まあ高校時代ちょっと見ただけでそれ以降は見たことないんだがな URL一覧 ドラフトレポート http //draftrepo.blog47.fc2.com/blog-entry-3671.html ドラフト候補の動画とみんなの評価 https //player.draft-kaigi.jp/PlayerInfo.php?PlayerId=15970 球歴 https //www.kyureki.com/player/54466/ 桐蔭横浜大公式HP http //baseball.toin.ac.jp/player/detail/id/10375 高校野球ドットコム(高校時代) https //www.hb-nippon.com/player/11528 2021大学生外野手 2021大学生野手 神奈川大学野球連盟 名前 コメント