約 1,550,654 件
https://w.atwiki.jp/trimming/pages/5.html
グルーミングとは 犬に対する被毛の手入れのすべてをグルーミングといいます。 したがってトリミングやベーシック(耳掃除、シャンプー、etc)はグルーミングの中に含まれます。犬体を常に清潔にして日常の健康を保ち、その犬の持つ被毛の美しさを十分発揮させることを目的としています。
https://w.atwiki.jp/starlightdogclub/pages/61.html
STAR LIGHT DOG CLUB RESCUEMダイザーの素顔 労働力としてのボランティアの特徴ウィキペディアより転載引用 ここでは無償ボランティアについて述べる。無償ボランティアは被雇用者のように組織から強い拘束を受けず、また自発性に基づく行動である為、組織が強制してボランティアを動かすことは難しい。また無償ボランティア活動に参加する者は、通常、職場や家庭などで緊急の用件が発生した際はそちらを優先する。無償ボランティアにはこれらの特徴がある為、会社組織とは異なるマネジメント手法が必要となる。なお、平成14年に厚生労働省が全国のボランティア活動者を対象として実施した調べでは、最大のボランティア人材源となっているのは主婦層および高齢者層である。 ※ここでいう、マネジメントとは、マネーを扱う事とは違う事に活目。 偽ボランティア:災害などが起こった時に自身をボランティアと称して被災地に入り窃盗行為を行い、被災者などから金品を得た上で救援活動を行う偽ボランティアと呼ばれる者が存在する ※他団体やボラを敵視し、張り合うよりも、協力していく事こそが真のボランティア活動ではありませんか? アンモラルバスター(成りすまし)の登場 2013年05月01日(水)に代表自らUPし、代表ブログコメントに「ワンワンさんは優しすぎるよ!今回のまとめ検証書いたから、見に来てください!」と自演にて宣伝開始する。 元々は悔しがる氏の気休めにと、ネタで書いてもらった文章を恥ずかしげもなくネットで公開。続編依頼にゴースト書き手も食傷する。他人の褌でアクセスUPはいただけません。副垢も2月に取得していた事に吃驚です。用意周到、いかに自分が「妨害を受ける悲劇のヒーローであるか」を演出する事が今後彼の重要課題なのでしょう。(過去からも) ネットに疎いと、面倒な作業は全て丸投げ。ご自身は他人のブログやコメント巡りし、「悔しいです」「悲しいです」「なんとかなりませんか」、その割に自己保身作業は驚くほど迅速でしたね。毎日しつこかったのはどちらでしょう。その度サイト構築は中断。とても迷惑でした。 普通は勝手にスパムメールなど来ません。貴方が画策なさったサイトから来ているのではないですか。ゴーストライター撤退後、書き癖を真似た劣化記事を数度掲載し、掲示板で騒がれる。 2013/06/12(水) IDを抹消する。暴露後の自演更新※時、宣伝依頼をしたが拒否される。その後の更新 1 2 ※にキャッシュ 2「誤解を招くような書き込みは辞めて下さい」≠「事実しか書き込みしていません」との事。(3記事とも全てMダイザー) ※私信の公開について かなり恐れているようですが。さて、公開準備に入りましょうか。 好んで使う言い回し:「上には上がいる」「そう思っていればいいさ(笑)」「知らないって幸せだな」他、含みのある言い回しと下品な罵倒捨て台詞 ※「いる」を全て「居る」と表現するのも特徴。「居る」という漢字表現の使用法をご存じないらしい。 ※(笑)←これは元支援者から教えてもらったとのログも残っている。おかしな方言での霍乱も好んで使う。 必殺仕事人(成り代わり擁護者であり関係者) にちゃんねるKスレ時から投稿。前スレ後半より「仕事人」を名乗って登場し、他スレでも暗躍する。 現在は一時預かりとして活動参加中。預かり犬についての記事を、下品な比喩と、独特な顔文字多用で様子表現している。 あれでは既に決まった里親が読んでも不快だろうと、一部から非難を受けている事にも気づいていないのか、故意なのかと疑問視される。 ※これらを踏まえて過去ログ倉庫のスレを読み返して見ると楽しめます。過去ログ版、ウ○ーリーを探せ! ※現行スレ「 58」はMダイザー自身が書き込んだという自白ログも保存済み 理事と茨城支部長のwiki練習跡地。Mダイザーは作成できず(2013年5月31日)
https://w.atwiki.jp/twitterfc/pages/36.html
フットボルテとは、SPLAX.NETが制作・公開している 無料ゲーム splax.net 通信対戦サッカーゲームです。 8人まで同時プレーができ、PASSワードルームを使って 親しい人のみでのプレーもできます。 フットボルテのURLは こちら
https://w.atwiki.jp/debian-linux/pages/25.html
Debianとは ボランティアの集まりであるDebian Projectによって作成・保守されている Linuxディストリビューションのひとつ。 フリーなオペレーティングシステム(OS)として、利用が可能。 2013/5/4に最新版である Debian 7.0 「Wheezy」が発表された。
https://w.atwiki.jp/volapuk/pages/17.html
[部分編集] ヴォラピュク(Volapük(/ˈvɒləpʊk/ [volaˈpyk])とは、1879年から1880年、ドイツ、バーデンのカトリック神父ヨハン・マルティン・シュライヤー(1831/07/18~1912/08/16)によって作られた英語・ドイツ語・フランス語等を参照言語にした多言語参照アポステリオリ言語である国際補助語です。 大衆に普及した世界初の人工言語であり、1884年フリードリヒスハーフェン、1887年ミュンヘン、1889年パリで世界大会が開かれました。 283のクラブ、25の雑誌、25の言語で316の教科書が存在しました。 しかし、1887年にラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフが公開したエスペラントが出てから、各クラブのエスペラントへの転向が相次ぎ、衰退してしまいました。 その要因には、屈折などの英仏人になじみの薄い仕様や、アポステリオリ性の薄い、原形をとどめない語形、文字・発音など、全分野にわたる難度の高さもありますが、創作者であるシュライヤーが、造語権を手放さなかったこと、教えていいのはシュライヤーが免許を与えた者だけというような閉鎖的な体制により、使用者から反発を買ったことも大きいです。 2000年段階での話者は20人程度と推測されています。 ISO 639による言語コードはvoとvolです。 テンプレート 名称 [部分編集] テンプレート ヴォラピュク Volapük 発音 IPA [volaˈpyk] 発案者/作成者 ヨハン・マルティン・シュライヤー 創案時期 1879年から1880年 設定と使用 国際補助語 母語話者数 約20名?(2000年現在) 表記体系 ドイツ語用ラテン文字 目的による分類 人工言語 ・国際補助語 参考言語による分類 英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語 [部分編集] 名称 ヴォラピュクとは世界語を意味します。 「世界」を意味するvolの属格と「話す」pükを合成したものです。 「世界の言葉」という意味であり、参照言語を元に語形を作ればWorld Speakです。
https://w.atwiki.jp/handmademayo/pages/14.html
マヨネーズとは マヨネーズは元・フランス料理のソースで全卵/卵黄を用い、酢、油を混ぜ合わせ乳化させた物である 語源については諸説あり、地名とも人名とも言われているが地名説が有名。 製造するにあたっては原材料に油と酢があるため界面活性剤が不可欠。その役割を卵黄が(正確には卵黄中のリン脂質が)担っているので卵白なし(全卵ではなく卵黄のみ使用)のマヨネーズは出来るが、逆に卵黄なし(全卵ではなく卵白のみ使用)のマヨネーズはありえない ただ、ほかから界面活性剤となるものを加えれば可能ではある。が、これだと卵を使う必要が無くなる ちなみに卵を使わないで作った場合はJAS規格上ではマヨネーズの区分から外れるので注意 JAS(日本農林規格)におけるマヨネーズ 半固体状ドレッシングのうち、卵黄又は全卵を使用し、かつ、必須原材料、卵黄、卵白、タンパク加水分解物、食塩、砂糖類、香辛料、調味料(アミノ酸等)及び酸味料以外の原材料を使用していないものをいう。
https://w.atwiki.jp/yyyakiniku/pages/36.html
シンドロームとは 概要と焼肉での解釈 人に発現する特殊能力的なやつ 人によっては1個(ピュアブリード)だけだったり2個(クロスブリード)持ってたり3個(トライブリード)もってたり 種類 おれはルルブをもっていないので誰かタノム キュマイラ エンジェルハイロウ ソラリス ブラックドッグ オルクス ハヌマーン エグザイル モルフェウス サラマンダー ブラムストーカー バロール ノイマン
https://w.atwiki.jp/asparagusbisque/pages/13.html
剣道(けんどう)は、日本の武術である剣術の竹刀稽古(撃剣)を競技化した武道で、剣の理法の修練により人間形成を目指す修行の道である。 名称 「剣道」という呼称は、柔術に対する講道館の柔道を参考に、1895年(明治28年)に武術奨励のため設立された大日本武徳会が、江戸時代以来の剣術を学校の体育に採用できるよう稽古法を改め、大和魂など精神の修行をするため[1]、名称を1919年(大正8年)頃に剣道としたと記録に残っており、明治末から大正初期頃に成立したものといわれる。ただし、1667年(寛文7年)の安倍立伝書に「剣術は日用の術なので剣道という号にする」という記述があるほか、山岡鉄舟や勝海舟の著書に「剣道」という表現があるなど、江戸時代や明治初期にも使用例はある。昭和初期までの文献における「剣道」という語は、今日でいう「剣術」を意味していることが多い。 関連団体 国内は2団体、世界には1団体である。 * 国内 全日本剣道連盟 国内最大の剣道団体。日本体育協会、日本オリンピック委員会、国際剣道連盟に加盟している。 日本剣道協会 竹刀による打突だけではなく、体当たり、足払い、組み討ちも認めている。 * 世界 国際剣道連盟 (International Kendo Federation, FIK) 1970年に設立。以来、3年ごとに[[世界剣道選手権大会]]を開催している。44ヶ国の剣道団体が加盟している(2003年7月現在)。IOC公認団体GAISFに加盟。IOC承認国際競技団体になることを目指している。 全日本剣道連盟はJOC、国際剣道連盟はIOC傘下のGAISFに加盟[2]をしているが、剣道のオリンピック加盟には一貫して反対の立場を取っている。 試合形式(全日本剣道連盟) 剣道の試合は常に1対1で戦う。これは団体戦の場合も同じである。選手は試合場に入り二歩進んでお互いに礼をし、三歩進んで蹲踞したあと審判の「始め!」の声がかかってから立ち上がって勝敗が決するか規定の試合時間が経つまでお互いに技を出し合う。原則として三本勝負であるが、一本勝負も認められている。 試合場 板張りの床に境界を含め1辺9mないし11mの正方形ないし長方形の試合場を作り、そこで試合をする。境界は普通、白のラインテープを貼って分ける。また、試合開始時の立ち居地は試合場中心付近に白のラインテープで示される。 試合時間 試合時間は5分、延長戦の場合には3分が基準である。しかし、運営上の理由などからこれ以外の試合時間を採用することも認められており、公式大会の決勝戦では、2007年より試合時間が10分へ変更された。 技 全ての技は、竹刀で防具の決められた箇所を打つものである。 * 小手を打つ技 小手打ち、引き小手打ち * 面を打つ技 面打ち、引き面打ち、小手面打ち * 面の喉当てを突く技 突き(小中学生は原則禁止。高校生以上でも、この技を禁止とすることもある) * 胴の胸当てを突く技 胸突き(以前は相手が上段の構えを取っている時のみ一本になった。後、相手が二刀流の場合のみ認められていた。現在は認められない。) * 胴の右側を打つ技 胴打ち、引き胴打ち 抜き胴 * 胴の左側を打つ技 逆胴打ち これに、技を出す直前までの流れから「相(あい)〜」「抜き〜」「返し〜」「払い〜」「すり上げ〜」「引き〜」などの接頭辞が付く場合もある。 一本 一本とは全日本剣道連盟によれば、 充実した気勢、適正な姿勢を持って、竹刀の打突部(弦の反対側の物打ちを中心とした刃部)で打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるもの である。審判はこれに該当しているかどうかを判断して旗を挙げる。 反則 反則を一試合中に二回犯した場合は、相手に一本を与える。 * 相手に足を掛けまたは払う。 * 相手を不当に場外に出す。 * 試合中に場外に出る。 * 自己の竹刀を落とす。 * 不当な中止要請をする。 * 相手に手をかけまたは抱え込む。 * 相手の竹刀を握るまたは自分の竹刀の刃部を握る。 * 相手の竹刀を抱える。 * 相手の肩に故意に竹刀をかける。 * 倒れたとき、相手の攻撃に対応することなく、うつ伏せなどになる。 * 故意に時間の空費をする。 * 不当な鍔(つば)迫り合いおよび打突をする。 審判員 3人の審判員(1人の主審、2人の副審からなる)が紅白の旗を持ち、旗を挙げることで有効打突の意思表示とする。2人以上が有効打突の表示をした場合、もしくは1人の審判員が有効打突を表示し2人が判定の棄権を表示した場合、一本となる。 また、主審は次のどれかの場合、「止め」の宣告と同時に紅白両方の旗を平行に揚げ、試合を中断させることができる。 * 反則の事実 * 負傷や事故 * 危険防止 * 竹刀操作不能の状態 * 異議の申し立て * 会議 * 試合者より試合中止の要請があった場合 (この場合、主審は中止要請の理由を質し、不当な中止要請の場合は審判の合議の上、反則となることもある。) なお、試合中止は副審から申し出ることもできる。その際に副審が「止め」の宣告後、直ちに主審が「止め|の宣告をして試合を中止する。 鍔(つば)迫り合いが膠着(こうちゃく)した場合、主審は 「分かれ」の宣告と同時に「両旗を前方に出し」、両者を分け、その場で、 「始め」の宣告と同時に両旗を下ろし試合を継続する。「分かれ」の場合の試合時間は中断しない。 勝敗 勝敗は、試合時間のうちに三本勝負の場合二本、一本勝負の場合一本先取した選手を勝ちとする。また三本勝負において一方が一本を取り、そのままで試合時間が終了した場合にはその選手を勝ちとする。試合時間内に勝敗が決しない場合には、延長戦を行い先に一本取った選手を勝ちとする。延長の代わりに判定あるいは抽選によって勝敗を決する場合、あるいは引き分けとする場合もある。判定および抽選の場合には勝者に一本が与えられる。団体戦における代表戦も原則1本勝負である。 二刀流 原則として二刀流は禁止されていないが、使用者の数は少ない。 昭和初期において、学生の間で試合に勝つためだけの二刀流が横行し、団体戦において二刀流の剣士を防御一辺倒の引き分け要員とするなど卑怯な手段が用いられたため、一部の学生の大会では二刀を禁止するようになった。戦後、剣道が全日本剣道連盟の元に復活した際も、学生剣道界では戦前に倣って二刀を禁止したために、二刀を学ぶ者が非常に少なくなってしまった。 ただし、伝統が断絶するのを危惧する声もあり、1992年(平成3年)に大学剣道(公式試合・昇段審査)では解禁された。しかし、高体連・中体連の公式試合・昇段審査においては未だに禁止されており、また小学生においては片手で竹刀を用いての打突は一本として有効ではないとされるため、高校生以下では事実上禁止されているに等しい状況である。 二刀流の竹刀は大刀と小刀を用いる。それぞれ長さと重さが決められており、男性の場合、大刀は3尺7寸以下(一刀の場合は3尺9寸以下)、小刀は2尺以下となっている。 長らく二刀流が否定されていたため、また上記の通り竹刀の長さ、および二刀流の相手に対しては胸突きが認められていたというハンデキャップがあるため、指導者、使用者とも少ないのが現状である。 参照:ウィキペディア 「剣道」より http //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%A3%E9%81%93 次回は「選手の服装」~ 榎本劍修堂 / 劒人倶楽部 埼玉県さいたま市見沼区大谷399 剣道具 通販 / 竹刀 通販
https://w.atwiki.jp/vipdemfl/pages/32.html
VIPMFLとは 過去に敗北という名の深い傷をその胸に刻み込まれた運営『gamepot』 その傷はいつか癒える。しかし、心に刻み込まれた傷までは癒えることはなかった・・・ しかし、運営は諦めなかった。 サービス一時休止から一年、 彼らは帰ってきた! その志の高さに、イケメンむぃむぃくんは言った。 「往生際が悪い」と・・・ だが、そんな彼らに付き合ってやろうじゃないか。 彼らが倒れるまで、最後まで支えてやろうじゃないか。 MFLをVIPのゴミクズで埋めてやろうじゃないか。 そのような考えを持つものが集う場所・・・ それが・・・VIPMFL・・・ 新規ちゃんも、前作MFO参加者も、みんな一緒に、 メリークリスマスwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww シュワッキーマッセーリーwwwwwwwwwwwシュワッキーマッセーリーwwwwwwwwwwwwwwwwww
https://w.atwiki.jp/saitowiki/pages/13.html
ウィキペディアより引用します。 読むのが面倒だ!という方は日本における三国志の受容と流行までの文を読んでから 管理人が最後に書くまとめみたいなんでも読んでみてください。 といっても管理人もあまりよんでませんが。 三国志(さんごくし)は、中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃 - 280年頃)の興亡史である。“三国志”と呼ばれるのは、ほぼ同時代の歴史家陳寿(233年 - 297年)がこの時代の出来事を記録した歴史書の名前が、『三国志』であることにちなむ。 「三国志」とはその名のとおり、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国が争覇したことから付いたものであり、三国時代のことを叙述した歴史書が、元蜀の家臣で後に西晋に仕えた陳寿によって『三国志』と名づけられた事に由来する。この時代の曹操・孫権・劉備らが争い合ったことは一般にも良く知られている。 その後、歴史書の『三国志』やその他の民間伝承を基として唐・宋・元の時代にかけてこれら三国時代の三国の争覇を基とした説話が好まれ、その説話を基として明の初期に羅貫中らの手によって『三国志演義』として成立した。 「三国志」の世界は『三国志演義』を基としてその後も発展を続け、世界中に広まった。 日本における三国志の受容と流行 正史の受容 『三国志』の伝来時期は正確には判明していないようである。 天平宝字4年(760年)に成立した『藤氏家伝』大織冠伝には蘇我入鹿の政を「董卓の暴慢既に國に行なはる」と批判する記述があり、すでに董卓の奸臣としてのイメージが形成されていた事が窺われる。 天平宝字4年淳仁天皇は舎人6人を大宰府に遣わして吉備真備の下で「諸葛亮八陳」「孫子九地」といった陣法を修得させている(『続日本紀』巻23)。 神護景雲3年(769年)称徳天皇が大宰府の請に応じて『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』『晋書』を下賜している(『続日本紀』巻30)。これらの史書が日本国内に普及する過程を示す一例である。 藤原佐世が撰述した平安初期の漢籍目録『日本国見在書目録』には[2]当時の日本に存在した後漢時代の史料として『東観漢紀』『後漢書』『三国志』『後漢紀』『帝王世紀』を挙げる。また、平安末期の藤原通憲(信西)の『通憲入道蔵書目録』には「『魏呉蜀志』二十帖」があり、藤原頼長は読了した漢籍として「『三国志』帝紀十巻」を挙げている(『台記』巻3・康治2年(1143年)9月29日条)。 『太平記』巻20「斉藤七郎入道々献占義貞夢事付孔明仲達事」(西源院本の事書)には、大蛇に変身する夢を見た新田義貞が吉夢であると喜ぶが、斉藤道献は密かに大蛇を「臥竜」諸葛孔明の奮闘と無念の死に重ね合わせ、燈明寺畷での義貞の戦死を予感するという描写がある。この物語は曹操・劉備存命中に五丈原の役が起こるなど、史実や演義などと異同がある上孔明の出廬の場面も潤色されており、日本でアレンジされた一つの三国志物語とも言える。 中世以降、五山の学僧や江戸の漢学者は主に朱子学に基づき三国志の人物を論評した。諸葛亮が「王佐の才」を有するか否かについて鵜飼石斎はこれを肯定し、伊藤仁斎はこれを否定した[3]。 林鵞峰以降、江戸期の漢詩の題材としても三国志の人物が好まれ、特に関羽と諸葛亮が至忠の烈臣として讃えられた[4]。明治期の土井晩翠の新体詩「星落秋風五丈原」(明治32年(1899年)『天地有情』所収)もこの伝統を踏まえたものである。 明治以降の正史に基づいた史伝として内藤湖南『諸葛武侯』(東華堂 1897年)、吉川幸次郎『三国志実録』(筑摩書房 1962年)がある。また陳舜臣『秘本三国志』などの小説の一部には正史の記述が取り入れられている。しかし、吉川三国志などの急速な普及により三国志といえば、『三国志演義』の物語を指すのが通常であった。 状況が一変するのは『世界古典文学全集24 三国志』全3巻(筑摩書房 1977年 - 1989年)で『三国志』が初めて日本語訳され、1993年に文庫版が発売されてからである。これにより、一般の三国志愛好家が正史を読むことができるようになり、多くの人々が『三国志演義』により固定化されていたイメージに疑問を持つようになった。これ以後、正史を基礎とした三国志の解説書が多数登場し、漫画やゲームなどにも正史を基にした作品が現れるようになる[5]。ただし、これらの作品はいずれも横山三国志(漫画家横山光輝)など従来の演義ベースの設定に拠っている部分も多く(特に人物の外見や武具など)、純粋に正史に基づいた作品というよりは、演義に基づいた三国志ブームの中で人物設定や出来事など一部の事柄を正史に基づいて再構成したという意味合いが強い。 三国志演義・大衆文化の受容 『三国志演義』の伝来時期は確定されていないが、江戸初期には『演義』受容の記録が漸く増加し、詩文などの中に演義の影響を受けたものも見られる。[6]林羅山は慶長9年(1604年)までに『通俗演義三国志』を読了した[7]。また、元和2年(1616年)に徳川家康の遺志により駿府の文庫から水戸藩・尾張藩へ移された書籍の内に『演義』があった[8]。 『三国志演義』の日本語訳として、元禄2年(1689年) - 5年(1692年)に湖南文山(『大観随筆』によれば天龍寺の僧義轍および月堂の筆名)『通俗三国志』が刊行される。これは日本語完訳された初めての外国小説であり、満州語版に次いで2番目の外国語訳『三国志演義』である[9]。同書は以後も再刊を繰り返し、葛飾戴斗(葛飾北斎の弟子))の錦絵を付した池田東雛亭編『絵本通俗三国志』(天保7年(1836年) - 12年(1841年刊)が人気を博し、明治には幸田露伴『新訂通俗三国志』(東亜堂書房 1911年)がある。 明治以後には『通俗三国志』以外にも諸種の訳が現れ、明治期には久保天随『新訳演義三国志』(至誠堂 1912年)が名高い。戦後は小川環樹・金田純一郎『三国志』(岩波文庫 1973年 改版88年)、立間祥介『三国志演義』(平凡社 1958年、徳間文庫 1983年)、井波律子『三国志演義』(ちくま文庫 2003年)、渡辺精一『新訳三国志』(天・地・人の巻 講談社 2000年)があり、これらの訳本は改稿・重版を経て現在も通行している。 『通俗三国志』の刊行以後、大衆文化にも三国志が普及し歌舞伎においては早くも文化8年初演「助六由縁江戸桜」に「『通俗三国志』の利者関羽」という台詞が出る。また万延元年初演「三人吉三廓初買」では「桃園ならぬ塀越しの、梅の下にて」義兄弟の契りを結ぶ場面がある。また元文2年初演の作品に「関羽」というそのものずばりの題名もある。近年では市川猿之助のスーパー歌舞伎『新・三国志』がある。 洒落本では夢中楽介の『通人三国師』(天明元年(1781年)刊がある。劉備が吉原で料亭を営むところに借金を抱えた孔明が転がり込み、さらに仲達が押し掛けるが孔明の計略で撃退される、という筋立てである。このような三国志のパロディは文人のみならず読者層にも三国志の物語が広く敷衍していたことを示すもので、江戸人の『演義』読解への熱意を見出す見解がある[10]。 曲亭馬琴は羅貫中ら中国の小説家を崇敬し自らを羅貫中になぞらえており、読本の表現手法において『三国志演義』に負うところが大きい[11]。その一方、随筆においては関羽に対する辛らつなコメントを残している。 戦国の人物を三国志の登場人物になぞらえることも行われ、竹中半兵衛は諸葛亮に擬せられ[12]、豊臣秀吉・徳川家康は諸葛亮の智謀・関羽の勇を兼備した武将と評された[13]。 明治以後は『三国志演義』をもとにした時代小説も多く現れるようになり、児童向けの野村愛正『三国志物語』(大日本雄弁会講談社 1940年)などがあるが、戦後の三国志ブームの礎となったのが吉川英治の新聞小説『三国志』(『台湾日日新報』等に連載。単行本は大日本雄弁会講談社 1948年・六興出版 1956年)である。戦闘シーンなどの冗長な描写を省き、人物像にも独自の解釈を取り入れた格調高い歴史文学として評価されている。また、中国人と日本人との感性の差を考慮し、日本人にとって受け入れがたいエピソード(劉備をもてなすのに劉安が妻を殺してその人肉を提供するなど(鉢の木のエピソードの原型版))に作者のコメントを寄せるなどの改変を行っている。それまで単なる悪役扱いだった曹操を、人間味あふれる乱世の風雲児として鮮やかに描いているのが特徴である。日本では、吉川三国志が事実上の底本となっている。これ以後柴田錬三郎『三国志』(鱒書房 1955年)『柴錬三国志 英雄ここにあり』(講談社 1975年)『柴錬三国志 英雄生きるべきか死すべきか』(講談社 1977年)[14]、陳舜臣『秘本三国志』(文藝春秋 1974年)『諸葛孔明』1991年 『曹操』1998年(各.中央公論社 のち同文庫)、北方謙三『三国志』(角川春樹事務所 1996年)、安能務『三国演義』(講談社 1999年)、宮城谷昌光『三国志』(文藝春秋 2004年)を代表とする「三国志」小説が次々と登場する。 戦後のメディア作品としては吉川三国志をそのまま漫画化した横山光輝の漫画『三国志』や人形劇の『人形劇三国志』などが高い評価を受けた。また、曹操を主人公とした漫画である『蒼天航路』も高い評価を受けている。ゲームについては、『三國志シリーズ』や『真・三國無双シリーズ』などがヒット作品となっている。2008年には、ジョン・ウー監督のもとで「赤壁の戦い」をメインにした映画『レッドクリフ』が公開され、ヒット作品となっている。 高度成長期のビジネス競争の過熱の中で、競争を生き抜く知恵や企業のリーダー像の見本として、『孫子』などともに『三国志演義』もしばしば引き合いに出され、『三国志演義』に学べとしたビジネス書が多数刊行された。 1980年代以降、ゲーム・漫画において爆発的な三国志ブームが起き、三国志はジャンルの一つとして定着する。その後今日に至るまで、漫画やゲームや映画やアニメとして多数の作品が出版・製作され、不動の人気を博してきた。また他にも、三国志に出てくる人物の名前やその時代観を基にした、全く違ったものが作られるなど多彩なものと成りつつある。 そしてそれら三国志を題材にした作品は、必ずしも『三国志』あるいは『三国志演義』に忠実なものではなく、大きく改変が加えられているものも多い。特に顕著な傾向として、諸葛亮死後以降の展開については省略が目立ち、晋の統一に至るまで忠実に描き切った『三国志』作品は国内では皆無である。また、「もし、こうなっていたら」という仮定の設定で作られているものや、君主の設定が少し違うもの、あるいは基になっている人物の性別を換えているものなど、多種多様な作品が存在している。 三国志とは蜀の臣下の陳寿という方が記した歴史書だったんですね。 みなさん三国志は吉川三国志やその漫画版 横山光輝の三国志、 あるいはコーエーのゲーム三国志、三国無双。今年はレッドクリフなどの方がほとんどでしょうが ほとんどが三国志演義ベースなんですね。 北方謙三などが正史ベースです。 蒼天航路はどっちかな? えぇ?正史とか演義って何?ってかたは正史と演義を。 興味をもっていただけましたか? このwikiを読み通せばあなたも立派な 三国志オタク!!