約 1,936,245 件
https://w.atwiki.jp/rosary_utopia/
このサイトはポルトガル王国のロザリオ商会が提供する「大航海ユートピア」のwikiです。 【公式】:https //daikoukai-utopia.bbgame.jp/ 【公式twitter】:https //twitter.com/daitopi とりあえず喫緊の課題として、相場一覧を調べた限りでアップさせて頂きます。他のコンテンツも順次、時間を見つけて作っていきます。誰でも書き込むことができますので、よろしければWiki作成にご協力ください。 相場一覧 海洋別 地中海 西欧 北欧 港一覧 地中海の港 クエスト メインクエスト ※当wikiは非公式の攻略wikiです。情報の妥当性や正確性について保証するものではなく、一切の責任を負いかねます。 ※当wikiを利用することによって生じるいかなる損害も当サイトでは補償致しません。 ※ご利用につきましては自己責任となりますのでご注意ください。 ※また、当wikiおよびwiki管理人は大航海ユートピア運営様とは一切関係がありません。wiki管理人にエラーなどについて問い合わせないようお願いします。 ゲームに関する問い合わせに関してはこちらから ※文章の著作権は当wikiにあります。内容の複写、転載を禁じます。 ※当wikiで使用している画像、情報等の権利は、BBGameに帰属します。 テスト
https://w.atwiki.jp/isekaikouryu/pages/320.html
甲高い笛の音、軽快な小太鼓の音、ド派手に鳴り響く銅鑼の音。 朝早くから、祭り囃しの音が通りから鳴り響く。 「朝っぱらからウルセぇなぁ・・・」 犬塚勇人は不貞腐れながら寝具にくるまった。 今日から大延国大都にある緑碧市街の祭りの日なのだ。 通りは朝も早く、というか明け方を待っていたとばかりに人が溢れかえった。 3日間延々と続くこの祭りは、初日に延劇、中日に料理対決、末日に山車練り歩きと、見どころには事かかない。 言うまでもなく、開催期間中は通りを埋め尽くすほどの屋台が陳列する。 にもかかわらず勇人がまだ寝ているのは、初日屋台の抽選に洩れたからだ。 普段は営業する店も、屋台に客を取られて開けるだけ無駄なので閉店中。 なんとか当選した半日交代の屋台スペースが空くまで、やる事が無いのである。 そんなこんなで不貞寝していたのだが、そんな彼の眠りを妨げる者もいる。 言うまでもなく環奈(ファンナ)だ。 勝手知ったる何とやら。ノックも無くガチャリと部屋の戸を開けて入室してくる。 「まあまあ。そう愚痴らんと。 年に4度のお祭りなんやし、楽しまんと損やわ。 そや、ユート。今日は延劇見にいこか。 あれメッチャ楽しいねんで」 彼女は相変わらずの甘ったるい声で言った。 寝相が悪いのか、コゲ茶と銀の髪の毛がクシャクシャになっている。 服装も薄手の寝着のままで、完全に目の毒だ。 「延劇なぁ。 どうせ夕刻までヒマなんだし、見に行くのも悪くねェか。 朝メシ食ったら行ってみるか。 あとな、ファンナ。1つだけ聞いていいか。 何でお前、寝着のままで俺の部屋に来てンの? 女の子なんだから、その辺りもうちょっとこう、な。 俺も男なンだからさ」 ファンナの赤い眼がキョロリと動く。 察しが悪い時のクセだ。 寝着の裾を指先でつまみ上げ、小首をかしげながらポソリとつぶやく。 「洗濯はしとるよ?」 まるでわかってない。勇人は盛大に溜息をついた。 この辺りどうにも意思疎通がままならない。 「とりあえず朝飯にしよう」 2階にある寝室から1階に降りただけでも、祭りの熱狂が数倍増しで伝わってくる。 食卓に置いてあった屋台組合から貰った案内状を見ると、小さな男女の人形が地図の上で踊っている。 どうもそういう『仙術』があるとの事で、現在位置を人形で教えてくれるそうだ。 「あは、今日も踊っとるわ」 ファンナはそう言うと、男の人形を指先でこづいて遊び出した。 「ほら、罪もない人形をいじめてないで、何か食いに行こうぜ」 「ウチはいつも通りでええわ。 ロウ大人の店に行こ?屋台出してはるんやって」 店から一歩外に出ると、そこは人、人、人の洪水であった。 左を見れば狐人。 右を見れば狸人。 遠くに見えるはまさかの龍人? 普段からそこそこ人の多い通りではあったが、まさかこうまで増えるとは想像もしてなかった。 勇人達は、人ごみをなんとか掻き分け、目当てのロウ大人の店である望桜亭へとたどり着いた。 「やっと着いた。 朝飯食うのにこんな苦労すンのかよ。 ああ、オレは龍鳥卵粥と塩菜ね。あと火糖茶も。 ファ・・・タヌ子はどうする?」 大延国の人々は、家族や恋人など親しい者以外に自分の本当の名前を語らないし語れない。 言ってしまえば100年ほど前の日本にだってあった風習だ。 けれども、現代日本で長く過ごした勇人には、まだまだ馴染んでいない。 「塩粥に揚げ玉山盛りで~、あとお茶。 お茶はユーノジと同じのでええわ」 目の前に居た狐人の給仕が手早く筆を走らせ、店奥の厨房に声をかける。 あらためて見ると、とんでもなく大規模な屋台である。 「やっぱちからの有るところは違うねェ いつかはオレもこんな規模で店を出してみたいモンだ」 「近道はあるんやけどね。あ、もう来たわ。早いわぁ」 抜群の塩加減が実に心地よい粥である。 人気になるのが当たり前だ。 世界が異なる以上おそらくは米や麦では無いのだろうが、確かな穀物の甘味がある。 勇人はこの粥を、龍鳥の卵で味付けしたものを好んで食べる。 龍鳥についてファンナに聞いたことがあったが、何故知らないのかといった表情をされ、詳しくは教えて貰えなかった。 本に書いてあるとも言われたが、勇人はまだこちらの字を読めないでいる。 まあ、ダチョウみたいなモンなんだろうくらいにしか最近では考えていない。 火糖茶も同様である。お茶なんだろうと。 「で、その近道ってのは?」 熱々のお粥を啜りながら、勇人は聞いた。 ファンナの赤い眼がキョロリと動いて、勇人の顔を見つめる。 何故そんな当たり前の事を聞くのか、という表情だ。 「食神祭で優勝すればええやん。天下取れるで」 すると周囲の客が一斉に笑い出した。 「食神祭とは大きく出たね。無謀というか蛮勇というか」 「いやいや。我が街から代表が出られれば、それだけでも名誉名誉」 「狸娘々、意気込みはいいが、そこの兄ちゃんはそんなにいい腕をしているのかね」 笑ってはいるが嘲りではない。 大延国の料理人ならば、誰もが目指す天下への道だからだ。 「そりゃあもう。ユーノジに作れへん料理なんて無いわぁ」 何故か得意げにファンナが語る。 すると客の一人が興味深げに寄ってきた。狸人である。 「それを聞いては黙っていられませんな。 明日の緑碧料理祭典に、是非とも出席願いたいものです。 これは一人の食い意地の張った美食家の我侭ですがね。 ああ、わたしはこの祭の主催者であるモクロクと申す者です」 「いやぁ、とんでもない事にならはったね」 「他人事みたいに言うな。全部お前のせいじゃねェか」 朝食のお粥を食べ終え、二人は延劇の幕屋の中に居た。 今回の演物は、大延国にて子供からお年寄りまで広く人気のある『越虹記』である。 暴れん坊の猿人の星天大聖が主役なのだが、その他にも優れた勇気を持ちながらも臆病な豚人や、 心を持たないがらんどうの動鎧らが、狐人の少女と一緒に旅を続けて、 西の果ての大天宮にて王珠を授かるという筋立てだ。 その道中での妖怪変化との闘いが、延劇の一番の見どころなのである。 「でもま、大丈夫やわ。 ウチは何も心配してへんで。 ユートの作る料理を、もっともっと色んな人に食べてもらいたいしな」 耳がヒコヒコと動いている。機嫌の良い時の証拠だ。 「ルールも食材もわからん料理勝負とか、勝ち目があると思えねェんだけどなぁ で、これどんな話なんだ?」 「表に書いてあったやん。牛人の魔神王から宝貝の旋風扇を奪う話やね」 「牛人なぁ・・・ビーフ・・・ビーフシチュー? いや、もっとシンプルに・・・肉料理か。 なら酵素で肉を柔らかくして、味付けは・・・ううむ」 「ユート、劇をちゃんと見とるのん? さっきからブツブツうるさいわ。 ほら、雷恩が瓶香まみれになって泣き喚いとるわ。アハハ」 「何それ」 「なんや酸っぱい調味料。顔にかかって目に滲みとるんやろね。 使い方が難しいから、ウチは使いこなせへん」 「ふぅん・・・」 あくる日、勇人は料理対決の会場にポツリと立ち尽くしていた。 頭の中は今日の勝負で一杯になりすぎて、昨夜はほとんど寝ていない。 彼は目の前にある山と積まれた食材を見つめていた。 「これより緑碧料理祭典『大狸百八連星覇』を開催いたします!」 司会進行らしき狸人が声高らかに開催宣言をしているが、それすら耳に入らない。 「調理に使える時はきっかり一刻。 食材の持ち込みは禁止。 調味料、スープのみ1品の持ち込みを許可します。 調理器具は会場のものでも持ち込みでも可です。 調理に関わる助手は一人だけ許されます。そして・・・」 司会が大仰な声色でルールの解説をし始め、その視線をス・・・と後ろに向けた。 そこにあるのは巨大な山のような食材である。 「今回のテーマは、『三刺竜』でぇす!」 勇人は<こちら側>に来てから、大概のモノは見てきたつもりだった。 何だかわからないものでも、そこそこ食べられたし、そこそこ<地球側>と変わらないと思っていた。 だが、今まさに目の前にある『食材』は、そんな考えが実に甘かった事を伝えている。 竜だと司会者は言っている。 まさに竜だろう。 勇人の知る限りの知識を総動員すると、アレに一番近い生き物は子供の頃の図鑑の中で見た『トリケラトプス』だ。 「解体しろッてかい・・・それより、どんな味だこの生き物は」 途方に暮れるとは、まさに今の自分の事だろう。 そう思うと、なんだか変な笑いが腹の底からわいてきた。 「それではぁ!調理はじめぇ!」 何から手をつけようか。勇人が思った矢先に、ファンナが動いていた。 その手には超巨大な包丁が握られている。<地球側>で言うクジラ包丁というヤツだ。 「タヌ子、お前解体出来ンのかよ!?」 勇人が呆気に取られていると、ファンナはニッコリ笑って包丁を振り回し始める。 包丁裁きはおそらく稚拙なのだろう。対戦相手の狸人の方がよほどキレイに捌いている。 しかし、背に腹は変えられない。 ファンナの切り出した肉片を元に、勇人は手早く調理を始める。 この辺り、かつてホテルのレストランで皿洗いからシェフまで上り詰めたあげくに、 ミスター鉄鍋ッ子を名乗る少年と料理勝負をして敗北し店を去った経験が活きていると言える。 「合法麻薬カレーとか反則だよなァ・・・」 当時のことを思い出して一人でブツブツと言いつつも、肉片を軽く火で炙ったものを口にした。 「この味・・・これなら例のアレでいけるかも」 そう言うと、何を思ったか肉の塊をドロドロとした汁の中にドボンと漬け込んでしまった。 「ああ!何しとんの!それウチが丹精込めて仕込んだ雷実ジュースやのに!」 ファンナの必死の抗議にも耳をかさず、勇人はソースを作り始める。 対戦相手は三刺竜のノドから尾にかけて鉄の芯を通し、丸焼きにしている。 さっきチラ見した限りでは、ただの丸焼きではなくハラワタを抜いて詰め物をしている。 「あれトリでやるとスゲー美味いンだよなぁ・・・ こっちにニワトリいねェのかなぁ コカトリスってのは食ったけど、何か違ったンだよなぁ ッと、ソース完成!タヌ子、味見!」 ドプンとお玉でソースをすくい取ると、ファンナの口の中にスイと流し込んだ。 「ほあぁ・・・これは何とも幸せになる味やわぁ・・・」 「相変わらずあんま参考にならねェな。 まあいいや。仕上げ仕上げ」 勇人はコンロの火力を最大にし、鍋の中に具材を一気に放り込んだ。 「こっちもドハデなお祭り料理に仕上げないとなァ!」 「あーい終わりですー。リア充は死ねばいいと思うよ」 何故かテンションダウンした司会者の宣言により、料理対決の時間が終わった。 あとは審査員という名の食いしん坊達の試食により勝敗が決する。 対戦相手の料理は予想通り『三刺竜の砂塩焼き。腹に竜卵仕込み』であった。 対する勇人の料理は・・・ 「あ、料理の名前?なンだろうなコレ。 要は酢豚なンだけどさ。ブタじゃ無ェしな。酢竜? あーでもアレだ。酢、使って無ぇわ。なンだろうなコレ。 なんでもいいや。タヌ子。名前つけていいぞ」 「それでは『ユーノジ炒め』で。どや?」 何故かドヤ顔でフフンと鼻を鳴らしながらファンナはその料理を命名した。 そこから先は、阿鼻叫喚の地獄絵図であった。 審査員も客も入り乱れての、料理の食い合い合戦が始まったのである。 勇人もここに至り、ようやく緑碧料理祭典の真の姿を知るのである。 こいつら結果とかどうでも良くて、美味いモンを2つも食えて幸せなだけか!と。 対戦者側も勇人側も、半刻どころか二十符も立たぬ内にキレイさっぱり無くなってしまった。 あとに残ったのは、300人を超える表情がニヤケきった狸人、狐人の山だけであった。 勇人の隣にも、何かフニャフニャになった珍獣がいる。 「勝敗どうなンだこれ」 勇人は砂塩焼きをむしり食べながら、数刻ほど途方に暮れていた。 結局、勝敗がわかったのは翌日であった。 3日目の主行事である山車練り歩きで緑碧第四町内会の『緑々大狸守護神像』が 一番に中央広場に到達して勝利の凱歌をあげた時に一緒に発表された。 151票と149票で『ユーノジ炒め』の勝ち。 総評は『美味かったから』である。 祭りのあとの静けさか、勇人とファンナは自宅2階でグッタリとして過ごしていた。 <地球側>で言うソファベッドのようなものを居間に持ち込んでいるので、 そこで二人でゴロゴロとするのが最近の日課になりつつある。 一応、2日目夜と3日目の屋台で、そこそこ稼げたのも事実だ。 特に3日目は、『ユーノジ炒め』の評判からか、お好み焼きもそこそこ売れた。 「肩の力の抜きすぎな街だよなァ・・・ここ」 勇人は呆れながらも、まんざらでもなさそうな様子である。 ただ、雷実の汁の中にある酵素を用いて肉を柔らかくするような工夫や、 『酢』の無い<こちら側>の調味料のなかで最も近い存在である瓶香を試して それを用いた工夫などを本当にみんな評価してんのか?という不満が無い訳ではない。 「副賞って何やったん?」 ヒクヒクと鼻を鳴らしながらファンナが勇人に擦り寄ってくる。 この辺り、小動物的と言えなくもない。 「温泉旅行ペア旅行券だってサ。 何か既視感あると思ったら、この街って日本の中小商店街のノリなンだな」 「ええやんええやん!ウチ、温泉行くの初めてや!」 「テンション高ぇなー。オレもう眠いから今日はもう寝るぞ」 言うが早いか、勇人は眠りに落ちていた。 「あーもう、そんなトコで寝たら風邪ひいてまうやん。 ま、ええわ。添い寝したらそうそう風邪もひかんですむし」 そう言うとファンナは掛け布団を引っ張り出して勇人の上にかけ、自分も隣に滑り込んだ。 「やっぱりユートに作れない料理なんて無かったんやね。 また一歩二人の夢に近づいたん・・・むにゃ」 勇人にとっては疲労の溜まるだけの祭りだったかもしれないが、 環奈にとっては大きく夢に近づいた記念すべき日だった。 そんな3日間だった。 続き→【異人食祭記3】 年に4度でまず吹いてしまいました。食をどれだけ楽しみにしている国民性なのかが伺えました。徹底した料理展開とボキャブラリには感心するばかりなのにオチは極めてシンプルでした。それにしても料理が出てくるのが早い屋台は素晴らしいですね -- (名無しさん) 2013-07-17 17 42 11 名前 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/yugio/pages/1004.html
遊戯王、遊戯王R アテム 海馬瀬人 武藤双六 城之内克也 サイバー海馬 インセクター羽蛾 ダイナソー竜崎 ペガサス・J・クロフォード 孔雀舞 梶木漁太 死者の腹話術師 闇のプレイヤーキラー ゴースト骨塚 迷 宮 キース・ハワード レアハンター エスパー絽場 奇術師パンドラ 人形(マリク・イシュタール) 光の仮面 闇の仮面 バクラ リシド 闇マリク イシズ・イシュタール 武藤遊戯 遊戯王R 百野真澄 デシューツ・ルー ティラ・ムーク クラマス・オークラー カーク・ディクソン ピート・コパーマイン マイコ・カトウ 天馬月行 メンド・シーノ ウィラー・メット テッド・バニアス 北森玲子 デプレ・スコット リッチー・マーセッド 天馬夜行 遊戯王GX 遊戯十代 響紅葉 龍牙 万丈目準 三沢大地 天上院明日香 丸藤翔 デイビット・ラブ レジー・マッケンジー 小日向星華 丸藤亮 響みどり 天上院吹雪 アモン・ガラム ヨハン・アンデルセン ジェームズ・クロコダイル・クック オースチン・オブライエン エド・フェニックス マッケンジー 遊戯王5D’s 不動遊星 伊集院セクト 骸骨騎士 ジャック・アトラス 十六夜アキ 小早川ラン ボマー シェリー・ルブラン クロウ・ホーガン 氷室仁 炎城ムクロ 鬼柳京介 龍亞&龍可 イェーガー レクス・ゴドウィン 遊戯王ZEXAL 九十九遊馬 神代凌牙 表裏徳之助 天城カイト キャプテン・コーン サンダー・スパーク プリンセス・コロン 瑠那 イビルーダー 武田鉄男 飛車角 シャドウ Mr.ハートランド 八雲興司 天城ハルト e・ラー アストラル Dチーム・ゼアル 奥平風也 ゴーシュ 激翔太 ラーフ アルファー 亜隈雷蔵 内藤剣斗 アリト Ⅳ 観月小鳥 オボット(改) フュージョン・マスク シンディ・クロス マスター・イビル 遊戯王ARC-V 榊遊矢 ユート 沢渡シンゴ 黒咲隼 紫雲院素良 ユーリ ユーゴ 蓮 赤馬零児 アイザック EVE 最強デュエリスト遊矢!! 権現坂昇 剛秀斗 SSマスク ミカド京士 志島北斗 方中ミエル
https://w.atwiki.jp/magicman/pages/2480.html
蒼神龍スペル・ユートピア R 水文明 (5) クリーチャー:ポセイディア・ドラゴン 1000+ エタニティ・ソウル ■自分が呪文を唱えた時、カードを1枚引いてもよい。 ■このクリーチャーのパワーは、自分の手札1枚につき+1000される。 ■自分の手札の枚数が5枚以上あれば、このクリーチャーは「W・ブレイカー」を得るとともに、ブロックされない。 作者:ぐりぐら フレーバーテキスト 永遠の楽園に集められた高度な知識の数々は、美しい芸術と楽園を守る力という二つの形で共有される事になる。 収録 DMGG-01「エピソード1 トリニティ・ワールド」 評価 パワー&能力を修正 -- ぐりぐら (2012-05-15 17 28 36) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/shibumakubungei/pages/57.html
顔なし少女のユートピア 顔なし少女のユートピア (2)← →次章 第三章 目を覚ました時、一瞬何も考えられなかった。 真っ先に目に入ったのは、ほんのりと日陰になった白い天井。どこからか白っぽい光が射していて、その反射に照らされている。 すぐに、自分が今横たわっているのは王宮の寝台ではないと思い出す。 ここは、テルスコアだ。違う街だ。 そう、確認するように自分に言い聞かせて、エフェリリアは身体を起こした。窓から射しこむ陽の色と角度が、それほど早い時間ではないと告げていた。右手を見ると、隣の寝台は簡単に整えられている。トルディはもう起きているようだ。 ぱたん。軽い音に、エフェリリアは入り口の方をふりむいた。そのすぐ脇にある洗面所から、トルディが出てきたところだった。 「おはよう、リア。よく眠れた?」 「ああ、おはようございます。……昨晩は、手間を掛けてすまなかった」 エフェリリアは俯いて謝罪した。昨日の夜、一度トルディに起こされたものの話すこともままならず、そのまま靴を脱いだだけで再び眠ってしまったのだ。 「いえいえ。気にしてないわよ。いきなり丸一日歩きどおしなんて、無茶苦茶だしね。それよりもお風呂入ったら?」 トルディは、自分の荷物の上に屈みこんで中身を整理しながら答えた。 「そうする」 身体は嫌な感じに強張っていて、たまに予期せぬ痛みが走る。その上、顔も洗わずに寝たせいなのだろう、初めて経験する不快感があった。 「あ、その前に、水でも飲んだ方がいいわよ」 頷いて、寝台の足下に置いてあった宿の部屋履きを履く。立ちあがった途端によろめいていしまった。視界の中に、ちらちらと閃く銀の点が散る。 「大丈夫? 立ち眩み?」 「恐らく」 トルディは、枕元の小机に置いてあった水差しからコップに水を注いで、エフェリリアに手渡した。 「はい」 「ありがとう」 温(ぬる)い水が、柔らかく喉を滑り落ちる。いつも水を飲む時に覚える微かな苦みを、今はそれほど感じなかった。 エフェリリアが風呂と遅い朝食を済ませ、三人とも洗濯物を部屋に干しおえた時には、昼前になっていた。三人は街に出た。 「ずっと宿の食堂じゃつまらないから、昼ご飯は外で食べましょ」 トルディが二人に声を掛ける。エフェリリアが異を唱えるはずもなく、ノアルもトルディほどこの街に慣れているわけではなかったので、二人は従順に頷いた。 今日もまた、青空は高く澄んでいる。夏の暑さは既になく、過ごしやすい季節だった。 テルスコアは、どこか上品な活気に満ちている。遊びまわる子供の声も穏やかな空気に溶けていくのは、時間帯のせいでもあるのだろう。食卓を囲む人々の気配が、開け放った窓から漏れてくる。 エフェリリアは少しぎこちなく、先導するトルディに続いた。足の痛みが、まだ残っている。 「リア、体調はどう?」 今日になってから、初めてまともにノアルに話しかけられた。足取りの硬さが目についたのだろうか。 「疲れは少し残っているが、問題ない」 本当は、今日はずっと街に留まっていられることに安堵していた。今の自分では、荷物を背負って二人の歩調に合わせるなど不可能だろう。だがここで足が痛いと不平を零しても、彼を困らせるだけだ。 「旅をしているときに、体調のことで嘘はよくないよ」 ノアルは昨日のトルディの言葉をくりかえした。声には諭す調子すらなく、まるで彼女が冗談でも言ったかのように、柔らかな笑みを含んでいる。 「……嘘ではない。明日には回復していると思う」 何とか返事を絞り出す。ならよかった、と、ノアルはにっこりした。 トルディは二人を連れて、石畳で舗装された大通りから逸れ、土が剥き出しになった脇道に入った。すぐに、もう一度角を曲がる。目指す店は、大通りの一筋隣にあるようだ。 彼女は、まるで客に見つけてほしくないかのように小さな看板を出した店に、すたすた入っていった。二人は、恐る恐るトルディに続く。 焦げ茶で統一された店内には常連と思しき客が数名いて、すっとこちらに目を遣った。トルディは気にせず、空いていたテーブルに腰を下ろす。二人もそれに倣った。テーブルの上には、メニューが一つだけ置いてあった。 「あたしは何頼むかもう決めてあるから、二人で見て」 トルディが二人にメニューを渡す。ノアルが受け取って、エフェリリアにも見えるように持った。品数は、片手で足りるかどうかといったところ。 三人がそれぞれ昼食を注文しおえたところで、トルディは鞄から地図を取り出して、テーブルの上に広げた。 描かれているのは、少し潰れた歪な楕円形だ。その北側中央に、巨大な湖〈白の湖(うみ)〉があり、そこから南に向かって、大きく東西に蛇行しながら唯一の大河〈王の河〉が流れている。 〈白の湖〉から〈王の河〉が流れ出る部分の東側に、都がある。〈王の河〉の、幾つもの曲がり部分の外側には全て小さな三日月湖があり、その湖畔に街がある。〈王の河〉は〈世界の果ての滝〉という滝で楕円の輪郭とぶつかり、その滝の東にも街が一つ。 都を含めて、城郭都市は全部で十八。楕円の中にはそれら以外に何も書かれておらず、その内側の残りの部分は全てが森に覆われている。楕円の外には、何も存在しないかのよう。 エフェリリアも見慣れている、この世界の地図だった。 トルディが、〈世界の果ての滝〉とその傍の街チェノを指した。 「ここが、旅の目的地。それで、あたしたちが今いるテルスコアはここね」 すっと指を動かし、都から一つ目の街を示した。接している湖の名前は〈橙の湖(うみ)〉だ。湖は、テルスコアの橙に始まり、河に沿って虹のように色の名前を連ねている。都がある〈白の湖〉と、滝の手前で最後の湖である〈墨の湖(うみ)〉だけが例外だ。 「こうやって、河の東側を最短距離で南に向かうの」 河の、東にある曲がり部分の街を繋ぐようにして、トルディは指を南に動かした。テルスコアからチェノまで、全部で九つの街を通るようだ。 「街と街の間の距離が一日では消化しきれない部分があるけれど、そのときは野宿よ。今回通る街の中で、一番周囲と距離があるのはアログシアね。両隣と二日分離れてる。でも、野宿が三日以上続くことはないわ。片道で一月足らずってところかな」 「こんなに長い旅は初めてです。僕が行ったことあるのって、メニエまででしたよね」 ノアルが少し緊張の窺える語調で話しながら、この旅では四つ目にあたる街を指した。 「そうか、そうね。あの時は何しに行ったんだっけ」 「お仕事だったと思いますよ。たしか途中で……」 エフェリリアも、今初めてこの旅の全貌を知った。片道に一月掛かるということは、都に帰る頃には秋も終わりかけているだろう。 なぜトルディは、これを今ここで言うのだろう。本来これは、出発前に把握しておくべきではないだろうか。 だが浮かんだ疑問を、尋ねる気にはなれなかった。トルディとノアルは、しばらく旅の思い出話に花を咲かせていた。 →次章 顔なし少女のユートピア (2)←
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/431.html
目次 1.ユートピア建設の原点としての教育 2.ユートピアをつくりだす三つのグループ ①.若年層のユートピア ②.中堅層のユートピア ③.壮年層のユートピア 1.ユートピア建設の原点としての教育 〇〇〇〇〇という団体も発展の速度があがってまいりまして、次第しだいに拡大路線に切り替わりつつありますが、ともすれば原点を忘れがちなのが私たちであります。 原点とは何であるかといいますと、一人ひとりの学びを大切にするということであったと思うのです。この一人ひとりの学びを大切にするという原点は、私たち、すなわち私たちというのは、「〇〇〇〇〇」を運営する側としては、みなさんにそれだけ学びの機会を提供してゆかなければいけないということだと思います。 それは言葉を変えていうならば、口はばったい言い方かもしれませんが、それだけの教育の場をつくらなければならないということになると思います。それでは、どのようなところにその教育というものはありえるのだろうか。教育とは、教えて育てるというように文字で書き表わしますが、その意味はいったい何であるか考えてみましょう。各人一人ひとりの特性というものはすいぶん違っています。その違った特性のみなさんに、まったく同じような接し方をしてもおそらく各人の求めているものを与えることはできないと思うのです。そうではなくて、教育の原点には、一人ひとりの持っている最良のものを引き出すという考え方があると思います。これが、教え育てるということの真の意味であろうと思います。 そして、教え育てた結果はどのようになっていくのかといいますと、そうした教育を受けた方が、次には指導者になっていくということが大切だと思います。指導者になってどうするのか。それは、自分たちが受けたと同じ教育を、他の人びとにその機会を提供し、その学びを与えるというプロセスになってくるわけです。こうしてみると、教育というものは無限に拡大していくという過程があるのだということに気がつかれると思います。けっして手を抜かず、質を落とさずに、それを続けていくためには、絶えず指導者というものを養成していくプロセスがだいじなのです。 まず、本章はこのように教育という話から入ってまいりましたが、これはユートピアとユートピア価値、これにきわめて密接な関係があるのです。その密接な関係とはいったい何であるか、それがみなさんにはおわかりでしょうか。ユートピアという考え方はいくつかの角度から考えていくことが可能です。それを、空間的に考えることもできるでしょう。すなわち、理想郷・エデンというような空間的な広がりがあって、そのなかに人びとの楽しい集いがある。このような考え方も可能でしょう。 また、これとは違った考え方として、もっと人間を中心に見ていく考え方もありましょう。さらに、この人間を中心に見ていく考え方にも、二通りあります。一つには人間の対象を分析することなく、すべて善き人、あるいは幸福をつくり出すことをもって仕事としている人たちの集まり、こういう意味でのユートピアという考えがあるでしょう。それが一般的な考えであるというように私は思います。 2.ユートピアをつくりだす三つのグループ 私はこの「人」という問題、対象としての人という問題をもう少し分けて考えてみたいと思うのです。それは、より一般性のある分類をするならば、年齢で分けてもよいかもしれません。人生を三段階に分けることができると思います。すなわち、人の集まりと呼ばれているものを、若者の集まりと、それと中堅の人びとの集まりと、また壮年・高年層の集まりというように考えることも可能であろうと思うのです。 そうしますと、この三つのグループというものを考えながら、ユートピアというものをどのようにとらえていくか、それが問題となります。 ①若年層のユートピア このように考えますと、若年層、おもに二十歳から二十五歳ぐらいまで、もちろん幼少年期、小学生、中学生、このあたりの年代も入れて、二十歳から二十五歳ぐらいまでの範囲に入る方がた、彼らにとってのユートピアとはいったい何であろうか。それを考えたときに、最初に述べたように、どうしても教育という側面、これを抜きにしてはどうしても語れないと思うわけです。教育としての側面というものを抜きにして語れないとすると、その中身が問題とならざるをえないのです。彼らの日常生活は現在、学校というものを中心に回転しています。そうしますと、この学校を基点とする学習活動に光を当てていかざるをえないと思うわけです。 では、そこで要求されているものはいったい何であるか。それは学習の対象ではないのか。彼らに何を求めよと教えるべきであるか。それがだいじではないのか。そう思われるのです。 こうしてみますと、ユートピアの建設というものは、単に空間の問題ではなく、人というものを、その集まりを対象とすると考えるならば、この若年層に対しては、この教育の問題、特に学校のあり方、学習内容のあり方、あるいは学校を離れたところでの学習のあり方、この部分を外すわけにはいきません。なぜならば、私は今の学校制度のなかにおいては、人間にとっていちばん大切なものが教えられていない、と感じるからです。 人間にとっていちばん大切なもの、それは何でしょうか。人間にとっていちばん大切なもの、大切な学びとは何か。この人間にとっていちばん大切な学びは、まだ樹が若いうちに、まだ鉄が熱いうちに、教えてゆかなければなかなかわからないのです。もう固まってしまって年輪を重ねた樹になっては、あるいは固まってしまった鉄となっては、時機を逸したといえるのです。 まだ、どのように伸びていくか、どのようなかたちとなっていくか、それがわからない段階において、彼らに見えないその道を、道なき道の歩み方を、教えてあげる必要があるのです。そのためにはどういう内容を教えればいいのでしょうか。みなさんが父親なら、あるいは母親なら、何を彼らに教えようとされますか。人間として、これから世に出ていく前に、どうしてもこれだけは学んでおかなければならないということを、いったい何に求めるでしょうか。 愛なき人生は不毛である 私は、基本の柱は数多くあると思いますが、まず三点に求めたいと思います。 第一点は、「愛なき人生は不毛である」ということを徹底的に教えておくということです。この「愛なき人生は不毛である」という考え方、この特に愛という考え方は、残念ながら、後天的に気がつかないとわからない部分があるのです。小さな子供、赤ん坊であるならば、もちろん自分の必要に応じたものを他の人からもらおうとするでしょう。そして、満足が得られたときに喜びを表わすことはあるでしょう。しかしながら、積極的に他に愛を施すということが、いかなる意味をもっているかということは、やはり彼らはだれかに教えてもらう必要があるのです。 それは、本来の世界においては、当然知っていたことであり、魂が魂である以上、そしてその魂が人間の魂である以上、愛とは他の人への限りなき関心であり、他の人を限りなくよくしていこうとする思いであるということは知っていたわけなのですが、地上に生まれ落ち、そして子供として生きていくうちに忘れてしまっている考えであるのです。この忘れてしまった考えを、もう一度教えてあげる、気づかせてあげる必要があるのです。本来的に、そのような素質はあります。才能はあります。それゆえに、この導きを与えてあげれば、彼らは本来の世界に気がつき、やがてスクスクと伸びていくことになるわけです。まず、「愛なき人生は不毛である」ということ、これを教えなければなりません。 人間は永遠の生命を生きている 二番目に教えなければならないことは、何であるかと申しますと、それは、やはり「人間は永遠の生命を生きている」ということです。これはどうしても教えなければならないと思うのです。 このことに関して、話をするならば、私自身は幼少時から、神の存在、あるいは人間が霊的存在であること、転生輪廻する存在であるということを確信していました。そして、小学生のころに友達どうしでそうしたことを話したこともあります。それを聞きつけた隣のクラスの担任の女の先生が、昼休みに私を呼び出しました。小学校五年のことだったと思います。そうして、私に詰問するわけです。「あなたはおかしなことを言っているらしい。人間は死んでも命があるとか、また生まれ変わるとか……。そんなことを言っているらしいが、その証明はできるのか。」ということをその女の先生は私におっしゃいました。私は先生というものは、偉大な存在であるから、まさかこのような詰問のしかたをされるとは思いませんでした。 それは、やがて来るべき時代への、その時代とは私自身に向かってくる時代でありますが、それへの予感を感じさせる一つの出来事であったと思います。私は、三十分以上にわたって、なぜ人間は霊的存在であるのか、なぜ生まれ変わるのか、ということについて、その先生に話をいたしました。しかし、納得を得ることはできませんでした。その理由は、結局において、「私は霊というものを見たことがない。」という一点に集約されていたように思います。 それに関して私は、「たしかにあなたは見たことがないかもしれないし、またそれを見たいとされるあなたに、現在ただいま、そうした世界をお見せすることもできないかもしれません。しかし、霊的体験を積んでいる方は、世の中には数多くいらっしゃいます。そうした方を、すべて私は嘘をいう人たちだとは思いません。また、クラスの友達のなかにも、霊的な体験をした方はいます。彼らが全員、嘘をついているとは私は思いません。」このようなことをお答えいたしましたが、そうしますと今度は、嫌疑が私以外の人にかかっていくことに結局はなるわけです。"いったいどの子がそういうことをいっているのか言いなさい。" こういうことで、次にそちらに詰問がいくということが予想されましたので、私はロをつぐんだことを覚えています。その女の先生は、先生が聖職であるということを捨てるために活動しているような団体に所属している名うての女性活動家であったわけなのですが、そのときにやはり大きな疑問を私自身は感じました。 悲劇の歴史 そして、そのまちがいがいったいどこから始まっているのか、それは成長するまでわかりませんでしたが、やがていろいろな角度からだんだんわかってまいりました。 もちろん、流れとしては、二通りあったと思います。一つは、科学主義というような考え方が人の心をとらえて、それもひじょうに上面(うわっつら)といいますか、皮相な科学的真理であると思いますが、そうしたものが人の心をとらえていたということです。そして、実験科学によって、得られた真理以外は真理ではないというような考え方をすることをもって、知性人、知識人というように考える向きがあったということ、これが一般的な心の現象としていえるでしょう。 もう一つは、これは子供の心にはとうていわからないことでありましたが、それは日本という国特有の過去の歴史的事実として、大きな問題が私たちの前に投げかけられていたということであります。 なにゆえに、学校教育において神や霊などという、こうしたものを教えてはならなかったのか、その理由を子供心ではわからなかったわけですが、その原点が、四十年あまり前の日本の敗戦にあったということが、やがて明らかになってきたわけです。なぜ、その敗戦をもって、このようなものが否定されるにいたったのか、それは、二通りの意志がそこに働いていたと感じられるわけです。 一つは国民の、戦争はもういやだというアレルギー、このアレルギーの原因としての軍隊、軍事と、あるいは報国思想、天皇思想、こうした日本神道系の思想に対するものがあったと思います。 それが、一つの理由ですが、もう一つは、占領政策をとっていた諸外国の考えとして、いま私は霊的な感覚でそれをとらえることができますが、私たちが無前提で受け入れたもののなかに、彼らがどのような気持ちでそうしたものをつくっていたか、その姿が私にはわかるのです。それは、彼らがどうすれば、日本を弱体化できるか、骨抜きにできるかということを徹底的に考えていたという事実であったということです。日本が強かった理由、あるいは諸外国に対して脅威であったという理由はこの精神性のところにあるということを、占領軍たちはわかっていたのです。この精神性というのを骨抜きにしないかぎり、日本国民というのは、いつまでたっても脅威として、我々に挑みつづけるであろう、そういうことを彼らは真剣に話し合っていました。 それゆえに、日本という国の統治において、この部分をどう取り去るかということに腐心したのです。その結果が、一つは国の行事、国家的行事として、宗教活動をしてはならないという憲法になり、あるいはあらゆる宗教施設等の使用、これも公共施設は特定の宗教のために使わせてはいけないという考えになりました。そして、これは本来、宗教の自由を保障するためにある考え方、つまり、持定の宗教を支持することが他の宗教への圧迫原囚になるから、国家はどこにも干渉しないので自由にやりなさい、という考えとも読めたわけです。しかし、現実として見たならば、どのような時代がその後、現われたかといいますと、けっきょく国家が支持しないということは、それは悪しきものであるという考え方が生じてきたのです。 すなわち、それは国が認知しないものであるから、どうか隠れてこそこそとやっていただきたい種類のものである、ということになったわけです。その考え方は、一般的な企業の世界にも広がっていったと思います。日本の国では国家のすることは「右へならえ」でみなしたがいますから、大企業においてもそれは「右へならえ」です。宗教活動等をやるような社員に対する徹底的なマークというのがもちろんありますし、新聞社等でも、特定の宗教の宣伝になることはしないという暗黙のルールができあがっています。 それは、新聞の書評を読めばよくわかります。宗教活動を促進するような書評はまったく出ません。暗黙のうちにそのようなことになっているのです。それは結局において、本来日本人のいちばん強かったものを抜き去られた、骨抜きにされた、という結果が残っているのだと思います。 こうしてみますと、この二つの流れ、私たちの心のなかに流れ込んできた実験科学による結果のみが真理であるというような考え方と、たまたま四十数年前に敗戦ということを経験したがために、受け入れなければならなくなった精神的打撃の部分、この両者が、国家単位の日本というものを一人の人間として見立てたときに、心身症の人間にしてしまったという面があると思います。 もっと、自分自身のほんとうの価値というものに、目覚めなければなりません。それが現代の日本の国に対して総合的にいえることであり、日本の国をつくっている構成員である日本人に対していわなければならないことであると思うのです。 人間として生まれて精神性なく生きているということは、これは恥なのです。その恥であることが恥であるとわからないということは悲しい事実です。少なくとも、その悲しい事実を、悲しい事実として認識できるだけの力が我々には必要です。いや、日本国民には必要であると私は思います。 こうした二種類の流れが結局において、さきほど述べましたように、まず子供に教えなければならないところの、「人間の生命は永遠である」ということを、「人間には転生輪廻がある」ということを、まるで笑い話のようにさせてしまう原因になっていると思います。 たしかに、人生においてさまざまな挫折体験を経て、心身症になることもあるでしょう。ただ、いつまでもそのままであってはいけない。そこから、立ち直ってほがらかに勇気を持って、また自分自身のほんとうの実力を知り、力を発揮していかなければいけない。そう私は思います。 学問の起源とは何であったか ほんとうのことを、ほんとうにそうだといって何がいけないのか。人間の生命は永遠である、ということを教えてはいけないことになっているからというが、その考えはほんとうに真実であるのか。これを問い直していかなければいけないし、こうしたことが問われない風潮、問い直すことを許さないのが学問であるならば、そのようなものは学問とはいえないのです。学問とは未知なるものの探究であり、その探究を最初から制限するのであれば、学問とはいえないし、学問から発生した教育とはいえないと私は思うのです。 もちろん、人類の歴史は、はるかなる昔にさかのぼりますから、学問の起源をどうとらえるかは難しいのですが、現代人がとらえている学問の起源を、もしギリシャのソクラテスに置くとするならば、現代の学問のあり方はきわめてまちがっているということになるでしょう。 かつてのギリシャのソクラテスは、その当時の人びとや弁論家、雄弁家たちに次つぎと質問をして、そうした知識人であるとか、名うての人びとが、無知であるところを証明し論破していったのです。いったい何に対して無知であるのかということを彼が論破していったのか、それがみなさんおわかりでしょうか。今、私が語っているようなことをやっていたのです。 当時の雄弁家、詭弁家(きべんか)とも呼びますけれども、こうした人たちがやっていたのは、どのように弁論の術を磨けば訴訟に勝てるとかいうようなことばかりを教えていたのです。訴訟に勝つ弁論術あるいはレトリック、修辞ですが、どのような言葉のあや、これを身につけて話をするか、そうした技術論ばかりを対象としていたのです。 肝心のその中身はどうなのかということをなおざりにしている、そのような方法論ばかり教えているが、心はどこへ行った、これをソクラテスは問うたのです。そして、神を知っているのか、魂を知っているのか、人間の生命とは何であるかを知っているのか。そういうことを知らない人間に、人を教える資格があると思うのか。そうしたことを彼はギリシャの街を歩いて知識人という評判が立った人に対しては、かならず膝詰で話して歩いたのです。その結果、相手は返す言葉がなくなっていって、ソクラテスは多くの人の恨みを買うことになっていきます。結果は、ご存じのとおりです。 みなさんは、ギリシャ哲学というものを難しいものだと思っておられるかもしれません。いや、大学でそれを専攻している先生でさえ、ギリシャ哲学というのは、あの難解なギリシャ語を読んで、そしてああでもない、こうでもないと考え込むことだと思っているかもしれません。 しかし、もし今ソクラテスがここにいれば何をするかというと、みなさん方一人ひとりのその人生観、信条を聞いて、そしてどこが違っているかということを対話をしながらつきつめていくのです。そうして科学者であるとか、医者であるとか、教育者であるとか、あるいは政治家であるとか、このような一端のことを説く人をつかまえて、あなたは教育者気取りで生きているが、ほんとうにわかっているのか、ということを問い質(ただ)して歩いてゆくのです。それだけのことです。それほど難しいことはやっていないのです。 それが、言葉があのような古典であるから、難しく感じるだけであって、現代の日本語でいえばそれだけのことです。それ以上のことは言っていないのです。ただ、それらのことが当時のギリシャのトップレベルにある人たちにはわかっていなかったということなのです。このような事実があります。 現在においても、こうした教育における不毛があるわけです。そして、その真っ向から対決せねばならない場として、永遠の生命というものを認めるかどうかという議論があります。これをまず教えて欲しいと思います。 他の人びとに奉仕する そして、子供たちにぜひとも教えなければならない三番目のこと、それは「私たちが何のために今世に生命を受けているのか」ということなのです。いったい何のために生まれてきたのか。これは、第二番目に話をしました、「人間は永遠の生命を生きている」ということを教えることに関係しています。この前提が崩れれば、三番目は成り立たないのです。 私たちが一時期わずか数十年の人生をこの地上で送るだけとする、そうした前提であるならば、成り立たない議論です。ほんとうに数十年かぎりで、前もなく、後もない生命であるならば、またもし、そうしたことを本気で信じられるならば、この世界というものは、万人の万人に対する闘争の世界になってもおかしくないと思います。かつてそういうことをいった思想家もおりましたが、それがごく自然に見えたことでありましょう。わずか数十年の年月で人間の生命が終わってしまうならば、その間で自分はできるだけ自分に返ってくるところの喜びを享受したいと願うのは、ごく自然なことです。 しかし、その結果は、どのような行動になるのか。そうしますと人は労を厭(いと)って結果のみを求める方向に走らざるをえないのです。とどのつまり、働いてお金を稼ぐということは、きわめてまわりくどい方法になるわけです。お金は持っている人からもらえばいいのです。そういうことになります。持っている人からもらえばいい。自分が一万円稼ごうとする必要はない。一万円もっている人を見つけて、その財布をとりあげればいいと考える人が出てくるわけです。 このように、有限の人間というものは、どうしてもエゴイスト、エゴイズムを追求する方向にいかざるを得ないのです。こうしてみますと、三番目の考え方として、何がだいじかといいますと、このエゴイズムに対する考え方、その逆の考え方なのです。これは、ごく当然のそうした有限の発想からはけっして出てこないのです。それは何かと申しますと、地上において、直接は自分の便益にならないもののために、力を尽くすという考えなのです。直接は自分のためにならない、自分のものにならないもののために働くことができるということ、そして何らかの物を遺していくということは、これはきわめて大切な考えであるのだけれども、自然の状態ではそう簡単には出てこないことなのです。 すなわち、子供たちに対して教えなければならない三番目のこととは、それは世の中の進歩につながる仕事をせよということになるであろうと思います。一生を通しての仕事というものは、各人が持つことになるでしょう。その仕事のなかに、真心をこめて世の人びとのためになる生き方をせよ、ということが教えられると思います。自分への見返りの多いものを求める、そのようなエゴイズムに走った仕事であるならば、魂は込もらないでありましょう。そして、自分に必要なものだけを得ることができればそれでよいと思うでしょう。 しかし、世の中の進歩につながる仕事に魂を込めるということがどれほど大きな意味を持っているか。それは肉体人間でありながら、肉体人間を超えたところの永遠の人間になるための条件であるということに気づいてもらうための活動なのです。永遠の人間となり、永遠の世界に入り、永遠の生命を全(まっと)うしていくためには、どうしても他の人びとへの奉仕という観点が出てこなければならないのです。 一番目に「愛なき人生は不毛である」といいました。私はこれを心の側面から述べたつもりです。この三番目の話は心の側面だけではありません。具体的な行動において、仕事において、活動において、その成果を発揮せよ。他の人びとに奉仕をするような、そうした生涯にならなければならないということをいっているのです。 こうした三つの基軸を教育に持ち込んで欲しいと思います。私の今世の願いの一つとしては、やはり学校教育まで改めたいという気持ちが強くあります。そこまでやらなければ、今回活動している意味がない、今回の仕事の意味がないと思っています。 文部省には申し訳ありませんが、代わらせていただきたいというのが本心です。あのような教育をやるためにあるのなら、もうほどほどにしていただきたい。そういうことです。代わらせていただくか、それができないならば、文部省のコンペティターとなって競争させていただきたい。 どちらがほんとうに子供たちの学習と成長に役立つか、これを文部省の競合者として、競わせていただきたい。どちらかです。どちらかをやらせていただきたいと思っています。ここまでやらなければ、ユートピアは絶対にできないのです。この根本のところを押さえないかぎり、できないのです。 これが若年層に対する一般的な考えです。 ②中堅層のユートピア この次の中堅層、二十代半ばから三十代、四十代、場合によっては五十代も入るでしょうが、この三十代、四十代の中堅層にいわねばならないこと、それは、まずあなた方はいま実践の中心にあるということなのです。あなた方が日々やっていることが目に見える形となって、あなた方のまわりに現われ、そして、日本中で実現しているのだということを知っていただきたいのです。 若年層への教えはすぐには実を結びません。それはまだ投資の段階に終わっていると思います。しかし、この中堅層になって、自分が思ったこと、行動したことが、現実としてかならず現われてくるのです。 それは、いろいろな立場についている方がいらっしゃるでしょうが、現実に考えてみられればよいのです。小学生や中学生、高校生、大学生のときに、自分が思ったことが実現したかどうか。まだ教育という名の檻(おり)のなかに入っていて、そして餌を与えられて、成長していた段階ではなかったのか。まだ、その檻の外には出ていなかったでしょう。まだ、その籠(かご)の外には出ていなかっただろうと思えるわけです。今、その中堅層となって、檻の外へ出た。実社会のなかに出て、野原のなかに出てきたわけです。そして、自分が思ったこと、行なったことはかならずその足跡(そくせき)が大地にしるされているのです。現在の日本をつくり、世界を動かしているのはこの層であります。 さすれば、自分の思いと行ないというものが、どのような結果を招くか、招来するかということに対して、もっと責任を持つべきであると私はいいたいのです。社会がよかろうが、悪かろうがそれをつくり出しているのはあなた方である、ということをいいたいのです。あなた方の思いと、思いにつながるその行動によって、現在の結果が出ているのであるということです。その結果に対して、責任をとるべきであるのです。 そして、責任がとれないならば、その原因・結果のプロセスの原点をもう一度、よくよく考えるべきであるのです。どこかにまちがいがあったのではないか、思いにまちがいがあったか、その思いを実現するプロセスにおいてまちがいがあったか。どちらかではなかったのか。そして、結果に対して、どう責任をとるつもりかということを真剣に考える責任があるのです。 たとえば、私がいっていることを具体的に言うならば、日本の政治が悪いというが、そうさせているのはいったいだれかということです。政治家か、そうではないはずです。その政治家を出しているのはいったいだれであるのか。だれが選んでいるのか、だれがそうした人たちに政治をさせているのか。政治家がお金を使うというが、そのお金はだれに対して使われているのか。そうしたことを考えてみなさいといっているわけなのです。 社会が悪いというが、その悪い社会をつくっているのはいったいだれなのか。教育が悪いというが、悪い教育をつくっているのはいったいだれなのか。そういうことをよくよく考えることが大切であるということです。 現に、中堅の年代においては、行動すればそれなりの結果が出るのです。そのような立場にあるのです。さすれば、行動によって引き起こされた結果に対する責任と、行動を起こさなかったことに対する不作為責任の両方がこの中堅層には問われるのです。 非行少年が多いなどといいますが、本来そのような非行少年などはおりません。出来の悪い母親と、父親がいるだけのことです。そういうことなのです。あるいは出来の悪い先生かいるだけのことなのです。それだけのことです。 そして、その社会の歪(ゆが)みをつくっているのは、ほかならぬ自分たちだということです。これに対して、作為の責任と不作為の責任の両方をとらなければならないのです。もっと使命の自覚をせねばならない。具体的ユートピア建設の段階において、それを実現していくのはこの中堅層であるということをもっともっと知らなければなりません。 そうしますと、この二十代の後半から三十代、四十代、五十代の前半ぐらいまでの間の人に求められているものは、何であるか。それは、「自己の生き方を客観視する」という習慣をもっとつけなさいということです。これは、八正道的な考えでもあるでしょう。みずからの思いと行ないを第三者の目で、いや神の目で見よ。そして、各人がその思いと行ないを神の目で見て正していくときに、世の中はよくなっていかざるをえないという考えです。自己規律をせよ。自分で自分を律してゆくのです。この段階においては、自分で自分を律しなければ、みなさんの自由という、その行動はだれもブレーキをかけることはできません、そういっているのです。そういう立場にあるのです。善いも悪いも実現するだけの立場にあるのです。 前述の「新時代の展望」という第1章でもお話しいたしましたが、私は、これからの未来社会を創っていく鍵は自由の解釈にあるというふうに語りました。そして、その自由には、選択の自由と創造の自由という二つの自由がだいじな眼目としてあるという話をいたしました。さらに選択の自由のなかでは、心のなかにおいて選び取っていく作業が大切だという話もいたしました。 悪い方向への思いというものを取り去り、行動を取り去り、よい方向へ、よい果実を産む方向へと選択を重ねていきなさいということをいいました。もう一つは創造の自由という話のなかで、人間が神に似せられて創られたその最大の理由は、この創造の自由にあるのだ、神と同じく思ったものを創り出していく力があるということ、これが人間の人間たるところの最大の特徴であるのだ、という話を私はいたしました。 まさしく、この中堅層の人たちは、選択の自由と創造の自由という、この二つの自由を現在、ただいまにおいて駆使できる立場にあるのです。過去二十数年の間、少年時代、青年時代に学んできたことは、何であったか。それはここの年代に入って、自己発揮するときのための肥やしであったのではないのか。そのための投資であったのではないのか。 何のための勉強であったのか。何のための学校生活であったのだろうか。これをふり返らなければならない、思い出さねばならない。まさしく、実はこの二つの自由を、そして真実の方向に向かった二つの自由の実現のために、そうした先行投資があったのです。それを知らなければならないのです。 それゆえに真実の教育とは、学校教育とは、あるいは家庭教育とは、まず選択の自由において、善なるものを、美なるものを、真実なるものを選び取っていくための基準を教えるということが大切であるわけです。そのためにこそ、ほんとうは学問というものがあるのです。真実のものを選び取っていくことを教えるために、これをまさしく、この年代の方にやっていただきたいのです。 また、創造の自由です。社会をどう創り変えていくかは、この年代にかかっているのです。現実にみなさんが、鑿(のみ)をふるい、鎚(つち)をふるわなければ、何も進まないのです。釘を打たねば、鋸(のこぎり)をひかねば、何も変わらないのです。今、自分たちがやっているのだという気持ちをもっていただきたいのです。これは、大きな責任です。 人間がどれだけの器であるか、いかなる人間であるか、いかなる器量の持ち主であるかは、その人がどれだけ責任をとれるかにかかっているのです。みなさんが、どれだけの人物であるかは、どれだけ責任をとれるかにかかっているのです。自分がどのような人物であるかがわからないならば、自問自答してください。自分はどの範囲まで責任がとれるか、自分の責任のとれる範囲はどこまでか。それを考えてみてください。この問いに答えていただきたいのです。 さすれば、みなさんがどのような人物であるか、明らかです。その責任をとれる範囲以上ではないのです。以下でもありません。責任をとれる範囲がみなさんの人物を表わしているのです。今、虚心坦懐(きょしんたんかい)に自分自身の行動に対し、思いに対し、とれる責任の範囲はどこまでか考えてください。それがみなさん自身の実力なのです。 そして、この責任範囲を超えて、まちがった行動をし、まちがった思いを出した人にそれだけの反作用がくるというルールがあるわけなのです。自分を客観的に見ることができなかった人たちの姿です。
https://w.atwiki.jp/eternity_sword/pages/22.html
【ん】ンギ【聖】 ントゥシトラ【ア】 【ん】 ンギ【聖】 「精霊の世界」にいる精霊たちの長老。一つ目の老人。 ルプトナの保護者的な役割をしている。 10年前に「光をもたらすもの」に破壊神ジルオルに対抗するためと騙され、 精霊回廊を貸し与えてしまったことで「精霊の世界」にミニオンが出現する原因を作ってしまった。 出典作品:聖なるかな ントゥシトラ【ア】 業火のントゥシトラ ロウ・エターナルの一員。非人間型のエターナル。外見は巨大な目玉。 かつては硫酸の雨と硫黄、吹き上がるプラズマが支配する世界の王であった。 複数の意識の集合体で、個にして全である存在。 とても高い知性を持つ。上位神剣『炎帝』と融合し、炎を自在に操る。※ 剣の意思を自分の意思だと勘違いしている。 ファンタズマゴリアにてテムオリン達とともに、エターナルとなったユート達と戦い敗北した。 全体攻撃で行動回数も多いアタックスキルと受けたダメージとほぼ同等のダメージを敵アタッカーに返すディフェンススキルを使うなかなかの強敵。 何も考えずに突っ込んであっさりアタッカーを殺られた人は数知れず。 愛称はントゥたん。 聖なるかな外伝・精霊天翔 ~Crystal Friends~ではとあるクエストのボスとして登場。 道中は小さいのがワラワラ出てくる。赤属性 ※『炎帝』はゲーム中の表示では内蔵型、資料集では王冠型となっている。 キャスト: 属性: 永遠神剣:第三位『炎帝(えんてい)』 出典作品:永遠のアセリア / 聖なるかな外伝・精霊天翔 ~Crystal Friends~
https://w.atwiki.jp/galgerowa/pages/203.html
エスペリア 【出典】永遠のアセリア-この大地の果てで- 【声優】カンザキカナリ 【性別】女 【人称】 一人称: 二人称: 三人称: 【関連人物への呼称】 高嶺悠人→ユート様 アセリア→アセリア 【能力】 【キャラ紹介】 ラオキスに属するスピリット。 前スピリット隊の唯一の生き残りで経験豊富であることからスピリット長を務め、悠人がスピリット隊隊長となった際にはその補佐役を任されている。 召還直後の事件で身動きが取れなくなった悠人を献身的に世話し聖ヨト語習得のための教育係にもなる。 スピリットの館では炊事、洗濯、掃除と家事全般をこなす(本人曰く料理には多少自身はあるがそれ以外は他にやる者がいないからとの事)。 その他、館の敷地に薬草園を造っていて、その収穫でさまざまなブレンドのハーブティーを煎れてくれる。 一見しっかり物のように見えて時々ドジもする。また、戦闘時には防御と治癒を得意とする。 前スピリット隊壊滅時の出来事がトラウマとなりスピリットとしての立場を意識した言動が目立つ。 唯一の私物である手帳は、彼女の初恋の相手の形見であり、さまざまな知識が書き込まれている。 余談だが、他のスピリットが家事をする際は基本的に黒い仕事着(メイド服)に着替えるのに対して彼女だけは戦闘時と同じ服装である (なお、普段家事をしないアセリアは初めての料理を鎧姿で行った)。 【ロワ本編での動向】 永遠神剣『献身』の使い手である彼女が殺し合いに乗るはずもなく対主催となる。 が、なかなか書き手がつかず登場は大石蔵人と並んで最後だった。 そのためだろうか、最高マーダー国崎往人の華々しい戦果を飾る一輪の花と消えた。
https://w.atwiki.jp/yu-gi-oh-2chdic/pages/1166.html
クリアウィング・シンクロ・ドラゴン(くりあういんぐ・しんくろ・どらごん) ユーゴが愛用するシンクロモンスター。 白い体に硬いガラス細工のような翼を持つ。 遠目で見ると遊星のスターダスト・ドラゴンに似ている。 白い体に緑色を放つ翼の発光もあいまって大変ふつくしい。 アニメでは中央公園でのユートとの一戦で初登場。 ダーク・リベリオン・エクシーズ・ドラゴンと対峙した時は コントローラーであるユーゴの意識を乗っ取っていた。 ダベリオンと同じ飛べるドラゴンである。 攻撃名は「旋風のヘルダイブ・スラッシャー」。 また、レベル5以上のモンスターを対象とした破壊効果を無効化し破壊するカウンター効果を持つ。 効果名は「ダイクロイック・ミラー」。 ユーゴの次元転移はこのカードの意志によって行われていることがわかっている。 ある程度ユーゴのおかれた状況から空気を読んでやっているようなのだが (ユーリがリンをさらったあと彼が飛んだエクシーズ次元へユーゴを飛ばした) いかんせんユーゴの意志でコントロール出来ないためどうしようもない。 突然スタンダードの中央公園に降り立って街灯を壊したり 舞網チャンピオンシップ会場に降り立ったりしたのもこのカードの意志であろう。 OCGでのテキスト チューナー+チューナー以外のモンスター1体以上 (1) 1ターンに1度、このカード以外のフィールドのレベル5以上のモンスターの効果が発動した時に発動できる。その発動を無効にし破壊する。 (2) 1ターンに1度、フィールドのレベル5以上のモンスター1体のみを対象とするモンスターの効果が発動した時に発動できる。その発動を無効にし破壊する。 (3) このカードの効果でモンスターを破壊した場合、このカードの攻撃力はターン終了時まで、このカードの効果で破壊したモンスターの元々の攻撃力分アップする。
https://w.atwiki.jp/magicman/pages/20099.html
究極のD フレンズ・ユートピア R 光/水文明 (6) ■自分の光のコスト9のクリーチャーをバトルゾーンに出した時、自分の山札の上から2枚を見る。そのうちの1枚をシールドゾーンに、もう1枚を手札に加える。 ■Dスイッチ:自分のターンのはじめ、このD2フィールドをゲーム中で一度上下逆さまにしてもよい。そうしたら、このターン自分の光のコスト9のクリーチャーの召喚コストは自分のシールドの数だけ少なくしてもよい。ただし、コストは1より少なくならない。 作者:V=ε 評価 名前 コメント