約 1,357,677 件
https://w.atwiki.jp/jpcl/pages/241.html
日本市場を狙う中国ソフトパワー戦略~「日中合作」に意欲的 <中国人が見た日本>車から見る日本人の倹約精神、高級志向から実用志向へ <中国人が見た日本>日本に留学して良かった!日本人から学んだ尊い精神 日本でアニメ・マンガを学びたい若者が急増中、留学生優遇策も後押し―中国紙 <在日中国人のブログ>「東京の月」は上海より明るい!大気汚染対策に学ぶ 大ヒット中国映画の効果絶大、北海道への中国人観光客が大幅増―日本 かつての「ダイオキシン大国」から、「ゴミゼロ社会」目指す日本に注目―中国誌 「アニメの技術、学びたい」 四川大地震の中国人被災者が日本留学 中国人観光客にも大評判、絶品日本の味・新杵の焼大福 感動の反対語は中国では「怒り」!外国企業が成功する方法とは―韓国メディア 南京「大虐殺記念館」に日本の漫画を インタビュー~作家・石川好氏(上) 中国では危険な企画、だが日本の漫画の力を信じた インタビュー~作家・石川好氏(下) 清潔な日本が好き クイズ大会優勝の中国大学生が感想文 香港でも「新劇場版:破」公開、熱烈ファンに聞いた現地の「ヱヴァ」事情。 マカオで“大人”の展示会、日系が海外攻勢 中国人「味が薄い」けど「日本食が好き」7割超 北京より上海で高い傾向 <在日中国人のブログ>日本の学生はなぜカンニングをしないのか? <在日中国人のブログ>日本人はなぜ、拾ったものを猫ばばしないのか? <上海万博>日本パビリオン「かいこじま」が全体像現す―上海市 日中関係:中国が旧敵に歩み寄る理由 キティちゃんグッズでエミュレータってどうなのかと 中国ネットショッピングで中国工場直送の日本製品を買うか否か 中国の書店で漫画関係本が急増 "zakka"という和製英語が中国で認知されてきている 香港でも「ガンダム」は大人気、「EXPO」効果でガンプラ売上げ伸びる。 “ガラパゴス”から脱却? 海外で脚光を浴び始めた日本製ケータイ 日本人に対する印象と反省 出前一丁 マカオに見る日本(コメント欄含む) 中国に広がる「日式管理」。上手に生かして豊かになろう。 世界で最も「すし詰め状態」の場所は?1位は「東京サマーランド」―中国メディア <在日中国人のブログ>冬でもナマ脚丸出しの日本女性、ホントに寒くないの? 最近の上海コンビニ事情 香港人は「出前一丁」がお好き? (1/2) 香港人は「出前一丁」がお好き? (2/2) 中国で映画「名探偵コナン」の人気過熱、一部劇場ではチケット完売も。 プロ制度もできちゃう?上海で日本の将棋が大ブーム 中国人経営者が語る「AKB48に見るジャパン・カルチャーの魅力」 モスバーガーがアジア最大市場に再挑戦、中国に1号店をオープンへ。 あの派手な看板は何? 中国の観光サイトで「グリコ」人気 Circle 日本で「結婚写真」を撮る富裕層の若者が急増中=「日本庭園で和服」が人気―華字紙 <在日中国人のブログ>驚き!日本アニメが世界を席巻する秘密 一人っ子世代の中国人留学生、来日後「自立」を学びたくましく成長―華字紙 <在日中国人のブログ>日本語はブログ界の「公用語」になれるのか? マイブームはBL!? 香港の腐女子が描きとめる、消えゆく都市の記憶 Culture Difference と Generation Gap の狭間 その1 Culture Difference と Generation Gap の狭間 その2 <中国人が見た日本>日本でのゴミ処理視察で見た8つの「驚き」 <在日中国人のブログ>日本の保育園で体験した「12の驚き」 <在日中国人のブログ>中国文化と日本文化、海外の影響力が大きいのはどちらか?
https://w.atwiki.jp/eiyu/pages/61.html
フビライ・ハン加入条件 イベント遺産を探しに 遺産発見? 真の遺産 マルコ・ポーロのお誘い フビライ・ハン ♥♥♥♥(4ポイント) 加入条件 モンゴルを征服 イベント 遺産を探しに ♡♥♥♥ 発生都市 ウルゲンチ 発生条件 バースの占領 実行条件 フビライ・ハン 探索12 報酬 技3 エリアショット 遺産発見? ♡♡♥♥ 発生都市 カラコルム 発生条件 【遺産を探しに】クリア 実行条件 フビライ・ハン 探索17 報酬 装備枠+1 真の遺産 ♡♡♡♥ 発生都市 カラコルム 発生条件 【遺産発見?】クリア 実行条件 フビライ・ハン 探索16 交渉15 報酬 宝具No.053「」ガーンデーヴァ、特性 包容 マルコ・ポーロのお誘い ♡♡♡♡ 発生都市 ウルゲンチ 発生条件 【真の遺産】クリア 実行条件 フビライ・ハン 交渉22 研究16 報酬 英雄技 ルフウィング SCENE20
https://w.atwiki.jp/gogolf/pages/156.html
新札幌ワシントンゴルフ倶楽部をお気に入りに追加 くちこみリンク #blogsearch #technorati キャッシュ 使い方 サイト名 URL 掲示板 名前(HN) カキコミ すべてのコメントを見る 楽天GORAで予約する 新札幌ワシントンゴルフ倶楽部 楽天GORAでゴルフ場を探す 北海道・東北 関東 北陸 中部 近畿 中国 四国 九州・沖縄 海外 プレー曜日 平日 土日祝 プレー料金 指定なし 5,000 7,000 9,000 10,000 12,000 14,000 16,000 18,000 20,000 円~ 指定なし 5,000 6,000 8,000 10,000 11,000 13,000 15,000 17,000 19,000 21,000 23,000 25,000 円 エリア 全地域 北海道・東北 北海道 青森県 岩手県 宮城県 秋田県 山形県 福島県 関東 茨城県 栃木県 群馬県 埼玉県 千葉県 東京都 神奈川県 山梨県 長野県 静岡県 北陸 新潟県 富山県 石川県 福井県 中部 岐阜県 愛知県 三重県 近畿 滋賀県 京都府 大阪府 兵庫県 奈良県 和歌山県 中国 鳥取県 島根県 岡山県 広島県 山口県 四国 徳島県 香川県 愛媛県 高知県 九州・沖縄 福岡県 佐賀県 長崎県 熊本県 大分県 宮崎県 鹿児島県 沖縄県 海外 報道 gnewプラグインエラー「新札幌ワシントンゴルフ倶楽部」は見つからないか、接続エラーです。 コース解説 新札幌ワシントンゴルフ倶楽部の44%は睡眠薬で出来ています。新札幌ワシントンゴルフ倶楽部の42%は苦労で出来ています。新札幌ワシントンゴルフ倶楽部の9%はビタミンで出来ています。新札幌ワシントンゴルフ倶楽部の5%は努力で出来ています。 ウィキペディア 新札幌ワシントンゴルフ倶楽部 JAWS_260.jpg burner_res.jpg ページ先頭へ 新札幌ワシントンゴルフ倶楽部 このページについて このページは新札幌ワシントンゴルフ倶楽部のインターネット上の情報を集めたリンク集のようなものです。ブックマークしておけば、日々更新される新札幌ワシントンゴルフ倶楽部に関連する最新情報にアクセスすることができます。 情報収集はプログラムで行っているため、名前が同じであるが異なるカテゴリーの情報が掲載される場合があります。ご了承ください。 リンク先の内容を保証するものではありません。ご自身の責任でクリックしてください。
https://w.atwiki.jp/jpcl/pages/208.html
<酒井法子>中華圏に衝撃、清純派アイドル「酒井法子」は幻想に終わるのか? <酒井法子>日本の「繁栄→停滞」を象徴する、希代のアイドル―中国紙 <レコチャ広場>酒井容疑者の逮捕劇、「日中関係に微妙な影響を与えた」―中国 <中国人が見た日本>「対外純資産世界一・日本の経済危機は見せかけ」、西側撃退法は日本から学べ―中国 「言情大師」渡辺淳一氏がサイン会、中国でも人気絶大、ファンが殺到―上海市 日本の「マキ」中国が「買い占め」 なんと1本1000万円も出現 <中国人が見た日本>日本人はなぜおいしそうにゴハンを食べる?―中国 <日本人が見た中国>「残すが礼儀」知らなかった!“中国式宴会”のマナー <在日中国人のブログ>夏休みの宿題を通じて分かる日本人の教育理念 ■日本食事情 アニメ、ゲーム、コスプレの大ブームに潜む罠 日本への強い憧れが逆に反日感情生む <中華経済>キャセイパシフィック航空が香港―札幌線を冬期限定で増便、北海道旅行人気で 「パクリ」撲滅できない国産アニメ、コピー元の標的は日本製!=主因は製作コスト削減―中国 レストランにコンビニ…日本食が中国に進出 上海・千変万化:「日式」と夏祭り=鈴木玲子 SORAの料理に見る香港の日本文化。 <レコチャ広場>男性のスーツ、日中間で異なる「品質」―中国 <レコチャ広場>80年代、父が日本から買ってきた「センセーショナルなもの」―中国 <在日中国人のブログ>日本の本屋でアルバイト、一番大変だったことは… 「しんちゃんよ、永遠に」!海賊版で臼井作品に親しんだファンの熱い思い、ネットに続々―中国 「失われた20年」、もう一度見直すべき「日本の価値」―華字紙 <在日中国人のブログ>俺に惚れてる?思わず誤解するほど!日本人女性の親切さ <中国人が見た日本>日本の航空会社の機内食はアジア最高、特にケーキは絶品 <中国人が見た日本>反日教育も克服!素晴らしかった実際の日本、中国人も「恥の文化」学ぼう 「一路走好!」~『クレヨンしんちゃん』の作者逝去に関する中国の熱い報道 日本人女性は“優しすぎ”て困る?結婚生活がツラい!―中国 日本のコスプレが大人気の漫画祭会場=伝統衣装「漢服」には、それって何?―広東省広州市 <在日中国人のブログ>日本の運動会とオリンピック精神 <国慶節>人気の旅行先、トップはフランス、日本は2位―北京市 <在日中国人のブログ>清潔なトイレにこだわる日本人、中国の「ニーハオトイレ」は理解不能 <在日中国人のブログ>小学校の国語教科書、日本と中国では大違い <在日中国人のブログ>日本人は世界大学ランキングを気にしない? 日本女性、中国人と結婚したがらないのは痰吐きや大声が…?―中国 <在日中国人のブログ>日中人事事情、「日本は競争に、中国は運命に頼る」 <在日中国人のブログ>伊賀市の「図書館列車」が示す日本人の素晴らしい創造力 <在日中国人のブログ>煩わしい日本人の「細かさ」「くどさ」 <中国人が見た日本>ゴミ箱にも日本らしさ、環境保護意識の高さを実感 映画で大ブレイクの日本人女優・田中千絵、中国へ進出は「顔を知られすぎたのが苦痛」で―台湾 <レコチャ広場>世界で一番うるさい消費者がいる国=最高品質の商品は中国市場へ―中国 日本原産の球体関節人形、若者の間で人気 <中国人が見た日本>我慢強い日本の子ども、教育の素晴らしさ実感 <中国人が見た日本>なぜ日本企業は中国企業との取引を嫌うのか?―中国 <在日中国人のブログ>私とのりピーとの出会い ~あの頃の酒井法子に捧げる~ <中国人が見た日本>日本に来て味わった「生まれて初めての自由」 <富裕層>「金持ち中国人観光客」が秋葉原を救う、地元は熱烈歓迎―華字紙 日本で見つけた「雷鋒精神」?!日本人の実直さ・優しさに感動―日本華字紙 香港のDQ9勇者たちよ、集え!すれ違い通信オフ in 香港 セブンイレブンのキャラクター戦略・2009年夏 「ザクだけでは売れなくて…」中国のマニアが開いた元ザク専門店に潜入。 【外信コラム】上海余話 “日本人狩り”
https://w.atwiki.jp/asimojipro01/pages/63.html
中国における辞書記述(ちゅうごくにおけるじしょきじゅつ) 英Chinese lexicography 『言語学大辞典術語』 中国は文字の国である.したがって古くから文字の教育や培養が行なわれ,のちには文字の芸術を創りあげた.中国の文字,すなわち漢字は優れて表語文字(logograph)であったため,一字一語の原則が夙に定着し,独特の文字観を誕生させた.中国的な考え方によれば,字が実体であり,その形,その音,そしてその意味(義)が字の属性である.これを字の形音義という.この考え方から中国の辞書記述は字を中心に行なわれ,語の記述である辞書は近代になって初めて編纂されるようになった.なお,ここでは近代以前の中国の辞書記述について略述することにする. 字の記述は,字の形・音・義の3つの属性に応じて3つの流れに沿って行なわれた.そして字の形によるものを字書,字の音によるものを韻書とよび,そして字の義によるものは特に名称がないので仮に「義書」とよんでおくことにする. [字書] 中国では,かなり古い時代から文字の学習が行なわれた.漢字はなにしろ一字一語の原則で貫かれた表語文字であるから,アルファベットや仮名のような表音文字(phonograph)と違って,単位の字が多数になり,その学習にはかなりの時間と能力を要した.初めは貴族の子弟が,それから文字の知識が普及するにつれ,貴族以外の者も文字を学び,ことに役人になろうとする者には文字の知識が不可欠であった.そのため,学校や塾のような所で幼いうちから文字の学習に励んだが,その際,教科書となる本も作られるようになった.後世の「千字文」のような内容のもので,記憶の便にたいがい韻文の形をとっていた.漢代には「倉頡篇」とか「急就篇」といったものがいくつか用いられていたことは知られている.文字の学習は単に児童の教育にとどまらず,学問の進展に伴い,学問の基礎として文字の知識が要請され,やがて文字そのものの研究へと発展していった.字書はそのような研究の成果である. 字書の元祖は,後漢の許慎著わすところの『説文解字』である.これは略して『説文』という.許慎は生没年が不明で,およそ西暦100年前後に活動していた人で,『説文』が完成したのは100年だといわれる.『説文』はその標題の示すごとく,「文を説き,字を解い」た書物で,この場合,文は言うまでもなく文字の意味である.この本は,だいたい小篆という書体について一々の漢字の構成を説き,その漢字の本義を解いたものである.小篆はすでに漢字の原型から程遠い段階の書体であって,漢字の原始的形態や栂造をそのまま写しだすものではなかったから,今日からみれば許慎の解説にはしばしば適当でないところがあるのもやむをえない.それでもいわゆる「古を去ることいまだ遠からざる」時代に生きていたため,隷書(→書体)やその後の措書よりは字源の考察にははるかに恵まれていた.今日,漢字の古い字体,金文や甲骨文が何とか読めるのはまったくこの『説文』のお蔭である. 『説文』は,9千余字を540部に分けて構成されている.当時としてはかなり多くの文字を収録していると言えるが,その収録している文字の中には戦国時代の秦の文字といわれる籀文や東の方で経書などに使われていた古文も若干混じっている.部は,同じ義符(または意符)をもつ文字をまとめたもので,たとえば,木に関する意味をもつ語を表わす文字は木をその義符とし木部の中にまとめ,木の字をその部首とする.一より始まって(十二支の)亥に終わる部の配列は,どのような原理に従っているか必ずしも明らかではないが,それぞれの部と部との関連は,形の近似や意味の類似によっているらしい.部というものが意味的範疇によって同じ義符のもとに構成されている点からすると,ある意味的分類がなされていると言ってよい. 『説文』では,各字の意味については,その字の原始的形態ないし構造から各字の本義を簡単に述べるにすぎない.この字の本義はその字の発生に関する意味で,その字の表わす語の語源とは必ずしも一致しない.そして,それぞれの文字の形態ないし構造は,いわゆる六書(このうち,転注と仮借は文字の運用に関するものであるから,実際には象形・指事・会意・形声の4種)によって一定の形式の簡単な説明がなされている. 『説文』は以上のごとく漢字の本義を簡単に述べたものであるから,漢字各字の解説を求めようとしても無理である.各字の解説を求めようとする辞書的要求は,『説文』を基礎とする字書の発展の中に漸次満たされるようになった. 『説文』に次ぐ現存の字書は,六朝時代の梁の顧野王撰するところの『玉篇』(543)である.この字書は隷書の見出しを立て,だいたい『説文』の構想に準拠して作られている.といっても『説文』そのままではなく,巻数も30巻,部首も542,また収録した文字の数も約1万7千に及んでいる.そして『玉篇』の『説文』と異なる点の一つは,この時代には,『説文』の時代にはまだなかった反切室という中国独特の表音法が発明されていて,それを各字の解説の中に利用していることである.音の表示はその字の語の形を定めるのに重要である. 『説文』とは違うもう一つの特徴は,各字の解説が詳細になっている点である.この特徴はことに原本の『玉篇』に見られるところであって,しばしば経典などの用例を引用しており,編者の意見を明示していることもある.しかしこの原本の特色は,『玉篇』の利用が一般に進むにつれ失われていったのは残念なことであった.『玉篇』は唐代に入ってから愛用され,したがって増補され,長い間字書といえば『玉篇』というくらいに流行した.ちなみに,古い時代からわが国に将来され重用されていたので,中国にはもう見られない原本に近い写本が若干残されている.中国ではむしろその流行のために漸次その字の解説が簡略化され,宋の時代は『大広益会玉篇』とよばれるほど補強されたが,それはまだしも,元の版本となると,原形をほとんどとどめず,同義の字をいくつか並べて字義を説明するだけのつまらない字書になってしまった. 字書といえば『玉篇」ということから,字書の名に篇の字を用いるものができてきた.北宋の『類篇』(1067)がまずそれである.これは『玉篇』に続く字書として作られたもので,編纂者は丁度その他の人々が企画・編集し,名相司馬光(温公)の手によって完成したといわれる.だいたいの栂成は『玉篇』と同じく『説文』のそれによっているが,収録字数は3万を超え,それに応じて,『説文』の15巻を3倍した45巻に収めている.部首も544部.見出しの字形も,もう楷書に変わっている. 金に入って韓孝彦・韓道昭父子の『五音篇海』(または『四声篇海』)(1602)とよばれる字書が現われた.この書は15巻からなっているが,部の数を444に縮小している.この字書の特徴は,従来の部の配列を改め,部首の字を中国音韻学事の頭子音の分類である三十六字母事の体系によってその字を配列したところにある.これは,いわば表音的な順序をとったものである. この『五音篇海』以降,明代に「篇海」の名を含んだいろいろの字書が出ている.たとえば,その一つに明の欽定韻書『洪武正韻』の編纂に参加した宋漉という人の作と称せられる『篇海類篇』(20巻)(明萬暦年間)などがある.これには,部の配列を三十六字母の体系に従うのは検索に不便であるとして,部を天文・地理・人事等々の意味的分類によって配列してある. 『五音篇海』のもう一つの特徴は,部分的にではあるが,画引きの検索法をはじめて考案したことである.それは,所属字の多い部の中で画数の小さいものから大きいものへ配列しているところに見られる.この画引きの検索法を徹底的に採り上げたのが,明の梅腐詐の『字彙』12巻(1615)である.この字書では,部首も画数の小なるものから大なるものへと配列した.そして楷書体について考えるところから,部首の数も240に縮小している.収録文字は3万有余.字の検索に実用的な利便を取り入れたこの字書は,各字の解説にも配慮がみられ,一世を風靡した.わが国でも重用され,和刻本も出ている.この字書の各字の表音はだいたい『洪武正韻』の反切によっている. 字書は,清の『康煕字典』15巻(1716)においてその極致に達する.その名の示すごとく,この字書は康煕帝の命に従って編集され,刊行されたものである.これは上述の『字彙』とそれに続いて『字彙』の増訂を図った明の張自烈の『正字通』をその基礎において,さらに質量ともに拡大した最大の字書である.字数も4万7千に及び,部首は244.その配列は『字彙』の画引き法を踏襲している. この字書の特色の一つは,従来の字書と比べて表音が詳細になっている点である.その表音には,かつての著名な韻書(『広劉『集韻』『韻会』『(洪武)正韻』など)の反切を引き,その字音の典拠を示している.特に注目すべきは,字音と字義の関係を明確にしていることであって,その際,経書その他の古典の個所を引いて出典を明らかにしている.漢字は多くの場合,一字多義であり,また一字多音であるので,音と意味の関係がしばしば暖昧にされるため,その関係の確立は文字の標準を示す字書としては当然のことであるが,『康煕字典』はその点を明らかにしている.この点,『康煕字典』は形は字書であるが,一面,字音の標準をめざす韻書の役割をも兼ねていると言ってもよく,後にも述べるように,字書と韻書という中国の辞書記述の二大潮流がここに合流して,ピークを作っていると言っても過言ではない.その後の字書はおおむねこの字典に則っており,わが国の漢和字典もこの字典を模範としている. ただ,はなはだ残念なことに,この字書は皇帝の命により人海作戦によって編まれたものであるから,出来栄えがはなはだ杜撰である.多くの訂正の試みがなされているが,その杜撰のために真の価値を損ねているのは惜しい. [韻書] 字形の標準を示すのが字書の目的の一つであるのに対し,字音の標準を立てようとするのが韻書である.一つ一つの文字をどのように読むかということは,表音性の乏しい漢字としては絶えず問題になることである.経書などの古典の学問が進むにつれ,字音への関心が高まり,後漢の時代には古典の文字の解釈に音の類似する他の文字を用いる「声訓」(または音訓)といわれる語釈が行なわれたが,これは字の音に対する関心が高まってきたことを示す.やがて,六朝の初めの頃から,反切という表音法が考案された.この方法によれば,一応どのような字音も表わすことができることになった.一方,作詩の技術が発展すると,平仄や押韻を意識的に考えるようになって,ここに作詩の参考書としての辞書が必要になってきた.それが韻書である.韻書は作詩の参考書であるとともに,字音の辞書でもあって,次第に字音の標準を示すものになっていった. 六朝時代の間に多くの韻書が作られたが,晴初(A.D.601)になった陸法言の『切韻』が六朝時代の韻書の集大成として,内容も整備されていたため,大いに重用され,ために六朝時代の古い韻書はほとんど影を潜めてしまった. 『切韻』の原本はすでに見られないが,唐代の写本から推して考えると,『切韻』5巻はまず四声率(平・上・去・入)の別で巻立てを行ない(巻一・二が平声,巻三が上声,巻四が去声,巻五が入声),平声には54韻,上声には51韻,去声には56韻,入声には32韻,計193韻に分けて,約1万2千の文字を収めた.この場合,韻とは各字音の韻の部分(すなわち,字音の中核母音と末音)の同じものをまとめた分類をいう.もともと作詩の押韻のための参考書であるから,この韻の分類が必要なのであって,字音の頭子音の分類についてはまだ考慮は払われていなかった.各声の中での韻の配列は,だいたい韻と韻との音韻的関係が配慮されてはいるが,それも徹底的には行なわれていない.ただ注目すべきは,各声の間に韻の配列に対応関係がかなり明瞭に意識されていることである.各韻の内部は,同じ頭子音をもつ同じ字音の字が一括して並べられる.これを小韻という.韻内の小韻の配列順序の原理は不明である.各小韻の第一に位置する文字の注に,その字音を示す反切寧が,「某々反」(のちに「某々切」)という形で書かれる.たとえば,巻一(上平声)の最初の韻は一東の韻で,この韻の最初に東と同音のいくつかの字をまとめた小韻があり,この小韻を代表する東の字が真っ先におかれ,その注に「徳紅反」という反切でその音(tung)を示している.『切韻』の原形では各字の注は反切以外,その字義を示す注釈はきわめて簡単なもので,しばしば字義の注を省略していたらしい.というのは,韻書は字音や韻を知るためのもので,字書のように字義の解説を必要としなかったからである. 『切韻」は,晴の初め顔之推など当時の録々たる8人の学者が音韻について討論したものに基づいて陸法言が編纂したもので,その字音体系は六朝末の河南の字音を基礎としていたようである.河南は後漢以来,洛陽を初めとして政治の中心でもあり,文化の中心でもあった.この韻書は上にも瞥見したようによく整備され,また細かすぎるほど厳密な区分がされていたため,晴代はもちろん,唐代を通じて大いに重用された.たとえば,敦煙のような辺鄙なところからも,大小の写本の残巻が出ているし,日本でも多くの影響を残している.そして時間の経過に従って補正がたびたび行なわれ,字義の解説もだんだん加えられるようになった.唐代の間に作られ,現在完本で伝えられている『切韻』がある.これは王仁昫によるもので,正式には『刊謬補映切韻』(706)という.北宋に入って『切韻』は政府によって取り上げられ,『広韻』(広切韻の意)5巻(1008)の名によって公刊されたが,『広韻』では『切韻』の193韻が206韻に増加している.もっともこれは音韻の変化によって韻が増加したのではなく,『切韻』で1韻にまとめられたものをある音韻の特徴によって2韻に分けたにすぎない.たとえば,切韻では-ânと-uânは1つの韻で扱っていたが,『広韻』に至るまでに-ânと-uânを別々の韻に分けるようになっていたのである.このように唐代の間に試みられた補正の結果が『広韻』の中に盛りこまれているが,体系としては『広韻』は『切韻』の原体系を比較的忠実に保存している. 宋朝は『広韻』の公刊後いくばくもなく,それを倍増した『集韻』10巻(1039)を公にした.この韻番は採録の字を大々的に増補したほか,『広韻』の反切に多少の改定を加えているが,206韻の体系は変わっていない.この206韻の体系は現実の字音の体系ではない.すでに唐代において現実の字音はかなりの変化を遂げていた証跡がある(たとえば,慧琳の『一切経音義』の反切には現実の字音がよく反映されている).にもかかわらず,宋代に及んでなお206韻の体系を保持したのは古い中国における伝統尊重の現われである. 『切韻』系統の韻書はこのように韻書の伝統を担うものとして,その後長く伝えられた.というより,韻書といえば『切韻』系の韻書のことであると言ってもよいくらいである.そしてこの系統の韻書は,科挙(公務員試験)に作詩が課せられるところから,やがてその受験準備の参考書となった.その場合,『広韻』や『集韻』のような大部なものは不便であるから,その簡略化されたものが用いられ,それを「韻略」と言った.そして科挙は礼部という役所が司っていたので,「礼部韻略」とよばれた.その簡略化は字義の解説などにもみられるが,もっとも著しいことは韻目の併合である.『広韻』の206韻の体系は韻目のたて方が細かすぎ,詩を作る上に不便であったので,早くから韻の同用・独用が認められていた.すなわち,ある韻と他のある韻は押韻に区別しないで使ってよろしいというのが同用で,ある韻はその韻の字だけで使わなければいけないというのが独用の規定である.そしてこの同用の韻がだんだん併合していくのであるが,この併合の裏には音韻変化が進んだことがあったそこで206韻はやがて160韻となり,107韻となり,ついには106識となって,この106韻の体系が作詩の基準となり,今でも漢詩を作るときはこの体系によることになっている. 206韻を160韻に縮めたのは金の韓道昭の『五音集韻』(1212)という韻書であるこの韻書のもう一つの特徴は,従来,韻書では韻の内部での小韻の配列順位はよく分からない順序に従っていたのを,宋代にすでに確立していた頭子音(声母)の体系,すなわち「三-'一六字母」の体系によって小韻を配列しなおしたことである. 一方,206韻を107韻に削減したのも金の時代であった.南宋ではさらに106韻に縮めたが,この106額の韻略に,今度は単なる受験参考書としてでなく,字義の解説を詳細にした韻書が現われた.毛晃の『増修互註礼部韻略』5巻(1162)がそれである.これは略して『増韻』とよばれる. 元の時代に入ると,伝統的な韻略の体系と現実の音の体系との乖離はますます激しくなった.この状況を反映して面白い韻書が登場する.それは熊忠の『古今韻会挙要』(略して『韻会』という)(1297)である.この韻書は表面は107韻の韻略の体系をとっているが,各字の注に裏の体系を「字母韻」の名によって示すという表裏二重の体系からなっている「字母韻」の体系は言うまでもなく現実の体系である.また,各韻の小韻の配列は呉棫の『韻補』に従って『五音集韻』と同様,頭子音の三十六字母の体系に従っている.そして,その字義の解説が『増韻』よりさらに詳細になり,出典も豊富である.なお,この韻書は元の国字パスパ文字による韻書『蒙古字韻』と密接な関係がある. やがて,現実の韻の体系が公然と表面に現われるようになった.元の周徳清の『中原音韻』(1324)がそれであるしかし,それは伝統的な韻書の系統の中からではなく,元の時代に盛んになった民間の戯曲の押韻のために生まれたまったく独特の韻書である構造も従来の韻書と異なり,19の韻部からなり,各韻部に陰平・陽平・上声・去声の四声と消滅した入声の配分が属している.また反切による表音もないし,字義の注もない.このように伝統の重圧から解放された革命的な韻書であって,その性質上,当時の北方の口語音に近い体系を反映していると考えられている. 明に入ると,太祖は建国早々『洪武正韻』という韻書の編纂を命じ,楽詔鳳・宋漉等々の人々がその業に当たり,これを公刊した(1375).この韻書は官韻として韻略の系統を引くものではあるが,すでに前代の元朝の間に,伝統的な韻略の体系と現実の体系のずれが表だってきており,『中原音韻』のような民間の韻書の出現をみているため,従来の体系はもはや保つことができず,それに思いきった変革を加え,76韻の体系に改めた.それには従来の韻の合併以外に,1韻のものを2韻に分けることも敢えてしており,それは現実の音になるべく応じようとした結果である.もっとも,この韻書の体系の正体はいまだ不明な点が多いが,首都南京の字音を字音の標準と定めたものと思われる.当時の南京音は現在の南京音とは異なり,揚子江南地方のいわゆる「呉語」の色彩がいまだ濃厚であったと推測される. 清朝に入ると,康煕帝の命により『音韻闘微』という韻書が編纂された(1726).この韻書は不思議な韻書である.明の『洪武正韻』が現実の字音に近い標準を定めようとしたのに対し,この韻書では,再び106韻の韻略の体系に逆戻りしている.しかし,ここでは宋の時代に確立した等韻学の体系が明白な形で取り入れられた.等韻学というのは,韻の分類を横の座標にとり,頭子音(声母)の分類を縦の座標にとった韻図によって音韻を考えようとする中国独特の審音法(音韻分析)である.『音韻聞微』はこの等韻学の体系に従って各韻の小韻が三十六字母と四等呼の組み合わせで配列されている.韻の分類が伝統的な韻略に依存しているが,これも単に伝統に固執しているのではなく,一種の理想的な体系として表面にうち出しているのである.それが現実の字音とずれていることは十分意識しており,その違いが往々各小韻の反切の中に示されている.この韻書のもう一つの特徴はその反切にある.反切そのものも時代を追って少しずつ変化してきているが,この韻書では,反切の上下字を見ればその字音が分かるようにするのが原則となって,たとえば堅の字音は,「基(ki)煙(ien)切」という反切によってkienであることが知られるというふうである.このような,きわめて合理的な表音法は,清朝の国字の満州文字がアルファベットの流れを汲むモンゴル文字の改造からでき上がった表音文字であり,その影響で反切のより合理的な表音化を図った結果である. [字書と韻書の交渉] 中国の辞書記述の歴史の中でもっとも興味深いのは,字書と韻書の相互関係である.上にみたように,唐に入ると,字書は『玉篇』,韻書は『切韻』と,両者ともに大いに愛用された.『切韻』はもともと字音が分かればよいということで字義の解説はほとんどなかったか,あってもごく簡単なものであったらしいが,『玉篇』からの影響で唐代の写本には漸次『玉篇』から字義の解説を取り入れるようになってきた.それは,字形の構成から検索する字書にしろ,字音の体系から検索する『切韻』にしろ,検索の方法は異なっても両者とも次第に辞書的性格を帯びるようになったからである.なお,『切韻』の補正版である『広韻』の字義の注に,人名・地名に言及しているものが多いのは注目すべきことである.これらの固有名詞をどう読むかは,字音としてゆるがせにできないことである. 『玉篇』と『切韻』の平行的使用はやがて両者を一括して「篤韻」と称せられるようになり,さらに宋に入るとこの篇韻の対を意識的に編纂するほどになった.韻書の『集韻』と字書の『類篇』の編成がその初めである.続いて金の時代には韻書の『五音集韻』に対する字書の『五音篇海』が作られ,韓道昭がその両者の編著に参加し,そのいずれにも字の配列を三十六字母の順序に従って行なおうとした.元になると,字書と韻書のペアはできなかったが,韻書の『韻会』は,韻書としても表裏の二重体系を内包するきわめて特異なものであるとともに,字義の解説の面では,これに先行する『増韻』の後を受けてかなり詳細になり,経典や古書の引用も豊富で,辞書的性格を濃厚にもつものであった.つまり『韻会』は,字書の機能をふんだんに取り込んだ韻書ということができる. 明代では,まず欽定の韻書『洪武正鵠』が編まれた.この韻書に対応するものとして,金の『五音篇海』の亜流をなすいくつかの篇海類の字書ができたが,『洪武正韻』に対する字書としてはやはり『字彙』がもっとも優れていた.これは字書と韻書のペアを同時に作るのではなく,韻書を追って字書が作られた例といえるであろう. このような字雷と韻書の相互作用は,ある意味では元の『韻会』に総合されて韻書の形で現われてはいるが,さらに大規模な形で字書の形でその総合を実現したのが清の『康煕字典』である.ここでは字書の構成で字が並べられているが,従来の字書と韻書の集大成がみごとに結実しているのであって,まことに中国の辞書記述の極致といっても過言ではない.なお,この字典に対する韻書として『音韻闡微』があるが,これは『康煕字典』の音韻の面の参考文献の機能を果たしているにすぎない. [義書] 字形の字雷と字音の韻書に対して,字義を対象とする一連のものがある.これには特別な名称がなく,中国の伝統的な書誌分類では「訓詰」(典籍の語釈の意)という類に入っている.そこで仮に「義書」とよぶことにする. 義書の元祖は禰粗という本である.この成立状況は不明であるが,その核心の部分はすでに周代にできていたようである.その製作に周公や孔子の名をあげる伝説すらあるように,かなり古い時代からだんだんでき上がっていったらしい.この本は経典の解釈に重要であるという点からか,のちには経書の一つとして尊崇されるようになった. 『爾雅』3巻は,釈詰・釈言・釈訓・釈親・釈宮・釈器・釈楽・釈天・釈地・釈丘・釈山・釈水・釈草・釈木・釈虫・釈魚・釈烏・釈獣・釈畜の19部に分かれ,それぞれの区分に属する字に簡単な説明が加えられている.釈親以下はそれぞれの字の示す字義の意味的分類であるが,これらの具体的な事物以外の語は最初の3つの中に収められている.釈詰の詰はその字の示す通り「古語」の意で,これに対して通用の語は釈言に入る.釈訓は主として2字からなる連語(擬態語)を扱っている.この3つでは,字義の解説というよりも,類義語(synonym)を並べているにすぎない.もともと『爾雅』は経典の語釈(訓姑)を集めたものから発生したらしい.経学は一種の文献学であるから,字(語)の解釈はその重要な任務であった.また,語釈にはその語の定義に類義語を宛てて悟らせる方法しかないので,類義語の意識は古くからあったに違いない. この『爾雅』の補篇ともいうべきものがいろいろできていったが,漢末に作者不詳の『小爾雅』というものが作られた.これは『爾雅』に欠けているものを少し補った程度のものであったが,爾雅の本当の意味の続篇が魏の張揖によって作られた(230年頃).これは『広雅』(または『博雅』)とよばれるもので,体裁や叙述形式はまったく『爾雅』に則っている.宋代に入って,陸佃の『埤雅』(1125)や羅願の『爾雅翼』(1174)が現われたが,これらは『爾雅』の釈親以下の事物の説明が詳細になり,だんだん百科事典的な方向をとるようになった.その後「~雅」という名をもつものがいくつか作られた.明の朱謀璋の『駢雅』,同じく明の方以智の『通雅』,清の呉玉搢の『別雅』,同じく清の洪亮吉の『比雅』等々がそれである.なお,この義書においても注釈がだんだん詳しくなってくるのが注目される. この『爾雅』のスタイルをもつものに,2つの注目すべき著作がある.それは『方言』と『釈名』である.『方言』は前漢末の揚雄が著わしたもので,その名の示すように当時の方言を記した本であるが.どうやら未定稿らしい.前漢末という,かなり古い時代の方言とその分布状況が知られる点で貴重な作品である. 『釈名』は後漢の劉煕の作.この本も『爾雅』の体裁をとって,語を類別して説明しているものであるが,この本の特徴は各字の説明がいわゆる声訓(また音訓ともいう)によっている点である.声訓とは,ある字の意味を説明するのに,その字と類似の音をもつ字で説明する方法である(たとえば,「日実也」のように). [その他の辞書] 以上,字の形音義による3種類の辞書について略述したが,中国にはこれらのほかにも辞書らしきものが若干ある.上にみたように,韻書は作詩の参考書として発生してきたが,それは押韻のためのものであった.作詩の参考書としては,詩語や詩句を探し出すということも大切なことであるから,そのためのものも当然できてきた.清の『佩文韻府』(1711)などがそれである.この詩語辞典は,元の陰時夫の『韻府群玉』や明の凌稚隆の『五車韻瑞』に基づいてそれらを補正したもので,これも康煕帝の命によって編まれたものである.なにしろ詩語をなるべく洩れなく収録しようとすると,どうしても大部のものとなる.『佩文韻府』は444巻に分けられ,字の検索には106韻の韻略の体系をその枠組みに使っている.なお,この詩語辞典の大本は,すでに散佚して今日見ることはできないが,唐の顔真卿の『韻海鏡源』360巻(772頃)であったといわれる. 中国の文献学である経学は経書の学であるから,当然,経書の語釈(訓詰)が重要となる.経学は清朝に入ると,考証学として大いに発展したが,この気運の中で経書やその他の古典の語注を集めたものが現われた.院元の『経籍饗詰』106巻(1798)がそれである.古い中国では書物の読解には辞書を引いて語義を知るのではなく,それぞれの書物の注釈によって読むというのが本筋であった.したがって『経籍饗詰』のような,ただ古い注釈が漫然と並べてあるものでも大いに役立つのである.この本も,字の検索には106韻式の体系によっている.漢字の検索にはアルファベットのようにabc…といった機械的な配列はとれないので,どうしても画引きか,韻引きか,そのどちらかによらざるをえなかった. おそらく『経籍饗詰』を利用したと思われる古語辞典が消の時代に現われた.それは朱駿声の『説文通訓定声』(1848)である.この本の構成は,まず朱氏の上古音体系によって18部に分けられ,その各部はその韻部に属する形声声符によって,同じ声符の『説文』の文字を集めてグループ化している.つまり上古音による韻引きの辞典である.その書名にあるように,各字は『説文』を基礎としており,筆体の文字を掲げて,まず『説文』の解説をその字の本義とする.そして,その文字の転用の場合について『経籍饗詰』の注釈などを朱氏一流の考えで整理して述べている.それには2つの場合があって,その字の本義から派生した意味の場合を転注とよび,その字の仮借の場合を假借として分類する.この転用の場合が「通訓」であって,終わりにその字の声訓例や押韻例を述べているが,それが「定声」である.この辞典は,経典やその他の古典を読むにはきわめて便利な古語辞典である.‐辞書記述
https://w.atwiki.jp/asianmystery/pages/43.html
ここでいう「中国ミステリ」とは、「中国の作家が書いたオリジナルミステリ」のことであって、「中国を舞台にしたミステリ」のことではありません。 1.中国ミステリ概観 中国ミステリ史 『中国ミステリ史 第一章』(19世紀末~1910年代) 『中国ミステリ史 第二章』(1910年代~1940年代) 『中国ミステリ史 第三章』(1940年代末~1970年代) 『中国ミステリ史 第四章』(1970年代末~1990年代) 『中国ミステリ史 第五章』(1990年代末~21世紀初頭) 『中国ミステリ史 第六章』(現代) 中国ミステリを知るための日本語文献 中国ミステリについて知るための資料リスト - 文献リスト+解説。最近は更新していません。 中国ミステリ史 参考文献 - 中国推理小説120年の歴史 2.実際に中国ミステリを読んでみたい方へ 邦訳 中国ミステリ 読書案内 東方のホームズが活躍する中国の短編探偵小説、張慶霖「無名飛盗」 原書 中国のミステリ作家・御手洗熊猫の長編推理小説『島田流殺人事件』 中国で刊行されているミステリ雑誌の、各号の内容紹介ページへのリンク中国のミステリ雑誌『歳月・推理』 公式サイト各号へのリンク集 中国のミステリ雑誌『推理世界』 公式サイト各号へのリンク集 3.日本ミステリ in 中国 2009年に中国で刊行された日本の推理小説 (2008年・2009年の中国のミステリ刊行状況 含む) 4.その他 この推理小説を邦訳してほしい! (中国ミステリ編) 台湾ミステリ紹介 目次へ 韓国ミステリ紹介 目次へ
https://w.atwiki.jp/teitoku_bbs/pages/8463.html
593:トゥ!ヘァ!:2023/03/19(日) 19 03 40 HOST FL1-203-136-35-38.kng.mesh.ad.jp 一発ネタ 大モンゴル世界 1930年代 日本 某所 夢幻会会合 会議室となっている場所をずらりと集まる人々 いつもの面子以外にも多くの転生者が集まり、身を寄せ、話し合っていた。 自分達が知っている世界と余りにも違う世界情勢に未だ混乱している転生者も多いからである。 それもそのはず。この世界はなんと… 「「「まさか20世紀にもなってモンゴル帝国が存続している世界だなんて…!!」」」 そう。この世界では未だにモンゴル帝国がユーラシア大陸の派遣を握り続けているのである! 大モンゴル連邦帝国。それがこの世界のユーラシア大陸を支配している国の名前である。 複数の加盟国からなる連邦国家である。 名前の通り大モンゴル帝国から続く直系国家であり、20世紀においても世界最大のランドパワーを誇る国としてユーラシア大陸に君臨し続けている。 ことの発端…というわけでもないが史実との最大の乖離点は欧州遠征が続いたことであろう。 オゴデイが死なずに大分長生きした結果かバトゥ率いる欧州遠征軍は順調に欧州を進み続け、オゴデイ及びバトゥも順調に後継者へのバトンタッチに成功し続けた結果1300年までにはフランスまでを制圧し、大西洋沿岸にまで到達することとなる。 その後も順調に権力の継承が続いたモンゴル帝国は残りの欧州、アラビア半島、インド亜大陸などへも進出を進め、1500年までにはユーラシア大陸の過半を手にするに至った。 さて。そんな超ド級モンゴルと相対する日本における一大イベントと言えば元寇である。 史実では2度の元寇のみであったが、ここではモンゴル帝国が中央集権したまま残存し続けたので日本に対しても幾度も元寇が発生していた。 九州戦のリベンジマッチである第三次元寇。南北朝時代を終わらせる切っ掛けとなった第四次元寇。 九州への上陸を許してしまったが、豊臣秀吉の遠征軍により撃退された第五次元寇。 樺太方面から蝦夷こと北海道への上陸が行われ、現地アイヌ及び徳川幕府連合により撃退された第六次元寇。 日本は幾度も幾度も元寇の危機に晒されてきた。 そんな中で行われたのが外への進出である。 国防の強化と共に行われた外征計画は鎌倉幕府の頃から始まり、徐々にだが日本の領域が拡大していった。 蝦夷地への進出が早まり、現地アイヌとの衝突や交流が早くから始まっていた結果が第六次元寇における徳川幕府との共闘とも言える。 北上する以外にも南下も進めており、フィリピンへ到達し、同地を拠点として以降は東南アジア諸国に広がるモンゴルの影響力を感じ、改めて大モンゴルの強さを肌身で感じていた。 南北朝時代や政変の多い室町幕府時代ですらこれら北上と南下は続けられていたというのだから、日本の持つ危機感の強さがうかがえる。 この日本の外征計画は戦国時代の突入と共に自然と停滞してしまっていたが、その頃には南は南洲 (オーストラリア北部)、北は北嶺(アラスカ)まで到達していた。 少数ではあったが、中には沿岸経由で北米西海岸にまで進出している者達もいた。 その後豊臣秀吉による天下統一と共に外征計画が再始動。 南洲全体への入植とまばらであった西海岸への入植が開始された。 その後豊臣幕府体制へと移り、北海道を舞台とした第六次元寇を退けて以降は日蒙の関係は軽度の睨み合いとなり、主に交易を持って友好関係を模索し始める時代となる。 594:トゥ!ヘァ!:2023/03/19(日) 19 04 43 HOST FL1-203-136-35-38.kng.mesh.ad.jp そして江戸時代となり北米こと北嶺大陸への入植を進めていく中で日本が出会った相手が北米東海岸及びハドソン湾周辺のカナダ西部にて勢力を築いていたイギリス・デンマーク連合王国とメキシコから中米に掛けて勢力を築いていたアステカ帝国である。 彼等の出自について説明しよう。 イギリス・デンマーク連合。 彼等はモンゴルの欧州遠征に押され続ける中でブリテン島に逃れた西欧勢力が同じように本土を追い出され、アイスランドやグリーンランドに落ち延びていたデンマーク勢と協力して北米のカナダ地域への対比してきた勢力である。 以降はグリーンランド経由でカナダ西部へ人を送り込み、徐々に南下。 北米東海岸を中心に入植と開拓を続けていた勢力である。 日本と英丁連合の接触当時は主に英丁側の狂乱(モンゴル人と勘違いした)ことから始まったが、誤解が解けて以降は緩やかな交流が続いた。 当時両国の入植地は大分離れていたため、大きな争いには発展しなかったのである。 むしろ地元のインディアンとの衝突や入植者同士の小競り合いの方が脅威であった。 もう一方はメキシコ・中米地域に広がるアステカ帝国である。 中南米の国々はスペインが襲来しなかったため史実のような滅亡こそ起きなかったが、東西海岸付近の入植者との交流により耐性のない疫病が蔓延。 その結果一時大きな打撃を受ける羽目となる。 この中で最終的に国力差で残ったのがアステカ帝国であり、弱体化していた周辺国を制圧…というよりも半ば保護または接収する形で吸収(これには東部のマヤ文明諸国も含まれていた) 改めて国力を増大させて復活したのがこの時点でのアステカ帝国であった。 日本と接触後は英丁連合のように当初は入植地が離れていたため、緩やかな交流や交易で終始しており、直接的な争いには発展しなかった。 これら北米勢との争いが勃発するのは各国の領土拡大が触れ合う1700年代になってからとなる。 20世紀現在に話は飛ぶ。 現代まで残った大モンゴルに頭を抱える夢幻会…が所属している日本の領土は北はカムチャツカやアラスカ。 東は北米の中央も含めた西半分。南は南洲(豪州)まで広がり、太平洋帝国と言える威容を誇っていた。 モンゴル相手に人口では劣る物の海運による高い経済力は決して見劣る物ではない。 太平洋全体で繋がる巨大な海運経済網とモンゴル以上の強力な海軍を誇る日本は正に太平洋の覇者と言えた。 対してモンゴルはユーラシア大陸の王者。 長年の統治によって生み出された陸運網や海運網は大陸の東西を繋げ、莫大な経済力を生み出していた。 無論その領土の大きさに見合った人口と軍事力も保有しており、陸戦と言う意味では変わらず世界最強である。 19世紀に起きたバチカン聖国との衝突ではバチカンの誇る騎士軍を圧倒した姿からも、その矢じりが鈍っていないことを示している。 ランドパワーのモンゴルとシーパワーの日本。長年のライバルが睨み合う世界。 ある意味アジアが欧州を駆逐してしまったのが、この世界と言えるであろう。 頑張れ転生者諸君。少なくとも20世紀現在。アジア方面は割と平和ではあるぞ。 因みに上で紹介した国々以外にもアフリカのバチカン聖国や南米のインカ帝国などが存在しているゾ。 595:トゥ!ヘァ!:2023/03/19(日) 19 05 22 HOST FL1-203-136-35-38.kng.mesh.ad.jp 〇国家 大モンゴル連邦帝国 通称モンゴルまたは蒙古。 この世界におけるユーラシア大陸の覇者。 モンゴル帝国が後継者問題で乱れず順調に勢力を拡大し続けた姿である。 ユーラシアの覇者というだけあり、領土は東は中国大陸から西は欧州大陸までほぼ全てを有する。 この他にもアラビア半島から進出して北アフリカ一帯も領土に組み込んでいる。 外からは常に巨大な帝国に見られていたが、実際には身内同士の暗闘や反乱、東西における政治の引き合いや老朽化した体制の改善など色々な苦労もあった歴史を持つ。 連邦という名の通り複数の国家による共同体であり、帝国元首も加盟国によるクリルタイ(選挙)により決定される。 連邦性になっていたのは大凡19世紀に行われた制度の改革によるもの。 老朽化し、分裂寸前になっていたモンゴルと当時のある人物が立て直した結果である。 人口は文句なしの世界一。 宗教は主だった国家(モンゴル帝国時代から残る直系ハーン国など)ではテングリ教(モンゴルにおけるシャーマニズムを体系化したもの)であるが、イスラム、キリスト、ユダヤ、ヒンドゥーなど様々な宗教が混在する多神教国家でもある。 軍事力に関しては領土と比例する巨大な陸軍力が主軸。 一時は大陸統一の代償に大分旧式化が進んでいたが、19世紀の大改革により近代化に成功。 同時期にアフリカで起こったバチカン聖国との戦争にも勝利したほど。 海軍においては沿岸防衛が主軸であり、太平洋や大西洋などでは流石に日本や英丁連合に劣る。 近年は遅れ気味であった空軍研究を進めている。 大日本帝国 通称日本。 転生者たちこと夢幻会がいる国。 史実以上の頻度で行われた元寇に対抗するために外に活路を見出した結果かなり早い時期に北米や豪州に進出することに成功した国。 またモンゴルが早期に欧州を制圧してしまったため、戦国時代の時期になっても南蛮勢力が日本に到来しておらず、史実における鉄砲技術などはモンゴルが開発したものや転生者が再現したものが全国に広まった経緯となっている。 領土は本土の日本大陸を始めとして樺太、カムチャツカ半島、アラスカ、カナダ西部、北米西海岸からロッキー山脈を越えて中央(グレートプレーンズ地域)、太平洋諸島、豪州大陸を始めとするオセアニア、フィリピン、ニューギニア島、台湾となる。 カムチャツカやアラスカは北領(ほくれい)と呼ばれ、これらを通って北米大陸に至ったため、日本において北米は北嶺大陸と呼ばれている。 また史実ではオーストラリアまたは豪州と呼ばれた大陸は南洲(なんしゅう)と呼ばれている。 元寇への対抗と外への進出のため史実よりも船舶、航海技術が進んでおり、20世紀においても世界最大の海軍と海運を誇る。 このため軍事力では海軍を中心としており、次点で各地を守る陸軍となる。 主にユーラシア大陸に面している北領や樺太、台湾、九州など大陸に近い地域と英丁連合やアステカと領土を接する北米へ重点的に陸軍部隊が配備されている。 戦国時代における第五次元寇を豊臣秀吉率いる軍勢が撃退したことにより、豊臣家の権威が爆上がりし、そのまま豊臣幕府が開設され続いていった歴史を持つ。 その後蝦夷地で起こった第六次元寇においても現地のアイヌ諸部族同盟と豊臣幕府の連合軍がモンゴル軍を打ち破っている。 その後北米開拓や豪州開拓を進めていく体制の劣化が目立ち始めた19世紀において明治維新が発生。 一時北領や南洲の独立騒ぎにまで発展したが、当時の人々や転生者の尽力により形を保ったまま今の帝国体制へと移行された。 同時期にモンゴルも大改革を行っていたため、介入されずに済んだと思われる。 この時の転生者たちの尽力により現在の夢幻会も相応の影響力を持つことに成功している。 逆に史実における日清戦争や日露戦争がなかったため、軍事面では今一影響力の浸透が遅れている。 しかし転生知識を使った新兵器や技術の投入により軍事方面においても急速に影響力を拡大している。 596:トゥ!ヘァ!:2023/03/19(日) 19 06 09 HOST FL1-203-136-35-38.kng.mesh.ad.jp イギリス・デンマーク連合王国 モンゴルの侵攻により大陸領土を追い出された国々が寄り集まり結成された国。 ブリテンのイングランドに逃げ込んできた各国関係者がデンマークのアイスランドやグリーンランド経由で北米に進出したのが始まり 現在の領土は北米東部、南部、カナダ東部、グリーンランド、アイスランド。 また西アフリカとブラジル東部に殖民地を持っている。 移民を主導したイングランドとデンマークの名を取ってイギリス・デンマーク連合王国としているが、実際にはもっと多数の国々が参加している連合国家でもある。 新大陸への避難の途中まではデンマークやイングランドの本土も保っていたが15世紀において両国共に陥落。 特に英国陥落の切っ掛けとなったアルマダ海戦は有名。 以降は完全に欧州から叩きだされることとなる。 新大陸領の開拓を続ける傍ら、南部のアステカ、西部の日本と接触。 当初は開拓地が離れていたことから緩やかな交流であったが、17世紀頃に新大陸中央部を巡り両国との衝突に発展。 結局痛み分けで終わり、中央部のうち南部寄りがアステカ、西よりが日本、東よりが英丁連合の折半で決着した。 本土のみならずアイスランドやグリーンランド。南米や西アフリカの植民地と、それらを繋ぐシーレーンを守るために海軍に注力している。 このため純粋な海軍力では日本に次いで二位と言えるが、陸軍力の不足でモンゴル軍相手では上陸地点を確保し続けられないのが悩み。 このため対モンゴル陸軍用として気球から飛行船に繋がる航空戦力を古くから研究しており、世界で初めて本格的な飛行船艦隊を整備した国でもある。 仮想敵ではかつての故郷を奪ったモンゴルが第一であるが、領土を接する日本やアステカにも注意を向けている。 アフリカのバチカン聖国とは同じキリスト教系国家であるが仲はそれほど良くない。 長年の新大陸生活の結果元の教えと大分乖離していったのが原因。 このため英丁連合の教えをプロテスタント。バチカン聖国の教えをカトリックと分けて呼ばれている。 近年では航空機の研究、開発が盛んで、未だモンゴル騎馬隊を始めとする彼らの陸軍にトラウマを抱えていることがわかうr。 597:トゥ!ヘァ!:2023/03/19(日) 19 07 45 HOST FL1-203-136-35-38.kng.mesh.ad.jp アステカ帝国 何の因果か現代まで生き残ったアステカ帝国そのもの。 スペインによる侵略こそなかったが、アジアや欧州からもたらされた疫病により手酷い目にあい、それを同じように弱った付近の国々と手を取ることで乗り切った形となる。 領土はテキサス、メキシコ、パナマまでの中米、カリブ海諸島。 彼等も西アフリカに植民地を持つ。 英丁連合同様一時日本と北米中央を巡って衝突したことがあったが、痛み分けに終わり中央南部(テキサス付近)を取ることとなった。 太平洋、カリブ海、大西洋の三つの海の経済に接続されているため国土に対して非常に高い経済力を持つ。 近年では英丁連合や日本からの出資でパナマ運河も開通しており、経済的な恩恵が更に向上している。 軍の主軸はこの三洋シーレーンを守る海軍であるが、国土の南北にて他国と接する関係上陸軍も相応のものを備えている。 近年は遅れがちな陸軍戦力の改善を進めており、バチカン対策に西アフリカの駐留部隊増強を進めている。 インカ連合帝国 アステカ同様現代まで生き残ったインカ帝国そのもの。 大凡アステカと同様の疫病による衰退と、周辺国との団結による復興を経験としており、史実のインカ帝国よりも中央集権的な性格が強くなっている。 領土はペルー、チリ、エクアドル、コロンビア、ベネズエラ、アルゼンチン、ボリビア、ウルグアイ、ガイアナ、スリナム、ギアナ、東部を除くブラジルのほぼ全土。 また新大陸国家の御多分に埋もれず西アフリカに植民地を持っている。 最もブラジル地域は領土宣言をしているだけで、ジャングルの奥深くまでインカの施政権が及んでいるわけではない。 ほぼ南米全土を保有するだけあり、結構な国力を誇るがブラジル領に関しては前述の通りジャングル全てに施政権が普及しているわけではない。 ブラジル領の占有宣言も英丁連合がブラジル東部を植民地にしたことへの対抗という面が強い。 インカも太平洋、大西洋、カリブ海の三洋経済圏の恩恵を授かる国であり、非常に経済活動が活発。 軍事力はこちらも海軍を中心としているが、陸地も広いため陸軍も相応の規模の部隊が存在している。 近年はパナマ運河の開通で好景気に沸いており、西アフリカにおいてもアステカと協力体制を引きながら度々ちょっかいを出してくるバチカン聖国に対応している。 598:トゥ!ヘァ!:2023/03/19(日) 19 08 45 HOST FL1-203-136-35-38.kng.mesh.ad.jp バチカン聖国 かつてのバチカンが周辺国を主導してアフリカ大陸へ脱出して建国された国。 地中海を渡り、北アフリカへ到達。 そこからサハラ砂漠を超えて、中央アフリカに至り、史実におけるコンゴ付近にキリスト教の王国を築いたのが始まり。 このサハラ砂漠踏破はサハラの奇跡として語り継がれている。 領土は中央アフリカ一帯及び南部アフリカ全域。またエチオピアを含む東部アフリカからマダガスカル島まで。 サハラ砂漠打破後に同じキリスト強国であったエチオピアの力を借り、建国。 以後同地域を開拓、周辺部族を制圧しながら力を増し、エチオピアと力関係が逆転したところを見計らって同国に侵攻。併合した歴史を持つ。 このため紅海経由でエジプトへと逃げ出したエチオピア正教会関係者からバチカン聖国の情報が伝わり、その存在が発覚した。 また恩を仇で返した経緯からエジプトを始めとするアフリカ系キリスト教関係者から強く警戒、または嫌われている。 異教徒、異民族であるモンゴルにより故郷を追われ、聖地も奪われた関係からモンゴル及び異教徒、異民族に非常に攻撃的な性格を持っており、20世紀現在においても対モンゴルにおける急先鋒。 新大陸生活が長かった結果大きく教義が変化してしまっている英丁連合相手にもいい顔をしないほど(しかし完全に敵対するほどの馬鹿でもない) アラビア海付近にて度々モンゴル海軍と衝突しており、19世紀ごろには紅海沿岸経由で北アフリカに侵攻。 蒙景(もうけい)戦争を起こした。 同戦争において、戦争序盤は勢いのあるバチカン軍が押していたが、軍事改革を進めていたモンゴル側の中枢部隊が到着すると戦況が逆転し、バチカン側の敗北で終わった。 以降両国はサハラ砂漠や紅海を境に睨み合いが続いており、この状況は蒙・景冷戦と呼ばれている。 現在のバチカンは軍事増強の傍ら、西アフリカにも歩を進めており、現地に植民地を持つアステカやインカと度々衝突している。 因みに日本は身内に景教が存続している関係から異端扱いされており、関係が薄いはずなのに敵意を持たれている。 異教よりも異端の方が許しがたいらしい。 西アフリカ地域 モンゴルの進撃が北アフリカで止まり、バチカンも中央アフリカの掌握と東・南アフリカ地域への進出を進めた結果近年まで放置されていた地域。 地元部族からなる小国が乱立しており、これらを巡って英丁連合、アステカ、インカ、バチカンなどが奪い合いが進んでいる。 東南アジア地域 主に大陸側。インドシナ半島の国々がモンゴル帝国に参加しており、海側のマレー半島やボルネオ島、スンダ列島などの島々は日本側の庇護下に入っている。 16~18世紀までは東南アジアにおいても日蒙の駆け引きがバチバチに行われていたが、19世紀には一旦沈静化し、20世紀現在では大凡情勢は安定している。 599:トゥ!ヘァ!:2023/03/19(日) 19 10 40 HOST FL1-203-136-35-38.kng.mesh.ad.jp 投下終了 前に投下したオスマン・モンゴル世界ネタを基に練り直した作品です。 本当はブリテンゲートより先に書いていたんですが、あっちの方が筆が乗ってしまったので先に投稿することに。 その後はブリテンゲートネタと被っていたところを幾らか手直しして今回投下しました。 それでも割とネタ被っている部分があって少し気になる…
https://w.atwiki.jp/freejapan/pages/100.html
合計: - 今日: - 昨日: - ゆっくり街宣・中国駐名古屋総領事館移転に関する抗議その5 http //www.nicovideo.jp/watch/sm11686430 中華人民共和国駐名古屋総領事館総領事 張 立国殿 報道によれば、 本年度内の売却が予定されている名古屋城近くの元国家公務員宿舎「名城住宅」 の跡地を 在名古屋中国総領事館が一部用地の取得を希望しており、 名古屋都心一等地は、中国総領事館に生まれ変わる公算が大きくなった。 とあり、詳細としては、 在名古屋中国総領事館は移転用地として「名城住宅」跡地南側の、 約1万平方メートルの取得を希望しており、 跡地を管轄している東海財務局側には、 既に意向を伝えているということである。 財務局によると、跡地の売却先は学校や病院など公共性のある団体等に限られる。 財務局で4月15日から7月14日まで取得希望を受け付け、 希望者の用途や資金力などを審査し、 9月以降に開く、国有財産東海地方審議会の答申を経て、売却先が決まるということである。 以上が、報道による情報である。 私からは東海財務局に、売却先である在名古屋中国総領事館が、日本にとって、名古屋にとって、 公共性のある団体等の範疇に値する対象であるのかということを、 ぜひ、チベット、ウイグル、南モンゴルなどの少数民族への弾圧。 法輪功などへの宗教弾圧。 「08憲章」の主要起草者、劉暁波(りゅう ぎょうは、)氏の逮捕をはじめとする、 中国民主化知識人への思想弾圧。 などの、人権侵害を国家運営の基幹とする共産党一党独裁国家の、 日本侵略の橋頭堡であると言うことを熟慮いただき、 ぜひ、売却先リストからはずされることをおすすめしておく。 話はたちもどるが、 跡地沿いの路線価は1平方メートルあたり19万円。 国土交通省の土地総合情報システムによると、周辺物件は、 1平方メートルあたり20万円強で取引されることが多いとのことである。 売却価格はこれを上回るとみられ、在名古屋中国総領事館の希望取得面積が、 約1万平方メートルであるのならば、土地取得代金だけでも、概算で、約20億円以上。 建物を新規に建て、移転費用その他諸雑費や経費をこれに加えれば、プラス10億円としても、合計で約30億円。 新し在名古屋中国総領事館に、貴国がつぎ込むこの約30億円は、はたしてどのような金銭なのか? チベット、ウイグル、南モンゴルなどの少数民族から搾取したかね。 法輪功などへの宗教弾圧での臓器の売買により得たかね。 中国民主化知識人への思想弾圧により、収監した中国民主化知識人の親族、支持者からむしりとったかね。 はては、日本の各種 O、D、A、や、アジア開発銀行、中国進出企業の社長をハニートラップや、 資源がアルアルとか、人材がアルアルとか言って資金を出させてだまし取る。 中国人お得意の「アルアル詐欺」で日本人からだましとったかねなのでしょうか? ぜひ、資金の出所を明らかにしていただきたい。 このさい、日本国政府外務省にも、この資金の調達内容を精査された上での、 在名古屋中国総領事館の移転の許可を出されることを、おすすめしておく。 さて、問題はここからである。 現在、中国駐名古屋総領事館は、名古屋市東区の住宅街の中にあり、 その警備状況は、きわめて緊張感が高く、周辺住民への生活環境への支障が甚大である。 さらに、 外周警備を担当する、愛知県警名古屋東署は、24時間体制で警備にあたり、 名古屋総領事館を中心とし、 半径100メートル、200メートル四方の街区に外周規制線をはり、 昼間においては検問箇所を常時4ヶ所も稼働させ、 名古屋総領事館横の民間露天駐車スペースに指揮車を、 外周基幹道路には、南北にそれぞれ1~2台の箱バン、及び交代要員の待機用バス車両を配置している。 これらは全て、都道府県警察予算とよばれる愛知県警の予算であり、 それはすなわち、我々愛知県民が負担しているのであります。 中華人民共和国駐名古屋総領事館総領事 張 立国殿 現状でさえ、貴国の不徳の致すところによるこういった過剰警備の金銭的負担を、 我々、名古屋市民に背負わせているにもかかわらず、 貴国は、こともあろうに、現在の名古屋総領事館の敷地面積の約300平方メートルから、 その、約33倍の約1万平方メートルの敷地に引っ越すと言われる。 敷地面積の拡大は、業務の拡大を目的としていると考えられるが、 単純に考えれば、この名古屋に、今までの33倍の中国人が来るための準備であるとも受け取れるが、 それはまたの機会に抗議させていただくとして、 もし、その敷地面積約33倍の中国駐名古屋総領事館の移転が実現すれば、 移転先所轄の名古屋北警察署は、単純に考えれば、 現状の名古屋東署の警備体制の、約33倍の警備体制の規模が必要とも考えられ、 警備体制の規模の拡大は、県警察予算への負担、 ひいては、我々愛知県民の税負担にのしかかってくるのであります。 貴国が、もし、こういった警備体制に関して、少しでも愛知県民の負担を減らそうとか、 愛知県警の予算を抑制してあげようとかの、思いやりが少しでもあるのならば、 今からでも、引越し後の即時対応を考慮し、 ただちに、人民解放軍や武装警察のキャリアを中国駐名古屋総領事館に配置し、 移転先、新規中国駐名古屋総領事館には、それらの有事実戦実行部隊の秘密舎屋を設計に入れ、 愛知県警の予算を抑制できるよう、全人代において、 中国駐名古屋総領事館警備の人民解放軍や武装警察の派遣費用の予算計上を計られるよう、 本日の抗議において、申し入れしておきます。 平成22年8月8日 ゆっくりぃーーー
https://w.atwiki.jp/cttum/pages/27.html
師濤さん 師濤 | AMNESTY INTERNATIONAL JAPAN http //www.amnesty.or.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=1493 中国のジャーナリストであり詩人でもある師濤さんから自由を奪ったもの、それは電子メールでした。 師濤さんは、米国系インターネット企業Yahoo!(ヤフー)のメールアカウントを使って、2004年4月に米国へ電子メールを送信しました。 Yahoo! は師濤さんの個人情報を中国当局に提供し、その結果、師濤さんのメールは当局の検閲を受け「海外に国家機密を不法に提供した」という理由で逮捕されたのです。師濤さんが送った電子メールは、天安門事件記念日の期間中に報道が扇動して社会不安を引き起こさないよう警告する、中国共産党の内部指令書に関連した内容でした。 2004年11月に拘禁されて以来、裁判では当局の妨害により弁護士不在のまま師濤さん自らが弁護を行いました。また、家族は当局によって自宅や職場で嫌がらせを受け、師濤さんとの面会も容易ではありません。師濤さんは2005年に有罪判決を受け、10年の刑に服しています。 Yahoo! は、師濤さんの個人情報を中国当局に提供した時にはその調査内容を知らなかったという宣誓供述を議会に提出。2007年11月、下院外務委員会はこれを非難し、Yahoo!の最高経営責任者であるジェリー・ヤン氏が同委員会と傍聴席にいた師濤さんの母親の高琴声さんらに謝罪する一幕もありました。 中国当局によるインターネット検閲と個人情報収集に協力したYahoo!は、その企業倫理が問われています。 「表現の自由」への遠い道のり (C)private インターネットへの規制は、ますます強化されています。インターネットを通じて情報を送ったり、受け取ったりしたというだけで、少なくとも50人の人が投獄されました。 アムネスティは、中国政府が検閲によって人びとの表現の自由を弾圧している問題を訴えています。さらにアムネスティは、師濤さんは「良心の囚人」であると考え、師濤さんや同様の理由で投獄されている人びとが即時無条件に釈放されるよう、中国当局に要請しています。 参考URL 中国「ネット弾圧」事情 中国人ジャーナリストが講演-JanJanニュース http //www.news.janjan.jp/world/0806/0806210227/1.php?action=tree 大紀元時報-日本 http //jp.epochtimes.com/jp/2007/11/html/d18890.html 大紀元時報-日本 師濤氏に10年間の懲役 http //www.epochtimes.jp/jp/2005/05/html/d68168.html ジェリー・ヤン、証言台に立つ:NBonline(日経ビジネス オンライン) http //business.nikkeibp.co.jp/article/world/20071126/141513/ 大紀元時報-日本 獄中作家委員会・張裕氏、都内で講演 http //jp.epochtimes.com/jp/2008/06/html/d62838.html 北京五輪開幕に向け、Googleら検閲に協力のネット企業への批判高まる - ITmedia News http //www.itmedia.co.jp/news/articles/0807/22/news048.html Web「正論」|Seiron トップ偽証と非難 ヤフーの「中国政府協力」 米下院委 http //www.sankei.co.jp/seiron/wnews/0711/web-news1108-3.html 前北京大学・焦国標教授来日、中共当局の言論統制を批判 大紀元時報-日本 http //www.epochtimes.jp/jp/2006/03/html/d70878.html ヤフー社「記者のメール情報を中国当局に提供」認める | WIRED VISION http //wiredvision.jp/archives/200509/2005091304.html 米ヤフーのヤンCEO、中国人活動家の釈放支援を米国に要請 ニュース - CNET Japan http //japan.cnet.com/news/media/story/0,2000056023,20368094,00.htm 師濤さんに関するニュース一覧 新着記事は見つかりませんでした。 _ _
https://w.atwiki.jp/fallout3/pages/630.html
モンスター / 中国軍ミサイルランチャー 危険度 体力 移動 S P E C I A L Big Guns Melee Weapons Small Guns 武器 小銃系 ★★★ 40~180 等速 6 5 5 4 3 6 4 37~81 39~83 39~83 ミサイルランチャー ミサイルランチャーで武装した兵士。ステータスは火炎放射器兵と同等。高レベルでは通常の中国兵の2倍のHPを持つ。 リンク The Vault (英wiki)