約 169,580 件
https://w.atwiki.jp/occultfantasy/pages/2755.html
ベトナム 幽霊 沖縄県 ま行の妖怪 マー(Ma) (1)ベトナム語で幽霊のこと。コンマー(コンマ)とも。適当にあしらわれたりすると強力な魔物コンクイに化ける。 (2)沖縄県久米島町の民話に登場するマジムンの一種。 参考文献 藤井伸二『改訂版 金なし、コネなし、ベトナム暮らし!』45頁 日本民話の会『むぬがたいの会の語り 新しい日本の語り 10』62頁
https://w.atwiki.jp/occultfantasy/pages/1682.html
ベトナム ラック・ロン・クァン(Lạc Long Quân) ベトナムの伝説に登場する人物。漢字表記は貉龍君。 参考文献 朝里樹/えいとえふ『世界怪異伝説事典』51頁 フィリップ・ウィルキンソン/林啓恵/飯原裕美『世界の神話大図鑑』340頁 神話雑学研究会『全部わかる世界の神々と神話』145頁 冨田健次『ベトナムのむかし話』9, 24, 158, 159頁
https://w.atwiki.jp/airport2000/pages/187.html
プノンペン国際空港(IATA:PNH - ICAO:VDPP) 官民、軍、海抜12㍍、滑走路1(3301/45) 11.546556,104.844139 国内線 シェムリアップ ――――PMTエア ――――ロイヤルプノンペン航空 ――――シェムリアップ航空 ラタナキリ ――――プレジデント航空 ――――PMTエア ――――ロイヤルプノンペン航空 韓国 仁川 ――――大韓航空 ――――アシアナ航空 ――――ロイヤルクメール航空 中国 北京 ――――中国南方航空 上海浦東 ――――上海航空 広州 ――――中国南方航空 香港 ――――ドラゴンエア ――――シェムリアップ航空 台湾 台北 ――――チャイナエアラインズ ――――エバー航空 ――――アンコール航空 ラオス ビエンチャン ――――ベトナム航空 マレーシア クアラルンプール ――――マレーシア航空 ――――エアアジア ペナン ――――トランスマイルエアサービシズ シンガポール シンガポール ――――シルクエア ――――ジェットスターアジア航空 タイ バンコク・スワンナプーム ――――タイ国際航空 ――――タイ・エアアジア ――――バンコク航空 ――――プレジデント航空 ――――PMTエア ――――シェムリアップ航空 ウタパオ ――――PMTエア ベトナム ハノイ ――――ベトナム航空 ――――PMTエア ホーチミン市 ――――ベトナム航空 【エアアジア】 【タイ・エアアジア】 【アンコール航空】 【アシアナ航空】 【バンコク航空】 【ドラゴンエア】 【チャイナエアラインズ】 【中国南方航空】 【エバー航空】 【ジェットスターアジア航空】 【大韓航空】 【マレーシア航空】 【プレジデント航空】 【PMTエア】 【ロイヤルクメール航空】 【ロイヤルプノンペン航空】 【上海航空】 【シェムリアップ航空】 【シルクエア】 【タイ国際航空】 【トランスマイルエアサービシズ】 【ベトナム航空】
https://w.atwiki.jp/oink/pages/15.html
韓国人男性との結婚 ベトナムやキルギスで禁止の方針が浮上 2014.07.26 画像 韓国では2000年代以降、外国人の花嫁が増えている。その多くが仲介業者のあっせんで韓国の農村部に嫁いでいるが、夫から虐待を受けた末に殺されたり自殺したりする悲劇が後を絶たない。今年に入ってからは、江原道で36歳の韓国人の夫がベトナム人妻(21)の首を絞め殺害した事件も起きている。そして、2007年以降、韓国では「外国人妻の悲劇」がほぼ毎年発生しているのだ。ジャーナリストの室谷克実氏が、韓国での外国人妻の悲劇について解説する。 * * * 嫁いだベトナム人妻を待つのは、韓国社会からの差別、家庭内での暴力だ。 韓国農村経済研究院が全国34の農村部に暮らす国際結婚した400世帯を面接調査したところ、外国人妻の約2割が「ここ1年で家庭内暴力を経験した」と答えた(『東亜日報』2012年4月19日付)。家族から無視され侮辱的な言葉を浴びせられたり、外出を禁じられたりする上に殴るぞと脅され、また、実際に殴られた妻が少なくなかったという。 韓国の女性家族部の調査では、家庭内暴力を受けている外国人妻は7割にも上る。韓国KBSは外国人妻の相談窓口に寄せられた事例として、韓国人男性と結婚し、2度妊娠したが夫に人工中絶を強要されたベトナム人妻や、結婚してから5年間、韓国人夫の暴力を受け続けているフィリピン人妻の肉声を伝えた 言葉もわからず、生活習慣も異なる韓国で夫から暴力を受け、舅や姑にもいじめられ、さらに労働力としても酷使される外国人妻の支援団体関係者は「外国人女性を妻にしたと考えているのではなく、自分が対価を払って連れて来たのだから、自分の好きにしていいという間違った考え方が暴力につながっている」と説明する。 相次ぐ事件を受けベトナムなど各国は対策に乗り出した。 2010年には半官半民の「ベトナム女性連盟」と韓国政府の間で、韓国人男性の経済力や家族構成、健康状態などの基本情報を国際結婚仲介業者に通知させる制度を作ることが合意された。しかし、書類を捏造するなど虚偽が横行したため実効性は皆無。2012年にはベトナム女性連盟が、50歳以上、または年の差16歳を超える韓国人男性との結婚を禁止する方針を打ち出した。 ベトナムだけではない。同じく仲介業者による「売買婚」の標的であるカンボジアはこれまで数次にわたり「韓国人男性との結婚禁止」措置を講じてきた。昨年3月には中央アジア・キルギスの副首相が韓国大使に、キルギス人妻が韓国で「不幸な生活を送り、中には死に至るなどの問題が報告されている」と伝えた上で「議会では韓国人との結婚を禁止する必要があるとの話まで出ている」と述べた。 これに対し韓国大使は「多文化家庭(国際結婚家庭)の結婚問題はキルギス人女性だけに限られたものではない」「幸せな結婚生活を送る多文化家庭も多い」などと答えたという「(『サーチナ』2013年10月7日付)。 大使の言葉に表われた「問題軽視」の不誠実さこそ悲劇の温床と言える。今年4月、韓国政府は国際結婚に伴う移民ビザを申請する外国人には韓国語の習得を、韓国人配偶者には年収1480万ウォン(約148万円)以上を条件として課した。しかし、そうした規制強化は「農村部の男性の結婚相手を選ぶ範囲を狭くし、結婚費用をかさませるだけ」(国際結婚仲介業者)と冷めた声も聞かれる。 実際、業者による「売買婚」はベトナムに始まり、次から次へと貧しい国々を物色し、市場を開拓してきた。 ※SAPIO2014年8月号
https://w.atwiki.jp/timeline/pages/167.html
国家運営界隈とはリアル志向、大戦やソ連の会等を中心とした界隈の総称である。 別称では国家界隈とも言われる。 注 Time LINEとは余り関係が無い 現在ある国の一覧 もう確認次第書いていってくれ ソ連の会 二重帝国(オーストリアの会、ハンガリー王国の会) 日本国の会 ノルウェーの会 フィンランドの会 第三帝国連邦 中国の会(北中国、南中国) カナダの会 ペルーの会(現モザンビーク) ベトナムの会 インドの会 アメリカの会 ナイジェリアの会 オセアニア連合 イギリスの会 レソトの会 中央アジア連邦共和国 エストニアの会 ベラルーシの会 韓国の会 北朝鮮の会 ナチス ドイツ モンゴルの会 アメリカの会 ボツワナの会 欧州共和国 新ナイジェリアの会 ワカンダの会 スペインの会 ジャマイカの会 ブラジルの会 現在の関係性 現在ではベトナム(ソ連)、アメリカ、二重帝国(OHTO)の3カ国で冷戦状態であり、一強状態では無い。 元々はソ連の会と鳥の会(旧ソ連の会を潰す会)で対立が起こっていた。元々二重帝国に入る余地も実力も無かったのだが... 外的勢力である帝越財団と戦争になった際、二重帝国(当時は三重帝国)が主戦力を担った為に、外的勢力の帝越財団や新天地を同盟に組み込み、二重帝国条約機構(OHTO)を形成、更に外的勢力のゆゆゆオプと戦争を始め、軍事力を大幅に上げる事に成功する。そしてOHTO加盟国であるカナダの会、ペルーの会により、南北アメリカの領土を巡ってベトナム、アメリカと対立する。結果的には全面戦争は避けられたが、ブラジルと仏領ギアナ以外の南アメリカ、カナダの島嶼部がベトナムに渡り、ペルーは植民地だったモザンビークに撤退する。 ソ連の会が支援するベトナム 鳥の会が支援するアメリカ OHTOを形成している二重帝国 国家の会界隈ではどの陣営に入るか選ぶのも楽しみの一つであるだろう。 がしかし、現在アメリカ 二重帝国vsソ連 ベトナムで世界大戦が起こっている。()
https://w.atwiki.jp/yuanshu/pages/11.html
ベトナムのジャングルにようこそ 「バトルフィールド」シリーズが新たな時代を迎える。武器や兵器、車両も近代化され、樹木が鬱蒼と茂るベトナムのジャングルが新たな戦場だ。 プレイヤーはアメリカ軍または北ベトナム軍(NVA)として戦いに挑むことになる。アメリカ軍側であれば、UH-1戦闘ヘリやUH-1輸送ヘリ、シェリダン戦車、F4ファントム、北ベトナム軍側であれば、ソビエト製のT54戦車、MiG-21戦闘機、Mi-8型戦闘ヘリなどを駆使して戦うのだ。 ヘリコプターの編隊を指揮して敵の居住地に攻撃をしかけることも、敵の兵士を深い茂みから追い払うために待ち伏せ攻撃を仕掛けることも可能である。 兵士達よ、激烈を極めるベトナム戦争に勝利せよ! (EA Japanの公式サイトより) 動作環境 必須動作環境 CPU PentiumIII® 933MHz以上 RAM 256MB以上 HDD 2GB以上の空き容量 サウンドカード DirectX® 9.0b互換のサウンドカード ビデオカード VRAM 64MB以上、DirectX 9.0b対応、AGP接続のビデオカード CD-ROM速度 16倍速以上 DirectX DirectX® 9.0b その他 入力装置:マウス、キーボード 推奨動作環境 CPU Pentium4® 2GHz以上 RAM 512MB以上 HDD 2GB以上の空き容量 サウンドカード DirectX® 9.0b互換のサウンドカード ビデオカード VRAM 128MB以上、DirectX 9.0b対応、AGP接続のビデオカード CD-ROM速度 16倍速以上 DirectX DirectX® 9.0b その他 入力装置:マウス、キーボード
https://w.atwiki.jp/pekinbbs/pages/9.html
更新履歴 取得中です。 大躍進から文革 http //jpbbs.chinabroadcast.cn/viewtopic.php?p=1409#1409 産經新聞1994年7月18日付 【ワシントン17日=熊坂隆光】中国で毛沢東主席が実権を掌握していた1950年から76年の間に、急進、過激な経済政策の失敗により伝えられるよりはるかに多数の人民が死亡し、文化大革命の犠牲者などを合わせると死者数は8千万人にも及ぶことが明らかになった。17日のワシントン・ポスト紙が報じたもので、毛主席にその責任があると論評している。同紙は、この数字について中国や西側学者の研究と同紙独自の調査を総合した結果としており、具体例を挙げて数字の正確さに自信を示している。経済政策の失敗や文革の犠牲についてはこれまでも研究や報道があったが、大幅に塗り替えられることになる。同紙によると、死者の多くは「人災」と断定できる飢きんによる犠牲者。原因のほとんどは大躍進政策を強引に推し進め、西側に追い付こうと農業生産より工業生産を重視した毛主席の誤りとしている。プリンストン大現代中国研究センターの陳一諮氏によると安徽省の飢きん(59-61年)では、4300万人が死亡したという。 中国社会科学院が89年にまとめた581ページに及ぶ調査資料によると、この飢きんでわが子を殺して食べてしまった例や人肉が商品として取引された例などが記録されているという。このため中国政府自身がある程度実態を把握しつつあるのではないかとみられる。 中越戦争 http //jpbbs.chinabroadcast.cn/viewtopic.php?p=1425 highlight=#1425 http //jpbbs.chinabroadcast.cn/viewtopic.php?p=4818#4818 中華人民共和国のベトナム侵略とその後の対応について、中国の方は情報統制されているようなので、細部を提示させていただきます。また、50年なら許されないが、721年前なら許せるんですよね。侵略したら謝罪と賠償ですよね。侵略した人物は尊敬してはいけないんですよね。 1788 清軍が越南に出征しハノイに入城、黎維を安南国王に冊封 西山朝の阮文恵がユエで即位(光中帝) (約200年前)(年表より) 引用 鄧小平(偉大な中国共産党指導者ですよね) 1979年2月12日、中国軍は20万の大軍をベトナム領内に侵攻させた。そして同年3月、中国軍は「目的達成」を一方的に宣言しベトナム領内から撤退した。ベトナム軍機関紙は「中国は『多大な損害』をこうむったのち、ベトナム軍を前に敗走したと発表した。」(注75)同時に、中国軍は、一般市民に対して残虐行為があったと非難し、中国はそれに反論し、応酬が続いた。 中越戦争記述で修正要求 江中国主席、越訪問で 【ハノイ17日共同】中国の江沢民・共産党総書記(国家主席)が2月末にベトナムを訪問、ノン・ドク・マイン共産党書記長ら指導部と会談した際、1979年の中越戦争などについて、ベトナムの高校歴史教科書や党史の書物への「友好的な記述」を求めていたことが分かった。ハノイの外交筋が17日までに明らかにした。 共産党一党支配体制を堅持しつつ市場経済化を進める両国が、グローバル化が進む世界の中で、歴史的経緯から引きずっている「わだかまり」に区切りをつけ、両国民の意識の面でも連携強化を図る中国側の狙いがあるとみられる。 しかし、中越戦争に関しては「加害者としての負い目」もあるためか、日本の対中戦争について「歴史を鑑(かがみ)」とするよう再三求める強硬姿勢とは好対照を見せている。 共同通信 2002年03月17日 ベトナム外相が江沢民に「中越戦争の謝罪」を要請したが、「もっと未来志向にならなくてはならない」と謝罪を拒否 引用終わり 皆さんが、小泉首相の靖国参拝に反対されている理由は、中国侵略の主犯たる「A級戦犯」が祭られている靖国神社に、日本の首相が参拝するということは、日本自体が中国侵略を反省しておらず、とりわけ本気で謝罪するつもりがあるのなら、代表たる首相が参拝などできるはずがない。とのことですよね。 日本 「A級戦犯」=侵略者 侵略者祭っている靖国神社を日本の代表たる小泉首相が参拝 中国 鄧小平氏(中華人民共和国の偉大な指導者)=ベトナム侵略者 鄧小平氏を中国共産党規約において「行動の指針」と位置づけ 引用 中国共産党は中国労働者階級の前衛部隊であると同時に、中国人民と中華民族の前衛部隊であり、中国の特色のある社会主義事業を指導する中核であり、中国の先進的生産力の発展の要請を代表し、中国の先進的文化の前進する方向を代表し、中国の最も広範な人民の根本的利益を代表する。党の最高の理想と最終の目標は共産主義を実現することである。 中国共産党はマルクス・レーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論と「三つの代表」という重要な思想をみずからの行動の指針とする。 ベトナム共産党第5回大会 政治報告 『世界政治』1982年5月上(通巻620号)、22-37頁、日本共産党 政治報告のうち第1部「全般的な情勢と課題」、第5部「世界情勢およびわが 党と国家の対外政策」の翻訳 (1982年3月28日、29日付『ニャンザン』紙より翻訳) ベトナム共産党第五回大会 (三月二七日~三一日) レ・ズアン書記長の中央委員会政治報告から (三月二七日) 第一部 全般的な情勢と課題 略 しかし、再建がいくばくも進まぬうちにわが民族は中国の敵対政策がもたらした、きわめて重大な新たな試練にまたもや直面しなければならなかった。 中国の指導者たちは、東南アジアに拡張する夢を実現する道を開くために、ベトナムとインドシナ半島を併合するたくらみを古くから抱いていた。 略 彼らは、独立、統一、社会主義のベトナムを、東南アジアにおける彼らの拡張と覇権の意図にとっての大きな障害であるとみなした。 略 一九七九年初頭、中国の反動一味は、大規模な戦争を公然と発動し、六〇万の軍隊を送ってわが国北方の国境全線にわたって攻撃させた。中国の政権担当グループのなかの反動集団は、この犯罪的戦争を遂行することで、わが人民の直接の危険な敵であり、同時に、インドシナと東南アジアにおいて民族独立、平和、安定を脅かすきわめて凶暴国際反動勢力であることをみずから暴露した。彼らは、拡張主義、大漢覇権主義に従い、社会主義にはむかい、諸民族の独立にはむかい、天下の中心になり、全天下を支配しようという狂った妄想を抱くものとしての、彼らの反革命的本質を全世界にさらけ出した。 略 引用終わり 戦後60年、日本は侵略をしましたか。中国は、ベトナム人から侵略者と認定されているようですが。
https://w.atwiki.jp/springwater/pages/116.html
株式会社ブレインワークス 代表取締役 近藤 昇氏 -SW- 本日はお忙しいところありがとうございます。本日のこのインタビューは6月に講演をお願いさせて頂いた社長直伝セミナーに参加する方々に、近藤社長を少し知って頂くためのものです。いくつかの項目でインタビューさせて頂きます。宜しくお願いします。まず、お伺いしたいことが『起業』についてです。なぜ『起業』を選ばれたのですか? -近藤社長- 正直仕事は嫌いでした。ただ、生まれ育った家が農家だということもあり「働いても自然相手では稼げないことがある」という厳しい環境も知っていました。 食べていくためには働かないといけないのでいくつかの選択肢の中からゼネコンに入りました。現場監督をやりたかったんです。ところがなんとコンピューター室に配属となりITを学ぶことになった。一日中部屋に押し込められるようなことになりました。初めは嫌で嫌でしょうがなくて、でもそれでも食べていくために仕事はしないといけなかった。今とは違って転職なんてメジャーじゃなかった頃の話です。起業なんて、全然考えていませんでした。 -SW- 意外です。ここからどのように起業につながっていくんですか?? -近藤社長- それなりに仕事を覚えてくるとITがどんなものかが解ってくる。どんな環境にいても農家で育った自分のバックボーンは変わらないわけで、ITを斜めに見るようになりました。それで気が付いたんです。所詮はツールでしかないってことに。今でこそみんなツールだと言うようになりましたけれど、私は昔からそんな感覚でいました。入社後半年くらいで会社の飲み会で足の骨を折りました。。このケガがキッカケで「出世」に価値を感じなくなったんです。会社に対しても面白みを感じられなくなり、それなら自分でやろうと思ったんです。 「起業したかった!」といった感じではなく、その時思いついた選択肢が起業だったんですね。 -SW- 現在、近藤社長はブレインワークスでIT関連の事業をされていらっしゃいますが、創業当時からIT関係のことをなさっているんですか? -近藤社長- いいえ、違うんです。会社を作った当初は子供服のリサイクルを行っていました。子供服を回収して付箋をつけて値段書き、サイズ別に畳んで並べて。実は個人的にこのような細かい作業が好きだったりもします。狭い部屋だったので衣類の繊維が舞って頻繁に頭がグルグル回ってました(笑) -SW- 設立当初の事業が子供服のリサイクルとは予想外でした。ちなみにもし「起業」以外の選択肢を思いついていらっしゃったら違っていたでしょうか? -近藤社長- それは今でも時々考えます。別の選択肢があったらまったく別の人生だったんだと思います。ゴルフに出会っていたならばプロを目指していたかもしれない!!どちらかというと、「違った人生でもよかったのでは?」と、考える自分がいたりしますね。でも、このように考えるのは後悔という感情ではなく、全く違う感情です。 -SW- 続いて話を少しベトナムに移していきたいと思います。6月の社長直伝セミナーでもベトナムについても大いに語って頂きます!!10年前からベトナムでビジネスをされている近藤社長にとってのベトナムを一言で表すならどんな国ですか? -近藤社長- あえて格好良く言わせてもらえとするなら、ベトナムは「必然」でめぐり合った場所 偶然に偶然が重なって出合った場所 私自身の考え方として偶然を最終的には必然と思えるかどうかが重要だと思っています。必然と思えるかどうか?何事もそこが勝負だと思うんです。人のせいにしたり、チャンスが無いとぼやいている人は、考え方をちょっと変えてみると良いと思います。 そういう意味でもベトナムは私にとって「必然」で巡りあうべくして出合った場所です。とても魅力な国ですよ。 -SW- 1つひとつの出会いを「必然」にできるかどうか。自分で偶然を必然にしていくことが重要ということですね。すごく大事なことだと思います。近藤社長はベトナムを訪問されることが頻繁にあるかと思いますが、気をつけていらっしゃることはありますか? -近藤社長- 気をつけていることとは少し違いますが、2年半前ぐらいTOIECにチャレンジしています!!2ヶ月に1回のペースで受験してますね。いつか満点を取る予定です! -SW- TOIECにチャレンジとはすごいです。当日参加する学生の中にもTOIECの勉強をしているメンバーはたくさんいると思いますので、是非勉強法なども少しご紹介頂ければと思います。先ほどベトナムはとても魅力的な国とおっしゃっていましたが、その魅力を1つ教えてください。 -近藤社長- ベトナムの魅力の1つは、日本に有るようで無い感じのする生活感がベトナムにはあることです。例えば、驚くべきことに日本では魚の切り身がそのまま泳いでいると思っている子どもがいる。生活感が薄れていることを表すわかりやすい例です。ベトナムは対照的に生活感がちゃんと残っています。スーパーで買い物をすると良くわかるんです。ベトナムでは魚の頭が普通に道に落ちています。4~5年前のベトナムでは鶏が生きたまま店先で売られていました。私が子どもの頃に体験した光景と何ら変わらない、食べる時に首を落とすといった光景があたりまえなんです。 -SW- セミナー当日では、もっとたくさんベトナムのお話をお聞かせ下さい。では、最後に今の日本の若者に望むこと、伝えたいことをどうぞ! -近藤社長- 私は農家出身で幼い頃から家業の仕事を手伝うのが当たり前でした。ですので今の子供たちは甘やかされている部分が多いように感じています。子供には「自分で食べたいものは、大人になって自分の稼いだお金で食べなさい」と教えています。親が甘やかして何でも与えていたら、大人になったときに自らの力で得ていく楽しみ自体が少なくなってしまうように感じます。本当に欲しいものは、自分の力で手に入れるということが楽しいことなんだということを伝えたいのです。 私自身が30代前半で会社を起したときに感じたことですが、若いうちは「何の役割で生きてるのか?」「なぜ働いているのか?」といったことが定まっていない人の方が多くそれがむしろ一般的だと思います。そんな学生さんや若い世代の方に是非お伝えしたい私の好きな言葉を最後にご紹介したいと思います。 サンデープロジェクトの財部誠一さんがおっしゃっていた言葉です。 「でたらめと、偶然と、いいかげんの産物が今だ」 この3つが重なって偶然に見つけた「何か」が最終的には必然だった!という人が増えたら、日本は強くなるのではないかなと思いますよ。「新しい事業をはじめる」「合弁で会社を作る」どれも計算じゃない。「偶然からはじまる」なんて場合は沢山あります。ゴルフで一緒の組になって仲良くなったり、飲み屋で意気投合したりといったことがキッカケになったりするんです。だから若いうちはでたらめで、いいかげんで、偶然でいいんだと思う。本気でやることが大切なんだと思います。 -SW- ありがとうございました。セミナー当日にはさらなるベトナムの魅力やパワー溢れるベトナムの若い世代の今についてお話頂くのを楽しみにしています! 編集後記 初めての社長インタビューで、とても緊張してしまいインタビューとはいえないような状態でした。それでも快く質問にお答えて頂いた近藤社長。とても感謝しております。ありがとうございました。 近藤社長は、家業を通して自然の厳しさから多くを学んでいらっしゃる方でした。話の端々でご自身に対しても他人に対しても厳しさを感じる瞬間がありましたが、その厳しさの中には体験に基づく優しさがあるように感じられました。関西弁でハッキリとおっしゃる方なので、セミナー受講者には単刀直入の飾らない言葉から多くを受け取って欲しいと強く思いました。 文責:廣岡 直 当ホームページ掲載の記事、写真、イラスト等の無断掲載を禁止します。 Copyright (C) SpringWater. All rights reserved.
https://w.atwiki.jp/wiki13_mofwiki/pages/688.html
#blognavi 日立GEニュークリア・エナジー(茨城県日立市)は25日、東京工業大学と共同で主に東南アジア向けの原子力分野の人材育成プログラムを開始したと発表した。この日、国営ベトナム電力グループ(EVN)が設立したベトナム電力大学(ハノイ)で、日立GEと東工大の講師による第1回の出張講座を開講したという。急速に拡大する電力需要を見据えて東南アジア各国が原子力発電所の導入を計画する中、必要となる人材の育成を後押しする。 昨年10月にハノイで行われた菅直人首相とグエン・タン・ズン首相の日越首脳会談で、日本はベトナムの第2原子力発電所計画のパートナーとなることが決まっている。ロシアが受注した第1原発と同じく中南部ニントゥアン省に建設される予定の第2原発は、第1原発から半年~1年遅れのスケジュールで進む見通し。 首脳会談での合意の条件の1つには「原子力分野での人材育成への協力」が掲げられており、日立GEと東工大のプログラムはこれに沿ったもの。日立GEは今年3月に発生した東日本大震災に伴う福島第1原子力発電所の事故を受け、原発の安全運転やリスク回避には専門的な教育・訓練を受けた人材を育成することが国際的に緊急かつ継続的に不可欠になっているとする。 こうした考えの下、同社は4月に東工大大学院理工学研究科原子核工学専攻内に「国際原子力人材育成」の寄付講座を開設。さらに今回、ベトナム電力大で日立GEのエンジニアや東工大の教授らが講師を務める出張講座を開講した。今後は他の東南アジア諸国の大学での出張講座の開設、日立GEの奨学金による東工大大学院原子核工学専攻への留学生受け入れ、同専攻の院生の国際原子力機関(IAEA)へのインターン派遣などを進めていく方針だ。 ベトナム電力大での出張講座は春と秋に1~2週間ずつ開き、同大の学部生約40人が受講する予定。日立GEの担当者によれば、タイとマレーシアでも同様の講座開設を検討している。 なお、東南アジア諸国から技能実習生を受け入れている国際人材育成機構(アイム・ジャパン、東京都江東区)もベトナムの原発向けにベトナム人技術者を養成することを検討していたが、福島第1原発事故の影響で凍結した状態だ。 ■原発輸出に意欲 菅首相が脱原発の方針を打ち出し、原発輸出の戦略見直しも示唆する中、日立GEは原子力分野の人材育成プログラムを展開することで、ベトナムからの原発受注につなげたい考えだ。担当者は福島第1原発事故の影響について「脱原発の方針を明確にしている国もあるなど、(影響が)全くないとは言えない」とするものの、「世界的に見れば、原子力発電を1つの電源として計画している国は以前と変わらず多い」と述べ、今後も原発輸出を推進したい意向を示した。 日立GEは2007年、日立製作所と米ゼネラル・エレクトリック(GE)の合弁会社として設立された。原子炉関連設備の開発から据え付け、試運転、保全サービス、プロジェクト管理などまでを一貫して実施する体制を持ち、建設中のものも含めて、これまでに日本国内で23基の原発を手掛けた実績がある。とりわけ最新の改良型沸騰水型原子炉(ABWR)については、日本国内で運転済みの4基、建設中の3基の全てに参画している。また、台湾の龍門原子力発電所向けに、主要な原子炉設備を納入している。 大学受験情報 カテゴリ [ニュース] - trackback- 2011年07月27日 01 57 24 #blognavi
https://w.atwiki.jp/marinaro/pages/138.html
年表、人物と来たので港にもスポットを当ててみませう。 3つか4つで飽きる予定。 第一回 ラグーザ Ragusa(伊) +... DOLではヴェネツィア領地で造船修行の港として著名なラグーザは、現在はクロアチア領ドゥブロヴニク(Dubrovnik)と呼ばれています。今ラグーザをぐぐる先生で調べるとシチリア島のラグーザが引っかかるのでご注意を。 起源は古くローマ帝国時代かそれ以前まで遡れるそうです。11世紀頃からヴェネツィア共和国の影響下で発展し14世紀半ばにはラグーザ共和国として独立。後背地のボスニアやセルビアからの鉱石の積出港として栄え、15世紀にオスマン帝国がバルカン半島に進出してくると宗主権を認めて庇護下に入り、ヴェネツィアに代わって東西交易での中継港の地位を獲得していきます。おそらくDOLとしてはこの辺りの時代背景で港として取り上げられたのではないかと思われます。(その割りにはオスマンではなくヴェネ領地ではないかというツッコミは一切無視します) 15~16世紀に最盛期を迎えたラグーザは17世紀半ばの大地震の影響で緩やかに衰退し、歴史の表舞台からは去るわけですが、さすがヨーロッパの火薬庫と呼ばれたバルカン半島の都市です。一筋縄ではいきません。 19世紀初頭にナポレオン皇帝により共和国が解体されると、オーストリア帝国に併合され、2重帝国支配化に置かれます。第一次世界大戦でその支配下から逃れると20世紀初頭にはセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国に編入、1929年のユーゴスラビア独立とともにユーゴスラビア領となり、更に1991年クロアチア独立とともにクロアチア領となりました。 クロアチア独立の際の内戦でアドリア海の真珠と呼ばれた美しい街並みが戦火に曝され、世界危機遺産リスト(1991~1998)に載ったこともありましたが、今日ではホテルやレストランなども整備され世界中から観光客を呼べるクロアチア最大の観光都市として栄えているそうです。 ちなみにジブリ映画「紅の豚」のモデルの一つにもなったそうですよ。さすがアドリア海の(豚に)真珠。 第二回 ダンツィヒ Danzig(独) +... DOLではダンツィヒで知られるグダニスク(グダンスク Gdańsk 波)はバルト海に面するポーランド最大の港湾都市です。 グダニスクを含む周辺地域はポモジェ地方と呼ばれ、12世紀末~13世紀初頭にはデンマーク王国(ヴァルデマー2世)の影響下にありました。13世紀初頭、父であるグダニスク候ムシチュイ1世からその地位を相続した息子シフィエントペウク2世は、デンマーク支配下から抜け、ポーランド国王(クラクフ公レシェク1世)に臣従します。ポーランド王からポメレリアの支配権を安堵されたシフェイエントペウク2世はその後グダニスクに自治権を与えることになります。 自治権を与えられたグダニスクは当時人口2000名ほどの小さな地方都市でしたが、リューベックを模した都市法を導入し、13世紀末までにはポメレリアを分割統治するほどの権力を蓄えました。 14世紀初頭、チュートン騎士団(ドイツ騎士団)によりグダニスクが占領されドイツとポーランドの間で戦争が勃発しました。ポーランドは勝利を収めながらもグダニスクをチュートン騎士団へ貸与することになります。(カリシュの和約1343年) もともと自治領としての歴史を紡いできたため、チュートン騎士団の支配下でも順調に港湾都市として発達を続けたグダニスクにはこの頃からドイツの移民が増えはじめます。 14世紀半ばにはハンザ同盟へ加入し更なる経済的繁栄を遂げますが、同時に徴税権や裁判権を乱用するチュートン騎士団との対立を深め、15世紀初頭に起きたドイツポーランド戦争(グルンヴァルドの戦い)では再びポーランド側について戦うことになりました。 この戦いでもポーランドが勝利しグダニスクは念願かなってポーランドに帰属…はやっぱり出来ませんでした。チュートン騎士団領は領土割譲などで版図を大きく削るもポーランド王国に隷属という形で残り、グダニスクはその残る部分だったのです。 15世紀半ば、ポーランド王国の庇護を求めてプロシア連合(プロイセン連合ともいう。チュートン騎士団に対抗するための同盟)の設立に参加し、チュートン騎士団の利権排除を目指して13年戦争と呼ばれる戦争を始めます。この戦いでもポーランドが勝利を収め、グダニスクは3度目の正直でようやくドイツの支配から逃れてポーランドの庇護下に入ることになりました。同時にポーランド国王カジミェシュ4世からは自治都市としての特権も認められ、ここから18世紀初頭にかけての2世紀半いわゆる黄金期を迎えることになりました。 DOL的にはちょうどこの黄金期真っ只中ということになり、ドイツ的名称「ダンツィヒ」は影もカタチもない時代と言えますね。なんでダンツィヒになったのか、今度英語圏でのサービスが開始されますが、ダンツィヒの扱いにちょっとわくわくしますw 閑話休題。 ポーランドは移民に寛容な風土があるそうで、上述通りチュートン騎士団の影響でドイツ系移民が増えた時代を経てポーランド人(本国から流入)、ユダヤ人、オランダ人(対イスパニア戦争の難民など)、宗教改革の時代にはルーテル派(ドイツ中産階級)、カルヴァン派(オランダ中産階級など)の受け入れもしたそうです。民族間、宗教間で対立しなかったのはそれだけ経済的に潤っていたからなのかなーなどと穿った見方をしたくなりますね。お腹が脹れてるならけんかする必要ないのです。 18世紀半ばになるとグダニスクはロシアに占領されます。18世紀末の第二次ポーランド分割の際にグダニスクはプロイセン王国へ併合され、正式名称を「ダンツィヒ」と改めます。歴史的にダンツィヒの名前が初めて登場しました。 19世紀初頭フランスでナポレオン皇帝が権力を握り周辺各国への影響度を強める(=プロイセン王国の力が削がれる)と一時的に独立自治を取り戻したダンツィヒ(グダニスク)ですが、ナポレオン戦争終結によってあっさりプロイセン王国の支配下に引き戻されてしまいました。この頃からドイツは明確な支配権を行使するようになり、文化的同化政策を徹底するようになりました。 第一次世界大戦でドイツが敗北し、国際連盟保護下の「自由都市ダンツィヒ」として1世紀半ぶりに独立自治を取り戻したダンツィヒですが、住民はドイツ人、外交権はポーランド(戦勝国)というねじれがおきます。かつては起きなかった民族対立が起きてしまったのはダンツィヒの港湾都市としての衰退を象徴しているのではないでしょうか。 以後第二次世界大戦を経て20世紀半ばにポーランドが独立を回復すると、ダンツィヒは旧名グダニスクに複名し、ポーランド領へ約160年ぶりに復帰することになります。 現在のグダニスクはポーランド有数の観光地で、且つ主要貿易港でもあり続けています。第一次世界大戦、第二次世界大戦で破壊された旧市街はポーランド市民の手によって精密に復元され、近々世界遺産に登録されるのではないかと言われるほど文化的価値が高く評価されています。 第三回 アルジェ Alger(仏) +... アルジェリア民主主義人民共和国の首都であり、同国最大の都市です。 アフリカ大陸北岸に位置し、地中海に面しており、要塞都市として長い歴史を持ちます。 紀元前1200年頃にフェニキア人が入植したのが起源とされ、ポエニ戦争(紀元前264~146)でローマ帝国領土となり、5世紀半ばにはゲルマン人に、次いで東ローマ帝国に支配され、その東ローマもアラブ人に放逐されるなど、常に周辺国家間の支配を受け続ける状態でした。 10世紀半ばに先住民族のベルベル人によって現在の市街地が整備され、以後500年にわたってヨーロッパ、アラブ、ベルベル人が支配権を握り合いました。 1510年にスペインがアルジェ沖の小島を支配すると、アルジェの支配者であったハイレディン兄弟がオスマン帝国に支援を求めスペインと対立する道を選びます。 アルジェを謙譲してオスマン海軍の総司令官職を得たハイレディンはその武力を背景に地中海での海賊行為を繰り返し、アルジェ沖は海賊海岸としてヨーロッパ各国から恐れられました。DOLでもウザイほどにNPCが沸いてますよね。あれはこういう歴史的背景を下敷きにしているものと思われます。 (なおハイレディンのその後はたぶんDOL的人物で誰かが詳しく解説してくれると思います。本稿はあくまでアルジェに焦点を当てていきますよ。) アルジェは交易上の拠点としての側面を持ちながらも19世紀初頭までの約300年間、変わらず海賊海岸としてその名を轟かせていました。 現代の海賊は船舶を襲撃し乗員を人質として身代金ビジネスなどで稼ぐそうですが、当時は密貿易と交易品強奪が主な活動内容だったそうですよ。 なににせよ困窮を非合法活動の旗印にする、セコイ上に非常に迷惑な行為であることは間違いありません。 さてアルジェです。1815年アメリカが海軍力を背景にアメリカ船籍への攻撃を中止する平和条約を求めるも拒否したことが転換期だったのでしょうか。翌16年にはイギリス・オランダ連合艦隊の艦砲射撃を受けアルジェ艦隊は壊滅的な打撃を受けます。そして1830年オスマン艦隊としてのアルジェはやりたい放題の300年の歴史に幕を閉じたのです。 同年フランスがアルジェへ上陸、その後アルジェリア全土を占領しました。1962年に再独立を果たすまで、アルジェを含むアルジェリア全土はフランスの植民地となりました。 現在の大理石の白さが眩しいアルジェの街並みはこの頃に完成したものです。 旧宗主国であるフランスとの結びつきは大変強く第二公用語はフランス語、輸入製品の大部分はフランスからのもので、出稼ぎ労働者や移民の先も圧倒的にフランスと言う状態です。 サッカーでもフランス代表になったアルジェリア系移民の選手は大勢いるようですよ。有名どころだとジネディーヌ・ジダン選手あたりでしょうか。 アルジェの話題からは大分ずれてしまいましたが、オチもなく終わりです。 第四回 ヤーデイン 現地語表記不明 +... DOLではヤーデインとして実装されている港は恐らくは現在ホーチミンと呼ばれるベトナム最大の都市のことだと思われます。DOLの港名はなぜその名前が採用されたのかよくわからないことが多いのです。不勉強といわれればそれまでですが、いつかネタにしようと思ってるアチンとかも意味不明だし… ともかく本稿ではヤーデイン=ホーチミンだと決め付けて紹介していきます。 閑話休題。 海運の発達によって港湾都市が力をつけるというのは何もヨーロッパ圏に限った話ではなく、今回のヤーデインもかつてはクメール人(カンボジア王国)の小さな漁村でした。その当時はプレイノコールと呼ばれていました。クメール語でプレイ=森、ノコール=都、町、土地と言う意味のようです。 1623年カンボジア王チェイ・チェッタ2世が内戦から逃がれてきたベトナム難民にプレイノコールにベトナム式の生活様式を維持した上での定住を許可すると、ベトナム系移民が爆発的に増えていきました。先住のクメール人が軒を貸して母屋を取られたようなものですね。カンボジアは当時タイと戦争状態で疲弊しており、ベトナム難民を受け入れられるような状況ではなかったのですが、勝手にやってくる難民を押しとどめる国力もなかったため、ある意味ベトナムによる文化侵略を受けたといえます。 1698年ベトナムはこの地域からカンボジアの影響力を排除するためグエン・フー・カインを統治者として送り込みました。彼は定住者の拡大を図り街としての体裁を整えていきます。 街の名前もベトナム風に変わり「Gia Định(ザーディン・嘉定)」と呼ばれるようになります。なおザーディンは街の名前ではなく城の名前(嘉定城=ザーディン城。フランスとの植民地戦争で消失)だという説もあります。 以後150年ほどベトナムの支配下にあったザーディンは19世紀半ばベトナムがフランスに敗れて支配権を割譲したことでフランス支配下となりました。1862年ザーディンを中心に現在のラオス、カンボジア地域も加えた仏領インドシナが誕生します。 宗主国となったフランスは正式名称ザーディンから、市民の間で一般的になっていたSài Gòn(サイゴン)という呼び名を採用し、街の名前を改名しました。 植民地となったサイゴンはフランスの影響のもとで植民地貿易の中心として急激に発展し、その美しさは「極東の真珠」とも「東洋のパリ」とも形容されるほどです(コロニアル文化=植民地文化)。今もなお当時の欧風建築物が残っていて大変美しい街並みだそうですよ。行ってみたいものです。 1939年ドイツ軍のポーランド侵攻によって始まった第二次世界大戦の影響は東南アジア諸国にも及びベトナムも日本とフランスの二重統治下におかれて政情不安になっていました。本流であった王政復古と、その支配を良しとしない共産主義者との対立は冷戦下における列強の介入を招きますが本稿の趣旨からは外れますので割愛します。 対仏独立を目指した共産主義ベトミン(指導者ホー・チ・ミン)はディエンビエンフーの戦いでにフランスを破りました。これによってフランスはベトナム全土から撤退し、仏領インドシナは約90年の歴史に幕を下ろしました。サイゴンはベトナム王バオ・ダイ帝の政府に組み込まれその首都となります。同年ジュネーヴ協定によりベトナムが北ベトナム(ベトナム民主共和国・首都ハノイ)と南ベトナム(ベトナム共和国・首都サイゴン)に分断されました。 以後東西冷戦下で自由の砦を標榜し南ベトナム支援で泥沼にはまったアメリカと共産圏支援の北ベトナムとの間でベトナム戦争のどろどろとした歴史がありますが、これまた長いので本稿では触れません。 またまた閑話休題。 1975年ベトナム統一によりベトナム社会主義共和国が成立すると、サイゴンは周辺地域ザーディン省と統合され共産党指導者のホー・チ・ミンの名を冠したホーチミン市(ホーチミンシティ)となりました。ですが今でもサイゴンの名称はホーチミン市の市内でも店の看板などで見られるそうです。サイゴンといえば「お洒落な雰囲気」をイメージするそうですよ。なおベトナムの首都はハノイですが、経済の中心はホーチミンです。DOLに採用された理由は海に面した都市であるというのもありますが、経済都市であることも大きく影響しているのではないでしょうか。 以下うれさん宛て私信。 ベトナムといえば「水曜どうでしょう」最終旅(一応)の舞台です。北ベトナムの首都にして現在はベトナム社会主義共和国首都ハノイ、南ベトナム首都にして現在は経済の中心と言われるホーチミンをカブで旅する1800キロだったんですねぇ。こう聞くと少しは親近感沸いてくるんじゃないですか?w 10/10/08 第四回ヤーデインを追加。 10/08/09 アルジェをなぜかアルジェリアと書いていたのを修正。 以下余白だよっと。