約 2,775,318 件
https://w.atwiki.jp/sysd/pages/4913.html
太平洋証券 【商号履歴】 太平洋証券株式会社(1985年4月1日~2000年4月ユニバーサル証券株式会社に合併) 小柳証券株式会社(1944年~1985年4月1日) 【株式上場履歴】 <東証1部>1990年9月3日~2000年3月28日(ユニバーサル証券株式会社に合併) <大証1部>1990年9月3日~2000年3月28日(ユニバーサル証券株式会社に合併) <東証2部>1988年5月6日~1990年9月2日(1部指定) <大証2部>1988年5月6日~1990年9月2日(1部指定) 【合併履歴】 1985年 月 日 大福証券株式会社 1985年 月 日 山一証券投資信託販売株式会社
https://w.atwiki.jp/ntbg/pages/30.html
ADSLやCATVユーザーの伸びに比例して現在人気急上昇中の「ブロードバンドルータ」だが、果たしてその仕組みや役割について、どれだけ知っているだろうか? いったい、ブロードバンドルータと一般に「ルータ」と呼ばれる機器とはどこが違うのか? また、ADSLやCATV環境にブロードバンドルータを導入すると、どんないいことがあるのか? そして、タイトルにもある、ネットワークの「ルーティング」とは何だろう? え? よく分からないって? いやいや、ご心配なく。この連載は、そんなあなたのためにこそ始めるのだから。これから全3回にわたり、ブロードバンドルータとルーティングの秘密を解説していこう。 ■“ブロードバンドルータ”って何だろう? 「ブロードバンドルータ」とは、そもそも技術的に確立した言葉ではない。少し定義が必要だ。もともと、「ルータ」とはネットワーク環境の構築に必要なハードウェアだということは、多くの方がご存じだろう。ADSLやCATVのネットワーク接続のような従来のダイヤルアップ接続やISDNと比較して広帯域、すなわち「“ブロードバンド”環境に対応したルータ機器」という意味だ。これに対して、ダイヤルアップ接続やISDNは「ナローバンド」、つまり低帯域通信と呼ばれるようになってしまった。 これで2つのことが分かるだろう。つまり、ブロードバンドルータ(Broadband Router)とは、 ブロードバンド環境に適した ルータ機器 だということだ。意味が分かるようで、分かりにくい。 通常、「ルータ」とは、「ネットワークのルーティング(道案内)」を行う機器のことだ。つまり、複数のPCやサーバのつながったネットワーク、例えばインターネットやイントラネット同士をつなぎ、通信を成り立たせる(中継する)ための機器なのだ。こうした通信を成り立たせる仕組みを「ルーティング」と呼ぶ。このルーティングを手助けするのが「ルータ」である。いうなれば、ネットワークの「交通整理役」だ。 このルーティングという作業は、実際にはルータでなければ行えないものではない。NIC(ネットワーク・インターフェイス・カード)を複数枚装備したPCやUNIXマシンでも、標準機能で容易に実現できる。 このように、ネットワークに接続できる機器であれば当然備えている機能なのだが、「ルータ」がこれらと異なるのは、「ルーティングの機能を提供する専用の機器」であるという点だ(もちろん、PCなどではOSによる制限で一部機能が欠けていたりすることもあるが)。 通信を行う際には、「どのような通信手順を用いるのか」という前提がある。これが「プロトコル」だ。一般に、インターネットで使用されているプロトコルは皆さんがご存じのように「TCP/IP」、または「UDP/IP」である。ルータはこれらのプロトコルを理解しつつ、交通整理を行うのだ。 では、一方の「ブロードバンド環境に適した」とは何のことだろうか? もちろん、これはADSLやCATV回線でのインターネット接続に対応しているという意味である。“ブロードバンド(広帯域)”に対応するのは当然なのだが、実際には、もう1つの意味が込められている。それは「常時接続に適している」ということだ。 写真1 メルコのブロードバンドルータ「BLR-TX4」 常時接続であるということは、インターネットに四六時中接続しているということになる。その状態で最も気を付けるべきことは、「セキュリティ」だ。不正侵入やアタックに対して、何らかの対策がなされていなければならない。ブロードバンドルータは、そのための“手ごろ”な機能を“手軽”に提供する機能を付加している。 実はこうした機能は、一般のルータにも共通した部分である。何もブロードバンドルータだけが特別なわけではなく、その延長線上にあると考えて問題ない。つまりブロードバンドルータを理解することは、すなわち「ルータ」についても理解することにほかならない。違いを挙げるとすれば、ブロードバンドルータではその実装が少し異なっていることだ。ブロードバンドルータでは、簡素化した機能を搭載している場合が多い。 「ブロードバンドルータ」と「ルータ」。その違いを理解したときに、初めてネットワークが隅々まで見渡せた気分になるだろう。まずは、ルータの基礎となる「ルーティング」について、具体的にどのような機能なのかを解説していこう。 ■「ルーティング」とは受け渡すこと ネットワーク通信とは、詰まるところあるマシン上のアプリケーションともう一方のマシンのアプリケーション間の通信でしかない。1対1の通信ということだ。これを「ピア・ツー・ピア」(Peer-To-Peer)と呼ぶ。 例えば、WebブラウザでWebサーバへ接続してHTMLファイルを取得したり、メーラがメールサーバへログインしてメールをダウンロードするのも、ある特定のアプリケーションによるマシン間の通信でしかないのだ。もっとも、プロトコルによって例外もあるのだが、インターネットで用いられる「TCP/IP」や「UDP/IP」による通信は、ほとんどの場合ピア・ツー・ピアによるものだと思ってよい。 図1 TCP/IP(UDP/IP)を中心としたインターネット・プロトコルの階層図 これは、インターネットの標準プロトコルとして使用されている「イーサネット」「IP」「TCP」「UDP」などの関係を示した模式図だ。プロトコルのレイヤ(階層)構造を示しているため、「プロトコル・スタック」とも呼ばれる*1。ネットワークモデルは、通常、このような階層構造によって説明されることが多い。 少し分かりにくいかもしれないが、階層とは、それぞれが別のプログラムによって処理されることと考えてよい。例えば、上位の階層のプログラムから下位の階層のプログラムへデータ送信が依頼され、渡されたデータに必要な処理が施された後、さらにその下位の階層へデータが渡されて送信が行われる……という動作だ。そして、受信したデータはより上位の階層のプログラムへと転送され、最終的に必要としているユーザーアプリケーションが受け取る。各階層で処理を行うプログラムは、多くの場合OSの一機能として実装されているので、ユーザーが意識することはほとんどないだろう。 また、上の階層であればあるほど通信できる範囲が広くなるという特徴もある。最上位の「アプリケーション」層では、通信先マシンの対象アプリケーションと直接通信を行うことになる。ところが、最下位の物理層では、単に最も近くのネットワーク機器(ハブやルータなど)と通信を行っているにすぎない。それより先のマシンとの通信を制御しているのは、物理層より上位の階層なのである。つまり、こうした小さな通信が取りまとまって、アプリケーション間の通信を実現しているのだ。 ルーティングとは、こうした「小さな通信」を橋渡しして、より大きな通信を実現する機能だと考えよう。 1図1の階層図はTCP/IPモデルを示す現実的なモデルの1つだが、これとは別にISOが制定した「OSI参照モデル」と呼ばれる7階層からなる階層モデルがある。OSI参照モデルは、図1のモデルより規格化されたものであり、異なる部分もあるが、考え方はほぼ共通している ■IPネットワークの通信の仕組み インターネットでのピア・ツー・ピア通信の根幹となるのは、「IP」というプロトコルである。図1ではインターネット層に位置する。IPの目的は、「あるマシンからあるマシンへのデータの一方向伝達」である。 ネットワークの世界では、マシン(端末)やネットワーク機器などの通信を行う拠点の最小単位を「ノード」と呼ぶが、通信したい相手ノードを特定するには、何らかの番号やIDを個別に付けておくのが望ましい。これが「IPアドレス」だ。IPアドレスは4bytesからなる数値で、実際には2進数(ビット列)として使用されているが、分かりやすいように1bytesごとに10進数に変換して、「.」(ピリオド)で区切って表記される。 IPアドレスは全世界でユニークでなければならないという決まりがあり、それによって、通信先および通信元ノードがそれぞれ特定される。いかにネットワーク環境が複雑だろうと、確実に一方から他方へデータが到達することを保証するのである。このようにIPを基にしたピア・ツー・ピアの通信網を、ここでは「IPネットワーク」と総称しよう。 図2 送信先のマシンは、IPパケットのヘッダ情報をもとに、自身に宛てられたデータであると認識、パケットを受け取る IPネットワークでは、データは「パケット」と呼ばれる小さなデータの固まりに格納される。バケットは、送信元IPアドレス、送信先IPアドレスなど、IPネットワークに必要なヘッダ情報とともに、実際に送りたいデータを内部に含んでいる。この格納されたデータとは、実は次に説明するより上位階層のデータのことである。 パケットの最大サイズはあらかじめ決められている。送信すべきデータがこれより大きい場合はいくつかのパケットに分割し、それぞれ個別に相手に届けられ、再び結合される。IPパケットはさまざまな経路をたどり目的のノードへと届けられ、受け取り先のノードが宛先IPアドレスから自身が受け取るべきパケットだと判断、上位階層やアプリケーションへと格納されたデータを引き渡す。 ■TCPは双方向、UDPは片方向 TCPとUDPはトランスポート層に位置し、アプリケーションレベルの通信を実現する。通信の際には、それぞれにおいて上位層でのアプリケーションの種類を特定する「ポート番号」が用いられ、1~65535の範囲で指定できる。 ネットワークを使用するプログラムは、必ずこのポート番号を利用する。これは、サーバ/クライアントといったノードの種類を問わない。例えば、SMTPサーバは通常25番を使用するし、HTTPサーバは80番だ。同時に、これらのサーバに接続するクライアント側のアプリケーションでも、実はポート番号が割り振られている。そうしなければ、要求元アプリケーションが見分けられないからだ。 サーバの場合は、クライアントからのアクセス時にポートを指定する必要があるため、25や80のように一般的な固定化された番号を定義している。これは「Well-Knownポート」と呼ばれる。逆に、クライアント側のポートは何でもよいため、通常はOSが使用されていないポートから自動的に決定する。 図3 TCP/UDPパケットは、IPパケット内のデータとして転送される。TCP/UDP通信では、「ポート」という概念があり、これにより通信先のアプリケーションを特定することができる TCPにおける大きな役割は、「データの確実な送信の保証」だ。TCPでは、どれだけの大きさのデータがいくつ届いたのかを送信元へ報告するため、必ず返答のパケットを返さなければならない。つまり、常に往復のパケットが1セット発生することで、送信元が相手に確実にデータが届いているかを確認できるわけだ。これが、「TCP通信では信頼性がある」といわれるゆえんである。もしこの返答がなかったり失敗が分かれば、再度同じデータの送信が行われる。 一方のUDPでは、この返答は行われない。その代わり、返答を確認する必要がないため、スループットはTCPに比べて高くなる*2。 いずれの場合も、IP上(IPの上位層)で動作していることに気を付けよう。TCPもUDPも、やはりパケットというフォーマットを取っている。ヘッダには送信元ポートと送信先ポートが記述され、内部にはアプリケーションのためのデータが格納される。そして、このTCP/UDPのパケットは、IPパケットに“データ”として格納されることになる。このように、IPネットワークを前提にしてTCPやUDPの動作が実現されているのだ。 言い換えれば、IPネットワークはあるマシンからあるマシンまでの片方向の通信のみを行う。TCPではこれを利用して、ポート番号の意味を付加し、アプリケーション間通信と信頼性確保のための往復通信を実現しているのだ。 2ここでいう「返答」とは、プロトコルの要請として返答パケットが発生することを示している。例えば、アプリケーションの要求として「リクエスト」に対して「レスポンス」を行うかもしれない。この場合は、アプリケーションに起因する「返答」パケットが、(UDPかもしれないが)発生する可能性がある。だが、この両者のバケットの意味は異なっていることに注意しよう 今回のポイント (1) ブロードバンドルータは、常時接続環境向けに特化/調整された手軽なルータ機能を提供する (2) ルーティングとは、小さな通信をつなぎ合わせてより広い通信を実現するための橋渡しのことである (3) IPはノード(マシン間)の通信を、TCPとUDPはアプリケーション間の通信を、それぞれ実現する
https://w.atwiki.jp/mtt12tv-ynn/pages/12.html
とらけんま
https://w.atwiki.jp/sysd/pages/4848.html
太平洋銀行 【商号履歴】 株式会社太平洋銀行(1989年10月1日~1996年9月株式会社わかしお銀行に営業譲渡) 株式会社第一相互銀行(~1989年10月1日) 相互無尽株式会社 【株式上場履歴】 <東証1部>1975年9月1日~1996年9月17日(営業の全部譲渡・解散) <東証2部>1974年4月13日~1975年8月31日(1部に指定替え)
https://w.atwiki.jp/sponsoracjapan/pages/7481.html
スポンサー企業 太平洋フェリー 単発出稿履歴(ネットセールス) + ... 2023年2月 5日(日)MBS・TBS系「船乗りプラネット」(C枠)
https://w.atwiki.jp/sysd/pages/654.html
太平洋海運 本店:東京都港区三田一丁目4番28号 【商号履歴】 太平洋海運株式会社(1951年2月21日~2010年10月1日日本郵船株式会社に合併) 【株式上場履歴】 <東証1部>1952年1月4日~2009年11月25日(日本郵船株式会社と株式交換) <大証1部>1961年10月2日~2003年8月9日(上場廃止申請) <名証1部>1957年4月 日~2003年8月9日(上場廃止申請) 【沿革】 昭和26年2月 極洋捕鯨株式会社の船舶部門が分離独立し、油槽船2隻、3万重量屯を譲り受け、資本金1億円をもって設立 昭和26年11月 増資 資本金2億円 昭和27年1月 東京証券取引所上場 昭和27年3月 外国貨物船2隻を購入し、貨物船部門にも進出 昭和28年5月 増資 資本金4億円 昭和28年9月 当社初の計画造船による2万屯型油槽船竣工 昭和31年12月 増資 資本金8億円 昭和32年4月 名古屋証券取引所上場 昭和36年5月 増資 資本金12億円 昭和36年10月 大阪証券取引所上場 昭和39年4月 海運再建整備法により、日本郵船株式会社グループの系列会社として参加 昭和42年10月 増資 資本金20億円 昭和43年11月 計画造船による20万屯型油槽船竣工 昭和45年9月 日本郵船株式会社と初の共有20万屯型油槽船竣工 昭和52年3月 船舶管理会社太平洋マリン・マネージメント株式会社(現 ティ・エム・エム株式会社)設立 昭和60年7月 増資 資本金25億円 平成3年3月 増資 資本金35億円 平成6年9月 本社事務所を東京都千代田区丸の内より東京都港区三田へ移転 平成7年7月 本店の所在地を千代田区より港区へ移転 平成13年6月 船用品の販売会社である株式会社ヒノデを設立 平成15年8月 大阪証券取引所・名古屋証券取引所の上場を廃止 平成16年2月 当社初の8千屯型ケミカルタンカー竣工 平成16年8月 資本金35億円を7.5億円減少し、27.5億円 平成16年12月 4万8千屯型プロダクトタンカー竣工 平成18年7月 30万5千屯型大型タンカー竣工 平成18年12月 11万5千屯型中型タンカー竣工
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/358.html
{{Battlebox |battle_name=太平洋戦争 |partof= |image= |conflict=第二次世界大戦 |caption=真珠湾攻撃で炎上中の米戦艦 |date=1941年12月8日 – 1945年9月2日(または8月15日)国際的・法的な戦争終結日は、ミズーリ号上で降伏文書署名が行われた9月2日である。一方、天皇による玉音放送が行われた8月15日は、精神的・心理的な戦争終結日として日本国民やその占領下にあった国の人々に記憶されている。ただ、実際には、満州・沖縄・千島列島などにおける連合軍との戦闘状況や、本土に引き上げようとする日本国民への攻撃は、8月15日以降も続いていた。8月15日で戦争は終わったとする考え方は、そうした状況下にあった日本国民の苦難を忘れてしまいがちなことに注意がいる。[1] |place=太平洋、東アジア全域 |casus= |territory= |result=日本のポツダム宣言受託 |combatant1= アメリカ合衆国 /br イギリス 中華民国 /br オーストラリア /br ニュージーランド /br カナダ /br /br オランダ /br フランス(1945) /br ソビエト連邦 (1945) /br 他 |combatant2= 大日本帝国 /br タイ王国(1942) /br 満州国||commander1=Template flagicon? フランクリン・D・ルーズベルトTemplate flagicon?ハリー・トルーマン(1945) ウィンストン・チャーチル /br クレメント・アトリー(1945) /br 蒋介石 /br ジョン・カーティン /br ヨシフ・スターリン |commander2= 近衛文麿 (1937~) /br 東条英機 (1941~) /br 小磯国昭 (1944) /br 鈴木貫太郎 (1945) /br Template Flagicon? ピブン 張景恵 |strength1= |strength2= |casualties1= |casualties2= }} 太平洋戦争(たいへいようせんそう、英 Pacific War)は、第二次世界大戦の局面の一つで、1941年12月8日(大本営発表日)から1945年8月15日の玉音放送(ポツダム宣言受諾)を経て、9月2日に降伏調印の期間における、日本と、主にアメリカ・イギリス・オランダなど連合国との戦争である。 なお、「太平洋戦争」という呼称に関しても議論がある。呼称に関する議論については大東亜戦争を参照のこと。 戦争への経緯 1937年に勃発した日中戦争において、日本軍は、北京や上海などの主要都市を占領し、中国国民党の蒋介石総統率いる中華民国政府の首府である南京をも陥落させたが、アメリカやイギリス、ソ連からの軍需物資や人的援助を受けた蒋介石は首府を重慶に移し、国共合作により中国共産党とも連携して徹底した反日抵抗戦を展開した。日本軍は、豊富な軍需物資の援助を受け、地の利もある国民党軍の組織的な攻撃に足止めを受けた他、また中国共産党軍(八路軍と呼ばれた)はゲリラ戦争を駆使し、絶対数の少ない日本軍を翻弄し、各地で寸断され泥沼の消耗戦を余儀なくされた。 アメリカ、イギリスは日本に対して中国からの撤兵を求めた。アメリカは戦争継続に必要な石油と鉄鋼の輸出制限などの措置をとり、イギリスも仏印進駐をきっかけに経済制裁をはじめた。これらを自国に対する挑戦であると反発した日本はドイツ、イタリアと日独伊三国軍事同盟を締結し、発言力を強めようとしたが、かえって日独伊と英米などとの対立に拍車をかける結果となった。 1941年4月から日本の近衛文麿内閣は関係改善を目指してワシントンでアメリカと交渉を開始したが、7月に日本軍が南部仏印へ侵出すると、アメリカは在米日本資産の凍結、日本への石油輸出の全面禁止という厳しい経済制裁を発動した。 9月3日、日本では、大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。だが10月16日、近衛文麿内閣はにわかに総辞職する。後を継いだ東条英機内閣は、11月1日の大本営政府連絡会議で改めて帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。以降、大日本帝国陸海軍は、12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化した。 11月6日、南方作戦を担当する各軍の司令部の編制が発令され、南方軍総司令官に寺内寿一大将、第14軍司令官に本間雅晴中将、第15軍司令官に飯田祥二郎中将、第16軍司令官に今村均中将、第25軍司令官に山下奉文中将が親補された。同日、大本営は南方軍、第14軍、第15軍、第16軍、第25軍、南海支隊の戦闘序列を発し、各軍及び支那派遣軍に対し南方作戦の作戦準備を下令した。 11月20日、日本はアメリカに対する交渉最終案を甲乙二つ用意して来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使にハル国務長官に対し交付し以後の最終交渉に当たったが、蒋介石、イギリス首相チャーチルの働きかけもある中、アメリカ大統領ルーズベルトは、11月26日朝、アメリカ海軍から台湾沖に日本の船団の移動報告を受けた ref name=A 実際は輸送船でアメリカ海軍が故意に過大な報告をした。こともあり、ルーズベルトは両案とも拒否し、中華民国・インドシナからの軍、警察力の撤退や日独伊三国同盟の否定などの条件を含む、いわゆるハル・ノートを来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使に提示した。これを日本に対する最後通牒と受け取った東条英機内閣は12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を決定した。 最後通牒は日本時間で12月8日月曜日午前3時、ワシントン時間で12月7日午後1時に手交する予定であった。 12月6日午前6時30分の「第901号電」パイロット・メッセージから7日午前2時までに14部ある最後通牒と7日午前3時30分の「第907号電」(12月7日午後1時に手交の指令)はアメリカにある日本大使館に分割電送、指令により電信課の書記官2名が暗号解読タイプすることになった。 書記官室の寺崎英成書記官(終戦後に外務次官)転勤の送別会が終了した後(タイプの奥村勝蔵一等書記官は友人とトランプをした)、井口貞夫参事官の指示で当直もなく、午前10時に出勤した電信課により最後通牒が作成され、日本時間で12月8日月曜日午前4時20分、ワシントン時間12月7日午後2時20分に来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使が米国務省のコーデル・ハル国務長官に「対米覚書」を手交した。 ref name=B 平成6年(1994年)11月20日公開された1946年調査の外務省の公文書『「対米覚書」伝達遅延事情に関する記録』による。。すなわち、日本は真珠湾を奇襲した後で対米最後通牒を手交したのである。このことは「日本によるだまし討ち」として米国民に広範な憤激を引き起こし、卑劣な国家としての日本のイメージを定着させる原因となるが、公開された公文書によると、既にアメリカは外務省の使用した暗号を解読しており、日本による対米交渉打ち切り期限を、3日前には正確に予想していた。対米覚書に関しても、外務省より手渡される30分前には全文の解読を済ませており、これが現在いわれる真珠湾攻撃の奇襲成功はアメリカ側による謀略であったという一部でいわれる説の根拠となっている。 戦争の経過 Template main2? 日本軍の攻勢(1941年 - 1942年前半) 200px|right|thumb|日本海軍機の攻撃を受け炎上するアメリカ海軍戦艦・[[ウエスト・ヴァージニア (戦艦)|ウエスト・ヴァージニア(BB-48)]] 1941年12月8日日本時間午前1時30分(ハワイ時間12月7日午前6時)、日本陸軍はアジアにおけるイギリスの拠点であるシンガポール攻略のために、当時イギリスの植民地であったマレー半島の、タイ王国国境に近いコタ・バルに上陸作戦を仕掛け、戦争が開始された。 ハワイ時間12月7日午前7時10分(日本時間12月8日午前2時40分)、アメリカ海軍駆逐艦ワードが、ハワイオアフ島真珠湾周辺のアメリカ領海内の航行制限区域に侵入していた日本海軍の特殊潜航艇を、砲撃および爆雷攻撃、撃沈した(ワード号事件)。 ハワイ時間12月7日午前7時49分(日本時間12月8日午前3時19分)、日本海軍第1航空艦隊は、アメリカ太平洋艦隊の基地であるハワイオアフ島の真珠湾に対し攻撃を行った(真珠湾攻撃)。山本五十六連合艦隊司令長官が考案した、後に一般的となった航空母艦を主力とした機動部隊による攻撃戦術であった。 攻撃によりアメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊をほぼ壊滅させたものの、アメリカ空母機動部隊は出払っていたため損傷を免れ、これが原因でこの後の戦況に大きな影響を与えることになる。完全に撃沈したと思われた艦艇も後に引き上げられて戦線に投入された。また、2回行った航空攻撃では港湾施設と重油タンクへの攻撃はほとんど皆無で、3回目の航空攻撃を進言した部下の意見を南雲忠一第1航空艦隊司令長官は主攻撃目標であったはずのアメリカ空母機動部隊の所在が掴めなかったことと、燃料不足が理由で了承しなかった。 日本海軍の攻撃を知ったルーズヴェルト大統領は、攻撃を受けた翌日に議会において大日本帝国に対する宣戦布告決議を行い、宗教的理由で反対票を投じた議員1名を除く全会一致で可決した。さらに、12月11日に日本の同盟国のドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告したことで、これまでヨーロッパ戦線においても虎視眈々と参戦の機会を窺っていたアメリカが連合軍の一員として正式に参戦し、これにより第二次世界大戦は名実ともに世界規模の大戦争となった。 12月10日、マレー沖海戦で日本海軍はイギリス海軍の最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈した。航空機が戦闘航行中の戦艦を撃沈するのは史上初めてであり、この成功はその後の世界各国の戦争戦術に大きな影響を与えることとなる。後に当時のイギリス首相のウィンストン・チャーチルは、このことが「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語っている。 前年12月の開戦後も、東南アジアにおける唯一の独立国であるタイ王国は中立を吹聴していたが、12月21日大日本帝国の圧力などによりに日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となったことで、この年の1月8日からイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに対して宣戦布告した。 日本陸軍は真珠湾攻撃と同時にマレー半島へ上陸。当初の計画を上回る驚異的な山下奉文陸軍大将率いる日本陸軍は2月15日にイギリスの東南アジアにおける最大の拠点であるシンガポールを陥落させた。また、3月に行われたバタビア沖海戦でも日本海軍は連合国海軍に圧勝し、相次ぐ敗北によりアジア地域の連合軍艦隊は大損害を受け、印蘭方面の制海権は潜水艦による連合軍の通商破壊が本格化する大戦末期まで日本海軍が保持することとなった。まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領した。印蘭方面の制圧により、日本軍は南方作戦の最大目標であった戦争遂行に必要な資源獲得に成功した。 アメリカの植民地であったフィリピン占領は対米戦を勝ち抜く上では必須事項であった。日本海軍は零戦や一式陸攻の長大な航続力を武器に、台湾から直接フィリピンに航空攻撃をかけた。戦争準備が出来ていなかった在比米空軍は壊滅し、日本陸軍は容易にフィリピン侵攻を遂行することができた。バターン半島攻略に手こずり本来の予定よりは時間がかかったものの、5月には全土の占領に成功した。アメリカ軍の総司令官であったダグラス・マッカーサーは多くのアメリカ兵をフィリピンに残したままオーストラリアに脱出した。 マレー半島を制圧した日本陸軍は、援蒋ルートを遮断するためにビルマへ侵攻。終戦まで日本陸軍とイギリス軍の間で激戦が繰り広げられたビルマ戦役がここに幕を開けた。日本陸軍は破竹の勢いを維持したまま3月にイギリス領ビルマの首都であるラングーンを占領した。こうして、日本陸軍の南方作戦は先制攻撃であることを含めても当初の予想を大きく下回る損害で大成功に終わった。日本軍は開戦から僅か半年の間に、東南アジアから南太平洋一体にかけての広大な地域を占領下に置いた。国内では、相次ぐ勝利の報道により国民は歓喜した。 しかし、強固な装甲を持つ米軍のM3軽戦車への苦戦は、後にM4中戦車を主力とする大火力の米軍に圧倒される日本軍を予言していたし、広大な占領地域への兵站能力を持ち合わせていなかった日本軍は後に補給に苦しむこととなる。 4月、海軍の航空母艦を中心とした機動艦隊がインド洋に進出し、空母搭載機がイギリス領セイロン(現在のスリランカ)のコロンボ、トリンコマリーを空襲、さらにイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦)。これによりイギリスの東方艦隊は航空戦力に大打撃を受けて、日本海軍の機動部隊に対する反撃ができず、当時植民地下に置いていたアフリカ東岸のケニアのキリンディニまで撤退することになる。この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三〇潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツ(正式にはドイツ占領下のフランス)へと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。 この頃イギリス軍は、友邦フランスの植民地であったものの敵対するヴィシー政権側に付いたため、日本海軍の基地になる危険性のあったアフリカ東岸のマダガスカル島を南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。この戦いの間に、日本軍の特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃し、イギリス海軍の戦艦を1隻大破させる等の戦果をあげている。 また2月に、日本海軍の伊号第一七潜水艦が、アメリカ西海岸沿岸部のカリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊のエルウッドにある製油所を砲撃し製油所の施設を破壊した。続いて同6月にはオレゴン州にあるアメリカ海軍の基地を砲撃し被害を出したこともあり、アメリカ合衆国は本土への日本軍の本格的な上陸に備えたもののTemplate 要出典?、短期決着による早期和平を意図していた日本海軍はアメリカ本土に向けて本格的に進軍する意図はなかった。しかし、これらのアメリカ本土攻撃がもたらした日本海軍のアメリカ本土上陸に対するアメリカ合衆国政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも言われる。Template 要出典? 日本海軍は、短期間の間に勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめとする連合軍と停戦に持ち込むことを画策していたが、ハワイ諸島に対する上陸作戦は兵站上難しいことから実行には移されなかった。また、真珠湾攻撃の成功後、日本海軍の潜水艦約10隻を使用して、サンフランシスコやサンディエゴなどアメリカ西海岸の都市部に対して一斉砲撃を行う計画もあったものの、真珠湾攻撃によりアメリカ西海岸部の警戒が強化されたこともあり、この案が実行に移されることはなかった。Template 要出典? しかし、それに対してフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領以下のアメリカ政府首脳陣は、ハワイ諸島だけでなく本土西海岸に対する日本海軍の上陸作戦を本気で危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退計画の策定やハワイ諸島で流通されているドル紙幣を専用のものに変更するなど、日本軍にハワイ諸島が占領され資産などが日本軍の手に渡った際の対策を早急に策定していただけでなく、本土西海岸へ上陸された際の中西部近辺への撤退計画とその後の反撃計画の策定まで行っていた。Template 要出典? 戦局の変化(1942年後半 - 1943年) 第一段作戦の終了後、日本軍は第二段作戦として、アメリカとオーストラリアの間のシーレーンを遮断しオーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)を構想した。これを阻止しようとする連合軍との間でソロモン諸島の戦い、ニューギニアの戦いが開始され、この地域で日本は戦争資源を消耗してゆくことになる。 1942年5月に行われた珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍を主力とする連合軍の空母機動部隊が激突し、歴史上初めて航空母艦同士が主力となって戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は空母レキシントンを失ったが、日本軍も空母祥鳳を失い、翔鶴も損傷した。この結果、日本軍は海路からのポートモレスビー攻略作戦を中止した。日本軍は陸路からのポートモレスビー攻略作戦を推進するが、山脈越えの作戦は補給が途絶え失敗する。 4月、空母ホーネットから発進したB-25によるドーリットル空襲に衝撃を受けた海軍上層部は、アメリカ海軍機動部隊を制圧するためミッドウェー島攻略を決定する。その後6月に行われたミッドウェー海戦において、日本海軍機動部隊は作戦ミスと油断により主力正規空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を一挙に失う大敗を喫する(米機動部隊は正規空母1隻ヨークタウン)を損失)。艦船の喪失だけではなく、多くの艦載機と熟練パイロットを失ったこの敗北は太平洋戦争のターニングポイントとなった。ミッドウェー海戦後、日本海軍の保有する正規空母は瑞鶴、翔鶴のみとなり、急遽空母の大増産が計画されるが、終戦までに完成した正規空母は3隻(大鳳、天城、雲龍)の3隻のみであった。対するアメリカは終戦までにエセックス級空母を14隻戦力化させている。この敗北によって、日本海軍機動部隊の命運は決していたといえよう。なお、大本営は、相次ぐ勝利に沸く国民感情に水を差さないようにするために、この海戦における事実をひた隠しにする。 また、アメリカ海軍機による日本本土への初空襲に対して、9月には日本海軍の伊一五型潜水艦伊号第二五潜水艦の潜水艦搭載偵察機である零式小型水上偵察機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空襲し、火災を発生させるなどの被害を与えた(アメリカ本土空襲)。この空襲は、現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。なお、アメリカ政府は、国民に対する精神的ダメージを与えないために、この爆撃があった事実をひた隠しにする。これに先立つ5月には、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われ、オーストラリアのシドニー港に停泊していたオーストラリア海軍の船艇1隻を撃沈した。 ミッドウェー海戦により、日本軍の圧倒的優位にあった空母戦力は拮抗し、アメリカ海軍は日本海軍の予想より早く反攻作戦を開始することとなる。8月にアメリカ海軍は日本海軍に対する初の本格的な反攻として、ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に上陸し、完成間近であった飛行場を占領した。これ以来、ガダルカナル島の奪回を目指す日本軍と米軍の間で、陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦が繰り広げることとなった(ガダルカナル島の戦い)。同月に行われた第一次ソロモン海戦ではアメリカ、オーストラリア海軍などからなる連合軍は日本海軍による攻撃で重巡4隻を失う敗北を喫する。しかし、日本軍が輸送船を攻撃しなかったため、ガダルカナル島での戦況に大きな影響はなかった。その後、第二次ソロモン海戦で日本海軍は空母龍驤を失い敗北し、島を巡る戦況は泥沼化する。10月に行われた南太平洋海戦では、日本海軍機動部隊が意地を見せ、アメリカ海軍の空母ホーネットを撃沈、エンタープライズを大破させた。先立ってサラトガが大破、ワスプを日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、一時的にではあるが太平洋戦線における稼動可能空母が0という危機的状況へ陥った。日本は瑞鶴以下5隻の稼動可能空母を有し、数の上では圧倒的優位な立場に立ったが、度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗してしまったことと補給戦が延びきったことにより、新たな攻勢に打って出ることができなかった。それでも、数少ない空母を損傷しながらも急ピッチで使いまわした米軍と、ミッドウェーのトラウマもあってか空母を出し惜しんだ日本軍との差はソロモン海域での決着をつける大きな要因になったといえる。その後行われた第三次ソロモン海戦で、日本海軍は戦艦2隻を失い敗北した。アメリカ海軍はドイツのUボート戦法に倣って、潜水艦による輸送艦攻撃を行い、徹底して兵糧攻め作戦を実行。日本軍の物資や資源輸送を封じ込めた。ガダルカナル島では補給が覚束なくなり、餓死する日本軍兵士が続出した。長引く消耗戦により、国力に劣る日本は次第に守勢に回ることとなる。 1943年1月、日本海軍はソロモン諸島のレンネル島沖で行われたレンネル島沖海戦でアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを撃沈する戦果を挙げたが、島の奪回は最早絶望的となっていた。2月に日本陸軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)した。半年にも及ぶ消耗戦により、日米両軍に大きな損害が生じたが、国力に限界がある日本にとっては取り返しのつかない損害であった。これ以降、ソロモン諸島での戦闘はまだ続いたものの、日本軍は物量に勝る連合軍によって次第に圧迫されていく。 4月18日には、日本海軍の連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将(戦死後海軍元帥となる)が、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報局による暗号解読を受けたロッキードP-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した(詳細は「海軍甲事件」を参照)。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を1ヶ月以上たった5月21日まで伏せていた。しかし、この頃日本海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており、アメリカ軍は日本海軍の無線の傍受と暗号の解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。日本政府は「元帥の仇は増産で(討て)」との標語を作り、山本元帥の死を戦意高揚に利用する。 その後、7月にソロモン諸島で行われたコロンバンガラ島沖海戦で、日本海軍艦艇は巧みな雷撃により米艦隊に勝利するが、その頃になるとソロモン諸島での体勢は決していたため、戦況にはほとんど影響を与えなかった。また、ニューギニア島では日本軍とアメリカ、オーストラリア中心とした連合軍との激しい戦いが続いていたが、8月頃より少しずつ日本軍の退勢となり、物資補給に困難が出てきた。この年の暮れごろには、日本軍にとって同方面最大のラバウル基地は孤立化し始める。戦力を整えた米軍はこの年の後半からいよいと反攻作戦を本格化させ、南西太平洋方面連合軍総司令官のダグラス・マッカーサーが企画した「飛び石作戦(日本軍が要塞化した島を避けつつ、重要拠点を奪取して日本本土へと向かう)」を開始する。11月には南太平洋のマキン島とタラワ島における戦いで日本軍守備隊が玉砕し、同島がアメリカ軍に占領されることになる。 同月に日本の東条英機首相は、満州国やタイ王国、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府、南京国民政府などの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結束を誇示しようとするが、実態は東条首相の独擅場に過ぎなかった。この年の年末になると、開戦当初の相次ぐ敗北から完全に態勢を立て直し、圧倒的な戦力を持つに至ったアメリカ軍に加え、ヨーロッパ戦線でドイツ軍に対して攻勢に転じ戦線の展開に余裕が出てきたイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍などの数カ国からなる連合軍と、中国戦線の膠着状態を打開できないまま、太平洋戦線においてさしたる味方もなく1国で戦う上、開戦当初の相次ぐ勝利のために予想しなかったほど戦線が延びたことで兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じる日本軍の力関係は一気に連合国有利へと変わっていった。 これ以降は太平洋戦争-2参照 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年1月22日 (火) 00 28。
https://w.atwiki.jp/namacha/pages/208.html
▼韓進重工業釜山造船所で艤装中の太平洋8号 ■性能緒元 満載排水量 3,900t 全長 110.8m 全幅 15.4m 喫水 4.91m 速力 21kts 航続距離 15,000km/15kts 主機 ディーゼル 2基 2軸 武装 40mm連装機関砲「露蜂」 1基 20mmバルカン砲 1基 7.62mm機関銃 4挺 搭載機 ヘリコプター 1機 海上保安庁の新型巡視船が武装を強化しているのに対抗する為、太平洋3号型3,000トン級警備船に40mm機関砲を装備した改良型。航続距離も若干増加しており、無補給でハワイまで往復できる。新型の3,000トン級警備船が2008年から建造される予定なので、太平洋8号に同型艦は計画されていない。 1番艦 太平洋8号(テピュンヤン8号) ARS-3008 2007年9月就役予定 韓国海洋警察 2007-08-15 03 06 30 (Wed)
https://w.atwiki.jp/mtt12ch-ynn/pages/14.html
ちばけんま
https://w.atwiki.jp/armyfaq/pages/73.html
なんでアメリカって太平洋戦争で東京じゃなくて先に沖縄に上陸したの?一気に東京に上陸して制圧したほうが早くない?(489a 185) 南太平洋海戦の数日前に飛鷹がエンジントラブルで海戦には不参加となりましたが、このとき移乗された戦闘機、爆撃機はどのくらいですか?(489a 178) 日中戦争~太平洋戦争において、中国軍にエースパイロットが居たんだったら、その戦果を教えてください。(489a 104) 東京大空襲では米軍はわざと住宅地を焼いたのでしょうか。(489a 16) 戦艦大和の最後について質問です。魚雷を左舷に受け続けたのですが、米軍は武蔵戦でのデータからそのような方法を考え出したのでしょうか?(488 821) どうして大鳳はマリアナで中継基地としての使われ方をしなかったんですか? (487 451) レイテのシブヤン海海空戦で大和はほぼ無傷、武蔵は満身創痍の損傷を受けましたがどうしてああも、損害に差があったんでしょうか?(487 264) 太平洋戦争末期の米軍機による民間人の殺傷や家屋の破壊になにかメリットはあったのですか?(487 109) 魚雷艇の場合、雷撃距離はどのくらいなのでしょうか?(486 805) 沖縄湾に展開していた米軍艦艇を狙って、多数の潜水艦で飽和攻撃をするということはできなかったんでしょうか?(486 710) 東京大空襲では、B-29が発砲してこないのを見て日本側の攻撃機のパイロットは「敵は非武装だ」という風に連絡をしたりしなかったんでしょうか?(486 524) WW2のスキップボミングについて教えてください(486 396) 敵機動部隊を攻撃に向かう攻撃隊と護衛戦闘機隊が、その途上、まさに自分達の母艦を攻撃に向かう敵攻撃隊とすれ違う場面で戦闘機隊が編隊を離脱して引き返し、敵攻撃隊を排除、一方攻撃隊は援護なしで敵艦隊攻撃を強行し、ほぼ壊滅してしまったのですが、これは指揮官の判断として正しかったのでしょうか?(485 906) 硫黄島がアメリカ軍に占領された後に日本軍の航空隊が硫黄島を攻撃するような作戦計画は無かったのですか?(484 799) 太平洋戦争直前、日米交渉が成立すれば南雲機動艦隊は何もせず戻ってくる事になっていますが、その場合、フィリピン、英マレー半島、蘭インドネシアに対する攻撃も停止する事になっていたのでしょうか? (484 794) 現在のサイパン島も森林に踏み込むと普通にごろごろしてるんですか?(484 283) ミッドウエーで赤城、加賀、蒼龍の甲板や格納庫に魚雷や爆弾が満載してなかったら、数発程度の500kg爆弾には充分に耐えられたんでしょうか? (484 232) 戦時中、外地の捕虜を日本へ海上輸送すると嘘の電文を流したりして、潜水艦に輸送船団の攻撃を躊躇わせたりすることはできなかったんでしょうか? (482 905) 日本本土空襲で日本本土に不時着したアメリカ軍のパイロットを救出する為に救援機の支援あるいは、パイロットが徒歩で海岸線に出れば、救出の為の潜水艦が常時いる救出地点があったんでしょうか? (482 295) 第二次世界大戦時の米海軍はやたら対空砲を乗せてますが、トップヘビーで問題にならなかったんですか? 太平洋戦争で日本海軍の潜水艦隊が通商破壊戦を行っていましたが、連合軍の戦略に何らかの影響を与えたのでしょうか? 大戦中の日本の正規空母の速力が34ノットくらいあるのはどういう要求によるものなのでしょうか? 米軍はなぜ空襲する前に警告のビラを空から撒いたのか 太平洋戦争の終戦時、米軍は原爆を何発持ってましたか? 落とす気になってたら8月9月で何発投下できたのでしょうか? あ号作戦を、攻撃隊のパイロット達は「この作戦は失敗する、あほう作戦だw」と揶揄していたそうですが、何故パイロット達は作戦が失敗すると分かっていたんですか? 真珠湾奇襲攻撃で「第一次攻撃隊」「第二次攻撃隊」のように複数回に分けて攻撃を行ったのはなぜですか? 南太平洋海戦後に、一時的に日米の空母戦力が拮抗しましたが、今の内にアメリカと講和をしようという考えは日本には無かったんでしょうか? なんでアメリカって太平洋戦争で東京じゃなくて先に沖縄に上陸したの?一気に東京に上陸して制圧したほうが早くない?(489a 185) 「飛び石作戦」って戦術だったから おいら的には中国から佐渡、新潟辺りに上陸するのがもっとも賢明な作戦だったと思うけどなぁ (489a 187) いきなり首都に上陸しようとしても抵抗に遭ってこちらの損害が無駄に大きくなる。 そのため、別の場所に事前に上陸して、そちらに戦力を割かせるとか 占領した所から本命の作戦の支援基地を作るとか段階を踏まなきゃならない。 具体的には 湘南海岸や九十九里浜とかに上陸する作戦計画、コロネット作戦 が立案され、それに先立ち、九州南部に上陸するオリンピック作戦が立案された。 オリンピック作戦は、上陸占領後航空基地を作ってコロネット作戦をサポートする為の意味があった。 が、その前に原爆投下と日本の降伏があったんで実行されなかった。 (489a 196) いずれにせよ、無償の工業地帯からダイレクトに送られてくる日本機の大群と 戦わなくてはいけない。そのうえ、米軍は陸上部隊上陸後なら その背後の工業地帯を叩くゆとりも無い。基地、港湾、飛行場、部隊攻撃で手一杯。 徹底的に大量動員、集中運用、効率化しても、 よくいって、史実程度のペースで爆撃ができれば恩の字。 損害は、沖縄+レイテ+硫黄島をはるかに超すだろうね。 (489a 207) 南太平洋海戦の数日前に飛鷹がエンジントラブルで海戦には不参加となりましたが、このとき移乗された戦闘機、爆撃機はどのくらいですか?(489a 178) 南太平洋海戦について質問です。 数日前に飛鷹がエンジントラブルで海戦には不参加となりましたが、 搭載機の一部を隼鷹に移乗させたとされています。 このとき移乗されたのは雷撃機7は分かりますが、 ほかの戦闘機、爆撃機はどのくらいですか? また、移乗されず飛鷹に残った機数はどのくらいですか? 戦史叢書「南東方面海軍作戦 2 ガ島撤収まで」によれば 10月22日、飛鷹はトラック帰投に際し零戦16・艦爆17を陸揚げして基地航空部隊の指揮下に入れ、零戦3・艦爆1・艦攻5を隼鷹に移載した。 搭載飛行機数は不明であるが、10月1日現在の搭載機定数(隼鷹)は、零戦21・艦爆18・艦攻9であった。 10月17日のルンガ泊地攻撃で隼鷹の艦攻は自爆7・不時着2の損害を出している。 (489a 283) 日中戦争~太平洋戦争において、中国軍にエースパイロットが居たんだったら、その戦果を教えてください。(489a 104) 高志航とかが有名。詳しくは中国的天空を読むとごろごろってほどでないけど結構出て来る。 相手は日本海軍の96中攻とか、下駄履きとか、そして最後に零戦がやってくるって感じです。 (489a 112) Fighter Pilot Aces List Sino-Japanese War ttp //www.au.af.mil/au/awc/awcgate/aces/aces.htm#sinojapanese List of World War II aces from China http //en.wikipedia.org/wiki/List_of_World_War_II_aces_from_China (489a 115) 柳哲生大佐 → 11機と3分の1 1937年8月14日に、96中攻1機を2機と協力して撃墜したのが最初。 以後、劉粋剛、高志航亡き後の戦闘機隊の中核として、重慶、成都、蘭州の迎撃 戦で9機を確実に撃墜。残りは共同撃墜。 戦後は台湾に移住し将軍となる。 劉粋剛大尉 → 確実11機、不確実2機 1937年8月21日の吉田小隊の96中攻1機を撃墜したのが初戦果で、此の後、吉田小隊 を共同で全滅させている。南京防空戦では、96艦爆を1機撃墜するなど「空の趙雲子龍」 と呼ばれたが、10月中旬、洛陽に向けて飛行中、夜間となり、爆音を聞いて連絡機と錯覚 した高平県城の町長が、目印にと火を掲げた所、これを飛行場と錯覚して突入、戦死。 王光復中尉 → 8機と2分の1機。 1937年に4機撃墜、太平洋戦争中は、桂林、恩施、老河口などでP-40Eを駆り、隼を1機 (25戦隊の大元軍曹か二宮伍長)などを撃墜。また、地上攻撃の破壊も多数。 董明徳大佐 → 7機(実際は11機と言われる)。 1937年8月15日に加賀の89式艦攻を2機撃墜したのが最初。 6日後には毛利空曹の96中攻を撃墜、漢口で96艦戦を1機、重慶では96中攻を少なくとも 1機撃墜。 1939年秋、輸入したCW-21の事故で現役引退し、戦後台湾に移住。 周志開中佐 → 6機。1939年12月22日に97重爆を1機撃墜、1942年にP-40で偵察機を1機撃墜。 1943年6月6日、90戦隊の赤沼小隊99双軽の迎撃で館野機を撃墜などP-40初のエース。 12月24日に日本機に撃墜。 高志航大佐 → 5機。1937年8月14日に96中攻を1機撃墜。15日に加賀の89艦攻1機、この攻撃で負傷するも、 復活し、初日に水偵1機撃墜など。11月23日にI16の故障で被爆し、死亡。 後、ひとり居ますが、戦果的に?です。 (489a 128 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 東京大空襲では米軍はわざと住宅地を焼いたのでしょうか。(489a 16) 陸軍省とかを爆撃すればいいと思うのですが 当時はそういうピンポイント爆撃がうまくできなかったんだよ だから低高度から「まんべんなく焼く」ことにしたんだ (489a 18,28) 昼間高高度精密爆撃が上手くいかず 相手国の一般住民を殺傷したり、生活基盤を破壊することによって 直接ダメージや士気減退効果を与える方針に変わってますので。 (489a 19) わざとです。 正確に爆撃できない以上、その方が効果が高いと信じられるようになったからです。 一般市民を攻撃する事で工業力へだけでなく精神的な効果も期待していました。 結果としては人道面でリスクを犯す割に、費用や兵士の犠牲に対し効果は差が無い と戦後の調査で結論付けられています。 (489a 20) 一応、住宅地の中にある軍需工場を狙ったというのが建前 たしかに、東京の下町には小さな工場(こうば)が今も住宅地の中に点在してる (489a 26) 戦艦大和の最後について質問です。魚雷を左舷に受け続けたのですが、米軍は武蔵戦でのデータからそのような方法を考え出したのでしょうか?(488 821) イロイロ書物を漁ると、狙ってやった説と 意図せずそうなったと書いてあるものがあるのですが どちらもあるということは、推測の域を出ないことでしょうか? 歴史群像2007年8月号の「戦艦大和を撃沈せよ」の40ページの記述では 武蔵の撃沈データから、大和攻撃時の雷撃は片舷に集中すべき との 結論を導き出した、となっている。 しかし実際の攻撃については、48ページに大和被弾状況報告についての日米の相違記載があるが 大和攻撃時に アメリカ側の記録は両舷に満遍なく魚雷を命中させたことになっているが 日本側の記録では左舷に命中魚雷が集中していることになっている。 おそらくは、どの記録を主とするかで評価が変わっているのでは (488 824) どうして大鳳はマリアナで中継基地としての使われ方をしなかったんですか? (487 451) 単艦で前に出しても、効果的な数の効果的な数の攻撃隊を出せないし、袋叩きにされるだけたから。 (487 452) レイテのシブヤン海海空戦で大和はほぼ無傷、武蔵は満身創痍の損傷を受けましたがどうしてああも、損害に差があったんでしょうか?(487 264) 旗艦のため、輪形陣の中央にいた大和よりも外側にいた武蔵のほうが 攻撃し易かったから。 (487 281) 太平洋戦争末期の米軍機による民間人の殺傷や家屋の破壊になにかメリットはあったのですか?(487 109) 太平洋戦争末期などで、 米軍機が逃げ惑う日本国民や家屋に空から機銃掃射していたガンカメラ映像を見たことがありますが、 民間人の殺傷や家屋の破壊になにかメリットはあったのですか? エリア88の主人公が、 「人間一人殺すのに20ミリ弾ばら撒いてちゃ採算が合わん」 と、言っていましたが、このように弾丸の無駄遣いではないですか? 当時の日本は家内手工業制、工場で軍需品を生産する他に 国民の各家庭で内職みたいに生産を行なったりもしていた。 空襲などで一般家屋が爆撃対象になったのも、それに関連する。 (総力戦では相手国民攻撃して国力奪わないと終わらないっていうのも理由にあったけど) また、航空機からだとよっぽど地上に近づかないと、 地上にいる人間が、一般人なんだか兵士なんだか見分けが付かない。 兵士だったら殺しておこう、みたいな認識で掃射していたようで セーラー服着てた女学生が、水兵と誤認されて撃たれたらしい記録もあったりする。 接近してきたパイロットと目が合い、撃たれると思ったら、パイロットは「あっ」という顔をして、 機銃を撃たず上空へ去っていったという話もある。 もっとも一部米軍パイロットの中には人種差別感情から 一般人だろうと子供だろうと、兵士と区別することなくというか、どっちだろうと 構わないみたいな認識で機銃掃射していた者もいるらしく、そちらは コクピットから笑いながら掃射しているのが見えた、という話もある。 (487 111) 「東京の草」という遊び? はあったそうです。 脚を出して原っぱで草を引っ掛けて帰るという。 低空を低速で脚まで出して撃墜もされないんですから、戦闘機の 本来の相手である日本軍機というものがいないわけで。 戦闘意欲をもて余すところはあった模様。それで子供を殺してい たことはスルーしてますが。 個人経営の傭兵にとっての20ミリ弾と、補給に問題の無い正規軍の 12.7ミリでは「採算」の定義も違いますし。機銃弾はともかく、昔は搭 載兵器の爆弾を使わずに帰ってきても着陸時には事故を避けるため に捨ててました。 (487 112) 当時の日本は家内手工業制、工場で軍需品を生産する他に 国民の各家庭で内職みたいに生産を行なったりもしていた。 空襲などで一般家屋が爆撃対象になったのも、それに関連する。 ルメイなんかはそう言ってるが、実際には住宅地帯と工場地帯は分かれていた。 少なくとも名古屋等の大都市ではそうだった。 各家庭に旋盤等が有って軍需生産していたわけじゃない(どこまで含めるかにもよるが)。 これらの理由は後付けされたものであって、本当のところは単純に一般市民を殺すことによって 戦力や士気の減退を狙ったもの。 (487 114) 魚雷艇の場合、雷撃距離はどのくらいなのでしょうか?(486 805) 魚雷攻撃について質問なのですが、大戦中の雷撃機による魚雷攻撃では パイロットの手記を読むと敵艦船から4~500m前後まで肉薄し、対空砲火に蜂の巣覚悟で突っ込んだりしていますが、 これが魚雷艇の場合、雷撃距離はどうなのでしょうか? いくら魚雷艇が小型で素早いと言っても航空機と比べると大きくて遅く(時速70~80km程度)、闇夜や 荒天に紛れて行動しても自ずと限界があると思われるのですが…。 海自が、既にミサイル全盛となった1990年頃まで使っていた魚雷艇の攻撃方法も気になります。 大戦中の魚雷艇に関して言えば、「雷撃距離」の規定はないでしょう。 そもそも魚雷艇でまともに大型艦艇と戦闘することは、どこの国でも想定していないはずです。 機動艇(=哨戒任務)にいざという時のために魚雷を載っけておこう、ぐらいの感じでしょうから 島陰に隠れたり、(無防備な)港湾に侵入したりしてゲリラ的に使用するとか 相手が極端に弱っていたり、無防備だったり、もしくは特攻的な任務などの場合で使われていますが いずれも特殊な例でしょう。 (486 815) レイテ海戦のスリガオ海峡海戦では海峡に侵入してきた西村艦隊に向けて、まず魚雷艇部隊が雷撃をかけている。 http //history.sandiego.edu/gen/st/~cengland/battle%20narrative1.html ここの記述によれば魚雷艇は "At 2250 they made visual contact at a range of three miles, and within two minutes were sighted by Shigure. " とあり、この直後に西村艦隊との交戦で魚雷を発射しているので、3マイル前後の距離だったと推測される。 しかしこれは夜間と、回避運動がとりにくい海峡だから行われた攻撃で、結局損害を出しただけで艦隊に損害を与えられずに終わった。 (486 824) 沖縄湾に展開していた米軍艦艇を狙って、多数の潜水艦で飽和攻撃をするということはできなかったんでしょうか?(486 710) あの、厨な質問かもしれませんが沖縄戦では多数の米軍艦艇が沖縄湾に展開していた わけですからそれを狙って、多数の潜水艦で遠距離から酸素魚雷で飽和攻撃をすると いうことはできなかったんでしょうか?勿論、特攻機の攻撃中のドサクサの隙をぬってですが。 沖縄戦の頃に、多数の潜水艦を突入させるような力は、日本海軍には残ってないです 一応、沖縄戦にも、残存潜水艦隊が投入されてはいますが、戦果らしい戦果もなく、大部分を失っていたり (486 711) 沖縄戦の頃になると日本の潜水艦は米軍の対潜部隊のただのカモ。 当然相手も厳重に警戒してるので、近づけません。 (486 712) 近いことは考えていたらしいです。日本の例だと沖縄ではなくて フィリピンなんですが、特殊潜航艇を集団で使って島嶼海を通る船団を攻撃したというのが あります。 また、近い例としてドイツもノルマンディーというか北フランスに連合軍が上陸してきそうなので 特殊潜航艇を配備していました。 (486 713) ノルマンディ上陸の時、何百隻もいたUボートでさえほとんど何もできてないですから。 当然アメリカだって警戒しているわけで、そうしたある程度警戒された状況では 浮上すれば航空機、潜航しても潜望鏡でさえレーダーで探知される状況で 近づくことさえほとんどできませんでした。 (486 715) 東京大空襲では、B-29が発砲してこないのを見て日本側の攻撃機のパイロットは「敵は非武装だ」という風に連絡をしたりしなかったんでしょうか?(486 524) 東京大空襲では、B-29は爆弾搭載量を増やす為に全ての機銃を降ろしたそうですが この日の日本側の攻撃機のパイロットはB-29が発砲してこないのを見て 「敵は非武装だ!温存してある機も出せ!」という風に連絡をしたりしなかったんでしょうか? 当日は強風で、レーダーが使い物にならず月島に火の手が上がった段階で空襲警報がやっと出たそうです。 そのため初期対応が遅かったため、離陸した戦闘機が、火の手と合わせた強風でろくに迎撃戦闘できなかったとの事。 さらにいうと夜間戦闘になれたベテランの数が少なく、有効な誘導が出来なかったので、気が付いたとしても 増援を出す頃には、爆撃が終わって帰った後でしょう。 (486 528) 全てを降ろしたわけではなく、尾部銃は残っている また、大本営は本土決戦に備えて戦闘機の温存策を取っており、出撃数がごく少ない また出撃したパイロットの手記を読むと一人で多数機を相手にしているわけだから、B-29側の火網が前より減ったと 気付く余裕もなかったようだ しかも硫黄島陥落後はブラックウイドーなどの夜間戦闘機が護衛についたりしてる (486 567) WW2のスキップボミングについて教えてください(486 396) ググッてみたのですが諸説あるようです。 ビスマルク海海戦で初めて日本の輸送船に大規模に使われた、までは共通ですが 1)ビスマルク海海戦以後、米軍の(日本のソフトスキン)への標準的攻撃法になり 大量の船腹が沈められた 2)ビスマルク海海戦は特殊な例で、危険な攻撃法であったため、以後組織的には行われなくなった。 3)米海軍、もしくは単発機は行わなかったが、米陸軍のB25による攻撃でよく使われた どれが本当なのでしょうか? 2)が一番近いと思います。 ビスマルク海海戦(日本側で言う「ダンピールの惨劇」)以降スキップボミングは 攻撃法としてあまり用いられていないようです。 その理由は明確ではないのですが、おそらくスキップボミング自体が変則的な 攻撃法であったため、これ以降大規模に用いる必要がなくなったのではないかと。 また、考案者であるウィリアム・ベン少佐が1943年1月に事故死したのも 関係あるかもしれません。 (486 411 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 敵機動部隊を攻撃に向かう攻撃隊と護衛戦闘機隊が、その途上、まさに自分達の母艦を攻撃に向かう敵攻撃隊とすれ違う場面で戦闘機隊が編隊を離脱して引き返し、敵攻撃隊を排除、一方攻撃隊は援護なしで敵艦隊攻撃を強行し、ほぼ壊滅してしまったのですが、これは指揮官の判断として正しかったのでしょうか?(485 906) 昔の太平洋戦争題材の映画で、 敵機動部隊を攻撃に向かう攻撃隊と護衛戦闘機隊が、 その途上、まさに自分達の母艦を攻撃に向かう敵攻撃隊とすれ違う場面がありました。 その映画では、我が家が丸焼けになっては元も子もないと戦闘機隊が編隊を離脱して引き返し、 敵攻撃隊を排除、一方攻撃隊は援護なしで敵艦隊攻撃を強行し、ほぼ壊滅してしまったのですが、 これは指揮官の判断として正しかったのでしょうか? もっと良い選択肢があるようにも思えるのですが。 結果次第。 敵艦隊に大損害を与えたのであれば、母艦は無事で敵は大損害だからひとまずOK。 ただし「攻撃隊」が貴重な場合は考慮の余地あり。 護衛戦闘機が同行していれば敵艦隊に大損害を与えられたのに、戦闘機隊が引き返した結果として 敵艦隊に損害を与えられなかったのであれば、その判断は誤り。 どっちみち攻撃機隊は大損害を受け、しかも敵には大した損害を与えられなかったのであれば、 母艦だけでも守ったのは正解だが、それをいうなら最初から出掛けなければ良かった。 要するに「もっとも良い選択肢」など後知恵で主張するだけの物であり、明瞭な誤りでない限り、 本当に正しかったか、何がベストだったかは誰にも分からない。 (485 907) 母艦に直援の護衛機がいるならそのまま攻撃すべき。 母艦が攻撃されるなんて想定内のはずだが。 (485 949) 他の方の言うとおり状況次第だが、あえていえば 空母の護衛は直衛部隊の仕事。 攻撃隊の護衛戦闘機は攻撃隊を守るのが仕事なのだから、勝手に離れるのは任務放棄とみなされかねない。 すれ違う状況では空母(経由で直衛部隊)に敵進路の連絡を入れ、直衛部隊に任せるのがすじ。 (485 974) 硫黄島がアメリカ軍に占領された後に日本軍の航空隊が硫黄島を攻撃するような作戦計画は無かったのですか?(484 799) wikiの「硫黄島の戦い」の項目に 硫黄島経由でしばしば日本軍航空隊がサイパンのB-29の基地を攻撃した、との記述がありますが 硫黄島がアメリカ軍に占領された後に 日本軍の航空隊が硫黄島を攻撃するような作戦計画は無かったのですか? 航空隊は沖縄攻撃と本土防空で手一杯で そんな余裕は無いとは思いますが… 計画だけならいっぱいあった でも実行する戦力を特攻に回してしまった 渡辺洋二の本を読むといい 文春文庫に入っていたをじゃまいか (485 20) 太平洋戦争直前、日米交渉が成立すれば南雲機動艦隊は何もせず戻ってくる事になっていますが、その場合、フィリピン、英マレー半島、蘭インドネシアに対する攻撃も停止する事になっていたのでしょうか? (484 794) 建前ではそうなっていた。 しかし実際には成立した場合にどうするかの詳細な行動指針は 何も与えられていなかったことが、当時の輸送船の船長の手記などに見られる。 だから万一交渉が成立した場合でも 武力衝突が一部に発生しただろうことは想像に難くない。 というかもう成立はないだろうという諦めムードが一般的だったし。 (484 795) 現在のサイパン島も森林に踏み込むと普通にごろごろしてるんですか?(484 283) 樹海に分け入ると白骨がごろごろという話を耳にしますが 現在のサイパン島も森林に踏み込むと普通にごろごろしてるんですか? それが恐くてああいう島(サイパン島に限らず)に行くことができないんです 多いところでは千単位で玉砕してるじゃないですか 旅行会社のチラシででっかく「サイパン」とか書かれているのですが それを見るとすぐ万歳突撃、玉砕、白骨ごろごろと連想してしまうので 今までずーっと恐かった(484 290) 白骨がごろごろしているかどうかは面積と、そこで死んだ人間の数 の比率で計算すればわかる事。 実際のところ、土や草木に埋まって隠れてるし、どこで死んだかも 正確な場所がわからないことが多く、 遺骨の捜索や発掘(して、日本に持ち帰る)している団体は 未だに全部の遺骨を探しきれず、大部分は不明、日本に未帰還のまま。 つまり、ゴロゴロ見つかるようなものではない。 (484 285) 実際行ったけど、見えるところに白骨なんて一度も見なかったよ。 冷静に考えれば、目に見えるところにあれば撤去するなり回収するなりする。 インパールみたいに、その土地の政府が大規模な遺骨回収を拒否したり、未開の地だったりするわけではないので。 沖縄戦では、10万人以上が、本当南部の狭い地域で亡くなっている。 たしかに戦後の一時期は、白骨ごろごろだったらしいが、さすがに目に付くところのものは、早いうちに回収して埋葬されてる。 今でも、山の中や壕の中を掘ると、石や砂に混じって、小指の先くらいに小さく砕けた遺骨が見つかることがあるけど、大柄の骨はまずない。 あるいは、簡単に見当たるような場所には無い。 (484 306) 樹海のことなのかサイパンなのか 樹海では白骨は見なかったが腐敗した首吊り死体を一日でニ体見つけたことがある サイパンでは15年ほども前だが、現地の人の案内で道路脇の林に入り、人の大腿骨の一部かも知れない白骨を見た 日本側には連絡済みだが反応がなく、勝手に処分もできずに困っているとの話だった (484 335) ミッドウエーで赤城、加賀、蒼龍の甲板や格納庫に魚雷や爆弾が満載してなかったら、数発程度の500kg爆弾には充分に耐えられたんでしょうか? (484 232) ミッドウエーで赤城、加賀、蒼龍は米軍の急降下爆撃を受けた際、甲板や格納庫に 完全武装の艦載機や魚雷や爆弾が満載してあった為に、それらが誘爆して沈没の 原因になってしまったと言われていますが、もし満載してなかったら、数発程度の 500kg爆弾には充分に耐えられたんでしょうか? 耐えられたかもしれないけど、航空用燃料タンクに引火したら分からないね。 (484 237) 艦自体は、耐えられたかもしれないが、甲板に穴を空けられた時点で戦力外です。 そのときの米軍は延期信管を使った爆弾を使用していましたので、どちらにしろ、 甲板に大穴を明け、格納庫内の爆発で、整備員、各種機材に損害を与えるので、 戦闘継続は困難です。 (484 239) 戦時中、外地の捕虜を日本へ海上輸送すると嘘の電文を流したりして、潜水艦に輸送船団の攻撃を躊躇わせたりすることはできなかったんでしょうか? (482 905) 国内へ輸送された捕虜4.7万人のうち、1.1万人が、途中で海没しています。 まあ、無駄ですね。 http //homepage3.nifty.com/pow-j/j/00100camp/campinjapan.htm (482 914) 日本本土空襲で日本本土に不時着したアメリカ軍のパイロットを救出する為に救援機の支援あるいは、パイロットが徒歩で海岸線に出れば、救出の為の潜水艦が常時いる救出地点があったんでしょうか? (482 295) うる覚えだが、海岸から4kmぐらいのところまで米の潜水艦が来ていた また、空にはSB17がボートを抱いて待機してたりする 浜松湖で撃墜されたところをみると海岸線付近の上空まで進出していたんだろう (482 328) 第二次世界大戦時の米海軍はやたら対空砲を乗せてますが、トップヘビーで問題にならなかったんですか? もちろん問題になっている。 トップヘビー問題は日本は友鶴事件を契機に収束したが、アメリカはまだその怖さを知らなかった。 台風で3隻もの駆逐艦が沈没したのは燃料切れによる重心上昇とあいまってのトップヘビー問題が原因だし、 あまりにも大量に積み込まれた対空火器は、艦そのものの設計まで変更させることになった。 ボルチモア級重巡洋艦に対するオレゴン・シティ級 クリーブランド級軽巡洋艦に対するファーゴ級 アトランタ級防空巡洋艦に対するジュノー級 これらは皆、対空火器の積みすぎによるトップヘビー問題を根本的になんとかしようと 艦級そのものを変えてしまった例。 (477 450) 太平洋戦争で日本海軍の潜水艦隊が通商破壊戦を行っていましたが、連合軍の戦略に何らかの影響を与えたのでしょうか? また影響を与えなかったとすれば、何が日本軍の間違いだったのでしょうか? 開戦から1年弱ほど仮装巡洋艦まで投入してインド洋でそれなりの成果を上げている。 そんでもって、インド洋に1個潜水艦隊規模を投入しての大々的な通商破壊作戦を行おうとして 準備中にガタルカナルでの戦いが起こり潜水艦がほとんどソロモン海に投入されたがそれでも細々と 1個潜水戦隊規模で通商破壊を行ってたのだが、連合軍の戦略に影響を与える程度の損害を与える ことが出来なかった。 結局のところ、通商破壊を行うにしろ、太平洋には通商路がほとんど存在せず、前線の兵站への攻撃が 関の山だが、日本軍の方針として、商船よりも軍艦、それも大物狙いを優先した戦略方針に間違いが あったとしか。 まあインド洋で大規模な通商破壊をやれればまた違った展開になるだろうけど、その際でも潜水艦の損害が 激増して、先細りになったであろうけどね。 (474 415) 大戦中の日本の正規空母の速力が34ノットくらいあるのはどういう要求によるものなのでしょうか? 巡洋艦と遭遇した際に逃げられる足と、合成風力を作るための高速性が要求されました。 日本はどの空母でも同じように発艦できるよう、合成風力が同じ値になるように速力を調整します。 向かい風が強いときは速力を落とし、弱いときは速力を上げます。 零戦は向かい風12m/秒=43.2km/時、つまり合成風力23ノット強での離陸距離70mを要求されています。 九九艦爆は同10m/秒で離陸距離100m(ただし爆弾搭載せず)。 実際には機動部隊所属艦中最も低速な艦の「最大戦速」、つまり過負荷でない戦隊レベルの最高速度での運用が通常。 これ、正規空母なら30ノット。つまり最大34ノットの「4ノット」は余裕分とみていい。 (466 264,268) 米軍はなぜ空襲する前に警告のビラを空から撒いたのか 都市空襲だけ見ると市民を焼き殺すのが目的に見えるが、ビラを撒く=脅迫する事で得られる効果もある。 例えば、 1)都市郊外に避難させることで、都市近辺に集中する重工業・工場の労働者(や家族)を減らしたり、避難のため労働効率を落とさせることが出来る 2)米軍が好き勝手に行動できる=日本軍は当てにならないといった不信感の醸成、戦争に勝てないといった不安の醸成(厭戦気分ってやつです) ビラ単独で何かの効果を得るものでも、都市空襲での免罪符を得るつもりのものでもなく、いわばタイマンで殴りあいしていても、拳(爆撃)を振るうだけでなく、口(ビラ)ででも追い込みかけるようなものと見てみれば良いかと思われ (456 249) 太平洋戦争の終戦時、米軍は原爆を何発持ってましたか? 落とす気になってたら8月9月で何発投下できたのでしょうか? 0発。ウラニウムは製法自体もまだ統一されておらず、供給が間に合いません。 プルトニウム(ファットマン型)は、爆弾のパーツ自体はすでにティニアン島に届いていました。 肝心のプルトニウムコアも8月13日には完成しており、ティニアンに運んで組み立てればいい状態。 といっても1週間程度かかると考えると、3発目の使用は8月20日以降。 どう急いでも8月15日の終戦には間に合わなかったでしょう。 (456 50) あ号作戦を、攻撃隊のパイロット達は「この作戦は失敗する、あほう作戦だw」と揶揄していたそうですが、何故パイロット達は作戦が失敗すると分かっていたんですか? 操縦桿を握った事も無い(飛行機の操縦が出来ない)高級将校が 飛行機のカタログスペックの航続距離だけ見て立案した作戦だった為。 確かに、当時の日本海軍空母機の航続距離だけ見れば、 アウトレンジ作戦は可能と言えるが、これだけの長距離を飛ぶと ちょうどパイロットの疲労がピークに達した頃に敵艦隊の上空に到達する事になる。 酷評すれば、ヒューマンファクターというものを全く考慮していない スペック厨ミリオタ的発想のDQN作戦だったわけですな 実際にマリアナ沖海戦に参加したベテラン艦爆乗り・阿部善次氏曰く 「真珠湾のベテランが揃っていたって絶対無理」 (378 545) 真珠湾奇襲攻撃で「第一次攻撃隊」「第二次攻撃隊」のように複数回に分けて攻撃を行ったのはなぜですか? 二回目の攻撃ともなれば、敵も準備してくるわけで攻撃隊の危険度も大きいし、攻撃は集中して一回で行ってもよいような気がします。 つ発艦能力 第一波で抵抗拠点を潰して第二波で戦果拡張 (377 906) まず攻撃時の混乱で十分な戦果が挙げられない可能性が一つ。 例えばもう十分にダメージを与えた目標を引き続き攻撃してしまうとか。 だがそれ以上に、物理的に全機を一度に投入することができないのである。 正規空母クラスは大体搭載量の半数強くらいしか一度に発艦させられない。 発艦スペースとその後方の駐機スペースの兼ね合いから。 (377 907) 一隻の空母から艦載機が数十分の間に発艦できる数には限りがあります。 一攻撃隊の発艦に何時間もかかっていたのでは先に発艦した攻撃機の燃料を無駄に消費してしまうだけでなく、攻撃隊全体の滞空時間を著しく下げてしまうからです。 一攻撃隊の数は空母の数と発艦能力、それと目標までの距離(滞空時間)の兼ね合いによって自ずと限界が決まってしまいます。 (377 924) 南太平洋海戦後に、一時的に日米の空母戦力が拮抗しましたが、今の内にアメリカと講和をしようという考えは日本には無かったんでしょうか? アメリカにその意思が無いから無理。 色々と戦略眼の無さが指摘される日本海軍and陸軍だが、 アメリカが戦力を整えるまで、守りに入っている事だけは認識していた。 (377 261)