約 1,278,851 件
https://w.atwiki.jp/bokds/pages/4.html
1章「黒衣の剣士」 アクーナで話を聞いた後自動にかりゅうの館・前庭にいきます。入るとネロから武器の使い方を教えてくれます。道なりに進んでいくとビーティーに合います。会話の途中サバタが木箱を破壊します。その後ビーティーから名前を聞かれます。会話が終わると、ビーティ一が奥へ行きます。奥へ行くと三つ分かれた所があります。左が太陽の実があり上は道で、セーブの仕方がのっています。また道なりに進んでいくと、ネロが出てきて太陽結晶の説明がしてもらえます。宝箱を
https://w.atwiki.jp/aosasa/pages/195.html
近代雑誌覚え書、その2、191 女学雑誌。5月21日。 明治18年創刊、どうも明治女学院の機関誌という立ち位置だったらしく、同時代の学制なども含めて扱ってる人の本で読んだのであまり疑っていないんですが当時の機関誌のニュアンスがよくわかっておらず、一旦保留。 『中央公論』にしたところで西本願寺の機関誌だったけど東京進出して結構手広く売ってたしなぁ、あと当時はまだ学校が文部省の機関の一つだったらしく、新聞などの検閲を行ってもいたそうなので、正直ますます正確に把握するのは難しいよな。 まあ、Wiki辞書とは説明が違うんですが「女大学」という江戸時代の教えがありまして、明治版の女大学に相当するものだよんと言われていたほうが多分正しいんじゃないかとあれです、有名なのが女は親、結婚したら夫、老いては子に従えっていうあれ。 ただ、明治女学院は欧米のキリスト教婦人団体の支援を受けていたとかで、婦人の自立を願う寄付で学校が作られていたそうなので、「表向き」があっても不思議はない。 とはいえ、動きやすい髪型を提案したり、女性作家の文章を載せたり、男性にも十分読めるような(当時は男女の学問量が絶対的に違うしね)小説が中で発展し、『文學界』という同人誌を生み出すに至ったりで雑誌そのものは悪いとは思わないんだけどね。 ただ、当時学長の巌本善治が書いた小説は「妻が浮気したと誤解し突き殺す鶴の夫、教訓、疑われるほうが悪いよ☆」みたいな内容だったと紹介されていて、その上で娼婦は人間ではない運動を展開し、女学生に手を付けまくっていたことが女学生の若い恋人に刀で追い回されて判明していることを聞いた上で、「明治の女大学」を思い返すとあまりにも全てにおいて辻褄が合っているので、表向きにはちょっと…。 ここ関係者の男もおかしいんだよな基本的に、延々紹介してる本があって…。 新小説。5月22日。 明治22年に創刊、編集部がちょっと変わった名前でなんでも「文学同好会」14名の文士にて結成、約1年半で休止、で、再開した明治29年から大正15年までは普通に編集部扱いなので、まあこの時期は単純に商業雑誌なんだろうな、というか、硯友社が初めての商業雑誌を作り上げたと雑誌関係の人が語っており、こちらも『女学雑誌』の機関誌問題のごとくに棚上げされております。 多分なんらかの意味で事実なんだと思う。 そうすると、硯友社が明治18年、明治22年の時点で山田美妙氏以外の面子は非硯友社面子のようなので要するに相互で編集をしていたってところかな、ぶっちゃけまだ編集者なんかいないだろうしなぁ。 そういや、上の『女学雑誌』も教師が編集やってたっけ…そりゃ機関誌だわ。 博文館に非常に高名な編集者がいたんですが、ひょっとしてあの人が最初の専門編集者かもしれんな…、なんかちょっと扱いが不思議だったんだけどね。 あの、まああれ、老舗っぷりには異論はないものの、そもそもその時点で非主流な上、大正に入った頃にも自然主義追い落としキャンペーンをやっていたのであんまり心証が良くないんだよね、いや、流行時期なら止めない、落ち目になった途端にキャンペーン始めたっていう、しかも、当時の慣習的に自作は単行本にまとめるのに許可いらなかったのにわざわざ田山花袋の「蒲団」に関して訴え出て単行本差し止めし、周囲からドン引きされていたのも出版社の歴史読んでいた時の記憶に生々しいですね。 次に新小説が話に出て来たらもう漱石門下の鈴木三重吉さんに編集者が変わってまして、次に出て来た時は純文学ではなくなるかもという噂でした、どうなったのかしら…。 ホトトギス。5月23日。 明治30年創刊、初期の名前は『ほとゝぎす』、のちに『ホトヽギス』となり、さらにのちに『ホトトギス』となったそうです、てか、本当にこの記号違うんだ?! あとめっちゃびっくりしたことに現存でした、現存か…さすがに予想外だったよ。 ところで私はそこらの老舗文芸雑誌群よりもはるかに早い段階で存じ上げていたんですがなんと申し上げるべきか売れないとはいえ新聞と比較され(『日本』と正岡子規が比較してた、泣くな)、時には総合雑誌『中央公論』に迫るとされ。 同人誌とまでは言わないんですが、多分それに近い性質の雑誌ということを考えると破格すぎて扱うのが当然って貫禄だったんですよね…。 ただ、正直なところ文学史においての扱いに関してはあまり存じ上げず、編集責任を持っていた高浜虚子もあまり扱いがいいわけではないようです、なんというか特に内容のない讒言みたいなのばっかり見掛けたからなぁ。 わりと有名なのが「吾輩は猫である」が載っていたことでしょうか、しかし考えてみるとそれがいきなりどーんとぶち上がったのも部数の多さあってこそって気もするもんな、各社一斉に駆けつけていたようですし。 しかしてホトトギスは別扱いということで契約書にも盛り込まれました、いやだって朝日新聞の本に載ってたから。 一時期は虚子さんが小説に拘り低迷したものの、俳句に戻してのちにまた好調に戻り、淡々と号を重ねてってる感じだなぁ、Wiki辞書のページ超丁寧。 そもそも当時は単行本も小説より俳句のほうが初版部数も増刷も多かったよという例も聞きましたが、虚子さんの力なんだろうな…、誰か分析して欲しい。 婦人之友。5月24日。 明治36年の時点で『家庭之友』が創刊、明治41年に『婦人之友』へと改名、羽仁もと子さんってのはちまちま名前聞くよね、あ、『女学雑誌』の明治女学院の出身で学生時代に少し編集作業に関わったことがあったとか。 (んにゃ、明治女学院の出身者は別に疑ってない、あと『文学界』として分離してった教師たちも問題なし、理由が学長への不満らしいからね…まあ。) で、報知新聞に入社、同時期の女子記者の中でも一番穏当かもなぁ、何人かいるんですけども基本的に嫌がらせに耐えきった人が各社一人がいいところらしく…、ああ、やっぱり「初の女性ジャーナリスト」ってなってるわ。 旦那さんも婦人雑誌を一緒にやってくれるくらいで、夫婦揃って紹介されているのを本で読んだけど結構好きだったんだよなぁ、とちょっと見てみたんですが、羽仁吉一さん、報知新聞の記者でそもそもが矢野龍渓氏の書生でした。 やっぱりある程度風通しの良い新聞社だったんだろうな報知新聞、まあ、大隈重信氏にほいっと買われてる時点でしがらみも減ってそうな気もするけど。 昭和5年の段階で「全国友の会」が作られたようですが、この手の愛読者会はそこそこ聞くけど婦人雑誌の中では早いのかしら遅いのかしら? 紙面に掲載記事に対しての感想コーナーがあり、賑わっていたようですねどこでも。 しかし、今と同じく小説の類は特に載せてないのかな? 特に部数が突出したなどの話も聞かないですし、なかったのかもな、婦人雑誌には付き物だったんだけどね。 まあ、羽仁もと子さんの人気で結構なところまでは行ったんじゃないかな、夫婦仲も理想的だし、思想というより生活改善一筋って雰囲気だね(論文見てみた)。 文章世界。5月25日。 明治39年に創刊、そもそも小説雑誌ではなく「実用的な文章を書くことを目的とする」雑誌だったそうで学者さんが名前が挙げられているんだけども、この国語学者(大槻文彦)さんと国文学者(芳賀矢一)さんはなんの役なのかしら、投稿に対しての選者でいいのかな? にゃ、田山花袋が編集長に就任して変わったとあるんだけど、初代編集長なので、変わったのいつ、初期コンセプトが始動したら変化したってことでいいのかなと地味に迷う文章になってますね…、もともと曖昧な可能性もあるな。 (なにしろ知人レベルで花袋の退職時期が食い違って語られているし。) 明治39年というのは日露戦争が明治38年に終わったのち、戦時中に鬼のように売れた雑誌は落ち着いて来つつはあるものの、いわゆる知識欲が少しずつ芽生えて来た頃といったところかな。 で、自然主義という小説の派閥の最盛期がここから約3年ほど。 そういやWiki辞書のページ、花袋氏の退職時期に関してもぼかして書いてるわ、…お疲れさま、もとの情報がはっきりしてないなら仕方ない!! しかしそもそも発行元の博文館って総合雑誌『太陽』の時点で雑誌を大きく3つにまとめてたよなぁ、そして日露戦争後に大きな部数減少にも悩まされていたはず…、そんな時期に文芸特化雑誌立ち上げて大丈夫だったものかしら。 文芸雑誌って一定の層はわりとあるけどあんまり伸びないしなぁ。 トントンで推移して自然主義の最盛期が終わると衰退、自然主義の牙城とも呼ばれた状態を解消するための田山花袋の退社かもなぁ、出版社の目算が甘い感じね。 少年倶楽部。5月26日。 大正3年刊行、〇〇倶楽部ってのは文芸倶楽部と文章倶楽部以外はだいたい講談社の雑誌ですね、わりとわかりやすい名前付いてるけど婦人倶楽部とか講談倶楽部とか。 Wiki辞書は大変に読み応えがあったんですが、ええと、大正14年の時点で人気挿絵家の高畠華宵を失い(部数4割減だって、理由が原稿料の交渉ってよく叱らんかったなぁ講談社社長)、それを契機に作家獲得に力を入れ、折から勢力を伸ばしていた大衆文学作家たちに依頼をしていったようですね、へー、吉川英治さん知らんかった。 あとわりとあとのほうになりますが江戸川乱歩もいるね、高く付いてそうだなぁ。 とはいえ、昭和11年には75万部到達らしいのでそう無茶でもないか。 少年雑誌や婦人雑誌の部数が文芸雑誌の数倍なのはもともと存じ上げていたんですが、逆にパイを奪い合うようなところもあるので、それも含めて考えると75万部ってかなりの健闘じゃないのかなぁ。 多分あれ、戦前は珍しかった漫画が理由なんじゃないかな。 「のらくろ」なんか紹介されてる時にちょくちょく少年倶楽部の名前を見てたしね。 てか、上の大正14年の作家獲得、社長の野間さんが読ませる作家をという要求をしたために「長編作家」を中心に獲得してったってのどの程度正確なのかしら。 いやこれ、大正末から昭和に掛けて純文学作家たちが同じように「大衆向けとしての長編化」を目指してるって話があって、明らかに時期が近いんだよね。 大衆作家たちの中でも大家扱いだった佐藤紅緑を皮切りに芽が出たばかりの吉川英治、帝大出身のインテリの大佛次郎とか(なんだかんだと大衆作家では珍しい)、正直趣味がいいんだよな、売れる前から付き合ってるし、同じ文脈でもおかしくないよな…。 講談雑誌。5月27日。 大正4年創刊、博文館ですね、て、懲りねぇなぁ博文館(文章世界を畳んでる最中ではなかろうかひょっとして)、そもそも講談社の『講談倶楽部』続いての『講談世界』という成功を受けての参戦なのでだいぶ慎重になってるとは思うけどなー。 まあ、講談倶楽部が講談師を代表していた速記者と揉め、講談世界は出版社を変更し、若干畑違いっぽいお堅い出版社に引き取られていたようなので、そうそう博打ってわけでもなさそうなんだけどねー。 もともと講談世界でここの項目を作ろうとしていたんですが、あまりにネット上の情報がなかったために断念、まだ調べられる講談雑誌へと切り替え。 この講談雑誌という雑誌タイトルも、上記で講談社と揉めたという速記者の方が主催していた雑誌から貰ったそうで、あちらの負担軽減みたいなものもあったのかな。 ああまあ、わりと穏当かつ需要も見込んでるか。 そしてこの講談雑誌の編集者による煽り広告から転じて「大衆文学」という言葉が生まれたのだとか、ああうん、大衆文芸に詳しい春秋社の木村毅さんも書いてたわ確か(うろ覚えだったけど概要は記憶してた)。 大正の初めくらいから「大菩薩峠」書いてた中里介山さんもそんな言葉もジャンルも存在しなかったって言ってたからねー、講談と、若干の歴史小説はあったけどね。 で、芥川が褒め称えた大衆文学のまとめ役でもある白井喬二、伝奇小説の国枝史郎、戦前の納税2位だった三上於菟吉って、えらい功績だなぁ、ある意味で講談倶楽部があったためにどうしても新規開拓になったにしろ立派な気がする。 昭和に入りエログロナンセンスってのも、うん、この流れなら自然な選択だわ。 婦人公論。5月28日。 大正5年創刊、大正2年の婦人問題特集から発展したって、ここに嶋中雄作さんがいたのかな? にゃ、『中央公論』の編集長の瀧田さんのことをライバル視していてね、と地味に出てくることがあるんだよね。 (あ、嶋中さんはのちの中央公論社の社長さん、息子さんが社長継いでる。) あちらは辣腕でも知られているんですが、正直、くどくて濃ゆくてどうもいささか独善的なところもあったようで、亡くなったあとで中央公論を引き受けた嶋中さんの時点で若干反動めいたものがあったぽいんだよね。 というより、中央公論をそれ以前の『婦人公論』化したのだ、と表現されていることがあります、婦人公論はその時点で散逸していたプラトン社の『苦楽』から美術スタッフを受け入れていてひっそりとそのテイストを継いだのではと語られていましたね(もちろん公言はしてないんだけど意匠をひっそりと忍ばせていたそうなので隠してもいなかったって認識でいいのかな)。 婦人公論自体は女性の階層別ランキングにおいて会社人の評価が高く、他の婦人雑誌と比べるとちょっと社会派寄りだったんだろうね。 前に婦人公論の編集者さんの戦前を語った本(当時の人ではないぽい)を読んだ時にも、他の婦人雑誌ではめったに見ない純文学作家の連載がちょくちょくあったみたいな話もしてたしねー。 まああの本は、「それしか」なかったのがだいぶ残念でしたけどね…。 ただもともとあまり通俗小説は売りではないのはありえるかな、婦人雑誌では純文学作家も社会運動の記事もわりと珍しく、男性読者もそこそこいたぽいしな。 文章倶楽部。5月29日。 おっとWiki辞書の単独ページがないですね、大正5年の刊行、新潮社の発行でなんというか『新潮』のサブ雑誌の一つです、あそこは「やわらかい」系の雑誌がどうにも定着しないって昭和の編集者さんも言ってたね。 いや、本誌がゴシップ含み、ジャンルあやふやじゃ棲み分け難しいと思うけど…。 (柔らかい雑誌ってのは有り体に素人向け投稿雑誌とか、ノウハウ中心とか、あと通俗小説や大衆文芸寄り作品とかがありますね、普通は部数多め、格式低め。) コトバンクでは「代表的作家たちの作品を掲載」と書いてるんですが、基本的に文芸雑誌では本誌で載せるのに支障がある長さやジャンルが曖昧な作品などをサブ雑誌に投げることがあるんですよね、あ、上の『婦人公論』なんかもその立ち位置(なので総合雑誌に載せるような純文学作家の作品が載る仕組み)。 なのでそれ自体にはそんなに深い意味もないと思うんだけど、さすがに新潮社は複数の雑誌を維持し続ける力ないしな、作っちゃあ潰し作っちゃあ潰し。 ただこの雑誌は終刊が昭和4年でそこそこ続いてる通り、まあ、教育的雰囲気に徹したことなんかが良かったんかもなぁ。 木村毅さん(春秋社メインで新潮社の社長のお気に入りぽい、よく呼んでた)なんかも真面目に講座作ってたって言ってたしね、にゃ、木村さんはメインの春秋社では思想史全集なども当ててる出版業界ではちょっと珍しい人材なので、そういう人が褒めてたらそれなりのレベルだろうしな。 白樺系の人に白樺からも武者小路実篤の参加者があったと聞いたことはあるものの、ああ、雑誌のカラーには合ってるかな、確認は取れそうにないかしら。 家の光。5月30日。 大正14年刊行、で、あれか5月スタートなので9月に関東大震災か…、雑誌の性質上、拠点が東京のみとは限らないのでなんとかなった気もしないでもないんだけどね。 この雑誌は多分あんまり見たことある人はいないかと思うんですが、私が見たのもキングの研究本で一回、唯一シェアでキングを超えたことがあるという文章と、あとそれと、プラトン社の本で離散した社員の中に『家の光』に関わった人がいたよ、というくらいですかね、で、これを書くかどうか迷ってたんですが。 (プラトン社はモダニズムの体現者、大阪の出版社、風俗の本などで出てくることもちょくちょくある社会的影響も小さくなかったとか。) 戦前に100万部突破、戦後1961年には180万部だそうなので、うん、全く馬鹿にならないね! ただ、雑誌の記事内容に関しては論文と復刻版の広告くらいしかないからな、そもそもこれ、現存の雑誌で出版主体が農協ってんだからすごいよね。 なので論文の内容も雑誌を飛び越えてそこに記述されている農家の変容に関してみたいな内容だったんですが、それでキングに比肩するほどの部数ってことは、要するにあれか、農村の「読書人口」の馬鹿にならない増加ってことか…。 正直、農民文学というのは今まで大正初期くらいから拝見してはいたもののあくまでも農民が描かれた文学だったんですよね、でも、ぶっちゃけ農業ノウハウ雑誌を農家以外の層がさして買うとは思えず、新規登場にして一気に既存層と並ぶ分厚さかぁ。 まあキングが契機になった気もするんだけどね、そういやキングに戦い挑んだ雑誌の中では唯一成功したって言われてたっけ、農協主催が良かったかな…。 (近代雑誌覚え書、その2、191) 雑記:文或と近代もろもろ、212 雑記:文或と近代もろもろ、210 雑記:文或と近代もろもろ、208 雑記:文或と近代もろもろ、207 雑記:文或と近代もろもろ、206 雑記:文或と近代もろもろ、205 雑記:文或と近代もろもろ、204 雑記:文或と近代もろもろ、203 雑記:文或と近代もろもろ、202 雑記:文或と近代もろもろ、201 雑記:文或と近代もろもろ、200 雑記:文或と近代もろもろ、199 雑記:文或と近代もろもろ、198 雑記:文或と近代もろもろ、196 雑記:文或と近代もろもろ、194 雑記:文或と近代もろもろ、192 雑記:文或と近代もろもろ、189 雑記:文或と近代もろもろ、188 雑記:文或と近代もろもろ、187 雑記:文或と近代もろもろ、185 雑記:文或と近代もろもろ、184 雑記:文或と近代もろもろ、183 雑記:文或と近代もろもろ、182 雑記:文或と近代もろもろ、180 雑記:文或と近代もろもろ、179 雑記:文或と近代もろもろ、178 雑記:文或と近代もろもろ、176 雑記:文或と近代もろもろ、175 雑記:文或と近代もろもろ、174 雑記:文或と近代もろもろ、173 雑記:文或と近代もろもろ、172 雑記:文或と近代もろもろ、171 雑記:文或と近代もろもろ、170 雑記:文或と近代もろもろ、169 雑記:文或と近代もろもろ、168 雑記:文或と近代もろもろ、167 雑記:文或と近代もろもろ、166 雑記:文或と近代もろもろ、165 雑記:文或と近代もろもろ、164 雑記:文或と近代もろもろ、163 雑記:文或と近代もろもろ、162 雑記:文或と近代もろもろ、161 雑記:文或と近代もろもろ、160 雑記:文或と近代もろもろ、159 雑記:文或と近代もろもろ、158 雑記:文或と近代もろもろ、157 雑記:文或と近代もろもろ、156 雑記:文或と近代もろもろ、155 雑記:文或と近代もろもろ、154 雑記:文或と近代もろもろ、153 雑記:文或と近代もろもろ、152 雑記:文或と近代もろもろ、151 雑記:文或と近代もろもろ、150 雑記:文或と近代もろもろ、149 雑記:文或と近代もろもろ、148 雑記:文或と近代もろもろ、147 雑記:文或と近代もろもろ、146 雑記:文或と近代もろもろ、145 雑記:文或と近代もろもろ、144 雑記:文或と近代もろもろ、143 雑記:文或と近代もろもろ、142 雑記:文或と近代もろもろ、141 雑記:文或と近代もろもろ、140 雑学:近代有力め新聞社10社、181 雑学:近代小説掲載雑誌覚え書、186 雑学:明治の歌舞伎事情、195 雑学:明治の新聞発展事情、177 雑学:文士経営者寄り10人、190 雑学:お江戸の歌舞伎事情。197 文芸:文アル登場作家、その4。211 文芸:文アル登場作家、その3。209 文芸:文アル登場作家、その2。193
https://w.atwiki.jp/hiyohiyo/pages/38.html
PS2専用ソフト「FINALFANTASYⅩ」の主題歌となった「素敵だね」で全国で有名になる。 地元沖縄では有名歌手 公式サイト
https://w.atwiki.jp/sniper1945/pages/23.html
これは星のスパイナムDEMOの攻略だよ! ①最初に ダウンロードしたら数字のファイルが出てくると思うのでそれをクリックし、展開してください。 終わったら説明書を見ましょう。バグや誤字脱字があるかもしれないという覚悟をして臨みましょう(ぇ ②グリーンアイランド 赤のアイコンをクリックし、起動すると奇妙な絵()が出るのでスタートボタンを押しましょう。 そしたらスパイナムが話してくるのでとりあえず聞いときましょう そしたら南ではなく北へ行きましょう(南は悪いウォンキィがいます西はまだいけません。) 北はスパイナム君の家なんで入りましょう。 宝箱を見てみましょう・・ ここでクイズがありますが間違えてもゲームオーバーにはなりません。 そしたら5000ゴールド(デデン)がもらえます。 注意! 1000ゴールド(デデン)は最低限残すこと! きのこの森 南にあるきのこの森に向かいましょう ここからエンカウント発生です。 そしたら南に向かいましょう あ、新メンバー開放しましょう それだけ。 隠れゾビッポンがいるらしいよ ここで取っておきたいもの じょうぶなおなべ パワップⅮ 三個 ボス戦 ウィスピーウッズ 推奨レベル5 そんなむずくない() デデデ陛下の別荘 北西へ行きましょう で、早速クイズがあるみたいです。 クイズに正解すると中に入れます。 二つの試練を突破しましょう(迷路とクイズ) 二つの試練に書かれているパスワードを組み合わせ、入力すれば、あとは進むだけ 注意!ここのクイズは間違えると即ゲームオーバーです ここで欲しいもの コブレット 二つ 追記: ver1.00だとゴブレットの模様 中ボス戦 やりワドと三連戦します 準備しときましょう 体験版ラスボス デデデ陛下 推奨レベル8 単体攻撃の技ばっかりなので そんな強くないです。() 油断してると負けますが・・ ぶっこ(ry ver1.00→あとはエンディング→タイトルに戻り終了です。お疲れ様でした。 ver1.20→商店街に行って楽しんでね!
https://w.atwiki.jp/aosasa/pages/218.html
文芸:文アル登場作家、その4。211 斉藤茂吉。12月7日。 明治15年5月14日生まれ、戦後8年で亡くなってますが70歳没なのでそう早いってわけでもないか、この前後の生まれの人は結構長生きの人が多いような気もする、いや、漱石さんの頃は「作家は50歳まで生き延びない」とか言われてたからね…(花袋の50歳記念パーティーはそういうニュアンスだったぽい)。 こっから少し下になると戦時中にがっつり責任者になっていて戦後にばたばた死んでたりするからなぁ…、茂吉さんも芸術院には参加してたみたいで愛国の歌は作っていたようですが、「愛国」止まりぽいかな戦意高揚とかでなく。 いや、もうちょっと上だとまた数少ない生き残りとして戦時組織に無理に引っ張り出されてたりもしたけどね…(露伴さんとか徳富蘇峰さんとか)。 15歳の時点で9歳の女の子と婚約したようで、婿養子。 合わない合わない合わないと延々とエピソードが並んでましたが、本当に合わなかったんだろうな、別れてもいいような気もするんだけど、年齢的に微妙で難しかったのかもなぁ、いや、学費のための婿養子ならさすがにそこまで拘束強くないよな…。 精神病院をやっていたことは他の文士を読んでいてもちょくちょく出てきますが、ぶっちゃけて「だいぶ他よりマシ」だったようです。 どんなにおかしなところだったのかと語られていたんだけど、当時はそもそも精神異常という概念が生えて来たかどうかなので、ちゃんと病気として扱ってる段階でよっぽどマシだった模様です…、ちゃんと退院してるしさ。 伊藤佐千夫門下、かなりがっつり医者、でもずーっと文学の道でも淡々と生きてたみたいですね、いや、奥さんに拘る必要あったのかな…、病院の設備のせいなのかしら。 鈴木三重吉。12月8日。 明治15年9月29日、明治11年の没で享年は54歳かな? 正直Wiki辞書にはなかったので自分で計算したんですけどね。 とりあえず、多分間違えではないとは思うんですが(複数で見てるので)、芥川が『新小説』にて同人誌からの転載の「顎」を載せた時点で編集者だったようで、書き方からすると編集長じゃないかと思うんだけども、なんでか三重吉さん関係の文章だと読めませんね、いやだって、この時点でどこそこ受け持っていたのが誰ってぽつぽつ編集者仲間が書いてるんだもん、そうそう間違ってもないだろ…。 (あくまで新小説を担当していたのは鈴木三重吉って書き方だったので編集長なのかどうかはよくわからんみたいな感じ、他の雑誌もあれこれ書いてありました、厳密にどこで切り替わったのかもわからんのだよな正直。) あと『国民新聞』への掲載ってのもありますが、これが虚子さんが担当していた時代でしょうね、漱石門下と協力関係にあったって語られていたので、まあなんか、これも書いてあるところとないところがありますが、漱石と新聞みたいなテーマだとわりと普通に出てくるので結構ちゃんと研究されてました。 …なんで扱わないのかは、よくわかりません、経歴として書かれてなくても私が特に動じないのは本当に慣れたからだよ、なんで省かれるのかもわからん…。 あと児童文学雑誌である『赤い鳥』への評価がどん底打ってるのは界隈の人が鼻で笑ってるのしか見たことがないという素直な理由の上、編集者である小島政次郎がほとんど編集をやっているが原稿が送られてこず、しまいにゃまとめて代作していたらしくて。 褒めてる人がいたら考え直します、一石を投じた程度の話は聞くんだけど…。 志賀直哉。12月9日。 明治16年2月20日生まれ、昭和46年没の享年88歳、さすがに栄養状態がいいね! みたいなことを言われてましたが、白樺確かに長生き多いよな…。 Wiki辞書のページに「多くの作家に影響を与えた」ということが書かれていたんですが、やっぱり『暗夜行路』に関してなのかなぁ、確かにいわゆる純文学と言われた作家のとある世代までのかなりの人数がよく似た父子関係ものの作品を書いていたようです、大正8年の作品集をたまたま読んだんですけど見分けることすら辛かったし…。 ただそれが志賀直哉の影響かというと…。 確かに志賀氏の属した白樺の登場と似たような時期からあるみたいです(自然主義の最盛期にはまだない、その直後くらいになる)、が、白樺が世に影響を与えたということは同時代にはほぼ言われておらず自然主義作家まで込みで書いてるテーマが「志賀直哉の影響」かと言われるとだいぶ疑わしいような気が…。 とはいえ、志賀氏にとって父子間の価値観の断絶は後追いなどではなく、当人の生まれに非常に相応しいことを否定するつもりもないですし。 暗夜行路がその父子路線の最後の生き残りなんじゃないかって言われるのだとしたら単純に物理的に事実じゃないかと思うんですよね。 同時代を見ていると葛西善蔵と菊池寛を彼の系譜の人物としていたりしますね、研究者が取り上げていたんですが、これ、人間興味(ヒューマンインタレスト)の短編のことを指すんじゃないのかなぁ…。 あの二人を取り上げて純文学のメインストリームって結論に持ってくのはなんかちょっと、と思いながら読んでました、あまりにもなにもかもしっくりこない…。 高村光太郎。12月10日。 明治16年3月13日生まれ、昭和31年没の73歳、Wiki辞書のページには「日本文学報国会」までしか書いてないんですが、確か大政翼賛会にも参加してなかったっけか、武者さん辺りと一緒だったような…。 (文学報国会は特に問題がなく、大政翼賛会だと公職追放を受けるという話なので、そこそこちゃんと読んだし、年齢的にも立場的にも他の人と取り違えにくいんだけど。) あー、そろそろそういう世代がぽつぽつ混ざって来る頃か。 ところでお父さんの光雲さんが東京美術学校を岡倉天心に連座して辞めさせられたことなんかは特に触れてないみたいですね、まあ、光雲さんのほうから読めば多分読めるんじゃないかと思うけど、略す意味がわからんし。 にゃ、鴎外さんと距離があるって言われてまして、いや、特に理由はない、だが露骨に避けていないかなどと言われているのですが、その説明として鴎外さんがその東京美術学校に特に呼ばれた人だってのは普通にあってよさそうなものなんだけどねー。 『明星』の参加者であって画家さん兼ね、彫刻も出来ます、お父さんは皇室献上作品とかあります、美術の教科書で見たよあの猿の木彫り、すごかった! ついでにお父さんは完全に無学であくまで木彫り職人さん、岡倉天心さんに一本釣りされて東京美術学校に赴いたので、彼がいないなら意味はなかったのかもね、てか、純粋な職人が教師としてあり続けたら日本の芸術も違う道があったのかもなぁ。 にゃ、岡倉天心さんは東京美術学校のパトロンの政府高官の奥さんをちょっくら寝取っちゃってたので、まあうん、辞職も、ちょっと。 普通智恵子さんを中心に語る気がする、まあいいか。 北原白秋。12月11日。 明治18年1月25日生まれの昭和17年没の享年57歳、あー、戦時中に亡くなっていたのか、この人が国家主義的な作品をわりと多く作っていたのはわりと知られてると思うんですが(ちょくちょく同時代を見てると書かれてるので)、なんか、抵抗していたっていう書き方をされていることもあるんですが。 各種あった戦時組織に参加していなかったのは事実。 とはいえ、近いジャンルの編集者(児童系)には国家主義的でばんばん出版していて羨ましいって言われてたりもするしなぁ、当時はデリケートなんだよな…。 えーと、あ、この人は予科なのか、当時の私大は中学校を卒業している必要があるのでそれ以外だと予科になるみたい、早稲田出身、とはいえ早稲田にはまだそんなに詩人の拠点はなかったのかな、Wiki辞書のページにある新詩社ってのはえーと、与謝野鉄幹を中心にした組織か、『明星』の系譜ってことかな。 ここが何度か分離解体されてるから詩人は話がややこしいことになるんだよな…。 むしろ白秋さんの出していた詩の同人誌によって荻原朔太郎や室生犀星などを輩出しているようなことはあるものの、詩壇の牽引者かっていうとちょっと違う雰囲気。 で、どうも童謡のほうで有名みたいなんですよねこの人、契機となるのは『赤い鳥』という児童文学の雑誌からになるのかな。 童謡運動という日本の本来の音調を復活させようみたいな活動があったんだよ、と語られている本で読んだんですが、実際には西洋の音楽である唱歌寄りが多かったって言われてたなぁ、まあまあ徐々にそれらしくなりもしたぽいけどねー。 同じ本で見たレコード時代の寵児って話に関しても読みたいなぁいずれ。 中里介山。12月12日。 明治18年4月4日生まれの昭和19年没で享年49歳、戦時組織で見たことないな、と思っていたんですが、日本文学報国会の立ち上げの時点で呼ばれてますね。 えーとね、大衆作家に関してはあまり戦時組織にいなかったんですが、「大衆文学が生まれるよりも前の時代の大衆作家分類の人」や幾人かのインテリ作家などは戦時組織に呼ばれていたので、介山さんも呼ばれてはいるかなとは思ってました。 大衆作家が独自に作った戦時組織なんか報国会に潰されてたからなぁ…。 (何個か潰されてます、どういう意図で潰されたのかはわからんけどね。) この人に関しては多分「大菩薩峠」しか知られていないんじゃないかと思うんですけども、文学とか興味ない人でもなんか聞いたことはある、みたいなことが多いんじゃないかしら、なにしろ都新聞、大阪毎日、東京日日、隣人之友、国民新聞、読売新聞って並んでいるので、一作品しか知られてないのも無理はないんですよね。 なにしろ昭和16年まで書いてるって言うんだから、晩年じゃん…。 というか戦時中なので、チャンバラを書き続けられないという事情もあったんじゃないかと思うんで、本当に一筋だよなぁ。 にゃ、何作品か他に書いてるぽいですけどね、始まったのが大正2年、大正10年に連載中断、春秋社に引き上げられて連載再開、それが大阪毎日以降でこれが昭和2年。 うん、さすがに「どこかで聞いたことはある」になるよ、純粋にめちゃくちゃ長いし作品の変遷だけでだいぶドラマチックだよな…。 でももともと社会運動家でどっちかというと小説書ける? と都新聞でも心配されてたの記憶してるな、正直意外な人生だったんだろうな。 武者小路実篤。12月13日。 明治18年5月12日生まれの昭和51年没、享年90歳! 白樺は皆長生き!! 西園寺公望に関しての文章で見ることがあったんですが、彼の武者小路家は「五摂家の次」の身分ぽいんですが、それがなんのことを示すのかがよくわかりません、西園寺と同格で残っているのは近衛のみ、まあ、親類みたいなもんだよね、みたいにシャキシャキ語られていたのでなんらかの元があることは疑っていないんだけどね! てかあれ、貴族院議員やってたんだ? 初めて読んだなこれ。 作家としての評価してはなんというか、あんまり見たことがない人です、誰がいつ語っててもなんか微妙に他の話になってるんだよね、「新しい村」をまず褒めたり、政治関係の本では特に手放しで褒められていたりと、正直ちょっとこう、編集者寄りの出版社の本などでは名前を見る人に近い雰囲気を感じないでもないかも。 いまいち立ち位置がわからなかったんですが、どうも通俗小説の走りの一人っぽいんだよね、これ以前はいわゆる家庭小説って言われるジャンルしかないので(これはいわゆる婦人教育のためにあるみたい、テーマは妾問題か非嫡子について)、が、白樺派はなんだか純文学の牙城のように語られていることが多く、微妙に浮いた存在に…。 演劇においても新劇と新派の間みたいな位置ぽいんだよね…。 (新派から来て、新劇を名乗り、新派に戻った人が主に武者さんを扱っていたので、本当に隙間というか間というか…。) 結果的に文学的評価はなさそうなんですが、ぐたぐたでも黎明期の橋渡しをいわゆるガチな貴族階級の人が担ったのはそんなに筋の悪い話でもないよなぁ。 同時代をちゃんと再現しないといまいち埒が明かない気もしないでもない。 若山牧水。12月14日。 明治18年8月24日生まれ、昭和3年没で享年43歳、てか、昭和初期の前後の文士の死亡者多いなぁ、ぶっちゃけ享年が40代くらいだと普通扱いよね日本…、アメリカだと夭逝夭逝言われてたら47歳で日本式に慣れててびっくりしたんだよなぁ。 あれ、白秋さんと同級生なのは知ってたけど、牧水さんのほうは中学校を卒業してから早稲田大学の高等予科に入ってる、それが正規ルートでいいのかしら…?(中学校を出ていない他の人が試験を受けて入学したみたいなことも聞いたことがある) で、多分そうじゃないかと思っていたんですが、22歳から26歳までを付き合っていた女性との恋愛というか、失恋による作品で名前を売っていたんだね…。 メインが短歌ということは扱ってるのは伊藤佐千夫門下かしら、経歴に北原白秋や石川啄木の名前が出てくるものの『明星』などに近づいたような話はないのね、鴎外さんの観月楼なんかとも無縁。 短歌オンリーではないみたいだし、その気ならいくらでもツテはあったんじゃないかと思うので、多分きっちりと考えた上でなんじゃないかな。 まあ、伊藤佐千夫などを避けたのはわりと普通にわかるけどねー、内部分裂もだけど些か物騒な感じだったので…(一人などガチめの愛国主義に走ってしまい)。 熱愛で知られ、その数年後に奥さんから強烈なアタックを受け、主流派閥に近づかずに新人のために雑誌を立ち上げ、雑誌の資金難で奥さんともども苦労した人生、みたいな感じになるんじゃないかな、家族で食べてく程度には知名度ありそうだしな…。 お酒飲むくらいしか欠点なさそうだけど、遺体が腐らなかったことしか書いてないな。 てか、白秋さんとは真逆な感じかもなぁ、あちらは拠点がない。 石川啄木。12月15日。 明治19年2月20日生まれの、享年26歳、むしろ経歴見てるとこの若さでこんなに?! となりますね…、わあ、明治45年って明治最後の年の没か…。 あと、土岐哀果さんってやっぱり牧水さんのWiki辞書のページに出てきていた同級生の土岐善麿さんのことか(白秋さんも同級生であと3人ほど著名人がいるぽい)、晩年1年の付き合いってあるけど、結構いい出会いだったらしくてちょくちょく見るんだけど、土岐さんが啄木氏との死後もしばらく同じ仕事を続けていたからかもね。 まあ、新聞社に入ったり出たり、名前が売れても特にそれで食べれたりはしなかったり、そのため原稿枚数が多い小説家を目指したりと、なんとも忙しない人生なんですが、まあ、26歳までの行動って考えると仕方ない面もあるのかなぁこれ…。 当人の事情ではなさそうな結婚の早さなのに、周囲はインテリ揃いというか、牧水さんの「結婚前の恋愛」がちょうど26歳までの間なんですよね…。 責任感持てって言われても限界があるよなぁ正直。 ある意味で彼が社会主義者と同調したのが他の作家たちとちょっと調子が違い、大逆事件に関しても唯一言及が取り上げられていたりするのも、視点の違いみたいなものがあるのかもしれないな、友が皆、我より偉く見え…そうだよね。 都会で生きる若者なら、そこそこの仕事で野放図のお金の使い方で多分全く問題のない、若気の至りで済んでいたんじゃなかろうか、そういう人と、縁遠いわけでもなんでもなく、むしろ自分のほうが名前が知られている状態か…。 別に無軌道が理解出来ないってほどのこともないよなぁ、ううん。 都会に出てくるに相応しいだけの能力がなければまだしもだったのかしら…。 谷崎潤一郎。12月16日。 明治19年7月24日生まれのほどほどに長生きです(投げ)。 とりあえず純文学作家と大衆作家との収入の違いを語る時には純文学作家代表(もう一人は横光利一)として挙げられており、戦時中に「なんかいいもん食わせて」と中央公論の若社長に頼んだら玉子焼きしか…みたいなことになった時は他の社にいた小林秀雄氏にめっちゃ怒られてたとかまあまあなんか偉い立場ぽいです。 とはいえ、菊池寛とか出入りの店に食糧差し入れしてたし…。 大衆作家との収入比はなんか10対1くらいだったんじゃないかと、でもあちらは一作品で家建つよん、みたいな雰囲気だったので、別に桁が一つ足りないだけなら十分なんじゃないのかしら…。 ところで純文学においては生活が荒れているほうが勝ちだみたいな価値観があるらしく、文士村を読んでいる時に大変に閉口させられたんですが、また少し違ったの判断基準として「この男はロリコン、こないだ確定した、こいつはフェティシズム、この彼はストーカー気質…」みたいなものがあるらしく。 この偏執的性質のために社会生活はちょっとばっかり犠牲になってはいるんだけど、それで作品がいい出来なら仕方ないよね! みたいなことを言われると、それはそうね、とごく自然に頷ける気もします、ちなみに全員元がおり、フェティシズムに該当するのが谷崎氏です、谷崎だけ表立って偏執狂と呼んでも差し支えないらしく。 そうかそれで、それなりの地位と売れ行きがあったのね、とそこも納得です。 自分の気質が迷惑なんだろうなとそこはかとなく自覚していそうだけど踏みとどまれてなさそうなところも、まあ悪くはないです、芸術のためってやつね。 (文芸:文アル登場作家、その4。211) 雑記:文或と近代もろもろ、212 雑記:文或と近代もろもろ、210 雑記:文或と近代もろもろ、208 雑記:文或と近代もろもろ、207 雑記:文或と近代もろもろ、206 雑記:文或と近代もろもろ、205 雑記:文或と近代もろもろ、204 雑記:文或と近代もろもろ、203 雑記:文或と近代もろもろ、202 雑記:文或と近代もろもろ、201 雑記:文或と近代もろもろ、200 雑記:文或と近代もろもろ、199 雑記:文或と近代もろもろ、198 雑記:文或と近代もろもろ、196 雑記:文或と近代もろもろ、194 雑記:文或と近代もろもろ、192 雑記:文或と近代もろもろ、189 雑記:文或と近代もろもろ、188 雑記:文或と近代もろもろ、187 雑記:文或と近代もろもろ、185 雑記:文或と近代もろもろ、184 雑記:文或と近代もろもろ、183 雑記:文或と近代もろもろ、182 雑記:文或と近代もろもろ、180 雑記:文或と近代もろもろ、179 雑記:文或と近代もろもろ、178 雑記:文或と近代もろもろ、176 雑記:文或と近代もろもろ、175 雑記:文或と近代もろもろ、174 雑記:文或と近代もろもろ、173 雑記:文或と近代もろもろ、172 雑記:文或と近代もろもろ、171 雑記:文或と近代もろもろ、170 雑記:文或と近代もろもろ、169 雑記:文或と近代もろもろ、168 雑記:文或と近代もろもろ、167 雑記:文或と近代もろもろ、166 雑記:文或と近代もろもろ、165 雑記:文或と近代もろもろ、164 雑記:文或と近代もろもろ、163 雑記:文或と近代もろもろ、162 雑記:文或と近代もろもろ、161 雑記:文或と近代もろもろ、160 雑記:文或と近代もろもろ、159 雑記:文或と近代もろもろ、158 雑記:文或と近代もろもろ、157 雑記:文或と近代もろもろ、156 雑記:文或と近代もろもろ、155 雑記:文或と近代もろもろ、154 雑記:文或と近代もろもろ、153 雑記:文或と近代もろもろ、152 雑記:文或と近代もろもろ、151 雑記:文或と近代もろもろ、150 雑記:文或と近代もろもろ、149 雑記:文或と近代もろもろ、148 雑記:文或と近代もろもろ、147 雑記:文或と近代もろもろ、146 雑記:文或と近代もろもろ、145 雑記:文或と近代もろもろ、144 雑記:文或と近代もろもろ、143 雑記:文或と近代もろもろ、142 雑記:文或と近代もろもろ、141 雑記:文或と近代もろもろ、140 雑学:近代有力め新聞社10社、181 雑学:近代小説掲載雑誌覚え書、186 雑学:明治の歌舞伎事情、195 雑学:明治の新聞発展事情、177 雑学:文士経営者寄り10人、190 雑学:お江戸の歌舞伎事情。197 文芸:文アル登場作家、その4。211 文芸:文アル登場作家、その3。209 文芸:文アル登場作家、その2。193
https://w.atwiki.jp/wiki15_dol/pages/537.html
削除方針 ページを削除する主な理由 Wikiモードで作成されていない。 同じようなページが複数存在する。(類似用語等例外を除く テンプレートに違反している。 意味不明、又は個人的すぎる記述。 ミスやその他理由により、掲示板に消去要請があったもの。
https://w.atwiki.jp/raidsl/pages/43.html
先ずは必要、居たら便利!なキャラから。 MVPキャラ ドレックスタール(タッグチームアリーナで欠片を集めると貰えます。この人がいると親蜘蛛も子蜘蛛も勝手にHPバーン食らって死んでくれます) 単体攻撃威力大キャラ: セプティマス、ナイトエラント、ゲルハルト、ラグノル他 デバフ洗浄キャラ: ドゥームプリースト、マウソレウムメイジ、レリクアリィテンダー他 シールドキャラ: メルガスチールガードル、ゼロター、クリスク他 蘇生、治療キャラ: シルオブザドレイク、ゴルゴラボ、レリクアリィテンダー、メルガ他 居ると問題!: A1が全体攻撃な人、全体攻撃を乱発しがちな人全般 ネザースパイダー戦の特徴として子蜘蛛を触らないことを心がけてください。 ノーマル・低階層の柔らかい子蜘蛛なら一撃で倒せるので問題にはなりませんが、倒せなかった場合はカウンター攻撃を誘発し、 さらに親蜘蛛の体力が1発の攻撃につき10%も回復させてしまいます。また子蜘蛛のカウンターバフ等を消したりすると 親蜘蛛は解除不能の味方防御バフを発生させ結果めちゃくちゃ固くなります。 戦闘全体の流れとして子蜘蛛は無視して親蜘蛛への攻撃と防御の防御・回復に戦力を集中させるのが正解です。 MVPのドレックスタールが居れば割と楽に攻略可能ですが、居ない場合は毒の洗浄をこまめに行いつつ回復と防御、 威力の大きな単体攻撃を親蜘蛛に集中させる、ことが攻略法となります。
https://w.atwiki.jp/ptikstorys/
PTIKStorys ごちゃエピ!Wiki 小説サイト「NOVELDAYS」にて連載中のチャット小説、 【繋ぐ繋がる異世界ファンタジー】ごちゃエピ!のデータベースと身内用コンテンツのページ。 このwikiは 「チャット小説」を知らない方、初めて来た方は「初めに読んでね」を必ず読んで下さい。 身内用のコンテンツを含みます。身内はログインしてね。 【LAST UPDATE2024/04/19】 メニュー2024/04/19UP! キャラクタープロフィール>金剛寺桃華2020/08/17NEW! キャラクタープロフィール>ジャック、一ノ瀬煌2020/08/17UP! トップページ、メニュー、サイト名変更、初めに読んでね、ギャラリー2020/01/17UP! ストーリー、舞台、創作タグ2020/01/17UP! キャラクタープロフィール>ジャック、ミノル、グラリオ、一ノ瀬煌2020/01/16NEW!
https://w.atwiki.jp/syaidy/pages/16.html
第1世代 アルコル~ラスタバレー メルネ湖沼~怨望の玉座 メグレス~世代交代 第2世代 シエラSIDE メグレス~ベルデ岩洞 槍氷連峰~嘆きのゆりかご EXダンジョン 虹の尖塔※2周目以降限定
https://w.atwiki.jp/bitworldkun/pages/56.html
スパイロック 内容 マキソンをボスとするスパイ集団がミッションクリアのために様々な組織に変装をして潜入するコーナー。しかし、毎回受付のオノによって変装がばれてしまう。内容は違うがマキタの続投により「怪盗おっシャレーズ」の後継コーナーである。初回と第3回の放送では、受付はロワ梨里愛演じる受付のロアリーだった。 登場人物(*1) マキソン・ボーン:マキタスポーツ エリートスパイたちをまとめるスパイたちのボス。他のスパイよりもばれる速さが速い。名前は映画『ボーン・アイデンティティー』に登場する「ジェイソン・ボーン」からきていると思われる。 アスミリア:中田あすみ エリートスパイの内の1人。 カネコスキー:金子貴俊 エリートスパイの内の1人。 D・コサッキー:古坂大魔王 エリートスパイの内の1人。 キャメロン:ソーズビー・キャメロン エリートスパイの内の1人。 ナージャ:浅川梨奈 エリートスパイの内の1人。 受付のオノ:小野あつこ 潜入場所の受付を担当している。