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ノストラダムスの誕生日は1503年12月14日(木曜日)とされている。これはほぼ定説化した日付だが、2006年にパトリス・ギナールが1503年12月21日とする新説を発表した。本項目では、ノストラダムスの誕生日に関する記録、それに対するギナールの反証、当「大事典」としての雑感をまとめておく。 誕生日に関する記録 ノストラダムス一族には、地元の洗礼記録の存在などによって生年月日が絞り込める例が少なくない。しかし、ノストラダムスが生まれたサン=レミ=ド=プロヴァンスの場合、1518年以降のものしか残されていないため、ノストラダムスの直接的な出生記録は存在しない(*1)。 ノストラダムスの誕生日についての同時代的な言及は 本人の個人的な手紙 元秘書ジャン=エメ・ド・シャヴィニーの伝記(1594年) 長男セザール・ド・ノートルダムの注記(1614年) の3点である。また、命日が1566年7月2日であることに異論はないので、墓碑に記載された存命期間から逆算することも出来る。これらを順に見ていこう。 ノストラダムスの私信 ノストラダムスの私信のうち、1565年12月12日にハンス・ロベットに宛てた書簡では、その日付を「私の誕生日の2日前」と述べている(*2)。 XII. Decembris, die autem ante natalem meum secunda.(*3) ジャン・デュペーブやピエール・ブランダムールはこの記述をノストラダムスの誕生日の根拠と見なしている(*4)。 シャヴィニーの伝記 シャヴィニーの『フランスのヤヌスの第一の顔』(1594年)に収録された伝記には、出だしの部分に以下の記述がある。 MICHEL DE NOSTREDAME le plus renommé fameux qu ait esté de longs siecles en la predicion qui se tire de la cognoissance, iugement des Astres, nasquit en la ville de Sainct Remy en Prouence l an de grace 1503. vn Ieudy 14. Decembre, enuiron les 12. heures de midy. 星辰の知識と判断によって遠い未来まで予言した最も有名な人物、ミシェル・ド・ノートルダムは、サン・レミ・アン・プロヴァンスにて、1503年12月14日木曜日の昼の12時頃に生まれた。 誕生日だけでなく時刻まで示している点に特色があるが、情報の出所は明記されていない。 セザールの言及 息子セザールの『プロヴァンスの歴史と年代記』(1614年)の本文には、こういう記述がある。 ...Michel de Nostredame nasquit à la ville de Sainct Remy presques sur les abbois de l an de Iaques, de Renee de Sainct Remy... ほとんど年末の時期にサン=レミの町で、ジャックとルネ・ド・サン=レミの間に、ミシェル・ド・ノートルダムが生まれた。(*5) また、その欄外註には 1503年12月14日/著者の父ミシェル・ド・ノートルダム誕生。 とある。 墓碑の記載 ノストラダムスの墓にはその生涯が「62年6か月17日」と書かれている。命日が1566年7月2日であることに異説はないため、そこから逆算すれば、ほぼ1503年12月14日が導かれる。 ギナールの反論 パトリス・ギナールはノストラダムスの誕生日を1503年12月21日とし、従来の定説に疑問を投げかけた。彼の根拠を見ておこう。 ノストラダムスの私信について ギナールはノストラダムスの私信に偽作の疑いを掛けている。 この手紙はノストラダムスの書簡集(BN ms. Lat. 8592)には含まれておらず、1701年に C. L. ミーク (C. L. Mieg) が公表したものであることに疑いの目を向けているのである。この立場に立つ場合、書簡に「誕生日の2日前」と書かれているのはノストラダムス自身の証言ではなく、後の時代に定説化した誕生日を元に捏造されたものとなる。 シャヴィニーについて ギナールは12月14日説を打ち出した張本人をシャヴィニーと見なしている。 その動機に関しては、一つの可能性として占星術的理由を挙げている。というのは、ユリウス暦12月14日は、学者や占星術師の守護星とされた水星が磨羯宮で太陽と合になっているのに対し、12月21日には特筆すべき星位が見られなかったから、というのである。 なお、ノストラダムスの誕生日の星位については、京都情報大学院大学教授の作花一志が以下のように述べている。 望遠鏡で発見された天王星以遠を除いて、水星から土星までの六惑星が最も直線状に並ぶのは一五〇三年の年末ごろに起こっています。図2・20 〔引用者注・ここでは割愛〕 は六惑星が全体としてよくまとまる一五〇三年一二月二四日(グレゴリオ暦値)の惑星配置で、〔中略〕 金星がやや外れているのが気になるかもしれませんが、これが六〇〇〇年間で最良の日なのです。〔中略〕 この日に生まれた有名人としては大予言者ノストラダムス、その誕生日は一二月一四日です。ただしこれは当時使われていたユリウス暦の値で、グレゴリオ暦に換算すると一二月二四日です。〔中略〕 みんな天動説を信じていたので、この夜空を見ても火星・木星・土星の集いとしか思えなかったでしょう。(*6) 【画像】 作花 『天変の解読者たち』カバー ただし、上の引用では略したが、作花はノストラダムスがこの日に生まれたことに特段の意義を認めていない。作花も指摘するように、同じ日に生まれた人物は他にいくらでもいたはずである。 セザールについて ギナールは、セザールの証言では「年末」を重視している。12月14日は年末にならないが、12月21日(ユリウス暦)生まれなら、10日程度ずれるグレゴリオ暦では実際に年末になるからである。 欄外注については、12月14日という日付はエクス高等法院の記述とノストラダムスの誕生とにはさまれており、前者の日付ではないかとした。確かに上で訳出したように、「この日」というような分かりやすい限定語は、ノストラダムスの誕生に関する記述には入っていない。 また、ギナールは別の可能性として、セザールが知人ピエール・オジエに宛てた手紙の中で、削除や変更、入れ替えなどをやらかす出版業者に対する不満を表明していることと結び付けている。すなわち、セザール自身が加えた情報ではなく、業者が勝手に挿入したのではないかということである。 墓碑について ノストラダムスの墓の記事で述べたように、古い墓碑の記録には「62年6か月17日」になっているもののほか、「62年6か月10日」になっているものがあり、セザールは後者を採っている。 そして、1656年の解釈書、テオフィル・ド・ガランシエール、バルタザール・ギノー、ピエール=ジョゼフ・ド・エーツらもそれを踏襲しており、1664年には歴史家オノレ・ブーシュ (Honoré Bouche) もそのように転記している。 このことから、62年6か月10日の生涯が正しいと見なせば、その誕生日は12月21日とすべきだというのである。 もちろん、命日の方を動かして6月24日ごろとすることもできなくはないが、遺言補足書が6月30日付となっていることと矛盾するとして、ギナールは退けている。 コメント ギナールの論は今のところ追随している論者が見られないようだが、思いつきの域を遥かに超える細かな論証がなされている。そこで、以下に疑問を述べておこう。 ノストラダムスの私信について 12月12日付の書簡について、デュペーブやブランダムールは本物と見なしており、書簡集に含まれていないということが直ちに偽作といえるかは疑問である。書簡集には翌日付のよく似た文面の手紙が含まれているが、ノストラダムスが似たような文書を複数したためることがあった点はいくつかの真正文書から明らかになっており、これも不思議な点ではない。 ただし、その12月13日付では「誕生日の前日」というようなくだりは無いようなので、その点の不整合は気になる。 シャヴィニーについて もしも「62年6か月17日」が偽造されたものなら、その犯人として疑われるのは確かにシャヴィニーだろう。そして、占星術的理由ならば確かに可能性はある。 ただし、それならばシャヴィニーがその日について積極的な意味づけをした言及があってしかるべきだろうが、ギナールもそのような証言は挙げていない。この点は、シャヴィニーを犯人とする可能性に疑いを投げかける。 セザールについて 最も問題となるのがこれであろう。確かに「年末」という表現は日付単位で見れば、12月14日にはふさわしくない。しかし、原文には presques (ほとんど)とあり、年末と完全に限定しているわけではない。 そして、欄外注についてだが、確かに日付とノストラダムスの誕生に触れた記述は改行されている。しかし、そのスタイルは命日についても同様なのである。 【画像】『プロヴァンスの歴史と年代記』誕生日に関する欄外注(左)と命日に関する欄外注(右) また、セザールの私信で、出版業者に不満を述べているのは興味深いが、それならば本文で引用された墓碑の文面で「XVII」(17)を「X」(10)と誤植するくらいの誤りは普通にありえたのではないだろうか。本文は(碑文はフランス語ではなくラテン語だというのに)セザールの意図通り正確に記載する一方、欄外注では全くの独自の注を丸々、業者が挿入したという想定は、(否定できるものではないが)本文を誤る可能性に比べて一方的に可能性が高いと見なせるものではないだろう。 墓碑について ギナールの仮説にはロベール・ブナズラも疑問を述べたらしい。ブナズラが挙げたのは、ラ・クロワ・デュ・メーヌの書誌(1584年)の中で「62年6か月17日」とされていることである。この証言はシャヴィニー(1594年)よりも10年早い。 これに対してギナールは、材質やサイズなどの証言を含んでいないことから、実見したものではなく伝聞に基づいているのではないかとした。 確かにその可能性もあるだろう。しかし、では誰からそのような「誤った」情報を聞いたというのだろうか。仮にシャヴィニーだとすれば、それを妄信したのは何故なのか、やや苦しいことは否めないだろう。 また、17世紀以降の多くの証言と矛盾するとしているが、サイズなどに言及している歴史家ブーシュの証言にしても、セザールの『プロヴァンスの歴史と年代記』の中に墓碑のサイズや材質への言及があるのだから、これを転記した可能性は排除できない。 ゆえに、ラ・クロワ・デュ・メーヌを退けて、17世紀以降の証言を優先する理由にはならない(ギナール自身認めるように、「17日」とする証言も一定程度存在する)。 小括 以上見てくると、ギナールは自説に都合の悪い証言を過小評価しすぎではないのかという印象を禁じえない。もちろん、従来当たり前すぎると思われていたさまざまな証言の中に見られる綻びについての問題提起としては、非常に有益なものであったといえるだろう。しかしながら、現時点ではその結論を積極的に支持できるものではない。 なお、ギナールは命日が7月2日であることを当然の前提にしているが、7月2日は「聖母の訪問の祝日」(Visitation)であった(現代ではこの祝日は5月31日(*7))。ノストラダムスの本来の姓ノートルダムは聖母を意味するので、その命日にはふさわしい日といえるかもしれないが、誕生日には別人の作為を見出すというのに、ここには何の作為も見出さないというのは、片手落ちではないだろうか。 ギナールの場合、遺言補足書に暗号としての特殊な意味づけをしている点は差し引いておくべきだろう。すなわち彼の暗号解読にとっては、命日の方を動かして遺言補足書が偽物であると位置づけるわけにはいかないのである (誤解のないように付け加えておくと、当「大事典」は遺言書や遺言補足書に暗号が含まれているという仮説には否定的だが、それらの本文が全体として本物であろうという点には疑いをさしはさんでいない)。 とりあえず当「大事典」では今のところ、1503年12月14日生まれとする通説を支持し、命日についても通説を支持しておく。今後、さらに誕生日についての確定的な証言が出てくることを期待したい。 なお、この当時の人々の正確な生没年が確定させがたいのは珍しいことではなく、大詩人ピエール・ド・ロンサールの生年は1年ずれる可能性があるし、大文人フランソワ・ラブレーに至っては近年は1483年が有力視されるようになっているとはいえ、1483年か1494年かで長らく争われてきた上、それ以外の年を挙げる論者たちもいた(*8)。 それを考えれば、ノストラダムスの場合、命日については争いがなく、誕生日についてもほぼ確定し、異論があってもわずか1週間の範囲におさまるのだから、実に幸運なことと言えるのではないだろうか。 外部リンク Patrice Guinard, Naissance de Michel de Nostredame le 21 décembre 1503 名前 コメント
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武装神姫のリン 第12,5話「進化の予兆」 これは俺とリンが小さな挑戦者を迎える前日の話である。 「う~ん……これはダメか」 「ダメですねぇ」 「じゃあ、こっちは?」 「コレもちょっと違和感が…」 「あーーー これで終わりか……」 俺とリンは戦闘スタイル、技に変化をつけるべくエルゴに行ったのだが、良いものが無く結局流通向けの神姫向け装備のカタログに目を通しきってしまった… 「だめかな??」 店長が話しかけてくる。 このエルゴの品ぞろえの豊富さ(数もさることながら厳選されていて、かつ比較的リーズナブルな品)を持ってさえ解決のしようが無い。 今回のお目当ては「空戦装備」 セカンドリーグともなると空を飛べないというストラーフでは当たり前のことでさえ戦闘での不安要素になってしまう。 例えばホーミングミサイルを次々と避けるのはステップだけではどうしても限界がある。 結果、ミサイルや射撃武器を扱う「やり手」が相手の場合は5割の確率でこっちが距離を詰める前に結構なダメージを負ってしまう。 なので思い切って飛行できるパーツを追加しようと思ったんだけど…カタログにはリンの好みに合うパーツが無かった。 アーンヴァルのユニットは直線方向には絶大な推進力を誇るがどうしてもユニットが大きめになるうえ、熟練しない限り小回りは期待できない。 今までのリンのスタイルはレッグユニットのばねを生かしたステップや宙返りなどで敵を翻弄する戦い方だ。 だから空戦でも膨大な推進力が必要なわけではなく、どちらかというとジャンプを補助する瞬間的な加速だ。 なので既存のパーツでは条件に合うものが無いという現状だ。 まあ個人ディーラー系なら条件に見合ったパーツも見つかるかもしれないが、高価だし破損時の保証が無い。 保障があれば格安で修理してもらえるが、保証がないと修理でも新品の6割ほどのお金が掛かる。これはリーグで闘う上で重要だった。 「う~んなかなか無いものだね~ 普通にコレをいれば見つかると思ったんだけど…」 店長もあきらめムードだった。 俺も朝から何時間もカタログとにらめっこを続けていたためか、結構肩がこってたりする。 まあそこは今リンがほぐしてくれてるんだけど 「今回はあきらめて改めてネットで情報収集してはいかがですか?」 肩のコリをひざた足を使ってほぐしながらリンが提案する。 「まあ、しょうがないか…」 そうしてエルゴを後にした。 とソコに電話が。表示を見ると係長と出ている。今日は休みなんだけどな。と思いつつ通話ボタンを押した。 「はい、藤堂です。」 「お、今日は早いな。」 「用件はなんでしょうか?」 「ああ、先日君が契約を取り付けた会社なんだが、君の提案したユニット内部のパーツだけじゃなくて神姫の装備品販売も視野に入れているとことらしい。で近々もう1度君と話をしたいそうだ」 「そうですか…分かりました。どうも」 何気なく電話を切りそうになったが俺はそこでピンと来た。 「あ、すみませんけどあちらさんの会社の方がいまそっちにいたりするんでしょうかね?」 「ああ、電話じゃなくて直接ウチの来てくれたよ。で君が休みでちょっと落胆してるな」 「分かりました30分ほどで行きますので、すみませんがよろしくお願いします」 「おい、来るのか? 仕事熱心だねぇ わかった伝えておくよ」 いそいで電話を切ると俺はリンを連れて走り出した。 そうしてすぐさま家に帰って、スーパーに出かけてる茉莉とティアにメモを残し、スーツに着替えてリンにはフォーマルっぽい服を着せて愛車を駆って会社へ向かった。 高速を使って会社へは20分ほどで到着。 そして俺は取引先にあるプランを持ちかける。 それは「島田重工製MMSの強化ユニット販売」だった。 具体的にはアーンヴァルとストラーフに一番効果の出る強化ユニットを製造し島田重工のライセンスをもらって販売するというわけだ。 島田重工の承認があればかなり大規模な展開が可能である。たしかに承認を取り付けるのは難しいと思うができればそれは大きな力になる。 強化ユニットの案はかなりの数が頭の中にあった。 というのもバトルをはじめてからというもの、エルゴに行く前から量販店では必ずリンに合うパーツを探すことを日課としていたためだった。 まあ捜索の結果は毎回散々だったけど… この強化ユニットのプランを取引先も善処するということで今日は話を終えた。 その数日後、小さな挑戦者たちに初めて「烈空」を破られてしまった俺たちはトレーニングに励んでいた。 リンに向かって無数のミサイルが飛来する。 しかしリンは銃はおろかナイフ1本でさえ持っていない。 「そこ、バックステップから跳躍!」 「はい!」 「ランダムに連続ステップ!」 「!」 「そこだ、さいたまっは!!」 「ええぃい!!」 ディスプレイ上にはミサイルの着弾ギリギリから地面を滑るかの様に移動するリンの姿。ミサイルは誘導が切れて地面に着弾。次々と誘爆していった。 そうだ、次に俺たちが目指したのはあるアーケードゲームのテクニック。 その名も「さいたまっは」 詳しい説明は割愛しようw 現状の装備で敵のミサイル等の誘導の高い攻撃をできるだけ回避するために会得した技術だ。 まあこれはバーチャル限定なんだけど…セカンドなら通用すると思う。 そこに電話が、相手は取引先 「もしもし、藤堂ですが…」 「休暇中にいきなりですみません。」 「いえいえ、で話とは?」 「あの件なんですが…話はけっこうすんありと行きまして、島田重工さんはトライアルにあなたの神姫を使いたいそうです。」 「な、本当ですか?」 「はい、なんでも強化パーツは島田さん所でも近々プランを立ち上げようとしていた所だったらしいです。で強化のコンセプトもほぼ同じらしくトライアルで結果が出せれば藤堂さんのプランをそのまま採用するとのことです」 「分かりました、近く返答をしますと伝えてください」 俺は震えを押さえて電話を切った 「マスター?」 俺の様子を不思議に思ったリンが首をかしげる。 俺はそんなリンをいきなり抱きしめた。 「ちょっ、い、いきなりはダメですぅ」 「すまない、舞い上がっちゃって」 「で、なんだったんですか?」 「ああ、リンにも空が飛べるようになるって」 「本当ですか! でも飛ぶだけなら…」 「安心しろ。お前…というかストラーフに合った高機動型のユニットだ。」 「でもトライアルって」 「俺はリンのことを信じてる。お前も俺を信じてくれれば必ず結果は出るさ」 「マスター」 「明日からがんばるぞ!!」 「はい!」 そうして日が暮れていく中を俺はリン肩に乗せて歩く。 しかしそのパーツを別の場所で使うことになるとは、俺たちはそのときは全く考えもしなかったのだ。 燐の13 「進攻」
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おしっこするときにトイレに行かず、ペットボトルに排尿する人のこと。 「ビビッドレッド・オペレーション」の四宮ひまわりは考察の結果ボトラーであることが確定した。
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無限のストラーダ@wikiへようこそ •GREEのゲーム「無限のストラーダ」の情報を集積していくwikiです。 ~現在作成中~ mugen-wiki?cmd=upload act=open pageid=1 file=d1286-237-786097-3%5B1%5D.jpg ~現在作成中~
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タッグストライク 4人でレンジャーズストライクをプレイするための特別ルール。 2人同志でチームを組み、相手チームの各プレイヤーに5点のダメージを与えることができたチームが勝利。 大きな特徴として、常駐(4枚まで)、パワー、コマンド、ナンバーコンビネーションをチームで共有することがある。 「リーダー」・「サポーター」を決め、左にリーダー、右にサポーターが座る。ターンはチームで共有するような形になり、リーダーが一通り全てのフェイズを終了してからサポーターが行動する。(ただし、スタートフェイズのみリーダーの次にサポーターが行う) 5点ダメージを与えられたプレイヤーは行動不可能になる。 禁止カードは命の泉、メディテーション、ドラゴンレンジャー。前2枚は自分の敗北までのダメージ許容量を増やす効果、後1枚は自軍の敗北までのダメージ量を参照する効果を持つが、敗北がチーム単位のみで「自分(自軍)の敗北」が規定されていないタッグストライクでは、これらの効果はルール上対応できないためである。 禁止カードのリストはこられ以降は更新されることはなかったが、後に登場したカードとしては、これらの禁止カードと同様の効果を持つアルティメットダイボウケン、仮面ライダーゼロノスZF(XG6)、ブラスト持ちのユニットカード及びブラストを付与するフルブラスト・アクション等も使用不可能と思われる。 ルールが煩雑な上に1プレイに1時間以上かかることもざらにある。必要人数も多く、実際に行うプレイヤーは少ない。かつては公認大会でも行われていたが、現在は特撮ヒーロー大会に取って代わられてしまっている。 関連項目 タッグ
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レベル26以上で開錠可 月面探査車の設計 必要アイテム ・ホイールの設計図*5 ・カメラ接続方式図*5 ・アンテナ方式図*5 ・トランスミッションの設計図*5 ・製作工程表*5 ・光学方式図*5 ・エンジンの設計図*5 ・太陽電池の設計図*5 ・蓄電池の設計図*5 ・ドライバーの設計図*5 見つけるアイテム 見つかるアイテム 【ノービス】 【トレーニー】 【プロフェッショナル】
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NN:くりっく HP 攻撃 防御 特攻 特防 素早さ 個体値 31 31 31 31 31 31 努力値 252 252 0 0 0 4 実数値 187 189 99 103 99 91 特性 いかく 性格 いじっぱり 持ち物 こだわりはちまきorたつじんのおび 技構成 ワイルドボルト/こおりのきば/でんこうせっか/ばかぢから 思考停止でHAぶっぱ いかくで物理耐久は少しあると期待している 使ってみてもないし、ダメ計すらあきらめたのでとりあえず使ってみないとわかりませんねwww レントラーかっこいいよレントラー NNに関しては、いただきもののレントラーなので僕からはコメントしないようにしておきます。 興味がある方がいらっしゃれば聞いてくださいwww
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ノストラダムスの伝記研究の歴史について概観する。 「ノストラダムスとは何者か」 を考えるとき、彼の生涯を実証的に裏付けてゆく作業は欠かせない。しかし、それが本格化したのは20世紀半ばになってからのことであった。 伝説の形成 ノストラダムスについての最初の評伝はジャン=エメ・ド・シャヴィニーの 「ミシェル・ド・ノートルダム師の生涯に関する小論」 だろう。これは彼の著書 『フランスのヤヌスの第一の顔』(1594年) に収録され、17世紀以降の『予言集』 の多くの版に再録されたことで、そこに描かれたユダヤ系の名家に生まれ、医師としても予言者としても絶大な成功を収めたノストラダムスの生涯や人物像が、大いに広められた。 断片的な情報ではあったが、ノストラダムスの実子セザール・ド・ノートルダムの『プロヴァンスの歴史と年代記』(1614年) も、ノストラダムスについての情報を提供した。 【画像】 『故ミシェル・ド・ノートルダム師の占筮に関するシャヴィニー殿の解説』復刻版。『フランスのヤヌスの第一の顔』の部分的な再版。 17世紀になると、匿名の解釈書 『ミシェル・ノストラダムス師の真の四行詩集の解明』(1656年) が、フロランヴィルの領主との「城豚と黒豚の話」 など、後の多くの文献に引き写される伝説を収録した。 18世紀には、ノストラダムスの姪の孫にあたるパラメド・トロン・ド・クドゥレ(未作成)が手稿 『ミシェル・ノストラダムスの物語の要約』(18世紀初頭)(*1) を執筆し、シクストゥス5世との出会いのエピソード、パリにおける迷い犬を発見した話などを紹介した。 また、同時期の作家ピエール=ジョゼフ・ド・エーツによる 『ノストラダムスの生涯』(1711 / 1712年) には、ノストラダムスが古代ユダヤの失われた十支族のひとつであるイッサカル族の末裔であるとする系譜が語られるなどした。 こうした伝説的なノストラダムス像の形成にとって欠かせなかったのが、匿名の伝記 『ミシェル・ノストラダムスの生涯と遺言』(1789年) である。これはエドム・シャヴィニーという実在しない人物の手稿などに基づいたと主張する怪しげな伝記だが、エドムの名がしばしばジャン=エメ・ド・シャヴィニーと混同されたためか、シャヴィニーの著書として誤って紹介した文献もしばしば見られた。この文献において、「若き占星術師」 と仰がれていたという学生時代のエピソードなどが登場した。 19世紀においてはウジェーヌ・バレストの『ノストラダムス』(1840年) が、手稿であったトロン・ド・クドゥレの伝記からもエピソードを再録するなどした。シクストゥス5世のエピソードを実質的に広めたのは、バレストといってよいであろう。 実証的研究のはじまり こうして伝説的なノストラダムス像は時代を追うごとに膨らんでいった。 1930年代には伝記作家のジャン・ムーラとポール・ルーヴェによる 『ノストラダムスの生涯』(1930年) や、ラブレー研究でも知られたジャック・ブーランジェの 『ノストラダムス』(1933年) などが刊行されたが、それらにはまだ伝説的色彩も多く残されていた。 ブーランジェの紹介にかなりの程度依拠している渡辺一夫の「ある占星師の話」(1947年) は日本最初のノストラダムスの評伝といえるが、上記のような事情から、伝説的要素が十分に排除されてはいない。 前後する時期に、実証的な伝記研究に先鞭をつけた人物が現れた。サン=レミ=ド=プロヴァンスに移り住んだ精神科医エドガール・ルロワである。ルロワは郷土史にも関心を持ち、サン=レミとゆかりの深い人物として、ノストラダムスや画家ゴッホについて調査するようになった(*2)。ことにノストラダムス研究においては、サン=レミや周辺の自治体の古文書館に残る史料を丹念に調査し、ノストラダムスやその一族についての実証的な姿を明らかにした。 ルロワは数多くの論文を残したが、たとえば 「ノストラダムスの諸起源」(1941年)(*3)では、ノストラダムス一族が伝説的な学識者の名門などではなかったことが明らかにされた。また、1960年の論文 「ノストラダムスの曽祖父ジャン・ド・サン=レミ」(*4) は、題名の通り、曽祖父ジャン・ド・サン=レミについて検討したものだが、ノストラダムス幼年期の教育係とされたジャンについて、史料によって裏付けられるのがどのような生涯であったのかを明らかにし、ノストラダムスが1歳になるかならないかのうちに没していた (=つまり教育係をつとめたとは考えられない) ことが確認された。 ルロワはまた、古文書での実証だけでなく、地元サン=レミの精神科医という利点を活かし、ノストラダムスの詩篇には、幼年期の記憶、すなわちサン=レミの景色や近隣のグラヌム遺跡と一致するモチーフが存在することを初めて指摘した。ルロワの指摘のすべてが現在の実証的な研究で支持されているわけではないが、百詩篇第4巻27番や百詩篇第5巻57番についてはほぼ定説化しているといってよい。 ルロワは生前に多くの論文を発表したが、本としてまとめられることはなかった。しかし、ルロワの娘の尽力などにより、1972年に『ノストラダムス、その起源、生涯、作品』 として結実し、1993年にも再版された。これはノストラダムス伝記研究の基本文献というべきもので、たとえば、志水一夫が自身の新発見と主張していた逢い引きを見抜いた話の出典にしても、志水よりも先にこの本の中で指摘されている。 ルロワの伝記研究、特に先祖の系譜について重要な補完をおこなったのがウジェーヌ・レー(未作成)である。彼は1968年の論文 「ミシェル・ド・ノートルダムの父系の先祖」(*5)にて、ルロワが見落としていた古文書の掘り起こしなども行い、ルロワが明らかにしていた系譜を拡充した。たとえば、ほとんど名前しか明らかになっていないが、ルイとピエールというノストラダムスの2人の弟の存在は、レーの研究で明らかになったものである (前述のルロワの著書では、編者による補記の中で言及されている)。 新文書の発見と研究 ウジェーヌ・レーのもうひとつの貢献は、ノストラダムスの往復書簡のうちBN ms. Lat. 8592について、最初のまとまった紹介を行なったことである。彼の論文 「ミシェル・ド・ノートルダムの往復書簡断片の概要」(1961年)(*6)は、重要な書簡の全訳とそれ以外の書簡の要約から成っており、この分野での先駆的業績となった。 体系的な分析と紹介を行なったのがジャン・デュペーブで、彼の著書 『ノストラダムス 未公刊書簡集』(1983年) は、BN ms. Lat. 8592のすべての書簡のラテン語原文の転記とフランス語による要約が収録されており、この問題を考える上での基本文献となっている。 書簡の研究は、ノストラダムスのこまごまとした生活状況のいくつかを明らかにしたほか、ノストラダムスの宗教観などに関して、公刊された文献とはまた別の側面を明らかにした。 秘書ジャン=エメ・ド・シャヴィニーに関する様々な伝説に再考を迫った点でも重要である。シャヴィニーの伝記研究については、特にベルナール・シュヴィニャールが体系的に展開し、その成果の主要部分は『ノストラダムスの予兆集』(1999年) にも収録された。 1990年にはルロワやデュペーブの研究成果に、自身の現地調査を交えたジェイムズ・ランディ(未作成)の『ノストラダムスの仮面』 が公刊され、そうした研究が英語圏に広まることに貢献した。日本では竹下節子による伝記『ノストラダムスの生涯』(1998年) に、ルロワ、デュペーブ、ランディらの研究が取り込まれている。竹下の著書には、1990年代になって発見されたというノストラダムスの最初の結婚に関する史料への言及もあり、アンリエット・ダンコスの名前がはじめて明らかにされた。 【画像】 ジェイムズ・ランディ 『ノストラダムスの仮面』 英語圏では、ピーター・ラメジャラーがノストラダムス生誕500周年に際し、『知られざるノストラダムス』(2003年) を著すなど、実証的なノストラダムス像の構築に意欲的である。 一族の研究 ノストラダムス一族の中でも、実弟ジャン・ド・ノートルダムや実子セザール・ド・ノートルダムに関する文学的な検討も行われるようになっている。 ジャンについては、ジョゼフ・アングラードによる先駆的な研究が20世紀初頭に存在していたが、それに続く研究はあまり見られなかった。しかし、ジャンの作品を主題とする博士論文をまとめたジャン=イヴ・カザノヴァのように、新しい研究も出現している。 【画像】 カザノヴァ 『16世紀プロヴァンスにおける史料編纂と文学 ジャン・ド・ノートルダムの作品』 セザールについては、テレンス・ケイヴの著書 『1570年頃から1613年のフランスにおける信心深い詩』(1969年) の第7章で詩人としての分析が行われており、ケイヴは翌年に 「セザール・ド・ノートルダムの信心深い詩における画法と情熱」(*7)という論文を発表し、画家としての側面との関連も考察した。 画家セザールについての研究は少ないが、ジャン・ボワイエによる 「16世紀における2人の忘れられた画家 エチエンヌ・マルテランジュとセザール・ド・ノートルダム」(1972年)(*8)が発表されている。 【画像】 テレンス・ケイヴ 『1570年頃から1613年のフランスにおける信心深い詩』 セザールの詩作品については、断片的に復刻なども行われていたが、2001年にはついにドローズ社の「フランス文学テクスト」叢書の1冊として、ランス・ドナルドソン=エヴァンス編纂による校訂版 『霊的作品集』 が刊行された。父であるミシェル・ノストラダムスに続き、息子セザールの作品もまた、文学的研究の対象として権威ある叢書に加えられたのである。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
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2015年予言―2016年予言―2017年予言 一部メディアにはノストラダムスが2016年について予言しているかのような主張が見られる。だが、それは事実ではない。 ノストラダムス本人の作品には、2016年と明記された予言など存在しない。 『ノストラダムスの予言は的中していた! 2016年「人類40億人滅亡」恐るべき証拠』 並木伸一郎の著書『ノストラダムスの予言は的中していた! 2016年「人類40億人滅亡」恐るべき証拠』(竹書房、2015年)は、題名に反して、ノストラダムス予言から2016年の破局を導くものではない。 ノストラダムス予言で直接解釈されているのは百詩篇第10巻72番のみで、「2016年」という年号はその解釈にすら出ていない。 『2016年向けのノストラダムス予言トップ10』 Alex Noudelmanが「2016年向けのノストラダムス予言トップ10」を公表し、日本ではTOCANAがこれを元にした記事を公表した。しかし、その予言というのは、たとえば 「最後の大統領・オバマ」 「ホワイトハウスで戦争ゲームが行われる」 など、検討する価値のないものばかりである。 「アメリカ」はノストラダムスの予言にはたった一度「アメリク」(L Americh)という形で登場するに過ぎない(百詩篇第10巻66番)。当「大事典」では、それはアイルランドの都市リムリック(Limerick)の誤植の可能性を疑っているが、いずれにせよ、信奉者側の解釈でアメリカが頻出するのはヘスペリアなどをアメリカの隠喩と解釈した結果であって、直接的に導かれるものではない。 ましてや、オバマの運命だの何だのが書かれているはずはもちろんなく、相当に強引なこじ付けをしているか、根本的な捏造であるかのどちらかであろう。 ただし、 「中東が火の海に」 「中東地域での暴動」 などは、既存のノストラダムス予言詩からこじつければ導けないわけではないだろう。しかし、イスラームを邪悪な侵略者と見なす言説は、偽メトディウス、ティブルのシビュラなど、中世以来の予言によく見られたモチーフであって、2016年と明記されているわけでもない。 また、ISIL(いわゆる「イスラム国」)の動きなどを考えれば、当てずっぽうでもこの程度は予言できるだろうし、何らかの形で当たったとしても驚くに当たらない。 ノストラダムスの2015年予言にも書いたことだが、かつてはノストラダムスの墓から見つかったというような触れ込みで、偽予言が頻繁に出されていた。たとえば、Googleブックスで見られるものとしては 『ミシェル・ノストラダムスの新たなる興味深い7年間の予言。1768年から1774年まで』(*1)(1768年刊行) 『ミシェル・ノストラダムスの新たなる興味深い7年間の予言。1839年から1845年まで』(*2)(1838年刊行) がある。これらは特殊なケースでなく、たとえば、前者のあとには1770年ごろ、1773年、1774年、1778年、1781年ごろ、1783年、1784年ごろ、1787年、1790年、1791年・・・に同じようなものが出されていた(*3)。 要するに、ノストラダムスの予言が新たに見つかり、それはたまたま発表された年以降を予言したものだったというストーリーは、過去数百年にわたり、使い古されてきたパターンだったといえるのである。 2016年はババ・ヴァンガの戦争予言もあって、それとの関連でノストラダムスの予言も持ち出されるかもしれない。しかし、ノストラダムスは2016年と明記された予言など1つも残していない、という事実は改めて強調しておきたい。 なお、ヴァンガは当「大事典」の対象外なので詳述しないが、日本では羽仁礼による懐疑的分析があり、PSIウィキや『「新」怪奇現象41の真相』(彩図社)で展開されているので、それらを参照されたい。 【画像】『「新」怪奇現象41の真相』 外部リンク Top 10 Nostradamus Predictions for 2016(Alex Noudelman – Digital Marketing Executive – Educator, 2015年8月8日) 世界は確実に終わりに向かっている!? 最新版ノストラダムス2016年予言!(TOCANA, 2015年12月31日) ヴァンガ・ディミトローヴァ(PSIウィキ、一般社団法人 潜在科学研究所) 名前 コメント
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イスラーフィル イズラーイールの別名。