約 1,043,018 件
https://w.atwiki.jp/t10kyoto/pages/41.html
初期の蝦夷地の訪問者の殆どは、アイヌ人との出会いを描くのに古典的な蝦夷の決まり文句を用いた。たとえば日本書紀から千年を経ている1710年の蝦夷談筆記の中でも少ししか変化していない。 彼らは道徳を知らず、父と娘が見境なく結ばれる。五穀を食さず、生の鳥や獣、魚を食する。丘を走りまわり、海に飛び込む、まるで何かの獣であるかのように。 ある神経が過敏すぎる旅行者は、アイヌ人を初めて見たとき「目が慣れるまで気分が悪かった」と記している。アイヌ人の未知の習慣もまた野蛮の証として選び出された。イヤリングや女性の刺青といった、これらの一見してそれとしてわかる野蛮人的慣習の他にも、文明が存在しないことは、生の肉を食べること、髪をすかないこと、左でとめる服、書き言葉の欠落によっても示された。アイヌ人の不潔で毛むくじゃらな外見は強調される。「蝦夷を歩くと、彼らはとても臭う、鼻を摘ままざるを得ないほどだ」「彼らの体はほとんど毛むくじゃらで、眉は一つに繋がっている。熊のように体毛を伸ばしている者もいる」性格の面でアイヌ人は無知で子供じみていて、容易に騙すことができるが激情的であると見られていた。また数をなかなか数えられず、暦や時間感覚を有していないため自分の年齢が分からないであろうと信じられていた。
https://w.atwiki.jp/t10kyoto/pages/87.html
イザベラ・バードが奥地へと酒を積んだ馬の行列を観測した開拓史以来、伝統儀式には必要不可欠であるアルコールは、自由に手に入れることができた。蝦夷の人々は自由に酒を飲み、貧しいアイノの人々は無法にも飲んでいた。bashoの漁場から始まり、世紀末には最も孤立したコミュニティにさえ広まった、加速する伝統社会の崩壊と同時に、アルコール中毒は流行った。アルコールはたびたび、アイヌ人に借金を強要したり、彼らの財産を奪うために倭人の無法者によって使われた。多くのより大きく移住したコミュニティの人為的な自然は、ときどき暴力や自殺といった行為に現れる社会的結束の喪失を招いた。ジョンバッチェラーが初めて北海道を訪れた時、彼は アイヌ人がぞっとするような空気を顔にまとっていることを書き留めざるをえなかった 。半世紀後、医者でかつアマチュアのスコットランド起源の民族学者であるネイル・ゴードン・ムンロはこのように述べた。 熟考された上での(故意の)自殺行為はよく耳にする。最近、これは増加してきた。私は、20年とそれくらいの間に、これに近いケースのものを6個聞いてきた。それは主に、周りの環境によって生じる悲惨な生活やアルコール中毒の強迫観念、みじめな貧しさ、周囲の非難、精神的うつ、古い社会的規律の破壊に耐えられない絶望的な女性だった。 明治維新の20年のうちに、あいぬ人と倭人との間の経済と社会の関係は、根本的に変化してきていた。徳川の時代では、地域の自然資源の日本の開拓において、アイヌの労働者は必要不可欠であった。18世紀以前のアイヌ人労働者の成果は、ますます不平等な貿易関係に充当された。自然資源の収穫が目的の貿易業者や行商人による管理のもと、アイヌ労働者それ自身の直接的搾取によって、18世紀からのbashoシステムの強化とともに、これは生じ、のちに取って代わられた。彼らの経済的役割に加えて、アイヌ人は地域のソ連拡大におけるカウンターとして利用するための同盟者、または人質担保として認識された。植民地法が制定や大規模な倭人の移民、農業と他の主要な産業に基づく市場経済における植民地としての北海道の統合とともに、これらの要因はそれらの関係を失った。アイヌ人の労働者はもはや必要なかった。アイヌ人の中には新冠の帝国牧場に取り組むために動員させられたものもいたし、より広い未調査である奥地を調査するチームの重要な初期的役割をするものもいた一方で、だいたいのアイヌ人労働者は北海道の開拓に貢献できなかった。その時は、重要資源の採取のために利用された労働者の働きと構造基盤の構築は罪人によって引き継がれた。
https://w.atwiki.jp/karafutoainu/pages/17.html
アイヌ産業新聞社 アイヌ産業新聞社は、産業に詳しい新聞社でいっていの人気を誇る。 アイヌ三大新聞社の一つ。子供に4コマ漫画が人気。スクラップ本が出るほど。
https://w.atwiki.jp/t10kyoto/pages/25.html
また倭人は松前藩の近くのアイヌの領海で漁業をしたり、河口で網を使って大量にサケをとったり、直接上流のアイヌ人の生計を搾取したりしてアイヌの領土(蝦夷地)を利用し始めていました。 金の発見により1620年代から何千もの倭人の鉱夫が蝦夷地に流れ込み、その一方で鉱夫の中でも強欲なものたちはアイヌの地域的集団の領地を奪うことにも参加していた。 これらの侵略はアイヌ人の自給自足の活動や生活様式に劇的な影響を与えた。 アイヌ人の不満が1643年にHenaukeによって直接的に松前藩の領地に北で起こり、松前軍に鎮圧された、短時間の武力衝突という結果を引き起こした。 下線部のところは自信ないです。 一応自分で確認してみてください。
https://w.atwiki.jp/t10kyoto/pages/30.html
この戦争は現在一般的にアイヌ人と和人の単なる「民族的」対立として解釈されている。しかしながら、17世紀中ごろの事に20世紀の考え方を強制的に当てはめることは深刻な歪曲を引き起こしうる。証拠によれば、はるかに複雑な実像を示唆している。同時代の情報源におけるアイヌ人の地域別集団化の繰りかえし言及されることは、アイヌ社会が一種の政治的統合を経ていたと信じることができる根拠があることを示している。しかしながら、このことは国家建設やアイヌの「民族的」帰属意識の形成と同じではない。アイヌ人同士の紛争はこれらの集団がしばしばお互いを競争相手や敵とみなしていたことを示している。松前藩はいくつかの強力な勢力の中のひとつであり、忠誠関係は流動的であった。たとえば、時にはアイヌの兵士が以前には1591年には秀吉に対抗する九戸マサザネを倒すために東北で柿崎軍の中で戦った、というように。日本の周縁領主たちの伝統において松前藩でさえ自分たちを必ずしも日本人だと受け止めていたわけではなかった。1618年には、松前キミヒロ大名は訪れていた使節のジェロニモ デ アンジェリスに、「松前は日本ではない」と断言した。同時代の記述も、シャクシャインの同盟者の中に4人の和人がいたとも言われている。島原の乱後の本州での迫害から逃れてきた坑夫たちがたくさんいたので、彼らはキリスト教徒だった可能性がある。別の視点では、松前藩によるアイヌ人の交易における独占を打破することと利益を分かち合うことを切望していて、本州との直接的な交易の繋がりを再構築できることを望んでいたシャクシャインに支持されていた、日本海沿岸の別の藩の交易者とも考えられる。和人の中の一人はシャクシャインの娘婿であったが、このことはいくらかの和人の同盟者と交易者がアイヌの血縁関係かもしれないということを示している。
https://w.atwiki.jp/t10kyoto/pages/80.html
初期の入植者は、比較的アイヌがあまり住んでいない昔の倭人地や札幌周辺に集まった一方で、ほとんどのアイヌの集団は彼らの伝統的生活習慣を維持し、場所制度のもと彼らが所有していた漁場の周りで共同生活を営んだ。 イザベラ=バードの日記は次のように述べている、アイヌ人は伝統的な野蛮人の固定観念の点から倭人によって知覚され続けてきた、と。 アイヌ人はもはや異人というより道人であると言われていたけれども、彼らにたいする地元の態度は依然として非常に否定的であった。 バードは、アイヌ人は倭人と離れて暮らしていて、南部の北海道にいる倭人から大変軽蔑されていた、と書き記している。 若いイギリスの宗教学の生徒と未来の宣教師であるジョン・バッチェラーが1877年、函館に到着したとき、ある日本の友人たちから次のように知らされた。 野蛮で獰猛で凶暴な人たちが山間や北海道の海岸の近くに住んでいる。彼らの父親は共通の犬、母親は女性なので完全には人間ではなく、またそのせいでとても毛深い人間である。
https://w.atwiki.jp/t10kyoto/pages/29.html
このとき、アイヌ人の間での過剰な搾取を行う商人に対する不満は非常に大きいものとなっており、歴史的な原典にも、シャクシャインはシュムクルたちとの和解に影響を与えたこと、そして、松前との戦争に備えるため、他の近くのアイヌ人のグループに使者を送った、ということが示されている。1667年中頃、あらゆる地域から来たアイヌは貿易業者、鉱夫、鷹の狩猟家などを攻撃し始めた。合計で19の船が攻撃され、200~400の和人が殺された。そのニュースが松前に広がり始め、庶民はパニックに陥ったが、シャクシャインを迎え撃つため、松前の人々は防御壁を築き、クヌイに武士、鉱夫、漁夫からなる軍隊を送り、松前の方向に向かって、数百万の男たちとともに西に進んでいった。松前の人々は普段、自分たちの問題に外部から干渉されることに憤りを感じていたが、幕府からその事実を隠し通すことはできないと悟り、江戸に報告書を送った。1637~1638年の島原の乱のあと、不安はまだあった。蝦夷地はタタール地方に接近しているという思い込まれていて、関心を持たれていたので、幕府は松前に軍隊や装備を送るよう津軽や南部の領地に命じた。ついに戦争がはじまったとき、アイヌ人の武器は武士たちのもつ小火器とは全く釣り合ったものではないことがはっきりした。その年の終わり、シャクシャインは見せかけの平和交渉をしている間、不誠実にも暗殺されてしまった。緊張は依然高まったままで、松前の人々はその戦いに参加しなかった、はるか北や東のアイヌ人たちとも貿易を続けることができたが、和解運動が1670年余市のアイヌに、1671年白老に、1672年クヌイに、それぞれ伝えられた。
https://w.atwiki.jp/t10kyoto/pages/22.html
交易はおもに”uimam”という形式で行われた。それによりアイヌ人は松前に”年貢”を納たり、”見返り”をもらいに本州の貿易商に会いに行った。アイヌ人の交易商はいまだにサハリンやamurの北部と同様に東北を訪れる。貿易の余りを生産することや行くことを決めるのはアイヌ人のコミュニティーしだいだから、交渉の主導権は常に彼らの手に握られている。この状況を逆転させ、交渉の制御をするために17世紀初期には、松前藩は「商い場」として知られているアイヌ人の土地に、一連の交渉するための役職を設けた、そしてアイヌの人々は松前藩と交易をしたくなくなった。松前藩は貧乏な藩だった、そして下級家来は米で俸給を受け取っていたけれども、偉い人たちはこれらの交渉役やそれに伴う交渉地の権利を、独占的に与えられていた。これらの有力な家来は知行主として知られている。「商い場」からの産物は管理と課税を行う松前の港から制限された本州の貿易商に交換された。この制度は交易の規模を大きくし、それにより松前藩は積み荷にかけられる税で利益を得、後の江刺や函館も同じような制限つきで開かれた。1664年以降では、アイヌ人の船は東北の港ではもう見られなくなった、松前藩の成功の兆候は貿易を独占しようとしたことだ。はじめのうち、松前藩は自国の小さな7隻の船団で運営していたが、藩は次第に本州、とくに近江(現在の滋賀県)からの交易商に頼るようになっていった。彼らは松前では作れない生活に必要な物をすべて持ち込んだのだ。たとえば藩では1年間に5500バレルの米が必要だ。そのうち松前藩とその家来たちには20%持っていった。RyohamagumiやYawatagumiのような近江貿易商の集落1630年代から松前藩の役所の周りに建てられ始め、知行主やそれ自身の元締めに金を導き始めた。借金が増えるにつれ貿易商はアイヌと交易をより行えるようになった。リスクと利益により交易商たちはアイヌから搾取した。たとえば、蝦夷俵の大きさ、蝦夷地交易で使われていた輸送に都合のいいように特別小さな米俵であるのだが、これはアイヌ社会が依存するようになった和人商品の1つの主要生産物の価格の上昇の影響で減らされた。 島の王(おそらく蛎崎慶広(かきざきよしひろ)でろう)の時代での、交易の状態は米1袋で干した鮭2匹から5匹であった。最近、彼らはたった7升か8升の米で、同じ量の魚とかえ始めた。我々には拒否する力がないので、彼らがのぞむままに従わなければならない。
https://w.atwiki.jp/t10kyoto/pages/20.html
これらの出来事が起きたのは、織田信長が掴み取りその後継人である豊臣秀吉や徳川家康により続いたのち17世紀初めに統合された政権となった権力闘争とはかけ離れていたけれど、蝦夷が島やその地の未知なる住人に関する知識は本州の限られた人達の間で正しく広まっていたことを証拠が示している。1548年、蝦夷が島から1000マイル離れた鹿児島出身のある日本人がゴアに進み、その地でイエズス会修道士たちに日本北部に死をも恐れず勇敢に闘った巨大でヒゲを生やした原住民が住む「Gsoo」(蝦夷)と呼ばれる地があると伝えた。この時初めて欧州人はアイヌ人の存在を聞いた。1591年、また別のイエズス会修道士イグナシオ・モレーラは京都にあった秀吉の城を訪ね、そこで彼は蠣崎(かきざき)派遣団に同行していたあるアイヌ人男性と出会った。この男は修道士に、自分がアイヌ人が自身の住む地域に対して用いるアイノモショリ()と呼ばれる島の出身であると伝えた。やや後に、アイヌ人に関するより一致した情報が1669年のシャクシャインの戦いの後本州の主要な都市施設に伝わり始めると、それはしばしば旅行者による扇情的で空想的な報告だったが、著名で人気の高い脚本家の近松門左衛門が「賢女の手習い」(賢い女の学習:1685年)で蝦夷が島について書き記した。 このいわゆる蝦夷が島は1000里以上彼方にある。この島に生まれたもの誰もが生まれつきの立派な力を持つ。髪の毛は上へ伸び、目の輝きは金色の朝日のようである。この者達の雄たけびは動物たちをも恐れさせる。魚と同様に、山や野の動物を狩り、食す。良いワインや美女とたわむれ、贅沢に生きる。法も無く、だらしない日常の奇妙な国である。 政治的現実におけるのと同様、大衆の意識において、アイヌ地域は「外国」の土地であった。 野崎
https://w.atwiki.jp/t10kyoto/pages/85.html
アイヌもタウンシップ(町)として指定された地域に移動させられた。 1885年釧路に住むアイヌは釧路の境界を越えて移動させられた。 権力者が移住のための4つの理由を申し出た。 第一に、農業を通した幸福の目的がその時の場所で応じられ得たかは疑わしい。 第二に、たとえそのような政策が可能だったとしても、アイヌ人と倭人が共存できたかどうかははっきりしない。 第三に、もしアイヌ人が街に住んでいたら、彼らがかせぐお金は全て将来のことを考えることなく食糧と酒に使われていただろう。 最後に、彼らがお金を使い果たしたとき、一日労働は簡単に手に入っただろう。 全部で、これらの原因が農業化政策を妨げたのだ。 「原住民は内地人を嫌い、内地人を避けるために引っ越すという傾向にある。」、「アメリカでさえ、原住民の混合居住地は実際に決して起こらなかったし、原住民は山奥へ移動していった。」ということも指摘された。 1886年、アイヌは、網走(?)(あばしり)になることになるもの、つまりアイヌの幸福政策を施工すること楽にするとして正当化された二度目の動き、の設立のための手段を作るために移住させられた。 ところが、道庁(?)(どうちょう)ができたことで、救済法のもとでのこれらの幸福政策は大体断念され、そして1888年までに、アイヌ人のほとんどは、季節労働として漁場や査察団体や木材取引の推進で働くためにその地を離れた。