約 818,106 件
https://w.atwiki.jp/sims2mio/pages/118.html
ふたご座 ふたご座の特徴は活発と社交が高いことです。但し、その反面残り3つのパラメータは低くなってしまいます。ただ、一部のシムはさほど気むずかしくない場合(トラベラーズのトラベラー・トレントなど)もあります。 ふたご座のシムは多くはスポーツに適していますが、一部のシムはフィットネスに適しています。ごくまれに、音楽とダンスに適性を持つシムもいるかもしれません。 主なタウニー ベンデッド・マリサ(デフォルト成人女性) クゥワー・スコット(ドリームフィールド代表者・要:フリータイム) フライク・ジョンソン(向上心研究所代表者・要:フリータイム) 学生やダウンタウンタウニーにもふたご座が数名います。 ふたご座にするためのパラメーター分配 一番上のものがデフォルトの性格です。 きれい好き 社交 活発 遊び好き 快活 4 7 8 3 3 4 7 8 2 4
https://w.atwiki.jp/seiyu-coversong/pages/749.html
原曲・加橋かつみ 作詞・奈良橋陽子、藤公之介、作曲・タケカワユキヒデ。 TVアニメ「ニルスのふしぎな旅」OP曲。 【登録タグ 1980年の楽曲 みんなのうた アニソン ニルスのふしぎな旅 加橋かつみ】 カバーした声優 石井真
https://w.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/16.html
当ページでは、橋爪・大澤による「ふしぎなキリスト教」以外の、良質な入門書を紹介します(書籍紹介ページなので当ページは「ですます」調です)。 「ふしぎなキリスト教」が解り易いのだから、細かい少しの間違い(実際には量的に膨大、質的に最悪な間違いが沢山あるのですが)を気にせずに読んでもらえばいいじゃないか、と仰る方が結構巷間にみられますが、それはずっと良質な本を書いている他の人(実際に居ます)に失礼というものではないでしょうか。 批判者達は「もっと良質な本がある」事を知っているからこそ、批判しています。 一般日本人が「これだからキリスト教ってのはよく解らないんだよね(嘲笑)」という、結論が見えて居る内容の出鱈目な本ではなく、もっと真摯に「キリスト教ってどんな宗教なんだろう」と知りたい人に勧められる本を紹介して参ります。 (管理人より)ウィキシステムは使いますが、本ページでは「外部リンクに挙げられているトゥギャッターで、複数の人の間で高い評価を得た本を挙げる」という基準を設けます。 総合入門書 『なんでもわかるキリスト教大事典』 (朝日文庫) 八木谷涼子 ISBN 9784022617217 「ふしぎなキリスト教」を批判する人たちの間で複数から推されていたのがこれ。 外面的なところまでしか踏み込んでおらず、教派の違いを列挙するだけにとどまっていますので、それこそ専門家には深みの無い内容ではありますが、しかしだからこそ、「知ったかぶり」の無い、対象に誠実に取材した良書になっています。イラストも豊富で、各種考証が仕事で必要になる方にもお勧め出来ます。 950円という大変お手頃な価格も高評価。 『知って役立つキリスト教大研究』(新潮OH!文庫) 八木谷涼子 ISBN 9784102901335 の改訂増補版が上記『なんでもわかるキリスト教大事典』 (朝日文庫) になります。 『総説キリスト教―はじめての人のためのキリスト教ガイド』(キリスト新聞社) アリスター E.マクグラス (著), 本多 峰子 (翻訳) ISBN 978-4873955247 こちらは割りと本格的なキリスト教の総合入門書。 しかし、結構なお値段なので、図書館などのご利用もオススメします。 教派(宗派)について 『よくわかるキリスト教の教派 新装版』(キリスト新聞社) 徳善義和, 今橋朗 ISBN 9784873954974 キリスト教では、厳密には「宗派」ではなく「教派」といいます。。 八木谷氏の本とは違い、この本は、現在の日本にある教派につながる様々な流れを通時的に理解するのに役立ちます。 あと、分裂の歴史を持つプロテスタントの流れを追うのにも適していたり。 <注>日本における正教会の団体として、「ロシア正教会モスクワ総主教庁駐日ポドウォリエ」についても記載されているのですが 正教における用語として不適切な「皇帝教皇説」なども挙げられていたりするなど欠点も見受けられます。 神学の入り口 『キリスト教の精髄 (C.S.ルイス宗教著作集4)』(新教出版社) C.S. ルイス (著), 柳生 直行 (翻訳) ISBN 9784400520542 『ナルニア国物語』などで知られる作家、C.S. ルイスはキリスト教に関する著書を多く書いています。 特にこの本は定評のある本です。原題はMere Chrisitianity、つまり「ただのキリスト教」というタイトルなのですが、 日本語版は「キリスト教の世界」とか「キリスト教の精髄」とか、大げさなタイトルになってしまいます。 でも、それだけ、体験を通した信仰と、しっかりとした神学に裏付けられた本だからだと思います。 神学 『キリスト教神学基本用語集』(教文館) Justo L. Gonzalez (原著), 鈴木 浩 (翻訳) ISBN 9784764240353 西方教会についての用語が殆どで、東方教会については殆ど言及していないという弱点はありますが、逆に「東方についての知ったかぶり」はありません。「用語集」ですが著者は一人なので、「メソジストのフスト・ゴンサレスが一人で書いた」ことは念頭に置いた方がいいですが、お手頃価格で西方教会の神学用語のあらましを知ることの出来る良書です。 東西教会比較 『ギリシア正教 東方の智』 (講談社選書メチエ) 久松 英二 ISBN 9784062585255 「カトリック教会の神学者が正教会とカトリック教会を比較して書いた」という視点についての前提のもとで読むと大変興味深い良書。 正教会 『ギリシャ正教』(講談社学術文庫) 高橋保行 ISBN 9784061585003 1980年に書かれた本であり、世界の正教会の状況について書かれた部分はデータとして古くなっては居ますが、今も使える正教会についての総合的な入門書です。カトリックやプロテスタントの人物による翻訳・著作ではなく、正教会の司祭(神父)による著作なので、日本正教会での日本語表現・語彙のあらましも知ることが出来ます。 『東方正教会』(文庫クセジュ) オリヴィエ・クレマン(著), 冷牟田 修二(翻訳), 白石 治朗(翻訳) ISBN 9784560056073 「正教会の神学者が正教会について書いた」という前提のもとで読むと大変興味深い良書です。ただし、若干の基礎知識が要求されますので、総合的な入門としては上記がお勧め。神学面での入門書としてはこちら。 カトリック教会 『カトリック教会のカテキズム要約(コンペンディウム)』(カトリック中央協議会) 日本カトリック司教協議会 常任司教委員会 ISBN 9784877501013 バチカン認可の『カトリック教会のカテキズム』、さらにその要約版を、これまた教皇認可のもとにわかりやすく編集されたもの。 カトリックの内部向けだけでなく、外部にも、他の信仰を持つ人にも読んでほしいQ&A集。 『カトリックの信仰』(講談社学術文庫) 岩下 壮一 ISBN 9784061591318 戦前の書ですが、日本語で書かれた教義解説書の中で、今に至るも最高峰に位置します。聖書学などで著者の見解には乗り越えられた部分も多々あると思いますが、しかし、基礎的な教養として知っておいても損にはなりません。厳格な新スコラ主義的教育の薫陶を受けたと思われる硬質な文体もまた、現在の日本では失われたに等しい曖昧さや妥協を嫌う理知の輝きというものを放っています。 聖公会 (英国国教会) 『道をたずねて―祈祷書に基づいたカテキズム』(聖公会出版) B.D. タッカー(著), 赤井 勝哉(翻訳) ISBN 978-4882740834 またカテキズムになってしまうけれど、これもすごくまとまった良書です。 日本の大学で教鞭を執っていたタッカー教授が、できるだけわかりやすく、かつ神学的に正しくまとめたもの。 緑の表紙にケルト十字の表紙です。 『聖公会が大切にしてきたもの』(聖公会出版) 西原 廉太 ISBN 978-4882742111 2009年に聖公会関係学校教職員研修会で行われた講演をもとにまとめられた本。 日本の歴史などとからめ、身近な話題からに「聖公会とは何か」を優しくわかりやすく解説した本。 ルター派(ルーテル派) 『マルティン・ルター――ことばに生きた改革者』(岩波新書) 徳善 義和 ISBN 978-4004313724 ルターの伝記仕立てという読みやすい構成ながら、随所にルターの思想のかんどころや後世への影響を書いているので、読むだけでルターのことがなんでもわかってしまう。 音楽の才能にも恵まれたルターが作った讃美歌が、後のバッハやメンデルスゾーンの音楽に影響を与える一方、ナチスに利用された負の歴史もちゃんと紹介しています。 キリスト教を「ことばの宗教」ととらえ、「ことばに生きた」ルターがやった宗教改革は、聖書という「ことば」によってキリスト教を改革しようとしたことだと、「ことば史観」でルターをまとめあげたのも見事です。 <注>正教会に関して p109で、「(東欧は)北はロシア正教、南はギリシア正教」のような誤った記述が見られるなど、欠点も見受けられます。 『ルター―異端から改革者へ 』(教文館) T・カウフマン(著),宮谷尚実 (翻訳) ISBN 978-4764266858 ルターについての一般向けの概説として、良い本です。訳文も比較的、分かりやすいです。 カルヴァン派(改革派・長老派) 『長老教会の問い、長老教会の答え:キリスト教信仰の探求 』(一麦出版社) ドナルド・K・マッキム(著), 原田浩司(翻訳) ISBN 978-4900666818 問いと答え、という形式で、初歩的なところから細かく丁寧に解き明かしていく構成になっている本です。 会衆派(組合派) 『祈りのこころ』(一麦出版社) ピーター・テイラー・フォーサイス(著),大宮溥 (翻訳) ISBN 978-4-86325-002-4 会衆派(組合派)は、その長い歴史の中で、そしてそれぞれの会衆の中で、幅の広い神学を示してきました。 清教徒革命時やピルグリム・ファーザーズなどの清教徒の要素が強い時代から、19世紀以降の超教派的姿勢まで。 その中で、この教派の神学をきちんと追求し、広く認められている神学者がフォーサイスです。 この本は彼の本の中でも、わかりやすく「祈りについて」書かれたものです。 メソジスト 『メソジストって何ですか―ウェスレーが私たちに訴えること』(教文館) 清水光雄 ISBN 978-4764269019 メソジストの歴史から、その神学までわかりやすく書かれた入門書です。 聖公会・カトリック・東方正教から継承した信仰の遺産や、18世紀英国とアメリカ独立戦争とメソジストの関係などにも触れてあります。 福音派 注:「福音派」とは教派名ではありません。聖書信仰を重視し(聖書主義)、十字架の購いを重視し(十字架中心主義)、回心を重視し(回心主義)、伝道を重視する(行動主義)の教派やグループの総称です。 『わたしの使徒信条 ~キリスト教信仰の真髄~』(いのちのことば社) 藤本満 ISBN 9784264029694 基本信条である使徒信条を読み解きながら、信仰を総合的に体系的に解き明かし、告白する本です。 『総説 現代福音主義神学』(いのちのことば社) 宇田進 ISBN 9784264028970 現代という時代の文脈において、福音派の神学を解き明かした本です。 同じ著者の『福音主義キリスト教と福音派』とあわせ、神学校でも広く用いられている本です。 『信じてたって悩んじゃう〔合本・愛蔵版〕』(いのちのことば社) みなみななみ ISBN 9784264028970 タイトルにもあるように、「信じてたって悩んじゃう」等身大のキリスト教徒の姿を描いたもの。 信徒がさまざまな問題にぶつかって悩んでいく姿を等身大で描いています。 古典的著作 入門書とは少し異なりますが、おさえておきたい古典的著作を挙げます。 『世界の名著 16 アウグスティヌス』 (中公バックス) アウグスティヌス (著), 山田 晶 (翻訳) ISBN 9784124006261 言わずと知れた西方教会最大の教父、アウグスティヌスの有名な書、『告白』です。 『キリスト者の自由・聖書への序言』 (岩波文庫) マルティン・ルター (著), 石原 謙 (翻訳) ISBN 9784003380819 ルターの著作の中で最も有名なもののひとつ。短い文でやさしく語りかけながら、同時に信仰、特にプロテスタント信仰の基本を語る書です。 『信仰の手引き』 (新教新書) ジャン・カルヴァン(著), 渡辺信夫 (翻訳) ISBN 9784400540014 カルヴァンの『キリスト教綱要』の初版が出版された翌年に書かれたもの。『キリスト教綱要』の初版の考えをコンパクトにまとめた本としても評価が高い書です。 ページ一覧 間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」 (2012年6月2日現在、2012年7月18日現在、130個以上の誤りが挙げられているが、まだ未完成。今後さらにページを分割することも有り得る。) 歴史篇(上記ページが容量オーバーになったため分割されたもの、以下同様) 聖書篇(総合・旧約) 聖書篇(新約その1) ・ (新約その2) 神学篇 他宗教篇(仏教・神道・イスラーム)(間違いだらけの惨状は他宗教の記述でも同様。これで比較が可能なのでしょうか?) 疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」 外部リンク 間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき 誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13 映画瓦版の読書日誌 ふしぎなキリスト教 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter 最新 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter(2以降と別のまとめ製作者によるもの) 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter(2以降のまとめの始まり)
https://w.atwiki.jp/little_girl/pages/23.html
ふたご #ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 ■名前 ふたご ■使用デッキ 【フォーチュンレディ】 【ナチュル】 【Xセイバー】 【宝玉獣】 ■概要 一筋の閃光を副代表する変態のデュエリストである。 史実では(・x・)の名を幼女を愛する変態の天下に轟かせる。 (・x・)で武勇を轟かせるも衆寡敵せず、ついにはξ・∀・)と一体となった。 というのは誤解であり、知的な一般人である(確定事項・不変の真理) デッキ構築に関しては、罠カードを多く入れない傾向がある。 逆に相手が罠を多く積んでいると死んでしまう傾向がある。 爆発力があるので、何かしら伏せておかないと致命傷に為りかねないので注意。 密かに小説を書いていたりする。 こっちの方は健常なので安心してほしい(キリッ 良くうさぎのAAである(・x・)を発言するが 兎とは構ってくれないと寂しくて死んでしまう生き物で要するに発情期の変態を意味する。 リアルでの趣味はこんにゃくでお尻を叩く事である。 お尻は既に開発済みである。 こんにゃくをお尻の穴の中にも入れたことがある模様。 本人曰く、「ひんやりした感じが良い」らしい。 しかし、この事は家族にばれてしまい、冷たい目で見られているようである。 全国でも1,2を争う腐男子である。 年上が好きらしい。 尚、エタバトチームのぶっぱぶぱ、ξ・∀・)めるぽ、かつて神と呼ばれた幼女の3チームよる江ノ島襲撃作戦OFFに参加。 江ノ島でξ・∀・)めるぽる事に見事成功している。 ――――
https://w.atwiki.jp/kaeuta-matome/pages/168.html
元ネタ:ニルスのふしぎな旅(ニルスのふしぎな旅 加橋かつみ) 作:ヤジ替え歌 (Red! Come on Red! Come on up!) Oh,come on up Red スレに書き込もう 準備なんかいらない ageを求めて旅に出れば sageてるスレッドばかり Oh,Red! その耳を澄ましてごらん 名無し達の囁き声に Oh,Red! その瞳こらしてごらん 基地スレ落ちたあの気団板を Oh,come on up Red ageを続けよう 仲間達と一緒に 1000の訪れ寂しいけど みんなと2ちゃんの中さ 検索タグ アニメ ヤジ2chネタ ヤジ替え歌 1コーラス以上 メニュー 作者別リスト 元ネタ別リスト 内容別リスト フレーズ長別リスト
https://w.atwiki.jp/818hr/pages/600.html
ふたごえっち ふたごえっち ホチキス 03/10/10 田舎に住む親戚の家で、双子の女の子の面倒を見ることになった主人公。3人 だけで過ごす夏休みが始まる。 ----------------------------------------------------------------- (名無しさん@2ちゃんエロゲ板) おまいら、10/10のふたごえっちにはHRエンドでのボテ腹エッチありですよ ----------------------------------------------------------------- (名無しさん@2ちゃんエロゲ板) もしかして、ふたご揃って!? ----------------------------------------------------------------- (名無しさん@2ちゃんエロゲ板) ネタバレ/ ふたりともHRあり。片方はボテ腹、騎乗位、搾乳。もう片方はボ テ腹、バック、裸エプロン。「赤ちゃんにかかっちゃうよ」とかのセリフもあり ----------------------------------------------------------------- (名無しさん@2ちゃんエロゲ板) マジ? 購入してくる ----------------------------------------------------------------- (名無し@メール) B1ゲームです。普通にこういう路線のゲームが好きな人なら買ってもいいか と。ちょっと本番に行くまでが長いかな。ボテに完全対応してます。姉妹それ ぞれにボテ腹本格派エンドあり。加えて姉妹ダブルでボテ腹でやってるエンド もあります。[[奴令嬢]]のボテエンドとか、ロリ好きな人ならおすすめ。奴令嬢み たいな陰惨な雰囲気は無いんで、ああいう暗いのが嫌いな人もおすすめです。 ----------------------------------------------------------------- (名無しさん@2ちゃんエロゲ板) 積んでたふたごえっちを崩してみた。ロリアナル本格派マンセー ----------------------------------------------------------------- (名無しさん@2ちゃんエロゲ板) ふたごえっちではロリが孕むわけだけど。ボテ腹ロリとのHシーンはあり? ----------------------------------------------------------------- (名無しさん@2ちゃんエロゲ板)ある。 ----------------------------------------------------------------- (名無しさん@2ちゃんエロゲ板) 個人的に未だに常駐してる。少ないながらボテHを入れてるのがポイント高い。 とくにまきいづみじゃない方の人が最高だ。 ----------------------------------------------------------------- (名無しさん@2ちゃんエロゲ板) ロリボテHで、いまでもオナニーに使っているのは、『ふたごえっち』と『ひ よこのキモチ』かな。2003年のゲームだけど。
https://w.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/22.html
当ページでは、橋爪大三郎と大澤真幸による『ふしぎなキリスト教}』(講談社現代新書)に記述されている、単純な事実に関する膨大な量の間違い・誤りを扱う。間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」が容量オーバーになったため、神学篇を分割して作成。 2012年7月18日現在、130個以上の誤りが挙げられているが、まだ未完成。なおこの誤りの数は明らかな誤りのみをカウントしたものであり、疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。 ※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。 間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。 理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。真面目な文系研究者に失礼。 関連する研究をしている人々の努力と業績を一切無視して講釈するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。 p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。 ※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。 間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」 歴史篇(上記ページが容量オーバーになったため分割されたもの、以下同様) 聖書篇(総合・旧約) 聖書篇(新約その1) ・ (新約その2) 他宗教篇(仏教・神道・イスラーム)(間違いだらけの惨状は他宗教の記述でも同様。これで比較が可能なのでしょうか?) 疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」 「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書(あるんです!)紹介 (誠実な著者による良書からこそ学びましょう^^) 神学 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p16 「ユダヤ教の神は、ヤハウェ。その同じ神が、イエス・キリストに語りかけている。イエス・キリストは神の子だけれど、その父なる神は、ヤハウェなんです。」 まず根本的な問題として、イエス・キリストは「真の神・真の人」として神性人性の両方が認められて信仰されている、ということを橋爪氏は本書において一切述べない。橋爪氏がどのようにイエス・キリストを考えようと自由だが、「キリスト教について理解を深める」ことを目的とするのであれば、「キリスト教においてどう信じられているか」を述べるべき。イエス・キリストは「真の神・真の人」なのだから、「神がイエス・キリストに話しかける」というのは不十分な表現であり(「他の位格が第二位格たるキリストに話しかける」というのなら解るが)、「神でもあるイエス・キリストが語る」も触れなければ、キリスト論につき半分も語っていないことになる。なお以下はハードルが高い問題ではあるが、キリスト教において「ヤハウェ=第一位格たる父なる神」という見解ばかりでは無い。正教会においてはビザンティン・イコンにおいて、イエス・キリスト(イイスス・ハリストス)の周囲にギリシャ語に転写された"YHWH"が書かれることがあり、イエス・キリストが世々の前から「あった」ロゴス(ことば・神言・かみことば)であったことを西方よりも強調する東方神学の傾向を反映している。橋爪氏の本を読むことは、「キリスト教を理解出来る」どころか、キリスト教美術に触れた時にさらに混乱の種になるだけだということが示されている。 The Doctrine of the Orthodox Church The Basic Doctrines p23 「自分はGodにつくられた価値のない存在です、としおらしくしているのが正しい。これが、Godと人間の関係の、基本の基本です。」 橋爪氏の解釈によれば、「神が造ったものには価値が無い」と信じることが「正しい」ことで「基本の基本」らしい。もちろんそんな理解は正教会、カトリック、プロテスタント全て含めて、キリスト教には無い。(教派によって小さくない解釈の違いはあるが、それこそ基本的には)「神の似姿として創られた人間」がキリスト教の人間観の基礎を成す。 世界観-人間:日本正教会 The Orthodox Church in Japan3課 キリスト教の人間観(市川大野キリスト教会;日本バプテスト連盟) p47p48 大澤「『創世記』には原罪の起源のようなものはないんですか?」橋爪「ないんです。」大澤「禁断の木の実を食べたという話は『創世記』に入っていますよね。これはじゃあ、必ずしも原罪の観念とは関係がない?」橋爪「関係ない、です。」橋爪「人間そのものが間違った存在であることを、原罪という。」 47頁のやりとりは文脈が曖昧であるため、ここで両者がユダヤ教について語っているのかキリスト教について語っているのか、不明であるが、仮にキリスト教についてこのように語っているのであれば、非常に問題であると言えよう。と言うのも、カトリック教会は原罪を「人祖(アダムのこと)の罪。人の世に苦しみ、情欲の乱れ、不毛な生、そして死が入ったもの」とし、プロテスタントでは「人間の始祖(アダム)の犯した罪が、子孫である人間全体に帰せられるという教説」などと説明されるからである。このように、西方神学で最も一般的な理解では、原罪とは「アダムとイヴから受け継がれた罪」であり、創世記が「原罪の観念と関係が」あることは明らかである。他方、正教会はアウグスティヌス以降の全的堕落説を否定しており「原罪」という語彙の使用そのものに慎重もしくは否定的であるが、正教会においても「人間そのものが間違った存在」などとは言わない(むしろこうした全的堕落の考え方を否定する)。いずれの教派でも「人間そのものが間違った存在」などと言わないし、原罪についてこのような定義をすることもない。橋爪氏がどのような珍奇な原罪理解を持とうと、それを講釈しようと自由であるが、それを「欧米理解に不可欠なキリスト教理解」と銘打つのは、看板に偽りありであろう。 『カトリック教会の教え』p53 カトリック中央協議会 (2003/6/25)『キリスト教大事典 改訂新版』 p390 - p391 教文館(第4版)Justo L. Gonzalez (原著), 鈴木 浩 (翻訳) 『キリスト教神学基本用語集』p87 - p88 2010年10月20日 ISBN 9784764240353 教え-罪と救い:日本正教会 The Orthodox Church in Japan p116 「これはね、人間と神の共同作業になるんです。(中略)共同作業だから、神と人間のあいだに対等なコミュニケーションがあるとも言える。神は圧倒的に偉大で、人間はとても弱いのだけれども、共同作業をしているからには対等でもある」 橋爪氏が自分で言っていることと矛盾する。人間は神に対して発言権がない(p184, p185)、と言いながら、対等なコミュニケーションがあるとする。論理が破綻している。そもそも、神と人間は「対等」ではない。そしてまた、神と人との「共同作業」を認めるなら、カルヴァン的予定説と矛盾する。そこでまた、橋爪氏の論理は破綻する。 論理の破綻 p145p147p148 橋爪「奇蹟にも、ありえない荒唐無稽なものと、まあありそうなものとがある。いちばんありえないのは、復活ですね。」「復活の奇蹟は、イエスが死んでだいぶ経ってから、いまのようなかたちで信じられるようになったと思われます。」「キリスト教の奇蹟は、イエスがキリスト(メシア)であり、神の子であることが核心で、奇蹟はそれを証明するもの。重要だけれど、枝葉に過ぎない。」「奇蹟を信じにくい人は、無理に信じなくてもよいように、福音書は書いてある。」大澤「考えてみれば奇蹟というのは、本当に信じるべきものの傍証みたいなものですよね。」「奇蹟自体は偶有的な、付録みたいなものということですね。」「奇蹟それ自体を超能力として信じるかどうかは、橋爪さんのおっしゃる通り、二次的なことでしょうね。」 復活は荒唐無稽←そう主張するのは個人の自由キリスト教において復活は枝葉末節であり付録←誤り橋爪氏や大澤氏が復活をはじめとする奇蹟を信じようと信じまいと、どう主張しようと自由である。しかし「キリスト教ではどう考えられているか」に一切言及せずに「最強のキリスト教入門書」を名乗るのは看板に偽りありだろう。実際には復活は、「重要だけど、枝葉に過ぎない」「付録」どころか、東方教会(正教会・非カルケドン派)、西方教会(カトリック教会、聖公会、プロテスタント)の全てで、(神学的見解をはじめとする微妙な温度差はあるものの)重要な信仰内容の一つを構成しており、多くの教派・信者が最も重要な信仰内容に数えている。たとえば名古屋ハリストス正教会の司祭ゲオルギイ松島は「復活信仰の無いキリスト教はあんこの入っていないあんパンを食べるようなもの」と評している。出典にあるように、橋爪氏の所属しているルーテル教会も復活信仰を重要なものとしており、その例外ではない(はずなのだが)。そもそも日曜日に教会に信者が集まるのは、日曜日にキリストが復活したことに由来しており、その重要性が表れている。復活につき事実として捉えない信者・教会も居るには居るが、全体から見れば少数派である上に、事実ではないと捉える信者も「枝葉末節」「付録」とは考えない。 ハリストス復活! 実に復活!「トマスとともに」名古屋教会司祭松島執筆メッセージカトリック西千葉教会説教倉庫2008年 3月23日 復活の主日復活日(イースター)礼拝のご案内 - 静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)キリストの復活六本木ルーテル教会神戸改革派神学校 校長 市川康則による「信仰直言『死人の復活~あり得ん?』」振り向く信仰(二〇〇二年三月三一日、復活節第一主日第二礼拝の説教要旨、石川和夫牧師) p184, p185 「救いは、恩恵の問題なんです。神の恩恵に対して、人間に発言権があるかというと、ゼロです。なんの発言権もありません。」 極端な予定説を述べているが、アウグスティヌスの恩恵論についてはカトリック教会からプロテスタントに至るまで様々な温度差がある。アルミニウス主義もある。そもそも橋爪氏はルーテル教会信徒の筈なのだが、フィリップ・メランヒトンおよび神人協力説論争は完全に無視している。また正教会は「共働」概念を採る。なお上述の通り、この箇所の橋爪の見解は、p116で述べている内容と矛盾している。 世界観-人間:日本正教会 The Orthodox Church in Japan The United Methodist Church Our Wesleyan Theological Heritage p245, p246 「聖霊は、大澤さんの言うように、ネトワークや相互感応みたいな作用」「(聖霊は)神からのもの」「人と神とをつなぐのが聖霊」「人々と神との、唯一の連絡手段が、聖霊」 少なくとも伝統的なキリスト教では、聖霊は独立の位格(イポスタシス:ヒュポスタシス)たる真の神として理解されている。「神からの【もの】」という一種の従属説は異端として退けられる。ゆえにもちろん「作用」「手段」としては理解されていない。橋爪氏のこの説明と理解では、「聖霊は神ではない」ことになる。三位一体を取るキリスト教の大多数は、もちろん聖霊を神とみなすし、三位一体を取らないまま、聖霊を神とみなす教派もある。 CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Holy Ghost参照。「作用」「手段」に類する表現はどこにもナシ p256 「アルメニア教会はカルケドン公会議に参加しなかったので、通常の三位一体説をとっていません」 アルメニア教会も三位一体説はとっている。議論が分かれたのはキリスト論(Christological controversy)。そもそもアルメニア教会というのは一組織名であって、教理教義を論じるのであれば「非カルケドン派」という枠組みが妥当。 Orthodox Unity - Statement Index内、Relations with the Eastern Orthodox Churchesより "Concerning the Christological controversy which caused the division, we..." (Statement by the Oriental Orthodox Churches, Addis Ababa, Ethiopia, 1965 ) p312 「一神教では、神は世界を創造したあと、出て行ってしまった。世界のなかには、もうどんな神もいなくて」 どこに出て行ったというのか?そのような記述は聖書のどこにも無いし、どこの教会でもこのような事は言われない。「神がわれわれと共におられるからである。」(イザヤ書8章10節)「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイによる福音書28章20節)これも、橋爪氏がどのような理解をしようと自由だが、「キリスト教を理解する」ための本であると売り出すのであれば、キリスト教での理解を述べるべきであろう。なお橋爪氏は他の箇所でも「神が留守」「神が出て行った」という表現をしており、「瑣末な間違い」ではなく、橋爪氏の一貫した誤解であることが判る。→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(聖書篇)(p75, p76) イザヤ書8章10節マタイによる福音書28章20節創世記3章9節「あなたはどこにいるのか」の注解 外部リンク 間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき 誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13 映画瓦版の読書日誌 ふしぎなキリスト教 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter 最新 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter(2以降と別のまとめ製作者によるもの) 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter(2以降のまとめの始まり)
https://w.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/14.html
当ページでは、橋爪大三郎と大澤真幸による『ふしぎなキリスト教}』(講談社現代新書)に記述されている、単純な事実に関する膨大な量の間違い・誤りを扱う。 2012年7月18日現在、130個以上の誤りが挙げられているが、まだ未完成。なおこの誤りの数は明らかな誤りのみをカウントしたものであり、疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。 ※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。 間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。 理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。真面目な文系研究者に失礼。 関連する研究をしている人々の努力と業績を一切無視して講釈するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。 p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。 ※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。 キリスト新聞2011年10月22日2面に掲載された橋爪大三郎氏のインタビュー記事を引用しておく。 ――インターネット上では、事実誤認という声もあるが。 橋爪:この本に事実が書いてあると思うのが間違いです。 ――では、どういうものとして捉えてほしいのですか。 橋爪:漢字に楷書・行書・草書があるでしょ。この本は言わば草書体なんです。草書体の字に向かって、画数が違うとか点が省略されているとか言ってもしょうがない。そういうものなんだから。じゃあ、草書体はいい加減か?私はこの本はこの本で実に精密にできていると思う。数学みたいに精密なものなの。ただその表現が漫才みたいなの。/飲み屋で酔っ払って話している二人組みたいじゃないかって言っている人がいた。そういうふうに仕上げてあります。だからそう楽しんでくれていいんだけど、でも言っていることは、よそに書いていないことで、しかも精密なことが書いてある。/論文にしたければ、どの1ページから、論文が何本も書けます。そういうふうに思う人は、クロウトのひと、もの書きの人です。そういう人には概して評判がよろしい。 つまり橋爪氏は「間違いを少し書いてしまった」のではなく、「ハナから間違いを回避しようとしていない」。自分の生み出す本に品質保証をしないと宣言しているも同然。 疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」 「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書(あるんです!)紹介 (誠実な著者による良書からこそ学びましょう^^) 歴史に関する事実誤認の記述を断りなく訂正 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは p41 「初代のサウル王は、北側のベニヤミン族の出身だった」→「初代のサウル王は、北側にもつながりのあるベニヤミン族の出身だった」(6刷で変更) サウル王の属するベニヤミン族は北側ではなく南側に属する。そのために差し替えたのだろうが、どちらにせよ間違い。逆に、訂正のせいでより意味不明になっている p93 「(契約の)箱には、金属の輪が四隅について、棒を通して担げるようになっている。その構造の詳しい説明が、旧約聖書の『レビ記』に載っています」→『レビ記』を『出エジプト記』に訂正。なお、この訂正は正しい。 どの刷で訂正したか不明であるが、版を改めないにもかかわらず内容を訂正するのは、不適切であると思われる。講談社(及び日本の出版社)はこのようなことを一般的に行なっているのだろうか? 単純な事実に関する間違い 目次 1 歴史 2 教会生活 3 教会論 4 聖書 1 総論 2 旧約 3 新約その1 ・ 新約その2 5 神学 6 東方教会(正教会・非カルケドン派) 7 西方教会(カトリック・聖公会・プロテスタント) 8 科学 9 キリスト教音楽 10 キリスト教美術 11 哲学 12 言語 13 キリスト教以外の宗教についての誤り(仏教・神道・イスラムについての無理解) 歴史 当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(歴史篇)を参照 教会生活 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p67 「キリスト教の祈りは、外から見えない。これみよがしに祈るな、とイエスが命じたから」 根拠不明である。確かにイエスは隠れて祈るように命じたが(マタ6 5以下)、しかし右の動画に映っている人びとは祈っていないとでも言うのだろうか。これでは、正教会の奉神礼、西方教会の典礼・礼拝、それをベースに発展した教会音楽が全く説明出来なくなる。それとも橋爪氏は「教会音楽は祈りでは無い」とでも認識しているのだろうか。橋爪氏がどう「祈り」「教会音楽」を理解しようと自由であるが、少なくともキリスト教において一般的理解ではない独自説を「キリスト教では云々」として流布するのは問題あろう。 (正教会)Патриарх совершил литургию в Рождественск. cочельник(カトリック教会)主の祈り(カトリック南山教会)(プロテスタント)Behold the Glories of the Lamb.mp4 (非カルケドン派)قداس عيد الفصح في كاتدرائية مار افرام حلب-سورياSyriac Easter in aleppo p67 大澤「祈りの最後に「アーメン」という言葉をつける場合が多いですね。これはどういう意味ですか?」橋爪「(引用前略)「その通り、異議なし」という意味です。新左翼が集会で「~するぞー」「異議ナシッ!」とやっているけど、あれと同じです。」 まず単純に過ぎる。少なくとも「かくあらんことを(そうありますように)」を外しては、数多くの祈願の祈祷文の最後に唱えられる場合の意味が丸きり解らなくなるだろう(こうして橋爪氏と大澤氏による解釈は、「大枠では解り易い」どころか、却って「大枠の理解の妨げ」となるのである)「その通り」というのは語義のごく一部でしかないのである。 なお、八木谷涼子『なんでもわかるキリスト教大事典』(352頁、朝日文庫)には、アーメンの意味として「真実に」「確かに」「同意します」「そうなりますように」を記しており、橋爪、大澤よりも正確かつ簡潔である。 Аминь(Энциклопедический Словарь Ф.А.Брокгауза и И.А.Ефрона)CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Amen p237 「聖餐式ですけれど、最初はほんとうに食事をしていたらしい。でもそれをすると、みなお腹を空かせてやってきて、教会の財政が大変なので、食事はやめになり、象徴的なパンとブドウ酒の儀式になった」 ・「ほんとうに食事をしていた」とは、恐らく、『コリントの信徒への手紙一』11章17節以下などを根拠としているのだろう。なるほど、パウロの時代には聖餐と愛餐の区別が曖昧であり、実際の食事(愛餐)と聖餐式が一続きで行われたと考えられる。更に、使徒教父文書の一つ『ディダケー』(100年頃)の9-10章の記述からも、愛餐と聖餐は一続きで行われていたと考えられる(10章1節「"満腹"した後」)。ギリシア教父・殉教者ユスティノスの『護教論』(150年頃)にも食事としての描写がある。この点で、「最初はほんとうに食事をしていた」とは、曖昧な表現であるにせよ、許容出来る表現であるかもしれない。しかし、「ほんとうの食事」が「象徴的な…儀式になった」という主張の根拠は不明。聖餐は、最初期に実際にどのように行われていたかは不明であるが(実際の食事の形をとるにせよ、それと連続して行われているにせよ、独立したものであるにせよ)、イエスによって命じられた、つまりそもそもの最初から象徴的な儀式である(1コリント11章23節以下及びマルコ福音書13章22節以下)。・聖餐・聖体拝領・領聖(ユーカリスト)はキリスト教にとって最も重要な儀式のひとつ。ただの食事ではない。キリストの受難と贖罪を記念する儀式であり、聖書にも記された儀式である。「食事の」記念ではない。もしかすると橋爪氏は愛餐(アガペーの食事)と聖餐・聖体拝領・領聖(ユーカリスト)を同一視しているのかもしれない(そのような説があるなら、それを説明すべきである)。なお、聖餐論には世界史で習うレベルの話だけでも、主に実体変化・共在説・霊的臨在説・象徴説がある。「象徴」をそのような意味で定義するかによるが、ツヴィングリの時代まで、パンとぶどう酒を「象徴」のみと限定し、アナムネーシス(想起)に限定する考えはなかった。それまでは実体変化とする考えが主流だった。橋爪氏の所属するルーテル教会は象徴説を取らない。共在説である。そのために、ルターは多くの論争を戦った。プロテスタント内部に分裂も起こった。そういったことも知らないのだろうか? 小林信雄「『ディダケー』における聖餐の祈り」『神學研究』 26, 109-144頁 CiNii PDF - オープンアクセス 小林信雄「マルコ福音書における供食物語 聖餐の起源との関わりにおいて 」『神學研究』 28, 19-55頁 CiNii PDF - オープンアクセス CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Eucharist 日本福音ルーテル教会 ルーテル教会の信仰 ウエストミンスター信仰基準 日本基督改革派教会 正教会とは 日本正教会 Holy Mystery A United Methodist Understanding of Holy Communion. (Cayle Carlton Fenton, 2006. p. 33) p294 「(プロテスタントの教会に)カトリック教会の信徒がやってきても、聖餐にあずかれます。逆もそうだと思う。」 カトリックではプロテスタント信徒に対して聖体拝領を許可しない。それどころかプロテスタント内でも「他教派の人間に聖餐を許すかどうか」については議論が分かれるのが現状(特にバプテストにクローズドの傾向が顕著)。1998年、当時のアメリカ大統領だったビル・クリントン(プロテスタント・バプテスト派)が南アフリカ訪問中にカトリック教会を訪れたとき、カトリックの聖体にあずかったため、論争となったこともある。Bil Clinton + Catholic + Communionなどのキーワードでネット検索すれば、当時の記事や論争などが大量にヒットします。「逆もそうだと思う」などと、軽々しく発言できる問題ではない。基本的な事実誤認。これで「世界がわかる」とは言えない。逆に世界を誤解します。 Why Close Communion And Not Open Communion(By O. L. Hailey, D. D. Editor Arkansas Baptist Little Rock, Arkansas ) 栗林輝夫『アメリカ大統領の信仰と政治――ワシントンからオバマまで』キリスト新聞社 2009年 p.216-217 New York Times "President Took Communion -- And Criticism" By JAMES BENNET Published April 07, 1998 教会論 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p291 「カトリック教会には、ミサとか、聖職者(司祭や神父)とかあるが、それらは聖書に根拠をもたない。ゆえに存在すべきでない。教会堂もなくてよい。極端を言えば、聖書さえあればよく、自分と神だけが対話している、これが理想です」 「司祭や神父」は橋爪氏がこの本の他の箇所や、他の著書でも犯す間違い。「司祭」(職名)、「神父」(呼称)。これは別の例で言えば「教諭と先生」「代表取締役と社長」というようなもの。つまり橋爪氏は「司祭」が何か、「神父」が何か、の辞書的意味すら把握していない。また、プロテスタントも礼典・教職、教会堂を持っているが、これらも聖書的根拠がプロテスタントによって示されている。なお、「(カトリックの聖職者制度は)聖書に根拠をもたない」というのは、あくまでプロテスタントがカトリック教会を批判する際に言うものであるが、中立的観点からすれば、カトリック教会も教職制について根拠となる聖書箇所を挙げていることには言及しても良いのではないか(Ⅰペテロ 2:2、Ⅰテモテ 5:17ほか)。プロテスタントの一方的主張だけを「入門書」で書くのは、入門書としての役割を果たしているとは言えない。正教会にも聖職者制度があるが、これも同様に根拠として挙げられる聖書箇所がある(ピリピ 1:1。Ⅰテモテ 3:1 - 7ほか)。概して他の箇所にも言えることだが、当該教派がどういう主張をしているか真摯に調べるという姿勢が決定的に橋爪氏には欠けている。 CATHOLIC ENCYCLOPEDIA PriesthoodCATHOLIC ENCYCLOPEDIA Priest CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Hierarchy of the Early Church Ecclesiastical Buildings "The Orthodox Study Bible Ancient Christianity Speaks to Today s World" p1612, Thomas Nelson Inc; annotated版 (2008/6/17) 八木谷涼子 東方正教会&ローマ・カトリック 聖職者対照表 八木谷涼子 教派いろいろ対照表 (『知って役立つキリスト教大研究』の巻末附録・9教派対照表 (p.362-381)の増補版) 聖書 当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(聖書篇)を参照 神学 当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(神学篇)を参照 東方教会(正教会・非カルケドン派) 橋爪氏も大澤氏も、正教については「皇帝教皇主義」と「言語による分裂」しか言及しておらず、以下指摘の通り、大枠でも「誤りしか書いて居ない」。0点である。 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p256 「教会で何語を使うか。東方教会はギリシア語を」 4世紀のシリアの聖エフレム(東西両教会で聖人)、7世紀のシリアのイサアク(正教会で聖人)はシリア語で著述していた。「東方=ギリシア語のみ」ではない。 St. Ephrem (Ephraem, Ephraim) the Syrian, (A.D. 373)(シリア正教会 アメリカ合衆国西部大主教区)Oriental Fathers Syriac Literature p256, p261 橋爪氏「東方教会は、ヴェーバーのいう皇帝教皇主義、すなわち政治的リーダーと教会のトップとが一致する体制をとったので」大澤氏「ビザンツ帝国では、先ほど(橋爪氏が)おっしゃっていたように、教皇がすなわち皇帝であって」 皇帝と総主教は非兼任。そもそもビザンツに教皇は居ないし、「教皇不在⇒皇帝が兼任」という理解をしているのだとしたら、ただ知識と理解の不足。そもそも東方教会に「イエス・キリストに代わって一人が束ねて教導する教会」という教会論が無い。教会が皇帝に抵抗したり阻止したりしたケースも歴史上複数あり、「『皇帝教皇主義』説は、西欧からの偏見」で片付けられるのが現代ビザンチン研究者の間での常識。世俗領域の、非専門家向け・一般向けの世界史書籍(『山川世界史小辞典』p230, 2007)ですら、「(ビザンツの)皇帝教皇主義」は「不正確な説」扱いになっている。そもそも東方教会に言及するのに、正教会のみならず現代ビザンツ学界までをも完全に無視して、なぜ事欠いてヴェーバーなのか。 久松英二『ギリシア正教 東方の智 (講談社選書メチエ)』76頁 - 77頁 『山川世界史小辞典』p230, 2007 p257 「ロシア語を使うロシア正教会、セルビア語を使うセルビア正教会」 各独立正教会が成立する過程の文脈で語られているが、成立時の奉神礼用語はいずれも教会スラヴ語。セルビア正教会がセルビア語を奉神礼で使うようになったのは20世紀。今でもロシア正教会では教会スラヴ語が奉神礼で使われている。 Church Slavonic (The Columbia Electronic Encyclopedia, 6th) Reform of liturgical language in Russia (Serbian Orthodox Church, Official web site) p257で橋爪氏が、p268で大澤氏が 「総主教座の分裂」の要因を「使用言語」としている そもそも「独立正教会の成立」「総主教庁の新設」を普通「分裂」とは言わない。正教会における独立正教会・自治正教会といった教会組織の関係には、「母教会」「子教会」という解り易い表現がある。子が母から自立することを「家族関係の分裂」とは言わない。なぜ「解り易い」表現を使わずに、わざわざ誤った記述で解り難くしているのか不明。また(「分裂」の語彙を使わなかったとしても)言語の違いを「独立正教会の成立」「総主教庁の新設」の要因とするのも根拠不明。ブルガリア正教会もロシア正教会も教会スラヴ語を今でも使っているが、使用言語が同じでも全く別の組織を構成している。上述の通りセルビア正教会がセルビア語を奉神礼で使うようになったのは20世紀以降。セルビア総主教座は(途中廃止された時期もあったが)最初のものは14世紀に成立していてむしろ順序が逆。独立正教会たるキプロス正教会は5世紀に独立しているが、ギリシャ語を今日まで使い続けている。「使用言語の違い→総主教座の分裂」は当たらない。本書全体に共通する特徴だが、ここでも間違いだらけの知識から間違いだらけの結論が導き出されている。 Old Church Slavonic language -- Britannica Online Encyclopedia THE SERBIAN ORTHODOX CHURCH - A SHORT HISTORY (Vladimir Vukašinović) Confrontation of Liturgical Theologies in Translations of Holy Liturgies into Serbian Language in the 20th Century(PDF) 知多半島の正教会の歴史石巻ハリストス正教会・聖使徒イオアン聖堂 p281, p282 「理性だけは、神の前に出ても恥ずかしくない」「理性は、神に由来し、神と協働するものなんです。」 理性(νους)が邪悪な想いと結びついた時には理性は神との交わり"παρρησία"を失うと指摘した表信者(証聖者)聖マクシモス(東西両教会で聖人)を完全に無視(理性が悪に傾く可能性をマクシモスは認識している)。東西両教会についての違いは「皇帝教皇主義」と「使用言語」だ、くらいの認識しか橋爪氏にも大澤氏にもないから、そもそも理性についての認識で東西の間に差があるという教理関係の違いに一切踏み込めない。西方はラテン語だが東方はギリシャ語だ(これもシリア語を考慮していない間違い)と色々論じているのに、語彙に含まれる概念差が神学の見解に反映されている蓋然性について全く考慮していない。 ※ギリシャ語の"νους"(ヌース)は「心」「精神」「理性」と訳され多義的であり、ラテン語の"ratio"と一対一対応するものではない。ラテン語の"ratio"にはギリシャ語の"λογος"が対応するとする場合もある。いずれにせよ橋爪氏が「"νους"は考慮に入れず、あくまで"ratio"のみを考慮に入れた」のだとしたら、「西方教会では」もしくは「ラテン語圏では」の但し書きが必須であろう。 『哲学事典』p1074, p1462 - 1463, 1984 平凡社 加藤信朗『ギリシア哲学史』p18 - p19, 東京大学出版会 2001 『中世思想原典集成 (3)』p550, p556 上智大学中世思想研究所 西方教会(カトリック・聖公会・プロテスタント) 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p253 大澤「日本人がキリスト教についてイメージするときに、どちらかというと中心にあるのは、カトリックですね。」 こういうことを言う割には、聖餐論も聖職者制度も含めてほぼ一切ローマカトリックの考え方は紹介されず、「煉獄」「免罪符」を巡っても完全な誤りを述べている(293頁)。大澤氏も橋爪氏もカトリックについて真剣に調べた形跡が無い。 p292 「カトリック教会は、聖書に書かれていないし公会議の正当な解釈でもない、根拠のあいまいな教会の伝承などに従って、聖人崇拝や煉獄の教えや免罪符の販売や告解や七つの秘蹟などを行ってきた。それらを、プロテスタントは認めません。」 まず単純に、告解(ゆるしの秘跡)は、七つの秘蹟の一つ(告解の他に七つあるのではない)。橋爪氏は用語一つ、辞典レベルの単純な語義すら確認していない。そもそもこの個所の前後は、宗教改革の文脈で述べられているとはいえ、聖人崇拝(そもそもこの用語も間違い。後述)・煉獄・免罪符の販売・告解・七つの秘蹟につき、「聖書に書かれていない」「公会議の正当な解釈でもない」「根拠のあいまいな教会の伝承」と断言するのは、あまりに中立的な観点を無視し切っているとの誹りは免れまい。せめて「 - カトリックでは聖書にも根拠があるとし、公会議で教理の確認をしていますが - 」「プロテスタントの視点から言えば」といった但し書きが、仮にも学者の書くものであれば必須であろう。また、「崇拝」と「崇敬」に繊細な使い分けをカトリック教会が行い、少なくともカトリック教会自身は「聖人崇拝」はしておらず「聖人崇敬」をしていると自己規定していることは、カトリックに批判的なプロテスタントですらも、認識していることである。「カトリックは聖人崇拝をしている」というのは、プロテスタントからカトリックを批判する際の言い方であって、カトリック自身はあくまで聖人を「崇敬」していると考える(「これも細かい間違い」ではない、カトリックとプロテスタントとの間での重要な論点となってきたタームである)。さらに、カトリック教会の七つの秘跡(サクラメント)のうち、二つ(洗礼・聖餐)は、(理解が違うとはいえ)礼典(サクラメント)としてプロテスタントも認めているのだが、この文章ではサクラメントの考え方すらプロテスタント全てに存在しないかのように誤解を招きかねない。なお橋爪氏の所属教派であるルター派も、二つ(洗礼・聖餐)は、礼典(サクラメント)として認めている。このように、橋爪氏はカトリック教会の基本的な事柄を抑えていないばかりか、プロテスタントからの(それも著しく通俗的で誤りも含んだ)カトリック批判のみを紹介しており、学者が書く入門書としては許されない偏向も際立っている。 七つの秘蹟 — カトリック鹿児島司教区CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Sacraments尊者・福者・聖人(カトリック中央協議会)What are the sacraments? - Evangelical Lutheran Church in America p293 「宗教改革のあと、いろいろ批判されて、(中略)煉獄とか免罪符とかの教義は(カトリック教会から)すべてなくなった」 煉獄の教えは現代カトリック教会にも健在。免罪符についてはそもそも「贖宥状」「免償符」という用語を使わない時点で、カトリック教会における位置付けをおそらく橋爪氏は把握していないと思われる。「罪を免れる」ものではなく「償いを免れる」もの。「免償」の教えも現代カトリック教会に健在。ルターはちゃんと意味を解っていた上で、その意味の上で批判したのだが、カトリック教会はその批判に同意しなかった。他方、正教会には「赦罪の後の償い」の考え方が元来、無い。つまり免償、煉獄を認めるか認めないかは、現代においてもなお「プロテスタント、カトリック、正教」の違いの代表例の一つなのだが、その「違いの代表例」が橋爪氏の中では宗教改革の時代に消滅しているらしい。橋爪氏が「『免償符』は今のカトリックには無い」という意味にも取れる言葉で言ったのならまだ良かったのだが、ハッキリと「煉獄とか免罪符とかの教義は」と言ってしまっているので、単純に誤りある記述となってしまった。なお、14刷では「煉獄とか免罪符とかの教義はすべてなくなったんだけど」が「免罪符の販売などもやめることにしたんだけど」と、訂正されていることも付言しておこう。 教皇ベネディクト十六世の254回目の一般謁見演説 第29回 「免罪符」のウソ(尾崎明夫神父の「みなさんちょっと聞きなはれ」中学3年生のための哲学入門より) 正教会とは:日本正教会 The Orthodox Church in Japan 科学 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p309-315 大澤「自然科学というものは、やはりキリスト教の文化、とりわけプロテスタンティズムから生まれてきている。ぼくらが、今日、『自然科学』として理解しているような真理のシステムは、簡単にいえば、十六世紀から十七世紀にかけて西洋で起こった『科学革命』以降のものだと考えてよいと思います。…そして、その自然科学を生み出した科学革命は、実は時期的に宗教改革の時期とだいたい重なっています。そのうえ、科学革命の担い手となった学者…は、決して信仰心が浅いわけではない。いまはしばしば科学者が宗教批判を熱心にやりますが、科学革命の担い手は、むしろ熱心なキリスト教徒、しかもたいていプロテスタントでした」橋爪「自然科学がなぜ、キリスト教、とくにプロテスタントのあいだから出てきたか」大澤「同じキリスト教でも、東方正教からではなく、カトリックに反抗して出てきたプロテスタントから、自然科学的なものの考え方が出てきました」橋爪「教会の権威に頼らず、自分の理性をたのむ点で、カトリックよりはプロテスタントのほうがこれら(自然科学的な考え方)を真剣に発展させて行きやすい」 「科学革命以降の知」が現代の自然科学的な考え方と同じであることが指摘され(310頁)、「プロテスタントから、自然科学的なものの考え方が出てきました」(313頁)と語られているが、その「科学革命」がまさにローマ・カトリックの律修司祭であるコペルニクスから始まった点で事実と異なっている(尤も、彼らが語る「科学革命」でどの研究者の定義する「科学革命」を指しているのか不明であるが。ここではバターフィールドの語る意味での科学革命を彼らが想定していると考え反論している)。(データを掲載していないのだから、根拠不明であるが)科学者にプロテスタントが多いとの主張が仮に正しいとしても、ローマ・カトリックにも多くの優れた科学者がいて、科学の発展に貢献したことを橋爪氏も大澤氏も無視してしまっているのではないか。なるほど、本書は新書であるから単純化は避けられないが、「科学革命」の主要な担い手であるコペルニクス、ケプラー、ガリレイ、ニュートンの4人の内、2人、つまりコペルニクスとガリレイ(橋爪氏は後者を「科学革命の担い手だったと言ってよいと思います」と評価している)がローマ・カトリック信徒であったことには言及すべきであったと思われる。更に、16世紀から17世紀における科学革命の担い手は「たいていプロテスタント」だった、とか、「カトリックよりはプロテスタントのほうがこれら(自然科学や数学)を真剣に発展させて行きやすい」、との主張は、何を根拠にして言っているのか不明である。たとえば、16-17世紀の科学者でありローマ・カトリックに属するキリスト者である、コペルニクスやガリレイ、マラン・メルセンヌ、デカルト、ピエール・ガッサンディ、パスカル、ニコラウス・ステノらによる科学に対する多大な貢献を考えてみよ。 キリスト教音楽 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p320 「教会で、ミサのときに、あんまりやることがない。そこで、時間つなぎに歌うことにした。それでグレゴリオ聖歌とかができたんですけど・・・」 問題外の記述。ミサ・礼典の意味はおろか、宗教音楽の歴史に対してまったく無知をさらけだしている。ユダヤ教の詩篇から歌っていたことは常識である。グレゴリオ聖歌の成立に関しても誤解以前の問題である CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Gregorian Chant p321 「プロテスタントは、宗教音楽を簡素にし」 橋爪氏はルター派の音楽家であるバッハの、たとえばマタイ受難曲(これは聖金曜日の晩課のために書かれたものである!)を聞いたことが無いのだろうか。「簡素にし」という表現で何を意味しているのか不明であるが、プロテスタントが宗教音楽を「飾り付けがなく、質素なものとした」という意味で語っているのであれば、特にルター派が音楽に与えた影響を捉えきれていない。「この世紀(注。16世紀)後半になると、コラール編曲はさらに充実したものとなり、とくにイタリアの技法を同化したハンス・レオ・ハスラー、ミヒャエル・プレトリウス(一五七一ころ-一六二一)らは大規模な器楽伴奏つきコラールを作曲している。偏狭なカルヴァン派とは対比的に、ルター派の音楽に対する開かれた態度は、この後のドイツ音楽の発展にはかりしれない好ましい影響を与えることになり、次代のハインリヒ・シュッツやヨハン・セバスティアン・バッハらのすぐれた宗教音楽作品を生み出す土壌を用意することとなった」(皆川達夫『中世・ルネサンスの音楽』講談社学術文庫、2011年第2刷、195頁) マタイ受難曲皆川達夫『中世・ルネサンスの音楽』 キリスト教美術 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p321-322 「識字率が低かったので絵で見せるしかなかった」「プロテスタントの画家は仕方ないから静物画を描いたり、風景画を描いたりした」「絵画で風景画や風俗画,静物画などが宗教画に劣らないジャンルになったのは16世紀頃」 まず「識字率が低かったので絵で見せるしかなかった」というのは中世初期のカトリック教会によるゲルマン人布教限定の説明。また、この説明では肖像画と宗教画を混同しており、プロテスタントは肖像画すら描けないことになる。また、静物画などが宗教画に劣らないジャンルになったのは16世紀頃、とあるが逆である。西洋絵画のジャンルヒエラルキーが構築されたのは17世紀のフランス・アカデミーとするのが一般的。また,風景画というジャンルに至ってはそもそも誕生したのが16世紀以降で,ルネサンスの頃は宗教画との区別が存在していない。また、「宗教画」というカテゴリは当時なく、神話画など他の最高位に置かれたものを含めて「歴史画」である。また、聖書の場面を描いたプロテスタントの画家も多い。レンブラントやフェルメール(注。フェルメールは結婚を機会にカトリックとなったと主張する研究者もいる。Johannes Vermeer’s influence and inspirationやessentialvermeer.com参照)など無数に存在する。 CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Ecclesiastical Art 静物画:現代美術用語辞典|美術館・アート情報 artscape 哲学 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p281 「理性は、人間の精神のうち神と同型である部分、具体的には、数学・論理学のことなんです」 典拠不明の珍説。『哲学事典』(p1462, 1984 平凡社)によれば、理性とは「一般には見たり聞いたりする感覚的な能力に対して、概念によって思惟する能力をいう」。哲学事典を引かずとも、大辞泉に、一般的な語義、カント哲学における語義、ヘーゲル哲学における語義に至るまでが簡潔にまとめられて書かれている。橋爪氏による独自珍説を読むよりも、一般向けの辞典を読んだ方がはるかに無難であることが示されている。カトリック教会においても理性につき「数学・論理学のこと」といった語義は与えていない。スコラ哲学においては理性の働きはintellectusとratioとに分類され、intellectusはギリシア語のノエシスもしくはヌース(νους)の意味に、ratioは論証的な認識という意味で用いられた。※正教会においては理性について西方教会とは別の捉え方がされてきたことについては別項「東方教会」節において詳述してある。 大辞泉り‐せい【理性】『哲学事典』p1462, 1984 平凡社REASON (Lat. ratio, through French raison) (Originally appearing in Volume V22, Page 947 of the 1911 Encyclopedia Britannica)CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Reason 言語 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p234-5 「イエスと十二人の弟子たちはヘブライ語(ないしは、昔の説だと、ヘブライ語の方言であるアラム語)を話していた」 イエスらがアラム語を話していた、というのは別に「昔の説」ではなく、現代でも多くの研究者が主張していることは、細かい指摘であるから置いておくにせよ、アラム語が「ヘブライ語の方言」であるとは誤り。ヘブライ語もアラム語も北西セム語派に属しているが、しかし前者は北西セム語派のカナン語群に、後者は北西セム語派のアラム語群に属する。従って、親戚関係にあるが、方言とは言えない。 左近義慈『ヒブル語入門』(新装版)教文館、2002年、p.2 キリスト教以外の宗教についての誤り(仏教、イスラームについての無理解) 当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(仏教・神道・イスラムほか篇)を参照 外部リンク 間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき 誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13 映画瓦版の読書日誌 ふしぎなキリスト教 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter 最新 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter(2以降と別のまとめ製作者によるもの) 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter(2以降のまとめの始まり)
https://w.atwiki.jp/lunchtimers/pages/137.html
ふたご座はこんな人 ふたご座生まれの人は、頭の回転が早く、いつも物事の裏の裏まで考えがちです。 かなりの自信家の側面もあるかもしれません。 好奇心旺盛で、特に人の心や考え方を見抜く能力にたけています。 またサービス精神もあり、雰囲気を盛り上げる気配りを忘れないので、誰からも愛されます。 日頃の好奇心が培った、センス抜群の会話や持って生まれたユーモアの感覚は、機知に富んだ会話や仕種とあわせて、一緒にいる人を退屈させることがありません。 人見知りやものおじすることも少なく、初対面の人でもすぐあなたの魅力に引き込まれてしまうでしょう。 あなたの機知に富んだ行動は、困った問題に直面した時にも発揮され、臨機応変に物事を処理して、要領良く困難を切り抜けることができます。 古い因習や感情的なこだわりとは無縁な人で、合理的な考え方のもとにその時最良の行動を素早くとれます。 そのため言動や行動をくつがえしやすい傾向もあります。一度決断をして行動しても、心の中には絶えず他の可能性や不安を抱いていて、いつも迷っていることもあります。 気紛れ、優柔不断と誤解されない注意が必要かも知れません。 ふたご座の住人 【黄緑】
https://w.atwiki.jp/sutela/pages/38.html
ふしぎじけんと解決方法 ふしぎじけんと解決方法ししまい ゆきのじょおう ファントム 寮のドア開けると自動的にふしぎじかんになり その時間が終わると不思議な事件が起こります。 ししまい 登場期間:1月2日~7日 登場場所:学校 必要なもの:おモチ もらえるもの:ししおどし 学校の機械室にいるししまいに話しかけると おモチが欲しいというのでおもちをあげよう ↓ クラスメイトをペアリングでここまで連れてきて 噛んでもらう。 ↓ 合計10回連れていく 人間の世界では… 疫病を追い払うために獅子頭を作り、正月に獅子舞を舞わせたのが始まりといわれていて 正月に頭を噛んでもらうと、悪霊退散、幸福がくるという 踊りを主流としていて中に人が入っている。 ゆきのじょおう 登場期間:2月23日~28日 登場場所:公園 必要なもの:ゆきのけっしょう、クリオネ、ダイヤモンド、エメラルド もらえるもの:ゆきのかべ お城でひめさまに ゆきのじょおうについての話を聞く ↓ 公園にいるゆきのじょおうに話しかけて ゆきのけっしょう、クリオネ、ダイヤモンドを渡す。 ↓次の日… 公園にいるので話しかけオーロラのおまじないを使い もう一度話しかける ↓ お城のひめさまに話しかける 人間の世界では… ゆきのじょおうという童話に登場する。 ずっーと北の、世界の北の果てに住んでいて 鏡を投げつけてくる。 鏡が目に入ると性格が一変する。 ファントム 登場期間:3月25日~31日 登場場所:イベントホール 必要なもの:なし もらえるもの:リアスピーカー PM7時~AM4時の間にイベントホールのファントムに会う。 ↓次の日 PM7時~AM4時の間にイベントホールに行き ファントムの問いかけに「はい」と答える。 ↓ ひめさまと歌の勝負!! 「かなしみをこえて」を歌い勝利する。 人間の世界では… 西欧における、亡霊・幽霊のこと。