約 3,810,931 件
https://w.atwiki.jp/83452/pages/18278.html
唯が訊ねると、ムギと澪は苦笑しながら頷いてくれた。 悔しいけど、私の突拍子も無い発言には慣れてるって事なんだろう。 ちょっと悔しいけど、別にそれでもよかった。 それにこの様子なら、まさかあの曲を選ぶとは思いもしないだろうな。 びっくりさせてやれそうで、何だかちょっと楽しくなる。 私は梓から身体を離して、肩を少し押してやる。 梓は少し駆け出した後、振り返って軽く頭を下げて、ムスタングに向かって行った。 私に気を遣わせてしまったって思ってるんだろう。 でも、梓が気にする必要は無い。 ずっと梓に支えられて来た私なんだ。 元部長の私にだって、たまには梓を支えさせてほしい。 私もドラムまで歩いて行って、ゆっくり腰を下ろした。 それだけで何だか泣き出したくなった。 勿論、悲しかったわけじゃない。 懐かしくて、嬉しくて、泣き出しそうな気分になってしまったんだ。 ずっと忘れていた感覚が全身を駆け巡る。 そうだ、私は……、私達はやっぱり音楽を奏でたかったんだよな……。 チューニングやドラムの位置の調整はする必要が無かった。 念のため軽く叩いてみたけど、 音質や叩いた時の感覚は私の元の世界のドラムと全然変わらない気がした。 ドラム自体は唯の夢の産物としても、 チューニングや位置取りをしてくれたのは唯達だ。 私はそれに感謝しながら、何度か深呼吸をして、 皆の準備が終わった時、不意に大切な事を思い出していた。 そうだ。 これは私達のためのライブだけど、私達のためだけのライブじゃない。 忘れちゃいけない皆が居るんだ……。 私はドラムの椅子から立ち上がると、 澪と梓、唯をレジャーシートの中心付近に集合させた。 首を捻る唯達に私は帽子の中にさりげなく入れておいたそれを取り出して手渡した。 「これ……って……」 梓が驚いた表情で呟く。 見覚えのあるマークが書いてあったから驚いたんだろうな。 澪はそれが何だか分かってないらしく首を捻り、 唯はそれを手のひらの上に置いて嬉しそうに見つめていた。 「律……、このピックは……?」 澪が不思議そうに訊いて来たから、 私は出来る限りの笑顔を浮かべて答えてやった。 未来に進むのと同じように、過去からも目を逸らしたくないから、私は笑ってやったんだ。 「私達の新バンドのマークを書いたピックだよ、澪。 前にやろうとしたライブでさ……、 本当はそれを純ちゃんや憂ちゃん達に渡そうと思ってたんだ。 渡す前に転移させられちゃったけどな……。 おまえに渡したのは純ちゃんに渡そうと思ってたピックだよ。 そのピックで、今からライブをやってくれないか、澪? その方が……、純ちゃんだって嬉しいと思うからさ」 「純ちゃんの……」 澪が私に手渡されたピックを見つめながら、驚いたみたいに呟いた。 ほとんど同じマークに見えるけど、自分で描いたマークなんだ。 三つの微妙な違いくらいは、私もちゃんと分かってる。 澪に渡したのは間違いなく純ちゃんに渡そうと思ってたピックだった。 「使って……いいんだよね……?」 唯が嬉しそうな顔で私に訊ねる。 唯だけこのピックの存在に驚いてない。 当然だった。 このピックは風呂上り、唯が私の白い帽子の中に入れて渡してくれたものだからな。 ただ、私がピックをどう使うかだけは唯も考えてなかったらしい。 単に私を勇気付けるためだけに渡してくれた物のはずだった。 だから、唯はこんなに嬉しそうな顔を浮かべているんだろう。 私の中に過去と向き合う決心が出来たから……。 私は頷いてから、唯のその手を軽く握って想いを伝える。 「ああ……、いや、違うか。 使っていい……じゃなくて、おまえに使ってほしいんだ。 おまえに渡したのは憂ちゃんに渡そうと思ってたピックだよ。 憂ちゃんの分も、おまえに演奏してほしいんだ。 元の世界に居る憂ちゃん達に届けられるくらいにさ……!」 「うん……っ!」 唯が満面の笑顔で頷き、力強く返事をしてくれた。 そういう事なら……、と澪が唯の後に続く。 「私だって純ちゃんに届けるよ、律。 純ちゃんとはまだそんなに親しくなれたわけじゃないけど、 私だって純ちゃんの事は好きだし、すごく大切に思ってるよ。 私にそんな資格があるのかどうかは分からないけど、 純ちゃんに憧れられた先輩として、憧れるに値する演奏をしたいって思う。 ……私だけじゃなく、律だって精一杯演奏しろよな?」 「当然よ!」 言ってから、私は澪とハイタッチを交わした。 私の大切な幼馴染みの澪。 澪がギリギリで引き止めてくれたおかげで、私も今ここに居られる。 憧れとは違うかもしれないけど、 私も澪が好きで居てくれた強い私を澪に見せてやりたいと思う。 「梓」 私はまだ驚いた表情を浮かべてる梓に向けて、言葉を掛けた。 梓は躊躇いがちに私に視線を向けてくれた。 「律……先輩……」 梓が小さく呟く。 過去に向き合う私の姿に驚いてるってわけじゃなく、 私の出した一つの答えを受け止め切れてないのかもしれない。 私だって確かな答えを出せてるわけじゃないけど、これだけは伝えておきたかったんだ。 「梓、おまえに渡したピックは勿論、おまえのピックだ。 でも、私達の新バンドの思い出のピックでもある。 今でも和達の事を考えると辛いし、怖いし、謝りたくなる……。 だけどな、その過去を私は忘れたくないんだ。 また和達と会って、話をしたいし、悲しさや辛さも憶えていたいんだ。 これまでの事だけじゃないし、 これからの事も、勿論、おまえとの事だって……。 だから、そのピックで過去も未来も今も抱えて、演奏してやってほしいんだ。 私だって、演奏してみせる。忘れたくないし、憶えててみせる。 その後の事は元の世界で……、おまえとの事も元の世界で、きっと……!」 その言葉で全部の想いが伝わったとは思ってない。 完全には伝えられてないんだろうと思う。 でも、ほんの少しでも私の想いが伝わっていればとても嬉しい。 梓は私の手渡したピックを強く握ってから……、 「はいっ! よろしくお願いします、律先輩!」 満面の笑顔を浮かべて、言ってくれた。 今はそれだけで十分だ。 そうして、私達は始める。 長く回り道をして来た私達の、最初の第一歩を刻むライブを。 ◎ 妙な緊張感がこの世界と私達を包む。 別に皆が何かを怖がってるってわけじゃない。 私が勿体ぶって演奏する曲目を皆に伝えてないってだけだ。 ちょっと意地悪な気もしたけど、それでいいんだとも私は思ってた。 私達がこれから演奏するのは、梓が歌うあの曲だ。 梓が好きになってくれて、絶対音感も無いのに耳コピで楽譜に書き起こしてくれたあの曲……。 それを知った時、私は驚いたし、凄く嬉しかった。 私達の想いを受け取ってくれていたんだって思えて、感動するくらい嬉しかったんだ。 この曲を演奏した後、唯達にもそれを教えてやりたい。 皆、きっと私と同じくらい喜んでくれるだろうな。 澪、唯、ムギが私に視線を向けている。 そろそろどんな曲を演奏するか教えてもらわなきゃ、不安なんだろうな。 私としてもこれ以上勿体ぶるつもりはない。 一息吐いてから、私は梓と視線を交わす。 緊張した面持ちで梓が頷いたのを見届けたから、私は大きく息を吸い込んだ。 ロンドン中……は無理だろうけど、 せめてこの広場全体に聞こえるくらいの大声で、ライブの開催を宣言する。 「よっしゃあっ! これから私達の最初のライブを開催するぞおっ! 最初の曲は放課後ティータイムで『天使にふれたよ!』だあっ!」 「ええっ?」 唯、澪、ムギが同時に声を上げたけど、 私はそれを気にせず両手のスティックを胸の前で三度叩いた。 それに合わせて、唯達も戸惑いながら演奏を始める。 始まりこそ急だったけど、皆はブランクがあるとは思えない演奏を聴かせてくれた。 唯も、澪も、ムギも、勿論梓も見事な演奏だ。 畜生……、やっぱり皆上手いな……。 音楽の才能が無いのは私だけなのかなって、一瞬不安になる。 でも、そんな不安なんて、すぐに吹き飛ばしてやる。 下手で元々。駄目で元々。 才能が無い分は勢いと魂と想いでカバーしてやるんだ。 どんなに才能が無くたって、技術が足りなくたって、私は音楽が大好きなんだから! 『天使にふれたよ!』の演奏はすぐに歌のパートの寸前に入る。 自分が歌うべきなのかって訊ねるみたいに、唯が私に視線を向けた。 それには首を横に振る事で私は応じた。 その私の行動で皆、今回の演奏はインストゥルメンタルかと思ったに違いない。 事情を知らなかったら、私だってきっとそう思ってた。 だけど、そうじゃない。 今回は三人ともびっくりするサプライズがあるんだ。 歌詞パート。 緊張した様子で顔を赤くしながら、梓が大きく口を開いて歌い始める。 高い、独特の声で、私達が考えた歌詞を言葉にして、届けてくれる。 私達への返答みたいに、歌ってくれる。 唯達が心底驚いた表情で梓を見つめる。 梓がわかばガールズでボーカルをしてる事は知ってはいたけど、 まさか『天使にふれたよ!』を歌ってくれるとは夢にも思ってなかったんだろう。 いや、少しは思っていたのかな? 楽譜すら受け取っていなかったはずの『天使にふれたよ!』を梓が演奏し始めた瞬間、 梓がこの曲に強い思い入れを持ってくれていたって事は、三人とも分かっていただろうからな……。 まあ、その辺りはどっちでもいい。 今は演奏と旋律に集中するべき時なんだ。 梓は歌う。 歌詞の全パートを。 顔を真っ赤にして若干震えながら、でも、逃げずに精一杯歌ってくれる。 私達が梓に贈った歌を言葉にして、旋律に乗せてくれる。 『天使にふれたよ!』は卒業の歌。 残す方と残される方の両方の気持ちを記した歌。 大切な思い出と未来への希望を織り交ぜて、私達の小さな天使に届けた歌だ。 卒業は終わりじゃない。 私達の人生はまだ続いていく。 良くも悪くも、先の見えない未来が目の前に広がってる。 でも、私達は今度こそその未来を良い方に向けられるように、またこの曲を演奏するんだ。 未来を信じて進んでいくために。 本当はほうかごガールズで演奏したい曲だった。 新バンドとして、唯達三人届けたい曲だった。 だけど、それは叶わなかった。 もしかしたら、これからも叶わないかもしれない。 元の世界に戻った所で、和達がほうかごガールズの事を憶えているとは限らない。 憶えてない可能性の方がきっと高い。 でも、私は諦めないし、諦めたくない。 きっと梓だって。 今はほうかごガールズの曲を三人に聴かせられない。 私達の聴かせたかったほうかごガールズの演奏は、きっと永久に出来ない。 でも、私達には出来る事がある。 それはほうかごガールズの曲をまた演奏したいと思い続ける事。 傍に居たいと思い続けるみたいに、私と梓はそう思い続ける。 出来る出来ないじゃなく、忘れずに憶えておく事こそが、未来に繋がるはずなんだ。 過去のほうかごガールズの曲が完全に消え去ってしまったとしても、 思い続けていれば、前に進み続けていれば、 いつかは未来のほうかごガールズが新しい演奏を皆に届けられるはずだ。 『天使にふれたよ!』の演奏が終盤に差し掛かる。 私も含めて、皆自分のパートを歌いたそうにしていたけど、それは我慢していた。 今は梓の歌声を聴く時で、梓の歌声をこの世界に響かせる時なんだ。 これはもう梓の曲なんだ。 私達はその梓の歌声を世界に響かせる手伝いをするだけだ。 それにしても……、と私はつい苦笑してしまう。 梓の歌はやっぱりかなり下手だ。 音程も外れ気味だし、声量がおかしい所もある。 歌詞を間違えない事だけは褒められるけど、 それ以外はずっとボーカルを務めてた唯や澪とは比較対象にもならない。 もっとも、それは梓の歌に限った話じゃなかった。 私も自分で分かるくらいにリズムキープを失敗していたし、 普段私を支えて土台になってくれるはずの澪のベースも所々バラバラだ。 ムギの弾き間違いも何度かあったし、 唯に至っては全然違うメロディを演奏……、いや、作曲したりしていた。 ははっ、最初こそどうにか取り繕ってたけど、やっぱりブランクは大きかったみたいだな……。 でも、それでよかった。 これが今の私達で、今の精一杯なんだ。 自分達の現状が分かっただけでも、十分に嬉しかった。 そして、今が駄目って事は、成長する余地があるって事でもあるからな。 これから……。 そうだ。私達の音楽はまだまだこれからなんだ。 それに梓の歌は下手ではあったけど、単なる音痴じゃなかった。 この世界に来た当初に練習で聴かせてもらった歌よりはずっと成長してる。 下手だけど、それだけじゃない。 前よりは確実に上達しているし、何より心が強くこもってるのを感じた。 梓の歌には、想いがこもっていた。 私達への想いが。 少しずつだけど、梓は前に進んでいるんだ。 私達だって、前に進むんだ。 これから、未来に向かって。 歌が最後のフレーズに差し掛かる。 『ずっと永遠に一緒だよ』。 これまで梓が何度か言葉にしていた、『天使にふれたよ!』の最後のフレーズ。 ずっと永遠に一緒になんて居られるはずがない。 きっといつかは離れ離れになる。心が離れて行ってしまう事もある。 永遠なんて、単なる言葉のあやだ。 だけど、私達は信じて、誓うんだ。 永遠に一緒には居られないかもしれないけど、 それでも、永遠に一緒に居たいって思い続けるんだって。 仲間は私の事を忘れるかもしれない。 永遠なんて望まなくなるかもしれない。 でも、自分一人だけでも忘れずにそう思い続けられるのなら、それはきっと永遠に繋がるんだ。 それが自分だけじゃなく、強制するわけでもなく、 もしも誰か一人でも同じ様に考えてくれる仲間が居れば、私達の想いは永遠になれる。 そう信じてる。 それこそ、この夢の世界で見つけられた私達の誓いなんだ。 63
https://w.atwiki.jp/83452/pages/18269.html
◎ ホテルの屋上から梓の姿を見かけたビルに駆け寄る。 私は息を整えて汗を払うと、心を落ち着かせるために二回深呼吸をする。 それから、気配を悟られないように、 梓が座り込んでいるはずのビルの側面をそっと覗き込んだ。 「あっ……」 思わず声を出しそうになってしまったけど、どうにか喉の奥にその言葉を仕舞い込む。 梓はそこに座っていた。 膝を抱え込んで、泣きこそはしていないけど、悲しそうな表情を浮かべていた。 梓を悲しませてしまったのは多分、私だ。 胸の中にある漠然とした不安を上手く伝えられなかった私の責任だと思う。 だけど、その漠然とした不安は、曖昧なだけに間違ってないはずだった。 私も唯も本能的に感じてる不安……。 上手く伝えられないし、理に適ってない気もするけど、 やっぱり梓のした事は、私達がしてきた事は間違ってたって感じたんだ。 私はそれをこれから梓に伝えなきゃいけないんだ。 「梓」 梓が座っている側に身体を出して、座り込んでいる梓に呼び掛ける。 また逃げられるかもしれないって不安もあったけど、 でも、私は梓を無理矢理捕まえるような事はしたくなかった。 信じたかった。 梓だって私のさっき言おうとした事を心の何処かで分かってるはずなんだって。 それを認めたくないからこそ、逃げ出してしまったんだって。 「律……先輩……? どう……して……?」 梓が驚いた顔になって私に訊ねる。 多分、私が梓の前に姿を現した事を驚いてるんじゃなくて、 私がほとんど音もなく現れたって事に驚いてるんだと思う。 確かに今までの私だったら、当てもなく駆け回って疲れ果てた姿で梓をどうにか見つけ出していたはずだ。 だけど、今回はそうならなかった。 そうならないために、そうしないために、私は屋上から梓を捜したんだから。 逃げ回る梓とそれを追い掛ける私って関係じゃなくて、 お互いに真正面から対等な二人として話をしたかったからだ。 「隣……、いいか……?」 私が穏やかに言った事に面食らったんだろう。 梓はとても複雑そうな顔を浮かべてたけど、しばらくしてから軽く頷いた。 追い掛けられるようなら逃げるつもりだったのかもしれないけど、 こうやって静かに言葉を掛けられるなんて思ってなかったんだろうな。 それも私に。 自分で言うのも何だけど、私自身もかなりそう思う。 そういや、梓が入部届を出しに来た時、 私は「確保」って言いながら梓を捕まえたんだっけ。 何だか懐かしくなって、嬉しくなって、 同時に胸が痛くなったけど、私はその沢山の想いを受け入れる事にした。 悲しさや辛さや痛さ……、 そういう物も全部ひっくるめて梓に想いを伝えたいからだ。 私はゆっくりと梓の左隣にまで歩み寄って、静かに腰を下ろす。 梓はその私の動きから目を逸らさなかった。 何かを言おうとしながら、何も言葉が浮かんで来なかったのかもしれない。 私も何も言わなかった。 話を始めるにしても、もう少しだけ梓と二人でこの世界の空気を感じてたかったんだと思う。 二人とも何も言葉を出さない。 肩を並べて、膝を抱えて、顔を向けて、視線を合わせる。 私達五人以外誰も居ない、夢のようで、多分、実際にも夢なんだろう世界を感じる。 五人で傍に居たかったから辿り着けた、辿り着いてしまった世界を。 ふと、静かに風が吹いた。 少しだけ涼しさを感じる軽い風だった。 瞬間、梓は少しだけ全身を震わせたみたいだった。 肌寒さを感じたわけじゃないと思う。 生き物の姿が消えてしまった風と、和達の姿が消えてしまった風を思い出したんだろう。 私達以外の物を消し去って行く風。 あの一陣の強い風の事を。 正直言うと、私だってまだ怖くて震えそうになる。 また誰かを失ってしまうなんて、考えたくもない。 まだまだ皆と傍で笑い合っていたいのに、あの風は私達から色んな物を奪い去って行く。 夢みたいに、何もかも消し去ってしまう。 ビニール紐を結んで来るべきだったかと、一瞬後悔しそうになる。 でも、私はそれをすぐに振り払った。 私はもうそういう物に頼るのをやめなきゃいけないんだ。 「律先輩……、あの……」 梓が私の腰に視線を向けながら不安そうに声を出した。 私の腰にビニール紐が結ばれてない理由を訊きたいんだろう。 でも、それ以上の言葉を躊躇ってるみたいだった。 私がビニール紐を結んでないのは、 梓が急に飛び出したのを追い掛ける事になったから、 紐を結んでる時間が無かったからじゃないか、って思ってるに違いない。 私はその梓の不安には、軽く首を横に振って応じてやる事にした。 「ビニール紐はさ……、結ばなかったんだよ、梓」 「すみません……。 私が……、飛び出しちゃったから……」 「いや、勘違いしないでくれ、梓。 結べなかったんじゃなくて、結ばなかったんだ。 もうビニール紐を結ぶのはやめる事にしたんだよ」 「え……っ?」 梓が大きな瞳を更に見開く。 私の言葉を信じられなかったんだろうし、信じたくなかったんだろう。 そりゃそうだろうなって思う。 折角梓が考えてくれた私達が傍に居られる方法を、私の方から拒絶したようなもんだからな。 梓が驚いて、辛そうな表情になるのも当然だった。 「でも……、でも、それじゃ……。 もしまたあの風が吹いたら、皆さんが……、皆さんがバラバラになっちゃうじゃないですか。 離れ離れに……なっちゃうじゃ……ない……ですか……。 そんなの……、そんなの……って……」 梓の声がまた震え始める。 ホテルの部屋の中で泣き出した時と同じ、悲しみのこもった声だった。 私はまた梓を悲しませてしまったんだろう。 自分が見捨てられてしまったような気分にさせてしまったのかもしれない。 私だってそんな梓の声を聞くのは辛かったけど、伝えないわけにもいかなかった。 この先、この世界で何が起こったとしても、私は最後まで皆と仲間で居たいんだって事を。 「聞いてくれ、梓。 これは私だけじゃなくて、唯も同じ気持ちなんだ。 私達はもうビニール紐とか、包帯とか、 約束……とか……、 そういう物に……、頼るのをやめようって思ったんだよ……。 だからさ、今、唯は部屋で私達を待っててくれてるんだ」 「唯……先輩も……? どうして……っ? どうしてなんですか……っ? 約束……したじゃないですか……。 『ずっと永遠に一緒だよ』って、歌で……贈ってくれたじゃないですか。 なのに……、なのに……っ!」 梓は声を荒げ始めていた。 トレードマークのツインテールが悲しみで震えているのが分かる。 悲しんで、辛くて、怒ってもいるのかもしれない。 だけど、『永遠に一緒』って言葉は、私達の嘘の無い想いだった。 私は梓と……、皆と永遠に一緒に居たい。 仲間であり続けたい。 でも、それは永遠に一緒に居るって事とは違うんだ。 似てるようで違うんだ、それは。 私はそれを梓に上手く伝えられなかった。 これからも、上手く伝えられないかもしれない。 嫌われる事になるかもしれない。 でも、伝えるんだ、私は。 どんな事になったって、本当の気持ちを伝えるんだって決めたんだから……! 「あず……」 「律先輩……っ!」 梓に声を掛けようと瞬間、不意に大声を出した梓が私に飛び掛かって来た。 あまりの勢いに、私はバランスを崩して、その場に全身で横たわってしまった。 その私の身体の上に梓が乗っていて、俗に言うマウントポジションになっている。 殴り掛かられるのか、って一瞬思ったけど、そうじゃなかった。 雫が私の顔に零れて来て、気付いた。 梓が泣いてるんだって。 梓は大粒の涙を流しながら、 全身を震わせて悲痛な叫びを私に向ける。 「私……、私、何か間違った事、しちゃいましたか……っ? 先輩達に嫌われるような失敗……しちゃったんです……か……? 包帯で私達の手首を繋いだ……から? ひっく……、それとも……、何の役にも立ててないから……? この世界に来て……、誰の役にも……立ててないから……ですか……? 役立たず……なのは自分でも分かってます……。 でも……っ!」 えっ、と思った。 梓の事をずっと考えていたはずなのに、間抜けな私はそれに気付けてなかった。 まさか、梓が自分の事を役立たずだと考えているだなんて、想像もしてなかった。 だって、梓は皆を支えててくれたじゃないか。 梓が居たから、私は道を踏み外さずに済んだんだ。 梓が居たから、崖っぷちギリギリで立ち直れたんだ。 それは全部梓が居たおかげなのに、役立たずだなんてどうして……。 と。 不意に私は澪の言葉を思い出した。 「律の元気な姿を見てると、勇気が湧いて来るんだ」って言葉。 「律の元気な姿を見るのは、本当に嬉しかったんだよ」って澪は言ってくれた。 私にその自覚は無かった。自覚が無かったから、不安だった。 でも、それで皆に勇気を分けてあげられてるんだったら、嬉しいと思えたんだ。 同じだ。 梓は私と同じなんだ。 私と同じで、ずっと不安を胸に抱えてたんだ。 自分が何の役にも立ててないって思って、ずっと怖がってたんだ。 私達は本当に似た者同士だったんだ。 自分に自信が持てなくて、誰からも必要とされてないって思えて、私も梓も怖かったんだ。 だから、梓は今泣いてるんだ……。 梓は涙を流し続ける。 身体を傾けて私の身体に顔を寄せ、その小さな手を私の背中に強く回す。 梓の強い震えが私の身体に直接伝わって、梓の心の震えまで感じられるみたいだった。 同時に、私自身の胸の強い痛みを感じる。 「捨てないで……下さい……」 梓が吐き出すような言葉を口にした。 それは梓の不安の全てがこもった言葉。 梓が心の中に抱え続けていた不安の言葉だった。 一度言葉にしてしまった事で止まらなくったのか、 心の枷から解き放たれたかのように、隠されていた言葉を梓が告白し続ける。 「捨てないで下さい……。 見捨てないで……下さい……。 私……、皆さんの役に立ってない事は……、分かってます……。 何の役にも……立ててません。 でも、皆さんの傍に……、傍に居させてほしいんです……。 頑張ります……、ひっく、もっと頑張ります……から……っ! 見捨て……ないで……、 一人に……、しないでよぉ……!」 強く梓に抱き締められる。 抱き締められながら、私は自分を責めてやりたい気分に胸が支配される。 私は……、梓は強い子だって思ってた。 この世界で私達を支えてくれてる梓は強い子なんだって。 いや、そう思いたかっただけなのかもしれない。 自分が梓に何もしてやれてなくて、それが悔しくて、 でも梓は誰の手助けも必要じゃなさそうに強く振る舞っていたから、 それで梓は大丈夫なんだって勝手に思い込もうとしてたんだ。 本当は……、小さなことで傷付く繊細な後輩だって、 涙脆くて寂しがりな後輩なんだって、分かっていたはずなのに……。 「梓……、ごめん……、ごめんな……。 私、何も気付けてやれてなかった。 おまえがそんなに苦しんでる事に、全然気付けてやれてなかった。 元部長なのに……、部長なのに……、何も気付けてなかった。 本当に……ごめん……」 私は自分の無力に悔しさを感じながら、それでもどうにか言葉を絞り出した。 本当に私は無力だ。 伝えたい事を上手く伝えられないばかりか、梓の考えも上手く理解出来てない。 本当に……、何やってんだよ……。 でも、そこで立ち止まるわけにはいかなかった。 私は梓に想いを伝えなきゃいけない。 梓は大切な後輩なんだって。 何の役にも立ててない事なんてない頼れる後輩で、 皆が梓の事を大好きだって思ってるんだって、それだけは絶対に。 私は自分の胸が張り裂けそうになってる事に気付きながらも、それをどうにか言葉にしてみせる。 「梓……、おまえは頼れる後輩だよ。 皆を支えてくれて、私を支えてくれて、本当に感謝してる。 こう言うのも変なんだけどさ……、私はおまえが居たからこの世界でも生きてられたんだ。 憂ちゃんも純ちゃんも和も消えて、三人の事を思い出すのも怖くなったけど……、 おまえが傍で支えてくれたから、元気をくれたからどうにか立ち直れたんだ。 ロンドンに転移させられたすぐ後だって、おまえが傍に居てくれたから落ち着けたんだ。 それだけは間違いなく本当なんだよ。 それを直接おまえ言葉で届けられてなくて……、悪かった。 昨日、私が自分で言ってた事ですまないけど、頼むよ……。 自分で自分を役立たずなんて言わないでくれ……。 私も唯も澪もムギも、梓に支えられてるんだ。 梓が居たから、頑張って来れたんだ。 おまえがそう思ってくれてるみたいに、私だってずっとおまえの傍に居たいよ。 だから……」 言っていて、私は昨日の自分の情けなさに気付いていた。 何だか自惚れみたいで恥ずかしくて、 これまで真面目に考えた事はなかったけど、私は皆から大切に思われてるんだろう。 皆は私を大切に思ってくれてるんだろう。 だからこそ、私はとんでもない事をしてしまったって気付いた。 大切に思ってくれてる人の前で自分を否定するなんて、 どれだけ皆を傷付けてしまう行為だったんだろう。 どれだけ皆の想いを踏み躙ってしまったんだろう。 私はそれにやっとの事で気付けた。 自分に自信が無いのは仕方が無い事としても、 それで自分を否定してしまったら、皆の想いすら否定してしまう事になるんだって。 「律先輩……」 梓が私の胸で囁く。 まだ震えてはいたけど、その震えは少しだけ弱まっている気がした。 分かってもらえたんだろうか? 肝心な事が何も言えてなかった私の想いは少しでも届いたんだろうか? 梓の事が大好きだって想いは、届いたんだろうか? 数秒、二人して黙り込んで、 もう少し梓の震えが治まった頃、梓がまた小さく口を開いた。 声はもう震えてなかった。 「私……、お役に立ててましたか……?」 「ああ……、心配するな。 十分だよ。十分、おまえは私達を支えてくれてたよ。 役立たずだなんて、そんな事無い。 おまえが居てくれたおかげで、私達は元気に過ごせたんだ」 「本当……ですか……?」 「本当だ。嘘なんか言うかよ。 一緒に居てくれて安心出来たし、嬉しかった。 だから、おまえとはこれからどうするかって話を……」 「律先輩」 私の言葉が梓の声に遮られる。 その声は震えてなかったけど、妙に力のこもった声だった。 気が付けば、さっきよりも強く背中に回された腕に力を入れられてるみたいだった。 私は少し緊張しながら、梓に訊ねてみる。 「どうしたんだ、梓……?」 「私……、皆さんの傍に居て……、いいんですか……?」 「ああ、当然だ。 傍に居たいっておまえが思ってくれるんなら、私だって嬉しいよ。 私だって、皆だって、おまえの傍に居たいんだ。 離れ離れになんて、なりたくないよ。 一緒に居たいって思ってる」 「ありがとう……ございます。 私……、律先輩にそう言って頂けて嬉しいです。 本当に嬉しいです……けど……、 私、もっと皆さんのお役に立ちたいんです。 お役に立てたら……、って思うんです」 「別にそんなに気負う必要は無いぞ、梓。 おまえはそのままのおまえでいいんだ。 でも、まあ……、何かをしたいって言うんなら、止めないよ。 私だって出来る限り皆の役に立ちたいって思ってるのは、おまえと一緒なんだしさ」 「ありがとうございます、律先輩……。 それじゃあ……」 言い終わってから、梓が私の背中から腕を離して顔を上げた。 結構久し振りに見た梓の表情はもう曇ってはいなかったけど、何故か頬を赤く染めていた。 少しの間、二人で見つめ合う。 何だか照れ臭いな、って私がそう思ったのと同じ頃、急に梓が目を閉じた。 目を閉じた梓は自分の唇をそのまま私の唇に重ねようと近付け……。 瞬間。 驚いた私はその梓の両肩を自分の両手で掴んだ。 「ちょ……っ。えっ……? 何だ? 梓、ちょっと……、急に何を……、えっ……?」 心臓が激しく鼓動するのを感じながら、 私は自分でも何を言ってるのか分からない言葉を口にしていた。 何なんだ? 梓の唇が私に近付いて来た……? 私とキス……しようとしてたのか? 何で? どうして? どうして梓は急に私にキスしようとしてるんだ……? 私の目の前に居る梓が寂しそうに大きな目を開いて、寂しそうに口を開いた。 次の瞬間、これまで梓の想いは何も分かってなかった私だけど、 その私がそれ以上に想像しようと思ってすら出来てなかった言葉が梓の口から出されていた。 54
https://w.atwiki.jp/83452/pages/18232.html
ムギに言われて思い出した。 ムギに飛び掛かった時、確かに私は肘を擦り剥いてた。 結構、思いっ切り飛び掛かってたからなあ。 下手すりゃ、ムギが地面に頭をぶつけてたかもしれなかったくらいだ。 私が肘を擦り剥いたくらいで助かったよな……。 その怪我だって、別に大した怪我じゃない。 剥けた皮が大袈裟に垂れちゃってはいるけど、 よく見ると見事に表面だけが剥けちゃってるだけみたいだ。 血だってそんなに出てるわけじゃない。 だから、必死に絆創膏を探すムギに、私は不敵な笑顔を向けて言った。 心配する必要なんて無いんだって事を伝えるために。 「大丈夫だよ、ムギ。 そんなに痛いわけじゃないし、唾付けときゃすぐに治るって。 実際に唾を付けた事は無いけどな。 それより、私さ、気付いた事が……」 「駄目だよ!」 突然、私の言葉が今まで聞いた事が無いくらい大きなムギの声に遮られた。 予想外の事態に私は思わず言葉を失う。 強い言葉に驚きながらムギの顔に視線を向けると、 さっきまで以上に泣き出しそうな表情を浮かべてるみたいだった。 その表情のまま、ムギが掠れた声を絞り出す。 「駄目だよ、りっちゃん……。 りっちゃん、今、怪我をしてるんだよ……? しっかり治療しないと、駄目だよ……。 りっちゃんの言う通り、そんなに痛くない怪我なのかもしれない。 でもね……。 もし悪化しちゃったら……、もし破傷風にでもなったらどうするの……? 破傷風に感染すると……、死んじゃう事だってあるんだよ……?」 「破傷風ってそんな大袈裟な……」 「うん……、大袈裟なのは分かってる……。 だけどね、感染する可能性はあるんだよ……? それは一万分の一くらいの可能性かもしれないけど、 例え一万分の一の可能性でも、私、耐えられないよ……。 だって、今はお医者さんが居ないんだよ? 治療出来る人が誰も居ないの。 和ちゃんや憂ちゃんなら色々分かるかもしれないけど、 でも、やっぱり本格的な治療は出来ないと思うの。 大袈裟でも、私、恐いの……。 一万分の一でも、りっちゃんが死んじゃう可能性があるなんて、嫌だよ……。 考え過ぎだって分かってるけど、恐くて恐くて、どうしようもなくなるの……」 確かに考え過ぎだ。 そんな事、滅多に起こる事じゃない。 それこそ一万分の一どころか百万分の一くらいの可能性だって思う。 でも、ムギの言う事は痛いほどよく分かった。 医者が居ない。 助けてくれる人も居ない。 何かが起こっても、自分達だけで何とかするしかない。 そう考えた途端、寒気がした。 ムギの身体が冷え切っちゃうのも分かった。 人が誰も居ないってのは、私が考えてたほど簡単な話じゃなかったんだ。 病気や怪我をしてしまったら、人が居た頃の何倍も危険なんだ。 普通なら死ぬはずがない病気でだって、簡単に死んじゃう可能性が増えるんだ……。 恐かった。 勿論、自分が死ぬ事もそうなんだけど、 それ以上にムギ達の死ぬ可能性が、今までよりも遥かに増えてしまってる事が。 今現在、私達がそんな世界に生きてるんだって事が……。 「ごめん……。 ごめんな、ムギ……」 頭を下げて、ムギに謝る。 ちょっとした発見にはしゃいでしまって、 ムギの気持ちに全然気付けてなかった自分が嫌になった。 私の発見は、ひょっとしたら元の世界に戻るきっかけに出来るのかもしれない。 でも、それはきっと昨日今日の話じゃない。 綿密な調査を重ねて……、少なくとも一ヶ月以上は確実に掛かるだろう。 その間、誰かが大病に感染する可能性はゼロじゃない。 当然、その可能性は百万分の一くらいなんだろうけど……、 百万分の一も誰かが死ぬ可能性があるだなんて、考えたくもなかった。 前にテレビで三年後までに死亡する確率が五%、 って病気に感染した人のドキュメンタリーを観た事がある。 その時は、やけに低い死亡率だなあ、 って思いながら観てたもんだけど、今ならその恐ろしさが分かる。 それは二十回に一回の確率で、三年後に友達と会えなくなる可能性があるって事なんだ。 二十回に一回も……。 考えただけで、吐き気や寒気が湧き上がってくる。 私は何を分かったつもりだったんだろう……。 ムギに肘の治療をしてもらいながら、 何も分かってなかった自分の事がとても恥ずかしくなった。 私達は死ぬ確率が遥かに増えた世界に生きてるんだ……。 ◎ 憂ちゃんの手が私の身体をまさぐる。 優しく……、時に強く、絶妙な力加減で私の肉体を撫でていく。 時に痛みを感じる事もある。 だけど、時期にそれは溢れ出る快感へと変化する。 私は漏れ出す言葉を止める事が出来ない。 「んあ……っ、駄目だよ、憂ちゃん……っ! そんな……っ! そんなに……っ!」 「ふふっ、駄目ですよ、律さん。 我慢して下さいね。大丈夫ですから。 すぐに気持ち良くなりますからね」 憂ちゃんは私の言葉を優しく聞き流す。 その間も憂ちゃんは私の肉体に更に密着し、 憂ちゃん自身の柔らかさを私の肌に感じさせようとする。 柔らかく、淡く甘い熱に包まれる感覚……。 不意に視線を向けると、 純ちゃんが舌舐めずりをしたそうな様子で私達を見つめていた。 恍惚に似た表情を浮かべ、甘い声をあげてねだる。 「いいなあ、律先輩。 憂にしてもらえるなんて本当に羨ましい……。 私もたまにしてもらうんですけど、憂ってとっても上手ですよね。 上手過ぎて、声が我慢出来ないくらい気持ち良くなっちゃいましたし……。 ねえ、憂。 後で私にもしてくれる?」 「いいよ、純ちゃん。 律先輩のが終わったら、後でいっぱいしてあげるね。 準備して、待っててね」 「やった!」 本当に嬉しそうな声を上げた後、 純ちゃんがパジャマに使ってるシャツをはだけさせる。 期待に満ちた顔で憂ちゃんを見つめている。 「あ……っ、ああっ……!」 純ちゃんと話している間も、憂ちゃんの手の動きが止まる事は無かった。 私は溢れ出る快感の奔流を止める事が出来ず、漏れ出す声も止められなくなった。。 声を我慢する事すらも億劫に感じて来る。 痛みを感じる事も少なくなった。 もう私に出来る事は、快感に身を任せる事だけだった。 憂ちゃんの……、澪にやってもらうのよりずっと上手い……! 「ここが気持ち良いですか、律さん?」 耳元で憂ちゃんが囁かれる。 優しく、柔らかく、甘い声が私の耳をくすぐる。 私は感情のままに何度も頷いた。 「うん……、うん……っ! そこがいい……。そこがいいよ……っ! すごく気持ち良い……っ!」 「よかった……。 じゃあ、もっと気持ち良くしてあげますね」 「あっ……、ああっ、憂ちゃん……っ!」 私はまた大声を上げてしまう。 声を我慢するどころか、大声を我慢する事も出来なくなってきた。 肌と肌の触れ合い。 憂ちゃんの体温と私の体温が混じり合い、 それがもっと大量の快感を私の身体の中から生じさせる。 大きな声を出す事で、その快感が何倍にも増えていく気までして来る。 もっと……、もっと気持ち良くしてほしい……。 「ちょっとっ! 二人とも何をしてるのっ!」 不意に音楽室の扉が開き、甲高い声がその場に響いた。 長椅子にうつ伏せに寝転がる体位だった私は、 顔を上げて声の方向に視線を向けてみる。 扉を開けたのは、学生鞄を持って赤い顔をした梓だった。 どうやら私の大声が音楽室の外まで響いていたらしい。 音楽室には防音処理がされてるってのに、 私ったらそれくらい大声を出しちゃってたみたいだ。 「何って……、見て分からないか?」 憂ちゃんを身体の上に乗せたまま、 はだけさせたシャツを少しだけ整えてから私は言った。 梓は俯き、視線を散漫にさせた。 どんどん顔を赤くさせていき、躊躇いがちに小さく口を開いた。 「……マッサージですか?」 「そうだよ、分かってんじゃんか」 軽く微笑んで、梓に言ってやる。 って、まあ、普通に考えたら、 私が憂ちゃんと密着する理由なんて、 マッサージ以外の理由があるはずがないんだけどな。 梓が顔を赤くさせてるのは、何かの勘違いをして(何とは言わないけど)、 敬語を使うのも忘れて、音楽室に飛び込んじゃった事が恥ずかしいからなんだろう。 「紛らわしい事しないで下さいよ、もー!」 梓が恥ずかしそうに大声を出す。 恥ずかしいなら誤魔化せばいいのに、それが出来ないのが梓って奴だった。 唯とは違った意味で素直な奴なんだよな、こいつ……。 私はもう一度笑ってから、恥ずかしがる梓に言ってやる事にした。 「まあ、気にするなって。 こういうのってお約束じゃん? 部屋の中から妙な声が聞こえるから駆け込んでみたら、やっぱりマッサージだったってやつ。 漫画で見かけると、まだこういうネタ使ってんのか、ってうんざりするんだけどさ。 でも、うんざりしながら、何か落ち着く気がしないか? 何だろうな……、何か伝統芸能に近い物を感じる気がするんだよな。 着々と伝えられる文化って言うか何と言うか……。 まあ、結局は、お約束ってやつなんだけど」 「いえ、確かにお約束なんですけど……。 でも、それを分かってて、 本当にやる人が居るなんて思わないじゃないですか……」 複雑そうな表情で梓が呟く。 確かに梓の言う通りではある。 でも、そこが盲点なんだけどな。 だからこそ、梓もそういうお約束がある事を分かってながらも、 まさか本当にそのお約束を実行する人なんて居ないって考えて、音楽室に飛び込んで来たんだろう。 梓が散歩から戻って来る頃を狙って、私が変な声を出してみてたとも知らずに……。 ククク……、見事に引っ掛かってくれたな。 計画通り! とは言え、さっきまでの私の声は半分以上は本気だったりもする。 疲れてたせいもあるかもしれないけど、憂ちゃんのマッサージは想像以上に上手い。 前に澪に揉ませた時なんかとは比較にならないレベルだ。 澪のマッサージなんて痛いばっかだったよ、マジな話。 ん? あれは澪に罰ゲームで揉ませたから、 恨み節がマッサージする手にこもってただけか? ま、いいか。 夢なのか現実なのか、 一瞬だけ人の姿を見た後、私とムギは一旦学校に戻る事にした。 ムギが私の傷のちゃんとした治療をしたがってたし、 それ以上にその場に残ってた所で私達には何も出来そうになかった。 もしも私の考えた通りに、 本当に異世界同士を繋ぐ門があるとして、勝手にそれに作動されても困るしな。 私は元の世界に戻りたいわけじゃない。 私は皆で元の世界でまた笑い合いたいんだ。 学校に戻るまでの間のムギとの話し合いで、 一瞬だけ人の姿が見えた事は皆には話さない事に決まった。 あれは私達の気のせいかもしれなかったし、 妙な事を言って、皆に期待させるのも悪いと思ったからだ。 ただ、和にだけは話す事をムギにも納得してもらった。 和ならきっと、客観的に色んな可能性を考えて判断してくれる。 そんな気がする。 勿論、和だって恐いはずだし、焦ってもいるんだろうけど、 それを乗り越えられる強さを持ってるのが、私達の親友の和って奴のはずだ。 「純も何やってるのよ……」 不意に梓が呆れた表情で呟く。 梓の視線の先ではパジャマをはだけさせた純ちゃんがドーナツを食べていた。 そのドーナツはムギと一緒に学校に戻って、 肘の怪我の治療をしてもらった後、私一人で自転車を飛ばして、 ドーナツ屋から持ち帰って来たスーパーオールスターパックの中身のドーナツだ。 肘の怪我の治療中、ムギの肌は冷え切ったままだった。 肌も、心も、怯えや不安で冷え切ってしまっていた。 私の怪我なんかよりも、ムギの不安の方をどうにかしてやりたかった。 でも、私にはそのための手段が無い。 ムギの不安を振り払うだけの力が、今の私には無かったんだ。 何も出来ない自分が悔しくて、辛くて……、 「ちょっと疲れちゃったから、お昼寝するね」って言って、 生徒会室に向かうムギを止める事が出来なかった。掛けられる言葉が無かった。 その後、どうにか私に出来たのは、 約束通りムギの夕食のおかずを一品増しにしてやる事だけだった。 勿論、ムギと私のワンマンライブはまだ開催していない。 夕食の時、一品増しになったおかずに気付いたムギが微笑んでくれたけど、 私もムギもワンマンライブの事を自分から切り出しはしなかった。 分かってるんだと思う。 こんな精神状態じゃ、きっといい演奏なんか出来ないって事に。 上手く演奏出来ずに、もっと落ち込んじゃうだけだって事に。 でも、当然だけど、そのままでいいはずが無い。 少しずつでもいいから、前に進まなきゃ私は本当に駄目になっちゃうと思うから。 誰の為にも動けない情けない元部長になっちゃうと思うから……。 私は今晩、校舎の屋上で澪と待ち合わせをしたんだ。 夕食の後、後片付けをする澪に「話がある」と言ったら、静かに頷いてくれた。 真剣な顔で、まっすぐな切れ長の瞳で。 ムギの事だって勿論気になる。 でも、多分、ムギが一番望んでいるのは、私と澪が話をする事なんだって思う。 二人きりの時はそうでもないけど、大勢で居る時、ムギは一歩引いて私達を見てる。 そういや、「楽しそうにしてる皆を見てるのが好きなの」って、前に言ってたっけ。 それは控え目な性格って言うよりは、 自分より誰かが楽しんでいるのが嬉しくなるタイプなんだろうな。 だから、思う。 私達が元気で居る事が、ムギの元気にも繋がるはずなんだって。 澪とどんな話が出来るかは分からない。 ひょっとしたら、今よりも関係が悪化するかも……。 そう思うと恐くなっちゃうけど、澪の為にも、ムギの為にも、 他の皆の為にも、何よりも私が元気に皆を引っ張っていく為に……。 私は澪と話をしたいって思う。 憂ちゃんにマッサージをしてもらってたのだって、勿論理由があるぞ。 今は澪と唯が風呂に入ってるから、 その風呂が終わるのを待ってる間にリラックスしておこうって思ったんだ。 追い込まれた状態で澪と話したって、ろくな事にならないだろうしな。 緊張せず、少しでも普段の自分に近付いて、自然に話すのが一番のはずだ。 ……にしても、憂ちゃんのマッサージがこんなに上手いとは思わなかった。 プロクラスだぞ、これ。 いや、プロのマッサージを受けた事はまだないけどさ。 きっといつも家で唯にマッサージを頼まれてるんだろう。 だらけた唯を笑顔でマッサージする憂ちゃんの姿が目に浮かぶ。 思わずちょっと笑いながら視線を向けると、 梓の言葉を聞き流しつつ、私の方を羨ましそうに見てる純ちゃんの姿が目に入った。 そういや、さっき純ちゃんは「私もたまにしてもらうんですけど」って言ってた気がするな。 つまり、純ちゃんも憂ちゃんのマッサージに魅せられた一人なんだな。 だからこそ、こんな物欲しそうな顔をしてるんだろう。 気持ちはよく分かる。 よーく分かるぞ、純ちゃん……! 「ちょっと、聞いてるの、純……!」 梓が頬を膨らませて少しだけ声を荒げる。 純ちゃんが自分の言葉を聞き流してるのがちょっと悔しかったんだろう。 でも、別に純ちゃんが梓の事を適当に扱ってるわけでもないはずだ。 親しいから軽口を叩き合ったり、話をスルーしたり、 それが許される仲なんだって安心感から取る行動なんだって感じる。 あと、これは私の勝手な考えなんだけど、 梓が心の奥底から一番頼りにしてるのは、純ちゃんな気がするんだよな。 だから、自分の言葉を聞き流されるのが嫌なんだろう。 そうそう。 前に梓が純ちゃんの失敗談を話してた時に、 「純って本当に仕方が無い子ですよね」って言ってた事があったよな。 その時、私は何となく思い付きで意地悪をして、 「そうだな。純ちゃんは手が掛かって仕方が無い子だよな」って返してやったんだけど、 梓の奴、予想通りと言うか何と言うか、普段よりずっと頬を膨らませて拗ねてたっけ。 「そんな風に言わなくてもいいじゃないですか……」って言いながら、 自分が失敗した時の何倍も悔しそうで辛そうな感じに見えた。 つまり、純ちゃんの悪口を言っていいのは梓だけ、って事なんだよな。 それを指摘してやると、梓は顔を真っ赤にして明らかに動揺してた。 どうも自分じゃ気付いてなかったらしい。 ははっ、妬けますなー、中野殿。 ごちそうさま。 「聞いてるってば。 梓もそんなにムキにならなくてもいいじゃん」 梓の想いを分かっているのかどうなのか、純ちゃんがニマリと笑った。 ニヤリ、じゃなくて、ニマリって感じの笑顔。 純ちゃんも梓の事を心から信頼してるから見せられる笑顔な気がした。 「ちゃんと聞いてよね……って、あーっ! 純ったらもうスーパーオールスターパック食べてるじゃない! しかも、前みたいに一個ずつを一口ずつ食べちゃって……。 皆の分も入ってるんだから、後の事考えてよー……!」 梓が呆れた顔を浮かべて純ちゃんに言い放つと、 てへっ、ってさわちゃんみたいにして純ちゃんが舌を出した。 その姿は本当にさわちゃんとよく似ていた。 実は梓からのメールにあった話なんだけど、 純ちゃんが軽音部に入ってさわちゃんとの絡みが増えて、二人の行動がかなり似て来てるらしい。 そのメールを貰った時、だろうなー……、と私は妙に納得した。 軽音部に入る前から二人の発想や行動は似てたみたいだし、 そんな二人が傍に居りゃ、それだけ色んな所が似てくるもんだろう。 しかし、何だな……。 さわちゃんが二人か……。 想像しただけで、気が遠くなるな……。 頑張れよ、中野梓部長……。 17
https://w.atwiki.jp/83452/pages/18217.html
を繋ぐ。 決して離れないように、二度とこの手を離すものかと強く繋いでる。 私達は指を絡ませ、お互いの体温を肌で感じ合う。 もう何も失くしたくはないから。 失くすわけにはいかないから。 そして、私達は繋いだ手を更に繋ぐ。 お互いの手首周辺を包帯で巻き縛って、そのままで固定する。 もうこれで私達が離れる事はない。 離れたくない。 ずっと皆、一緒だ。 安心。 だけど、同時に不安感。 皆で居るのは幸せだ。 皆と一緒に居れば、どんな困難でも笑顔で乗り越えていけそうな気だってする。 何だって乗り越えられる。 それは私だけが感じてる事じゃない。 ここに居る全員がそう感じてるんだって、私には確信出来る。 それは皆の手が強く繋がっているから。 離したくない、離れたくないという強い意志を、皆の手のひらから感じるからだ。 嬉しい……。 本当に嬉しいんだ。 こんなにも大切な仲間が私にも出来た事が。 生涯の仲間どころか、永遠に一緒と確信出来る仲間達に出会えた事が。 私達の卒業で小さな後輩が少しの間だけ私達と離れる事になりはしたけど、 それでも私達の想いは絶対に揺るがない。揺るがしちゃいけないんだ。 だから、あの夏休みの日。 離れていた距離と離れていた時間を埋めようとして、私達は小さな天使と一緒に……。 そうして、私達は今ここに居る。 でも、胸の中で激しく動く鼓動が私に不安を覚えさせる。 私達は手を繋いでる。 自分達の意思で強く強くお互いの手を繋いでいる。 離れないために。 繋いだ手を更に包帯で強く繋いでまで。 これで私達はずっと一緒に居られる。居られるはずだ。 それは私が心の底から望んだ事のはずなのに、心の底からの笑顔を皆に向けられなくなった。 私達を繋いでくれたもう一つの絆である音楽すら、心の底から楽しめなくなってきて……。 そんな偽物の希望、偽物の笑顔と偽物の音楽に溢れた日常の中で、不意に私は気付く。 ひょっとしたら、私達は手を繋いでるんじゃなくて……。 ◎ 「ちょっと、律。 頼んでおいた資料がまだ提出されてないわよ」 和が眉を歪めて、私に向けていつものお説教を始める。 こんな時の和は少し苦手だけど、そもそものお説教の原因は私なんだから仕方がないか。 でも、提出する予定の資料なんかあったっけか? 私は軽く頭を掻きながら、首を捻って和に訊ねてみる。 「あれ? そうだったっけ? ごめんな、和。何の資料だったっけ?」 「やっぱり忘れてたのね……」 大きな溜息。 それから和は、仕方ないわね、と言わんばかりの苦笑を浮かべた。 どうやら本気で怒っていたわけではないらしい。 怒ってはいないけれど、元生徒会長の立場だった者として、 今の私達のリーダー的立場として、とりあえず私に注意しておくべきだと思ってくれたんだろう。 高校時代、そんな和の真面目さはたまに窮屈に感じる事もあったけど、 こんな状況ではとても頼もしくて頼り甲斐があるし、 和はきっとこんな状況でも慌てないために皆に厳しくしてたんだろうと思う。 流石は私達の生徒会長だ。 一方、軽音部元部長の私はと言えば、 企画こそ言い出しっぺなんだけど、後の事は澪や梓に丸投げしがちだ。 普段ならそれもいいかもしれないけど(いや、あんまりよくないかもしれないけど)、 こんな状況でリーダー的存在になれる自信は無かった。 卒業旅行でロンドンに行った時も散々だったもんなあ……。 最近気付き始めてきたんだけど、どうも私は突発的状況ってやつに弱いらしい。 予想もしてなかった状況に追い込まれると、それこそ澪並みに取り乱しちゃうんだよな。 普段はぼんやりしていて駄目駄目だけど、 本番には強いってキャラがカッコいいのに、私ってばそんな性格とは正反対みたいなんだ。 漫画の主人公にはなれなさそうなキャラ性で、ちょっと落ち込む。 まあ、誰だってそんなもんだろうとは思うんだけど。 唯は除いて、だけどな。 苦笑を崩さず、眼鏡を掛け直しながら和が続ける。 「昨日、書店で周辺地図を探してきてって頼んでたでしょ? まあ、有り余るくらい食材を集めてきてくれたのは助かったけどね。 大方、律と一緒に行ってた唯が「地図よりごはんが大切だよ!」とか言い出したんでしょう?」 「大当たり。流石は唯の幼馴染みだな」 感心して、軽く拍手する。 和の御推察通り、昨日、私は唯の提案でありったけの食材を集めていた。 それで調理は私と澪でやって、豪勢な食事を皆に振る舞ったんだ。 こんな状況だ。 食事くらいは豪勢にやってやらないと、気が滅入るじゃないか。 和もそれを分かってくれていたのか、昨日は書類……地図については私達に訊ねなかった。 きっと食事で盛り上がる皆に水を差したくなかったんだろうな。 それで今日になって落ち着いてから、私に頼んでおいた地図の件を訊ねる事にしたんだろう。 私は自分の迂闊を恥ずかしく思いながら、今度は大きく和に頭を下げた。 「でも、ごめんな、和。 皆に美味しいごはんくらいは食べさせたいと思った瞬間にさ、 和に頼まれてた事を全部忘れちゃってたみたいだ。 和も和で大切な仕事をやってくれてるのに、 私なんか自分の事ばかり考えてみたいで申し訳ないよ」 「いいわよ。焦る事でもないし、律のごはんも美味しかったしね」 私の謝罪に和は笑顔で応じてくれた。 久し振りに会ったせいかもしれないけど、何だか高校時代よりもずっと大人っぽく見える。 きっと大学でも持ち前のリーダーシップを生かして、皆を引っ張っているんだろう。 ほとんど何も変わってない私達とはえらい違いだよな。 不意に和が、笑顔から真剣な様子の真顔に表情を変える。 笑顔になるべき場所と、真顔になるべき場所を弁えてるって事だ。 私も和に褒められて笑顔になりそうだった自分の表情を引き締めた。 私の表情を確認すると、和が重い口振りで話し始める。 「でもね、律。 焦る状況じゃないし、焦ってどうなる状況でもないけれど、 打開策を練らなきゃいけない時ではある事も分かってくれてるわよね? こう見えて私も動揺してるんだから、少しは律を頼りにさせてもらっていいかしら」 「頼りにって……、私なんかでいいのかよ?」 「律しか居ないし、律がいいと思うわ。 こんな無茶苦茶な状況、解決出来ないまでも打開策を考えられるのは律か唯しか居ないと思う。 でも、唯は憂につきっきりだし、頭を使うのは苦手な子だものね。 だから、こんな無茶苦茶な状況に適応出来るのは、いつも無茶苦茶な律しか居ないと思うのよ」 「褒めてんのか? 貶してんのか?」 「褒めているのよ」 真顔で和が答える。 そもそも和は冗談を言うタイプの人間じゃない。 非常に微妙だけど、一応褒めてはくれているんだろう。 それにこんな無茶苦茶な状況ってのは、確かに和の言葉通りだ。 軽く溜息を吐いてから、私は立っていた場所から数歩歩いて、 屋上の柵から身を乗り出して私達の母校の桜高を大きく見渡してみる。 グラウンドには誰も居なかった。 校庭にも、通学路にも、廊下にも誰も居ない。 誰も、居ない。 夏休みだからってわけじゃない。 夏休みだって部活動の生徒は居るはずだし、 仕事をする先生や補習する生徒だって大勢居るはずだ。 でも、やっぱり、 誰も、居ない。 学校だけじゃない。 町の方に視線を向けても、まだ午前十時過ぎだってのに、車の一台も見かけない。 通りすがる人すら居ない。 こんな事になってから、何十軒もの家を訪ねてみた。 どの家にも誰も居なかった。 会話の音も聞こえない。 人の生活音すらしない。 風や風に靡く植物の音程度しか聞こえてこない。 誰も、居ないんだ。 私達以外、誰も居ない世界。 それが、あの夏休みの日以来、私達に訪れてしまった無茶苦茶な状況だ。 ◎ 二週間前、大学と高校が夏休みに入った事もあってか、 梓から軽音部の新入部員を本格的に私達に紹介したいというメールを貰った。 紹介してくれる場所は音楽室こと軽音部の部室だそうだ。 ……ん? 軽音部の部室こと音楽室だったっけ? まあ、いいか。 梓からたまにメールは貰ってたけど、 新入部員がどんな子なのか私はまだよくは知らなかった。 ムギみたいな子と眼鏡の子が入部してくれたって事を辛うじて知ってるくらいだ。 その子達がどんな子なのか気になりはするけど、それ以上の事を私は梓に訊ねなかった。 そういや、新生軽音部には憂ちゃんと純ちゃんも入部してくれているらしいし、 それもあってか梓のメールの文面からは、本当に楽しそうな梓の想いが感じられた。 新入部員の事をあれこれ聞くよりも、それだけで十分なんだと私は思った。 大体、卒業後にも無闇に口を出すOGが一番嫌われるって話もよく聞くしな。 だから、卒業して以来、 私はわざと梓や憂ちゃん達と連絡を取るのを少なくしていた。 勿論、梓の事が嫌いになったわけじゃない。 梓が一人で軽音部を引っ張っていけるんなら、 私があれこれ口出しするのは大きなお世話ってもんだろう。 でも、もしも梓に何か困った事があれば、いつでも助けてやりたい。 一人ではどうも出来ない問題に直面して、 梓が私に頼ってきたなら、何だって手助けをしてやりたい。 それが元部長ってやつなんだからな。 それが元部長ってやつなんだが……、 でも、梓の奴、私に頼ってくれるのかなあ。 あいつは唯に懐いてて、澪を慕ってるから、 私に悩みを相談してくれる事はあんまりないかもなあ……。 まあ、それはそれで仕方が無いか。 万が一……、いや、百が一……、いやいや、十が一……かな。 自分で考えた事ながらちょっと悲しいが、 それくらいの確率で梓が私に悩みを相談しなかったとしても、 それは梓が悪いわけじゃなくて、相談されなかった私の責任なんだ。 梓を責める気はない。 それでも、澪か唯かムギか、 流石にその中の誰かには相談するはずだし、 澪達も梓が悩んでる事を知れば、私に教えてくれるだろう。 その時、私は陰ながら、間接的にでも梓の助けを出来れば嬉しいと思う。 「……嬉しいな」 だから、梓からメールを貰った時、私は思わずそう呟いてた。 悩み相談じゃなくて新入部員紹介のメールだったけど、 これといった悩みが無いんならそっちの方がずっといいよな。 私は久し振りに梓達と顔を合わせられる事が嬉しくて、 梓から貰ったメールを何度も見ながら、雑誌を積み上げた即席ドラムを叩いた。 梓の事だ。 きっと単に新入部員の紹介をするだけじゃなくて、 新生軽音部のセッションを見せてくれるつもりのはずだ。 サプライズだの何だのって私達に内緒にしながら、それこそ今頃は猛練習に励んでるに違いない。 それでそのサプライズのセッションが終わった後、 「もう先輩達が居なくたって、軽音部は安泰なんですからね」とか言うつもりなんだろう。 相変わらず生意気な後輩め。 そうだとしたら、軽音部の先輩の元部長としてはじっとしてるわけにゃいかん。 新生軽音部のセッションが終わった後で、 元祖軽音部の華麗なセッションを見せてやらないとな。 それで私達の超絶演奏に圧倒される梓に「まだまだだね」と言ってやるのだ。 ふふふ、首を洗って待っているがよい、梓よ……。 だけど、大学での新生活に力を注いでいたせいか、 そんなに怠けていたつもりはなかったのに、予想以上に私のドラムの腕は落ちていた。 ついこの前までは、ハイテンポの『カレー』や『ぴゅあぴゅあ』が簡単に叩けていたはずだ。 それが今じゃローテンポの『天使』や『ホッチキス』でも結構きつかった。 音楽から離れる時間が高校時代から少しだけ増えた事が、 そのまま今の私の実力に跳ね返っちゃってるって感じだな。 それこそ、始まりだけは軽いノリで、知らない内に厚くなったってか? ううむ、恐るべし、音楽という魔物。 でも、そんな事で落ち込む私じゃない。 むしろ逆に燃えてきた。 連絡を取ってみると、唯達の方もかなり実力が落ちてしまってるらしかった。 これじゃ梓達を見返すつもりが、逆になめられたままになってしまう。 そうはさせん。そうはさせんぞ。 だから、それから私達は時間を見つけては四人で集まって、 新生軽音部に負けない音楽が演奏出来るように猛練習を積んだんだ。 そうして迎えた新入部員紹介ライブの当日 (ライブってのは私達の中で勝手に決めた事だけど)、 登校中に私達がよく合流してた横断歩道の前で、私達四人は梓を待っていた。 待ち合わせの予定時刻よりはかなり早かったから、 私達を出迎えてくれる梓達がまだ来てないのは分かってた。 でも、私達は一刻も早く待ち合わせ場所に来たかった。 新入部員の紹介を楽しみにしてるからってのも勿論あるけど、 梓達の前でまた演奏出来るのが、四人ともすごく嬉しかったんだ。 どれだけ実力を取り戻せたのかは分からない。 ひょっとしたらひどい演奏になるかもしれない。 だけど、そんな事よりも私達は演奏したくてたまらなかった。 やっぱり、私達は音楽が大好きなんだろうと思う。 きっと音楽という魔物に魅入られちゃってるんだろうな。 ううむ、恐るべし、音楽という魔物。 「あれっ? 先輩達、もう着いてたんですかーっ?」 待ち合わせの予定時刻の大体十分前、 普段より少しだけ甲高いあいつの声が周囲に響いた。 ああ……、久し振りだな……、って思った。 卒業以来、電話で何回も話した事があるのに、 電話で聞くのと直接聞くのじゃ本当に全然違う。 それだけあいつは私達の心の中に残ってる存在なんだな。 私は自分が笑顔になるのを感じながら、 あいつの……、梓の声が響いた方向に視線を向ける。 私達に向けて駆け寄って来る梓と憂ちゃんの姿、 その後ろから少し遅れて歩いて来る純ちゃんと和の姿が見えた。 あれ? と私はちょっとだけ首を捻った。 どうして軽音部じゃない和が居るんだろうか。 梓からのメールにも和が来るなんて書いてなかったし……。 ま、いいや、と私は首を振る。 ひょっとすると憂ちゃんが和に頼んで来てもらったのかもしれない。 あんまりそう見えないけど、憂ちゃんだって和の幼馴染みなんだもんな。 それに軽音部でこそないけど、和だって軽音部を支えてくれた一人なんだ。 仲間外れにするのはあんまりだろう。 久し振りに和に会えるのは私だって嬉しい。 「おーい、あず……」 「あずにゃーんっ!」 私が手を上げて梓を呼ぶより先に、唯が梓の方に走り寄って行っていた。 予想通りだが、少しは自重しろ、唯。 道路も近いし、夏休みだから人通りも車も多いんだぞ。 流石に梓だってそろそろ嫌がって……なかった。 私の視線の先では梓が足を止め、苦笑しながら唯が来るのを待っている。 これは唯に抱き締めさせてあげる気が満々ってわけだな。 梓は本当はすごく寂しがり屋だ。 唯と会う機会が減っただけに、 溜まりに溜まった寂しさはただ事じゃないはずだった。 久し振りに唯の温かさを感じたいんだろう。 唯も唯で梓とあんまり会えなくなったせいか、 抱き着き癖の相手が私になる事が結構多くなっていた。 梓と体型が似てる私に抱き着いてるわけだ。 断じて私は梓ほど小さくはないけど。色んな所が。 でも、寂しがってた者同士、 今日は久し振りに二人で存分にくっ付き合えばいいと思う。 しっかり唯の言う『あずにゃん分』をチャージするといい。 いや、私もスキンシップは旺盛な方なんだけどさ、 大学の構内で抱き着かれるのはちょっと気恥ずかしいんだよな。 「やれやれ……」 呟きながら、苦笑した澪が和と視線を合わせる。 和も軽く肩を竦めながら、澪と視線を合わせて微笑んでいた。 二人とも何だか嬉しそうだ。 久し振りに会えた事を喜んでるのは、唯達だけじゃないって事だな。 私達の中で唯の次に和と仲が良いのは澪だろう。 真面目な性格同士で気が合うのか、 傍から見ていても二人はいい親友だと思う。 それがちょっと嫌で澪と喧嘩した事もあったけど、 今は和が澪と仲が良くなってくれた事に私は感謝してるんだ。 「んじゃ、行くか」 私はムギに目配せをしてから、梓達の方に向けて歩き始めた。 「うん」と頷いて、ムギが私の後に続く。その更に後に澪も続いた。 視線を戻すと、既に唯が梓に抱き着いて顔を寄せ、その頭を撫でていた。 暑い上に通りすがりの人も横目に見てるのによくやるよなあ、 とはいつも思うんだけど、唯達にはそんな事なんか関係無いんだろう。 また少しだけ私は周囲を見渡してみる。 見る限り、新入部員らしい子達とさわちゃんの姿は見当たらない。 私達を驚かすためにわざわざ隠れてるって事もないだろうし、 多分、その子達はさわちゃんと一緒に部室で私達を待ってるんだろうな。 どんな子達なんだろう、と私はその子達の姿に思いを馳せる。 何度か梓に写メールで見せてもらった事はある。 眼鏡の子と、何だかムギっぽい子の二人。 梓のメールの文面から性格の想像は出来るけど、それは単なる想像だ。 話に聞くのと実際に会うのとじゃ大違いなんだ。 きっと私の想像とは全然違う一面を持ってたりもするんだろう。 だから、楽しみなんだよな。 私達は唯に抱き着かれる梓に近付いていく。 和と純ちゃんも、少し遅れて梓の傍に辿り着いていた。 久し振りに顔を合わせる八人。 あれから少しは何かが変わったのか、それとも何も変わってないのか。 離れてた時間のギャップは、今から皆で話しながら埋めていけばいいんだ。 そう考えながらもう一歩だけ歩いた私は、 唯に抱き締められる梓の頭に右手を軽く伸ばした。 久し振りに会ったんだ。 頭くらい撫でてやってもいいじゃないか。 そのくらいの軽い気持ちで伸ばした手だった。 不意に。 強い風が吹いた。 夏なのに春一番みたいに強い強い風。 空気の圧力が私の瞳を擦り、 目を空けていられなくなった私は瞼を閉じる。 「うわっ」、「きゃっ」、 と周りで上がる声を聞く限りじゃ、 唯達も強い風に目を開けていられなくなったみたいだ。 少しの時間、強風が私達を包み込む。 その風はすぐに止まった。 文学的に言えば、一陣の風ってな感じになるのかな。 そう呼んでもいい一度だけ強く吹いた風だった。 「いやー、すごい風だったよなー」 ぼやくみたいに呟きながら、 私は閉じていた瞼を少しずつ開いていく。 その私の呟きには唯が応じてくれた。 「だよねー、すっごく強い風だからびっくりしちゃったよ。 ね、あずにゃん?」 2
https://w.atwiki.jp/83452/pages/18262.html
言いながらムギは少し視線を伏せていたけど、 言葉の最後の方では軽く微笑みを見せてくれていた。 ムギの穏やかな笑顔……。 そうだよ……。 私はこの笑顔が見たかったから、皆の未来を守りたかったんだ。 自分の過去を捨てて、皆の笑顔のために頑張りたかったんだ。 その選択肢は間違ってないはずだった。 だけど、私が過去と思い出を捨てると悲しむ仲間が居たんだ。 私は自分の事だけに目を向けてたから、それに気付けてなかった。 私が皆の悲しむ姿を見たくないように、皆だって私の悲しむ姿を見たくなかったんだ。 その事に、やっと気付けた。 だから……、私はもう一度澪に視線を向けてから言った。 「……行ってくるよ、澪」 「何処……に……?」 「私に何が出来るか分からない。 何をしても裏目に出ちゃうのかもしれない……。 だけど、まだ出来る事があるって気付いたから、 澪達が気付かせてくれたから、それをやりたいって思うんだよ……。 唯を安心させてやりたい……。 唯が眠ってる内に、それが出来るようにしておきたいんだ……。 まだ仮定に過ぎないけど、安心出来れば、唯の体調も回復するはずだから……!」 言いながら、私はポケットの中に手を突っ込む。 ポケットの中には唯が拾ってくれた二つのピックがある。 三つあるうちの二つのピックが……。 残り一つのピックを、探しに行きたいと思う。 見つけ出して、苦しむ唯に見せてあげたい。 唯してくれた事は、無駄じゃなかったんだって。 私を苦しめるだけじゃなかったんだって。 そんな事をして、何の意味があるのかは分からない。 そんなちっぽけな事には、何の意味も無いのかもしれない。 今更、ピックを見つけたって、何も……。 だけど……。 私に出来る事は、多分それだけだ。 澪や梓みたいに誰かを支えてあげられるわけじゃない。 ムギみたいに看病が出来るわけでもない。 唯の傍に居たって、私に何か意味のある事が出来るわけじゃない。 だから、私は私に出来るちっぽけな事を精一杯やらなきゃいけないんだ。 「……ああ、分かったよ、行って来い、律。 おまえが唯を追い詰めた理由については聞かないよ。 聞いたって、それは本人同士にしかどうにか出来ない問題だろうしな。 おまえに出来る何かがあるんだったら、私はそれを待ってるよ。 待ってるから……!」 澪が強い視線で私の言葉に頷いてくれた。 大切な幼馴染みが、私を送り出してくれた。 私も、強く頷く。 「ありがとな、澪。 唯が目を覚ましたら、私は必ず戻って来るって伝えておいてくれ。 おまえを元気にさせてみせる、絶対に死なせないからな! ってさ。 ……もう一度言うけど、本当にありがとう、澪。 おまえが居なきゃ、私は多分何も出来てなかった……。 もっともっと後悔してた……。 何かを出来る気になれたのはおまえのおかげだ。 何だよ……、怖がりのくせにカッコいいじゃんかよ、澪……」 私がちょっと口を尖らせて言うと、澪が軽く笑ってくれた。 正直な想いを、告白してくれた。 「私だってギリギリだよ、律……。 怖いし、痛いし、辛いし、悲しいし、苦しい。 今だってパパやママ……、和達の事を思い出すと辛くてどうにかなりそうだ……。 でもさ……、頑張らなきゃって思うんだ。 皆の……、律の元気に頑張ってる姿を見てると、私も精一杯頑張らなきゃって思うんだよ。 律が元気な姿を見せてくれるから、私だって怖くても頑張れるんだ」 「でも……、それは私の本当の……」 本当の姿じゃない。 強がってただけの姿だ。 本当の私はもっと弱くて情けない奴なんだ……。 それを言うより先に、澪は首を横に振って言ってくれた。 「ううん……、それもおまえの本当の姿なんだよ、律……。 律の元気な姿を見てると、勇気が湧いて来るんだ。 空元気だったとしても、無理をしてたにしても、 律の元気な姿を見るのは、本当に嬉しかったんだよ……。 何も出来てないって事ない。 私は……、律の元気な姿に救われてたよ……」 「私だって……! 私だって……、りっちゃんの元気な姿、大好きだよ!」 澪の言葉に続いて言ってくれたのはムギだった。 真剣な表情で、私を見つめてくれている。 そう……なんだろうか……。 ほんの少しでも、私は皆の役に立てていたんだろうか……。 それなら、嬉しいな、凄く……。 私は少し救われた気分になりながら、頭を下げて二人に伝えた。 「ありがとう、二人とも……。 じゃあ、悪いけど……、行ってくる。 ムギ、澪、唯の看病は頼む。 二人になら唯の看病を任せられるからな。 ムギ……、自信を持ってくれ。 私、ムギが必死に医学書を翻訳してたの知ってるよ。 病気じゃないだろうけど、それでも唯がまた苦しんだ時には役に立つはずだ。 澪も……、ありがとう。 おまえのおかげで少しだけ勇気が出せたよ。 私が皆のために何の役に立つかは分からない。 でも、出来るだけの事はやってみせるよ」 二人に想いを伝え終わった後、私は梓に視線を向けた。 さっきから何も喋っていない梓。 ひょっとすると、私に何が出来るわけでもないって思ってるんだろうか。 そんな事は無いと思うけど、それでもよかった。 そう思われても仕方が無い事を私はして来たんだから。 私をまた信じてもらえるかどうかは、私のこれからの行動次第だ。 私は小さく深呼吸してから、梓に声を掛ける。 「梓……、おまえはここに居て……」 「私も連れてって下さい!」 私の声よりもずっと大きな声で梓が叫ぶ。 予想外の事に私は驚いて硬直してしまう。 澪達も不思議そうに梓を見つめてるみたいだった。 だけど、梓はそれを気にせずに言葉を続けた。 「律先輩が何をしようとしてるのかは分かりません……。 でも、お手伝いしたいんです! 唯先輩が元気になるなら、そのためのお手伝いがしたいんです! だから……、私も連れてって下さい、律先輩!」 強い視線だった。 強い意志だった。 梓を連れて行くべきかもしれないって、一瞬考えてしまう。 だけど、私は首を横に振った。 それはしない方がいい事だと思ったからだ。 私が一人でやらなきゃいけない事だし、梓にはやってほしい事がある。 梓が悲しそうに視線を伏せて続ける。 「どうしてですか、律先輩……? 私……、私も……、皆さんのお役に立ちたいです……。 私には看病なんて出来ないですし……、 それに……、律先輩を一人で行かせるなんて心配で……」 梓は一陣の風の事を言ってるんだろうと思った。 確かに誰かを一人で行かせるのは心配な気持ちは分かる。 私は梓の肩に軽く手を置いて、静かに頷いてみせた。 「大丈夫だよ、梓。 梓にはやってほしい事があるんだ。 唯の傍に……、居てやってほしい。手を握っていてやってほしいんだ。 唯の事が大切なんだって、元気で居てほしいんだって、 そんな気持ちを込めて、私の代わりに一緒に居てやってほしいんだよ。 梓が傍に居た方が、唯だって喜ぶよ」 「でも……、でも、それじゃ、律先輩が……」 まだ寂しそうな表情を浮かべる梓。 私は梓を安心させるために、床に置いていたリュックサックに入れておいた物を取り出した。 雑誌とかをまとめる時に使うビニール紐だ。 400メートルのビニール紐を四つ。 そのうちの一つを私の腰に巻いてから結んだ。 私の突然の行動に、唖然とした表情で梓が呟く。 「な、何やってるんですか……っ!」 「おまえが最初に言い出した事だろ、梓? 自分の身体に触れてる物は一緒に転移するんじゃないかってさ。 その理論の応用だ。 ビニール紐を身体に結んでおいて、 誰かがそれを持っていてくれれば、どんなに距離が離れてたって大丈夫なはずだろ? そんなに遠出をするつもりじゃないし、四つもあれば大丈夫だろ。 紐の端と端を結べば一キロ以上は進める。 それにこれも被ってくからさ」 言いながら、私はライト付きのヘルメットを被った。 さっき時間を確認したけど、午後五時を回ってたからな。 そろそろ太陽も沈み始める頃だ。 そんなに時間を掛けるつもりはないけど、万が一の時のために被っておいた方が安全だろう。 懐かしくなって持って来ておいてよかった。 「それなら安心……のはず……ですけど……。 でも……、でも……」 まだ心配そうな表情を浮かべる梓。 安心させてやりたかったけど、今は無理にでも信じてもらうしかなかった。 ビニール紐の固まりの端を梓に握らせてから、私は部屋の扉を開ける。 「律先輩!」 「りっちゃん!」 「律!」 三人の言葉が重なる。 全員の視線が私に集まる。 続きの言葉は澪が代表して言ってくれた。 「ちゃんと帰って来いよ! 唯と一緒に待ってるから……! だから、ちゃんと帰って来て……! お願い……!」 「ああ! 唯の事……、頼む!」 そう言ってから、駆け出して行く。 未来への希望と、少なからずの不安を胸に抱きながら……。 ◎ 走る。 階段を駆け下りていく。 ビニール紐を腰に巻いて、ライト付きヘルメットを被って、そんな間抜けな姿で私は走る。 間抜けだけど、私が今出来る最善の、最良の装備姿だ。 どんな姿でだって、走ってみせる。 見つけ出してみせる。 ピックを。 私の過去を。 唯が大切にしようとしてくれた物を。 さっき、私は勇気が出せたと皆に言った。 勇気は確かに出せた。 ギリギリの所で踏み止まれた。 踏み止まれたのは澪の拳骨、ムギの信頼、梓の支え、唯の想いのおかげだ。 最低な私が最後の最後で勇気を出せた。 それは本当だ。 でも、怖さは全然無くなってない。 むしろ不安と恐怖はどんどん増して来てる。 それを誤魔化して、拳を握り締めて、唇を噛み締めて、私は走ってる。 怖い……、物凄く怖い……。 唯の事を失うのが怖い。 捨てた過去と向き合うのが怖い。 ピックを見つけられたとして、唯に何て言えばいいのかも分からない。 皆は私を信頼してくれたけど、その信頼に応えられるか全く自信が無い。 無い無い尽くしで我ながら呆れ果ててしまいそうだ。 でも、走る。 走らなきゃいけない。 走らなきゃ、今度こそ私は恐怖で動き出せなくなる。 それは駄目だ。絶対に駄目だ。それだけは許しちゃいけない。 今一番苦しいのは唯なんだ。 唯の苦しみと比べたら、私の恐怖なんて大した事無いんだ。 無いに決まってるんだ……! 「……はあっ!」 溜息なんだか深呼吸なんだかよく分からない吐息が私から漏れる。 何だよ……。 いい加減にしろよ、私……。 何でまたこんなに怖がってるんだよ、畜生……。 本当に苦しいのは唯だ。唯なんだぞ……! 死ぬ事まで覚悟させちゃってるんだぞ……! だから、進め! 今は私の苦しみなんて考えるな。 もう陽は沈みかけなんだ。 陽が沈んでしまったら、小さなピックを見つけるのがもっと難しくなる。 悩むのは後からだっていくらでも出来るんだから……! 階段を降り切り、私はホテルの玄関から飛び出していく。 視線を地面に向けると、建物や私の影はかなり長くなってしまっていた。 この調子じゃ二時間もしないうちに完全に陽が沈んでしまうはずだ。 勝負は二時間……。 長い時間のはずなのに、気だけが焦る。 そもそも唯が三日間掛けて見つけられなかったんだ。 残りニ時間で私に見つける事なんて出来るんだろうか……? いや、出来る……、出来るはずだ……! 唯は何の手掛かりも無くピックを捜して見つけ出してくれたんだ。 私がピックを投げ捨てた方向すら把握出来ずに、見つけ出したんだ。 投げ捨てた方向を憶えてる私が、 投げ捨てた私が見つけられなくてどうする……! 私は屋上を見上げ、あの日、自分が立っていた方向を確認する。 あの日、確か私はホテルの道路に面した方の端に立っていたはずだ。 それをまっすぐに投げ捨てたわけだから……。 よし……、間違いない。 あの方向なら、丁度道路の方に落ちた形になっているはず……。 私は頷くとまっしぐらに全速力で道路に飛び出して、しゃがみ込んだ。 後は総当たり。 目ぼしい場所は唯が全部調べてるはずだけど、 もしかしたら何かの原因で見落としてるって可能性もあるから、絨毯爆撃的に端から端まで見ていこう。 そうすればいつかは必ず見つかる。 見つかるんだ……! 後は単なる時間との勝負だ。 いつかは見つけられるとしたって、全てが手遅れになってからじゃ遅過ぎる。 だから、急げ……! 急いでピックを見つけ出すんだ……! 私は目を皿のようにして、道路から街路樹から、片っ端から探り始める。 今は幸いにと言うべきか車も人も道路には居ない。 他の何を気にする事も無く、ピックを捜す事に専念出来るんだ。 大丈夫、見つかる。 絶対に見つかるって自分に言い聞かせて、とにかく探し続ける。 だけど……、私の中の弱い私が私の想いの邪魔をする。 私の中で耳鳴りみたいに、迷いの言葉を囁き続ける。 ピックを見つけてどうする? ピックを見つけて唯を喜ばせて、それでどうするってんだ? 捨てようとした過去を受け止め切れるのか? 過去を見てちゃ動き出せなくなるから、ピックを捨てようとしたんだろ? ピックを見つけたら、また動き出せなくなるんじゃないか? 和達を見捨てたって罪悪感に囚われて、何も出来なくなるだけなんじゃないか? それとも、ピックを見つけて、皆の前で演技を続けるのか? もう過去の事なんて乗り越えた。 何もかも大丈夫だって演技をして、皆に嘘を吐き続けるのか? 「駄目だ!」 私は声に出して自分に言い聞かせる。 今はそんな事を考えちゃいけないんだ。 唯の事を一番に考えるんだ。 唯が元気になれるんだったら、私は自分の気持ちに嘘を吐いたって構わない。 私はもう失いたくないんだ。 皆から唯を失わせちゃいけないんだ。 最後の最後に残った五人を、五人のままで居させなきゃいけないんだ……! 例え自分の気持ちに嘘を吐いたって……! だからこそ、今は何も考えずに、前に進むんだ! ピックを絶対に見つけ出すんだ! それが一番いい答えなんだ! さあ、今は地面を這って、ピックを捜すんだ! それからどれくらい捜しただろうか……。 私は目に映る目ぼしい道路や建物付近を片っ端から捜した。 見落としは無かったはずだ。 街路樹の植えてある土まで掘り起こして捜したんだ。 だけど、何処にどう捜してもピックは見つからなかった。 どうやっても、見つからなかった。 何でだ? どうして……、どうして見つからないんだ? 私がピックを投げ捨てたのはこの方向で間違いなかったはずだ。 片っ端から地面を捜し切ってやったはずなんだ。 なのに……、どうして? 瞬間、待てよ? と思った。 唯は三日間この付近を捜していた。 それで最後のピックを見つけられなかったんだ。 私がピックを投げ捨てた方向が分からなかったとは言え、そんな事があるか? 三日間だぞ? 特に唯はああ見えて誰よりも集中力がある奴じゃないか。 そんな唯がピックを二つも見つけて、最後の一つだけ見落とすなんて事があるか? 考えられるのは、最後のピックだけ何処か全然離れた場所に移動してるって可能性だ。 例えば風か何かで……。 風……。 思い出すのは梓と一緒に居た時に吹いた風。 強い風じゃなかった。あれはそんなに強い風じゃなかった。 だけど、小さくて軽いピックを何処かに飛ばすには十分な風だ。 「まさか……」 思わず呟いてしまう。 まさか私はまた間違ってしまったってのか? 時間が無いっていうのに、唯が苦しんでるっていうのに、 自分の迷いと戦う事に精一杯で、肝心な事に目が行ってなかったってのか? 風でピックが飛ばされてるかもって、そんな簡単な想像も出来ず……。 三日間も唯が必死に捜してくれた物を、 投げた方向が分かってるってだけで、簡単に見つけられるって勘違いして……。 馬鹿か、私は! いや、正真正銘の馬鹿だ! 何で私はこんなに……。 こんなに馬鹿ばっかりやっちゃってるんだよ……。 いや、後悔してる時間は無い。 後悔してたって、何も出来ない。 風で飛ばされたってんなら、範囲を広げて捜すだけだ。 何としてでも捜し出すだけだ。 私に出来るのはそれだけなんだから……。 もうそれしか出来ないんだから……。 だから、急いで他の場所を捜しに……。 47
https://w.atwiki.jp/83452/pages/18221.html
でも、言われてみれば、純ちゃんの気持ちも分からなくもない。 蒸し暑い夏の夜だってのに、昨晩私達は窓を閉め切って眠った。 誰も居ないこの世界だけど、悪意を持った第三者が存在しないとも限らない。 馬鹿みたいな考えだけど、エイリアンみたいな生物が居ないとも言い切れない。 だから、私達は学校の玄関まで完全に鍵を掛けて、眠る事にしたんだ。 安全を考えるとその選択に間違いは無かったと思うけど、 真夏の夜に完全な密閉空間で寝るってのは、かなり無理があったかもしれない。 暑さに弱い唯なんか、ぐったりして憂ちゃんに団扇で扇いでもらってたもんな。 私もそうだけど、現代っ子ってのはか弱いもんだ……。 こうなると電池で動かせる扇風機くらいは探してくるべきか。 電池の残量が心配ではあるけど、背に腹は代えられないしな。 「ほらほら、純。 起き……なくてもいいから、せめてパジャマの袖には手を通して」 気が付けば、梓がその辺に脱ぎ散らかされた純ちゃんのパジャマを拾い集めていた。 「起き……なくてもいい」ってのは、 そもそも起こそうとしても無駄だって事を知ってるんだろうな。 私も寝起きのいい方じゃないけど、流石に純ちゃんほどじゃないぞ。 その事に若干呆れはする。 でも、逆に頼もしくもあった。 こんなわけの分からない状況なのに、純ちゃんはいつもの元気な純ちゃんだ。 純ちゃんについては詳しく知ってるわけじゃない。 梓から聞く話で、どんな子なのか見当を付けてるだけだ。 元気でマイペースな子なんだろうなとは思ってたけど、そのくらいだ。 でも、こんな間近で純ちゃんと梓のやりとりを見られるようになって、気付いた。 梓は本当に純ちゃんに支えられてるんだって事に。 一見、梓が純ちゃんのフォローをしてるように見える。 それはそうなんだろうけど、きっと梓はそれ以上に純ちゃんの事を信頼してる。 大体、友達のために三年から部活を変えるなんて、そうそう出来る事じゃないよな。 澪の奴なんか一緒にバンドやろうって話をしてたのに、文芸部に入ろうとしてたしな。 いや、まあ、それは、二人で軽音部に入ろうと思ってる事を澪に伝えたのが、 軽音部の見学に行こうって誘った当日だった私にも責任があるんだろうけどさ……。 とにかく、梓が純ちゃんに支えられてるのは間違いない。 涙を流しながらも私達の卒業を祝福出来たのも、純ちゃんが傍に居てくれたからだと思う。 きっと私の知らない所では、色んな話をして、色んな事を考えてたんだろう。 私の知らない所で、純ちゃんは何度も梓の心を支えてあげてくれてたんだ。 純ちゃんにその自覚があるかどうかは微妙だけど、 そういう無自覚な優しさを持ってるって所も純ちゃんの魅力だと思う。 だから、梓は苦笑しながらも、純ちゃんの傍に居たがるんだろう。 「律先輩、純にパジャマ着せるの手伝ってもらえますか?」 「あいよ、了解」 梓に言われ、私は純ちゃんの頭から手を離して代わりに肩を支える。 「純ったら困りますよね」と苦笑しながら、梓が純ちゃんにパジャマを着せていく。 その手先は器用で、本当に慣れてるんだな、とちょっと感心した。 今までそれだけ何度も純ちゃんのパジャマを着せてあげてたって事か。 不思議ではあるけど、いい関係の友達だよな。 「んー……? あー……?」 パジャマの衣擦れがくすぐったいのか、 梓がパジャマのボタンを留める度に純ちゃんが変な声を上げる。 起きてるんだか、起きてないんだか……。 いや、きっと九割くらい寝てるんだろうな……。 この調子だと、パジャマの代わりに着ぐるみを着せてても、しばらく気付かないだろうな。 そういや、澪もああ見えて寝起きも寝相もいい方じゃないんだよな。 三年の学祭の時、 寝てる澪の腕に散々人って字を書いたのに起きなかったし、 ロンドンでの卒業旅行の時の澪の寝相も、そりゃひどいもんだった。 いや、ここだけの話だけど。 「さてと、次はズボンですね。 律先輩、純の身体をしっかり押さえてて下さい」 ボタンを留め終わると、梓が純ちゃんの足下に回って言った。 「しっかり押さえてて下さい」って暴れ馬じゃないんだから……、 と思った瞬間、純ちゃんは足下の梓に向けて鋭い蹴りを繰り出していた。 あっ、と私が声を上げるより先に、梓がその蹴りを見事に避けていた。 「もう……、律先輩、 しっかり押さえてて下さいって言ったじゃないですか」 「わ……、悪い悪い……」 梓が非難する様な視線を私に向け、私は素直に頭を下げて謝った。 言い訳する事も出来ない。 これは完全に油断してた私の失敗だ。 梓が見事に避けてくれて助かった……。 しかし、本気で鋭い蹴りだった。 純ちゃんの中の獣が叫んだんだろうか。 脳じゃなくて身体が足下の違和感に気付いて、本能的に蹴ったに違いない。 純ちゃん……、恐ろしい子……! ついでにそれを見事に避けた梓も恐ろしい子……! 私はちょっとだけ期待して、純ちゃんの顔に視線を向けてみる。 もしかしたら、今の蹴りで純ちゃんが目を覚ましたんじゃないかと思ったからだ。 でも、残念ながらと言うべきか、予想通りと言うべきか、 純ちゃんは相も変わらずに寝息を立てて、それはそれは気持ち良さそうに爆睡していた。 こりゃ本気で筋金入りの寝太郎(眠り姫?)だ。 流石の澪も、いや、唯でさえも、 純ちゃんのこの眠りっぷりには敵いそうにない。 結局、純ちゃんの脚にズボンを通した後、 梓と二人で両側から肩を支えて純ちゃんの布団まで運んでも、 純ちゃんは遂に一瞬たりとも目を覚まさなかった。 ここまでくるともう褒めるしかない。 でも、普段大雑把に見えて、 異常事態になると一番最初に目を覚ましちゃう私よりは、よっぽど頼りになるよな……。 多分、今の状況で梓を支えられてるのは、私じゃなくて純ちゃんなんだろう。 それを恥に思う事は無いはずだし、 梓を支えてくれる子が居る事に安心するべきなんだろうけど、何だか悔しい気がした。 それを悔しいと思っちゃう自分が悔しかった。 だから、私は生徒会室に梓を残して、 皆の朝食の準備をした後、一人で朝食を食べて屋上に上がったんだ。 これからの事、澪の事、今の状況……、そんな色んな事を考えるために。 答えを出せるかどうかは分からない。 それでも、何かを考えずにはいられなかった。 ちなみに結構騒がしくしちゃったはずなのに、 和は私が目を覚まして最初に見た時から一切変わらない姿で眠っていた。 布団の丁度真ん中で手足を伸ばして、 逆に気味が悪いくらい整った姿勢で、規則正しく寝息を立てていた。 相変わらず頼もしい……。 純ちゃんも純ちゃんだけど、和も和だよな……。 ◎ 屋上ではしばらく和と話した。 主に今日の行動に予定についてだ。 私は今日こそ地図と、ついでに使えそうな電化製品を探しに街に出る。 私と街に出るのは昨日と同じく、唯、梓、ムギ、純ちゃんでいいだろう。 和は学校に残って澪、憂ちゃんと調べ物をする。 大体、そんな予定でいいだろうと結論が出た時、 閉めていた屋上の扉が大きな音を立てて開いた。 「律先輩! ちょっと一緒に来てもらえませんかっ?」 無音に近かった屋上に甲高い声が響く。 急に名前を呼ばれて、ちょっと驚いた私は扉の方に視線を向けた。 見覚えのある癖っ毛。 屋上の扉を開いて、甲高い声を出したのは純ちゃんだった。 「ど……、どうしたの?」 私は真剣な表情の純ちゃんに少し気圧されながら訊ねる。 純ちゃんは覚えてないだろうけど、 さっき同性とは言え裸を見ちゃってるから、何となく気まずいってのもあった。 ちなみにすごい寝癖がついていた純ちゃんの髪は整えられている。 まったく見事だと思った。 自分の癖っ毛との付き合い方を分かってる証拠だろう。 「ちょっと……、待ってよ、純……!」 不意に仁王立ちに近い体勢の純ちゃんの後ろから、梓が顔を出した。 かなり息を切らせている。 多分、純ちゃんを走って追い掛けてきたんだろうな。 梓は肩で息をしながら私と和と視線を合わせると、軽く頭を下げた。 「律先輩、和先輩、純がお騒がせしてすみません……。 ごはんを食べた後、純と二人で校庭を散歩してたんですけど、 屋上にお二人の姿を見つけた瞬間、 純ったら急に走り出しちゃって、それで私も純を追い掛けて来たんですけど……。 何なのよ、純……。 急に走り出すなんて、何かあったの?」 「仕方ないじゃん。 だって、律先輩の姿を見つけたら、居ても立ってもいられなくなったんだから」 純ちゃんの意外な言葉に、梓も和も、勿論、私も首を傾げる。 純ちゃんの事は可愛い後輩だと思ってるけど、物凄く親しいってわけじゃない。 だから、純ちゃんがそんな事を言い出すなんて、すごく意外だった。 「え……? 私……?」 私は思わず呟いてしまう。 純ちゃんは私の言葉に頷くと、近付いて来て私の手のひらを握った。 「はい! 実は律先輩に見てほしい物があるんです。 昨日学校で見つけて、その時は大した物じゃないって思ってたんですけど、 一晩寝てよく考えたら、やっぱり大変な物なんじゃないかって思えてきて……。 だから、律先輩、今から一緒にそれを見に行ってもらえませんか?」 「それなら、私じゃなくて……」 和の方がいいんじゃないか。 そう言おうとしたけど、その言葉は途中で止めた。 大変な物かもしれない得体の知れない何か……。 それを一番正しく判断出来るのは、きっと私達の中では和だけだ。 そんな事なんて、純ちゃんだって分かり切ってるだろう。 でも、純ちゃんは和じゃなくて、私を選んだ。 和じゃなくて、私に見てもらった方がいい物だって思ったから、私を選んだんだ。 だったら、私が行くしかないじゃないか。 和もそれを分かってるんだろう。 私が軽く視線を向けてみると、和は軽く頷いてくれた。 いってらっしゃい、とその視線は言っていた。 「分かった。 それが何なのかは分からないけど、今から一緒に行くよ。 連れてってくれるか?」 「ありがとうございます、律先輩! じゃあ、すぐそこなんで私についてきて下さい。 和先輩、すみません、律先輩を借りていきます。 ほら、梓も一緒に行くよ!」 「何なのよ、もー……!」 肩を落として呟く梓を楽しそうに見つめながら、 純ちゃんが私の手を引いて屋上の扉に向けて駆け出し始める。 純ちゃんに手を引かれ、私もその場から走り出す。 結局、屋上で見つけられた答えなんて、ほとんど無かった。 でも、今は走り出す。 今は走るべき時なんだ。 走り出していい時なんだって思った。 梓の近くまで駆け寄る。 私は梓の手を取って、純ちゃんと梓と一緒に走り出そうとする。 瞬間、和が私達の後ろから大きな声で言ってくれた。 「律! 朝ごはん作ってくれたの律でしょ? 美味しかったわよ、ありがとう! いってらっしゃい!」 こんな状況になって、まだ何も出来てない私の胸が震える。 和の言葉に、少しだけ救われた気がした。 ◎ 階段を駆け降りて、廊下を走る。 夏休み中とは言え、いくら走っても誰にも注意されないのは何だか寂しい。 誰も居ない校舎で過ごした事は、部活で何度かある。 その時も校舎は静かで別世界みたいだった。 でも、今のこれは全然違う。 誰も居ないってだけじゃない。 人が生活してる痕跡すら全然感じられない。 長く過ごしたはずの校舎が、全然知らない建物みたいに思えてきて仕方が無かった。 もやもやした感情が胸の中に広がりそうになる。 今の所、私達に直接的な危険は無い。 エイリアンが居たり、変質者がうろついてたり、そういう事は無さそうだ。 この世界……、少なくともこの町の中には私達しか残ってないと思う。 本当はそれに安心するべきなんだろう。 女の子八人だけの集団に直接的な暴力が襲い掛かってきたら、成す術も無いんだから。 それでも、私は湧き上がる漠然とした不安を押し留める事が出来ない。 このままじゃいけない事は分かってるけど、 何をどうしたらいいか解決の糸口も掴めてないのが恐い。 その不安は自分の将来像に対する不安に似てるかもしれない。 私達の周りから人が消えてしまった今の状況は置いておくとして、 これまで普通の大学生活を過ごしていた私達に、直接的な脅威や危険は無かった。 切羽詰まった抜き差しならない場面に遭遇してるわけでもなかった。 大学生活、新しい仲間も出来て、毎日が新鮮だし、楽しかった。 だけど、完全に不安が無いと言えば嘘になる。 軽音部の皆とは一緒の大学に進学する事が出来た。 澪とは元からそうだけど、これで唯やムギとの腐れ縁も決定したようなもんだ。 順調に進級出来たらの話だけど、残り三年以上は一緒に笑ってられるはずだ。 でも、その先……、大学を卒業した後の事は分からない。 流石に全員と同じ会社に就職するって事は無いだろうし、 バンドでプロデビュー……なんて事もとりあえずは無さそうだ。 ひょっとしたらプロデビューは出来るかもしれないけど、 それで食べていけるようになるかどうかはまた別の話だしな。 つまり、卒業後に私達が別々の道を歩いて行く事になるのは、ほとんど確定に近い。 一緒だった仲間が今度こそ本当にバラバラになっちゃうんだ。 今の私の胸の中を支配してる不安は、 そんな将来の事を考えてる時の不安とよく似てる気がするんだ。 直接的な危険や問題があるわけじゃない。 このままじゃいけないんだろうけど、何をどうしたらいいのか分からない。 何をどうしたって、何も変わらないかもしれない。 胸に湧き上がるのは漠然とした不安。 はっきりとした不安じゃないのに、 その不安が真綿で首を締めるみたいに私を苦しめる。 そういや、自殺の理由を『漠然とした不安』って言い残した小説家も居たんだっけか。 走りながら頭を振って、私は胸の中に湧き上がる不安をどうにか振り払う。 悩んでても何かが変わるわけじゃないはずだ。 今の私に出来る事は、目の前にある問題に一つ一つ取り組んでいく事だけだ。 そうでもしなきゃ、私を少しは頼りにしてくれてる和にも申し訳ない。 「律先輩、ここです」 不意に足を止めて、純ちゃんが深刻な表情で私に囁いた。 どうやら目的の場所に辿り着いたらしい。 純ちゃんの言った通り、その部屋は屋上からあんまり離れていなかった。 私も足を止め、私の隣で息を切らす梓とその部屋に掛かる表札に視線を向ける。 表札にはオカルト研と書かれていた。 肩で息をしていた梓が、少し息を整えると肩を落として呟く。 「ちょっと、純……。 大変な物がある場所って、オカルト研なの?」 「そうだよ。何かおかしい?」 梓の言葉に、真剣な表情で純ちゃんが頷いた。 それでも梓は胡散臭そうな表情を崩さなかった。 まあ、そりゃオカルト研だからなあ……。 オカルト研は桜高の生徒達の間では、 軽音部と並んで胡散臭い部として名前が挙げられてるらしい。 前に信代から聞いた話では、軽音部もオカルト研も、 どんな活動をしてるか分からない謎の部として有名なんだそうだ。 ……って、いやいや、失礼な。 軽音部もオカルト研もちゃんと活動しとるわい! でも、確かにオカルト研は私達にも謎の部だ。 そもそも部員を二人しか見掛けないけど、 桜高って四人揃わなきゃ部活動として認められないんじゃなかったっけ? ひょっとしたら、オカルト研なわけだし、 あんまり出席しないって意味での幽霊部員じゃなくて、 霊魂的な意味での幽霊部員でも部員として認められるって特例があるとか? それか部員の誰かが理事長の孫娘だからオッケーとかなのか? ……我ながら発想が古いな。 幽霊の部員とか、理事長の孫娘とか、昭和の漫画かよ……。 まあ、実際は部じゃなくて研究会だから二人でも大丈夫、とかそういう理由なんだろう。 私達だってちゃんとした部と認められてないのに、 何ヶ月も音楽室を好きに使わせてもらえてたわけだし。 やっぱり桜高ってそういう大らかな校風の学校だったんだよな。 そもそもDEATH DEVILが活動出来てた時点で相当に大らかでもあるが。 「オカルト研に大変な物があるって言われても困りますよね……。 すごく胡散臭いと言いますか、何と言いますか……。 ねえ、律先輩?」 同意を求めるみたいに梓が私に視線を向ける。 普通なら梓の言葉に頷く所だったけど、私は軽く首を振って言った。 「いや、そうとも限らないぞ、梓。 胡散臭いのは認めるけど、こんな状況なんだからな。 何があっても、その何かの原因がオカルト研の中の何かでも、おかしくないんじゃないか? 少なくとも私はそう思うぞ?」 「律先輩まで……」 梓が不安そうに言葉を濁す。 肩が少しだけ震えたのは、走ってきた疲れのせいってだけじゃないだろう。 少し恐がらせちゃったかもしれない。 私はちょっと反省した。 6
https://w.atwiki.jp/83452/pages/18271.html
梓が自信の無い様子で呟く。 当然だ。自分の笑顔に自信がある奴なんてそうは居ないだろう。 そもそも笑顔なんて自分で見えないものなのに、 自分で自信を持てる奴の方がどうかしてると思う。 私は梓の笑顔が大好きだ。 でも、それを上手く言葉に出来る自信は無い。 どんなに伝えようとしたって、情けないけど私なんかの言葉じゃ届けられないと思う。 だから、私はポケットの中に入れていた物を、梓に差し出したんだ。 「これ……は……?」 それを手に取った梓が大きな目を見開いて呟く。 梓が知らない梓の魅力。 梓が知らない梓の笑顔。 私の大好きな梓が詰まった、その写真……。 その写真の中には、幸せな梓の笑顔が溢れていた。 「憶えてるだろ……? 教室でライブをする前に、純ちゃんに撮られた写真だよ。 あの日、ポケットに入れてたおかげでさ、写真も一緒に転移してたんだよ」 「あの時……の……」 呟きながら、食い入るように梓がその写真に視線を下ろす。 屋上で梓を見つけた後、 一瞬だけ部屋に戻って制服のポケットから取り出した写真。 上手く言葉に出来ない、上手く想いを伝えられない私だから、 せめてこの写真で想いを伝えられればと思ったんだ。 「いい笑顔……だろ?」 私は写真を見つめる梓に囁く。 梓がこの写真を見て何を思ってるのかは分からない。 滅多に見る事の無い自分の笑顔に対して、どう感じてるのかは分からない。 この写真を初めて見た時の私と同じみたいに、予想外な自分の表情に戸惑っているのかもしれない。 でも、きっと分かってくれてもいるはずだ。 写真の中の梓の笑顔が、とても幸せそうだって事に。 幸せそうな理由は、勿論一緒に写ってるのが私だからってだけじゃない。 ちょっと残念だけど、それだけが理由じゃない。 私はそれを梓に伝えようと思って、口を開いた。 「幸せそうな写真だろ? 照れ臭いけど、梓だけじゃなくて、私も幸せそうに笑ってると思うよ。 この写真がこんな幸せそうな写真になったのは、 撮られてる私達が幸せだからってだけじゃなくてさ……、 きっとさ、撮ってくれた人も幸せだったからだと思うんだ」 「純……」 「いや、純ちゃんだけじゃないな。 周りに居た皆も楽しかったから、幸せだったから、こんな写真が撮れたんだよ。 私は……、そう思う」 「憂……、和先輩……」 呟きながら、また梓の瞳から涙が溢れ始めた。 だけど、きっとその涙は今までとは少し違ってる涙だ。 悲しさや辛さは勿論込められてる。 でも、嬉しさや喜びもきっと混じってる涙だと思う。 そう……信じたい。 「うっ、うっく……、うううううう……っ!」 ボロボロと梓の涙が流れ続ける。 止まらない涙。 止められない涙。 そして、きっと止めなくていい涙。 私は梓の頭の上に手を置いて、軽く撫でた。 思う存分、泣かせてやりたかった。 「泣いていいよ。 もっと泣いてくれ、梓。 その後でどれだけ私を怒ってくれたって構わない。 でも、私達が大好きなおまえの笑顔だけは、憶えておいてほしいよ。 これから先、その笑顔を私に向ける事が無くても、それだけは憶えておいてほしいんだ。 そのためにさ……、この先、笑顔になるためにさ……、今だけは泣いててくれ……」 伝えられた、と思った。 嘘ばかり吐いて逃げていた私がやっと伝えられた本当の想い……。 それで梓に嫌われたって構わなかった。 いや、構わなくはないけど、それでも嘘を吐き続けるよりはずっとよかった。 もう私は嘘を吐いて自分を誤魔化したくないんだから……。 不意に。 梓の涙が止まった。 あれだけ流していた涙が止まった。 一瞬、私は不安になった。 私の言葉と想いが届かなかったのか、 届ける事が出来なかったのか、そう思うと震えだしそうなくらい怖くなった。 でも、そうじゃなかったのはすぐに分かった。 梓はしゃくりあげる声をどうにか堪えながら、私に言ったんだ。 「律先輩……。 私……、これから、泣きます……。 今まで我慢してた分、泣けなかった分……、声の限りに泣こうと思います。 純や憂、和先輩の事と向き合うためにも……、私、涙が涸れるくらい泣きます。 その後で、律先輩に思いっ切り文句を言ってみせるためにも……」 「そうか……。 ああ……、泣いてくれよ、梓。 おまえの文句、覚悟しとく。覚悟して、待ってる。 だから、泣いてくれよ、思い切り」 「律先輩」 「……どうした?」 「私、これから、泣きます……。 泣きますけど……、一つだけ条件があります。 条件を……出させて下さい……」 「条件……?」 「泣いて下さい、律先輩も」 「私……も……?」 訊ねながら、私は気付いてしまった。 最後の最後、気付かない振りをしてた自分の胸の痛みに気付いてしまった。 締め付けられるみたいに、痛い。胸が、心が、痛い。 そうだ……。 これが私が自分に吐いていた最後の嘘なんだ……。 私……、泣きたかったんだ。 ずっとずっと……、泣きたかったんだ……。 「あ……ず……」 何かを言おうとしたけど、言葉にならなかった。 もう少し、一瞬でも気を抜けば、自分が泣き出してしまうって事だけはよく分かった。 不意に、梓が私の頭に手を置いた。 今までとは逆に、梓が私の頭を撫でてくれて……。 梓の方も涙を堪えながら、それでも言った。 「泣きましょうよ、律先輩も……。 ずっと我慢してた分、泣きましょう……? 泣いたってどうなるわけじゃありませんけど……、 でも、今だけは……一緒……一緒に……」 その言葉が終わるより先に、梓の瞳からまた大きな粒の涙が零れた。 我慢していた分、今までよりずっとずっと大粒の涙だった。 声を上げて、泣き出し始める。 「うわああああああああっ!」 大声で泣く梓。 何の計算も、想いもなく、ただ自分の感情のままに泣いている。 ひたすらに大声で泣いている。 梓の言う通り、泣いたってどうなるわけじゃない。 救われるわけじゃないし、元気になれるわけでもない。 そんな事は私だって分かってる。 でも、涙を堪えてたって、強くなれるわけじゃない。 泣かない事が前に進むって事でもないんだ。 だから、私も今はもう泣こうと思う……。 最後の嘘から、私と梓を解放しよう……。 もう……、嘘は終わりだ……。 溢れ出す涙を、止められない……。 「う……くっ……。 ううううううううううう……っ! あああああああああああああっ!」 一斉に溢れ出す私の涙。 馬鹿みたいに後から後から溢れ出ては止まらない。 梓と二人で大声で涙を流して、色んな感情を吐き出す。 ロンドンの街が、私達の涙で染まっていく。 でも、それでいいんだって、私は泣きながら思った。 泣く事は弱さかもしれないけど、泣かない事も強さじゃない。 それを梓と話してやっと分かった気がしたから、私は大声で泣くんだ。 今度こそ前に進むために。 未来も過去も現在も、全てを背負って前に進むために。 もう逃げだしたりするもんかって、それだけは強く誓いながら……。 私達はいつまでもいつまでも大声で泣き続けた。 ◎ どれくらい泣いてたんだろう。 本当に涙が涸れるくらいに泣いて、私達はようやく泣き止んだ。 思う存分泣いたと思う。 泣けたと思う。 かなり朝も早い時間に外に飛び出して来たはずなのに、 気が付けば太陽はかなり高い場所で私と梓を照らしていた。 梓と二人して泣き腫らした目で、太陽を見上げてみる。 空は青かった。 太陽も眩しかった。 例え唯の夢の世界だとしても、世界はとても綺麗だった。 いや、唯の夢の中だからこそ、かもしれない。 唯はとても多くの物を大切にしている。 一番をいくつも持ってる。 きっと唯の中では、何もかもが輝いてるんだ。 辛い事、悲しい事、苦しい事、全部含めて眩しいくらいに光ってるんだろう。 思い出っていう名前の宝物として。 唯が居たから、私は高校生活が心の底から楽しかった。 あいつが傍で笑ってくれるだけで、 何もかも上手く行ってなくても、それでいいかもしれないって思えた。 だから、私達は唯を失いたくなかった。 しがみ付いてでも、唯と生きる日常を守りたかったんだと思う。 そうして起こった奇蹟が今の私達が置かれてる現状で、 それがよかったのか悪かったのかはまだ分からないし、これから皆で話し合っていくべき事だろう。 「すっごく泣いちゃいましたね……」 まだ目の端を少し濡らしながら、不意に梓が軽く微笑んだ。 散々泣いてしまった自分を少し恥ずかしく思ってるんだろう。 頬をちょっとだけ赤く染めていた。 でも、それを言うなら私だって同じ立場だった。 私も少しだけ恥ずかしさを感じながら、小さく笑ってみせる。 「そうだな……。 すっげー泣いちゃたよな……」 言って、梓と瞳を合わせて、また二人で笑う。 恥ずかしさは確かにある。 悲しさや辛さが全部無くなったわけでもない。 それでも、ひどくすっきりした気分なのは確かだった。 私も、多分、梓も。 私達はずっと自分の心に嘘を吐いていた。 和達の事を忘れて、思い出を捨てて、 未来だけ見なきゃいけないって自分に言い聞かせてた。 そうしなきゃ、この世界で生きてく事なんて出来ない。 それこそが自分達に出来る唯一の事だと思ってた。思い込もうとしてた。 でも、それは違ったんだな、って今は思う。 結局、私達は怖かったんだ。 和達の事を思い出すのが、怖かったんだ。 皆の安全を考えるためとは言え、私と梓は和達の事を見捨てた。 私達はそれを思い出したくなかったんだ。 だから、和達の事自体を忘れようとしちゃってたんだと思う。 だけど、そうした所で自分の中の罪悪感から目を逸らせるわけじゃなかった。 何としても和達を忘れようとしない唯達の姿を見て、動揺して、 自分の選択肢を疑って、自分と同じ道を選んだ唯一の仲間に頼る事しか出来なくなった。 だからこそ、私は風呂場の中で梓を求めようとした。 だからこそ、梓は慕っている唯じゃなくて私と自分の手首を結んだんだ。 同じ道を選んだ相手だから、自分を認めてくれるんじゃないかって下心を持って……。 酷い話だと思う。 その方が和達を見捨てた事よりも、和達に対してずっとずっと酷い仕打ちじゃないか。 忘れ去ってしまった方がいいなんて、そんな事が許されるはずがない。 私達が楽に生きるためには、和達の事を忘れた方がよかったんだろう。 それなら、簡単に、気楽に、幸福に生きていける。 私はそんな単純で最低な道を選ぼうとしてた。 結局、逃げようとしてただけだったんだ。 でも、もう……、逃げたくない。 自分の気持ちに嘘を吐きたくないんだ。 苦しくたって、悲しくたって、今度こそ自分の気持ちとまっすぐに向き合おうと思う。 そう思う事が出来たのは、梓も含めた皆のおかげだ。 「あっ、そういえばすみません……! 私、ずっと律先輩に馬乗りになってて……!」 急に梓がそう言って頭を下げると、私の腰の上から身体を退けた。 そのまま身を翻すみたいにして、私の右隣に腰を下ろして肩を並べた。 そういえば、ずっと梓にマウントポジションを取られたままだったな。 我ながら無茶な体勢で泣いてたもんだよ……。 でも、腰が痛くなってるわけでもなかったし、嫌な気分でもなかった。 こう言うのも変なんだけど、身体を重ねて梓の悲しみや震えを感じる事で、 私の悲しみは私だけの物じゃないんだって感じられた気がする。 皆、辛くて、悲しんでて、それでも必死に生きてるんだって。 それこそ実際に梓と肌を重ねて、キスをしたりするよりも、深く感じられたと思う。 私は隣に座る梓の頭に手を置いて、撫でながら言ってやる。 「いいよ、梓。 別に腰とかが痛くなってるわけじゃないから気にすんなって。 それより……、その……、ありがと……な」 梓に感謝したい気持ちは間違いなくあった。 でも、それをどう表現していいのか分からなくて、曖昧な言葉になってしまった。 梓に私のこの想いはちゃんと伝えられたんだろうか? 何故か心臓が鼓動するのを感じながら梓に視線を向けてみると、 梓は妙なジト目を私に向けながら、ちょっと上擦った声を出した。 「ありがとう……って、私、感謝される覚えはないんですけど……。 ま、まさか律先輩、全身を圧迫されて喜ぶような人だったんですか? 趣味は人それぞれですからいいと思いますけど……、 でも、私にはちょっとそういう趣味は無くて……、ぷっ」 「何の話をしてるんだ、中野ー!」 鼻で笑われてしまった私はつい反射的に梓の首に手を回していた。 私の得意技のチョークスリーパーの体勢だ。 よし、このまま締め上げて……。 「痛っ!」 瞬間、梓から苦痛の声が漏れた。 チョークスリーパーに苦しんでるわけじゃなくて、 私の腕が梓の身体に触れた事自体に痛みを感じているような声だった。 しまった、と私は後悔した。 久々に反射的にやっちゃってたけど、そう言えば梓は……。 「悪い、梓! おまえ、まだ日焼けが……」 言いながら、私は梓の首に回した腕を慌てて放そうとする。 でも、私の腕は梓の手のひらに柔らかく掴まれた。 放さなくてもいいって事なんだろうか? 私は自分の胸が何故か高鳴るのを感じながら、梓に訊ねてみる。 「……いいのか? 日焼け……、まだ痛いんだろ……?」 その私の言葉を聞いても、梓はしばらく何も言わなかった。 目を瞑って、少しだけ微笑んでいるみたいだった。 十秒くらい経っただろうか。 梓は目を瞑ったままで静かに口を開いた。 「いいんですよ、律先輩。 確かにまだ痛いんですけど……、それでもいいかもって思うんです。 私、今、律先輩に触られてる所がヒリヒリ痛いです。 でも、その分、律先輩の存在を感じられるんです。 私、それが何だか嬉しくて……」 「嬉しい……?」 「はい、嬉しいんです。 私、思うんですよ。それは身体だけじゃなくて、心の痛みもそうなんじゃないかって。 純達、お父さん、お母さん、わかばガールズの皆……、皆の事を思い出すと胸が痛いです。 また泣き出したくなるくらい、とても胸が痛くなります。 今まではその痛さが怖いだけでした。 でも……、律先輩に色んな事を教えて頂けて、思ったんです。 この胸の痛みも、辛さも悲しさも、まだ私の心の中に皆が残ってくれてるって証拠なんだって。 皆が傍に居てくれてるって事なんだって。 ですから……」 そう言って、梓が私の腕の中で微笑む。 清々しいくらいの笑顔。 それは無理をしているわけでも、強がってるわけでもない、心の底からの笑顔に見えた。 痛みも、苦しみも、心の中に皆が残ってる証拠……か。 その考えが正しいかどうかは、私にもはっきりとは言えない。 だけど、痛みから目を逸らして生きるよりは、ずっといい事のような気がした。 腕の中の梓と至近距離で視線が合う。 流石に気障過ぎたと思ったのか、梓がまた頬を赤く染めた。 一つ咳払いをすると、普段通り、 でも、凄く久し振りに生意気な口調になった。 「大体、律先輩は普段大雑把なのに、妙な所で気を遣い過ぎなんですよ!」 「えー、何だよ、いきなりー!」 「思い出してみて下さいよ、律先輩。 私が日焼けしてから、律先輩、私にどれくらいくっ付きました? 私にプロレス技を掛けなくなって、どれくらい経つと思ってるんです?」 「いや……、えっと……、どれくらいだったっけ……?」 56
https://w.atwiki.jp/83452/pages/18226.html
それについて言えば、どうも私が朝から学内を放浪してた事に原因があるらしい。 時間の流れをまとめるとこんな感じだ。 私が屋上に行く。 ↓ 和が風呂の準備をしてから、 梓と純ちゃんを起こして風呂に行かせる。 ↓ 風呂の後、 純ちゃん達が屋上に居る私と和を見つけ、私をオカルト研に連れ出す。 ↓ その間、和は音楽室に行って、残ったメンバーに風呂に行くよう伝える。 ↓ 風呂に向かうメンバーが、和と唯、澪とムギの組み合わせになる。 憂ちゃんは純ちゃんとのギターの練習と昼食の準備があるから、風呂は後。 ↓ 風呂に入ってないのは、私と憂ちゃん。 ……とまあ、こんな感じだ。 確かに私が放浪してた事が原因と言えなくもない。 それでも、やっぱり憂ちゃんは唯と風呂に入りそうなもんだけど……。 疑問に思って首を捻っていると、和が私の耳元で小さく囁いてくれた。 「憂が唯と一緒にお風呂に入るのを恥ずかしがったのよ」との事だ。 普段、結構一緒に風呂に入ってるとは言っても、 見知った人の顔が大勢ある中で、 お姉ちゃんと一緒に風呂に入るのは、憂ちゃんでも結構恥ずかしいみたいだ。 確かにそうかもなあ……。 私だって皆が居る前じゃ、聡と一緒に風呂には行きにくいしな……。 姉妹と姉弟じゃ意味合いが全然違ってくる気がしないでもないが。 いや、別に普段から一緒に入ってるわけじゃない。 下着を忘れた時なんかに呼び出して持って来させるくらいだけど、それくらいは普通のはずだ。 普通……だよな? 「気持ちいいお湯ですね、律さん」 多分、唯の下着の用意をするのなんて、ほぼ毎日だったんだろう憂ちゃんが笑う。 その幸せそうな笑顔はよく似ていた。 二人は幸せそうに微笑む時が一番似ている気がする。 やっぱり姉妹だ。 髪を下ろすと本当に見分けが付かないくらいに。 少なくとも、二人の事をあんまりよく知らない人だったら、絶対に見分けが付かない。 でも、自慢じゃないけど、最近、私は唯と憂ちゃんが見分けられるようになってきた。 まだ外見だけじゃ分かりにくいかな……。 でも、声は勿論、仕種や唯を真似た憂ちゃんと唯の微妙な違いなんかや、 さわちゃんの言葉じゃないけど、胸の大きさなんかで何となく分かるようになってきたんだ。 特に胸の大きさでは判断しやすい。 唯の奴、唯のくせに順調に胸が成長してやがるらしいからな……。 唯のくせに唯のくせに唯のくせに唯のくせに唯のくせに……! 唯の奴もやっぱり誰かに揉まれ……、いや、何かもうその発想はやめよう。 だけど、唯の胸の成長と比べると、憂ちゃんの胸の成長はちょっと控え目だ。 本人の性格が出てるのか、控え目に成長してるらしい。 今後の事は分からないけど、 とりあえず今は胸を見るのが一番確実な唯と憂ちゃんの区別の仕方だ。 「あの……、律さん、何か……?」 私が憂ちゃんの胸をじろじろ見てる事に気付いたんだろう。 胸を腕で隠しはしなかったけど、何とも不思議そうな顔で憂ちゃんが呟いた。 「あ……、いや……」 まさか憂ちゃんの胸を観察してたとは言えない。 私は誤魔化しの言葉を一気に考えてから、一番最初に思い付いた言葉を言ってみる事にした。 「それより、憂ちゃん。そろそろ身体でも洗わない? 和がボディタオルも用意してくれてるからさ、それで三日分の疲れを落とそうよ。 憂ちゃんの背中は私が流してあげるからさ」 「いえいえ、そんなの悪いですよ」 憂ちゃんが軽く微笑んで、私の申し出を断る。 ひょっとしたら私のセクハラを警戒してるのかな、って邪推しちゃったけど、 憂ちゃんの穏やかな笑顔からは、そんな感じはしなかった。 まあ、胸を見てただけに、セクハラを警戒されてても仕方が無くはある。 でも、憂ちゃんが私の申し出を断ったのは、 そういう意味じゃなかったんだって事は、その後の憂ちゃんの言葉ですぐに分かった。 「私の方は外を出歩いてるわけじゃありませんから、疲れなんて大した事ないんですよ? それよりもこんな不思議な事が起こってる町の中を探ってくれてる、 お姉ちゃんや律さん達の方が、ずっとずっと大変だし、疲れてらっしゃると思うんです。 梓ちゃんなんて、綺麗な肌があんなに真っ黒になるまで頑張ってくれて……」 「ありがとう、憂ちゃん。 でも、私達だって憂ちゃん達には感謝してるんだよ? 学校に戻った時、憂ちゃん達が待っていてくれてるから、私達も頑張れるんだから。 憂ちゃんのごはんだって美味しいしね。 まあ……、梓の肌は夏空をちょっと歩いただけで、すぐ真っ黒になっちゃうんだけどさ」 ちょっと照れ臭くなって最後に冗談を言ってみると、 「そうですね」と憂ちゃんも嬉しそうに微笑んでくれた。 いや、梓の肌がすぐ真っ黒になっちゃうのは、別に冗談じゃないけどさ。 でも、もう慣れたけど、あいつって日焼けし過ぎだよな……。 体質なんだろうが、いつも大変だろうな、あれ……。 少なくとも私はちょっと外に出ただけで日焼けに苦しむ体質にはなりたくないぞ……。 日焼けで思い出したが、中学の頃に澪の家族と私の家族で海に遊びに行った時、 遊び過ぎてつい日焼けし過ぎちゃって、異常なくらいの日焼けの痛みに苦しんだ事があったな。 あの日は旅館で澪と同じ部屋に泊まったんだけど、 衣擦れすら痛くって、布団に包まりながら、服全部脱いでたんだよな、私。 それで次の朝、ちゃっかりちゃんと日焼け止めを塗ってた澪が、 特に日焼けもしてない肌で、中々布団から出ようとしない私の布団を無理矢理はぎ取って……。 後の事は誰でも想像出来ると思うが、あれは気まずかった……。 お互いの裸は小さな頃から見慣れてるとは言っても、 流石に布団の中に転がる裸の姿を見慣れてるわけじゃないからな……。 「ご……、ごめんなさい!」って叫んで、 顔を真っ赤にして部屋から出てった澪の表情は忘れられない……。 何を勘違いしたんだろうか……。 いや、分かってるけど、そこはノータッチの方向で行こう。 ついでに言えば、その後、真相に気付いた澪に叩かれた肌の痛みも忘れられん。 軽く叩いたのは分かってるけど、あれ、すっげー痛かった。 痛みのショックで死ぬかと思ったぞ……。 しかも、私、別に何も悪くないじゃん……。 あれ? そういや、理由こそ違うけど、私って今日の純ちゃんと同じ事やってたんだな。 梓が過剰な突っ込みをするタイプの子じなくて良かったな、純ちゃん……。 「ですから……」 純ちゃんの無事を羨ましく思いながら頷いてる私に向けて、憂ちゃんが続けた。 私は慌てて憂ちゃんの顔に視線を向け直す。 「背中は私に流させて下さい、律さん。 この三日間の疲れを取れるように、頑張ってご奉仕させて頂きますね。 律さんにご満足頂けるかあんまり自信は無いんですけど、 「憂の垢すりは上手だねー」ってお姉ちゃんは褒めてくれるんですよ」 また嬉しそうに憂ちゃんが笑う。 やっぱり唯とは結構一緒に風呂に入ってるんだな、とは口にしなかった。 それは言わなくてもよかった事だったからでもあるし、 憂ちゃんの笑顔をもっと見ていたかったからでもある。 憂ちゃんの幸せそうな笑顔は、見ているととても安心するよな。 それが自分に向けられた笑顔じゃないとは分かってるんだけど、それでいいんだって思えるんだ。 憂ちゃんの笑顔には、そんな魅力がある。 私もいつかはそんな笑顔を浮かべられるんだろうか……? それは、まだ、分からない。 でも、とりあえず今は……。 「それじゃ、まずは憂ちゃんに任せちゃおうかな? 唯のお墨付きの憂ちゃんの腕を見せてもらう事にするよ。 憂先生、お願いします」 私は五右衛門風呂から出て、プールサイドに置かれたバスチェアに腰を下ろす。 今はまず憂ちゃんの好意に甘えようと思う。 正直、この三日間、実は結構疲れてる。 背中を流してもらう息抜きくらいはしたい。 私がこれから皆のために何が出来るのか考えるのはその後だ。 それに変な所で繊細なこだわりがある唯のお墨付きなんだ。 きっと憂ちゃんのテクニックは相当なものなんだろう。 勿論、後で憂ちゃんの背中を流すつもりでもあるけど、今はそれは内緒にしておこう。 何事にも控え目な憂ちゃんだからな。 私から申し出たら遠慮しちゃうに違いない。 だから、私の背中を流してもらった後、 一息吐いてるだろう憂ちゃんの隙を見て、バスチェアに座らせようと思う。 バスチェアに座って背後を取られてしまったら、 流石の憂ちゃんだって私の申し出を断りはしないはずだ。 ……しかし、背後、取らせてくれるよな? 俺の後ろに立つな! とかにならないよな? ウイ13……、なんつって。 私がそんな妙な事を考えてたのに気付いたんだろうか。 私に続いて五右衛門風呂から出た憂ちゃんが、私の想像もしてなかった行動を取った。 「えっへへー、りっちゃーん!」 え、唯? と思う隙もなかった。 気付けば、憂ちゃんは背中から私に抱き着いていた。 「ちょっ……、えっ……? 何っ? 憂ちゃん……っ? だよ……ね……?」 頭が混乱する。 いつの間にか憂ちゃんが唯と入れ替わってたのか? いやいや、そんな事があるか。 ずっと一緒に風呂に入ってたんだ。 そんな時間も無いし、今私の背中に当たる胸の感触は……。 背中の感覚を研ぎ澄ましてみると、やっぱり分かる。 この胸の大きさは、やっぱり唯じゃなくて憂ちゃんのものだ。 「どうしたんだよ、憂ちゃん。 いきなりびっくりするじゃんか……」 言いながら、手を後ろに回して、私は憂ちゃんの頭を軽く撫でる。 すると、憂ちゃんが珍しく、悪戯っぽく微笑んだみたいだった。 勿論、背中から抱き着かれてるから見えてるわけじゃない。 でも、息遣いや言葉遣いから、憂ちゃんが微笑んだ事だけは分かった。 「えへへ、ごめんなさい、律さん。 いつもお姉ちゃんが律さんに抱き着いてるのを見てたから、一度やってみたいなって思ってたんです。 驚かせてしまって、すみません」 そう言って、憂ちゃんはまた軽く笑ったみたいだった。 いつもって程じゃない……はずだ。 でも、憂ちゃんから見ると、いつもに見えたのかもしれない。 私も軽音部の中じゃ唯と一番くっ付いてるから、遠くから見てるとそう感じるのかもな。 唯とは高校一年からの付き合いで、今じゃ大親友の一人って言ってもいい。 まだそんな長い付き合いじゃないのに、何だか不思議だ。 唯は誰とでも仲良くなれる奴だけど、勿論、誰とでも親友になるってわけじゃない。 そう考えると、やっぱり私達の気は合ってるんだろう。 一緒に居ると、何をするか分からなくって面白いし、あれで結構頼りになるしな。 特にあの曲……。 梓のために作った『天使にふれたよ!』は他のメンバーからは出て来ない発想だった。 そりゃ皆で歌詞を考え合って作った曲ではあるけど、 最終的に完成させられたのはあいつの発想があったからだ。 照れも無く後輩を天使と呼ぶなんて、メルヘンな澪でもちょっと無理だろう。 でも、唯って奴はそういう事が出来る奴なんだ。 私だって『天使にふれたよ!』は大好きな曲だ。 私の歌うパートがあるって点を除けば、本当に名曲だと思う。 いや、歌うのが嫌ってわけじゃない。 あの曲を梓に聴かせた時、意外そうな顔を向けられたのがどうにも印象に残ってるんだよな。 私が歌うのがよっぽど意外だったんだろう。 別に馬鹿にされてたってわけじゃないんだろうけど、何かな……。 やっぱりちょっと恥ずかしいんだよな。 恥ずかしい理由の一つには、 あの歌詞の中に梓への想いが込められてるからってのもある。 私だってあいつを置いて卒業したくなかった。 あいつと一緒に部活を続けたかった。 でも、離れてても、私達の楽しかった日々を忘れたくないから……。 いつか本当に離れる事になった時にも、絶対、梓の事を忘れたくないから……。 そんな想いを込めて作った曲だから……。 あの曲はそういうある意味で愛の告白みたいな曲なんだ。 だから、歌う時に恥ずかしさを感じちゃうんだよな。 勿論、そんな事、梓には口が裂けたって言えないんだけどさ。 恥ずかしいついでにもう一つ。 梓は確かに天使だったと思う。 唯が言うように、私達の結び付きを深めてくれた可愛らしい天使だ。 それは間違いないし、唯の言う事にしては珍しく正しい言葉だった。 だけど、やっぱり唯はちょっとだけ間違ってる。 梓は天使だけど、それ以上に天使なのはきっと唯だと思う。 いやいや、唯が愛らしい奴ってわけじゃないぞ? そもそも天使が愛らしい存在ってのは、日本的なイメージらしいし。 まあ……、たまに愛らしい奴だって感じる事もあるけどさ。 でも、そういう事じゃなく、唯は神の御使い的な意味での天使だって私は思うんだ。 唯は梓の事を私達の絆を深めてくれた天使だって言った。 それを言うなら、それよりも前から私達を結び付けてくれてた唯の方がずっと天使だ。 唯が居なけりゃ、軽音部自体成立してなかったってのもあるけど、 あいつが居たから軽音部は楽しかったし、 ムギや梓、澪とだって想像以上に仲良くなれたんだ。 軽音部の皆だけじゃない。 和や憂ちゃん……、私一人じゃ絶対に話し掛けられなかったクラスメイト達……。 それに長い目で見ればさわちゃんや純ちゃんとだって、唯が居なけりゃ仲良くなれてなかっただろう。 そう考えると梓もかな。 梓は私達の新歓ライブに惹かれて軽音部に入部してくれたらしい。 勿論、私達全体の雰囲気なんかにも惹かれてくれたんだろうとは思う。 だけど、その中でも一番惹かれたのは唯の演奏のはずだった。 梓自身のパートがギターだからってのもあるけど、 唯の演奏を見る梓の表情がたまに何だかとても優しい感じなんだよな。 唯のギターだけじゃなく、唯自身の事も大好きなんだって感じる。 そんな天使を一番間近で見てたのが憂ちゃんだ。 多分、憂ちゃんこそが唯の事を天使だと思ってる第一人者だろう。 ものすごくしっかりしてるのに、 ものすごく出来た妹なのに、憂ちゃんは唯の事を心の底から慕ってる。 大体の事ではだらしないお姉ちゃんの事を尊敬してるんだ。 前に憂ちゃんがとんでもない事を言ってたのを、私もよく憶えてる。 「お姉ちゃんは私よりもしっかりしてますよ」って、冗談みたいな事を本気の表情で言ってたんだ。 嘘みたいだけど、憂ちゃんは本気でそう思ってるんだろう。 「しっかりして」るかどうかはともかく、唯には敵わないとは私も思う。 唯は私達の想像も出来ない事をやってくれる。 たまにだけど、天使が起こす奇蹟みたいな事を本当にやってくれる事があるんだ。 『天使にふれたよ!』の歌詞もそうだし、私達が想像以上に仲良くなれた事だってそうだ。 卒業式直前に教室でライブをやれたのも、唯の皆からの人望のおかげなんじゃないかな。 そればっかりは私達にはどうやっても出来ない事だ。 逆立ちしたって私が唯くらい好かれる事は無いだろう。 どんなにしっかりしてても、憂ちゃんも唯みたいな奇蹟は起こせない。 だからこそ、憂ちゃんは唯の事が大好きだし、唯の真似をしたくなるんだろう。 「律さん……?」 私が少し黙ってたのが気になったんだろう。 憂ちゃんが心配そうな声を出した。 「すみません、律さん……。 年上の人に馴れ馴れし過ぎましたよね、ご迷惑を……」 言いながら私から離れようとする憂ちゃんの腕を掴む。 私の首に回していた憂ちゃんの手を包み込む。 何を伝えればいいのかは分からないけど、何かを伝えてあげたいって思った。 「ううん、気にしてないよ、憂ちゃん。 意外だったからちょっとびっくりしちゃっただけだよ。 遠慮せずに好きなように私に抱き着いて来ちゃいなYO!!」 「あはっ、律さんったら……」 最後にふざけて言ってみたおかげか、憂ちゃんは笑ってくれたらしかった。 離そうとしていた身体もそのままにしていてくれた。 憂ちゃんの心配を振り払えたのは何よりだ。 でも、私が伝えたい言葉はそれだけじゃない。 目を閉じながら、もう一度、私は口を開いてみる。 「ねえ、憂ちゃん……。 唯って奴はすごいお姉ちゃんだよね……。 憂ちゃんの事を大切にしてるし、私達の事も大切に思ってくれてるしさ……。 唯と軽音部をやれて本当によかったって思ってるんだ。 でも、だからって……」 憂ちゃんが唯の真似をする必要なんてない、とは言えなかった。 そんな事、私が言わなくたって、憂ちゃん自身も分かり切ってるはずだ。 私の背中に抱き着いたのだって、 ただ何となく唯の真似をしてみたくなっただけの事だろう。 でも、その心の中には、唯への憧れが少しも無かったとは言い切れない。 外見もそっくりなんだから、 お姉ちゃんみたいな事が自分にも出来るかも、って思う事もあったはずだ。 そういう私だって唯には結構憧れてる。 あいつみたいに素直になれたら、あいつみたいに皆を支えられたら……。 そう思った事は何度もある。 今だってそうだ。 あいつが私の立場なら、今も悩む澪に優しい言葉を掛けてやれる事だろう。 それこそ和が言ったように唯が澪の幼馴染みなら、強く澪の支えになってやれたはずだ。 だけど、澪の幼馴染みは唯じゃなくて私で、 澪の不安を振り払ってやれないのは私の責任でもあって……。 いっそ唯ならどう澪を支えるかを考えれば、もっと話は簡単なんだろう。 唯の真似をしてしまえば、澪の不安を少なくしてやれるはずだ。 ひょっとすると、憂ちゃんも唯の一番近くでそんな事を考えてたのかもしれない。 『お姉ちゃんみたいに誰かを幸せにしたい』って。 でもさ……。 悔しいけど、唯は唯で、私は私で、憂ちゃんは憂ちゃんなんだよな。 私は軽く咳払いをして、話題を変える。 11
https://w.atwiki.jp/zetu0508/pages/72.html
統一紀元前1387年、シャルとティミィがギッシュ達に会うべくカウマ法国へ向かう途中の物語。 二人はキリシア王国は避けてタバルト王国を通る旅の途中で、無法なバリッシュ排斥運動の事実を知る。 その地でバリッシュを助けているスルバと知り合ったシャル達は、大勢で纏まればカウマ法国に無事に着けるからと同道を乞われる。 バリッシュ擁護の姿勢を取るトリュー伯爵の子息ファルバンの屋敷に、二人を含んだ旅集団は集まった。 そこで匿われている者達と顔を会せた その時、突然、後ろの扉に鍵が掛かり 大量の水が室内に注ぎ込まれ始めた! ファルバンこそ、実はバリッシュ擁護を語りながら、それを闇に葬る事を繰り返して来た 反バリッシュ派だったのだ。 絶望の阿鼻叫喚の中、絶体絶命の窮地に陥ったシャルは怒りに体を震わせていた。 それこそが、暴走の引き金に成り兼ねない一歩になるとも知らずに。
https://w.atwiki.jp/majikon/pages/60.html
#blognavi 違法改造/「ポケットモンスター」新作ソフトデータを「マジコン」で動作させるためのパッチプログラム カテゴリ [マジコン] - trackback- 2010年09月22日 09 36 32 #blognavi