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十八史略卷之四四一四侃.嘗て、夢に八翼を生じて天門に上り、八重に至り、左翼を折つ陶侃折翼のて下る。力能く跋扈するも、折翼の夢を思ふ毎に、輒ち自ら制す。夢は、軍に在ること四十一年、明毅善く斷ず。人欺く能はず南陵より白帝に至るまで、數千里、路、遺ちたるを拾はず。そ後趙の石虎、其主弘を殺して、自立して趙の天王となり、勒の種の二を殺して遺すなし。成、國號を改めて漢といふ。李雄、兄の子班を以て太子となす。雄、卒す。班、立つ。雄の子越、班を殺して、其弟期を立つ。期、雄の弟漢王壽の威名を忌み、出でて、外に屯せしむ。壽、還り襲うて、期を弑して自立す。什翼犍代王什翼腱立つ。之より先、代王賀侮卒す、弟紇那嗣ぐ。紇那、出奔す。欝律の子、翳槐立つ。紇那、復た還る。翳槐、趙に奔る。趙、翳槐を代に納る。翳槐、卒するに臨み、諸大人に命じて、弟什翼犍を立てしむ。猗虚の死せしより國に內難多く、部落離散す。什翼腱、雄勇にして智略あり、能く祖業を修む。始めて、百官を制뫃し、號令明白、政事〓簡、百姓之に安んず。是に於て、東は減貊より西は破落那に及び、南は陰山を距て、北は沙漠に盡くるまで、さ率ね皆歸服す。衆數十萬人あり。拓跋氏、之より愈よ大なり。晉の丞相王導、卒す。初め、帝、位に卽いて沖幼、導を見る毎に、必ず拜す、旣に、冠するも、猶ほ然り。政を導に委す。導、門東晉-顯宗成皇帝-四一五 十八史略卷之四四一六地を以て、王述を掾となす。述未だ名を知られず、人之を痴といふ。旣に見るや、江東の米價を問ふ。述目を張つて答へず。導ず王掾痴なら曰く、王掾、痴ならずと。導、言を發する每に、一座賛歎せざるな?し述色を正しうして曰く、人堯舜に非ず、何ぞ每事善を盡すを得むと。導容を改めて、之を謝す。導、性寬厚、委任する所の諸將、多く法を奉ぜず。大臣、之を患ふ。庾亮、兵を起して導を廢すせむと欲す。或ひと、導に勸めて密に備へしむ。導曰く、吾、元規と休戚、是れ同じ。元規、若し來らば、吾、則ち、角巾して第に歸らむ、復た何ぞ懼れむやと。亮、外鎭に居ると雖も、然も、はるかに朝權を執り、上流に據つて强兵を擁し、勢に趨く者多く之に歸す。국導、內平なる能はず。嘗て、西風に遇ふて塵起るや、扇を擧げて、くわよ〓自ら蔽ひ、徐に曰く、元規の塵、人を汚すと。導、簡素寡欲、善く;事に因つて功を就す。日用の益なじと雖も、然も、歲計は餘あり。ちよこ〓は、三世に輔相として、倉に儲穀なく、衣、帛を重ねず。晉の司空庾亮卒す。初め、蘇峻の亂、亮之を激するなり。峻; 平らぐや、亮、泥首して罪を謝し、外鎭を求めて、自ら致す。後、と江〓等の州の諸軍事を都督す。殷浩を辟して、參軍となす。浩、褚哀と、皆、識度〓遠、善く老、易を談じ、名を江東に擅にす。而して、浩、尤も風流の爲に宗とせらる。亮、中原を開復せむと欲す。上疏して、大衆を率ゐ、移つて石城に鎭し、諸軍を遣はして、江汚東晉-顯宗成皇帝-四一七 十八史略卷之四四一八に羅布せしめて、趙を伐つの規を爲さむを請ふ。蔡謨曰く、大江を以て蘇 峻を禦ぐこと能はず、安んぞ能く沔水を以て石虎を禦がむと。乃ち亮に詔して、鎭を移すを聽さず。是に至つて武昌に卒す。晉、慕容皝を封じて燕王となす。旣の父、遼東公となつてより、旣を立てて世子となす。雄毅にして權略多く、經術を喜ぶ。魔卒すす。皝立つ。其下、勸めて、王と稱せしむ。皝晉に謂はしむ、遂に之を封ず。と、帝在位十八年、頗る勤儉の德あり。改元するもの二、曰く、咸和咸康。崩ず。二子丕、奕、襁褓に在り、帝の母弟瑯琊王立つ、これを康皇帝となす。【康皇帝】名は嶽、成帝崩ずるに臨んで、嶽を以て嗣となす。遂に卽位す。一.庾翼都督〓江等の州の軍事庚翼、人と爲り慷慨、功名を喜んで、浮華を尙ばず。殷浩、才名、世に冠たり。翼、之を重んぜずして曰く、この輩、宜しく、之を高閣に束ね、天下太平を俟つて、徐に其任を議すべきのみと。時人、浩を管葛に擬し、其出處を伺うて、以て興亡をトす。曰く、淵源出でざれば、當に蒼生を如何すべきと。翼、浩を請うて、司馬となす。應ぜず。翼王夷甫を以て、之を嘲る。す桓溫瑯琊の内史桓溫、豪爽にして風〓あり。翼、嘗て之を薦めて曰く、英雄の才、宜しく委ぬるに方召の任を以てすべしと。是に至つて、東晉-康皇帝-四一九 十八史略卷之四四二〇〓翼、胡を滅し、蜀を取るを以て己の任となし、衆を悉くして、北伐せむと欲し、移つて、襄陽に鎭す。翼に詔して、征討諸軍を都督せしむ。翼溫を以て、前鋒の督となす。漢主李壽、卒す。子勢立つ。帝在位三年、崩ず。改元するもの一曰く、建元。太子立つ、之を孝宗穆皇帝となす。총【孝宗穆皇帝】名は聃、三歲にして卽位す。會稽王昱、政を輔く。庾翼、卒す。桓溫を以て、〓梁等の州の軍事を都督せしむ。翼ヘ初め其子を表して〓州を領せしむ。何充曰く、〓楚は國の西門、豈に白面の少年を以て之に當つべけむや。桓溫は、英略人に過ぐ、西溫が不臣の志あるを知り、任、溫に出づる者なしと。丹陽の尹劉惔、昱に謂つて曰く、溫は形勝の地に居らしむべからずと、昱聽かず。竟に溫を以て、翼に代ふ。漢主李勢、驕淫にして、國事を恤ひず。桓溫、師を師ゐて、漢を伐つ。拜表して、卽ち行く。進んで成都に至るや、勢降る。建康に送る。漢亡ぶ。燕王慕容就、卒す。子雋立つ。;·趙天王石虎、帝と稱す。尋いで卒す。子世、立つ。(其兄遵、之を弑して自立す。趙、亂る。晉の征討都督褚哀、表して、趙を伐つをそ請ふ朝野以爲へらく、中原期を指して復すべしと。蔡謨、獨り以東晉-孝宗穆皇帝-四二一 十八史略卷之四四二二評爲へらく、を捜査 (電話力を量るに若くはなし、は急ずり所德を度り、謂德ら度の分表を經營すれば、哀5,カ恐らくは、憂、朝廷に及ばむと。將を遣す。果して敗沒す。燥して敗る焦進する者必ず趙の蒲洪、使を遣して、晉に降る。洪、趙に事ふる累世。是に至つて、石閔、趙主遵に言つて曰く、蒲洪は人傑なり。今、關中に鎭す。恐らくは秦雍、國家の有に非ざらむと。遵洪の都督を罷む。洪、怒つて、枋頭に歸り、遂に晉に通ず。凉州の張重華、自ら凉王と稱す。初め、惠帝の世、張軌、凉州刺史となり、威西土に著はる。懷帝の陷沒するや、軌兵を遣して、愍帝を長安に助く。帝、軌を以て、凉州の牧西平公となす。軌卒す。子寔、立つ。寔、妖賊の爲めに殺さる。弟茂、立つ。趙主劉曜、茂を擊つ。茂趙に降る。茂、卒す。寔の子駿、立つ。茂、終に臨んで、駿に語る、必ず晉に奉ぜよ、失ふべからずと。駿復た後趙の石勒に臣たりと雖も、之を恥ぢ、成帝の時、道を蜀に假り、以て晉に通ず。駿、卒す。子重華、立つ。晉使を遣し、仍つて、西平公に拜す。重華、自ら王となる。後趙の石鑑、其主遵を弑して、自立す。石閔、又鑑を幽し、之をこと〓〓殺して自立し、國號を改めて魏といひ、虎の三十八孫を殺し、盡さく石氏を滅す。閔、姓は冉、石氏に養はる。是に至つて、其姓に復す。後、燕に破られ、執へて之を殺す。蒲洪、自ら三秦王と稱し、姓を苻と改む。洪、先に趙將麻秋を擒東晉-孝宗穆皇帝-四二三 十八史略卷之四四二回にす。殺さずして、其言を用ゐ、宴するに因つて、秋に鴆せらる。千萬元秋を斬り、代つて、洪の衆を領す。健、長安に入り、自ら秦天王と稱し、旣にして、帝と稱す。燕王雋、帝と稱す。趙の姚襄、晉に歸し、復た叛す。襄の父弋仲は、南安赤亭の羌曾なり。懷帝の末、戎夏、襁負して、之に從ふ者數萬、自ら扶風公と稱す。其後前趙の劉曜に服し、又、後趙の石勒、石虎に事ふ。虎、甚だ之を重んじ、以て冠軍大將軍となす。虎死し、趙亂る。冉閔、趙を滅すに至つて、七仲、使を遣して、晉に降る。七仲、卒す。寒、其衆を率ゐて、晉に來る。襄に詔して、誰城に屯せしし)む。後、歷陽に屯す。揚豫州の都督般浩、壽春に在り。襄の强盛を1惡み、將をして之を襲はしむ。襄に斬らる。之より先、朝廷、中原大に亂ると聞き、復た進取を謀る。浩.任を受け、連年北伐して功なし。是に至つて、諸軍を率ゐて、再擧す。襄、甲を伏せて、之を邀ふ。浩、山桑に至る。襄縱擊す。浩、大に敗れて走る。凉の張重華卒す。子曜靈立つ。其下、之を廢して張祚を立つ。晉の桓溫、殷浩の敗に因つて、請うて、浩を廢し、免じて庶人となす。朝廷、初め、浩を以て溫に抗す。浩、廢す。是より、內外の大權、一に溫に歸す。浩、愁怨すと雖も、辭色に形はさず、嘗て、とつ!さ、空に書して、咄咄怪事の字を作る。之に久しうして、郗超、溫に勸東營-孝宗穆皇帝-四二五 十八史略卷之四四二六評を誤殷非非非たて空十慮あ浩數つら答所亦を囘てん書め、浩をして、令僕に處らしめ、書を以て、之に〓ぐ。浩、欣然た似似似亡達竟開事にり。答書、誤あらむことを慮つて、開閉すること十數、竟に空函而而而びしに閉英る身函を達す。溫、大に怒つて、遂に絕つ。謫所に卒す。學者雄桓溫、師を師ゐて、秦を伐ち、大に秦兵を藍田に敗り、轉戰して國士を暴灞上に至る。秦主苻健、長安の小城を閉ぢて、自ら守り、三輔、皆と露のいす眞ふる相べし來り降る。溫、居民を撫諭して、安堵せしむ。民、爭つて、牛酒を持して迎勞し、男女路を夾んで之を觀、耆老泣を垂るる者あり、日く圖らざりき、今日復た官軍を觀むとはと。北海の王猛、字は景王猛虱を捫談ず旁若無つて當世を略個儻にして大志あり、華陰に隱居す。溫の關に入るを聞いて、人褐を披いて、之に謁し、虱を捫つて、當世の務を談ず、旁に人なき評が若し。之を異とし、猛に問うて曰く、吾、命を奉じて、殘賊る桓天失遂の溫に明人溫、く見王なを猛ふてを下ひを併を除く、然るに、三秦の豪傑、未だ至る者あらざるは、何ぞや。猛失せは曰く、公、數千里を遠しとせず、深く敵境に入る。今、長安は咫尺なり。而して、滿水を渡らず、百姓未だ公の心を知らず、至らざる所以なりと。溫、默然として以て應ずるなし。溫、秦兵と白鹿原に戰ふ、利あらず。秦人、野を〓む。溫の軍、食に乏し。猛と倶に還らむと欲す、猛、就かず。秦主健、卒す。子生、立つ。凉の張祚、淫虐にして弑せらる。子玄觀立つ。上姚襄、燕に降り、北、許昌に據り、又洛陽を攻む。桓溫、諸軍を東膏-孝宗穆皇帝-四二七 十八史略卷之四四二八督して、襄を討ち、進んで河上に至り、寮屬と共に平乘樓に登り、北、中原を望んで歎じて曰く、神州をして陸沈せしむる百年、王夷甫諸人、其責に任ぜざるを得ずと。伊水に至る。襄、戰つて、頻りに敗れて走る。溫、金墉に屯し、諸陵に謁し、鎭戍を置いて歸る。襄將に、西、關中を圖らむと欲す。秦、兵を遣し、拒ぎ擊つて、襄を斬る。襄の弟 長、衆を以て秦に降る。秦の苻堅、其君生を弑し、自立して、秦の天王となる。王猛を堅に薦むる者あり、一見、舊の如し。自ら謂ふ、玄德の孔明に於ける苻堅王猛一見如舊が如しと。一歲中、五たび官を遷す。異才を擧げ、廢職を修め、農桑を課し、困窮を恤む。秦民大に悅ぶ。燕主慕容雋、卒す。子障立つ。晉の桓溫、謝安を以て征西司馬となす。安、少にして重名あり、前後徵辟、皆、就かず。士大夫、相謂つて曰く安石出でずむば、蒼生を如何と。年四十餘、乃ち出づ。帝在位十七年、崩ず。改元するもの二、曰く、承和、升平嗣なし成帝の子瑯琊王立つ。之を哀皇帝となす。【哀皇帝】名は不、卽位二年にして疾に寢ね、又一年にして崩ず。改元するもの二、曰く、隆和、興寧。弟瑯琊王立つ、之を帝奕となす。【帝奕】名は奕、成帝の幼子なり。旣に位に卽き、會稽王昱を以て東菅-孝宗穆皇帝-哀皇帝-帝奕-ニ元 十八史略卷之四四三〇じようしやう丞相となす。くわんをんだいしはせうしよ桓溫、哀帝の時より、大司馬となり、中外諸軍事を都督し、尙書ろくやうしうBillう。こじゆくちんうてうの事を錄し、揚州の牧を加へられ、移つて、姑孰に鎭す。郗超を以髯參軍短主わうじゆんしゆほぜんさんぐんたんしゆ簿て參軍となし、王珣を主簿となす。人、語して曰く、髯參軍、短主ぼ上こうよろこいか簿能く公をして喜ばしめ、能く公をして怒らしむと。えんじんらくやうせおとしいじゆしやうをんしひき燕人、洛陽を攻め陷る。戌將、之に死す。溫、師を率ゐて、燕をうばうとうやぶかへ桓溫枋頭の伐ち、枋頭に戰ひ、大に敗れて還る。敗えんぼようすゐしんぐんげきはゐめいひ燕の慕容垂、旣に晉軍を擊破し、威名日に盛なり。燕王、之を忌すゐしんはしむ。垂、秦に奔る。わうまうしよぐんとえんうげふかこ、しんしゆふけん秦の王猛、諸軍を督して、燕を伐ち、遂に鄴を圍む。秦主苻堅、えんしゆぼようゐS鄴に入り、燕主慕容暐を執へて、以て歸る。しんくわんをんふしんたくはまくらたんだん評桓溫述懷晉の桓溫、不臣の志を蓄ふ。嘗て、枕を撫して、歎じて曰く、男の一語なが"text "〓〓じはうまさしうばんねんのこ男兒、芳を百世に流す能はざれば、亦た當に臭を萬年に遺すべしと。野にんる然一年亦心しもにの丈は當しやくばうとうゐ先づ功を立て、還つて九錫を受けむと欲す。枋頭の敗に及びて、威めいとみくじちてうをんす、いくわくだいゐけんもに名頓に挫く、郗超、溫を勸めて、伊霍の事を行ひ、以て大威權を立家て亦止るを後往またいこうにくはいしてしむ。溫、遂に入朝し、太后に白して、帝を廢す。在位六年、改くわいけいわうたかんぶんくわうていのらあし元するもの一、曰く、太和。會稽王立つ、之を簡文皇帝となす。りむいくせいきよくわよくよ【簡文皇帝】名は昱、元帝の子なり。〓虛寡欲、尤も玄談に善し。くわんをんむか桓溫、迎へて位に卽かしむ。九閱月にして不豫なり。急に桓溫を召たすしよかつぶニわうじようしやうこじして、入つて輔けしめ、諸葛武侯、王丞相の故事の如くす。溫東菅-帝奕-簡文皇帝-四三一 十八史略卷之四豐帝の終に臨んで位を禪り、然らざれば、卽ち攝に居らむを望みしが望む所に副はず。時に、謝安、王坦之、朝に在り。溫、坦之と安と、其事を沮みしを疑ひ、心甚だ之を衝む。帝在位、改元するもの一、曰く减安。太子立つ、之を烈宗孝武皇帝となす。【烈宗孝武皇帝】名は昌明、年十歲にして卽位す。し 、桓溫來朝す。謝安、王坦之に詔新亭に迎へしむ。都下恟恟云ふ。王謝を誅し、因つて晉祚を移さむと。坦之、甚だ懼る。安、神色變せず。百官道側に拜す。溫、大に兵衞を陳して、朝士諸侯道あれを延見す。坦之、汗を流して衣を沾し、倒に手板を執る。安、從容ば守四隣に在りとして、席に就き、溫に謂つて曰く、安聞く、諸侯道あれば、守、四隣に在りと。明公、何ぞ、壁後に人を置くを須ゐむや。溫笑つて曰く、正に自ら爾らざる能はずと。遂に命じて之を撤せしめ、安とこ笑語して日を移す。都超、帳中に臥して、其言を聽く、風動いて帳入幕の賓開く。安、笑つて曰く、都生は、入幕の賓といふべしと。溫、疾あずつて、姑孰に還る。疾篤し。諷して、九錫を求む。安、坦之、さらに其事を緩うす。尋いで卒す。秦の丞相王猛卒す。秦主堅、之を哭して曰く、天、吾をして六合を平一せしむるを欲せざるか、何ぞ吾が景略を奪ふの速なるやと猛、終に臨んで、堅に謂つて曰く、骨、江南に僻處すと雖も、然れども、正朔相承け、上下安和。臣沒するの後、願はくは、晉を東晉-烈宗孝武皇帝-四三三 十八史略卷之四詈以て圖となす勿れ。鮮卑、西羌は、我が仇敵、終に人の患を爲さむ。宜しく漸く之を除いて、以て社稷を安んずべしと。凉秦に降る。是より先、張玄靚の叔父天錫、玄觀を殺して自立す。天錫、酒色に荒み、政亂る。秦、之を伐ち、兵、姑臧に至る。天錫、面縛して出づ。長安に送る。代王拓跋什翼犍の世子寔、早く卒す。繼嗣未だ定まらず庶長子遂、其諸弟を殺し、〓せて、什翼犍を殺す。秦兵の代を擊つに會して部衆逃散し、國中大に亂る。秦主苻堅、代を分つて二部と爲し、河より以東は、代の南部大人劉庫仁に屬し、河より以西は、匈奴の劉衞辰に屬し、其衆を統べしむ。代の世子寔の子珪、尙ほ幼なり。母賀氏、珪を以て、走つて賀訥に依り、旣にして、庫仁に依る。庫乞、珪を奉じて恩謹、廢興を以て意を易へず。ちんぎれ晉秦人の强盛なるを以て憂となし、詔して、良將の北方を鎭禦兄の子玄を以て詔に應ず。に玄謝壓をての子すべき者を求む。謝安、郗超、之を歎じて曰く、安の明、乃ち能く衆に違うて親を擧ぐ。玄の才、擧ぐる所に負かず。吾、嘗て、其才を使ふを見るに、展履の間と雖も、未だ嘗て其任を得ずむばあらずと。玄、廣陵に鎭す。劉牢之を得て、參軍となす。戰つて、捷たざるはなく、北府兵と號す。敵人、之を畏る。秦兵を遣し、道を分つて、晉に寇し、諸郡を陷れ、襄陽の刺史東晉-烈宗孝武皇帝-四三五 十八史略卷之四四三六評大家認定食朱序を執へて、大擧を議す。りせのつを妄訓慢以て歸る。既にして、或は曰く、晉に用りを王長江の險在り。堅曰く、吾の衆を以てすれば、鞭を江に投ずるも、所收集中 -其流を斷つべしと。時に中外皆諫む。惟だ慕容垂、姚萇、其黌に乘し失能以をざき所ぜむと欲して、之を勸めて南伐せしむ。堅、遂に長安の戍卒六十餘と、萬、騎二十七萬を發す。晉、謝石を以て征討大都督となし、謝玄を-前鋒都督となし、衆八萬を率ゐて之を防がしむ。劉牢之、精兵五千を帥ゐて、洛瀾に趨き、直に水を渡つて、秦の前鋒梁成を擊つて之を斬る。石等、水陸繼いで進む。堅、壽陽城に登つて望み見るに、晉兵、部陣嚴整なり。又、八公山の草木を望み見て、皆、以て晉兵となし、憮然として懼るる色あり。晉兵、肥水に逼つて陣す。玄、人をして謂はしめて曰く、陣を移して、すこしく却け、我が兵をして渡るを得しめよ。以て勝負を決する、可ならむかと。堅晉兵に聽して、半ば渡る時、之を蹙めむと欲し、兵を摩いて却かしむ。秦兵、退いて、復た止むべからず。朱序、陣後に在り、呼んで曰く、秦兵敗ると。遂に潰ゆ。玄等、勝に乘じて追擊す。秦兵大に敗る。走る者、風聲鶴唳を聞いて、貴、以て晉兵至るとなす。堅狼狽して長安に還る。慕容垂、秦に叛き、河内に起り、自ら燕王と稱す。姚萇、秦に叛き、北地に起り、自ら秦王と稱す。是を後秦となす。慕容冲、秦に叛き、兵を平陽に起して、帝と稱す。之を西燕とな東管-烈宗孝武皇帝-四三七 十八史略卷之四翼す。長安を攻む。秦主苻堅、出奔す。後秦王萇、執へて、之れを弑す。評謂治國の能謝安は所晉の太保謝安、卒す。安、文雅、王導に過ぐ。德量あり、秦寇の臣なり至るに方つて、朝野震動す。安、夷然として、碁を圍んで、墅を賭石ゆにす。捷書至る、安、方に客と碁す。覽畢つて、坐側に實き、喜色なし。客、之を問ふ。徐に曰く、小兒輩、遂に賊を破ると。客、去産る。安、戶に入り、喜ぶこと甚しく、履齒の折るるを覺えず。其情を矯め物を鎭すること、此の如し。秦主苻堅の子丕、帝を晉陽に稱す。拓拔珪、復た立つて代王となる。之より先、劉庫仁、其下に殺され、弟頭眷、代つて其衆を領す。庫仁の子顯、頭眷を殺して自立又珪を殺す。さむと欲す。珪、賀蘭部に奔つて、其舅に依る。諸部せいら、の大人、珪を推して主となし、遂に王位に卽く。徒つて、盛樂に居魏る。後、改めて魏と稱す。燕王垂、帝を中山に稱す。西燕の人、其主冲を弑して、段隨を立つ。又、隨を殺して慕容忠を立つ。又、忠を殺して慕容永を立つ。永、秦主苻不を擊つ。조、敗れて南走し、晉の將軍に邀へ擊たれて殺さる。慕容永、帝を長子に稱す。秦の疏族持登、帝を南安に稱す。東晉-烈宗孝武皇帝-四三九 十八史略卷之四圏後秦の姚長、是より先、旣に、長安に入つて、帝と稱す。苻登、兵を引いて、數ば後秦と戰ふ。互に勝負あり。後秦の主姚萇卒す。子興立つ。登を擊つて之を殺す。燕主垂、西燕を擊つて、長子を拔き、西燕主永を殺す。燕主垂卒す。子寶立つ。苻堅の敗れてより、中原大に亂る。其大なるもの慕容氏、姚氏、迭に大號を擧ぐ。其時に乘じて起る者、秦の故臣呂光の如き、凉州きつぷ!に據つて、凉天王と稱す。鮮卑の乞伏國仁、隴右に據つて西秦王とと稱す。國仁卒し、弟乾歸、之に繼ぐ。又、鮮卑の禿髪烏孤あり、南凉河西に起り、南涼と號す。晉、秦を敗つてより以後、江左無事會稽王道子、政を爲す。帝評底直ちやうせいあら、にご希望酒を嗜んで、·流連するのみ。長星見はる。帝、酒を擧げて、之に向ばんこ挿話む端る 。ほつて曰く、長星、汝に一杯の酒を勸む。世、豈に萬年の天子あらむの前らら國ずずんやと。張貴人、年三十、寵、後宮に冠たり。醉中之に戯れて曰く、汝、年を以てすれば亦た當に廢すべしと。貴人、婢をして其面を蒙はしめて、之を弑す。在位十五年。改元するもの二、曰く寧康、太元太子立つ、之を安皇帝となす。け【安皇帝】名は德宗、幼にして不慧、口言ふ能はず、寒暑飢飽、辨ぜず、飮食寢興、皆己より出づるに非ず。既に、位に卽くや、會稽東晉-烈宗孝武皇帝-安皇帝-圖 十八史略卷之四圖王、太傅を以て政を輔く。魏王拓拔珪、連歲燕を攻め、進んで中山を圍む。燕主慕容寶、出奔す。後、其下に弑せらる。燕の慕容祥、帝と稱す。慕容麟、襲うて祥を殺して自立す。魏王理麟を破つて、之を走らしむ。麟、慕容德に奔り、德の爲に殺さ南燕る。德往いて、廣固に據り、後、帝と稱す。是を南燕となす。北燕燕の慕容盛、帝を龍城に稱す。是を北燕となす。魏王珪、帝と稱し、平城に都す。北涼凉の段業、凉王と稱し、張掖に據る。是を北凉となす。しんせいみだ晉の會稽王道子、專ら政事を以て世子元顯に委す。晉政亂る。東土囂然たり。妖賊孫恩、民心の騒動するに因つて、海島より出でて;劉裕亂を爲す。劉裕、恩を討つて功あるに因つて起る。北凉の沮渠蒙遜、段業を弑して自立す。蒙遜は、匈奴の種なり。後、姑臧に遷る。凉王呂光、卒す。子紹立つ。庶兄纂、弑して之に代る。呂超、し、又纂を弑して、其兄隆を立つ。隆、後、秦に降り、凉亡ぶ。西凉隴西の李暠、燉煌に據る。是を西凉となす。後、酒泉に徒る。柔然、漠北より起り、高車の地を奪つて、之に居り、諸部を呑併す。士馬繁盛、北方に雄たり。其地、西、焉耆に至り、東、朝鮮にん、接し、南、大漠に臨み、旁の小國、皆覊屬し、魏と敵となる東晉-安皇帝-圖 十八史略卷之四■晉の盜孫恩、數ば劉裕等に敗られ、海に赴いて死す。其黨廬循、 徐道覆、復た起る。桓玄反す晉の桓玄、反す。初め、玄、父溫に嗣いで南郡公となる其才地を負み、雄豪を以て自ら處る。嘗て義興に守たり。歎じて曰く、評桓玄豪語父は九州の伯たり、子は五湖の長たりと。官を棄てて國に歸る。後3층江州の刺史となり、尋いで、〓江等八州の軍事を都督し、江陵に據大多數據のを身自すを大る過ぼ失ににずも家て郞る。是に至つて、兵を擧げて、建康に入り、元顯を殺し、又道子をぎすひに亡殺す。玄、相國となつて楚王に封ぜられ、九錫を加ふ。既にして、帝に迫つて、位を禪らしむ。劉裕、兵を京口に起して玄を討ち、玄の兵と戰ひ、大に之を破る。玄、出走す。首を江陵に斬る。帝、位に復す。劉裕、京口に鎭す。かくれんぽつ!秦の赫連勃勃、秦に叛いて、朔方に據り、自ら大夏天王と稱す。勃勃は、故の匈奴の劉衞辰の子なり。晉、南燕を伐つ。之より先、南燕主慕容德卒し、兄の子超立ち、晉邊を侵略す。劉裕、抗表して之を伐つ。専りて北燕、其臣馮跋の爲に滅ぼさる。之より先、北燕主盛、其下に弑せられ、叔父熙立つ。跋罪を熙に得、之を弑して、熙の養子高雲を立つ。未だ幾ならずして、又雲を弑して自立す。魏主、人の夫を殺して其妻を納れ、之と子紹を生む。兒狼無賴。け、珪を弑す。齊王嗣、紹を殺して立つ。珪を道武皇帝と諡し、廟を烈東晉-安皇帝-國立五 十八史略卷之四四四六祖と號す。管の劉裕、廣固を拔き、慕容超を執へ、建康に送つて之を斬る。南燕亡ぶ。盧循、劉裕の北伐に乘じて、番禺より出で、直に下つて建康を襲ふ劉裕、徵されて急に還る。諸軍力戰す。循乃ち退く。裕追うて、之を破る。循交州に走り、刺史の爲に敗らる。首を斬つて建康に送る。西秦の乞伏韓歸、其下の爲に弑せらる。子熾盤立つ。西秦、襲うて南涼を滅す。之より先、南凉主禿髪烏孤、卒す。弟利鹿孤、立つ。卒す。弟侮檀、立つ。是に至つて、乞伏熾盤の爲に襲はる。侮檀を以て歸つて之を殺す。南凉亡ぶ。後秦主姚興、卒す。子泓、立つ。晉の大尉劉裕、之を伐つて、彭城を發し、洛陽より武關、潼關に道して長安に入る。泓敗れて、出でて降る。建康に送つて、之を斬る。後秦亡ぶ。て米干しゆぼつ·夏主勃勃、裕の秦を擊つを聞いて曰く、裕必ず關中を取らむ。然れども、久しく留まる能はず。若し子弟諸將を以て之を守らしめば、吾、之を取ること、芥を拾ふが如きのみと。是に至つて、三秦の父老、裕の將に還らむとするを聞き、門に詣つて流涕して曰く、ひと〓〓殘民、王化に霑はず、今に於て百年。始めて、衣冠を觀、人人相賀す。公、之を捨てて、何に之かむと欲するかと。裕彭城に還る。東賣-安皇帝-麗 十八史略卷之四四四八勃勃、長安を陷れて、帝と稱し、統萬に歸る。晉、裕を以て相國宋公となし、九錫を加ふ。裕識に昌明の後尙は三帝ありと云ふを以て、乃ち人をして音帝を繼らしあて、之を弑す。在位二十三年。改元するもの一一、曰く、隆安、義熙。義熙元年より十四年に至るまでは、乃ち劉裕政を爲すの日なり。弟瑯琊王立つ之を恭皇帝となす。【恭皇帝】名は德、卽位の明年、劉裕、爵を進めて宋王となり、彭だ城より移つて壽陽に鎭す。又明年、裕建康に還る。帝、在位改元するもの一、曰く、元熙。位を裕に禪る。旣にして、弑せらる。東晉は、元皇帝より、是に至るまで、凡そ十一世、一百四年。西晉、東晉、通じて、一百五十六年にして亡ぶ。南北朝南朝は、晉より以て之を宋に傳へ、宋、之を齊に傳へ、齊、梁に傳へ、梁陳に傳ふ。北朝は、諸國、魏に併せられてより魏後、分れて西魏、東魏となり、東魏は北齊に傳へ西魏は後周に傳へ、後周は北齊を併せて、之を隨に傅へ隨陳を滅し、然る後に、南北、混じて一となる。今、南を以て提頭となして、北を其間に附す。東晉-恭皇帝-南北朝國四九 十八史略卷之四四五〇西紀自四二宋○至四七八丁一南を日せ、【宋高祖武皇帝】姓は劉氏、名は裕、彭城の人なり。相傳へて、楚の元王交の後となす。裕生まれて、母死す。父、京口に僑居し、將に之を棄てむとす。從母、救うて、之を乳す。長ずるに及びて、勇健大志あり、わづかに、字を識る小字は寄奴、嘗て行いて 大蛇に遇ひ、擊つて、之を傷く。後、其所に至り、群兒の藥を擣くあらるを見る。裕、問ふ、何をか爲す。答へて曰く、吾が王、劉寄奴に傷けらる。裕曰く、何ぞ之を殺さざる。兒曰く、寄奴は王者なり、死せずと。裕之を叱す、卽ち散じて見えず。初め、劉牢之の軍事に參たり。嘗て、賊を覘はしむ。賊數千人に遇ふ。裕長刀を奮つすて、獨り、之を驅る。衆軍、因つて、勢に乘じて、進み擊つて、大に之を破る。裕、之に因つて、名を知らる。其後、將相たること、二十餘年。桓玄を誅し、孫恩、盧循を平らげ、南燕、後秦を滅して卒に晉の禪を受く。西凉の李暠、卒す。諡して、武昭王といふ。子歌立つて、數年、是に至つて、北涼の沮渠蒙遜に誘はれ、與に戰つて、之に殺さる西凉亡ぶ。宋主在位三年、改元するもの一、曰く永初、殂す。太子立つ、之を廢帝榮陽王となす。南北朝宋WIN 十八史略卷之四豐【廢帝榮陽王】名は義符。年十七にして卽位す。喪に居て禮なく、遊〓度なし。太子立魏主嗣、殂す。明元皇帝と證し、廟を太宗と號す。子燾立つ。宋主主位改元するもの一、曰く、景平。徐羨之、傅亮、謝にひ晦廢して、之を弑す。宜都王立つ、之を太宗文皇帝となす。【文皇帝】名は義隆、素より令望あり。少帝の廢せらるるや、迎へ入れられて位に卽く。夏主勃勃、殂す。子昌、立つ。陶淵明晉の徵士陶潜卒す。潜字は淵明、潯陽の人、侃の會孫なり。少そにして、高趣あり嘗て彭澤の令となる。八十日にして、郡の督郵至る。吏曰く、束帶して之に見ゆべしと。潜歎じて曰く、我、豈に五斗米の爲に、腰を折つて、〓里の小兒に向はむと。卽日、印綬を解いて去り、歸去來辭を賦す。五柳先生傳を著す。徵せども就かず。先世、晉の臣たりしを以て、宋の高祖、王業漸く盛なるより、復た肯て仕へず。是に至つて、世を終る靖節先生と號す。魏數ば夏と戰ふ。是に至つて、其主昌を執へて歸る。夏の赫連定、帝を平凉に稱す。西秦の主乞伏熾盤、卒す。子暮木、立つ。北燕の馮跋、殂す。弟弘立つ。夏主定、西秦を擊ち、暮木を以て歸り之を殺す。西秦亡ぶ。定南北朝宋四五三 十八史略卷之四署うばとよくこん又北凉を擊つて、其地を奪はむと欲す。吐谷渾、其軍を襲ひ、定をとらかとよくこんぼようしべつしゆ執へて、魏に送る。夏、亡ぶ。吐谷渾は、慕容氏の別種なり。ほくりやうそきよまうそんぼくけん北涼の沮渠蒙遜、卒す。子牧犍、立つ。そうしやれいうんちうさんたく評謝靈運は宋の謝靈運、罪を以て誅せらる。靈運、好んで山澤の遊をなす。狂風な國語のみちひらひやくしやうきやうぜうそのいし從者數百人、木を伐つて、徑を開く。百姓驚擾す。或は、其異志りんせんないしいうしこれをさあるを表す。臨川の内史となる有司之を糾し、收めらる。靈運、おこたういつしはうふる兵を興して逃逸し、詩を作つて曰く、韓、亡びて子房奮ひ、秦帝ろれんはつひたうとりこくわうしううつとなつて魯連耻づと。追討して、之を擒にし、廣州に徒す。旣にしきて、棄市せらる。小児えんへうこうかうらいはし魏燕を伐つ。馮弘、高麗に奔る。而して殺さる。燕亡ぶりやうこざうつひぼくけん魏凉を伐つ。姑臧潰ゆ。牧犍降る。後、殺さる。北凉亡ぶ。そのしとさいかうめいげんはうしん暴露して殺崔浩國惡をさる輒ち功あり。すなは魏其司徒崔浩を殺す。道士寇謙之を信じ、だうしこうけんし浩、明元の時より、魏主に勸めて崇奉せしめ、しゆさ旣に謀臣となつて、すうほう天師道てんしだうぢやうぶつゆふ5/4しやもんちうぶつざうぶつしよこぼ場を立つ然も、最も佛法を惡み、沙門を誅し、佛像佛書を毀つかうこくしをさせんせいみなじつ魏主、浩に命じて、國史を修めしむ。先世の事を書するに、皆實をつまびらかかんろたふんけいかう石に刊して、こくあく詳にし、之を衢路に立つ。北人、忿恚し、浩が國惡はくやうしんいかあんそのぞくを暴揚するを譜す。魏帝、大に怒つて、遂に案じて之を誅し、其族を夷す。坐畊は奴に問そうぎれんねんたがひあひしんぱつわうげんぽすたいきよちんけいおいしふ織は宋魏、連年互に相侵伐す。王玄謨、宋に勸めて大擧せしむ。沈慶時間ベしいさかうまさどしよくまさひとし之、諫めて曰く、畊は當に奴に問ふべく、織は當に婢に問ふべし。南北朝宋四五五 十八史略卷之四〓かんはくめんしよはかそうつひ今、國を伐たむと欲す、奈何ぞ、白面の書生と之を謀ると。宋竟げんぼしかうがうくわつだいかこに玄謨をして師を出さしめて硫磁を取り、進んで滑臺を圍む。之よしゆそうかなんわれり先、魏主、宋の河南を取りしを聞き、怒つて曰く、我生れて、はついまかはかなんこ髪未だ乾かざるに、旣に、河南は是れ我が地なるを聞く、今、天時なねつじゆをさかひやうがつまてつき尙ほ熱、しばらく、戌を歛めて北歸し、河氷の合するを俟ち、鐵騎しゆみづかしやうかはわたを以て之を蹂まむと。冬に至つて、魏主自ら將として、河を渡りがうへいここゑふるげんぽおそじんつひ衆百萬と號す。韓鼓の聲、天地に震ふ玄謨、懼れて去る。魏人追げんぼはいそうひなんかくわほニ擊し、玄謨敗走す。魏帝、兵を引いて南下し、、直に瓜步に至の、江せいげんけんかうしんくかたんそうを渡らむと欲すと聲言す。建康震懼し、民、皆、荷擔して立つ宋しゆせきとうじやうほくぼうだんだうさいあ主、石頭城に登り、北望して歎じて曰く、檀道濟、若し在らば、豈は だうさいニぜんてうに胡馬をして此に至らしめむやと。道濟、功を前朝に立て、兵を用ざんをさもくくわうきよさく卽ち汝が萬ゆるに老いたり。之より先、讒を以て收めらる。目光炬の如く、情だつとう里の長城をばんりちやうじやう··壞るを脫して、地に投じて曰く、乃ち汝が萬里の長城を壞ると。旣にごしはいまはばかた誅せらるるや。魏人、之を聞いて喜んで曰く、吳子輩復た憚るに足ちやうくふせそうじんげんぼらずと是に至つて長驅す。能く禦ぐ者なし。宋人、或は玄謨を斬ちんけいしとぶつりゐふるこうちむと欲す。沈慶之、之を止めて曰く、佛狸、威天下に震ふ控げんひやくまんあげんぽあたせんしやう弦百萬豈に玄謨の能く當る所ならむや。戰將を殺して、以て自らよぎしかへさつりやくあはか評弱むるは、得慘一中春て狀語に燕盡を戰葉歸禍ふて計にあらざるなりと。魏師、還る殺掠、勝げて計るべのの林ていさうえいじざんせつさくじやうつらぬばんぶからず。丁壯の者は、嬰兒を斬截し、槊上に貫いて盤舞す。過ぐるせ云おかえりないりひしゆんえんか、りんちうそうしゆくらゐ原作獨春燕、歸つて林中に巢ふ宋主位に卽いてより二十八年の南北朝宋署名 十八史略卷之四四五八間、號して小康となす。是に至つて、兵革の後、邑里蕭條、元嘉の政衰ふ。魏の中常侍宗愛、東宮の官屬を譖し、多く坐して誅死す。太子晃憂を以て卒す。魏主、追悼して巳まず。愛、懼れて主を弑す。後證して、太武皇帝といひ、廟を世祖と號す。晃の子濬、立つ。ら、愛を討つて之を誅す宋の太子劭、巫蠱呪咀す、事覺はる。宋主、之を廢せむと擬す。劭、主を弑して自立す。在位三十年、改元するもの一、曰く元嘉。ん武陵王、兵を擧げて劭を誅す王立つ、之を世祖孝武皇帝となす【孝武皇帝】名は駿、位に卽いて十二年にして殂す。改元するもの二、曰く、孝建、大明。太子立つ、之を廢帝となす。【廢帝】名は子業、位に卽き喪に居るや、傲惰にして、戚容なし。孝武、骨肉を疎忌して、多く誅殺す。是に至つて、尤も甚し魏帝溶、殂す。諡して文成皇帝といひ、廟を高宗と號す。初め、太武、四方を經營し、國、頗る虛耗す。文成、嗣いで以て鎭靜し、中外を懷集す。人心復た安し。子弘、立つ。宋主、諸父湘東王等を畏忌し、殿內に幽して捶曳し、復た人理なく恣に不道を爲す。中外騷然たり。宋人、之を弑す。王、在位二年、改元するもの一曰く、景和。湘東王立つ、之を太宗明皇帝となす南北朝宋四五九 十八史略卷之四四六〇た【明皇帝】名は或、卽位八年にして殂す。改元するもの一、曰く泰か肅道成始。帝の初より、蕭道成、兵に將として、征討功あり。尋いで、淮陰に鎭し、豪俊を收養し、賓客始めて盛なり。旣にして、南充州の、刺史となる。是に至つて、褚淵、薦めて右衞將軍となし、顧命の大臣と共に機事を掌る。太子立つ、之を後廢帝となす。【後廢帝】名は昱、明帝、子なし。昱、實は嬖人李道兒の子なり。明帝、之を子とするや、諸王十五六人を殺し、惟だ昱の立たざるを休範、桂陽王恐る。十歲にして位に卽く。兵を擧げて反し、建康を攻む。蕭道成、擊つて之を斬る。道成、中領軍となる。之より先、魏の獻文帝、位を太子宏に傳へ、自ら太上皇帝と稱10「す。宏の幼なるを以て、仍ほ萬機を總ぶ。太上、聰睿夙成、剛毅にして斷あり、然も、黃老浮屠の學を好む、故に常に遺世の意あり。幸する所の李奕と其母馮太后、いふ者あり、太上に誅せらる。馮太后、怒つて、遂に之を弑して、制を稱す。宋主、驕恣にして殺を嗜み、中外憂 惶す。蕭道成、袁粲、褚淵と廢立を謀る。粲可かず。淵之に賛す。遂に之を弑す。在位六年、改元するもの一、曰く、元徽。安成王立つ。之を順皇帝となす。【順皇帝】名は準、桂陽王休範の子なり。明帝、之を子とす。是に至つて卽位す。南北朝宋要 十八史略卷之四四六二そうゑんさんせうだうせいちよえんそのはかりごと宋の袁粲、蕭道成を殺さむことを謀る。褚淵、其謀を以て、道せきとうじやうかなし城成に〓ぐ。粲、父子共に石頭城に殺さる。百姓、之を哀んで曰く、寧可爲憐褚袁石淵粲頭生死あはれゑんさんちよえん不作憐むべし石頭城、寧ろ袁粲となつて死するも、褚淵となつて生きずちんいうしこうれうあだうせいぐんつひ60沈攸之、亦た兵を江陵に擧げて、道成を討ち、軍潰ゆるや、走ししやうこくせいこうしやくしやくつて縊死す。道成、相國齊公となり、九錫を加へ、旣にして、爵を·しやうあいせい進めて、王となる。宋主在位三年、改元するもの一、曰く昇明齊ゆつだんしこうしんよまてんわうに禪る。泣いて、彈指して曰く、願はくは、後身世世、復た天王のせいそのぞくめつそう評家に生まるるなからむと齊、之を弑して、其族を滅す。宋、高祖天子の種数子様にに王世情國勿|より、是に至るまで、八世、凡そ五十九年にして亡ぶ。盡家くの西紀自四七齊九至五〇二せうしだうせいらんれうあひつた【齊太祖高皇帝】姓は蕭氏、名は道成、蘭陵の人なり。相傳へて、しやうこくかのちしんちんたいりやうはくがくしよく漢の相國何の後となす。深沈にして大量あり、博學にして文を屬かたせきしじつげつじやうす。肩に赤誌あり、日月の狀の如し。宋の時、軍中に在ること久みんかんそのいさうるを言ふ。うたが蕭道成異相し民閒、或は、其異相あ宋、之を疑ふ。而かも、殺すつひせい〓〓けんつねをさ能はず。竟に宋に代皇性〓儉、毎に曰く、我をして天下を治むるまさわうごんあたひおなこと、十年ならしむれば、當に黃金をして土の價に同じからしむべけん〓〓しと。在位四年にして殂す。改元するもの一、曰く、建元。太子立せいそぶくわうていつ、之を世祖武皇帝となす。南北朝齊四六三 十八史略卷之四四六四ちく、【武皇帝】名は噴、位に卽いて十一年にして殂す。改元するもの一曰く、永明。太子長懋、旣に卒す。太孫立つ。之を廢帝鬱林王となす。【廢帝欝林玉名は路業位に卽いて一年、改元して隆昌といふ。西昌侯鸞、之を弑す。新安王立つ。之を廢帝海陵王となす。【廢帝海陵王】名は昭文、鸞の爲に立てらる。延興と改元す。鷺自ら宣城王となる、帝、卽位、未だ四月ならず、廢して、之を弑す。宣城王自立す、之を高宗明皇帝となす。【明皇帝】名は鸞、高帝の兄の子なり。高帝、之を愛すること、(の子に過ぎたり。而して、武帝の太子長懋、最も之を惡む。志を得るに及びて、高武の子孫を殺して、遺類なし。位に卽いて、五年にはい、して殂す。改元するもの二、曰く、建武、永泰。太子立つ、之を廢帝東昏侯となす。【廢帝東昏侯】名は寶卷東宮に在りし時より、學を好まず、嬉戯度なし。既に位に卽くや、朝士に接せず、惟た嬖倖を親信するのみ。屢ば大臣を殺す。だ魏主宏、殂す。在位二十七年。仁孝恭儉、禮を制し、樂を作し、蔚然として、太平の風あり。胡服胡語を禁じ、姓を元氏と改む。都を洛陽に遷す。魏の盛德の主たるが爲に、諡して孝文皇帝といひ、廟を高祖と號す。太子恪、立つ。南北朝齊四六五 十八史略卷之四四六六こんいんきやうしかうはんびきんれんくわつく齊主、昏淫狂恣なり。幸する所の潘妃、金を以て蓮花を爲り、地てうほほほれんくわ上に貼して、之を歩せしめて曰く、是れ步步蓮花を生ずるなりと。さいうことぞくぎやくひたいゐちんけんたつけんかう左右事を用ゐて、賊虐日に甚し。大尉陳顯達、先づ兵を擧げて建康おそはいししやうぐんさいけい!はんしうを襲ふ敗死す。將軍崔慧景、命を受けて出でて叛州を討つ。兵をか、けんかうせまなんよしうししせうい還して、建康に逼る。時に南豫州の刺史蕭懿、兵に將として、近きせいしゆきふめたすけいに在り。齊主、急に召し、入つて援けしむ。慧景、敗死す。懿を以せうしよおとうとなんようしうししえんさて尙書となす。懿の弟南雍州の刺史衍、人をして、懿に勸めて、いくわくこじすみやかれきやうかへ伊霍の故事を行はしめ、爾らざれば亟に歷陽に還れといふ。懿つひたまじやうやうだ、用ゆる能はず、竟に死を賜ふ衍兵を襄陽に起し、引いて、東けんかうかこえんむか建康を圍む。齊人、主を弑して、衍を迎ふ。主、在位三年。改元すえいげんくわくわうているもの一、曰く、永元。時に南康王、先に旣に自立す。之を和皇帝となす。其後ひろ。はうゆうとうこんすゑはうゆうこうれう1(00)【和皇帝】名は寶融。東昏の末、寶融、兵を江陵に起し、旣にしてちうこうとうきせいたいこうせい帝と稱す。改元して、中興といふ。未だ東歸に及ばず、齊太后、制せうえんれうこうしやくっを稱し、蕭衍を以て相國となし、梁公に封じ、九錫を加へ尋いでしやくすしこじゆくいたみことのりれうゆづ爵を進めて、王となす。齊王、姑孰に至る。詔して、梁に禪る。しい位に卽いて、わづかに三年にして弑せらる。齊は、高帝より、是に至るまで、七世、凡そ二十三年にして亡ぶ。四世五五年梁南北朝齊梁四六七 十八史略卷之四髮在位四八年【梁高祖武皇帝】姓は蕭氏、名は術、齊の疎族なり。母張氏、菖(西紀五〇三要800蒲、花を生ずるを見る。旁人は皆見ず。之を呑み、旣にして、衍を生む英達にして文學あり。東昏の初、術襄陽に鎭す。齊の將に亂れむとするを知つて、乃ち密に武備を修む。驍勇を聚むること萬を以て數ふ。材を伐つて、檀溪に沈め、茆を積むこと岡阜の如くす。兄懿、死す。衍牙を建てて衆を集め、檀溪の竹木を出して、艦を裝ひ、之を葺くに茆を以てす。事、皆立どころに辨ず。兵起つて一年餘、遂に建康に入り、禪を受けて帝位に卽く。J魏主恪在位魏主恪、殂す。證して宣武皇帝といふ。廟を世宗と號す。子謝、一六年年五五〇〇立つ甫めて六歲。母胡氏、制を稱す。魏主、既に長ずるに及び六) ()遊騁を好んで、親ら朝を視ず。而して、胡后、方に淫亂、魏の政、始めて亂る。將軍張彜の子仲瑀、封事を上り、武人を排抑す喧こ諺、路に盈つ。榜を大巷に立て、期を尅して、會集して、其家を屠らむとす。彝父子、以て意となさず。是に至つて、羽林虎賁、千人に近く、相率ゐて、尙書省に至り、訴罵して、瓦石を以て省門を擊あPつ。上下懾懼して敢て禁討せず。遂に彜の第に至り、其舍を焚き、彝父子を曳いて、毆擊して火中に投ず。仲瑀、重傷、走つて免る。彝、死す。遠近震駭す。胡后、其免强八人を收めて、之を斬り、餘3は復た治めず、大赦、以て之を安んず。懷朔鎭の凾使高歡、洛陽に至り、張彜の死を見、家に歸り、貲を傾けて以て客に結ぶ。或ひと、南北朝梁四六九 十八史略卷之四四七〇評其故を問ふ、宿衞相率ゐて、大臣の第を焚き、朝廷懼れてて宿焚大衞事てき臣相傾高知問朝の率歡曰く、歡るは廷邸ゐを問はず。政を爲すこと、此の如し、事知るべし、財物、豈に常に守てがべず懼ふ故客費し れ費しるべけむやと。歡先世より、法に坐して、北邊に徒り、遂に鮮卑べあををの俗に習ふ。沈深にして大志あり。候景等と相友とし善し、任俠をけしり結とぶい亦以て〓里に雄たり魏の胡太后、朝に臨んで以來、嬖倖事を用ゐ、政事縱弛盜賊蜂起し、封疆日に蹙まる、魏主謝、漸く長ず。太后、自ら爲す所の不謹なるを知り、務めて壅蔽をなし、母子嫌隙日に深し。時に、六さ州大都督秀容の曾長爾朱榮、兵强し。高歡榮を見、卽ち勸めて、兵を擧げて、君側を〓めしむ。會ま魏主殂す。胡太后、之を鴆するなり。後、諡して孝明皇帝といふ。爾朱榮、兵を擧げ、孝文の姪長か、樂王子攸を立て胡后を河に鎭む。榮を太原王に封ず晉陽に還る。北海王顎、梁に奔る。梁、之を立て、將をして、送つて、洛陽に入らしむ。子攸、出奔す。爾朱榮、河を渡つて、來り救ふ。顯、走つて死す。子攸、歸り、榮に天柱大將軍を加ふ。榮不臣の志を蓄ふ。魏主、陰に榮を誅せむことを謀る。榮入る。手づから、之を刺す。爾朱世隆、爾朱兆と宗室長廣王曄を立てて、洛陽に入る。子攸、弑に遇ふ。後、證して、孝莊皇帝といふ、世隆、又曄の疎遠なるを以て、之を廢して、孝文の孫廣陵王恭を立つ。高歡、兵を起して爾朱氏を誅して、洛陽に入り、恭を廢して、孝文の孫平陽王修南北朝梁里 十八史略卷之四四七二せつびんくわうていを立つ。修、恭を弑す。後、證して、節闘皇帝といふ高歡、大丞y相となり、府を晉陽に建てて、之に居る。魏主、歡を畏れ、晉陽を伐たむと謀る。歡兵を擁して來る。魏主、長安に奔り、關西大都督宇文泰に依り、泰を以て、大丞相となす。歡魏主を追ふ。及ばせいしす。遂に〓河王の世子善見を洛陽に立て、鄴に遷る。魏は、道武より、是に至るまで、十二世、凡を一百四十九年にして、分れて東魏、西紀五三四西魏となる。之より先、焚惑、南斗に入る。梁主曰く、焚惑、南斗に入れば、天子、殿を下つて走ると。乃ち跣して、殿を下り、之を禳ふ。修の出奔を聞くに及び、慙ぢて曰く、虜も亦た天象に應ずるかと。修、長安に至り、半年を踰ゆ。又泰と隙あり。泰之を鴆す。後、諡して、孝武皇帝といふ。孝武、旣に弑に遇ふ。秦、南陽王寶炬を立?。歡泰と連年相攻戰し、互に勝負あり。歡、卒す。遺言して、其子澄に屬して曰く、侯景は飛揚跋扈の志あり、汝の能く御する所に非ず。景に敵するに堪へたるは、惟だ慕容紹宗のみと。景果して、河南を以て、西魏に降り、未だ幾ならずして、復た梁に附く梁、景を封じて河南王となす。景の使、梁に至るや、梁の群臣、皆我國家如金甌納るるを欲せず、梁主、亦た自ら謂ふ、我が國家は、金甌の如く、一の傷缺なし、恐らくは、景を納るれば、因つて、以て、事を生ぜさむと。惟だ朱昇、力め勸めて、之を納る。東魏、慕容紹宗をして、南北朝梁四七三 十八史略卷之四四七四〓景を擊たしむ。景、敗れて南走し、梁の壽春を襲ふて、之に據り、命を請ふ。梁、就いて以て、南豫州の牧となす。旣にして、東魏、成を梁に求め、意.景を得むと欲す。景梁の東魏に通ずるを恨み遂に壽陽に反し、兵を引いて、南に渡り、建康を圍む。梁主、位に卽いてより以來、江左久しく無事、惟だ佛法を崇んで、屢ば身を佛寺に捨て、上下之に化す。景が臺城に逼るに及びて、援兵至る者、景に敗らる。梁主、人をして景と盟はしめ、以て大 相 相丞相となす臺城、圍を受くること五月にして陷る。景入つて見ゆ、引いて、(う評부なを磨梁以と武ての帝有對は三公の位に就く。梁主、神色變ぜず、景に謂つて曰く、卿軍中に名話達、其在ること久し、乃ち勞たるなからむやと。景、敢て仰ぎ視ず、汗をiiてるは仰を叛とを達其所ざぎし逆すに磨道ばの悟深心 ら見て兒る及氏流して、對ふる能はず。景退いて、人に謂つて曰く、吾、常に鞍ずせきこも〓〓くだに跨り、陣に對し、矢石交下るも、了に怖るる心なし。今、蕭公る流侯も·能汗景おのづかを見るに、人をして、自ら畏れしむ、豈に天威犯し難きに非ずや、し亦以む吾以て復た此人を見るべからずと。梁主、景に制せられ、飮膳も亦べざ鍊淺見か神るら修のをた裁損せられ、憂憤、疾を成す、口苦くして蜜を索むれども得ず。しる再び、荷荷といつて、遂に殂す。在位四十八年。改元するもの七、曰く天監、普通、大通、中大通、大同、中大同、太〓。壽八十六。之より先、太子統、仁明孝儉、學を好んで文あり、東宮に在ること三十年にして終る。梁主、嫡孫を捨てて別子を立つ。是に至つて、位に卽く、之を太宗簡文皇帝となす。南北朝梁四七五 十八史略卷之四ナミ【簡文皇帝】名は綱、東宮に在ること十八年、然る後、侯景の亂に遇ひ、既に立つも、制を景に受くるのみ。湘東王繹、江陵に鎭し、自ら假黃鉞大都督中外諸軍承制と稱す。岳陽王警は昭明太子統の第三子なり。襄陽に鎭し、繹と相攻む。賛使を遣して、西魏に降り、以て救を求む。あゆた東魏の大將軍渤海王澄、之より先、其下の爲に殺され、弟洋丞相となり、齊王に封ぜられ、東魏主に逼つて、位を禪らしめ、尋いで、之を弑す。諡して、孝靜皇帝といふ。東魏、國を建つる、一十七年にして亡ぶ。西魏、梁の蕭警を立てて梁主となす。コ西魏主寶炬殂す。諡して文皇帝といふ。太子欽立つ。候景、自立して、漢王となる。梁主を廢して之を弑す。尸位三年に及ばず。改元するもの一、曰く、大寶。景、豫章王棟を立つ。旣にして、位を簒す。之より先、始興の太守陳霸先、兵を起して、景を討つ。湘東王、王僧辨をして、景を討たしむ。景、簒して數月、僧辨、霸先に敗られ、亡げて、吳に走り、海を渡らむと欲し、其下の爲に斬らる。尸を建康に送り、首を江陵に傳へ、其手足を截つて、北齊に送る。湘東王立つ、之を元皇帝とす。【元皇帝】名は繹、一目眇、性殘忍なり。江陵に卽位す。侯景の亂せ、より、州郡、大半、西魏に入り、蜀も亦た魏に有せられ、梁は巴陵南北朝梁七七 十八史略卷之四天人より以下、建康に至るまで、長江を以て限となす。突厥、柔然を攻む。北齊、突厥を擊つて、柔然を遷す。この時、柔然衰へ突厥始めて强大なり。西魏の宇文泰、其主欽を廢して其弟 廓を立つ。欽弑に遇ふ。梁主焚書西魏、柱國于謹を遣し、梁を伐つて、江陵に入る。梁主、古今の圖書十四萬卷を焚いて曰く、文武の道、今夜盡くと。乃ち出でて評我的時刻。讀書萬卷降る。或ひと問ふ、何の意あつて書を焚く。曰く、讀書萬卷、猶(昭和4年)、ほ今日ありと。尋いで殺さる。在位三年、改元するもの一曰く、承聖西魏、襄陽を取り、梁王誉を江陵に徒して、帝と稱せしむ。兵を屯して、之を守る。之を後梁となす。西魏に臣たり。王僧辨、陳霸先、晉安王を奉じて、制を建康に稱す。貞陽侯淵明、之より先、北齊に獲らる。是に至つて、兵を以て、之を納る。王僧辨、奉じて、建康に歸つて、帝と稱す。陳霸先、僧辨を殺し、淵明を廢して、晉安王を立つ、之を敬皇帝となす。【敬皇帝】名は方智、元帝の子なり。年十三にして位に卽く。陳霸先、丞相たり。西魏の太師大家宰安定公字文泰、卒す。世子覺、嗣ぐ、年十五。字文護、之に輔たり。未だ幾ならずして、覺を以て周公となす。西魏主廓、周に禪る。廓弑に遇ふ。後、證して恭皇帝といふ。南北朝梁四七九 十八史略卷之四四八西魏は、國を建つること、四世、二十四年にして亡ぶ。覺周天王と稱す。性剛果、護の專なるを惡む。護、之を弑す。後諡して孝閔皇帝といふ泰の長子毓を立つ。梁の丞相陳霸先、相國となり、陳公に封ぜられ、九錫を加へ、尋きいで、爵を進めて王となる。梁主、改元するもの二、曰く紹泰、曰く太平。尸位、未だ三年ならずして、陳に禪り、尋いで弑に遇ふ。梁は、高祖武帝より、是に至るまで、四世、凡そ五十六年にして亡ぶ。自西紀五七陳七至五八九2【陳高祖武皇帝】姓は陳、名は霸先、吳興の人なり。梁の武帝の大同中、廣州參事となる。廣に亂あり、討つて之を平らぐ。功を以て將軍となる。尋いで、交州司馬西江都護高要太守となり、七郡の諸督し、霸ム軍を屢ば寇亂を平らぐ。侯景の臺城を陷るるや、先、時に始興に守たり。郡中の豪傑に結び、兵を起して、景を討つ。先づ廣州を取り、州の刺史となる。諸軍を會し、卒に以て景を平らぐ。遂に梁に將相となり、以て禪を受くるに至る。位に卽いて三年にして殂す。改元するもの一、曰く永定。子二人、昌、項皆、江陵陷るの時を以て長安に沒入す。臨川王立つ、之を世祖文皇帝となす。【文皇帝】名は蒨、武帝の兄の子なり。武帝、梁の亂を平らぐる時南北朝陳只 十八史略卷之四四八二に在つて、旣に功あり。是に至つて位に卽く。周王毓、帝と稱す。北齊主洋、盡く元氏の族を滅す。洋、殂す。諡して文宣皇帝といふ、周の宇文護、周帝の明敏にして識量あるを憚り、毒を進めて、之5/4を弑す。證して、明皇帝といふ。毓の弟邕立つ。北齊文宣帝の母弟常山王演、其主殷を廢して自立す。尋いで、殷を弑す。演、立つて、一年にして殂す。證して、孝昭皇帝といふ。母弟長廣王湛、又演の子百年を廢して自立す。後、百年を殺す。後梁主警殂す。太子歸立つ。北齊主湛、位を太子緯に傳へ、自ら太上皇帝と稱す。陳主、〓難より起り、民の疾苦を知る。性、明察にして儉勤なり。在位八年にして殂す。改元するもの二、曰く天嘉、曰く天康。太子立つ、之を廢帝臨海工となす。【廢帝臨海王】名は伯宗。在位三年、改元するもの一、曰く廣大安成王項の爲に廢せらる。北齊の上皇湛、殂す。證して、武成皇帝といふ。陳の安成王、自立す、之を高宗宣皇帝となす。【宣皇帝】名は項、初め長安に陷入す。文帝の時、周人、項を送つて、陳に還す。是に至つて、位に卽く。南北朝陳四八三 十八史略卷之四四八四周主邕、宇文護を誅し、始めて、政を親らす。北齊の後主緯、嬖寵多し、政亂る。周、齊を伐つて、鄴に入る。北齊亡ぶ緯を執へ、歸つて之を殺し、其族を夷す。北齊は國を建つる五世、三十年にして亡ぶ。北周武帝周主邕、深沈にして遠識あり、政事嚴明、稱して、賢主となす。西紀五六一齊を滅して、一年にして殂す。壽三十六。證して、武皇帝といふ。隋公楊堅太子贇立つ。皇后楊氏を立つ。后の父隋公楊堅、事を用ゐて、上柱國大司馬となる。賛太子たりし時より、好んで、小人を昵近す。立つて、未だ一年ならずして、位を子闡に傳へ、自ら天元皇帝と稱し、驕侈彌よ甚し。未だ一年ならずして殂す。證して、宣皇帝といふ。楊堅自ら大丞相となり、相國隋王に進み、九錫を加ふ。未だ幾ならずして、周主闡、位を隋に禪る。尋いで弑せらる。隋主、盡く宇文氏の族を滅す。周は、帝と稱してより、是に至るまで、五周亡ぶ世、二十五年にして亡ぶ。陳主在位十四年、改元するもの一、曰く大建。殂す。太子立つ之を後主長城場公となす。【後主長城場公】名は叔寶太子たりしより、詹事江摠と共に、長夜の飮をなす。位に卽いて、未だ幾ならず。臨春、結綺、望仙の閣を起し、各高さ數十丈、連延數十間、皆、沈檀を以て之を爲り、金玉珠翠、之が飾となし、珠簾寶帳、服玩魂麗、近古未だ有らず。南北朝陳四八五 十八史略卷之四四八六其下、石を積んで山となし、水を引いて池となし、花卉を雜植す。陳主は、臨春閣に居り、貴妃張麗華は、結綺に居り、襲孔の二貴嬪は、望仙に居り、複道より往來す。江摠、宰輔となり、政事を親らせず。。日に孔範等文士と後庭に侍宴し、之を狎客といひ、諸貴嬪を評玉樹の曲、して、客と唱和せしむ。其曲に玉樹後庭花等あり。君臣酣歌し、タ後庭花長曲くわん〓〓きんじふ宦官近習貨賂公行す。窮し夜極ての而宗威縱橫、孔るざす土飮しより旦に達す。内外連結、1ん國を而)木範貴嬪と結んで兄弟となる。範自ら謂ふ、文武の才能、擧朝及んと亡やすび得ぶなしと。將帥微しく過失あれば、卽ち兵權を奪ふ。之に由つて、文武解體し、以て覆滅に至る。後梁主歸、殂す。太子琮、立つ。隋主、廢して、之を滅す。營、後梁亡ぶ帝を江陵に稱してより、西魏、周、隋に臣とし、統ぶる所は、數郡のみ。凡そ、三十三年にして亡ぶ。隋、晉王廣を以て元帥となし、師を師ゐて陳を伐たしむ。楊素、韓擒虎、賀若弼、道を分つて出づ。高額、元帥の長史となり、薛道衡に問ふ、江東克つべきか。對へて曰く、之に克たむ。郭璞の言に、江東分れて主たること三百年にして、中國と合す、といふこの數、將に周からむとすと。陳主、隋兵ありと聞き、近臣に謂つて曰く、王氣是に在り。彼何する者ぞ。孔範曰く、長江は天塹、豈に能く飛渡せむや。臣、毎に官の卑きを患ふ。虜若し江を渡らば11定めて大尉公と作らむと。陳主、以て然りとなし、伎を奏し、酒を南北朝陳四八七 十八史略卷之四要縱にし、詩を賦して輟まず。賀若弼、廣漢より江を濟り、韓擒虎、§橫江より宵に釆石に濟る。守者、皆、醉ふ。擒虎、遂に新林より進んで、直に朱雀門に入る。陳主、自ら景陽の井中に投ず。軍人、井を窺ひ、將に右を下さむとす。乃ち叫ぶ。繩を以て、之を引けば、わ張麗華孔貴嬪と同じく束ねて上る。俘へて以て歸る。後主、在位と七年、改元するもの二、曰く至德、曰く禎明。陳は、高祖武帝より是に至るまで五世、凡そ二十二年にして亡ぶ。西紀自五八隋一至六一八【隋高祖文皇帝】姓は楊氏、名は堅、弘農の人なり。相傳へて、東漢の太尉震の後となす。父忠、魏及び周に仕へ、功を以て、隋公に封ぜらる。堅、爵を襲ぐ。堅、生まれて異あり。宅旁に尼寺あり、一尼拘き歸つて、自ら之を鞠ふ。一日、尼出づるや、其母に付して自ら抱かしむ。角出で、鱗起る。母、太に驚いて、之を地に墜す。尼、心動き、亟に還つて之を見て曰く、我が兒を驚かし、晩く天下を得しむるを致すと。長ずるに及びて、相表奇異。周人、嘗て武帝に〓げ、普六茹堅、反相ありといふ堅、之を聞いて、深く自ら晦し)匿す。女、周の宣帝の后となる。周の靜帝、立つ。堅、太后の父を以て政を秉り、遂に周祚を移す。位に卽いて九年、陳を平らげて、天下一となる。開皇二十年、太子勇を廢して、庶人となす。初め、南北朝隋四八九 十八史略卷之四四九〇帝、勇をして政事を參決せしむ、時に損益あり。勇、性寬厚率意にして矯飾なし。帝は性節儉、勇は服用修れり。恩寵始めて衰ふ。勇、內寵多く、妃寵なくして死して、庶子多し。獨孤皇后、深く之を惡む。晉王廣、彌よ自ら矯飾して、嫡を奪ふの計を爲す。后、帝を贊して、勇を廢せしめ、而して廣を立てて太子となす。龍門の王通、闕に詣つて、太平の十二策を獻ず。帝、用ゆる能は龍門の王通表示は、す。罷めて歸る。河汾の間に〓授す。弟子、遠きより至る者、甚だ製作所獻衆し。仁壽四年、帝、不豫なり。太子を召し、入つて殿中に居る。太子p豫め帝の不諱後の事を擬し、書を爲り、僕射楊素に問うて、報を得せしむ。宮人、誤つて、帝の所に送る。帝、之を覽て、大に恚る。帝の寵する所の陳夫人、出でて更衣す。太子に逼られ、之を拒んで、免るるを得たり。帝、其神色の異あるを怪んで、故を問評ふ夫人、法然として曰く、太子無禮なり。帝、恚つて、床を抵つにとにんのての之不畜を其と妾妄情を豫煬生殺父しをりな憂に帝なすと又犯にくふ乘父遂さ父却るじのて曰く、畜生、何ぞ大事を付するに足らむ、獨孤、我を誤ると。將に故の太子勇を召さむとす。廣、之を聞いて、右庶子張衡をして、入つて、疾に侍せしめ、因つて、帝を弑し、人をして、勇を縊り殺り眞兄さしむ。帝、性嚴重、政事に勤め、令行はれ、禁止む。財に嗇なりと雖も、功を賞して吝ならず。百姓を愛養し、農桑を勸課し、徭を輕くし、賦を薄くし、自ら奉ずること、儉薄なり。天下之に化す南北朝隋四九一 十八史略卷之四四九二受禪の初、民戶四百萬に滿たず、末年には、八百萬に踰ゆ。然れども、詐力を以て天下を得、猜忌苛察にして、讒言を信受し、功臣故舊、終始保全する者なし。在位二十四年、改元するもの二、曰く、開皇、仁壽。太子立つ、之を煬皇帝となす。【煬皇帝】名は廣開皇の末、立つて太子となる。この日、天下地震ふ位に卽いて、首として、洛陽の顯仁宮を營み、江嶺の奇材異石を發し、又海內の嘉木異草珍禽奇獸を求め、以て苑囿に實たし、又通濟渠を開き、長安の西苑より穀洛の水を引いて河に達し、河を引いて汴に入り、汴を引いて泗に入れ、以て淮に達す。又民を發し邦溝を開いて江に入れ、傍に御道を築き、樹うるに柳を以てし、長安より江都に至るまで、離宮を置くこと四十餘所。人を遣して、江南に徃いて龍舟及び雜舟數萬艘を造らしめ、以て遊幸の用に{備ふ西苑は周二百里、其內に海を爲る。周十餘里、蓬萊、方丈(だいくわんきうでん5瀛洲の諸山を爲り、高さ百餘尺、臺觀宮殿山上に羅絡す。海北に渠あり、榮紆して、海に注ぎ、渠に緣つて十六院を作り、門、皆〓渠に臨み、華麗を窮極す宮樹凋落すれば、剪綵して、花葉を爲つて、之を綴り、沼內も亦た剪綵して、荷芝菱茨を爲り、色渝れば、新しきものに易ふ。好んで、月夜を以て、宮女數十騎を從へて、西〓夜遊の曲苑に遊び、〓夜遊の曲を作つて、馬上に之を奏す。後、又、永濟渠を開き、沁水を引いて、南.河に達し、北、涿郡南北朝隋四九三 十八史略卷之四四九四上に通ず。又、汾陽宮を營み、又、江南の河を穿つ、京口より、餘杭に至るまで、八百餘里。洛口倉を鞏の東南の原上に置く、城は周二十餘里、三千窖を穿評脫むには 大阪府県の荒後主然三百害を穿つ。窖は皆のど過其氣つ興洛倉を洛陽の北に置く、城は周十里、ほくじゆん。似漢所て帝のに偉八千石を容る。帝、或は洛陽に如き、或は江都に如き、或は北巡したのる孝てし以文も武極を蓄のあ·て、楡林、金河に至り、或は五原に如き、長城を巡り、或は河右を傾積儉りけせ素巡り、營造巡遊、虛歲なし。天下の鷹師を徵す。至る者萬餘人。天窮便に民設就木せの生々河土下の散樂を徵す。諸蕃來朝するや、百戯を端門に陳す。絲竹を執るは中殘大衆偶運り利活庶開者萬八千人、終月にして罷む、費巨萬。歲毎に、以て常となす。を至大高麗王を徵して、入朝せしむ。至らず。大業七年、帝、自ら將として高麗を擊ち、天下の兵を徴して泳郡に會せしめ、河南、淮南江南に敕して、戎車五萬乘を造らしめて、衣甲等を供載し、河南河北の民夫を發して、軍須に供し、江淮以南の民夫は、船を以て、黎陽及び洛口諸倉の米を運ばしむ。舳艫千里、徃還常に數十萬人、晝夜絕えず、死者相枕す。天下騒動、百姓窮困し、始めて、相聚まつて盜を爲す。實建德漳南寳建德の兵起る。帝、徵す所の四方の兵、皆、涿郡に集まり、一百一十三萬。餽運上する者は、之に倍す。首尾千餘里に亙る。帝、遼東に至り、城を攻めて克たず。諸軍、大に敗れて還る。明年、再び兵を徵し、自ら將南北朝隋四九五 十八史略卷之四四九六として之を擊つ。楚公楊玄感、朝政の日に紊るるを見て、潜に亂を作さむを謀る。是に至つて、黎陽に督運して遂に反す。帝、軍を引いて還り、將を遣して、之を擊つ。玄感、洛陽より兵を引いて、潼關に趨り、兵敗れ、走つて死す。帝、又、涿郡に如いて、高麗を伐つ。高麗、使を遣して、降を請ふ。帝、長安に還る。旣にして、洛陽に如き、汾陽に如き、江都に如き、巡遊、仍ほ虛歲なし。李密蒲山公李密の兵起る。密、少にして才略あり、志氣雄達、財を輕んじ、士を好む。嘗て、黃牛に乘じ、漢書を以て牛角に掛けて、之を讀む。楚公楊素、遇うて、之を奇とし、之に因つて、素の子玄感と遊ぶ。初め、玄感に從つて、兵を起す。玄感敗る。密、姓名を變じげじて、匿る。時人皆云ふ、楊氏將に滅びむとし、李氏將に起らむとすと。又、民謠あり、歌うて曰く、桃李子。皇后走楊州。宛轉花園裏。勿浪語。誰道許。と。桃李子といふは、逃亡李氏の子なり。勿浪語、唯道許とは、密にするなり。密、遂に群盗程讓等と起つて榮陽を攻めて之を下し、牙を建て、諸部を統べ、西行して、說いて諸城を下して、大に獲たり。や) ;鄙陽の賊帥林士弘、楚帝と稱して、江南に據る。杜伏威、歷陽に據る。南北朝隋四九七 十八史略卷之四四九八竇建德、長樂王と稱す。おの〓〓んん馬邑の校尉劉武周、朔方の郞將梁師都、各郡に據つて兵を起す。二·李密、興洛倉に據り、河南諸郡を略取して、魏公と稱す。突厥、劉武周を立てて、定陽可汗となし、樓煩、定襄、雁門の諸郡を取る。梁師都、雕陰、弘化、延安等の郡を取り、自ら梁帝と稱す。金城の校尉薜擧、兵を隴西に起し、自ら西秦の霸王と稱す。武威の司馬李軌、兵を河西に起し、自ら凉王と稱す。薜擧、自ら秦帝と稱し、徒つで天水に據る。蕭銑、兵を巴陵に起し、自ら梁王と稱す。唐公李淵唐公李淵、兵を太原に起し、諸郡に克つて、長安に入る。時に、隋の大業十二年。帝、江都に在り、淵、はるかに尊んで、太上皇となして、代王を立つ、之を恭皇帝となす。【恭皇帝】名は侑、煬帝の孫なり。年十三にして李淵の爲に立てらひる。大業十三年を改めて、義寧となし、淵を大丞相となし、唐王に封ず。煬帝、江都に在り、淫虐日に甚しく、酒扈口を離さず。中原か、の已に亂れしを見て、北歸に心なし。從駕、關中の人多く、歸るを思うて遂に謀叛し、許公宇文化及を以て主となし、夜兵を引いて、3)宮に入つて煬帝を縊り殺す。宗室、少長となく、皆死す。惟だ、秦王浩を存して、之を立て、而して、自ら大丞相となり、衆を擁し南北朝隋四九九 十八史略卷之四五〇〇て西す。梁の蕭銑、帝を江陵に稱す。隋帝侑、位に卽いて、半年にして唐に禪る。隋は、高祖より、是に至るまで、三世、凡そ三十七年にして亡ぶ。譯新十八史略卷之五西紀自六八至九〇七一唐ろうぜい!〓【唐高祖神堯皇帝】姓は李氏、名は淵、隴西成紀の人なり。西凉の武昭王暠の後。祖虎、西魏に仕へて功あり、隴西公に封ぜらる。父昞周の世に於て、唐公に封ぜらる。隋の煬帝、淵を以て、弘化の留守となす。衆を御すること寬簡、人多く之に附く。煬帝、淵の相表奇異にして、名、圖識に應ずるを以て之を忌む。淵、懼れ、酒を恣にし、賂を納れて、以て自ら晦ます。天下、盜起る。淵を以て、唐-高祖神堯皇帝-五〇一 十八史略卷之五五〇一山西河東の撫慰大使となす。制を承けて黜陟し、群盜を討捕して、多く捷つ。突厥、邊に寇す。淵に詔して、之を擊たしむ。淵の次子世民有安天世民、聰明勇決識量人に過ぐ。隋室の方に亂るるを見て、陰に天下下之志を安んずるの志あり。晉陽の宮監裴寂、晉陽の令劉文靜と相結ぶ。文靜、世民に謂つて曰く、今、主上、南巡し、群盜萬數、この際に當つて、眞主あつて、驅駕して之を用ゆれば、天下を取ること掌か、を反すが如きのみ。太原の百姓、收拾すれば、十萬人を得べく、尊ー)天公、將たる所の兵復た數萬、之を以て、虛に乘じて關に入つて、下を號令すれば、半年に過ぎずして、帝業成らむ。世民、笑つて日く君の言、正に我が意に合へりと。乃ち陰に部署す。然も、淵は知らざるなり。淵の兵、突厥を拒いで利あらず、罪を獲むことを恐るるに會し、世民、閒に乘じて淵に說き、民心に順つて義兵を興せば、禍を轉じて福となさむといふ。淵.大に驚いて曰く、汝、安んぞ此言を爲すを得む。吾、今、汝を執へて縣官に〓げむ。世民、徐に曰く、世民、天時人事を觀るに、此の如し。故に敢て言を發す、必ず執へて〓ぐるとも、敢て死を辭せず。淵曰く、吾、豈に〓ぐるに忍びむや。汝、愼んで口より出すなかれと。明日、復た說いて曰く人、皆、傳ふ、李氏當に圖識に應ずべしと。故に、李金才、故上なくして族滅せらる。大人、能く賊を盡せば、功高くして賞せられず、身益す危からむ。惟だ昨日の言、以て禍を救ふべし。是れ萬全唐-高祖神堯皇帝-五〇三 十八史略卷之五五〇四の策、願はくは疑ふ勿れ。淵、歎じて曰く、吾、一ク、汝の言を思ふに、亦た大に理あり。今日、家を破り身を亡すも、亦た汝に由らむ。家を化し國となすも、亦た汝に由らむと。之より先、裴寂、私に晉陽の宮人を以て淵に侍せしむ。淵、寂に從つて飮む。酒酣なる時、寂曰く、二郞、陰に士馬を養ひ、大事を擧げむと欲す。正に寂が宮人を以て公に侍せしめ、事覺はるれば、併せて誅せられむを恐るるが爲のみと、會ま場帝、淵が寇を禦ぐ能はざるを以て、使者をして、執へて江都に詣らしむ。世民、寂等と復た說いて曰く、事旣に迫れり。宜しく、急に計を定むべし。且つ、晉陽は士馬精强、だいわう六うちうだ、宮監の蓄積巨萬、代王幼沖、關中の豪傑、並に起る。公、若し鼓行して西し、撫して之を有すれば囊中の物を探るが如きのみと。淵乃ち召募して、兵を起す。遠近赴き集まる。仍つて、使を遣して、兵を突厥に借る。世民、兵を引いて、西河を擊つて、之を拔き、郡P丞高德儒を斬り、之を數めて曰く、汝、野鳥を指して以て鸞となんだし、以て人主を欺く。吾、義兵を興す、正に侫人を誅するが爲のみと。兵を進めて、霍邑を取り、臨汾、絳郡に克つて、韓城を下し、馮翊を降す。淵、兵を留めて、河東を圍み、自ら兵を引いて西し、世子建成をして潼關を守らしむ。世民、渭北を徇ふ。關中の豪傑、悉く淵に降る。諸軍を合せて、長安を圍んで、之に克ち、恭帝を立て、淵、大丞相唐王となり九錫を加ふ。尋いで、禪を受け、子建唐-高祖神堯皇帝-五〇五 十八史略卷之五五〇六せいくわうたいししんわうげんきつせいわう成を立てて皇太子となし、世民を秦王となし、元吉を齊王となす。ずゐとうとりうしゆゑつわうどうそんしゆう隋の東都の留守越王侗は、煬帝の孫なり、亦た衆に立てられ、帝らくやうを洛陽に稱す。しんしゆせつきよこじんかう秦主薛擧、卒す。子仁杲、立つ。ニみつずゐへいたゝかたいはいたうくだ魏公李密、隋兵と戰ひ、大敗して、唐に降る。うぶんくわきふしゆかうしいきよてい宇文化及、其立つる所の主浩を弑して、自ら許帝と稱す。りやうわうりき凉王李軌、帝と稱す。しんわうせいみんしんわうせつじんかうちやうあんいち唐の秦王世民、秦を破る。秦王薛仁杲、降る。長安に送つて、市きに斬る。みつきうきやう李密の將徐世勣しやうじよせいせきよ徐世動密の舊境に據つて唐に降り、姓李を賜ふ。とうけんとくかほくしよしうかわう竇建德、河北の諸州を取つて、自ら夏王と稱す。そむたうじんとら李密、唐に叛く。唐人、獲へて之を斬る。かしゆとうけんとくうぶんくわきふちう夏主竇建德、宇文化及を破つて、之を誅す。ずゐしゆどうわうせいじうはいじりつていてい隋主伺、立つて一年。王世充、之を廢し、自立して鄭帝となり、つどうしい尋いで伺を弑す。たうしやうりやうしゆりきおそとらから唐、將を遣して、凉主李軌を襲ひ、執へ歸つて、之を殺し、河西たひ平らぐ。ちんはふこうひれうれうわう沈法興、毗陵に梁王と稱す。しつうこうとごてい李子通、江都に吳帝と稱す。とふくゐ杜伏威、唐に降る。唐-高祖神堯皇帝-五〇七 十八史略卷之五五〇八唐の秦王世民、定陽の將宋金剛を擊つて、之を破る。定陽の可汗劉武周、及び金剛、皆、走つて死す。唐の秦王世民、諸軍を督して鄭を伐つ。吳王李子通、梁を襲ふ。梁王沈法興、走つて死す。夏主寶建德、鄭を救ふ。唐の秦王世民、大に破つて之を擒にす。鄭主王世充降る。世民、長安に至り、黃金の甲を被り、二十五將、建德を市に斬と、其後に從ひ、鐵騎萬匹、甲士三萬、俘を太廟に獻じ、り、世充を赦す。尋いで、人をして、潜に之を殺さしむ。竇建德の故將劉黑闥、始めて、兵を漳南に起す。唐、將李靖を遣して、梁を伐たしむ。梁主蕭銑降る。長安に送つて、之を斬る。杜伏威、吳主李子通を擊ち、執へて長安に送り、誅に伏す。劉黑闥、自ら漢東王と稱す。楚主林士弘、卒す。其衆、遂に散ず。漢東の將、黑闥を執へて、唐に降る。之を斬る。唐の淮南道の行臺僕射輔公祏、丹陽に反す。唐將、擊つて、之を斬る。慶州の都督楊文幹、反す。秦王世民を遣して、之を討平せしむ。突厥、入寇す。秦王世民を遣して、之を禦がしむ。豳州に遇ふ。世民、騎を帥ゐ、馳せて虜陣に詣り、之に告げて曰く、我は秦王な唐-高祖神堯皇帝-五〇九 十八史略卷之五五一〇りと。虜、敢て戰はず。盟を受けて退く。唐、興つて七年。僭僞皆亡び、天下旣に定まる。此歲、始めて、州縣の郷學を置き、帝、親ら國子學に詣つて先聖、先師に釋奠し、に·始めて官制始めて、官制を定め、新律令を頒つ。均田租庸調の法を定む。丁中東京市小石川區西江篤疾は十の六を減じ、令を知りの民、田一頃を給し、寡妻妾は七を減じ、皆一丁毎に歲に租粟二石十の二を以て世業となし、八を口分となし、を入れ、調は土地の宜しき所に隨ひ、綾絹純布、歲役二旬、役せざれば、其傭を收むる日に三尺。事あつて役を加ふる者は、旬有五日にして、其調を免じ、三旬なれば租調共に免ず。水旱蟲霜、十にして四以上を損すれば、租を免じ、六以上を損すれば調を免じ、七以上を損すれば、課役共に免ず。民の質業は、九等に分ち、百戶を里となし、五里を〓となし、四家を鄰となし、四鄰を保となし、城邑に在る者を坊となし、田野の者は村となす。祿を食むの家は、民と利を爭ふを得るなく、工商雜類は、士伍に預るなし。男女、始めて黄、小、中、生まるるを黃となし、四歲を小となし、十六を中となし、二十を丁T)老となし、六十を老となす。歲每に計帳を造り、三歲に戶籍を造る。初め、唐の晉陽に起る、皆、世民の謀なり。帝、世民を以て、儲嗣となさむと欲す。世民、固辭して止む。太子建成、酒色遊〓を喜び、齊王元吉、過失多し。而して、世民、功名日に盛なり。建成、乃ち元吉と謀を協せて、世民を傾けむとし、意を曲げて、諸唐-高祖神堯皇帝-五二 十八史略卷之五五三妃嬪に謂事す。世民、獨り、之を事とせず。之に由つて、左右、皆建成、元吉を譽めて、世民を短る。武德九年六月、太白、天に經り、秦の分に見はる。建成、元吉、世民を殺さむと欲す。秦府の僚屬、王に勸めて周公の事を行はしむ。力め請うて、乃ち決す。是に於て、密奏す。兄弟專ら臣を殺さむと欲し、世充、建德の爲に響を報ぜむとするに似たりと。明日、兵玄武門の變を師ゐて、玄武門に伏す。建成、元吉、入つて變あるを覺り還らむと欲す。世民、追うて、建成を射て之を殺し、尉遲敬德、元吉を射殺す。遂に世民を立てて太子となし、軍國の事、悉く太子に委し魏徴て處決せしめ、然る後に聞奏す。初め、東宮の官屬魏徵、屢ば建成さに勸めて、世民を除かむとす。是に及びて、世民、徵を召し、責む3)るに兄弟を離開するを以てす。徵擧止自若、對へて屈せず。世民之を禮す。王珪も、亦た、嘗て建成の爲に謀る。皆、以て諫議大夫となす。帝、自ら稱して、太上皇帝といひ、詔して、位を太子に傳ふ。之を太宗文武皇帝となす。【太宗文武皇帝】名は世民。幼なりし日、書生あり、之を見て曰く、〓評秦王世民龍鳳の姿、天日の表、其年、冠に幾くして、必ず能く世を濟ひ、民相貌特異英人り最を安んぜんと。高祖、人をして之を追はしむ。見えず、乃ち其語を而る 安其成採つて名となす。李密、始めて高長謂邁と果年十八、義兵を擧ぐ。唐に降り、もを所服神祖に見え、色、尙ほ傲れり。秦王を見るに及びて、敢て仰ぎ視ず。唐-高祖神堯皇帝-太宗文武皇帝-五一三 十八史略卷之五五一四に記載して退いて、歎じて曰く、眞の英主なりと。高祖、秦王の功高きを以て降李仰王てるえ時唐是て秦り傲見のがと,特に天策上將を置く。位王公の上に在り。秦王を以て之となす。電して、の色祖ま府を開き、屬を置き、館を開き、以て文學の士を延く。杜如晦、房玄齡、虞世南、褚亮、姚志廉、李玄道、蔡允恭、薛元敬、顏相時十りり見遇なざぎにあ後りにあめり唯を 明、 文 斯 にて那以は蘇〓顯ねし于志寧、李守素、だ致し朝支所蘇世長、薛收、陸德明、孔穎達、葢文達、二許敬宗を文學館の學士となす。分つて三番となし、日を更へて直宿し宗中高ち者し太創てあ頃祖初あ者平業漢乃三せてす。王の暇日には、輒ち館中に至つて、文籍を討論し、或は夜分に至る。唐りに閣立本をして、像を圖せしめ、褚亮をして賛を爲らしめ、十宗宋而太八學士と號す。士大夫、其選に預るを得るもの時人、之を登瀛洲太祖といふ。時に府僚多く外に補せられ、如晦亦た出づ。玄齡曰く、餘人は惜むに足らず、如晦は王佐の才、大王、四方を經營せむと欲太宗と絕はふのに所謂い代眞とベ英し主せば、如晦に非ざれば、不可なりと。王、卽ち奏して、之を留め、帷幄に參謀せしむ。剖決流るるが如し。玄齡、入つて事を奏する每に、高祖曰く、玄齡、吾が子の爲に事を謀る。千里を隔つと雖も、對面して語るが如しと。秦王の功、天下を葢ひ、身、幾んど危し。房玄齡杜如玄齡、如晦に賴つて、策を決す。是に至つて、位に卽く。首として、晦宮女三千餘人を放つ。突厥の頡利、突利の二可汗、十餘萬騎を合はせて入寇し、進んで渭水便橋の北に至る。上、自ら房玄齡等六騎と、徑に渭水の上に詣やり、頡利と水を隔てて語り、責むるに、約に負くを以てす。突厥、唐-太宗文武皇帝-五一五 十八史略卷之五五一六大に驚き、皆、馬を下つて羅拜す。俄にして、諸軍、繼いで至り、旗甲野を蔽ふ。頡利懼れ、盟を請うて退く。弘文館を置き、四部二十餘萬を聚む。天下文學の士を選び、虞世南等、本官を以て、學士を兼ね朝を聽くの隙、內殿に引き入れ、前言往行を講論し、政事を商權し、或は夜分にして、乃ち罷む。三品以上の子孫を取つて、弘文館學士に充つ。上書して侫臣を去らむことを請ふ者あり。曰く、願はくは、陽り評怒つて、以て之を試みよ。理を執つて屈せざる者は直臣なり威をしの政所這銘家訓個との中太外宗お べ右爲の畏れて旨に順ふ者は侫臣なりと。上曰く、吾、自ら詐をなせば、何す座を以て臣下の直を責めむや。朕、方に至誠を以て天下を治めむと。或ひと法を重くして盜を禁ぜむことを請ふ。上曰く、當に奢を去つて費を省き、徭を輕くし、賦を薄くし、廉吏を選用し、民の衣食をして餘あらしむれば、自ら盜を爲さず。安んぞ、重法を用ゐむやと。之より數年の後、路、遺ちたるを拾はず。商旅野宿す。上、嘗て曰く、君は國に依り、國は民に依る。民を刻して、以て君に奉ずた、るは、猶ほ肉を割いて以て腹を充たすが如く、腹飽けども身斃れ、君、富めども國亡びむと。又嘗て侍臣に謂つて曰く、聞く、西域の賈胡、美珠を得れば、身を剖いて之を藏むと。是れ有りや。曰く、之あり。曰く、吏の賊を受けて、法に抵ると、帝王の奢欲に狗ひて國を亡すと、何を以て、此胡の笑ふべきに異ならむやと。魏徵曰く、唐-太宗文武皇帝-五一七 十八史略卷之五五一八宅むかし、魯の哀公、孔子に謂つて曰く、人好く忘るるものあり、またはな〓〓を徒して其妻を忘る。孔子曰く、又甚しきものあり、桀紂は、乃ち其身を忘ると。亦た猶ほ是の如きなりと。張蘊古大賣張蘊古、大寶箴を獻ず。曰へるあり、一人を以て天下を治む、天箴を獻ず下を以て一人に奉ぜずと。又曰く、九重を内に壯にすれども、居る所は、膝を容るるに過ぎず。かの昏にして知らざるは、其臺を瑤にし其室を瑀にす。八珍を前に羅ぬれども、食ふ所は口に適ふに過ぎず。惟れ狂にして念ふなきは、其糟を丘にして、其酒を池にすと。ら又曰く、沒沒として闇きこと勿れ、察察として明なること勿れ冕旒目を蔽ふと雖も、無形に視よ。〓續耳を塞ぐと雖も、無聲に聽けと。上、其言を嘉す。天下を分つて十道となす、山川の形便に因る。曰く關內、河南、河東、河北、山南、隴右、淮南、江南、劍南、嶺南將を遣して、梁師都を討つ。其下、之を殺して以て降る。其地を以て夏州となす。太常祖孝孫、唐の雅樂を奏す。貞觀二年、又、宮女三千餘人を出す。軍國の大事は、故事、中書舍人、各所見を雜署し、之を五花判事といひ、中書侍郞、中書令、之を省審し、給事中、黃門侍郞、之を駁正す。上王珪に謂つて曰く、國家、もと中書門下を置いて以て唐-太宗文武皇帝-五一九 十八史略卷之五五二〇相檢察す。卿曹、雷同すること勿れと。時に、珪、侍中たり。房玄評反女齡杜齡杜如晦、僕射たり。魏徵、祕書監に守たり。朝政に參預す。如明治3年間唐初三名玄齡、事を謀る、必ず曰く、如晦に非ざれば決する能はずと。如臣な異忠りの魏徵の臣相ずたきる臣良晦至るに及びて、卒に玄齡の策を用ゆ。蓋し、玄齡善く謀り、如晦のに味論ら々如やる滋あ深善く斷ず。二人、心を同じうして、國に徇ふ。故に、唐の世、賢相を稱する、房杜を推す。魏徵、嘗て上に告げて曰く、願はくは、臣をして良臣たらしめよ、臣をして忠臣たらしむる勿れ。上曰く、忠良異なれりや。徵曰く、稷契、皐陶、君臣心を協せて、共に尊榮を享く、謂ゆる良臣なり。龍逢、比干、面接廷爭、身誅せられ、國亡ぶ、謂ゆる忠臣なりと。上、悅ぶ。5初め、突厥、旣に强く、敕勒諸部、分散し、薛延陀、囘紇等の十五部あり。皆、磧北に居る。額利、政亂れ、薛延陀、囘紘等之に叛く加ふるに、民、大に飢ゑ、羊馬多く死す。使を奉ずる者還り、及び邊帥、皆、突厥取るべきの狀を言ふ。詔して、李靖を以て、定襄道の行軍總管となし、諸軍を統べて、之を討たしむ。靖、突厥を陰山に襲ひ破る。頡利可汗、遁れ走る。唐將、之を擒にして以て獻ず。時に、突利可汗、先に己に入朝す。上、突厥の降衆を處するに、東は幽州より西は靈州に至らしむ。突利の地を分つて四州となし、頡利の地を分つて六州となし、左に定襄都督を置き、右に雲中都督を置き、以て其衆を統べ、突利を以て順州都督となし、額利を唐-太宗文武皇帝-至二 十八史略卷之五五二二右衞大將軍となす。林邑、使を遣して入貢す。伊吾、來り降る。伊西州を置く。高昌王麴文泰入朝す。評之より先、四夷の君長、闕に詣り、帝に天可汗とならむを請ふ。何行可子は太ぞは汗た大宗壯んのり唐言又のふる言を下天我事上曰く、我は大唐の天子たり、又、下、可汗の事を行はむかと。群な乎臣及び四夷、皆萬歲と稱す。之より後、璽書、西北の君長に賜ふには、皆、天可汗と稱す。蔡公如晦卒貞觀四年、蔡公如晦、卒す。上語、及べば、必ず涕を流す。す此歲、大に年あり。上、初め位に卽くや、常に群臣と語つて、〓化に及ぶ。曰く、大亂の後、それ治め難きか。魏徵、對へて曰く、〓12饑ゆる者は食を爲し易く、渴する者は飮を爲し易し。封德彝曰く、三代以還、人漸く澆訛、故に秦は法律に任じ、漢は霸道を雜ふ。蓋し、化せむと欲するも能はざればなり、豈に之を能くして、然も欲せざらむや。徵曰く、五帝三王、民を易へずして化す。湯武は、皆評國民大學大亂の後に乘じて、身、太平を致し、帝道を行うて帝たり、王道をふ)行うて王たり。行ふ所、如何を顧るのみと。上卒に徵の言に從ふ.元年、關中饑ゆ、斗米、絹一匹に直る。二年、天下蝗あり。三鑑道一加土り蓋著工具り、年、大水あり。上、勤めて、之を撫す、未だ嘗て嗟怨せず。是に至じつて、天下、大に稔る。米、斗、三四錢。終歲、死刑を斷ずる、わ唐-太宗文武皇帝-五二三 十八史略卷之五五二四づかに十九人。東海に至り、南.五嶺に及ぶまで、皆、外戶閉ぢす、ず、行旅糧を齎らさず、給を道路に取る。上曰く、魏徵、我に勸めて、仁義を行はしむ。今、旣に效あり。惜むらくは、封德彜をして之を見せしめずと。盖し、德彜は、元年六月に死せり。五年。林邑、新羅、入貢す。黨項、內附す。其地を開いて、十六州となす。支店内七銀丸功の安七年。春、玄武門に宴し、七德九功の舞を奏す。徵上が武を偃舞せ文を修めむことを欲す。宴に侍する每に、七德の舞を見ては輒一)ち首を俛して視ず。七德の舞は、秦王破陣の曲なり。九功の舞を見れば則ち之を諦觀す。王珪、罷む。徵侍中となる。る評の事後世論太宗縱囚上親ら囚徒を錄し、死に應ずる者を見て、之を憫み、縱つて、議ある所な家に歸らしめ、期するに、來秋を以てして死に就かしむ。仍つて、)今省採世り三者のの轉向用事件天下の死囚に敕して、皆、縱ち遣り、期に至つて、京師に來り詣らせししむ。是に至つて、皆期の如く、自ら朝堂に詣る。上、皆之を赦す。凡そ三百九十人。上太上皇を奉じて、未央宮に置酒す。上皇、頡利可汗に命じて古起つて舞はしむ。馮智戴、詩を詠ず。笑つて曰く、胡越一家、しへより未だ有らざるなりと。八年。吐蕃、使を遣して入貢す。高祖崩ず九年。太上皇、崩ず。上皇、卽位九年にして位を禪り、是に至る唐-太宗文武皇帝-五二五 十八史略卷之五五二六まで又九年。吐谷渾、之より先、凉州に入寇す。李靖を以て諸軍に帥たらしめ、討つて之を破る。十年。吐谷渾、子を遣して入侍せしむ。治書侍御史權萬紀言ふ、宣饒、銀、大に發す。之を采らば、歲毎に、數百萬を得べしと。上曰く、卿未だ嘗て一賢才を進めず、然も專ら銀の利を言ふ。むかし、堯舜、壁を山に抛ち、珠を谷に投じ、漢の桓靈、乃ち錢を聚めて私藏となす。卿桓靈を以て我を俟たむとするかと。之を黜く。府兵を定む、凡そ十道。府を置く、六百三十四。而して、關内はす二百六十一、皆、諸衞及び東宮六率に隸し、上府の兵は凡そ千二百中府は千人、人下府は八百人。三百人を團となし、團に校尉あり、ちやう、五十人を隊となし、隊に正あり、十人を火となし、火に長あり、人毎に兵甲粮裝、各 數あり。之を庫に輸し、征行には之を給す。二十なにして兵となり、六十にして免す。能く騎射する者は越騎となし、其餘は、步兵となす。統軍別將を更命して、折衝果毅都尉となし、歲の季毎に、各折衝都尉、帥ゐて以て戰を〓へ當に馬を給すべき者には、官より直を與へ當に宿衞すべき者は、番上し、兵部は遠とほき·そ近を以て番を給し、遠は疎、近は數皆、一月にして更る。十三年。夏、旱す。五品以上に詔 して、事を言はしむ。魏徵、唐-太宗文武皇帝-五二七 十八史略卷之五五二八言ふ、陛下、貞觀の初に比して漸く終を克くせざるもの十條と。上、深く賞歎す。十四年。上國子監に詣り、親ら釋奠す。この時、大に天下の名儒を徵して學官となし、屢ば國子監に幸し、之をして講論せしむ。學は能く一經已上に明かなる者は、皆官に補するを得。學舍を增築すること、千二百間、學生を增して、三千二百六十員に滿たしむ。屯營飛騎よりしても、亦た博士を給して經を授け、能く經に通ずる者あれば貢擧を得るを聽す。是に於て、四方の學者、京師に雲集し、乃ち高麗、百濟、新羅、高昌、吐蕃の諸會長に至るまで、亦た子弟を遣し、請うて、國學に入らしめ、講筵に昇る者八千餘人に至る。上、師說多門にして、章句繁雜なるを以て、孔頴達に命じて、諸儒と共に五經の疏を定めしむ。之を正義といふ。高昌王麴文泰、之より先、西域の朝貢を遏絕し、及び中國の人を拘留す。侯君集を以て交河大總管となし、兵に將として、之を擊たしむ。是に至つて、高昌を滅ぼし、其地を以て西州となす。十五年。吐蕃、婚を求む。文成公主を以て之に嫁せしむ。鄭公魏徵卒十七年。鄭公魏徵、卒す。上曰く、銅を以て鏡となせば、衣冠をすた古しへを以て鏡となせば、評魏徵は謀正すべく、興替を見るべく、人を以て鏡者氏乃木真んもとなせば、得失を知るべし。徵沒して、朕、一鏡を亡ふと。徵·はふむ葬るや、上、自ら碑を製して石に書す。唐-太宗文武皇帝-五二九 十八史略卷之五五三〇功臣を凌烟功臣長孫無忌、趙郡王孝恭、杜如晦、魏徵、房玄齡、高士廉、尉閣に圖畫す遲敬德、李靖、蕭瑀、段志玄、劉弘基、屈突通、殷開山、柴紹、長孫順德、張亮、侯君集、張公謹、程知節、虞世南、劉政會唐儉、李勣、秦叔寶等を凌煙閣に圖畫す。太子承乾、不才なり。魏王泰、多能にして寵あり、潜に嫡を奪ふ(うの志あり。侯君集、功を負んで、怨望し、承乾の暗劣を以て釁に乘さぜむと欲し、因つて之に反を勸む。事覺はる。廢して庶人となし、君集坐して誅せらる。泰も、亦た險詐を以ててられず。晉王治をす立てて太子となす。魏徵、嘗て君集を薦む。上、初め、徵の阿黨するを疑ふ。又、徵自ら前後の諫辭を錄して、起居郞褚遂良に示すといふ者あり。上、愈よ悅ばず。徵、終に臨む時、上、公主を面指して、其子叔玉に妻はさむと欲す。是に至つて、其婚を停め、立つる所の碑を踏す。十八年。上、親ら高麗を征す。之より先、高麗の泉蓋蘇文、其君を弑し、新羅、又、使を遣して言ふ、百濟、高麗と兵を連ねて、新い羅入貢の路を絕たむを謀る。乞ふ兵をもつて救援せよと。上、遂に之を討たむとし、先づ洛陽に如く。十九年。上、洛陽を發して、定州に至り、諸軍を進む。上、遼水を渡り、遼東城を拔き、白巖城を降し、安市城を攻め、大に其救兵を城下に破る。安市城、險にして兵精、堅守して下らず、議者、烏唐-太滑文武皇帝-垂 十八史略卷之五五三二骨城を拔き、鴨綠水を渡り、直に平壤を取らむとし、其本根を覆さば、餘は戰はずして降すべしといふ。或ひと又謂ふ、親征は諸將と異なり、危きに乘ずべからずと。上、遼左早寒、草枯れ水凍つて、士卒久しく留め難く、且つ粮將に盡きむとするを以て、敕して、師を班す。この行、十城を拔き、戶口七萬を徒し、三たび大戰して、斬首四萬餘級。然れども、戰士死する者、幾んど三千人、戰馬の死13する、什に七八、功を成す能はず。深く之を悔い、歎じて曰く、魏徵若し在らば、我をして、此行あらしめざるなりと。命じて、騎を馳せ、徵を祀るに少牢を以てし、復た製する所の碑を立つ。二十年上靈州に行く。李世勣をして、薛延陀を擊たしめ、破つて之を降し、敕勒の諸部を詔諭す。囘乾等十一姓、各、使を遣しわ、て、命に歸し、官司を置かむを乞ふ。詔して曰く、朕聊か偏師に命じて顏利を逐擒し、始めて、廟略を弘む。旣に、延陀を滅し、鐵動百餘萬戶、請うて州郡となる。混元以來、殊に未だ前聞せず。大家上評百詩王|宜しく、禮を備へて廟に〓ぐべしと。仍つて、天下に頒示す。上雪(さ除詩を爲つて曰く、耻を雪いで百王に酬い兇を除いて千古に報ず意氣爽なと石を靈州に刻す。司空房玄齡卒す二十二年、司空梁公房玄齡、卒す。上悲んで、自ら勝へず。玄評スキ房相當國齡上を佐けて、天下を定め、相位に終るに及ぶまで三十二年、號けんしや·之原子しやったして賢相となす。然れども、跡の尋ぬべきものなし。上、禍亂を定唐-太宗文武皇帝-五三三 十八史略卷之五五三四5上な。然も房杜功を言はず。王魏善く諫諍す。然も房杜其賢を讓る。英衞善く兵に將たり。然も房杜其道を行ふ。理、太平を致し、善人主に歸す。唐の宗臣たり。二十三年。上、疾あり。太子に謂つて曰く、李世勣、才知、餘あり。然れども、汝、之に恩なし。我、今、之を黜けむ。我死せば、用ゐて僕射となして、之に親任せよ。若し徘徊顧望すれば、則ち當きに之を殺すべきのみと。乃ち疊州都督に左遷す。詔を受くるや、家に至らずして去る。太宗言行上崩ず。在位二十四年。改元するもの一曰く貞觀上、武功を以て、禍亂を定むと雖も、終に文德を以て海內を綏んず。常に自ら驕侈を以て懼となす。嘗て曰く、人主惟だ一心、之を攻むる者衆し。或は勇力を以てし、或は辯口を以てし、或は諂諛を以てし、或は姦詐を以てし、或は嗜欲を以てし、輻輳して、各、自ら售らむことを求む。人主少しく解つて、其一を受くれば、危亡之に隨ふ、是れ難き所以なりと。嘗て、侍臣に問ふ、創業守成、孰れか難き。玄齡曰く、草味の初群雄並び起り、力を角して後に、之を臣とす、創業難し。魏徵曰く、古しへより、帝王、之を艱難に得て、之を安逸に失はざるはなし、守成難し。上曰く、玄齡、吾と共に天下を取り百死を出でて一生を得たり、故に創業の難きを知る。徵吾と1/3共に天下を安んじ、常に驕奢は富貴に生じ、禍亂は忽にする所に生唐-太宗文武皇帝-五三五 十八史略卷之五五三六ずるを恐る、故に守成の難きを知る。然れども創業の難は、往けり、守成の難は、方に諸公と之を愼まむと。自ら神采の臣下に畏れらるるを知り、常に溫顏にして群臣に接し、人を導いて諫めしめ、諫むる者を賞し、以て之を來す。惟だ末年東征の役、褚遂良、嘗て諫むれども聽かず、太子立つ、之を高宗皇帝となす。【高宗皇帝】名は治、母は長孫皇后。承乾の廢せらるるや、長孫さ、無忌、力めて太宗に勸めて治を立つ。東宮に在ること七年。太宗、こと〓〓帝範十二篇嘗て帝範十二篇を作つて、以て賜うて曰く、修身治國、盡く其中に在り。一旦不諱更に言なしと。是に至つて卽位す。長孫無忌、褚せ七遂良、先帝の遺詔を受けて、政を輔け、李勣を以て左僕射となし、尋いで、司空となす。業大夫お宗る次儀才でと人赤水焼永徽五年。太宗の才人武氏を以て昭儀となす。)后とな六年。上、皇后王氏を廢して、武昭儀を立てて后となさむとす。以て李勣に問ふ。許敬宗、李義府、之を賛す。褚遂良、可かず。勣曰く、是れ陛下の家事、何ぞ必ずしも、更に外人に問はむと。事、義府-李猫遂に決す。褚遂良、貶せられ、義府、參知政事たり。義府、貌溫ミ評多し當世李猫恭なるが若く、人と嬉怡し、然も、狡險忌克。人謂ふ、笑中刀あり、柔にして物を害す、之を李猫といふと。武后、長孫無忌が己を助けざりしを以て、深く之を怨み、顯慶四官を削つて、年、無忌の黔州に安置す。遂良、先つこと一年にして唐-高宗皇帝-五三七 十八史略卷之五五三八卒す。是に至つて、無忌、初の議者、柳奭、韓瑗と共に皆殺さる。だじやうげん〓〓乾封元年上、泰山に封じ、毫州に至り、老君を尊んで太上玄元皇帝となす。李勣を以て遼東大總管となし、高麗を伐つ。總章元年李勣、平壤を拔き、其王を降し、高麗悉く平らぐ。安東都護府を置く。上元元年。帝、天皇と稱し、后、天后と稱す。二)は初め、帝、賤妾の子忠を以て太子となす。武后、之を廢して、后の子弘を立つ。弘、仁孝、中外心を屬す。后の意に忤ふ。之を鴆す。其次を立つ、賢といふ。又、事を以て之を廢して、其次哲を立つ。上、在位改元するもの十三、曰く、永徽、顯慶、龍朔、麟德、乾じやうげん封總章咸享、上元儀凰、永隆、開耀、永淳、弘道、凡そ三十四年。而して、政、中宮に在るもの三十年。褚遂良等、死せしより後、群臣敢て諫むる者なし。李善感、嘗て、事に因つて、一たび諫む。人、以て、鳳朝陽に鳴くとなす。上、崩ず。太子哲、位に卽く之を中宗皇帝となす。【中宗皇帝】初名は顯、哲と改名す。旣に位に卽き、韋妃を立てて)3后となし、改元して嗣聖といふ。明年、武后、帝を廢して廬陵王となして、其弟旦を立つ。旦、虛器を擁するもの七年、改元して垂唐-高宗皇帝-中宗皇帝ー五三九 十八史略卷之五五四〇撰といひ、永昌といふ。太后、旦を廢して皇嗣となして帝と稱す。之を則天武氏となす。C則天武氏則天武氏は、故の〓州都督武士護の女なり。太原の人。年十四。太宗、其美を聞き、召して、後宮に入れ、貞觀十一年を以て、才人さとなる。時に、天下の歌曲を斌媚娘と名づく。旣に識を成す。貞觀の末、太白屢ば晝現はる。太史、占して云ふ、女主昌ならむと。又秘記を傳ふ、唐三世の後、女主武王、代つて天下を有たむと。太宗、之を惡む。嘗て、群臣と宴するや、各をして小名を言はしむ。武衞將軍李君羨、官稱封邑、皆武の字あり。而して、小名は五娘。太宗、愕いて曰く、何物の女子ぞ乃ち爾かく健なるかと。或ひと奏す、君羨、不軌を謀ると。遂に之を誅す。密に太史李淳風に問ふ。對へて曰く、臣、仰いで天象を觀、俯して曆數を察するに、其人、旣に陛下の宮中に在り、三十年を過ぎずして、當に天下に王たるべく唐の子孫を殺して、殆んど盡きむ、其兆、旣に成れりと。太宗崩ず。才人年二十四、尼となる。高宗、寺に幸す、之を見て泣く。時に、さ王皇后、蕭淑妃と寵を爭ふ。密に髪を長くせしめ、高宗に勸めて之を納る。·既に入つて、后と淑妃と、皆寵を失ふ。武氏、年三父士護に十二、遂に昭儀より后となり、王、蕭、皆殺さる。周國公を尋いで、太原王を加贈す。贈り、高宗、風眩に苦んで、百司の奏事せいめいびんを視る能はず。或は皇后をして、之を決せしむ。后、性明敏、文史唐-中宗皇帝-雷 十八史略卷之五五四二政事を涉獵し、事を處して、皆、旨に稱ふ。之に由つて、委するにを以てし、權人主に伴しく、人、之を二聖といふ。高宗の世に在一)子哲位つて、后、自ら子弘を殺し、子賢を廢す。高宗、旣に崩じ、に卽くや、廢して廬陵王となして、子旦を立つ。后、朝に臨んで、ま制を稱し、武氏の七廟を立つ。一抔の土、未だ英公李敬業、兵を起して、之を討つ。檄に曰く、六尺孤安く乾かず、六尺の孤、安にか在る。又曰く、試に今日の域中を觀よ、にか在る擊つて之を殺す。越竟に是れ誰が家の天下ぞと。太后、將を遣し、遂に大に唐の王貞、又兵を擧げて匡復す、克たずして死す。太后、宗室を殺し、自ら墨と名づけ、皇帝と稱し、國を周と號し、旦を以て皇嗣となし、姓を武と改む。時に塁年六十七。初め、僧懷義を寵し、後に張易之、張昌宗を寵し、兄弟中に居て、事を用ゆ。易之は五郞、昌宗は六郞侫者曰く、人は言ふ、六郞は蓮花に似たり。吾は謂ふ。蓮花は六郞に似たるのみと。墨、人心の服せざるを知り且つ內行正しからず、人の己を議せむことを畏れて、盛に〓密の門を開き、酷吏侯思止、索元禮、周興、來俊臣、吉項等を用ゐて、鍛鍊羅織し、率ね反逆を以て、人を誣ひ、誅殺勝げて紀すべからず。之を用ゐて、天下を拑制す。然れども、權數あつて善く人を用ゐ、に賢才も、亦た之が爲に用ゐらるるを樂む。徐有功、仁恕にして、法;)を執る。嬰、毎に意を屈して、之に從ふ。將相、多く人を得たり。唐-中宗皇帝-五四三 十八史略卷之五魏元忠、婁師德、狄仁傑、姚元崇皆名相宋環、亦た朝に顯はる。と、くわんこうせいしん師德、寬厚〓愼犯せども校せず。弟代州の刺史に除せらる。師1/5德謂ふ。兄弟、榮寵過盛なるは、人の惡む所なり何を以て、之を免れむ。弟曰く、今より、人某の面に唾すと雖も、之を拭はむのみ師德、愀然として曰く、是れ吾が憂たる所以なり。人、汝の面に唾するは、汝を怒らしめむとするなり。然るに之を拭はば、其意に逆つて其怒を重ねむ。唾は拭はざるも、自ら乾く、當に笑つて之き···を受くべきのみと。師德、每に仁傑を薦む、然も、仁傑、毎に師德せを毀る。墨、仁傑に語つて曰く、朕、卿を用ゐしは、師德の薦むる所なりと。仁傑退いて歎じて曰く、婁公盛德、我容れらるること久しと。武承嗣、三思、太子たらむを營求す。仁傑、從容として塁に言つて曰く、太宗、櫛風沐雨、親ら鋒鏑を冐し、以て天下を定ためて之を子孫に傳へ太帝二子を以て陛下に托す。今乃ち之を他族に移さむと欲す。乃ち天意に非ざるなきか。姑姪と母子と、孰れか親しき。陛下、子を立つれば、則ち千秋萬歲の後太廟に配食せむ。一姪を立つれば、則ち未だ、姪、天子となつて、姑を廟に祔する者を聞さかざるなりと。嬰、やや悟る。旣にして、又力めて勸む。遂に房州よか、り廬陵王を召して、都に還らしめ、立てて皇太子となし、子旦を以て相王となす。仁傑、最も信重せられ、面折廷爭を好む。嬰、常に屈從し、稱して、國老となして、名いはず。仁傑、卒す、嬰、泣い唐-中宗皇帝-五四五 十八史略卷之五五四六げんかうちうはくがくたつうきかんおほて數ず。元行冲、博學多通なり。仁傑、之を重んず。行冲、規諫多めいこうちんみおほやくぶつまつそなし。曰く、明公の門には、珍味多し、請ふ藥物の末を備へむ。仁傑やくらうちうえうげん笑つて曰く、吾が藥籠中の物、何ぞ一日も無かるべけむやと。姚元すうとうす、たうり崇等、數十人、皆仁傑が薦むる所。或は曰く、天下の桃李、悉く公けんすの門に在り。仁傑曰く、賢を薦むるは、國の爲にして、私の爲にすせうかしるに非ざるなりと。嬰、嘗て仁傑に問ひ、一佳士を得て、之を用ゐちやうかんしむと欲すといふ。仁傑曰く、張東之といふ者あり、老いたりと雖もさいしやうつひかんししやうやまひい宰相の才ありと。後、竟に東之を用ゐて、相となす。墨、疾に寝ねはなはだかんしさいげんきけいきくわんげんはんゑんじよきうりんしやうぐんりて甚し。東之、崔玄暉、敬暉、桓彥範袁恕己と共に、羽林將軍李たそらひきあないらんとうきうむかくわん多祚等を率ゐ、兵を擧げて、內亂を討ち、太子を東宮に迎へ、關をえきししやうそうかせうじやうやうきううつそんがう斬つて入り、易之、昌宗を庶下に斬り、塁を上陽宮に遷し、尊號をそくてんだいせいくわうていそか武后殂す上つて、則天大聖皇帝といふ。この冬、殂す、年八十二。唐を易へ(西紀七〇五)かいげんてんじゆじよいて周となすもの、十有六年。改元するもの十、曰く、天授、如意、ちやうじゆえんさいばんさいつうてんじんこうせいれさきうしたいそくちやうあん長壽、延載。曰く萬歲通天。曰く神功、聖曆、久視、大足、長安ちやうあんくらゐさがうはい長安の五年、帝、位に復す、唐と號す。帝、卽位二月にして廢せきんしうばうしうかへられ、均州に居る者一年、房州に居る者十三年、還つて太子となるせいかへゐしじやうばうれう者又八年、然る後に、正に反り、韋氏復た皇后となる。上、房陵にじさつごとこうつねとじひそかちか評武在つて、自殺せむと欲する毎に、后每に之を止む。六共に私に誓を送禍り氏本でのいじさいわひまてんじつたほつきん氏のふ異時幸に復た天日を見ば、唯だ欲するままにして禁ぜずと。是てうのぞごとゐまんほどこでんじやうてうせいに至つて、朝に臨む每に、后、必ず帷幔を施し、殿上に坐して朝政唐-中宗皇帝-五四七 十八史略卷之五五四八を預り聞くこと、武氏の高宗の世に在るが如し。上の女安樂公主武三思の子に適く。三思、之を以て、宮禁に入るを得て、韋后に通ず。后、三思と雙陸す。而して上、爲に點籌す。土、遂に三思とちやうかんしとう政事を圖議す。張東之等、皆、制を受く。五人、·黄王爵を賜うてい政を罷む。旣にして、遠く貶して之を殺す。安樂公主等、勢に依つて事を用ゐ、請謁賊を受け、墨敕を降して、官に除し、斜封して中書に付す、時に之を斜封官といふ。凡そ數千人。人、上言するあり、皇后淫亂なりと。土、之を面詰す。其人、抗言して撓まず。せ、中書令宗楚客、制を矯めて之を撲殺す。上の意、快々たり。后及び其黨、始めて懼る。馬秦客、楊均、皆、后に幸せらる。事の泄れむ;)ことを恐れ、安樂公主も、亦た后が朝に臨み、己を以て皇太女となささむを欲し、乃ち相與に餅餤の中に於て、毒を進む。上、位に復して改元するもの二、曰く、神龍、景龍。景龍四年にして、弑に遇ふ。 溫王重茂を立て、后、攝政す。相王の子隆基、兵を起して亂を討ち、后及び安樂公主を斬り、其黨を併せて、皆之を誅し、重茂を廢し、相王を奉じて、之を立つ、之を睿宗皇帝となす。【虐宗皇帝】名は旦。初め高宗崩じ、中宗廢せらるるや、武氏、旦を立つ。帝たる者七年、然も廢せられて、周の皇嗣となる者九年、相王に改封せらるる者十年。是に至つて、復た帝となる。隆基を立てて太子となす。宋環、姚元之、政を爲す。二人心を協せて、弊政唐-中宗皇帝-睿宗皇帝ー五四九 十八史略卷之五五五〇あらたちうりやうふせうしりぞしやうばつこうつくせいたくおこなを革め、忠良を進め、不肖を退け、賞罰公を盡し、請托行はれず、者こうしうきよたうじきふぜんしゆくきんめいら〓んうまひ八風の舞紀綱修擧す。當時翕然たり。祝欽明等を貶す。欽明、嘗て八風の舞つくけいちはらを爲る。人曰ぐ、五經地を掃ふと。いもうとたいへいこうしゆちやうちうゐし帝の妹太平公主、二張を誅し、韋氏を誅する時に於て、皆、力しばしたいこういきほひそんちようともあり。既に屢ば大功を立て勢あつて尊重せらる。上、嘗て、與にけんじんしゆかたむえいぶはゞか政を議し、權人主を傾け、其門、市の如し。太子の英武を憚つてかろあんせきぞうえいちやうせつえうげんしらじやうかんご之を易へむと欲す。韋安布、宋環、張說姚元之等、上の意を感悟しよぶんまするに賴つて、政事、皆太子の處分を取る。よ復た帝となつてけいうんたいきよくより、改元するもの二、曰く、景雲、太極是に至つて三年、自らだじやうくわうしようつたげんそうめいくわうてい太上皇と稱し、位を太子に傳ふ、之を玄宋明皇帝となす。りんしわうゐしちんひそかさい西紀自七一二至七五六ゆう【玄宗明皇帝】名は隆基。あつひそかきやうふく初め、はか臨淄王となる。げうゆう韋氏の亂、えら陰に才ひやくき勇の士を聚めて、密に匡復を謀る。太宗、初め驍勇を選んで、百騎ぶこうませんきさいううりんれいはんきとなし、武后增して千騎となし、左右羽林に隸す。中宗、之を萬騎しおりやうりうきみなあつそのがうけつむすといひ、使を置いて、之を領せしむ。隆基、皆厚く其豪傑に結び、つひえいそうほうへいわうまさ卒に韋氏を誅し、睿宗を奉ず。封ぜられて、平王となる。睿宗、將ちよしちやうしせいきいうこうつとに儲嗣を立てむとす。長子成器、平王の有功なるを以て、力めて之ゆづゆづりに讓り、遂に太子となり、尋いで、禪を受く。かいげんぐわんねんかうりきしいうかんもんしやうぐんないじせにら開元元年高力士、右監門將軍となり、内侍省事に知たり。初せいほんくわんくわういりんしよくめ、太宗、制を定め、內侍省には三品官を置かず、黃衣廩食、門をめいつたほんしやうぐんじよやうや守り、命を傳ふるのみ。是に至つて、三品將軍に敍する者、漸く多唐-玄宗明皇帝-堊 十八史略卷之五五五二くわん〓〓ま堂官增して三千人に至る。内侍の盛なる、是に始まる。姚崇、紫微令となる二年太常、俗樂を併典すべからざるを以て、左右〓坊を置き、之を皇帝梨園の弟子といふ。珠玉錦繡を殿前に焚く。興慶宮を作り、樓を置き、西を花蕚相輝といひ、南を勤政務本といひ、宋王成器等の宅、其側を環る。三年虚懷愼、黃門監となる懷愼、〓謹儉素、妻子、饑寒を免れず。居る所、風雨を蔽はず。姚崇、嘗て謁〓すること十餘日、政{事委積す。懷愼、決する能はず。崇、出づ。須臾に裁決し盡す。顧みて、齊澣に謂つて曰く、我、相たる如何。澣曰く、時を救ふの相といふべしと。懷愼、才の及ばざるを知り、事毎に崇を推す。時に盧懷愼伴食之を伴食宰相といふ宰相四年姚崇、罷む。宋環、黄門監となる。環相となるや、務め顔を犯て人を擇び、百官、各其職を得たり。好んで、して正諫す。え上、甚だ之を敬憚す。環姚崇と相繼いで政を爲す、崇は善く變に應じ、環は善く文を守り、志操同じからず、然れども、心を協せて輔佐し、賦役をして寛平ならしめ、刑罰〓省、百姓富庶。唐世のま、施工匠杜後正姚房宋賢相前には房杜を稱し、後には姚宋を稱し、佗は比するを得るなし二人進見する每に、上輙ち之が爲に起ち、去れば、軒に臨んで唐-玄宗明皇帝-五五三 十八史略卷之五五五四之を送る。八年。宋環、罷む。うぶんゆうここうたういこうぎはなは九年。宇文融、言ふ、天下の戶口逃移し、巧僞甚だ多し、請ふ、けんくわつどうへいしやうじげんけんえうさんせいゆうくわんのう評勸農使誅檢括を加へむと。同平章事、源乾曜、之を賛成す。融を以て、勸農求の具となしくわんのうはんくわんにんぶんかうきそる善政酷吏使となし、奏して、勸農判官十人を置く。天下を分行して、競う好せに例らスポのルる〓イこくきうしうけんふううらうぜうひやくしやうこれくるして刻急をなし、州縣風を承けて勞擾し、百姓之に苦む。どうほんちやうぜつせうぼじゆんじつせいへいまん同三品張說、建議し、壯士を召募して、旬日、精兵十三萬を得たしよゑいぶんれいかうばんじやうげへいのう50諸衞に分隸し、更番上下す。兵農の分るる、是に始まる。ちやうじうしゆくゑいあらたなくわうき十三年。長從宿衞を更め命づけて壙騎となす。かんきうどうへいしやうじひとなせうちよくえん二十一年。韓休、同平章事たり。休、人と爲り峭直。上、或は宴いうせうくわすなはいかんきうげんをは遊小過あれば、輒ち左右に謂つて曰く、韓休、知るや否やと。言終かんそへいかミきうつて、諫疏、旣に至る。左右曰く、休、相となり、陛下殊に舊よりやたんも瘠せたり。土、歎じて曰く、吾は瘠せたりと雖も、天下は肥えむきうやもやうきうれいつと休罷む。張九齡、之に繼ぐ。ちうしよれいりりんほじう評に李て甫柔二十二年。九齡、中書令となり、李林甫、同三品たり。林甫、柔侫其多 Cafe狡ねいかうすうおほくわんくわんおよひひんむすどうせいうか亦數多電壓侫にして狡數多く、深く宦官及び妃嬪の家に結び、上の動靜を伺そうたに旨に稱ふ。かなひ、之を知らざるなし。之に由つて、奏對する每に常いうしうせつどしちやうしゆけいはいぐんしやうあんろくざんとらけいし安祿山二十四年、幽州の節度使張守珪敗軍の將安祿山を執へて、京師ちやうきうれいひぐんれいに送る張九齡、批して曰く、守珪の軍令、若し行はるれば、祿山よろまぬかそのさいゆうをしゆる宜しく死を免るべからずと。上、其才勇を惜んで、之を赦す。九唐-玄宗明皇帝-五五五 十八史略卷之五五五六齡、力爭して曰く、祿山、反相あり、誅せざれば、必ず後患をなさ무む。上曰く、卿王夷甫が石勒を識るを以て、枉げて忠良を害する勿れと。竟に誅せず。祿山はもと營州の雜胡なり。初名は阿犖山。の母、再び安氏に適く。故に其姓を冒す。部落破散して、逃れ來る。狡點にして、守珪に愛せらる。又、史翠子といふ者あり、祿山と里閉を同じうし、又驍勇なり。守珪、入つて、事を奏せしむ。上、名ゆ史思明を思明と賜ふ千秋節に、群臣、皆、寶鏡を獻ず。九齡、前世の興廢を述べて、張九齡千秋千秋金鑑錄五卷を爲つて、之を上る。金金像を上九齡、罷む。李林甫、中書令を兼ぬ。上、在位久しく、漸く奢欲を肆にす。林甫、遂に政を專らにするを得たり。二十六年、忠王を立てて太子となす。二十九年。安祿山を以て營州都督となす。祿山、傾巧にして、善く人に事ふ。上の左右、平盧に至れば皆厚く賄ふ。歸つて、之を譽む。上、益す以て賢となす。天寶元年祿山を以て平盧節度使となす。二年。祿山、入朝す。三年。年を改めて、載と曰ふ。祿山を以て、范陽節度使を兼ねしむ。楊貴妃四載楊太眞を以て、貴妃となす。故の蜀州司戶玄琰の女なり。唐-玄宗明皇帝-五五七 十八史略卷之五〓評上の子壽王の妃たること十年。上、其美を見て、自ら其意を以て乞倫配方配玄超市 其實且つ壽王の爲に別に要り、然る後に之を納れ、凡唐人うて女官たらしめ、禍て朝女な鑑闇のりみ門遂に寵を專らにす。發きす六載。祿山を以て、御史大夫を兼ねしむ。祿山、請うて、楊貴妃の兒となる。九載。祿山に爵を東平郡王と賜ひ、河北道採訪處置使を兼ねしむ。祿山入朝す。楊釗、兄弟姉妹、皆戲水に往いて之を迎ふ釗は貴妃の從祖兄なり。禁中に出入するを得たり。之より先、判度支、屢ば帑藏充物すと奏す。上、群臣を師ゐて、之を觀る。之ミに由つて、金帛を視ること糞土の如く、賞賜限なし。釗に名を國忠と賜ふ。十載。安祿山の爲に第を起し、華麗を窮極す。上、日に諸楊を遣し、之と遊ばしむ。祿山、體肥大上、嘗て、其腹を指して曰く、此胡の腹中、何の有る所ぞ。對へて曰く、赤心あるのみと。祿山、禁中に入るや、先づ貴妃を拜す。上、其故を問ふ。曰く、胡人、母上を先にして父を後にすと。祿山の生日、賜予甚だ厚し。後三日召(し入れ、貴妃、錦繡を以て大〓褓を爲り、宮人をして、綵興を以て之を昇かしむ。上、聞いて歡笑して、故を問ふ。左右、貴妃、祿兒?を洗ふを以て對ふ。上、妃に浴兒の金銀錢を賜ひ、歡を盡して罷む。之より宮掖に出入し、通宵出でず、頗る醜聲あり、外に聞こゆ;)るも、上、亦た疑ばず。又、祿山を以て河東節度使を兼ねしむ。李唐-玄宗明皇帝-五五九 十八史略卷之五五六〇林甫、祿山と語り、毎に其情を描り知つて先づ之を言ふ。祿山、驚服し、見る毎に盛冬にも必ず汗す。林甫を謂つて、十郞となす。旣に范陽に歸るや、其下、長安より歸れば、必ず問ふ十郞何をか言ひしと。美言を得れば則ち喜ぶ。或は但だ云ふ、安大夫に語れ、須らく好く點檢すべしと。卽ち曰く、噫嘻、我死なむと。李林甫、十一載。卒す。林甫、上の左右に媚事して、上の意を迎合して以て寵を固うす。言路を杜絕し、聰明を掩蔽す。嘗て、諸御李林甫曰く史に語つて曰く、仗に立つの馬を見ずや、一たび鳴けば、輒ち斥け加藤兒香芋焼およびせい去らると。賢を妬み能を嫉み、己に勝る者を排抑し、性陰險なり。人以て、口に蜜あり腹に劍ありとなす。毎夜、偃月堂に獨坐し、深思する所あれば、明日必ず誅殺あり。屢ば大獄を起す。太子より以下、皆、之を畏る。相位に在ること十九年、天下の亂を養成し、然も、土、悟らず。然れども、祿山、林甫の術數を畏る。故に、其世て反せず。を終るまで、未だ敢この歲、國忠、相となる。祿山、必ず反せむといひ、且つ曰く、試に召せ、必ず來らずと。十三載。祿山、召を聞いて卽ち至る。上、之に由つて、國忠の言を信ぜず。祿山に、左僕射を加へて歸らしむ。十四載。祿山、蕃將を以て、漢將に代へむと請ふ。上、猶は疑はす。表して、馬三千匹を獻じ、毎匹、二人、鞋を執り、二十二の將部をもつて河南に送らんと請ふ。上、始めて、之を疑ひ、使を遣して唐-玄宗明皇帝-五六一 十八史略卷之五五六二其獻を止む。祿山、床に踞して、拜せずして曰く、馬、獻ぜざるもき)亦た可なり、十月當に京師に詣るべしと。使還る亦た表なし。この安祿山遂に冬、祿山、遂に反し、所部の兵及び奚契丹を發し、凡そ十五萬、范陽反すを發し、引いて南す。步騎精銳、煙塵千里。時に承平久しく、百姓、額眞卿兵革を識らず、州縣、皆、風を望んで瓦解す。進んで、東京を陷る。評文天歲平日天然天あの平原の太守顏眞卿、兵を起して賊を討つ。上、初め、河北、賊に守り誠原は子卿不從ふと聞き、歎じて曰く、二十四郡嘗て一人の義士なきかと。眞卿く 知長し斯 名安の奏至るに及び、大に喜んで曰く、朕、眞卿何の狀たるを識らず、の紊如れしるらてく國と乃ち能く此の如しと。ん欲やす得常山の太守顏杲卿、兵を起して賊を討つ。河北諸郡、貨之に應ず。十五載。安祿山、僭號して大燕皇帝と稱す。賊將史思明、常山を陷れ、顏杲卿を執へて、洛陽に送る。祿山、其己に反するを責む。呆卿曰く、我、國の爲に賊を討つ。恨むらくは、汝を斬らず、何ぞ反といふや。臊羯狗、何ぞ速に我を殺さざる20祿山、大に怒り、縛して、之を咼す。死する比まで、罵つて、口を絕たず。げん、ヘ張巡眞源の令張巡、吏民を帥ゐて、玄元皇帝の廟に哭し、兵を雍丘に起して賊を討つ。郭子儀、李光弼朔方節度使郭子儀、河北節度使李光弼、賊將史思明と戰ひ、大に唐-玄宗明皇帝-番 十八史略卷之五番〓之を破り、首として、河北の數郡を復す。副元帥哥舒翰、賊と戰つて、大に敗る。麾下、翰を執へて、賊に降る。賊遂に關に入る。上、出奔して、馬嵬に次す。將士飢疲して、皆、憤怒し、楊國忠等〓を殺し、及び上に逼つて、貴妃を縊殺し、然る後に發す。父老道をと遮つて留まらむことを請ふ。上、太子に命じて、之を慰撫せしむ。父老、太子の馬を擁して、復た行くを得ざらしむ。皇孫俶をして、上に白せしむ。上曰く、天なりと。太子に喩さしめて曰く、汝、之を勉めよ。西北の諸胡、吾、之を撫すること、素より厚し、必ず其馬嵬の勅力を得むと。且つ、宣旨、位を傳へむと欲す。太子、平凉に至る。朔方の留後杜鴻漸、靈武に迎へ入れ、馬嵬の命に遵はむことを請ふ。牋五たび上る、乃ち許す。上を尊んで、上皇天帝となす。上在位四十五年、改元するもの三、曰く、先天、開元、天寶。太子立つ、之を肅宗皇帝となす。西紀自七五六至七六二【肅宗皇帝】初 名は瑣亨と改名す。忠王として太子となつてより、二十年にして、祿山の亂に遇ひ、是に至つて、位に卽く。京兆の李泌、幼より才敏を以て聞こゆ。上、東宮に在るや、嘗て、泌と布衣の交をなす。使を遣して、之を召し、靈武に謁見し、事、大小となく、之と謀る上皇、成都に至り、冊寶を遣して、靈武に行かしむ。使を遣して、兵を囘紇に徵す。唐-玄宗明皇帝-肅宗皇帝-五六五 十八史略卷之五五六六評招討節度使房琯、大に敗陳家孟を邪甫ず大軍賊と陳濤邪に戰ふ。陳濤杜詠の官琯、車戰を用ゐて、囘都仍歸日四天中血郡日敗死萬〓水作良く戰る冬十子陶澤至德二載。安慶〓、祿山を殺す。祿山、兵を起してより以來、目軍戰野同聲曠義無昏し、是に至つて、復た物を見ず。又疽を病で、躁暴なり。嬖妾の切北京歌詞號第一號人飮箭胡、子を以て、慶〓に代へて嗣となさむと欲す。慶〓、人をして、之を唱來夷雪し、首市、、弑せしめて自立す。祿山僭號、わづかに一年餘。日夜只上、鳳翔に至る。囘紇、子葉護を遣し、精兵四千人に將として至軍至安祿山殺さらしむ。天下兵馬都元帥廣平王俶、副元帥郭子儀、朔方等の軍及び囘紘、西域の衆を將ゐて、鳳翔を發し、長安に至つて賊を擊つ。と賊大に潰ゆ。大軍、西京に入る。俶留まつて鎭撫すること三日、軍を引いて、東に出でて、洛陽に至り、囘紇と夾擊す。賊、大ぶたに敗れ、遂に東京を復す。安慶〓、走つて、鄴を保つ。唯陽城陷り賊將尹子奇、唯陽を陷る。張巡許遠、之に死す。巡、さきに雍張貼許遠文化財丘を守る。軍を寧陵に移し、屢ば賊を破る。旣にして唯陽に入り、遠と共に守つて、屢ば賊を却く。食盡く。或は城を棄てむと欲す。巡遠謀つて曰く、唯陽は、江淮の保障なり。若し之を棄つれば、賊、必ず長驅せむ。是れ江淮なきなり。如かず、堅守して、以て救〓を待たむにはと。茶紙を食ふ。盡く。遂に馬を食ふ。馬盡く。雀を羅し、鼠を取る。雀鼠、又盡く。巡愛妾を殺し、以て士に食はしむ。四萬人、わづかに四百を餘すのみ、終に叛く者なし。賊城に唐-肅宗皇帝-五六七 、十八史略卷之五奏登る。將士、困病して、戰ふ能はず。巡西向再拜して曰く、臣、な力竭く。生きては、旣に以て陛下に報ずるなし。死しては、當に属鬼となつて以て賊を殺すべしと。城遂に陷る、巡遠、執へらる。南霽雲、雷萬春等、三十六人、皆殺さる。上皇蜀郡を發して、西京に還る。乾元元年郭子儀等、九節度に命じて、安慶〓を討たしむ。二年史思明、兵を引いて慶〓を救ふ。九節度の兵、鄴に潰ゆら思明、慶〓を殺し、范陽に還つて僭號す。李光弼、郭子儀に代つて、朔方節度使兵馬元帥となる。光弼、號令嚴整。初め至るや、號令一たび施せば、士卒壁壘、旗幟精明、皆變ず。史思明と戰つて、屢ば之を敗る。上元元年太僕卿李輔國、上皇を西內に遷す。上皇、興慶宮を愛し、蜀より歸るや、卽ち之に居る。多く樓に御す。父老、過ぐるわう·〓〓せんはい者、往往瞻拜して萬歲と呼ぶ。上皇、常に樓下に於て、賜ふに酒食を以てす。又、嘗て、將軍郭英又等を召して、樓に上らしめて、宴を賜ふ。輔國言ふ、上皇、興慶に居り、日に外人と交通し、陳玄上に不利ならむことを謀ると、じ禮高力士、數ば上に啓して、之を遷さむとす。許さず。上、不豫、衆を率ゐて劫遷す。上皇、日に以て懌ばず。因つて革を茹はず、穀を避け、寝く以て疾を成す。二年。史朝義、史思明を殺す。思明、少子を愛して朝義を惡み、唐-肅宗皇帝-五六九 十八史略卷之五五七〇其敗軍に因つて、之を斬らむと欲す。朝義、人をして、思明を射殺せしめて自立す。李光弼、大尉となり、八道の行營を統べ、臨淮に鎭す。寶應元年郭子儀、諸道節度行營に知とし、興平、定國等の軍の副元帥を兼ね、復た朔方に入る。上皇、西內に崩ず。位を傳へし後、七年なり。壽七十八。に上、疾に寢す。上皇の登退を聞いて、轉た劇しく、遂に崩ず。在位七年改元するもの四、曰く、至德、乾元、上元、寶應。初め、ミ張皇后、李輔國と相表裏し、權を專らにし、事を用ゆ。晩に更に隙あり。上、疾篤し。后、太子を召し、謂つて曰く、輔國、久しく禁兵を典り、陰に亂を作さむことを謀る、誅せざるべからずと。太子、上の體を震驚せむことを恐れて可かず。輔國、其謀を聞く。上、崩ずるや、后を殺して而して後に太子を引いて之を立つ、之を代宗皇帝となす。【代宗皇帝】初名は俶。廣平王に封ぜらる。元帥となつて、兩京を定め、楚王に封ぜられ、成王に改められ、旣にして太子となり、豫と改名す。是に至つて位に卽き、李輔國を誅す。雍王适を以て、天下兵馬元帥となし、諸將及び囘紇の援兵を率ゐて、史朝義を討たしめ、大に之を敗る。賊將李懷仙、朝義を斬つて以て降る賊將張志忠を以て成德軍を鎭せしめ、姓名を李寶臣と賜ふ。薛蒿、相衞邢唐-肅宗皇帝-代宗皇帝-毛 十八史略卷之五毛い洛貝、磁等の州を鎭し、田承嗣は魏博、德、滄、瀛等の州を鎭し、李懷仙は盧龍を鎭す。朝廷、兵革を厭苦し、無事を苟冀し、因つて、之に授く諸鎭、自ら黨援をなし、河朔、敢て朝命に抗する、是に始まる。廣德元年吐蕃、入寇す。上、陝州に出奔す。吐蕃、長安に入る關內副元帥郭子儀、之を擊つ吐蕃、遁れ走る。くわんじやていげんしん二年宦者程元振を流す。元振、初め、李輔國に附く。輔國、死するや、元振、權を專らにし、自ら恣にすること最も甚しく、諸將の大功ある者を忌んで、皆、之を害せむと欲す。吐蕃、入る。元振掩蔽して、時を以て奏せず、上の狼狽を致す。中外切齒す。是に至つて、湊州に流さる。臨淮王李光弼、卒す。上の陝に幸するや、光弼至らず、上、之を撫すること、厚きを加ふ。素より子儀と名を齊しうす。徐州に在るに及びて、兵を擁して朝せず。麾下の諸大將、復た尊畏せず、光弼愧恨疾を成して死す。え永泰元年平盧の將李懷玉、節度使侯希逸を逐うて、自ら留後に知たり詔して、因つて之に授け、名を正己と賜ふ。百を取にんしやう?叛將僕固懷恩囘紇吐蕃を誘うて入寇す。郭子儀を召して、涇陽に屯せしむ。懷恩、道に死す。二虜、長を爭うて睦しからず。子儀、人をして、囘紇に說かしめ、共に吐蕃を擊たむと欲す。之より先、懷恩、囘乾を欺いて、子儀旣に死せりといふ。使至る。囘紇、唐-代宗皇帝-五七三 十八史略卷之五毛信ぜずして曰く、郭公在らば、見るを得べきかと、使、還り報す。子儀、數騎と出で、人をして、傳呼せしめて曰く、令公來ると。囘紇、大に驚き、藥葛羅、弓矢を執つて陣前に立つ。子儀、冑を免ぎ甲を釋いて進む。諸會長相顧みて曰く、是れなりと。皆、馬を下つて羅拜す。子儀、亦た馬を下り、手を執つて之と語り、酒を取つん·て相與に誓約して還る。吐蕃、之を聞いて、夜遁る。諸軍囘紇と共に追ひ、大に之を破る、三年。幽州の將朱希彩、李懷仙を殺す。詔して、因つて、希彩を以て鎭を移さしむ。大阪府社宦者魚朝恩を誅す。朝恩、肅宗の時に在つて、觀軍容使となる。軍容の名、是に始まる。九節度相州の敗は、其時なり天下觀軍容宣慰廣德の初に至り、處置使となり、專ら禁兵を總べ、焼勢、朝野を傾く大曆の初、國子監に判たり座に升り、鼎餗;を覆すを講じ、以て宰相を譏る王増は怒り、元載は怡然たり朝恩曰く、怒る者は常情、笑ふ者は測るべからざるなりと。朝政、預らざる者あれば、輒ち怒つて曰く、天下の事、我に由らざるものありやと。上、之を聞いて懌ばず。載閒に乘じて、其專恣不軌を奏す、遂に之を誅す七年。盧龍の將、朱希彩を殺して、朱泚を以て鎭を領せしむ。詔して、因つて之を授く。唐-代宗皇帝-五七五 十八史略卷之五五七六九年。朱泚、弟滔を以て、鎭を領せしめて入朝す。十二年元載不軌を圖ると告ぐる者あり案問して死を賜ふ胡椒八百斛に至り、ミ其家を籍す。他物、是に稱ふ。楊縮、常衰を以て、同平章事となす。縮素より〓儉。制下るや、郭子儀、方に宴し、坐中の聲樂五分の四を減す。京兆尹黎韓止だ十騎を存す。驅從甚だ盛なり卽日、之を省き縮相たること三月にして卒す。上、之を痛悼して曰く天なるか朕の太平を致すを欲せず、何ぞ朕が楊縮を奪ふの速なるやと十四年田承嗣卒す。姪悅、之に代る淮西の將李希烈、節度使を逐ふ。詔して、因つて、鎭を以て希烈に授く。上在位十八年。改元するもの三、曰く廣德、永泰大曆。崩ず。太子立つ、之を德宗皇帝となす。【德宗皇帝】名は适雍王より太子となる。是に至つて卽位すじゃうこん欺罔を以て貶せらる。常衰崔祐甫、同平章事たり。祐甫、時望を收めむと欲す未だ二百日ならず、官に除する者、八百人。上曰卿の用ゆる所、く人多く親故に涉るを謗るは何ぞや。對へて曰評言親祐KTB陛下の爲に人を擇ぶ、ず所く臣、敢て愼まずむばあらず、故に非親に非ず、四季的肉麵を故に非ざれば、何を以て、其才行を諳んじて之を用ゐむと。用ん其じ者四十四溜靑の李正己、ゐ上の威名を畏れ、表して、錢三十萬緡を獻ず。崔唐-代宗皇帝-德宗皇帝-五七七 十八史略卷之五美とんい云とよふわべ名し言祐甫、請うて、使をして溜靑の將士を慰勞せしめ、因つて、以て之航れ往を賜ふ、正己、慚服す。天下、以爲へらく、太平、庶幾はくは望む比にて黨々れ周し弊朋を免ずのべしと。むはあほR튀上方に精を勵まし、治を求め、不次に人を用ゆ。祐甫、楊炎をす、薦む、司馬より除せられて同平章事となる。旣にして、祐甫、病んで、事を視ずい直防止けんちうぐわんねん。財制稅制を建中元年始めて、兩稅法を作る。唐初賦歛の法、田あれば租あ整理すり身あれば庸あり戶あれば調あり。玄宗の末、版籍漸く壞る。至德兵起り所在の賦歛、迫趣して取辨し、復た常準なし。下戸、困弊に勝へず率ゐて皆逃れ徒る。是に至つて、楊炎、建議し、先出を計りて入を制すづ州縣毎歲用ゆる所、及び上供の數を計つて、人に賦し、出を量り、以て入を制す。戶に主客なく、見居を以て簿となし、人は丁中とな特貧富を以て差となし、行商をなす者は在所の州縣三十の一を稅し居人の稅は、秋夏に之を兩徵し、其租庸調雜徭は、悉く省く。打千萬崔祐甫、卒す。天下の忠州刺史劉晏を殺す。晏、善く財計を治む。肅宗、代宗より以來身)有戶部度支鑄錢鹽鐵轉運等の事を領し、同平章事を以て、使に充つ轉運を通じ鹽利を幹し、百貨の低昂を制し、軍國の用、賴つて以て充足す。然れども、久しく、利權を典り、衆頗る之を疾む。又楊炎と相悅ばず竟に忠州に貶せらる。人、炎の旨を希ひ、晏唐-德宗皇帝-乳 十八史略卷之五五八〇の怨望を〓ぐ。上、人を遣して之を縊らしむ。ia二二。成德の李寶臣卒す。子惟嶽、自ら軍務を領す。後、王武俊、斬つて之に代る。評盧杞藍面楊炎、盧杞、同平章事たり。炎、未だ幾ならずして罷む。杞藍鬼色好惡酷薄の相なり面鬼色、口辯あり。上、之を悅ぶ。郭子儀卒す尙父大尉中書令汾陽忠武王郭子儀卒す。子儀、身を以て、天下の安危をなすもの、三十年功、天下を蓋ふ。然も、主、疑はず。は評子儀は位人臣を極む、然も、衆疾まず。嘗て、使をして、魏博に至らと處理ふのみし者しむ。田承嗣、西望して之を拜して曰く、此膝、人に屈せざること久し。今、公の爲に拜すと。中書令を校する、凡そ二十四考、家人こと〓〓三千人、八子六婿皆顯はる。諸孫數十人、安を問ふ毎に、盡く辯ずる能はず、之を額するのみ。年八十三にして終る。せいき平盧の李正己卒す。子納自ら鎭を領す。朱滔、田悅、王武俊、李"納、先後して皆反す。三年。四人、皆自ら王と稱す。李希烈、反す。兩河、兵を用ゆ。府庫支へざること數月。先づ富商の錢を括し、諸道の稅を增し、四年、稅間架を行ひ、陌錢等の法を除く。李希烈、襄城に寇す。詔して、淫原等の道の兵を發して、之を救ふ淫原の節度使姚令言、兵を率ゐて、京師を過ぐ、師を犒ふに、唐-德宗皇帝-五八一 十八史略卷之五五八二惟だ糖食菜燄のみ。衆怒つて亂をなして城に入る。上、出奔す。朱泚亂兵、太尉朱泚を奉じて、主となす。司農卿段秀實。泚を誅せむことを謀る。克たず。泚衆を召して帝と稱せむことを議す。秀實、た其面に唾し、大に罵り、笏を以て泚の額を擊つ血、地に濃ぐ、洲、之を殺し、遂に大秦皇帝と僭號す。之より先、術士桑道茂といふ者あり言ふ、數年の後、宮を離るるの厄あらむ、奉天に天子の氣あり、其城を高大にし、以て非常に備ふべしと、上、之に從ふ。是に至つて遂に奉天に奔る泚奉天を犯す李最兵を率ゐて、赴き援く。渾瑊、批を擊つて之を破る。奉天圍解く、李懷光、難に赴き、亦た批の兵を破つて、奉天に至る。入つて、盧杞の姦を白せむと欲す。杞、之を隔て、入つて見るを得ずして行く。表を上つて、杞の惡を暴す。衆論、亦た喧騰して、杞を咎む。上、已むを得ずして、之を遠貶す。興元元年大赦す。陸贄、上に勸め、己を罪して、以て天下に謝せしむ。奉天より下す所の書詔、驕將悍卒も、之を聞いて、感激して涕を揮はざるなし。王武俊、田悅、李納、表を上つて罪を謝す。李希烈、大楚皇帝と僭號す。ごになる瓊林の大盈庫を行宮に置く。陸贄、諫めて、其榜を去らしむ。李懷光、反す。上、梁州に走る。魏博の田〓、田悅を殺し、自ら軍府を領す。唐-德宗皇帝-五八三 十八史略卷之五五百李晟、長安を克服す。朱泚、走る。其將、之を斬つて以て降る。晟、露布し、行在に至つて曰く、臣、旣に宮禁を肅〓し、寢園に祗謁し、鐘簾移らず、廟貌故の如しと。上、之を覽て、泣いて曰く、天、李晟を生じ以て稷の爲にす、朕の爲にするに非ざるなりと。車駕、長安に還る。ま顏眞〓殺さ顏眞卿李希烈に殺さる之より先、眞卿、盧杞に陷れられ、使を希烈の所に奉ぜしむ。人、言ふ一元老を失ふ。國家の爲に羞づとと賊中に至る之を留むる、將に二歲ならむとす。屈せず。竟に賊に縊らる。貞元元年盧杞、量移せられ、將に再び入らむとして卒す。幽州の朱滔、卒す。書籍廣告馬燧及び諸軍、河中を平らぐ。縊れて死す。二年。淮西の將陳仙奇、李希烈を殺して、以て降る。吳少誠、仙奇を殺す。朝廷、因つて、少誠を以て鎭を領せしむ。中三年。張延賞、同平章事たり。之より先、吐蕃の尙結賛、鹽夏州に據る李晟、嘗て、其一堡を破る渾城馬燧、各、兵を擧げて、之に臨む。懼れて、和を請ふ。辭を卑くし、禮を厚くして、馬燧に求む。燧信じて、朝に請ふ。最曰く、戎狄信なし、之を擊つに如かずと。延賞、晟と隙あり、數ば和を便なりといふ渾瑊をして、吐蕃と平梁に盟はしむ。吐蕃、盟を切 す。瑊走り免る。吐唐-德宗皇帝-五八五 十八史略卷之五五八六蕃、晟、燧城を畏る。曰く、此三人を去れば、唐は圖るべきなりカと是に於て晟を離間し、燧に因つて、以て盟を求め、城を執へ、以て燧を賣り、併せて、罪を得せしめ、因つて、兵を縱つて、直に長安を犯さむと欲す。會ま、瑊を失して止む。李泌、同平章事たり。上、泌と、從容として、卽位以來の宰相を評李泌論じ、人盧杞を姦邪といふも、朕殊に覺らずといふ泌曰く、是しり道杞と破許お迎えください。れ乃ち姦邪たる所以なり。若し、之を覺らば、豈に建中の亂あらむやと泌、謀略あり、然も、好んで神仙を談じて詭誕なり。故に世に輕んぜらる。相たること、未だ三歲ならずして卒す。八年陸贄、同平章事たり。九年。太尉中書令西平忠武王李晟、卒す。十年。陸贄、罷む。〓十一年。贊を忠州別駕に貶す。賛、奉天より以來、力を宣ぶること最も多く、事に隨つて論諫し、百奏を劃切にす。帝、言を盡くせしを追仇す。夏縣の陽城又譖せらる。故に貶せらる初め、夏縣の陽城、處士を以て、徵されて諫議太夫となる。皆風采を想望す。職に在るこはんたくし はいえんれいと七年にして諫めず。韓愈、爭臣論を作つて之を譏る。是に於て、判度支裴延齡、贄を譖す。城諸諫官を率ゐ、闕を守つて、延齡の姦邪、贄の無罪を論ず。時に朝廷、延齡を相とせむとす。城曰く、若し延齡を以て相となせば、當に白麻を取つて之を壞るべしと。庭唐-德宗皇帝-五八七 十八史略卷之五天八どうこくはぐこくししさせんだうしうしに働哭す。遂に沮む。城、國子司業に左遷せられ、後、又、道州刺しへんそのかう史に貶せらる。民を治むる、家を治むるが如し。自ら其考に書してぶじこころらうさいくわせいせつかう曰く、撫字心勞し、催科は政拙、考は下の下と。わいさいごせうせはん十四年。淮西の吳少誠、叛す。けんちう二十一年。上崩ず。在位二十七年。改元するもの三、曰く建中、こうげんていげんまつりごとせいめいものさいうきもちはん興元、貞元。初め、政〓明なる者二歲にして、盧杞用ゐられ、叛じゆんそうくわうていらんあひつ末年は姑息のみ。まつ亂相繼ぎ、太子立つ、之を順宗皇帝となす。しようわうひ【順宗皇帝】名は誦太子たりし時、書を善くする者王伾、棋を善ものわうしゆくぶんごヒばうしやうくする者王叔文あり。共に、出入して娯侍す。因つて言ふ、某は相しやういじつこれひそかがくしんとすべく、某は將とすべく、幸に異日之を用ゐんと。密に、學士韋しつぎおよてうしそくしんりくじゆんりよおんけいけん執誼及び朝士の有名にして速進を求むる者、り陸淳、呂溫、李景儉、かんえふかんたいちんかんりうそうげんりううしやくらむすしいう韓曄、韓泰、陳諫、柳宗元、劉禹錫等に結び、定めて死友となし、と0いうしよしようせききひそのたんげん日に與に游處し、縱跡詭祕、其端倪を知る者あるなし。德宗崩じ、ふうしつおんうしなえつげつひしゆく太子位に卽く。之より先、風疾あり、音を失ふこと五閱月。任、叔ぶんら文等、事を用ゆ。りくしやうじやう陸贄、陽城を追うて、京に赴かしむ。未だ至らずして卒す。じやうざいゐえいていだじやうくわう上在位、改元して永貞といふ。僅かに八月、自ら太上皇と稱し、つたけんそうしやうぶくわうてい位を太子に傳ふ、之を憲宗章武皇帝となす。じゆんかんこく【憲宗皇帝】名は純年二十八、太子となつて監國たり。尋いで、わうひわうしゆくぶんへんそのたう位に卽き、王伾、王叔文を貶す。伾病んで死す。其黨、皆遠く貶唐-順宗皇帝-意宗皇帝ー五八九 十八史略卷之五五九〇せらる、す、元和元年。西川の節度使劉闢〓す。同平章事杜黃裳、高崇文を薦めで、之を討たしむ。夏州の留後楊惠琳、朝命を拒む。詔して、之を討つ。兵馬使に斬らる。高崇文、成都に克ち、劉闢を擒にす。京師に送つて、之を斬る。二年。鎭海節度使李錡反す。詔して、之を討つ。兵馬使、錡を執へ京師に送つて之を斬る。三年。沙陀の朱邪盡忠、其子執宜と來り降る。沙陀、勁勇、諸胡に冠たり。吐蕃、戰ふ毎に、以て前鋒となす。後、其囘體に貳あるを疑ひ、之を河外に遷さむと欲す。懼れて、唐に歸す。之を靈州に置く。用ゐて征討するや、皆捷つ。杜黃裳より以後、相繼いで、相たる者、武元衡、李吉甫、裴均、李藩、李絳、皆、賢相たり。塩、嘗て、李吉甫の爲に人才を疏する?三十餘、數月に用ゐ盡す。翕然として、稱して人を得たりとなす。じん〓〓あえ塩、器局峻整、人人敢て干すに私を以てせず。藩、嘗て、給事中と制敕不可なるものあれば、なる、卽ち之を批す。吏、更に素紙を連ねむことを請ふ。藩曰く、かくの如くすれば狀なり、何ぞ批敕と名·1づけむと、垣、之を薦めて相となす。知つて言はざるなし。絳〓直、吉甫は善く逢迎す。絳、與に上の前に爭論する每に、上多く絡を唐-憲宗皇帝- -晃 五九二十八史略卷之五讜讜として直。直とす。時に、在朝、崔群、白居易等の如き、皆、元和の世、朝廷〓明なること、此を以てなり。以て節度七年。魏博の兵馬使田興、吏を請うて奉貢す、詔して、使となし、裴度を遣して宣慰し、錢百五十萬緡を賜ひ其軍を犒ふ。六州の百姓。皆、給復すること一年軍賜を受けて、歡聲、雷の如し。成德、衰、〓、諸鎭の使者、之を見て、相顧みて色を失ふ。(うう興に名を弘歎じて曰く、倔强なる者、果して、何の益かあらむと。正と賜ふ。初め、彰義節度使吳少誠死し、弟少陽、自ら軍府を領す。少陽、陰に亡命を養ふ。少陽、死す。子元濟、自ら軍府を領し、兵を縱つて、侵掠して、東畿に及ぶ。詔して、十六道の兵を發して、之を討つ。平盧節度使李師道、元濟を赦さむことを請ふ。許さず、裴度、淮西の行營を宣慰す。還つて曰ふ、淮西、決して取るべしと。上、悉く兵事を以て、同平章事武元衡に委す。師道、素より、刺客姦人を養ふ。客請ふ、密に往いて元衡を刺さば、他相は必ず爭うて、天子に勸めて、兵を罷めむと。元衡、入朝す。賊暗に之を射殺し。文、度を擊つて、首を傷つく。上、怒る。賊を討つ、愈よ急なり。度を以て、同平章事とす。上曰く、吾、度一人に倚つて、賊を破るに足れりと。度に命じて、彰義節度使を兼ねしめ、淮西宣慰招討使に充て、諸軍を督して進討す。唐郵節度使李愬、先づ賊將丁士良、唐-憲宗皇帝-五九三 十八史略卷之五五九四吳秀琳、李祐を擒にし、釋して、之を用ふ。祐の計を用ゐ、雪夜七十里、兵を引いて蔡州城に入り、鵝鴨池を擊つて、軍聲を混じ、上鷄鳴、入つて元濟の外宅に據る。元濟、牙城に登つて拒戰す。旣にして、擒に就く、檻して、京師に送つて、之を斬る。叛より誅に及ぶまで、凡そ兵を用ゆること二歲。時に元和十二年なり。淮西、旣に平らぐ。上、寝や驕侈なり。之より先二歲、既に、李逢吉を用ゐて、同平章事とし、十三年に至つて、又度支使皇甫簿を用ゆ。鹽鐵す使程昇、羨餘を進めて寵あり。並に同平章事たり。朝野駭愕す。元和の政、非なり。十四年。風翔法門寺の塔の佛指骨を迎へて、京師に至らしめ、禁中に留むる三日、諸寺に歷送す。王公士民、瞻奉捨施して、惟だ及韓愈佛骨表ばざるを恐る。侍郞韓愈、上表極諫し、以て之を水火に投ぜむこを奉るとを乞ふ。上、大に怒り、潮州刺史に貶す。平盧の將、李師道を執へ斬る裴度、罷む。十五年。上、暴に崩ず。上、金丹を服して多躁、左右罪を獲て死する者あり。人人、自から危む。宦者陳弘志、弑逆す。其黨、之を諱んで、但だ藥發すといふ。在位十二年改元するもの一、曰く元和太子立つ、之を穆宗皇帝となす。【穆宗皇帝】名は恆位に卽き、改元して、長慶といふ。四年にし唐-憲宗皇帝-穆宗皇帝ー五九五 十八史略卷之五五九六て崩ず太子立つ、之を敬宗皇帝といふ。【敬宗皇帝】名は湛。位に卽いて、荒淫なり。嬖倖事を用ゆ。ずの李六條線を得る李德裕、丹展の六箴を獻ず一に曰く宵衣、二に曰く正服、三になふくわい曰く罷獻、四に曰く納誨五に曰く辨邪、六に曰く防微と。上遊戯度なく、性復た褊急。宦官、動もすれば捶撻に遭ひ、皆怨む。夜獵して宮に還り、酒酣なる時、宦者劉克明に弑せらる。在位三年。改元するもの一曰く寶曆江王立つ。之を文宗皇帝となす。【文宗皇帝】名は涵、穆宗の子なり。宦者王守澄に立てらる。後、〓と改名す。太和二年、親ら策して、人を制擧す。官者益す橫、天子を建置する、其掌握に在り、權人主の右に出づ。人、敢て言ふなし。賢良方正劉貰、對策して、之を極言す。考官、皆歎服す。か然も敢て取らず、第に中る者は、裴休、李郃、杜牧、崔愼由等、二十二人。皆、官に除す。物論囂然として、屈と稱す。部曰く、劉黃下第し、我輩登科す。能く顏厚なるなからむやと。上疏して、授くる所の官を黃に囘さむと乞ふ。報ぜず。太和五年。上、同平章事宋申錫と共に宣官を誅せむことを謀る。克たず申錫貶死す。九年。上、李訓、鄭注等と宦官を誅せむことを謀る。克たず。注は、もと宦者王守澄の引く所。訓、本の名は仲言、又注に引かれて守唐-敬宗皇帝-文宗皇帝-五九七 十八史略卷之五五九八す、澄に見るを得たり。守澄、上に薦む。個儻にして氣を尙び、文辭口辯あり。權數多し。上、之を悅ぶ。訓、注、上の意を揣り知り、數ば徵言を以て、上を動かす。上、其大事を謀るべきを意ひ、誠を以て之を告ぐ。訓注、遂に宦者を誅するを以て、己の任となす。訓旣に注と勢位共に盛なり。頗る注を忌み、託するに中外勢を協すを以てし、注を出して、鳳翔を鎭せしめ、宦者仇士良を進擢し、以て王守澄の權を分つ。訓、同平章事たり。守澄を除かむことを請ひ、中使をして、之を鴆殺せしむ。注初め、訓と謀つて鎭に至り、壯評ず其げふ小得て人少ず功功を仍つて、ら今遂爭か古を士數百をして、入つて守澄の葬を護せしめ、請うて、內官例こと〓〓をして盡く送らしめ、然る後、之を殺さば、遺類なからむといふ。訓、心に以爲へらく、かくの如くすれば、功、專ら注に歸せむと。乃ち先づ發せむことを謀り、人をして、金吾廳事後の石榴に甘露あす。りと奏せしめ、宰相百官を師ゐて拜賀し、後、上に勸めて往いて觀せしむ。上、宰相をして、先づ往いて視せしむ。訓陽つて言しよくわん〓〓ふ、眞に非ずと。上、仇士良を顧み、諸宦官を師ゐて、往いて見せき、しむ。士良等、旣に至り、風幕を吹いて起し、兵を執る者無數なるを見、驚き走つて、變を告ぐ。訓、金吾の衞士等を呼んで、殿に上らしめ、僅かに擊つて、宦者十餘人を死傷し、事の濟らざるを知つて走る。士良等、神策兵に命じて、金吾の吏卒を殺さしめ、宰相王涯、賈鍊、舒元輿等を執へて、誣ふるに、謀反を以てして、之を唐-文宗皇帝-五九九 十八史略卷之五六〇〇腰斬す。訓の謀、惟だ元興、之を知るのみ。他相は、實に知らざるなり。之より、天下の事、皆、北司に決し、宰相は、文書を行ふのみ。李訓、人に殺されて、首を傳へ鄭注も亦た風翔監軍の宦者の爲に殺さる。開成三年、司徒中書令晉公裴度、卒す。度、憲宗の時、相を罷めてより後、世事に意なく、園池を治め、綠野堂、子午橋等、別墅の勝あり、詩人と觴詠して、自ら娛む。穆宗。敬宗の時、皆嘗て一へいしやうぐん」)くちやうじ度、入つて政を輔け、上の世に至つて、亦た嘗て平章軍國重 事たり時と浮沈するのみ。然れども、四朝の將相、威望遠く四夷に達たす。四夷、唐使を見れば、輙ち度の安否を問ふ。身を以て國家の輕重に繋ぎ、郭子儀の如き者二十餘年。五年。上、崩ず。上、卽位の初、精を勵まし、治を求め、奢を去り、儉に從ひ、中外、翕然として、太平冀ふべしといふ。然れども,宦寺に制せられ、竟に爲すある能はず。嘗て、宰相に問ふ何の時か、太平ならむと。牛僧孺、答ふるに太平家なきを以てす。末年、嘗て近臣に問ふ。朕は周赧、漢獻に如何と。對ふる者、憮然たり。上曰く、赧獻は制を强臣に受く、今、朕は制を家奴に受く。殆んど如かざるなりと。在位十五年。改元するもの二、曰く、太和、開成。弟潁王立つ。之を武宗皇帝となす。【武宗皇帝】名は瀝、穆宗の子なり。文宗、嘗て敬宗の子成美を立唐-文宗皇帝-武宗皇帝-六〇一 十八史略卷之五六〇二てて太子となす。崩ずるに臨み、成美を以て、國を監せしめむと欲す宦者、以爲へらく、立つこと己に由らずと。之を廢して、渥を立てて太弟となし、遂に成美を殺して位に卽く。後に炎と改名す。李德裕を以て同平章事とす。德裕、穆宗の初に在つて學士となり、た李宗閔といふ者嘗て制策に對して、其父吉甫を議切せしを以て、之を恨み、宗閔を構陷す。之より、各、朋黨を分つて更る相排軋朋黨の弊する者四十年にんとす。文宗の時に在つて、德裕、侍郞たり。表度、其相となるべきを薦む。宗閔、宦官の助あつて、遂に相たり。德裕の己に逼るを惡んで、之を出し、且つ牛僧孺を引いて並に相とし、相與に德裕の黨を排擯す。尋いで、德裕を以て、西川を鎭せしむ。德裕、籌邊樓を作つて蜀の地形を圖し、南、南詔に入り、西、吐蕃に達す。日に軍旅に老い邊事に習ふ者を召して、訪ふに、險易遠近を以てし、皆、身歷するが如くす。士卒を練り、堡障を葺し、以て邊に備ふ。吐蕃の將悉怛謀維州を以て來降す。維州は、もと漢地兵を入るの路、吐蕃之を得、號して無憂城といふ。德裕、極め5て此州を得るを以て便となす。牛僧孺、以て納るべからずとなし、か、牛李の怨城を以て、叛將に併せて歸す。吐蕃、之を境上に誅し、慘酷を極む。河北の賊を牛李の怨、之より愈よ深し。僧孺等、尋いで罷む。德裕、入つて相しを朝去るのはは朋易く延る黨たり。宗閔、亦た罷む。宗関、再び相たり。德裕又罷む。二黨互に去難ほ、相擠援す。文宗、毎に歎じて曰く、河北の賊を去るは易く、朝廷の唐-武宗皇帝-六〇三 十八史略卷之五六〇四朋黨を去るは難しと。德裕、しきりに貶黜せらる。上の立つに及びて、德裕を召して之を相とす。德裕、上に言つて曰く正人は邪人を指して邪人となし、邪人も亦た正人を指して邪となす、人主の之を辨するに在りと。上、嘉納す。德裕、維州の事を追論し、悉怛謀に褒贈を加ふ。〓昭義節度使劉從諫、卒す。姪稹、自ら軍府を領す。德裕謂ふ、澤潞の事體、河朔三鎭と同じからず、河朔は亂に習ふこと、旣に久しく累朝之を度外に置く、澤潞は、近く心腹に在り、若し又、因つて之に授くれば、威令復た諸鎭に行はれずと。上、問ふ、何を以て之を制せむ。曰く、稱の恃む所のものは三鎭。惟だ鎭魏之と同せざるを得ば、槇能く爲すなきなり。重臣を遣し、鎭魏に諭して、之を討たむと。詔して曰く、澤澤の一鎭、卿が事體と同じからず子孫の謀をなして輔車の勢を存せしむる勿れと。鎭魏、悚息して、命を聽く。二鎭の兵、朝廷遣す所の行營の將王宰、石雄と各進討す。河東の都將楊弁、亂を作し、節度使を逐ふ。中使馬元實をして曉諭し、且つ之を覗はしむ。元實、賂を受けて還り、衆中に大言す、相公須らく早く之に節を與ふべし、牙門より柳子に至るまで、十五里に列し、地に光明甲を曳く、之を如何にして、之を取らむと。i德裕、之を詰る。辭届す。奏す、微賊決して恕すべからず、若し國力支へざれば、寧ろ、劉稹を捨てむと。河東の兵出でて成る者、朝唐-武宗皇帝-六〇五 十八史略卷之五六〇六延、客軍をして、太原を取らしむるを聞き、妻孥の屠られむことを恐れ、乃ち歸つて、弁を擒にして、京師に送り、之を斬る。未だ幾澤潞ならずして、劉稹、勢窮蹙す。潞人、稘を殺して以て降り、平らぐ。德裕に、太尉衞國公を加へ、牛僧需を貶して循州長史となし、李宗閔を封州に流す。士良致仕之より先、評一良の宦者仇士良の官爵を削り、其家を籍沒す。訣壟、金金、印象、斷る主し秘を內し、其黨、歸るを送る、士良之に〓へて曰く、天子は、閒ならしむべからず、常に宜しく、奢靡を以て、之を娛ますべく、他事に及ぶ書を讀み、儒生を親近せしに暇なからしめよ。愼んで、之をして、疏斥せらむる勿れ。前代の興亡を見て、心に憂懼を知らば、吾輩、れむと。天下の佛寺を毀ち、僧尼は勤して歸俗せしむ。會昌六年、上、崩ず。在位七年。改元するもの一、曰く會昌。光王立つ、之を宣宗皇帝となす。【宣宗皇帝】名は怡憲宗の子なり。幼にして不慧と號し、太和の後、益す自ら韜匿す。文宗、好んで其言を誘うて、以て笑となす。武宗豪邁、尤も之を禮せず、名づけて光叔となす。武宗、疾篤し、子幼なり。宦官、策を禁中に定め、決して、怡を立てて皇太叔となし、更めて忱と名づけ、權に軍國の事を勾當せしむ、裁決、咸な理に當る。人始めて、其隱德を知る。尋いで卽位す。唐-武宗皇帝-宣宗皇帝-六〇七 十八史略卷之五六〇八李德裕、罷む。僧孺、宗関等、北遷す。德裕、三たび貶せられ、崖州司戶に至つて死す。令狐綯、同平章事たり。之より先、絢學士たり。上、嘗て、太宗撰する所の金鏡錄を以て、編に授けて之を讀ましめ、又、貞觀政要を屏風に書するや、毎に色を正しうし、拱手して讀む。嘗て、學士畢誠と邊事を論ずるや、誠具に方略を陳ぶ。上曰く、意はざBilりき、頗牧、吾が禁中に在らむとはと。卽ち用ゐて邊帥となす。果して、其任に稱ふ。上、聰察强記なり。嘗て、密に學士章澳をして處分語州縣の境土風物及び諸利害を纂次せしめ、號して、處分語といふ。刺史、入つて謝して出づる者あれば、曰く、上、本州の事を處分して、人を驚かすと、建州の刺史、入つて辭す。上、問ふ、建州、京師を去ること幾何ぞ。曰く、八千里。上曰く、卿彼に到つて、政此階前は萬里なりをなす。朕、皆之を知れり。遠しといふ勿れ。此階前は、萬里なりと。令狐綯、奏して、李遠を杭州の刺史に擬す。上曰く、吾聞く、長日惟だ消す一局の碁と、遠の詩に云ふ、安んぞ能く人を理めむ。絢曰く、詩人、この高興に托す、未だ必ずしも實に然らずと嘗て詔す、刺史、外より徒るを得るなく、必ず京に至つて察せしめよと綯嘗て、故人を徒して鄰州となし、便道より官に之かしむ。上之に問うて曰く、詔命、旣に行はる。直に廢格して用ゐず、宰相は權ありといふべしと。時方に寒、絢汗、重裘に透る。上、朝唐-宣宗皇帝-六〇九 十八史略卷之五六一〇に臨んで、群臣に對するに、未だ嘗て惰容あらず。宰相、事を奏する毎に、旁に一人なく、威嚴、仰視すべからず。事を奏して畢れば、忽ち怡然として聞語すること、一刻ばかり、徐に復た容を整へ上て曰く、卿輩、善く之を爲せ。常に恐らくは、卿輩、朕に背いて、再び相見るを得ざるをと。綯嘗て、人に謂つて曰く、吾、十年政を秉り、最も恩遇を承く。延英に事を奏する每に、未だ嘗て、汗、衣を沾さずむばあらざるなりと。嘗て、學士章澳を召し、左右を屏けて、之に問うて曰く、近日內侍の權勢如何。對へて曰く、陛下の威斷、前朝の比に非ず。上、目を閉ぢ、首を搖かして曰く、全くは未だし、全くは未だし、尙ほ之を畏るること在りと。又、嘗て、綯と謀つて、盡く宦官を誅せむとし、濫して無辜に及ぶを恐る。絢。評謂令蛋糕的所(電車密に奏して曰く、但だ罪あらば捨るす勿れ、缺あるも補ふ勿れ。自て自もればらた整啻云る耗勿あすあんる理に々にしれる勿れま法のにんく消ふ缺、然消耗して、盡くるに至らむと。宦臣、ひそかに其奏を見る。之に止妙官豈ら盡然補由つて、益す朝士と相惡み、南北司、水火の如し。やにの官は至大中十三年上、崩ず。在位十四年。改元するもの一。長子立つ、之を懿宗皇帝となす。【懿宗皇帝】初名は溫、〓王に封ぜらる。寵なきを以て、太子たるを得ず。宣宗崩ず、宦者之を立つ、更めて灌と名づく。浙東の賊裘甫起る。聲中原に振ふ觀察使王式、討つて、之を斬る唐-宣宗皇帝-懿宗皇帝六二 十八史略卷之五六一二九年。徐州の賊龐動起る。之より先、南詔、大理皇帝と稱し、兵を擧げて入寇し、播邕交趾を陷る徐酒の兵に敕して、桂州に戌せしむ。期を過ぎて代らず。遂に亂を作す。助粮料判官となる。戍卒、推して、以て主となし、兵を擁して、北に還り過ぐる所、剽掠す。徐州に至り、因つて節度使を殺し、諸郡を陷る。招討使康ん承訓、之を擊ち、沙陀の朱邪赤心を以て前鋒となす。訓、敗死す。李國昌赤心に、姓名を李國昌と賜ひ、大同軍節度使となし、又、振武節度使となす。こ咸通十四年、上、崩ず。在位十五年。改元するもの一子晉王立つ、之を僖宗皇帝となす。【僖宗皇帝】名は優。懿宗の少子なり。年十三、宦官に立てらる。懿宗より以來、奢侈日に甚しく、兵を用ゐて息まず。歛賦愈よ急水旱實を以て聞せず。百姓流殍控訴する所なく、所在相聚まつて黃集盜をなす。濮州の人王仙芝、起る。曹州寃句の人黃巢、之に應ず。巢騎射を善くし、任侠を喜ぶ。嘗て、進士に擧げられて第せず。仙芝と共に私鹽を販る。是に至つて、衆を聚めて、州縣を攻剽す。窮民、之に歸する、數月に數萬。仙芝、汝鄭唐郵を攻陷し、鄂州に寇し、安州を陷れ、〓南に寇す。招討曹元裕と申州に戰つて大敗す。又黃梅に大敗す。之を斬る。黃巢鄲沂濮を陷れ、宋汴を掠む。南に渡つて、洪虔吉饒信を陷る。宣州に寇し、浙東に入る。鎭海節唐-僖宗皇帝-六二三 十八史略卷之五六一四度使高駢に破らる。遂に廣南に趨り、廣州を陷る。潭州に出で、北に渡つて襄陽に向ふ。〓門に敗れ、復た引いて南し、宣州を陷る。釆石より江を渡る。旣にして、淮を渡り、申州を陷れ、穎宋徐衰の境に入る。東都を陷れ、引いて西し、潼關に入り長安に入る。上、蜀に出奔す。巢大齊皇帝と僭號す。諸道、兵を發して赴き援く。國昌の子李之より先、沙陀李國昌の子克用、兵馬使となり、蔚州大同の軍を戌克用る、諸將、謀つて曰く、今、天下大に亂れ、朝廷の號令、復た四方に行はれず。是れ乃ち英雄功名富貴の秋なり。李振武、名、天下に聞こえ、其子、勇、諸軍に冠たり。若し輔けて以て事を擧ぐれば、代北は平らぐるに足らざるなりと。人をして、潛に蔚州に詣つて、克用に說かしむ。克用、雲州に趨いて、之を取る。河東の招義、之を討つて大敗す。克用忻代に寇し、晉陽に逼る。旣にして、大に盧龍の兵の爲に敗らる。蔚朔の兵も亦た討つて其父國昌を敗る。父子、亡げて達旦に走る。朝廷、其罪を赦し、其兵を召して、賊を討鴉軍たしむ。克用、沙陀を將ゐて來る。賊.之を憚つて曰く、鴉軍至るさと。しきりに、賊を破つて、長安を復す。巢宮室を焚いて遁れ、蔡州に至る。節度秦宗權、之に降る。巢、汴州に趨く。克用等、追擊して、大に之を破る。未だ幾ならずして、賊黨、巢を斬つて、以て降る。朱全忠克用の汴州に至るや、朱全忠之を襲ふ。全忠は巢の將朱溫なり。唐-僖宗皇帝-六一五 十八史略卷之五六一六先に巢に遣されて、同華を攻陷し、尋いで、華州を以て降り、名を全忠と賜ひ、宣武節度使となる。克用を館して、甚だ恭し。克用、酒に乘じて、頗る之を侵す。全忠、不平なり。兵を發して、驛を圍んで之を攻む。克用醉ふ。左右、水を以て、其面に沃いで之に告ぐ。克用、乃ち目を張り、弓を援つて、起つて走る。大雷雨晦冥なるに會し、醉を扶け、電光に乘じ、城に縋して出づ。汴人、橋をくわた扼す。從者力戰して度るを得て免る。克用、晉陽に還り、甲兵を治め、表して全忠を討たむことを乞ふ。詔して之を和解す。聽かず上、成都を發して、長安に還る。秦宗權、僭號す。上の蜀に奔るや、宦者田令孜、實に之を挾む、自ら以て功となし、權、己より出づ。河中の王重榮前に亂を作して自立す。令玫、朱玫等を遣して、之を攻む。重榮、救を克用に求む。克用、方に朝廷の全忠を罪せざるを怨む。上言す。攻等、全忠と相表裏して、共に臣を滅せむと欲すと。兵を引いて、河中に赴く京師震恐す。令孜、上を劫して、鳳翔に奔る。朱攻、追ひ逼れども及ばず。肅宗の玄孫裏王熅を立てて帝となす。攻の將王行瑜、玫を斬る。爆河中に奔る。王重榮、首を斬つて、行在に送る。上、長安に還る。上在位十五年。改元するもの五、曰く乾符、廣明、中和、光啓文德。日に宦官と相處るのみ。天下大亂、盜賊蜂起、豪傑因つて其唐-僖宗皇帝-六一七 十八史略卷之五六一八閒に起り、互に相呑噬す。朝廷制する能はず。上崩ず、壽王立つ之を昭宗皇帝となす。【昭宗皇帝】名は傑、僖宗の弟なり。信宗大漸、室者之を立てて太弟となし、遂に位に卽く。後、名を曄と更む。帝、明粹にして英氣あり。文學を喜ぶ。信宗の威令振はず、朝廷日に卑きを以て、前烈を恢復するの志あり。踐祚の初、中外忻忻たり。然れども、内、宦寺に制せられ、外に强鎭あり、初志竟に遂げず。越州の董昌僭號す。昌、さきに杭州に據る。錢鏐、兵馬使たり朝廷、昌に命じて、漸東に帥たらしむ。鏐、杭州を領す。是に至つて、昌、帝を越に稱するや、鏐に詔して之を討つ。す三鎭闕を犯鳳翔の李茂貞、華州の韓建、那州の王行瑜、三鎭、兵を擧げて闕を犯し、宰相を殺し廢立を謀る。李克用、來り討つと聞き、乃ち去る克用、邪州を攻めて行瑜を斬り、將に兵を岐華に移さむとす。貴近、沙陀の甚だ盛なるを恐れて、之を止む。克用、隴西郡王より爵を晉王に進む。兵を引いて晉陽に還る。錢鏐越州に克つ。董昌、誅に伏す。初め、李克用、渭北に屯す。李茂貞、韓建、之を憚り、朝廷に事ふること、甚だ恭し。克用去る。二鎭、復た驕慢なり。茂貞、兵を擧げて闕を犯す。上、華州に出奔す。克用、援を遣す。又、朱全忠六·が洛陽に營して駕を迎へむとするを聞ぎ、茂貞、建と皆懼れ、上を唐-昭宗皇帝-六一九 十八史略卷之五층)奉じて、長安に還る。之より先、嘗て、諸王をして、兵に將として巡警せしめ、又四方に出して、藩鎭を撫慰せしめむと欲す。南北司、事を用ゆる者、其己に利あらざるを恐れ、交も諫めて以て不可くわん〓〓となす。上、已むを得ずして、之を罷む。上、華に在りし時、宦官劉季述、諸王十一人を圍殺す。是に至つて、季述、上を少陽院に幽して、太子裕を立つ。同平章事崔胤、神策の將に說いて、季述を討之誅し、土、位に復す。宦官、胤を去らむことを謀る。時に朱全忠、天子を挾んで諸侯に令するの意あり。胤書を以て、之を召す。全忠兵を擧げて來る。室者韓全誨等、上を却して、鳳翔に如かしむ。全忠、之を圍む。李茂貞、遂に全誨等を殺し、上を奉じて、長こと〓〓安に還らしむ。全忠、兵を以て、宦官を驅つて、盡く之を殺す。其出でて諸方に使する者は、所在に詔して、之を誅せしめ、黄衣幼弱評三十人を存して、洒掃に備ふ。宦官は、文宗より已後、武而唐氏し代則百廢置、加る官漸次以て三其掌遂到女天年で降握に在り、定策國老、門生天子の號あるに至る。是に至つて、大に相にり禍くか、宦事誅殺せらる。全忠、東平王より爵を梁王に進められ、汴に還る。を用ゆふを致し、全忠、威、天下に震ひ、纂奪の志あり。胤懼れて、之が爲に備白芝麻雀湯獨立て行くり難3.0全忠、表して、胤を除かむことを請ひ、密に其黨をして之を殺至れさしめ、遂に上に請うて東京に遷都せしめ、百官を促して東行し、士民を驅り徒す。上、侍臣に謂つて曰く、鄙語に云ふ、紇于山頭、雀を凍殺す。何ぞ飛び去つて生處に樂まざると。朕、今、漂泊して、唐-昭宗皇帝-〓三 十八史略卷之五六三竟に何の所に落つるを知らずと。泣下つて、巾を沾す。上、洛陽に至る。李茂貞等、檄を移し、興復を以て辭となす。全忠、將に西討せむとし、上の英氣あるを以て變を生ぜむことを恐れ、人を遣し、洛に入つて、之を弑せしむ。上、位に卽いてより、賢豪を夢想せざるに非ざるも、卒に之を用3評作宰歌ゐず。嘗て、朝士鄭緊といふ者あり、該諧を好み、歇後の詩を爲つ可知て、時事を嘲る。上、其所蘊あるを意ひ、手づから班簿に注して以皮鄭國肉緊命絕頂て相となす。堂吏、走つて告ぐれども信ぜず。旣にして賀客至る。見頽る勢が如綮、首を搔いて曰く。歇後の鄭五宰相となる。時事知るべしと。上、在位十七年。改元するもの七、曰く、龍紀、大順、景福、乾む寧光化、天復、天祐。子立つ、之を哀皇帝となす。【哀皇帝】初名は祚。昭宗、廢太子裕あり、既に壯。全忠、之を惡む。祚、幼を以て立つを得たり。名を祝と更む。全忠、裕等九人を殺す、皆、昭宗の子なり。全忠、相國となり、九錫を加ふ。帝、在位、仍ほ天祐と稱す。四年ならずして梁に禪り、尋いで弑せらる。唐は高祖より、是に至るまで、二十世、凡そ二百九十年。唐-昭宗皇帝-哀皇帝-六二三 評譯十八史略卷之六五代梁西紀自九〇【梁太祖皇帝】初名は溫、姓は朱氏、陽山の人、朱五經の子なり。七至九二三少にして無賴、黃巢に從つて、盜をなし、唐に降つて、名を全忠と賜ふ。初め、汴に鎭し、徐州、兗州、〓州を攻併し、河北、河東の諸郡を攻め、屢ば李克用と兵を交へ尋いで河中、晉、絳を取り、兵を華岐に用ゐ、東、靑州を降し、南、〓襄を取り、諸鎭の間を橫五代-梁六二五 十八史略卷之六六二六「(行し、唐都を洛に劫遷し、遂に唐を簒し、名を晃と更む。其兄全昱評製造販売、を封じて、王となす。嘗て、之を罵つて曰く、朱三、汝、天子とな天子おねえの 赤か云々全昱るか汝、黄巢に從つて、賊を作す。天子、汝を用ゐて、四鎭節度しします溫をな評遺憾使となす、何をか汝に負く。奈何ぞ、唐家三百年の社稷を滅して、自〓くようら帝王となるや、行く當に族滅すべしと。此時、李克用、晉に王たり。李茂貞、岐に王たり。楊行密、吳王となつて、淮南に王たり。行密、旣に卒す。子渥、之に代る。王健、蜀に王たり。錢鏐、兩浙に王たり。王潮、聞に據る。旣に卒す。弟審知、之に代る。馬殷、湖南に據る。劉隱、廣に據る。皆、唐末より以來、諸州に割據す。梁主、馬殷を以て楚王となす。蜀主王健、帝と稱す。克用、晉王李卒す。初め、克用、養子あり、存孝といふ。最も驍ゆう。(1勇にして功あり。養子存信、疾んで、之を讃す。存孝、禍を懼れて叛す。克用、討つて獲て、囚へ歸り、其才を惜み、意に刑に臨み、必ず之が爲に請ふ者あらむを意ふ、諸將、其能を疾み、竟に一人の言ふなく、遂に死す。又、薛阿檀といふ者あり、亦た勇、密に存孝と通じ、事の泄るるを恐れて自殺す。之より、克用の兵勢、寝く弱し。唐末、數ば汁人に攻められて、數州を失ふ。汴兵、直に晉陽城下に抵る。克用、城に登つて備禦し、寢食に遑あらず。後に、汴か兵、再び晉陽を圍み、疫を以て還る。克用、幾んど走らむと欲す。五代-梁六二七 十八史略卷之六奈人h汴兵の去るに會して止む。克用、汴人と爭ふ能はざるもの累年、悒い存勗悒以て卒するに至る。子存勗立つ。時に、梁兵、晉を侵して、潞州を圍む。晉の李嗣昭、城を開ぢ、固守して年を踰ゆ。梁夾寨を築いて、之を守る。存勗、諸將と謀つて曰く、朱溫の憚る所のものは先王のみ。吾が新に立つを聞かば、以て童子となして、必ず驕怠の心あらむ。もし精兵を簡び、道を倍して、之に趨き、其不意に出づれば、威を取り、覇を定むる、この一擧に在り、失ふべからざるすなりと。兵を師ゐて晉陽を發し、三垂岡下に伏し、旦に大霧に乘じて、直に夾寒に抵り、塹を塡め、鼓譟して入る。梁兵、大に潰ゆ遂に潞の圍を解く淮南の將張頴、徐溫、楊渥を弑す。溫、復た顎を殺す。將吏、楊隆演を推立す。徐溫、自ら昇州を領し、養子徐知誥を以て、往いて之を治めしむ。梁、王審知を以て聞王となす。梁、劉守光を以て燕王となす。守光は、盧龍節度使仁恭の子なり。之より先、其父を囚へて、自ら軍府を領す。梁の夏州亂る。節度李彝昌を殺し、其族父仁福を以て、之に代らしむ。夏州の李氏、本姓は拓跋、上世、唐より姓を賜ひ、鎭を領すること久し。廣州の劉隱、卒す。弟巖、之に代る。五代-梁六二九 十八史略卷之六六三〇劉守光、燕帝と稱す。鎭州の王鎔、定州の王處直、晉王を推して、盟主となす。梁、鎭州を攻め、諸郡を襲ひ取る。晉王、其兵を柏〓に伐つて、大に之を破る。晉、二鎭を帥ゐて燕を伐つ。梁主、之を救ひ、大に敗れて、走り歸る。之より先、梁主、旣に疾あり。是に至つて、慙憤して曰太原の遺孽 我、天下を經營すること三十年、意はざりき、太原の遺孽更に昌熾、かくの如くならむとは。吾、其志を觀るに、小ならず。我死せば、諸兒、彼の敵に非ざるなり。吾、葬地なからむと。疾愈よ劇且つ課怒を加ふ。假子、友文の妻を愛し、將に友文を立てて嗣となさむとす。遂に其子友珪に私せらる。在位六年。改元するもの二、曰く、開平、乾化。初め、汴州を以て東都開封府となし、洛陽を西都となし、遷つて洛陽に都するもの凡そ四年。友珪、自立す。尋いで、誅に伏す。均王立つ。【均王】名は友貞、初め東都指揮使たり。友珪の簒弑するや、兵を起して、之を誅して、汴に卽位し、名を塡と更む。晉王、幽州に入り、燕の劉仁恭及び守光を執へ、歸つて之を斬る梁、荊南節度使高季昌に爵を賜うて王となす。保契丹の阿保機は、古しへの東胡の種なり。其國、の機契大阪府中央局さきに橫山の南り遼に在り、もと鮮卑の舊地、元魏の時、自ら契丹と號す、初め、太賀五代-梁六三一 十八史略卷之六六三二氏、八子あり、八部太人と號す。一人を推して主となし、三歲一たび代る。唐の開元中、邵固といふ者あり、衆を統ぶ。詔して、襲いで王たるを許す。是に至つて、諸部、耶律斡里の少子阿保機を以阿保二九機西至紀九自六一は六て主となす。奚、渤海を並せ、始めて、元を建て、復た代を受けす。國人、之を天皇王といふ。廣州の劉巖、越王と稱す。既にして、帝と稱し、國號を改めて、漢といふ。後、また、名を襲と更む。な吳の徐溫、徒つて昇州に治し、徐知詰を以て入つて吳政を輔けしむ。蜀主王建、殂す。子宗衍、立つ。吳主楊隆演、卒す。弟博普、立つ。梁錢鏐を以て吳越國王となす。晉、梁と連歲兵を交ふ。梁の魏州、晉に降る。晉王、魏に入つて德州、澶州を拔く。梁の劉郭、晉陽を襲ひ、克たずして還る。鎭定の營を攻むるや、晉師、之を敗る。鄂魏州を攻む。晉王、又之を敗る。梁、又兵を遣して晉陽を襲ふ。晉人、擊つて之を郤く。晉、5衞、磁、洛、相邢、滄、貝の州に克ち。濮鄲を掠む。梁人、河を決して、以て晉を限る。晉王、攻めて其四寨を拔く。既にして、3大擧して、梁を伐ち、胡柳に戰ふ。晉の周德威、敗死す。晉王、兵を收めて、復た戰ひ、大に梁軍を敗る。晉、德勝南北の兩城を築五代-梁六三三 十八史略卷之六六三四かせふたうわうさんしんかく。梁、之を攻む、克たず。梁の招討王瓚、晉の爲に敗られ、梁の河ちうしんてうわうよう中晉に降る。鎭州の將、趙王王鎔を弑す。晉王、討つて之を平らぐ。ごしよくしばしさ之より先、吳蜀、數ば書を以て、晉王に勸めて、帝と稱せしむ。晉いせんわうゐげんまさつとたうしやしよくふく王、自ら謂ふ、先王遺言あり。當に務めて唐の社稷を復すべしとでんこくほうしううしやうしみながくわんしん旣にして、傳國の寶を魏州に得、將士皆賀し、勸進して己まず、遂ていゐたうげん李嗣源を遣して、しうんしうに帝位に魏に卽いて、國を唐と號し、梁の〓州をれうわうげんしやうもつせうたうとくしやう襲ひ取らしむ。梁、王彥章を以て招討となす。唐主、德勝の守者をいましわうてつさうゆうけつつゝし王鐵槍は勇決なり戒めて曰く、王鐵槍は勇決なり、しよさいやうりう之を謹めと。りよくこう彥章果して、か南城を拔き、進んで諸寨を拔き、楊劉に至つて力攻す。克たずして退く。うんたうしゆ梁、彥章をして鄲を攻めしむ。唐主、之を救ふ。梁、敗れ、彥章死しげんぜんぱうたいれうな評弟み主屋 を し て も て て つ てす。唐、嗣源を以て、前鋒となし、五日、大梁に入る。梁主、猶ほに所兄臨梁尙しよきやうだいあやふじようおもんほかこと〓〓殺す諸世諸兄弟危きに乘じて亂を謀らむを慮つて、盡く之を殺し、尋いおのれで、其下に命じて、己を殺さしむ。在位十一年。改元するもの二、一個大正貳年ていめいりようとくたいそていべし曰く、貞明、龍德。梁は、太祖帝と稱せしより、是に至るまで、二世一十七年にして亡ぶ。唐そんきよくしやだしゆやせんせい【唐莊宗皇帝】名は存勗、沙陀の人なり。本姓は朱邪、先世、功をちゝこくようゆうりやくもくびべうどくがんりう立てて姓李を賜ふ。父克用、勇略あり、一目微眇、獨眼龍と號す。たうくわうさうたひたいこうしゆしあだ唐の爲に、黄巢を平らげ、大功を立て、晉に王たり。朱氏と仇とな五代-梁-唐六三五 十八史略卷之六六三六る.暮年頗る爲に蹙められ、憂、色に形はる存勗、幼にして進言して曰く、朱氏、凶を窮め、暴を極む。人怨み、神怒る。極めて將に斃いとれむとす。至此一、世、忠貞を襲ぬ。大人、當に遵養時晦、以て其かろ〓〓衰を待つべし。奈何ぞ、輕しく、沮喪を爲し、群下をして望を失はミしめむやと。克用說ぶ。終に臨んで、立てて嗣となし、其下に謂つて曰く、この子、志氣遠大、必ず能く吾が事を爲さむと。年十七、晉王の位を嗣ぎ、卽ち兵を擧げて、梁を破り、潞の圍を解き、之よしば梁祖、子を生まば、當に李亞子の如の當子如にをく 李生歎じて曰く、大吾な亞まり、連りに勝つ。子酒店、のがるくなるべし。吾が兒は、豚犬のみと。存勗、東、幽州を併せ、北、ペはし豚み兒契丹を郤け、南、梁と河を夾んで百戰す。之より先、晉陽の監軍張せつおうと!?承業晉王の爲に財賦を招拾し、兵馬を召補す。攻戰連年、接應乏さしからざるは、皆承業の力なり。承業の意は、唐の宗社を復するに在り。王の將に帝と稱せむとするを聞き、力諫す。止むべからざるを知るや、慟哭して曰く、諸侯血戰、もと唐家の爲にす。今、王、自ら之を取り、老奴を誤ると。悒悒、疾を成して卒す。王、位に卽き、音を改めて唐となし、唐の祀を奉ず。汴に入り、梁を滅し、大梁に都し、旣にして、洛陽に遷る。侍中郭崇韜、謀略あり、是に至(か、つて、權內外を兼ね、謀猷規益、忠を竭して隱すなく、人物を薦引す。他相は成を受くるのみ。〓南の高季興、入朝す。季興は、季昌の改名なり。唐、以て南平五代-唐毫 十八史略卷之六六三八わう王となす。しよくしゆわうえんはんゆういんめんたうおこくわうしけいきふくわくすうたう蜀主王術、盤遊淫酒、國亂れ、盜起る。唐、皇子繼岌と郭崇韜とほろぼそのぞくせきけいきふを遣し、之を伐つて遂に蜀を滅す、行、降る。其族を赤す、繼岌、ざんすうたうかへ讒を信じ、崇韜を殺して還る。孟知祥を以て西節度使となす。まうちしせいせんせつどし唐、かやうやおごはじめれいじん唐帝、梁に克つてより後、漸く驕り、首に伶人を以て、刺史となえうおんりつならふんぼくいうじんす。帝、幼より、音律を習ひ、或は時に粉墨を傅けて、優人と共に李天下たはむいうめいてんかりてんか戯る。優名を李天下といふ。嘗て、自ら呼んで、李天下、李天下というじんけいしんまにはかすそのほゝうしんきいぶ。優人敬新磨、遽に前んで其類を批つ。帝、色を失ふ。新磨、おもむろおさなたれ徐に曰く、天下を理むるは、只だ一人なり。尙ほ誰をか呼ぶやと。よろこしよれいきうえきしんろうふんしつ帝、悅ぶ。諸伶、宮掖に出入し、指紳を侮弄す。群臣、憤疾するもあひぶあへて相附託し、くわてん敢て氣を出す者なく、亦た反つ貨を納れ、展轉して、おんたくもとせいほしひまゝざんとく以て恩澤を干むる者あり、政を〓し、人を害し、恣に讒慝をなす。しゆくしやうあはれしばしいうれうじうせん帝、宿將を疎忌し、軍士を恤まず、數ば出でて遊獵し、民田を蹂踐じやうかしゑんyはくしやうぐわけうましまとし、上下咨怨す。魏博の將、瓦橋を成る。代つて歸るや、復た留まばいしうてうざいれいほうげふとつて貝州に屯せしむ。遂に亂をなし、趙在禮を奉じ、入つて、鄴都しやうりしげんじやうかぐんしに據る。唐、將李嗣源をして之を討たしむ。城下に至る。軍士、大さわせんに課いで曰く、將士、主上に從ひ、十年百戰、以て天下を得たり。ばいしうじゆそつしゆじやうゆるじうばちよくすうそつけんきやう今、貝州の成卒、歸るを思ふ、主上赦さず、從馬直の數卒、喧競すにはかそのぞくわがはいはんしんるも、遽に其族を誅せむと欲す。我輩、初めより、叛心なし、惟だ五代-唐亮元 十八史略卷之六六四〇死を畏るるのみ。今、城中と勢を合せむと欲すと。白刄を拔き、嗣源を擁して城中に入る。城中、外兵を受けず、之を逆へ擊つ。皆、潰ゆ。嗣源、詭辭して、出づるを得たり。將に兵を召して亂者を攻めむとす。安重誨曰く、公、元帥たり。不幸にして、凶人に劫かさる。若かず、星行して、闕に詣つて、天子に見えむには庶はくは、自ら明かにすべしと。嗣源、乃ち、南相州に趨る。譜者奏す、嗣源、既に叛すと。嗣源上章して、自ら理す。遏めて、通ずるを得ず。始めて、疑懼す。石敬塘曰く、安んぞ、上將、叛卒と共に城に入つて、佗日恙なきを保するを得る者あらむや。大梁は、天下の都會。願はくは、先づ往いて、之を取れ。始めて、自ら全うすべし。康義誠曰く、主上無道、軍民怨望す。公、衆に從へば生きむ、節を守れば必ず死せむと。嗣源、乃ち敬塘を以て先鋒となし、李從珂を殿となし、兵を引いて、大梁に入る。唐主、關東に如き、嗣源、既に大梁に據つて諸軍離叛すと聞き、神色沮喪、歎じて曰か、く吾、濟らずと。卽ち命じて師を旋す。從馬直郭從謙、兵を帥ゐて帝を氾水に攻む。唐主、流矢に中つて殂す。帝と稱する、わづかに三歲にして弑に遇ふ。改元するもの一、曰く同光伶人、樂器を歛め、屍を覆うて、之を焚く。嗣源、之を聞いて痛哭す。乃ち、洛陽に入る。百官、牋を上つて、勸進すれども許さず。又三たび、嗣源に請うて國を監せしむ。乃ち之を許す。繼岌、蜀より歸り、途に內五代-唐査 十八史略卷之六六四二なんじさつかんこくためいそうくわうてい難を聞き、長安に至つて自殺す。監國立つ、之を明宗皇帝となす。じんばくきつれつしんわうこくようしげん【明宗皇帝】もと胡人選佶烈なり。晉主克用の養子となり、嗣源とさうそうほろぼちうしよれいばんかんばほ名づく。莊宗、梁を滅すや、嗣源、功、最も高し。中書令蕃漢馬步そうくわんげふはんそつげふ總管となり、令を受けて、鄴を討ち、叛卒の推す所となる。鄴よりべんおもむらくたん汴に趨き、洛に入り、遂に位に卽く。名を壹と改む。きつたんあはうきしゆつとくくわうた契丹の阿保機卒す。子德光立つ。リ塗裝大大正師のなしゆつえんかんたけういんざんばうしいそのびんわうしんち子延輸立つ。閩王王審知卒す。驕淫殘暴、其下、之を弑して、其おとうとえんきんりんあらた弟延鈞を立つ。後、帝と稱す。、名を璘と更む。ごわうやうふ吳王楊溥、帝と稱す。なんへいわうかうきこうこしようくわいた南平王高季興卒す。子從誨立つ。せいたのちきはんた楚王馬殷卒す。子希聲立つ。後、希聲卒す。希範立つ。こゑつわうせんりうしゆつこげんくわんた吳越王錢鏐卒す。子元瓘立つ。かしうじんふくしゆつこいてうつ夏州の李仁福卒す。子彝超嗣ぐ。せいせんまうちしやうあはしよくわう西川の孟知祥、東川を併す。知祥を以て蜀王となす。しんわうしようえいけうこんじろんし唐の秦王從榮驕狠なり。自ら時論の與みせざるを知り、常に嗣おそたうしゆやまひしんにはかがないひきたんたるを得ざるを懼る。唐主、疾に寢す。遽に牙兵千人を率ゐて、端もんきんゑいしようえいへいつひ門の下に至り、將に入らむとす。禁衞、之を討つ。從榮の兵潰ゆ。くわうじやうしたうしゆひがいやまひはげそ走つて、府に歸る皇城使、之を斬る。唐主悲駭、疾劇し、遂に殂さいききそとうきよくす。唐主、性、猜忌せず、物と競ふなし。登極の年、旣に六十を踰かうたしゆくばうじん毎夕、宮中に於て、香を焚いて天に祝して曰く、某は胡人、亂五代-唐六四三 十八史略卷之六資しゆうたねがせいじんしやうせいみんしゆに因つて衆に推さる。願はくは、天、早く聖人を生じて、生民の主てんせいちやうこうせいとなせと。在位八年。改元するもの二、曰く、天成、長興。內に聲しよくいうでんくわん〓〓にんうちざうこはいれんりしやう評外に遊〓なく、藏庫を廢し、廉吏を賞唐なじ亂宗の君通離明色なく、宦官に任ぜず、内、の記憶ざうとあんがふねんこくしばしし、贓盡を治す。書を知らずと雖も、行ふ所、道に暗合し、年穀屢Dreamゆたかへいかくもちまれsほぜうかうば豊に、兵革用ゆる罕なり。五代に校ぶるに、粗ば小康となす。子そうわうたびんてい宋王立つ、之を関帝となす。じうこうめいそうじしちこころざし【閔帝】名は從厚、明宗の次子なり。位に卽いて、治を爲すに志そのえうくわんじうだんすくなあり。然れども、其要を知らず、寛柔にして斷少し。まうちしやう蜀の孟知祥、帝と稱す。ろわうほうしやうはんちやうくらくやうびんてい唐の潞王、鳳翔に反す。兵を擧げ、長驅して洛陽に至る。閔帝、しゆつぼんおうじゆんかいげんろわうた出奔す。位に在つて、應順と改元す。潞王立つ。しようかほんせいわうしめいそう【潞王】名は從珂、本姓は王氏、明宗の養子なり。少にして、明宗せいばつこうみやうしゆうしん5に從ひ、征伐して功名あり、衆心を得たり。事を用ゆる者、之を忌ほうしやうちんびんていかとううつしやうさおむ。從珂、鳳翔に鎭す。閔帝、命じて、鎭を河東に移す。將佐、以はなまつたげきりんだううつ爲へらく、鎭を離るれば必ず全き理なしと。乃ち檄を鄰道に移し、ていそくきよせんむか兵を起して入りて、帝側を〓む。從珂、陝に至る。諸軍、皆、迎へくだらくさいしやうへうどうとうひやくくわんはんけい降る。洛に至る。宰相馬道等、百官班迎し、遂に位に卽き、人をゑいしうちんさつ遣して、関帝を衞州に鴆殺す。しよくしゆまうちしやうそこちやうた蜀主孟知祥殂す。子昶立つ。てうしゆつあにいじん夏州の李舜超卒す。い兄彜殷、之に代る。五代-唐六四五 十八史略卷之六六四六聞人、其王璘を殺して、其子繼鵬を立て、名を昶と更む。石敬塘唐主、初め、河東節度使石敬塘と、素より相悅ばず。唐主立つ。敬塘、己むを得ずして入朝し、尋いで、鎭に歸り、陰に自全の計を評石唐主、る聯蔣にに權敬勢塘なす。之を移す。援を契丹に求む。契丹、唐兵を同依石むをのが遂に反し、る契爲自所丹め家援敗り、敬塘を立てて晉帝となす。兵を引いて、洛陽に向ふ。唐主、とに介求自ら焚いて死す。在位三年ならず、改元するもの一、曰く〓泰。唐一賴が賴轍すソは、莊宗より、是に至るまで、四主、凡そ一十四年。晉【警高祖皇帝】姓は石氏、名は敬塘、沙陀の人、唐の明宗の婿なり。ふ初め、從珂と共に、皆、勇力あつて善く鬭ふ。明宗に事へて、皆功あり、內相忌む。從珂、帝と稱す。敬塘、河東より來朝す。將佐、と皆勸めて、之を留めしむ。時に久しく病んで骨立す。唐主、以て虞となさず、遂に鎭に歸るを得たり。公主、洛陽に在り、辭して歸るや、唐主、醉うて曰く、何ぞ、暫らく留まらずして、遽に歸るや。石郞と反せむと欲するかと。敬塘、之を聞いて益す懼る。尋いで、命じて、移つて、鄲州を鎭せしむ。敬塘、命を拒む。唐主、兵を發石敬塘表しして、之を討つ。桑維翰、敬塘の爲に、表を草して、契丹に臣と稱て契丹に臣事すし、事ふるに、父の禮を以てし、約す、事捷たば、地を割かむと。劉知遠、以爲へらく、太だ過ぎたり、厚く金帛を賂はば、其兵を致五代-唐六四七