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当ページでは、橋爪大三郎と大澤真幸による『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)に記述されている、聖書に関して発言された部分での膨大な量の間違い・誤りを扱う。間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」が容量オーバーになったため、聖書篇を分割して作成。 2012年7月18日現在、130個以上の誤りが挙げられているが、まだ未完成。なおこの誤りの数は明らかな誤りのみをカウントしたものであり、疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。 ※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。 間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。 理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。真面目な文系研究者や読者に失礼。 関連する研究をしている人々の努力と業績を一切無視して講釈するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。 p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。 ※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。 間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」 歴史篇(上記ページが容量オーバーになったため分割されたもの、以下同様) 聖書篇(新約その1) ・ (新約その2) 神学篇 他宗教篇(仏教・神道・イスラーム)(間違いだらけの惨状は他宗教の記述でも同様。これで比較が可能なのでしょうか?) 疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」 「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書(あるんです!)紹介 (誠実な著者による良書からこそ学びましょう^^) 聖書についての間違い 目次 1 総論 2 旧約 3 新約その1 新約その2 総論 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p182 「「地獄」というものは、ありません。聖書には書いていない。火で焼かれる。」 「地獄は永遠か」という設問は古くからキリスト教で問われてきた問題ではあるし、「地獄」の意味についても諸説あるが、聖書には「地獄」の単語は書かれている(本当に聖書を読んだのか?)。訳語の問題はある。γέενναとᾍδηςにつき、正教会訳では両方「地獄」の漢字を当てるが(但しルビで訳し分けている)、他方、新改訳聖書はそれぞれ「ゲヘナ」「ハデス」と訳している(但し新改訳聖書を使用する諸教会が「地獄は無い」と主張しているわけではない)。橋爪氏は新改訳聖書しか読んでいないのかもしれないし、「『地獄』とは誤訳だ」と言いたいのかもしれない。しかしだとしたらきちんとそう言うべきだ。「聖書には無い」などと断言する前に、日本聖書協会訳の新共同訳聖書と口語訳聖書で検索をかけてみる事くらいは、学者としてやっておくべきではないか。 新共同訳聖書の「地獄」検索結果 口語訳聖書の「地獄」検索結果 p244, p246, p247 「まず聖霊は、使徒行伝に出てくる」(p. 244) 「でも、イエス・キリストはいなくて、代わりに聖霊がいる。ともかく、使徒行伝には聖霊の記述がある」(p. 246) 「なぜ聖霊が必要かというと、パウロの書簡を神の言葉(聖書)」にするためなんです」(p.247 彼の記述や論理だと聖霊が登場するのは使徒行伝が最初のようだが、使徒行伝が最初ではない。旧約では意見が分かれるが、ギリシャ語訳ユダヤ教聖書(いわゆる「70人訳聖書」)にも新約聖書と同じ単語で「聖霊αγιον πνευμα」が出てくる(詩51 13;イザ63 10,11;ダニ5 12;6 4etc)。(ヘブライ語からだと聖霊とは訳せないが。明らかに「聖霊」となる語を新約から探しても、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(ルカ 1.35)、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」(ルカ 3.21~22)「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(ヨハネ20.22)、その他ヨハネ14 15-17,26, 16 5-15など。ヨハネ14 15-17,26, 16 5-15 は助け手(パラクレーシス)たる聖霊の役割についても詳しく言及されている。聖霊のこの役割に触れないのも不可解。あるいは不勉強。 新共同訳聖書の「聖霊」検索結果 口語訳聖書の「聖霊」検索結果 p291 「聖書が成立したあと、公会議で聖書の読み方(学説)を決めたが、それも含めて聖書と考える」 そのような聖書の定義をしている教派は無い。公会議で定められた信条は聖書に収められていない。教会が聖書の正典を定めたことを指しているのだろうか?聖書につきカトリックでは旧約46巻・新約27巻、計73巻編成の文書を正典とし(ウルガタ訳聖書の影響)、正教では旧約49巻、新約27巻を正典とし(70人訳ギリシア語聖書)、プロテスタントは旧約39巻、新約27巻、計66巻を正典とする(旧約をマソラ本文のあるものに限定したため)。また、その他の正典を定める教派もある。しかし、正典の編纂と考えてもおかしい。なぜなら、プロテスタントは公会議で聖書の正典を定めたわけではないからである。カトリックは「聖書と聖伝」とし、プロテスタントは「聖書のみ」(聖書自身が聖書であることを証する限りにおいて)、正教は「聖伝は聖書を含む」と考えるが(聖書も公会議も聖伝の構成要素)、「公会議で聖書の読み方を決めた」教派は無いし、「公会議の内容も含めて聖書とする」教派も無い。 教え-聖書:日本正教会 The Orthodox Church in Japan Holy Scripture In The Orthodox Church "The Bible" Compiled by Father Demetrios Serfes CATHOLIC ENCYCLOPEDIA The Bible Canon of the Old Testament Canon of the New Testament 旧約 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p17 「『メシア』はヘブライ語で、救世主という意味」 ヘブライ語での意味は「油つけられし者」(「メシア」のギリシャ語訳である「キリスト」も同様の意味)。「ヘブライ語で」などと言わず、「メシアとは救世主を意味するようになった単語です。」などという説明であれば正解だったが。 CATHOLIC ENCYCLOPEDIA MessiahХристос(Краткий церковнославянский словарь) p29 「たとえば、王妃のイザベラがバアル神を拝んだので、預言者エリヤがバアルの祭司四百五十人を殺害した事件(『列王記上』18章)は有名です」 どうしてイゼベラだけを取り上げるのか、理解に苦しむ。『列王記上』16章31節によれば、王アハブが「進んでバアルに仕え、これにひれ伏した」とある。そもそも、エリヤが「バアルの祭司四百五十人」を殺したのはイザベラがバアル神を拝んだから、というまとめは、読解力の欠如を疑わせる。もっとも、「風が吹けば桶屋が儲かる」というような理屈を理解しろと言うのであれば、話は別であるが。なお、ここで橋爪氏は「バアルの祭司」という言葉を用いているが、正確には「預言者」である。55頁及び109頁に見られる誤り(下記参照)のため、つまり、自説に都合良くするためにバアルの預言者という言葉遣いを避けたのであろう。 列王記上16 31列王記上18章 p33 「さて、ヤハウェにどうやって仕えるか。(中略)第一は、儀式を行う。牛や羊などの犠牲を献げるのですね。犠牲の献げ方にもいろいろあるが、特にヤハウェに献げる場合には、「全焼の供儀」といって、黒焼きにした。」 動物だけが捧げ物ではない。まるで他の祭儀は神に捧げていないかのような口ぶりだが、灌祭(ブドウ酒を捧げる)も素祭(種なしパンを捧げる)も神に献げられるもの(祭司は分け前にあずかるだけ)。 レビ記「素祭」検索結果 民数記「灌祭」検索結果」 p49-50 「ニネベはアッシリアの首都で、そんな異教徒の国のど真ん中で、ヤハウェの言葉を伝えるなんて、自殺行為です。ヨナは嫌だから、反対の方向に向い船に乗った」 確かにヨナは神の言葉に従わなかった。しかし、ニネベで「ヤハウェの言葉を伝える」のが「自殺行為」で、それが嫌だから逃げた、とは、ヨナ書の1章にもどこにも書かれていない。むしろ、4章2節から、神の命令通りにニネベの人びとに神による災いを伝えても、神が思い直し、結果として自分の預言活動が無駄になることが嫌で逃げた、と考えられよう。 ヨナ1章ヨナ4 2 p50 「でも、沖合に出たら大嵐になって、『こいつのせいだ』と、ヨナは海にほうりこまれた」 ヨナ書の記述と異なる。ヨナは自分から申し出て海にほうりこまれたのである。 ヨナ1:12 p50 「ヨナはニネベが破壊されるのを楽しみにしていたのです」 ヨナは「ニネベが破壊されるのを楽しみにしていた」、とはどこにも書かれていない。神が思い直したのが腹立たしいのである。他の箇所でもそうであるが、橋爪氏は聖書を勝手に書き換え、自分の理屈に合うように読む傾向がある。 ヨナ4 2 p50 「ヤハウェは、いや、私は悔い改めたニネベが栄えるのを見るのがうれしい、と答える。」 あまりに元の文章からかけ離れている。元は「ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか。」(口語訳聖書ヨナ書4 11)「栄える」も「うれしい」も書いておらず、疑問文。ヨナ書は神からのヨナへの問いかけであるこの疑問文で終わっている(聖書に、神からの問いかけ・疑問文に人がどう答えたかを敢えて書かないことで、読者自らが自分の答えを出すことを期待していると、教派によって解釈し得る箇所が時々出てくる。)。「惜しむ」という単語は、直前でヨナが日よけのとうごまの木が枯れたことを惜しんでいることと対応している。この文章が重要なのは、「異邦人の人々」に神の配慮が行き届く信仰内容が示されているにとどまらず、「家畜」という動物にまで神の配慮が行き届くことが示されてもいることにもある。これらの意義が全く抜け落ちてしまう橋爪氏の紹介文は、もはや国語でいう要約の態をなしていない。 口語訳聖書ヨナ書4 11"The Orthodox Study Bible Ancient Christianity Speaks to Today s World" p1023, Thomas Nelson Inc; annotated版 (2008/6/17) p53 橋爪「ヤハウェは、ノアに語りかける。神の声を聞いたノアは、預言者みたいなものですが、ノアの一族以外の人びとは洪水で全滅していますから、人類の一部分に語りかけたわけではない。ノアの子孫が地上に拡がったあと、ヤハウェは今度は、アブラハムに語りかけた。人類の一部に語りかけたというのは、アブラハムが最初でしょ?」大澤「言われてみると確かにそうですね。」橋爪「これが、イスラエルの民(のちのユダヤ民族)の出発点になる。」 創世記4 6で、神はカインに語りかけている。さらにノアについても、まだ洪水の起きる前に話しかけているから(創世記6 13)、やはり「一部に」語りかけている。口語訳聖書で15頁にも満たない創世記の冒頭部分すら、橋爪氏も大澤氏も碌にチェックしていない。ちなみに「語りかけられた」だけでは神の民の出発点にはならないことは、カインがその後どうなったかを見れば明らか。こうして橋爪氏と大澤は、既に出発点の意義から、テーマとなっている一民族について理解していない。 創世記4 6創世記6 13 p54 「イスラエルの民は…エジプトに移り…人数が増えて六十万人にもなった。それが、モーセに率いられて、エジプトを脱出した」 正確には、エジプトを脱出した「一行は、妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった。そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった」のである(出エ12 37。更に民11 21参照)。 出エジプト記12章37節民数記11章21節 p55 「モーセのあとにも、預言者が大勢現れ、ヤハウエはイスラエルの民に語りかけ続ける。アブラハムの子孫以外には、預言者が現れない。この意味で、彼らは、神に選ばれた民族なのです」 ユダヤ人以外でヤハウェから語りかけられた預言者として、バラムがいるので、誤り。 民数記22、23、24章 p68 「『ヨブ記』は、さっきの『ヨナ書』と同じく旧約聖書の「諸書」の一つです」 『ヨブ記』が「諸書」の一つであることは正しいが、『ヨナ書』は「後の預言者」に分類される。 和田幹男 プロテスタントとカトリックにおける旧約正典の比較 p69 「(ヨブは)友達もなくしてしまった」 批判した相手は友達ではない、と考えているのだろうか。個人的にそのように考えて振る舞うのは勝手だが、ヨブ記にあてはめるべきではない。ヨブを批判した三人が批判し終わった後でもヨブにとっては友人であり続けた、と考えられていることは、42章10節「ヨブが友人たちのために祈った」から明らか。 ヨブ42 10 p69 「わしはリヴァイアサンを鉤で引っかけて、やっつけたんだぞ。ビヒモス(ベヘモット)も退治した」 ヨブ記で神はそのようなことは言ってはいない。誰がリヴァイアサンを鉤で引っかけられるか」、「お前ヨブはベヘモットを捕らえられるか」とは語っているが。尤も、橋爪氏がヘブライ語からそのように読めると主張するのであれば話は別であるが(ヘブライ語からそのように理解するのは大変難しいが) ヨブ40章 p69 「ヤハウェも、ちょっとやりすぎたかなと反省した」 そのようなことはどこにも書かれていない。 (各自ヨブ記を読まれたし) p75 「エデンの園には、食べ物が十分にあって、働かなくていい」 創世記2章15節に「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」とあるが、この「耕し」はヘブライ語で「働く」を意味する単語である(LXXでも同様)。エデンの園でも人間は働いていたのである。 創世記2章15節ヘブライ語版創世記ギリシャ語版創世記 p75 「この二つの樹の実を食べてはいけないよ、それ以外の実は食べてもいいけど、と言い置いて、神様は(楽園から)出て行ってしまうわけです。」 どこに「出て行った」というのか?そのようなことはどこにも書かれていない。「最強のキリスト教入門書」を謳うなら、聖書に書いていない橋爪氏による創作物語ではなく、(同箇所は短い文章なのだし)聖書をそのまま引用すべきだろう。なお橋爪氏は他の箇所でも「神が留守」「神が出て行った」という表現をしており、「瑣末な間違い」ではなく、橋爪氏の一貫した誤解であることが判る。→下記p76と、間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(神学篇)(p312) 創世記2章参照創世記3章9節「あなたはどこにいるのか」の注解 p76 「で、神の留守に、蛇が出てくる。蛇はサタン。反対者ですね。イブに「知恵の実を食べてみないか、きっとおいしいよ」とそそのかす。」 「神の留守」「食べてみないかとそそのかす」そのようなことはどこにも書かれていない。蛇の誘惑はより狡猾なものであった。イブは自らの意思で食べたのである。またイブに勧められたアダムも、自分の意思で食べている。蛇は「食べたらどうだ」とは言っていない。この後、神からの問いかけに対して人が責任転嫁を行っていることが、神の前に罪を犯した人間の好ましくない有り様であると捉えることが、殊に正教会、カトリック教会における重要な告解理解に繋がるのであって、瑣末な間違いではない。ここも、「最強のキリスト教入門書」を謳うなら、聖書に書いていない橋爪氏による創作物語ではなく、(同箇所は短い文章なのだし)聖書をそのまま引用すべきだろう。なおここから先は「細かい間違い」かもしれないが、橋爪氏は「蛇はサタン。」と述べているが、そう捉えない教派・解釈例もあるので、特定教派もしくは特定思潮の立場をとらない書籍において簡単に断言してしまうのは、厳密には不適当もしくは偏向である。 創世記3章参照『旧約聖書略解』p14, 日本基督教団出版局, 1986年5月10日 40版"The Orthodox Study Bible Ancient Christianity Speaks to Today s World" p6, p8, Thomas Nelson Inc; annotated版 (2008/6/17) p80 大澤「だいたい、理由も言わずにただ」知恵の樹と生命の樹の実を「『食べてはいけない』なんて言われたら」(橋爪氏、これを否定せず) 理由は神によって語られている。「食べると必ず死んでしまう」からである(創世記2章17節及び3章3節参照) 創世記2章17節 3章3節 p84 大澤「ところが神については、逆で、『俺は神を見た』と言ってしまえば、それはほんものの神ではなくて、偶像になってしまいます。神に関しては、その存在を確認するうえでのあらゆる方法が禁じられている。預言者でさえも、たとえばモーセでさえも神をまともに見ていない」(橋爪氏、これを否定せず) 大澤氏が念頭に置いている聖書箇所は恐らく出エジプト記33章20節以下及びヨハネの福音書1書18節、ヨハネの手紙一4章12節などであろう。なるほど、出エジプト記33章20節には「人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」(新共同訳)とあり、モーセが見れたのは神の後ろ姿だけであったと述べられている。しかし、大澤氏(と恐らく橋爪氏)は出エジプト記33章11節に「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」とあることも、更に同書24章9節以下でモーセのみならず「アロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老」がイスラエルの神を見たと語られていることも無視している。更に言えば、創世記32章31節でヤコブも神を見たと語られている。士師記13章22節では、マノアとその妻が「神を見てしまった」ことが語られている(尤も、神とマノアが呼ぶ存在は、地の文では「神の御使い」と呼ばれているが)。案外と神を見た人間はいるのである。 出エジプト記33章11節以下、同24章9節以下、創世記32章31節、士師記13章22節 p93 「(契約の)箱には、金属の輪が四隅について、棒を通して担げるようになっている。その構造の詳しい説明が、旧約聖書の『レビ記』に載っています」 契約の箱の構造について詳しい説明があるのは、『レビ記』ではなく、『出エジプト記』の25章10節以下である。なお、どの刷からかは不明であるが、『出エジプト記』と修正されていることを付記しておこう。なるほど、誤った情報が正しい情報に訂正されたのは喜ばしいことではあるが、版を改めるではなく内容を修正するというのは、業界の慣習かもしれないが、問題であると思われる(これは著者にではなく、講談社に対する批判)。 出エジプト記25章 p100 「サラが亡くなったとき、墓地が必要になって、ブドウ畑の隅っこでいいから売って下さいと、(アブラハムは)地元民に交渉するのですが、なかなか売ってくれない。」「寄留民の土地所有は認められていなくて、墓地なら例外的に取得できたのです。ヤハウェに約束の地を与えられたというものの、実態はこんなものだった。そうやって苦労のすえ墓地を手に入れたと、いかにも自慢そうに『創世記』は記しています。」 そのようなことは創世記に書かれていない。むしろ「じゅうぶんな対価を払って」購入を希望するアブラハムに対し、地元民(ヘテびとエフロン)は「わたしはあの畑をあなたにさしあげます」と提案している(23章11節)。それに対してアブラハムは「代価を払います」と述べ、無償で譲渡されることを断わっている。そこでエフロンは畑の価格を「銀400シケル」と述べるが、ここでもエフロンは「売ります」とは言っておらず、とにかく「あなたの死人を葬りなさい」とだけ言っている。これに対し、アブラハムはエフロンに対して銀400シケルを量って渡し、無償譲渡の申し出を断って購入している。「『創世記』にはこう書かれているが、実態は某説によればこんなものだったろう」といった言い方なら場合によっては成立するかもしれないが、結局「自慢そうに『創世記』は記しています。」の文言で、単純な誤りになってしまった。他の個所でも同種の傾向を有するものがあるが、「アブラハムの寄留民としての実態はこんなもの」という橋爪氏の考える結論がまず先にあり、その結論に合わせて前提となる事実(記述内容)が捻じ曲げられているのが、この誤りの本質的問題である。 創世記23章 p109 「預言者。これは一神教にしか、考えられない存在です」 所謂「多神教」にも預言者がいたとは、たとえば列王記上18章などに明記されている(「バアルの預言者」「アシェラの預言者」)。なお、「バアルの預言者」「アシェラの預言者」という表現の「預言者」に当たるヘブライ語名詞は、ヤハウェの「預言者」を指す際に用いられるのと同じものである。 バアルの預言者アシェラの預言者 p146 『列王記下』4章42~44節では、エリシャが「わずかな食糧で」「百人を満腹させた」奇跡が語られていると橋爪氏は語る。 満腹したとは書かれておらず、「食べ残した」と書かれている。なるほど、満腹したから食べ残したのであろうが、エリシャの奇蹟はイエスの奇蹟との関連で言及されており、そのイエスの奇蹟では、人びとが食べ残した点に強調点が置かれている記事もあるのだから、正確に語るべきである。 列王記下4:43、44節及びマルコ8:19-21参照 p151 「イエスは、預言者として、活動した。預言者だと思った人が大勢いた。だから、「エリヤの再来」と言われたのです。ちなみに、預言者エリヤは、生きたまま天に上げられたと信じられたので(『列王記下』2章11節)、再来してもおかしくない」。 イエスは預言者と考えられていた、というのは福音書に記されているので(マルコ6章15節、8章28節等)、イエスを預言者と考えた人びとが実際にいたかもしれない。しかし、イエスは預言者として活動した、「だから」、エリヤの再来と言われた、という言葉は、「再来のエリヤ」思想を無視していると思われる。イエスをイザヤでもなくサムエルでもなくエリヤだとする考えの背後には、終末の直前にエリヤが再来するという思想があるからである(マラキ書3章1、23-24節、シラ書48章10節)。つまり、イエスは終末の接近を告知しており、それが終末直前に再来するエリヤという伝承を思い出させた、だからイエスを再来のエリヤと同一視した人がいた、と考えられるのである。預言者として活動したからではない。 マルコ6:158:28等マラキ3:1、23-24シラ48:10 p153p167 「イエス・キリストは『神の子』だ、という考え方です。…これはもう、ユダヤ教の考え方ではない」「ユダヤ教には、…神の子という考え方はなかったと思う」 創世記6章2、4節、詩篇28章1節、知恵の書2章18節、5章5節、18章13節に「神の子」という表現が見られる。従って、イエスが神の子であるという主張はユダヤ教の考え方であってもよく、仮に問題があるとすれば、ユダヤ教の観点からイエスが神の子と言えるかどうかであろう。 新共同訳聖書「神の子」検索結果 p158 大澤「(人の子の)もうひとつのとらえ方として、聖書学の田川建三さんが次のようなことを書いていました」 この後に大澤氏が語るアラム語での「人の子」理解は、『イエスという男』(三一書房、1980年、333頁)からのものであり(引用元を書かないのは問題である)、田川氏の本からの要約引用にそれほど間違いは無い。しかし、田川氏は自身の「人の子」理解を「主としてC・コルペによる」と明記しているのだから、大澤氏はこの点まで引用しておく、あるいはC・コルペの研究に目を通し、C・コルペ氏の主張と語るべきであろう。 田川建三『イエスという男』三一書房、1980年 p158-9 大澤「『人の子』と言えばメシアのことだなというのは、当時のユダヤ教に精通している人たちには通じたんだと思うんですね。…、もちろんイエスは旧約聖書に精通しているわけだから、『人の子』と言えば、旧約聖書に由来する救世主という含みももちうることがわかっていたはずです」 「人の子」はイエスの生前のユダヤ教においてメシア的称号であったという学説に対しては、様々な批判が寄せられていることを考えれば、このように簡単には言えない。尤も、本書が新書であること、そして大澤氏も橋爪氏も聖書学者ではないことを考えれば、このような単純化はしょうがないかもしれない。 上村静「メシア的称号としての『人の子』の起源」『イエス―人と神と』関東神学ゼミナール、2005年、pp105-135 p188 「動物もひとつがいずつ箱舟に乗り込んで、助かった」 創世記7章3節に従って正確に言えば、「清い動物」は七つがいずつ、清くない動物は一つがいずつである 創世記7:3 p228 「カインは…弟のアベルを…刺し殺してしまった」 これは創世記4章8節のことであるが、そこでは「刺し殺した」とは書いていない。 創世記4:8 新約 当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(新約聖書篇)を参照 外部リンク 間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき 誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13 映画瓦版の読書日誌 ふしぎなキリスト教 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter 最新 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter(2以降と別のまとめ製作者によるもの) 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter(2以降のまとめの始まり)
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当ページでは、橋爪大三郎と大澤真幸による『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)に記述されている、単純な事実に関する膨大な量の間違い・誤りを扱う。間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」が容量オーバーになったため、歴史篇を分割して作成。 2012年6月2日現在、2012年7月18日現在、130個以上の誤りが挙げられているが、まだ未完成。なおこの誤りの数は明らかな誤りのみをカウントしたものであり、疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。 ※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。 間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。 理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。真面目な文系研究者に失礼。 関連する研究をしている人々の努力と業績を一切無視して講釈するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。 p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。 ※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。 間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」 聖書篇(総合・旧約) 聖書篇(新約その1) ・ (新約その2) 神学篇 他宗教篇(仏教・神道・イスラーム)(間違いだらけの惨状は他宗教の記述でも同様。これで比較が可能なのでしょうか?) 疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」 「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書(あるんです!)紹介 (誠実な著者による良書からこそ学びましょう^^) 歴史についての間違い 歴史 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p26 「ローマ軍の手でエルサレムの神殿が壊されて、ユダヤ民族は世界中に散らされてしまったんですね」 (東京工業大学で行われた2004年度の宗教社会学のレジュメから窺われるように)橋爪氏が、ユダヤ民族が世界中に散らされたのはローマ軍によってエルサレムが破壊された70年以降だ、と考えているのであれば、明確に誤りである。紀元前から既にディアスポラのユダヤ人がいたことは確かである(たとえば、ディアスポラのユダヤ人の一人として、本書で何度も取り上げられているパウロが挙げられる)。しかし、70年以前にディアスポラのユダヤ人が既にいたことを承知しつつ、しかし大雑把にユダヤ教の流れを語るためにこのように述べているのかもしれない。大澤氏が102頁で「バビロン捕囚の後に、ディアスポラ(離散の民)ということが言われるようになります」と語っていて、それを橋爪氏は訂正していないから、こちらであるかもしれない(このような橋爪氏の説明は、前提とする読者のことを考えれば大雑把に過ぎると思われるが、この点については議論が分かれるところであろう)。なお、大澤氏がこの「ディアスポラ」が何を意味するのか分かった上で語っているのか、かなり怪しいことも指摘しておこう(102-103頁で大澤氏は、ディアスポラのユダヤ人を寄留者と同じように理解しているようだし、「特定の土地に定住しきらない移動する」人々とも考えているようだが、ディアスポラのユダヤ人はユダヤの地以外に寄留ではなく定住している人々のことも当然指す)。 Catholic Encyclopedia Diaspora p33p34 「イエス・キリストの時代には、神殿で儀式を行う人びとはサドカイ派、律法を守る人びとはパリサイ派、と呼ばれていた」「神殿で儀式を行ない、ヤハウェに犠牲を献げるのが、祭司たちです。サドカイ派は、こういうグループだった」 神殿で儀式を行う人びとは、祭司であり、その中にはサドカイ派の者もいたが、全てがそうであるわけではなかった。サドカイ派は当時のセクトの一つであって、モーセ5書のみを権威あるものと認め、口伝律法、霊魂不滅、復活思想を認めない点に特徴があるが、しかし当然律法を守っていた。この点から、「律法を守る人びとはパリサイ派」とは珍妙な説明であることが分かろう。そもそも程度の差こそあれ、ユダヤ人であれば誰でも律法を守っていたのだから。パリサイ派は律法をただ守っていただけではなく、より厳格に守ろうとしたセクトであり、且つ成文律法(モーセ五書)のみならず口伝律法にも権威を与えていたセクトである。 A.J. Saldarini, Pharisees, Scribes, and Sadducees in Palestinian Society p34 「バビロン捕囚から戻ってからは、預言者が現れなくなる。実際には現れたのでしょうが、見つけ次第、弾圧されるようになった。」 典拠不明。橋爪氏は捕囚後の預言者であるハガイもゼカリヤも居なかったと主張したいのだろうか。「聖書には書かれているが実在しなかったと思う」というのであれば、典拠をつけてそう主張するべきだ。橋爪氏がハガイもゼカリヤも知らないだけではないかと疑われる事を避けるためにも。 預言者ハガイが、ユダの総督シュアルティエルの子ゼルバベルと、大祭司ヨツァダクの子ヨシュアに対して預言した際、ハガイは「弾圧される」どころか、ゼルバベルとヨシュア、および民はハガイに耳を傾け(ハガイ書1章12節)、ハガイの預言通りに神殿再建に取り掛かっている(ハガイ書1章14節)。 HAGGAI - Online Information article about HAGGAIZECHARIAH - Online Information article about ZECHARIAHハガイ書1章12節ハガイ書1章14節 p34p112 「イエスが処刑されたあと、エルサレムの神殿が破壊され、神殿を拠点にしていた祭司がいなくなった。預言者もとっくにいない。律法学者だけ残った。これが、いま私たちが知っているユダヤ教です。」「律法学者(イエスの時代には、パリサイ派と呼ばれた)」 エルサレム神殿崩壊後に残った集団が「いま私たちが知っているユダヤ教」を作った、と言いたいのであれば、ファリサイ派が残った、と言うべきであろう。律法学者は読み書きに関する能力を持った人びとを指すのであって、従って神殿崩壊後に主流となったファリサイ派以外のセクト、つまり神殿崩壊と同時あるいはその後に歴史から姿を消してしまったサドカイ派、エッセネ派にも律法学者がいたのである。従って、律法学者が「イエスの時代には、パリサイ派と呼ばれた」とは明確な誤りである。 A.J. Saldarini, Pharisees, Scribes, and Sadducees in Palestinian Society p41 「イスラエルの民には、ヤコブの十二人の息子をそれぞれ先祖だと信じている、十二の部族がある」「ヤコブの十二人の息子の子孫が、イスラエル十二部族となり、めいめい土地を割り当てられて、カナンの地に定着します」 ヨセフ族がマナセ族とエフライム族に分かれ(マナセとエフライムはヨセフの息子であり、従ってヤコブの孫である)、ユダ族、イッサカル族、ゼブルン族、ルベン族、シメオン族、ガド族、ベニヤミン族、ダン族、アシェル族、ナフタリ族、レビ族、マナセ族、エフライム族、の十三部族とする伝承が一般的。土地の割り当てについて述べるならば、この伝承に基づく区分を採用すべきである。何故なら、橋爪氏の言葉に従えば、レビ族も土地を取得したことになってしまうからである! Catholic Encyclopedia:Jewish Tribe p41 「南側のユダ族が広い範囲を占めていて、北側に残りの部族がいる」 南北王朝時代の南ユダ王国とユダ族の土地の混同。時代も違う上、ユダ王国はユダ族だけの土地ではない。ベニヤミン族の土地もユダ王国に属する。また、仮にユダ族の土地だとしても、民数記26章とヨシュア記19章などを参照すると分かるように、別に広い土地だったわけではない。 Tribe of Judah, Territory of Judah. Jewish Enyclopedia Old Testament Map 4 - The Tribes of Israel p133-4 「イエスについては、文書記録があります。でもそれは、福音書に限られる。キリスト教の初期教会が伝える福音書がすべてだと言っていい」「別の記録、たとえば、ユダヤ教側の文書とか、イエスを十字架で処刑したローマ側の文書とか」は「見つからなかった」 イエスと同時代のユダヤ人フラヴィウス・ヨセフス(37年頃から100年頃)が93年か94年に著した『ユダヤ古代誌』18・63以下にイエスについての証言がある。尤も、この個所がヨセフスの真筆であるかについては議論があるが。 『ユダヤ古代誌』18・63以下 p139 「いつキリスト教が成立したかというと、それは、パウロの書簡によってである」。 聖書学の分野では一般に、パウロはユダヤ教に属すると考えられている。イエスをキリストと信じる人びとが、自分たちはユダヤ教徒であるかどうかというアイデンティティに関わる問題を自覚し始めたのは、パウロの死後であり、第一次ユダヤ戦争が終わってから、つまり70年以降である。 佐藤研『聖書時代史―新約篇』岩波現代文庫、2003年、144頁以下]上村静『旧約聖書と新約聖書』新教出版社、2011年、259頁以下。 p150p207 「当時、『義の教師』という人びとがいて」「歴史的実在としてのイエスは」「義の教師」 「義の教師」は死海文書に現れ、クムラン教団を作った人物あるいはこの教団の指導者を指していると考えられている。橋爪氏が「義の教師」という言葉でどのような人びとあるいは集団を指しているか不明であるが、「義の教師」はテクニカルタームであるから、この名称を用いては誤解を招く。従って、訂正が必要。 死海文書入門講座Ⅵ 和田 幹男 VI 正義の教師-クムラン教団の起源を求めて p161 ヘロデ大王の死後、四人の息子が国土を分割した 歴史的事実としてヘロデ大王の息子のうち、存命したのはアルケラオス、ヘロデ・アンティパス、フィリッポスの3人だけである(他は処刑された)。アルケラオスは「民族統治者 ethnarches」としてユダヤとサマリアを、ヘロデ・アンティパス及びフィリッポスは「四分領守 tetrarches」として、前者がガリラヤとペレアを、後者が北トランス・ヨルダンを支配した。「民族統治者」も「四分領主」も「王」ではない。ローマの皇帝の承認なしで「王」を名乗ればローマに対する反逆罪となる(なお、ヘロデ大王は遺言でアルケラオスを王としたが、これはアウグストゥスに許されず、従ってアルケラオスは「民族統治者」になったのである)。これを押さえずにイエスの時代を語れない。なお、第14版では「三人」と正しく訂正されていることを付言しておこう。 Herod the Great BiographyHerod Encyclopædia Britannica山我 哲雄 (著), 佐藤 研 (著) 『旧約新約聖書時代史』p169 - p170, 教文館 (1992/02) ISBN 4764279037 p161 「さらに、ローマの総督がいて」 同頁の文脈から見ると、当時のユダヤにはヘロデ王家(ヘロデ大王の息子アルケラオスのことであろう)、サンヘドリン、そして総督が同時期にいたように書かれているが、ヘロデ大王の後でユダヤとサマリアの支配者となったヘロデ・アルケラオスが失脚し(6年)、その後、ユダヤとサマリアはローマの属州となり、その結果ローマ総督が派遣されたのであって、アルケラオスと総督が同時期にいたわけではない。 佐藤研『聖書時代史―新約篇』岩波現代文庫、2003年、24頁。 p164 「イエスは、モーセの律法に違反する重大刑事犯なので、議会が逮捕して裁判にかけた。王もいたけれど、宗教法に関することなので、関与しなかったと思う」 上に挙げたように、当時のあの時代のユダヤ属州はローマ統治下なので王は持てない。「ユダヤの王」を名乗ったらローマに対する反逆罪で国ごとつぶされる恐れがあった。だからユダヤ属州には王はいなかったし、イエスがユダヤの王だと思われたらローマににらまれる可能性があった。大勢を守るために一人を殺そうと大祭司カイアファが判断した、というのは福音書にもある記述。ヘロデ大王が死んで領土が分割され、ヘロデ・アグリッパ一世がまたローマに認めてもらうまで、その間の期間にユダヤ属州に王はいない。そもそも、「金の冠」のかわりに「イバラの冠」、「王笏」のかわりに「葦の棒」、「紫の衣」のかわりに「裸に兵士の赤いマント」というのは、「王になれない偽者の王だ」っていう見せしめ、精神的な拷問の意味もあった。そして十字架にINRI、「ナザレのイエス ユダヤの王」が罪状書きとされた。ローマ帝国の総督ピラトは「イバラの冠」などでイエスを王になれない偽者の王として飾り立て、ユダヤ人たちに「見よ、あなたたちの王だ」と見せ付けてさらしものにする。それに対してユダヤ人は「わたしたちには、皇帝のほかには王はありません」と答える(ヨハネ19:14-15)。イエス裁判のシーンでピラトがイエスに真っ先に聞くのは「お前はユダヤの王なのか」ということなどは、すべての福音書に共通している。当時のユダヤ属州に「王」がいてはいけなかった、ということが前提でないと、イエス裁判のシーンは成立しない Jesus Christ The Political Situation Encyclopædia Britannica Judaea Encyclopædia BritannicaPontius-Pilate Encyclopædia Britannica p167 「パウロは」神の子を「どう考えていたか。……神の子とは、どういうアイデアかというと、まず、あちこちの国王がそのように主張していた。成り上がりの王が、自分の血筋を誇れない場合、「自分は太陽の子だ」とか「神の子だ」とか主張したんです。それは、パウロも知っていたと思う。だから、当時、神の子という考え方がまったくなかったわけではない」 パウロはローマ帝国の中で生きていたのだから、「あちこちの国王」の話をするのではなく、ローマ皇帝崇拝を語るべきであろう。というのも、初代皇帝アウグストゥス(在位前27-後14年)がまさに「神の子 divi filius」の称号を得ているからである。左記の指摘に対し、divi filiusであってDei filiusではない、との指摘が寄せられたので、当時のコインや碑文で、ローマ皇帝がギリシャ語で「神の子(theou hyios)」と呼ばれているものが幾つもある、ということを指摘しておきたい。更に、現在のトルコにある小アジアの都市プリエネから出土した、紀元前9年に発令された暦の勅令に関する碑文『プリエネ碑文』では、アウグストゥスが端的に「神 theos」と呼ばれていることも、ついでながらここで指摘しておこう。だから、イエスが「神の子」であると語ることは、ローマ帝国に対する抵抗の意味もあるかもしれない。以上から、パウロは「神の子」という概念があることを「知っていたと思う」と曖昧に語るのは困難であろう。彼は、ローマ帝国反逆者の処刑法である十字架刑に処せられたイエスを自覚的に「神の子」と呼んでいるのであり、それがローマ皇帝に対する或はローマ皇帝をそのように呼ぶ人々に対する批判をも意味することを自覚していた、と考えるのが妥当である。 Richard Niswonger, New Testament HistoryRichard A. Horsley, Paul and Empire Religion and Power in Roman Imperial Societyプリエネ碑文 p172 「当時のユダヤ教のグループには、パリサイ派とサドカイ派のほかいに、エッセネ派というのがあって、…。エッセネ派は、裁きの日は近いと考えて、人里離れた山の中にこもり、独身主義で祈りの生活を送る、みたいな人びとなんですね。独身主義で祈りの生活を送っていたら、五十年もすればその集団は消滅してしまうわけで、だからいなくなってしまったグループなんです」 イエスと同時代のヨセフス(37年頃から100年頃)の『ユダヤ戦記』II・8・4には、エッセネ派は山の中に出はなく「一つの町に住んでいるわけではなく、各町ごとに(共同住宅に)定住している」と書かれている。更にヨセフスは、エッセネ派にも様々なグループがあり、あるエッセネ派のグループでは、結婚を認めている、と報告している(『戦記』II・8・13)。つまり、橋爪氏はエッセネ派の多様性を考えていないのである。橋爪氏はエッセネ派の中のクムラン宗団を念頭において発言されたと思われる。この集団は紀元前2-1世紀には出来上がったと考えられるが、滅びたのは結婚しなかったからではなく、ローマ軍に占拠されたからである。70年頃と考えられているから、50年以上は消滅せずに残っていたのであった。エッセネ派はエルサレムの神殿がなくとも信仰は守れると主張した。そのため、一部の研究者は、このセクトが洗礼者ヨハネやイエスにも近い存在だった考える。エッセネ派が歴史の表舞台から消えていった理由は様々考えられているが、そののひとつとして、紀元70年のエルサレム神殿の破壊が挙げられるかもしれない。ローマによる弾圧に加え、神殿を失ったため、神殿に対抗する勢力として自らを規定していたグループであったため、存在意義が薄れてしまったのである。そのため、律法学者のファリサイ派の一部と合流していったと考えられている。また、これは橋爪大三郎の『性愛論』などにもみられる彼の独自の考え方であるが、独身主義をとった集団は滅びる、というものがあるらしい。その根拠は不明である。そもそも、独身主義や禁欲主義の団体は新人の入会を拒むとは限らない。カトリックの聖職者は独身が原則であり、正教の修道士聖職者は独身者であり、両教会にも修道制があるが、極めて長い期間存続しているのをどう説明するのだろうか? 死海文書入門講座II 和田 幹男 Ⅲ Ⅱ キルベト・クムランの発掘調査死海文書入門講座Ⅲ 和田 幹男 Ⅲ キルベト・クムランにいた住民は誰かEssenes - Jewish Encyclopedia Essene - Encyclopedia Britanica p173 大澤「イエスのグループを、エッセネ派と違うというので、『ナザレ派』と呼ぶ人びともいる」 典拠不明。誰がこのように言っているか、明言して欲しい。もちろん、イエスのグループを「ナザレ派」と呼ぶ研究者はいるが、それはイエスのグループをユダヤ教内部の一派と捉え、エッセネ派のみならずファリサイ派やサドカイ派からも区別するためである(例えば、出村彰『キリスト教入門2歴史』日本基督教団出版局、1981年(4版)、8頁など)。エッセネ派とだけ区別するだけの名称では、情報として不十分である。 出村彰『キリスト教入門2歴史』日本基督教団出版局、1981年(4版) p216 「(ユダの福音書が英訳されたことは)日本では一行もニュースにならなかった」 たとえば日経新聞が2006年4月7日に伝えている。日経新聞を始めとした諸新聞はニュースを伝えていない、と橋爪氏は言いたいのか。 歴史を覆す大発見! 「ユダの福音書」が明かす、イエス・キリストの最後の言葉 p236 「そもそも、教会というものができたことが、パウロの最大の貢献ですね」 パウロ以前に教会は(その形態がどのようなものであれ)各地にあった、と考えるのが自然。そもそも、パウロは『ガラテヤの信徒への手紙』1章13節で、召命を受ける/回心する前に「わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました」と述べている。もし教会がパウロによって成立したのであれば、パウロがキリスト者になる前には教会が無かったことになる。しかし、パウロはキリスト者になる前に教会を迫害し、滅ぼそうとしていた。矛盾である。 ガラテヤの信徒への手紙1章 p237 「ユダヤ教」はローマ世界の神々を礼拝しなかったが、「ユダヤ人コミュニティに閉じていたので」、そのようには「見えにくかった」。だから「キリスト教は、初めて公然と現れた一神教として、人びとに深い印象を残した。キリスト教は無神論だから、神を拝まないのだろうと言われていたほどです」 事実と異なる。キリスト教以前にユダヤ教の人々がローマの神々を礼拝しなかったので、既に人々の注目を集めていた。例えば、前1世紀の修辞学者アポロニオス・モロン(キケロやカエサルの師匠)は、ユダヤ人を「無神論者」と罵っているが、これはユダヤ人が自分たちの主以外を礼拝しなかったからである。そもそもこのようにユダヤ人が侮蔑されたのも、彼らがヘレニズム世界に広く、しかもかなりの人数が住んでいたからである。ユダヤ人がいない土地を探すのは困難である、と当時言われていたほどであり、更に、ユダヤ人の中には上層階級に属し、政治的に活躍した人物も居た(たとえば、アレクサンドリアのフィロンの甥であるティベリウス・ユリウス・アレクサンデルは、ユダヤ総督やエジプト領事にもなった)。 野町啓『学術都市アレクサンドリア』 p238 (「19 初期の教会」の項目内で)「ユダヤ教のシナゴーグは、男女別々に着席する。イスラム教のモスクもそう。キリスト教の教会は、男女いっしょに座る。」 現代では確かに大半の教会が、教会堂内で祈る位置につき、男女の区別をしていない。しかしこの個所では橋爪氏は初期教会について語っているので誤り。初期教会においては男女の位置は区別されており、これは最近まで守られていた習慣である。4世紀のエルサレムの聖キュリロス(イエルサリムの聖キリル)も、教会堂内では男女それぞれ祈るよう教えている。またギリシャ正教会、コプト教会など、男女を教会堂内の位置で(教会堂の左右などで)分けるという習慣を守っているものが今でも一部存在する(正教会の全てで守られているわけではないが、守っている者・地域も少なくないということ)。なお、「座る」というのも一面的に過ぎる。正教会は立って祈るのが基本的姿勢である。現代の一部教会を見ただけで、初期教会や世界中の教会につき、勝手に想像して断定するべきではない。 Separate Church Seating ArrangementWhy do men and women sit on different sides in the church?Greek Orthodox Funeral for a Priest_Choir of Saint Sophia Greek Cathedral London(ギリシャ正教会聖ソフィア大聖堂での埋葬式の動画、ロンドン) p251 「180頃 『新約聖書成立』」 新約聖書が成立とは何を指しているのか不明である。新約聖書に収められている全ての文書が出揃ったのが180年頃と言うならば、遅すぎる(一般に、新約聖書諸文書の中で最も新しいのは『ペテロの手紙二』であり、これが150年より後に執筆されたと考える研究者はほぼいない)。テルトゥリアヌスが初めて「新約聖書」という名称を用いたことを誤って「新約聖書成立」と書いているのだろうか。しかし、テルトゥリアヌスがキリスト者となったのは180年より後であるから、早すぎる。正典としての『新約聖書』が成立した、という意味であるのか。しかしこれも、全くの間違い。そもそも西方教会において現行の新約聖書に含まれるのと同じ27書が正典とされたのは393年のヒッポーの宗教会議においてであり、397年の第3回カルタゴ宗教会議にて正典目録が発布されたのである(東方教会はもっと遅い)。 Catholic Encyclopedia Canon of the New Testament p255 「(五大総主教座エルサレム、アンティオキア、アレクサンドリア、コンスタンティノープル、ローマのうち)最初の三つはまもなく開店休業になって」 開店休業どころか、どの総主教庁も正教会のものも非カルケドン派のものも、全て現代まで存続している。この論法だとこの前永眠したコプトのシェヌーダ3世も「開店休業の主」だった事になるのだから、橋爪氏はコプトに対して非常に失礼なことを語っているのではないだろうか。また、トゥルーリ公会議では「ローマ、コンスタンティノポリ、アレクサンドリア、アンティオキア、イェルサリム」という序列が定められているが、何でこんな並べ方をしたのかは不明。 The Quinsext Council (or the Council in Trullo), 692 , CANON XXXVI.参照 コプト正教会の教皇シェヌーダ3世が死去、エジプト (AFPBB 2012年03月19日 09 54) p256 「全部で六回開かれた公会議の内容をすべて承認している(正教とカトリック)」 正しくは7回。これは「細かい間違い」ではない(「幾つの公会議を承認しているのか」がカルケドン公会議を認める側と認めない側を分ける分水嶺になっているため)。なお、14刷では正しく7回と訂正されていることも付言しておこう。 OCA - The Orthodox Faith - Volume I - DoctrineSources of Christian Doctrine - The Councils(アメリカ正教会) p256 「東方教会と西方教会が分裂したのは、スポンサーであるローマ帝国が、テオドシウス帝の死後、東西に分裂したからです(395年)。分裂してしばらくすると、両教会合同の公会議が開けなくなった。道中の警護や経費の負担ができないからです。」 高校の受験世界史通りに「1054年」を目安にせよとは言わないが、395年に起点を求めるとは幾らなんでも早過ぎる。正教とカトリック双方から有効性が認められている全地公会(第三:431年、第四:451年、第五:553年、第六:681年、第七:787年)は8世紀まで開かれているのであり、「ローマ帝国が分裂したから共同の公会議が開かれなくなった」というのは、もはや「解釈の違い」ではなく「事実に反する」。加えて、「帝国の分裂」=「教会の分裂」と簡単に言えるような事態だったら、イリュリクム統治領の教会管轄権の問題は起きよう筈も無い(イリュリクム統治領は東ローマ帝国治下だったが、教会管轄はローマ司教に帰属していた)。 久松英二『ギリシア正教 東方の智 (講談社選書メチエ)』28頁 - 29頁 OCA - The Orthodox Faith - Volume I - DoctrineSources of Christian Doctrine - The Councils(アメリカ正教会) p258 大澤「そもそもなんでローマ教会がラテン語を使ったのかよく解らない」橋爪「本来なら、ギリシア語であるべきですね」 「ローマ教会がなぜラテン語のみを使うようになったのかよく解らない」というのなら解るが、4世紀のシリアの聖エフレムだってシリア語使っていたのだから、ローマ教会が現地のラテン語を使ったことまでは、別段不思議がることではない。そもそもシリア語で膨大な著作を残した聖エフレムの存在を、橋爪氏も大澤氏も全く知らないと思われる。 St. Ephrem (Ephraem, Ephraim) the Syrian, (A.D. 373)(シリア正教会 アメリカ合衆国西部大主教区) p275 「初期教会は、ローマ帝国のただの任意団体で」 キリスト教が宗教法を作れない(間違い)、というところに現れた意味不明な記述である。初期教会がローマの国教となっていなかったことの表現のつもりかもしれないが、「任意団体」と言う限りは「公認」されていた(少なくとも適法と看做されていた)組織を意味するが、そのような歴史的事実は無い。ローマにおけるキリスト教の公認は4世紀である。そもそも「任意団体」という概念をあてはめること自体何が言いたいのか不明。任意団体は「法人」に対置される概念であって、団体の適法性・違法性は法人化の有無には拠らない。「公認」されたら「法人」と言いたいのか?「橋爪は宗教学者ではなく宗教社会学者だ」と擁護する向きもあるが、仮にも「社会学者」であれば、「法人」と「任意団体」の概念の違いを押さえてから発言するべき。 任意団体とNPO法人の違い | 京都市市民活動総合センター(流山市のウェブサイト内ページが消滅したため、参考リンクを変更) p312 「クジラに脂身がたくさんあって油が採れるとなれば、クジラを獲ってロウソクをつくってもいいし、(中略)こんなことは、キリスト教徒しかやらないんです。」 鯨油は江戸時代の日本でも照明・農薬など多目的に利用されていた。本書を読むと、キリスト教のみならず、日本の宗教・日本の歴史も誤解する。これも瑣末な間違いではない。間違いそのものも問題だが、橋爪氏による勝手な結論(キリスト教徒の特殊性強調)に合わせて、前提となる基本的な歴史的事実(日本人も同じことをしていた)が捻じ曲げられてしまっているという構造が、本質的問題である。 平戸市生月町博物館鯨の利用 外部リンク 間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき 誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13 映画瓦版の読書日誌 ふしぎなキリスト教 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter 最新 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter(2以降と別のまとめ製作者によるもの) 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter(2以降のまとめの始まり)
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まとめ 天地始之事
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「ミリシタ」とは『アイドルマスターミリオンライブ! シアターデイズ』の略である。 当界隈とはあまり関係がない。 概要 2017年6月末よりサービスを開始した、バンダイナムコのスマートフォン向けのアプリ。 グリーでサービスをしていた『アイドルマスターミリオンライブ!』の音楽ゲームで、 『アイドルマスターシンデレラガールズ』に対する『スターライトステージ』と同じ位置づけのアプリである。 なお、シンデレラガールズについてはスターライトステージと並行して現状もサービスが提供されているが、 ミリオンライブについてはサービスが終了し、シアターデイズの一本のみになった。 略称 音ゲーじゃないまたは全般を指す 音ゲー シンデレラガールズ デレマス・モバマス デレステ ミリオンライブ ミリマス・グリマス ミリシタ デレマスとミリマスの相違点 マジで両方を好きな人からしたら怒られそうな記載を含みます。(許してください。何にもしませんけど。) デレマス ミリマス アイドルの数 2020年2月時点では190人で、様々なタイミングで追加実装されている。 グリマスの稼働時点で37人。ミリシタの稼働で2人追加。 キャラクターボイス 様々なタイミングで実装。総選挙などによって人気が上位になるとつくこともあれば、実装時点で決まっていることもある。 キャラ実装時点で決まっている。 周年記念楽曲 その年のシンデレラガールズ総選挙の上位数名が歌う。 全員歌唱。 人気投票要素 シンデレラガールズ総選挙、ボイスアイドルオーディション。 テーマに応じた5人ユニット3つを決めるイベントが存在(名称は毎回変わる) 開始時期 ガラケーのソシャゲ全盛期にサービスが開始。 ガラケーのソシャゲー衰退期からサービス開始。 ユーザ数 めちゃくちゃ多い(イベントで上位報酬の配られる順位は12万位) 多くはない(イベントで上位報酬の配られる順位は3万位) 事務員 「鬼!悪魔!ちひろ!」とか言われてる。モバマスではよくコスプレをする。 設定上、アイドルの衣装を作っているが、年間1000着に届きそうなことが多々あるため体調が心配される。特別ログインボーナスの「なんとぉ!」がネタにされる。 テレビCM 中居くんが出演した。 ゴールデンボンバーがミリシタの衣装を着て(女装して)出演した。やたらチープな180回ガシャ無料。 サイゲームス 関わっている 関わっていない 765ASのアイドル デレステには登場しないがデレマスとしては登場する。 登場する。 マスコットキャラ 『ぴにゃこら太』という、デフォルメした猫というかピカチュウを簡単にしたような感じのキャラが務める。 なかなか定まらなかったが、ミリシタのライブイベントの悪ふざけから緑色のチュパカブラが定着しつつある。 CD販売レーベル 日本コロムビア Lantis サブスク 2022年12月07日より基本的にゲーム収録版で配信 2022年12月17日より基本的にCD収録版で配信。期日前にちょっと漏らした。
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概要 このページでは、ミリシタにまだ実装されていない 楽曲をソロ曲・ユニット曲別にまとめています。 新曲についてはCDが発売されるタイミングで 楽曲の追加を順次行っていきます。 全未実装曲数 135曲 最終更新 2023年3月24日 概要 ソロ曲(計88曲)LIVE THE@TER PERFORMANCEシリーズ(11曲) LIVE THE@TER HARMONYシリーズ(11曲) M@STER SPARKLEシリーズ(15曲) M@STER SPARKLE2シリーズ(51曲) ユニット曲(計34曲)LIVE THE@TER PERFORMANCEシリーズ(3曲) LIVE THE@TER DREAMERSシリーズ(12曲) THE@TER ACTIVITIESシリーズ(実装済み) LIVE THE@TER FORWARDシリーズ(実装済み) MILLION THE@TER GENERATIONシリーズ(3曲) MILLION THE@TER WAVEシリーズ(16曲) その他(計13曲)THE@TER ACTIVITIES、THE@TER BOOST、THE@TER CHALLENGEシリーズより(1曲) ミリラジ関係(6曲) その他(6曲) ソロ曲(計88曲) LIVE THE@TER PERFORMANCEシリーズ(11曲) Snow White 微笑み日和 君想いBirthday グッデイ・サンシャイン ハートウォーミング GREEDY GIRL 恋花 FLY TO EVERYWHERE DETECTIVE HIGH! ~恋探偵物語~ ハミングロード 微笑んだから、気づいたんだ。 LIVE THE@TER HARMONYシリーズ(11曲) 地球ミラーボウル smiley days サマ☆トリ ~Summer trip~ MY STYLE! OUR STYLE!!!! 求ム VS マイ・フューチャー キミがいて夢になる 恋愛ロードランナー 月のほとりで りんごのマーチ FAKE SELF×TRUE SELF 夕風のメロディー M@STER SPARKLEシリーズ(15曲) 祈りの羽根 プリンセス・アラモード HOME RUN SONG♪ CAT CROSSING 満腹至極フルコォス To... ふわりずむ たんけんぼうけん☆ハイホー隊 Oli Oli DISCO ムーンゴールド スタートリップ Hearty!! シャクネツのパレード Sister シルエット M@STER SPARKLE2シリーズ(51曲) アロー彗星 Purple Sky K・A・W・A・I・I of the WORLD! あたためますか? HAPPY♪STEPPING‼︎DREAMING☆ ピカリピックアップ! 勇気のfragrance キミが真ん中にいた アイドルは、かく語りき 君に映るポートレイト Dual Style Idol 恋のWa・Wo・N ゆえに…なんです ハッピーマイガーデン きみがくれた言葉があるから セピアカラフル DATE PARADE! 週末だけのハーレクイン グローインミュージック! 折紙物語 絵羽模様 Cross the future プルメリアの花 Collier De Perles Beautiful Believer 裏表深層心理 ユニーク・スター・プレイヤー! わたしルネサンス 交わる季節 泣き空、のち シャル・ウィー・ダンス? Moonrise Belief Play GO! Round Super Funky Piece!! it's me パーフェクトゲーム しあわせエンドロール 美!美!美!ビルドUP!! オン・ステージ・プレーヤー! 愛のMagic! Once Again! ピンクローズアプローズ 稲妻スピリット Walking on the Square きまぐれユモレスク I Do ふたり繋ぐ星座 REACH THE SKY リーチ・アップ・ステップ! Discord Area スポットライト・ミラーランド Sing a Wing Song ユニット曲(計34曲) LIVE THE@TER PERFORMANCEシリーズ(3曲) Legend Girls!! カワラナイモノ Fu-Wa-Du-Wa LIVE THE@TER DREAMERSシリーズ(12曲) エスケープ Eternal Spiral piece of cake Cut. Cut. Cut. Smiling Crescent HELLO, YOUR ANGEL♪ Melody in scape "Your" HOME TOWN 夜に輝く星座のように 秘密のメモリーズ たしかな足跡 Dreamscape THE@TER ACTIVITIESシリーズ(実装済み) ※DIAMOND DAYSはその他の枠でカウント LIVE THE@TER FORWARDシリーズ(実装済み) MILLION THE@TER GENERATIONシリーズ(3曲) I.D~EScape from Utopia~ 彼氏になってよ。 ギブミーメタファー MILLION THE@TER WAVEシリーズ(16曲) 囚われのTeaTime Dreamy Dream 夜と、明かりと。 DEpArture from THe life 矛盾の月 Hang In There! 星宙のVoyage VIVA☆アクアリズム My Evolution 旅立ちのコンパス ライラックにつつまれて フシギトラベラー パンとフィルム ウェイ・ダ・アイドル Be proud Paradox of LOVE その他(計13曲) THE@TER ACTIVITIES、THE@TER BOOST、THE@TER CHALLENGEシリーズより(1曲) DIAMOND DAYS ミリラジ関係(6曲) U・N・M・E・I ライブ Thank You! -MR remix ターンオンタイム! Dreaming! -MR remix- ENDLESS TOUR Flyers!!! -MR remix- その他(6曲) アイル Flooding 君との明日を願うから Clover Days Shine My Way 聖ミリオン女学園校歌 名前 コメント すべてのコメントを見る
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当ページでは、橋爪大三郎と大澤真幸による『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)に記述されている、聖書に関して発言された部分での膨大な量の間違い・誤りを扱う。間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」が容量オーバーになったため、聖書篇を分割して作成。 2012年7月18日現在、130個以上の誤りが挙げられているが、まだ未完成。なおこの誤りの数は明らかな誤りのみをカウントしたものであり、疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。 ※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。 間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。 理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。真面目な文系研究者や読者に失礼。 関連する研究をしている人々の努力と業績を一切無視して講釈するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。 p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。 ※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。 間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」 歴史篇(上記ページが容量オーバーになったため分割されたもの、以下同様) 聖書篇(総合・旧約) 聖書篇(新約その1) 神学篇 他宗教篇(仏教・神道・イスラーム)(間違いだらけの惨状は他宗教の記述でも同様。これで比較が可能なのでしょうか?) 聖書についての間違い 目次 1 総論 2 旧約 3 新約その1 新約その2 新約その2 (その1はこちら) 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p208 「福音とは、これを聞いている人は救われるという意味です」 「福音」とは元来、「良い知らせを持って来た使者に与えられるほうび」あるいは「そのような良い知らせを受けた時、神々にささげる供え物」あるいは「良い知らせそのもの」のことであり、それが所謂キリスト者によって、イエスが伝えたメッセージあるいはイエスに関するメッセージを指すために用いられるようになった。福音を聞いた結果救われる、と考えるキリスト者がいることは事実であるが、福音の意味は「これを聞いている人は救われるという意味」ではない。 W・バークレー『新約聖書のギリシア語』滝沢陽一訳、日本キリスト教団出版局、2009年、108頁以下 p231 「十二人も直接の弟子がいた」 「十二人も」と言うが、この十二人は数多いるイエスの弟子の中から選ばれたのであって(ルカ福音書6章12節では、はっきりとこう書かれている)、つまりイエスの弟子は十二人だけに限られない、と考えるのが適切であろう。例えば、ルカ福音書10章1節でイエスは十二人の「ほかに七十二人を任命し」とある。その他、十二人以外の弟子が現れる個所は福音書に多数ある。にも拘らず、イエスの弟子が12人だけというのが史実で、弟子が沢山いたという記事が史実を反映していないというならば、証拠を挙げて論じるべきであろう。 参考として、ルカ福音書において「弟子」が現れる個所 p232 「あるとき、パウロは、馬に乗ってエルサレムからダマスコに移動する最中、突然、イエス・キリストに『会って』しまう。目が視えなくなって馬から転がり落ちた」 パウロの所謂「回心」(或は「召命」)の物語は、使徒言行録9章1節以下、22章6節以下、26章12節以下に記されているが、「馬に乗って」いたとも、「馬から転がり落ちた」とも書かれていない。尤も、この場面を描く絵画等で馬から落馬しているパウロがしばしば描かれることから、古来よりそのように考えられていた、ということは指摘しておこう。しかし、パウロがダマスコ途上で復活のイエスを見ただろうことはほぼ確かだろうが(ガラ1:16-18参照)、この使徒言行録に収められている形でのパウロの回心/召命物語は、後代の創作である可能性が非常に高い、と一般に考えられているが、それはパウロ自身がこの出来事について詳細に語っていないからである。この点もここで指摘しておきたい。 使徒9章使徒22章使徒26章 p233 「パウロがなぜ手紙を書いたかというと、布教活動をしている最中に、拘禁状態になって、自由がなくなったんですけど、ローマの市民権を持っていたので、手紙が書けた。で、手紙をたくさん書いた。それがいくつか残っているのです。」 パウロの真正書簡の内、彼が獄中で書いた書簡、所謂「獄中書簡」は、『フィリピの信徒への手紙』と『フィレモンへの手紙』のみである。パウロは拘禁されていない時にも手紙を書いている。 サンパウロホームページ p234 「まず、十二人の弟子の能力があまりに低かった。ユダは、金銭の管理もまかされているし、ほかの連中よりも学があった。と言うか、他の連中は学がなさすぎた。シモン(ペテロ)がいちおう弟子たちのリーダーということになっているが、漁師とか、まあふつうの人びとですね」 何を根拠にこのように言っているのか、不明である。聖書ではシモン(とその兄弟アンデレ、そしてゼベダイの子ヤコブとヨハネ)が漁師であることは語られているが、その「能力」がどの程度であったかは語られていない。またマタイは徴税人であったのだから、金銭の計算には一定程度の職能を有していたと思われる。シモンが漁師であることに言及して「十二人はふつうの人びと」で、だから「能力があまりに低かった」と言う橋爪氏の主張は、職業差別ではないだろうか。 教皇ベネディクト十六世の55回目の一般謁見演説教皇ベネディクト十六世の64回目の一般謁見演説 p238 「キリスト教徒は扉を閉めてこっそり祈る。いつ祈るかは個人の勝手でわからない、というふうになっていました」 キリスト教の初期において、迫害を恐れたために扉を閉めてこっそり祈る人々もいただろう。しかし、「いつ祈るか」が「個人の勝手」とは意味不明である。これはキリスト者は個々人が自分の都合に合わせて祈っていた、という意味か。この想定が正しいとするならば、橋爪氏は、キリスト者は扉を閉めてこっそりと隠れて、それぞれの都合に合わせて祈っていたから、祈りの様子はおろか祈っているかどうかも分からない、と言いたいのだろう。しかしこれは誤りである。個人で祈ることももちろんあったが、初期の教会でも現在と同様に、集団での祈りがあったことは、例えばコリントの信徒への手紙一14章1節以下、使徒言行録1章14節に記されているし、祈っていることがキリスト者以外にも伝わることもあったことは、使徒言行録16章25節に記されているからである。なるほど、使徒言行録は史実を語っているとは言えないかもしれない。しかし、使徒言行録はまったくのフィクションではなく、ある程度史実を反映しているとも言えるだろうから、全くの間違いとして退けることもできまい。そもそも、使徒言行録がまったくのフィクションであり史実を反映していない、という見解は少数意見である。使徒言行録が史実に忠実ではない、ということと、史実を反映していない、ということは別問題である。 使徒1:14使徒16 25 p245 「イエス・キリストが出番を終わって退場したあと、もう預言者が現れることはできない。預言者は、イエス・キリストの出現を預言していたわけで、もう用済みだ」 「イエス・キリストが出番を終わって退場したあと」のパウロの時代にもまだ預言者が教会にいたことが、そして重視されていたことが『コリントの信徒への手紙一』12章28節以下から明らかである 『コリントの信徒への手紙一』に現れる預言者 p245-6 「聖霊がルートを変えなさいと教えてくれた。これはパウロの第六感かもしれないし、パウロが関わっていた諜報機関の友人が情報をこっそり教えてくれたのかもしれない。こうしたはたらきがみな、聖霊です」 第六感が聖霊の働き、と言うのであればまだ分かるが、「パウロが関わっていた諜報機関の友人が情報をこっそり教えてくれた」のを聖霊の働き、というのは理解に苦しむ。これは人間の働きであろう。聖霊が「諜報機関の友人」に働きかけて、パウロに教えてくれた、という意味であると言うことか?それでは言葉が足りない。そもそも、パウロが関わっていた諜報機関とは意味不明であり、新約聖書にはそんな機関はどこにも書かれていない。 p246 「信徒が集まっているところには、私もいると思いなさい、とイエス・キリストが語っていた。でも、イエス・キリストはいなくて、代わりに聖霊がいる」 根拠不明。橋爪氏が語っているのはマタイ福音書18章20節であるが、ここの前後にもマタイ福音書の全てを見ても、「イエス・キリストはいなくて、代わりに聖霊がいる」、とは一言も語られていない。自説に都合の良いように聖書を書き換えてはいけない。 マタイ福音書18章20節 p247 「パウロは…復活のイエスとも会っていない。旅の途中で幻をみただけ」 例えばパウロは『コリントの信徒への手紙一』15章8節で、キリストが自分に現れた、とはっきりと語っている。 『コリントの信徒への手紙一』15章8節 p343 掲載されている主の祈りの「最終行(編者注。マタイ福音書では6章13節)は福音書にない、付加部分」 福音書にないのではなく、後代の付加である、というのが正しい。そもそも橋爪氏は日本語の主の祈りに続けてKJVのマタイ福音書6章9節以下の主の祈りを引用しているが、そこには「福音書にない、付加部分」と橋爪氏が呼ぶ個所が記されている("For thine is the kingdom, and the power, and the glory, for ever. Amen")。これを橋爪氏あるいは大澤氏はどのように説明するのか。KJVに含まれているマタイ福音書は福音書ではない、と主張するのか。この橋爪氏あるいは大澤氏の説明を敷衍して考えると、KJVだけでなく、同様の箇所を含むルター訳聖書などのマタイ福音書も福音書ではないことになり、日本語の聖書の新改訳聖書などのマタイ福音書も福音書ではないことになる。 KJV版マタイ福音書 外部リンク 間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき 誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13 映画瓦版の読書日誌 ふしぎなキリスト教 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter 最新 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter(2以降と別のまとめ製作者によるもの) 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter(2以降のまとめの始まり)
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【作品名】蒼き鋼のアルペジオ 【ジャンル】漫画 【名前】ヨタロウ(キリシマ) 【属性】元『霧の艦隊』の大戦艦だったクマのヌイグルミ 【大きさ】十歳くらいの幼女が抱えられる程度。見かけよりも重い 【攻撃力】特殊部隊の兵士を跳び蹴りで気絶させられる 【防御力】ヌイグルミ相応 【素早さ】数十mの距離と高さをジャンプして移動できる コアが同型のハルナが数十m位から発射された戦車砲弾に反応してコートを変形させているのでキリシマもそれ位は可能だろう コアの能力でキリシマに劣るタカオがピコ秒未満のハッキングを知覚できるので、キリシマもピコ秒を知覚できると思われる 【特殊能力】 不可視光線を知覚可能 【長所】マスコット 【短所】ずっとヌイグルミ状態であれば誰だって元の姿忘れますよ猿渡さん!! 【戦法】飛び蹴り 参戦vol.9 717 vol.9 773 名前: ◆OO2DpYoy62 [sage] 投稿日:2014/01/27(月) 22 56 00.89 ID 0QLeIiOr キリシマ考察 数十mからの戦車砲反応なので12mからの音速反応相当、0.035…秒反応 攻撃力は兵士を倒せる程度。数十mのジャンプはできるが移動速度はなく防御は紙。 聖辺ルリまでは蹴りでどうにかなるが、ライオン以上は攻防が貧弱なため難しいか。 (ライオンの壁) >キリシマ>聖辺ルリ
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オススメ記事 コラボクイーン大会 VVANNA攻略 朧月夜シーズン きらめきパラダイス(キラパラ)のファッション対決「花を知ったあの夢シーズン」についてまとめたページです。 目次 花を知ったあの夢シーズンとは? ショップ花夢セット 月光セット 専用カラーカード メイク チャット 花を知ったあの夢シーズンとは? ファッション対決 2022/12/05~2023/05/07 5 00~24 00 シーズン1 2022/12/05~2022/12/11 シーズン2 2022/12/12~ シーズン3 シーズン4 シーズン5 シーズン6 シーズン7 ~2023/01/22 シーズン8 2023/01/23~2023/01/29 シーズン9 2023/01/30~2023/02/05 シーズン10 ショップ 花夢セット 月光セット 専用カラーカード メイク チャット
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参考外部リンク 「ゆかいな仏教」への批判 - Togetter 当ページでは、橋爪大三郎と大澤真幸による『ふしぎなキリスト教}』(講談社現代新書)に記述されている、単純な事実に関する膨大な量の間違い・誤りを扱う。間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」が容量オーバーになったため、他宗教篇を分割して作成。 2012年7月18日現在、130個以上の誤りが挙げられているが、まだ未完成。なおこの誤りの数は明らかな誤りのみをカウントしたものであり、疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。 当ページで指摘されている、仏教・神道・イスラムについての無知・無理解は、キリスト教についての無知・無理解と同程度の酷さがある。この惨状でキリスト教と他宗教を比較する事が可能なのか疑問。結論に合わせてそれぞれの宗教で教えられている内容、および単純な歴史的事実を捻じ曲げてしまっている場面があることも問題である。 ※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。 間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。 理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。真面目な文系研究者に失礼。 関連する研究をしている人々の努力と業績を一切無視して講釈するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。 p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。 ※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。 間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」 歴史篇(上記ページが容量オーバーになったため分割されたもの、以下同様) 聖書篇(総合・旧約) 聖書篇(新約その1) ・ (新約その2) 神学篇 疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」 「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書(あるんです!)紹介 (誠実な著者による良書からこそ学びましょう^^) キリスト教以外の宗教についての誤り(仏教、神道、イスラームについての無理解) 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p63 「仏教は、言ってみれば、唯物論です。」 この台詞の後、「因果律」(死体のアミノ酸への分解、微生物に食われ、別の生命になるという、食物連鎖、生命循環)、「自然法則」があるだけで、誰かの意志があるわけではない、それが仏教の考え方であり、そうした法則を徹底的に認識することが仏教の理想であると、橋爪氏は述べる。「唯物論」の定義にもよるが、基本的に仏教では「唯物論」として自分の見方を説明したりはしない(むしろ大概の場面で否定される)。仏教における「因果律」を「アミノ酸」など物質的な面だけに限定した上でのこの語り方は「仏教の見方」では有り得ないし、国語辞典レベルの誤り。こんな説明では、「唯物論」と「仏教」の区別が全く判らなくなる。そもそも橋爪氏も大澤氏も、仏教において「唯識」の用語があるということすら知らないのではないかと疑われる。また、因果律を「食物連鎖」「生命循環」と同列に並べている辺りは、一般常識レベルの誤り。つまり橋爪氏は、仏教も初歩的なレベルから碌に知らない。ふしぎな仏教理解とふしぎなキリスト教理解を並べて、二人でふしぎがっているのが本書である。 これからの寺のあり方と仏教のあるべき姿仏教の世界観 -真言宗のお経- 真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺 道元の『学道用心集』を読む 【徹底研究】唯物論 p63-65 「神々は、それぞれ勝手なことを考えていますから、彼ら全員のまとまった意思などというものはない。これが、多神教。これでは、神との対話などできない相談だ。(中略)「ひるがえって一神教の場合、Godとの対話が成り立つのです。それは、Godが人格的な存在だから」「Godとの不断のコミュニケーションを、祈りといいます。」 言うまでもないが神道、仏教、儒教にも祈りは存在する。橋爪氏は独自の(キリスト教に限定して考えても、祈祷文を持つ教派に当て嵌めるには一部正しいものでしかない)勝手定義により、「この種の祈りは、一神教に特有のものなんですね。」と論じるが、この定義を認めたとしても問題がある。多神教についてたった二行で済ませて居るが、神道と言えば絶対に外せない言霊概念に一言も言及すらせずに「言葉によるコミュニケーションは不可能」としてしまうのは、「宗教社会学者」としていかがなものか?橋爪氏による勝手定義自体にも無理があり、日本語「いのる」(語義:神仏に請い願う)の語源には諸説(「斎宣」「忌宣」「接頭語イ+ノリ(宣)」「息宣」)あるが、いずれも「Godとの不断のコミュニケーション」のみを意味する言葉として使われてきた歴史は確認出来ない。 神社本庁 祝詞について 韓国の宗教の歴史(KBS WORLD) 前田 富祺 (編集)『日本語源大辞典』p141 小学館 (2005/2/26) p273 大澤「イスラム教は、誰がムハンマドの後継者かがかなりはっきりしている。だんだん時間が経過すると、真の後継者が誰なのか、意見が分かれてしまうわけですが、少なくとも最初のうちは一義的に決まっていて、この点でもイスラム教はあいまいさがない。」 第4代正統ハリーファ(カリフ)アリーが暗殺されたのが661年。アリー系のイマーム:フサイン・イブン・アリーが殺されたのが680年(カルバラーの戦い)。この時代の抗争が、今に至るまでイスラームにおけるスンナ派とシーア派という二大潮流の原因になっている。いずれの前提も高校世界史レベル。大澤氏は「だんだん時間が経過すると」意見が分かれたというが、ウマイヤ家とアリー系の間で後継者の地位を巡る血で血を洗う抗争があったこの年間は、ムハンマドの死(632年)から50年と経っていない。50年と経たずに後継者を主張する者同士が殺し合う状態を、「後継者がかなりはっきりしている」と表現するのは妥当ではないだろう。大澤氏は「キリスト教には明確な後継者が居ない」とし、キリスト教よりもイスラムの方が後継者がはっきりしているという文脈で引用部を述べているのだが、キリスト教は少なくともイエスの死から50年足らずのうちに後継者争いで殺し合うような事はしていない。ここの問題点は二つ。まず「イスラムの方がキリスト教より合理的で解り易い」という結論ありきであり、その為には前提となる歴史的事実を一切無視する(もしくは知らない・調べない)こと。二点目は、本書の他の部分でも言えることだが、年数・年代を碌に確認せずに「しばらく」や「だんだん時が経って」といった曖昧な表現を平気で使ってしまっていること。こうして読者は、スンナ派とシーア派に分かれているイスラムの対立の原因を理解することなく、イラン、イラク情勢も誤解させられることとなる。※「カルバラーの戦い」については「基本中の基本用語」とまでは言えない、との指摘がされたので補足しておくと、確かに山川の世界史B教科書にも世界史B用語集にも載っておらず、「カルバラーの戦い」は用語として「基本レベル」ではない。ただし2005年度センター試験問題には「カルバラー」の地名がフサインの死んだ場所としてシーア派住民の聖地となっている文脈に登場しており、「シーア派」の正答を要求する出題がなされている。シーア派が預言者の後継者を巡ってスンナ派と争った人々であることは、このセンター試験問題に簡潔にまとめられている。「イスラームでは後継者がはっきりしている」などといった認識が一体どのような前提から導き出されるのか「ふしぎ」である。 Battle of Karbalāʾ2005年度センター試験【世界史B】問題 p276 「イスラム教徒が考えることは、まず、これはクルアーンに書いてあるか、スンナに書いてあるか、イスラム法的に正しいか」 「スンナ」という文書は無い。スンナとは、アラビア語では「慣行」「実践」といった意味の普通名詞であるが、イスラムにおいては特にハディース(預言者の言行の言い伝え)から導き出されるムハンマドの慣行を指すことがある(但しハディースとスンナの関係については、厳密にはイスラム内で議論百出する)。日本語で「慣行にこう書いてある」という言い方は出来ないのと同じ位奇妙な文章。右に挙げた参考文献の一つは同じ講談社現代新書だが、橋爪氏も大澤氏も同じ現代新書から出た同書は読んでいない模様。 Hadith and Sunnah - Two Different ConceptsThe Meaning of “Sunna” in the Qur’an小杉泰『イスラームとは何か』(講談社現代新書)122頁、163頁、ほか p312 「日本では工事をするのに必ず地鎮祭をするけれど、昔だったらそんなことをするぐらいなら、工事はしなかったんじゃないか。」 最古の地鎮祭の記述は日本書紀にある。地鎮祭後に工事という流れには、相当長い歴史がある。百歩譲って(橋爪氏はそのようなことをここで述べていないが)仮に地鎮祭が一般に普及したのは江戸時代とされることを意識した台詞だとしても、「工事はしなかったんじゃないか。」は完全に意味不明。開墾、都の造営が古くから広く日本でも行われている歴史的事実を思い起こせば十分だろう。なお、日本書紀にある最古の地鎮祭(とこしずめのまつり)の記述とは、藤原京造営時のものであり、当然大規模な工事のものである。つまり地鎮祭も工事も両方古くから日本で行われている。「~じゃないか。」といった憶測で出鱈目な入門書を書くのは学者としての責任が問われる。なお橋爪氏は同じ頁で、捕鯨と鯨油の照明利用をキリスト教徒限定のものと述べているが、日本でも鯨油は行灯や農薬に使われていた。橋爪氏は自説に都合よく宗教・歴史を捻じ曲げているが、その対象はキリスト教に限らず、日本史・神道にも及んでいる。こうして橋爪氏の著作はキリスト教に対する誤解のみならず、(細かい問題でではなく大局的に)神道への誤解も招くのである。 地鎮祭の歴史 - 西野神社 社務日誌地鎮祭のご案内 相模原市の神社 亀ヶ池八幡宮 外部リンク 間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき 誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13 映画瓦版の読書日誌 ふしぎなキリスト教 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter 最新 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter(2以降と別のまとめ製作者によるもの) 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter(2以降のまとめの始まり)