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陸奥国 会津郡 高久組 東森台村 大日本地誌大系第31巻 39コマ目 元東森代という。寛文中(1661年~1673年)今の字に改めき。 府城の北西に当り行程1里16町。 家数5軒、東西22間・南北55間、四方田圃(たんぼ)なり。 東は村際・南10間・北33間、共に木流村に界ふ。その村は寅卯(東北東~東の間)に当り1町55間余。 西2町20間中森台村の界に至る。その村まで7町40間余。 また 未(南南西)の方2町40間下高野村の界に至る。その村まで6町50間余。 戌(西北西)の方2町河沼郡笈川組竹内村の界に至る。その村まで7町40間。 神社 赤城神社 祭神 岩裂命・根裂命 相殿 鬼渡神 明神 鎮座 不明 村南30間余にあり。 鳥居あり。高久村黒沢縫殿之助が司なり。 Google Map東森台地区 - 地名は残っていません現在の森台の東側にある田んぼのどこかに集落があったのでしょう。 赤城神社(場所は木流村に近い) 余談。 赤城神社の祭神である岩裂命・根裂命は、それぞれ磐裂(いわさく)・根裂(ねさく)の両神の事でしょう。国産み神話で伊弉諾(いざなぎ)が火神カグツチの首を十束剣(とつかのつるぎ)で切った時に剣先に付いた血から生まれた神です。 面白いのが群馬の赤城神社ではこの2柱の神を奉っていないのです。両神の後に生まれた磐筒男神(いわつつのおのかみ)は奉っているのですが。何とも不思議な神社です。
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黒瀬真奈美をお気に入りに追加 黒瀬真奈美とは 黒瀬真奈美の52%は成功の鍵で出来ています。黒瀬真奈美の36%は度胸で出来ています。黒瀬真奈美の12%は運で出来ています。 黒瀬真奈美@ウィキペディア 黒瀬真奈美 黒瀬真奈美の報道 【東宝シンデレラ】人気ランキングTOP8! 第1位は沢口靖子さんに決定!【2021年最新投票結果】(1/2) | ねとらぼ調査隊 - ねとらぼ 長澤まさみと上白石姉妹の決定的な違い…「東宝シンデレラ」が2分化した理由 - 現代ビジネス 開催は1984年からたった8回、「東宝シンデレラ」オーディション出身女優が一流であり続けるワケ - 現代ビジネス 東宝シンデレラの黒瀬真奈美が活動休止 学業優先で - ORICON STYLE 黒瀬真奈美、16歳限定イベントで可憐な歌声を初披露 - ナタリー 黒瀬真奈美、『16才』を記念して16歳を御招待 - BARKS 黒瀬真奈美、アニメ『ヤッターマン』で声優に初挑戦 - BARKS 黒瀬真奈美、「不器用で素直になれない恋心を詩に」 - BARKS 東宝シンデレラ 黒瀬真奈美 デビューシングル「オモイデ星/笑って」 2008年8月13日発売!! - PR TIMES (プレスリリース) 東宝シンデレラ“黒瀬真奈美”、この夏CDデビュー! - BARKS 東宝シンデレラの黒瀬真奈美が上海で初々しくレッドカーペットデビュー - シネマトゥデイ 長澤まさみに続け!14歳の東宝シンデレラ黒瀬真奈美独占告白 - シネマトゥデイ 黒瀬真奈美をキャッシュ サイト名 URL 黒瀬真奈美の掲示板 名前(HN) カキコミ すべてのコメントを見る 黒瀬真奈美のリンク #blogsearch2 ページ先頭へ 黒瀬真奈美 このページについて このページは黒瀬真奈美のインターネット上の情報を時系列に網羅したリンク集のようなものです。ブックマークしておけば、日々更新される黒瀬真奈美に関連する最新情報にアクセスすることができます。 情報収集はプログラムで行っているため、名前が同じであるが異なるカテゴリーの情報が掲載される場合があります。ご了承ください。 リンク先の内容を保証するものではありません。ご自身の責任でクリックしてください。
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[部分編集] 【黒瀬 ゆうこ(くろせ ゆうこ)】 プロフィール リンク 関連グッズ ▼レビュー +... ・ 【黒瀬 ゆうこさんの出演作品】 私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!
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2度目の参加。 初参加で引き裂かれたカッパのリベンジなるか!?
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安芸西条(黒瀬)郵便局 郵便番号:〒739-26・〒739-27(元は安芸西条(下黒瀬)郵便局が集配) 集配地域:広島県東広島(ひがしひろしま)市の旧・賀茂(かも)郡黒瀬(くろせ)町のうち旧々・賀茂郡中黒瀬(なかくろせ)村域、旧々・賀茂郡乃美尾(のみのお)村域、旧々・賀茂郡下黒瀬(しもくろせ)村域および旧々・賀茂郡上黒瀬(かみくろせ)村のうち黒瀬町南方(賀茂精神医療センター)域。 1.jpg 黒瀬郵便局局舎 2.jpg 黒瀬郵便局取集時刻掲示 達成状況[20**年*月**日現在] 普通のポスト ●マッピング済**本。撤去**本。 コンビニポスト ●マッピング済**本。撤去**本。 ポスト考察 ●編集中 ポスト番号考察 ●編集中 設置傾向考察 ●編集中 取集時刻考察 ●編集中 取集ルート考察 ●編集中 時刻などの掲示 ●編集中
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陸奥国 会津郡 高久組 鶴沼村 大日本地誌大系第31巻 35コマ目 昔この邊に鶴沼という沼あり。村名これに因るという。 府城の西北に当り行程1里19町余。 家数15軒、東西1町2間・南北1町15間、四方田圃(たんぼ)なり。 東1町36間沼木村の界に至る。その村は辰(東南東)に当り11町50間余。 西6町10間下高野村の界に至る。その村まで4町余。 南4町42間上高野村の界に至る。その村まで8町余。 北1町51間余木流村の界に至る。その村まで8町10間余。 また 戌亥(北西)の方4町12間東森台村の界に至る。その村まで6町10間余。 水利 平沢堰 上高野村の方より来り数派となり田地に灌ぐ。 寺院 松明寺 村中にあり。 曹洞宗鶴沼山と號す。府下材木町秀長寺の末寺なり。 元和2年(1616年)行脚の僧来て一宇を草創せしという。 後無住となりしを葉山という僧中興し地蔵を本尊とし客殿に安ず。 Google Map松明寺 鬼渡神社
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陸奥国 会津郡 高久組 深川村 大日本地誌大系第31巻 30コマ目 府城の西に当り行程26町余。 家数23軒、東西1町・南北44間。 四方田圃(たんぼ)なり。 東29間・北4町13間、共に西柳原村の界に至る。その村は東に当り5町10間余。 南は村際・西1町2間余、共に幕内村の界ふ。その村は巳(南南東)に当り4町余。 また戌亥(北西)の方4町10間鍛治屋敷村に隣り、その村際を界とす。 水利 飯寺堰(にひでらせき) 幕内村の方より来り、数派となり田地に灌ぐ。 神社 伊佐須美神社 祭神 伊弉諾尊・伊弉冊尊 相殿 伊勢宮 稲荷神 鎮座 不明 村中にあり。 土人子安神と称して産婦の安全を祈る者多し。 もとは村北2町余にありしが、承應2年(1653年)今の地に移しき。 社跡に橡樹(とちのき)あり。囲1丈4尺・高8丈計。枝葉繁茂(はんも)して方20間の地を蔽(おお)う。 鳥居幣殿拝殿あり。 神職 高野石見 延享2年(1745年)内膳秀富という者この社の神職となりき。 今の石見秀道が父なり。 Google Map深川 村社 伊佐須美神社
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陸奥国 会津郡 高久組 高瀬村 大日本地誌大系第31巻 29コマ目 昔村東に川あり。石高く流れ急なる故(ゆえ)に高瀬村と名けりという。 府城の北西に当り行程30町余。 家数38軒、東西52間・南北2町32間。 四方田圃(たんぼ)なり。 東3町44間平沢村の界に至る。その村まで8町30間余。 西3町54間神指村に隣りその村際を界とす。 南6町天満村の界に至る。その村まで10町40間余。 北4町神指村に界ふ。 また 丑寅(北東)の方4町10間中地村の界に至る。その村まで8町30間。 辰巳(南東)の方6町6間東城戸村の界に至る。その村まで7町40間。 端村 新田 本村の東2町にあり。 家数22軒、東西42間・南北2町14間。 越後街道の左右に住し四方田圃(たんぼ)なり。 山川 黒川 端村新田の丑(北北東)の方3町30間にあり。 平沢村の境内より北に流るること1町計また平沢村の界に入る。 応湖川(おほこかわ) 村の辰巳(南東)の方5町30間にあり。 天満村の境内より来り、北に流るること5町平沢村の界に入る。 広6間。 神社 八幡宮 祭神 八幡宮? 相殿 稲荷神 2座 伊勢宮 明神 鎮座 不明 村中にあり。 鳥居幣殿拝殿あり。高久村黒沢縫殿之助が司なり 寺院 観音堂 村中にあり。 2間四面東向。 観音立像、長4尺5寸、作者を知らず。 相伝う。承安(1171年~1175年)安元(1175年~1177年)の頃本州の金売吉次・吉内・吉六という者常に都鄙(とひ)(*1)の間に往来し、ここを過ぎ村東の川を渡りしに水俄(にわか)に漲り舟忽(たちま)ち壊れ吉六溺死せり。その冥福を祈らん為この堂を草立し黄金を観音の躯中に納め後来修理の用に備えしに、永禄(1558年~1570年)元亀(1570年~1573年)の頃住僧像を破り金を盗みさりしという。 会津三十三所順禮の一なり。 別当 福昌寺 境内にあり。 吉高山と号す。 本郡南青木組北青木村恵倫寺の末寺曹洞宗なり。 開基の年代詳ならず。 金売吉六・吉高が位牌なりとて『福昌寺殿源宗了淵居士 承安二辰天三月二十日』と記せるあり(承安2年壬辰=1172年)。 永禄7年(1564年)道谷という僧再興せり。 本尊薬師客殿に安ず。 石塔 境内にあり。 高3尺。『當寺開基福昌寺殿源宗了淵大居士 承安二壬辰天三月二十日』と彫付あり。 金売吉六の墓なりという。 後人の建しものと見ゆ。 古蹟 革袋田(かはふくろた) 村南にある字なり。 この村より卯辰(東~東南東の間)の方1町に葛籠田(つづらた)という字あり。昔吉六溺死せし時黄金を入れし革袋及び葛籠等の漂流せしを得し所故(ゆえ)この名遺るという。 Google Map八幡神社 福昌寺 高瀬の大木(大ケヤキ) 稲荷神社 余談:金売兄弟について 金売兄弟の墓は白河市にも伝わっています。 金を入れた革袋とか葛籠とか、似たようなエピソードが残っているようです。 金売吉次兄弟の墓(日本伝承大鑑) 金売吉次の墓→Google Map 栃木県壬生町にも金売り吉次の墓があるんですね。 金売り吉次の墓(伝説)(Monumento(モニュメント)) 金売吉次の墓→Google Map
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陸奥国 会津郡 高久組 神指(かうざし)村 大日本地誌大系第31巻 27コマ目 昔融大臣に仕えし秦何某という者故(ゆえ)ありてこの地に来り。住所を定めんことを山王権現に祈りしに、一老翁夢中にあらはれ指示て言う。ここより北の林中に異香(いきょう)(*1)の樹あるべし、これ村民を開き耕耘(こううん)の起すべき地なり、といい終わて夢さめぬ。行て見るに果て異香樹あり。よりて田圃(たんぼ)を開き一村をたつ。故に初めは香指村と書しに何の頃よりか今の字に改めしといい伝う。今も田圃の字に山王権鳥居田などいう所あり。 この村もと上神指より亥(北北西)の方6町にあり、正保3年(1646年)3区に分る。 府城の北西に当り行程1里。 南を上神指という。家数28軒、東西2町10間・南北2町15間。四方田圃にて西は鶴沼川に近し。 ここより2町10間北を東神指という。家数27軒(内2軒上神指の民居に雑はる)、東西55間・南北2町20間。四方田圃なり。 ここより8町30間余戌(西北西)の方を下神指(寛文の頃(1661年~1673年)までは中丸神指という)という。家数17軒、東西1町18間・南北1町32間。西は鶴沼川に傍(そ)ひ三方田圃なり。 東5町10間中地村の界に至る。その村まで9町30間。 西11町6間本郡中荒井組真渡村に界ふ。 南5町12間如来堂村の界に至る。その村まで7町30間余。 北は村際にて横沼村に界ふ。その村まで40間余。 また亥(北北西)の方6町32間高久村の界に至る。その村まで8町30間余。 端村 横沼 下神指の丑(北北東)の方1町20間余にあり。 家数3軒、東西35間・南北20間。 東南は田圃にて、西北は横沼村に続く。 榎壇新田(えのきだんしんでん) 東神指の寅(東北東)の方2町10間にあり。 家数17軒、東西48間・南北1町12間、越後街道の左右にあり四方田圃なり。 寛永2年(1625年)開けり。 この村の北壇上に榎の古木あり、因て名けり。 山川 鶴沼川 俗に大川という。下同 上神指より申(西南西)の方3町50間にあり。 本郡中荒井組蟹川村の境内より来り、北に流れ真渡村の界に入る。 この村の境内を流ること24町30間。 黒川 端村榎壇新田の東2町にあり。 中地村の境内より来り、北に流るること5町10間余、上吉田村の界に入る。 水利 神指堰(かうざしせき) 上神指の申(西南西)の方にて鶴沼川を引き数派となり田地に灌ぐ。 高久堰 上神指の申(西南西)の方にて鶴沼川を引き高久村の方に注ぐ。 神社 住吉神社 祭神 住吉神? 鎮座 不明 東神指の東1町30間余にあり。 昔は社頭もやや大なりしが、漸々に破壊して今は小社となれり。 鳥居拝殿あり。正法寺司る 稲荷神社 祭神 稲荷神? 勧請 不明 上神指の亥(北北西)の方3町20間にあり。 鳥居あり。照明寺司なり 寺院 極楽寺 下神指にあり。 蓮台山と号す。府下道場小路の末寺真言宗なり。開基の年月を詳にせず。 慶長の初め(1596年~)火災に罹り院宇燒亡す。 後何の頃にか春覺という僧住してより相続いて今に至る。 本尊大日客殿に安ず。 漏泉碑 境内にあり。高5尺5寸余。 享和2年(1802年)洪水ありて居民の墓を決し、髑髏許多(あまた)を漂流せり。水復して後索(もと)め聚めてここに埋め、府金を出し碑を立てこれを表せしむ。篆額(てんがく)に漏泉碑の三字、その下に左の運を彫れり。 正法寺 東神指にあり。 吉禮山と号す。真言宗なり。草創の初を伝えず。 昔は住吉神社の社僧なりしという。元和中(1615年~1624年)府下大町弥勒寺の末寺となりし。 本尊弥陀客殿に安ず。 照明寺 上神指にあり。 曹洞宗福聚山と号す。本郡南青木組小田村寶積寺の末山なり。 開基詳ならず。 慶長元年(1596年)雲室という僧中興せり。 客殿に観音を安じ本尊とす。 文殊堂 客殿の西にあり。 墳墓 石塔 村西2町計にあり。 高2尺。 『法德女天正十五丁亥六月十二日死 延享二丑年迄百五十九年』と彫付あり。 皆川掃部介某という者の母の墓なりという。 ※天正15年=1587年、延享2年=1745年。159歳?? 古蹟 いたみ堂 上神指の北6町余にあり。何の頃にか彼堂社と出羽国米沢下永井小松という処に移し「御いたみ」と云いしとぞ。ここに高8尺余・周13間の檀あり。何の謂れを知らず。陶器のかけたるを得ることあり。 この南に八坊趾(はりはうし)という字あり。これも昔堂社ありし時坊中八宇ありし故(ゆえ)によれりという。 法然原(ほうねんはら) 東神指の東にあり。 数村に亘りて濶狭量るべからず。 相伝う。藤原秀衡深く法然を慕しかば、法然自らその像を摹(も)せしめ相賜りしに、負者ここにいたりて奇特のことありければ、遂に一宇を建立し来迎院と号しこの像を安置せり。その後衰廃せしを、永禄中(1558年~1570年)京師百萬遍の住僧岌州爰(ここ)に来り時、盛氏に告て像を府下五之町高巌寺に移せり(高巌寺の条下を併見るべし)。 城跡 上神指の辰巳(南東)の法2町10間にあり。 この城は上杉景勝慶長3年(1598年)にこの地に封ぜられ府城を移さんとて、始は河沼郡北田の墟(あと)に築かんとせしが地勢心に協(かな)はざりしにや。同5年(1600年)2月10日よりこの地を経営せり。総奉行直江山城守、小奉行小国但馬・甘糟備後・山田喜右衛門・清水権右衛門、割奉行島倉孫左衛門、材木奉行満願寺仙右衛門等その事を任じ、本丸は3月18日より6月朔日まで日数72日の内に家中の人夫を以てこれを築き、二丸は5月10日より6月朔日まで日数20日の内にに越後・仙道・米沢及び会津4郡の人夫120万余の着到にて壘(とりで)池の形大概備われり。この時慶山村の山中より大石を切出し人夫立ち並び手繰にしてここに運送せしとぞ。 然るに景勝陰謀の聞えあり。東照宮小山まで御動座あればその功を果さざりしという。 いまは田畠となれどもその構尚(なお)残れり。 本丸 東西1町40間・南北2町50間。 壘趾、10間・高3丈5尺・周9町。 回に堀あり。広23間。 東西3方に口あり。 四方に石垣もありしが、今は半崩れぬ。 二丸 東西4町50間・南北4町50間。 壘趾、9丈・高2丈5尺・周16町14間。 堀、広20間。 四方に門を構えし所ありしが、寛永中(1624年~1645年)如来堂村この城跡西南の隅に移り土居を毀(こぼ)ち村居とせし故、東北はその形あれども西南は欠て土居形なり。 今百姓作兵衛という者の家に当時石工の宿せしとて竹籠1箇・大網13尋程あり。外に竹竿数本、首に孔を穿ち麻索を引遠し3又とし5寸釘を屈て鉤(かぎ)とせしものあり。炊器を懸けて食を作りしものという。 ここの堀より鰕(えび)を産す。美味なり。土人景勝と唱ふ。 さきに景勝御征伐の事起り御馬を出されし頃までも猶(なお)普請の最中にて、萬願寺仙右衛門柿色の手拭をもて鉢巻し毎日馬上にて七日町を通り普請の事を沙汰し府下の匇劇(そうげき)大かたならず。されば士民等の言にも会津退治御諱が江戸まで来なされたと言えども爰(ここ)へ来なされたらその儘(まま)をつころされなさるべいとて女童まで騒ぐ気色もなかりしとぞ。 この頃のざれ言に、また萬願寺仙右衛門殿の二十ばたらき大八日(おおはちにち)かとて笑いしことあり。これは初め景勝関東勢を防んため人数を駆催(かけもよお)して、この二十八日には大働あるべしと言うを言誤りて、二十ばたらき大八日に候間(そうろうあいだ)鑓ない人は借てもおでやれ、とふれ廻りける故(ゆえ)なりと民間に記せしものあれば伝わるままにここに付す。 蛇足 二十八日大働あるべし 二十働大八日あるべし Google Map住吉神社(東神指) 稲荷神社(上神指) 極楽寺(下神指) 正法寺(東神指) 昭明寺(上神指) 神指城跡 北田城跡(佐原広盛の居城) 神指城跡(会津観光ナビ)
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陸奥国 会津郡 高久組 木流(きながし)村 大日本地誌大系第31巻 38コマ目 この村橋本木流・平塚木流・西木流とて3区に分る。 相伝う。昔河沼郡代田組藤倉村に二階堂を建立せし、材木の余れるを川に流し来りこの村に観音堂を造立す。故に村名としその川も大工川と名けしとぞ(日橋堰の分水なり)。 府城の北に当り行程1里6町。 橋本木流は家数15軒、東西55間・南北3町15間、渠川の両岸にあり。 西木流はここより西4町10間余にあり。家数11軒、東西36間・南北1町40間。 平塚木流は橋本木流の辰巳(南東)の方8町10間にあり。家数9軒、東西1町・南北1町。 共に四方田圃(たんぼ)なり。 東2町藤倉村の界に至る。その村まで8町。 西3町16間河沼郡笈川組竹内村の界に至る。その村まで8町40間余。 南6町44間余鶴沼村の界に至る。その村まで8町10間余。 北2町36間代田組高畠村の界に至る。その村まで12町。 また 寅(東北東)の方56間代田組新屋敷新田村の界に至る。その村まで10町。 辰巳(南東)の方5町30間笈川組八日町村の界に至る。その村まで9町40間。 この村の肝煎穴澤武右衛門という者の家に慶長4年(1599年)の免目録を蔵む。 小名 上沼(うはぬま) 平塚木流の北2町10間にあり。 家数7軒、東西50間・南北38間、四方田圃なり。 端村 屋敷 平塚木流の戌(西北西)の方2町40間にあり。 家数7軒、東西1町・南北50間、四方田圃なり。 山川 渠川 中前田村の境内より来り、西に流れ北に転じ橋本木流を過ぎ、また戌亥(北西)の方に流れて八日町村の界に入る。 境内を流るること18町30間。 大工川 槻橋村の境内より来り、平須賀木流を過ぎ西に流るること7町30間、橋本木流の東にて渠川に入る。 広2間。 関梁 橋2 共に渠川に架す。 一は橋本木流にあり。 長8間・幅2間、勾欄あり。 一は平塚木流の未(南南西)の方2町30間にあり。 長6間。沼木村の通路、土橋なり。 水利 高畠堰(たかばたけせき) 橋本木流にて渠川を引き代田組郡山村の方に注ぐ。 八日町新堰 西木流の北にて渠川を引き八日町村の方に注ぎ、その村の田地を潤す。 神社 稲荷神社 祭神 稲荷神? 相殿 稲荷神 3座 熊野宮 2座 伊勢宮 伊豆神 諏訪神 山神 雷神 鎮座 不明 橋本木流の東2町30間余、丘の上にあり。 鳥居あり。高久村黒沢縫殿之助が司なり。 諏訪神社 祭神 諏訪神? 相殿 宗像神 鎮座 不明 西木流の北にあり。 観音寺司る。 寺院 観音堂 橋本木流の丑(北北東)の方1町50間余、丘の上にあり。 馬頭観音木像を安ず。 耶麻郡川西組本寺村厩嶽観音の前立なり。厩嶽の観音秘像なりしかば、別にこの像を刻て前立とす。されども彼山は道嶮(けわ)しければ、参詣の便をはかり大同の頃(806年~810年)ここに移す。 天文の頃(1532年~1555年)聖護院宮この堂に遊宴ありしという。 別当 観音寺 橋本木流にあり。 真言宗福壽山と號す。草創の年月を知らず。 天文9年(1540年)良秀という僧中興せり。 本寺村恵日寺の末山なり。 本尊馬頭観音客殿に安ず。 薬師堂 平塚木流の南20間余にあり。草創の年月を知らず。 寛文中(1661年~1673年)までは『應永二十二年大檀那五郎左衛門』等と記せる薬師の像ありしという。 ※應永22年=1415年 別当 薬師寺 平塚木流にあり。慈念山と號す。 府下大和町金剛寺の末山真言宗なり。 草創の年代詳詳ならず。 天正中(1573年~1593年)保仙という僧中興せり。 本尊地蔵客殿に安ず。 古蹟 館跡 平塚木流にあり。 20間四方。 いつの頃にか平塚四郎某という者住せりという。 土居堀の形遺れり。 Google Map橋本木流 - 元は大工川の両岸との事なので現在は狭くなっている 西木流 - 現在の木流地区か? 平塚木流 上沼 屋敷 - 平塚屋敷稲荷神社付近? 子育稲荷神社(橋本木流) 諏訪神社(西木流) 高野山馬頭観世音(橋本木流) 観音寺(橋本木流) 薬師堂?(平塚木流) 平塚館跡 ?(平塚木流) 平塚稲荷神社(平塚木流)